交響曲の物語性〜ドヴォルジャーク「新世界から」
音楽の好きになり始めはいつだったかなあ、よく思い出せません。
1960年代はピアノが高価でもあり、地方の庶民家庭にはまだまだ普及する前で、ウチには保母だった母親が身を切る思いをして買った足踏みオルガンがあるだけでした。
幼稚園というところに入って、音楽教室なんてものにいれてもらえましたので、習った曲をそのオルガンで弾くのでしたが、両手で弾いた初めての曲は「河は呼んでいる」(ギル・アベールという人が作った、映画の中で歌われる曲 *1)でした。これだけは今でも手が覚えています。
小学生になると、親の唱歌集をもらって、夕方遊んで帰ると、北側の三畳の部屋で唱歌集の中から気に入った歌を大声で歌っていました。おもにフォスターの歌だったと思います。ちいさな長屋だったので、ご近所にはずいぶん迷惑だったろうなと思います。
ジャンルだなんてものは分かりませんから当然気にしたことはなく、今でいうアニメだの特撮ものの主題歌でも、美空ひばりや村田英雄や由紀さおりの歌謡曲でも、近所のお兄ちゃんがギターで弾くグループサウンズの曲でも、なんでも気に入りました。最近の歌はよく知らないので子供らに呆れられることもありますが、ジャンルなるものには今でもそんなに気をとられないつもりではいます。
とはいえ、クラシック系統にいちばん魅かれるようになったのは、ふつうの繰り返しが多くて分かりやすい歌と比べると、クラシックの長い曲には物語があるように感じたからではなかったかと思います。
レコードなるものも家にはあまりなく、ほとんどがソノシート(*2)で、買ってもらった当時のテレビ漫画の物語付きのだったり学習雑誌の付録だったのですが、たしか学校の鑑賞教材だというのでワルツをたくさん集めた6〜8枚組くらいのものもあって(日本の音楽家さんたちが演奏していて、「ウィーンの森の物語」には日本語の合唱がついていました)、中にヨハン・シュトラウス2世作品がわりとたくさん収められていました。面白いものでは、何故だかカラヤンの第九リハーサルをほんの少しだけ収録したものもありましたが、カラヤンという人はえらくダミ声なんだなあ、と幼心に思ったことしか記憶にありません。音が平べったいので余計にそう聞こえたのでしょう。
ソノシートでないものには、やっぱり学校の鑑賞教材だというので買ってもらった「金婚式」のピアノ演奏の17センチ盤(ハラシェビッチが弾いていました)の他には、「トロイメライ」だの「愛の夢」だの「春の歌(メンデルスゾーン)」のピアノ独奏をオーケストラが緩やかに伴奏しているものがありましたが、どういう人が演奏していたものだったのでしょうか。こういうレコードはクラシックだなんて意識しては聴いておらず、自分の中では歌謡曲だの漫画の歌と何の違いもありませんでした。
ほとんどがそんな感じだった中に、何故だか30センチ盤のLPレコードが2枚だけありました。そのうちのひとつが、たまたまドヴォルジャークの交響曲第九番『新世界より』なのでした。(ドヴォルジャークの名前は、日本では長くドヴォルザークと書かれていますが実際の発音にはドヴォルジャークの方が近いんだそうで、昔そうも書かれていたドヴォルジャックというほうがさらに近いんだとのことですが・・・ご存じの方、どうなのでしょうか?)
