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2015年1月

2015年1月13日 (火)

クラシック最後の世界的ニュースでした〜ショスタコーヴィチ 交響曲第15番

1972年ですから中学校に入った年、ショスタコーヴィチの新しい交響曲が初演されました。
そしてこれは放送や新聞でも大々的に採り上げられるほどのニュースになりました。

1月8日のモスクワ初演の後、早くもこの年のうちの5月10日に、来日したゲンナジ・ロジェストヴェンスキーがモスクワ放送交響楽団を指揮して大阪で日本初演を行ないました。東ドイツ(当時)は5月13日(スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立響)、アメリカ合衆国では9月28日(オーマンディ/フィラデルフィア管)だったそうですから、日本での初演がいかに早かったか、当時すでに日本のショスタコーヴィチ人気がいかに高かったか、を垣間みる思いがします。
ただし、当時地方でもLPレコードで手に入ったショスタコーヴィチ作品は交響曲第5番ばかりでした。都会のファンならショスタコーヴィチがもうこの時期でも大変希少になった交響曲作家であり、しかも前作14番まで傑作を書き連ねていることは充分承知していたでしょうが、そうでない地域のクラシック好きは、彼の第5交響曲のイメージを引きずったままに、まだ耳に出来ないこの最新交響曲を空想したのではなかったでしょうか?

日本初演時の、まだ曲を聴いていなかった大木正興氏が期待を込めて書いた解説を引用したブログ
http://blog.goo.ne.jp/hirochan1990/e/68b35d7be8e9556a4055b08c316b15d3

私たちの中学のブラスバンドでも、ショスタコーヴィチの最新交響曲が日本で演奏されるとのニュースはセンセーションを巻き起こしました。
ネットを探しまわっても情報が出てこないので不確かな記憶なのですが、巡演していたロジェストヴェンスキーらが5月に大阪で初演したときか、6月に東京でこの曲を演奏したときの、どちらかがラジオで放送されることになったのではなかったかと思います。それで放送当日には部室でみんな大騒ぎをした気がします。5月10日は水曜日、東京で演奏された6月1日は木曜日でした(http://www5a.biglobe.ne.jp/%257eaccent/kazeno/calendar/1972.htm)。
でも、みんながラジオで新交響曲を聴いたはずの翌日は、中学生連中は拍子抜けでした。
「なんか、ウィリアム=テルのパクリばっかりじゃなかった?」
「そうだよね」
と、そんなひとことふたことで話が終わってしまった記憶があります。
中学生がまだそんなにたくさんクラシック作品に馴染んでいるはずもなく、この反応は無理もなかっただろう、と、今も思います。
そして、記憶する限り、私たちにとってこのショスタコーヴィチ「交響曲第15番」の話題が、クラシックのニュースがタイムリーに世間を騒がせてくれた最後のものになりました。
強制だった翌年の新設中学への転校(新興住宅街の中に新しく学校が出来て移らなければなりませんでした)で吹奏楽とは縁が切れてしまうことになった私にとっては、最新の音楽を普段からの友人と話題に出来るチャンスも、これで永久になくなったのでした。
どちらも、そんなふうになるとは想像もしていなかったのでしたけれど。

彼のすべての交響曲に対する認知度もずいぶん上がりましたから、いまは若い人でも「15番好きだよ」と仰ったりするかもしれませんけれど、当時の若い年代が描く、第5番の世界のような壮絶なものへの憧憬からすれば、交響曲第15番はおとなしすぎる作品でした。

いまになって、あらためて聴くと、これはショスタコーヴィチの人生の結晶の一つとも言うべき充実の作品であることが、よく感じ取れます。そういう大人の部分は、当時だって大人はしっかり感じ取っていたのでして、早くも10年後に書かれた諸井誠さんの解説(『名曲解説全集 交響曲Ⅲ』音楽之友社 昭和57年出版)は細部にわたるまで優れた読譜と耳による言葉で作品を適切に捉えています。
その「概説」から抜き書きしますと、適切ぶりがよく分かります。

「この大作は・・・曲中にソロや重奏など、むしろ室内楽的な扱いの部分が多いので、大作ではあっても、他の彼の交響曲のように、重厚巨大という印象はない。・・・古典主義的透明感すら感じさせる質の音楽ではあるが、いろいろ含蓄のある引用が数々あるのをみると、一筋縄ではいかないところも少なからずありそうだ。」(p.292)

ショスタコーヴィチが行なっている引用については、『ショスタコーヴィチ全作品解読』の著者、工藤庸介さんが著書にも記し、サイトにも記載していますので、サイトから引用させて頂きます。

・ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲終結部主題冒頭(第1楽章)
・第一ヴァイオリンに“B-A-C-H”の音型(第1楽章256小節)
・エフトゥシェーンコの詩によるアフマートヴァについての未完の歌曲(第2楽章練習番号64のトロンボーンの旋律)
・交響曲第1番ヘ短調作品10冒頭(第2楽章練習番号76のチェレスタの音型)
・交響曲第4番ハ短調作品43第2楽章コーダ(第3楽章練習番号96、第4楽章コーダ)
・ワーグナー「ワルキューレ」の運命の動機。(第4楽章冒頭)
・グリンカの歌曲「誘うな、必要もなく」(バラチンスキイ詩)(第4楽章第一主題)
・ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」の冒頭部分(第4楽章)
この他にもまだ隠された引用があろうが、これだけの音楽がかなり直接的な形で引用されていること、そしてそれらが見事にショスタコーヴィチの音楽として昇華されていることには驚きを禁じ得ない。

その他作品について工藤さんならではの有意義なお話が掲載されてますので、是非サイトの方をご覧下さい。

工藤庸介さんによる解説
http://www.envi.osakafu-u.ac.jp/develp/staff/kudo/dsch/sym13-15.html
『ショスタコーヴィチ全作品解読』
http://www.amazon.co.jp/dp/4885956455/

81nji6ru90l_sl1500_ あとで述べる余裕がなくなりましたので、演奏時間のことを少しだけ。
全音のミニチュアスコアにある寺原伸夫さんの解説では、この交響曲の演奏時間は約48分となっています。メトロノーム記号(第2楽章の指定は誤りではないかと言われています)その他を読み取るとこの時間になるのでしょう。しかしながら出回っている録音の演奏はほとんどがこれより4〜8分短い、すなわち速いテンポになっています。クルト・ザンデルリンクだけが48分程度の演奏をしていて、現在廉価で手に入るベルリン交響楽団との録音で48分37秒です。(ゲルギエフは47分程度で指揮しているようですね。)

http://ml.naxos.jp/album/0090432BC
http://www.amazon.co.jp/dp/B00LY9WBJO/

さて、交響曲第15番の初演を指揮したのは、作曲家自身の子息、マキシム・ショスタコーヴィチでした。ショスタコーヴィチの交響曲といえば第5しか出回っていなかったレコード屋さんに、このマキシム指揮のレコードが突如どかんと売り出されたのも、私は忘れることが出来ません。私は買うだけの小遣いがとてもありませんでしたが、呉服屋の息子だった同級生が親に買ってもらったかなにかで手に入れたので、それを聴かせてもらいに出掛けたりしたのでした。聴かせてもらっている曲については「ウィリアム・テル」のラッパ以外何も分からないまま、
「親の七光りで指揮者なんてかっこ良くてねたましいぜ」
なんてことばっかりで頭がいっぱいだったんじゃなかったかな。

当時は知りませんでしたが、ショスタコーヴィチの交響曲初演と言えば第5以降は指揮者はエウゲニ・ムラヴィンスキーというのがお決まりで、他ならぬショスタコーヴィチがそう願い、指定し、依頼をしていたとのことで、けれども第13番「バビ・ヤール」の強い反保守政治的メッセージの故か、はたまた病身だった奥さんを抱えていたせいか、第13のタクトをとることをムラヴィンスキーが拒否したことで、二人の信頼関係にひびが入ったと言われているのだそうですね。工藤さんの著書に事情の説明が適切にかいつまんでなされていますが、ムラヴィンスキー来日のたびに通訳を務めた河島みどりさんは、こう記しています(工藤さんによる要約の典拠ともなっています)。

「ことの真相はインナ(1964年に死去したムラヴィンスキーの三番目の奥さん)の病気だった。・・・検査の結果、それはおぞましい骨髄癌だとわかった。人知の及ばない病であることを知らされたムラヴィンスキーは気も狂わんばかりで、新作を研究、演奏する精神状態になかった。・・・ショスタコーヴィチはムラヴィンスキーから彼女が不治の病に侵されたことを打ち明けられて、とても新作へ没頭できる状態ではないことを理解していた。だからこそ二人の友情と敬愛はショスタコーヴィチが息をひきとる七五年まで続いたのだ。・・・同時にこの作品は音楽性よりも政治性が優先しているように感じられ、彼の心の琴線を大きくはかき鳴らさなかった」(河島みどり『ムラヴィンスキーと私』p.151 http://www.amazon.co.jp/dp/4794213980/

