2009年3月22日 (日)

「チェンジリング」:私は誰とたたかうのか?

Changelingもうそろそろ上映が終わる作品です。

実は、公開されてからわりとすぐに、これは息子とではなく、珍しく娘と見に行きました。
他の評判作と比べてどれを見るか迷った末の娘の結論で、私は内容から考えてあまり乗り気ではなかったのですが、半ば「やむなし」の思いで、しぶしぶ見に出掛けました。

ところが、そんな私が、最後は涙して、熱中して見てしまっていました。
娘も
「これを選んでよかった」
と、あとからひとこと、しみじみした口調で言いました。

でも、何が良かったのか、を具体的にブログの記事にしようか、となると、ハタ、と迷ってしまいました。
良かったものは「ストーリー」でもなければ、「その背景」でもなかったからです。・・・言葉に出来ませんでした。

上映がまもなく終わる今、文句無しに高い評価をしている人も少なくないのですが、映画が大好きな人たちの、とくに詳しい方のレヴューやコメントは、この『チェンジリング』(QuickTime Trailersへリンクしています)に対しては、意外なほど厳しい評価をしています。で、そちらのほうが、おそらく、この映画の評価については正鵠を得ているのだろうと思います。
たとえば、Yahoo映画でのレヴューで星3つ以下をつけている方のコメントを重点的にご覧になっていただければ、本作をご覧にならなかった方も、この映画の本来の総合評価は「どうあるべきか」が見えやすいのではないかと思います。

私は、子供を、ではなく、伴侶を失った自分の悲しみをフィルターとして本作を見てしまっていた、ということは否めず、すると「ストーリー」でもなく、「その背景でもない」ものが私の心を打った、などということ自体が、ほんとうは偽りだったのだろうか、という反省を迫られます。



ストーリーは、ある「とても仕事のできる」シングルマザーが、息子と休日にチャップリンの最新作を見に行く約束をしていたところへ、職場から
「人手が足りない」
と連絡を受け、息子との約束を切なくも反古にするところから急展開を始めます。
やっと仕事を終えて帰宅してみると、子供の姿が見当たらない。どれだけ探しても見つからない。連絡した警察は、しかし捜索願いに翌朝まで取り合ってくれない。
なんとか探し出してくれたと思ったら、警察がつれて来たのはまったく別の子供だった。そこには、市民から評判の悪い警察が、なんとか体裁を取り繕って威信を取り戻す、ひいては現市長の次期続投をも支援する、という政治的配慮が働いていた。
子供の取り違えに対し必死に抗弁を始める母。しかし、報道陣のカメラに対して「取り替えられッ子」とひきつった笑顔で撮影を許してしまった母は、新聞に載ったその写真を盾にする警察の児童係からは歯牙にもかけられない。
彼女に救いの手を差し伸べたのは、一向に治安を改善できない市の現体制に対抗するある宗教家だったのでしたが、そのあとも彼女は警察の係官の手で無理やり精神病院に入れられたりしますが、そこでやはり警察にたてついたがために精神病院に強制収容された水商売の女性と出会い、急場を切り抜ける知恵を授かります。
その一方で、警察の中にも別の良心的な係官がいて、未成年の違法入国の摘発に取りかかっているうち、ひとりの子供を捉えたことから、兼ねてから疑問に思っていた大量の児童行方不明事件(こちらはおそらく担当外だったので首を突っ込めなかった、ということなのでしょう)が、実は自分の担当している違法入国問題とも深く繋がり合っていることに気づく・・・

ネタバレは許されないでしょうし、そうでなくてもこの先はもうだいぶ知られているでしょうから、これくらいにしますが、以上から受ける印象は、
「これはおそらく、人権運動や政治的勢力争いの問題を悲劇的(トラジディカル)に取扱った作品なのだろう」
というものになってしまおうか、と思われます。

であれば、趣旨としては、ちと極端な比較ながら、邦画でも前年の、こちらは全く「お笑い」でありながら、河崎実監督の「ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発」とそんなに差はないことになります。



そうではなく、もっと視野を狭く、映像のひとつひとつのモチーフがどのように組み合わされているか、というところに、着目したら、どうなるでしょう?

映画を初めとする映像作品も、一般的な文字作品同様、ストーリーというものの呪縛からは逃れにくいのかも知れず、そこから付加される結果として、「固定化されたメッセージ」性を帯びざるを得ない宿命にあるのかもしれません。文字作品ならば「書道」という手がありますし、映画も「モンタージュ技法だけを取り出したもの」があるにはある。こんな例外が存在するとはいえ、文字から言葉が成り立ち、映像に人物が現れるには言葉が付加されたほうが分かりやすい、となると、文字要素・映像要素だけで作品を成り立たせるのは極めて困難だ、ということはいえるでしょう。
しかしながら、そのことによって生じる「固定化されたメッセージ」は、制作者の意図を増幅することが狙いに適っていれば、たとえばナチスが、あるいはスターリンが活用したように、観客の心理に<権力>の正当性を強く浸透させ得ますけれど、逆にチャップリンのように、ほんのちょっと現社会情勢を揶揄したいがために「赤旗を間違って持たされる」場面を挿入したとたん、そこだけ誇大視する<正当な>権力者からは睨まれっぱなしになり、手ひどい仕打ちを受けることになる。

視覚イメージは、詳しい友人によりますと、人間が感覚から獲得できる情報の70%以上を占有しているそうで、また、古い事例(視覚像として私たちに顕在的に意識されないギリギリの長さで、映画のコマの狭間にドリンクの画像を入れておいたら、休憩時間にお客が一斉にそのドリンクを買いに走った・・・御承知の通り、現在では禁止されていることです)からも、視覚イメージがいかに人の心へのインプリント力が強いかが分かります。

