令和

2019年4月12日 (金)

「令和」をめぐって〜大伴旅人に怨念はあったのか?

新元号に決まった「令和」の精神性をめぐって、いくつか政権批判に結びつけた文章が出ているのを目にしました。とくに、ある碩学が、「令和」の出典とされた大伴旅人の梅花宴序(万葉集巻第五にある、旅人自邸で催された梅の花を詠む会での三十二首の歌の前に付された序、以下、私が勝手に「梅花宴序」と呼びます)や、関連する旅人他の万葉歌をめぐって、この序や歌には作者たちの無念、権力者への嫌悪や敵愾心がこめられている、という主旨の文章をお綴りになって、少し話題にもなっていました。実際にそうであって、そのことを以て元号の決定に携わった政治家さんたちに警鐘を鳴らし、政治家さんたちも謙虚に受け止めて襟を正すのであれば、大変結構なことです。

いま、しかし、私の関心は政治的なところにはありません。『万葉集』の享受史も、当面念頭にはありません。
梅花宴序や、文章で採り上げられていた万葉歌に、本当に権力者への怨念のようなもの、すなわち憎悪や敵愾心がこめられているのかどうか、に、私は素朴に疑問を感じたのでした。
以下、まずはそれらの万葉歌が歌われた背景、とくに憎悪や敵愾心を喚起したと仰られている長屋王の変前後の、旅人や周辺の動向を、ざっと眺めたいと思います。

梅花宴序は、私の手もとの講談社文庫『万葉集』(中西進 編、1978年)の脚注にも「王羲之の『蘭亭序』の形式に同じ」(p.377)とあります。その「蘭亭序(叙)』の背後にある、時代の「厳しい状況」(マール社『書聖名品撰集2 王羲之 蘭亭叙・十七帖』桃山艸介解説、p.135 1985年)を、異朝日本の三百年後の梅花宴序のほうも背景にしていた、と言える可能性は、たしかにあります。それ自体は、述べられてもあながち間違いではないかも知れません。ただ梅花宴序に関する背景論は、一介のサラリーマンで特段学殖もない私には、出来るほどの識見はありません。蘭亭叙と梅花宴序を比較して、あるいは漢籍のほうで出典とみなしても支障がなさそうな「帰田賦」と比較して、あらためて勉強してみるべきでしょう。

とりあえずは、旅人に、長屋王の変を機にした権力者、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂への皮肉や敵愾心あったのか、を考えます。

梅花宴前後のいくつかを時系列を見ながら、気になった文章にある万葉歌の作歌事情を挟んでみますと、次のようになります。

①大伴旅人は神亀四年【西暦728年】の暮れに大宰帥として下向したものと思われています。翌年、任地で愛妻の大伴郎女を失います。

②長屋王の変は、天平元年【西暦729年】二月十日に起こります。大宰大弐 多治比県守は翌日急遽、権参議となります。

*長屋王の娘とされる賀茂女王が、旅人の親族、大伴宿禰三依に贈った歌、「筑紫船いまだも来ねばあらかじめ荒ぶる君を見るが悲しき」(556)が長屋王の変と関係するのかどうかは、はっきり分かりません。三依のほうの歌は4首前に「わが君(=思う女性)はわけ(=私)をば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つ走くらむ」(552)とあります。戯れ歌のニュアンスである由、中西注からは窺えます。三依はまた、罷りてまた逢ふを歓べる歌「吾妹子は常世の国に住みけらし昔見しよりをちましにけり(一層若返っていらっしゃるようだ)」(650)と詠んでいます。三依は大伴御行の子で、旅人の父、大伴安麻呂は御行と兄弟ですから、従兄弟にあたります。旅人よりはずっと若かったものと思われます。

③天平元年三月、すなわち長屋王の変の2ヶ月後、大宰大弐 多治比県守は従三位に、大宰少弐 小野老は、従五位に昇叙します。

*大伴旅人が、民部卿となる多治比県守に贈った歌があります(「君がため醸みし待酒 安の野に独りや飲まむ友無しにして」万葉集巻第五555)。
県守が民部卿になったのはいつだったのでしょう?
なお、県守は旅人の妻、丹比郎女(家持の母とされます)の父と見なす説もあるそうです。

*小野老には、大宰少弐として詠んだ歌に、有名な「あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」(329)があります。万葉集ではこのあと防人司による奈良を思う歌、おそらく上司の大伴旅人に「奈良を念ってはいませんか?」と語りかける歌があり、それに旅人が応えた「わが盛りまたおちめやも ほとほとに寧楽のみやこを見ずかなりかむ」(331)に始まる五首の望郷歌が続きます。となると、巻第三にあるこれらの一連の歌は、長屋王の変に関わって帰還して来た(?)小野老に、「おれはもう帰ることもないかもね」と旅人が嘆いてみせたようなニュアンスがあり、時期的には県守や老の昇叙後のような気がしないでもありません。

④同年十月七日、大宰府にあった大伴旅人は藤原四子の次男、房前に、倭琴を贈ります。十一月八日、房前は礼を述べる返書を旅人に送っています。

⑤旅人主宰の梅花宴は天平二年正月十三日開催であったことが、梅花宴序の冒頭に明記されています。(「天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也」~https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%B7%BB)
この宴には小野老も出席して歌を詠んでいます。先の大伴三依ではないかと思われている歌も続いています。

