古文

2019年3月16日 (土)

『三十六人撰』の後継たち 付)三十六という数

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『三十六人撰』の後継たち 付)三十六という数

【百人一首はなぜ出来た(11)】

公任『三十六人撰』の歌人たちは、いつからか「三十六歌仙」と呼ばれるようになっていたのでしたが(いつからなのでしょう?)、その人たちはみな、公任よりは前の世代に属します。公任と同時代の優れた歌人たちは、公任編とも、そうでないとも言われる『後十五番歌合』に登場します。
岩波文庫『王朝秀歌選』で中身を見ると、歌の配列のされ方からは『前十五番歌合』に大変近い感触が得られます。公任編だとすると、彼自身の歌が十四番左に「四条中納言」との作者名表記で現われますので、違和感もあります。ただし公任は1009年に権大納言になっていますから、中納言の表記から『後十五番歌合』はそれ以前の撰と捉えることも可能で、もし公任が周りからたしかにそう呼ばれていた(藤原行成『権記』で確認できます)四条中納言を自称して記したのだとすれば、歌の並べ方のセンスと併せて、『後十五番歌合』公任撰の可能性は大いにあるかもしれません。ただし、後に引く七首などは「山の端」が頻出するところなど、公任の目を高く評価する場合には引っかかります。
撰ばれている歌人は、登場順に、以下のとおりです。

 藤原実方  藤原道信  馬内侍   和泉式部  藤原為頼
▲相 如  △藤原輔尹 △橘 為義  賀茂為政  源 道済
▲斎院宰相  赤染衛門  大江嘉言  曾禰好忠  清少納言
△伊勢大輔  戒 秀   寛 祐   源 兼澄  大中臣輔親
 大江為基  藤原長能  勝 観   恵 慶  ▲清 胤  
 観 教   藤原公任  藤原高遠  花山院   具平親王
(△は後拾遺初出、▲はそれ以後または私には分からなかった人)

繋がりの面白いところは、たとえば二番右の和泉式部から五番右の道済まで。
歌人名は略しますので、上の順に追って見て下さい。

  暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月
  世の中にあらましかばと思ふ人 亡きが多くもなりにけるかな
  夢ならで又も見るべき君ならば 寝られぬ寝をも嘆かざらまし
  もろともに出でずは憂しと契りしを いかがなりにし山の端の月
  君待つと山の端出でて山の端に 入るまで月を眺めつるかな
  九重の内まで照らす月影に 荒れたる宿を思ひこそやれ
  行末のしるしばかりに残るべき 松さへいたく老いにけるかな


さて、公任の『三十六人撰』の歌人たちが三十六歌仙と呼ばれるようになったのに対し、別にまた、中古三十六歌仙というのが撰ばれていることを知りました。
これはネットで調べると、

「又後六々歌仙ともいう、刑部卿藤原範兼が三十六歌仙に擬して選びし所なり、左の如し。○和泉式部、相模、○恵慶法師、○赤染衛門、能因法師、○伊勢大輔、○曽禰好忠、道命阿闍梨、○藤原実方、○藤原通(道)信、平定文、清原深養父、○大江嘉言、○源道済、藤原道雅、増基法師、在原元方、大江千里、○藤原公任、○藤原(大中臣)輔親、○藤原高遠、○馬内侍、藤原義孝、紫式部、道綱母、○藤原長能、藤原定頼、上東門院中将、兼覧王、在原棟梁、[六歌仙]文屋康秀、藤原忠房、菅原輔正、大江匡衝 安法法師、○清少納言

(『画題辞典』斎藤隆三)

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E4%B8%AD%E5%8F%A4%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%AD%8C%E4%BB%99

と出典が書かれていました。
○をつけた人は、『後三十六人撰』と共通、15人ですので半数ですね。

この人たちを撰んだ藤原範兼については、手にとれた本の中で詳しく分かる記述はありませんでした。1107年の生まれですから、公任の時代から一世紀強を隔てた後の世代です。弟の藤原範季のほうが、その娘たちが後鳥羽の乳母になったこと等で有名です。その弟範季が10歳のとき父が亡くなり、兄である範兼が養子として範季を引き取ったのだそうで、系図上、範季は範兼の子ということになります。また、範兼の娘、範子は、平家政権下で栄進した能円(平家没落後凋落も、範子の連れ子だった在子は土御門天皇を産んだ)の妻となった旨、角田文衞『平家後抄』に記載されています。範兼が『後六々撰』で撰んだ三十六人が中古三十六歌仙としてそれなりに知られるようになったのは、このあたりの人的な関係もあったのでしょうか。
その『後六々撰』ですが、しかし、通して読むと、・・・いい歌を撰んであるのですけれど・・・だんだん気が抜ける気持ちになってしまいます。
というのも、和泉式部の歌を10首連ねるところから始まって、次の相模も10首なのですが、その次からは8首歌4人、6首歌2人、5首歌2人、4首歌6人、3首歌12人、2首歌8人、と、作者毎の歌が尻すぼみに減って行く並べ方になっていて、最後が清少納言の2首で終わっていて、「清少納言、ダメ歌人なんかい!」みたいな印象さえ受けかねないのです。清少納言、そんなことないとおもいます!
(『群書類従』第十輯 和歌部 所収)

具体的な内容は省きます。

『群書類従』第十輯は、このあとに『新三十六人撰』を収録していますが、『百人一首』よりも後の1252年頃の成立だそうなので、採り上げません。


ところで、公任の『三十六人撰』の、この三十六という数ですが、どういう意識で選ばれた数なのだろう、と、ずっと謎に思っています。
ちょっとあたってみると、三十六は、(中国古代からの占いの)易では「坤」の卦に当たり、これは下から上に六つ並ぶ易占の象すべてが陰(数では六と表される)になっているもので、易のことば(卦辞)では「万事順調(元亨[おおいに通る)]と縁起のいいものだそうです(三浦國雄『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 易経』角川文庫 平成22年)。「三十六計逃げるに如かず」で有名な『兵法三十六計』も同じ文庫シリーズに収められていて、こちらは中国の古典ですが、その三十六という数字は易の影響で選ばれたものだ、との説明がありました。公任在世当時の平安貴族は具注暦に日記を書いていました。この具注暦は、奈良時代から陰陽寮(天文暦数のことを掌った)で編纂されていたものです。直接的には具注暦は「日書」とよばれる、日の吉凶を記した類いのもの(古代中国の例が二十世紀になって大量に発掘され実態が分かって来たようです)ですから、それと易との関係を突き詰めなければならないのですが、基本的なことからまだ、私の理解が追いついていません。とはいっても、陰陽寮に属する陰陽師たちは卜筮をも行なっていたのですから(和田英松『新訂 官職要解』p.86参照、講談社学術文庫621、1983年)、公任も、当時の他の人も、三十六を何らかの良い意味の数と捉えていた可能性はあり、易と「三十六」の選択に何らかの関係性があるのではないかなあ、と、今まだ漠然とではありますが、思っているところです。ただ、『三十六人撰』より前に日本で三十六を好んで用いた例が見つけられない等で、確かなことが分かりません。

数についてはまた考えることにして、次は、これが歌百首とか歌人百人になって行く様子を見ていきましょうか。
どうしましょうか。

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2019年3月 9日 (土)

三十六人撰② 各作者の歌の配列

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三十六人撰② 各作者の歌の配列
【百人一首はなぜ出来た(10)】

『三十六人撰』の、歌の配列も面白いので、見ておきます。(岩波文庫の樋口芳麻呂校注『王朝秀歌選』を参照しています。・・・百人一首はなぜ出来たんだろう、は、この本を手にしているうちに湧いて来た気持ちで考え続けています。)

いま、十首採られた人たちの歌の並び方を見ますと、次のようになっているのが分かります。
歌の頭に、その歌の季節や、あるいは旅であるか哀しみであるか、というところを、括弧書きで表します。
( )は勅撰集上での部立て、[ ]は私家集上でどうみえるか、もしくはこの撰集の中でどう見たら良いか、を、ちょっと考えて足したものです。(35の兼盛と36の中務については私家集を参照できませんでした。買うと高いし、図書館に行く間はないし・・・涙)

まず、1〜4の作者。例によって、作者の真作かどうかは不問です。


1【柿本人麻呂】
(春)昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり(拾3)
(春)明日からは若菜摘まむと片岡のあしたの原は今日ぞ焼くめる(拾18)
[春](名)梅の花それとも見えず久方の天霧る雪のなべて降れれば(古334)
(夏)ほととぎす鳴くや五月の短か夜も独りし寝れば明しかねつも(拾125)
(秋)飛鳥川もみぢ葉ながる葛城の山の秋風吹きぞしぬらし(古284)
(旅)ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ(古409)
(恋)頼めつつ来ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待つにまされる(拾848)*
(恋)あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(拾778)
(哀)我妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき(拾1289)
(冬)ものののふの八十宇治川の網代木にただよふ波の行方知らずも[人麻呂集206]

2【紀貫之】
(春)とふ人もなき宿なれどくる春は八重葎にもさはらざりけり[貫之集207]
(春)行きて見ぬ人も偲べと春の野のかたみに摘める若菜なりけり[貫之集3]
(春)花もみな散りぬる宿はゆく春のふるさととこそなりぬべらなれ(拾77)
(夏)夏の夜の臥すかとすれば時鳥鳴く一声に明くるしののめ(古156)*
(秋)見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり(古297)
(春)桜散る木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降りける(拾64)
[秋](雑賀)来ぬ人を下に待ちつつ久方の月をあはれと言はぬ夜ぞなき(拾1195)
(冬)思ひかね妹がりゆけば冬の夜の川風さむみ千鳥なくなり(拾224)
(哀)君まさで煙絶えにし塩釜のうら寂しくも見え渡るかな(古852)
(秋)逢坂の関の清水に影見えて今や引くらむも望月の駒(拾170)

3【凡河内躬恒】
(春)春たつと聞きつるからに春日山消え敢へぬ雪の花とみゆらむ(後2)
(春)香をとめて誰折らざらむ梅の花あやなし霞立ちな隠しそ(拾16)
[春](賀)山たかみ雲井に見ゆるさくら花こころのゆきて折らぬ日ぞなき(古357)
(春)我が宿の花見がてらに来る人は散りなむ後ぞ恋しかるべき(古67)
(春)今日のみと春を思はぬ時だにもたつこと易き花の陰かは(古134 巻軸歌)
(夏)時鳥夜ふかき声は月待つとゐも寝で明かす人ぞ聞きける(×)
(秋)立ちとまりみてを渡らむもみぢ葉は雨と降るとも水はまさらじ(古305)
(秋)心あてに折らばや折らむはつ霜のをきまどはせる白菊の花(古237)
(恋)我が恋は行方も知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ(古611)
(雑)引きて植ゑし人はむべこそ老いにけれ松の木高くなりにけるかな(後1107)

4【伊勢】
(春)青柳の枝にかかれる春雨は糸もて貫ける玉かとぞ見る[伊勢集101]
[春](賀)千年経る松といへども植ゑてみる人ぞ数へて知るべかりける[伊勢集184]
(春)春ごとに花の鏡となる水は散りかかるをや曇るといふらむ(古44)
(春)散り散らず聞かまほしきを古里の花見て帰る人も逢はなむ(拾 )
(春)いづくまで春は去ぬらむ暮れ果ててあかれしほどは夜になりにき[伊勢集115]
(夏)ふた声と聞くとはなしに郭公夜ふかく目をも覚ましつるかな(後172)
(恋)三輪の山いかに待ち見む年経とも尋ぬる人もあらじと思へば(古780)
(秋)移ろはむ事だに惜しき秋萩を折れぬばかりも置ける露かな(拾 )
(恋)人知れず絶えなましかば侘びつつもなき名ぞとだに言ふべきものを(古780)
(雑)難波なる長柄の橋もつくるなり今はわが身を何にたとへむ(古1051)

*:参照した家集にない歌


ここまで、どの作者の歌も、春に始まってほぼ季節順に歌が並び、それを締めるように恋や雑にあたる歌が置かれていることが見て取れます。ただ、それは歌の並びから来る何らかの、想定されているストーリー展開に左右されているようで、2の貫之の場合には、それによる並び方の乱れ(と言ってしまっていいのでしょうか)があったりします。
ともあれ、最初の4人については、勅撰集の部立ての配列にほぼ沿った歌の配列となっているところが、注目ポイントかと思います。

対する最後の二人はどうでしょうか?


35【平兼盛】
(冬)かぞふれば我が身に積もる年月を送り迎ふと何急ぐらむ(拾261)
(夏)[鳥]み山出でて夜半にや来つる郭公暁かけて声の聞こゆる(拾101)
[春][花]やま桜飽くまで色を見つるかな花散るべくも風ふかぬ世に
[秋][月]望月の駒引き渡す音すなり瀬田の長道橋もとどろに
(秋)[霜]暮れてゆく秋の形見に置くものは我が元結の霜にぞありける(拾214)
(別)[関]たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと(拾339)
(賀)[賀]今年生ひの松は七日になりにけり残りの程を思ひやるかな(拾269)
[春][雪]朝日さす峰のしら雪むら消えて春の霞はたなびきにけり
(春)[梅]わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ思ひのほかに君が来ませる(拾15)
(冬)見わたせば松の葉白き吉野山幾世積もれる雪にかあるらむ(拾250)

36【中務】
(哀)忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む(拾1312)
(春)[鳥]うぐひすの声なかりせば雪きえぬ山里いかで春を知らまし(拾10 朝忠)
(春)[花]石上古き都を来てみれば昔かざしし花咲きにけり(新古今88 読人不知)
[秋][月]更級に宿りは取らじ姨捨の山まで照らす秋の夜の月
(恋)[涙]さやかにも見るべき月を我はただ涙に曇る折ぞ多かる(拾768 信明への返し)
[旅][関]待ちつらむみやこの人に逢坂の関まで来ぬと告げややらまし
(秋)[賀]我が宿の菊の白露今日ごとに幾世積もりて淵となるらむ(拾184 元輔)
[秋][水]下くぐる水に秋こそかよふらしむすぶ泉の手さへ涼しき
(春)[桜]咲けば散る咲かねば恋し山ざくら思ひ絶えせぬ花のうへかな(拾36)
(秋)天の川河辺涼しきたなばたに扇の風をなほや貸さまし(拾1088)


この二人については、季節を初めとする部立ての順には、素直には並べられていません。
では何を基準に、と見直してみますと、頭から二番目で[ ]で括ったほうの、言ってみれば景物の類い(祝賀の気持ちである「賀」も景物の一環としてしまいます)であって、お互いの最初と最後の歌を除いた中8首については、読み込まれているものが同じであるか類似しているものが、同じ順番で並んでいることが分かります。
最初の歌は、兼盛は「冬」、中務は「哀傷」。
最後の歌は、兼盛は「冬(吉野の雪)」、中務は「秋(たなばた)」。
この配列の上にはまた、ある種のストーリーを読み取ることが出来る、とも感じます。

