北野武「アキレスと亀」初日
新宿では10:50から監督挨拶があった初日。そちらは満員だったでしょう。
私と息子は、ローカルな映画館で、9:45からの上映を見ました。チケット売り場には行列ができていました。
「すごいね!」
と言いながら入場。
ところが、マルチホールのこの映画館のお客さん、殆どが「20世紀少年」や、続映中の「ポニョ」に流れ、洋画では「ウォンテッド」に入っていてしまい、「アキレスと亀」の観客は、14人。
映画館で、息子と二人で映画を見るようになったのはこの正月からでしたし、いずれも評判作だったのですが、似たような状況でした。
「映画を観る、というのはこういう世界なのか」との感を新たにしました。
・・・それでも、映画はやっぱり映画館で見るものだ、との思いも頭をよぎったのですが、その話は、今回はまだ措いておきましょう。
公式頁へのリンクは、こちら。
・YouTube掲載の予告編
全体の印象。
ラストの1分で泣けるか、が、見る人にとってこの映画の価値を決めます。
所々にちりばめられたブラックユーモアが多く読み解けるほど、作品の意味が身にしみます。
「ギャング映画」系ではないのに、やはり血と死が全編に溢れている。北野映画の特徴の一端はやはり失せていないのですが、そのことから「生きている」とは何か、を自ら考えるところまで至ったなら、この作品にこめられた「思い」と観る私の「思い」のかさなり加減が、最後になってようやく、この作品の「私」にとっての価値の「重さ」を決めるでしょう。
ある売れない画家の、少年時代の不遇から青年期の幸福、壮年期の波乱と悲劇を描いたものですが、さっそくレヴューしていた人の中で、低めの評価の人が述べているように、<これでは絵の映写会と作劇だ>、と言われても仕方ない面があります(登場する絵は、すべて北野氏自身の手になるもので、実はストーリーよりも先に「手元の絵をどうしようか」が先行して映画のアイディアに繋がった、と、北野氏はパンフレット中のインタヴューで明かしています)。
ですが、たぶん生涯「ヘタな素人ヴァイオリン弾き」であり続けるだろう自分をかさね合わせてしまった私には、全体的なストーリーの起伏はそれほど大切ではありませんでした。起伏は、自然な日常生活の中で自然に生まれてくるものであって、「アキレスと亀」の主人公夫妻は常識人ではありませんが(その内容はまだネタバレになるので綴れませんね。上の予告編と、次にリンクする抜粋映像からご想像下さい)、北野武作品の常で、緻密にシナリオを固めてしまわないで作品を仕上げて行く手法をとっていますから、人生そのものの起伏が「ドラマ」として作為されていないことに、強い共感を覚えて帰って来ました。
・映画の一場面
画家ですから、書き上げた絵を都度画商のところへ持ち込んで査定を受けるわけですが、惜しむらくは、そのシーンが出てくるたび、まるで「編集責任者が記者の原稿にクレームをつける」ような硬直したイメージで雰囲気が途切れさせてしまう。ここが面白かったら、おそらくヴェネツィアで入賞したでしょうし、そんなことは別として、映画作品としてもっと完成度の高いものになったでしょう。
なぜ、これらのシーンに面白みが加わらなかったか、の原因を考えるには、用いられた絵が全て北野氏自身の手になるものであることを念頭に置く必要がありそうです。画商のクレームは絵の作者北野氏本人が自身の絵を冷静に批評している言葉そのものなのです。・・・となると、ちょっと、画商を演じた俳優さん(大森南朋氏)もアドリブの加えようがなかったでしょうね。
ただとにかく、北野武という人は色彩感覚の優れた人で、今回は少年期・青年期・壮年期の「3色」でまとめてきました。
それぞれがどんな色か、は、あとでパンフレットを見ると北野氏自身が明言していましたし、私なんかより映画に関しては先を行っている息子は見ている最中に感じ取ったようですが、今回作に関しては、私には時代に合わせたセットによる彩度の違い程度しか感じ取れず、全編が自然色に見えました。
では、本当はどんな3色調が意識されていたのか、は、実際にご覧になって掴んでみて頂ければと思います。
とにかく、北野映画を「観る」ポイントはストーリーにではなく、色にあるのだ、ということを、「色盲」の私にも強く再認識させてくれる作品でした。
演技では、少年期では父親で金持ちな社長役の中尾彬、それに取り入って怪しい美術品を売りつける悪徳画商役の伊武雅人両氏の凄み、相変わらず与えられた役を堅実にこなす大杉漣氏の誠意が光っていました。青年期を演ずる柳憂怜さん、若妻役の麻生久美子さんが、それぞれ壮年期のビートたけし、樋口可南子へと自然に繋がって行く姿も好感が持てるものでした。
樋口可南子さんは、この人でなければこの作品の画家の妻役はつとまらなかっただろう、と充分以上に感じさせてくれる存在感があります。80年代以降の日本映画の重要作で積み重ねた経験が、さりげなく出ているところが、私の(勝手に)感じた「アキレスと亀」のコンセプトである「人生の起伏の自然さ」と、見事に噛み合っていたように思います。
蛇足ですが、先ほど引用した低いレヴューを下したかたは、「青年時代の部分は不要だった」と発言なさっていますが、青年時代、ふらっと立ち寄った屋台のオヤジに「芸術なんて所詮まやかしだよ」との言葉を吐かせるような、もしかしたら無益なもののなかにいのちを預けているかも知れないという不安と絶望に常に苛まれながら表面をおちゃらけて生き続ける美術学校仲間の若者たちをあぶり出しておくことで、それでもなお主人公が初老に至るまで狂気とも言えるほど実りのない創作活動をなぜ続けたのかを観客が思索する上で重要なキーを与えており、省略不可能な部分だったと受けとめております。(少年期には3つの、青年期には2つの、壮年時代には1つの、それぞれ「大きな」死が、ときには絵に描いた悲劇のように、ときには笑いと表裏一体で、またときにはあまりに唐突に現れますし、壮年期には2つの「死に損ない」も挟み込まれますが、中でも青年期の2つの死は、一体化して、「ストーリーではなく色で見せる」北野作品に、唯一「文学的な」意味合いを添えるキーともなっています。
さらに些事を付け加えれば、この作品では、場面の大きな転換時に「暗転」を多用しています。
ハリウッド映画の名編集者ウォルター・マーチが著書『映画の瞬き』(吉田俊太郎訳、フィルムアート社 2008)で、
「(映画が、編集という作業でフィルムを眺めながら、その)断片を切り繋ぐこと・・・で出来上がった一連の映像が、なぜ不自然に見えずに機能しているのか」は不思議なことだがありがたいことでもある、といった意味合いのことを述べていますが、暗転の多用はマーチの感じ取っていた映画の利点を最大限まで活かした、面白い試みになっているのではないかと思ってもります。
音楽は、梶原 由紀さん。
私には未知の人でしたが、2002年の「機動戦士ガンダムSEED」のエンディングテーマのヒットで一躍脚光を浴び、アニメの他、ドキュメンタリー番組の音楽も手がける売れっ子だそうで、「アキレスと亀」の中での音楽も、これまで北野作品の音楽を手がけて来た久石譲、池辺晋一郎といった大御所に一歩も譲らないよいサウンド作りをなさっており、思わずサウンドトラック盤を買ってしまいました!
あまり上手いレヴューでなくて恐縮でしたが。
お読み頂いたかたには、心からの感謝を申し上げます。
なお、ご覧になる時は、最初で拍子抜けするような不意打ちを食らいますので、そのお心づもりで鑑賞なさって下さいませ。
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