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素人古典雑記帳

2015年11月 8日 (日)

楽器も音楽も難しく、カルテットも難しい (;o;) ボロディン「弦楽四重奏曲第二番」

自分なんてアマチュアで音楽やって来たくらいしかないからなあ、と、なんとかその思い出にかこつけながら曲の話でもだらだらしようか、と思っていたのでした。
そうやって連ねたものを読み返すと、なんだ、無価値な話ばっかりだ、と苦笑いしか漏れません。それで続ける気がだいぶ失せました.

ただしアンサンブルについては、ちょっとだけ能書きがありますので、私をご存知のかたのお役に立つようでしたら、と、そう思って久々に綴ります。

浪人してもアマチュアオーケストラでわいわいやっていたところへ、年末のミサ演奏会の後、
「おまえ、来年うちの大学に入るんだろう?」
と、たしかにその翌年から先輩になる人たちがぞろぞろと来て、打ち上げの席で、初見でいきなりモーツァルトの弦楽四重奏曲(2作目のト長調のものだと知ったのは大学に入ってからです)の第1ヴァイオリンを僕に弾かせました。独学の私は初見なんてそれまで無縁だったし、しかも緩徐楽章のテンポが分からなかった(十六分音符は速く弾くのだ、とばかり思っていた)し、で、手も足も出ないのですが、先輩たちは構わずどんどん先に進みます。要するに、力試しされたのでしたが、万座で恥をかかせられて終わったのでした。

あとで古典派程度の初見に慣れてみると、楽譜にとらわれることさえやめれば、第1ヴァイオリンなら、旋律は下声3パートのテンポと和声を聴き取れれば、音符の並びと旗(符尾や連桁)の密度が譜面上どう横展開されているかを一瞥してしまうと想像がつくのです。
第2ヴァイオリンやヴィオラは和声を作らなければならないので、むしろ第1ヴァイオリンなんかより難しい。
チェロは音の出しかた(発音)で曲想を決定づけてしまうため、いいカルテットをやりたければチェロは名手が必須です。でもアマチュアではこれが最難関です。器用なアマチュアさんほど、曲を決定づけるとはどういうことか、を理解していない傾向があるからなのではないかな、と思っています。そしてプロのかたの演奏でも、この点に不満を感じさせられることは少なくありません。
どのパートでも、器用だとか、自分は技が豊富だ、とか自信が強すぎる人は、アンサンブルには向きません。そこを指摘すると真っ赤になって怒られて終わるのがオチだから、もう言わないことにしています。
弦楽四重奏曲は管楽の場合より曲の構造に起伏が盛り込まれている割合が多く、その確率も高いので、上の各要素はそれぞれのパートに・・・たとえば曲想の決定付けはチェロがない時はヴィオラに、ヴィオラもない時は第2ヴァイオリンに・・・と転化されることも多く、一筋縄では行きません。それでも原則は上で尽きますし、古典派前期ですと第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンは境目が無いに等しいので、ちょっとラクになります。

これ以上別に言うことはありません。

私の二十代当時だと
・スメタナ弦楽四重奏団
・バルトーク弦楽四重奏団
・アルバン・ベルク弦楽四重奏団
・ベルリン弦楽四重奏団(当時の東ベルリン)
・ボロディン弦楽四重奏団
あたりが脂がのっていて、演奏会や録音をよく聴きに行きました。

スメタナ弦楽四重奏団は、あたたかみ溢れるベートーヴェンの全集が評判で人気が高いのでしたが、それぞれ名人ながら器用なかた達ではなく、ひとりひとりのとりくみが真面目で、努力でこのあったかい響きを作っているんだなあ、というのが演奏するお姿からほの見えてくるのでした。
バルトーク弦楽四重奏団は第2ヴァイオリンさんが博学なのが有名だったかと思います。スメタナ四重奏団より知的な、そのぶん冷たい感じのサウンドが魅力的でした。
アルバン・ベルク四重奏団は、ベルクの名前を冠しているからそういう印象だったのか、耽美的な響きのする団だと感じました。ここは4人とも「器用」なのが見えて来る団でした。硬派路線ではないので当時としては異色でしたが、最近はこの傾向の強い四重奏団が主流であるように思います。ライヴも録音も聴いて心地よいものばかりで素晴らしいのですが、ちょっとルールはずれも多いように感じました。それでも成り立っていたのは、相互の信頼関係と耳の良さではなかったかな。
ベルリン四重奏団は、第1ヴァイオリンのカール・ズスケが私の二十歳の頃すぐゲヴァントハウス管弦楽団に移籍になり、ライヴを聴けたことがありません。モーツァルトの録音は他のどの団体よりも見事なものでした。オーケストラ奏者による定石をきちんと踏んだ演奏で、地味ながら響きの緩急が生気にあふれているのがモーツァルトに最適だったのでしょう。ハイドンセット以降と弦楽五重奏はすべて録音しています。ズスケの移籍先であるゲヴァントハウスの弦楽四重奏団もうまかったのですが、ベルリン四重奏団にくらべると「つまんないなあ」と思ったっけなあ。

くせ者なのは、いまも世代交代して続いているボロディン弦楽四重奏団です。
ベートーヴェン四重奏団と並んで、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の初演者として有名な団体でしたが、鋼鉄のような響きでした。当時はまだソ連存続期でしたので、「鉄のカーテン」という言葉を想起したものでした。
とにかくヴィブラートは数まで揃っている、ヴィブラートをかけないときはそのタイミングが揃っている、音程が硬いところでぴったりときまっているので和声が重鉄構造のようである・・・
すべてが揃いながら、お互いが目を合わせたり、大きな仕草で合図しあうことがないのです。

目配せだの大きな合図だのが不要でもタイミングなどが合う、というのは、日本の伝統芸能の人たちの演技などからも教えられることです。
初めて歌舞伎を見に行った時、義太夫さんのまったく見えない立ち位置であるはずの女形のひとが、義太夫さんのうねりと寸分違わず動いて「泣き」の演技をしたのを目撃したときには、たいへん感激しました。それを恩師に
「歌舞伎でも、お互い見えなくってもピッタリ揃うんです!」
と息せき切って報告したら
「当たり前だよ」
と笑われたでした。
能もまた同じだということは、最近やっと機会があって知ることが出来ました。(能の囃子はどう聴いていいのか分からないので、このあたりを理解するのはたいへん難しいことでした。)

ボロディン弦楽四重奏団の響きの「恐ろしさ」は、「一聴ニシカズ」です。
しかも、その名前をもらっているボロディンの弦楽四重奏曲第二番(CDなら1962年のもの)が、録音ではいちばんよかろうと思います。
YouTubeで見つけたのはライヴ演奏で、CD録音に比べるとゆらぎがありますが、基本的に録音とまったく同じ路線で演奏しています。
まずは第1楽章の途中(2分42秒〜3分18秒)や終楽章(20分50秒〜22分6秒)などをお聴きになってみて頂ければと思います。



https://youtu.be/X_FVODPf2tk

これとは違って、間をズラす面白さ、というのももちろんありますが、それはまた機会があれば。

2015年5月18日 (月)

モーツァルトには、お世話になりました。(「レクイエム」雑談)

たった一校受けた大学に落ちて、浪人することになりました。
いくつも受けなかったのは、入りたいところに入れなければ意味がない、と考えたからでした。
どうせ音楽を専門には出来ないのだから、好きなオーケストラをまともに勉強出来る学校に行きたいと思いました。地元の国立が、狭い視野の中で、いちばん自分の眼鏡にかなったのでした。
が、理系の高校にいたのに文系志向で英語がからきしダメだった(英語がダメなら理系でもダメなんですけどね)のが主に災いしました。・・・いまになって不思議なのは、あのころは積分だなんてモノがよく分かっていて、問題がラクラク解けたのでした。でも、大学生になって以降全然使わなかったこともあるし、本当には素質がなかったんでしょう、もうからきし思い出せません。

それはともかく。

親父が小卒で働き始めた男で、バリバリの電柱のぼり(配線屋)だったので、
「大学なんて行っても無駄だ」
みたいな価値観だし、文系なんかなおさらメシが食えないと文学部受験をとくに苦々しく思っていたので、落ちたとたん
「大学なんか行くな、働け」
と言われるのが目に見えていました。これをなんとか突破しなければなりません。

実家から少し先の坂を下ると、お寺さんがあります。
小学生の頃、子供会の習慣で、当番で夕方5時の鐘撞きにかよったことがありました。鐘をつき終わって本堂に寄ると、和尚さんが仏様へのお供えを下さるのでした。おまんじゅうだのミカンだの。お香の匂いがしみていましたけれど、これを貰えるのがとても楽しみでかよったのでした。
そうだ、と、ひらめいて、このお寺に出かけて行って
「頭を剃って下さい」
と頼みました。
和尚さんが、別に驚くふうでもなく、延ばしたまんまのボサボサ髪の僕をちらっと見て
「まず床屋さんに行って、バリカンで丸刈りにしてもらって来なさい」
と言いましたので、日を改めて床屋さんでバリカンで丸刈りにしてもらってからお寺に行き直しました。
母が保母をやっている先の親御さんにインド哲学の講師のかたがいて、僕が頭を剃る前にそのかたのところへお寺から電話が入ったらしく、親のところに
「出家させるんですか? およしなさい」
とビックリして言って来たそうでした。
僕なんて、出家するにはいまなお生身の欲が強すぎます。得度、というやつでした。なので、チンネンとかカンネンとかナンデンネンみたいな名前は頂戴していません。

こんなふうにして浪人はなんとか出来たのでしたが、そうでなくても神様だの仏様だのと言うことには関心の強い十代ではあった気がします。

修道女になった母方の大叔母には、亡くなったのが僕の生まれる6年前でしたので会ったことがなく、「たいへんに美人だった」と聞かされていたせいでしょう、どんな人だったんだろう、と想像しない日はありませんでした。三越でエレベーターガールをしていた時期もあったようで、そんなころに、どこぞの大問屋の若旦那と縁談があったのを振り切って修道院に駆け込んで、そこで結核にかかって「私は幸せでした」とにっこり笑って、二十八歳で亡くなったのだそうでした。
ありがたいことに働いて数年経つまで、身近な死は家族にはありませんでした。大叔母への想像を膨らませながら聖書のいくつかの箇所をぱらぱらっとめくるのだけが、僕に「死とはどんなことか」を考えさせる行為でした。
中学3年のときに転校して来た女の子が高3のときに首を吊って死んでしまったのは、平和な僕には大変なショックでした。中学ではとても仲が良くて、恋というほどのものではなかったのかも知れないけれど、「同じ高校に行こう」だなんて意気投合していたのでした。が、当時の仙台は共学校は少なくて、ふたをあけてみたら、その子は優秀な女子校に合格していて、僕はなんだか裏切られた気持ちになって、その子と口をきかなくなり、それっきり高校生になっても会うことがありませんでした。この事件も大叔母の件と重なりあっているところへ、キリスト教系のクラシック音楽には「レクイエム」というものがあって、聴くでもなく部屋でそのレコードをかけっぱなしにして暗くなっている日もありました。

「レクイエム」だと、もっぱらモーツァルトで、まだフォーレの作品にまですら関心が回りませんでした。カール・ベーム/ウィーン交響楽団(ウィーンフィルではなく)のものが900円で買えました。

