2020年3月15日 (日)

式亭三馬「麻疹戯言」送麻疹神表~前半

疫学が発達していなかった時期、江戸時代の日本に、今と似た騒ぎはなかったのかな、と思って、鈴木則子さん著『江戸の流行り病』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー342)に出会いまして、その中で触れられていた式亭三馬の『麻疹戯言』(享和3[1803]年)に興味が出て、読んでみました。
前書、「送麻疹神表(はしかのかみをおくるひゃう)」と「麻疹与海鹿之弁(はしかとあしかのべん)」の二部から成る短い戯作ですが、「送麻疹神表」の後半はハシカとはなんぞや、を症状のことなどを含めてざっと当時の常識で述べているものですし、あとの「はしかとあしかのべん」は落語みたいなものです。
鈴木さんの紹介されている部分と重なりますが(p.102-103)、当時の世相が分かる「送麻疹神表」前半をご紹介します。
いまの状況と似たところが多いのに笑ってしまっていただけるかと思います。
現代語に訳せる能力がなく、原文掲載で申し訳ないのですが、見出しを付けてお茶を濁しますのでご容赦下さい。
(棚橋正博校訂『式亭三馬集』叢書江戸文庫20 国書刊行会 によりました。)

【ハシカ感染のありさま】
「春はをし、郭公はたきかまほし、思ひわづらうきのふけふかな」と、よみたる歌には、ひき風のひきかはりて、ことしの夏の初の頃より、男となく女となく、としの程三そじに、そこらここらの人々、「寐るはをし医者の薬のきかまほし、はしかわづらふきのふけふかな」と、うちうめきつつ、呑食ふものの味ひだに、さらにしらぬひの、つくねんと、ただ十二日のひだつをのみ、をゆびをかがめてぞ打伏ける。そのさま貴き賤きのわかちもなく、上(かみ)は玉だれの小簾(おす)のひまもる、升麻剤(しょうまざい)の匂ひ、奇南(きゃら)の香よりも高くかほり、下(しも)はあやしの馬追ふおのこまで、咽喉のしはがれたる声作りして、竹に雀はしなよくとまる、とめてとまらぬ咳嗽(せき)をなん苦(くるし)みける。

【劇場も料理屋も閑散と】
かかれば三戯場(さんしばい)のやぐら幕も、発熱の汗とともに、いたづらにしぼり上(あぐ)れば、金主の頭痛は、煤鱔人(うなぎや)の炙魚的(やきて)と備倶(とも)に大抹額(おおはちまき)のあはれなるさまなり。貨食者(にうりや)麪家(そばや)も麻疹(はしか)に付、経商(しょうばい)休の招状(はりふだ)を出し、段疋舗(ごふくや)にもおあいおあいの声絶る中に、

【ネットショップは大繁盛】
いかなれば又、貨郎店(こまものみせ)を出す者の許多(おおき)ぞや。その甚しき事、小戸大戸(げこぞうこ)をいはず、是をかぞへなばまことにはく程とこそいふべけれ。

【スパはヒマ、理髪は多忙】
湯屋の管長(ばんとう)は、常の居眠に増を加へ、出入の髪頭家(かみゆい)は、思ひの外に廻ること頓(すみやか)也。

【メッセージは盛んに】
祈祷の法印は呪術(まじない)の守護(まもり)を出せば、五社(いなり)の廟官(かんぬし)、劣らじと護符を施す。或は名方(めいほう)を書て広るあれば、或は禁忌(きんもつ)を写(かき)てとらするもありて、麻疹の猛威(いきおい)いよいよ御さかんにおはします物から、

【遊郭はアウト】
傾城の哀なるや、鼻衄(はなぢ)の夥しきを見ては、貯蔵(できあい)の起請をもかかまくおもひ、彩粉房(みじまいべや)に浮説(うわき)はしても、嫖客(きゃく)は噴嚔(くさめ)をするのみにて、都(すべ)て通ひ来る者少(すくな)し。只(ただ)麻疹訪安否(はしかみまい)の駅使(ひきゃく)のみ、昼夜をたてくだしにくだして、

【製薬のみ忙しく・症状軽く町医は空振り】
葭街(よしちょう)の裏門、魚鳥留の禁物にさみしく、柳橋橘坊(たちばな)は三弦(しゃみせん)の話もなくて薬研の音のみかまびすし。薬材客(きぐすりや)の賑ふのみならず、芉浮(やぶ)医も効を顕さんと、麻疹精要(ましんせいよう)卒然(にわか)に闇記(そらん)じ、葛根湯に休む間(ひま)なく、時を得顔に誇るといへども、ことしは勝(すぐれ)てよなみのよければ、雅(いとけな)きものは鈴付たる猴(さる)に杵めきたるものをもてあそびつ、おとなしきものも、させるくるしみもなければ、まめやかなる命定(いのちさだめ)ともいふなるべし。

(以下略)

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2020年3月 8日 (日)

広かった松阪市

お城から下りて、御城番屋敷に向かった時の、空の青さといったらありませんでした。
ここから先は、時間が止まりました。
いまも賃貸でのお住まいとして利用されているのだそうですが、一軒だけ中を見られます。決して贅沢な空間ではありませんでしたが、八畳二間に六畳二間は、庶民の長屋よりは恵まれた空間です。

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ご案内下さったSさんの奥様、ここを歩いているとき住民のかたに声をかけられて雑談し、お住まいそのものの中も見せていただいたことがある由。Sさんはそういうのがお得意で、どこでも似たことをなさっているのではなかったかな。うらやましい。
御城番屋敷以外でも、周辺は落ち着いた雰囲気に包まれています。

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https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/kanko/gojyobanyashiki.html

ちょっと歩くと、名士だった原田二郎の旧宅も見学できます。歌人の佐佐木信綱とも親交があったとかで、行った日には関連資料のささやかな展示がされていました。原田さんその人は鴻池の再建に携わった辣腕の銀行家でしたが、70歳の時に鴻池での職を辞し、全財産を投げうって「原田積善会」という財団を設立、82歳で亡くなるまで社会福祉に身を捧げたとのことです。なにせ家制度最重視の時代でしたから、財団の設立に当たっては家を「絶家」としたそうな。すごい人です。
http://www.haradasekizenkai.or.jp/

旧宅の2階には、たったひと間、34歳の時に作った書斎がありますが、そこに空けられた丸窓から広い庭を眺めるのは、すがすがしい気分でした。この庭のあたりまで松坂城の掘割がらしい痕跡が見られますから、原田さんの家が出来た江戸末期には、もしかしたら城域は少し狭まっていたのかしらん。

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さらに歩くと、梶井基次郎が一時滞在した姉夫婦の家があります。時々見学もできることがあるそうです。基次郎はこのときの体験を元に『城のある町にて』という代表作を書いたそうです。しらなかった!
https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/429_19794.html

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大手通というところまで出て市役所辺りまで下ると、江戸期に栄えた松阪商人の家並が続いています。これがなかなか壮観でした。いくつかは気軽に立ち寄れる店先になっています。

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場内に移築されている本居宣長宅もこの一角にあったのでした。元の敷地がそのまま空地として保存されているのは、町の人の心意気かもしれません。ここはまた三井家発祥の地もありますが、いまのところ未公開です。
商家の並ぶ向こうには阪内川(さかないがわ)が流れています。ここの水の、あまりにも透き通っているのには、また驚きました。
市役所前には綿の木がいくつか鉢植えにされていました。綿の花というのを、初めて直に見ました。いけないのだろうけれど、こっそり手を触れてみました。ふんわりしている。本物の綿の感触なんて、何十年ぶりかも知れない。

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なんで綿の花を飾ったりしているのか、と頭に「?」がともったのを見逃さなかったのでしょう、Sさんが
「松阪は日本有数の木綿の産地ですからね」
と教えてくださいました。
「あそこも、そっちも、藍染めの着物を着た人たちが歩いてますでしょう? あれ、観光振興で地元の人も着て歩いているし、貸し出してもいるんです。」

午前中はここまでの見学で、落ち着いた喫茶店で昼食をとったあと、
「も少し広々とした景色を見に行きましょう」
と、ご主人の運転で長距離ドライブ。
追々分かってくるのですが、道はそのまま行けば吉野にたどり着くのです。90㎞、2時間ほどの道のりらしい。
「ここって、何町ですか?」
と何度も聞いてしまうくらいの道のりを行って下さったのですが、どこまで行っても
「松阪市ですよ」
とのお返事には、ただ感心するしかありませんでした。平成の大合併でこうなったらしい。
この日行って下さったのは、吉野までへの道のりの、ほぼ三分の一。南西に位置する飯南町まで。
粥見というところにある高校に大きなハナノキがあるのですが、そこはいったん通り過ぎます。

飯高駅という道の駅があって、ここへ上って景色を見ると、眼下には美しい渓谷。こういうのを表現するのに、わたくしの語彙や表現力がまったくないのが本当に残念です。おお、こんな素敵なところがあるんだ、という以上に言えない情けなさ。

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しかしこの景色が終点ではありませんでした。
道はちょっと戻ったのだっけかな、なにせ不案内ですからよく分かりません。

それこそ道なき道を行く感じで、え、これどこへ向かってるの、とドキドキするうちに、しかしご主人の巧みな運転で滑らかに進むその先に、とつぜんどかんと、サザンカの花。
これがただのサザンカじゃありません。
でっかい!
高さが12mあるんだそうです。
そんなの見たことない!
生まれて初めてじゃ!

