2019年11月17日 (日)

本郷三丁近辺を駆け足で【東京テキトー散歩16】

司馬遼太郎『街道をゆく』の「本郷界隈」に誘われての散歩も良いのですが、明るくないとつまらないので、いつかじっくり回りたいなと思っています。
それはそれとして、湯島天神から切通坂を上がって本郷三丁目駅近辺までは行っておきます。

天神さんは、以前、身近にいた高校生たちに、ここのお守りを渡していました。
泉鏡花の「湯島の白梅」のセリフは、祖父母が映画で見て覚えていたり、子供時代には笑劇でとりあげられたりしたものでした。けれどもその原作は、こんど青空文庫で初めて目にしました。正しくは「湯島の境内」という戯曲で、長編小説『婦系図』から一場面をとりだしたもの。なおかつ元の長編にはなかった湯島天神を舞台にする設定も戯曲でなされた由。
「俺を棄てるか、婦(おんな)を棄てるか」
って、出てくる男の人の方が女の人に向かって言ったのだ、とばかり思いこんでいましたが、そうじゃないんですね。よく分かっていない私が話すと長くなるから、やめときますけど。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3578_19568.html

 神田明神もそうでしたけれど、湯島天神も崖上にあります。もっとも、その崖は社務所などですっかり覆われている。こういう立地が面白いな、と感じます。
下谷神社や小野照神社、千束の三島神社も、上野になった忍が岡にあった時分は、もしかしたら似た立地だったのかな。まだ巡っていませんけれど、板橋区の志村三丁目駅近くの熊野神社も、城跡に建っているとはいえ立地としては崖上です。そういう場所を好む神たちもいるのかな。このあたり、民俗的なことを知りたいなと思っています。山岳信仰ほどではないけれど、人間の側は、上ったところに聖なるなにかがましますという感覚が、もしかしたらあるのではないかな。

天神さんの先、湯島台の上底にたどり着くと、平らになった道筋に、しゃぶしゃぶの江知勝があります。明治四年創業で、行ってみたい憧れの店でしたが、お値段もいいので「いずれ」と思っているうち、来年(2020年)1月でたたんでしまわれるそうで、残念です。そういう東京老舗が増えました。
もう少し先に行ってからではありますが、本郷三丁目駅の角の、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の雑貨店かねやすも、いつのまにか店をたたんでいました。有名な川柳はもちろんですが、「かねやす」は、例の根岸鎮衛の『耳嚢』にも登場する老舗でした。

Kaneyasu
江知勝さんや「かねやす」さんの閉店は現代の流行のせいでしょうか、はたまた後継の問題でしょうか。物語る資料はありません。店主さんとそのご家族にしか分からないのでしょう。ただ、どんな加減なのか、第二次大戦後は「継承する」ことが難しい制度・世相にはなったのかとは思います。それは戦後当初は大地主や財閥の話だったけれど、時間が七十数年たってみると、それほどでもない「家」にも確実に及んでいる気がします。

「かねやす」さんのあたりでの『耳嚢』でのエピソードには、あとで触れます。

江知勝さんの前で、切通坂の延長の春日通はやや右に曲がり、それをまっすぐ行くと、左手に立派な教会建築があります。中央会堂、本郷中央教会です。建物は昭和四(1929)年建築のもの。鉄筋コンクリート造で、登録有形文化財です。その共同設計者に名を連ねている川崎忍は昭和初期の名設計者だったのであろうかと思いますが、私は調べるすべを持ちません。神戸の貿易商であった土井内蔵という人が川崎の叔父で、川崎が叔父のために昭和11年に設計し宝塚に建った邸宅は、土井の娘婿の松本氏が住んだために「旧松本邸」と呼ばれて、これも国の登録有形文化財になっています。

Chuoukaidou

中央会堂まで行く少し手前を右手に入ったところには、春日局の墓所である麟祥院があります。訪ねるのが夜ですから当然閉門。こぶりながら山門はなかなか威厳がありますが、戦後の再建なのだそうです。苔の庭が美しいと聞いています。また明るい時にやねぇ。

http://www.visiting-japan.com/ja/articles/tokyo/j13bu-rinshoin.htm

Rinshoin

建物のおもてづらばかりに見とれているうちに、問題の(なんの問題?)本郷三丁目駅の交差点に着きます。右の上りは見返り坂。東大の赤門に至ります。赤門のほぼ向かいが、樋口一葉が幼少時代(5歳から9歳の時)住んでいた家のあたり。明治9年にここにきた由。いまは説明板があるだけですが、路地を入ったところの法真寺さんが文京一葉会館を設けています。・・・ちょっと不思議なお寺さんで、建物にびっくりしますけど。和と洋の融合にこだわられたそうで、ステンドグラスの窓があったりします。

http://www.hoshinji.jp/temple/

Ichiyokaikan

ここから先へ進むと根津神社までいっちゃいますが、踏みとどまります。本郷三丁目までとってかえします。

交差点の西側に「本郷薬師」の赤い提灯が並んでいます。
覗くと、奥に小さなお堂が見えます。これが、お薬師さん。きれいなお姿の、小さな薬師如来がお祀りされています。
お堂を過ぎて右手に入ると、露座の仏さんが、みずみずしく青さびて、連弁にきりっと座っていらっしゃいます。十一面観音像です。
薬師如来も十一面観音も、もとこのあたりにあった真光寺の境内の仏さまだったそうです。真光寺そのものは東京大空襲で焼け落ちたあと世田谷(仙川駅の近く)に引っ越し、二像だけがここへ残されたもののようです。しかし、焼けなかった薬師如来像は世田谷の真光寺さんのご本尊になっている、とあり(この寺社サイトは、どんなときに参考にしてもよく突っ込んでらして、感嘆するしかありません https://tesshow.jp/setagaya/temple_kyuden_shinko.html ご制作者については https://tesshow.jp/profile.html )、ならばいまの本郷薬師の小さなお堂にいらっしゃる美しい薬師像はなんなのかとなるのですが、これまた私には分かりません。薬師堂そのものは現在はコンクリート造ですが、寛文十(1670)年には建っていたものだとのことですから、真光寺のご本尊の薬師如来とはまた別に作られた像なのかもしれませんね。

Hongouyakushi Hongouyakushisama

見返り坂から本郷薬師に至る通りは中山道、国道17号線で、南に進むと御茶ノ水のお堀の一本北側を通って湯島聖堂と神田明神前に戻るのです。
西に行けば後楽園方面だったり、ちょっと北に折れて菊坂をのぼれば樋口一葉の使った井戸や通った質屋さんが残っていたりします。
本郷薬師のところの交差点、惜しくも店をしめてしまった「かねやす」さん(元は交差点の東南角)までが「江戸のうち」だった感覚は、北の先に加賀藩邸の赤門があることを思うと周辺は武家地で庶民の騒ぐ界隈ではなかったわけですから、それでなんとなく感じ取れます。こうした空気の機微は、付近を江戸期の切絵図で見ても、次の『耳嚢』の話を読んでも、なるほど、と思われてきます。

知る人の語りけるは、小日向小身の御旗本の二男、いづち行きけん其の行方知れず。其の祖母深く嘆きて所々心掛けしに終(つい)に音信(おとずれ)なかりしが、或る時彼の祖母本郷兼康(かねやす)が前にて与風(ふと)彼の二男に逢ひける故、「何方へ行きしや」と、或ひは歎きあるひは怒りて尋ねければ、「されば御歎きを掛け候も恐れ入り候得共、今程は我等事難儀なる事もなく世を送り候へば、案事(あんじ)給ふべからず。宿へも帰り懸御目(おめにかかり)たく候得共、左(さ)あつては身の為人の為にもならざる間、其の事なく過ぎ侍る。最早御別れ可申(もうすべし)」といふに、祖母は袖を引き留めて「暫し」と申しければ、「左思はば来たる幾日に浅草観音境内の念仏堂へ来たり給へ。あれにて可掛御目(おめにかかるべし)といゝし故、立ち別れ帰りて、かくかくの事を語りけれど、「老いにや耄(ほ)れ給ふなり」とて、家内の者も取り合はざれど、其の日になれば、「是非浅草へ可参(まいるべし)」とて、僕壱人召し連れて観音境内の念仏堂へいたりければ、果して彼の二男来たりて彼是の咄をなし、「最早尋ね給ふまじ。我等も今は聊(いささ)か難儀に成る事もなし」と語り、右連れにもありけるや、老僧など一両輩念仏堂に見へしが、祖母の物語りと同じ事なるよし。天狗と云へる者の所為にやと、祖母の老耄の沙汰は止みしなり。(根岸静衛『耳嚢』巻之四 岩波文庫 中巻p.83 フリガナを補いました。)

まあ、駆け足で、見てきたような観光案内になってしまった。
いちおうどこも直接見てるんですけどねぇ。

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2019年11月10日 (日)

湯島・駿河台【東京テキトー散歩15】

たかだか定年直後雇用延長中サラリーマンのブログですが、せっかくだから、通しで歩ける道順を、と、訪ねる先を繋げてみています。
湯島に行きます。

今の国道17号は、秋葉原の万世橋たもとを左に直角に曲がり、また右に直角に曲がり、もういちど左に直角に曲がって本郷方面へ向かっています。
これが中山道の道筋で、江戸時代には将軍が筋違門を出て日光へ向かう御成道でもありました。

司馬遼太郎『街道をゆく』は、東京では本所深川方面と、神保町周辺から本郷界隈までだけを巡っています。シリーズの最後の編集者でいらした村井重俊さんがお書きになっているところでは、東京を巡りはじめたとき、司馬さんは『街道』連載をやめたいと思ったようです。次は東京を、と選んだのは司馬さん自身でしたから、東京巡りがいやだったわけではないのです。長年『街道』の挿絵を描かれていた須田剋太さんが、このころ亡くなったことが大きかったのでしょうか。須田さんの挿絵、司馬さんが『街道』の中で描く須田さんのエピソードは、まだ中学生だった一読者の私にも、ほのぼのとした印象を残すものでした。
村井さんがこの難局を不器用に乗り切った経緯は、村井さんのユーモアあふれる『街道を「ついて」ゆく』に、冒頭五分の一を費やして記されています。