それぞれのストーリーについては、決めつけはしないでおきます。私には、ふさわしい読が出来ていないかもしれませんし。
どうぞ、ぜひ、お読みになって感じたところを大切になさって頂ければと思います。
詞書が一切付かないことも、読む人各々が心に描くストーリーを自由にする役目を果たしている気もします。これが詞書付きだったら、たとえば中務の「忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む」は「娘におくれたまひて」、すなわち女のお子さんに先立たれての歌ですから、まあそれを知っていてもいいのですが、その前に位置する平兼盛の「見わたせば松の葉白き吉野山幾世積もれる雪にかあるらむ」との繋がりからもたらされる、どこかぼんやりした寂寥感から、夢にしか見ないあの人に会いたい・・・あの人は「我が子」ではなく「恋人」・・・気持ちへと展開して行くのだ、みたいな想像の自由度は、詞書を知らないままでいるより落ちてしまうことでしょう。

ちなみに、これらの間に挟まれて3首ずつ採られている人たちの歌の並びを見ても、ちょっとしたストーリーがあるように受け止められるものもあります。こちらはしかも、前の人の最後の歌と次の人の最初の歌に関連性を感じる箇所もあります。

冒頭の十首歌の最後に位置する伊勢の歌の、その最後から、少し眺めてみます。


【伊勢】
難波なる長柄の橋もつくるなり今はわが身を何にたとへむ(古1051)
【家持】
新玉の年行き返る春立たば先づ我が宿に鶯は鳴け
さ牡鹿の朝立つ小野の秋萩に玉と見るまで置ける白露
春の野にあさる雉子の妻恋ひにおのが在処を人に知れつつ(拾21 春)
【赤人】
明日からは若菜摘まむと占めし野に昨日も今日も雪はふりつつ


伊勢の「何にたとへむ」の気持ちに対して答えを与えるような家持の「先づ我が宿に」が続き、鳴く「鶯」に対して次の歌に「さ牡鹿」を、さらに次の歌に「雉子」を配置し、前歌の「置ける」に対してまた「在処」を置いて繋げている。その家持の最後の歌の「春の野」が、赤人の最初の歌の「若菜」に繋がっていく。・・・みたいな読みかたはカングリに過ぎるでしょうか?
こうした連関は、三首歌群の中には多く見出せます。

もっとも、オリジナルのレイアウトは、二人の歌人が色紙様の紙面の上段と下段で対比されていたかと思われますので(いい画像を見つけていません)、そこにせいぜい歌合の趣向はあっても、果して次の二人にさらにつながっていると読んでいいのかどうかは、難しいところかもしれません。
家持の下段に配された赤人の最後の歌
【赤人】和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る
が、次の上段に来る業平の最初の歌
【業平】世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
とつながっている、と読むのは、無理がある気がします。
ここはオリジナルのレイアウトをにらみながら読めたら面白いかも知れません。

ここまで読んで来て、『前十五番歌合』、『三十六人撰』で、公任は初めて「人」に重点を置いた撰歌を人々に示した、と言っていいのかな、と、思います。
「歌そのもの」の重視、という点では、まだ『和歌九品』のように歌論的なものを前面に出した著作では、たしかに「歌そのもの」重視の姿勢は強まっているのではありますが、僅かな歌を例示として挙げるにとどまっています。
では、『前十五番歌合』のほうが「歌そのもの」重視に近いのかな、というと、そうとも言い切れません。。部立てが見える配置が出来ない形ではありながら、『前十五番歌合』も、前後の歌の繋がりを見ると、『三十六人撰』のうちの三首歌群よりもやや緊密度の高いストーリー性が見えてくるからです。(そういえば、この前言い忘れましたが、『三十六人撰』の人の並べられ方は『前十五番歌合』と非常に良く似ています。)
徹底して「歌そのもの」を重視するのだ、という姿勢は、紀貫之の『新撰和歌』が先行例で既に存在していて、公任的なストーリー性が皆無とは言えないにしても、これは作者名もまったく記されずに歌が「春・秋」「夏・冬」等々と、延々と交互に並べられているわけです。たとえば冒頭。

  春秋
袖ひちてむすびし水の氷れるを春立けふのかせやとくらん
秋きぬとめにはさやかにみえねとも風の音にぞ驚かれぬる
春霞たてるやいつこみよし野のよしのゝ山に雪はふりつゝ
わきも子か衣のすそを吹かへしうらめつらしき秋のはつ風
春毎にかそへしこまに人ともに老そしにけるみねの若まつ
・・・等々
(『群書類従』第十輯 和歌部)

それでもいちおう、ストーリー性があるところに、公任の撰集には貫之の『新撰和歌』の後継を成してはいる、と見れば見られぬこともないと思っておくことにします。

ともあれ、公任の撰集の底流には、最初に見ておいた、かの後鳥羽上皇が隠岐島で書いた新古今への識語、
「たちまちにもとの集を捨つべきにはあらねども、さらに改め磨けるはすぐれたるべし(即座にもとの集を捨ててしまうべきではないのではあるが、さらに改めて磨いたものは、より優れていることだろう)。」
の精神に引き継がれる、歌の集からさらに純化することを目指した撰歌の精神が、確かに芽生えているように、私には感じられます。
それがたとえ『古今集』の緊密な歌配列ほどデリケートには出来なかったにせよ、十首採った人々の歌の並べ方を見ただけでも、なんとか密度を濃くしようと狙ったものであることが明らかであると思われます。
ここに至る試行錯誤は、おそらく先行して成立した『金玉集』・『深窓秘抄』でなされていたと見るべきかと思います。

駆け足の、浅い観察でした。

さて、歌人とか歌仙という言葉がどういう基準で用いられて来たのか、私にはよく分かりませんで、ただ古今集真名序に「歌仙」の文字があり、その訳語としてでしょうか、仮名序に「うたのひぢり」とあるのを見るばかりです。
周知のように、公任が『三十六人撰』で採った作者たちは、後の時代に「三十六歌仙」と称されることになります。ですので、もう、以後は歌仙の言葉は普通に使おうかと思います。
また、ほとんど全ての作者が歌を専門に詠む人だと見なされていることもありますから、作者、と言わず、歌人でよかろうか、とも思います。
ほんとうはこうした言葉についても謂れを知りたい気持ちはあったのですが、これはちょっと非力な素人には無理でした。。。

で、百人一首に至っては三十六人ならぬ百人の歌人が採られているわけです。
百人一首はなぜ百首か、も考えて行きたいのではありますが、まずは人の数が百人に至る経過を見たいと思いますので、この次は『後十五番歌合』や『後六々撰』なる撰集を見てみたいと思っております。

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2019年3月 2日 (土)

三十六人撰① 人選と出典

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三十六人撰① 人選と出典

百人一首はなぜ出来た(9)〜前置き話がもう9つめ(>_<)

さて、三十六人撰です。
どうせ深追いは出来ないので、もっとさらっとここまでたどり着くはずでしたが、浅追いでもここまでかかってしまいました。かつ、2回に分けなければいけません。理由は、まず三十六人がどういう基準で選ばれているかを見たいし、歌の出典の様子・・・どうせ特定は出来ない・・・にも見当を付けておきたいこと、次に、この三十六人やそれぞれの歌がどんな意図で並べられているかもちょっとは知りたいこと。これを両方いっぺんにやるのは、ちと無茶です。

なので、最初に、人選と出典について見通したいと思います。

まず、人選は、たぶんそれまでの勅撰集(三代集)に大きく関わった人が中心なのではないか、と仮定して、それぞれの作者の三代集での位置づけを、ざっと眺めてみました。
すると、以下のようになります。

【人】
01~04と35~36は『三十六人撰』に十首収録される人、その間の05~34は収録が三首までの人なので、間に空行を挟みました。
古今集仮名序に現われる人はその旨を記し、古今集と後撰集の撰者についても同様としました。他の人物には原則として三代集のいずれに初出か、その初出勅撰集に何首採られているかを記しました。
(人名の前に【】で記したのは初出の三代集で、古=古今集、後=後撰集、拾=拾遺集です。人名の前の○は、『前十五番歌合』非登場を表します。)

 【拾】01. 人麻呂:柿本人麻呂~古今集仮名序「ならの御時」1(古今集作者異伝)。作者名明記は拾遺集から。万葉集の歌人
 【古】02. 貫之:紀貫之~古今集撰者2
 【古】03. 躬恒:凡河内躬恒~古今集撰者3
 【古】04. 伊勢:(~古今集22首)

○【拾】05. 家持:大伴家持(拾遺集初出、3首)万葉集の歌人
 【拾】06. 赤人:山部赤人~古今集仮名序「ならの御時」2(拾遺集初出、3首)万葉集の歌人
 【古】07. 業平朝臣:在原業平:~古今集仮名序「近き世にその名聞こえたる人」2
 【古】08. 遍昭僧正:僧正遍昭~古今集仮名序「近き世にその名聞こえたる人」1
 【古】09. 素性(~古今集37首)
 【古】10. 友則:紀友則~古今集撰者1
○【 】11. 猨麻呂:猿丸〜(古今集真名序には名前が登場)
○【古】12. 小町:小野小町~古今集仮名序「近き世にその名聞こえたる人」5
 【古】13. 兼輔卿:藤原兼輔(~古今集4首)
○【後】14. 朝忠卿:藤原朝忠(~後撰集4首)
○【後】15. 敦忠卿:藤原敦忠(~後撰集10首)
○【拾】16. 高光:藤原高光(~拾遺集4首)
 【後】17. 公忠朝臣:源公忠(~後撰集2首)
 【古】18. 忠峯:壬生忠岑~古今集撰者4
 【拾】19. 斎宮女御:徽子女王(~拾遺集5首)
○【拾】20. 頼基:大中臣頼基(~拾遺集2首)
○【古】21. 敏行朝臣:藤原敏行(~古今集19首)
 【拾】22. 重之:源重之(~拾遺集13首)
○【古】23. 宗于朝臣(~古今集6首)
○【後】24. 信明朝臣:源信明(~後撰集4首)
 【後】25. 清正朝臣:藤原清正(~後撰集8首)
 【拾】26. 順:源順~梨壺の五人1
○【古】27. 興風:藤原興風~(〜古今集17首)
 【拾】28. 元輔:清原元輔~梨壺の五人3
 【古】29. 是則:坂上是則(〜古今集3首)
 【 】30. 元真:藤原元真(~後拾遺[8首]まで入集なし)
 【拾】31. 小大君:(~左近名で拾遺集3首)
 【拾】32. 仲文:藤原仲文(~拾遺集3首)
 【拾】33. 能宣朝臣:大中臣能宣~梨壺の五人2
 【後】34. 忠見:壬生忠見(~後撰集1首[拾遺集14首])

 【拾】35. 兼盛:平兼盛(~拾遺集38首)
 【後】36. 中務:(~後撰集初出、拾遺集14首)

まとめると
古今集仮名序登場者:5人
古今集撰者:4人
古今集初出:7人
後撰集撰者:3人
後撰集初出:6人
拾遺集初出:9人
その他  :2人(猿丸、元真)

それぞれの人の生没年に当たるまでもなく、人の並べかたは、厳密にではないにせよ、年代順を大まかに意図しているであることが分かります。なぜなら、前半が万葉集および古今集関連、中間が後撰集関連、後半は古今集収録歌の作者が混在しながらも拾遺集関連の人が、それぞれ集中している様子が見て取れるからです。

01~04は十首収録の万葉・古今の作者で、古今集の仮名序(本当は真名序も)に関わるか、撰者である人または撰に主要な役割を果たした人(伊勢)です。
ここまででいったん完結して、05はあらためて万葉の作者から始まります。

04までを含め、古今集の撰者は、すべて含まれています。古今集仮名序に「ならの御時」の人として登場する人麻呂と赤人は、両者とも登場します。批評対象として現われる6人(いわゆる六歌仙)は、文屋康秀・喜撰・大伴黒主の3人を欠きます。いずれも他の3人に比べ古今集の収録歌数が少ない人で、康秀は五首、黒主が三首、喜撰は一首だけです。
猿丸は特殊例かと思いますが、別に述べます。

これが後撰集関係となると、撰者である梨壺の五人のうち、三人までしか採り上げられていません。なお、後撰集には撰者の歌は含まれない為、彼らの三代集初出は拾遺集となります。
後半登場の拾遺集関連は、05~34の作者は重之と壬生忠見のみが拾遺集にそれぞれ13首、14首と採られている他は、皆、5首以下となっています。それを見ると、35の平兼盛(38首)・36の中務(14首)は際だった存在だと言えるでしょう。かつ、36の中務は、冒頭部で十首収録されている04伊勢の娘であることも、注目しておいていいのかも知れません。

拾遺集と関連して面白いのは、3首歌群最初の大伴家持は万葉集のひとであるにもかかわらず、三代集の中では、最後の位置にある拾遺集で初めて3首採られたのだ、という事実です。これは『三十六人撰』の歌の出典と関わるものと見なせる気がします。
三代集には名前の現われない猿丸も、この点では興味深い存在です。
猿丸を除けば、皆、古今集~拾遺集収録の歌の作者であることが分かりますが、それでも拾遺集所載の歌の作者については、必ずしも拾遺集の中で抜きん出ているわけではないところ、本当は作者の来歴まで見て『三十六人撰』で選ばれている理由を探るべきところかと思います。あるいは、時代が入り交じって人が並べられているところ(26~30)にも注目が必要そうですが、まずはここまでとします。

ということで、次に、出典について、ちょっと考えます。

【出典】
先のそれぞれの作者の『三十六人撰』での歌が、三代集のどれに掲載されてたものが何首あるか、を表にします。
古=古今集、後=後撰集、拾=拾遺集です。×は三代集にはない歌の数です。
×のうち、『前』は、『前十五番歌合』に載っているものです。三代集所載で前十五番にある場合については記しません。
その他参考事項があれば末尾に記します。
人は初出の三代集がどれか、で並べ替えました。

