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バッハ

2014年3月21日 (金)

精神の姿勢(&ベルク「ヴァイオリン協奏曲」)

クラシック音楽が大好きらしいドナルド・キーンさんが『レコード芸術』誌に12回ほどエッセイを寄せています(*1)。オペラへの洞察がほとんどで、愛好範囲のずっと狭い私にはとても太刀打ちできません。キーンさんが素晴らしい文学者だからオペラなのか、というと、どうもそうではないようです。キーンさんに言わせれば、音楽と文学は無関係ではないけれど間接的で交感的に結びついていることの方が多いのだそうですし、これはわたしもその通りだと思います。まあ、それはそれとして。

1975年にピエール・ブーレーズ録音のシェーンベルク『グレの歌』(※)がレコード・アカデミー賞をとったとき、シェーンベルク作品に否定的感情しか持てないキーンさんは、言いようのない悲しみに襲われた、としながらも、こんなふうに続けています。途中を飛ばし飛ばしでも長いのですが、趣意が漏れないように引いてみます。

「こうした二十世紀のもっとも名誉ある作品に対するわたしの否定的感情を知って、読者諸氏は失望し、わたしを救いようのない反動主義者だと思い込むだろう。・・・原則的に、わたしは、いかなる作曲家がいかなる方法で作曲しようとまったく自由であるとの考えを支持する。・・・ケージが、作品に『四分三十三秒』という題名をつけ、ピアニストにそれだけの時間、一音もたたかずにピアノの前に腰をおろしているよう指示しても、それは作曲家の特権というものだ。ただ、わたし自身はそんなコンサートを聴きにいこうとは思わないし・・・実は自分は反動主義者などではないということを証明するためにそのような音楽を賞賛しなければならないとも感じない。しかしながら、ケージやそれに類する作曲家たちに、わたしがもっと楽しめるような音楽を作曲させようと強制することには断固反対する。・・・わたしには、検閲はいかなる種類のものであれ嘆かわしいものに思われるが、とりわけ音楽の検閲は馬鹿馬鹿しい。原則的には、わたしは『グレの歌』とシェーンベルクが考案した十二音音楽を支持する。自分自身がそうした傾向の音楽に喜んで耳を傾けるような状況はまず想像できないにしても、そうした音楽を規制することや、それを楽しむことのできるいかなる人たちからもそれに接する機会を奪おうとするどんな企てにも反対するつもりだ。」

人間というものは自覚の有無にかかわらず自分の発言で周囲を規制します。とくにネットで活発に発言の応酬ができるようになったこんにち、<規制衝動>は国家や法令を超えて非常に汎社会的になってきています。そういうときに、キーンさんがもう40年前に示していた、このような精神の凛とした姿勢を、わたしたちはきちんと省みておのれを律し直す糧にしなければならない、と、強く思います。

近年なぜか音楽や音楽史の専門家のほうに「十二音音楽の登場をもってクラシック音楽は衰微ないし滅亡した」類いの発言をなさるかたが目につくのには、ほんとうに失望を覚えます。「わたしがもっと楽しめるような音楽を作曲させようと強制する」のが政治ではなくて市民たちであるがゆえに、楽しめるような音楽をめぐっても、つまらない事件が起きます。なぜまだこんなことどもで私たちは堂々巡りを演じなければならないのか。私たちが所詮はどこまでも愚かだから、というに尽きるのでしょう。

十二音音楽についても、その他のいわば伝統を脱しようと試みた作曲方法についても、私はそんなに知ることはありません。ただ、世代なのでしょう、キーンさんとは違って、そのような手段で作られた音楽にも,いくつか好むものはあります。

アルバン・ベルク(1885〜1935)の歌劇『ヴォツェック』(まだ十二音技法によるものではありません)全曲日本初演(1963年)を聴いた人の思い出話は聞かされたことがありまして、
「ぽつんと明かりの灯ったような最初の小さな音が、あっというまに渦になってぼくらを巻き込んでしまったんだ」
というようなお話でしたが、歌劇の方はもうひとつの『ルル』も含めグロテスクな翳りがあってどうしても世界に入り込めません。もともと劇的なものが私は苦手なのでしょう。
器楽は聴く方のイマジネーションを勝手に一人歩きさせられますので、拒絶感を抱くことがありません。
マノンという少女の早世を悼み、ある天使の思い出に Dem Andenken eines Engels との献辞を添えて作り上げられた「ヴァイオリン協奏曲」は、聴きやすくて好きな作品のひとつです。