ちょうどいま(20191120日まで)、六本木は東京ミッドタウンのフジフィルムスクエアで『街道をゆく』を旅した写真(小林修さん撮影)の展示会をやっているので、訪ねてみました。ブースの外に設けられた文庫版『街道をゆく』の販売所に、司馬さんの写真そっくりな白髪の紳士が控えていらっしゃる。近くにいた人たちとの会話を耳にして、あ、村井さんだ、と気がついた。それで、並んでいる司馬さんの本ではなく、村井さんの『「ついて」ゆく』のほうを慌てて手にとって、額に汗しながらレジに行きました。
「『神田界隈』と『本郷界隈』を読んだところでして」
と、おそるおそる差し出したら、村井さん、
「それはそれは、ちょうどよかったですね、よろしければサインしますから、お名前を教えてください」
で、名前をメモ書きして差し出しました。
「えっ、本郷さんなんですか、それはそれは」
と、書いてくださったサインに
「司馬さんは本郷が大好きでした」
と書き添えて下さいました。・・・もちろん、この本郷は私の名前ではなくて、地名なんですけれど。
そして手ずからお釣り銭も渡して下さいました。

本郷あたりはまた、N大のF先生が半日を割いてご案内して下さったことがあって、東京知らずの私が東京歩きをしてみたくなったきっかけにもなった場所です。実際に東京を歩くまで数年あいてしまいましたけれど。しかし本郷あたりは奥が深いので、後日またあらためて行くつもりです。

手前の、湯島近辺にとどめます。

湯島だって、狭い地域ではありません。
国道の一本南手前の昌平坂を、御茶ノ水のほうへゆるゆる上っていくと、湯島聖堂です。「湯島」と呼称につく南限は、ここになるでしょうか。
聖堂の西背後は、江戸幕府「唯一の官学としてさかえた」(司馬さん『神田界隈』文庫本p.203)昌平黌が広がっていたところで、いま東京医科歯科大の東縁に説明版があります。
聖堂は、昌平黌(昌平坂学問所)が出来た寛政二(1790)年よりもずっとまえ、五代将軍綱吉が林家に下賜した場所に建てられた孔子廟です。関東大震災で焼失しましたが、坂下の仰高門から廟である大成殿までが鉄筋コンクリートで再建されています。私は子供らがまだ小さいころに家族でここを訪ねましたが、どこをどう入ってどう見たか、記憶は遠く霞みました。あらためて見るにも、歩けるのが主に職場の定時後なので入れません。
聖堂のたつあたりは、湯島台と呼ばれています。
「湯島台に聖堂があったればこそ、神田川をへだてた神田界隈において学塾や書籍商がさかえたのである。」(同p.203

Seidou 

聖堂と東京医科歯科大のあいだの道を、聖橋を渡って駿河台へ降りていけば、司馬さんの言う、学塾や書籍商がさかえた場所です。駿河台の坂にはニコライ堂と、保険会社のビル群。
ニコライ堂の美しさは、司馬さん『街道』の「神田界隈」(文庫p.246~)に、時間を超えた人の膨らみまで含んで描かれています。この時期あらたに挿絵を担当された桑野博利画伯が
「いい女というのに、めったにお目にかかれませんな」
とスケッチしながら言う、珍妙な展開です。
ニコライ堂も、もうビルに取り囲まれてしまっていますが、往時の周辺の美しい眺望は、江戸東京博物館に再現されています。
ついで話ですが、ここは、家内に死なれて数年途方にくれていた私が「いい女」に 救われた場所でもあります。なにかと付き合ってくれる、いまの相方です。

Nichorai

一本上流側、お茶の水橋のほうから下れば、明治大学。道を挟んで、楽器店街。エレキギターが主で、ヴァイオリンのお店が混じっています。大手は、下倉楽器やクロサワ楽器。周辺の路地にも楽器店があふれています。
下まで降りれば、スポーツ用品店街が東の小川町側。右手の神保町側が古書店街。
降りるのはしかし、まずは聖橋を渡った手前。淡路坂あたりをさまよいます。
じつは筋違橋跡を探しに万世橋駅あたりを徘徊したとき、このへんで小さな発見を二つしていました。

その前に、聖橋のことを、ちょっと。
ここは昔々からの橋ではありません。隅田川の新たな諸橋同様に関東大震災の復興橋梁で、昭和二(1927)年完成のコンクリート橋です。それにしては古めかしい「聖橋」の名前は、橋北の湯島聖堂と橋南のニコライ堂をつないでいるから、と洒落てつけたものだそうです(『街道をゆく』神田界隈p.202)。全容はお茶の水橋の上からも見え、また昌平坂から間近に見ることも出来ますが、アーチが実に美しく、厚みに貫禄があります。デザインしたのは山田守。橋台を両端に持つプレート・ガーター橋で、初案から改訂される過程で左右対称性とアーチ群の連続性が高まりましたが、竣工に至って橋台のいっぽうがなくなり、対称性は失われました。構造設計は成瀬勝武。(伊東孝『東京の橋』p.168p.174 鹿島出版会 1986年)

Hijiribashi

さて、聖橋を渡った先の淡路坂の、またひとつ南に、観音坂があります。そのてっぺん、北側に、小さな祠があります。紙垂が下がっているので、神様なのかな、と思って覗きますと、説明があって、観音堂なのだそうです。中にどんな像がましますかは分かりません。このお堂があるから前は観音坂なのか、というと、どうも違うらしく、ここにお堂ではなく芦浦観音寺があったからなのだそうです。このお寺についてが、これまたさっぱり分かりません。近江の草津に伝聖徳太子創建の芦浦観音寺なる大寺があって、桃山時代を経て江戸時代にも琵琶湖の湖水奉行を務めていた由。その旨を説明したサイトでは、この寺の屋敷がこの駿河台の観音堂あたりにあったと述べています。近江の寺の屋敷が江戸にあったのですか。出先機関だったのでしょうか。江戸期の寺社制度は、またよく分かりません。調べる糸口を、いずれ見つけないと。

さらに、観音堂のほぼ真北、お茶の水ソラシティの谷間に蔵がひっそり復元されているのを見つけました。大正期に神田淡路町にあった書籍商、松山堂の藏を、その部材を用いて再建したもので、アートギャラリーとして貸し出されているようです。

これで昌平橋まで戻ってしまいましたので、ギザギザ歩きになりますが、今度は国道のほうの坂を上ります。

国道17号を挟んで、聖堂の真北が、神田明神。ここも司馬さんがたくさん、いちどは明治政府にしりぞけられた主神の平将門が祭神に復帰した経緯、銭形平次との縁など、「神田界隈」で書いています。私は桜の頃ここを訪ね、神田祭の前夜にまた訪ねていました。祭そのものはまだ見ることが出来ていませんが、前夜は短い参道に翌日の神輿の担ぎ手になるだろうかたたちが大勢集まって酒盛りしているのを眺め、境内で控えている山車の偉容に胸躍らせしたのでした。
花の春は決して桜の木は多くないのですが、真っ赤な惣門にかかる枝が照明にはかなく映えるすがたには、しばしみとれましたっけ。 

  KandamyojinKandafes Kandafes2

そうだ、ここからまた北に行けば湯島天神があるよな、と、このとき神田明神の夜桜を背に、別に急ぐ必要もないのに、半ば走るようにして夜道を行きました。

天神さんは、真っ暗でした。
桜は、ないのです。
そりゃそうだ。
天神さんには、梅の花ですものねぇ。

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2019年11月 2日 (土)

アメ横〜アキバ:変貌する商店街【東京テキトー散歩14】

歩くだけならタダなので、アメ横を抜けます。

ここは第二次大戦後、新宿、池袋、渋谷、新橋と並ぶ大きな闇市街でしたが、他とは違う特徴があったようです。

「上野は、都心型のヤミ市―――飲食、呑み屋型から出発したのではなく、後背地を背負って、物資集散ターミナル型のヤミ市として誕生した」(松平誠『東京のヤミ市』p.34 講談社学術文庫 201910月 原著1995年)

こちらも参照。 http://www.gonzoshouts.com/place/4247/

・・・でも。
・・・あれ?
なんとなく、前と違うな。
こんなに飲み屋さんだらけだったっけ?
こんど通り抜けてみたら、アメ横の表(?)通りのほうに、立ち飲み屋っぽいのがズラリと並んでいる。
観光と思しき外国人客が多いのですが、若い大和民族もわりとお客になっている。
アメ横・・・いつから、どうなったんでしょう?

Ameyoko
サイトを探しても本を覗いても、問屋さんというか、たたき売りというか、そういうお店がたくさんある、との話は以前の通りで、飲食店が増えたみたいな情報はとくにありません。

Wikipediaにこんな記述はあります・・・

「アフリカ系やアジア系の人が経営する衣料品店やブティックが増加中で、2015年になると外国人が経営する店はアメ横全体の1割にあたる40店になった。40軒いずれの店もアメ横商店街連合会に所属し、会費も払っている。このような外国人の経営する店の増加に対し『アメ横の雰囲気が変わってしまう』と懸念する声もあるが、同連合会広報部長は『アメ横には闇市の雑多な店舗が活力になった歴史がある。変化を受け入れつつ共存し、商店街を盛り上げていけばいい」と話している』(朝日新聞20151115日記事だそうです。)

それはそれで、お客として大きく気になることでもない。今の印象とは、また別の話です。

さらにネットを見てみると、アメ横関係に「食べ歩き」と「ショッピング」を抱き合わせたサイトがわりと目に付くのでした。

わたしらおっさんには、アメ横で物を食うとは、すなわち、たたき売りされている食い物を試食できるということだったように思います。
いまは、もう、そういうスタイルではなくなったのでしょうか。
食うのは飲食店で腰を据えて、あるいはスタンドで買って歩きながら食う、が、いまのアメ横スタイルなんでしょうか。
おっさん、もうどんだけ、アメ横にご無沙汰してたのよ。貧乏にもほどがある。

叩き売りのバナナとともに、昭和は遠くなりにけるかな。

いやしかし、こういう記事もありました。
やっぱり立ち飲み屋街に変わってきてるのね。
アジアン系だと、調理用
バナナてんこもりな食品販売店があったりする。あきらかに外国人客(母国からのお客)の嗜好にフォーカスしたお店も少なくないようです。

http://www.gonzoshouts.com/place/7998/

どうなのでしょうね。

スタイルが大きく変わったことだけは確かなようです。

深く覗く財力はないので、浅い観察であきらめて、南に行きます。

 

御徒町駅に着く少し手前に、赤色の際立つお寺がありました。

Marisiten

山手線からもよく見えて、惹きつけられていた建物です。
行ってみると、アメ横のお店の上に、どん、と乗っかった感じで、威厳があります。門前に「摩利支天」の幟がいっぱい立っていて、不思議な雰囲気です。
徳大寺という日蓮宗の寺院で、江戸時代から「下谷摩利支天」として信仰を集めていましたが、本堂は何度か焼けて都度再建されるも、東京大空襲で灰燼に帰し、昭和39年にまた建てられて今日に至るのだそうです。寺宝の摩利支天像は聖徳太子作と伝わっている由。夜に行ったので門は閉じていました。
何とは知らず見覚えていたお寺でしたが、いまの周囲の風景のなかでは異質さが際立っている気がしました。・・・外国人にも人気があるそうですが、こんな感じなのがハマってるのかな。

宝飾店がたくさんの御徒町、という印象は、街そのものが華やかになってはいるものの、アメ横に比べると、そんなに変わっていません。

その先、末広町も、静かなビジネス街です。

中央通りの途中途中に「町名由来」を書いた小さな立て札がいくつもあって、土地への静かな愛情がしんしんと胸にしみわたり、つい何度も立ち止まります。

これがアキバまで行ったら、またガヤガヤしてるんだろうなあ。
でも、前ほどアイドル色は強くなくなったかもしれないなあ。

と思いつつ足を踏み入れると、さっそく、「韓国メイドカフェ」なるものが目に入ります。
・・・ちと路線が変わったのかな?