1970年代には、レコードではまだジュースマイヤー版しか出回っていませんでした。モーツァルトの弟子で、いまさら言うまでもないことですが、死の床のモーツァルトが続きの作り方を示唆した相手だったジュースマイヤーによって完成させられた版です。
解説を読むと、これはジュースマイヤーに才能がなかったために「出来が悪い」んだというのです。じゃあ、「出来のいい」のはないのか、というと、当時の録音には、ないのでした。
それでも、なんだかモーツァルトの「レクイエム」を聴いていると、会ったことのない大叔母や、自殺してしまった同窓の女の子が、ぼんやり目の前に現れて来て、「天国には神様がいるんだから大丈夫だよ、いつかあんたもこっちにくるんだからね」と話しかけてくるような、奇妙な錯覚を覚えていたように思います。
ふりかえってみると、こんなことをつうじて、魂がちょっとは浄められていたのかもしれませんね。

モーツァルトの「レクイエム」には、その後、「出来のいい」のはこういうんだ、と言わんばかりに、いろんな新しい版が登場することになったのもご存知のとおりです。
1984年の映画『アマデウス』で使われて一躍脚光を浴びたバイヤー版が、いまでもいちばん演奏機会と録音の多い改訂版です。が、これはジュースマイヤー版をそんなに大きく変更はしていません。
『アマデウス』には『アマデウス』で、幼なじみと見に行って、結局それきり彼女と会うことがなかった、とか、変な思い出があるんですけれど、それは措いときましょう。
ホグウッドが録音を出したモンダー版はいちばん過激で、ジュースマイヤーが100%作曲した「サンクトゥス」・「ベネディクトゥス」・「アニュス・デイ」は全部省き、モーツァルトが冒頭数小節のスケッチだけ残したアーメンフーガを独自に仕上げて最後に響かせるものでしたが、最近は録音を見かけません。
モーツァルト研究者として名高いロビンズ・ランドンやレヴィンの版もあります。ランドン版がどんなだったか思い出せませんが、レヴィン版はジュースマイヤーの作曲した部分に大きく手を加えていて、とくに「サンクトゥス」はオーケストラの弦楽器がレヴィンの信ずるモーツァルト様式にすっかり書き換えられています。「サンクトゥス」に続く「ホザンナ」も、ジュースマイヤー版では28小節に過ぎませんのに、レヴィン版では倍以上の58小節に拡張されています。その他にも、たしかに統計的にモーツァルト様式であるだろう楽句やオーケストレーションに改変されたところは枚挙にいとまがなく、アーメンフーガも巧みに完成されていて、才人のこの人らしい面白い仕上がりになっています。が、素人感想としては
「うーん、でもこれで本当に正解なのかな」
と首をかしげてしまいます。なんぼ首をかしげても、しかし専門家には太刀打ち出来っこないのですけど。(レヴィン版のスコアの解説は、ジュースマイヤーが独自に作曲した部分もいかにモーツァルトのアイディアが生きているか・・・モーツァルトはたぶん必死でジュースマイヤーに「こうしなければならない、ああしなければならない」とインプリメントさせたんでしょうね・・・を教えてくれる貴重なドキュメントのひとつです。)
最近では「初演復元版」なるものも存在していて(、どんなのだろう、とスコアを眺めながら聴いてみましたら、これはジュースマイヤー版なんですね。当然と言えば当然です。ただ、聴いた録音で通奏低音がオルガンではなくフォルテピアノで弾かれているのには驚きました。解説によると、モーツァルトの「レクイエム」全曲はモーツァルトの死から2年経った1793年に初演されたそうですが、その会場となったホールにはオルガンがなかったのだそうです。編成はヴァイオリン各パートが6、声楽は独唱の他リピエーノ3だったとのことで、付属リーフレットの写真では全貌がはっきり分かりませんが、弦楽器は他にヴィオラとチェロが各2、バス1のようで、声楽がもう一人(合計8人)います。歌手の手持ちの楽譜はベーレンライター旧版に見えますが、全体の演奏は初演復元した2013年版なのだそうです。・・・この録音のCDには、併せてモーツァルトの葬儀の際に演奏されたであろう規模での「レクイエム」入祭唱・キリエも収録されていますが、好事家的であるに過ぎない気がしないでもありません。
最近の録音でいちばん穏当に聴けるのは、鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンのものではないかと思います。鈴木優人氏がこの団体のために校訂した楽譜による演奏で、2006年12月(モーツァルト生誕250年の年)に演奏会で披露されたのと同内容を2013年12月に神戸で録音したものだそうです。モーツァルトの「レクイエム」は、モーツァルトの死にもかかわらず仕上げて納品されなければならなかったために、妻コンスタンツェが苦慮して、ジュースマイヤーよりも前にアイブラーという人に補筆依頼がされました。鈴木氏はジュースマイヤー版をベースにしながら、このアイブラーの補筆がある部分(「ラクリモーサ」のモーツァルト絶筆部分のあとにアイブラーが二小節書き足していますが、それは除きその前の「コンフターティス」まで)はアイブラーの補筆を採用しています。とはいえ、ところどころにジュースマイヤーのものでもアイブラーのものでもない音があって、ちょっと度肝を抜かれたりします。復元創作したアーメン・フーガはレヴィンのものより控えめですが安定した出来で、素晴らしいと思います。「トゥーバ・ミルム」の1800年出版版(ジュースマイヤー版でトロンボーンに与えられている楽句を、最初以外はファゴットで演奏させる)の復元演奏も収録されています。

ついでながら、カラヤンの1961年のジュースマイヤー版は仰天もので、とくに「トゥーバ・ミルム」ではトロンボーンの独奏部を複数のトロンボーンに吹かせています。当時そんな演奏が普通にされたりしていたんでしょうか? ベルリンフィルならではだったんでしょうか? 面白いけれどちょっと受け入れられませんでした。思い出したので記しておきます。

死の床でモーツァルトが泣く泣く最後の力を振り絞って書けるだけ書き、残りはアイブラーやジュースマイヤーにゆだねざるを得なかった「レクイエム」の手稿譜ファクシミリは、最新版が今年ベーレンライターから出版されました。
そこから、
・モーツァルトが弦楽と声楽だけ完成させ、あとでアイブラーが補筆した「ディス・イレ」冒頭
・同じ部分をジュースマイヤーが完成した部分の写真
を・・・歪んでいて申し訳ありませんが・・・載せておきます。

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「ラクリモーサ」の8小節目がモーツァルトの絶筆だと伝えられていて、それが正しいのでしょうが、モーツァルトは順番に楽譜を書き進めていた訳ではないので、曲としては続く「ドミネ・イエズ」、「ホスティアス」までの声楽を完成させています。

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「ホスティアス」末尾には上中下三カ所に”quam olim da capo”とモーツァルトが記していましたが、一番下のものは泥棒さんが切り取って持ち去ってしまったそうです。ファクシミリでも切り取られた形が再現されています。・・・こんなせこい泥棒しちゃダメだよ。

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新モーツァルト全集第2巻には「レクイエム」のモーツァルト自筆部分だけを取り出したもの、モーツァルトの死の直後にアイブラー(とジュースマイヤー)が補筆したところまでのもの、ジュースマイヤーが完成させた全曲、の3種類が印刷譜化されていますので、趣味でモーツァルトの考えていた響きを再現してみたいと思ったら、これを手にするのが一番だと思います。いまはネットでも見られるし、ダウンロード出来るかと思います(個人使用に限る http://dme.mozarteum.at/DME/nma/nmapub_srch.php?l=3 第1篇:宗教声楽作品)。

・・・モーツァルトには大学生になってもまたいろいろお世話になり続けることになります。

参考CD
・レヴィン版(2002年録音)CD-R
 マッケラス/スコットランド室内管・合唱団ほか 東京エムプラス輸入 BKD211

・初演復元版(2013年?)
 ジョン・ハット/ダンディン・コンソート 東京エムプラス輸入 CKD449

・コレギウム・バッハ・ジャパン版(鈴木優人)2013年12月録音
 鈴木雅明/コレギウム・バッハ・ジャパン KING INTERNATIONAL INC. KKC-5414

2015年5月 6日 (水)

浪人して、Ave verum corpsに出会う。

高3の時は、ジュニアオーケストラはお休みしました。

高校の理数科というところに通っていましたが、文科系に進むことには父が反対なのが目に見えていましたので、そうしたのでした。
大学には進学したくて、それも文系希望でした。音楽を職業としてやりたい、だなんてとんでもない話で、ピアノはとうとう習えませんでしたから、断念せざるを得ませんでした。まあ、断念していなくたって、どの程度の馬の骨になっていたでしょうかしら。
とにかく将来を思うと胸はぐらぐらで定まらず、勉強もどこか上の空で、当時まだあった国立二期校をハナから受験せず、一期校は見事に不合格で、一浪することになりました。

浪人中も真面目に勉強していたかどうか。
浪人と同時にオーケストラに戻って、またバイオリンなんぞ弾いていたのでしたから。

行っていなかった一年の間に、かのジュニアオーケストラは何かあったらしくて、戻ってみたら体制が変わっていました。
指導して下さっていた岡崎先生のお顔も見えなくなり、練習指揮をしていた桑村さんというかたもいらっしゃらなくなっていました。仙台一高だの宮城一女だのから大勢来ていたメンバーはみんな別の高校の生徒たちに入れ替わっていて、指揮も私立高校の若い男性音楽教師になっていました。この人と、大学になってから知り合って連れて行ったもう一人には、僕は翌々年疎んじられるようになって、ある日突然座る席が無くなってしまうことになります。その後この団体の後継の人たちにもどんなふうに言われたのだったか、僕は良く思われなくなったようで、数年後にはこの団体にはもう行けなくなってしまいました。
が、まだあとのことです。
浪人当時は、ここに行けることが天国でした。

夏の演奏会では、ベートーヴェンの「レオノーレ序曲第3番」とカバレフスキー「道化師」、シューベルトの「未完成」をやったのではなかったかな。ハチャトリァンの「ガイーヌ」のレスギンカを恥ずかしくなるほどのスローテンポでやった記憶もごちゃごちゃに混じっていますが、このときだったかどうか。

嬉しかったのは、体制の変わったこの団体が「クリスマスコンサート」なるものをやるようになっていて(ミッション系の女子校の生徒をたくさん団員にし、そこの指導の先生も協力するようになったからだったのでしょう)、冬にミサ曲の演奏も経験出来るようになったことでした。
大学の試験前でありながら、12月にはこのクリスマスコンサートに参加させてもらって、シューベルトのト長調のミサ曲(第2番)を演奏しました。18歳で作った、とても美しいミサ曲です。

このときのアンコールでモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス(K.618)」を演奏することになりました。
シューベルトのミサ曲も感動ものだったのですが、初めて合唱と一緒に弾いた時、モーツァルトのこの小さな作品に、大きな衝撃を受けたのでした。
それを、どう言葉にしていいか、いまになってもよく分かりません。音の静かな漂いについては、とくに何も言えません。

Mozartbook 詞の方については、少しおしゃべりのネタがあります。
どうしてそう思ったのか説明がつかないのですが、うむ、この歌は歌詞とぴったりに出来ているに違いない、と、すぐ確信したのでした。ラテン語なんて分かりませんから、歌詞がどんなかも分かりません。でも間違いないはずだ、と信じたのでした。
それで、駅前の大きな書店で、他にはない専門書も置いていた一番町の丸善に、自転車で出かけて行って、ラテン語の辞典を探しました。高価で、浪人生なんぞにはとても買えませんでした。仕方がないので出直して、Ave verum corpusの詞を楽譜からメモに書き写してポケットに忍ばせて、丸善の店員さんに見つからないように、ドキドキしながら、店頭でラテン語の辞書を引きました。語尾が変化する仕組みだなんてまだまったく知りませんでしたので、おおよその見当で意味を突き詰めたのでしたが、後年翻訳を見つけて読んだら、ありがたいことに、ほぼあっていました。
こんなことがあったので、Ave verum corpusの詞は40年近くたった今でも、わりと思い出すことが出来ます。

立ち読み辞書引きをしたあとから、モーツァルト叢書と称して出たモーツァルト関係の論文の中に、調べるまでもなくAve verum corpusについて詳しく説明されたものがあるのを見つけたことがありました。でも、先にそれを読んでしまっていなくて本当に良かったと感じています。説明文を何も読まぬうちに七転八倒して調べたことが、曲に直に接する大切さを身にしみさせてくれたのではないか、と思うからです。

Ave verum corpus, natum de Maria virgine
vere passum, immolatum in cruce pro homine.
quius latus perforatum unda fluxit et sanguine,
esto nobis praegustatum in mortis examine.

