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2015年5月

2015年5月18日 (月)

モーツァルトには、お世話になりました。(「レクイエム」雑談)

たった一校受けた大学に落ちて、浪人することになりました。
いくつも受けなかったのは、入りたいところに入れなければ意味がない、と考えたからでした。
どうせ音楽を専門には出来ないのだから、好きなオーケストラをまともに勉強出来る学校に行きたいと思いました。地元の国立が、狭い視野の中で、いちばん自分の眼鏡にかなったのでした。
が、理系の高校にいたのに文系志向で英語がからきしダメだった(英語がダメなら理系でもダメなんですけどね)のが主に災いしました。・・・いまになって不思議なのは、あのころは積分だなんてモノがよく分かっていて、問題がラクラク解けたのでした。でも、大学生になって以降全然使わなかったこともあるし、本当には素質がなかったんでしょう、もうからきし思い出せません。

それはともかく。

親父が小卒で働き始めた男で、バリバリの電柱のぼり(配線屋)だったので、
「大学なんて行っても無駄だ」
みたいな価値観だし、文系なんかなおさらメシが食えないと文学部受験をとくに苦々しく思っていたので、落ちたとたん
「大学なんか行くな、働け」
と言われるのが目に見えていました。これをなんとか突破しなければなりません。

実家から少し先の坂を下ると、お寺さんがあります。
小学生の頃、子供会の習慣で、当番で夕方5時の鐘撞きにかよったことがありました。鐘をつき終わって本堂に寄ると、和尚さんが仏様へのお供えを下さるのでした。おまんじゅうだのミカンだの。お香の匂いがしみていましたけれど、これを貰えるのがとても楽しみでかよったのでした。
そうだ、と、ひらめいて、このお寺に出かけて行って
「頭を剃って下さい」
と頼みました。
和尚さんが、別に驚くふうでもなく、延ばしたまんまのボサボサ髪の僕をちらっと見て
「まず床屋さんに行って、バリカンで丸刈りにしてもらって来なさい」
と言いましたので、日を改めて床屋さんでバリカンで丸刈りにしてもらってからお寺に行き直しました。
母が保母をやっている先の親御さんにインド哲学の講師のかたがいて、僕が頭を剃る前にそのかたのところへお寺から電話が入ったらしく、親のところに
「出家させるんですか? およしなさい」
とビックリして言って来たそうでした。
僕なんて、出家するにはいまなお生身の欲が強すぎます。得度、というやつでした。なので、チンネンとかカンネンとかナンデンネンみたいな名前は頂戴していません。

こんなふうにして浪人はなんとか出来たのでしたが、そうでなくても神様だの仏様だのと言うことには関心の強い十代ではあった気がします。

修道女になった母方の大叔母には、亡くなったのが僕の生まれる6年前でしたので会ったことがなく、「たいへんに美人だった」と聞かされていたせいでしょう、どんな人だったんだろう、と想像しない日はありませんでした。三越でエレベーターガールをしていた時期もあったようで、そんなころに、どこぞの大問屋の若旦那と縁談があったのを振り切って修道院に駆け込んで、そこで結核にかかって「私は幸せでした」とにっこり笑って、二十八歳で亡くなったのだそうでした。
ありがたいことに働いて数年経つまで、身近な死は家族にはありませんでした。大叔母への想像を膨らませながら聖書のいくつかの箇所をぱらぱらっとめくるのだけが、僕に「死とはどんなことか」を考えさせる行為でした。
中学3年のときに転校して来た女の子が高3のときに首を吊って死んでしまったのは、平和な僕には大変なショックでした。中学ではとても仲が良くて、恋というほどのものではなかったのかも知れないけれど、「同じ高校に行こう」だなんて意気投合していたのでした。が、当時の仙台は共学校は少なくて、ふたをあけてみたら、その子は優秀な女子校に合格していて、僕はなんだか裏切られた気持ちになって、その子と口をきかなくなり、それっきり高校生になっても会うことがありませんでした。この事件も大叔母の件と重なりあっているところへ、キリスト教系のクラシック音楽には「レクイエム」というものがあって、聴くでもなく部屋でそのレコードをかけっぱなしにして暗くなっている日もありました。