【古】02. 貫之  :古=3、後=0、拾=5、×=2
【古】03. 躬恒  :古=6、後=2、拾=1、×=1
【古】04. 伊勢  :古=4、後=1、拾=2、×=3
【古】07. 業平朝臣:古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】08. 遍昭僧正:古=1、後=1、拾=0、×=1(『前』)
【古】09. 素性  :古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】10. 友則  :古=2、後=0、拾=1、×=0
【古】12. 小町  :古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】13. 兼輔卿 :古=1、後=1、拾=0、×=1
【古】18. 忠峯  :古=0、後=1、拾=2、×=0
【古】21. 敏行朝臣:古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】23. 宗于朝臣:古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】27. 興風  :古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】29. 是則  :古=1、後=0、拾=1、×=1
【 】11. 猨麻呂 :古=3、後=0、拾=0、×=0(全て読人不知歌)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
【後】14. 朝忠卿 :古=0、後=0、拾=2、×=1
【後】15. 敦忠卿 :古=0、後=1、拾=1、×=1
【後】17. 公忠朝臣:古=0、後=1、拾=2、×=0
【後】24. 信明朝臣:古=0、後=2、拾=0、×=1
【後】25. 清正朝臣:古=0、後=0、拾=0、×=3(2首め『前』)
【後】34. 忠見  :古=0、後=0、拾=2、×=1
【後】36. 中務  :古=0、後=0、拾=6、×=4
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
【拾】01. 人麻呂 :古=3、後=0、拾=6、×=1
【拾】05. 家持  :古=0、後=0、拾=1、×=2
【拾】06. 赤人  :古=0、後=0、拾=0、×=3(拾遺集参考1)
【拾】16. 高光  :古=0、後=0、拾=2、×=1
【拾】19. 斎宮女御:古=0、後=0、拾=3、×=0
【拾】20. 頼基  :古=0、後=0、拾=1、×=2
【拾】22. 重之  :古=0、後=0、拾=1、×=2
【拾】26. 順   :古=0、後=0、拾=2、×=1
【拾】28. 元輔  :古=0、後=0、拾=2、×=1(『前』)
【拾】31. 小大君 :古=0、後=0、拾=2、×=1
【拾】32. 仲文  :古=0、後=0、拾=2、×=1
【拾】33. 能宣朝臣:古=0、後=0、拾=3、×=0
【拾】35. 兼盛  :古=0、後=0、拾=6、×=4
【 】30. 元真  :古=0、後=0、拾=0、×=3(1首め『前』)

古今集収録の歌が42(28%)、後撰集収録の歌が10(7%)、拾遺集収録の歌が56(37%)、三代集にない歌が42(28%、うち4首は『前十五番歌合』所載)。後撰集所載歌が極端に少なくなっています。後撰集初出の7人の歌21首に限っても、当の後撰集所載は4首であるのに対し、拾遺集所載は13首です。
また、三代集非所載歌が3割あります。うち4首は、『前十五番歌合』所載歌です。
拾遺集関連は、本当は拾遺抄と対照する必要もあるのですが、今、この手順は省いています。
このことから、出典は、後撰集に近いものはほとんどなく、古今集と拾遺集、とくに後者に近しいもの、その中に『前十五番歌合』と共通するものが用いられていることが窺われます。

推測するに、公任は拾遺抄の選歌をするのに使用したのと同等の資料を主に用いたのでしょうが、それは各作者の家集のようなものだったのでしょうか。

このことは特に、古今集の撰者でありながら古今集よりも拾遺集から多く歌を選ばれている紀貫之を観察して感じるところなのですが、選ばれている中で三代集にない二首は、確かめますと、『貫之集』にあるものです。

伊勢については古今集から4首、後撰集から1首、拾遺集から2首、と、三代集からもまめに選ばれていますが、三代集にない3首は『伊勢集』所載です。

万葉歌人である人麻呂、家持、赤人は、作者名の明示は『拾遺集』にはじまっていますので、やはり拾遺集関連の出典と同じものが参照されていると思われますが、こちらは少なくとも活字で手軽に読める『和歌文学大系』所収のそれぞれの家集には上がっていない歌が含まれていて、かつ、それらの歌は、この三人の間で作者に揺れがあったりします。
(人麻呂の最初の歌は『人麻呂集』にも『赤人集』にも載っています。)
(家持の1、2首めは『家持集』にも他二名の家集にもなく、3首めは『赤人集』のほうにあります。)
(赤人の1首めは『赤人集』にも他二名の家集にもなく、二首めは『赤人集』にも『家持集』にもあります。)

興味深いのは猿丸で、選ばれている歌は3首とも、古今集に読人知らずとして載っているものです。また、猿丸という名前は、三代集のいずれにも作者名としては出てきません。猿丸の人名にひもづくのは『猿丸集』だけです。この『猿丸集』の成立は、古今集以降と推測され、公任が『三十六人撰』で選んだ3首は『猿丸集』もしくはその粗本を考慮に入れた撰歌だと推測されています(鈴木宏子氏、『和歌文学大系 18』解説)。猿丸は、人麿の「人」に対する「猿」を冠した名前で、実在の人の名前ではない、とする観察が、近年ではもっぱらであろうかと思いますが、だとすると、この人名は「読人知らず」の魂の集合体を表すものでもあったのでしょうか?

これら、家集から『三十六人撰』に選ばれたとおぼしき人たちの歌で、とくに10首選ばれている人麻呂(仮託ふくむ)・貫之・伊勢については、その歌の並べられ方にも、また最終の兼盛・中務と対比しても、さらに興味深いことがありますので、あらためてそれに触れることにします。それを最後に、公任さんとはいったんさようなら、かな?(笑)

参照した家集のそれぞれの底本は、以下のとおりです。
『人麻呂集』=書陵部蔵本
『赤人集』=西本願寺本三十六人集系
『家持集』=西本願寺本三十六人集系
『貫之集』=正保版歌仙家集本
『伊勢集』=西本願寺本三十六人集系、『伊勢集』の粗本は『後撰集』成立後、伊勢に非常に近しい人の手になるものと推測されています。
『猿丸集』=書陵部蔵本(御所本三十六人集)

追伸)
文庫になった片桐洋一『古今和歌集前評釈』(講談社学術文庫、2019年2月)の、上巻だけで1092頁という分量に圧倒される本の、その上巻に恐る恐る手を出して、詳しいご説明のなかに、古今集仮名序の古注は公任さんが記したものだ、との伝承もあることを初めて知り、ビックリ仰天しました。またいつか追求したい気持ちがわいております。それはともかく、仮名序の読解に関してだけでも、単に目から鱗が落ちるだけでなく、分量から「衒学的だったりしないだろうか」との先入観を持って読み出すと、まるでその逆で、むしろ、この分量だからこそ過去の衒学的な垢を削ぎ落とせるんだ、と知らされるほど、有益な書であることが分かり、ちょっと感激しております。私なんぞに理解できるかどうか、ではありますが、何ヶ月かかけて、全三冊を読んでみたいと思い始めているところです。・・・あ、上巻を読み終えてから中巻を買うことにします。でないと積ん読必至なので。
また、伊勢やその家集のことを少し知りたくて古本屋さんで見つけた、山下道代『伊勢集の風景』(臨川撰書24、平成15年)は、伝記を追いかけただけだと浮き彫りになりにくい伊勢の気持ちの襞や、伊勢集に混入している他人の歌の読み取りまでを含めて、
「歌ってこんなふうに読むと私たちにも随分と身近になるのね」と思わされる、魅力的なエッセイで充ちていて、分からん物好きがたまたま和歌関連を知りたい、と考えなければ出会えなかっただろうと感じつつ、嬉しく拝読しました。
この二著作は、ぜひお勧めします。

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2019年2月21日 (木)

公任の和歌撰集~前十五番歌合までの編作順について

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公任の和歌撰集~前十五番歌合までの編作順について

【百人一首はなぜ出来た(8)】〜まともに先へ進むのだろうか?

サラリーマンですし、素人ですし、和歌を知ってるわけでもないし、脱線しながら間違いながら(本人は楽しんで)やってます。なんにつけてもそうやってます。そこ大事です(笑)。
もともと「百人一首ってなんで百首なんだ?」程度の疑問から始めたのだったし、いろいろ読むと「あ、なんだ、こんなこと、詳しい人はとっくに分かってるんじゃん」と思うのですが、たいしためっけもんもなく今昔物語集に野次馬したり、勅撰集の作者の数を数えたり、公任さんの人柄へと脇道に逸れたり、が案外面白くて、だらだらここまできました。まあ、誰も読んでくれなくてもやるって感じやってます。

で、そもそも『百人一首』のような撰歌集が出来た大元のアイディアは、どうやら公任さんの『前(さきの)十五番歌合』とか『三十六人撰』らしい、と、岩波文庫の『王朝秀歌選』の解説から勘ぐったのが、私の公任さん追っかけのきっかけになって、ここまで来たのでした。
とりあえず『百人一首』云々はしないで、公任さんの撰歌集を眺めるのが、公任さん追っかけの最終目標です。

さて、『拾遺抄』と『和漢朗詠集』は別として、藤原公任の手になる和歌撰集は4つあります。
『後拾遺和歌集』の序に、
「大納言公任朝臣(中略)わが心にかなへる歌一巻を集めて深き窓にかくす集といへり。今も古へもすぐれたる歌を書き出だして、こがね玉の集となむ名づけたる。」
と言及されている『深窓秘抄(しんそうひしょう)』と『金玉集(きんぎょくしゅう)』は、いずれも歌を春夏秋冬恋雑と部立順にならべたもので、残りの『前十五番歌合』は三十人の作者の歌をそれぞれ一首ずつ左右に番えたもの、『三十六人撰』は文字通り三十六人の作者の和歌を6人の作者については10首ずつ、他の作者30人については3首ずつ選んで合計150首を載せたものです。
以上のうち『金玉集』については、『梁塵秘抄』巻第一のなかでも
「聞くにおかしき和哥の集は、後撰古今拾遺抄、新撰金玉朗詠集、六帖前後の十五番」
と、紀貫之の『新撰和歌』、公任自身の『和漢朗詠集』と並んで歌われていて、わりと流布していたものかと思われます。

『深窓秘抄』と『金玉集』は、後拾遺の序にこの順で現われること、前者のほうが歌数がやや多く、後者のほうが整理された印象を受けたことから、この順番で作られたもの、と思っておりました。
かつ、「『前十五番歌合』の三十首中二十二首までが『金玉集』に見出され」(樋口芳麻呂『王朝秀歌選』解説、岩波文庫p.219 1983年)、『前十五番歌合』は『金玉集』に負うところが多いと考えられています。
これを念頭に『深窓秘抄』も併せて読んで行っているうち、もしかしたら時系列が違うんじゃないかな、と感じるようになりました。
いま、公任編の4つの和歌撰集の出来た時系列は、私は
『金玉集』~『前十五番歌合』~『深窓秘抄』~『三十六人撰』
と考えているところです。(『後十五番歌合』は『前十五番歌合』の続編の性格を持ちながらも、公任撰ではあるまい、とも、いや、公任撰だ、とも、意見が分かれていますので、今は考えないことにしました。)

こんな時系列で考えるようになった理由を述べてまいります。

公任の小規模な和歌撰のゴールと見てよいかと思われる『三十六人撰』は、巻頭を柿本人麻呂の十首、続けて紀貫之の十首で飾っています。この理由は明確になっているようです。
『前十五番歌合』では、巻頭を飾っていたのは貫之のほうでした。それが不満だった具平親王が公任と人麻呂と貫之の優劣論を交わし合い、二人の間で人麻呂・貫之十首歌合が行なわれた結果、人麻呂の圧勝となって、公任は人麻呂の価値に蒙を啓かれた、と、『袋草紙』等が伝えている由(『王朝秀歌選』三十六人選前説、巻尾解説参照)。
すると、ここでのポイントは、『三十六人撰』では巻頭に人麻呂の歌が配されている、というところとなります(人麻呂の真作かどうかは別の話で、あくまで作者名として人麻呂が最初に現われるのがポイントです)。

このことを念頭に『深窓秘抄』と『金玉集』を眺めてみましょう。

後者の『金玉集』の巻頭歌は、凡河内躬恒のものです。躬恒は、『前十五番歌合』で、いの一番に貫之と番えられている作者です。一方、『深窓秘抄』の巻頭歌の作者は、「ひとまろ」です。

※『金玉集』収載の78首の和歌で、「雑」の部に入る32首(別歌10首を含む)のうち16首(内別歌3首)が詞書を持ちます。春の部の3首(22首中)も詞書を持ちます。一方、『深窓秘抄』収載の101首の和歌で詞書を持つものは、ひとつもありません。『深窓秘抄』は歌そのものにだけ着目していることがあきらかです。

※それぞれの集の構成歌と『前十五番歌合』収載の歌との関連も見てみましょう。
『金玉集』と『前十五番歌合』に共通する歌は、『王朝秀歌選』の解説にもあるとおり、22首です。では、共通しない8首については、どんな現象が見られるでしょう?
具体的に歌を眺めておいたほうがはっきり分かりますので、『前十五番歌合』を載せます。歌の末尾に「金」とあるのは『金玉集』に、「窓」とあるのは『深窓秘抄』に載っているものです。その後の数字は、『金玉集』にはない歌に順に番号を振ったものです。


『前十五番歌合  上古』
 ~古典文庫の表記に依り、漢字は分かりやすいものにしました。

  一番
                   貫 之
桜ちる木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降ける (金・窓)
                   躬 恒
我宿の花みがてらに来る人はちりなん後ぞこひしかるべき(金・窓)

  二番
                   素 性
いまこんといひしばかりに長月の有明の月を待出るかな(金・窓)
                   伊 勢
ちりちらずきかまほしきを古郷の花みて帰る人もあはなん(金・窓)

  三番
                   業 平
世中に絶て桜のなかりせば春の心はのどけからまし(金・窓)
                   遍 昭
末の露もとの雫や世中のをくれさきだつためしなるらん(窓)1

  四番
                   忠 岑
春たつといふばかりにやみよしゝの山も霞て今朝はみゆらん(金・窓)
                   能 宣
ちとせまでちぎりし松もけふよりは君にひかれて万代やへん(金・窓~春)
(金玉集=千とせまでかぎれる松も イ)

  五番
                   公 忠
行やらで山路暮しつ郭公今一声のきかまほしさに(金・窓)
                   忠 見
さ夜更てね覚ざりせば郭公人伝にこそきくべかりけれ(金・窓)

  六番
                   兼 輔
人の親の心はやみにあらね共子を思ふみちにまどひぬる哉(窓)2
              土御門中納言朝忠
あふことの絶てしなくば中々に人をも身をもうらみざらまし(金~冬・窓~秋)

  七番
                   友 則
夕さればさほのかはらの河ぎりに友まどはせる千鳥鳴也(金~冬・窓~秋)
                   清 正
天津風ふけ井の浦にゐる田鶴のなどか雲ゐにかへらざるべき 3

  八番
                  小野小町
色みえでうつろふ物は世中の人の心の花にざりける 4
                   元 輔 
秋の野の萩のにしきを我やどに鹿の音ながらうつしてしがな 5

  九番
                   惟 則
みよしのゝ山の白雪つもるらし古さと寒く成まさる也(金・窓)
                   元 真
としごとの春のわかれをあはれとも人にをくるゝ人ぞしりける(金~雑・窓~雑)

  十番
                   仲 文
有明の月の光をまつほどにわがよのいたくふけにける哉(金~雑・窓~雑)
                   輔 昭
まだしらぬ古里人はけふまでにこむとたのめし我を待らん(金・窓)

  十一番
                  斎宮女御
琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけん(金~雑・窓~雑)
                   小大君
岩はしの夜の契りも絶ぬべしあくるわびしきかつらぎの神(金・窓)

  十二番
                  傅殿母上
嘆きつゝ独ぬるよのあくるまはいかに久しき物とかはしる 6
                  帥殿母上
わすれじの行末まではかたければけふを限りの命とも哉 7

  十三番
                   重 之
やかずとも草はもえなん春日野をたゞ春の日に任せたらなん(金・窓)
                   順
水の面にてる月なみをかぞふればこよひぞ秋の最中成ける(窓~秋)8