処女懐胎で生まれたイエスという肉体が、人類の原罪をあがなうため十字架にかかり、槍で突かれた脇腹から水と血を流した、なる聖体の賛美と拝領の意義を歌ったモテットです。
分かりやすい訳がこちらのサイトにありますが、Mozartの使っている詞では若干語彙や語順の違うところがあります。
http://www2.odn.ne.jp/row/sub2/seika/seika_02.htm

モーツァルトは、死病の父に送った慰めの手紙にこう書いたことが有名ですね。

「死は(厳密にいえば)ぼくらの人生の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました! そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。−−−−−ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。」(1787年4月4日付け。西川尚生訳。『モーツァルト』p.163 http://www.amazon.co.jp/dp/4276221749/)

レクイエムの尋常ではない作曲経緯もあり、父へのこの書簡のイメージもあり、詞の最終節でイエスの聖体に向かって「私たちの死の試練の先触れであって下さい」みたいなことが言われているAve verum corpusも、当然のように「死」と強く結びつけられ、命の火の消えんとするモーツァルトの清澄な世界が描かれている、との印象で語られることが常になっています(YouTubeにそんな映像例がありました https://youtu.be/G52Rs5CQfug)。
たしかに彼の死の年である1791年の、あと半年で死ぬというときに書かれた作品ではありますが、実際に分かっているのは、この作品がバーデンで身重の妻を援助してくれたシュトルという法律顧問の人物にお礼として書かれた、ということだけで、この事実からだと、「死」と過剰に結びつけることは、むしろよろしくないと思われます。
この作品がモーツァルトの自筆譜に記された作曲の日の6月18日は日曜日ですけれど(http://park.geocities.jp/okugesan_com2/gengoichiran130.htm)、カトリックと聖公会では6月の三位一体主日直後の木曜日に「キリストの聖体日」があり、これが地域によっては日曜日に祝われるのだそうですから、バーデンが日曜日にこの日を祝う習慣のある地域かどうかは分かりませんが、Ave verum corpusは明らかにこの日のための機会的作品以上のものではありません。

とはいっても、清らかな響きを聴かされると、「死と浄化」ではないけれど、どうしても「死」は強く連想されるもので、仕方ないことではあるのかもしれません。

僕自身は、Ave verum corpusを初めて演奏した浪人時代の12月から28年もあとのことですけれど、家内を亡くしたときに、清らかな音というか声というか、そんなものを聴く、という奇妙な体験をしました。
家内は年末に急に心臓を病んで倒れてそのまま死んでしまったのでしたが、遺体を3日家に置いたあと、葬儀の前日に暗くて狭い霊安室に納めなくてはならず、可哀想に思っていました。そうしたら、翌朝早く、目が覚めてぼんやり横になっていた僕の耳に、なんだか声ではない、うまくたとえられませんけれど、ガラスが話しているような透明な音で、
「見える? 見えるよ。外、見えるよ」
と三言、はっきりささやきかけられたのでした。
びっくりして飛び起きました。
誰もいませんでした。
夢に過ぎなかったのでしょうか。

・・・脱線してしまいました。


https://youtu.be/bV1dfg3goUo

Berliner Philharmoniker, Riccardo Muti, Stockholm Chamber Choir & Swedish Radio Choir

2015年4月 5日 (日)

とてもきれいだった巌本真理さん〜シェーンベルク「浄夜」・弦楽四重奏曲第2番

高校3年の時だったと思うのですが、記憶が定かではありません。

芸術鑑賞会なる催しは1年生の時が「阿Q正伝」、2年生の時が「夏の夜の夢」と、いずれも演劇だった気がしますので、やっぱり3年生の時ではなかったかな。
巌本真理弦楽四重奏団が電力ホールというところに来たのを学校をあげて聴きに行ったのでした。

曲目は、さっぱり覚えていません。
クラシックマニアなんて学校にもわずかだったでしょうから、他の連中も覚えているかどうか。
僕もベートーヴェンの交響曲9曲や有名序曲や、そのほか何人かの作曲家のオーケストラ曲は流れをそらんじられるほどまで聞きかじってはいましたけれど、室内楽にはほとんど興味がありませんでした。

クラシック好きだけど、そんなやつ少ないし、室内楽だし、おいらしらけっちゃうだろうなあ、と思って出掛けて行ったのでした。

Smallmariiwamoto が、巌本真理さんがステージに出てくるなり、会場は熱狂の渦になってしまったのでした。
そのころの仙台あたりでは見かけられなかった、彫りが深くてスラリとした美人さんだったからです。
なんせ、僕らの学校は男子校でした。

真理さんは、残された写真を見ると眉が濃くていかつい顔に見えるのですけれど、これは写真技術が良くなかったからだと思いたいところです。
実際の巌本さんはため息が出るほどきれいな人でした。
なおかつ、演奏が終わると絶叫しながら拍手を送った僕ら無粋な男子高校生に向かって、高くあげた手を振って満面の笑みで応えてくれたのでした。
たぶん、演奏のあいだは音楽を聴くよりは彼女に見とれていたのでしょう。だからちっとも、どんな曲だったか思い出せないのです。

稼げるようになったらこの人の演奏を聴きに出かけたいな、と思ったのでしたが、それから2年後には巌本さんは癌で亡くなってしまったのでした。後年伝記を読みましたら、僕らの学校に来た年に乳がんの手術をなさったばかりだったのでした。

米国人の母から生まれた真理さんは、混血だったことからくる僕らには想像もつかないコンプレックスのようなものがあったり、そうした成長期のさなかに第2次世界大戦もあったり、差別を受けたり、と、人知れぬご苦労がたくさんあったようですけれど、戦時中もひるまず演奏活動を続けた気力の少女でいらして、1946年には20歳の若さで東京音楽学校(芸大の前身)の教授に迎えられたのだそうです。これを5年でやめてアメリカで勉強し、帰国後活動を本格化していましたが、まわりのかたたちの刺激もあって室内楽に目覚め、いいお仲間を得て1966年に弦楽四重奏団を結成し、亡くなるまで精力的に室内楽を披露し続けたのでした。

巌本真理 生きる意味
http://www.amazon.co.jp/dp/4103354038

真理さん単独の録音、巌本真理弦楽四重奏団の録音はずいぶんレコードになっていたはずですが、いま入手可能なものはそう多くありません。
山田耕筰の弦楽四重奏を演奏したものやライヴ数巻はAmazonで中古で手に入るようですが、僕は聴けていません。
新品で買ったのは、対戦の影響で改名する前の少女メリー・エステル時代の演奏が収められた『[SP音源による]伝説の名演奏家たち〜日本人アーティスト編〜』、これは他に若き日の安川(草間)加寿子さんだとか諏訪根自子さんだとか、なんと三浦環の声まで聴けるという代物です。最初期は無理ですが、洋楽初期の日本人演奏家を知るうえでも貴重な資料です。

http://www.amazon.co.jp/dp/B002H16WYS/

次にKING RECORDSから出た『巌本真理の芸術』(KICC 788/9)でドヴォルザークのアメリカ、ハイドンの皇帝、ブラームスのクラリネット五重奏曲の他、真理さんのソロを収めたもの。これはもう中古でしか出てないのかな。

http://www.amazon.co.jp/dp/B00276HOT0/

他にモーツァルトの四重奏曲2曲(ハイドンセットのうちのニ短調と不協和音)をおさめたものがあって、これは巌本真理さんの思い出を今回綴ろうと思っているときネットで偶然に見つけたものですので到着待ちで楽しみにしているところです。
そうした録音から受ける真理さんや四重奏団の印象については、またオタクで綴ります。

51oeocyxnal_sl500_sx355_ それらのどれよりも、現在の人たちにもまず聴かれるべき、聴いてほしいのは、1972年にシェーンベルクの「浄夜」と弦楽四重奏曲第2番を収めた1枚で、幸いこれは千円ちょっとという廉価で、いまも新品で出回っています。幸か不幸か当然のことか、YouTubeにはアップされていません。
「浄夜」は第2ヴィオラに江戸純子(小澤征爾さんの最初の奥さん)、第2チェロに藤田隆雄(録音当時期待の若手、1998年に54歳で胃ガンで早世)というひとたちを加えての演奏で、第2弦楽四重奏は後半2楽章にソプラノ独唱が入る変わった作品ですが、長野羊奈子さんが歌で加わっています。
充分に厚みのある響きのカテドラルが築き上げられていて、1970年代にこんなに優れた四重奏団や弦楽演奏家、声楽家が活躍していたのだ、と、あらためて懐かしさに強くとらえられます。そしてまた、今もたくさんの人に記憶しておいて頂きたいと感じる演奏でもあります。

http://www.amazon.co.jp/dp/B001VE7WJG/

「アメリカ」あたりだと、厚みを出す意図がやや災いして現在の志向からするとヒステリックに聞こえるきらいがあるのですけれど(これはたとえばヴァイオリンだとオイストラフのような名演奏家のものでも、いまはそう聴かれてしまうのではないでしょうか)、こちらは取り上げられている作品がシェーンベルクの、まだ無調に至る前のロマンチックな作品だということもあって、これから先も20世紀前半曲の規範的演奏として長く通用するものになっています。

では、弦楽四重奏をやるうえで肝心なことはなんだったのでしょう?
僕程度ではそれを言ってしまうとただの生意気になるので、よします。
そのかわり、hatenaで見つけた記事から、真理さん、いっしょにやっていた黒沼さんが話している肝の部分を、少しだけ引用しておきます。

http://d.hatena.ne.jp/adlib/19690712

── 四つの楽器は それぞれ異なった活躍をするわけですが 各奏者の奏法はすっかり統一した方がいいのか あるいはむしろ てんでばらばらの方が演奏効果がいちじるしい

黒沼 それは非常に具合が悪いんです ヴィオラが出てきた チェロがでてきた というようじゃいけないんで 第1と第2のヴァイオリンの区別がつかない というのが最高の状態なんです

巌本 ですからヴィブラートなんかもそろえるわけね

・・・芯の部分をごくあっさり喋っているだけですね。

弦楽四重奏曲には故あって僕自身が後年それを通じていじめられ(鍛えてもらった、という意味です!)、いろいろ悩み、何団体かを聴きに行った思い出もありますので、また別にお喋りすることもあるでしょう。

シェーンベルク作品と言っても誤解してはならないのは、真理さんたちが録音したのはまだ、いわゆる後期ロマン派からの脱皮が終わる前のものである点です。・・・まだなかなか馴染まれてはいなかったものだったのではありましたが、決して「現代曲」ではなかった。
それでも発表当時(作曲年ではなく。「浄夜」は1903年、第2弦楽四重奏曲は1908年の発表)には、発表の場だったウィーンで強烈な反感をかったのでした。

