« 「百」について〜堀川院百首和歌 | トップページ | 「令和」をめぐって〜大伴旅人に怨念はあったのか? »

2019年4月 6日 (土)

定家『近代秀歌』

定家『近代秀歌』
【百人一首はなぜ出来た(13)】

(このブログ用のエディタがプロバイダさんが変更して、まだ慣れません。)

さて、『堀川院百首和歌』ときたら、その後継とも言うべき『久安百首』と、それに関わった藤原俊成について見て行くべきなのですが、いま、一足飛びに、俊成の子、定家の歌論を見ておきたいと思います。

定家の手になるという有名な歌論がいくつかあるのですが、自筆のものが残ってもいて、定家の論であることが確実な『近代秀歌』を読みます。(いちばん詳しい『毎月抄』には疑義を出す筋もあり、『詠歌大概』は漢文で、これも偽書の疑いももたれる場合があります。しかしこのいづれも、『近代秀歌』の内容と齟齬をきたすものではありません。)
『近代秀歌』はこちらに(例歌までを含む)よいテキストに基づいた原文と現代語訳があり、お詳しい方の丁寧なご説明が加わっています。こちらで使っていらっしゃるような立派な影印本は私など見ることも出来ません。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/kagaku/kindai.html


ですので、今さら恥ずかしいのですが、岩波文庫『中世歌論集』所載の本文(定家自筆本が底本)によって、本文のみを読み直したいと思います。(例歌については上のリンク先をご覧下さい。)
漢字に変えるのを主に表記や区切り位置を変えますので、疑わしきは岩波文庫をご参照下さい。なお、田中裕編『影印本 定家歌論集』中の、陽明文庫蔵本の影印を参照しました(一部、脱落や誤写があります)。
文章の段落分けと現代語訳は、私の理解の仕方に遍しています。あまり和歌理解を前提としないようにしました・・・自分が分かっていませんので・・・。大逸れているところはご?正下さい。


 

   近代秀歌

 

【0】 

 今は、そのかみのことに侍るべし、ある人の「歌はいかやうに詠むべきものぞ」と問はれて侍りしかば、をろか(おろか)なる心にまかせて、わづかに思ひ得たることを書きつけ侍りし。いささかのよしもなく、ただ、言葉に書きつづけて、をくり侍りし。見苦しけれど、ただ思ふままの僻事に侍るべし。

 

【0 現代語訳】

 以前、ある人から「歌はどのように詠むべきものなのでしょう」とのご質問をうけましたので、分別もないままに、僅かに思いついたことを書き付けました。いかほどの根拠もなく、むだに言葉を書き連ねてお送りしたのでした。見苦しいのですけれど、ただ思ったままのひがごとではあるということで。

 

【1】

やまと歌の道、浅きに似て深く、易きに似て難し。弁へ知る人、また幾許ならず。むかし貫之、歌の心たくみに、言葉強く姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の体を詠まず。それよりこのかた、その流を受くる輩、ひとへにこの姿におもむく。ただし、世くだり、人の心劣りて、たけも及ばず、ことばも卑しくなり行く。いはむや近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字(*1)にいひ続けむことを先として、さらに姿・言葉の趣を知らず。これによりて、末の世の歌は、田夫の花の陰を去り(*2)、商人の鮮衣を脱げるがごとし(*3)。

 

【1 現代語訳】

和歌の道は浅いようで深く、簡単なようでも難しいものです。そこをきちんと知っている人はまた、さほどいません。昔、紀貫之は作歌の工夫が巧く、言葉が明瞭で表現が面白い趣向を好んで、情が後を引くとか、なまめかしいとかいうたぐいの歌は詠みませんでした。以来、貫之の流を受け継いだ人たちは、ひとえにこの貫之のスタイルに従っています。とはいうものの、時代が下って、人の能力も下がり、気品も落ちて、言葉もみすぼらしくなってきています。まして最近の人は、ただ考えついた情趣を三十字すなわち一首の文字数で言えることを第一にしてしまい、それ以上にスタイルや言葉のニュアンスなど知りもしません。これが原因で、最近の歌は、花の陰にいればまだサマになっていた農夫が花の陰を去ってしまい、良い衣装を着ていればまだサマになっていた商人が良い衣装を脱いでしまったような無味乾燥さに陥っています。

 