  十四番
                   兼 盛
かぞふれば我身につもる年月ををくりむかふと何いそぐらん(金~冬・窓~冬)
                   中 務
うぐひすの声なかりせば雪きえぬ山里いかで春をしらまし(金・窓)

  十五番
                   人 麿
ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島かくれ行舟をしぞ思ふ(金・窓)
                   赤 人                   
和歌の浦に汐みちくればかたをなみ蘆べをさして田鶴鳴渡る(金・窓)


以上、『金玉集』にはない8首のうち、『深窓秘抄』には載っているものが3首あります。遍昭の和歌(1)は後に新古今に入集するもの、兼輔(2)は後撰集に既出、順(したごう、8)は拾遺抄にあるもので、そのまま拾遺和歌集に取り入れられています。
『深窓秘抄』にも載っていない5首のうち、3首が女性の作者です。
この女性の作者たちについて見ますと、小野小町と帥殿母上は『金玉集』でも『深窓秘抄』でもまったく採り上げられていません。傅殿母上は『金玉集』雑の部の12首めと、『深窓秘抄』雑の部の後ろから3番目に、べつの歌が載せられています。『金玉集』と『深窓秘抄』で比べても、傅殿母上の歌は違うものです。
残り二人の男性の作者のほうも見ておきますと、元輔が『金玉集』雑の部に、清正が『深窓秘抄』では秋の歌に登場します。『三十六人撰』には双方とも現われます。

※戻りますと、読人知らずの歌は、『金玉集』には10首、『深窓秘抄』9首で、数の面では差異がありません。

女性の作者について登場順に並べて見ておくと、
『金玉集』~中務・伊勢・斎宮女御・傅の殿の母(傅殿母上)・小大君・遊女しろめ
『深窓秘抄』~中務・伊勢・愛宮(源高明室)・斎宮女御・小大君・白女(遊女しろめ)・傅母氏(傅殿母上)
で、双方で若干の揺らぎがありますが、同じ作者の登場順は両者でほぼ同じです。ついでながら、これらの人々の中から『三十六人撰』に残ることになる女性作者は、伊勢・斎宮女御・中務の3人で、これに『金玉集』にも『深窓秘抄』にもあらわれない小野小町が加わります。先に言いましたように、小野小町は『前十五番歌合』には登場します。

以上をまとめてみますと、
1)『深窓秘抄』が巻頭に人麿歌を上げている
2)『深窓秘抄』は詞書を排して歌を掲載しており、『十五番歌合』や『三十六人撰』の姿勢に近い
3)『十五番歌合』の歌で『金玉集』にない8首のうち3首が『深窓秘抄』にはある
4)ただし、読人知らずの歌数、女性の作者の採り上げ方に『金玉集』と『深窓秘抄」では大きな差はなく、両集に未掲載の男性作者は各集でひとりずつ載っている
という具合です。男性作者2名は『三十六人撰』でどちらも採り上げられますので、『金玉集』も『深窓秘抄』も、いずれも『三十六人撰』より前に編まれたと推測しても、妥当性の保証はないものの、不自然にはならないと思います。

1)からして『深窓秘抄』は人麻呂に重きをおくようになってからの撰歌集とみてよいのではないかと思われますし、すると『前十五番歌合』よりは後に位置づけられることになると考えたいところです。
2)からは『深窓秘抄』が『前十五番歌合』と同じような時期に考えて編まれたもののように見え、かつ3)からも『前十五番歌合』と密接な関係にあることが窺われるようであり、4)から『深窓秘抄』はこのようなタイミングで『金玉集』を下敷きに編まれたものであると見なせるかと思います。
以上から、おのずと
『金玉集』~『前十五番歌合』~『深窓秘抄』~『三十六人撰』
の編著の時系列が導かれるものと考えます。

難点がありまして、群書類従に載った『金玉集』では最初に「倭歌得業生柿本末成撰」との署名があり、この署名に人麻呂尊重の意志がみてとれることです。これが『金玉集』を人に写させるようになってからわざと加えた署名なのだ、と言える証拠はどこにもありません。ただし、下にリンクを上げる書陵部蔵の写本にはこの署名はありません。

『前十五番歌合』の和歌の性質について、ひとことだけしますと、歌の上三句の「本(もと)」に作者の思いが述べられたものは三十首中に一首もありません。思いはみな「末(すゑ)」で表明されています。これは公任が『新撰髄脳』で
「いにしへの人おほく本(もと)に歌まくらを置て、末に思ふ心をあらはす。さるをなん、中頃よりはさしもあらねど、はじめにおもふ事をいひあらはしたる、なほつらき事になんする。」
と述べていた価値観に、ぴったり添っていると言ってよいでしょう。

なお、『深窓秘抄』『前十五番歌合』のそれぞれの歌について説明したサイトは、検索するといくつも見つかります。歌そのものを味わうには、そうしたサイトを探して下さいませ。

歌の解説:
『前十五番歌合』 https://mukei-r.net/waka-kintou/15ban-utaawase.htm
『深窓秘抄』 https://mukei-r.net/waka-kintou/sinsou-hisyou.htm

前十五番歌合の写本の画像:
国文学研究資料館(肥前松平文庫) http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0358-16709&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%89%8D%E5%8D%81%E4%BA%94%E7%95%AA%E6%AD%8C%E5%90%88%EF%BC%8F%E5%BE%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E7%95%AA%E6%AD%8C%E5%90%88%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=1

金玉集の写本の画像:
宮内庁書陵部(柿本末成撰の語なし) http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-32012

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2019年2月16日 (土)

公任の和歌観

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公任の和歌観

【百人一首はなぜ出来た(7)】~ちょっとだけ前進?

(片桐洋一『古今和歌集全評釈』が全三巻で講談社学術文庫になりましたけど・・・あたしゃこれは読み切れそうにないや 涙)

人生の半ばから藤原道長への追従に生きて世の顰蹙も買った、とか、道長息の経通さんに嫁がせた娘さんが亡くなると世間への執着も失せて出家した、とか、馬鹿息子を溺愛していた、とか、そんなあたりまで詮索するのは目的ではないので(詮索してるって 笑)、公任さんがどんな人だったか、への野次馬は終わりにします。私たち素人でも読める伝記は絶版となった『王朝の歌人7 余情美を歌う 藤原公任』(小町谷照彦 集英社 1985)くらいしか見つけられませんでしたが、公任の和歌を中心に、その内面をも窺わせてくれる、良い本でした。ご興味があったら読んでみて下さい。

公任と言えば和歌、和歌と言えば公任、という評価は同時代人に定着していたもので、『枕草子』には清少納言が公任から人づてに「すこし春ある心地こそすれ」と書かれた懐紙を渡され、思案の末に上の句を「空さむみ花にまがへてちる雪に とわななくわななく」書いて返事に渡して、「いかに思ふらんとわびし」と複雑な心境に陥った話がありますし(百六段「二月つもごり頃に」)、『紫式部日記』にも、道長の娘、彰子が一条天皇の皇子を産んだ後の産養(うぶやしなひ)の祝宴に公任も臨席して歌の会があって、そのとき女房たちが公任に「盃を受けて歌を詠め」と指名を受けたらどうしようか、「歌をばさるものにて、声づかひ用意すべし(歌はひとまずどうであっても、発声とかイントネーションとかは良くできるように準備しておかなくっちゃ)、とささめきあらそふ」状態だったことが書かれています(岩波文庫版ならp.25)。こうした公任の名声は、第三の勅撰集である拾遺和歌集の母体となった拾遺抄を編んだのが公任その人だったことでいっそう定着してもいたのでしょう。やはり『紫式部日記』に、「よべの御おくり物(中略)つくりたる御冊子ども、古今後撰拾遺抄」(岩波文庫版 p.49)の記述があるところから、拾遺抄の世間での評価の高さが窺われますし、当然、その編者も高く評価されていたと言って差し支えないかと思います。

評価の高い公任が他にも和歌の撰集を著していたとなると、そこに反映された和歌観は、同時代を代表するものとなった、と考えても良いのではないか、と思われます。あるいはまた、その時代の和歌観の代表的なものが、公任の和歌撰に浸透している、と見てもいいのかも知れません。
漢詩と和歌が声に出して歌われることを目的とした『和漢朗詠集』については、今は視野の外に置きます。
和歌だけの撰集は、『深窓秘抄』~『金玉集』(重箱読み禁止!)~『前十五番歌合』~(『後十五番歌合』~)『三十六人撰』と、おそらくこういう流れで、公任の手で編まれて行くことになりますが、この流れの中で公任は何を基準にしながらどう考えを整理発展させていったのでしょうか。

公任には「歌とはこういうもの」を簡潔にまとめた『新撰随脳』(随脳=奥義、心髄)という著作があります。公任が大きな役割を果たした『拾遺和歌集』の次の勅撰集『後拾遺和歌集』序文に、公任が「ここの品のやまと歌を撰びて人にさとし」た、とある『和歌九品』で、公任は具体的に十八首を二首ずつ上品上、上中、上下、中上、中中、中下、(下)上、下中、下下と並べて和歌のあるべき姿を呈示している(「上品上 これはことばたへにしてあまりの心さへある也。・・・下下 詞とどこほりておかしき所なき也」)のですが、では歌は具体的にどう詠めば良いのか、を綴ってあるのが『新撰随脳』です。そんなに長いものではなく、次に掲げる冒頭部以降は具体的に歌を上げながら方法論とでも言うべきものを展開しています。
基本的にはこの冒頭部が公任の言いたいことの骨子となっています。

歌のさま三十一字惣して五句あり。上の三句をば本(もと)と云、下の二句をば末といふ。一字二字のあまりたりとも、うちよむに例にたがはねばくせとせず。凡(およそ)歌は心ふかく姿きよげにて、心にをかしき所あるを、すぐれたるといふべし。事多く添(そへ)くさりてやと見ゆるがいとわろきなり。一筋にすくよかになんよむべき。心すがたあひぐする事かたくば、まづ心をとるべし。つひに心深からずば、姿をいたはるべし。そのかたちといふは、うちきゝきよげに故ありて、文字はめづらしく添へなどしたる也。ともにえずなりなば、いにしへの人おほく本(もと)に歌まくらを置て、末に思ふ心をあらはす。さるをなん、中頃よりはさしもあらねど、はじめにおもふ事をいひあらはしたる、なほつらき事になんする。

(現代語訳)
歌というものは三十一文字で全体で五句ある。上(かみ)の三句のことを「もと」といい、下(しも)の二句のことを「すえ」という。一字や二字あまってしまっていても、思い切って詠む時に通例からはずれていなければ欠点となしない。およそ歌は思慮深くて整っており、心に興趣があるのを、優れているというべきである。盛り込まれている事象が多くて加えたことが入り組んでいるように見えるのがあまりよくないようだ。ひとすじにしっかりと詠むべきである。心と見た目を双方備えることが難しいなら、まず心を取るのがよい。どうしても思慮が深くないのであれば、かたちを大事にすればよい。そのかたちというのは、耳にするとすっきりしていて品格があり、文字はふさわしいように添えたりしたものである。(心も姿も)昔の人は多くの場合「もと」に歌枕を置いて、「すえ」に思う心を表明している。そうであるとはいっても、少し前から以来はそれほどではないけれども、始めに思うことを表明してしまうのは、やはり耐え難いものである。

非常にスッキリしています。(『和歌九品』、『新撰随脳』とも、原文は古典文庫『公任歌論集』を参照しました。)
歌(和歌)の作りそのものに焦点をあてているところが、中古の和歌論の嚆矢である「古今集仮名序」から一歩進んでいるところかと思います。「古今集仮名序」は紀貫之の熱い思いがこもったものか、和歌とはこういうものだ、という話が豊かに展開されていますが、和歌をかく詠むべし、というところは、いわゆる六歌仙に対する評言で品位をめぐって言われているに過ぎず、どうであるのが良い、との技術論はなく、貫之自身の手になる本文には具体例さえ上げられていません(具体例は後年誰かが書き入れた「古注」によって加えられているものです)。
僧正遍昭は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。絵にかける女を見て、いたづらに心をうごかすがごとし。
とか
文屋康秀は、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人(商人)のよき衣着たらむがごとし。
といった具合です。(角川文庫『古今和歌集』)
比較は出来ないかも知れませんが、和歌に対する観念の抽象度は、公任の記述のほうが高い、と感じておくのは許される気がします。つまり、和歌の詠まれる機会や和歌の多様性がどんなものかよりも、和歌そのものののスタイルのほうが、公任の見方の中では比重が大きくなっているように見えます。

『古今集』や『後撰集』がわりと歌の詠まれた機会、背景を大事にしているのに対し、批判的にではありませんが、おそらく意図的に、歌を背景的なものとは独立したものとする姿勢を採っていることが、公任の当代の、直接間接の度合いは分からないながら公任の関与が深い勅撰集である『拾遺和歌集』の、詞書の特徴から見て取れると思います。

春上の最初の十首が詞書と共に並ぶ様子を見てみましょう。
(作者名は省きます。)

『拾遺和歌集』
 平良文が家の歌合に詠み侍りける(④)
春たつといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらむ
 承平四年中宮の賀し侍りける時の御屏風に(④)
春霞たてるを見ればあらたまの年は山よりこゆるなりけり
 霞を詠み侍りける(②)
昨日こそ年は暮れしか春がすみかすがの山にはや立ちにけり
 冷泉院春宮におはしましける時、歌奉れとおほせられければ(③)
吉野山みねの白雪いつ消えてけさは霞のたちかはるらむ
 延喜の御時月次の御屏風に(④)
あらたまの年たちかへるあしたより待たるるものは鶯のこゑ
 天暦の御時の歌合に(④)
氷だにとまらぬ春の谷風にまだうちとけぬうぐひすの声
 題知らず(①)
春たちてあしたの原の雪みればまだふる年の心地こそすれ
 貞文が家の歌合に(④)
春たちてなほふる雪は梅の花咲くほどもなく散るかとぞ見る
 題知らず(①)
わがやどの梅にならひてみ吉野の山の雪をも花とこそ見れ
 天暦十年三月廿九日内裏の歌合に(④)
うぐひすのこゑなかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし
(岩波文庫版、1938年第1刷)

『古今和歌集』
 ふる年に春立ちける日よめる(②)
年のうちに春は来にけり一年をこぞとやいはむ今年とやいはむ
 春立ちける日よめる(②)
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ
 題知らず(①)
春霞立てるやいづこみよしのの吉野の山に雪は降りつつ
 二条の后の春のはじめの歌(②)
雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙今やとくらむ
 題知らず(①)
梅が枝に来ゐる鶯春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつつ
 雪の木に降りかかれるをよめる(②)
春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く
 題知らず(①)
心ざしふかくそめてしをりければ消えあへぬ雪の花と見ゆらむ
 ある人のいはく、前太政大臣の歌なり

