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2019年11月10日 (日)

湯島・駿河台【東京テキトー散歩15】

たかだか定年直後雇用延長中サラリーマンのブログですが、せっかくだから、通しで歩ける道順を、と、訪ねる先を繋げてみています。
湯島に行きます。

今の国道17号は、秋葉原の万世橋たもとを左に直角に曲がり、また右に直角に曲がり、もういちど左に直角に曲がって本郷方面へ向かっています。
これが中山道の道筋で、江戸時代には将軍が筋違門を出て日光へ向かう御成道でもありました。

司馬遼太郎『街道をゆく』は、東京では本所深川方面と、神保町周辺から本郷界隈までだけを巡っています。シリーズの最後の編集者でいらした村井重俊さんがお書きになっているところでは、東京を巡りはじめたとき、司馬さんは『街道』連載をやめたいと思ったようです。次は東京を、と選んだのは司馬さん自身でしたから、東京巡りがいやだったわけではないのです。長年『街道』の挿絵を描かれていた須田剋太さんが、このころ亡くなったことが大きかったのでしょうか。須田さんの挿絵、司馬さんが『街道』の中で描く須田さんのエピソードは、まだ中学生だった一読者の私にも、ほのぼのとした印象を残すものでした。
村井さんがこの難局を不器用に乗り切った経緯は、村井さんのユーモアあふれる『街道を「ついて」ゆく』に、冒頭五分の一を費やして記されています。

ちょうどいま(20191120日まで)、六本木は東京ミッドタウンのフジフィルムスクエアで『街道をゆく』を旅した写真(小林修さん撮影)の展示会をやっているので、訪ねてみました。ブースの外に設けられた文庫版『街道をゆく』の販売所に、司馬さんの写真そっくりな白髪の紳士が控えていらっしゃる。近くにいた人たちとの会話を耳にして、あ、村井さんだ、と気がついた。それで、並んでいる司馬さんの本ではなく、村井さんの『「ついて」ゆく』のほうを慌てて手にとって、額に汗しながらレジに行きました。
「『神田界隈』と『本郷界隈』を読んだところでして」
と、おそるおそる差し出したら、村井さん、
「それはそれは、ちょうどよかったですね、よろしければサインしますから、お名前を教えてください」
で、名前をメモ書きして差し出しました。
「えっ、本郷さんなんですか、それはそれは」
と、書いてくださったサインに
「司馬さんは本郷が大好きでした」
と書き添えて下さいました。・・・もちろん、この本郷は私の名前ではなくて、地名なんですけれど。
そして手ずからお釣り銭も渡して下さいました。

本郷あたりはまた、N大のF先生が半日を割いてご案内して下さったことがあって、東京知らずの私が東京歩きをしてみたくなったきっかけにもなった場所です。実際に東京を歩くまで数年あいてしまいましたけれど。しかし本郷あたりは奥が深いので、後日またあらためて行くつもりです。

手前の、湯島近辺にとどめます。

湯島だって、狭い地域ではありません。
国道の一本南手前の昌平坂を、御茶ノ水のほうへゆるゆる上っていくと、湯島聖堂です。「湯島」と呼称につく南限は、ここになるでしょうか。
聖堂の西背後は、江戸幕府「唯一の官学としてさかえた」(司馬さん『神田界隈』文庫本p.203)昌平黌が広がっていたところで、いま東京医科歯科大の東縁に説明版があります。
聖堂は、昌平黌(昌平坂学問所)が出来た寛政二(1790)年よりもずっとまえ、五代将軍綱吉が林家に下賜した場所に建てられた孔子廟です。関東大震災で焼失しましたが、坂下の仰高門から廟である大成殿までが鉄筋コンクリートで再建されています。私は子供らがまだ小さいころに家族でここを訪ねましたが、どこをどう入ってどう見たか、記憶は遠く霞みました。あらためて見るにも、歩けるのが主に職場の定時後なので入れません。
聖堂のたつあたりは、湯島台と呼ばれています。
「湯島台に聖堂があったればこそ、神田川をへだてた神田界隈において学塾や書籍商がさかえたのである。」(同p.203

