2019年6月 2日 (日)

立体刺繍への憧憬(6月7日19時〜 tottoki さいたま芸術劇場小ホール)

百人一首問題サボってます。そのうち再開します。

tottoki(作曲:東秋幸、歌:本郷詩織)と國土佳音さん、佐々木希衣さんの4人が、7日(金)にコンサートをやるとのことで、いつもの基本クラシックといいながら自由な展開の東さん作品のtottokiによる演奏の他に、佳音さんのポップなセンス、希衣さんの伸びやかなダンスも活きて、楽しい会になるのでしょう。
宣伝はご本人たちにまかせることにして。

舞台装置に「立体刺繍」なるものが使われると聞いて、私はそれに魅かれています。

刺繍のことなんか、意識して考えたことはなかったけどな。
舞台装置というなら、タペストリとか、そういうものなのかな。

と思っていたら、なんと、「立体刺繍」そのものが、独立した作品だそうな。

知りませんでした。想像がつきませんでした。
刺繍そのものが独立アートだなんて、画期的なことです。

アトリエFilさんのお二人が、フランス刺繍で研鑽を積んだ成果を、3次元の、独り立ちしたものとして結実させたのでした。

いつもの野次馬根性で、刺繍の歴史を垣間みたいと思って探して、書籍では織物関係史を当たらなくてはならんのだ、ということも、はじめて知りました。

読むと、刺繍は「布の上に針と糸で(自在に)形を表現できる」(佐野敬彦『織りと染めの歴史』西洋編 昭和堂 1999年 p.22)手段として、始源は不明なものの、青銅器時代には行なわれていたことを示す痕跡も発見されている技法だそうです。
しかし「布の上に」と書かれているように、昔の作例をとして見ることが出来るものは、みんな、衣類や壁掛けや敷物に施された刺繍です。そのほとんどが、着衣や部屋を豪華に彩るものです。
裁縫の書籍のコーナーを埋めるのは、衣類や小物にかわいらしいアクセントを添える刺繍を施す方法や作例をふんだんにのせたものです。

刺繍が、布から自立している、だなんて、私はまだ見たことも聞いたこともありません。

どの程度の数・量が舞台や演者を飾るのかも、分かりませんが、そんなことで、私は今とてもワクワクして7日を待っております。

ぜひ、あなたもお出かけ下さったら、と思っております。

    記
2019年(令和元年)6月7日
彩の国さいたま芸術劇場小ホールにて、19時開演
・一般前売 4,000円(当日4,500円)
・ペア券  7,000円

mail tottoki_2016☆yahoo.co.jp (ご使用時は☆を @ に変えて下さい)
Facebook https://www.facebook.com/events/1138938316308752/

アトリエFilさんのページ
https://www.atelier-fil.com/


刺繍の歴史や素晴らしい作例が載った本を挙します。
1冊を除き、日本の刺繍について書いたものばかりですみません。
Amazonにリンクしておきます(アフィリエイトではありません)。
ご興味が湧いたら覗いてみて下さい。

佐野敬彦『織と染めの歴史 西洋編』昭和堂 1999年)

河上茂樹『日本の刺繍』(日本の染織7 京都書院美術双書 1993年)

『日本の美術4 染織(原始・古代)』沢田むつ代(監修:文化庁 他 至文堂 昭和63年)

『日本の美術5 染織(中世編)』沢田むつ代(監修:文化庁 他 至文堂 昭和63年)

中宮寺にある日本最古の刺繍、天寿国繡帳については、
大橋一章/谷口雅一『隠された聖徳太子の世界 復元・幻の天寿国』(NHK出版 2002年)
に描かれた繡帳の復元の試みの興味深い記述に充ちています。
また、この繡帳については、小説
矢田津世子『痀女抄録』
の最初にいきいきとした記述があるのを、詳しい方に教えて頂きました。

立体刺繍の本は
・アトリエFil『立体刺繍で織りなす、美しい花々とアクセサリー』(日本文芸館 2017年)
が手に入りやすいものでした。
アトリエFilさんは今年9月にも本を出されると小耳にはさんでおります。


作例もあとで掲載する所存です。

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2019年4月12日 (金)

「令和」をめぐって〜大伴旅人に怨念はあったのか?