 二条の后の春宮の御息所ときこえける時、正月三
 日、御前にめしておほせごとあるあひだに、日は
 照りながら、雪のかしらに降りかかりけるをよま
 せたまひける
(③)
春の日の光にあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき
 雪の降りけるをよめる(②)
霞たち木の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける
 春のはじめによめる(②)
春やとき花やおそきと聞き分かむ鶯だにも鳴かずもあるかな
(角川文庫『新版古今和歌集』、平成21年)

『後撰和歌集』
 正月一日二條の后の宮にて、白き大内袿を賜はりて(③)
降る雪のみのしろ衣うち着つつ春来にけりとおどろかれぬる
 春立つ日よめる(②)
春立つとききつるからに春日山消えあへぬ雪の花とみゆらん
今日よりは荻の焼原かきわけて若菜摘みにとたれを誘はむ
 或人の許に、にひまゐりの女の侍りけるが、月日久しう経て、正月
 の朔日頃、前許されたりけるに、雨の降るをみて
(③)
白雲の上知る今日ぞ春雨の降るにかひある身とは知りぬる
 朱雀院の子日しにおはしましけるに、障ることありて、え仕うまつら
 で、延光の朝臣のもとにつかはしける
(③)
松も引き若菜も摘まずなりぬるをいつしか櫻はやも咲かなん
 院の御返し(③)
松に来る人しなければ春の野の若菜もなにもかひなかりけり
 子日に男の許より、今日は小松引きになんまかる、といへりければ(③)
君のみや野邊に小松を引きに行く我もかたみに摘まん若菜を
 題知らず(①)
霞立つ春日の野邊の若菜にもなりみてしがな人も摘むやと
 子日しにまかりける人におくれてつかはしける(③)
春の野に心をだにもやらぬ身は若菜は摘まで年をこそつめ
 宇多院に子日せんとありければ、式部卿の親王を誘ふとて(③)
故郷の野邊見に行くといふめるをいざもろともに若菜摘みみん
(岩波文庫版、1945年第1刷)

三つの勅撰集の詞書は、
①題知らず
②何々を詠む、暦上のいつに詠む
③個人的にどういう理由だったので詠んだ
④歌合または屏風に寄せる機会に(詠んだ)
に大別できるように思いますが、これが巻頭の10首の詞書で、
古今〜①=3、②=6、③=1、④=0
後撰〜①=1、②=1、③=7、④=0、詞書なし=1
と、②あるいは③のウェイトが大きかったのに対し、
拾遺〜①=2、②=1、③=1、④=6
と、④が大きなウェイトを占めています。
もちろん、それぞれの全体を見れば、ここまでで0だった類いの詞書も存在するのではありますが、巻頭を開いた時の印象は『拾遺和歌集』は『古今和歌集』・『後撰和歌集』とはハッキリと違っている、と見てよいのではないかと思います。

こんなあたりを踏まえて、公任の撰になる『三十六人撰』を眺めたいと思っております。
今はここまでとします。

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2019年2月10日 (日)

モノクロ時代劇のような説話「四条大納言の事と申は、まことやらん」

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モノクロ時代劇のような説話「四条大納言の事と申は、まことやらん」
【百人一首はなぜ出来た(6)】〜ちょっと脱線

古典文庫『公任歌論集』後半の「公任卿説話集」の中に、『宇治拾遺物語』のこの話が引かれていて、読むと、この前見た公任さんの人柄・・・育ちが良すぎて平気で失言もするけど、仕事ぶりは真面目で、心優しいところもあった・・・がにじみ出ているような気がして、やっぱり公任さんの話なんじゃないかな、と思われてならないので、ご紹介します。少し長いお話です。


(宇治拾遺物語 157 或上達部、中将之時逢召人事 巻十二ノ二一)

【原文1】
今は昔、上達部のまだ中将と申ける、内へ參り給ふ道に、法師をとらへて率ていきけるを、「こはなに法師ぞ」と問はせければ、「年比使はれて候主を殺して候物なり」といひたれば、「まことに罪重きわざしたるものにこそ。心うきわざしける物かな」と、なにとなくうちいひて過(ぎ)給(ひ)けるに、此(の)法師、あかき眼なる目のゆゝしくあしげなるして、にらみあげたりければ、よしなき事をもいひてけるかなと、けうとくおぼしめしてすぎ給ひけるに、

【現代語訳1】
今は昔、ある公卿がまだ中将でいらしたとき、参内なさる途中、(検非違使が?)法師を捕えて連行していくのを、「いったい何をしでかした法師なのかな」と仰ったところ、連行している者が「何年も使ってくれていた主人を殺した者なんです」と言うので、「まったく罪の重いことをしてしまったものだね。不愉快なことをしてしまったやつだな」と、なんの気なしに軽く言って通り過ぎると、この法師、不吉で悪そうな赤い瞳をした目で中将を見上げてにらんだので、中将は、つまらないことを言ってしまった、と、疎ましくお思いになってその場を過ぎて行かれたのだったが、

【原文2】
又男をからめて行(き)けるに、「こはなに事したる物ぞ」と、こりずまに問ひければ、「人の家に追ひ入(れ)られて候つる男は逃げてまかりぬれば、これをとらへてまかるなり」といひければ、「別のこともなきものにこそ」とて、そのとらへたる人を見知りたれば、乞ひゆるしてやり給(ふ)。

【現代語訳2】
また別に男を連行していくのを見て、「いったい何をした者なのかな」と、ついさっきしたばかりの失敗にも懲りずに問うたところ、「私どもが人家に追い込んだ男は逃げ去ってしまいましたので、この男のほうを捕えてまいるのです」と言うので、この公卿は「別に悪いこともないのでは」と、男を捕えて連行していくその役人を見知っていたので、頼んで男を許してもらって解放させたのだった。

【原文3】
大方、此(の)心ざまして、人のかなしきめを見るにしたがひて、たすけ給ひける人にて、はじめの法師も、ことよろしくは、乞ひゆるさんとて、とひ給(ひ)けるに、罪の、ことの外に重ければ、さの給(ひ)けるを、法師は、やすからず思ひける。さて、程なく大赦のありければ、法師もゆりにけり。

【現代語訳3】
だいたいにおいて、このような気だてで、誰かがいたましい目にあっているのを見るとお助けになる人で、はじめの法師も、たいした事情でなければ頼んで許させようというのでお問いになったのだったが、法師の罪科が予想と違って重かったので、あんなふうに仰ってしまったのを、法師は穏やかならない思いだった。その後、ほどなく(重罪でも許される)大赦があったので、法師も許されたのだった。

【原文4】
さて月あかかりける夜、みな人はまかで、あるは寝入(ねい)りなどしけるを、この中将、月にめでて、たゝずみ給(ひ)ける程に、物の築地をこえておりけると見給(ふ)程に、うしろよりかきすくひて、とぶやうにして出でぬ。

【現代語訳4】
さて月のとても明るい夜、みんな人はいなくなったり寝入ったりしたのだったけれど、この中将は月に魅せられて留まっていた。すると、何者かが土塀を越えて降りた、と見ているうちに、その者が中将を後ろからさっと抱きかかえて、飛ぶようにしてそこを出た。

【原文5】
あきれまどひて、いかにもおぼしわかぬほどに、おそろしげなる物來集ひて、はるかなる山の、けはしく恐ろしき所へ率て行(き)て、柴のあみたるやうなる物を、たかくつくりたるにさし置きて、「さかしらする人をば、かくぞする。やすきことは、ひとへに罪重くいひなして、悲しきめを見せしかば、其(の)答に、あぶりころさんずるぞ」とて、火を山のごとくたきければ、夢などを見(み)るここちして、わかくきびはなるほどにてはあり、物おぼえ給はず、

【現代語訳5】
驚きかつ動揺して、何が何だか分からないままにいるうち、怖そうな連中が寄り集まって来て、中将を遠い山の険しく恐ろしい所へ連れて行って、柴を編んだようなものを高々と作ったところに中将を放置して、「差し出がましいことをするやつなど、こうしてやるのだ。たいしたことでもないのを、むやみに重罪だと誇張して言って、悲しい目を見せてくれやがったから、その仕返しに炙り殺してやるのさ」と、火を山のように炊いたものだから、夢なんかを見るような心地になって、若くてか弱くもあるころだったので、何も考えることがお出来にならなくて、

【原文6】
熱さはただ熱になりて、たゞ片(かた)時に死ぬべくおぼえ給(ひ)けるに、山のうへより、ゆゝしきかぶら矢を射おこせければ、ある者ども、「こはいかに」と、さわぎける程に、雨のふるやうに射ければ、これら、しばしこなたよりも射けれど、あなたには人の數おほく、え射あふべくもなかりけるにや、火の行衞もしらず、射散らされて逃(げ)て去にけり。

【現代語訳6】
どんどん熱くなっていって、もうほんの少しのうちに死んでしまうだろうとお思いになったところへ、山の上から立派な鏑矢が射込まれてきたので、その場の連中が、「なんなんだこれは」とざわざわするところへ、山の上から今度は矢が雨のように射てきたので、こちらの連中も暫くのあいだこちらからも山の上に矢を射たのだけれども、あちらは人の数も多く、射るのを競い合いきれなかったのだろうか、(編み上げた柴に点けた)火がどうなるかも構わず、射散らされて逃げていなくなった。

【原文7】
其(の)折、男ひとりいできて、「いかに恐ろしくおぼしめしつらん。をのれは、その月の其(の)日、からめられてまかりしを、御徳にゆるされて、世にうれしく、御恩むくひ參らせばやと思(ひ)候(ひ)つるに、法師のことは、あしく仰せられたりとて、日比うかゞひ參らせつるを見て候ほどに、つげ參らせばやと思ひながら、わが身かくて候へばと思ひつるほどに、あからさまに、きとたち離れ參らせて候つる程に、かく候(ひ)つれば、築地をこえて出で候つるに、あひ參らせて候つれども、そこにてとり參らせ候はば、殿も御きずなどもや候はんずらんと思ひて、こゝにてかく射はらひてとり參らせ候つるなり」とて、それより馬にかきのせ申(し)て、たしかに、もとのところへ送り申(し)てんげり。ほのぼのと明(あか)るほどにぞ歸(かへり)給ひける。

【現代語訳7】
そのとき男が一人出て来て、「どれだけ恐ろしくお思いになったことでしょう。私は、某月某日、しょっぴかれて行くところを、あなたさまのおかげで許されて、非常に嬉しく、報恩をしなければと思っておりましたところ、法師のことは、悪く仰ったのだということで、中将様を日頃から付け狙っていたのを見ておりましたので、ご報告申し上げられたらと思っていましたけれども、我が身がこのように付き従っておれば大丈夫だろう、とも思っておりましたところ、少しの間、あなた様からふと離れてしまっているときに、こんなことになってしまって、賊が築地を越えて出て行くのに遭遇したのでしたが、その場でお取り返ししようものならば、殿様も傷をおうけになるかもしれない、と思って、ここに参ってからかように矢を射て追い払ってお取り返ししたのでございます」と言って、それから馬に扶け乗せして、たしかに、もとのところへ送って差し上げたのだった。夜がうっすらと明けて来る頃にお帰りになったのだった。

【原文8】
年おとなになり給(ひ)て、「かゝることにこそあひたりしか」と、人にかたり給(ひ)けるなり。四條大納言のことと(ゝ)申(す)は、まことやらん。

【現代語訳8】
年長になられて、「こんなことに遭遇したのだったよ」とその公卿は人に語られたのだそうだ。四条大納言のことと言われているけれど、本当なのかしらん。


新古典文学大系の注によると、平安時代末期までに「四条大納言」と呼ばれた人は二人いて、公任のほかには、のちの後白河法皇の寵臣だった藤原隆房(『平家物語』で小督という美人さんに失恋しちゃう人)がそうだった、とのことです。そうなると、この説話に「中将」とあるので、中将だったことのあるほうが、この説話の「四条大納言」になるわけです。しかし残念ながら、どちらも中将だった時期があるので、ここからも、どちらの「四条大納言」だったかは特定できません。
あとは「大赦」がポイントかと思われますが、公任が中将だった時期は983-984年、これに近い時期にあったかどうか、ですね。隆房が中将だった時期は私には分かりませんでした。
ただ、公任のほうは後に検非違使別当になっている。隆房にはその経歴がない。この話は検非違使関係っぽい。話の初めのほうで窺われる、考えなしで失言をする公卿の性格も、なんだか公任さんっぽい。
私は、この話の公卿さんは公任さんだと思えてならないのですが、いかがでしょうか?

(古典文のほうのテキストは、駒澤大学総合教育研究部日本文化部門「情報言語学研究室」のテキストデータを使わせて頂き、新古典文学大系42『宇治拾遺物語 古本説話集』の本文と見比べて修正しています。とくに読み仮名はだいぶ省きました。https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/txt_ujisyui.TXT 現代語訳は 新古典文学大系の注を参照しながらざっくりとやりました。)

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2019年2月 7日 (木)

藤原公任という人

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藤原公任という人

【百人一首はなぜ出来た(5)】~端っこにたどり着くまでもうちょっと!