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天然記念物にもなっているそうな。
ちょうどいい時期だったおかげで、花盛り。これがこの花の香りか、と、初めてサザンカのにおいを知るわたくし。
花の前には茶畑が広がっていて、そのわきにテントが張られてお茶をふるまっていました。とてもおいしいお茶でした。
https://www.matsusaka-kanko.com/blog/2017/12/09/%E9%A3%AF%E5%8D%97%E7%94%BA%E3%80%80%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E3%80%80%E9%96%8B%E8%8A%B1%E7%8A%B6%E6%B3%81/

さっきスルーしたハナノキへ、もういちど。
これまたさわやかな広場です。後ろに低山が控えている景色は、ちょっと京都の金閣寺あたりに似ているな、と思いました。
見事に真っ赤に色づいていました。
この木の下で小さな子が若いおかあさんとよちよち遊んでいるのが、ほほえましい風景でした。

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これで楽しみにしていた小旅行の道程はすべておしまいになりました。
名残惜しい。

予約してある帰りの列車までまだ時間がありましたので、それまでSさんのお宅にお邪魔することになりました。
いつもSNSでお庭の様子を楽しく見せていただいていたので、思いがけないワクワクでした。

伺うと、背中に広々とした田圃と、さらにその向こうのなだらかな山々を借景していて、どこまでも続くように見えました。
お庭の木々や花々は、ご夫婦お二人で、日々丹精込めて育てていらっしゃるのです。ひとつひとつの木に、愛情たっぷりの言葉で説明して下さるのが、なんともうれしく耳に響きました。

恐縮にも駅まで送っていただいてお別れ。
慌てて土産物を買い込んで、列車中の人に。

往古の旅人に比べたら、たった一週間で、なんと恵まれた豊かさを味わうことが許されているのだろう、と、ぼんやりそんなことを思いながら、窓の外を眺めました。
蛤のふたみにわかれゆく秋は、どのへんなのか。
すぐにとっぷり日が暮れて、確かめようがありませんでした。

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2020年2月22日 (土)

松坂城

 あっというまに、こんどの旅の終点、松阪です。
上野市駅からまた伊賀神戸というところまで行って乗り換えると、特急で松阪までは、さほど時間がかかりません。
しかし改札口で長くつっかえました。
奈良から乗車したときのICカードの磁気情報は、ここまでの間ではクリアできるところがなく、そのまま松阪まで来たのでした。
ところが、駅員さんは磁気カードを扱う作業に不慣れでした。私のカードを受け取って四苦八苦しているあいだに、後ろから折り畳み自転車のお客が来たり、あんまり旅行したことのなさそうな老齢のご夫婦が来たり、で、
「なにやってんだよ、早くしろよ」
の・・・まあ誰も声には出しませんでしたが・・・冷たい目線が次々後ろにたまっていきます。
あらすみません、と、無事に出場できるまで5、6分かかりました。
出たら東口は閑散としたもの。どうやらこちらは新興地のようです。遠景にマンションがあって、手前は駐車場だらけ。宿がこっち側だから仕方ないけど、これじゃあ宵に松阪牛でのんびり、は叶いそうにないなあ。西口が宿だったら違ったんだけど。
ただ、泊まったホテルが、ビジネスなのに大浴場付きでした。
めしは宿のハス向かいのすき家の牛鍋定食で済ませ、のんびり風呂につかりました。

翌朝、お会いする約束のEさんご夫婦が迎えに来てくださいました。
長いSNS友達で、年下の私が生意気ばかり言うのを楽しくあしらって来て下さったご縁です。
お住まいがこちらで伊勢神宮までへもそう遠くなく、三重はまた風光明媚な場所が豊かにあって、お写真がたいへんに上手なので、ふだんはその風景写真でたくさんの楽しみを下さってもいます。
是非、実際にお会いしたかったのでした。

わがままにも「松坂城跡に連れて行ってくれ」とリクエストしていたので、さっそく案内して下さいました。
城跡のあるこちら側が、昔からの松阪の町です。それを、お城を見たあとたっぷり堪能させていただくことになるのですが、まずは私のリクエストの場所へ。

これまで伊勢神宮は二度ほど訪ねたのでしたが、松阪は二度とも通過点でしかありませんでした。
しかし車窓からの風情が、どこかのびやかで、実にいいのです。
さすが本居宣長のいた町だ、みたいな思い込みが、松阪を私の目にそう映していたのかもしれません。
そこへEさんのSNSでのお写真です。
城下に武家屋敷がきれいに残されているのが写っていて、お城の石垣の上からも、ひろびろと眺めわたせる。これが私の松阪訪問欲をかきたてていました。
実景で見たら、どれだけ素晴らしかろう、というあこがれがありました。

城は、蒲生氏郷が築いたもの。優れた戦国大名が多くまた都市計画の大家だった例にもれず、氏郷も、豊臣秀吉からあずけられたこの場所を、伊勢への参宮街道をひらいて交通の要綱と化させたうえで商家を集め、それまでの「松ヶ島」から地名を「松坂」とし、住みやすい城下町を作り上げることに腐心したのでした。しかしながら、氏郷が松坂に携われた期間は、ほんの二年間の短さで、北条征伐の功という口実で、実態は東北地方の抑え役として、彼はすぐに会津若松へ大身の大名として転封となります。
それにしても、たった二年間でよくぞ都市計画の基礎までやれたものです。

Matsuzakajou

その松坂城の、普通の車道沿いにそそりたつ石垣が、南から入り込んでいくと、別世界を作り出している。
快晴の静かな朝、朝とはいってもそんなに早い時刻ではなかったのですが、展望がさわやかにひろがっていました。
城郭の建物が残っていないし、伊賀上野城のような再建天守もないので、歩いてみると案外急であるわりには、石垣の景観は静かでおだやかな表情をしています。

Matsuzakajou2
大半は江戸時代になってからの石垣のようですが、氏郷が近江から呼び寄せた石工の専門集団「穴太衆(あのうしゅう)」に石集めから積み上げまでさせた「野面積み(のづらづみ)」は、江戸時代の三度の修理を経て、いまも本丸下に残っています。積まれた石のあいだに小さな詰石がされていて、この工夫が石垣を丈夫にするとともに、水はけをも良くしているそうです。角のところは別に柱が立っているようにも見えます。ここは、算木積みという、また違った技法が用いられているのだそうです。

さて、東のほうにしか目の行っていなかったところを、
「南側をごらんなさい」
とのご示唆で変えます。
おお、いちめんの、と言うと畑みたいですが、そうではなくて、憧れていた武家屋敷です。
「御城番屋敷というのです」
と教えていただきました。

Gojobanyashiki2
秋田の角館にも有名な武家屋敷群がありますが、松阪でのこの展望はなかったのではないかな。
ひろびろと、と言いましたけど、ほんとうに目の前にあるのは二棟です。でも、欲目で初めて見ている錯覚もあるのですが、二棟であるはずが縦にも横にもぐんと広がって見える。天気が良かった幸いもあったでしょう。
現実には二棟とも長さ90メートル前後の平屋で、あわせて19戸あって、いまでも普通にお住まいとして使われているのだそうです。
御城番屋敷はそんなに古いものではなく、幕末に騒動で脱藩した人たちが帰参を許されたとき「御城番職」というのに就いて拝領したのだそうです。

Gojobanyashiki
城の搦手に位置する道沿いにあって、築年数も百五十年ほどであるため修復を受けていて、それまでのあいだに、前の道も石畳になっています。
ここを歩きに行く前に、場内には目玉がひとつあります。ひとつの目玉と言っても、鬼太郎の父ちゃんではありません。・・・あ、ごめんなさい。

びっくりしゃっくりだったのですが、野面積みの石垣の先へもう少し行くと、そこに本居宣長の旧宅、鈴屋があるのです。

え? 宣長さんってお城の中に住んでたの?

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違いました。鈴屋は街中から場内に移築されたのでした。1909(明治42)年のことだそうです。
鈴屋(すずのや)という名称じたいは、旧宅全体ではなく、宣長が五十代の時二階に増築した四畳半の書斎を指します。ですので旧宅全体を「鈴屋」だと思い込んでいた私は間違っていたわけです。
見学の興味は、でも書斎のほうよりは、一階部分でした。
いま松阪市のサイトで再確認しますと、その間取りは 
「間取りは1階の見世(みせ)の間、おいえの間、居間、仏間、奥座敷、台所」
となっています。

Motoorisanchi Motorisanchinodaidoko
商家だったことがしっかりわかる間取りで、本居家には困窮の時期もあったはずですが、決して小振りではありません。
で、いちばん気になるのは、仏間です。
宣長は仏教なんて目の敵にしてたんじゃなかったのか、と思うのですが、住まいにはしっかり仏間がある。
畳数を忘れちゃったなあ。でも六畳から八畳はあった気がするなあ。
伝統のご先祖崇拝はあったでしょうけれど、それなら宣長さんが家主になってしまったら、あとは仏壇でなくて神式のなにかを置けばよかったんでしょうが、そうだったという記載はどこにもありません。この旧宅が移築されるまでは宣長さんの子孫が住み続けていらしたというのですから、素直に考えると、各部屋の呼び方は、住んでいらしたかたのものをそのまま引き継いだはずです。であれば、やっぱり仏間は仏間で、仏間と呼ばれたからにはお仏壇があったのでしょう。
田中康二『本居宣長』(中公新書2276 2014年)は、宣長の思想的生涯を論語の「子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩」をひな型にして書いたのだが、儒教や仏教を好まなかった宣長の生涯をこんなひな形で書いてしまってよかったのか、と自問するところからはじまっていて、宣長のこんな歌を引いています。

  釈迦(さか)孔子(くじ)も神にしあればその道も広けき神の道の枝道

そのうえで、
「宣長は儒仏を徹底的に批判したけれども、釈迦や孔子に対しては尊ぶ思いを持っていたのである。」
と述べています。
そういうことなのでしょう。

Motoorisanchi2

宣長旧居のあるところからさらに奥に行くと、「本居宣長記念館」があります。
入ると正面奥に、壁面一杯を占める手書き日本地図の複写が見えました。宣長さん、なんと17歳の時に「大日本天下四海画図」なる巨大な地図を書いていたのでした。これは知りませんでした。
夕刊三重新聞社で出している『松阪さんぽ』に宣長さんのことを「引きこもりだった」と紹介する文章があって、16歳のとき江戸へ商売見習いに行ったのに1年で逃げ帰ってきた、と書かれています。すると、この地図は江戸から逃げ帰ってきた宣長さんが書いたものだということになります。
その後も伊勢の紙屋さんに修行に行ってはまた逃げ帰ってくるていたらくで、そんな宣長さんを、おかあさんの勝さんは「このままではいけない」と京都に行かせたのだそうです。医者にならせるためでした。京は宣長さんの好きだった和歌が盛んだったこともあり、お勝かあさんの狙いは図に当たりました。
この京行きがなかったら、宣長さんはその後の国学研究にも目覚めず、なによりも、学ぶための資金と閑暇を持てる町医者という仕事を得ることはなく、木綿商をしていた生家を破産させていたかも知れないのですね。
人生、わからんもんです。悩んだだろうおかあさん、報われましたねえ。

展示には、旅好きだったらしい宣長さんの旅行記のようなものが所狭しと並んでいました。あまりの多さにびっくりしましたが、その量をうまく言葉に出来ません。
先の『松阪さんぽ』は宣長さんを「引きこもり」とたとえていますが、そうだったとしても、ただの「引きこもり」ではなかったんだなあ、と思います。

この記念館に入った時、たまたまだったんでしょうか、入口に松阪牛を育てているというおっちゃんがいて、
「いついつお披露目があるんだけどさ」
みたいな声をかけられたのでしたが、
「あいにく旅行で来てる身で、その日はもうここにはいないんですよ」
とこたえたら、なんだかがっかりした顔をしてました。
私だって、がっかりしましたよ。

このあとさらに素敵な松阪へ繰り出します。

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2020年2月15日 (土)

伊賀上野城

西大寺での宴の翌日は、誰に会う約束もないので、奈良からゆったりと出発しました。
目的地は、伊賀上野です。
JRの大和路線で加茂というところまで行き、そこで関西線に乗り換えましたら、一両だけの編成でした。
おばちゃんの団体で満員です。
「ここからはICカードが使えませんので、現金精算をしてください。」
車掌さんのアナウンスがそう言うと、すぐにおばちゃんの大行列が出来ました。
それにしても、ICカードが使えないのか。奈良からそれで乗ってきたので、どこかで磁気をクリアしなければなりません。
結局クリアは今日の終点まで持ち越しになったのですが、それはこの日の最後のほうの話。