Kankokumaidcafe

秋葉原のアイドル聖地化期には、ここに足を踏み入れたことが全くありませんでした。
それよりまだ前の、GUIパソコン台頭期、DOSなんぞ知らなくてもPCいぢるんだぜ世代の登場期が、僕のアキバ通い全盛期だったな。
Windows95は3.1に比べれば驚きの進化だったけれど、Macほどの操作性はまだありませんでした。それでMacにしようかと店を覗くと、そのノート版のPowerBookは安くはなく、ちょっとでも安ければとDuoシリーズにすると結局最低でもmini-docなるものを別に買って付けなければならず、筐体がまた貧弱で、二度ほど誤って液晶を割ってしまうことになり、PC用保険もほとんどありませんでしたから、液晶交換にはまた本体代くらいのお金がかかって泣かされたものでした。
そのころWindowsの重くて丈夫なノートパソコンを買いに行った九十九電機は、いまも健在なのでした。それでちょっと安堵。
が、アイドル化期が来て以来薄れた電気街のイメージは、薄れたままでした。
老舗の電気屋さんはほとんど見なくなりました。
石丸電気はどこの空?

いっぽう、メイド化期なのかどうか、どこもかしこも、看板はアニメ風イラストのメイドさんであふれています。

Maid
アイドル路線も、いちおう薄くなったのかなあ。
きょろきょろしますと、これがそうでもないのかもです。
高校生風な制服姿が多いのかな、そういう格好で客引きしている女の子が、わりとたくさんいます。
いちおう、アイドル路線を継いでいるとみていいのでしょう。

いやしかし、アイドルが客引きですか。
物知らずな僕には、「ふうん・・・」って感じです。
中央通りだとまだそれでも目立ちませんが、通り一本西に行くと、そこらへんはもう客引きアイドルさんだらけです。
おっさんはびっくり、びくびくしてしまいます。

ちょっと深呼吸したい。

JRの駅の北側の、みんながスケボーやってた広場もビルが建っちゃって久しいです。アキバデパートもなくなっちゃいました。20061231日だそうだから、私の妻が死んだ年の、死んだ日の5日後に閉店だったのでした。
そんないろんな変貌も目に収めたかったのですが、暗がりで見に行っても仕方ない。

和泉橋方向へ、というのもありだったんですけど・・・「牛」に引かれて万世橋のほうへ。
「牛」はご存じ、「肉の万世」の看板です。一度だけここで家族で食事したっけかな。小さかった子供たちを連れて。

Mansei

右手、西側の向こう岸は、赤レンガの高架。かつてあった交通博物館は大宮に移転・模様替え。そしてその前ここは万世橋駅。

足を向けてみたら、中を見られることが判明。ステキなサイトも事後確認。

https://www.ecute.jp/maach/about.html

駅跡は2013プラットホームという名前で整備されていて、手前(万世橋のほうから南向こうにまわりこんだとき)だと階段で、もう少し進んだ先からだとエレベータでテラスに上がっていけます。
ガラスで見晴らし良くなっているテラスに上がって、見えるのは、中央線・総武線の線路。
テラスを出ると、駅時代の古びた階段。

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下り口・・・階段の上り口・・・に、昔あった手書きポスターの小さな断片が貼られています。ただしレプリカ。

Stationmansei2

万世橋じたいは、今の位置にできたのは明治36年なんだそうです。1906年。
江戸期には筋違橋があって、その前に加賀藩築造の筋違橋御門の枡形が、浅草御門よりやや小規模ながらあったそうなのですが、もちろん跡形もありません。
橋の姿は1930年(昭和5年)に関東大震災後の復旧が成った時から。
昼間はなんだか古ぼけた薄い印象しかありませんが、暗くなって灯りがともると、右岸の赤レンガ続きの照明と調和して、魔法がかかったように美しくなります。

JRの線路が走る赤レンガのほうは、柳原土手を利用して築造されたものとのことです。
柳橋あたりにはもう土手が残っていませんが、思いがけないかたちで、こちらに残っていたのでした。

中山道、いまの国道17号は、ちょうどこのあたりで、日本橋からの道筋が大きく西へ屈折しているのでした。

まだ水運が盛んで、大戦前からの神田の電機器具商が流入して電気街になる、それよりもっと昔には大きな青果市場があったという秋葉原。

https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/tatsui03

なんで「アキハバラ」って呼ぶようになったのかには、いくつか説があるようですから、また本で読んでみるか。

街の呼び名の変化も、市場~電気街~アイドル街~メイド化(?)の変遷も、みな昭和以降のことですが、それをみんな、万世橋は黙って見つめてきたんだねぇ。

おっさん、がらにもなく感慨にふけりましたわ。

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2019年10月26日 (土)

上野中世妄想【東京テキトー散歩13】

ちょっと長い引用ですが、最初に置きます。

ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或る時花時分に私は先生といっしょに上野へ行った。そうしてそこで美しい一対の男女を見た。彼らは睦まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙だてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
「仲が好さそうですね」と私が答えた。
 先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
 私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
 私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交っていましょう」
「そんな風に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」
 私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
(夏目漱石『こころ』十二)

 

花時分ではないですけれど恋にも関係しませんけど、上野へ。

下谷神社の北鳥居を浅草通に出てまっすぐ西を見ると、上野の山の緑が、どん、と間近く見えるのに、ちょっとばかり、ぞくっときます。スマホでそこから写真を撮ると、でもなんだか上野の山が遠く小さくなるんですよね。地平線の月が大きく見えるのを「月の錯視」といいますが、さしづめこれは「上野の錯視」。

つまらんこと言ってないで、さて、どこからあそこにのぼりましょうか。

Ueno1 

昭和7年の駅舎が現在も活き活きとしている上野駅は、西口にエスカレーターでのぼれる大きなデッキがあって、そこから東京文化会館のところまで、線路をまたいで平坦に歩いていくことも出来る。ずいぶん楽になりました。しかし楽ちんはおデブの敵です。駅の広小路口へ回って京成上野駅のほうに向かい、西郷さんの銅像のところへ坂なり階段を上ってのぼるのがよろしい。あるいは右手の崖を、歩道橋、もしくはビルの狭間の急な階段で上がるのです。ちなみに、この崖下が戊辰戦争では彰義隊と官軍の激戦地だったらしい。

いま広小路のほうからのぼりますと、西郷さんの銅像や彰義隊の墓、上野の森美術館を過ぎた先に、清水堂がありますね。京都の清水寺の美しいミニチュアで、前面の舞台から不忍池の弁天さんが正面にきれいに見えます。

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そこからまた東照宮脇のお化け灯篭だの五重塔だの動物園入口だのを眺めつつ、噴水公園を超えて東京国立博物館へ向かうのが、私は大好きです。

岩波ジュニア新書の『上野公園へ行こう』(浦井正明 著 2015年)が、上野の山を歩くには絶好のガイドです。上野好きのかたにはお勧めします。

この本でも、タイモン・スクリーチ『江戸の大普請』(講談社学術文庫 2017年)でも、徳川幕府の江戸が、上野に東叡山寛永寺、その麓に不忍池が配されていることをもって、京の比叡山・琵琶湖を模した等々、江戸をみやこにするうえでの配慮があったことを詳しく説いています。比叡山や琵琶湖に比べればずっと小規模ではあるけれど、おかげで上野の山は現代でも、行けばそこだけでほっとできる、良い風景の良い場所です。

噴水広場と国立科学博物館の間の木立の中では、野口英世の銅像がゆったりと試験管を眺め続けています。

そこからまたちょっとだけ南に戻ると、解放された国立西洋美術館の前庭に、「考える人」・「カレーの市民」・「弓をひくヘラクレス」・「地獄の門」といったロダン作品を誰でも眺められます。

コルビジェ設計の西洋美術館の向いは、コルビジェの弟子、前川國男が、美術館との調和に配慮して設計した東京文化会館。これもよい建物ですよね。

文化会館の東には、正岡子規も野球をやったというグラウンド。

グラウンドの南には、隠れデートスポットの小高い摺鉢山古墳(円墳かと思っていたら前方後円墳なんですって)。いちおう古代人のお眠り場所なんだから、ここでイチャイチャしないでくんないかなあ。

 

イチャイチャに面食らったわけではありませんが、そんな、誰でも知っている上野、というのは、いま措いとくことにします。

本当はさらに、都美術館とか、旧奏楽堂とか、芸大あたりとか、旧博物館動物園駅(国立博物館の南西角、閉鎖されたままで目立ちませんが、ピラミッドを思わせる不思議な雰囲気です)、その向かいの黒田記念館、国際子ども図書館とか、そこから谷中方面へとか、ずっと歩いての感激もあったのですけれど、味わえる場所がどんなところかについては『上野公園へ行こう』で述べ尽くされています。それでも意地を張って独断と偏見を話すとなると、一か所一か所にたくさんの言葉を費やさなければならない。

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別の方向へ妄想に走ることにします。

徳川の江戸になる前は、上野の山はどんなだったのだろう。

上野の山は、のぼるというのは大げさで、山というのも大げさな、なだらかな岡です。
江戸が徳川のご時世になって、伊賀上野の藤堂高虎がここに屋敷を拝領して、景色が似ていたから上野と呼ぶようになったんだとか(伊賀上野は電車で通り過ぎたことがあるだけなので、これが本当かどうかについては何も言えませんけど)。
で、それまでは忍が岡(しのぶがおか)って呼ばれていたそうな。
千束の三島神社も、小野照崎神社も、下谷神社も、幕府が寛永寺を作るからってんで、その忍が岡から麓に引越しさせられたのでした。