万葉集以前には庶民のものだったかどうか、は、民俗なども突き詰めないと分からないでしょうが、少なくとも「和歌の中興」を真名序に謳った『古今集』の時代以降、徐々に生活水準の高い階層を占めた貴族にも和歌が急速に重んじられていくようになった様子は、三位以上の高位者の詠んだ歌が『古今集』に比べ『後拾遺集』で飛躍的に伸びていること(45首→212首)、歌会ではない遊宴の際に文人が寄せている「序」の調子(例として大江匡衡の綴った漢文を書き下してみました)などから窺うことが出来るなあ、と思って、駆け足なので充分ではありませんが、ここまで見て来たのでした。

そんな和歌に、詩としての成熟をもたらしたのは、歌の言葉に対する紀貫之以来の真摯な姿勢だったことでしょうが、貫之の死の二十年後(生年はおよそ百年後)に生まれた藤原公任が、いっそう重要な役割を果たしたのかな、と感じています。
この人が編んだ『和漢朗詠集』を初めとする様々なアンゾロジーは長く広く読み継がれて残ってきましたし、ごく手短かに残している歌論など実にスッキリとして分かりやすいものです。

でもまず、和歌まわりではなく、藤原公任とはどんな人だったか、を見ておきたいのです。人に読み継がれるようなアンソロジーを幾つも編めたのは、公任さんの、どのような性格によるのか。
またも野次馬話ではあるかもしれませんが。

探ってみると、公任はわりとエピソードの多い人です。道長の同時代の重要人物でしたから、当然『大鏡』や『栄花物語』にも登場しますが、説話集にも結構な頻度で登場します。
古典文庫(会員制だったことで有名、古書店でわりと高値)の一冊である『公任歌論集』は、後半に公任の逸話を様々な古典から豊富に集めていて、便利です。

公任さんは、関白太政大臣にまで至った藤原頼忠という人の、いまでいえば跡取り息子だったためか、総じて、家柄が良いゆえプライドも高く、育ちの良さから軽率な言動もあり、しかし才能豊かで周りの尊敬を受けた、との印象を受ける話が多く残されています。
ただ、先に言ってしまうと、後半生は娘たちに先立たれる悲運に逢っています。
それでも、二十八歳のとき一途に望んで結婚した妻(藤原道兼の養女、昭平親王の娘)とは終生仲が良かった様子が、『栄花物語』の話の数々(『公任歌論集』には26話掲載)から窺われますし、息子の定頼とも良い関係であったことが・・・こちらは和歌説話になりますけれども・・・『俊秘抄』下巻の、定頼が和泉式部の評価を父に聞く話から浮かび上がって来るようです(1029年から、公任の亡くなる1041年までの間の出来事でしょう)。逸話の数々で描かれる、失態の後の自己フォローの様子などにも、公任さんという人の、どこか愛情深くもある、にくめない性格がにじみ出ることも、少なからずある気がします。

中納言昇進のころまでの若い頃に、家と育ちの良さに由来するだろう失言を公任さんがしてしまった話が、幾つかあります。

姉が円融天皇の皇后だったので、当時まだ女御(いわば側室)だった藤原詮子を揶揄する発言をして、次代の一条天皇即位後その生母として皇太后となった詮子の女房に仕返しの言葉を浴びせられた話は、『大鏡』の太政大臣頼忠の項にある有名な逸話です。この時の公任さんの自己フォロー。
「先年の事を思ひおかれたるなり。みづからだにいかがとおもひつることなれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとおぼえしか。」
(先年の僕の失言を根に持ってたのね。僕自身だってどんなもんかと思ってた事だから、仕方ないよね。自分はもうだめだ、とつくづく思っちゃうよ。)

このまえ最後に載せた「三舟ノ才」の逸話は、そのあとに続けて出てきます。こちらは、遊宴で大井川に浮んだ詩・和歌・管絃の舟の「どれに乗る?」と道長に聞かれて和歌の舟を選んで、良い和歌を詠ん人々に誉められたものの、「詩の舟に乗っていたら名声が上がっていただろうに」と言ってみたりしたもので、
かくいづれのみちもぬけいで給けんは、いにしへもはべらぬ事なり(こんなふうに、どんな芸道にも抜きん出たお方がいらっしゃるなどということは、昔もございませんでした)」
との賛辞でしめくくられている逸話ではあるものの、見ようによっては公任さんの軽率な性格を浮き彫りにしているような気もします。
ついでながら、これとは別の時に道長が催した遊覧で公任が詠んだ
滝の音の絶へて久しくなりぬれど名こそ流れて猶ほ聞こえけれ
が、『拾遺集』入集を経て百人一首に採り上げられる事になります。(この和歌は後述の『権記』の長保元年九月十二日に記されています。)

公任さんの軽率な失言としては、他に『十訓抄』第五に、一条天皇の蹴鞠の会で、取りにくい所に落ちた鞠を「父親の身分が大臣や大将に至らなかったやつに行かせましょう」と言って、実際にそうであった藤原行成(有名な歌人でもある父、義孝は少将に至ったところで21歳で早世しています)に拾いにいかせ、行成を悔しがらせた話があります。説話の書き手は「公任卿の非愛(無遠慮)なるにてぞありける」と締めくくっています。

ところが、その悔しがらせた相手、藤原行成の日記『権記』が、検非違使別当で勘解由長官だった頃の公任さんが優れた実務家の顔を持っていたことを、しっかり書きとめています。
長徳四(998)年の記事だけでも、恩赦にあずかる軽犯の囚人のリストを提供したり(3月5日)、、愁訴(今で言う嘆願でしょうか)の裁き方について具申したり(7月13日)、公事は多忙の者にでなく堪えられる者に、との提言をしてみたり(12月16日)、と、詳しい内容までは分かりませんが、「おお、公任さん、仕事してるぞ!」と思わされる記事が、立て続けに出てきます。
長保二(1000)年2月11日に、公任さんは検非違使別当を辞する表を提出します。実際には12月までその任にはあったようですし、翌年五月頃まではなお、検非違使長官的な責務を果たしていた公任さんの姿が『権記』に現われてはいます。けれども、おそらく8月下旬に中納言になってから以降は、公卿の会議の上卿(議長とでも言うべき役割でしょうか)を荷なったり、宮廷や左大臣道長家の重要行事でしばしば大きな役割を果たす場面がもっぱらとなります。

検非違使別当としての公任さんの最大の功績と言えるのは、長徳二(996)年12月
それまで明記されていなかった強盗・窃盗・私鋳銭の刑期を判決文に書かせると決めた事ので、『中右記』永久二(1114)年六月四日条にそのことが書きとめられているのは目にしました。
宮廷行事での大役が多かった公任さんは、これまた有名な『北山抄』という有職故実書を書き残していますが、これはさすがに私は目を通せません。
何事もきちんと整えておくのが性分だったのでしょうか。
そんな中で、公任さんと終生似たような地位を競い合うことになった藤原斉信(ただのぶ、公任の1歳年下)さんとの間に面白い逸話をまたいくつか残しています。

『紫式部日記』でも『権記』でも、奏楽のときは拍子取り(リズムを明示するので管絃では指揮の役割を果たした)が得意だったらしく、しばしばその役割で登場する公任さんですが、後一条天皇の治世のとき、拍子の役を荷なうべく公任さんが座についているところへ、斉信さんが下にすわっていたので、拍子を取る笏を
「お前やってみる?」
と形ばかりさしやってみたところ、遠慮するかと思っていた斉信さんが
「じゃあ」
と拍子を取り始めたのだそうな。本当は自分が拍子を取りたかった公任さん、「しまった」と思ったものの今更どうしようもありません。そのうちに斉信さん、最後まで見事にやりきってしまったのでした。
終わってから公任さん、
「君が拍子とるなんて初めて見たんだけど、いつから出来るようになってたの」
と尋ねたところ、斉信さん、
「おおやけの儀式の事だから、習っておいたんだよ」
と、しれっと答えたのだそうで。
『古事談』第一の四十六話目にある話を、ちょっと勝手に付け加えもして、ざっくりとした現代語にしてみました。
公任さんの斉信さんへの話しかけ方が、公任さんらしい自己フォローのひとつでもあります。
ここまでの話もそうですが、これもあまりまっとうな訳ではないので、この話の原文を掲げておきます。(適宜送り仮名を付します。原文の漢字も一部を仮名にします。)

後一条院の御時、清署堂(大内裏の舞楽院の中にあった由)の御神楽に、公任卿拍子を取るべきにてありけるに、時に臨みて斉信卿の上に坐せらりたりけるに、笏をさし遣りて、気色ばかり譲る由をせられけるに、(斉信さんは)やがて笏をとりて拍子を取らると云々。公任あへなくて始終(始めから終わりまで)これを聞くに、一も失(仕損じ)無ければ、事おはりて後、「いつよりこの事は御沙汰候ふや」と問ひければ、(斉信)「是までは公事なれば習ひて候ふなり」と答へらるると云々。
(浅見和彦・伊東玉美責任編集『新注 古事談』p.41 笠間書院 2010年)

この斉信さん、後に娘を亡くしたとき、少し前に同じ理由で出家していた公任さんを訪ねて、二人で涙ながらの長話をした、と、『栄花物語』に書かれています。
「この大納言(斉信)、入道殿(公任)とは一家にてむつまじき御中(=仲)ぞかし」
と、『栄花物語』の作者は締めくくっています。

で、「ひょっとして公任さんのことかな(四条大納言の事と申は、まことやらん)」とボカして書いてある、実に面白い説話があるのですが、続けるにはちょっと長文だし、それでなくても毎度長くなってしまうので、これは次に回します。

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2019年2月 2日 (土)

平安時代中期の和歌観〜古今集・後撰集和歌所・大井川遊宴

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平安時代中期の和歌観〜古今集・後撰集和歌所・大井川遊宴
【百人一首はなぜ出来た(4)】(いつになったら百人一首?)
和歌作者の社会的階層を、古今集と後拾遺集で対比してみたわけですが、素人サラリーマンのやることとて、それぞれの作者一覧にある経歴から拾ったので、ざっくりしたものにとどまってはいます。実際、古今和歌集を「編め」と命じられたころの、撰者たちの位階は六位以下だったとのことですが、それが数の集計にはきちんと反映されていません(古今集の集計で「通貴」の歌数416に対して「位階不明・六位以下」のそれは23であるのを見ても、撰者の殆どの歌を「通貴」の方に数え入れているのが明らかになります)。

それでもまあ、和歌の[貴族]社会での位置づけは、古今集から2世紀近く経った御拾遺集時代には、だいぶ高まったのだろうな、とは推測できるかと思います。

こうしたなかで、詠む人たちはどのような価値観で和歌そのものを捉えていたのかな、というところを、併せて見ておきたいと思います。

和歌の「素晴らしさ」を強くアピールすることは、古今和歌集の序に始まった、と考えておいて差し支えがないもの、として進めます。

その、仮名序のほうの冒頭。
「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはずの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。」(『新版 古今和歌集』角川文庫15767)
歌(和歌)は人の心にあまねくあるものだ、と印象づけているのですよね。
そしてこれが、このたびおおやけの認めるところとなった、と読者に知らしめるのも、古今和歌集序の大きな役割であったことでしょう。
真名序のほうの、おしまいの部分。こちらのほうが仮名序より分かりやすい気がします。これも同じ文庫本にある書き下し文で挙げておきます。
「陛下(醍醐天皇)の御宇(治世の期間)、今に九載なり(足掛け9年である)。仁(いつくしみ)は秋津洲の外に流れ(日本の外にまで及び)、恵みは筑波山の陰(=こかげ)よりも茂し。淵変じて瀬となるの声、寂々として口を閉ぢ、砂長じて巌となるの頌(ほめうた)、洋々として耳に満てり。既に絶えたる風を継がんと思し、久しく廃れたる道を興さんと欲したまふ。・・・中略・・・是に於いて、重ねて詔有り、奉る所の歌を部類して、勒して二十巻となし、名づけて古今和歌集ち曰ふ。・・・中略・・・適(たまたま)和歌の中興に偶(あ)ひて、吾が道の再び昌(さかり)なることを楽しむ。嗟乎(ああ)、人丸(=柿本人麻呂)既に没したれども、和歌は斯(ここ)に在らずや。時に延喜五年、歳は乙丑に次(やど)る四月十五日、臣貫之等謹みて序す。」


『本朝文粋』(藤原明衡[?-1066]が嵯峨天皇から後一条天皇までの約200年間の詩文(漢文です)を432編集めたもの。岩波書店の新古典文学大系27にあります)には、この古今和歌集真名序も載っていますが(342)、また、後年、紀貫之が醍醐天皇の命で編み始めたものの、貫之の土佐守在任中に天皇が亡くなってしまったために勅撰とはならずに終わった『新撰和歌』の、貫之による序(漢文)が収められています(343)。なんとか『新撰和歌』を編み終わったあとの、貫之の悲嘆の念が迫ってくる名文ですが、今は素通りしておきます。

同じく『本朝文粋』には、古今集の次となる勅撰和歌集、後撰集の撰歌のために、村上天皇の命で和歌所が開かれたときの奉行文というのが載っています。天暦(てんりゃく)五年ですから、西暦951年、古今和歌集序の、ほぼ半世紀後の文章です。古今集後、和歌の社会的位置づけが上昇したのだろうな、と感じさせられる文章です。
素人ですから、正しい読み下し文が作れません。古典仮名遣いにはしません。読み誤りもあるかと思います。どなたでも、ご指導宜しく願い申し上げます!

侍中亜将 和歌所別当を為す御筆宣旨(の)奉行文(『本朝文粋」385)

左親衛藤亜将は当世の賢大夫なり。雄剣(すぐれた剣)腰に在り、抜けば則ち秋霜(厳しく意志が固いこと)三尺、雌黄(詩文を訂正すること)口に自(したが)い、吟また寒玉(高尚であること)一声たり。彼の仙殿の綺筵に跪きて此の宸筆(天子の自筆)の綸命を銜(うけたまわ)るに逮(およ)び、天下いよいよ忠鯁(忠義の意思が固い)橈(ま)がらず、艶情相兼ぬるの臣たるを知る。昔、柿本大夫、英声を万葉に振るい、華山僧正(遍照)、高興を片雲に馳すといえども、而るに唯だ人間の虚詞を伝え、未だ聖上(=天子)の真蹟を賜らず。今に見、古を思うに、尠(すくな)からん希(まれ)ならん。時に天暦五年、辛亥の歳次(としまわり〜テキストに返り点がないので、古今集真名序とは別の読み方にしておきました)、玄英(冬のこと)初換の月(=十月)、朱草まさに尽きんとする時なり。


左親衛藤亜将者当世之賢大夫也。雄剣在腰、抜則秋霜三尺、雌黄自口、吟亦寒玉一声。逮于跪彼仙殿之綺筵、銜此宸筆之綸命、天下弥知忠鯁不橈艶情相兼之臣。昔雖柿本大夫振英声於万葉、華山僧正高興於片雲、而唯伝人間之虚詞、未賜聖上之真蹟。見今思古、尠矣希矣。于時天暦五年歳次辛亥玄英初換之月、朱草将尽之時也。

書いた人は源順(みなもとのしたごう、911-983、平安中期の事辞典『和名類聚抄』の撰集者、梨壺の五人のひとり)。別当(長官)になった左親衛藤亜将は藤原伊尹(ふじわらのこれまさ、924-972、このとき従五位上左近少将、971年には摂政太政大臣にまでなった。藤原行成の祖父)。
僧正遍照が柿本人麻呂と並んで出て来るのはなぜなのか私には分かりませんが、すくなくとも万葉集は勅撰ではなかった、と順は考えていたようですね。


さらに『本朝文粋』には、和歌序というものが、先の古今集真名序、新選和歌序以外に9つ収められています。
皇室へのお祝いの和歌をまとめて献ずるときの序が4編、法華経讃の和歌群に添えた序が1編あって、あと四編が、遊宴のときに貴族たちが詠み合った和歌に寄せての序、とでもいうのでしょうか。

遊宴に際しての詠歌の様子が窺えるものをひとつ読んでみましょう。

暮秋大井河に泛(う)かびておのおの懐(おも)う所を言う和歌の序(『本朝文粋」351)

寛弘(1004-1012)の歳、秋九月、蓬壷(ほうこ、内裏のこと)侍臣二十輩、宴を亀山の下、大井河の上に合し、或は高談艶語、或は糸竹(音楽を奏で)觴詠す(酔っぱらって歌った)。沙鴎は鴛鶯と狎近し(なれなれしく近づき)、紅葉は紈綺(白いあやぎぬ)と紛揉す(入り交じり紛れてしまう)。於戯、今日の興、今日の情、偏に遊泛(船遊び)を好まず、四海の無事を誇るなり。偏に眺望を好まず、三農(平地、山地、湿地での農業)の年(みのり)有るを覩(み)るなり。船を艤(つな)ぐものは摂州刺史(摂津守)、水陸の珍を尽し、令に赴くは翰林主人(文章博士)、花鳥の事を兼ぬ。時に山水秋深く、雲夢のごときは八九有り、煙嵐し日暮れ、風物を記すは以て一二に難(かた)し。憖(なまじい)に和歌を詠じ、聊か老思を慰む。其の詞に曰う。