となると、映画というものをトータルで評価する前に、私たちは、映像ひとつひとつのモチーフが何であるか、それがどのように次の映像・前の映像と関連づけられているか、ということに、もっと着目しておいたほうがいい。そうやって初めて、
「この映画は本当は何を訴えたいのだろう」
ということまで見えてくる・・・のではないかなあ、と思っております。

その目で再び「チェンジリング」を回想してみますと、監督のイーストウッドが「アカデミー賞を狙いに行ったのではないか」という通人の観察は正しいかもしれない、ということも薄々は分かって来ます。

ですが、この映画に心奪われた瞬間瞬間は・・・「悲しい劇なんか見たくない」と思って出掛けただけにいっそう・・・私にとっては政治的駆け引きの場面に特定されるのでもなく、母親の情・強さを強く打ち出した場面にあるのでもない気がするのです。

全体としては、この作品は「埋もれていた事実」をもとにしたものですが、完全なノンフィクションではなく、かなり創作の手が加わっていることは、パンフレットを読んでも伺い知ることができます。
ただし、それは本作が仮に「完全なノンフィクション」であったとしても、「ノンフィクション」とは事実そのものでは決してあり得ない、ということに気づきさえすれば、重要なことではありません。

あるワンカットが次のカットに連携していく時、私たちは主人公と一緒に、「日常の中にある、未知の出会いに対する不安」を感じ続けます。この映画の場合は、すべてのカットが、締めくくりに至るまで、きわめて自然にこの「不安」が連続するように仕立てられています。
「完全ではないノンフィクション」であるために、「完全なノンフィクション」同様には先行きを知り得ませんし、「完全ではないフィクション」であるために、「完全なフィクション」同様には先行きを快く楽しむことも出来ない。・・・ここが、私には『チェンジリング』という作品の最大の眼目であったように思われます。

私は、みごとに、「日常の中にある、未知の出会いに対する不安」をゆるゆると煽られる、というモチーフの繋がれ方に飲み込まれてしまった、と言えるのでしょう。

映画の技法としては、従って、『チェンジリング』は、一般に評価されているよりは、極めて特異な仕上げられ方をしている、と考えてみても、いいのではないかな、と、今になって考えている次第です。
要するに、誰かと戦わなければならない「私」はこの映画の主人公ではなく、まさしくそれを見ている「私」そのものであり、「私」は映像の中に「私」がインプリントされてしまうことと戦わなければならないのです。・・・いい映画です。この「不安」の中から、「私」は「私」をどう自由に開放させなければならないか、と、これだけ葛藤の連続の中に置いてくれる作品も珍しいでしょう。

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2008年11月27日 (木)

映画の瞬き--編集の重要性

51of8ii4l_sl500_aa240_ウォルター・マーチ著『映画の瞬き--映画編集という仕事』(吉田俊太郎訳、フィルムアート社 2008)は、前に掲載した2つの映画を見る前に読んでおり、『アキレスと亀』を見終わったらすぐにでも、この本が述べていることの重要さをまとめておきたい、と思っていたのですが、伸び伸びになってしまっておりました。

名作映画『地獄の黙示録』でも監督フランシス・コッポラの絶大な信頼を受けた著者は、ハリウッドきっての名編集者であり、いまや最大のベテラン、アメリカ映画編集の生き字引のような人物でもあります。
ですから、本書での彼の記述は、一行たりともおろそかに出来ない重みがあります。

映画好き(といってもコメディやアクションばっかりですが)を自認するわが息子は、最近は専らシナリオの書き方の本に夢中で、それを読みながら自分なりのシナリオを書いてみるんだ、といろいろ試みているようです(が、私には見せません)。
シナリオにはシナリオの重要な役割があることはもちろんです。ただ、シナリオが「映画製作」にあたって最も重要か、となると、そうは断言できません。たまたま過去3つ採り上げたキタノ映画については、監督である北野武は(本当は無いわけではないのですが)シナリオレスで映画の撮影を進めるという伝説を持っています。
こんなぐあいに、映画では、主演俳優の次か前かはケースバイケースですが、製作側では「監督」の名前ばかりが専らクローズアップされます。では、監督が「映画製作」の決定的要因を一手に握っているのか、といえば、「最終権限は確かにある」と言ってもいいかも知れませんけれど、「映画が仕上がっていく」過程においては、たくさんの裏方(スタッフ)のチーフが強い発言権や実行権を握っている。
映画は、ですから、監督個人の作品、ということは、本来できないシロモノなのだと思います。

著者が引用している
「思考に最も近い芸術が映画なのです」
との、ヒューストンなる人物が述べた言葉がありますが、監督という存在の重要性の秘密も、この言葉に秘められているような気がします。すなわち、監督とは、その名前のもとに製作される映画が示す「思考」の代表者であり、映画が示す、さまざまな意味での<内容>について全権と共に全責任を負うからこそ、
<映画は監督の作品として発表される>
のであろう、と考えられます。



監督が映画の「思考」を代表し、決定付けるに当たって、最も大切な材料を提供する・・・というより、監督が諸スタッフから収集し得た材料すべてを「厳選し、不要物を排除する」という重い役割を果たす・・・のが、「編集者」の仕事なのですね。
私がマーチの本から教えられたのは、このことでした。

マーチは『地獄の黙示録』の編集経験を述べた中で、次のような事実を明らかにしています。
すなわち、コッポラは『地獄の黙示録』の作成に当たり、230時間分のフィルム撮影を行ないました。何故そんな長時間分の撮影を行なわなければなかったか、については、マーチの書をお読みいただくこととしましょう。
その230時間分のフィルムは、マーチら複数の編集者の長期間にわたる作業とコッポラとの協議・合意の上で、最終的に2時間25分弱の映画として仕上がりました。
「完成作品の1分間につき95分間の日の目を見ない映像が存在する」
のです。
では何故、編集者がそこまでの切り詰めを行なったのか、いや、行なうことを許されたのか、について、マーチは本書の冒頭で既に、究極ともいえる重要な発言を、さっそく読者にしてくれています。

