« モノクロ時代劇のような説話「四条大納言の事と申は、まことやらん」 | トップページ | 公任の和歌撰集~前十五番歌合までの編作順について »

2019年2月16日 (土)

公任の和歌観

1 2 3 4 5 6

公任の和歌観

【百人一首はなぜ出来た(7)】~ちょっとだけ前進?

(片桐洋一『古今和歌集全評釈』が全三巻で講談社学術文庫になりましたけど・・・あたしゃこれは読み切れそうにないや 涙)

人生の半ばから藤原道長への追従に生きて世の顰蹙も買った、とか、道長息の経通さんに嫁がせた娘さんが亡くなると世間への執着も失せて出家した、とか、馬鹿息子を溺愛していた、とか、そんなあたりまで詮索するのは目的ではないので(詮索してるって 笑)、公任さんがどんな人だったか、への野次馬は終わりにします。私たち素人でも読める伝記は絶版となった『王朝の歌人7 余情美を歌う 藤原公任』(小町谷照彦 集英社 1985)くらいしか見つけられませんでしたが、公任の和歌を中心に、その内面をも窺わせてくれる、良い本でした。ご興味があったら読んでみて下さい。

公任と言えば和歌、和歌と言えば公任、という評価は同時代人に定着していたもので、『枕草子』には清少納言が公任から人づてに「すこし春ある心地こそすれ」と書かれた懐紙を渡され、思案の末に上の句を「空さむみ花にまがへてちる雪に とわななくわななく」書いて返事に渡して、「いかに思ふらんとわびし」と複雑な心境に陥った話がありますし(百六段「二月つもごり頃に」)、『紫式部日記』にも、道長の娘、彰子が一条天皇の皇子を産んだ後の産養(うぶやしなひ)の祝宴に公任も臨席して歌の会があって、そのとき女房たちが公任に「盃を受けて歌を詠め」と指名を受けたらどうしようか、「歌をばさるものにて、声づかひ用意すべし(歌はひとまずどうであっても、発声とかイントネーションとかは良くできるように準備しておかなくっちゃ)、とささめきあらそふ」状態だったことが書かれています(岩波文庫版ならp.25)。こうした公任の名声は、第三の勅撰集である拾遺和歌集の母体となった拾遺抄を編んだのが公任その人だったことでいっそう定着してもいたのでしょう。やはり『紫式部日記』に、「よべの御おくり物(中略)つくりたる御冊子ども、古今後撰拾遺抄」(岩波文庫版 p.49)の記述があるところから、拾遺抄の世間での評価の高さが窺われますし、当然、その編者も高く評価されていたと言って差し支えないかと思います。

評価の高い公任が他にも和歌の撰集を著していたとなると、そこに反映された和歌観は、同時代を代表するものとなった、と考えても良いのではないか、と思われます。あるいはまた、その時代の和歌観の代表的なものが、公任の和歌撰に浸透している、と見てもいいのかも知れません。
漢詩と和歌が声に出して歌われることを目的とした『和漢朗詠集』については、今は視野の外に置きます。
和歌だけの撰集は、『深窓秘抄』~『金玉集』(重箱読み禁止!)~『前十五番歌合』~(『後十五番歌合』~)『三十六人撰』と、おそらくこういう流れで、公任の手で編まれて行くことになりますが、この流れの中で公任は何を基準にしながらどう考えを整理発展させていったのでしょうか。

公任には「歌とはこういうもの」を簡潔にまとめた『新撰随脳』(随脳=奥義、心髄)という著作があります。公任が大きな役割を果たした『拾遺和歌集』の次の勅撰集『後拾遺和歌集』序文に、公任が「ここの品のやまと歌を撰びて人にさとし」た、とある『和歌九品』で、公任は具体的に十八首を二首ずつ上品上、上中、上下、中上、中中、中下、(下)上、下中、下下と並べて和歌のあるべき姿を呈示している(「上品上 これはことばたへにしてあまりの心さへある也。・・・下下 詞とどこほりておかしき所なき也」)のですが、では歌は具体的にどう詠めば良いのか、を綴ってあるのが『新撰随脳』です。そんなに長いものではなく、次に掲げる冒頭部以降は具体的に歌を上げながら方法論とでも言うべきものを展開しています。
基本的にはこの冒頭部が公任の言いたいことの骨子となっています。