加茂を出ると、次の駅は笠置というところ。きいたことがある地名です。そうだ、南北朝の戦乱のとき後醍醐天皇が籠ったのが、ここの笠置寺だったのでした。駅からは歩いて行くしかないし、時間も許さないので、訪ねはしませんでしたが。駅からはきれいなトラス橋が見えます。まず大正時代に吊り橋として架けられた由。
おばちゃん団体は、ここで下車。

笠置からさらに4駅行くと、伊賀上野。
しかし町の中心ではなさそうなので、ここでまた伊賀鉄道に乗り換えます。列車には忍者の絵のラッピング。「忍者列車」と呼ぶのだそうで。
東側の車窓から、お城の岡が遠望できます。
これを伊賀上野駅から歩いて眺めてもよかったかな。
城主だった藤堂高虎が江戸北東の岡に屋敷地を拝領したとき、そこが藩地である伊賀の上野に「似ている」と言ったことから、いまの東京の上野を「上野」と呼ぶようになった由、どこかで読んだのでしたが出所を忘れました。しかしデタラメな話ではないはずです。
東京の上野は周りが建てこんでしまっているので分かりにくくなっていますが、遠望する伊賀のお城の岡は、たしかに東京の上野とそっくりな地形に見えます。西側が崖。東京の上野だと、やはり西側は動物園の上半分と下半分を寸断する崖です。その崖がそんなに高くないところも似ています。

さっき関西線で現金精算してもらった領収証をおじさんに渡して上野市駅の改札を南側に出ると、駅前に銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像がありました。なんでやねん、と思って、さっきの車両の忍者ラッピングは松本零士さんの手になっていたのに、今さら気づきました。
しかし降りると駅前にはほとんど人通りがありません。まっすぐ行ってみると、アーケードで覆われた小さな商店街はほとんどシャッターが閉まっているように見受けました。中心地が変わったのかな、と思いつつ、隣の立派な物産館に行ってみましたら、来ているのはお年寄りがほとんど。
その先が踏切をまたいでメインの通りと思われ、ここは車は良く行き交います。歩いているおかあさんに、車を脇に寄せて窓を開けて声をかけて、なんか楽しそうに話し始めた別のおかあさんのいるのが目に入ったりしました。
それでちょっとほっとして、北側に見える立派なお城の天守閣を目指すことにしました。

お城への上り口が、これまた東京の上野公園の、御徒町のほうから上がっていく斜面によく似ています。
ここも閑散としているのかなあ、と思っていたら、そうでもありませんでした。なんでもない平日なのですが、想像していたよりも多い観光客がいました。

まず、さっき車窓から見たほうへ行ってみます。
石垣と、その下に深い青色の水をたたえたお堀。

Takaishigaki
この石垣が、とても高く感じるのです。「高石垣」と呼ばれているのだそうな。設けた藤堂高虎は築城名人で、こうした石垣を組むのが得意だったとのことで、彼の設計になる城郭は高石垣が特徴なのでもあるようです。
しかし高虎以降、江戸時代を通じて、伊賀の上野城には天守閣はなかったはずです。
高虎はいったん天守閣を建てたのですが、完成間際に落雷か何かで燃え落ちてしまって、太平の時代に入ったこともあって、それきりになっていた、と、下見した記事にあったはずでした。
なんでいま天守閣があるのか。
上って入場すると、説明がありました。
昭和の初め、地元に川崎克(かわさき かつ)さんという篤志のかたがいらして、衆議院議員もつとめられたのですが、この人の尽力で、しかも私費で、昭和7年に建てられたというのでした。
木造です。

Igauenojounaibu
伊賀上野城より1年前に完成していた大阪城の復興天守は、鉄筋コンクリート造でした。
上野城天守閣は、美しい、凛々しい建物です。

なかの展示は、低い層は江戸時代の藩祖であった藤堂高虎関係です。高虎は主を何度も変えて仕えた人で、そんな高虎の子孫が戊辰の鳥羽伏見の戦いで徳川幕府側から突然寝返ったこともあり、司馬遼太郎幕末小説では変節者の代名詞みたいな、あまりよろしくないイメージで描かれていたかと思います。しかしながら、展示では高虎の素晴らしさが強調されていました。置いてあった史料の本をめくっても、高虎の人徳を訴えています。ただその訴え方はあくまで史料に語らせる感じでした。買わないでしまったので、いま印象のことしか言えませんけれど、好感が持てるものばかり。高虎はべつに変節で主を変えたわけではなかったことは、確かなようです。初めて彼の才を高く評価してくれた豊臣秀長には終始忠節を尽くしていましたし、秀長の死後には秀吉傘下となりましたが、そのころから徳川家康とは懇意で、関ヶ原で東軍に付いたのも不自然なことではなかったかと思われます。そして家康の臨終に際しては枕頭に侍ることも認められたほど、高い信頼を得ています。高虎自身が亡くなった時に、遺体を清めた近習が驚いた、という話が、Wikipediaの記事にあります。「高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であ」った、というのです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
変節するような人が、ここまで、とは考えにくいことです。
高虎については、たいへん立派なサイトもあり、あとで見つけてびっくりしています。それだけ、いまの人をも惹きつけるものを持つ人物だったのでしょう。
https://sasakigengo.wixsite.com/takatora
天守の最上階の天井画が、これまた興味深いものでした。

Igauenotenjo
あまりに素晴らしかったので、収録した冊子を買って帰ったはずなのですが、行方不明にしてしまいました。まったくもう、な私です。
お城のHPを見ますと、横山大観ほか46人の著名人から寄贈された書画の色紙がはめこまれているのだそうですが、これも天守を建てた川崎さんに縁のあることではなかったかな。天守閣の完成祝いとか。
http://igaueno-castle.jp/
https://wondertrip.jp/100183/2/

Igauenojou

表に出て天守台の公園を歩くと、天守閣の反対側に、藤堂時代より古い石垣があります。高虎より前に城主だった筒井定次によるものだそうです。この、筒井順慶の養子だった定次さんは、どうやらキリシタンだったとかで、表向きはそうではない理由だったのですが結局切腹させられた、悲劇の人らしい。しかし伊賀上野の町の基礎を作ったのはなんといっても定次さんだ、と、地元では今でも慕われている、と、あとで検索したなにかにありました。城跡ではそこまでの印象は受けずじまいでしたけれど。

この天守台の公園から北を見ると、赤茶色の変わった屋根をした建物が目に入ります。
行ってみると、俳聖殿なるものでした。これまた川崎さんが建てたもの。

Haiseiden
考えるまでもなく、伊賀上野はかの松尾芭蕉生誕の地です。その芭蕉の旅姿を模したのだとか。ほんとうに人の姿に見えるのがユニークです。
城内にはまた、芭蕉翁記念館があります。この日は奥の細道関連の展示をしていました。自筆本や初期の刊本を集めて見比べられるようになっていて、興味を持っている人には有益ではなかったかと思います。
城外に出て東に進むと芭蕉の生家跡があります。ここで芭蕉は29歳まで生活していたはずですが、残念ながら行っても中へ入ってみることは出来ません。休館中だそうです。数年前に出たガイド本には、ここで買えるお土産なんか載ってたりしましたので、残念です。
来たばかりの時の印象通り、町はいま少し元気がないのかな。いい町なんですよ。今度お訪ねできるときには、活気があふれていますように。

Bashoseika

芭蕉生家はあきらめて、城内へもう一度。

俳聖殿のすぐ近くに、面白そうなものがあります。
忍者博物館です。
歳若な忍者さんたちが、どうぞいらっしゃいませ、と通る人に声をかけています。
前を団体で歩いていた人たちが入っていくようだし、やめとこうかな、とためらったのでしたが、せっかく来たのです、入らなければ後悔します。
土間から入って三部屋ほどの中に行くと、スタイルのいい男の忍者さんが淡々と忍術の説明をしてくれましたが、あらずいぶん淡々としてるのね、と思いきや、とつぜん姿を消したりして、こりゃびっくり。
仕掛けだらけの和建築なのでした。
淡々と、と言いましたけれど、忍者さんの説明は客観的で、しかし楽しい。すうっと入ってくる。お客さんの心を奪う術も持っているようです。

Ninja
説明の後は、裏手の広い場所で忍者ショーです。
こちらは、くノ一さんが大活躍。
さっき素敵な説明をしてくれた忍者さん、かわいそうに、くノ一さんにやられてしまいました。やられて初めて被り物を脱いだその頭が丸坊主。うまく笑いをとっていましたが、ここまでそれがばれないようにしていたのも素晴らしい。もう一人の精悍な男忍者さんは、据え斬りなども実に手際がみごとで、見ていたお客さんの間からため息がもれていました。
(このときのくノ一さん、その後、東京オリンピックのこの地域の聖火ランナーをおつとめになることが発表されました。そのニュースでひとりで盛り上がってしまった私です。)
ショーには、たまたま近くの養護学校の生徒さんらしい子たちが、引率されて大勢来ていました。
お客さん参加のコーナーで、くノ一さんが
「どなたか吹き矢をやってみませんか?」
と声をかけたら、一人の女の子が、はいっ! と志願。
みんなが手に汗握って見つめる中、真剣な表情で吹いた矢は、的の畳にみごと突き刺さりました。
やんやのかっさいに、女の子はふんぞりかえって勝利のポーズ。
思いがけず楽しい時間のおすそ分けにあずかれました。

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2020年2月11日 (火)

奈良での夜

新聞に、OさんFさん共に懇意の名作家さんが「吉野杉のギター」を完成させたと載ったので、長谷寺へ寄ったその日のメインの目的は、そのギター工房を訪ねることでした。
工房の主は、丸山さん、とおっしゃいます。
質の良いギターをこつこつお作りになって、プロ・アマチュアそれぞれのたくさんの演奏家さんから絶大な信頼を得ています。

地理勘のまったくない私には、Oさんの運転する車がどこを走っているのか、皆目見当がつきません。ただ、どこを走っていても、二上山がよくみえるのでした。
ふたつの美しい頂をもつこの山は、大津皇子の悲劇をめぐる万葉集の歌の舞台です。

 宇都曾見 人尓有哉 従明日者 二上山乎 弟世登将見
 (うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を いろせと我[あ]が見む)~万葉集巻第二165

話はそれますが、万葉仮名って私のような素人にはその世界にとても手が出せませんけれど、奥が深くて面白そうです。
上の歌はもとの万葉仮名でもあまり変わったところがなく、いまの漢字かな交じりに読みなおしたものと比べても、すんなり入ってくる気がします。
が、たとえば別の有名な歌(巻第八巻頭歌)

 いはばしるたるみの上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも(講談社文庫版『万葉集』二での読解)