*1:小松英雄『古典和歌解読』(笠間書院 2000年)p.016に、定家自筆のこの部分の写真があり、「三十一字」ではなく「三十字」とたしかに書かれていますので、岩波文庫のテキストのとおり「三十字」のままにしました。

*2:田夫ではありませんが、古今集仮名序「大伴黒主は、そのさまいやし。いはば薪おへる山人の花の蔭に休めるがごとし。」

*3:古今集仮名序「文屋(文室とも)の康秀は、ことば巧みにて、そのさま身に負はず。いはば、商人のよき衣着たらむがごとし。」

 

 

【2】

しかれども、大納言経信卿・俊頼朝臣・左京大夫顕○(輔カ)卿・清輔朝臣、近くは亡父卿(=俊成)すなはちこの道を習ひ侍りける基俊と申しける人、この輩、末の世の卑しき姿を離れて、常に古き歌をこひねがえり。この人々の、思ひ入れて優れたる歌は、高き世にも及びてや侍らむ。今の世となりて、この、卑しき姿をいささか変へて古き言葉を慕へる歌あまた出で来たりて、花山僧正(=遍昭)・在原中将(=業平)・素性・小町がのち、たえたる歌のさま僅かに見えきこゆる時侍るを、物の心さとり知らぬ人は、新しきこと出で来て歌の道変わりにたりと申すも侍るべし。ただし、このころの後学末生、まことに歌とのみ思ひて、そのさま知らぬにや侍らむ、ただききにくきこととして、易かるべき事を違へ、離れたる事を続けて、似ぬ歌を真似ぶと思へる輩あまねくなりにて侍るや。

 

【2 現代語訳】

そうではありますが、源経信(1016~1097)・その子の源俊頼(1055~1129)・藤原顕輔(1090~1155)・その子の藤原清輔(1104~1177)、最近では私の亡父俊成がとりもなおさずこの和歌の道を習いました藤原基俊(1160~1142)という人、こうした人々は、近代のみすぼらしい詠み様を離れて、常に古歌を理想としていました。この人々の、心のこもった優れた歌は、理想的だった古今時代にも比肩するのではないでしょうか。現代になって、こうした、みすぼらしいスタイルをほんの少し変えて古語を追求する歌がたくさん現われて、僧正遍昭・在原業平・素性法師・小野小町らのあと断絶していた歌のスタイルが僅かにまた見受けられるようになってきているのを、ものごとの本当の意味をわきまえ知ることのない人は、新しいことが出来(しゅったい)して歌の道が変わってしまったなどと言ったりもしているようです。ただし、最近の後続の和歌学習者は、さて、ただ耳に馴染まないように易しいはずのことを難しくしたり関連性のないものをひと繋がりにすることを、本当にこれが和歌だと決めつけているのでしょうか。歌とは似ても似つかない、かたちだけの歌を模倣しようと思っている連中がはびこっているのではないかと感じます。

 

 

【3】

この道を詳しくさとるべしとばかりは思ふたまへながら、僅かに重代の名ばかりを伝へて、あるいは用ゐられ、あるいは誹られ侍れど、もとより道を好む心かけて、僅かに人の許さぬ事を申し続くるよりほかに習ひ知ることも侍らず。おろそかなる親の教へとては、歌は、広く見遠く聞く道にあらず、心より出でて自からさとる物なりとばかりぞ。いはむや老いに臨みて後、病ひも重く憂へも深く沈み侍りにしかば、言葉の花・色を忘れ、心の泉みなもと枯れて、物をとかく思ひ続くることも侍らざりしかば、いよいよ跡形なく思ひ捨て侍りにき。ただ愚かなる心に、今こひねがひ侍る歌のさまばかりを聊か申し侍るなり。

 

【3 現代語訳】

私はこの和歌の道を詳しくわきまえたいとだけは思ってまいったというものの、僅かに父祖伝来の形ばかりを伝えて、それがあるいは世に聞き入れられたり、あるいは非難されたりします。けれど、元来、和歌を追求することが好きなのだ、ということを心がけたうえで、伝わってきたことでわずかに人が知らずにいることを言い続けるよりほかに、教わって知ったこともございません。粗略な親の教えとしては、歌は渉猟したり深遠がったりするのが理解の方法ではない、心より出でて自ら会得するものなのだ、とあるだけです。その上私も老いに臨んでからは病気ものしかかり憂鬱に深く沈んだりしておりますから、言葉の花や色など忘れてしまい、心の泉も源が枯れて、ものをあれこれ考え続けることもなくなってしまいましたから、ますますわけも分からなくなり無関心にもなってきております。ただ愚かな精神から、いま理想だと思っている歌のありかたについてだけを、いささか述べさせていただきます。