仮に東の麓に平行移動させられたのだとするなら、こんな感じです。
三島神社は台地北方の日暮里、いまの谷中霊園近辺。(上野忍岡遺跡群の谷中霊園内に社寺の遺跡はあるようですが平安期くらいまでのようです。)
小野照崎神社は、やや南の、今の寛永寺根本中堂(江戸時代には子院の大慈寺)あたり。(同じ遺跡群の上野桜木町2丁目あたりに集落や社寺跡はあるそうですが・・・)
下谷神社はずっと南に離れて、西郷さんの銅像あたり。(どうだかな。)
・・・あくまで仮の話です。平行移動はしかし、もろもろ運搬する上では合理的だったんじゃないかな、くらいは思っています。

いちおう、遺跡一覧はこちら http://www.syougai.metro.tokyo.jp/iseki0/iseki/list/ruins/13106/106ruins.htm

 

三島さんが河野氏に縁が深く、小野照さんは祭神が小野篁、下谷神社は奈良期の地元有力者が祀り始め、平将門を討った藤原秀郷が壮麗にした、との経緯が、浅草寺に似ている(浅草寺は白鳳期の土豪の草創で、将門の従兄弟が伽藍を形成、でした)。
河野氏は伊予に勢力を張っていたので、そちら方面の研究はみかけます。でも東国では、江戸氏と婚姻関係があったらしいことくらいしか分りません。
いっぽう、この江戸氏というのが想像を膨らませてくれます。なにせ14世紀に没落するまでは、江戸の名を冠する、この地の有力者だったわけです。
忍岡は、中世には「荒墓郷」の一地名でした。詳しくは不明のようですが、この郷は豊島郡・・・江戸氏と同じ秩父平氏の豊島氏と、深い関係がある郡名、豊島氏は上中里辺りにも拠点があったようですが、太田道灌に敗北・・・に属していて、どうやら日暮里あたりから板橋区の赤塚・高島平までを含んでいたらしい。
すると、千束の三島神社が中世の当初には、江戸さんに婿に来た河野さんの、広い荒墓郷の南端に当たる日暮里の台地上に構えていた居館の施設であった、と想像するのは、なかなか面白い気がします。

小野照さんは、どうでしょう?
篁の子孫の小野氏をちょこっと調べてみると、これが武蔵七党のひとつ、横山党の先祖だ、というのです。真偽は不明です。真偽が怪しいからこそ、横山党の誰かが「うちの先祖は小野篁だ」と言って神格化したのかもしれない。だとして、横山党が河野氏と姻戚関係にあった江戸さんなどの豊島氏系とどんな関係にあったかが分からない。関係があって、河野さんの少し南に住んでいたのかもしれない。

そして忍が岡の、中世の住人たちを、浅草寺と同時期以来、忍が岡の南に鎮座して見守っていた(本来は北関東の有力者だった秀郷流藤原氏の出先機関で睨みを利かせていた)のが下谷神社さんだった、という感じ。

三島・小野照・下谷三社の、上野台地での旧位置が先ほどのようだったとすると、そんな妄想が描けるのかなあ、というところです。

そしてまた、引越しさせられた神社が古代・中世の名残であるのならば、「神社」を単純に宗教施設とみなすのは、なにか違う気がする。
古代の神社は、具体的な役割までは分からないものの、古代の屯倉(みやけ)・・・税としてのお米の収蔵庫、ちょうど江戸幕府にとって御蔵が設けられていたように・・・と密接に関わっていたかと思われています。

中世も、神社はそうした性質を受け継いで、なにか政治的経済的な機能を持っていたのではないでしょうか。

 

こんないろんな妄想を検証できる方法は、果たして、あるのでしょうか。
お知恵があったらぜひ貸して下さい。

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さて、アメ横寄りたいけどなあ。

お金がないなあ。

じゃあ、さて、次はどっちに行こうかなあ。

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2019年10月19日 (土)

下谷~お墓参りになっちゃった【東京テキトー散歩12】

三ノ輪から入谷、上野のあたりは、旧下谷区。明治11年(1878年)から昭和22年(1947年)までそうだったとのこと。
下谷と言っても広うござんす。

 合羽橋から西へ反転して上野に向かうのですが、それならせっかくだから行きたいところがあります。

道具街の、例の赤ちょうちん(居酒屋ではない)の合羽橋装飾さんから、南に二本目の道を西に向かうと、源空寺というお寺さんがあります。
本堂と道を挟んで南側が墓地です。
ここに、錚々たる人たちが眠っているのです。

まっすぐ入って左手、二体の、お顔が削れてしまっているお地蔵さんは、幡随院長兵衛夫妻の墓だそうです。歌舞伎でお馴染み。
右隣に、江戸時代後期の天文学者、高橋至時(よしとき)。日本初の、西洋天文学を導入した暦を監修した人。
その右隣に眠るのが、伊能忠敬。遺言で、師であった至時の隣に埋葬されたのだとか。

 伊能忠敬が高橋至時に弟子入りしたとき、忠敬は50歳。至時は19歳年下だったとのことですから、なんと31歳。しかし至時はたいへんな俊英でした。若年にもかかわらず、しかも学者の家ではなく大坂城を警備する同心の子として生まれながら、幼い時から算学に秀で、15歳のとき父の跡を継いで同心となるも、24歳の時に、市井の人ながら当時最も優れた天文学者だった浅田剛立に弟子入りして頭角を現しました。幕府から請われた師が出仕を断ったかわりに、江戸に出て天文方で改暦に携わるようになったのでした。

忠敬が至時に弟子入りしたのは、暦学を極めたかったからでしょう。しかし学ぶうちに、師が地球の大きさを知りたいと思っているのを知りました。もともと師に「推歩先生」と冷やかされたほど暦・天文関係の計算(すなわち推歩)に夢中だった忠敬さん、この話に好奇心を相当くすぐられたのでしょう。

地球の大きさを知るには、地球の大円(球面上の最も大きな円で、球の中心と球面を通る平面上にあります)の円周を知るのが手っ取り早い。ならば円周の距離が分かればよい。円の角は360度。全部の距離が分からなくても、1度分の距離が分かれば、あとは360倍すれば済む。そう、垂直すなわち南北方向の大円の円周~子午線で測ってみようか。お江戸浅草の天文台歴局から緯度が1度違うところまでの距離を知りたい。

それまでに得た知識で、忠敬さん、歴局から自分ちまでを歩測して、それを平面かつ南北に補正して緯度1度分の数値を出してみたけれど、誤差が大きいだろうと思われる(実際に後年大きな誤差が判明した由)。長い距離を測らなきゃだめだな、と、至時先生と話したそうな。
でも、なにせ当時は治外法権色の濃い藩領続きですから、距離を測る許可を得るのは面倒くさい。
北海道、当時の蝦夷地を測る口実なら、幕府領関連だから面倒は少ない。
お金持ち隠居の忠敬さん、これをまず自費で実行したのでした。

 数人の測量隊を編成し、がらがらと車を引っ張りさえすれば距離が分かる「量程車」というのを引きずって出かけたものの、道は凸凹があるので案外役に立たない。で、黙々と歩測。その距離往復3,200㎞。日数180日。この距離をどうやって真南北に補正するか。(以下、間違ったことを言ってたらごめんなさい。)

ものすごくざっくり言うと、その土地その土地で見える北極星が地上の子午線つまり真南北の線上から何度の仰角にあるかを知ればよい。北極星は真北に静止して見えるので、地上の子午線から仰角33度に見えれば、[北緯]33度となるわけです。(厳密には北極星は真北ぴったりにはないので動いて見えます。また、実際には忠敬さんたちは他の星も観測しました。ほかに真北と磁北のずれもあります。)

あとは、南北の坂道なら、三角関数の原理で角度から割り出して距離を出せばいい。忠敬さん当時は三角関数は日本に導入されていないので、中国伝来の割円八線対数表なるものを使ったそうです。

単純に、真の南北で測った距離が10m、勾配は30度だったなら、高低差を補正した距離はcos30°=(√3÷2)で出せるので、10×(√3÷2)≒8.66m。実際は真の南北でない直線が圧倒的に多いのですから、南北の距離は、測った直線距離が真の南北から何度ズレているかで補正をするのですね。

そんなこんなで、測ってみると、お江戸の歴局の緯度は北緯33度、蝦夷でたどり着いたニシベツ(根室半島の北側の付け根)は北緯40度、平面に補正した真南北の距離は743㎞。すると1度の距離は106.1㎞。

2回目の本州東岸測量からは、歩測ではなくて間縄(鯨のヒゲを割いたものがいちばんよかったとのこと)、3回目からは鉄鎖でも距離を測って精度を上げます。いまニシベツまでの南北の距離をそれで見直すと、江戸歴局からは776㎞。1度の距離は110.8㎞。これは現在の測定値に比べて0.2%だけの誤差だそうですから、すごいことです。

この測量で書き上げた地図の精密さが、時の人々を感嘆させます。
3回目、4回目と重なるにつれて、忠敬さんの地図は幕閣の目を驚かせ続け、5回目の畿内・中国地方測量にいたって、事業は、やっと幕府直轄の公的なものに昇格します。
師の至時先生は、悲しいかな、41歳で結核で死去。その後、忠敬さんは至時先生の長男、高橋景保の配下になり、10次にわたる測量・・・うち第9次の伊豆七島測量は危険を伴ううえ高齢であるため不参加・・・で日本全国を測量し、その集大成である「大日本沿海輿地全図」を仕上げる作業の途上、文政元年(1818年)、至時先生の死から14年後に、74歳で亡くなりました。
忠敬さんのお墓を遺言に従って至時先生の右隣に建ててやったのは景保さんでしたが、見るとこれが景保さんの父の至時先生のものよりはるかに立派なのです。役職上は配下だったとはいえ、景保さんは忠敬さんを心から敬っていたのでしょうか。篤志と言うべきです。

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 景保さんのお墓は、父・至時の左手にあります。

景保さんは、忠敬さんが亡くなって10年後、文政111828)年に、シーボルト事件に関わって悲劇の最後を遂げました。交流のあったシーボルトの持つ『世界一周記』なる地理の最新知識の書物などを、職務の上でもどうしても欲しいと考え、交換に、と、幕府の機密であった伊能図「大日本沿海輿地全図」の写しをシーボルトに渡してしまったのです。それが露見し、景保は10月に投獄され、翌年2月に獄死します。その亡骸はさらに塩漬けにされて、1年後に斬首されるという、残虐な扱いを受けました。