は、元の万葉仮名だと

 石激 垂見 左和良妣 毛要出春 成来鴨

で、「石激」は実は伝統的には「いはそそく」と読まれてきたのを、賀茂真淵がその研究成果を過大に敷衍することで「いはばしる」と読解し、それが最近では浸透してしまっているのだそうです。
これはしかし、やはり「いはそそく」ではないのだろうか、という話が、2013年刊の岩波文庫版『万葉集』(一)の解説に、さまざまな事情を踏まえて詳しく説明されています。
万葉集は万葉仮名とその読解が併記されている講談社文庫だと、別巻に「万葉集事典」もあり、便利です。が、「石激」の歌の異なる読解については、読み直してみたら触れられていませんでした。
岩波文庫のほうの解説をもっと読むと、真淵の方法がいけなかった、というのではなくて、他の歌について、とか、写本で伝わってきている万葉集の字が果たして正しいのかどうかについて、だとかに、今でも耳を傾けるべき分析が彼によってなされていたりする。要はいまの私たちも、真淵そのほかの先人の恩恵を被りながら、どう読むのが正解か、今なお試行錯誤し続けている読者なのだ、と、思い知らされます。
こうだろうか、いや違うのじゃないだろうか、と考えながら読めるところが、万葉集の面白さでも楽しさでもあるのではないかな。
歌そのものもだけれど、いくつかの解説にふれても、新鮮な驚きがあります。
万葉仮名に戻って、上の二首だけ素朴に眺めても、まず二上山の歌のほうは「人なる我や」が元は「人尓有吾哉」で、「尓有」を「なる」と読解しているわけですけれど、これは「=な、=る」なのではなくて、「「=に、=ある」ですよね。これを読解ではどうして「にある」ではなくて「なる」と読めているんでしょうね。「」が「われ」と読まれたり「あ」と読まれたりすることにも、おそらくは読み解いてきた人たちの苦心が、さりげなく結晶しているのでしょうね。
石激」のほうでは、「」と「」の使い分けが面白く感じます。「」は句の語尾の助詞に使われていて、これは二上山の歌も同じです。「」はこれひとつでは分かりませんが、前後をつなぐ接続詞的な助詞に見えます。・・・しかしそうとは限らない例も別に出てきて、59番歌には「妾吹風=われふくかぜの」なんていうのがあったりしますし、すぐ近くの62番歌には「対馬=つしまのわたり」なんてのがありますから、一筋縄ではいかないのです。面白いとは思いませんか?
ともあれ、古典を堅苦しい教養としてではなく、パズルとしてゆったり目にしてみるほうが、ずっといいんじゃないかな。
最近はそんなふうに思い始めています。

すみませんでした、話を戻します。

二上山には、突然に罪せられて死んだ大津皇子が葬られたのだといい(真偽は不明)、宇都曾見乃の歌は、それを悼んだ姉、大来皇女が詠んだと伝えられる二首のうちの一首目です。
冬が近づく時期でしたので日が短く、薄曇りでもありましたので、つい、皇女の胸の痛みを思い描いて、しんみりと山影に見入っていました。

途中少し迷ったりしながら、OさんとFさんの記憶を呼び戻し貼り合わせして、なんとか丸山さんの工房に到着。
ギターのことなどからきしわからない私がここにいていいんだろうか、とためらいつつ、お二人と一緒に上がらせていただきました。

Oさんが朝いちはやく見つけた日経の記事は
「吉野杉ギター 200年の響き」
と題されたもので、
「育成期間が長く木目の詰まった吉野杉には楽器製作に十分な強度がある」
旨が書かれていたので、名手のFさんがさっそく試奏してみることに。

Guitar2
その指先からこぼれでてくるバッハは、たいへんにまろやかな音がしました。
後日、やはり丸山さんをご存じのプロ演奏家のかたに伺ったら、杉でいいギターを作るのはちょっと難しいらしいのですが、丸山さんは「杉で良いギターが作れちゃう」かたなのだそうです。
Fさん、このあと松のギターもお弾きになったのでしたが、こちらは輝かしい硬質の響きでした。松材のほうがそんな感じになりやすいのだそうでした。
杉か松かはお好みで選ぶことになりそうです。
丸山さんのお手元には、奈良県森林技術センターがまとめた、吉野杉の特性を測定したレポートがあって、一枚頂いて帰りました。
吉野杉と書く代わりに「奈良県産有料スギ材」と書いてあるそのレポートのまとめには、
奈良県産優良スギ材の振動特性を測定したところ、クラシックギターの表板に多く使用されるスプルースと、ベイスギの中間に位置することから、ギター用材としても利用が期待できることが確認された。
とあります。
実際、ふわあっとうかんでくる吉野杉ギターの音、かもしだす響きは、私の耳にもたいへん心地よいものでした。
ぜひぜひ、利用者がどんどん拡大してほしいものです。

Yoshinosugiguitar

お見送りまでうけて工房をあとにして、せっかくだから今夜も三人で飲み会にしよう、と話が決まりました。
奈良市内に戻ったころには真っ暗でした。戻るまでがまた珍道中で、道順のことでOさんとFさんでずっと車内漫才をやっていたのでしたが、残念ながら地理勘なく、ここで漫才を再現できません。

Oさんのご自宅に車を置いて、タクシーを呼んで西大寺まで。
東大寺に対する西大寺ですから、創建時には壮大な寺院だったのですが、度重なる兵火で見る影もなく、お寺の存在を知る観光客はあまりいません。
で、私たちはお寺にではなく、西大寺駅前に行くのです。
西大寺、は、いまはすっかり、近鉄の駅や、その駅前の繁華街の名前としてなじまれています。
土臭いといったら地元のかたに叱られますが、ほんとうに酒飲み好みの街並みで、東京で言ったらどこに似ているかしらん?

狙いの店はもう決まっていて、魚のおいしい居酒屋さんの入口前に乗り付けました。

入ると壁いっぱいに魚拓が貼られています。
店長さんが大の海釣り好きだそうな。

Kanpai

乾杯をして、あとは三人三様の今の苦労話や安心話、そして私は知ったふりの嘘うなずきばかりを繰り返したギター話。
涙を浮かべながら、笑い合いながら、おいしいブリかまをつついて酎ハイの数、日本酒の盃を重ねながら、終電まで延々としゃべり、飲み続けました。
来年また会えるといいですね、と言ってお勘定するときには、へべれけでした。
でも前夜と違って、ちゃんと割り勘にしていただきました。ほんとうは私がお二人にお礼のごちそうをしなければならないのにな。

出ると表はずいぶんとひんやりしていました。
Oさんはまたタクシーでご自宅まで戻ります。
見送って、Fさんと私は駅へ向かいます。
乗る電車は反対方向。
再会を願い合ってお別れです。

Saidaiji

奈良界隈・・・遺跡や古刹がなくても、私はここの人情が大好きです。
あ、Fさんは大阪の人なんやけど。

さて、明日は伊賀上野へ向かいます。
宿へ戻って、即ダウンです。

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2020年2月 2日 (日)

長谷寺ほか

明けて、待ち合わせまで間があるので、宿から興福寺のほうまで歩いてみました。
JRの駅からですと、ちょっとの合間の三条通散歩は定番コースに出来ます。
せっかくなので、ひとつ南側を行ってみました。
少し行くと路地が狭まるあたりに碑が立っていました。「三條池上樋跡記念之碑」だそうです。手前にある説明を読むと、ここに溜池が設けられていた由。しかし農地も減って宅地化が進んだので昭和54(1979)年に廃され、その際にこの記念碑が建てられたのだそうです。碑の建った年は私が大学生になった年と同じでした。奈良でなくても、あのころまでに日本の景観や産業は激しく変わったのではなかったかな。それまで感じていた窮屈な縛りが次々と消えていく一方で、あまりに急に訪れた豊かさのために、凡人は何を目標にしていいのかも見失いがちになった時期だったように思います。
途中にある銭湯や喫茶店はまだ開店前で、興福寺には鹿さんが現れるぎりぎりの時間でした。三條池記念碑以外はどこにも立ち止まらず宿に戻って出発準備。

運転して下さるOさんは、桜井でそうめんの昼食をとってから橿原神宮へ向かうつもりでした。
途中、おいしいそうめんをいただきました。
そこを出て、
「あ、この道からだったら長谷寺へ行けるんじゃないですか」
とのFさんの一言で、コースが変わりました。
三輪山を左手に、
「あの大きな鳥居見えますか?」
と、OさんFさんがそろって気をつかって下さって、車の窓から大神神社の鳥居を堪能することが出来ました。日本一だそうです。

Miwatorii
「でも、長谷へ向かう道は味気のうなりましてな」
整備された国道をすいすい走りながら、Oさん。
「くねくね行くのに風情があったんやけどなあ」
Fさんもうなずきました。

長谷寺は、ひそかにあこがれていたところでした。大きな観音様がご本尊です。
今昔物語にある「わらしべ長者」説話の故地でもあります。
古今集の歌人である伊勢の家集に、初瀬に詣でたときの歌がふたつあって、それらをめぐって書かれた山下道代さんのエッセイがたいへんに美しく、ああ、いつか機会があったら、と思っていたのでしたが、それを口にしないまま偶然にご案内頂けたのは、やはり観音菩薩というのは霊験あらたかなのかな。
細長い門前町の通りを、家並みを眺めたり川岸まではいりこんだりしながら歩いて行くと、なかなかすぐには寺に行き着かない。しかしこの長い道のりも、私にとっては初瀬詣のうちである。」(山下道代『伊勢集の風景』p.219、臨川書店 平成15年)
私らは車で門前に至ったために、長い道のりではありませんでした。
しかし、門からは、長い上りです。折から足を痛めていたOさんは
「待ってるから行って来なはれ」
と下に留まりました。
「母とよく来てたんですよ」
というFさんと二人で登ることになりました。

これが白洲正子さんだとたいへんに詳しくて、地域の周辺まであちこち回っていて、それをエッセイに書いているのですけれど(「こもりく泊瀬」~『十一面観音巡礼』所載、講談社文芸文庫、原著は1975年)、『伊勢集の風景』の山下さんは
考えてみれば私は、幾度となくここに詣でながら、本堂以外のどこにも立ち寄っていない
とのことなのです。
山下さんの文章のほうで長谷寺に惹かれていた私は、仁王門の前に立っていささかの緊張を覚えながら、本堂にさえたどり着ければ充分だ、との思い。

Hase1

Fさん、何度も立ち止まりつつ、登廊(のぼりろう)の周辺に組まれている苔むした石垣に熱心に見入っています。石好きなのでした。残念ながら石のことは私には分かりません。ただ、生えている苔の緑が、もう秋の深いというのに、近づいてみると、じつに瑞々しい。おかげで、苔むしているとはいっても組まれた石に古臭い印象はなく、どこか軽々と寺域一帯を支えている頼もしさを、明るく感じさせてくれるのです。