ソヴィエト共産党賛美の第12番では変わらず初演を指揮していたことを鑑みると「音楽性よりも政治性が優先しているように感じられ」た作品が琴線をかき鳴らさなかったから、という説明には素直に首肯しかねるところはありますが、それでも生前のムラヴィンスキーは河島さんにはそう語っていたのでしょう。
やはりソヴィエトの政治からすると問題作だった(ただしそれは初演後作品が無視されるかたちをとったため騒ぎにはならなかった)第9番のほうは初演のタクトをとっていて、しかも第9番は純音楽的でもあるので、歌詞付きである第13番に対するムラヴィンスキーの断り文句が「私が惹かれるのは”純粋に”器楽的な交響曲だけだ」(工藤著p.74)だったのも、さまざま含みがあったにせよムラヴィンスキーの本音だったかもしれません。

続く第14番はまた声楽付きの作品で、ムラヴィンスキーには第13番と同じ口実があったかもしれませんが依頼された形跡もなく、そして第15番もとうとう、ムラヴィンスキーが初演の指揮者になることはありませんでした。作曲時に演奏が中止された第4を含めそれ以前の交響曲、事情で初演指揮者とはならなかった第7、第11以外の、じつに6作の初演を指揮したムラヴィンスキーでしたが、15番の初演指揮者にならなかったことについては、どんな思いでいたのでしょう? もはやショスタコーヴィチの最新交響曲の初演者である、などということに特別な価値を感じていなかったのでしょうか?

初演の指揮者にこそなりませんでしたが、ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの交響曲第15番の誕生には立ち会ったのでした。
河島さんの先の本に、日記からの引用があります。

「私はレーピノに滞在してショスタコーヴィチに会ったが、最初の出会いは私を驚かせた。彼はもう長いこと何の仕事もしていないと嘆いたのだ。
 二、三週間たったとき、イリーナ夫人が言った。
 『ドーミトリー・ドーミトリエヴィチは書いていますわ』
 『何を書いているんです?』
 『カルテットです。もう第一楽章はできあがりました』
 私は第15番とこのカルテットの二つの作品の誕生の証人になる光栄に浴した」
(p.173)

河島さんの本の文脈からすると、この日記はたぶん1973年(3月以降?)のものでカルテットはおそらく弦楽四重奏曲第14番でしょうから、少し後になっての記述です。交響曲の完成後もムラヴィンスキーにはその完成に自分が立ち会ったとの意識が強くあったことを伺わせてくれます。

肝心の、交響曲第15番誕生に立ち会った風景については、やはり日記にこうある、と河島著に引かれています。同じ内容はインタヴュー映像でもムラヴィンスキーの口から語られていたのではなかったかと思います。

「1971年8月、レーピノ
 私はレーピノの『作曲家の家』という保養所で休息する幸福を味わった。ショスタコーヴィチもレーピノのダーチャで交響曲第15番を書き終えるところだった。彼は一日中、仕事にのめり込んでいた。ある夕べ、彼のコッテージのそばを通ったときのことを私は忘れない。
 黄昏が深くたちこめて、窓辺のグリーンの笠のスタンドが淡い光をショスタコーヴィチの頭や肩や腕に投げかけていた。彼の頭はインク壷の置いてある左へ、そして五線紙のある右へと揺れ動いていた。
 その動きは一秒も無駄にはできないといった切迫したものだった。そこにあるのは仕事で、彼そのものは消滅していた。ショスタコーヴィチは存在していなかった。
 この一コマ・・・・・・濃さを増す秋の黄昏、窓、グリーンの笠のスタンドの明かり、楽譜にうつむく、なじみ深い親愛なる顔。
 この光景を私は一生忘れないだろう。この数分の時間がどんなに高価に思われたことか!」
(p.162-163)

ムラヴィンスキーのこうした発言を、私は真正と信じていきたいと思います。

ムラヴィンスキーが交響曲第15番をショスタコーヴィチ立ち会いの元でレニングラードで演奏したのは、1972年5月のことだそうです。その際に述べたものなのかどうか分かりませんが、ムラヴィンスキーがこの作品について詳細に述べた言葉が、河島さんのこの日記の引用の後に続きます。
最後だけここにまた抜き書きしておきましょう。

このシンフォニーは四部から成るのではなく、第1、第2、第3、第4楽章ということではなく、第3楽章はスケルツォ『間奏曲』であって、そこで作者は仮面を被っているのだ。
 そしてデリケートな問題と溶解、永遠への退場で終了するのである。

マキシム指揮の録音の由、第1楽章

http://youtu.be/5Ci5dHIIIkc
Part2がみつかりません。
http://youtu.be/8X1sux10IME
http://youtu.be/wLJGA8TSv1g
http://youtu.be/GCThIegiDtI

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