伝記『シェーンベルク』(E.フライターク著 宮川尚理訳 「大作曲家シリーズ」 音楽之友社 1998年)から、それぞれの時代の様子が分かる部分を引いて、今回の雑談を終わりにしましょう。

「『浄められた夜』の響きにはヴァーグナーの影響が色濃く感じられるが、音楽家協会の審議員たちは、それまで禁止されていた属九の和音の転回形が使われているのを知って、憤慨してこの総譜を孤絶した。(略)お情け程度にほんの少しだけの才能をシェーンベルクに認めておいて、シェーンベルクの試み【リヒャルト・デーメールの詩を総譜の巻頭にかかげ、そこからライトもチーフを取り出した、まではいいとして、そのライトモティーフを禁則だらけの複雑な対位法を使って仕上げたこと、とでもまとめ得るでしょうか?】はそもそも根本的に誤った道であったと結語することは容易なことだった。」(p.022)

非難はシェーンベルクが巻頭に掲げた非道徳的な(!)デーメールの詩のほうに衝撃を受け詩にこじつけて行なわれたものがこの本で紹介されています。詩の内容は、その非難の文章によれば
「一人の女が彼女の精神の夫に出会う。しかしそれはすでに彼女が彼女の肉体の夫の子供を宿してからのことだった。精神の夫は、美しい月夜に感銘を受け、自分が子供の父親になろうとすすんで申し出るのである」
というもので、これに
「こうした経過が音楽によって、言葉の助けなしに描き出させるとでもいうのだろうか?【そんなはずはない】」
との非難が続いています(p.24)。要は、言葉に助けられての標題音楽なんか安易だ、というのです。それをもっともらしく複雑に潤色するとは何事だ、みたいな、理不尽な非難だったようです。
(訳詩の一部はp.020に載っていますが、その最初の「あなたの身籠っている子供を/あなたの魂の重荷としてはならないのです」は、僕にはとてもいい言葉に感じられます。ただし、音楽作品としての「浄夜」は詩の内容は乗り越えたものだ、と、こんにちは評価されているようです。)

第2弦楽四重奏曲は器楽のみの第1楽章、第2楽章に続いて、シュテファン・ゲオルゲという人の詩「連禱」を第3楽章に、「恍惚」を第4楽章に、それぞれ声楽で加えたものです。

「『第二弦楽四重奏曲』の中でシェーンベルクがこの敬愛する詩人の詩句を導入したのは、次のような目的のためでもある。すなわち「聴衆にとってはこの曲を方向づけるための手引きとして、そして作曲家自身にとっては形式の段落分けの手引きとして」である。(略、初演の時の)その際に起こったスキャンダルは、以前のどの作品の際のスキャンダルをも凌ぐものとなってしまった。波のような笑い声と野次と口笛とが巻き起こり、演奏は聴こえないほどだった。」(p.063-064)

残念ながら巌本真理弦楽四重奏団の演奏ではありませんが、ラサール弦楽四重奏団による良い演奏はYouTubeにありましたので、そちらを埋め込んでおきます。

https://youtu.be/QSa8qW4Fdg8

2015年3月28日 (土)

魔法の清らかさ〜コレルリ:合奏協奏曲第10番

はじめて、ばかりですが、高校一年生でアマチュアオーケストラというものに入って、それだけでもワクワク状態だったところへ、あるときコンマスさんに誘われて「室内楽」とやらをやる合奏団の練習に行きました。
練習は夕方からで、場所はお寺なのでした。片岡良和さんという、仙台でも有名な作曲家さんがお坊さんで、練習場を貸して下さっているのだ、と聞きました。ただ片岡さんにはその後もお目にかかったことはありません。
メンバーは大学生や高校生だったようです。
私は2、3回は、夕方からの練習に参加したでしょうか。水曜日だったっけ。
残念ながら、バス便主流の仙台で、わりと郊外だった私の家から行くのでは帰りが遅くなり過ぎ、楽器を弾いていることはとくに父にはいい顔をされていなかったので、それくらいで通うのをあきらめなければなりませんでした。
けれども、そんなたった数回の練習参加でくぐったお寺の門・・・といっても門構えがある訳ではなくてすうっと入って行けるところだったように記憶しています・・・の、夕暮れて桃色に染まった道や、その向こうの白熱灯でぼおっと明るくなったお堂の様子が、絵本の場面のように思い出されます。

長っ話出来るほどのネタはなくて(最近なんでもネタ切れ状態!)、このとき練習した曲のひとつがバッハのブランデンブルク協奏曲の第3番とコレルリの合奏協奏曲の第10番だったこと(チェンバロはいませんでした)、とくにコレルリの合奏協奏曲は、なぜか私にとって忘れがたい曲になったこと、くらいです。バッハについては、そのうち小さな思い出話をまたぶつぶつ言いたいと思います。

Corelli バロック期といえば「音楽の母(!)」ヘンデルさんが男だった、という出会いはもうずいぶん前にしたのでしたし(こちら http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/okiraku/2014/11/post-cd78.html)、バッハの名前くらいは知っていましたが、コレルリは名前も作品もこのときが初耳でした(ヴァイオリンを習う人はこの人の「ラ=フォリア」(作品5の第12番)は早くに教わるのですが、私はさっさと独学になったので、「なにこの変な曲」・・・変じゃないんですけどね・・・くらいな感覚でスルーしていたのでした)。
こんなにすっきりした音楽があるだろうか、と驚いたのが、記憶に残ったいちばんの理由だったかも知れません。

アルカンジェロ・コレルリ(1653〜1713)は地主の息子として生まれてローマで一世を風靡した音楽家でしたが、奢りのない人だったらしく、作品は自分の納得の行くものだけを出版したと言われています。作品1の2つのヴァイオリンとヴィオローネ(またはアーチリュート)のためのソナタには、お世話になっている合奏の初学者もいらっしゃるだろうと思いますが、ひところより弾かれていないのでしたら残念です。
イタリアに渡った若き日のヘンデルの作品(時と悟りの勝利 HMV46a、1707年)の演奏にも関わったことがありましたが、その頃もう晩年にさしかかっていたコレルリはヘンデルの新しくて難しいヴァイオリンパートの演奏についていけず、ヘンデルの要求よりも弱々しく弾いてヘンデルに怒鳴りまくられ、それでも優しい人柄だったので、ヘンデルに
「でもねえ、ザクセンのおかた、この音楽はフランスのスタイルで書かれてるんで私にはよく分からないんですよ」
と許しを乞うた、という、真偽不明のエピソードが残されています(ヘンデルはそれでこの難しい音楽〜序曲を書き直したのだとも言われています)。
これは本に書かれているエピソードなのですが、もっとものすごいのでは22歳のヘンデルに楽器を取り上げられて
「じいさん、こう弾くんだよ!」
と目の前でやられて、54歳のコレルリ(いまのおいらと似たような歳だ!)が涙にくれた、なんていう話も聞いたことがあります。
・・・ほんとかなぁ。

コレルリの作品ではヴァイオリンは基本的に第3ポジションまでしか出てこず、第7ポジションも平気で出てくるヘンデルの作品に比べて演奏に要求される技術が容易です。バスパート(チェロ)にはけっこう厳しいことを強いているのが、たぶんコレルリ当時の一般的な器楽レベルの実態を反映しているかも知れません。
技術が容易だ、ということは、けれども、つくりが甘い、と同じことではありません。
合奏協奏曲集(当時からハイドンやモーツァルトの時期まで続いた習慣で12作セットでまとめられています)作品6は、どれをとっても響きが美しく、曲のつくりも安心して聴ける落ち着いた姿をしていると思います。
第8番までは日本語で教会ソナタと訳される構成で書かれ、のこり4つは室内コンチェルトと呼ばれる構成で書かれたものだそうです。どんな解説にもそのことが書いてあるので、この雑談では知ったかぶりしてどうのこうのは言わずにおきます。
出版されたのはコレルリの死の1年後ですが、生前には出版準備まで整っていたようで、かつ、12の合奏協奏曲は30歳頃からの自作から取捨選択された、コレルリ自身の眼鏡にかなったものばかり集められたのではないか、と推測されています。
大きな特徴のひとつに、こんにち私たちが「ハ長調」とか「イ短調」とかいう、その調の確立に一役かったことをあげてもいいと思います、が、素人の誤解かも知れません。それでも、コレルリの時代はいまバロック後期に括られるのですけれど、それ以前のバロックには調を明確にする習慣はまだ薄かったのではないかと思います。
合奏協奏曲群の中で、コレルリはこの調性それぞれの持つ個性を遺憾無く際立たせています。
ベートーヴェンが悲劇的な調として活かした「ハ短調」が、コレルリの合奏協奏曲第3番の調として、とてもいかめしく響くさまは、聴く人々に強い印象を残したようで、真偽は分かりませんがこれはコレルリの葬儀で演奏されたとも伝えられています。
あるいはもっとも有名な第8番(クリスマス協奏曲)では、それまでのト短調が最後のパストラール(キリスト降誕を祝う羊飼いの象徴的音楽ですよね)で、おだやかなト長調に変貌します。本来はヘ長調がパストラールの調なのではありますが、クリスマスミサで演奏されるために書かれたために峻厳さの際立つト短調を先立つ楽章で用いたための結果でもあり、また通常のパストラールよりも光をまばゆく放つ効果を発揮していると言っていいと思います。もっとも、ヘ短調というのはたいへん用いにくい調でもあったからでしょうけれど。(ヴァイオリン族の楽器はシャープ【#】の調の方が得意ですが、ヘ短調はフラット4つですしね。)

十代半ばの私の心をとらえた第10番は、ハ長調です。
ハ長調の伸びやかさが存分に発揮されていることから、高校生だった私に「ハ長調」とはどんなものか、をさわやかに教えてくれたのだ、と、今になって感じます。
エコー効果を活かしつつ中間部に短調でかげりを持たせたアンダンテ・ラルゴの第1楽章は、アンダンテ(歩む)にラルゴ(幅広く)をくっつけたのにふさわしい、幅広い歩みの音楽になっています。
第2楽章は軽快なアルマンドで、シンプルな響きながら、本来低音部分に置かれてもおかしくない安定したリズムの独特の旋律が第2ヴァイオリンに書かれていることで、少女的な軽やかさを持つ第1ヴァイオリンが好青年にしっかりエスコートされているような印象をもたらしてくれます。
折り返し点の第3楽章は短い短調の楽句で、続く第4楽章のクーラントへの序奏となっています。このクーラントがまた長調でありながら響きにどこか悲壮感があって、これはまかり間違うとヒステリックに演奏してしまいますので、弾く立場としては要注意な、性格の強い音楽です。
これに間髪入れずに速い動きのアレグロが続き、聴く人の緊張をもっとも高めるのですが、最後にゆるいメヌエットを・・・どうしてこんなによいバランスでこんなことが出来たのか!・・・控えめな華やかさで響かせて、全曲が締めくくられるところ、作曲技巧もなかなかのものです。

この第10番に限らず演奏技術が容易である分、響きにも混じりけなさが要求され、演奏者の過度の思い入れも禁じられることになりますから、演奏側にはそれなりの心の準備も要るには要ります。それでも、他の作曲家、とりわけバッハやヘンデルの合奏をするときに初心では強いられるような肉体的緊張とは無縁で、弾き手を苦しめずに「いい曲だなあ」と導いてしまうところが、後輩作曲たちにはまったく実現出来なかった魔法のように私には思われてなりません。