十二音音楽〜十二音技法を用いて作られた音楽とはいっても、ベルクの器楽曲には従来の西洋音楽のもつ長調・短調の響きが随所にききとれます。それもそのはず、曲作りにあたって、骨組みを形作る音列を、ベルクは伝統的な和音を曲に乗せやすくするように注意深く選んでいるのです。
十二音技法はピアノの鍵盤でいうド・ド#・レ・レ#・ミ・ファ・ファ#・ソ#・ラ・ラ#・シの十二の音を、この順番のままにではなく、作曲者が自分のプランに基づいて並べ替え、それを音階替わりに「音列」というものにして、生まれた新しい音同士の関係を裏返しにしたり逆さまにしたり折り曲げたりしながら作曲をするので、使うためには熟練が必要なもののようです。発明者のシェーンベルクはこれを《互いに関連しあった十二音のみによる作曲》と名づけています。発明された当初からたくさんの批判を浴びたのですが、シェーンベルクは「矛盾した言い方だが、バッハこそ最初の十二音作曲家である」と述べたそうです(*2)
ベルクが「ヴァイオリン協奏曲」を作るにあたって組み立てた音列は、もちろん師シェーンベルクの発明に則っているのですが,wikipediaの記述が分かりやすいので引きますと、
「最初の3音((1)~(3))は、ト短調の主和音を構成する。次の3音((3)~(5))はニ長調、その次((5)~(7))はイ短調、さらにその次((7)~(9))はホ長調の分散和音という具合である。そして最後の4音((9)~(12))が全音音階なのである。」(*3)
このように、まず骨組みが19世紀以前のヨーロッパ音楽に慣れた耳にも馴染みやすくなっています。

Berg_vn_conc_tone_row_2

そしてまた、奇数番目にくる音(1、3、5、7番目)がヴァイオリンでなにも指をおさえないときに鳴る音(開放弦の音 G d a e)なのが面白いところです。
協奏曲の冒頭の独奏はこのG d a eを鳴らして始まりますので,ヴァイオリンを初めて手に取った人でも
「ベルクの協奏曲なら最初だけ弾けるよ!」
と自慢してふんぞり返れるわけです。

そんなジョークを許してくれるものの、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」は冒頭部を含めて「ふざけたもの」では決してありません。この最初の最初からたいへん美しい音楽です。そしてまた平明です。
音列が上のようであるからだけでなく、分かりやすく感じさせる要素はいくつもあって、途中にウィーンの古風なワルツ(レントラー)も登場しますし、rusticoと楽譜に記入した場所もオーストリア民謡風だし、ケルテルンという地方のものだそうですが Ein Vogel auf'm Zwetscengenbaum という民謡のメロディもはっきりと使用されていて、きわめつけは後半楽章の中盤が悲しみではちきれたところに忽然としてバッハのカンタータから引用したコラールが浮かび上がってくる(*4)。こんな<十二音音楽>は他にはちょっとありません。
「ドイツ精神の習性と化している、感覚的な軽侮に、ベルクは一切無縁であった。」(*5 39頁)
と、作曲の弟子だったことのあるアドルノが言っています。

この作品の分かりやすさには、ベルクにしてみれば、この作品を聴くことになるだろうたくさんの人たちをなど全然前提にしてはいない気がします。ベルクを支配していたのは、たぶん作品を捧げた亡き少女マノンへのやさしい思いだけったのでしょう。
「総じて、彼の【長調短調の世界からそれに無関係な響きへの】移行の技法が、両義性をもつ媒介が、衝撃をやわらげている。【けれども、やわらげられたことによって】聴衆がはたして彼に対しては、シェーンベルクや【兄弟弟子の】ウェーベルン【に対して】よりも、さしあたりはるかに好意的な態度をしめしたことは、彼にとっては苦々しいかぎりであった。」(*5 20頁)

これを最後の完成作として亡くなってしまったためベルク自身が「ヴァイオリン協奏曲」上演をじかに目にすることはなかったのですが、もし目にしたらやはり「苦々しいかぎり」な顔をしたのかもしれません。なんといっても彼は「組織された大衆にとって笑い事ではすまされぬ逆鱗にふれていく」(*5 18頁)内容と響きをもつ歌劇『ルル』の作曲家なのですから(*6)

