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2019年9月21日 (土)

吉原【東京テキトー散歩8】

待乳山の聖天さんの角からほんの100mほど北に、今戸橋の親柱があります。

Imadobashi
古写真で見る今戸橋は木橋ですが、残っている親柱は石です。迂闊にも建造年が書かれているかどうかを見落としました。隅田川周辺の多くの橋同様、明治の中頃にでも架けかわったものでしょうか。
この下を、もうぜんぶ暗渠になってしまった山谷堀が流れているわけで。今戸橋親柱の東には、その名も「山谷堀広場」なる、隅田公園の一角があって、公園が川に接したところに、堀が隅田川に流れ込む水門があり、いまでも「河口」があるにはあります。
ただ、目を西に転じても、水はいっさい見えません。水に蓋をした細長い「山谷堀公園」が、千束の南端まで続きます。その山谷堀公園も、今戸橋跡にいちばん近い手前は、どういうわけか工事のバリケードでふさがれていて、いつまでそうなのか期間も書かれていないように思いました。看板が見つけられなかった。調べると3月末には終わっていたはずの工事なのです。でも覗くとまだかかりそうでした(20199月中旬現在)。ツイートもありますね。(♯山谷堀公園)

Sannyabori

「山谷堀公園」の今の入口とでもいうべき浅草高校前のところには、猪牙舟(ちょきぶね)をかたどったベンチがありました。吉原が栄えていた時分には、遊郭へ行く客が、こんな舟に乗って堀を遡って行ったわけだ。実際はベンチのように寸詰まりではなくて、Wikipediaの説明によれば三十尺というのだから、結構な長さがあったのですね。・・・ちょとまって、三十尺って9mなんですけど、ほんまかいな?

道を挟んだ先が、くの字に曲がっているので、公園の続きはちょっとわかりにくい。右斜めに進めばよいのでした。そうして蓋をされてしまった山谷堀を、日本堤跡へと私も遡ります。
途中の説明版を見ると、山谷堀が塞がれたのは昭和50年、1975年ごろ。その直前の写真で見ると、ほかの近代河川と同じように高いコンクリートの堤防に挟まれて、美しいとは言いかねる風景でした。

70年代は日本全国どこもかしこも川が信じられないほど悪臭を放つようになっていた時期じゃなかったかな。私が育った仙台の東のはずれの小さな川も、まだ小さいころにはドジョウが棲んでいて岸に土筆がなっていて、採って帰れば味噌汁の具に困らなかったし、褒められもしたのでした。でも小学生になって以降は、汚れまくったドブと化してしまいました。上流の低い山は造成でブルドーザーにどんどん削られて、僕らはその造成で出来た崖の上で悪の要塞ごっこをすることになって、川岸からは遠ざかってしまったのでしたっけ。それでまた、削られた山は雨が降ると泥でずぶずぶになるのです。するとまた泥の中をみんなで歩きに行くのです。親の、丈の長い長靴をぶかぶか履いて出かけるのでしたが、そんなもんで間に合う泥の深さではありませんでした。長靴の中を泥いっぱいに詰めて帰れば、当然、平手でさんざん尻をぶたれて、お仕置きで物置に入れられてカギをかけられるのでした。寒くて腹が減ったもんだったなあ。・・・尻をぶつみたいなお仕置きの話は、たしか沢村貞子さんの「私の浅草」にも出てきましたっけね。お仕置きは、ぶつんでも、ぶつ場所やぶち方は考えてあったのではないかな。

また脱線しました。

細長い山谷堀公園の、暗渠になる前に橋だったところには、橋の名前を書いた標注が、ひっそり建っています。

Kamisukibashi

標注の幾つか目に「紙洗橋(かみすきばし)」があって、このへんでは紙を漉いていたわけです。水もきれいだったということか。漉いていたのはちり紙なんだそうだけど。で、ここの職人連中が、屑紙を二時間ほど冷やす工程があって、そのあいだ暇なのでちょいと吉原を覗きに行く。金がないから遊郭へは上がれない。眺めただけで帰っちゃう。これが「冷やかし」という言葉の由来なのだ、とは、あちこちに書いてある話です。

紙洗橋からほんのちょっとで日本堤。でも堤なんてどこにも見えません。錦絵で見られるだけ。

土手通りに出て、信号二つほど先が「見返り柳」。場所も移されたそうなので、元からのところではないらしいけれど、ガソリンスタンドの前に何代目かの見返り柳さんが細々と風にゆらいでいます。

Mikaeriyanagi

右のくねっとしたところを入れば吉原大門。もっとも門は跡形もなくて、道の両側に「吉原大門」と書いた柱が建つばかり。夜行って向こうを眺めると、ソープランドの看板が煌煌と連なっています。ちと行きにくい。