コレルリをいじめまくった(らしい)ヘンデルですが、彼の合奏協奏曲には、この善良な先輩の影響が色濃く見られる、と、世間では言われていて、なんだかちょっと愉快な気持ちになります。

古楽的でない演奏の一例

https://youtu.be/iaQ67P19ai8

古楽的な演奏の一例

https://youtu.be/OhAJZF43OF8

2015年3月 5日 (木)

はじめてオーケストラで弾いた曲〜「こうもり」序曲

これの前に綴ったように、長野で小沢僖久二さんと知り合った、みたいなことはありましたけれど、ブラスバンドから切り離された僕はウチで近所迷惑なヴァイオリンを弾く他にこれといって出来ることもなく中二中三の時期を過ごしました。年始になんとか許してもらってウィーンフィルのニューイヤーコンサートをテレビで見せてもらえたのがいちばんの喜びだったかな。でもあの頃もう衛星中継だったでしょうか? あとで録画で放送されたのでしょうか。記憶が曖昧です。タイムリーに見たと思っているのですけれど。

今のように有名指揮者を呼んでやるのではなく、コンサートマスターのボスコフスキーが、あんまり気取らない棒を振るのでした。団員がみんなでワインの乾杯をしたり、とくに打楽器の人も変な格好をしてみたり空砲をぶちかましてみたり、いろいろ羽目を外すのでした。あのころのほうがずっと面白かったな。その後心からいいなあと思ったのはカルロス・クライバーが出しゃばらない指揮をしてのびのびした音がしたときだけです。これは2回あったうちのどちらの放送を見たのか思い出せませんが、その後DVDを買いました。・・・だいぶ後になってからの話です。
ボスコフスキー時代のニューイヤーコンサートもDVDになっていますが今は入手が難しいかも知れません。でも団員さんたちのはしゃぎっぷりがよく見られますので、それがなつかしいかたや、見たことのない人には、いちばんのおすすめです。

http://www.amazon.co.jp/dp/B0006TPGZO

313gqfm6f0l 中二の正月のニューイヤーコンサートで、ヨハン・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」の序曲を初めて聴きました。後年ボスコフスキー時代のDVDにも収められましたので、ありがたいことに、そのときの嬉しさには今でも再会出来ます。(YouTUbeでも見られるようになりました。)オーケストラ側のコンサートマスターに、尊敬していたヘッツェルさん。そのサイドが、まだ髪の毛ふさふさのキュッヘルさんです。まだかなり若いキュッヘルさんのボウイング(弓使い)が、ヘッツェルさんに比べると成長途上のやや窮屈なのが見られるのも面白い見物ですけれど、もちろん中二当時にそんなことに気がつく訳がありません。
なによりも、この「こうもり」序曲が、僕はたいへんに気に入ったのでした。
まさか、1年半後に自分が初めてオーケストラで弾く曲になるとは、想像もしていませんでした。

地元の高校生中心のオーケストラの人から電話がかかって来たのは、高校に入る直前か入学後まもなくでした。小沢さんとのことでテレビに出たり市政だよりに載ったりしたのを見て僕を知ったのかも知れませんが、本当にそうだったかどうかは覚えていません。
自分は独学であまり技術もありませんから、と再々言ったのですが、すぐファーストヴァイオリンの、しかもいちばん前(ただしサイド)にさせられて、ちょっとしんどかったです。曲はベートーヴェンの「エロイカ」(http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/okiraku/2014/08/eroica-9f62.htmlに綴りました)がメインで、あとはハーティ編曲のヘンデル「水上の音楽」(http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/okiraku/2014/11/post-cd78.htmlに綴りました)、そして「こうもり」序曲でした。いまも相変わらずへたくそヴァイオリンで当時はもっとへたくそでしたが、中間部のワルツみたいなリズム・・・遅く重く始めて急加速して安定のブンチャになる・・・は大げさにやるのが得意でしたので、きびしいコンマスさん(女性でした)が面白がって誉めてくれました。
この、高校一年のときには、このオーケストラは自分たちの企画で夏に仙台から山形市まで「演奏旅行」と称して出向いたのでしたが、蓋を開けてみれば演奏者50人に対しお客が5人、というていたらくで、みんなで大笑いして帰りました。大人のサポートはほとんどなかったし、大学生は東北大のオーケストラに吸い上げられていて、運営力がなかったんだろうなあ、と思います。
演奏技術の話も思い返すとたくさんあるのですが、初年度はまだ無我夢中で、とにかく合奏についていくのがやっとで、どれがどうだったと回想するほどには中身の記憶がありません。演奏上参考になるようなことは、いずれまた。

十代の「こうもり」とウィーンフィルの思い出は、これくらいでした。

ずっとずっと後、結婚もして、子供たちも生まれて大きくなって・・・娘が中2で息子が小5の暮れに家内が心臓を悪くして急死した、そのつぎの年明けに、ウィーンフィルのなかの8人ほどのメンバーが隣町にウィーンリングアンサンブルと称して来日する演奏会がありました。
家内は家族分のチケットを買って、この演奏会に行くのを楽しみにしていました。
でも、死んでしまって、チケットをどこにしまったのか全然分からなくなりました。
なんとしても子供たちを連れて行かなければならない、かあちゃんが連れて行きたがっていたのだから。でもチケットがない。
会場のかたに電話をして事情を話して、新たに買わなければならないようなら買ってでも伺いたい、と申し出ました。
そうしたら、会場のかたが販売の記録を一生懸命探してくれて・・・買い方によっては記録に残っているかもしれない、ということだったかと思います・・・、ほんとうにそうだったのかどうだったのか
「あ、記録が見つかりましたから、当日ご心配なさらずおいで下さい」
と仰ってくれたのでした。
僕は僕で、コンサートを前に、家内に自慢したくて、ウィーンフィルの歴史を書いた分厚い本をこっそり買ってあったのでした。その本と家内の遺影を会場に持参しました。
演奏会が終わったあとサイン会があるのです。
それで、サイン会の場所に並んで、自分の番がくると、いならぶ団員さんに家内の写真を掲げてみせて、早口で片言の英語とでたらめなドイツ語単語で、みっともないくらい死にものぐるいで事情を説明し、本にサインをしてほしい、と頼み込みました。
団員さんたちはすぐにうなずきあって、本を手に取って、最初に
Für Keiko(ケイコさんへ・・・亡妻の名前です)
と記して、順々にサインをしてくれました。
その日は彼らが会場を去る車に向かって大声で
Auf Wiedersehen!
と繰り返して見送りましたが、さぞかしみなさん苦笑なさっていただろうな。

メンバーはキュッヘルさん(サイン会には出ず)、ザイフェルトさん、コルさん、イベラーさん、ありゃ、コントラバスはボーシェさんだったかな?、そしてシュルツさん、シュミードルさん、ヘーグナーさんだったと思います。サインはほとんど判読出来ません(笑)。

ああ、夜更かししちゃった!


http://youtu.be/uH_b2VJuI1I

2015年2月18日 (水)

小沢l僖久二さんのこと〜『荒城の月』ちょこっとだけ

Kikujiozawa 小沢僖久二さんをご存知でしょうか?
『星空のバイオリン』という子供向けノンフィクションに書かれた人です。長野県中野市のリンゴ農家さんでしたが、兵隊のときロシア人に見せてもらったストラディヴァリスの型紙を大事に写して帰って来て、それから夢中でヴァイオリンを作り続けた人です。・・・かのノンフィクション、僕には(と、自称を僕で喋らせてくださいね)本音を言うと嬉しい本ではなかったのですが、飾りっけの部分を除いて、この本に書いてあることは僕が小沢さんに聞かされた通りだったかと思います。

http://www.amazon.co.jp/dp/4569587267/

僕は中学3年生のときから大学生になるまで、小沢さんと仲良しでした。でも、小沢さんの話を、ここ四半世紀くらいほとんどしたことがありません。僕は僕で、小沢さんに貰った小沢さん作の楽器について周りにいろいろ言われた悔しさから、若造の思いつく最大の方策として大学生当時最新の音楽の科学書からヴァイオリンの項目のコピーをたくさんとって小沢さんに送ったのでしたが、逆効果だったのでしょう、それっきり小沢さんと縁が切れてしまいました。懸命に持ち帰って来た型紙・・・それがほんとうにストラディヴァリのものだったのかどうか、見せてもらった頃の僕にはさっぱりわかりませんでしたが、本物だったのでしょう・・・が命で、型紙とともに膨らんだ思いから、弾きやすさがどうか、よりも、自分の中の理想の「かたち」を作ることが、小沢さんの総てだったのではなかったろうか、音色を追いかけたのではなかったのではないか、といま思っています。
小沢さんは脳梗塞で倒れたときに、自作の楽器を佐藤陽子さんのところまで持っていって弾いてもらったりしていたのですね。このことを書いてある記事を読んで思ったのは、ご病気されても変わらなかったんだなあ、ということです。
小沢さんの作った楽器そのものについては、それ以上はお話ししないことにします。

http://blogs.yahoo.co.jp/s5872stf/53420236.html

ともあれ、小沢さんとの出会いは、僕にアマチュアオーケストラの団員になるきっかけを作ってくれたのでした。ちっぽけな話ですけれど、それをさせてくださいね。

40年くらいまえでもまだ最近にくらべればおおらかで、吹奏楽のない中学校に転校したら、前の学校でホルンを貸してくれ続けたのでした。それで自転車にケースを縛り付けて持ち帰ってウチで吹いていたものでした。でも、ホルンはウチで吹くには音がでかすぎて、ろくろく練習が出来ません。折しもアニメ「ムーミン」に出てくるヘムレンさんがへたくそにホルンを吹くのを見て、自分がヘムレンさんとまるで同じようなので、それでホルンを借りてくるのはやめてしまった・・・と記憶しています。

http://www.nicozon.net/tag/ヘムレン (ニコ動)

行き始めた学校に器楽の部活動もありませんでしたので、もう自分でヴァイオリンを弾いているしかありませんでした。勉強もせず夜9時頃まで弾いていて、よく親に叱られました。ときどき教室に持ち込んで弾いたりしていましたので、まわりが知ることになりました。
なんでも、僕の育った仙台と九州の竹田は滝廉太郎の「荒城の月」の縁で音楽姉妹都市というものらしく(仙台は作詩者土井晩翠が東北大学で教鞭をとっていたし、竹田は滝廉太郎の生故郷なのでした)、そこへ同じ歌の世界の中山晋平の故郷だと言うことで長野県の中野市も加わっていました。中三の年に三市の集まりが中野市でひらかれることになって、子供は新設校からも一人、というので、どういう訳か僕も中野へ出掛ける一行に加えられることになりました。
どんな行事があったか、まったく覚えていません。中野のお世話役の藤牧さんが楽しく面倒を見てくださったこと、中山晋平の生家のかたのえのき茸製造所が夏なのに寒かったこと、連れて行ってもらった善光寺の胎内潜りが真っ暗だったこと、志賀高原の夕焼けが本当の金色で、大人の誰かが
「西方浄土ってこんなかんじなんでしょうねえ」
とバスの中でつぶやいたこと、宿で仙台と竹田の子供同士で夜中までトランプして笑いあったこと。
子供たちはピアノだのエレクトーンだの歌だの、と、会場のそこここにあった楽器で腕前を披露したりしていたのですが、ヴァイオリンなんてありません。とくにピアノは、中学生で東北ピアノコンクールと言うのだかで優勝していた田原さえ嬢がいたりして(武蔵野音大に進んで、そのあと仙台を中心に活躍したのではなかったかな? もうずっとご無沙汰です)、なんにも出来ない僕は密かに劣等感でした。
そこへ、小沢さんが自作のヴァイオリンを持ってひょっこりあらわれたのです。
渡りに舟で、へたくそになにかその場で弾いたのだったかも知れません。