「極端な例を観察した方が、その事物の本質をよりよく理解できるということが多々ある。たとえば水について知ろうとするなら、水そのものよりも、氷や水蒸気からの方が、より水の本質を見極めることができたりするだろう。」(p.14)

・・・その、本質に迫るだけの真に価値ある「極端な例」を抽出するのが編集者の荷った(非常に緊張を強いられる)役割であり、であるからこそ、上記のような、フィルムの99%を「捨てる」権限も、責任も持っているのです。

編集に際して重視されるものを、マーチは6つに分類し、それぞれのウェイト付けをもしています。

1)感情(51%)
2)ストーリー(23%)
3)リズム(10%)
4)視線(7%)
5)スクリーンの二次元性(5%)
6)三次元空間の連続性(4%)

このウェイト付けの記述よりずっと前の方で、彼は、映画というものが「カット」で寸断されているにも関わらず、それが観客に不自然な印象を与えないことの不思議さを語っています。そんな自問に対する彼自身の経験からもたらされた解答は、<視覚的現実は連続している気がしているだけ>(マーチの言葉どおりではありません)というものです。即ち、観客(私たち)の視覚は、覚醒しているあいだ常に働いて外界の像を捕らえているのだ、と私たちは思い込んでいますけれど、現実としての視覚は、ある集中した瞬間にだけはたらいているのだ、ということです。その視覚的現実を文字通り「現実」にするために重視すべき順番を、マーチは上のようにウェイト付けしたのでして、「感情」が最上位、次に(おそらく)人間の性癖として「その感情を<筋立て>しなければ認めようとしない」ところから「ストーリー」をその次の位置に持ってきているのは、妥当な判断なのでしょう。
したがって、このウェイト付けは、マーチの直感と経験に基づいた言明ではありますが、真実をついているのではないでしょうか?

ですから、編集におけるカットとは、
「出来の悪い部分を取り除き」
「最小で最大を語る」
ために選択される、映画製作の要(かなめ)ともなり、映画作品の「思考のかたち」を明確にする上で絶大な機能を発揮する<視覚的現実>の集積なのです。

そのことを成功させるには、編集者は、観客の視点に立って熟考し、伝えなくてよいものから「観客の目をそらす」工夫を重ねなければなりません。

テレビならば、見ているのが嫌ならば、持ち主がスイッチを切ることで映像との関係を断ち切ることが出来る。映像媒体として、テレビは召使いの道化師である、と、マーチは述べます。
映画作品も、近年はDVDで見る機会が増え、他のテレビ映像同様に、持ち主の召使いと化しているかもしれません。・・・しかし、それは「映画」を理解することから私たちを遠ざけるでしょう。

マーチの書で、映画はやはり、映画館(代替ホールでもよい)という特別な空間で見てこそ、その意義が分かるものなのだ、と、あらためて認識させられました。引用ではありませんが、
「(編集の作業に当たっては)小さなモニターに映し出された映像と映画館の巨大なスクリーンに映し出される映像に置き換えなければならない」
それがいかに難しいことか、という意味の発言を、マーチはしています。むべなるかな。

すなわち、映画館の巨大なスクリーンは、観客にとって魔法の窓であり、全身感覚とならなければならないのです。

以前のアナログ編集から現在のデジタル編集までにいたる「実践的方法論」の変遷についても、彼は多くの筆を費やしていますが、この小文ではそこまでご紹介することが出来ません。

本書に触れ、映画における「編集」という作業の、地道な忍耐が生み出す偉大な力を、どなたにも是非実感いただけたらなあ、と思っております。

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2008年10月21日 (火)

音楽のような破壊:「TAKESHIs'」

本当は北野武作品からいったん目を離したいとも思うのですが、「監督ばんさい」「アキレスと亀」との三部作、とのことなので、「TAKESHIs'」にも触れておかなければならない・・・というのは建前です/
実のところは、息子が最近いっそう「たけし」にのめり込み始めて、私の貸した『たけしくん、ハイ!』を手はじめに、『悪口の技術』、『お前の不幸には訳がある!』と立て続けに読んでいて、ついにはこないだ私が自分だけ読もうと思って買った『女たち』まで横取りされて・・・
「いくらなんでも『女たち』は中学生に読ませられる中身か?」
とさんざん警戒したのですが、気づいたら持って行かれてしまっていました。
「たのむから、その本だけは学校に持って行かないでくれ」
と言い含めています・・・学校には「読書の時間」がありますので。



41e8gjfygyl_sl500_aa240_私自身はごく普通のサラリーマンですが、独身末期に夜遊びに浸りきったので、『女たち』での<北野武>の言葉には重みをも共感をも覚えます。
で、同じサラリーマンしていても、学生時代は「ヤクザの事務所でバイトしてた」なんて人もいますから、そういう人はなおさらよく分かるでしょうね。私や、その人が、ヤクザの世界、とまではいかなくても、なぜ「サラリーマン」以外の世界には行けなかったか。
『女たち』は、ですから、誰にでもお勧め、という本ではありません。「ビートたけし」ではなくて「北野武」の名前で出している本は、みんなそうだな。・・・全て読んでも違和感を覚えず、根っから共感できる1行を見つけられる人だけが読むべき本でしょう。


「北野映画」も、同じだと思うのです。とくに「HANA-BI」以降は
「前の作品がよかったから、次も」
という延長線で新作を見ようとする観客の期待は、彼は裏切り続けている。