Hase3Hase2

登廊とだけ言っていますけれど、これがとても親切な造りであることに実は驚かされていました。
きつめの登りを覚悟していたのでしたが、木造の屋根で囲んだ段々は踏み台から踏み台への段差が低く、それぞれの幅がまた一歩一歩によくなじんで、歩きやすい。なるほど日ごろ参詣者でにぎわうのも、中に高齢のかたが少なくないと見受けるのも、こんな親切があるからなのだろう、と感じました。ただ、私たちが訪ねたときは平日で曇り空で、特別な祭礼の日でもないためか、そこそこの人はいるものの混雑には遠く、のんびりした空気に包まれていました。
途中、宗宝蔵で長谷寺創建当時の銅板法華説相図や室町時代のものだとういう太山王像を拝み、あとは登廊の脇にある花のない牡丹棚や、その先の石灯篭を眺めながら、ゆるゆると上っていきます。登廊が初めて成ったのは長暦3(1039)年だそうですが、蔵王堂のところで切れる下廊は明治15(1882)年に火災で焼けて再建されたものだそうです。そこから二度屈折して、先の上廊は慶安3(1650)年建立とのこと。短い距離ですが、勾配は急になります。
登り切って登廊が尽きたところには、さらに左手に折れて、繋廊(つながりろう)が設けられています。参詣の人が雨や強い日差しにあわないように、との優しさが、ここにもあります。
しかし、その高くない屋根の下から目に入る本堂の口は、黒く開いて畏怖をもよおさせるものでした。本来は、この口から進んで右に向き直って、観音像に対峙するのです。

Hase4
まずはそちらへは向かわず、上ってきた方向のまっすぐ前方に見える高台の愛染堂と、その奥の三社権現を拝礼しました。さらに右手には日限地蔵堂というのがあります。こちらも訪ねます。
そうやって心の準備をしてから、あらためて本堂へ向かったのでした。

Hase5

折しも特別開帳とのことで、さっき仮に本堂の口と私が呼んだところからではなく、もうひとつ手前のくぐり戸のようなところから入ることが出来るのでした。
ここから、観音像を足元からじかに見上げることが出来るというのです。
いいときに来れましたね、貴重な機会だから、とFさんが言うまでもなく、躊躇せず特別拝観に申し込みをしました。
気を付けないと頭がぶつかる低い通路を抜けると、目の前に観音様のおみ足だけが、まず見えます。その、たぶんもうたくさんの人に撫でられたので黒光りしている右のおみ足(こちらからは当然左に見えます)を私もおそるおそる撫でて、五体とまではいきませんが投地礼拝して、さて首を折れるほど曲げて見上げると、まず見えるのは観音様の胸元。そしてまだはるか彼方に、観音様のお顔。高い。遠い。届かない。その遠い彼方から、それでも観音様はたしかにこちらをしっかり見つめているのです。その目線がこちらに突き刺さるのを、はっきりと意識させられました。
足元から巨大な像を仰ぎ見させるというかたちは、信心を確固とさせるためには、たいへんにすぐれた宗教的装置であることよ、と、一歩引いて考えたいほうの私にも、それくらいの驚きはありました。足元から、かつ狭い空間で、というところが鍵であるかも知れません。狭い空間で頭上から、というのは別のところでした経験がありましたが、頭上からでは仏のまなざしにふれられません。足元からなのが大切なのでした。
そんなことを考えながら、でも一歩引いてばかりの心持ちでは、もうけっしていられません。
礼拝はほんの一瞬だったのに、奇妙な恍惚から、像の足下を離れて、しばらく抜け出すことが出来ませんでした。

表に出て、Fさんのおすすめもあって、あらためて本堂の口のほうから観音様を拝みました。
丈10.225m、三丈三尺、とひとくちに言うけれど、実感する巨大さは数字で観察するあたまを拒絶します。両脇にリアルな人の背丈ほどの難陀羅王と赤精童子を従えるがゆえに、そしてまた礼拝用の通路の背中側にまだ広大な空間が日を入れさせることなく黒々と広がっているがゆえに、錫杖を地に突いて、優しくでも厳しくでもなく、ただ静かなまなざしでこちらをお見つめになる十一面の観音様は、こちらを圧倒するように、というのではなく、鎮座の場所をすうと離れて茫洋と漂っているふうでさえあるのでした。

Hase7

本堂を出て、その前に広がる舞台から景色も眺めて、さらに開山堂や五重塔のほうへもめぐったのでしたが、景色はさっきの日限地蔵堂からのものが忘れがたく思いました。
日常がたいへんになってきていたお母様に付き添って、Fさんは何度かここを訪ねたのだそうでした。
「馴染の人がお札所にいて、母と意気投合していたんだけど、もう代替わりしちゃいました」
と、Fさん。
歌人の伊勢が長谷に参詣して詠んだ歌も、そういえばこんなでした。

   大和に親ありける人の、
   親なくなりて初瀬にまゐるとて
ひとり行くことこそ憂けれふるさとのむかし並びて見し人もなう

   初瀬に詣でて、
親ありし時を思ひ出でて
泣くをだに知る人にせよ山びこのむかしの声は聞きも知るらむ

Fさんと眺めた景色のさまを、私はうまく語れるうつわではありませんし、さっきの山下さんのエッセイにあるまったくその通りでしたので、それを引いてお茶を濁させていただきます。

まことにあの狭い谷の奥では、四囲どちらを向いても山ばかり。たとえばあの礼堂の外舞台の欄によって呼んだとすれば、どこからでもこだまの返る近さに山々がある。伊勢のころの長谷寺に、現在見るような高い外舞台が築造されていたかどうかは知らないが、本堂のあたりから見る山の近さは、いまもむかしも同じであろう。伊勢はたしかに、あの高さから、樹木の茂る初瀬の山々を見たのである。」(225頁)

それにしてもいい紅葉でした。

Hase8 Hase9

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2020年1月25日 (土)

日常の奈良へ

ネットの時代おそるべし、なのかもしれませんが、スマホを使いながら歩いていると、Googleの「タイムライン」に、自分の行程は逐一記録されます(GPSオンなら、ですけど)。
それで確認すると、奈良へ向かうのに高野山を発ったのは昼過ぎだった、と思い出せます。
それから新今宮までは、来た通りに戻ります。
さて、奈良へはどうやったらたどり着けるんだ?
ご縁のあるのが幸いで、このところ二度、2,3年間隔で奈良に出掛けていました。
でも直行が当たり前だったので、名古屋か京都から近鉄線で行くイメージしか頭にありません。
京都まで行って、近鉄線に乗らなあかんのか?

いや、待ち合わせるOさんからは、
「JR奈良の旧駅舎でっせ」
と場所を知らされています。
そうか、JRか、と、調べたら、新今宮から「奈良線」に乗れます。
これやんけ。(方言バラバラ)。

同じく待ち合わせのFさんは夕方5時ごろの到着だそう。
こちらが乗り継いだJRは、4時前に到着します。
なので、まず宿に荷物を置いて、5時頃に指定の待ち合わせ場所へ、と連絡を取り合いました。
私の宿は、そういえばJR奈良駅のすぐそばだったんだわ。

ありがたいことに、ホテルは景色のいい部屋でした。バスルームはなく、シャワーだけですが、これは流行なのかな。でも、旅行社の、お世話になっている担当のIさんのおかげで、僕は安い宿泊料金で済んでいるけれど、どうみてもビジネス向けの仕様と価格よりは高級です。宿泊客に外人さんが多いのもあるのかな。スーツケースがフロント前にずらりと並んでいました。

支度して、さて時間が来て・・・僕は旧奈良駅舎というのを知りません。
どこやの?
ググるしかない。

 

なんだ、いまの駅の向こう側にあるのね。
総合観光案内所になっている旧駅舎は、昭和9年の建築で、和洋折衷の意匠のようです。
紹介のサイトに、
JR奈良駅一帯は『景観』が決して美しいとは言えないエリアで、『古都』の玄関口には相応しいとは言えない広告物や安価な部材を使用した簡素なビルが目立つ状況ですが、旧駅舎はその中で唯一『奈良』らしさを感じさせる貴重な存在となっています。」(https://narakanko-enjoy.com/?p=20222
とあって、どんなもんなのか、ちょっと興味も惹かれました。
しかしとにかくまず、めっけなければなりません。
きほん方向音痴なので、時間のゆとりを10分程度みて探しに行きます。
いまのJR奈良駅を降りたところからは、知らないと見つけにくい気がします。両側を商店に挟まれた1階通路を抜けて、そのまま東に進みながらキョロキョロして、
「あ、あれだ」
とすぐわかったのは、建物が重たそうな和風屋根をかぶっていて、屋根の上に五重塔風の相輪がアンテナのように、ぴこん、と立っていたからです。
こういう特徴がないと、眺望の利かない構内通路から出ても、また物陰に遮られてわかりません。
いや、私にもともと観察力がないから、そう思ったに過ぎないのかもしれません。

Naraekiold

見つけた旧駅舎に近づいたら、そのへりのところに、見たことのあるおっさんが座って、なんだか難しそうな書類を夢中で読みふけっている模様。
Oさんです。
「ご無沙汰してました!」
と声を掛けたらびっくりしてこちらを見上げて、
「おー、、、」
でした(笑)。
見ていらしたのは、最近熱心に練習なさっている尺八の譜面なのでした。
「Fさん電車が遅れて、あと10分くらいかかりまんのや」
ここまでくる間に少し頭痛に襲われていたので、頭痛薬買ってまた戻ってきます、と言ったら、
「交差点のむこうの角に薬やがありますねん、そこで買うて、その前で待ってたらよろし」
とのことで、ひとまず私は薬やさんへ。

頭痛薬はすぐに見つかったのだけれど、広い店内のレジに担当さんが一人しかいなくて、籠にたくさんモノをいれたお客さんを前にレジがなかなか打ち終わらない。
掃除をしていたおばちゃんが気づいて駆けつけてくれようとしたけれど、まず掃除用具を片付けなければならない。
ようやくお勘定して
「お待たせしてすいませんでした~」
と笑顔をくれました。
こんだけ広い所に、表にいられる店員さんが二人だけ。
どこの職場もいまどきそうだけれど、売り場の広さも仕事の種類も、人の数が追い付かないほどになっているのは、いかがなものかなあ、の世の中です。
おばちゃん、あやまらんでもよかったのよ。
いや、あやまられんと、わし不機嫌に店をあとにしたかもしれんなあ。度量が狭いからなあ。

表に出たら、薬局のすぐ前に、もうOさんもFさんも到着して、ニコニコこっちを眺めていました。

お二人そろって開口一番、
「今日は出させていただきまっせ」
食事代をいっさい、です。
定年お疲れ様会をしてくださる、というのです。
「実際はまだ働くんでっしゃろけど、一段落ゆうことで」
もう、涙びしょびしょもんのびっくりでした。
前二度の訪問では、Oさんには言葉に尽くせないくらいお世話になりました。初回は息子と出かけて、修学旅行でも大仏さんを見られなかった、という息子が奈良の大仏さんを拝めるよう送り迎えして下さり、東大寺ばかりでなく春日大社だの薬師寺だの唐招提寺だの、その他もろもろご案内下さいました。次には老母を連れていき、そのときFさんにもお会いできて、OさんFさんに母、私で楽しく会食もしました。
息子は大仏に期待以上の大きな感慨を得ることができ、いまでも心の財産にしています。
母親である婆さんのほうは・・・まあなんだかなあ、なんですけど(笑)。
忘れがたいのは、二月堂までの石段を
「これで最後だ、これで最後だ」
などと掛け声をかけてのぼっていた婆さん、Oさんに
「お疲れさまでした、じゃあ、たこ焼きでも食べに行きまひょか」
と連れて行っていただいたら、たこ焼き屋を目の前にした階段は別人のようにスタスタ足取りも軽く上り下りしたことです。
我が親ながら、だいぶがっかりを味遇わされました(笑々)。
このときは婆さんの忘れ物騒動もあって大騒ぎだったのでしたが、その話は別に機会があれば。