Concert Hall Society(*3)というレーベルのレコードで、ヨーゼフ・クリップス指揮、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏、と書かれていました。父か母が貰って来たものだったかな。およそクラシックなんてものには縁遠かった我が親が、なんでこんなレコードを手に入れたのか、まったく分かりません。親たちも覚えていませんでした。
親の持ちもののようだし、曲が長そうなので、あまり熱心に聴いたことはありませんでした。
ちょうどアポロ11号が月に着陸した時期で、天体ブームでもありましたので、市の天文台のプラネタリウムにひとりで何度もでかけるようになったのでしたが、このプラネタリウムで、あるとき、夕暮れから夜空に満天の星が出るまでのムードを実にピッタリ演出する音楽が鳴ったのでした。
「あ、聴いたことのある音楽だ」
と急いで帰って、レコードに針を落として確かめたら、「新世界より」の第2楽章というやつだったのでした。それで有頂天になってしまったおかげで、自分の交響曲好きが始まったのでした。
第2楽章の冒頭、金管楽器の和音が、いかにも「ああ、黄昏だ」なのはご承知の通りです。次に続くコルアングレのソロはいまでも学校のスピーカーから「お帰りの放送」で流れることが多いくらい、子供の「おウチに帰ろう」気分をあおります(ただし私の通った学校では使われていませんでした)。このソロにだんだんクラリネットだのファゴットだのが重なって行くと、なんとなく、夜闇がせまってきた空を「今日も一日よく遊んだねぇ」と見上げたくなって来ます。あ、お星さまがぽつぽつ出て来た、あ、もっとたくさん見えて来た・・・で、「ジャーン」と、最初よりずっと明るい気分の和音が鳴って、ついに「おお、満天の星! 天の川!」となる。
この交響曲の他の楽章も、いかにもさまざまな場面を目に見せてくれそうな、情緒も色彩もたっぷりな音楽だ、と、わりとどなたも思っていらっしゃることでしょう。世界初演から30年くらいしか経っていないころに、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』のなかで「新世界交響曲」という言葉を要所要所の場面をひきたてるために登場させていることも周知の事実です。
邦題が「新世界から」とされるのが普通になって来たこの作品、なぜ聴く人が物語を投影しやすいのでしょうか。
・登場する各旋律の徹頭徹尾わかりやすい歌い回し
も大きな要因でしょうし、
・そのような旋律の登場順が巧みな並びになっている
(上の第2楽章などもその例です)
のもポイントになっているのでしょう。
でも、単純に旋律が良くてその繋がりも良い、というからだけではないかも知れません。
ついこのあいだ、あるまじめで人柄のおやさしい指揮者さんがSNSで
「故あって『新世界』を読んでいるのだが、dim, p, ppばかりだ。こんな曲だったっけなぁ???」
と首をかしげていらしたのを目にして、あ、そんな起伏の演出こそが新世界交響曲の物語性を高めているのかな、と、ふと考えました。
で、ディナミークの流れがどうなっているか、序奏部を除く第1楽章の呈示部だけですが、小節ごとに木管・金管・弦のグループに括って色付けして確認してみました。
赤=フォルテ3つ以上、橙=フォルテ2つ、黄=フォルテ1つ、薄黄=メゾフォルテ
薄緑=メゾピアノ、薄青=ピアノ1つ、濃い青=ピアノ2つ、紫=ピアノ3つ以上
という具合です。暖色系の色が濃いほど音は強く、寒色系の色が濃いほど音は弱い、という具合です。色が抜けている部分は、そのグループの楽器が音を出していない小節です。ちなみに真ん中は金管楽器群です。
この方法は、小節ごとのディナミーク記号のみに注目して、単純にそれで色付けして行っただけですので、たとえばスフォルツァンドが付いているところ、クレッシェンドやディミヌエンドの効果などについては無視しています。オーケストレーションの勉強上、また実際の作曲家の書法ではホルンは木管に入れますが、この観察では金管に入れています。それらによる観察方法の欠点があり、上の指揮者さんの疑問点に突っ込めていないのですけれど、曲の強弱構成の流れをシンプルに概観するだけなら充分に特徴を見て取ることは出来ると思います。
対比のために、同じドヴォルジャークの交響曲第8番、ブラームスの交響曲第3番、ベートーヴェンの「エロイカ」それぞれの第1楽章呈示部についても色づけをしてみました。
結果は次の図のとおりです。
上から「新世界」・ドヴォルジャーク8番、ブラームス3番、「エロイカ」の順になっています。
どれも、第1楽章の呈示部に限った色づけです。始まりを左端側においていますので、右に行くほど曲は先に進んでいます。
「新世界」第1楽章は、序奏が終わった後、主題は先ず弱く始まります。それがまもなく強奏になり(橙)、しばらく続いて弱まると、2つ目の主題が始まります。これがフォルテひとつまでの小さな盛り上がりを短時間見せた後、また静かな3つ目の主題に繋がって行く、その様子が色づけから良く分かります。それでも展開部への入口に向かってまたフォルテ2つまで急激に盛り上がっていって、呈示部を締めています。