「レクイエム」だと、もっぱらモーツァルトで、まだフォーレの作品にまですら関心が回りませんでした。カール・ベーム/ウィーン交響楽団(ウィーンフィルではなく)のものが900円で買えました。

1970年代には、レコードではまだジュースマイヤー版しか出回っていませんでした。モーツァルトの弟子で、いまさら言うまでもないことですが、死の床のモーツァルトが続きの作り方を示唆した相手だったジュースマイヤーによって完成させられた版です。
解説を読むと、これはジュースマイヤーに才能がなかったために「出来が悪い」んだというのです。じゃあ、「出来のいい」のはないのか、というと、当時の録音には、ないのでした。
それでも、なんだかモーツァルトの「レクイエム」を聴いていると、会ったことのない大叔母や、自殺してしまった同窓の女の子が、ぼんやり目の前に現れて来て、「天国には神様がいるんだから大丈夫だよ、いつかあんたもこっちにくるんだからね」と話しかけてくるような、奇妙な錯覚を覚えていたように思います。
ふりかえってみると、こんなことをつうじて、魂がちょっとは浄められていたのかもしれませんね。

モーツァルトの「レクイエム」には、その後、「出来のいい」のはこういうんだ、と言わんばかりに、いろんな新しい版が登場することになったのもご存知のとおりです。
1984年の映画『アマデウス』で使われて一躍脚光を浴びたバイヤー版が、いまでもいちばん演奏機会と録音の多い改訂版です。が、これはジュースマイヤー版をそんなに大きく変更はしていません。
『アマデウス』には『アマデウス』で、幼なじみと見に行って、結局それきり彼女と会うことがなかった、とか、変な思い出があるんですけれど、それは措いときましょう。
ホグウッドが録音を出したモンダー版はいちばん過激で、ジュースマイヤーが100%作曲した「サンクトゥス」・「ベネディクトゥス」・「アニュス・デイ」は全部省き、モーツァルトが冒頭数小節のスケッチだけ残したアーメンフーガを独自に仕上げて最後に響かせるものでしたが、最近は録音を見かけません。
モーツァルト研究者として名高いロビンズ・ランドンやレヴィンの版もあります。ランドン版がどんなだったか思い出せませんが、レヴィン版はジュースマイヤーの作曲した部分に大きく手を加えていて、とくに「サンクトゥス」はオーケストラの弦楽器がレヴィンの信ずるモーツァルト様式にすっかり書き換えられています。「サンクトゥス」に続く「ホザンナ」も、ジュースマイヤー版では28小節に過ぎませんのに、レヴィン版では倍以上の58小節に拡張されています。その他にも、たしかに統計的にモーツァルト様式であるだろう楽句やオーケストレーションに改変されたところは枚挙にいとまがなく、アーメンフーガも巧みに完成されていて、才人のこの人らしい面白い仕上がりになっています。が、素人感想としては
「うーん、でもこれで本当に正解なのかな」
と首をかしげてしまいます。なんぼ首をかしげても、しかし専門家には太刀打ち出来っこないのですけど。(レヴィン版のスコアの解説は、ジュースマイヤーが独自に作曲した部分もいかにモーツァルトのアイディアが生きているか・・・モーツァルトはたぶん必死でジュースマイヤーに「こうしなければならない、ああしなければならない」とインプリメントさせたんでしょうね・・・を教えてくれる貴重なドキュメントのひとつです。)
最近では「初演復元版」なるものも存在していて(、どんなのだろう、とスコアを眺めながら聴いてみましたら、これはジュースマイヤー版なんですね。当然と言えば当然です。ただ、聴いた録音で通奏低音がオルガンではなくフォルテピアノで弾かれているのには驚きました。解説によると、モーツァルトの「レクイエム」全曲はモーツァルトの死から2年経った1793年に初演されたそうですが、その会場となったホールにはオルガンがなかったのだそうです。編成はヴァイオリン各パートが6、声楽は独唱の他リピエーノ3だったとのことで、付属リーフレットの写真では全貌がはっきり分かりませんが、弦楽器は他にヴィオラとチェロが各2、バス1のようで、声楽がもう一人(合計8人)います。歌手の手持ちの楽譜はベーレンライター旧版に見えますが、全体の演奏は初演復元した2013年版なのだそうです。・・・この録音のCDには、併せてモーツァルトの葬儀の際に演奏されたであろう規模での「レクイエム」入祭唱・キリエも収録されていますが、好事家的であるに過ぎない気がしないでもありません。
最近の録音でいちばん穏当に聴けるのは、鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンのものではないかと思います。鈴木優人氏がこの団体のために校訂した楽譜による演奏で、2006年12月(モーツァルト生誕250年の年)に演奏会で披露されたのと同内容を2013年12月に神戸で録音したものだそうです。モーツァルトの「レクイエム」は、モーツァルトの死にもかかわらず仕上げて納品されなければならなかったために、妻コンスタンツェが苦慮して、ジュースマイヤーよりも前にアイブラーという人に補筆依頼がされました。鈴木氏はジュースマイヤー版をベースにしながら、このアイブラーの補筆がある部分(「ラクリモーサ」のモーツァルト絶筆部分のあとにアイブラーが二小節書き足していますが、それは除きその前の「コンフターティス」まで)はアイブラーの補筆を採用しています。とはいえ、ところどころにジュースマイヤーのものでもアイブラーのものでもない音があって、ちょっと度肝を抜かれたりします。復元創作したアーメン・フーガはレヴィンのものより控えめですが安定した出来で、素晴らしいと思います。「トゥーバ・ミルム」の1800年出版版(ジュースマイヤー版でトロンボーンに与えられている楽句を、最初以外はファゴットで演奏させる)の復元演奏も収録されています。