 

 

【4】

言葉は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願ひて、寛平以往の歌にならはば、をのづからよろしきことも、などか侍らざらん。

 

【4 現代語訳】

言葉は古来のものを突き詰め、精神は新しいことを求め、たどり着きようもない高邁な歌姿を理想として、六歌仙時代の歌に馴染むようにしていたならば、おのずから悪くないほうへと向かうこともなくはない、と、私は思います。

 

【5】

古きをこひねがふにとりて、昔の歌の言葉を改めず詠み据えたるを、すなはち「本歌とす」と申すなり。かの「本歌」を思ふに、たとへば五七五の七五の字をさながら置き、七七の字を同じく続ければ、新しき歌に聞きなされぬところぞ侍る。五七の句は、やうによりて去るべきにや侍らん。「例へば、いその神・ふるきみやこ・郭公鳴くや五月・久方の天香具山・玉鉾の道行き人、など申すことは、幾度もこれを詠までは歌出で来可からず、年の内に春は来にけり・袖ひぢてむすびし水・月やあらぬ春や昔の・桜散る木の下風、などは詠むべからず」とぞ教へ侍りし。

 

【5 現代語訳】

なかでも、古来を重んじるときに、昔の歌の言葉を変えないで詠歌に据え置くことを、すなわち「本歌とする」といいますので、この「本歌とすること」を考えてみましょう。たとえば上の五七五のうちの七五の字を、そっくりそのまま置いてしまって、下に自分なりの七七を同じように続けてしまうと、新しい歌だとは思ってもらえないところがあるかと思います。また古歌の最初の五七の句は、場合によって敬遠するべきなのではないでしょうか。「たとえば『その神・ふるきみやこ・郭公鳴くや五月・久方の天香具山・玉鉾の道行き人』などといったことは何度でもこれを詠まないことには歌は心から出て来られないけれども、『年の内に春は来にけり・袖ひぢてむすびし水・月やあらぬ春や昔の・桜散る木の下風』などは詠んではいけない」というふうに、私の父は教えておりました。

 

【6】

次に、今の世に肩を並ぶる輩、例へば世になくとも、昨日今日ばかり出で来たる歌は、ひと句もその人の詠みたりしと見えんことを、必ず去らまほしく思ふたまへ侍るなり。

 

【6 現代語訳】

それから、今の時代に歌で張り合っている人々や、たとえば作者がもうこの世になくても最近になってその作が明らかになった歌は、一句でもその人々が詠んでいると目に止まっているだろうことは絶対に敬遠したほうがいい、と考えております。

 

【7】

ただこの趣を、僅かに思ふばかりにて、おほかたの悪し良し、歌のたたずまひ、さらにならひ知ることも侍らず。いはむや難義など申す事は、家々にならひ所々に立つる筋おのおの侍るなれど、さらに伝へ聞くこと侍らざりき。僅かに弁へ申す事も、人々の書き集めたる物に変わりたること無きのみこそ侍れば、はじめて記し出だすに及ばず。他家の人の説、聊か変れること侍らじ。

 

【7 現代語訳】

ただこうしたことを思っているのが私はせいぜいのところで、歌の善し悪しやスタイルの大体のところについてなど、これ以上習って知ったこともありません。まして、難しい言葉などに関しては、和歌の道をこととする家々に経験の積み重ねがあり、ほうぼうで流派を立てていることもあるようですが、あらためて伝え聞くこともありませんでした。僅かに理解していることも、人々が書き集めているものと変わっていることがありもしませんので、新たに明記するにもおよびません。他の歌道の家の説とて、わずかでも変わっているようなことはありますまい。

 


定家のこうした和歌観を知ってか知らずか、後鳥羽院の辛辣な定家評などがあったりするわけですが(『後鳥羽院御口伝』)、このあたりについてはまたあらためましょうか。

|

« 「百」について〜堀川院百首和歌 | トップページ | 「令和」をめぐって〜大伴旅人に怨念はあったのか? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「百」について〜堀川院百首和歌 | トップページ | 「令和」をめぐって〜大伴旅人に怨念はあったのか? »