新元号に決まった「令和」の精神性をめぐって、いくつか政権批判に結びつけた文章が出ているのを目にしました。とくに、ある碩学が、「令和」の出典とされた大伴旅人の梅花宴序(万葉集巻第五にある、旅人自邸で催された梅の花を詠む会での三十二首の歌の前に付された序、以下、私が勝手に「梅花宴序」と呼びます)や、関連する旅人他の万葉歌をめぐって、この序や歌には作者たちの無念、権力者への嫌悪や敵愾心がこめられている、という主旨の文章をお綴りになって、少し話題にもなっていました。実際にそうであって、そのことを以て元号の決定に携わった政治家さんたちに警鐘を鳴らし、政治家さんたちも謙虚に受け止めて襟を正すのであれば、大変結構なことです。

いま、しかし、私の関心は政治的なところにはありません。『万葉集』の享受史も、当面念頭にはありません。
梅花宴序や、文章で採り上げられていた万葉歌に、本当に権力者への怨念のようなもの、すなわち憎悪や敵愾心がこめられているのかどうか、に、私は素朴に疑問を感じたのでした。
以下、まずはそれらの万葉歌が歌われた背景、とくに憎悪や敵愾心を喚起したと仰られている長屋王の変前後の、旅人や周辺の動向を、ざっと眺めたいと思います。

梅花宴序は、私の手もとの講談社文庫『万葉集』(中西進 編、1978年)の脚注にも「王羲之の『蘭亭序』の形式に同じ」(p.377)とあります。その「蘭亭序(叙)』の背後にある、時代の「厳しい状況」(マール社『書聖名品撰集2 王羲之 蘭亭叙・十七帖』桃山艸介解説、p.135 1985年)を、異朝日本の三百年後の梅花宴序のほうも背景にしていた、と言える可能性は、たしかにあります。それ自体は、述べられてもあながち間違いではないかも知れません。ただ梅花宴序に関する背景論は、一介のサラリーマンで特段学殖もない私には、出来るほどの識見はありません。蘭亭叙と梅花宴序を比較して、あるいは漢籍のほうで出典とみなしても支障がなさそうな「帰田賦」と比較して、あらためて勉強してみるべきでしょう。

とりあえずは、旅人に、長屋王の変を機にした権力者、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂への皮肉や敵愾心あったのか、を考えます。

梅花宴前後のいくつかを時系列を見ながら、気になった文章にある万葉歌の作歌事情を挟んでみますと、次のようになります。

①大伴旅人は神亀四年【西暦728年】の暮れに大宰帥として下向したものと思われています。翌年、任地で愛妻の大伴郎女を失います。

②長屋王の変は、天平元年【西暦729年】二月十日に起こります。大宰大弐 多治比県守は翌日急遽、権参議となります。

*長屋王の娘とされる賀茂女王が、旅人の親族、大伴宿禰三依に贈った歌、「筑紫船いまだも来ねばあらかじめ荒ぶる君を見るが悲しき」(556)が長屋王の変と関係するのかどうかは、はっきり分かりません。三依のほうの歌は4首前に「わが君(=思う女性)はわけ(=私)をば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つ走くらむ」(552)とあります。戯れ歌のニュアンスである由、中西注からは窺えます。三依はまた、罷りてまた逢ふを歓べる歌「吾妹子は常世の国に住みけらし昔見しよりをちましにけり(一層若返っていらっしゃるようだ)」(650)と詠んでいます。三依は大伴御行の子で、旅人の父、大伴安麻呂は御行と兄弟ですから、従兄弟にあたります。旅人よりはずっと若かったものと思われます。