私は銃弾がバンバン飛び交ったり血がビュッと吹き出る映画はダメで、当然ホラーは一切ダメ。「北野映画」も、最初はそうでした。ですから、話題になったから見なけりゃ損なのかな、と目にした「HANA-BI」が、いわゆる残虐シーンを持っていながら、およそそれまでイメージしていた「血と暴力」とは程遠い<美しさ>を湛えていたのに驚嘆したのが、「北野映画」との最初の接点です。

その後、銃弾の飛び交わない『菊次郎の夏』はDVDで家族にも見せ、ウチワではとても盛り上がったのですが、それまでの北野映画ファンからは意外にも評価が低かったのには、首をひねってしまいました。
『菊次郎の夏』だって、子供に見せていいのかどうか困っちゃう場面がいくつもあるのですが、前半はいなくなった母を見つけた子供が、母は既に別の世界で生きているのに落胆するという悲しい物語を軸にしておきながら、その悲劇が映画全体のほぼ真ん中で終わってしまうと、(痴呆症で老人ホームに入った母を訪ねる菊次郎、という真面目な挿話も挟んではいるものの)後半はハチャメチャな遊びだ、というところが、我が家では大受けだったのです。
ストーリーが一環した「映画」を見る、という定型が破れているところに、家族が皆、新鮮さを覚えたからでしょうか。
これは、それ以前のもっともメチャクチャな『みんなー、やってるか』でもなかったことです。

で、ストーリーという点では最も「壊れて」いるのが、『TAKESHIs'』です。
ただし、その壊れ方は、音楽の形式に似ているところがあります。



51fqn1zs7dl_sl500_aa240_『監督ばんざい』のDVDに収録されたインタビューの中で、北野武は初めて
「これは、三部作の真ん中の作品だから」
という意味合いのことを口にしています。
ですが、『TAKESHIs'』を監督・製作している段階では、彼はまだ「三部作」なる意識は明確に持っていなかったようです。
とにかく、今まで自分が作ってきた映画って何なんだ、それがいい評判を得ているのはチャンチャラおかしいんじゃないか、なら、ここいらでいったん全部ぶちこわしてみよう、と思って作り始めたのであるらしい。

ですから、私も二、三度DVDでこれを繰り返し見てみましたが(残念ながら映画館では見ていません)、ストーリーは何なのだろう、と考えると、答えが出ない。
キャッチでは「武とたけしが夢とも現実とも付かず混じり合ってしまう」という意味付けがされていますけれど、受ける印象は、どうも、そんなふうには割り切れないのです。
ストーリーにはならないのだけれど、破綻はしていない。
・・・思ったほどの破綻が得られなかったからこそ、彼は続けて『監督ばんざい』を作ることになたのだ、とも思います。

破綻のない理由は、場面を切り出して、それぞれを音楽の形式の部分のように捉えなおすと、理解できる気がします。

冒頭部、テレビ局に出入りする羽振りのいい「ビートたけし」は、序奏部です。
その羽振りのいい「ビートたけし」に、コンビニの店員をしながらオーディションを受けてはパッとせずに落とされっぱなしの「北野武」が、仲間の仲介でサインをもらう部分から、主部への移行が始まります。
あとは、仮に「コンビニにいる武」をA、「オーディションへ行っては帰る武」をB、と大きな二つの主題と見なせば、基本の伴奏音型として「下宿」・「雀荘」・「わがまま暴力ラーメン屋」を据えておけば、初めの主部の弱気な「武」が映画の<呈示部>を形作り、「ビートたけし」のおっかけの女の子が誤解(か架空世界の中)から「北野武」にプレゼントを渡したところからは<展開部>となり、「北野武」は「ビートたけし」になりかわって、それまで「北野映画」が主として演じて来た銃撃を<現実化>しはじめ、それは、大規模な交響曲がそうであるように、現実感を増しながらも夢幻と切り離せないかたちのまま、過激さを増して行きます。
それがピークに達したところで、いったん、「HANA-BI」のエンディングを彷彿とさせる「海辺の流木にすわる主人公とその愛する女」の絵が示され、それ以降は<呈示部>がテーゼであり、<展開部>がアンチテーゼであったとすると、<止揚>にあたる部分だ、という明確な段落を形成し、はじめてこの映画の・・・もしあるとすれば・・・意味を表面化させるのです。
意識してかしないでか、おのれの監督した作品でも頂点を極めた「HANA-BI」のラストの風景を表面に出すことで、<止揚>、すなわち、最終的に過去が否定され、新生を求めて行くのはおのれ自身なのだ、ということを、のどかな海岸風景を激しい銃撃戦で「彩る」ことにより、やっと監督としての北野武は吹っ切れる。

最後の殺戮シーンには、それまでのシーンで死んだはずの登場者が再び現れては、また死んで行きます。鮮烈な否定、過激な<止揚>ではありますけれど、最後の最後で登場人物としての「北野武」も、他の連中も、結局は生きている、というところが、この映画の最大のアピールポイントだ、と捉えるのは、あるいは考え過ぎかも知れませんが、まずはこうしたかたちで「否定」を通過しないことには、『監督ばんざい』で自分に出来ることの見本市を展開してみせることも出来なかったでしょうし、見本市を作ってみて初めて、
「ああ、そうか、こっちでは『TAKESHIs'』での破壊が活きたんだ」
ということに、監督としての北野武は、ふと気づいたのではないかと思います。

・・・彼は、ストーリーで映画を作る監督ではない。そのことがたしかに、ようやく明確になったのが『TAKESHIs'』だったのではないでしょうか?