この協奏曲はアメリカのヴァイオリン奏者クラスナーに頼まれて、歌劇『ルル』を進めたかった当時のベルクは初めしぶしぶ作曲をはじめたもののようですが、可愛がっていた少女マノン(アルマ・マーラーの再婚後の娘)が19歳で急死した悲しみから本格的にとりかかることを決意したといわれています。
引用したバッハのコラール(旋律の作曲者はヨーハン・ルードルフ・アーレ【1625〜1673】)は「充分です、では受け入れて下さい、主よ、わが魂を Es ist genung, so nimm, Herr, meiner geist」というもので、その最初の4つの音が「ヴァイオリン協奏曲」でベルクが採用した音列の最後の4音と同じものになっています。
ベルクは自筆譜に、対応する第5節の歌詞を書き入れています。

http://music-hongou.art.coocan.jp/audio/6-23Choral.mp3
バッハ:カンタータ「おお永遠なる神、轟く言葉よ」BWV60 終曲
Nicolaus Harnoncourt-Tölyer Knabenchor, Concentus musicus Wien

Es ist genung;
Herr, wenn es dir gefällt,
So spanne mich doch aus!
Mein Jesus kommt;
Nun gute Nacht, o Welt!
Ich fahr ins Himmelshaus,
Ich Fahre sicher hin mit Frieden,
Mein großer Jammer bleibt danieden.
Es ist genung.

訳は省略します。気に入った訳にめぐりあっていないのですが、では自分でふさわしく訳せるか、となると、まったく自信がありません。


初演者クラスナー氏にこの曲の指導を乞いにいった諏訪内晶子さんの演奏
http://www.youtube.com/watch?v=5tBehucruv8

http://www.youtube.com/watch?v=7Ejfak_tSDg

兄弟弟子ウェーベルンが指揮した演奏の抜粋(CDになっています)
http://www.youtube.com/watch?v=gKO-GKUgDXw
CD:http://www.amazon.co.jp/dp/B00004ULAL/


※ ただし『グレの歌』はまだ十二音技法による音楽ではなかったと思います・・・

*1:ドナルド・キーン「私の好きなレコード」、『ドナルド・キーン著作集第八巻 碧い眼の太郎冠者』(新潮社 2013年)所収 初出1975〜76年 引用は著作集第八巻の549〜561頁から
http://www.amazon.co.jp/dp/4106471086/

*2:エーベルハルト・フライターク『シェーンベルク』宮川尚理訳 音楽之友社1998年、158頁
http://www.amazon.co.jp/dp/4276221641/  

*3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_%28%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%29

*4:画像が粗悪で恐縮ですが,バッハのカンタータ(BWV60)終曲のコラールから引用したものであることは、ベルクが自筆譜に明記しています。

2014032111450000

*5:テーオドール・W・アドルノ『アルバン・ベルク 極微なる移行の巨匠』平野嘉彦訳 叢書・ウニベルシタス 125、法政大学出版会 1983年 引用した部分のある「音調」は1955年発表
http://www.amazon.co.jp/dp/4588001256/

*6:歌劇『ルル』のwikipedia記事 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AB_%28%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9%29
なお、アドルノの表現では
「『ルル』の音楽が彼【『人倫と犯罪』の著者クラウス】に謝意を述べるのは、市民的タブーによる性愛の蔑視にむけたれたクラウスの批判を、ひそかに動機づけているユートピアの名においてである。」(*5 18頁)

2014年3月15日 (土)

バッハの音楽カレンダー

バッハ J.S.Bach(1685〜1750)は30歳前後のころ、小冊子の音楽カレンダーを作っています。
冊子はおよそ縦16センチ横20センチ弱、182ページのものです。

カレンダーといってしまうと、たぶん本当は正しくありません。じっさいには賛美歌集の順番に沿って曲作りが計画されているのであって、あらかじめ記入された164タイトルの61曲目以降は、歌われるべき日付や時期が不特定(平和の祈りや食卓での歌など)です。逆に言うと、計画では、歌われる時期が定まった音楽は全体の3分の1しか作られないはずでした。
ところがこれまた、この膨大な曲数の計画に対し、出来上がった音楽は46曲しかありません。そのうち歌われる時期が定まっていないのは10曲だけ、結果として4分の3にあたる36曲が、キリスト教音楽カレンダーの体裁をいちおう保つことになったのでした。

