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2019年3月16日 (土)

『三十六人撰』の後継たち 付)三十六という数

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『三十六人撰』の後継たち 付)三十六という数

【百人一首はなぜ出来た(11)】

公任『三十六人撰』の歌人たちは、いつからか「三十六歌仙」と呼ばれるようになっていたのでしたが(いつからなのでしょう?)、その人たちはみな、公任よりは前の世代に属します。公任と同時代の優れた歌人たちは、公任編とも、そうでないとも言われる『後十五番歌合』に登場します。
岩波文庫『王朝秀歌選』で中身を見ると、歌の配列のされ方からは『前十五番歌合』に大変近い感触が得られます。公任編だとすると、彼自身の歌が十四番左に「四条中納言」との作者名表記で現われますので、違和感もあります。ただし公任は1009年に権大納言になっていますから、中納言の表記から『後十五番歌合』はそれ以前の撰と捉えることも可能で、もし公任が周りからたしかにそう呼ばれていた(藤原行成『権記』で確認できます)四条中納言を自称して記したのだとすれば、歌の並べ方のセンスと併せて、『後十五番歌合』公任撰の可能性は大いにあるかもしれません。ただし、後に引く七首などは「山の端」が頻出するところなど、公任の目を高く評価する場合には引っかかります。
撰ばれている歌人は、登場順に、以下のとおりです。

 藤原実方  藤原道信  馬内侍   和泉式部  藤原為頼
▲相 如  △藤原輔尹 △橘 為義  賀茂為政  源 道済
▲斎院宰相  赤染衛門  大江嘉言  曾禰好忠  清少納言
△伊勢大輔  戒 秀   寛 祐   源 兼澄  大中臣輔親
 大江為基  藤原長能  勝 観   恵 慶  ▲清 胤  
 観 教   藤原公任  藤原高遠  花山院   具平親王
(△は後拾遺初出、▲はそれ以後または私には分からなかった人)

繋がりの面白いところは、たとえば二番右の和泉式部から五番右の道済まで。
歌人名は略しますので、上の順に追って見て下さい。

  暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月
  世の中にあらましかばと思ふ人 亡きが多くもなりにけるかな
  夢ならで又も見るべき君ならば 寝られぬ寝をも嘆かざらまし
  もろともに出でずは憂しと契りしを いかがなりにし山の端の月
  君待つと山の端出でて山の端に 入るまで月を眺めつるかな
  九重の内まで照らす月影に 荒れたる宿を思ひこそやれ
  行末のしるしばかりに残るべき 松さへいたく老いにけるかな


さて、公任の『三十六人撰』の歌人たちが三十六歌仙と呼ばれるようになったのに対し、別にまた、中古三十六歌仙というのが撰ばれていることを知りました。
これはネットで調べると、

「又後六々歌仙ともいう、刑部卿藤原範兼が三十六歌仙に擬して選びし所なり、左の如し。○和泉式部、相模、○恵慶法師、○赤染衛門、能因法師、○伊勢大輔、○曽禰好忠、道命阿闍梨、○藤原実方、○藤原通(道)信、平定文、清原深養父、○大江嘉言、○源道済、藤原道雅、増基法師、在原元方、大江千里、○藤原公任、○藤原(大中臣)輔親、○藤原高遠、○馬内侍、藤原義孝、紫式部、道綱母、○藤原長能、藤原定頼、上東門院中将、兼覧王、在原棟梁、[六歌仙]文屋康秀、藤原忠房、菅原輔正、大江匡衝 安法法師、○清少納言

(『画題辞典』斎藤隆三)

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E4%B8%AD%E5%8F%A4%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%AD%8C%E4%BB%99

と出典が書かれていました。
○をつけた人は、『後三十六人撰』と共通、15人ですので半数ですね。

この人たちを撰んだ藤原範兼については、手にとれた本の中で詳しく分かる記述はありませんでした。1107年の生まれですから、公任の時代から一世紀強を隔てた後の世代です。弟の藤原範季のほうが、その娘たちが後鳥羽の乳母になったこと等で有名です。その弟範季が10歳のとき父が亡くなり、兄である範兼が養子として範季を引き取ったのだそうで、系図上、範季は範兼の子ということになります。また、範兼の娘、範子は、平家政権下で栄進した能円(平家没落後凋落も、範子の連れ子だった在子は土御門天皇を産んだ)の妻となった旨、角田文衞『平家後抄』に記載されています。範兼が『後六々撰』で撰んだ三十六人が中古三十六歌仙としてそれなりに知られるようになったのは、このあたりの人的な関係もあったのでしょうか。
その『後六々撰』ですが、しかし、通して読むと、・・・いい歌を撰んであるのですけれど・・・だんだん気が抜ける気持ちになってしまいます。
というのも、和泉式部の歌を10首連ねるところから始まって、次の相模も10首なのですが、その次からは8首歌4人、6首歌2人、5首歌2人、4首歌6人、3首歌12人、2首歌8人、と、作者毎の歌が尻すぼみに減って行く並べ方になっていて、最後が清少納言の2首で終わっていて、「清少納言、ダメ歌人なんかい!」みたいな印象さえ受けかねないのです。清少納言、そんなことないとおもいます!
(『群書類従』第十輯 和歌部 所収)

具体的な内容は省きます。

『群書類従』第十輯は、このあとに『新三十六人撰』を収録していますが、『百人一首』よりも後の1252年頃の成立だそうなので、採り上げません。


ところで、公任の『三十六人撰』の、この三十六という数ですが、どういう意識で選ばれた数なのだろう、と、ずっと謎に思っています。
ちょっとあたってみると、三十六は、(中国古代からの占いの)易では「坤」の卦に当たり、これは下から上に六つ並ぶ易占の象すべてが陰(数では六と表される)になっているもので、易のことば(卦辞)では「万事順調(元亨[おおいに通る)]と縁起のいいものだそうです(三浦國雄『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 易経』角川文庫 平成22年)。「三十六計逃げるに如かず」で有名な『兵法三十六計』も同じ文庫シリーズに収められていて、こちらは中国の古典ですが、その三十六という数字は易の影響で選ばれたものだ、との説明がありました。公任在世当時の平安貴族は具注暦に日記を書いていました。この具注暦は、奈良時代から陰陽寮(天文暦数のことを掌った)で編纂されていたものです。直接的には具注暦は「日書」とよばれる、日の吉凶を記した類いのもの(古代中国の例が二十世紀になって大量に発掘され実態が分かって来たようです)ですから、それと易との関係を突き詰めなければならないのですが、基本的なことからまだ、私の理解が追いついていません。とはいっても、陰陽寮に属する陰陽師たちは卜筮をも行なっていたのですから(和田英松『新訂 官職要解』p.86参照、講談社学術文庫621、1983年)、公任も、当時の他の人も、三十六を何らかの良い意味の数と捉えていた可能性はあり、易と「三十六」の選択に何らかの関係性があるのではないかなあ、と、今まだ漠然とではありますが、思っているところです。ただ、『三十六人撰』より前に日本で三十六を好んで用いた例が見つけられない等で、確かなことが分かりません。

数についてはまた考えることにして、次は、これが歌百首とか歌人百人になって行く様子を見ていきましょうか。
どうしましょうか。

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