③天平元年三月、すなわち長屋王の変の2ヶ月後、大宰大弐 多治比県守は従三位に、大宰少弐 小野老は、従五位に昇叙します。

*大伴旅人が、民部卿となる多治比県守に贈った歌があります(「君がため醸みし待酒 安の野に独りや飲まむ友無しにして」万葉集巻第五555)。
県守が民部卿になったのはいつだったのでしょう?
なお、県守は旅人の妻、丹比郎女(家持の母とされます)の父と見なす説もあるそうです。

*小野老には、大宰少弐として詠んだ歌に、有名な「あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」(329)があります。万葉集ではこのあと防人司による奈良を思う歌、おそらく上司の大伴旅人に「奈良を念ってはいませんか?」と語りかける歌があり、それに旅人が応えた「わが盛りまたおちめやも ほとほとに寧楽のみやこを見ずかなりかむ」(331)に始まる五首の望郷歌が続きます。となると、巻第三にあるこれらの一連の歌は、長屋王の変に関わって帰還して来た(?)小野老に、「おれはもう帰ることもないかもね」と旅人が嘆いてみせたようなニュアンスがあり、時期的には県守や老の昇叙後のような気がしないでもありません。

④同年十月七日、大宰府にあった大伴旅人は藤原四子の次男、房前に、倭琴を贈ります。十一月八日、房前は礼を述べる返書を旅人に送っています。

⑤旅人主宰の梅花宴は天平二年正月十三日開催であったことが、梅花宴序の冒頭に明記されています。(「天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也」~https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%B7%BB)
この宴には小野老も出席して歌を詠んでいます。先の大伴三依ではないかと思われている歌も続いています。

⑥旅人は同年十月に大納言となったかと推定され、十二月に帰京します。翌年一月従二位に昇進、七月に薨去します。

以上の時系列について、考えてみますと、

①旅人の大宰府下向は、長屋王の変の1年強前です。この年、聖武天皇に光明子所生の基王が生まれ、即刻皇太子とされました。
長屋王はどうやらこのことに公然と反発したかと思われますが、基王生存中は後の変事の種は胚胎されなかったと考えていいでしょう。
基王の夭逝は翌年九月です。
となると、旅人の大宰帥任官には、仮に旅人が親長屋王だったとしても、1年後の変を確実に想定しての左遷と考える余地は、さほどないものと考えられます。

②1年後に長屋王の変が起こりますが、長屋王の娘、賀茂女王が大宰府にいた恋人の大伴三依にSOSを出した後の不安を詠んだのが万葉集巻第三の556の歌だと見なすのは、さて、どうでしょうか。
長屋王の変は二月十日に藤原宇合(彼は長屋王邸での詩の会に参加したことがあり、その際の作が『懐風藻』に採られています)らが長屋王邸を夜間に包囲したことに始まり、同月十二日には長屋王と妻の吉備内親王、息男4人が自尽することで早くも決着を見ます。まず、囲まれた邸から歌を漏れ出させることは至難の業だったでしょう。
三依が詠んだ650歌(「常世の国」という語を含む)が、生存していた賀茂女王にあてたものであるなら、「常世の国」はむべなるかなの語に見えなくもありませんが、しかしこの歌には哀しみの陰がありません。
哀しみをもって賀茂女王を見ての歌だとしたら、「一層美しくなった」などと言うのは、普通の感覚ではおこがましくはないでしょうか?
このあたりは確かなことが分かりませんので、まあ、なんとでも言えますけれど。
ともあれ、賀茂女王や三依の歌が長屋王の変のときのものであるとすることは、私にはどうもしっくりきません。

③長屋王の変後に、大宰府関係者、それも上位の人ふたりが昇叙している一方、帥の旅人は別段降格もしていません。昇進もしていないのは間違いありませんから、いちおう小野老らとの贈答歌をこの時期のものとすると、取り残された感がにじみ出ているようには思われます。
一方で、昇叙の事実から長屋王の変で功績があったと思われる小野老の、奈良の都の歌い始めは、べつに旅人を揶揄したものではないでしょう。旅人の受けにも、淋しげながら柔らかさを感じます。歌がこの時期のものだと前提するのが許されるのであれば、もし変をめぐって利害が対立していたなら、こうした穏やかな贈答にはならなかったのではないでしょうか?
多治比県守に旅人が贈った歌もまた同様です。多治比県守がほんとうに旅人の妻の父だったなら、まして、旅人が長屋王側に味方していたうえで県守と親しくし得た、などということはなかったのではないでしょうか?