いま、父の高橋至時と伊能忠敬の墓は国指定史跡になって、前に案内板が立っています。都の史跡にはなっている景保さんの墓の前には、案内板はありません。でも、この三人の墓の中で最も印象的なことに、墓石の後ろに大きな碑が立っています。三つにひび割れてしまっていますが、裏に回ると、ドイツ語か何語か(オランダ語なのかな)が彫られ、その下に翻訳らしいものが書かれています。あとでネットに挙げてくださっている写真で、下半分の訳文を読みましたので、写しておきます。

 http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Jinbutsu/TAKAHASHI/

 「余が此海路の詳細なる形図と 多少水路学的観察とを報ずるを得たるは 吾等に同行せる日本人の好意と 下関の余の友人の援助 殊に余の忘れ得ざる援護者たる幕府天文方 高橋作左衛門(景保のこと)に感謝せざるを得ず  シーボルト」

Kageyasu1 Kageyasu2

ほかに、この一角には谷文晁の墓もあることを申し添えておきます。こちらも都の指定文化財です。

 

さて、これで下谷のことはめいっぱいになってしまいました。あとはざっくり。

一帯は東端を東本願寺とみなすと、東本願寺周辺にはその子院だった浄土真宗のお寺さんがたくさんあり、また通りに出れば仏具屋さんが立ち並んでいて、西に向かうと下谷神社の大きな鳥居にびっくりさせられます。ここは、駅名ともなっている「稲荷町(いなりちょう)」起源の地。

Sitayajinja

神社のHPによる「ご由緒」を転載します。

http://shitayajinja.or.jp/history

「当神社は、人皇第45代聖武天皇の御代天平2年(西暦730年)に峡田稲置らが、大年神・日本武尊の御神徳を崇め奉って上野忍ケ丘の地にこの二神をお祀りしたのが創めであると伝えられています。第61代朱雀天皇の天慶3年田原藤田秀郷が相馬に向かうとき当神社に参籠して朝敵平将門追討の祈願をなし、その平定の後報恩のため社殿を新たに造営しました。降って寛永4年寛永寺を建立するに当たり、社地を上野山下に移されましたが狭いので延宝8年更に広徳寺門前町に替地して社殿を造営しました。当神社は昔から『正一位下谷稲荷社』と称し祀られていたので、この時からこの町を稲荷町と呼ぶようになりました。5年に神社名を『下谷神社』と改め、翌6年郷社に昇格いたしました。」

 

うーむ、上野から移転してきた寺社が、このへんはホントに多いな。江戸開府前の上野はどんなところで、幕府を開いた徳川氏にとってはどんな目で見られた場所だったのでしょうね。
そこまでは分かりそうにありませんが、とにかく上野に向かってみましょうか。

 

参考)
渡辺一郎・鈴木純子『図説 伊能忠敬の地図を読む』改訂増補版(河出書房新社 2010年)
包国勝・茶畑洋介・平田健一・小松博英『絵とき 測量』改訂3版(オーム社 平成22年)
嘉数次人『天文学者たちの江戸時代』(ちくま新書1198 2016年)~書店で覗けずAmazonで仕入れましたが、まだ第1刷なのがもったいない! とてもおすすめの1冊です。

 

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2019年10月12日 (土)

入谷~合羽橋【東京テキトー散歩11】

鷲神社から下谷・入谷方面へは、東へと国際通りを横断して、ほぼまっすぐ行けばいいのでした。迂闊なことに、『たけくらべ』に登場する三嶋様、下谷の三島神社がどこか分かってませんでした。横断した後、ほんのちょっと北へ戻ればよかったんだけど。あとで知ったところでは、この三島神社は、蒙古襲来絵詞にも登場する河野通有の子孫が今でも宮司をなさっているとのこと。もとは上野の山にあった河野氏の居館に祀られていた由。https://www.mishimajinjya.or.jp/ 

まず向かったのは、『たけくらべ』で三嶋様と並んで登場する小野照様。http://www.onoteru.or.jp/
日比谷線ですと、入谷駅の、千住寄りのほうから出てすぐなのですが、歩いて行った私は、北から回って横から入りました。
入るとすぐ社務所があって、人の気配がするので覗いてみたら、巫女さんがいてびっくり。大き目な神社でも、ふらりと立ち寄って巫女さんまでいるところは、そんなに多くないでしょう。
こちらのお社も、寛永寺造立にともなって上野照崎から移転していらしたとのことで。照崎ってどのあたりなんだろう?
祭神は小野篁というのが面白い。852(仁寿2)年創建との伝を信じれば、ちょうど篁の没年(亡くなったのは1222日)でして・・・年初から篁は病臥していたはずだから、なにか関連があったのでしょうか? 小野氏の荘園が武蔵国にでもあったのかどうだったか。祖父は征夷副将軍、父は陸奥守だったので、東国を経由して北日本とは縁が深くはあったのですけれど。
それはともかく、この小野照崎神社は、渥美清さんが仕事のない時分に禁煙の願掛けをしたら、寅さんの仕事が舞い込んで「これはやばい」と言ったかどうか、死ぬまで禁煙しなくては、と誓うに至った神様だそう・・で、誓いは生涯お守りになったのでしたね。あたしも本気でお祈りしに、もいちど出かけなくちゃいけません。かたい意志がないからなあ。どうしようかなあ。
重ねてびっくりしたのは、本殿の隣に富士塚があるのでした。別の時に石浜(白髭橋の西側)と文京区の白山神社に、富士山の溶岩を運んできて築いてあるのを見ましたから、富士山信仰がいかにお江戸に浸透していたかは感じてはいましたけれど、ここでもまた、なのでした。普段は開放されていないそうで、中には入れませんでしたが、神社のサイトでのご説明によると高さは6m。富士山の溶岩で出来ている点は他の富士塚同様です。6m、とひとくちに言ってしまいますけれど、これはかなりな高さです。

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このあたりは、上野までを含めて、旧下谷区です。
下谷とくれば下谷神社、というのは、このときまだ知りませんで。知っていたとしても、ここから遥か(1.5㎞とな)南なので、またあとで。

恐れ入谷の鬼子母神さんなら、350m行くだけだそうなので、そちらへ。(「恐れ入谷の鬼子母神」は太田南畝の狂歌の文句だとは、有名な話だそうですが。)
江戸三大鬼子母神については、こちらに素敵な記事が。http://www.tokyo-kurenaidan.com/kishibojin1.htm
そちらから引用。

「入谷鬼子母神は江戸初期の万治2年(1659)に沼津の法華宗大本山徳永山光長寺第二十世高運院日融聖人が百姓利兵衛から入谷の土地を買い取って、この地に仏立山真源寺を開基するに当り、日蓮大聖人の御尊像と共に、鬼子母尊像を併祀したことから始まっています。この真源寺を中心にして、毎年7月6日からの3日間、『入谷朝顔市』が開催されます。「入谷から出る朝顔の車かな』と正岡子規にも歌われており、境内と寺院前の言問通りに120あまりの店が並び2万鉢の朝顔が売られています。」

YouTubeで見る、朝顔市の時の様子は、壮観です。近所に育った顔見知りは、毎年楽しみに出かけているんだと言ってたことがありました(埋め込みでは見られないようです、リンクからご覧ください)。

朝顔市ではないときに訪ねたら、静まり返っていました。左右の木鼻に、かわいい犬(狗)さん? 色鮮やかです。

Kishimojin

そのまま入谷をめぐると、美味しいお店とかも様々あるようですが、予算がないのでスルー。このあたりは、大変大きかった千束池(洗足池ではありません)の底だった場所で、池が埋め立てられたのは戦国時代との話をちらっと聞きましたが、その経緯は本格的に調べないと分からないのでしょうね。いつの日にか。https://ameblo.jp/machidaito/entry-12038007055.html

ここからはカッパ巡りしかありません。

浅草方面に戻る格好ですけれど、せっかくだから、鬼子母神さん前の言問通りを東へ行って、合羽橋道具街を覗きます。

その前に、「合羽橋」の呼称の由来となった「かっぱ寺」こと曹源寺を。https://www.sogenji.jp/kappa/

事前にご連絡すれば、河童たちの豊かな天井画などがある堂内を見学もできたかもしれませんが、思い付きで歩いている今はあきらめて、中をざあっと回るにとどめます。
境内のあちらこちらに河童の像があるとのことですけれど、じっくり見ないと分かりません。正門を入った右手のお堂には、河童の手のミイラもあるそうですが、あらかじめ調べてはいかなかったので、見ずじまいになってしまった・・・そのお堂の下にあるのが、次の話の主の合羽屋喜八の墓なのでしょうか。(暗くなっていてすみません、写真を拡大して右下のほうを見るとあります。)

Sougenji

「(いまの合羽橋道具街のあたり一帯は)たびたび水害に見舞われたため、雨合羽商の川太郎・・・本名は喜八・・・が私財を投じて排水工事をした。それを近くの隅田川の河童たちが助けた。」

川太郎という通称自体がカッパの異称であることを考えると奇妙ですが、河童たちが手伝いに来た、とはまたどうしたことだったのでしょう?
漁ってみると、こんなのがありました。

「ここ(曹源寺)で工事を手伝ったのは、神田の山をけずり、日比谷の入江を埋め、江戸城を中心に『の』の字を描く堀と、入り組んだ水路を整備して江戸の町を作った際に全国から動員された水利専門家集団の一部であって、開発事業終了後に隅田川周辺に川仕事をしながら住み着いていたのではないか(中略)これを民間人が私財を投じてやるというのは役人からみれば都合が悪い。そこで河童がやったということにしたのではないか」(椎名慎太郎「河童の姿を追って」p.90pdf上では14ページ目。この説を述べたのは斎藤次男 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009586527 ←こちらからPDFを見ることができます。)

これより前に見つけた「河童の民話における土木技術者の位置づけに関する民俗学的研究」(https://policy-practice.com/db/2_45.pdf)によれば、河童は差別されていた土木工事従事者たちだ、と見たうえで、

「話の世界では、ケガレを背負った人間を河童と表現し、こうした民話は差別を追認するような形で伝承されてきたことが考えられる」(p.50pdf6ページ目)

のだそうです。こちらの論文は、産婦人科医をつとめながら民俗学研究をしていた若尾五郎という人の『河童の荒魂 河童は渦巻である』(星雲社 1989【平成元】年)を参考にしているのが分かったので、この若尾さんの本も読んでみたのですが、なかなか面白い。全体像は措くことにして(古書でしか手に入りませんがユニークですからご興味があったら読んでみてください)、いまはその考証の一角に「河童と人形=非人」なる節があるとだけ言っておきます(p.34~)。