音楽はすべて、賛美歌をさまざまに飾った、パイプオルガン用の美しい小曲ですので、全体をまとめる名前もそのものズバリ

「オルガン小曲集 Orgelbüchlein」

です。バッハ自身がそう名づけています(ただしドイツ語タイトルから分かる通り、曲が小さいという意味ではありませんね)。
「これは教会暦上の日曜日と祝祭日の全部をカバーしようとする雄大な構想のもとに、各日曜日と祝祭日に関連したオルガン・コラールを集大成しようとするものだった」(*1)のでした。

それぞれの曲は、伴奏にして賛美歌を歌うため・・・であるにはあまりに飾りが豊かで作りも複雑です。ではいったいどんなときに演奏するためのものなのでしょうか?

私はキリスト教徒ではありませんので、教会には特別な冠婚葬祭がない限り縁がありません。が、プロテスタントの教会で、式典の節目節目でオルガンだけが賛美歌を奏でるのに聞き惚れた経験はあります。
オルガンだけで賛美歌が演奏されるのは、もともと、信徒のかたたちが歌う代わりをオルガンが務める習慣があるからだそうです。
ローマ教皇が1600年に「オルガンは司祭や聖歌隊が歌うための前奏を奏し、典礼歌や賛歌を歌う聖歌隊とオルガンが交互に演奏する」と定めたので、オルガンは聖歌隊を伴奏したりせず、プロテスタントでも「オルガンは教会の歌の間に鳴らなければならない」と定めたので事情は同じになった、とのことです(*2)。
賛美歌は無伴奏で、旋律だけ斉唱(ユニゾン)歌われるのが、バッハの頃までは普通だったと言われています。
バッハはこの曲集を、まさにこんにち教会で演奏されるような「歌の間に鳴」るオルガンのために書いたのでしょう。そしていまでもそのように演奏されているようです(※)。『J.S.バッハ オルガン小曲集 演奏と解釈』(*2)をお書きになった教会オルガニスト志村拓生さんは、まえがきで
「この曲集が、私の最も多く演奏した作品だろう」
と仰っています。

実際に中身をみますと、時期が特定される36曲の内訳は次の通りです。
キリスト教本来の新年とみるべき待降節(11月27日以降)向け4曲、クリスマスのための作が10曲、年末年始向けが3曲、聖母マリアの清めの祝日(2月2日)用2曲、キリストの受難をいたむ時期(3月23日以降)のものが7曲、復活祭(3月30日以降)向け6曲、聖霊降臨祭(5月から6月の間)用4曲。
わりとかたよりがあります。
これはバッハが「コラールを次のようにとりまとめた」からだ、と、シュヴァイツァーは述べています。
「すなわちクリスマスのときのコラールは小さなクリスマスオラトリオを形成するように、受難日のコラールは受難曲となり、復活祭のときのコラールは復活祭オラトリオとなるようにである。」(*3)
計画段階ではしかし、カレンダーとして、ここまでかたよってはいませんでした。完成作のない7月から10月のためのものも、タイトルだけは冊子にきちんと書き込まれています(*4)。

作品はひとつひとつ、小規模ながら非常に濃い密度で作られていて、目を見張らされるばかりです。耳にしての響きは勿論ですが、楽譜を眺めても、モノクロの線画であるにもかかわらず、色合い豊かな物語絵のようです。このみごとな音符の線画が、後代のたくさんの人たちに、バッハが音符で描いたのはこれこれのシンボルだ、と想像を膨らまさせたりしたのでした。

イエスの誕生を歌った「いまこそ声あげ」(In dulci jubilo BWV608)の例を見てみましょう。
この賛美歌は中世のキャロルに起源を持っていて、奇妙なことに、ラテン語とドイツ語が交じりあった、このような歌詞を持っています(*5)。

In dulci jubilo, nun singet und seid froh,
今こそ声あげ、喜んで歌え。
unseres Herzens Wonne liegt in Praesepio
みどりごイェスは 貧しいまぶね(=飼い葉桶)に
und leuchtet als die Sonne Matris in gremio,
朝日のように 明るくかがやく。
Alpha es et O, Alpha es et O.
アルファ、オメガ、永遠の主。(日本語は賛美歌21の歌詞の由 志村著*2による)

