「チェンジリング」:私は誰とたたかうのか?
実は、公開されてからわりとすぐに、これは息子とではなく、珍しく娘と見に行きました。
他の評判作と比べてどれを見るか迷った末の娘の結論で、私は内容から考えてあまり乗り気ではなかったのですが、半ば「やむなし」の思いで、しぶしぶ見に出掛けました。
ところが、そんな私が、最後は涙して、熱中して見てしまっていました。
娘も
「これを選んでよかった」
と、あとからひとこと、しみじみした口調で言いました。
でも、何が良かったのか、を具体的にブログの記事にしようか、となると、ハタ、と迷ってしまいました。
良かったものは「ストーリー」でもなければ、「その背景」でもなかったからです。・・・言葉に出来ませんでした。
上映がまもなく終わる今、文句無しに高い評価をしている人も少なくないのですが、映画が大好きな人たちの、とくに詳しい方のレヴューやコメントは、この『チェンジリング』(QuickTime Trailersへリンクしています)に対しては、意外なほど厳しい評価をしています。で、そちらのほうが、おそらく、この映画の評価については正鵠を得ているのだろうと思います。
たとえば、Yahoo映画でのレヴューで星3つ以下をつけている方のコメントを重点的にご覧になっていただければ、本作をご覧にならなかった方も、この映画の本来の総合評価は「どうあるべきか」が見えやすいのではないかと思います。
私は、子供を、ではなく、伴侶を失った自分の悲しみをフィルターとして本作を見てしまっていた、ということは否めず、すると「ストーリー」でもなく、「その背景でもない」ものが私の心を打った、などということ自体が、ほんとうは偽りだったのだろうか、という反省を迫られます。
ストーリーは、ある「とても仕事のできる」シングルマザーが、息子と休日にチャップリンの最新作を見に行く約束をしていたところへ、職場から
「人手が足りない」
と連絡を受け、息子との約束を切なくも反古にするところから急展開を始めます。
やっと仕事を終えて帰宅してみると、子供の姿が見当たらない。どれだけ探しても見つからない。連絡した警察は、しかし捜索願いに翌朝まで取り合ってくれない。
なんとか探し出してくれたと思ったら、警察がつれて来たのはまったく別の子供だった。そこには、市民から評判の悪い警察が、なんとか体裁を取り繕って威信を取り戻す、ひいては現市長の次期続投をも支援する、という政治的配慮が働いていた。
子供の取り違えに対し必死に抗弁を始める母。しかし、報道陣のカメラに対して「取り替えられッ子」とひきつった笑顔で撮影を許してしまった母は、新聞に載ったその写真を盾にする警察の児童係からは歯牙にもかけられない。
彼女に救いの手を差し伸べたのは、一向に治安を改善できない市の現体制に対抗するある宗教家だったのでしたが、そのあとも彼女は警察の係官の手で無理やり精神病院に入れられたりしますが、そこでやはり警察にたてついたがために精神病院に強制収容された水商売の女性と出会い、急場を切り抜ける知恵を授かります。
その一方で、警察の中にも別の良心的な係官がいて、未成年の違法入国の摘発に取りかかっているうち、ひとりの子供を捉えたことから、兼ねてから疑問に思っていた大量の児童行方不明事件(こちらはおそらく担当外だったので首を突っ込めなかった、ということなのでしょう)が、実は自分の担当している違法入国問題とも深く繋がり合っていることに気づく・・・
ネタバレは許されないでしょうし、そうでなくてもこの先はもうだいぶ知られているでしょうから、これくらいにしますが、以上から受ける印象は、
「これはおそらく、人権運動や政治的勢力争いの問題を悲劇的(トラジディカル)に取扱った作品なのだろう」
というものになってしまおうか、と思われます。
であれば、趣旨としては、ちと極端な比較ながら、邦画でも前年の、こちらは全く「お笑い」でありながら、河崎実監督の「ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発」とそんなに差はないことになります。
そうではなく、もっと視野を狭く、映像のひとつひとつのモチーフがどのように組み合わされているか、というところに、着目したら、どうなるでしょう?