歌のさま三十一字惣して五句あり。上の三句をば本(もと)と云、下の二句をば末といふ。一字二字のあまりたりとも、うちよむに例にたがはねばくせとせず。凡(およそ)歌は心ふかく姿きよげにて、心にをかしき所あるを、すぐれたるといふべし。事多く添(そへ)くさりてやと見ゆるがいとわろきなり。一筋にすくよかになんよむべき。心すがたあひぐする事かたくば、まづ心をとるべし。つひに心深からずば、姿をいたはるべし。そのかたちといふは、うちきゝきよげに故ありて、文字はめづらしく添へなどしたる也。ともにえずなりなば、いにしへの人おほく本(もと)に歌まくらを置て、末に思ふ心をあらはす。さるをなん、中頃よりはさしもあらねど、はじめにおもふ事をいひあらはしたる、なほつらき事になんする。

(現代語訳)
歌というものは三十一文字で全体で五句ある。上(かみ)の三句のことを「もと」といい、下(しも)の二句のことを「すえ」という。一字や二字あまってしまっていても、思い切って詠む時に通例からはずれていなければ欠点となしない。およそ歌は思慮深くて整っており、心に興趣があるのを、優れているというべきである。盛り込まれている事象が多くて加えたことが入り組んでいるように見えるのがあまりよくないようだ。ひとすじにしっかりと詠むべきである。心と見た目を双方備えることが難しいなら、まず心を取るのがよい。どうしても思慮が深くないのであれば、かたちを大事にすればよい。そのかたちというのは、耳にするとすっきりしていて品格があり、文字はふさわしいように添えたりしたものである。(心も姿も)昔の人は多くの場合「もと」に歌枕を置いて、「すえ」に思う心を表明している。そうであるとはいっても、少し前から以来はそれほどではないけれども、始めに思うことを表明してしまうのは、やはり耐え難いものである。

非常にスッキリしています。(『和歌九品』、『新撰随脳』とも、原文は古典文庫『公任歌論集』を参照しました。)
歌(和歌)の作りそのものに焦点をあてているところが、中古の和歌論の嚆矢である「古今集仮名序」から一歩進んでいるところかと思います。「古今集仮名序」は紀貫之の熱い思いがこもったものか、和歌とはこういうものだ、という話が豊かに展開されていますが、和歌をかく詠むべし、というところは、いわゆる六歌仙に対する評言で品位をめぐって言われているに過ぎず、どうであるのが良い、との技術論はなく、貫之自身の手になる本文には具体例さえ上げられていません(具体例は後年誰かが書き入れた「古注」によって加えられているものです)。
僧正遍昭は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。絵にかける女を見て、いたづらに心をうごかすがごとし。
とか
文屋康秀は、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人(商人)のよき衣着たらむがごとし。
といった具合です。(角川文庫『古今和歌集』)
比較は出来ないかも知れませんが、和歌に対する観念の抽象度は、公任の記述のほうが高い、と感じておくのは許される気がします。つまり、和歌の詠まれる機会や和歌の多様性がどんなものかよりも、和歌そのものののスタイルのほうが、公任の見方の中では比重が大きくなっているように見えます。

『古今集』や『後撰集』がわりと歌の詠まれた機会、背景を大事にしているのに対し、批判的にではありませんが、おそらく意図的に、歌を背景的なものとは独立したものとする姿勢を採っていることが、公任の当代の、直接間接の度合いは分からないながら公任の関与が深い勅撰集である『拾遺和歌集』の、詞書の特徴から見て取れると思います。

春上の最初の十首が詞書と共に並ぶ様子を見てみましょう。
(作者名は省きます。)

『拾遺和歌集』
 平良文が家の歌合に詠み侍りける(④)
春たつといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらむ
 承平四年中宮の賀し侍りける時の御屏風に(④)
春霞たてるを見ればあらたまの年は山よりこゆるなりけり
 霞を詠み侍りける(②)
昨日こそ年は暮れしか春がすみかすがの山にはや立ちにけり
 冷泉院春宮におはしましける時、歌奉れとおほせられければ(③)
吉野山みねの白雪いつ消えてけさは霞のたちかはるらむ
 延喜の御時月次の御屏風に(④)
あらたまの年たちかへるあしたより待たるるものは鶯のこゑ
 天暦の御時の歌合に(④)
氷だにとまらぬ春の谷風にまだうちとけぬうぐひすの声
 題知らず(①)
春たちてあしたの原の雪みればまだふる年の心地こそすれ
 貞文が家の歌合に(④)
春たちてなほふる雪は梅の花咲くほどもなく散るかとぞ見る
 題知らず(①)
わがやどの梅にならひてみ吉野の山の雪をも花とこそ見れ
 天暦十年三月廿九日内裏の歌合に(④)
うぐひすのこゑなかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし
(岩波文庫版、1938年第1刷)