【画像はクリックすると拡大します。】

Bwv608all

四声部で書かれている自筆の楽譜は、ソプラノに賛美歌のメロディを置き、テノールがそのメロディでひとつ遅れて追いかけるカノンになっています。
三連符で動いているのがアルトとバスで、これは「聖母マリアが赤子イエスの眠る馬舟を揺りかごのようにゆする様子」だとも解釈されています。だとすると、ちょっと小刻みに速く動き過ぎてにぎやかです。じつはクリスマスの習慣で、子供たちが小さな馬舟をもちよって、これを揺すりながらこの歌を歌ったのだそうです(*2)。
楽譜そのものからにぎやかに感じさせられるのは視覚的なトリックがありまして、2分の3拍子であるにもかかわらず、三連符は横棒(連桁)でまとめられています。すなわち、二分音符ひとつに対し、四分音符ひとつぶんの三連符しかありません。楽典的には嘘八百です。でも、こうすることで賛美歌のメロディと背景の飾りの部分とが見分けやすくなっているのが面白いところです。
また、かざりのほうの途中、三小節目のアルトや四小節目のバスに現れる四分音符の繋がり(♩♩♩♩♩♩)は、クリスマスと言えば連想される羊飼いの、その連れている子羊の首に下げられた小さなベルが、リンリンリンリンリンリン、と鳴るかのようです。

(森武靖子さんの演奏から少し引かせて頂きます。)
http://music-hongou.art.coocan.jp/audio/BWV608moritake.mp3
J.S.Bach / オルガン小曲集 BWV599-644 森武靖子 株式会社マーキュリー COO-028

バッハのこの例を見ると、ヨーロッパの古典音楽すべてに敷衍できるかどうかは措いても、キリスト教の暦に基づく季節感豊かな響きが、耳の上だけでなく目のイメージとしてもまた、教会を通して生活にぴったり寄り添っているのだということを、つくづく思い知らされます。
季節感の要素はメロディよりはむしろ、それをどのように飾ることでいかに意味付けるか、のほうにあるようです。賛美歌の旋律だけでは音楽の時節への相応しさはまったく生まれて来ないからです。
まさに元素が整然と並ばなければ宝石にはならず、独自の色も生まれて来ないように、この宝石のような作品ひとつとってみても、その音楽が奏でられるべき時節や意義にふさわしくするため、音の列は厳しく象徴化されています。

こんにちの音楽を考え直す際には、象徴によってこれほどまでの生活密着感を生み出したものは何なのか、に目を向け直すことも大切なのではないでしょうか。
少なくともバッハの立体的な音楽作りが情緒に流されたものでないのは、こんなささやかな一例でも非常に明確なのですから、情緒過多に陥りがちな私たちの視点には、なおさら変更が必要なのかも知れません。


いまいちばん手に入りやすい全曲の録音には、日本人女性オルガニストによる良い演奏があります。 

J.S.Bach / オルガン小曲集 BWV599-644 森武靖子
日本の銘器・草苅オルガン(立川)にて.
電動機構を使わず、ふいご師による人力足踏みふいごでの全曲録音
COO Record(発売元:株式会社マーキュリー)COO-028

http://www15.plala.or.jp/moritake/09TicketCD.html

Coo028_2

なお、このCDのBWV608の解説で、ソプラノの賛美歌をカノンで追いかけるペダルをバスと位置づけていますが、自筆譜で明らかな通りバッハの書きかたはこの曲ではペダルがテノールですから、志村拓生さんのご説明の方が正しいでしょう。


*1:ヴェルナー・フェーリクス『バッハ 生涯と作品』原著1984年 杉山好訳1985年 現在、講談社学術文庫1401(1999年第1刷)66頁 なお、シュヴァイツァー『バッハ』第13章には、このようなこころみが他の作曲家、たとえばワイマールのワルターによってもなされている旨が述べられている(いま普通には出回っていない辻荘一・山根銀二訳の岩波書店版では上巻271頁)

*2:志村拓生『J.S.バッハ オルガン小曲集 演奏と解釈』日本基督教出版局 2001年初版 2012年3版 オルガン演奏と賛美歌歌唱の関係については12頁参照。In dulci jubiloについては54〜57頁 なお、下記シュヴァイツァー『バッハ』第4章に詳しく綴ってあるところでは、事情はもっと複雑ではある(辻・山根訳上巻26〜40頁。

