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2019年9月28日 (土)

南千住ちょっとだけ・・・『解体新書』という訳業【東京テキトー散歩9】

寄り道は、南千住にちょっとだけ、です。

両国橋の手前から千住まで歩いてみようかな、と最初に思ったのは、この道が聖・俗・死を一直線に結んでいることに魅力をおぼえたからでした。
浅草の「聖」・吉原の「俗」・小塚原の「死」であります。
どの場所も今昔を問わず生活の場である以上、実際にはすっきり割り切れるわけではないのでしたが、それぞれの地域に、それぞれ浅草寺・遊郭・刑場が所在していたことが、歩いてみると、今なお、たしかな残り香を放っているのでした。

で、吉原から、大きな道へではなくて、小塚原の回向院脇、南千住へと抜けます。

『江戸繁盛記』(寺門静軒、天保2~7年執筆・刊行 天保七年は西暦1836年)五篇は、序のあと、千住から始めて、岡場所各所のことを綴っています。

 千住に一大橋あり。即ち大橋と曰ふ。橋北を上宿(かみじゅく)と曰ひ、橋南を下宿(しもじゅく)と曰ふ。下宿より山谷に至る間、人戸中ごろ断え、一面の田野、謂はゆる小塚原是れなり。官、此の閑原を用ひて刑場と為し、重罪大犯、尸(し)して以て其の罪を鳴らす。因って浄土寺を建て、且つ露石地蔵仏を置く。厲鬼(むえん=無縁)をして依ることあらしむ。念仏の声、常に絶たず、香火の煙、日夜薫ず。(新日本古典文学大系100p.274

大橋はすなわち千住大橋、浄土寺が南千住の回向院を指します。露石地蔵仏というのが、常磐線などの線路で回向院から分断された延命寺にある「首切り地蔵」を指すのかどうかは、分かりません。寛保元(1741)年に出来たのだそうですから、たぶんそうなのでしょう。
延命寺を、吉原よりも北側の、現町名で日本堤のほうへ行くと、処刑に連行されるつみびとが今生の別れに涙したのでその名がついたという「泪橋」の呼称を引き継いだ交差点があって、このへんに「あしたのジョー」で丹下ジムがある設定だったのでしたが、また別の機会に。
千住大橋周辺も、芭蕉の「奥の細道」旅の矢立て始めの地ということで、後日。 

回向院へ。

両国のそれと同じ名のこの寺院は、両国回向院の分院として出来たものだったそうですが、現在は独立している由。常磐線や日比谷線の、上野に向かって右手の車窓からもよく見えます。
ここには橋本佐内・頼三樹三郎・吉田松陰(いまは空墓ですが)も眠り、桜田門外の変で大老井伊直弼を殺害した水戸浪士の墓も並んでいます。その手前には、磯部浅一・妻 登美子と連名になっている、小さくてきれいな墓も建っていました。夫の磯部浅一は226事件で刑死した人。そのほか、鼠小僧を含む、江戸末期の悪党四人組の墓もあります。
でも、ここを訪ねたのは、お墓を見に行きたかったからではありません。
回向院の入口に、「観臓記念碑」があります。今は碑ではなくて、いい石に刻まれた立派な説明板です。

これは、この小塚原の回向院で、日本医学の文字通り記念碑的な人体解剖が行われたことを顕彰するものです。夜は門が閉じますので、休みかつ用事のない昼間に覗いてきました。その文章を引き写します。

 1771年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
 その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さつそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに1774年・安永三年八月に「解体新書」五巻をつくりあげた。
 これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきつかけとなつた。
 さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、1945年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどつた浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。
    1959年・昭和三十四年三月四日
    第十五回日本医学会総会の機会に
             日本医史学会
             日本医学会
             日本医師会