寛弘歳秋九月、蓬壷侍臣二十輩、合宴亀山之下、大井河之上。或高談艶語、或糸竹觴詠。沙鴎与鴛鶯狎近、紅葉与紈綺紛揉。於戯、今日之興、今日之情、不偏好遊泛、誇四海之無事也、不偏好眺望、覩三農之有年。艤船者摂州刺史、尽水陸之珍、赴令者翰林主人、兼花鳥之事。于時山水秋深、若雲夢者有八九、煙嵐日暮、記風物以難一二。憖詠和歌、聊慰老思。其詞曰。

読めない字、意味の分からんところがいっぱい(笑)。でもニュアンスが分かれば良しとしましょうか。
書いた人は大江匡衡これを書いてさほど経たずに亡くなっているかと思います(寛弘九年没。952-1012)
船に乗って川を下りながら紅葉狩してどんちゃんさわぎしていたけれど、日暮れにはあたりが雨で煙って、歌なんかそんなに詠めなかったんだけど、と、まとめて(誰か偉い人に?)献じる歌がヘタクソかもしれないのを言い訳してる風情、と読みましたが、どうでしょうか。勅撰集関連の緊張はなく、楽しみの際の和歌はくだけた雰囲気で構わないんだ、と捉えていた、ということでしょうか。それでも宴(うたげ)に歌は欠かせないものになっているようです。こうした序が寄せられると言う事は、しかし、楽しんでいるようでも半分は業務なんだ、みたいな感触があるように思います。


大江匡衡が序を書いた、この大井川で、時は違い、ちょっと前になりますけれども、やはり船での遊びで優秀な芸術家だと人々に知らしめるエピソード(大鏡にある「三船(三舟)の才」なる説話で、高校生でも知っているものだそうです)を残したのが、藤原公任です。ネットにけっこう載っかっていて、ビックリしました。

ひととせ、入道殿の大井河に逍遥せさせ給ひしに、作文のふね・管絃の舟・和歌のふねとわかたせ給ひて、そのみちにたへたる人々をのせさせ給ひしに、この大納言のまいりたまへるを、入道殿、「かの大納言、いづれのふねにかのらるべき」
とのたまはすれば、「和歌のふねにのりはべらむ」とのたまひて、よみ給へるぞかし、
 をぐらやまあらしのかぜのさむければ、もみぢのにしききぬ人ぞなき
申うけ給へるかひありてあそばしたりな。御みづからものたまふなるは、「作文のにぞのるべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。くちおしかりけるわざかな。さても殿の『いづれにかとおもふ』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし」とのたまふなる。一事のすぐるるだにあるに、かくいづれのみちもぬけいで給ひけんは、いにしへもはべらぬことなり。
(岩波書店 古典文学大系『大鏡』1960年 p.95-96)

訳はこういうとこに載ってます。すごいねぇ。
http://manapedia.jp/text/3514
https://frkoten.jp/2016/02/19/post-969/
https://nbataro.blog.fc2.com/blog-entry-362.html
http://www.soueiseminar.jp/article/13995335.html

公任にはいくつもの和歌撰があったりし、なかでも「三十六人撰」が「百人一首」に至るまで、後続の歌人たちに大きな影響を残したんだそうですから、次はちょっと、公任さんの追っかけをしないことには始まらないと思っております。
どんな追っかけかたをしようか・・・
あんまし深入りもできないし・・・(笑)

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2019年1月27日 (日)

勅撰集入集歌の作者の社会的位置

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勅撰集入集歌の作者の社会的位置
【百人一首はなぜ出来た(3)】

(百人一首はまだ遠い向こう 笑)

今昔物語集巻第二十四の和歌説話群からみると、和歌が、平安時代の日本人にとって、日常のコミュニケーションの道具だったようにみえます。
ところで、社会といっても、どんな階層の人たちによって、それは重んじられたのでしょう?
鬱陶しいことはなかったのでしょうか?

鬱陶しいこともあったんだろうなあ、という痕跡は、『源氏物語』帚木の、有名な「雨夜の品定め」の中にある
「もののあはれ知り過ぐし、はかなきついでのなさけあり。をかしきにすすめる方なくてよかるべしと見えたるに」
に対する、岩波文庫版での注(2017年刊、p.97、14)から伺えます。
「ことにふれての情趣を過剰に解し、つまらぬ機会なのに風情はたっぷりと、趣向にどんどん走ることなどはなくてもよいのにと見られるのに。不必要なまでに和歌を詠むなどすることを言う。」

「雨夜の品定め」で源氏の君たちに品定めされる女性は、いわゆる貴族の階層でしょう。今昔巻二十四の49話(貧しくて親の盆供養が出来ない女性が仏前に歌を捧げた)などは一見違う階層の人のようですが、必ずしもはっきりしてはいませんね。

和歌が、少なくとも階層の高い人にも大切に思われていただろう痕跡は、日本古代の公的な史書(六国史)の抄出を兼ねて編纂された『日本紀略』に見出されるそうです(『文学史の古今和歌集』第二章「『萬葉』から『古今』へ」」、山崎健司、2007年、和泉書院)。ひとつ紹介します。

延暦二十二年(803年)
[四月]遣唐大使葛野麻呂・副使石川道益に餞を賜ふ。宴の設けの事は、一に(=もっぱら)漢法(=中国風)に依る。酒酣(たけなわ)にして、上(=桓武天皇)葛野麻呂を御床下に喚(め)して酒を賜ふ。天皇歌ひて云ふ、
 
この酒は凡にはあらず平らかに還り来ませといはいたる酒
葛野麻呂涕涙すること雨の如し、宴に侍する群臣の流涕せあるは無し。

和歌は公的であるより私的なメッセージ性を持っていただろう様子がうかがわれる場面だと思います。

桓武天皇のこの場面のおおむね百年たってからの『古今和歌集』以後、和歌は勅撰集に編まれて行く事になるわけですが、そこに和歌を享受した人たちの社会的階層はどのように反映されているでしょうか。
そしてそれは、その後どのように変化して行くのでしょうか。

『古今和歌集』(905年、角川文庫 平成21年刊)と、第四の勅撰集『後拾遺和歌集』(1086年、岩波書店 新日本古典文学大系8)で対比してみましたので、ご覧下さい。
末尾の作者名索引から、ざっくりとやってみたもので、厳密に基準を決めたのでもなく、カウント誤差もあるので、だいたいの傾向が分かる、というくらいに見ておいて頂けたら助かります。(ちゃんと数えるためには、基準もちゃんとし、うたひととつひとつ当たる必要があるでしょう。)

・実数
Kokingosyui1_2

・比率
Kokingosyui2

『古今和歌集』の時代には、「読人知らず」が収録歌数の四割を占めています(実際に数えても四百を越えているところまで確認しました)。それとほぼ同じくらいの割合を占めるのは、位階が四位~五位の貴族たちです。作者の分かる中では、この階層の人数が最も多く、ほぼ半数を占めます。位階の高い人や皇族は人数で15%いるものの、歌数では4%に過ぎません。男女比は人数が8:2、歌数が9:1です。
女性で入集が多いのは伊勢(22首)、小野小町(18首)です。
伊勢の入集経緯を推測した文章に、高野晴代「『古今和歌集』の撰集 —女性歌人伊勢の歌はなぜ選ばれたのか--」(『文学史の古今和歌集』第四章)がありました。専門家さんの読みって、やっぱり凄いです。小野小町は伝未詳ですね。

【追伸】
鈴木宏子『「古今和歌集」の想像力』(NHK出版、2018年12月発行)を手にしました。読んでいる途上ですが、たいへん勉強になります。作者の人数(時代的区分で)も歌数もきちんと数えられていてありがたいです。それによると、古今集の撰者より前の時代の人たちが81人で歌は512首、撰者時代の作者は45人で歌137首、読人知らずは462首の由。・・・あたしゃ数え直ししないと。

『後拾遺和歌集』では、まず「読人知らず」が全歌集に占める割合が6%程度にまで落ちています。数えてみても、恋歌にややまとまって出てくる以外には、少ないです。(「読人知らず」の特徴を時代ごとにとらえることも別に必要になるでしょうね。もし面白い読み物をご存知でしたら、是非お教え下さい。)位階が四位~五位の人たちの割合は相変わらず高いのですが、3割程度にまで落ちています。歌数も全歌集の3割程度です。位階の高い人の占める割合が21%にまで上がり、歌数でも17%に至っています。
『後拾遺和歌集』は女流歌人が目立つことで有名であり、新日本古典文学大系の函帯にも「女歌、隆盛」とあるのですが、実態はどうでしょうか?
『後拾遺和歌集』の作者の男女比は7:3、歌数は6.6:3.4で、歌数のほうが躍進が大きく見られるようです。和泉式部(68首)や相模(39首)、赤染衛門(32首)の入集数が多いことの反映でしょう。出自不明の小弁(こべん)の15首入集などもあります。ただし男性同様、宮中の関係者ばかりではあろうかと思います。

桓武天皇の先ほどの記事から、和歌の位置づけを漢詩との対比で見る必要も感じるのですが、勅撰の漢詩集は3集、827年の『経国集』が全20巻のうち6つの巻しか残っておらず、対比の材料になりません。ただ、残っている『経国集』には太上天皇34(嵯峨院)、皇帝(淳和)4、皇太子(仁明)1の詩が収められているところから、およそ百年後の『古今和歌集』との性質の違いは自ずとあきらかだろうと考えます。
藤原行成の日記(『権記』)の現代語訳の上巻を読んでみましたが、991〜1000年に漢詩の作文会(さくもんかい)の記事は五つ(長徳三【997】年十二月十二日、長保元【999】年九月十三日、同三十日、長保二【1000】年三月二日、同九月二十四日)にありました。長徳三年、長保二年三月のものは左大臣道長主宰、長保元年、長保二年九月のものは内裏での開催です。長保元年九月十三日の作文会の前日に、藤原公任が左大臣道長主宰の遊覧で歌った和歌を載せています。このときは『権記』筆者の行成も和歌を詠んだようです。和歌関連では、行成が東院に参って先日借りた『拾遺抄』を返却し奉った、と、長保元年十二月十四日に記してあります。(倉本一宏、講談社学術文庫、2011年・・・こういう現代語訳があるのは素晴らしいですね。もう尊敬しかありません。)
『権記』長保二年十月十七日の御庚申待ちの記事は面白いものです。一条天皇が出御、侍臣らが酒盛りをして、「或る者は詩句を詠じ、或る者は歌曲を唱し」、大江匡衡に「燕雀が相賀す」なる総合題を考えさせたりしています。

・少なくとも朝廷まわりでは、古今集の時代の和歌は公的色合いは薄く、担い手は中流貴族(会社員で言うと主任〜課長かな)の男性中心だった

・百五十年ほど経った後拾遺の時代になると、どの程度の公的色彩を帯びたかは明確ではないが、位階が上位の人、(それに関係する女性【⑨位階の高い人の母親など・⑧女官として仕えた人】にも和歌を公にすることが浸透して行く。

数字や、上記の若干の記事から読み取れるのは、こんなところでしょうか

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2019年1月19日 (土)

今昔物語集の和歌説話群に見る詠歌場面

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今昔物語集の和歌説話群に見る詠歌場面
【百人一首はなぜ出来た?(2)】

(「百人一首」には、まだまだ到達しません。)

和歌は万葉集以後、とくに古今和歌集以来、勅撰という公的な編纂がなされる恩恵にあずかって、室町時代までの600年もの間、日本でもっとも流布した詩文学となりました。
とくに、前半の八代集と呼ばれる古今(905年)〜新古今(1205年)の時代には、社交の方便として、詠作の素養が非常に重視されていて、10世紀末成立の『源氏物語』でも最初の「桐壺」の巻から、登場する人々が和歌で応答し合う場面が生き生きと描かれています。

『源氏物語』での和歌の応酬は創作の中でのものですが、とくに上の300年の間、実際にはどんな場面で、どのような役割で、和歌が詠まれ、また受け止められていたのでしょうか?

勅撰集の他にもたくさん残されている平安時代の和歌集を、いちいちひもといて探るのが、本来は最も正しいのでしょうが、もっと手軽に俯瞰する方法はないものか、と思案すると、頼りになるのは『今昔物語集』です。
『今昔物語集』は巻第二十四、本朝、附世俗(技術、詩、和歌にまつわる説話を集めてある)の第三十一から最後の第五十七までに、27話の和歌説話を集中して載せています。これによって、この物語集が成立したと推定されている1120年頃までの詠歌場面の概略を観察しようと思います。

まずは、いきなり観察結果を記します。(表は記事の最後に載せます。)

歌集になると、春夏秋冬や恋、羇旅、哀傷などの部立てがありますけれど、そうではなく、和歌の機能に着目して、(結果的にこうなったのですが)
1)調度への記載や行事・旅などの記念〜屏風歌・行事歌・羇旅歌
2)人と人(あるいは霊)との交信目的〜哀悼歌・贈答歌
という具合に、各説話を分類してみますと、次のようになりました。

屏風歌説話〜31,33
行事歌説話〜32.34,46
羇旅歌説話〜35,44,45
哀悼歌説話〜38,39,40,41,42,43
贈答歌説話〜36,37,47,48,49,50,51,52,53,54,55,56,57

1)のタイプが30%、2)のタイプが70%です。

贈答歌説話が最も多いのは、恋をしても贈答、ウィットを伝えるのも贈答、言い訳するのも贈答、と幅が広いので、当たり前と言えば当たり前です。要は、「和歌とはコミュニケーションである」ということが、如実に伺えた、という、何の変哲もない結果ではあります。
とはいえ、それは「ごはんできたよ!」「じゃあ食べに行く」式のストレートなコミュニケーションとは異質なのではあり、「お米がウチにある幸せをあなたに味合わせせてあげる」「それって二人で味わうものだよね」みたいな、一歩間違うと鬱陶しい、でも洗練されている場合にはパッと輝く、心の調味料の利いたコミュニケーションではあったわけです。

例として、短い説話をひとつ上げてみます。亡き親と交信する部類なので、贈答歌説話と捉えておきます。

   七月十五日、盆ヲ立ツル(=盆供養する)女ノ和歌ヲ讀ミシ語 第四十九

 今ハ昔、七月十五日ノ□盆ノ日、イミジク貧シカリケル女ノ、親ノ為ニ食ヲ備フルニタヘズシテ、一ツ着タリケル薄色ノ綾ノ衣ノ表ヲトキテ、瓷(おほとぎ=かたい焼物)ノ盆ニ入レテ、蓮ノ葉ヲ上ニ覆ヒテ愛宕寺ニ持チ参リテ、伏シ禮ミテ泣キテイニケリ。其ノ後、人怪シムデ寄リテ此ヲ見レバ、蓮ノ葉ニカク書キタリ。
 タテマツルハチスノ上ノ露バカリコレヲアハレノミヨノ佛ニ
ト。人々コレヲ見テ皆アハレガリケリ。其ノ人ト云フハ知ラデ止ミニケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。