ついでながら、カラヤンの1961年のジュースマイヤー版は仰天もので、とくに「トゥーバ・ミルム」ではトロンボーンの独奏部を複数のトロンボーンに吹かせています。当時そんな演奏が普通にされたりしていたんでしょうか? ベルリンフィルならではだったんでしょうか? 面白いけれどちょっと受け入れられませんでした。思い出したので記しておきます。

死の床でモーツァルトが泣く泣く最後の力を振り絞って書けるだけ書き、残りはアイブラーやジュースマイヤーにゆだねざるを得なかった「レクイエム」の手稿譜ファクシミリは、最新版が今年ベーレンライターから出版されました。
そこから、
・モーツァルトが弦楽と声楽だけ完成させ、あとでアイブラーが補筆した「ディス・イレ」冒頭
・同じ部分をジュースマイヤーが完成した部分の写真
を・・・歪んでいて申し訳ありませんが・・・載せておきます。

Moz
Sys

「ラクリモーサ」の8小節目がモーツァルトの絶筆だと伝えられていて、それが正しいのでしょうが、モーツァルトは順番に楽譜を書き進めていた訳ではないので、曲としては続く「ドミネ・イエズ」、「ホスティアス」までの声楽を完成させています。

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「ホスティアス」末尾には上中下三カ所に”quam olim da capo”とモーツァルトが記していましたが、一番下のものは泥棒さんが切り取って持ち去ってしまったそうです。ファクシミリでも切り取られた形が再現されています。・・・こんなせこい泥棒しちゃダメだよ。

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新モーツァルト全集第2巻には「レクイエム」のモーツァルト自筆部分だけを取り出したもの、モーツァルトの死の直後にアイブラー(とジュースマイヤー)が補筆したところまでのもの、ジュースマイヤーが完成させた全曲、の3種類が印刷譜化されていますので、趣味でモーツァルトの考えていた響きを再現してみたいと思ったら、これを手にするのが一番だと思います。いまはネットでも見られるし、ダウンロード出来るかと思います(個人使用に限る http://dme.mozarteum.at/DME/nma/nmapub_srch.php?l=3 第1篇:宗教声楽作品)。