映画を初めとする映像作品も、一般的な文字作品同様、ストーリーというものの呪縛からは逃れにくいのかも知れず、そこから付加される結果として、「固定化されたメッセージ」性を帯びざるを得ない宿命にあるのかもしれません。文字作品ならば「書道」という手がありますし、映画も「モンタージュ技法だけを取り出したもの」があるにはある。こんな例外が存在するとはいえ、文字から言葉が成り立ち、映像に人物が現れるには言葉が付加されたほうが分かりやすい、となると、文字要素・映像要素だけで作品を成り立たせるのは極めて困難だ、ということはいえるでしょう。
しかしながら、そのことによって生じる「固定化されたメッセージ」は、制作者の意図を増幅することが狙いに適っていれば、たとえばナチスが、あるいはスターリンが活用したように、観客の心理に<権力>の正当性を強く浸透させ得ますけれど、逆にチャップリンのように、ほんのちょっと現社会情勢を揶揄したいがために「赤旗を間違って持たされる」場面を挿入したとたん、そこだけ誇大視する<正当な>権力者からは睨まれっぱなしになり、手ひどい仕打ちを受けることになる。
視覚イメージは、詳しい友人によりますと、人間が感覚から獲得できる情報の70%以上を占有しているそうで、また、古い事例(視覚像として私たちに顕在的に意識されないギリギリの長さで、映画のコマの狭間にドリンクの画像を入れておいたら、休憩時間にお客が一斉にそのドリンクを買いに走った・・・御承知の通り、現在では禁止されていることです)からも、視覚イメージがいかに人の心へのインプリント力が強いかが分かります。
となると、映画というものをトータルで評価する前に、私たちは、映像ひとつひとつのモチーフが何であるか、それがどのように次の映像・前の映像と関連づけられているか、ということに、もっと着目しておいたほうがいい。そうやって初めて、
「この映画は本当は何を訴えたいのだろう」
ということまで見えてくる・・・のではないかなあ、と思っております。
その目で再び「チェンジリング」を回想してみますと、監督のイーストウッドが「アカデミー賞を狙いに行ったのではないか」という通人の観察は正しいかもしれない、ということも薄々は分かって来ます。
ですが、この映画に心奪われた瞬間瞬間は・・・「悲しい劇なんか見たくない」と思って出掛けただけにいっそう・・・私にとっては政治的駆け引きの場面に特定されるのでもなく、母親の情・強さを強く打ち出した場面にあるのでもない気がするのです。
全体としては、この作品は「埋もれていた事実」をもとにしたものですが、完全なノンフィクションではなく、かなり創作の手が加わっていることは、パンフレットを読んでも伺い知ることができます。
ただし、それは本作が仮に「完全なノンフィクション」であったとしても、「ノンフィクション」とは事実そのものでは決してあり得ない、ということに気づきさえすれば、重要なことではありません。
あるワンカットが次のカットに連携していく時、私たちは主人公と一緒に、「日常の中にある、未知の出会いに対する不安」を感じ続けます。この映画の場合は、すべてのカットが、締めくくりに至るまで、きわめて自然にこの「不安」が連続するように仕立てられています。
「完全ではないノンフィクション」であるために、「完全なノンフィクション」同様には先行きを知り得ませんし、「完全ではないフィクション」であるために、「完全なフィクション」同様には先行きを快く楽しむことも出来ない。・・・ここが、私には『チェンジリング』という作品の最大の眼目であったように思われます。
私は、みごとに、「日常の中にある、未知の出会いに対する不安」をゆるゆると煽られる、というモチーフの繋がれ方に飲み込まれてしまった、と言えるのでしょう。
映画の技法としては、従って、『チェンジリング』は、一般に評価されているよりは、極めて特異な仕上げられ方をしている、と考えてみても、いいのではないかな、と、今になって考えている次第です。
要するに、誰かと戦わなければならない「私」はこの映画の主人公ではなく、まさしくそれを見ている「私」そのものであり、「私」は映像の中に「私」がインプリントされてしまうことと戦わなければならないのです。・・・いい映画です。この「不安」の中から、「私」は「私」をどう自由に開放させなければならないか、と、これだけ葛藤の連続の中に置いてくれる作品も珍しいでしょう。
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