幕府の都としての江戸草創期からの土木従事者の子孫が、果たして曹源寺の近くにずっと住んでいたのかどうか。参照し続けてきた『東京古地図散歩 浅草編』を見ると、曹源寺の西北西に黒鍬組の文字が見えます。黒鍬とは、たしかに戦国時代の築城での実績を経て、江戸城築城がらみでは土木工事に従事し、平和な時代になると、作事奉行の配下として江戸城の警備や作事・防火などを担った人々です。年功で名字を許されることもあったそうなので、今戸に弾左衛門支配下で集住していた人々のような非人というまでの差別はなかったのかもしれませんが、身分は極めて低かった由。そうした黒鍬の人々を動員できたとなると、呼び名が川太郎とカッパそのものだった、合羽屋喜八という人の素性も気になります。

ほんとに、隅田川周辺は、なんだか不思議なところだなあ。

合羽橋そのものの話ではなく、舞台は関西ですけれど、黒鍬組の登場する『狸の化け寺』なる上方落語が、ひょっとしたら、喜八と河童の関係を考えるヒントになるのかもしれません。http://sakamitisanpo.g.dgdg.jp/tanukinobakedera.html

 

曹源寺の周りにもまた、河童像がいくつもあります。極めつけは何といっても、東にまっすぐ行ってぶつかる合羽橋道具街の、ほぼ真ん中に位置する、金ピカピカのカッパさん。見た瞬間、呆然。この「カッパ河太郎像」は、合羽橋道具街90周年記念で平成15年に建てた由。http://www.kappabashi.or.jp/home/kawataro.html

Goldkappa

この道具街に、果たしてどれくらいの道具店があるのか、ちょっと分かりません。とにかく、たくさん。

サラリーマンにとっては日曜日は休んでいるお店も多いのが、ちょっと悔しい。

それでも、どこを眺めていても、なんだか気持ちがぱあっと晴れます。

プロのキッチン用具が圧倒的に多い印象ですが、食品サンプル・・・レストランのウィンドウを飾っているようなやつ・・・のお店では、一般のお客さん向けの作り方講習もやっていて、これが人気で、予約がいっぱいでした。

その斜め向かいに、なぜか赤ちょうちんがズラリと並んでいる。居酒屋さんなのではなくて、居酒屋さん用の赤ちょうちんとか、レストラン用の据え置き小看板なんかを商っていらっしゃるのです。こちらは表は興味津々のお客がたくさん立ち止まって眺めているのですが、中にまで入っていく人が少ない。それで入る勇気がわかないでしまったけれど、覗いてみればよかったなあ。

Kappabashi

公式ページとやらをチェックしておくことにします。

http://www.kappabashi.or.jp/

 

道具街北端にある、台東区生涯学習センターには、入場無料の池波正太郎記念文庫があります。https://www.taitocity.net/tai-lib/ikenami/annai/annai.html

こんどはここだけのために、ゆっくり訪ねてみたいな。

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2019年10月 5日 (土)

三ノ輪~千束・竜泉(一葉記念館)【東京テキトー散歩10】

南千住駅から都電の三ノ輪橋駅がすぐ近くだ、とは、東京内勤サラリーマン30年で、やっぱりずっと知らなかったことの一つです。
その距離たった800m・・・なしてこんなに近いんや!

またも『東京古地図散歩 浅草篇』に頼りますと、三ノ輪橋駅のあたり、日光街道沿いまでは、宗対馬守の下屋敷があったところ。三ノ輪橋駅の南側は大関信濃守の、同じく下屋敷跡。
でも、そんな面影は、もはやありません。宗屋敷跡前にあるのは、「都電荒川線入口 いらっしゃいませ 三ノ輪橋商店街」の看板。 
「三ノ輪」という地名の由来が、これまたさっぱりわかりません。「箕輪」で豪族の城郭跡だとか言われていますけど、その豪族って誰よ? 大昔の人? どんだけ?

ほんとはこのあたりで一杯やって、それから都電でちんたら王子まで行っちゃうのが、いい気分なんでしょうけど。

いや、おそれ入谷の鬼子母神さんのほうへ行きましょ。
入谷へは日光街道を南に向かえばいいのですが、地下鉄三ノ輪駅を過ぎると、左手に国際通り。こっちを選べば浅草へ逆戻り。それもいいかも。
だからというわけではないのだけれど、国際通りに入っちゃいました。千束(住所は竜泉だけど)の一葉記念館(台東区立)を覗きたいから。

記念館の前に、「樋口一葉の名作『たけくらべ』ゆかり」と鳥居前に看板のある、千束稲荷神社へ(ここも住所は竜泉)。
明るい境内の右手に、一葉さんの胸像がありました。台座には、一葉さんの日記から、このお社の祭礼を書いたくだりが、一葉さんの筆跡で。達筆で読めません(涙)。

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いちおう、こうです。

「明日は鎮守なる千束神社
の大祭なり今歳は殊に
にぎはしく山車などをも引
出るとて人々さわぐ」

(神社のHP参照。もう少し先まで載せていらっしゃいます。 http://senzokuinari.tokyo-jinjacho.or.jp/keidai00.html

『たけくらべ』の中では二から六にかけて、千束神社のお祭を舞台にお話がくりひろげられて、登場人物の美登利や正太郎、三五郎、長吉、このあと物語の鍵を握っていることが鮮明になっていく信如、この子たちをとりまく大人の風景が、みんな活き活きと描かれています。
(青空文庫ならこちら https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/389_15297.html

胸像の一葉さんは、ちと筋肉質なお顔で、強そうに感じました。
強そうになってもしかたないかなあ、と思わされるのは、この像の台座で初めて見た達筆な字が、流麗でありながら、広くて大きくて芯が強い線で書かれているからではありました。
だけど、実際の一葉さんは、もう少し柔らかい顔立ちだったんじゃないかな。

道を渡ってちょっと南に行って、さらに東へ折れて、一葉記念館へ。
朝は9時からやってるんですね。入館できるのは午後4時まで。(休日はサイト参照 http://www.taitocity.net/zaidan/ichiyo/riyou/
南北に細長い館内は23階が展示室。伺った時には1階入って左手の年表のところで年配のボランティアさんが訪問者に説明をしていました。土日の午後に説明が受けられるようです。ボランティアさんの人数が限られてもいて、私は残念ながらご説明は受けられないままでした。みなさんお詳しいので、説明していただくほうがいいんですけどね。
2階右手には一葉さんの周辺の人々関連の、左手には一葉作品関連の、3階は一葉作品を享受した芸術家さんたち関連の展示がされていました。
混んではいないので、ゆったりと眺めたのでしたが、入れ代わり立ち代わりに訪ねてくる若い人も多く、どなたも熱心に見入っているのが、印象的でした。

なんだ、一葉さんは竜泉には八ヶ月しか住んでなかったのか、と、ここを訪れて初めて知りました。かつ、この地を舞台にした『たけくらべ』は、竜泉から引っ越して半年たって生まれたのでした。この時間差が、『たけくらべ』を濃密な作品へと結晶させたのか、などと感慨にふけりつつ、ひととおり中を見学。

一葉さん一家が竜泉で住んでいた場所は、記念館の前の道を南にまっすぐ行って右に折れた、すぐのところ。距離にして180m。そしてまたそこから吉原は目と鼻の先。ここで一葉さんは「糊口的文学の道を脱す」決意で、家族といっしょに荒物屋さんをひらいたんですね。商売人、一葉。当時付けていた仕入帳が展示されていました。これをいちばん興味深く見たのでしたが、品目を書き留めてくればよかったなあ。あ、筆記用具持ってってなかった。

いま、こちらのブログから引用させていただきます。 http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J040.htm

「仕入帳によると、糊、安息香、元結、掃除道具、付木、磨き砂、箸、麻ひも、楊枝、鉄漿(かね)下、亀節、歯磨き粉、ランプの芯、藁草履、卵、せっけん、たわし、蚊遣香、マッチ、簓(ささら)などを売っていたようで、8月の仕入れ総額は33円35銭、9月の仕入れ総額は11円33銭でした。一ケ月に15円の売上があったとして、純益は5円くらいでしょうか。 なかなか、厳しいものです。
 小間物屋で始まった商いですが、そのうちより小額な駄菓子屋になってしまい、さらに近くに同業者が現れ、翌年4月には店をたたみ、本郷区丸山福山町に引っ越しました。」

品目や店の扱いの推移からみると、一葉さんの立場は、差し詰め『たけくらべ』の中の「筆や」というところだったか。そこへ幻燈をやりに美登利や正太郎や三ちゃんや、と十代半ばの子供らが十二人も集まって、正太は婆さんに呼ばれてしぶしぶ帰って、そのあと長吉がやってきて三ちゃんをさんざんなぶりものにしたり、美登利に草履を投げたりしたことがあったのでしょうか。

TakekurabekimuraTakekurabe

絵の題になるのは、美登利と信如のぎこちないやりとり・・・雨の日、美登利のいる大黒屋の前で信如が下駄の鼻緒を切って困ってしまったときのことなど(上の絵は木村荘八がまた別の場面を描いたもの)・・・ですが、私にとって『たけくらべ』で泣けるのは、いつも、鷲(おおとり)神社の祭のくだりです。正太が三ちゃんに美登利の居場所を尋ねるところから。旧漢字だけど、ことばは概ね分かりやすいと思います。