『アキレスと亀』も、ストーリーの表面を追いかけての評(好評な方では「分かり易かった」、不評な方では「アピールが足りない」)というものばかりを見かけますが、『TAKESHIs'』を振り返ってみれば、好評の方向も不評の方向も、どこか、『アキレスと亀』の本質をハズしている気がしてなりません。
『アキレスと亀』は、ストーリー性があるように見えながら、少年時代と青年時代、壮年時代それぞれに大きな断層があり、それぞれが悲劇か喜劇かというところには大きな意味を私は感じません。この映画をストーリーとしてみてしまうと、主人公にしてもその奥さんにしても、現実世界には絶対といっていいほど「存在し得ない」思考回路の持ち主ということになります・・・が、案外、その点には気がつかれていないのは、どう言う訳なんだろうか、と思います。

いや、『アキレスと亀』が本題ではありませんでした。
ですが、『アキレスと亀』をもって彼が「三部作の3つめ」と捉えているおおもとは、『TAKESHIs'』の、ストーリーとしては不条理でありながら、形式としてはまだ整っている「何か」からへの脱出をいちおうは達成したことにあるのでして、そのことを再認識するためにも、あらためて『TAKESHIs'』から見直してみることは、必要なのではないかと考えております。

こんなところで。


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2008年9月20日 (土)

北野武「アキレスと亀」初日

新宿では10:50から監督挨拶があった初日。そちらは満員だったでしょう。
私と息子は、ローカルな映画館で、9:45からの上映を見ました。チケット売り場には行列ができていました。
「すごいね!」
と言いながら入場。
ところが、マルチホールのこの映画館のお客さん、殆どが「20世紀少年」や、続映中の「ポニョ」に流れ、洋画では「ウォンテッド」に入っていてしまい、「アキレスと亀」の観客は、14人。
映画館で、息子と二人で映画を見るようになったのはこの正月からでしたし、いずれも評判作だったのですが、似たような状況でした。
「映画を観る、というのはこういう世界なのか」との感を新たにしました。
・・・それでも、映画はやっぱり映画館で見るものだ、との思いも頭をよぎったのですが、その話は、今回はまだ措いておきましょう。

公式頁へのリンクは、こちら



・YouTube掲載の予告編

全体の印象。

ラストの1分で泣けるか、が、見る人にとってこの映画の価値を決めます。
所々にちりばめられたブラックユーモアが多く読み解けるほど、作品の意味が身にしみます。
「ギャング映画」系ではないのに、やはり血と死が全編に溢れている。北野映画の特徴の一端はやはり失せていないのですが、そのことから「生きている」とは何か、を自ら考えるところまで至ったなら、この作品にこめられた「思い」と観る私の「思い」のかさなり加減が、最後になってようやく、この作品の「私」にとっての価値の「重さ」を決めるでしょう。

ある売れない画家の、少年時代の不遇から青年期の幸福、壮年期の波乱と悲劇を描いたものですが、さっそくレヴューしていた人の中で、低めの評価の人が述べているように、<これでは絵の映写会と作劇だ>、と言われても仕方ない面があります(登場する絵は、すべて北野氏自身の手になるもので、実はストーリーよりも先に「手元の絵をどうしようか」が先行して映画のアイディアに繋がった、と、北野氏はパンフレット中のインタヴューで明かしています)。
ですが、たぶん生涯「ヘタな素人ヴァイオリン弾き」であり続けるだろう自分をかさね合わせてしまった私には、全体的なストーリーの起伏はそれほど大切ではありませんでした。起伏は、自然な日常生活の中で自然に生まれてくるものであって、「アキレスと亀」の主人公夫妻は常識人ではありませんが(その内容はまだネタバレになるので綴れませんね。上の予告編と、次にリンクする抜粋映像からご想像下さい)、北野武作品の常で、緻密にシナリオを固めてしまわないで作品を仕上げて行く手法をとっていますから、人生そのものの起伏が「ドラマ」として作為されていないことに、強い共感を覚えて帰って来ました。

・映画の一場面



画家ですから、書き上げた絵を都度画商のところへ持ち込んで査定を受けるわけですが、惜しむらくは、そのシーンが出てくるたび、まるで「編集責任者が記者の原稿にクレームをつける」ような硬直したイメージで雰囲気が途切れさせてしまう。ここが面白かったら、おそらくヴェネツィアで入賞したでしょうし、そんなことは別として、映画作品としてもっと完成度の高いものになったでしょう。
なぜ、これらのシーンに面白みが加わらなかったか、の原因を考えるには、用いられた絵が全て北野氏自身の手になるものであることを念頭に置く必要がありそうです。画商のクレームは絵の作者北野氏本人が自身の絵を冷静に批評している言葉そのものなのです。・・・となると、ちょっと、画商を演じた俳優さん(大森南朋氏)もアドリブの加えようがなかったでしょうね。

ただとにかく、北野武という人は色彩感覚の優れた人で、今回は少年期・青年期・壮年期の「3色」でまとめてきました。
それぞれがどんな色か、は、あとでパンフレットを見ると北野氏自身が明言していましたし、私なんかより映画に関しては先を行っている息子は見ている最中に感じ取ったようですが、今回作に関しては、私には時代に合わせたセットによる彩度の違い程度しか感じ取れず、全編が自然色に見えました。
では、本当はどんな3色調が意識されていたのか、は、実際にご覧になって掴んでみて頂ければと思います。
とにかく、北野映画を「観る」ポイントはストーリーにではなく、色にあるのだ、ということを、「色盲」の私にも強く再認識させてくれる作品でした。



演技では、少年期では父親で金持ちな社長役の中尾彬、それに取り入って怪しい美術品を売りつける悪徳画商役の伊武雅人両氏の凄み、相変わらず与えられた役を堅実にこなす大杉漣氏の誠意が光っていました。青年期を演ずる柳憂怜さん、若妻役の麻生久美子さんが、それぞれ壮年期のビートたけし、樋口可南子へと自然に繋がって行く姿も好感が持てるものでした。
樋口可南子さんは、この人でなければこの作品の画家の妻役はつとまらなかっただろう、と充分以上に感じさせてくれる存在感があります。80年代以降の日本映画の重要作で積み重ねた経験が、さりげなく出ているところが、私の(勝手に)感じた「アキレスと亀」のコンセプトである「人生の起伏の自然さ」と、見事に噛み合っていたように思います。

