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2019年10月 5日 (土)

三ノ輪~千束・竜泉(一葉記念館)【東京テキトー散歩10】

南千住駅から都電の三ノ輪橋駅がすぐ近くだ、とは、東京内勤サラリーマン30年で、やっぱりずっと知らなかったことの一つです。
その距離たった800m・・・なしてこんなに近いんや!

またも『東京古地図散歩 浅草篇』に頼りますと、三ノ輪橋駅のあたり、日光街道沿いまでは、宗対馬守の下屋敷があったところ。三ノ輪橋駅の南側は大関信濃守の、同じく下屋敷跡。
でも、そんな面影は、もはやありません。宗屋敷跡前にあるのは、「都電荒川線入口 いらっしゃいませ 三ノ輪橋商店街」の看板。 
「三ノ輪」という地名の由来が、これまたさっぱりわかりません。「箕輪」で豪族の城郭跡だとか言われていますけど、その豪族って誰よ? 大昔の人? どんだけ?

ほんとはこのあたりで一杯やって、それから都電でちんたら王子まで行っちゃうのが、いい気分なんでしょうけど。

いや、おそれ入谷の鬼子母神さんのほうへ行きましょ。
入谷へは日光街道を南に向かえばいいのですが、地下鉄三ノ輪駅を過ぎると、左手に国際通り。こっちを選べば浅草へ逆戻り。それもいいかも。
だからというわけではないのだけれど、国際通りに入っちゃいました。千束(住所は竜泉だけど)の一葉記念館(台東区立)を覗きたいから。

記念館の前に、「樋口一葉の名作『たけくらべ』ゆかり」と鳥居前に看板のある、千束稲荷神社へ(ここも住所は竜泉)。
明るい境内の右手に、一葉さんの胸像がありました。台座には、一葉さんの日記から、このお社の祭礼を書いたくだりが、一葉さんの筆跡で。達筆で読めません(涙)。

Ichiyoufigure

いちおう、こうです。

「明日は鎮守なる千束神社
の大祭なり今歳は殊に
にぎはしく山車などをも引
出るとて人々さわぐ」

(神社のHP参照。もう少し先まで載せていらっしゃいます。 http://senzokuinari.tokyo-jinjacho.or.jp/keidai00.html

『たけくらべ』の中では二から六にかけて、千束神社のお祭を舞台にお話がくりひろげられて、登場人物の美登利や正太郎、三五郎、長吉、このあと物語の鍵を握っていることが鮮明になっていく信如、この子たちをとりまく大人の風景が、みんな活き活きと描かれています。
(青空文庫ならこちら https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/389_15297.html

胸像の一葉さんは、ちと筋肉質なお顔で、強そうに感じました。
強そうになってもしかたないかなあ、と思わされるのは、この像の台座で初めて見た達筆な字が、流麗でありながら、広くて大きくて芯が強い線で書かれているからではありました。
だけど、実際の一葉さんは、もう少し柔らかい顔立ちだったんじゃないかな。

道を渡ってちょっと南に行って、さらに東へ折れて、一葉記念館へ。
朝は9時からやってるんですね。入館できるのは午後4時まで。(休日はサイト参照 http://www.taitocity.net/zaidan/ichiyo/riyou/
南北に細長い館内は23階が展示室。伺った時には1階入って左手の年表のところで年配のボランティアさんが訪問者に説明をしていました。土日の午後に説明が受けられるようです。ボランティアさんの人数が限られてもいて、私は残念ながらご説明は受けられないままでした。みなさんお詳しいので、説明していただくほうがいいんですけどね。
2階右手には一葉さんの周辺の人々関連の、左手には一葉作品関連の、3階は一葉作品を享受した芸術家さんたち関連の展示がされていました。
混んではいないので、ゆったりと眺めたのでしたが、入れ代わり立ち代わりに訪ねてくる若い人も多く、どなたも熱心に見入っているのが、印象的でした。

なんだ、一葉さんは竜泉には八ヶ月しか住んでなかったのか、と、ここを訪れて初めて知りました。かつ、この地を舞台にした『たけくらべ』は、竜泉から引っ越して半年たって生まれたのでした。この時間差が、『たけくらべ』を濃密な作品へと結晶させたのか、などと感慨にふけりつつ、ひととおり中を見学。

一葉さん一家が竜泉で住んでいた場所は、記念館の前の道を南にまっすぐ行って右に折れた、すぐのところ。距離にして180m。そしてまたそこから吉原は目と鼻の先。ここで一葉さんは「糊口的文学の道を脱す」決意で、家族といっしょに荒物屋さんをひらいたんですね。商売人、一葉。当時付けていた仕入帳が展示されていました。これをいちばん興味深く見たのでしたが、品目を書き留めてくればよかったなあ。あ、筆記用具持ってってなかった。