「お前は知らないか美登利さんの居る處を、己れは今朝から探して居るけれど何處へ行たか筆やへも來ないと言ふ、廓内だらうかなと問へば、むゝ美登利さんはな今の先己れの家の前を通つて揚屋町の刎橋から這入つて行た、本當に正さん大變だぜ、今日はね、髮を斯ういふ風にこんな嶋田に結つてと、變てこな手つきして、奇麗だね彼の娘はと鼻を拭つゝ言へば、大卷さんより猶美いや、だけれど彼の子も華魁に成るのでは可憐さうだと下を向ひて正太の答ふるに、好いじやあ無いか華魁になれば、己れは來年から際物屋に成つてお金をこしらへるがね、夫れを持つて買ひに行くのだと頓馬を現はすに、洒落くさい事を言つて居らあ左うすればお前はきつと振られるよ。何故々々。何故でも振られる理由が有るのだもの、と顏を少し染めて笑ひながら、夫れじやあ己れも一廻りして來ようや、又後に來るよと捨て臺辭して門に出て、十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、と怪しきふるへ聲に此頃此處の流行ぶしを言つて、今では勤めが身にしみてと口の内にくり返し、例の雪駄の音たかく浮きたつ人の中に交りて小さき身躰は忽ちに隱れつ。
 揉まれて出し廓の角、向ふより番頭新造のお妻と連れ立ちて話しながら來るを見れば、まがひも無き大黒屋の美登利なれども誠に頓馬の言ひつる如く、初々しき大嶋田結ひ綿のやうに絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲のさし込、總つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色のたゞ京人形を見るやうに思はれて、正太はあつとも言はず立止まりしまゝ例の如くは抱きつきもせで打守るに、彼方は正太さんかとて走り寄り、お妻どんお前買ひ物が有らば最う此處でお別れにしましよ、私は此人と一處に歸ります、左樣ならとて頭を下げるに、あれ美いちやんの現金な、最うお送りは入りませぬとかえ、そんなら私は京町で買物しましよ、とちよこ/\走りに長屋の細道へ驅け込むに、正太はじめて美登利の袖を引いて好く似合ふね、いつ結つたの今朝かへ昨日かへ何故はやく見せては呉れなかつた、と恨めしげに甘ゆれば、美登利打しほれて口重く、姉さんの部屋で今朝結つて貰つたの、私は厭やでしようが無い、とさし俯向きて往來を恥ぢぬ。」(十四から。青空文庫から複写しました。)

これを(暗唱はしていないので手元の文庫本で)反芻しながら、記念館を出て、ちょっと鷲神社に寄りました。

Ohtroishrine

さて、美登利や信如が通ったという学校、育英舎はどこかな、と入谷のほうへ行ってみましたが・・・もとより見つかるはずはなく。 

ここからどうしようか。

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2019年9月28日 (土)

両国橋~南千住コース【東京テキトー散歩】1~9:リンク

ここまで歩いてきたコースです。参照した古典を書き添えておきます。

この先も同じようにするかどうかは分かりませんけれど。

ぼちぼちの弁(吉原徒然草)

両国橋ちょっとだけ(幾世餅~耳嚢から)

柳橋(柳橋新誌)

浅草橋(むさしあぶみ)

蔵前(十八大通)

浅草寺(耳嚢から)

今戸あたり~(能「隅田川」)

吉原(吉原徒然草)

南千住~回向院(江戸繁盛記・蘭学事始)

Ryogokuminowa893

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南千住ちょっとだけ・・・『解体新書』という訳業【東京テキトー散歩9】

寄り道は、南千住にちょっとだけ、です。

両国橋の手前から千住まで歩いてみようかな、と最初に思ったのは、この道が聖・俗・死を一直線に結んでいることに魅力をおぼえたからでした。
浅草の「聖」・吉原の「俗」・小塚原の「死」であります。
どの場所も今昔を問わず生活の場である以上、実際にはすっきり割り切れるわけではないのでしたが、それぞれの地域に、それぞれ浅草寺・遊郭・刑場が所在していたことが、歩いてみると、今なお、たしかな残り香を放っているのでした。

で、吉原から、大きな道へではなくて、小塚原の回向院脇、南千住へと抜けます。

『江戸繁盛記』(寺門静軒、天保2~7年執筆・刊行 天保七年は西暦1836年)五篇は、序のあと、千住から始めて、岡場所各所のことを綴っています。

 千住に一大橋あり。即ち大橋と曰ふ。橋北を上宿(かみじゅく)と曰ひ、橋南を下宿(しもじゅく)と曰ふ。下宿より山谷に至る間、人戸中ごろ断え、一面の田野、謂はゆる小塚原是れなり。官、此の閑原を用ひて刑場と為し、重罪大犯、尸(し)して以て其の罪を鳴らす。因って浄土寺を建て、且つ露石地蔵仏を置く。厲鬼(むえん=無縁)をして依ることあらしむ。念仏の声、常に絶たず、香火の煙、日夜薫ず。(新日本古典文学大系100p.274

大橋はすなわち千住大橋、浄土寺が南千住の回向院を指します。露石地蔵仏というのが、常磐線などの線路で回向院から分断された延命寺にある「首切り地蔵」を指すのかどうかは、分かりません。寛保元(1741)年に出来たのだそうですから、たぶんそうなのでしょう。
延命寺を、吉原よりも北側の、現町名で日本堤のほうへ行くと、処刑に連行されるつみびとが今生の別れに涙したのでその名がついたという「泪橋」の呼称を引き継いだ交差点があって、このへんに「あしたのジョー」で丹下ジムがある設定だったのでしたが、また別の機会に。
千住大橋周辺も、芭蕉の「奥の細道」旅の矢立て始めの地ということで、後日。 

回向院へ。

両国のそれと同じ名のこの寺院は、両国回向院の分院として出来たものだったそうですが、現在は独立している由。常磐線や日比谷線の、上野に向かって右手の車窓からもよく見えます。
ここには橋本佐内・頼三樹三郎・吉田松陰(いまは空墓ですが)も眠り、桜田門外の変で大老井伊直弼を殺害した水戸浪士の墓も並んでいます。その手前には、磯部浅一・妻 登美子と連名になっている、小さくてきれいな墓も建っていました。夫の磯部浅一は226事件で刑死した人。そのほか、鼠小僧を含む、江戸末期の悪党四人組の墓もあります。
でも、ここを訪ねたのは、お墓を見に行きたかったからではありません。
回向院の入口に、「観臓記念碑」があります。今は碑ではなくて、いい石に刻まれた立派な説明板です。

これは、この小塚原の回向院で、日本医学の文字通り記念碑的な人体解剖が行われたことを顕彰するものです。夜は門が閉じますので、休みかつ用事のない昼間に覗いてきました。その文章を引き写します。

 1771年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
 その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さつそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに1774年・安永三年八月に「解体新書」五巻をつくりあげた。
 これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきつかけとなつた。
 さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、1945年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどつた浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。
    1959年・昭和三十四年三月四日
    第十五回日本医学会総会の機会に
             日本医史学会
             日本医学会
             日本医師会

Kanzoukinenhi

さらに道路拡張で本堂の位置が変わったらしく、1974(昭和49)年1026日に今の位置で除幕された旨が、脇に小さく記されていました。 

玄白・良沢らが、ここでの観臓(解剖の観察)を機に、『ターヘル・アナトミア』(実際の書名は異なるそうです)を訳そうと決意するに至った事情については、杉田玄白が『蘭学事始』で詳しく述べています。それによれば、観臓と照合するために『ターヘル・アナトミア』の原書を持参したのは前野良沢。掲載されている解剖図は漢学のそれとは似ていない。どうなのだろう、と疑心暗鬼のままその場に向かうと、腑分けの巧者だからと執刀を頼むことにしていたエタの虎松は急病で、代役を務めた九十歳になるその祖父が「これは肝、腎・・・心、胆、胃、その外に名なきもの」等々説明しながら執刀していく---これは、エタと呼ばれた人々も事によってはそうでない人々と案外に近く接していて、しかもいわば専門領分には経験からくる知識が豊かだったことがうかがえ、貴重な記述です---。その結果、漢医書の図は全く実際にそぐわず、蘭書『ターヘル・アナトミア』のほうこそ本当を描いている。それで上の記念碑文にあるとおり、帰路に、蘭書の翻訳を明日から皆で試みよう、と話がまとまったのでした。
結果、足掛け四年で訳書『解体新書』が出版されることとなったのでしたが、手探りで進んだはずの翻訳の初稿は、着手から1年半ですでに成っていたとのことです。ものすごい速さです。良沢や玄白が、いかに熱を込めて取り組んだかがうかがわれます。
専門知識がないので立ち入ったことは分かりませんでしたが、『解体新書』(講談社学術文庫で読めます)を実際に手に取ると、原典は長い文はそんなになく、主に臓器や器官を手短に説明したもののようです。(驚くことに、『解体新書』は実は『ターヘル・アナトミア』一冊を単純に訳したものではなく、複数の文献を併せた混合訳である由。)
とはいえ、語彙を網羅した辞書などないまま訳を進めるのは、とてつもない難事業だったことでしょう。こんにち、たとえばラテン語の1、2行の文を翻訳するのでも、分かりやすいテキストが豊富になったいまでさえ、適切なお教えを受けられないと、なかなか見当がつくものではありません。『解体新書』の訳業は、そんな古典語の訳の試みに比すべき困難さをもっていたものと想像します。まして『解体新書』当時、オランダ語の知識を持つ人は、長崎の通辞を中心に、ほんのわずかでした。いくらかの誤訳もあったとはいえ、この訳業が、医学だけでなく、その後の翻訳文化に比類のない先鞭を付けたことを、私たちは末永く記憶すべきでしょう。

玄白が述べている翻訳の考え方を、以下に引用します。

 翁(=玄白自身)は元来粗慢にして不学なるゆゑ、かなりに蘭説を翻訳しても人のはやく理会し暁解するの益あるやうになすべき力はなし。されども、人に託してはわが本意も通じがたく、やむことなく拙陋を顧みずして自ら書き綴れり。その中に精密の微義もあるべしと思へるところも、解しがたきところは、疎漏なりと知りながらも、強ひて解せず。ただ意の達したるところばかりを挙げ置きけるのみなり。たとへば、京へ上らんと思ふには、東海東山二道あることを知り、西へ西へと行けば、終には京へ上り着くといふところを第一とすべしと、その道筋を教ふるまでなりと思ふところより、そのあらましの大方ばかりを唱へ出だせしなり。(岩波文庫『蘭学事始』p.50

 ・・・なるたけ漢人称するところの旧名を用ひて訳しあげたく思ひしなれども、これに名づくるものとかれに呼ぶものとは相違のもの多ければ、一定しがたく当惑せり。かれこれ考へ合はすれば、とてもわれより古(はじめ)をなすことなれば、いづれにしても人々の暁(さと)り易きを目当(=目標)として定むる方と決定して、或は翻訳し、或は対訳し、或は直訳、義訳と、さまざまに工夫し、かれに換へ、これに改め、昼夜自ら打ちかかり、右にもいへる如く草稿は十一度、年は四年に満ちて、漸くその業を遂げたり。(同 p.51

最近は、過去の翻訳中心的外国語教育への強い反省と反発から、またメディアの発達から、意思疎通を前面に押し出した会話教育へと、語学への考え方もあらたまったかに見えます。しかしながら、どんな言葉も未知のものとして捉えなおし、それからこちらの言葉に置き換えてみることで、自らの足場を相対的に見直す、そんな発想からの翻訳に、玄白らの経験に立ち返って新鮮に取り組む価値は、まだまだ大きくあるのではないでしょうかないか。意思疎通という側面ばかりに気が向くうちに、一方で、じゃあ本当は自分はどうしたいのか、を、明確な立脚点から述べられるためのバックボーンを、私たちは失ってしまってはいないでしょうか。