『古今和歌集』
 ふる年に春立ちける日よめる(②)
年のうちに春は来にけり一年をこぞとやいはむ今年とやいはむ
 春立ちける日よめる(②)
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ
 題知らず(①)
春霞立てるやいづこみよしのの吉野の山に雪は降りつつ
 二条の后の春のはじめの歌(②)
雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙今やとくらむ
 題知らず(①)
梅が枝に来ゐる鶯春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつつ
 雪の木に降りかかれるをよめる(②)
春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く
 題知らず(①)
心ざしふかくそめてしをりければ消えあへぬ雪の花と見ゆらむ
 ある人のいはく、前太政大臣の歌なり

 二条の后の春宮の御息所ときこえける時、正月三
 日、御前にめしておほせごとあるあひだに、日は
 照りながら、雪のかしらに降りかかりけるをよま
 せたまひける
(③)
春の日の光にあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき
 雪の降りけるをよめる(②)
霞たち木の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける
 春のはじめによめる(②)
春やとき花やおそきと聞き分かむ鶯だにも鳴かずもあるかな
(角川文庫『新版古今和歌集』、平成21年)

『後撰和歌集』
 正月一日二條の后の宮にて、白き大内袿を賜はりて(③)
降る雪のみのしろ衣うち着つつ春来にけりとおどろかれぬる
 春立つ日よめる(②)
春立つとききつるからに春日山消えあへぬ雪の花とみゆらん
今日よりは荻の焼原かきわけて若菜摘みにとたれを誘はむ
 或人の許に、にひまゐりの女の侍りけるが、月日久しう経て、正月
 の朔日頃、前許されたりけるに、雨の降るをみて
(③)
白雲の上知る今日ぞ春雨の降るにかひある身とは知りぬる
 朱雀院の子日しにおはしましけるに、障ることありて、え仕うまつら
 で、延光の朝臣のもとにつかはしける
(③)
松も引き若菜も摘まずなりぬるをいつしか櫻はやも咲かなん
 院の御返し(③)
松に来る人しなければ春の野の若菜もなにもかひなかりけり
 子日に男の許より、今日は小松引きになんまかる、といへりければ(③)
君のみや野邊に小松を引きに行く我もかたみに摘まん若菜を
 題知らず(①)
霞立つ春日の野邊の若菜にもなりみてしがな人も摘むやと
 子日しにまかりける人におくれてつかはしける(③)
春の野に心をだにもやらぬ身は若菜は摘まで年をこそつめ
 宇多院に子日せんとありければ、式部卿の親王を誘ふとて(③)
故郷の野邊見に行くといふめるをいざもろともに若菜摘みみん
(岩波文庫版、1945年第1刷)

三つの勅撰集の詞書は、
①題知らず
②何々を詠む、暦上のいつに詠む
③個人的にどういう理由だったので詠んだ
④歌合または屏風に寄せる機会に(詠んだ)
に大別できるように思いますが、これが巻頭の10首の詞書で、
古今〜①=3、②=6、③=1、④=0
後撰〜①=1、②=1、③=7、④=0、詞書なし=1
と、②あるいは③のウェイトが大きかったのに対し、
拾遺〜①=2、②=1、③=1、④=6
と、④が大きなウェイトを占めています。
もちろん、それぞれの全体を見れば、ここまでで0だった類いの詞書も存在するのではありますが、巻頭を開いた時の印象は『拾遺和歌集』は『古今和歌集』・『後撰和歌集』とはハッキリと違っている、と見てよいのではないかと思います。

こんなあたりを踏まえて、公任の撰になる『三十六人撰』を眺めたいと思っております。
今はここまでとします。

|

« モノクロ時代劇のような説話「四条大納言の事と申は、まことやらん」 | トップページ | 公任の和歌撰集~前十五番歌合までの編作順について »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 公任の和歌観:

« モノクロ時代劇のような説話「四条大納言の事と申は、まことやらん」 | トップページ | 公任の和歌撰集~前十五番歌合までの編作順について »