2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

« ヴァイオリンはむずかしく音楽はもっとむずかしかった(私にとっては!):ブラームス ヴァイオリンソナタ第1番 | トップページ | はじめてオーケストラで弾いた曲〜「こうもり」序曲 »

2015年2月18日 (水)

小沢l僖久二さんのこと〜『荒城の月』ちょこっとだけ

Kikujiozawa 小沢僖久二さんをご存知でしょうか?
『星空のバイオリン』という子供向けノンフィクションに書かれた人です。長野県中野市のリンゴ農家さんでしたが、兵隊のときロシア人に見せてもらったストラディヴァリスの型紙を大事に写して帰って来て、それから夢中でヴァイオリンを作り続けた人です。・・・かのノンフィクション、僕には(と、自称を僕で喋らせてくださいね)本音を言うと嬉しい本ではなかったのですが、飾りっけの部分を除いて、この本に書いてあることは僕が小沢さんに聞かされた通りだったかと思います。

http://www.amazon.co.jp/dp/4569587267/

僕は中学3年生のときから大学生になるまで、小沢さんと仲良しでした。でも、小沢さんの話を、ここ四半世紀くらいほとんどしたことがありません。僕は僕で、小沢さんに貰った小沢さん作の楽器について周りにいろいろ言われた悔しさから、若造の思いつく最大の方策として大学生当時最新の音楽の科学書からヴァイオリンの項目のコピーをたくさんとって小沢さんに送ったのでしたが、逆効果だったのでしょう、それっきり小沢さんと縁が切れてしまいました。懸命に持ち帰って来た型紙・・・それがほんとうにストラディヴァリのものだったのかどうか、見せてもらった頃の僕にはさっぱりわかりませんでしたが、本物だったのでしょう・・・が命で、型紙とともに膨らんだ思いから、弾きやすさがどうか、よりも、自分の中の理想の「かたち」を作ることが、小沢さんの総てだったのではなかったろうか、音色を追いかけたのではなかったのではないか、といま思っています。
小沢さんは脳梗塞で倒れたときに、自作の楽器を佐藤陽子さんのところまで持っていって弾いてもらったりしていたのですね。このことを書いてある記事を読んで思ったのは、ご病気されても変わらなかったんだなあ、ということです。
小沢さんの作った楽器そのものについては、それ以上はお話ししないことにします。

http://blogs.yahoo.co.jp/s5872stf/53420236.html

ともあれ、小沢さんとの出会いは、僕にアマチュアオーケストラの団員になるきっかけを作ってくれたのでした。ちっぽけな話ですけれど、それをさせてくださいね。

40年くらいまえでもまだ最近にくらべればおおらかで、吹奏楽のない中学校に転校したら、前の学校でホルンを貸してくれ続けたのでした。それで自転車にケースを縛り付けて持ち帰ってウチで吹いていたものでした。でも、ホルンはウチで吹くには音がでかすぎて、ろくろく練習が出来ません。折しもアニメ「ムーミン」に出てくるヘムレンさんがへたくそにホルンを吹くのを見て、自分がヘムレンさんとまるで同じようなので、それでホルンを借りてくるのはやめてしまった・・・と記憶しています。

http://www.nicozon.net/tag/ヘムレン (ニコ動)

行き始めた学校に器楽の部活動もありませんでしたので、もう自分でヴァイオリンを弾いているしかありませんでした。勉強もせず夜9時頃まで弾いていて、よく親に叱られました。ときどき教室に持ち込んで弾いたりしていましたので、まわりが知ることになりました。
なんでも、僕の育った仙台と九州の竹田は滝廉太郎の「荒城の月」の縁で音楽姉妹都市というものらしく(仙台は作詩者土井晩翠が東北大学で教鞭をとっていたし、竹田は滝廉太郎の生故郷なのでした)、そこへ同じ歌の世界の中山晋平の故郷だと言うことで長野県の中野市も加わっていました。中三の年に三市の集まりが中野市でひらかれることになって、子供は新設校からも一人、というので、どういう訳か僕も中野へ出掛ける一行に加えられることになりました。
どんな行事があったか、まったく覚えていません。中野のお世話役の藤牧さんが楽しく面倒を見てくださったこと、中山晋平の生家のかたのえのき茸製造所が夏なのに寒かったこと、連れて行ってもらった善光寺の胎内潜りが真っ暗だったこと、志賀高原の夕焼けが本当の金色で、大人の誰かが
「西方浄土ってこんなかんじなんでしょうねえ」
とバスの中でつぶやいたこと、宿で仙台と竹田の子供同士で夜中までトランプして笑いあったこと。
子供たちはピアノだのエレクトーンだの歌だの、と、会場のそこここにあった楽器で腕前を披露したりしていたのですが、ヴァイオリンなんてありません。とくにピアノは、中学生で東北ピアノコンクールと言うのだかで優勝していた田原さえ嬢がいたりして(武蔵野音大に進んで、そのあと仙台を中心に活躍したのではなかったかな? もうずっとご無沙汰です)、なんにも出来ない僕は密かに劣等感でした。
そこへ、小沢さんが自作のヴァイオリンを持ってひょっこりあらわれたのです。
渡りに舟で、へたくそになにかその場で弾いたのだったかも知れません。