そんな風に考えるかどうかは別として、翻訳の意義を考えたいとき、ちくまプリマー新書の鴻巣友季子さん著『翻訳ってなんだろう』は、たいへんいい本でした。唐突ですが、ご一読をおすすめします。

なんだか散策の文ではなくなってしまった。
お退屈様でした。

 これで、両国橋の西側をざっと北にたどってみる最初の目標は、いったん達成しました。

こちら方面でも、まだ立ち寄りたいところはいくつもあります。が、いまは南へ折り返します。

(テキトー散歩1~9リンク)

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2019年9月21日 (土)

吉原【東京テキトー散歩8】

待乳山の聖天さんの角からほんの100mほど北に、今戸橋の親柱があります。

Imadobashi
古写真で見る今戸橋は木橋ですが、残っている親柱は石です。迂闊にも建造年が書かれているかどうかを見落としました。隅田川周辺の多くの橋同様、明治の中頃にでも架けかわったものでしょうか。
この下を、もうぜんぶ暗渠になってしまった山谷堀が流れているわけで。今戸橋親柱の東には、その名も「山谷堀広場」なる、隅田公園の一角があって、公園が川に接したところに、堀が隅田川に流れ込む水門があり、いまでも「河口」があるにはあります。
ただ、目を西に転じても、水はいっさい見えません。水に蓋をした細長い「山谷堀公園」が、千束の南端まで続きます。その山谷堀公園も、今戸橋跡にいちばん近い手前は、どういうわけか工事のバリケードでふさがれていて、いつまでそうなのか期間も書かれていないように思いました。看板が見つけられなかった。調べると3月末には終わっていたはずの工事なのです。でも覗くとまだかかりそうでした(20199月中旬現在)。ツイートもありますね。(♯山谷堀公園)

Sannyabori

「山谷堀公園」の今の入口とでもいうべき浅草高校前のところには、猪牙舟(ちょきぶね)をかたどったベンチがありました。吉原が栄えていた時分には、遊郭へ行く客が、こんな舟に乗って堀を遡って行ったわけだ。実際はベンチのように寸詰まりではなくて、Wikipediaの説明によれば三十尺というのだから、結構な長さがあったのですね。・・・ちょとまって、三十尺って9mなんですけど、ほんまかいな?

道を挟んだ先が、くの字に曲がっているので、公園の続きはちょっとわかりにくい。右斜めに進めばよいのでした。そうして蓋をされてしまった山谷堀を、日本堤跡へと私も遡ります。
途中の説明版を見ると、山谷堀が塞がれたのは昭和50年、1975年ごろ。その直前の写真で見ると、ほかの近代河川と同じように高いコンクリートの堤防に挟まれて、美しいとは言いかねる風景でした。

70年代は日本全国どこもかしこも川が信じられないほど悪臭を放つようになっていた時期じゃなかったかな。私が育った仙台の東のはずれの小さな川も、まだ小さいころにはドジョウが棲んでいて岸に土筆がなっていて、採って帰れば味噌汁の具に困らなかったし、褒められもしたのでした。でも小学生になって以降は、汚れまくったドブと化してしまいました。上流の低い山は造成でブルドーザーにどんどん削られて、僕らはその造成で出来た崖の上で悪の要塞ごっこをすることになって、川岸からは遠ざかってしまったのでしたっけ。それでまた、削られた山は雨が降ると泥でずぶずぶになるのです。するとまた泥の中をみんなで歩きに行くのです。親の、丈の長い長靴をぶかぶか履いて出かけるのでしたが、そんなもんで間に合う泥の深さではありませんでした。長靴の中を泥いっぱいに詰めて帰れば、当然、平手でさんざん尻をぶたれて、お仕置きで物置に入れられてカギをかけられるのでした。寒くて腹が減ったもんだったなあ。・・・尻をぶつみたいなお仕置きの話は、たしか沢村貞子さんの「私の浅草」にも出てきましたっけね。お仕置きは、ぶつんでも、ぶつ場所やぶち方は考えてあったのではないかな。

また脱線しました。

細長い山谷堀公園の、暗渠になる前に橋だったところには、橋の名前を書いた標注が、ひっそり建っています。

Kamisukibashi

標注の幾つか目に「紙洗橋(かみすきばし)」があって、このへんでは紙を漉いていたわけです。水もきれいだったということか。漉いていたのはちり紙なんだそうだけど。で、ここの職人連中が、屑紙を二時間ほど冷やす工程があって、そのあいだ暇なのでちょいと吉原を覗きに行く。金がないから遊郭へは上がれない。眺めただけで帰っちゃう。これが「冷やかし」という言葉の由来なのだ、とは、あちこちに書いてある話です。

紙洗橋からほんのちょっとで日本堤。でも堤なんてどこにも見えません。錦絵で見られるだけ。

土手通りに出て、信号二つほど先が「見返り柳」。場所も移されたそうなので、元からのところではないらしいけれど、ガソリンスタンドの前に何代目かの見返り柳さんが細々と風にゆらいでいます。

Mikaeriyanagi

右のくねっとしたところを入れば吉原大門。もっとも門は跡形もなくて、道の両側に「吉原大門」と書いた柱が建つばかり。夜行って向こうを眺めると、ソープランドの看板が煌煌と連なっています。ちと行きにくい。

Iseya

土手通りを挟んで日本堤側のほうに、古いいなせな店構えが二件並んでいるのが目に入ります。
一軒は天ぷら屋さん。土手の伊勢屋。明治22年創業。
左隣のもう一軒は桜肉鍋の看板を掲げています。桜肉鍋 中江。明治38年創業。
どちらも東京大空襲で焼け残ったということです。お金がないので表を冷やかすだけで終わって残念。

気を取り直して、やっぱり遊郭跡のほうへ。

Daimon

吉原の区画だけは、往時をよく残しています。でも建物の方には昔日の面影はまったくありません。灯りのつかない昼間は実に閑散としています。このあたりの、普通の人向けの今の「売り」は、もっぱら遊女の悲しい身投げ話なので、旧遊郭のはずれまで出た先の吉原神社や吉原弁財天にはカップルでお詣りに来る若い男女の姿も見受けます。吉原神社で手に入る『吉原現勢譜 今昔図』(明治27年、大正12年、昭和33年をを対比)を見ればわかるとおり、べつにソープランドで埋め尽くされているわけではなくて、堅気のご商売のかたがたくさん、区画の中で日常を営んでいるのでした。
ただやっぱり遊郭時代の隆盛とその後の衰えへの思いは抜きがたいのかな、心中話を語って遊女に好まれたという新内節の流しをイベントで再現したりして、観光客を集める試みも続いているかのようです。
しかしまた新内というのが、清元や常磐津のように舞台に入り込んだ浄瑠璃とは違って、町中に出たものだからなのか、響きが実に寂しい。語り方というか、唄い方も、しゃくりあげるような句切れが、つらく聞こえるんですよね。

往時栄えた吉原の様子がいちばん残っているのは、歌舞伎の舞台の上かもしれませんね。代表的なのは「助六」と「籠釣瓶」でしょうが、籠釣瓶の最初の、あばた顔の商人さんが花魁道中に出会って、花魁にニコッとされてポオッとなっちゃう、あそこの舞台は、仲之町の桜がじつにまばゆいのですよ。あの芝居は「百人斬り」なる大事件を脚色したのだと聞いて、遊郭の中でばったばったと人が斬られたとはなんと恐ろしい、と思ったのでしたが、最近立ち読みした本に「実際に斬られたのは遊女一人だ」と書いてあって拍子抜けしました。ネットの時代じゃなくたって、なんでも話は大きくなるもんなのね。

Kagoturube

江戸期の書き物で吉原を描いたものはみな、お客の立場なので、日常の喜怒哀楽は、それらの中にはあまり見つけられません。『吉原徒然草』の上の百二十二段に、かろうじて書かれています(岩波文庫 p.145-147)。

 養ひかかへ置く物には、禿(かむろ)の、いとけなくて、勤めくるしむこそ、いたましけれど、かくせでは叶わぬ物なれば如何はせん。やり手は、守りふせぐのつとめ、男にもまさりたれば必ず有るべし。されど家ごとにかしづくわざにぞすれ、殊更にもてなさずとも有りなん。
 其の外、年増・新造、すべてむごく、いたはりなき物なり。大夫、格子は揚屋にこめられ、散茶はみせに入れられて、客を請ひ、ふるさとを思ふ、うれい(=うれひ)止む時なし。其の思ひ身に当りて忍びがたくば、心あらん人、間夫を楽しまんや。生を苦しめて金をもうくる(=まうくる)は、くつわ(女郎屋の主人)の心なり、客の女郎を愛せし、茶屋に出て遊ぶを見て、友として慰む。とらえ(=とらへ)くるしめたるにあらず。
 およそ「大門より外へ、かぶろならずして出さず」とこそ申し侍るなり。
(フリガナ等、表記を少し変えました。)

禿は遊女になる前の童女、やり手は遊女のマネージャー、新造・格子・大夫は遊女の位置づけ(この順で高くなっていく)、年増はいわば売れ残りとでもいうべきなのでしょうか。
大夫ともなると、和歌や書や茶の作法も驚くほどハイレベルで身に着けていたそうで、またそのように育成もされたのだそうです。このあたりについて説明されている本はいくつもあるでしょう。ともあれ公認の遊郭は、のちのクラブなんかに比べると「教養主義」的側面が強かったかと思われます。ただし、どうであっても「身売り」が付きまとってはいたわけですよね。

日常の塗炭を十代半ばの子供目線でよく描いたのは、このほんのちょっと先に十か月ばかり小さな店を開いて糊口をしのいだ樋口一葉の「たけくらべ」ということになるかと思います。近くに記念館のある一葉さんの「たけくらべ」のことは、ちょっとだけ別のところへ寄り道してから考え直そうと思いますが、上の『吉原徒然草』引用文の最後のほうの、お客の気持ちを述べた
「客の女郎を愛せし、茶屋に出て遊ぶを見て、友として慰む。とらえくるしめたるにあらず」
が、なんとなく「たけくらべ」の正太の気持ちに重なります。正太はこんな気の持ちようの大人になったのでしたでしょうか。

当代円楽さんの「明烏」。御病気の完治を祈ります。

 

(テキトー散歩1~9リンク)

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