それがきっかけで、後日、小沢さんが仙台市に自作のヴァイオリンを寄付すると言いだし、すぐに実現の運びとなったのでした。
縁を作った、というのだったらしく、学校に市の広報が来て音楽室で同級生たちに周りを囲まれて小沢さんのヴァイオリンを弾かされ、写真を撮られ、市政だよりの表紙に載りました。昨年父が死んだとき整理したもののなかにそれが残っていて、見たら左手首がすっかり横に寝てネックにくっついている、ひどい写真でした。弾き方がよくなかったのです。が、そうしないと小沢さんの楽器は支えていられなかったのでした。楽器の話はしない、と言いましたけれど、こんなことから楽器の胴がどんなだったかは想像していただけると思います。

そのあとおなじ楽器を地元のテレビに出て弾くことになりました。
中野に一緒に行った枝松さん(当時小六)がエレクトーンで伴奏してくれて、行事のきっかけになった「荒城の月」を弾いたのでした。

たぶん、これで僕がヴァイオリンを弾いていることが知られて、高校に入ったか入らないかのときに市でジュニアオーケストラをやっていた人から電話が来て、僕はアマオケ人生を始めることとなったのでした。

まあ、これだけの話です。

いま普通に聞ける「荒城の月」は山田耕筰が手を加えたもので、移動ドで「ミミラシドシラ」の次が「ファファミレミ」になっているのですが、滝廉太郎は本当はここを「ファファミレ#ミ」と作っていたのだ、という有名な話があります。これのせいで僕の山田耕筰に対するイメージもあんまり良くありません。
曲に関係する話は、これだけです。すみません。

小沢さんのお宅には、このこと以来毎夏伺いました。天井の高いお家でした。
無骨だけれど優しい人で、泊まりにいくと近所をいっしょに散歩して、自分の本来の生業であるリンゴ作りの話をしてくれたり、剪定はこうやるんだ、とやってみせてくれたり(季節が違うので「ふり」をしてくれたのでした)、お家の裏手の水無川の向こう側がチョウゲンボウの棲む谷なんだ、といっしょにしばらく眺めたりしたのでした。ヴァイオリンの材料にするために木をいつも庭で枯らしていたのですけれど、これはご家族は大変だったのではないかと思います。
奥さんがとてもいいかたで、小沢さんの言いつけることは何でも黙ってどんどんなさるのでした。あまり喋らないのでお声を忘れてしまいましたが、いつもニコニコなさっていたのは忘れることが出来ません。残念ながら60代後半だったのかもう少しご年配にはなられたのだったか、その後わりと早くに亡くなってしまいました。僕と小沢さんのおつきあいも、奥さんが亡くなったと同時に、すっかり絶えました。

2015年2月 8日 (日)

ヴァイオリンはむずかしく音楽はもっとむずかしかった(私にとっては!):ブラームス ヴァイオリンソナタ第1番

Zap2_g2504383w私はいまアマチュアオーケストラでヴァイオリンを弾き続けている訳ですが、とりたててヴァイオリンが好みだと思ったことは、じつはありません。ですのでヴァイオリンの独奏曲はあまり知りません。興味の主体があくまでオーケストラだったからなんでしょう。

習い始めた小学5年生のときは先生も自分で見つけてきたりしたのですが、その先生があまり好きになれず、中学1年生でブラスバンドでホルンに夢中になったときやめてしまいました。先生についたのはこの3年間だけでした。

中2でブラスバンドのない新設校に転校になって、半ばは仕方なくヴァイオリンだけが自分の慰めになったのでしたが、習いに通うのはやめてしまっていたので、先生はもっぱらテレビの中でした。ヴァイオリンの習い初めと同時に見始めていた「バイオリンのおけいこ」という番組が教育テレビにあり、江藤俊哉さんが出てくるのでしたが、なんかかわったオッサンだ、と思いながらも説明が面白くてずっと見ていました。直に教わるには精神的にも距離的にも遠すぎる存在でしたけれど、独学の友としてテレビの江藤先生はいい先生でした。ひとりよがりになるのが定番の独学で、後年とくに大学時代は先輩にいろいろ叱られることばかりだったのですけれど、そんなときどうすればいいかを考えるよすがになるお話をテレビの中の江藤さんがして下さっていた、と思い出せるのは、ありがたいことでした。
年度始めの放送では楽器を構える姿勢を説明して下さるのでしたが、それがいちばん忘れがたく、あのときどういうお話だったか、を今になっても考えます。今時点でたどり着いているところだけ、ちょっと記してみます。

ヴァイオリンは右手左手ともどうやって弓や楽器を自然に扱えるようにするか、の感覚をつかむまでが難しいものだと思っています。

それで忘れられないのは、習いに行くことになって、まだ楽器が手元に届く前に、テレビで見た説明をノートに書いて、割り箸1本をいつも持ち歩いて弓に見立てて、たとえば床屋さんで髪を切ってもらっている間にも、エプロンに覆われた陰でずっと弓の持ち方の練習をしていたことです。ヴァイオリンをなさる方はご存知のように、弓は「持つ」というより、せいぜい引力で指先の肉の枕と触れることで引き合っている程度(引力が重力とは違って水平にも働いてくれないと困るところが文字通り困ることもあるのですが)にしておくのですけれど、割り箸練習のおかげで、これだけはわりと後々まで困らない程度には早く慣れたのでした。

それから、こちらは放送からだけでは思いつくのが難しかったのですけれど、左の、楽器の保持(肩当て不要)については、ヴァイオリン弾きさんは厚手のヴィオラを最初は肩当て付きで弾くのに慣れて、肩当てが高すぎるのを感じられるようになったら肩当てを外して弾いてみると、肩当てなしの感覚がいちばん自然に分かります。ヴァイオリンも肩当てなしで構えられるようになります。・・・こんなプロセスでの練習はなかなか出来ない(ヴァイオリンとヴィオラを交互に演奏する機会がないとむずかしい)のですけれど、自然な保持が出来ないうちに肩当てなしという無謀をやると左手の自由さが身に付かないまま終わったりしますし、かとって肩当てを低くしていくとかスポンジのような緩衝材で薄くしていくとかいう方式は、肩と楽器の間に何かを挟まなければならないとの依存心を消すのを非常に困難にしますから、本当は「楽器の位置が自分にとって高すぎる」とはどんなことか、を、大きいヴィオラできちんと実感するのが最良なのではないかと思っています(ヴィオラに縁が作れない場合は、カタい下駄のような、なるべく柔軟性のない「高すぎる」肩当てを使って弾いてアゴや口が痛むのを実感して、それではいけない、と肩当てなしで弾いてみる、というプロセスがいいのかも知れません・・・私は経験はないのですが)。
まあたったこれだけのところにいたるまで、思えば四十数年かかったんだから、あたしなんざほんとにたいしたことない、と苦笑いが漏れてしまいます。
でも、ソロ志向でなければ、ああいういい番組でいい先生が教えていらっしゃる様子を見ることでも、非常によい勉強と経験が出来ると強く思います。江藤先生の「バイオリンのおけいこ」は、弾き続け考え続ける上で私の心の大きな財産でした。アマチュアのためには、ああいう番組が復活してくれたらいいなあ。

雑談のネタ曲をまだ中学の頃の思い出から探しているのですけれど、当時週1回のテレビの「おけいこ」を頼りにしていて知ったヴァイオリンの曲は、興味が薄かっただけにあまりないのです。でもいちおうヴァイオリンの雑談をしておきたいので、曲ネタはあえて大学時代まで飛びます。

大学オケに入れてもらえて、万年その他大勢で弾けることになったのでしたが、なんと、テレビでしか知らなかった江藤さんが私たちと共演して下さることになったのです。1年の冬にベートーヴェンの、4年の冬にブラームスの協奏曲をご一緒出来たのでした。社会人になったあともういちどチャンスがあって、そのときはご夫婦でモーツァルトの協奏交響曲をお弾きになりました。
なかでもベートーヴェンは衝撃でした。
前もどこかで言ったことがあるのですけれど、ステージリハーサルのとき、江藤さんの弾く音がホールのどこに芯が当たって、そこから反射して返ってくるのが・・・奇妙にお思いになるかも知れませんが・・・ちゃんと目で見えたのです。あ、見えた、と、仰天しました。物理的には説明出来っこありません。耳の捉えたことが目に錯覚をおこさせたと言うことだったのでしょう。
どうしてこれだけ芯のある音が出せるのか、自分にも出せるのか、と、それから数年真面目に悩むことになりました。で、ヴァイオリンの衝撃の話にはいろいろ続きや発展系があるので、それはまたいずれにしますが、ともあれこのときはまず江藤さんのレコードを探して、見つけたのが、ブラームスのヴァイオリンソナタのうちの1番と3番のLPです。

どちらも魅力的なロマン派の名曲ですが、私はとりわけ1番が好きになりました。
それで江藤さん以外もいろんな演奏をあとで聴いてみたのでしたが、いまになっても江藤さんよりいい演奏だと思うものには巡り会えずじまいです。
芯をしっかりもった素晴らしいヴァイオリン奏者は、昔も今もたくさんいるのです。江藤さんの専売特許なんかではありません。では何が「これは良い」と聴き手が唸るかそうでないかの違いを生み出すのでしょう。
ブラームスのソナタにおいて、江藤さんの演奏は起伏のすべてを最大限楽譜から読み取り、音の造形をなさっています。ディナミーク(pやf、クレッシェンドやディミヌエンド)テンポの揺れ動きだけでなく、音が上にあがること下にさがることにも、作曲家は音に醸し出してほしい起伏をこまごまと書き込んでいるものですけれど、とくに最後の音の上下については演奏者は大げさにやり過ぎることがあり、それだと曲が破綻します。破綻が怖いと逆に音の階段が隠し持っている起伏については無視しがちになります。起伏を薄めにしたものではフルトヴェングラー時代にウィーンフィルのコンサートマスターだったヴォルフガング・シュナイダーハン(1915〜2002)の演奏がひとつの規範例ではないかと思いますが、江藤さんの演奏は起伏を大きくとったギリギリの例として最右翼かも知れません。

江藤さんの演奏の、第1楽章の冒頭部を参考のために引いておきます。伴奏のウィリアム・マセロウさんもたいへん素晴らしいと思います。
(1977年録音。「江藤俊哉の芸術〜RCAソロ・レコーディング集成」から。 SICC-1396-9

http://music-hongou.art.coocan.jp/audio/Brahms1-eto.mp3

とくにロマン派後期曲やその演奏については情緒の幅の大きすぎることが次世代の音楽家たちに忌避されることになったのでしたが、ロマン派後期まっただ中の作曲家、それを受け継いだ演奏家さんたちは、描いている「情緒」とは日常世界のものとは異なっているのだ、と冷静に理解していたのではないか、と、最近は思っております。
1878年に作り始められたブラームスの第1番のヴァイオリンソナタ(第1番でありながら実は6番目のヴァイオリンソナタだったそうです。これ以前のものはしかし自己批判の厳しかったブラームスが破棄したとのこと)は、彼がそのようなことを充分理解していたために、10年後に仕上げた第3番ほどにはあれこれ盛り込まず控えめに仕上げた作品になっています。これは、あとでかかげるクララ・シューマンの感動を呼び覚ますべく、シナリオを周到に用意したからかも知れません。

