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2019年2月 2日 (土)

平安時代中期の和歌観〜古今集・後撰集和歌所・大井川遊宴

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平安時代中期の和歌観〜古今集・後撰集和歌所・大井川遊宴
【百人一首はなぜ出来た(4)】(いつになったら百人一首?)
和歌作者の社会的階層を、古今集と後拾遺集で対比してみたわけですが、素人サラリーマンのやることとて、それぞれの作者一覧にある経歴から拾ったので、ざっくりしたものにとどまってはいます。実際、古今和歌集を「編め」と命じられたころの、撰者たちの位階は六位以下だったとのことですが、それが数の集計にはきちんと反映されていません(古今集の集計で「通貴」の歌数416に対して「位階不明・六位以下」のそれは23であるのを見ても、撰者の殆どの歌を「通貴」の方に数え入れているのが明らかになります)。

それでもまあ、和歌の[貴族]社会での位置づけは、古今集から2世紀近く経った御拾遺集時代には、だいぶ高まったのだろうな、とは推測できるかと思います。

こうしたなかで、詠む人たちはどのような価値観で和歌そのものを捉えていたのかな、というところを、併せて見ておきたいと思います。

和歌の「素晴らしさ」を強くアピールすることは、古今和歌集の序に始まった、と考えておいて差し支えがないもの、として進めます。

その、仮名序のほうの冒頭。
「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはずの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。」(『新版 古今和歌集』角川文庫15767)
歌(和歌)は人の心にあまねくあるものだ、と印象づけているのですよね。
そしてこれが、このたびおおやけの認めるところとなった、と読者に知らしめるのも、古今和歌集序の大きな役割であったことでしょう。
真名序のほうの、おしまいの部分。こちらのほうが仮名序より分かりやすい気がします。これも同じ文庫本にある書き下し文で挙げておきます。
「陛下(醍醐天皇)の御宇(治世の期間)、今に九載なり(足掛け9年である)。仁(いつくしみ)は秋津洲の外に流れ(日本の外にまで及び)、恵みは筑波山の陰(=こかげ)よりも茂し。淵変じて瀬となるの声、寂々として口を閉ぢ、砂長じて巌となるの頌(ほめうた)、洋々として耳に満てり。既に絶えたる風を継がんと思し、久しく廃れたる道を興さんと欲したまふ。・・・中略・・・是に於いて、重ねて詔有り、奉る所の歌を部類して、勒して二十巻となし、名づけて古今和歌集ち曰ふ。・・・中略・・・適(たまたま)和歌の中興に偶(あ)ひて、吾が道の再び昌(さかり)なることを楽しむ。嗟乎(ああ)、人丸(=柿本人麻呂)既に没したれども、和歌は斯(ここ)に在らずや。時に延喜五年、歳は乙丑に次(やど)る四月十五日、臣貫之等謹みて序す。」


『本朝文粋』(藤原明衡[?-1066]が嵯峨天皇から後一条天皇までの約200年間の詩文(漢文です)を432編集めたもの。岩波書店の新古典文学大系27にあります)には、この古今和歌集真名序も載っていますが(342)、また、後年、紀貫之が醍醐天皇の命で編み始めたものの、貫之の土佐守在任中に天皇が亡くなってしまったために勅撰とはならずに終わった『新撰和歌』の、貫之による序(漢文)が収められています(343)。なんとか『新撰和歌』を編み終わったあとの、貫之の悲嘆の念が迫ってくる名文ですが、今は素通りしておきます。

同じく『本朝文粋』には、古今集の次となる勅撰和歌集、後撰集の撰歌のために、村上天皇の命で和歌所が開かれたときの奉行文というのが載っています。天暦(てんりゃく)五年ですから、西暦951年、古今和歌集序の、ほぼ半世紀後の文章です。古今集後、和歌の社会的位置づけが上昇したのだろうな、と感じさせられる文章です。
素人ですから、正しい読み下し文が作れません。古典仮名遣いにはしません。読み誤りもあるかと思います。どなたでも、ご指導宜しく願い申し上げます!

侍中亜将 和歌所別当を為す御筆宣旨(の)奉行文(『本朝文粋」385)

左親衛藤亜将は当世の賢大夫なり。雄剣(すぐれた剣)腰に在り、抜けば則ち秋霜(厳しく意志が固いこと)三尺、雌黄(詩文を訂正すること)口に自(したが)い、吟また寒玉(高尚であること)一声たり。彼の仙殿の綺筵に跪きて此の宸筆(天子の自筆)の綸命を銜(うけたまわ)るに逮(およ)び、天下いよいよ忠鯁(忠義の意思が固い)橈(ま)がらず、艶情相兼ぬるの臣たるを知る。昔、柿本大夫、英声を万葉に振るい、華山僧正(遍照)、高興を片雲に馳すといえども、而るに唯だ人間の虚詞を伝え、未だ聖上(=天子)の真蹟を賜らず。今に見、古を思うに、尠(すくな)からん希(まれ)ならん。時に天暦五年、辛亥の歳次(としまわり〜テキストに返り点がないので、古今集真名序とは別の読み方にしておきました)、玄英(冬のこと)初換の月(=十月)、朱草まさに尽きんとする時なり。


左親衛藤亜将者当世之賢大夫也。雄剣在腰、抜則秋霜三尺、雌黄自口、吟亦寒玉一声。逮于跪彼仙殿之綺筵、銜此宸筆之綸命、天下弥知忠鯁不橈艶情相兼之臣。昔雖柿本大夫振英声於万葉、華山僧正高興於片雲、而唯伝人間之虚詞、未賜聖上之真蹟。見今思古、尠矣希矣。于時天暦五年歳次辛亥玄英初換之月、朱草将尽之時也。