いま、こちらのブログから引用させていただきます。 http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J040.htm

「仕入帳によると、糊、安息香、元結、掃除道具、付木、磨き砂、箸、麻ひも、楊枝、鉄漿(かね)下、亀節、歯磨き粉、ランプの芯、藁草履、卵、せっけん、たわし、蚊遣香、マッチ、簓(ささら)などを売っていたようで、8月の仕入れ総額は33円35銭、9月の仕入れ総額は11円33銭でした。一ケ月に15円の売上があったとして、純益は5円くらいでしょうか。 なかなか、厳しいものです。
 小間物屋で始まった商いですが、そのうちより小額な駄菓子屋になってしまい、さらに近くに同業者が現れ、翌年4月には店をたたみ、本郷区丸山福山町に引っ越しました。」

品目や店の扱いの推移からみると、一葉さんの立場は、差し詰め『たけくらべ』の中の「筆や」というところだったか。そこへ幻燈をやりに美登利や正太郎や三ちゃんや、と十代半ばの子供らが十二人も集まって、正太は婆さんに呼ばれてしぶしぶ帰って、そのあと長吉がやってきて三ちゃんをさんざんなぶりものにしたり、美登利に草履を投げたりしたことがあったのでしょうか。

TakekurabekimuraTakekurabe

絵の題になるのは、美登利と信如のぎこちないやりとり・・・雨の日、美登利のいる大黒屋の前で信如が下駄の鼻緒を切って困ってしまったときのことなど(上の絵は木村荘八がまた別の場面を描いたもの)・・・ですが、私にとって『たけくらべ』で泣けるのは、いつも、鷲(おおとり)神社の祭のくだりです。正太が三ちゃんに美登利の居場所を尋ねるところから。旧漢字だけど、ことばは概ね分かりやすいと思います。

「お前は知らないか美登利さんの居る處を、己れは今朝から探して居るけれど何處へ行たか筆やへも來ないと言ふ、廓内だらうかなと問へば、むゝ美登利さんはな今の先己れの家の前を通つて揚屋町の刎橋から這入つて行た、本當に正さん大變だぜ、今日はね、髮を斯ういふ風にこんな嶋田に結つてと、變てこな手つきして、奇麗だね彼の娘はと鼻を拭つゝ言へば、大卷さんより猶美いや、だけれど彼の子も華魁に成るのでは可憐さうだと下を向ひて正太の答ふるに、好いじやあ無いか華魁になれば、己れは來年から際物屋に成つてお金をこしらへるがね、夫れを持つて買ひに行くのだと頓馬を現はすに、洒落くさい事を言つて居らあ左うすればお前はきつと振られるよ。何故々々。何故でも振られる理由が有るのだもの、と顏を少し染めて笑ひながら、夫れじやあ己れも一廻りして來ようや、又後に來るよと捨て臺辭して門に出て、十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、と怪しきふるへ聲に此頃此處の流行ぶしを言つて、今では勤めが身にしみてと口の内にくり返し、例の雪駄の音たかく浮きたつ人の中に交りて小さき身躰は忽ちに隱れつ。
 揉まれて出し廓の角、向ふより番頭新造のお妻と連れ立ちて話しながら來るを見れば、まがひも無き大黒屋の美登利なれども誠に頓馬の言ひつる如く、初々しき大嶋田結ひ綿のやうに絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲のさし込、總つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色のたゞ京人形を見るやうに思はれて、正太はあつとも言はず立止まりしまゝ例の如くは抱きつきもせで打守るに、彼方は正太さんかとて走り寄り、お妻どんお前買ひ物が有らば最う此處でお別れにしましよ、私は此人と一處に歸ります、左樣ならとて頭を下げるに、あれ美いちやんの現金な、最うお送りは入りませぬとかえ、そんなら私は京町で買物しましよ、とちよこ/\走りに長屋の細道へ驅け込むに、正太はじめて美登利の袖を引いて好く似合ふね、いつ結つたの今朝かへ昨日かへ何故はやく見せては呉れなかつた、と恨めしげに甘ゆれば、美登利打しほれて口重く、姉さんの部屋で今朝結つて貰つたの、私は厭やでしようが無い、とさし俯向きて往來を恥ぢぬ。」(十四から。青空文庫から複写しました。)

これを(暗唱はしていないので手元の文庫本で)反芻しながら、記念館を出て、ちょっと鷲神社に寄りました。

Ohtroishrine

さて、美登利や信如が通ったという学校、育英舎はどこかな、と入谷のほうへ行ってみましたが・・・もとより見つかるはずはなく。 

ここからどうしようか。

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