蛇足ですが、先ほど引用した低いレヴューを下したかたは、「青年時代の部分は不要だった」と発言なさっていますが、青年時代、ふらっと立ち寄った屋台のオヤジに「芸術なんて所詮まやかしだよ」との言葉を吐かせるような、もしかしたら無益なもののなかにいのちを預けているかも知れないという不安と絶望に常に苛まれながら表面をおちゃらけて生き続ける美術学校仲間の若者たちをあぶり出しておくことで、それでもなお主人公が初老に至るまで狂気とも言えるほど実りのない創作活動をなぜ続けたのかを観客が思索する上で重要なキーを与えており、省略不可能な部分だったと受けとめております。(少年期には3つの、青年期には2つの、壮年時代には1つの、それぞれ「大きな」死が、ときには絵に描いた悲劇のように、ときには笑いと表裏一体で、またときにはあまりに唐突に現れますし、壮年期には2つの「死に損ない」も挟み込まれますが、中でも青年期の2つの死は、一体化して、「ストーリーではなく色で見せる」北野作品に、唯一「文学的な」意味合いを添えるキーともなっています。

さらに些事を付け加えれば、この作品では、場面の大きな転換時に「暗転」を多用しています。
ハリウッド映画の名編集者ウォルター・マーチが著書『映画の瞬き』(吉田俊太郎訳、フィルムアート社 2008)で、
「(映画が、編集という作業でフィルムを眺めながら、その)断片を切り繋ぐこと・・・で出来上がった一連の映像が、なぜ不自然に見えずに機能しているのか」は不思議なことだがありがたいことでもある、といった意味合いのことを述べていますが、暗転の多用はマーチの感じ取っていた映画の利点を最大限まで活かした、面白い試みになっているのではないかと思ってもります。



音楽は、梶原 由紀さん。
私には未知の人でしたが、2002年の「機動戦士ガンダムSEED」のエンディングテーマのヒットで一躍脚光を浴び、アニメの他、ドキュメンタリー番組の音楽も手がける売れっ子だそうで、「アキレスと亀」の中での音楽も、これまで北野作品の音楽を手がけて来た久石譲、池辺晋一郎といった大御所に一歩も譲らないよいサウンド作りをなさっており、思わずサウンドトラック盤を買ってしまいました!

あまり上手いレヴューでなくて恐縮でしたが。
お読み頂いたかたには、心からの感謝を申し上げます。

なお、ご覧になる時は、最初で拍子抜けするような不意打ちを食らいますので、そのお心づもりで鑑賞なさって下さいませ。

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2008年9月14日 (日)

北野武「監督ばんざい」・・・究極の駄作。

61sxvwvw1fl_sl160_映画そのものの記事で初めて採り上げるのが、息子の尊敬する北野武監督作品だとは言え、彼の最高の駄作になるとは、思ってもいませんでした。
夏休みに「インディー・ジョーンズ」の最新作を二人で見てきたんだから、そっちでもよさそうなものを。
でも、「監督ばんさい」は、昨日DVDを買って来て、やっぱり息子と二人で見て、二人で大笑いした作品です。
それまで、DVDで買って来た映画は、息子だけが見て、僕はいっしょには見ていないことが多かったしな。真っ当に行けば、「プライベート・ライアン」か、せめてチャップリン映画で幕開けするつもりだったのですが・・・こういうものを見せつけられては、もう、仕方ありません。

何と言っても、ひどい作品です。
しかも、これをベネチア国際映画祭の特別招待作品として作った、というところが、腹を抱えざるを得ないほどとんでもない。



北野映画が "HANA-BI" (1998)で本当の意味で海外でも注目されるようになる前、映画監督北野武はやっぱりいちど大きくぶち壊れていて、「みんな〜やってるか!」という、下ネタにウンコだらけのはちゃめちゃな作品をつくっている。で、その次の作品が「キッズ・リターン」という、青春のほろ苦さを描いた名作でした。
ただ、そのころ(1995-6)は、まだ彼は「世界のキタノ」ではありませんでした。だから、せいぜい日本人の彼のファンが、
「まったく、しょうがねーなー」
と苦笑いすれば良かった。

"HANA-BI" が爆発的に認められると、その頃盛んに「キタノブルー」と言われて自分の作品が「規定化」されていきましたから、それを嫌ったのでしょう、"BROTHER"で初心に返ろうとしてなんとなくかなわず、"DOlls"では、じゃあ赤を使いこなそうとしてみたり、半ギャグ映画の座頭市を作ってみたり・・・これが苦悶でなくてなんだったろうか、と思います。

前々回作"TAKESHIS'"が、彼に言わせれば三部作の最初で、ここから北野武は「転回」の方法を再思考しだしたかのようです。
その結果生まれだ第2作が「監督ばんざい」(2007年6月2日劇場公開)。これは後からつけたタイトルだそうで(DVD中のインタヴューで言明)、本来は"Opus19/31"というものにし(分母・分子とも素数です)、最後で自身が「監督ばんざい」とやるはずだった由。
「ダメだこの人」
と言われるのが究極の狙いだった、らしいのです。