・・・モーツァルトには大学生になってもまたいろいろお世話になり続けることになります。

参考CD
・レヴィン版(2002年録音)CD-R
 マッケラス/スコットランド室内管・合唱団ほか 東京エムプラス輸入 BKD211

・初演復元版(2013年?)
 ジョン・ハット/ダンディン・コンソート 東京エムプラス輸入 CKD449

・コレギウム・バッハ・ジャパン版(鈴木優人)2013年12月録音
 鈴木雅明/コレギウム・バッハ・ジャパン KING INTERNATIONAL INC. KKC-5414

2015年5月 6日 (水)

浪人して、Ave verum corpsに出会う。

高3の時は、ジュニアオーケストラはお休みしました。

高校の理数科というところに通っていましたが、文科系に進むことには父が反対なのが目に見えていましたので、そうしたのでした。
大学には進学したくて、それも文系希望でした。音楽を職業としてやりたい、だなんてとんでもない話で、ピアノはとうとう習えませんでしたから、断念せざるを得ませんでした。まあ、断念していなくたって、どの程度の馬の骨になっていたでしょうかしら。
とにかく将来を思うと胸はぐらぐらで定まらず、勉強もどこか上の空で、当時まだあった国立二期校をハナから受験せず、一期校は見事に不合格で、一浪することになりました。

浪人中も真面目に勉強していたかどうか。
浪人と同時にオーケストラに戻って、またバイオリンなんぞ弾いていたのでしたから。

行っていなかった一年の間に、かのジュニアオーケストラは何かあったらしくて、戻ってみたら体制が変わっていました。
指導して下さっていた岡崎先生のお顔も見えなくなり、練習指揮をしていた桑村さんというかたもいらっしゃらなくなっていました。仙台一高だの宮城一女だのから大勢来ていたメンバーはみんな別の高校の生徒たちに入れ替わっていて、指揮も私立高校の若い男性音楽教師になっていました。この人と、大学になってから知り合って連れて行ったもう一人には、僕は翌々年疎んじられるようになって、ある日突然座る席が無くなってしまうことになります。その後この団体の後継の人たちにもどんなふうに言われたのだったか、僕は良く思われなくなったようで、数年後にはこの団体にはもう行けなくなってしまいました。
が、まだあとのことです。
浪人当時は、ここに行けることが天国でした。

夏の演奏会では、ベートーヴェンの「レオノーレ序曲第3番」とカバレフスキー「道化師」、シューベルトの「未完成」をやったのではなかったかな。ハチャトリァンの「ガイーヌ」のレスギンカを恥ずかしくなるほどのスローテンポでやった記憶もごちゃごちゃに混じっていますが、このときだったかどうか。

嬉しかったのは、体制の変わったこの団体が「クリスマスコンサート」なるものをやるようになっていて(ミッション系の女子校の生徒をたくさん団員にし、そこの指導の先生も協力するようになったからだったのでしょう)、冬にミサ曲の演奏も経験出来るようになったことでした。
大学の試験前でありながら、12月にはこのクリスマスコンサートに参加させてもらって、シューベルトのト長調のミサ曲(第2番)を演奏しました。18歳で作った、とても美しいミサ曲です。

このときのアンコールでモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス(K.618)」を演奏することになりました。
シューベルトのミサ曲も感動ものだったのですが、初めて合唱と一緒に弾いた時、モーツァルトのこの小さな作品に、大きな衝撃を受けたのでした。
それを、どう言葉にしていいか、いまになってもよく分かりません。音の静かな漂いについては、とくに何も言えません。

Mozartbook 詞の方については、少しおしゃべりのネタがあります。
どうしてそう思ったのか説明がつかないのですが、うむ、この歌は歌詞とぴったりに出来ているに違いない、と、すぐ確信したのでした。ラテン語なんて分かりませんから、歌詞がどんなかも分かりません。でも間違いないはずだ、と信じたのでした。
それで、駅前の大きな書店で、他にはない専門書も置いていた一番町の丸善に、自転車で出かけて行って、ラテン語の辞典を探しました。高価で、浪人生なんぞにはとても買えませんでした。仕方がないので出直して、Ave verum corpusの詞を楽譜からメモに書き写してポケットに忍ばせて、丸善の店員さんに見つからないように、ドキドキしながら、店頭でラテン語の辞書を引きました。語尾が変化する仕組みだなんてまだまったく知りませんでしたので、おおよその見当で意味を突き詰めたのでしたが、後年翻訳を見つけて読んだら、ありがたいことに、ほぼあっていました。
こんなことがあったので、Ave verum corpusの詞は40年近くたった今でも、わりと思い出すことが出来ます。