*3:アルベルト・シュヴァイツァー『バッハ』第13章 辻荘一・山根銀二訳 岩波書店版 1955年 上巻271頁

*4:2の志村著の14〜17頁に、作曲されなかったものをも含めたリストが掲載されている

*5:ラテン語とドイツ語の歌詞が入り混じった事情・経緯についてはシュヴァイツァー『バッハ』第2章参照。辻・山根訳では上巻4〜15頁。


★Orgelbüchleinの自筆譜のPDFはIMSLPからダウンロードできます。
http://imslp.org/wiki/Das_Orgel-B%C3%BCchlein,_BWV_599-644_%28Bach,_Johann_Sebastian%29
画像ファイルはこちらのPDFから抜き出して作成しました。

刊行されているファクシミリ
Heinz-Harald Lohlein校訂
Bärenreiter 1999
ISBN 3-7618-1434-8

https://www.academia-music.com/academia/search.php?mode=detail&id=1501272106

2014031518010000_2


※ オルガン小曲集には教育的な意味合いについてバッハ自身が記した前書きがあり、この曲集をとりあげた一流評論にはその話が必ず出てきますが、クリストフ・ヴォルフ『ヨハン・セバスティアン・バッハ 学識ある音楽家』(原著2000年 秋元里予訳 春秋社 2004年 とくに355頁以下)の記述から察するに、教育云々は創作当時のバッハにはまだ漠然としたものであったか、もしくは教育云々自体がライプツィヒへの就職活動のためにとってつけた理由だったか、であるようにも感じますので、教育的意味合い云々はあえてしませんでした。

2014年3月11日 (火)

巨人の弾いたオルガン

アルベルト・シュヴァイツァー(1875~1965)という人を6歳の頃に白黒テレビの短い映像で見たらしい、遠くてあてにならない記憶が、私にはあります。
帽子をかぶった髭の真っ白な、ごつい顔のお爺さんが、ジャングルの中でオルガンを弾いている映像でした。それで、この人がアフリカで長いことお医者さんをしていて、そこで亡くなったんだ、と、かすかに知ったのでした。
たぶん、亡くなったことを知らせるニュース映像だったのでしょう。映像でオルガンを弾いていたのか、それがジャングルの中での風景だったのか、は定かではありません。記憶の中で混ぜ合わされたのでしょう。
以来、この人は私の中ではジャングルでオルガンを弾いていたお医者さんでした。
彼が研究書として名高い『バッハ』の著者だと知っても、シュヴァイツァーを音楽家だと思ったことは一度もありませんでした。

世の中での彼に対する印象はどうなのでしょう?
彼は自らを「学者である」とも「医者である」とも「音楽家である」とも自称したふしがありません。そのことが、彼を「どんなひと」と断じるのを難しくしているようです。

牧師の息子として生まれ、神学を学んだ彼は、二十代の半ばには大著『イエス伝研究』を出し終え、母校ストラスブール大学でも教鞭をとっています。
一方で、パイプオルガンのメカニズムにも若くしてすでに造詣が深く、その演奏でも補修の立案でも八面六臂の活躍をしていました。
オルガン音楽を愛奏していたがゆえに著し得た『バッハ』は27歳のときに着手され、30歳のときには出版されて大きな反響を呼んでいたのでした。
そのうえさらに、当時まだ植民地世界で非衛生的だったアフリカへ渡る決意の元、シュヴァイツァーが医学を学びだしたのは、30歳になった時からです。
以後、免許を受けてから手続きに四苦八苦してアフリカ入りし、現地にようやくとけ込む目処がたったところで第一次世界大戦による捕虜となり、解放後講演やオルガン演奏で資金を得て再びアフリカに向かい、と、目まぐるしい日々を送ります。

なんとまあ、とてつもない人生でしょう!

シュヴァイツァーは1935年から1952年にかけてパイプオルガン演奏の録音を残しています。
ほとんどがJ.S.バッハの曲です。
ミスタッチもある録音で、それゆえ現在の評価は決して高いとは言えないのですが、考えてもみて下さい、録音し始めたとき彼は60歳になっています。そのうえシュヴァイツァーは演奏だけで生きてきたわけでもありません。そんな状況で、しっかりした構成を感じさせる演奏を録音に残せた、というのは、やはり驚嘆すべきことだと思います。
バッハ演奏には、シュヴァイツァーの強いこだわりが聴き取れます。
「バッハの要求は、楽想のために決定的な音符は、力を強めてその意義を判然させよ、というにある。」(*1)
BWV.582のハ短調パッサカリアは、彼のそんなこだわりが分かりやすい演奏になっていると感じます。

http://music-hongou.art.coocan.jp/audio/PssacagliaC.mp3
(フーガ部に入る前まで)
membran 233041http://www.amazon.co.jp/dp/B003X8NX2I/

けれど、どうでしょう、それらの録音が専門的な演奏だとはこんにち見なされているでしょうか?