なによりお二人ともさまざまご苦労されていて、Oさんは長期の入院を余儀なくされている奥様を根気よく支え続けていらっしゃり、Fさんはまた十年以上ものあいだ、老いたお母様を長くおひとりで面倒を見ていらっしゃった、いま時期の私ら世代の生き方の鑑となる存在です。
そしてまた、奔放なOさんと謹厳なFさんと対照的なお二人でありながら、ギターをこよなく愛する点や生きるご苦労の点で、お互いよく理解し合い、深い所で心がつながっていらっしゃる。
ギターは、私は弾けません。それだけでもはみ出ていますのに、仲良くしていただける幸せがまた、何にも代えがたい。こうしてご恩を受けてばかりなのに、今日は祝って下さるとおっしゃる。
もうほんとに、死んでも頭が上がりません。

入ったお店で、見かけはどうだったか分かりませんけれど、私は終始舞い上がっておりました。
なので、何を話したかの記憶が、すっかり飛んでしまっています。
Oさん、Fさん、ごめんなさい。

かすかに記憶にあるのは、表に出てから、Fさんがどこかの店を指して、ここは御父上がお好きだった、だか、よくいらしていた、だったかとお話しされて、Oさんが、確かにいい店ですからね、と返していらしたかなあ、ということくらい。どこのお店だったでしょうか。
そしてまた、とても楽しかったということ。
翌日も三人で飲み会することになるので、まあそのときの話があれば許されるでしょうかね。

Nara2 Nara1

それから三条通を三人でぶらぶらし、ちょっと行った先の喫茶店で、なんとまあ、お酒を飲んだ後ですのに、甘味をあじわってからの解散となりました。

Nara3 Nara4
翌日の待ち合わせを決めて、お別れして、ひとり宿に帰りながら思いました。
「古都」の玄関口として、のじゃない、日常の奈良も、捨てたもんじゃないよ。
わりあい大きな「都会」でありながら、生活のリズムが、じつにゆったり感じられます。
そもそも、近世以降はとくに、奈良が「古都」であるとの認識が世に生まれたのは、わたしたちが思っているほど古いことではありません。
平安末期の戦乱でほとんど焼け落ちてしまった伽藍群には往時までの面影はそこまでなかったはずですし、都の条里は畑地の中に埋もれてしまっていました。宝永元(1704)年の奈良町大火は、そのことにさらに拍車をかけたか、と想像します。
明治になって天皇制が国政の前面に出て初めて、現在的な意味で、奈良は古都としての光を浴びたのです。
そんな光のない時代を経ても、史跡のまちとしてではない、人の豊かな営みの場所として奈良があり続けていることに、私たちはこの町のリズムに合わせて、ゆったり接したらいいのです。

雑然が美しくない、とは、誰が決めたものの見方なのでしょうね。

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2020年1月18日 (土)

奥の院の石鳥居、ほか(高野山最終)~高野山(4)

苅萱堂から宿坊は目と鼻の先で、かつ宿坊は奥の院至近ですので、事前に目にしたどんな案内よりも、来るとき南海電鉄さんがくれたパンフレット記載のコースに沿って歩くことが、高野山巡りを実によく効率化してくれました。
その宿坊泊二日間コースは、一日目を大門から壇上伽藍、金剛峯寺、金剛三昧院と行き、翌朝宿坊を発って奥の院に参詣して、あとはケーブルカー乗り場へ戻る道すがらに立ち寄る道程になっています。
その二日目に含まれる苅萱堂へ一日目に寄れてしまったので、そこだけ変わったのでした。

「あっこは外人さんが多いで」
と苅萱堂のおっちゃんに教わって泊った宿坊は、草鞋を脱いでみれば、お客さんは確かに圧倒的に外国人が多く、低い膳で出される精進料理に、胡坐も安座もできず難儀する姿もけっこう見かけて、気の毒に思ったりしました。宿坊では朝6時半から勤行もあるのですが、左陣で炊かれる護摩にも若いお坊さんの説教話にもきょとんとするばかりで、焼香は先に立ってやっている日本人と思しき人たちのやりかたを見よう見まねでやっていました。
それはそれとして、宿坊の中の食堂には、苅萱堂でおっちゃんに売りつけられた「宝来」が床の間の上の長押に飾られているのでした。ほう、こういうふうに飾るものなんだ、と感心。高野山独特の切り絵で、新年を祝うものだそうですが、年中飾っているのでもあるようです。・・・で間違ってないかな? http://www.town.koya.wakayama.jp/sangyo/other/3689.html
写真は、別のサイトから。
Hourai

ともかくもそんな宿坊で寝て起きて、朝の食事を終えると早々に奥の院へ向かいます。

入口の一の橋を渡ると、そこからは弘法大師の霊廟まで2キロほど、延々と石塔の建ち並ぶ静寂な杉木立です。

入ってすぐ、左手に石鳥居が数基あって、まずこれに驚きました。
仏の聖域に、鳥居です。
伊達家の廟、佐竹家の廟、島津家や毛利家も、等々。

Ishidorii
鳥居の奥には、これまた巨大な五輪の塔が数基。
どこのお大名家の廟所も、山内ではこういう造りなのか。

石段の上に五輪塔があるところはいちいち上ってぐるりと眺め、礼拝して歩きました。まだ人がまばらなうちに着きましたのに、そんなことをしているうちに通行人もどんどん増えてきて、最初の身の引き締まった空気もだんだん薄まる気がしました。
そしてまた、眺めるうちに気づいたのは、石鳥居が設けられている廟所は、どうやら戦国期から江戸期にかけて栄え続けた大名家のものに限られるのではないか、ということでした。
たとえば石田三成がまだ生前に自身の逆修(生きているうちに自分を弔う)塔を建てているのですが、そこには鳥居はありません。
衰退した小田原北条家は高野山と密接な関係があったとされているのですが、ちょっと奥にあって、わりと広々しているその廟所にも、鳥居はありませんでした。
豊臣家の廟所は、おそらく徳川家康の発願で建ったのだろうと考えられているようですが、やはり鳥居はないのでした。
古式を残す多田満仲の廟にも鳥居はありません。
どうしてそうなのか確認しようと、自宅帰還後に本屋さんを経めぐったりしたのですが、まだまったくわかりません。
戦国大名の高野山廟所について詳しく教えてくださる本もあったのですが、残念ながら石鳥居のことは不問に付されているようでした。
たいへんりっぱなことで有名な、結城秀康とその母の廟所には、やはり秀康廟のほうに石鳥居があります。ここに関しては、昭和に修繕したときの報告書があります。もしかしたらそれには書いてあるのではないか、と手にしてみましたが、報告は史跡としての秀康廟を検証することが目的ではないので、当初の鳥居の建造理由など触れられているはずもありませんでした。
いくつかのブログを拝読すると、修験道では補陀落へ向かう船に4つの鳥居を設けることがあったそうで、石鳥居も同様の考え方から建てられたのだろう、とありました。が、大名家が直接に「その通り」と語った史料に出会えていません。

Hudaraku

補陀落は観音浄土であり、4つの鳥居が建てられるのにはすべて死地に赴く意味合いがあるのだといいます。(参照:根井浄『観音浄土に船出した人々 熊野と補陀落渡海』吉川弘文館 2008年)
4つの鳥居が建てられているわけではないほとんどの大名家廟所が、あらためて死地に赴くようなニュアンスを持つとも、補陀落信仰ばかりに関わっているとも、いずれも考えにくく、この説は当たらないように思います。
あるいは、徳川家康の神格化に功のあった吉田神道の影響なのかな、とも考えましたが、これまた分かりません。もしそうなら、大名家が徳川家に倣って先祖を神格化しようとした表れなのかもしれません。あるいはそれにかこつけて、幕府に睨まれないため江戸屋敷建造などにお金を使ったのと同じような経緯で、高野山にもお金を使ったのかも知れません。
いちおう、高野山以外の近世大名のもので、儒教の影響下にある墓所は、日本の神道との混交が見られ、鳥居の設けられている例もある、と、考古学の雑誌で目にしました。仏教墓については何もそうした見解の文書などは見つけていません。
とにかく一時期の何らかの流行とか、いろいろあったんじゃないかな、と下種の勘繰りをしています。
鳥居で考えが巡らせるのは、それくらいです。
もし再訪がかなうなら、よく観察しなおしたい、と願っております。たとえば鳥居と五輪塔のそれぞれの建造時期を把握することなども必要な気がします。

これらの廟所、大名たちのものや、その他多くの有名人のものは、本来のお墓はそれぞれの地元などにありますので、高野山は単に供養塔なのではないか、と思っていました。
ところが、先の結城秀康廟の修理報告書を読むと、そこに遺髪と思われるものが納められていたとのことです。秀康のものでしょうか。
類推で、ほかの人たちの廟所も、遺髪なり分骨なりが納められているのかと思われます。
すると、高野山の石塔群は、単なる記念碑や供養塔なのではなくて、たしかに「墓」なのです。

そんな墓群を拝みつつ、1時間半ほどで、ようやく御廟橋までたどり着きました。ずいぶんゆっくり歩いたんだな。

Okunoin

橋を渡り、階を上ると、広いお堂で供養の受付をしてもらえます。
今回の訪問のいちばんの目的。ここに連れてきたいと言ってくれていた伯父と、13年前に死んだ亡妻の供養を、何かできないかな、と思っていたのでした。灯明を30日間灯してもらえるというので、父と義父も含め四人分をお願いしてきました。
弘法大師御廟は、この裏手です。
行くと、何人かが経文を開いて読誦していました。
弘法大師が、ここで生前の姿のまま坐してお眠りである、と、いまも信じられています。
空海さんが『即身成仏義』なる著作を残したのが、そんな信仰の生まれる素地となったのかな、と思っています。
しかし、『即身成仏義』に説かれているのは、死後も生きたままの肉体を保つ方法の類ではありません。空海の言う
常の即時即日のごとく、即身の義もまたかくのごとし」(『即身成仏義』五)
とは、
「即身の即は、即時とか即日とかの即と同様の意味合いだ」
のようですから、
「その身がそのままですなわち、たちまちに」
であって、いやこれだけだと往生した肉体がと見えてしまわないでもないのですけれど、文脈からしてまったくそうではなく、もう冒頭の方で空海が証文として引いている経典のひとつに
もし衆生あってこの教に遇うて昼夜四時に精進して修すれば、現世に歓喜地を証得し、後の十六生に正覚を成ず」(『即身成仏義』一)
とあるのを見ても(難しい言葉はさておいて)、あくまで現世に生きていて覚りを得て仏になる、生き仏の境地を獲得することが即身成仏であり、空海の説いたのはそのための教えなのです。