それがきっかけで、後日、小沢さんが仙台市に自作のヴァイオリンを寄付すると言いだし、すぐに実現の運びとなったのでした。
縁を作った、というのだったらしく、学校に市の広報が来て音楽室で同級生たちに周りを囲まれて小沢さんのヴァイオリンを弾かされ、写真を撮られ、市政だよりの表紙に載りました。昨年父が死んだとき整理したもののなかにそれが残っていて、見たら左手首がすっかり横に寝てネックにくっついている、ひどい写真でした。弾き方がよくなかったのです。が、そうしないと小沢さんの楽器は支えていられなかったのでした。楽器の話はしない、と言いましたけれど、こんなことから楽器の胴がどんなだったかは想像していただけると思います。

そのあとおなじ楽器を地元のテレビに出て弾くことになりました。
中野に一緒に行った枝松さん(当時小六)がエレクトーンで伴奏してくれて、行事のきっかけになった「荒城の月」を弾いたのでした。

たぶん、これで僕がヴァイオリンを弾いていることが知られて、高校に入ったか入らないかのときに市でジュニアオーケストラをやっていた人から電話が来て、僕はアマオケ人生を始めることとなったのでした。

まあ、これだけの話です。

いま普通に聞ける「荒城の月」は山田耕筰が手を加えたもので、移動ドで「ミミラシドシラ」の次が「ファファミレミ」になっているのですが、滝廉太郎は本当はここを「ファファミレ#ミ」と作っていたのだ、という有名な話があります。これのせいで僕の山田耕筰に対するイメージもあんまり良くありません。
曲に関係する話は、これだけです。すみません。

小沢さんのお宅には、このこと以来毎夏伺いました。天井の高いお家でした。
無骨だけれど優しい人で、泊まりにいくと近所をいっしょに散歩して、自分の本来の生業であるリンゴ作りの話をしてくれたり、剪定はこうやるんだ、とやってみせてくれたり(季節が違うので「ふり」をしてくれたのでした)、お家の裏手の水無川の向こう側がチョウゲンボウの棲む谷なんだ、といっしょにしばらく眺めたりしたのでした。ヴァイオリンの材料にするために木をいつも庭で枯らしていたのですけれど、これはご家族は大変だったのではないかと思います。
奥さんがとてもいいかたで、小沢さんの言いつけることは何でも黙ってどんどんなさるのでした。あまり喋らないのでお声を忘れてしまいましたが、いつもニコニコなさっていたのは忘れることが出来ません。残念ながら60代後半だったのかもう少しご年配にはなられたのだったか、その後わりと早くに亡くなってしまいました。僕と小沢さんのおつきあいも、奥さんが亡くなったと同時に、すっかり絶えました。

« ヴァイオリンはむずかしく音楽はもっとむずかしかった(私にとっては!):ブラームス ヴァイオリンソナタ第1番 | トップページ | はじめてオーケストラで弾いた曲〜「こうもり」序曲 »

素人古典雑記帳」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 小沢l僖久二さんのこと〜『荒城の月』ちょこっとだけ:

« ヴァイオリンはむずかしく音楽はもっとむずかしかった(私にとっては!):ブラームス ヴァイオリンソナタ第1番 | トップページ | はじめてオーケストラで弾いた曲〜「こうもり」序曲 »