立ち読み辞書引きをしたあとから、モーツァルト叢書と称して出たモーツァルト関係の論文の中に、調べるまでもなくAve verum corpusについて詳しく説明されたものがあるのを見つけたことがありました。でも、先にそれを読んでしまっていなくて本当に良かったと感じています。説明文を何も読まぬうちに七転八倒して調べたことが、曲に直に接する大切さを身にしみさせてくれたのではないか、と思うからです。

Ave verum corpus, natum de Maria virgine
vere passum, immolatum in cruce pro homine.
quius latus perforatum unda fluxit et sanguine,
esto nobis praegustatum in mortis examine.

処女懐胎で生まれたイエスという肉体が、人類の原罪をあがなうため十字架にかかり、槍で突かれた脇腹から水と血を流した、なる聖体の賛美と拝領の意義を歌ったモテットです。
分かりやすい訳がこちらのサイトにありますが、Mozartの使っている詞では若干語彙や語順の違うところがあります。
http://www2.odn.ne.jp/row/sub2/seika/seika_02.htm

モーツァルトは、死病の父に送った慰めの手紙にこう書いたことが有名ですね。

「死は(厳密にいえば)ぼくらの人生の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました! そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。−−−−−ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。」(1787年4月4日付け。西川尚生訳。『モーツァルト』p.163 http://www.amazon.co.jp/dp/4276221749/)

レクイエムの尋常ではない作曲経緯もあり、父へのこの書簡のイメージもあり、詞の最終節でイエスの聖体に向かって「私たちの死の試練の先触れであって下さい」みたいなことが言われているAve verum corpusも、当然のように「死」と強く結びつけられ、命の火の消えんとするモーツァルトの清澄な世界が描かれている、との印象で語られることが常になっています(YouTubeにそんな映像例がありました https://youtu.be/G52Rs5CQfug)。
たしかに彼の死の年である1791年の、あと半年で死ぬというときに書かれた作品ではありますが、実際に分かっているのは、この作品がバーデンで身重の妻を援助してくれたシュトルという法律顧問の人物にお礼として書かれた、ということだけで、この事実からだと、「死」と過剰に結びつけることは、むしろよろしくないと思われます。
この作品がモーツァルトの自筆譜に記された作曲の日の6月18日は日曜日ですけれど(http://park.geocities.jp/okugesan_com2/gengoichiran130.htm)、カトリックと聖公会では6月の三位一体主日直後の木曜日に「キリストの聖体日」があり、これが地域によっては日曜日に祝われるのだそうですから、バーデンが日曜日にこの日を祝う習慣のある地域かどうかは分かりませんが、Ave verum corpusは明らかにこの日のための機会的作品以上のものではありません。

とはいっても、清らかな響きを聴かされると、「死と浄化」ではないけれど、どうしても「死」は強く連想されるもので、仕方ないことではあるのかもしれません。

僕自身は、Ave verum corpusを初めて演奏した浪人時代の12月から28年もあとのことですけれど、家内を亡くしたときに、清らかな音というか声というか、そんなものを聴く、という奇妙な体験をしました。
家内は年末に急に心臓を病んで倒れてそのまま死んでしまったのでしたが、遺体を3日家に置いたあと、葬儀の前日に暗くて狭い霊安室に納めなくてはならず、可哀想に思っていました。そうしたら、翌朝早く、目が覚めてぼんやり横になっていた僕の耳に、なんだか声ではない、うまくたとえられませんけれど、ガラスが話しているような透明な音で、
「見える? 見えるよ。外、見えるよ」
と三言、はっきりささやきかけられたのでした。
びっくりして飛び起きました。
誰もいませんでした。
夢に過ぎなかったのでしょうか。

・・・脱線してしまいました。


https://youtu.be/bV1dfg3goUo

Berliner Philharmoniker, Riccardo Muti, Stockholm Chamber Choir & Swedish Radio Choir

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