Kanzoukinenhi

さらに道路拡張で本堂の位置が変わったらしく、1974(昭和49)年1026日に今の位置で除幕された旨が、脇に小さく記されていました。 

玄白・良沢らが、ここでの観臓(解剖の観察)を機に、『ターヘル・アナトミア』(実際の書名は異なるそうです)を訳そうと決意するに至った事情については、杉田玄白が『蘭学事始』で詳しく述べています。それによれば、観臓と照合するために『ターヘル・アナトミア』の原書を持参したのは前野良沢。掲載されている解剖図は漢学のそれとは似ていない。どうなのだろう、と疑心暗鬼のままその場に向かうと、腑分けの巧者だからと執刀を頼むことにしていたエタの虎松は急病で、代役を務めた九十歳になるその祖父が「これは肝、腎・・・心、胆、胃、その外に名なきもの」等々説明しながら執刀していく---これは、エタと呼ばれた人々も事によってはそうでない人々と案外に近く接していて、しかもいわば専門領分には経験からくる知識が豊かだったことがうかがえ、貴重な記述です---。その結果、漢医書の図は全く実際にそぐわず、蘭書『ターヘル・アナトミア』のほうこそ本当を描いている。それで上の記念碑文にあるとおり、帰路に、蘭書の翻訳を明日から皆で試みよう、と話がまとまったのでした。
結果、足掛け四年で訳書『解体新書』が出版されることとなったのでしたが、手探りで進んだはずの翻訳の初稿は、着手から1年半ですでに成っていたとのことです。ものすごい速さです。良沢や玄白が、いかに熱を込めて取り組んだかがうかがわれます。
専門知識がないので立ち入ったことは分かりませんでしたが、『解体新書』(講談社学術文庫で読めます)を実際に手に取ると、原典は長い文はそんなになく、主に臓器や器官を手短に説明したもののようです。(驚くことに、『解体新書』は実は『ターヘル・アナトミア』一冊を単純に訳したものではなく、複数の文献を併せた混合訳である由。)
とはいえ、語彙を網羅した辞書などないまま訳を進めるのは、とてつもない難事業だったことでしょう。こんにち、たとえばラテン語の1、2行の文を翻訳するのでも、分かりやすいテキストが豊富になったいまでさえ、適切なお教えを受けられないと、なかなか見当がつくものではありません。『解体新書』の訳業は、そんな古典語の訳の試みに比すべき困難さをもっていたものと想像します。まして『解体新書』当時、オランダ語の知識を持つ人は、長崎の通辞を中心に、ほんのわずかでした。いくらかの誤訳もあったとはいえ、この訳業が、医学だけでなく、その後の翻訳文化に比類のない先鞭を付けたことを、私たちは末永く記憶すべきでしょう。

玄白が述べている翻訳の考え方を、以下に引用します。

 翁(=玄白自身)は元来粗慢にして不学なるゆゑ、かなりに蘭説を翻訳しても人のはやく理会し暁解するの益あるやうになすべき力はなし。されども、人に託してはわが本意も通じがたく、やむことなく拙陋を顧みずして自ら書き綴れり。その中に精密の微義もあるべしと思へるところも、解しがたきところは、疎漏なりと知りながらも、強ひて解せず。ただ意の達したるところばかりを挙げ置きけるのみなり。たとへば、京へ上らんと思ふには、東海東山二道あることを知り、西へ西へと行けば、終には京へ上り着くといふところを第一とすべしと、その道筋を教ふるまでなりと思ふところより、そのあらましの大方ばかりを唱へ出だせしなり。(岩波文庫『蘭学事始』p.50

 ・・・なるたけ漢人称するところの旧名を用ひて訳しあげたく思ひしなれども、これに名づくるものとかれに呼ぶものとは相違のもの多ければ、一定しがたく当惑せり。かれこれ考へ合はすれば、とてもわれより古(はじめ)をなすことなれば、いづれにしても人々の暁(さと)り易きを目当(=目標)として定むる方と決定して、或は翻訳し、或は対訳し、或は直訳、義訳と、さまざまに工夫し、かれに換へ、これに改め、昼夜自ら打ちかかり、右にもいへる如く草稿は十一度、年は四年に満ちて、漸くその業を遂げたり。(同 p.51

最近は、過去の翻訳中心的外国語教育への強い反省と反発から、またメディアの発達から、意思疎通を前面に押し出した会話教育へと、語学への考え方もあらたまったかに見えます。しかしながら、どんな言葉も未知のものとして捉えなおし、それからこちらの言葉に置き換えてみることで、自らの足場を相対的に見直す、そんな発想からの翻訳に、玄白らの経験に立ち返って新鮮に取り組む価値は、まだまだ大きくあるのではないでしょうかないか。意思疎通という側面ばかりに気が向くうちに、一方で、じゃあ本当は自分はどうしたいのか、を、明確な立脚点から述べられるためのバックボーンを、私たちは失ってしまってはいないでしょうか。

そんな風に考えるかどうかは別として、翻訳の意義を考えたいとき、ちくまプリマー新書の鴻巣友季子さん著『翻訳ってなんだろう』は、たいへんいい本でした。唐突ですが、ご一読をおすすめします。

なんだか散策の文ではなくなってしまった。
お退屈様でした。

 これで、両国橋の西側をざっと北にたどってみる最初の目標は、いったん達成しました。

こちら方面でも、まだ立ち寄りたいところはいくつもあります。が、いまは南へ折り返します。

(テキトー散歩1~9リンク)

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