旧い廟所群は木立の中でしたが、木立を出ると、独特なデザインの企業墓がところ狭しと建っていて、これはこれで圧倒されます。こちらのほうには明るささえ感じました。

奥の院を出て、脇のお店のひとつで高野豆腐を買い、そこの2回で湯葉そばなるものを食い、それからバスで、いよいよ帰路に着きました。
残るは波切不動尊の裏手の徳川家霊台(廟所)、高野山の出口(来た時の私の入口でもあった)の坂道のてっぺんにある女人堂です。

Tokugawake

徳川家霊台は訪れる人も少なく、折からの抜けるような晴天の下で手持無沙汰な様子でした。家康と秀忠の廟がならんでいますが、出来てばかりの頃はまばゆかっただろうキラキラな造りでした。家康廟のほうにだけ、石鳥居がありました。

そこから女人堂までの坂は、歩くと見た目よりもきつい勾配でした。

Sakamichi
着いたら中国人観光客さんが小さな間口にあふれかえっていました。ほとんどが女性でした。
明治以前には女人禁制だった高野山では、私の上った坂を、この堂から反対に、女性が下ることはまったくなかったわけです。
または知らいでお上りあろうと御意あるか。高野の山と申すは・・・一切女人は御きらいなり」(「苅萱」~『説教節』東洋文庫243、p.82以下)

Damedame
でもいまは、ここを見物しているこの女性たちが、これから私の向かうケーブルカー乗り場のほうにではなく、私が来たほうへ戻って山中へと入っていくのです。

Nyonindou
昔は高野山の外輪にいくつも設けられていたという女人堂、現在残っているのはここだけなのだそうです。
中を覗きましたが、特別なものは何もないようでした。私の印象にはあまり残らずに終わってしまいました。

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2020年1月 5日 (日)

高野山(3)~金剛峯寺から苅萱堂:悲劇を静かに抱きとめてきた場所

金剛峯寺は、壇上伽藍からは離れたところにあります。

Kongo2

子供の頃の教科書で、高野山と言えばすなわち金剛峯寺のことである、と習った記憶があります。金剛峯寺というのは、たしかに昔は高野山全山と等しい呼称だったようです。
が、いまは違います。明治2年に、山中の一寺院のみを金剛峯寺と呼ぶようになっています。
そのことを、訪ねる前にものの本で読んで、初めて知りました。

明治より前、いまの金剛峯寺の主殿は、青巌寺の建物でした。いまのそれは文久三年の再建になるもので、名称があらたまるほんの6年前に建った由。ですから本当はもう関係ないはずなのですが、豊臣秀吉に疎まれた甥の関白秀次と、その多くの侍臣が切腹したという柳の間は、いまのこの建物にも設けられています。もとの建物はすっかりなくなってはいなかったのでしょうか? 全焼したのであっても平面図がきちんと残っていたために復元されたものなのでしょうか。
上田秋成『雨月物語』中の「仏法僧」は、山域内の宿坊に泊まれなかった親子が奥の院で夜明かしすることになり、そこで秀次一行の亡霊に出会う話です。亡霊たちはまず穏やかに現れて歌会などを催すのですが、とつぜん修羅の時なるものがやってきて、皆恐ろしい風貌に転ずる、凄まじい展開となります。
秀次という人に対する世の評価は豊臣氏滅亡後も芳しくなく、武将として凡庸だったとか残忍であったとかいう評判ばかりが広まり続けました。秀吉の徹底した処刑で眷属が殲滅されてしまったため、実際どんな人物であったか、すっかり煙に包まれてしまっていました。近年は、凡庸だったとか残忍だったとかいうのは事実に反するとの見解が広がりつつあるようです。秀吉の無理な要求を粛々と受け入れて切腹したと伝えられているようですから、それまでがどうだったかにかかわらず、当時数えで28歳だった若さを考えると、精神的にはしっかりしたものをもった人だったのではないかと思います。
けれども人間、死ぬまでをその人なりにきちんと生き切ったとしても、あるいは死にざまが決然たるものであったとしても、世に悪評が浸透してしまえば、身に覚えのないことで遺骸に後ろ指をさされ続けるのです。
死後の世界なるものがあるのかないのか、私には分かりませんが、人生そんなケチがつくものなのだったら、天国・極楽も地獄もなにするものぞであります。
まあ仏教ならば本質は輪廻転生のない身になることを究極としていますので、仮に霊魂が不滅だとして、仮に六道輪廻の世界が存在するとして、究極に達したところから霊魂が見つめると、世界はみな幻・・・そのときどきに偶然が重なって像を結んだ、ほんのいっときの影に過ぎなかったりするのです。

この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。(中村元訳『ブッダのことば(スッタニパータ)』730 岩波文庫 1984年)

秀次さんのことばかり思ってしまいました。

正殿を巡って気がぐいっとひかれるのは、裏手にまわった場所で北に向かう短い脇廊下です。
奥は近年の調査で空海の後継者だった真然(伝燈国師)の遺骨が発掘されたところで、いまその廟が築かれています。
ここに至る前後に、五三の桐紋と三頭右巴紋が並んで刻まれていたか描かれていたかしました。注意書きによると、ふたつとも金剛峯寺の紋所です。五三の桐は豊臣家の紋ですから、秀吉から拝領したものでしょう。巴紋は空海に高野山を授けた丹生都比売命(壇上伽藍の明神社にも祀られており、麓の旧天野社が現在は丹生都比売神社)の紋の由。紋のありかたに神仏習合がみられる、現在では稀有な例です。気づくと、寺内のいたるところに、二つの紋が並んでいるのでした。
主殿内でもうひとつ強く印象に残るのは、広い厨すなわち台所です。「ブラタモリ」の高野山の節でも、この台所が注目されています。大釜が三つあって、これで二石、すなわち二千人分の飯が一度に炊ける由。ただし現在では文化財保護の理由から火気厳禁で使用されていません。食物などを置いた中空の吊るし棚に紙が垂れるように敷かれているのが面白かったのですが、紙が垂らされてあることで鼠を避けることが出来たのだそうな。

Kongodaidokoro

これくらいで表へ出て、南海さんパンフレットのおすすめコースで次にある金剛三昧院に向かうことにしました。
建暦元(1211)年に北条政子が亡き夫頼朝、息子たちの頼家、実朝の菩提を祈るために造営、栄西を招いて落慶に至った禅常院だそうですが、このうち頼家の名は観光案内では出てこないようです。現存する中では高野山一古い、やはり貞応二(1223)年に政子が建立した多宝塔があるそうなので、拝みに行っておこうと思ったのです。
が、道に迷いました。入る道を、一本手前と間違えて、高野山大学の前に出てしまいました。
迷ったついでに、すぐそこにあった安養院さんを覗きましたら、観光客が全くいない中、ささやかながら、たいへん見事な紅葉に出会えたのでした。

Anyoin
ここから西に少し歩いて、入口案内のあるところを北に入って緩い坂を上っていくと、ようやく目的地です。緩いとはいっても、ここまであまり坂がなかったので、けっこうきつく感じます。
紅葉の良いところですのに、お客さんは、ぱらぱらでした。たまたまそうだったのかな。
本堂の向かい側に校倉造りの経蔵があり、これも塔と同じ年に出来たものだそうですが、苔むしていました。その右手には明神社があり、奥へ上っていくことが出来ます。

Sanmaikyouzou Sanmaimyojin
国宝になっている、こじんまりと美しい塔を見てだけでは、あらかじめ胸に描いていた
「政子さん、こんな立派なことが出来るお金も力も得たんだろうけど、それよりなにより子供たちが世の犠牲になってかわいそうだよなあ」
みたいな大きな感慨は湧きません。

Sanmaitou
が、静かななかに、寺務所から地元のおじさんたちの楽しそうな笑い声がのどかに漏れてくることに、ふしぎな懐かしさを覚えて、ちょっと嬉しくなりました。
山門を出ると向かい側に大き目な二階建てがあります。どうやら宿泊できるようになっているのです。ここに泊まれればよかったなあ。そしてまた右奥は民家。どういうかたたちのお住まいなのか。犬を散歩に連れていくおじさんに遭遇しました。残念ながら言葉を交わしませんでした。

坂を下って、昼飯をとりそこなっていたので、見つけたヤマザキデイリーストアでパンを一つ買いました。ふつうにヤマザキデイリーストアなのでした。
そこからまた下って表通りに出ると、交差点の名前が「小田原」です。高野山で「小田原」という地名は、そうだ、高野聖たちの拠点だったあたりのはず。でも聖たちの活動について、一般の本で書き尽くしたものは、いまだに五来重『高野聖』以外には見つけられません。見つかるのは、泉鏡花の小説ばかり。

かれは高野山に籍を置くものだといった、年配四十五六、柔和ななんらの奇も見えぬ、懐しい、おとなしやかな風采で、羅紗の角袖の外套を着て、白のふらんねるの襟巻をしめ、土耳古形の帽を冠り、毛糸の手袋を嵌め、白足袋に日和下駄で、一見、僧侶よりは世の中の宗匠というものに、それよりもむしろ俗か。(泉鏡花『高野聖』一 青空文庫から)

さて、日も傾きだしました。
そろそろ宿坊へ急がなければ、奥の院で夜明かしになってしまいます。それはさすがにおっかない。

と、宿坊近くまでたどり着きましたら、目の前に「苅萱堂」とある。
南海電鉄さんアドヴァイスのコースでは二日目に入っているのでしたが、入口が開いている。これは幸運だ、明日は奥の院をじっくり歩けばいい、見ておくことにしました。
ろれつのまわっていないような、人のよさそうなツルツル頭のおっちゃんが、ひとりで番をしていました。
暗い中をゆっくりめぐると、壁の上方一面に浮き絵があります。たどっていくと物語になっています。
突然出家して行方不明になった父を、母と連れ立って探しに出たものの、高野山の麓で母にも死なれ、山を登って出会ったお坊さんの下で自分もお坊さんになってしまった、とうとう名乗り合うことはなかったけれど、頭を剃ってくれ、その後しばらくいっしょに修行をし、また別れてしまったお坊さんこそ、実は父であった、みたいな、聞くも涙語るも涙の石童丸の物語なのでした。

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石童丸の話といっても最近ではピンとくることがなくなってしまっています。僕らが子供の頃には絵本がありましたが、やっぱりピンとくるお話ではありませんでした。
もともとは室町期から長く語られたもので、東洋文庫『説教節』に採録されていて、だいぶ流行したことがうかがわれます。
これが、高野聖によって、ささらを鳴らしながら語られたものでした。ただ、どんなふうに語られたのか、推測されたものがYouTubeにいくつかあがっているのは見つけましたけれど、原型が残っているとは思えません。
だまって一通りめぐると、おっちゃんが近づいてきて、
「これ、いつもの年はみな競争で買うていくんやけど、ことしは台風でケーブルカーもとまったんで、ぎょうさん残ってもうたんですわ」
千円でいいから、と、ワンセットくるんで差し出してきたのが、ちょっとおもしろい切り絵なのでした。
「宝来いうて、縁起もんですのや。」
もう縁起物もお守りも何もいらない身なのですが、おっちゃんが泣きそうだったので(嘘)、買いました。
あとで知ってみると、これがいい買い物なのでした。ただし旅行のリュックの中でしわくちゃにしてしまうのが関の山だったのですけど。
まだたくさん残っている宝来の山の手前に、なんだか見覚えのある絵本が並べられていました。『いしどうまる』なのでした。宝の来たためしのない私。こっちを買えばよかった。