身代わり人形を常に相方にして登場するのが一つのキーで、この人形は、これから述べるオムニバスが各々「失敗だ」と北野「監督」の中で否定されるたびに、監督の<身代わり自殺>をさせられます。首を吊られたり、足に重石付きのロープを付けられて深い川に投身させられたり。
ギャング映画はもう撮らないと宣言した、という自分をネタに、ギャング映画のパロディで幕を開け、小津風作品のさらにパロディ・・・それだけとれば面白くも何ともない『定年』、恋愛ものの『追憶の扉』2ヴァリエーション(2つ目は盲目の画家が女の献身的な愛で絵を仕上げるという作品になるはずだったが、目の見えないがかがどんな絵を描けるかが分からずボツ)に、女の献身を男の献身に逆転させた『運転手の恋』2ヴァリエーション、昭和30年代を自分の子供時代の心象風景をも加味しながら田舎を舞台にした(タケシは東京生まれの東京育ち)夕暮色の『コールタールの力道山』、恐怖映画のはずが恐怖映画なんだかなんなんだかよくわからない("DOlls"の色合いの)『能楽堂』、「座頭市」に大島渚作品を掛け合わせたような時代劇『青いカラス----忍part2』と、ストーリーとしては全て未完結ながら、それまでの北野作品の上澄みを<ナンセンスに>陳列し、CGSFと称しながら漫才師時代の彼のネタ展開を思い出させるような「約束の日」なる陳腐なお笑い・・・まさか、これが本編になるとは!(実態はこれも本編とは言いがたい、すなわち、この映画に「本編はない」と言ってもいいのではないかと思いますが)・・・で無理やり終わりまで持って行く。


映画ファンにとっては「侮辱的」、北野映画ファンに限っても「???」な作品ですが(たとえばここにリンクしたYahoo!でのコメントをお読みになって見て下さい)、彼の漫才時代を知っている世代にとっては、彼の漫才時代の映像は発売されていないだけに、
「映画を見るんじゃなくて、ツービート時代のタケシを見るんだ」
と思うと、胸がスカッとする、妙な作品です。

こんな超駄作をよりによって国際映画祭に招待作として出す。
監督としての北野武のファンで、イギリスの若者が、北野武はコメディアンだったと知った時に
「え? ウソだ!」
と大粒の涙を流したことを覚えていますが、こんな映画を見たら、このイギリスの若者どころでは済まない・・・
「いったい、映画作りにはどれだけ金がかかると思っているんだ!」
と怒り出す人がいてもおかしくない。
でも、今の<北野武>は、映画にそこそこのお金をかけられるだけのポジションを確保した。
壮大な無駄遣いです。
「どうだい、こんだけやってみろよ、バーカ」
と肩を上げ首を曲げながら中途半端なナマイキを言う芸当は、他の誰に真似できるでしょう?

この「ぶちこわし」があった上での、新作『アキレスと亀』です。
私と息子にとっては、『ポニョ』よりも、はるかに
「公開されたら映画館で見たい」
と楽しみな作品です。

ただし、超駄作とはいえ、『監督ばんざい』は、これまでの北野武映画の、これまた超高密度の色見本でもあります。

役者さんの顔ぶれも豪華。常連の岸本加世子はもちろんですが、ちょこっと登場するだけの松阪慶子のしっとり加減、藤田弓子の肝の入ったかあちゃんぶり、宝田明の奇妙な可笑しみ、そして最も長い最後のエピソードに登場する吉行和子それぞれの「役作り」の本気さに打たれると共に、最後のエピソードで最も大きな「脇役」を演じる江守徹の魁偉さには、ただひたすら圧倒されます。



DVDに同時収録の「素晴らしき休日」も「お笑い」系ですが、こちらはほのぼのとした佳品です。
『監督ばんさい』中の「コールタールの力道山」の色彩を、もっと明るく感じさせてくれます。
・・・無駄遣いする勇気があったらご覧下さい。

音楽は、池辺晋一郎。クラシックファンは「N響アワー」で駄洒落ばっかり言うオッサン、というイメージがあるかもしれませんが、この人、天才です。一度だけ、職場の近く(大学がある)をうろうろしたのを見かけましたが、想像していたより小柄でした・・・小柄と言えば、中央線のホームですれちがった谷川俊太郎さんがチビだったのにもビックリしたけどな。
蛇足でした。

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2008年8月20日 (水)

「フリーという生き方」(映画を志し続ける青年が書いた、お勧め書籍)

せっかく場所を設けたのに、映画をじっくり見たり、息子と語り合う機会も無いまま、時間ばかりどんどん過ぎます。
さすがに、集中して映画を見るのは、「子持ち男ヤモメ」には、子持ち若芽を口にするより難しい・・・(お寒くてすみません)。

ここ数日ちょっとコツを見つけて、
「なんだ、1週間くらいかけて小刻みに見ればいいのか」
と気づいたのですが、とりあえず息子が私に薦めてきたのは、チャップリンの初期短編集。
で、これについては近々ようやく触れられるのかなあ、と思っております。



そんなこんなしている最中に、1冊の本にめぐり会いました。
「映画作り」を目指した(今も目指している)青年が、前途多難ななかで、現状は主に映画に関するフリーライターとして、とりあえず飯の種にするに至った経験を綴った本なのですが・・・その本を、私は「映画」以外への興味から読み始めたのでした。

息子の「夢」は、たまたまその本の著者と同じ「映画作り」です。
娘もいますが、こいつは、音楽で仕事することを目標にして、音楽を専門に勉強できる高校に入学しました。

考えてみると、「映画」の仕事にしても、「音楽」の仕事にしても、もしクリエイター(音楽ならば演奏と言う行為も含みます)というのは「フリー」の仕事なのでした。

私自身はサラリーマンですが、アマチュアオーケストラに所属しているうちに出来た縁で、「フリー」の仕事をしている友人も、少なからず出来ました。
「フリー」であることの大変さは、友人達を通じて、些かばかりは承知をしているつもりでした。
まかりまちがえば、日々の飯にも事欠き、住む場所さえ失うリスクを負った仕事です。もちろん、サラリーマンだってそんなリスクが無い、という絶対の保証は無いのですが、日々の切迫度の上では比較になりません。