いや、みなされてなくてもいいのかも知れません。

アフリカに渡るにあたって・・・彼にとって幸いなことに、大学云々以外はその通りにはならなかったのですが・・・「私は三つの犠牲を覚悟していた。すなわち、パイプオルガンの音楽をあきらめ、執着の深かった大学の教職をすて、物質的独立もうしなって、以後の生計は友人らの庇護にまつ覚悟であった」(*2)のですから。
シュヴァイツァーのバッハ演奏は「音楽家」としてのものはなくて、神に生きる人のすなおな信仰告白だと受け止められるべきなのでしょう。

生き方に密着した演奏を残せた、というのは、なんだかたいへん羨ましくもありますが、それは彼の生涯に凛として貫かれた精神に向けた、神様の恵みなのだ、とも、強く思います。

90歳まで生きた彼が56歳の時の自伝『わが生活と思想より』で語っていることばには、心に残るものが少なくありません。とくに、最後の一節は、執筆以後も含めて、自身の生涯をたいへん魅力的に総括しています。

「多年来、間断なく私の双肩にかかる疲労と責任に堪えることは、まことにつらい。私の人生のために余されたるところはすくなく、妻と子供に献げたい時間すらほとんどないのである。/しかし私には至福がある。---私は慈悲のために奉仕するを許されている。私の事業は成功である。多くの愛をうけ、多くの親切も味わった。私を忠実に助け、私の事業をかれら自身の仕事とする人々がいる。私は極度に緊張した仕事にたえうる健康を持っている。落着と熟慮をもって事を敢行する精力も持っている。そして最後に、運命として定められたことのいっさいを運命として知り、感謝の犠牲を献ぐべき或物としてこれを受取ことができるのは、また私の至福である。」(*3)

ほかの人の評言としては、日本のものですと、まだ彼の生前に邦訳された『シュヴァイツァー著作集』の月報に、こんな文章があります。
「アルベルト・シュヴァイツァーは巨人である。・・・シュヴァイツァーが訴えるのはむしろその著作よりも行動ではないかと思っている。人間そのものではないかと思う。・・・南アフリカには【シュヴァイツァーが病院として築いたものより】もっと進歩的な施設もあろう、もっと勇敢な忍耐強い宣教師はたくさんいた。又医学者として晩学な彼がとくに優秀であったとは考えられない。では平和主義者としての果敢な講演著述によるものであろうかといえば、身をもってあたった南アフリカの状態をそのまま語るだけで、聴衆の心をかきたてたのは当然であるし、また思想家哲学者としてのシュヴァイツァーはむしろ大ざっぱな素人ではないかと思われる。・・・しかし何よりも私の心をひくのは彼の『感じ方』であろう。『やり方』でろう。才能豊かな彼が才能を他人のために分配しなければならない人間としての義務を感じながら三十歳までは自分のために用おう、三十からは人のために捧げようとはっきり決めたこと、そしてその通り実行したことは巨人たるのゆえんであったと思う。」(田中峰子*4)

最近は人の評価をめぐる価値観が大きく変わり、個人を顕彰することも減り、うちの息子などもシュヴァイツァーを知りません。彼の存在感は薄れてしまったのでしょうか?

巨人と言われたこの人が、巨人と言われてしまったそのことにより私たちの記憶から薄れてしまいつつあるのだとしたら、こんな理不尽なことはありません。

Schweitzerorgel


*1:竹山道雄訳87頁 『シュヴァイツァー著作集第二巻』白水社 1956年
*2:1に同じ 竹山道雄訳 238頁
*3:1に同じ 竹山道雄訳293~294頁
*4:1961年から国際司法裁判所判事だった田中耕太郎の妻。この文章は昭和31【1956】年のもの。

竹山道雄訳『わが生活と思想より 』は現在、白水Uブックスで出ています。
http://www.amazon.co.jp/dp/4560721211/