Seidou 

聖堂と東京医科歯科大のあいだの道を、聖橋を渡って駿河台へ降りていけば、司馬さんの言う、学塾や書籍商がさかえた場所です。駿河台の坂にはニコライ堂と、保険会社のビル群。
ニコライ堂の美しさは、司馬さん『街道』の「神田界隈」(文庫p.246~)に、時間を超えた人の膨らみまで含んで描かれています。この時期あらたに挿絵を担当された桑野博利画伯が
「いい女というのに、めったにお目にかかれませんな」
とスケッチしながら言う、珍妙な展開です。
ニコライ堂も、もうビルに取り囲まれてしまっていますが、往時の周辺の美しい眺望は、江戸東京博物館に再現されています。
ついで話ですが、ここは、家内に死なれて数年途方にくれていた私が「いい女」に 救われた場所でもあります。なにかと付き合ってくれる、いまの相方です。

Nichorai

一本上流側、お茶の水橋のほうから下れば、明治大学。道を挟んで、楽器店街。エレキギターが主で、ヴァイオリンのお店が混じっています。大手は、下倉楽器やクロサワ楽器。周辺の路地にも楽器店があふれています。
下まで降りれば、スポーツ用品店街が東の小川町側。右手の神保町側が古書店街。
降りるのはしかし、まずは聖橋を渡った手前。淡路坂あたりをさまよいます。
じつは筋違橋跡を探しに万世橋駅あたりを徘徊したとき、このへんで小さな発見を二つしていました。

その前に、聖橋のことを、ちょっと。
ここは昔々からの橋ではありません。隅田川の新たな諸橋同様に関東大震災の復興橋梁で、昭和二(1927)年完成のコンクリート橋です。それにしては古めかしい「聖橋」の名前は、橋北の湯島聖堂と橋南のニコライ堂をつないでいるから、と洒落てつけたものだそうです(『街道をゆく』神田界隈p.202)。全容はお茶の水橋の上からも見え、また昌平坂から間近に見ることも出来ますが、アーチが実に美しく、厚みに貫禄があります。デザインしたのは山田守。橋台を両端に持つプレート・ガーター橋で、初案から改訂される過程で左右対称性とアーチ群の連続性が高まりましたが、竣工に至って橋台のいっぽうがなくなり、対称性は失われました。構造設計は成瀬勝武。(伊東孝『東京の橋』p.168p.174 鹿島出版会 1986年)

Hijiribashi

さて、聖橋を渡った先の淡路坂の、またひとつ南に、観音坂があります。そのてっぺん、北側に、小さな祠があります。紙垂が下がっているので、神様なのかな、と思って覗きますと、説明があって、観音堂なのだそうです。中にどんな像がましますかは分かりません。このお堂があるから前は観音坂なのか、というと、どうも違うらしく、ここにお堂ではなく芦浦観音寺があったからなのだそうです。このお寺についてが、これまたさっぱり分かりません。近江の草津に伝聖徳太子創建の芦浦観音寺なる大寺があって、桃山時代を経て江戸時代にも琵琶湖の湖水奉行を務めていた由。その旨を説明したサイトでは、この寺の屋敷がこの駿河台の観音堂あたりにあったと述べています。近江の寺の屋敷が江戸にあったのですか。出先機関だったのでしょうか。江戸期の寺社制度は、またよく分かりません。調べる糸口を、いずれ見つけないと。

さらに、観音堂のほぼ真北、お茶の水ソラシティの谷間に蔵がひっそり復元されているのを見つけました。大正期に神田淡路町にあった書籍商、松山堂の藏を、その部材を用いて再建したもので、アートギャラリーとして貸し出されているようです。

これで昌平橋まで戻ってしまいましたので、ギザギザ歩きになりますが、今度は国道のほうの坂を上ります。

国道17号を挟んで、聖堂の真北が、神田明神。ここも司馬さんがたくさん、いちどは明治政府にしりぞけられた主神の平将門が祭神に復帰した経緯、銭形平次との縁など、「神田界隈」で書いています。私は桜の頃ここを訪ね、神田祭の前夜にまた訪ねていました。祭そのものはまだ見ることが出来ていませんが、前夜は短い参道に翌日の神輿の担ぎ手になるだろうかたたちが大勢集まって酒盛りしているのを眺め、境内で控えている山車の偉容に胸躍らせしたのでした。
花の春は決して桜の木は多くないのですが、真っ赤な惣門にかかる枝が照明にはかなく映えるすがたには、しばしみとれましたっけ。 

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そうだ、ここからまた北に行けば湯島天神があるよな、と、このとき神田明神の夜桜を背に、別に急ぐ必要もないのに、半ば走るようにして夜道を行きました。

天神さんは、真っ暗でした。
桜は、ないのです。
そりゃそうだ。
天神さんには、梅の花ですものねぇ。

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