書いた人は源順(みなもとのしたごう、911-983、平安中期の事辞典『和名類聚抄』の撰集者、梨壺の五人のひとり)。別当(長官)になった左親衛藤亜将は藤原伊尹(ふじわらのこれまさ、924-972、このとき従五位上左近少将、971年には摂政太政大臣にまでなった。藤原行成の祖父)。
僧正遍照が柿本人麻呂と並んで出て来るのはなぜなのか私には分かりませんが、すくなくとも万葉集は勅撰ではなかった、と順は考えていたようですね。


さらに『本朝文粋』には、和歌序というものが、先の古今集真名序、新選和歌序以外に9つ収められています。
皇室へのお祝いの和歌をまとめて献ずるときの序が4編、法華経讃の和歌群に添えた序が1編あって、あと四編が、遊宴のときに貴族たちが詠み合った和歌に寄せての序、とでもいうのでしょうか。

遊宴に際しての詠歌の様子が窺えるものをひとつ読んでみましょう。

暮秋大井河に泛(う)かびておのおの懐(おも)う所を言う和歌の序(『本朝文粋」351)

寛弘(1004-1012)の歳、秋九月、蓬壷(ほうこ、内裏のこと)侍臣二十輩、宴を亀山の下、大井河の上に合し、或は高談艶語、或は糸竹(音楽を奏で)觴詠す(酔っぱらって歌った)。沙鴎は鴛鶯と狎近し(なれなれしく近づき)、紅葉は紈綺(白いあやぎぬ)と紛揉す(入り交じり紛れてしまう)。於戯、今日の興、今日の情、偏に遊泛(船遊び)を好まず、四海の無事を誇るなり。偏に眺望を好まず、三農(平地、山地、湿地での農業)の年(みのり)有るを覩(み)るなり。船を艤(つな)ぐものは摂州刺史(摂津守)、水陸の珍を尽し、令に赴くは翰林主人(文章博士)、花鳥の事を兼ぬ。時に山水秋深く、雲夢のごときは八九有り、煙嵐し日暮れ、風物を記すは以て一二に難(かた)し。憖(なまじい)に和歌を詠じ、聊か老思を慰む。其の詞に曰う。


寛弘歳秋九月、蓬壷侍臣二十輩、合宴亀山之下、大井河之上。或高談艶語、或糸竹觴詠。沙鴎与鴛鶯狎近、紅葉与紈綺紛揉。於戯、今日之興、今日之情、不偏好遊泛、誇四海之無事也、不偏好眺望、覩三農之有年。艤船者摂州刺史、尽水陸之珍、赴令者翰林主人、兼花鳥之事。于時山水秋深、若雲夢者有八九、煙嵐日暮、記風物以難一二。憖詠和歌、聊慰老思。其詞曰。

読めない字、意味の分からんところがいっぱい(笑)。でもニュアンスが分かれば良しとしましょうか。
書いた人は大江匡衡これを書いてさほど経たずに亡くなっているかと思います(寛弘九年没。952-1012)
船に乗って川を下りながら紅葉狩してどんちゃんさわぎしていたけれど、日暮れにはあたりが雨で煙って、歌なんかそんなに詠めなかったんだけど、と、まとめて(誰か偉い人に?)献じる歌がヘタクソかもしれないのを言い訳してる風情、と読みましたが、どうでしょうか。勅撰集関連の緊張はなく、楽しみの際の和歌はくだけた雰囲気で構わないんだ、と捉えていた、ということでしょうか。それでも宴(うたげ)に歌は欠かせないものになっているようです。こうした序が寄せられると言う事は、しかし、楽しんでいるようでも半分は業務なんだ、みたいな感触があるように思います。


大江匡衡が序を書いた、この大井川で、時は違い、ちょっと前になりますけれども、やはり船での遊びで優秀な芸術家だと人々に知らしめるエピソード(大鏡にある「三船(三舟)の才」なる説話で、高校生でも知っているものだそうです)を残したのが、藤原公任です。ネットにけっこう載っかっていて、ビックリしました。

ひととせ、入道殿の大井河に逍遥せさせ給ひしに、作文のふね・管絃の舟・和歌のふねとわかたせ給ひて、そのみちにたへたる人々をのせさせ給ひしに、この大納言のまいりたまへるを、入道殿、「かの大納言、いづれのふねにかのらるべき」
とのたまはすれば、「和歌のふねにのりはべらむ」とのたまひて、よみ給へるぞかし、
 をぐらやまあらしのかぜのさむければ、もみぢのにしききぬ人ぞなき
申うけ給へるかひありてあそばしたりな。御みづからものたまふなるは、「作文のにぞのるべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。くちおしかりけるわざかな。さても殿の『いづれにかとおもふ』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし」とのたまふなる。一事のすぐるるだにあるに、かくいづれのみちもぬけいで給ひけんは、いにしへもはべらぬことなり。
(岩波書店 古典文学大系『大鏡』1960年 p.95-96)

訳はこういうとこに載ってます。すごいねぇ。
http://manapedia.jp/text/3514
https://frkoten.jp/2016/02/19/post-969/
https://nbataro.blog.fc2.com/blog-entry-362.html
http://www.soueiseminar.jp/article/13995335.html

公任にはいくつもの和歌撰があったりし、なかでも「三十六人撰」が「百人一首」に至るまで、後続の歌人たちに大きな影響を残したんだそうですから、次はちょっと、公任さんの追っかけをしないことには始まらないと思っております。
どんな追っかけかたをしようか・・・
あんまし深入りもできないし・・・(笑)

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