作曲の動機自体は、愛するクララと尊敬するシューマンとの間に生まれていた末息子のフェリックスが重病に陥ったのを慰めるためだったようですが(昔の曲目解説にはこの話が登場しないので、最近明らかになったのでしょうか?)、フェリックスは残念ながら翌79年には25歳の若さで亡くなっています。
最初の2つの楽章は一気に書かれたと見え、第1楽章の終止線は勢いよく書いた弾みで次の第2楽章最初のページにまではみ出しています(ファクシミリからとった写真参照・・・ガラケーの粗悪写真でスミマセン)。

2015020710170000

出版がらみで写譜屋さんに草稿をあずけていた関係で、第3楽章は別個に書かれたらしく、ページナンバーが改めて1から始まり、楽器名がまた新たに記されています。末尾にはJuni 79(1879年6月)のサインがあります。
最後の第3楽章に自身の歌曲「雨の歌」を用いているので有名ですけれど、3つの楽章ともそこはかとなく悲しげでありながら穏やかです。全体が「雨の歌」冒頭の柔らかな付点リズムを統一モチーフにして緊密につながりあっていることも、作品を馴染みやすいものにしてくれています。
完成ののちブラームスからこの曲の複製譜を送られたクララ・シューマンは、79年7月10日、ブラームスに宛ててこんなふうに書いているそうです。

「最初のデリケートでチャーミングな楽章と第2楽章を聴いたあと、さらにまた、第3楽章で、私の大好きなメロディが心を奪う身震いで現れるのを知ったときの、私のおおきなよろこびを、どうぞ想像してみて下さい。」

自筆譜ファクシミリはドイツのLaaberから2013年に出ました。
ISBN 978-3-89007-762-8

2015年1月13日 (火)

クラシック最後の世界的ニュースでした〜ショスタコーヴィチ 交響曲第15番

1972年ですから中学校に入った年、ショスタコーヴィチの新しい交響曲が初演されました。
そしてこれは放送や新聞でも大々的に採り上げられるほどのニュースになりました。

1月8日のモスクワ初演の後、早くもこの年のうちの5月10日に、来日したゲンナジ・ロジェストヴェンスキーがモスクワ放送交響楽団を指揮して大阪で日本初演を行ないました。東ドイツ(当時)は5月13日(スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立響)、アメリカ合衆国では9月28日(オーマンディ/フィラデルフィア管)だったそうですから、日本での初演がいかに早かったか、当時すでに日本のショスタコーヴィチ人気がいかに高かったか、を垣間みる思いがします。
ただし、当時地方でもLPレコードで手に入ったショスタコーヴィチ作品は交響曲第5番ばかりでした。都会のファンならショスタコーヴィチがもうこの時期でも大変希少になった交響曲作家であり、しかも前作14番まで傑作を書き連ねていることは充分承知していたでしょうが、そうでない地域のクラシック好きは、彼の第5交響曲のイメージを引きずったままに、まだ耳に出来ないこの最新交響曲を空想したのではなかったでしょうか?

日本初演時の、まだ曲を聴いていなかった大木正興氏が期待を込めて書いた解説を引用したブログ
http://blog.goo.ne.jp/hirochan1990/e/68b35d7be8e9556a4055b08c316b15d3

私たちの中学のブラスバンドでも、ショスタコーヴィチの最新交響曲が日本で演奏されるとのニュースはセンセーションを巻き起こしました。
ネットを探しまわっても情報が出てこないので不確かな記憶なのですが、巡演していたロジェストヴェンスキーらが5月に大阪で初演したときか、6月に東京でこの曲を演奏したときの、どちらかがラジオで放送されることになったのではなかったかと思います。それで放送当日には部室でみんな大騒ぎをした気がします。5月10日は水曜日、東京で演奏された6月1日は木曜日でした(http://www5a.biglobe.ne.jp/%257eaccent/kazeno/calendar/1972.htm)。
でも、みんながラジオで新交響曲を聴いたはずの翌日は、中学生連中は拍子抜けでした。
「なんか、ウィリアム=テルのパクリばっかりじゃなかった?」
「そうだよね」
と、そんなひとことふたことで話が終わってしまった記憶があります。
中学生がまだそんなにたくさんクラシック作品に馴染んでいるはずもなく、この反応は無理もなかっただろう、と、今も思います。
そして、記憶する限り、私たちにとってこのショスタコーヴィチ「交響曲第15番」の話題が、クラシックのニュースがタイムリーに世間を騒がせてくれた最後のものになりました。
強制だった翌年の新設中学への転校(新興住宅街の中に新しく学校が出来て移らなければなりませんでした)で吹奏楽とは縁が切れてしまうことになった私にとっては、最新の音楽を普段からの友人と話題に出来るチャンスも、これで永久になくなったのでした。
どちらも、そんなふうになるとは想像もしていなかったのでしたけれど。

彼のすべての交響曲に対する認知度もずいぶん上がりましたから、いまは若い人でも「15番好きだよ」と仰ったりするかもしれませんけれど、当時の若い年代が描く、第5番の世界のような壮絶なものへの憧憬からすれば、交響曲第15番はおとなしすぎる作品でした。

いまになって、あらためて聴くと、これはショスタコーヴィチの人生の結晶の一つとも言うべき充実の作品であることが、よく感じ取れます。そういう大人の部分は、当時だって大人はしっかり感じ取っていたのでして、早くも10年後に書かれた諸井誠さんの解説(『名曲解説全集 交響曲Ⅲ』音楽之友社 昭和57年出版)は細部にわたるまで優れた読譜と耳による言葉で作品を適切に捉えています。
その「概説」から抜き書きしますと、適切ぶりがよく分かります。

「この大作は・・・曲中にソロや重奏など、むしろ室内楽的な扱いの部分が多いので、大作ではあっても、他の彼の交響曲のように、重厚巨大という印象はない。・・・古典主義的透明感すら感じさせる質の音楽ではあるが、いろいろ含蓄のある引用が数々あるのをみると、一筋縄ではいかないところも少なからずありそうだ。」(p.292)

ショスタコーヴィチが行なっている引用については、『ショスタコーヴィチ全作品解読』の著者、工藤庸介さんが著書にも記し、サイトにも記載していますので、サイトから引用させて頂きます。

・ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲終結部主題冒頭(第1楽章)
・第一ヴァイオリンに“B-A-C-H”の音型(第1楽章256小節)
・エフトゥシェーンコの詩によるアフマートヴァについての未完の歌曲(第2楽章練習番号64のトロンボーンの旋律)
・交響曲第1番ヘ短調作品10冒頭(第2楽章練習番号76のチェレスタの音型)
・交響曲第4番ハ短調作品43第2楽章コーダ(第3楽章練習番号96、第4楽章コーダ)
・ワーグナー「ワルキューレ」の運命の動機。(第4楽章冒頭)
・グリンカの歌曲「誘うな、必要もなく」(バラチンスキイ詩)(第4楽章第一主題)
・ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」の冒頭部分(第4楽章)
この他にもまだ隠された引用があろうが、これだけの音楽がかなり直接的な形で引用されていること、そしてそれらが見事にショスタコーヴィチの音楽として昇華されていることには驚きを禁じ得ない。

その他作品について工藤さんならではの有意義なお話が掲載されてますので、是非サイトの方をご覧下さい。

工藤庸介さんによる解説
http://www.envi.osakafu-u.ac.jp/develp/staff/kudo/dsch/sym13-15.html
『ショスタコーヴィチ全作品解読』
http://www.amazon.co.jp/dp/4885956455/

81nji6ru90l_sl1500_ あとで述べる余裕がなくなりましたので、演奏時間のことを少しだけ。
全音のミニチュアスコアにある寺原伸夫さんの解説では、この交響曲の演奏時間は約48分となっています。メトロノーム記号(第2楽章の指定は誤りではないかと言われています)その他を読み取るとこの時間になるのでしょう。しかしながら出回っている録音の演奏はほとんどがこれより4〜8分短い、すなわち速いテンポになっています。クルト・ザンデルリンクだけが48分程度の演奏をしていて、現在廉価で手に入るベルリン交響楽団との録音で48分37秒です。(ゲルギエフは47分程度で指揮しているようですね。)

http://ml.naxos.jp/album/0090432BC
http://www.amazon.co.jp/dp/B00LY9WBJO/

さて、交響曲第15番の初演を指揮したのは、作曲家自身の子息、マキシム・ショスタコーヴィチでした。ショスタコーヴィチの交響曲といえば第5しか出回っていなかったレコード屋さんに、このマキシム指揮のレコードが突如どかんと売り出されたのも、私は忘れることが出来ません。私は買うだけの小遣いがとてもありませんでしたが、呉服屋の息子だった同級生が親に買ってもらったかなにかで手に入れたので、それを聴かせてもらいに出掛けたりしたのでした。聴かせてもらっている曲については「ウィリアム・テル」のラッパ以外何も分からないまま、
「親の七光りで指揮者なんてかっこ良くてねたましいぜ」
なんてことばっかりで頭がいっぱいだったんじゃなかったかな。

当時は知りませんでしたが、ショスタコーヴィチの交響曲初演と言えば第5以降は指揮者はエウゲニ・ムラヴィンスキーというのがお決まりで、他ならぬショスタコーヴィチがそう願い、指定し、依頼をしていたとのことで、けれども第13番「バビ・ヤール」の強い反保守政治的メッセージの故か、はたまた病身だった奥さんを抱えていたせいか、第13のタクトをとることをムラヴィンスキーが拒否したことで、二人の信頼関係にひびが入ったと言われているのだそうですね。工藤さんの著書に事情の説明が適切にかいつまんでなされていますが、ムラヴィンスキー来日のたびに通訳を務めた河島みどりさんは、こう記しています(工藤さんによる要約の典拠ともなっています)。

「ことの真相はインナ(1964年に死去したムラヴィンスキーの三番目の奥さん)の病気だった。・・・検査の結果、それはおぞましい骨髄癌だとわかった。人知の及ばない病であることを知らされたムラヴィンスキーは気も狂わんばかりで、新作を研究、演奏する精神状態になかった。・・・ショスタコーヴィチはムラヴィンスキーから彼女が不治の病に侵されたことを打ち明けられて、とても新作へ没頭できる状態ではないことを理解していた。だからこそ二人の友情と敬愛はショスタコーヴィチが息をひきとる七五年まで続いたのだ。・・・同時にこの作品は音楽性よりも政治性が優先しているように感じられ、彼の心の琴線を大きくはかき鳴らさなかった」(河島みどり『ムラヴィンスキーと私』p.151 http://www.amazon.co.jp/dp/4794213980/

ソヴィエト共産党賛美の第12番では変わらず初演を指揮していたことを鑑みると「音楽性よりも政治性が優先しているように感じられ」た作品が琴線をかき鳴らさなかったから、という説明には素直に首肯しかねるところはありますが、それでも生前のムラヴィンスキーは河島さんにはそう語っていたのでしょう。
やはりソヴィエトの政治からすると問題作だった(ただしそれは初演後作品が無視されるかたちをとったため騒ぎにはならなかった)第9番のほうは初演のタクトをとっていて、しかも第9番は純音楽的でもあるので、歌詞付きである第13番に対するムラヴィンスキーの断り文句が「私が惹かれるのは”純粋に”器楽的な交響曲だけだ」(工藤著p.74)だったのも、さまざま含みがあったにせよムラヴィンスキーの本音だったかもしれません。

続く第14番はまた声楽付きの作品で、ムラヴィンスキーには第13番と同じ口実があったかもしれませんが依頼された形跡もなく、そして第15番もとうとう、ムラヴィンスキーが初演の指揮者になることはありませんでした。作曲時に演奏が中止された第4を含めそれ以前の交響曲、事情で初演指揮者とはならなかった第7、第11以外の、じつに6作の初演を指揮したムラヴィンスキーでしたが、15番の初演指揮者にならなかったことについては、どんな思いでいたのでしょう? もはやショスタコーヴィチの最新交響曲の初演者である、などということに特別な価値を感じていなかったのでしょうか?