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2019年12月27日 (金)

高野山(2)壇場伽藍(壇上伽藍)~鳥居、塔。

高野山の大門、中門とも、初めは鳥居だったのだそうです。
お寺の入口に鳥居などとは、意外です。
もちろん、高野山のこの二つの門も、今は普通に仏閣風です。

ただ、中門をくぐると、左手奥には、そう目立たないながら、社の塀の真ん中に姿の良い鳥居があります。お寺の伽藍の一角に、です。

Myojinsha

空海によって拓かれたとき、ここにはすでに神がましました。高野明神や丹生明神(丹生都比売命)です。今昔物語巻第十一の「弘法大師、はじめて高野山を建てたる語 第二十五」が 述べるところでは、こうです。
唐から日本に帰ることになった弘法大師空海が
わが伝へ学べるところの秘密の教へ、流布相応して(=流通して人々の心にかなって)、弥勒の出世までたもつべき地あらむ。その所に落つべし
と言って、海岸の高所から三鈷を日本のほうに向かって投げたところ、三鈷は飛んで雲の中に入りました(この話は同じ巻の第九話)。
三鈷は三鈷杵のことで、密教の法具のひとつです。
帰国して何年も布教に力を尽くした後、その三鈷はどこに落ちたか、と空海は尋ね歩き、大和国宇智郡に至った時、「南山の犬飼」と称する狩人が「三鈷の落ちたところを知っています」と申し出て犬を放ったので、空海は犬についていきました。
ところが、犬は紀ノ川のほとりで忽然と姿を消します。
ここで今度は山人に出会い、ああ、三鈷が落ちた場所なら、
ここより南に平原(ひらはら)の沢あり。これその所なり
と告げられ、実はこの山の領主だ、と明かした山人の案内で「ただしく鉢を臥せたる如くにて、廻りに峯八つ立ちて登れ」る山の中に百町ほど入ると、並び立つ檜のなかのひとつの胯に、唐の海岸で空海の投じた三鈷がひっかかっていたのでした。
ちょっと蛇足をいうと、今昔物語の中では三鈷のかかっていたのは檜となっていますが、高野山そのものでの伝えではこれは松で、壇上伽藍の御影堂の前に、もう何代目になるか分からない<三鈷の松>が植えられています。
すみやかにこの領地をたてまつるべし
つまり、さっそくにでもこの自領をあなたに捧げます、と山人に言われ、喜んだ空海がその身元を尋ねると、山人は自分は丹生明神だ、犬飼は高野明神なのだ、と名乗って消え失せました。
それで今も、開創にかかわりの深い二柱の神が、伽藍と同じ地に建つ立派な明神社に鎮座まします由。緋の鳥居が、ここにあります。
ちょっと驚きました。

ともあれ、説話がうかがわせるように、高野山は、仏の山である前に神の山だったわけです。
高野建立の初めの結界の啓白、すなわち高野山に伽藍を築くにあたってこの地域を聖別するときに読み上げた文で、空海は
沙門遍照金剛(空海の名乗り)、敬って十法の諸仏、両部の大曼荼羅海会の衆、五類の諸天、および国中の天神地祇、ならびにこの山中の地水火風空の諸鬼に曰さく
と始め、
仰ぎ願わくば、諸仏歓喜し、諸天擁護し、善神請願して、この事を証誠したまえ
と祈願しています。こんにち的な意味で仏や神や精霊を区別する姿勢は、ここには微塵もみられません。
(書き下し文は、加藤精一訳『空海「性霊集」抄』によります。角川ソフィア文庫 G1‐14)

もっとも、寺域に鳥居・神社があると驚くのは、廃仏毀釈を経て百年以上の時代を生き、神仏分離の発想に、私がなじんでいるからに過ぎません。
廃仏毀釈以前は、寺院と神社の併存は当然の光景だったはずです。
探ってみると、お寺に境内社の鳥居は、わりと見られます。入口が鳥居である例も皆無ではありません。大阪の四天王寺は西大門の手前に石鳥居を擁しています。能「弱法師(よろぼし)」でも日想観の修行場として非明示的に登場するこの石鳥居は、1294年に出来たもので、それまでの木の鳥居からあらたまったものだといわれます。ただし「鳥居は神社に限られたものではなかった」と説明されているようです。四天王寺石鳥居のそのような説明にもかかわらず、それでも一般には寺院または仏教に縁深い寺院内の稲荷社などに見られる鳥居は、神仏習合のたまものとされているかと見受けます。

鳥居は近代日本で軍国の象徴と化した面もあるのか、話題にすることが忌まれる風もあるのだ、と仄聞もしましたが、そうでなくても呼び名のいわれや意味がほとんどわからない、奇妙な建造物です。数少ない追求の著作の、まとまったものとしては今ほぼこれ以外に答えを語ってくれるものがない貴重な谷田博幸『鳥居』(河出書房新社 2014年)が厳しく史料・研究批判をしつつ述べているところによれば、私たちが鳥居と呼ぶ構築物に鳥居の名が定着したのはようやく十世紀半ばのことであり、そうであれば、高野山の大門や中門の原型であったものは、建っていた当時は「鳥居」と呼ばれていなかったかも知れません。

高野山では鳥居のもっと大きな驚きがあったのですが、そのことは、奥の院をめぐるときに述べます。

明神社前から、伽藍の中央に向かいます。
というか、中門からの伽藍の風景は、いささかバランスを欠きます。中央は、どこなのか。
門~金堂が中心線だと捉えて眺めると、左右がたいへん不均等に感じられる。奈良の古寺などとはずいぶん異なるところです。

いま壇上伽藍と呼ばれている区域は、案内図などによると、明神社とその北の西塔が西の境に位置し、金堂の右奥の大塔前を緩く下って不動堂・愛染堂・大会堂を経て東塔に至り、蛇腹道へ抜けるように見えます。
この、愛染堂から東の区域がとくに、南を勧学院との境で狭められていて、付け加えの印象を免れない。
大塔にしても、横方向にせよ縦方向にせよ、金堂と一直線に並んでいるわけではありません。
Danjougarann
(画像引用元にリンクしています)

時系列でみると、空海はまず大塔と西塔の建立を企図したのであって、このことと、大塔より東が緩く下り坂になっていること、不動堂はかなり後年の建造(建久九[1198]年)かつ明治に入ってから現在地に移されたものであること、で、「東参道」に位置する建築物群は伽藍とは別、と捉え得るものとなります。じっさいに、岩波新書の『高野山』では、愛染堂(最初に建ったのは1334年、以下、西暦年の補記は同様の意味)、大会堂(1175年)、三昧堂(929年)、東塔(1127年)は「伽藍」とは節を分けて紹介されています。

大塔と西塔のみに注目すると、中門は中央からいささか東に寄っています。そして大塔が50mほどの高さでそびえているのに対し、西塔は30m弱、と、大きさも非対称です。現在の大塔は度重なる火災を経て、昭和12[1937]年に、木造で被覆した鉄筋コンクリート造のスタイルで再建されたものですが、貞観十七[875]年に完工した創建時の木造のものでも高さ十六丈と記録されていて、やはり50m前後だったのでした。
大塔の直近西南にある金堂は本来は講堂として設けられたものです。

Kondou
この金堂から西に向かって、寺域はやや高く上っていきますので、中門が二つの塔の完全な中心に位置していないのは、地形が原因しているのかもしれません。
その西奥に位置する西塔は、現在のものは天保年間の建造だそうですが、ここの中尊でいま霊宝館に移されている大日如来坐像は高野山創建時のものと考えられています。

Saitou

大塔にせよ西塔にせよ、そのつくりが五重塔や三重塔ではないのが、ちょっと面白いところです。
多宝塔形式なのだそうです。とくに大塔の形式は、毘盧遮那法界体性塔といって、高野山の独創とのことです。
他宗の塔が仏舎利信仰のよりどころであるのとは、意味が異なっているためにとられた塔形式なのでしょうか。
残っている古塔では奈良時代の法隆寺五重塔が31.5m、平安時代の醍醐寺五重塔が38mのところ、当初の建造から単層裳階付きで50mの高さを誇っていた大塔は、当時の木造建築技術がいかに優れていたかを物語っているものと感じます。
ただ、高さのある建築物は、雷の科学的な知識がなく避雷針の知恵もなかった古代~近世では、作れば落雷する運命を背負っているも同然だったはずです。

Daitou
奈良でも京都でも、いくつもの塔が落雷で焼失しました。
高野山の大塔も、例外ではありませんでした。994年、1156年(百年かかって成し遂げられた再建から46年)、の少なくとも二度は、雷火による焼失だったことが、景山春樹『比叡山と高野山』(原著は1980年、現在は吉川弘文館で刊行)の記述で分かりました。

それにしても、空海はなぜに広大な伽藍を設けようと考えたのでしょう。
古代には、寺院は大きな伽藍を必要とする、という考えは、仏教者は普通に発想したことなのでしょうか。
現代人の常識からすれば、伽藍に建ち並ぶ建造物が、ただ仏像の配置される場所で人の活動を主としていないのは、ふと冷めて眺めるとたいへん不思議な気がします。
その、現代人には不思議なところが、かえって古代の彼らのねらったところではあったのかな、という気が、しないでもありません。
高野山で言えば、根本、と冠される大塔の内陣は、金剛界胎蔵界の両曼荼羅を象徴するもので、曼荼羅を立体的に具現化して、修行者の心眼を助ける目的があったものかと思われます。
さいきん現代日本語訳で読めるようになった「大日経」の冒頭部に、さっそくこのような記述があります。
金剛法界宮の楼閣は基部も中層も見えないほど広大で、如来の神変によって限りない高みにそびえ、その頂きは種々の宝飾に輝いている。この楼閣の獅子座に大日世尊は有髪の菩薩の姿で坐して、いつでも世の人々とともにあり、人々の幸福を願って仏道をゆく菩薩らとともにある。」(大角修『全品現代語訳 大日経・金剛頂経』角川文庫21868、令和元年10月25日初版発行)
もちろん、経典そのものが建築で完全に再現できるなどとは、空海は考えていなかったでしょうけれど、文字を読誦したり平面の画で見たりだけでは、修行者がイメージを醸成するには不十分である、みたいな思いはあったのかも知れない。そんな気がします。

さて、せいぜい3回くらいにしておこうかな、と思っていた高野山の印象のおしゃべりも、もう1回は余計にかかりそうな感じです。
旅は高野山で終わりではなかったので、読んで下さるお友達には、年内ここまでですみません、とお詫びを申し上げます。

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