で、幸いにして身近にそういう感覚の「フリー」はいないのですが、私は「フリー」=「プロフェッショナル」だ、という誤解も横行しがちなことにはあまり好感を持っておりませんで(サラリーマンだって自分の職分についてはプロフェッショナルでなければなりませんし、そこへ到達できないのであれば職務についていちから謙虚に学ばなければならない。そこに「フリー」であるか「組織の一員であるか」という差異はまったく無いのです。・・・それでもサラリーマンの方が甘くなりやすいのは、今時分が受けられている保証を「永久のものだ」と錯覚しているだけのことではないでしょうか。話が逸れました)

・「フリー」とは、いつでも「プロ」だとか「アマチュア」だとかいう枠を超えて、ハングリーになれるべきである

と信じております。そこまでの覚悟が無ければ、「フリー」という職業形態を求めるべきではない。

そんな私が、しかし、子供達にはまさに「フリー」が必然である仕事を目標にしたり夢に持つことを認めたのでして、これは責任重大なわけです。

私自身、数年前に「うつ」と宣告されたとき、本気で「これでクビがとぶな!」と信じました。折りしも、ニーとだとかワーキングプアだとかいう用語が世間に出回り始めた、初期の頃です。
数ヶ月間休職を申し渡されているあいだに、「雇用不安」だの「会社滅亡」みたいな本を何冊も読みました。・・・ほんの数年前でしたのに、そのころはまだ、ニートだとかワーキングプアだとかいう言葉は、今ほど一般化しておらず、とくにニートについては「引きこもり問題」と同一視してだけ問題にされていました(今でもそういう書籍があります)。

なんとかサラリーマンとして復職出来て、今度は「若い社員は何故3年で会社を辞める?」とか「会社は2年で辞めていい」とか、あい矛盾する本が盛んに出るようになった。

なにか、「働く」ということについての意識が、この国では乱れてしまっていて、そこには流儀や作法も無ければ、根本的なモラルさえも失われつつあるんではないか、と感じるようになりました。

「オレは、とにかく、まず真っ当に働けるように戻るにはどうしたらいいのかだけを考えてきたのに」


そんな疑問をもって数年過ごし、その間に家内も亡くし、自分はともかく、子供達をどう不自由なく食わせるか、を思いつづけてきた自分にとって、啓示となるような書物には、なかなか出会えませんでした。

「もういいや」

と思っていた矢先、ふと手にとったのが、

岸川 真「フリーという生き方」岩波ジュニア新書

です。

あえて、内容には触れません。
が、著者は、働くことの大切さを、フリーという厳しい「職」の選択の中で、必死でやってきた。
そのことを、しかし、実にさりげなく綴っている。
著者ご自身の経験そのものも、ですが、フリーでやっていけるように育つまでの間で会ってきた人たちのエピソードも、その出会いを著者がどれだけ大切にしているかも、ですから、温かみをもって読む私の胸に伝わってくる。
第5章までが、著者の経験と出会いを綴ったものです。
第6章は、そこまでに盛り込みきれなかった、いろんな「フリー」の人たちの素敵な姿を魅力的に描いて、読者を夢中にさせます・・・その中にはひとつだけ、悲しい例もありはしますが。

ジュニア新書は、内容が平易なわりに深いものが多く、ときどきその中からよさそうな本を選んでいましたが、この本との出会いが最高だったかも知れない。

高校生になった娘には少しは分かるかも知れません。
中1の息子に読み解けるかどうかは、分かりません。

でも、この本は、一日も早く、子供達に読ませたいなあ、と思っております。

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2008年7月21日 (月)

息子も私も初心者です

いま中1の息子の、将来の夢は「映画監督」です。

きっかけは、小学5年生のとき、チャップリンの「独裁者」をDVDで見たことにありました。
もともと<お笑い>好きだった息子ですが、チャップリンは、それまで見たことがありませんでした。

見たとたんに、
「あ、これは、いままで見て来た<お笑い>とは違う」
と思ったようです。

で、言い出しました。
「チャップリンのように、笑えて戦争反対、平和が大事、って思ってもらえる映画が作りたい」

最初からそうはっきり意志が固まったわけではありません。
その年の暮れに母親を亡くし、いっときはまた、普通の<お笑い>に夢中になることで気を紛らわせよう、という思いが強かったのかも知れないなあ、と、いまになって感じます。

「じゃあ、お笑いタレントはどうだ?」
私は半分ふざけて、何回か水を向けてみました。
それを繰り返しているうちに、
「いや、やっぱり映画だ!」
という結論に、いまのところ達しているようです。

それをそのまま自分の目標として貫くのか、それとも違う道を考えだすのか、いまのところ、分かりません。

ですが、せっかく息子がそういうのですから、私も父親として、息子と一緒に
「映画」
というものを鑑賞し、観察し、考えていこうかと思いました。

これが、このブログを開設しようと思った理由です。

そんなわけで、私はまだ映画というものについて、全く知りません。

本当ならば、常に売れ筋商品を出すハリウッド映画よりは、アジアやヨーロッパ各地へと視野を広げた観察が出来ればいいのですが、息子もまだ、そこまで気が回るほど映画を知っているわけではありません。

映画の作り方の本にしても、大人向けのものばかりで(この点は他の「創作」に関する書籍についても、正直なところ私は批判的な意見を持っているのですが、まずそれは差し置きます)、それを息子の入り口にしてやるわけにも行きません。

手始めは、息子が気に入って見るもの、見たがるもの、見たものを中心に眺めていこうと思います。

ちなみに、今日はせっかくの休日ですから、息子の「見たがる」映画を見に行きました。

<インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国>
でした。

なお、私はクラシック音楽に関するブログを作成していまして、そちらはほとんど毎日記事を綴っていますが、こちらの映画のブログは、ネタがあれば随時、ということで進めていきたいと思います。

ついでながら・・・夕べ息子が真剣に見入っていたDVDは、<プライベート・ライアン>でした。

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