⑥旅人は同年十月に大納言となったかと推定され、十二月に帰京します。翌年一月従二位に昇進、七月に薨去します。

以上の時系列について、考えてみますと、

①旅人の大宰府下向は、長屋王の変の1年強前です。この年、聖武天皇に光明子所生の基王が生まれ、即刻皇太子とされました。
長屋王はどうやらこのことに公然と反発したかと思われますが、基王生存中は後の変事の種は胚胎されなかったと考えていいでしょう。
基王の夭逝は翌年九月です。
となると、旅人の大宰帥任官には、仮に旅人が親長屋王だったとしても、1年後の変を確実に想定しての左遷と考える余地は、さほどないものと考えられます。

②1年後に長屋王の変が起こりますが、長屋王の娘、賀茂女王が大宰府にいた恋人の大伴三依にSOSを出した後の不安を詠んだのが万葉集巻第三の556の歌だと見なすのは、さて、どうでしょうか。
長屋王の変は二月十日に藤原宇合(彼は長屋王邸での詩の会に参加したことがあり、その際の作が『懐風藻』に採られています)らが長屋王邸を夜間に包囲したことに始まり、同月十二日には長屋王と妻の吉備内親王、息男4人が自尽することで早くも決着を見ます。まず、囲まれた邸から歌を漏れ出させることは至難の業だったでしょう。
三依が詠んだ650歌(「常世の国」という語を含む)が、生存していた賀茂女王にあてたものであるなら、「常世の国」はむべなるかなの語に見えなくもありませんが、しかしこの歌には哀しみの陰がありません。
哀しみをもって賀茂女王を見ての歌だとしたら、「一層美しくなった」などと言うのは、普通の感覚ではおこがましくはないでしょうか?
このあたりは確かなことが分かりませんので、まあ、なんとでも言えますけれど。
ともあれ、賀茂女王や三依の歌が長屋王の変のときのものであるとすることは、私にはどうもしっくりきません。

③長屋王の変後に、大宰府関係者、それも上位の人ふたりが昇叙している一方、帥の旅人は別段降格もしていません。昇進もしていないのは間違いありませんから、いちおう小野老らとの贈答歌をこの時期のものとすると、取り残された感がにじみ出ているようには思われます。
一方で、昇叙の事実から長屋王の変で功績があったと思われる小野老の、奈良の都の歌い始めは、べつに旅人を揶揄したものではないでしょう。旅人の受けにも、淋しげながら柔らかさを感じます。歌がこの時期のものだと前提するのが許されるのであれば、もし変をめぐって利害が対立していたなら、こうした穏やかな贈答にはならなかったのではないでしょうか?
多治比県守に旅人が贈った歌もまた同様です。多治比県守がほんとうに旅人の妻の父だったなら、まして、旅人が長屋王側に味方していたうえで県守と親しくし得た、などということはなかったのではないでしょうか?

④ここで旅人は藤原四子のひとり、房前と接触していることが明らかになります。
以前の通説では、房前は長屋王の変の首謀者でした。それを採るならば、旅人が房前に琴を贈ったことが皮肉に充ちていたとか、房前の返答は旅人と腹の探り合いをしたものだ、という読みかたも、あるいは成り立つのかもしれません。
ところが、少なくとも木本好信著『藤原四子』(ミネルヴァ書房 2013年刊)によりますと、長屋王の変のころまでに房前は他の三兄弟からは孤立していて、変の事前計画も実行もかやの外のことだった、とのことです。これは木本氏単独の説ではなく、『続日本紀』を始めとする変についての記事に房前がまったく登場しないことからも、またそれ以前の政情からも、裏付けられるもののようです。
となると、旅人の琴贈呈と房前の返礼との間の意味合いは、まったく逆転します。
房前と旅人は、いわば長屋王政権やその前の藤原不比等政権下の同僚でもありました。その縁をあてにし、旅人が帰京願望を素直に託したのだと読むのが正しいことになりはしないでしょうか? あえて藤原四子の他の兄弟から孤立していたらしい房前を選んで、というところをどう解釈するべきか、との疑問は残るものの、かつての交情から思いを共有しやすいとの算段が旅人にはあったように思われなくもありません。別に変を企んだわけでもない房前とは、それ以上腹を探り合う必要などなかったことでしょう。

⑤梅花宴そのものについては、あらためて作品そのものなどを読んであらためて考えたいと思います。ただし、明らかに長屋王の敵となった小野老の宴への出席、その詠んだ歌のおおらかさ(「梅の花いま咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも」)、それを受け入れているとみなしてよいだろう旅人の関係に、ぎくしゃくしたところはまったく感じられないでしょう。

⑥旅人が帰京して大納言になっている事実は、少なくとも政権を荷なう人々(中心は藤原武智麻呂)にとって、旅人は有害な人とはみなされていなかったことを物語っているのではないでしょうか?
先の書『藤原四子』でも旅人の大納言就任をめぐっての複雑な事情が推測されたりしていますけれど、複雑な事情なるものを明証する記録は存在していません。

以上、とくに多治比県主や小野老との交流の様子、その境遇が過去の説とは逆転し旅人に腹をさぐられる立場ではなかったらしい藤原房前との贈答、帰京後の大納言就任(大納言は台閣でとても重要な地位です)の事実などから、旅人が仮に親長屋王だったとしても、長屋王の変がきっかけで、碩学氏の文中で権力者に否定されている藤原四子に憎悪や敵愾心をもった事実はないものと思われますが・・・いかがでしょうか?

| | コメント (0)