で、これに限らず、ここに27ある話は説話だから創作ではないのか、と疑われる可能性もあります。
これについては、しかし、ほとんどの場合、少なくとも事実に基づいたものだ、と言える裏付けがあります。和歌に付随する詞書が、それです。
話中の和歌全72首のうち、勅撰集に掲載されている44首(61%)は、一首を除き勅撰集上では詞書と共に記されています。しかも、おおむねすべての詞書が、『今昔物語集』上の説話と場面が一致しています。
一首だけ勅撰集上で詞書のない歌がありますが、作者の家集(具体的には『伊勢集』)のほうでは詞書があって、そちらで詞書と説話の場面の一致が確認できます。
例外は(贈答歌説話と見ましたが)第五十三で、藤原道長の部下が歌で機知を披露した説話になっているものの、本当は屏風歌であったことが勅撰集側の詞書から分かるもののみです。
(以上、詳細は省きます。後の表で勅撰集の掲載箇所を確認していただければと思います。)

説話中の歌が勅撰集には見当たらないものが28首ほどあります。そうした歌ばかりの説話はおおむね6話だけです(勅撰集歌とそうでない歌の混じっている話が他に数話あります)。
そのうちの2話は『伊勢物語』を引き写したものに少しだけ潤色してあります。これだけが明確に創作性が強いかと思われます(ただし『今昔』の作者によるのではなく、『伊勢物語』の作者による創作。具体的には羇旅歌説話と見た第三十五、贈答歌説話とみた第三十六です)。
他に、紀貫之『土佐日記』にオリジナルのエピソードがある(ただし『今昔物語集』は異文となっている)第四十三があります。『土佐日記』が事実をもとにしたものだ、と前提すれば、これはまるきりの創作にはあたりません。
残る4話は典拠がまったく分かりません。中に、上の第四十九も含まれます。が、これらの説話は、この和歌説話群のなかで、最も具体的場面を胸の内に浮かべやすく、イキイキしている気がします。

『今昔物語集』和歌説話群の各々が(おそらくは和歌に付いていた詞書をもとに)作者(編者)の手でどのように潤色されたのか、を考えるのは、非常に面白い作業になりそうです。でも、そちらに走ると、今の主目的から逸れてしまいますので、ひとまず断念します。印象だけを言っておきますと、
・詞書を少しだけ加除した、あるいはそれを幾つか連ねた
(34、38、39、46、47、51、52、57)
・詞書から連想を膨らませた
(37、44、45、50、55、56)
・詞書以外の資料を駆使して話を詳しくした
(31、32、33、40、53、54)
の三種に分けられる気がしています。これはいつかの楽しみにとっておきます。

ついでですが、和歌説話群で、どの勅撰集の歌が何首あるかを数えると、次のようになります。
 古今5、後饌0、拾遺13、後拾遺24、金葉1、詞花1
圧倒的に後拾遺和歌集掲載のものが多く(55%)、あとは拾遺和歌集掲載のものが目立ち(30%)、古今和歌集からの5首は説話の成り立ちから古今集との直接的な関係が推測される特殊な立ち位置にあり、残り2首は『今昔物語集』の成立時期を暗示しているように見えます。

じつは、講談社学術文庫で『今昔物語集』全巻に註を施されていた国東文磨さん(2012年ご逝去の由)に『今昔物語作者考』なる面白いご著作があり、今昔物語集の作者は、金葉和歌集の撰者である源俊頼だ、との説を唱えていらっしゃいます。その冒頭のお話が『今昔物語集』中に不意に現われる地名と俊頼の活動範囲の照合にあてられていて説得力があります。間違いない説だ、と強く感じさせられてしまいます。ところが和歌説話群も含め各話での考証になると曖昧さが増してしまい、確証に至らずに終わってしまっています。
それでも、和歌説話群と照応する勅撰集掲載和歌をざっと眺めてみると、少なくともこの説話群については「俊頼が作者〜編者でいいんじゃないかな」と、じわじわ思われてきたりします。
作者が誰かを一旦おいて、類話のかたまりから『今昔物語集』の特徴をあらためてあぶり出したら、また面白かろうと思っております。
・・・惜しいですが、そちらへの脱線は、いまは諦めておきます。

ともあれ、『今昔物語集』の和歌説話群は、もとの和歌に添えられている詞書を根拠に(潤色が多々あるとしても)事実起因性がほぼ明確であり、和歌が当時の人々のコミュニケーションに欠かせないものとしてあったことを如実に示していると言えるのは確認できたかと思います。

古今集と直接関係するだろう第四十五を、古今集と対比しておしまいにします。

(今昔)
   小野篁、隠岐國ニ流サルル時、和歌ヲ讀ミシ語 第四十五

 今ハ昔、小野篁ト云フ人アリケリ。事アリテ隠岐國ニ流サレケル時、船ニ乗リテ出デ立ツトテ、京ニ知リタル人ノ許ニカク讀ミテ遣リケル。
 
ワタノ原ヤソ島カケテ漕ギ出デヌト人ニハツゲヨアマノ釣舟
ト。明石ト云フ所ニ行キテ、其ノ夜宿リテ、九月バカリノ事ナリケレバ。曙ニ寝ラレデ眺メヰタルニ、船ノ行クガ島隠レスルヲ見テ、アハレト思ヒテ、カクナム讀ミケル。
 
ホノボノトアカシノ浦ノ朝霧ニ島ガクレ行ク舟ヲシゾ思フ
ト云ヒテゾ泣キケル。コレハ篁ガ返リテ語リケルヲ聞キテ語リケルヲ伝ヘタルトヤ。

(古今集)
古今和歌集巻第九
 羇旅歌

406(略、安倍仲麿 天の原 前に短い詞書、後ろに長い詞書〜今昔24-44参照)

  隠岐の国に流されける時に、船に乗りて出でたつ
407 
わたの原八十島かけて漕ぎ出ぬと人にはつげよ海人の釣り舟

  題知らず                   よみ人知らず
408 都出でて今日みかの原泉川川風寒し衣かせ山
409 
ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島がくれゆく船をしぞ思ふ
    この歌は、ある人のいはく、柿本人麿が歌なり

 以下略

参照した古典原文は以下のテキストによりました。念のため。
*『今昔物語集』本朝世俗部上巻 佐藤謙三校注 角川文庫 平成11年 41版
 〜ただし平仮名本文
*『新版 古今和歌集』高田祐彦訳註 角川文庫 平成27年 8版
*『拾遺和歌集』武田祐吉校訂 岩波文庫 1994年 第5刷
*『後拾遺和歌集』西下経一校訂 岩波文庫 1994年 第4刷
*『金葉和歌集』松田武夫校訂 岩波文庫 1983年 第2刷
*『詞花和歌集』松田武夫校訂 岩波文庫 1994年 第4刷
*『小町集/業平集/遍昭集/素性集/伊勢集/猿丸集』和歌文学大系18巻 明治書院
*『伊勢物語』大津有一校注 岩波文庫 2002年 第50刷
*『栄花物語』三条西公正校訂 岩波文庫 上巻 1997年 第8刷
*『土佐日記 貫之集』木村正中校注 新潮日本古典集成 平成24年 5刷


(長くなりますが、下調べ時のメモを以下に貼っておきます。)
(作者考=『今昔物語集作者考』国東文磨 武蔵野書院 昭和60年初版)

【今昔物語巻第二十五の和歌説話(概略)】
31 屏風に書く和歌 伊勢御息所(延喜帝) 拾遺集49(春)
  斎院の屏風に山道ゆく人ある所
 散り散らずきかまほしくを故郷の花みてかへる人もあはなむ
  角~77行、詳細話

32 花見の際の和歌 中納言藤原敦忠 拾遺集1055(春雑)
  延喜の御時、南殿にちりつみて侍りける花をみて 源公忠朝臣(作者違い)
 殿守の伴のみやつこ心あらばこの春ばかり朝ぎよめすな
  角~27行、詳細話

33 屏風に書く和歌 公任 拾遺集1070(春雑)作者考p.281
  左大臣のむすめの中宮の料に調じ侍りける屏風に  右衛門督公任
 紫の雲とぞみゆる藤の花いかなる宿のしるしなるらむ
栄花物語「かがやく藤壷」岩上p.173
(6行)・・・又四條の公在(任の誤りか?)の宰相など詠み給へる。
藤の咲きたる所に、
  紫の雲とぞみゆる藤の花いかなる宿のしるしなるらん
  角~33行、詳細話

34 白川の家での遊び 他(短い8話の列挙) 公任 
 拾遺集~春きてぞ・・・・1015(春雑、詞書あり)右衛門督
 詞花集~古を・・・・・・389(雑下、詞書あり)前大納言
 後拾遺~すむとても・・・257(秋上、詞書あり)前大納言
 後拾遺~落ちつもる・・・377(冬、巻頭歌、詞書あり)前大納言
 後拾遺~降る雪は・・・・417(冬、詞書あり)前大納言
 後拾遺~おしなべて・・・983(雑三、詞書あり)前大納言
 拾遺集~思ひ知る・・・・1335(哀傷、詞書あり)右衛門督
 後拾遺~山里の・・・・・359(秋下、年次入り詞書あり)前大納言

栄花物語「ゆふしで」(岩中p.151)~屏風歌のくだり(p.150~152)
 四條の大納言、別に二首奉らせ給へり。(略)
  山里の紅葉見るとや思ふらん散り果ててこそ訪ふべかりけれ
 角~31行、詞書に補足的な話が付く

35 東国下りの旅の和歌 業平 古今集、伊勢物語9
  伊勢物語9に一致、言葉をやや改変~古今集にはよらないであろう
  (伊勢物語のほうが、古今集の詞書を参照しつつ編まれたかと思われる)

36 女性との贈答の和歌・花見の際の和歌 業平 古今集、伊勢物語
  伊勢物語99、82、83の複合
  99~潤色
  82~後半のみ、説明的短縮
  83~後半のみ、説明的短縮

37 東国下りの旅の和歌 実方中将 後拾遺集、古事談第二 作者考p.125
  やすらはで=後拾遺1137(雑五)~詞書あり
  見むといひし=後拾遺570(哀傷)~詞書あり
  うたた寝の=後拾遺563(哀傷)~詞書あり
 詞書に説明を加えたものを3つ繋げた感じ

38 藤原道信が父を悼む和歌 拾遺集・後拾遺集・玉葉集 作者考p.288
(清原元輔作が混じる)
  限りあれば=拾遺集1293(哀傷)~詞書あり、膨らましてある
  あさがほを=拾遺集1283(哀傷)~詞書あり、膨らましてある
  みるひとも~勅撰集に対応なし
  よそなれど~勅撰集に対応なし
  わが宿の~勅撰集に対応なし
  桂川~~勅撰集に対応なし
  思ひいづや=玉葉集~勅撰集に対応なし
  おいのきく~勅撰集に対応なし
  吹く風の~勅撰集に対応なし
  秋深み~勅撰集に対応なし
  君がへむ~勅撰集に対応なし
  そむけども~勅撰集に対応なし
  天の原遥かに照らす=後拾遺969、詞書あり
  別れぢの=後拾遺(わかれての)465、詞書あり
  たれが世も=後拾遺470、詞書あり
  あかずして~勅撰集に対応なし
  行く先の=拾遺集499元輔(行くすゑの)詞書あり
  何方を~勅撰集に対応なし
  あさぼらけ~勅撰集に対応なし
  流れ来る~勅撰集に対応なし

39 死後に人の夢の中で詠む和歌 藤原義孝 後拾遺集、大鏡
  時雨には=時雨とは、後拾遺599、長めの詞書あり
  きてなれし=後拾遺600、長めの詞書あり
  しかばかり=後拾遺598、長めの詞書あり
 歌を物語用に並べ替えたか

40 円融院葬送の和歌 行成 後拾遺集、栄花物語(見果てぬ夢)
  後拾遺541、542。詞書は541の前。
  栄花物語本文(岩上p.114)本文のほうが似ている

41 一条院を悼む和歌 上東門院 
  ・後拾遺集569(詞書あり)
  ・あとの二首~栄花物語(岩上p.187)

42 朱雀院の女房が常陸守となり下向、主の女御を悼む和歌

43 子の死を悼む和歌 貫之 土佐日記・宇治拾遺
  土佐日記とは異なる本文、宇治拾遺・古本説話集とほぼ同じ

44 唐から故郷を思う歌 安部仲麻呂 古今集、土佐日記 作者考p.296
 古今集406(羇旅歌巻頭歌)
   もろこしにて月を見てよみける
  天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
   (長い詞書あり、史実的)
  土佐日記(新潮p.28参照)

45 遠島になり詠んだ和歌 小野篁 古今集、撰集抄
 古今集407
   隠岐の国に流されける時に、船に乗りて井で立つ 小野篁朝臣
 古今集409(よみ人知らず)
   この歌は、ある人のいはく、柿本人麿が歌なり

46 河原院訪問和歌 貫之・能因・道済 古今集・拾遺集、貫之集 作者考p.252

47 男に遣る和歌 伊勢御息所 古今集、伊勢集 作者考p.273

48 鏡売りの女持参した和歌 拾遺集、十訓抄 作者考p.246

49 盆に親を供養する和歌 作者考p.296

50 旧夫へ辞世の和歌、旧夫は主に見損なわれる(教訓) 後拾遺集1007
  (詞書あり)
  京よりぐして侍りける女を筑紫にまかり下りて後、
  こと女に思ひつきて思ひいでずなりにけり。女たよ
  りなくて京に上るべきすべもなく侍りける程に、煩
  ふ事ありてしなんとしけるをり、をとこの許にいひ
  つかはしける                  よみ人しらず
 とへかしな幾夜もあらじ・・・
  (以下にも詞書あり)

51 心移りした夫への和歌 赤染衛門 後拾遺集
  後拾遺1070(赤染衛門)~歌なし
  詞歌集360(赤染衛門)
  勅撰集に対応なし~赤染衛門集
  勅撰集に対応なし~赤染衛門集  

52 からかわれての機知の和歌 大江匡衡 後拾遺集、十訓抄 作者考p.126
  後拾遺938(詞書あり)
  後拾遺974(詞書あり)
  後拾遺1139(詞書あり)

53 道長に問われての機知の和歌 実際は屏風歌 大中臣輔親 
 拾遺集1076(詞書あり)
   延長七年十月十四日もとよしのみこの四十の賀し侍りける時の屏風に
  あしひきの山時鳥里なれてたそがれどきになのりすらしも
 後拾遺962(長めの詞書あり)
 後拾遺1061(長めの詞書あり)

54 懸想の和歌 元良親王 続古今集
  (前話からの連想)

55 釈明の和歌で許された郡司(教訓) 拾遺集、宇治拾遺

56 郡司の娘の和歌がわからず主に見捨てられる(教訓) 宇治拾遺 作者考p.224

57 女への訪問を和歌で許される 藤原惟規 金葉集、十訓抄 作者考p.75

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