初演の指揮者にこそなりませんでしたが、ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの交響曲第15番の誕生には立ち会ったのでした。
河島さんの先の本に、日記からの引用があります。

「私はレーピノに滞在してショスタコーヴィチに会ったが、最初の出会いは私を驚かせた。彼はもう長いこと何の仕事もしていないと嘆いたのだ。
 二、三週間たったとき、イリーナ夫人が言った。
 『ドーミトリー・ドーミトリエヴィチは書いていますわ』
 『何を書いているんです?』
 『カルテットです。もう第一楽章はできあがりました』
 私は第15番とこのカルテットの二つの作品の誕生の証人になる光栄に浴した」
(p.173)

河島さんの本の文脈からすると、この日記はたぶん1973年(3月以降?)のものでカルテットはおそらく弦楽四重奏曲第14番でしょうから、少し後になっての記述です。交響曲の完成後もムラヴィンスキーにはその完成に自分が立ち会ったとの意識が強くあったことを伺わせてくれます。

肝心の、交響曲第15番誕生に立ち会った風景については、やはり日記にこうある、と河島著に引かれています。同じ内容はインタヴュー映像でもムラヴィンスキーの口から語られていたのではなかったかと思います。

「1971年8月、レーピノ
 私はレーピノの『作曲家の家』という保養所で休息する幸福を味わった。ショスタコーヴィチもレーピノのダーチャで交響曲第15番を書き終えるところだった。彼は一日中、仕事にのめり込んでいた。ある夕べ、彼のコッテージのそばを通ったときのことを私は忘れない。
 黄昏が深くたちこめて、窓辺のグリーンの笠のスタンドが淡い光をショスタコーヴィチの頭や肩や腕に投げかけていた。彼の頭はインク壷の置いてある左へ、そして五線紙のある右へと揺れ動いていた。
 その動きは一秒も無駄にはできないといった切迫したものだった。そこにあるのは仕事で、彼そのものは消滅していた。ショスタコーヴィチは存在していなかった。
 この一コマ・・・・・・濃さを増す秋の黄昏、窓、グリーンの笠のスタンドの明かり、楽譜にうつむく、なじみ深い親愛なる顔。
 この光景を私は一生忘れないだろう。この数分の時間がどんなに高価に思われたことか!」
(p.162-163)

ムラヴィンスキーのこうした発言を、私は真正と信じていきたいと思います。

ムラヴィンスキーが交響曲第15番をショスタコーヴィチ立ち会いの元でレニングラードで演奏したのは、1972年5月のことだそうです。その際に述べたものなのかどうか分かりませんが、ムラヴィンスキーがこの作品について詳細に述べた言葉が、河島さんのこの日記の引用の後に続きます。
最後だけここにまた抜き書きしておきましょう。

このシンフォニーは四部から成るのではなく、第1、第2、第3、第4楽章ということではなく、第3楽章はスケルツォ『間奏曲』であって、そこで作者は仮面を被っているのだ。
 そしてデリケートな問題と溶解、永遠への退場で終了するのである。

マキシム指揮の録音の由、第1楽章

http://youtu.be/5Ci5dHIIIkc
Part2がみつかりません。
http://youtu.be/8X1sux10IME
http://youtu.be/wLJGA8TSv1g
http://youtu.be/GCThIegiDtI

2014年12月30日 (火)

変容したいたずら者~「ティル・オイレンシュピーゲル」

自分の中学生時代がもう40年前だ、と気づくと、途方に暮れます。
こないだ年末の納会で職場の人たちと喋っていて、
「数十年前が昨日のように思い出されるようになったら、ジサマだよなあ」
みたいな話になって、大笑いしたのでしたが、体調は血圧が上がってぼろぼろで、まったく冗談じゃなくジサマな自分を思い知ったのでした。

こっちは幸いにして目立っていませんので、思い出話混じりであれこれ好きな曲の話ばっかりしてきていますが、時期はまだこの40年ちょっと前の中学時代のことです。

ブラバンのホルンの尊敬する先輩、増田さんは、本当に奇特な人で、貧乏後輩の僕にいろんな曲を教えてくれただけでなく、聞き旧したレコードも何枚か僕にくれたのでした。17センチ盤のリスト「ハンガリー狂詩曲第2番」(カラヤン指揮)、同じくR.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(ベーム指揮)の2枚は、ジャケットデザインを含め忘れがたい頂き物で、すり減るまで聴きました。
「ティル」はとくに好きでした。でも「ティル」の、序奏のあとで現れるホルンのソロが、いったいどんな拍子で書かれているのか聴いただけでは皆目見当がつかず、ずっと戸惑ったものでした。数年後やっと楽譜を目にすることが出来、ああなるほど、と思いはしたものの、なんでこんなひねくれたリズムで書いたりしたのか、と、それはしばらく納得がいかなかったりもしました。小さな理屈をひねくり回して眺めたり聴いたりしても、音楽なんて面白くも何ともないんですけどね。

「ティル」の作曲経緯について、岡田暁生さん著の伝記から拾える面白い話は別にありません(岡田さんの本はみんなわりと好きなんですが、この伝記本は日本語が変でちょっとキライです 笑)。
音楽之友社版のスコアから拾うと、「ティル」はオペラとして取りかかりはじめられたこと、けれどもこの主人公では
「この民衆本の主人公が単なる悪戯者にすぎず」
ドラマの主役にならない、とオペラ化は放棄されたこと、いつのまにか交響詩に方向転換して1895年11月にミュンヘンで演奏されて大成功を収めたこと、彼はこの作品に愛着を持っていたらしく、1944年になって「かわいい息子や孫のために」と自筆総譜を作っていること、が読み取れます。

さて、しかし、「ティル・オイレンシュピーゲル」のお話って、具体的にはどんなものなのでしょう?

R.シュトラウスのシナリオはそれなりにあって、
「むかしむかし、あるところに悪戯者がいたとさ」(1〜5小節)
「その名もティル・オイレンシュピーゲル!」(6〜20小節)
「それはそれは、ひどい悪戯者だった」(46〜49小節)
「新しい悪戯を求めて出発」(50〜80小節)
「待っていろよ、いくじなしどもめ」(74〜)
「馬に乗って、市場の女どもを蹴散らし、一歩で7マイルも進める長靴をはいて逃げ去る」(137〜)
「僧侶に化けたティル」「もったいぶった口調で道徳について説教を垂れる」(179〜191)
「自分の末期について、そこはかとない予感におののく」(192〜208)
「騎士に化けたティル」「美しい娘たちと丁重な挨拶をかわす」ひとりの娘を見初め」彼女に言いよるが肘鉄を食らわされ、「全人類への復讐を誓う」(209〜293小節)
・・・
「判決」、ティルは刑場の露と消える(573〜631小節・・・音楽上は絞首刑で表現されていますよね)

といった具合です(音楽之友社版スコア、三宅幸夫氏の解説から)。

音楽を聴いたあとで知ると、お話として整っていはいますがスケールが小さく感じます。

中世から読まれ続けてきた『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』は、71hani1tv3l 日本に中世ヨーロッパを生き生きと教えてくれた阿部謹也さんが訳してくれているので、私たちも手軽に読むことが出来ます(岩波文庫・・・1990年に出ましたが、いまは古本でしか手に入りません http://www.amazon.co.jp/dp/4003245512)。
こちらの翻訳で読むと、ティルは美しい娘に恋いこがれてだまされることなどまったくありませんし、絞首刑で死ぬのではなく、病が重くなって病院で死ぬのです。
R.シュトラウスの描くティルと昔ながらのティルの共通点はたったひとつ、ティルは肉体が死んだ後も「生きている」点だけです。いまも残っているというティルの墓碑銘には
「ここにオイレンシュピーゲル葬られて立つ」
とあるのだそうで、「これはオイレンシュピーゲルが安らかに眠ってはいないこと、つまりまだ生きていることを暗示しているとも解されよう」と訳書は注をつけています。

西暦1500年前後に出版された、いまでは編著者もヘルマン・ボーテ(1463頃〜1520/25頃)にほぼ特定されている『ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』は96話から成っていますが、R.シュトラウスがシナリオとしたような整然とした物語ではなく、いたずらのエピソードがティルの生涯の年代順に並んでいる、という風情で、しかもやたらと糞の話が多いのには読んでいて驚きます。中世頃に糞尿潭が比較的多いのは日本も同じだったかと思いますので、ユーモアに対する感覚が中世と今とでは変わってしまっているということなのでしょう。いたずらの内容も、今の感覚からすると愉快とはいえないものがたくさん出てきます。
ティルはまた「いくじなし」を待っていたずらを仕掛けるのでもなければ、市場の女どもを蹴散らしたり魔法の靴を履いたりもしません。行った先で出会うイヤミな相手・・・それが司祭であろうが親方であろうが宿屋のあるじだろうが・・・を、わりと現実的なやり方でいたずらに陥れながら、道化者として放浪の旅を続けるのです。宗教的な良心のようなものが芽生えておそれおののく、などということは生涯無く、臨終の懺悔でも、若いときし損ねたいたずらがあることを残念がるほどに、そのいたずら者精神は筋金入りでした。
R.シュトラウスの描くニュアンスではこうした性格が減退し、タフさがなくなっている気がします。

中世のティルは、良心的である相手に対してきわどい騙しもやりますが、賤民である自分に対し意地悪をしてくる連中にあっと言わせる仕返しをするところが読者に胸のすく思いをさせてきたのではないかと感じます。
ただ、それぞれの「騙し」・「仕返し」の裏にある社会的背景については、R.シュトラウスの時代にはまだ究明されておらず、最近ようやく客観的に把握されるようになったようで、R.シュトラウスがまだ生きていたら、今度こそオペラとしての「ティル」を描けていたかもしれません。

一つの例として、第84話に、宿屋の女主人が風評だけで見も知らぬティルを「やくざ者」と信じ込んでいるのをティル本人が不満に思い、女主人をあえて本当にいたずらに陥れ、これで初めて女主人がティルを「やくざ者」と呼ぶのを認める、という、ちょっと読むと奇妙で意味のよくわからないエピソードがあります。注によると、このころあちこちで「風評に基づく裁判・・・7名の者が『あの男はやくざ者だ』といいさえすれば、それが何の証拠に基づいていなくても裁判にかけて有罪判決を下すことが出来た」という(恐ろしい)事態への反抗心に基づく行為だとのことですが、こうしたことは突っ込んだ研究があるまでは長い時間の中に埋もれてしまうのですね。
いまあたりまえだと思っている社会状況はすべて、時が積み重なれば埋もれて分からなくなってしまうのです。

音楽のほうの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」は、R.シュトラウス自身が指揮した演奏の録音も、指揮している姿の映像も残っています。
が、個人的に面白いと思っているのはフルトヴェングラーがこの交響詩を指揮した映像が残っていて、この映像でフルトヴェングラーが
「拍を分かりやすく指揮している」

と評判になっていたことのほうです。
フルトメンクラウ、って誰が言い出したんでしたっけ?
彼の指揮は拍がちっとも分からないので有名でしたものね。

さて、実際に映像をご覧になって、どうお感じになられますか?

Part1

http://youtu.be/C7CsQwc_Xws

Part2

http://youtu.be/uHNiCQHNjqk

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