これは他の例だとブラームス3番の第1楽章呈示部が似ています。ただ、「新世界」には長く見られる2つめの弱音スパンが、ブラームスの方ではわりと短めに存在する程度です。
「新世界」とブラームス3番のいちばん大きな違いは、ブラームスの方は木管・金管・弦を通して同じ小節では同じディナミークで書いているのが基本なのですけれど、「新世界」は同じ小節でも各楽器セクションのディナミークがそれぞれ違っている、そんな点にあろうかと思います。
同じドヴォルジャークでも、弱奏の主題から8番は「新世界」とは様子が異なっている・・・呈示部も弱奏で締めくくる・・・のが、ついた色の傾向の差からはっきり分かります。しかしながら、同じ小節でも各楽器のディナミークがそれぞれ違っている点は「新世界」と共通した特徴です。
ドヴォルジャーク8番はベートーヴェン「エロイカ」と流れが似ているのも分かります。
が、「エロイカ」もまたブラームス同様、木管・金管・弦を通して同じ小節では同じディナミークで書いているのが基本になっています。
「エロイカ」は他の例に比べて楽器の交錯が多めなのが面白い点で、楽器法で音楽の色彩の変転を演出していることが分かります。
いちばん変転要素のみられないブラームス3番が決して非色彩的ではないことはご承知の通りで、この曲の場合はディナミークや楽器法以外の何かが音楽の色合いに大事な働きをしているのだと見なすべきことも浮き出て来ているのではないかと思います。
呈示部だけなので浮き彫りになっていることは少ないかも知れませんが、ここで見た4つの中で最も陰影が大きいのはやはり「新世界」です。
・同箇所の楽器がセクションによってディナミークが違う傾向が最も強く、
・真ん中あたりの「盛り上がり」をはさんで、同等程度の弱奏部の長いスパンが2つあり(これは他の3つにはない特徴です)、
・この2つを区分する「盛り上がり」は3度ありますがすぐにディミヌエンドするので、最大のディナミークがフォルテひとつでも起伏の効果が高くなっている
ことをうかがわせてくれます。
音楽を思い出しながら眺めないとピンと来づらいシロモノになってしまいましたが、入り組んだディナミークの交錯もまた「新世界から」の物語性を高めるのに貢献している様子が、こんな色づけから見ても、少し浮き彫りになるのではないかと思っています。
さて、この曲を初めて聴いたレコードの演奏で指揮をしているヨーゼフ・クリップスという人には、私にはなぜだか、のんきな人だなあ、との印象があります。のんきと言ってしまう根拠がはっきりしているわけではありません。でも、後年クリップスの名前を見つけてつい手にしてしまった録音はどこか良き昔ばかり感じさせ、コントロールされ切らず各自勝手に鳴っているふうなオーケストラ演奏ばかりで、中には明確にアンサンブルが崩壊しているものもありました。
この「新世界から」も、序奏部で、あるはずのないところで管楽器類がフォルテの和音を鳴らしていたりします。私はこのあるはずのない和音がある方で聞き慣れてしまっていたので、後年、「あるはずのないところ」でちゃんと、「あるはずのない音が鳴らない」演奏を聴いたときには、すっかり戸惑ってしまったのでした。
第1楽章の3つめの主題に入る前のところでは管楽器とヴァイオリンがずれてしまったりしていました(自分も演奏に加わってみると分かるのですが、この箇所はこういう事故が非常に起こりやすくはあります)。
とはいえ、クリップス指揮のこの「新世界」交響曲はじつに暖かい音がするので、CDが世間を席巻するまでのあいだ、面が磨り減るくらい愛聴しました。
中学生の頃、マニアの友達のところに遊びに行くと
「イシュトバン・ケルテスの指揮したのが最高なんだぜ」
とさんざんそれを聴かされましたし、その後フリッチャイ指揮のものなどもたいそう気に入ったのでしたが、いまではもう手に入らないこのクリップス盤の記憶が、私はいまでもいちばん好きです。
ジャケット写真を撮影なさったものがこちらに載っているのを見つけました。転載させていただきます。ありがとうございます!
http://www.h3.dion.ne.jp/~yasuda/bqcla/menu_concerthall_album_list.htm
それにしても懐かしい廉価盤の情報を素晴らしく収集なさっていて、思い出したい方必見です。
安田さんのこのサイトはアマチュアオーケストラへの愛情もたっぷりです。
アマオケのみなさまには是非ご覧頂きたく存じます!
http://www.h3.dion.ne.jp/~yasuda/index.html
*1:http://www.asahi-net.or.jp/~fg5m-ogm/l%27eau_vive/index.htm
*2:国立国会図書館による説明 https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-549.php 元々は朝日ソノラマの登録商標だった由。
*3:http://www.soundfountain.com/concert-hall/concerthall.html
http://t.co/8M3D6ZDVMt
ここのレコードにはいくつかお世話になりました。
この次もう少し触れるかも知れません。
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