Iseya

土手通りを挟んで日本堤側のほうに、古いいなせな店構えが二件並んでいるのが目に入ります。
一軒は天ぷら屋さん。土手の伊勢屋。明治22年創業。
左隣のもう一軒は桜肉鍋の看板を掲げています。桜肉鍋 中江。明治38年創業。
どちらも東京大空襲で焼け残ったということです。お金がないので表を冷やかすだけで終わって残念。

気を取り直して、やっぱり遊郭跡のほうへ。

Daimon

吉原の区画だけは、往時をよく残しています。でも建物の方には昔日の面影はまったくありません。灯りのつかない昼間は実に閑散としています。このあたりの、普通の人向けの今の「売り」は、もっぱら遊女の悲しい身投げ話なので、旧遊郭のはずれまで出た先の吉原神社や吉原弁財天にはカップルでお詣りに来る若い男女の姿も見受けます。吉原神社で手に入る『吉原現勢譜 今昔図』(明治27年、大正12年、昭和33年をを対比)を見ればわかるとおり、べつにソープランドで埋め尽くされているわけではなくて、堅気のご商売のかたがたくさん、区画の中で日常を営んでいるのでした。
ただやっぱり遊郭時代の隆盛とその後の衰えへの思いは抜きがたいのかな、心中話を語って遊女に好まれたという新内節の流しをイベントで再現したりして、観光客を集める試みも続いているかのようです。
しかしまた新内というのが、清元や常磐津のように舞台に入り込んだ浄瑠璃とは違って、町中に出たものだからなのか、響きが実に寂しい。語り方というか、唄い方も、しゃくりあげるような句切れが、つらく聞こえるんですよね。

往時栄えた吉原の様子がいちばん残っているのは、歌舞伎の舞台の上かもしれませんね。代表的なのは「助六」と「籠釣瓶」でしょうが、籠釣瓶の最初の、あばた顔の商人さんが花魁道中に出会って、花魁にニコッとされてポオッとなっちゃう、あそこの舞台は、仲之町の桜がじつにまばゆいのですよ。あの芝居は「百人斬り」なる大事件を脚色したのだと聞いて、遊郭の中でばったばったと人が斬られたとはなんと恐ろしい、と思ったのでしたが、最近立ち読みした本に「実際に斬られたのは遊女一人だ」と書いてあって拍子抜けしました。ネットの時代じゃなくたって、なんでも話は大きくなるもんなのね。

Kagoturube

江戸期の書き物で吉原を描いたものはみな、お客の立場なので、日常の喜怒哀楽は、それらの中にはあまり見つけられません。『吉原徒然草』の上の百二十二段に、かろうじて書かれています(岩波文庫 p.145-147)。

 養ひかかへ置く物には、禿(かむろ)の、いとけなくて、勤めくるしむこそ、いたましけれど、かくせでは叶わぬ物なれば如何はせん。やり手は、守りふせぐのつとめ、男にもまさりたれば必ず有るべし。されど家ごとにかしづくわざにぞすれ、殊更にもてなさずとも有りなん。
 其の外、年増・新造、すべてむごく、いたはりなき物なり。大夫、格子は揚屋にこめられ、散茶はみせに入れられて、客を請ひ、ふるさとを思ふ、うれい(=うれひ)止む時なし。其の思ひ身に当りて忍びがたくば、心あらん人、間夫を楽しまんや。生を苦しめて金をもうくる(=まうくる)は、くつわ(女郎屋の主人)の心なり、客の女郎を愛せし、茶屋に出て遊ぶを見て、友として慰む。とらえ(=とらへ)くるしめたるにあらず。
 およそ「大門より外へ、かぶろならずして出さず」とこそ申し侍るなり。
(フリガナ等、表記を少し変えました。)

禿は遊女になる前の童女、やり手は遊女のマネージャー、新造・格子・大夫は遊女の位置づけ(この順で高くなっていく)、年増はいわば売れ残りとでもいうべきなのでしょうか。
大夫ともなると、和歌や書や茶の作法も驚くほどハイレベルで身に着けていたそうで、またそのように育成もされたのだそうです。このあたりについて説明されている本はいくつもあるでしょう。ともあれ公認の遊郭は、のちのクラブなんかに比べると「教養主義」的側面が強かったかと思われます。ただし、どうであっても「身売り」が付きまとってはいたわけですよね。

日常の塗炭を十代半ばの子供目線でよく描いたのは、このほんのちょっと先に十か月ばかり小さな店を開いて糊口をしのいだ樋口一葉の「たけくらべ」ということになるかと思います。近くに記念館のある一葉さんの「たけくらべ」のことは、ちょっとだけ別のところへ寄り道してから考え直そうと思いますが、上の『吉原徒然草』引用文の最後のほうの、お客の気持ちを述べた
「客の女郎を愛せし、茶屋に出て遊ぶを見て、友として慰む。とらえくるしめたるにあらず」
が、なんとなく「たけくらべ」の正太の気持ちに重なります。正太はこんな気の持ちようの大人になったのでしたでしょうか。

当代円楽さんの「明烏」。御病気の完治を祈ります。

 

(テキトー散歩1~9リンク)

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