④ここで旅人は藤原四子のひとり、房前と接触していることが明らかになります。
以前の通説では、房前は長屋王の変の首謀者でした。それを採るならば、旅人が房前に琴を贈ったことが皮肉に充ちていたとか、房前の返答は旅人と腹の探り合いをしたものだ、という読みかたも、あるいは成り立つのかもしれません。
ところが、少なくとも木本好信著『藤原四子』(ミネルヴァ書房 2013年刊)によりますと、長屋王の変のころまでに房前は他の三兄弟からは孤立していて、変の事前計画も実行もかやの外のことだった、とのことです。これは木本氏単独の説ではなく、『続日本紀』を始めとする変についての記事に房前がまったく登場しないことからも、またそれ以前の政情からも、裏付けられるもののようです。
となると、旅人の琴贈呈と房前の返礼との間の意味合いは、まったく逆転します。
房前と旅人は、いわば長屋王政権やその前の藤原不比等政権下の同僚でもありました。その縁をあてにし、旅人が帰京願望を素直に託したのだと読むのが正しいことになりはしないでしょうか? あえて藤原四子の他の兄弟から孤立していたらしい房前を選んで、というところをどう解釈するべきか、との疑問は残るものの、かつての交情から思いを共有しやすいとの算段が旅人にはあったように思われなくもありません。別に変を企んだわけでもない房前とは、それ以上腹を探り合う必要などなかったことでしょう。

⑤梅花宴そのものについては、あらためて作品そのものなどを読んであらためて考えたいと思います。ただし、明らかに長屋王の敵となった小野老の宴への出席、その詠んだ歌のおおらかさ(「梅の花いま咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも」)、それを受け入れているとみなしてよいだろう旅人の関係に、ぎくしゃくしたところはまったく感じられないでしょう。

⑥旅人が帰京して大納言になっている事実は、少なくとも政権を荷なう人々(中心は藤原武智麻呂)にとって、旅人は有害な人とはみなされていなかったことを物語っているのではないでしょうか?
先の書『藤原四子』でも旅人の大納言就任をめぐっての複雑な事情が推測されたりしていますけれど、複雑な事情なるものを明証する記録は存在していません。

以上、とくに多治比県主や小野老との交流の様子、その境遇が過去の説とは逆転し旅人に腹をさぐられる立場ではなかったらしい藤原房前との贈答、帰京後の大納言就任(大納言は台閣でとても重要な地位です)の事実などから、旅人が仮に親長屋王だったとしても、長屋王の変がきっかけで、碩学氏の文中で権力者に否定されている藤原四子に憎悪や敵愾心をもった事実はないものと思われますが・・・いかがでしょうか?

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2019年4月 6日 (土)

定家『近代秀歌』

定家『近代秀歌』
【百人一首はなぜ出来た(13)】

(このブログ用のエディタがプロバイダさんが変更して、まだ慣れません。)

さて、『堀川院百首和歌』ときたら、その後継とも言うべき『久安百首』と、それに関わった藤原俊成について見て行くべきなのですが、いま、一足飛びに、俊成の子、定家の歌論を見ておきたいと思います。

定家の手になるという有名な歌論がいくつかあるのですが、自筆のものが残ってもいて、定家の論であることが確実な『近代秀歌』を読みます。(いちばん詳しい『毎月抄』には疑義を出す筋もあり、『詠歌大概』は漢文で、これも偽書の疑いももたれる場合があります。しかしこのいづれも、『近代秀歌』の内容と齟齬をきたすものではありません。)
『近代秀歌』はこちらに(例歌までを含む)よいテキストに基づいた原文と現代語訳があり、お詳しい方の丁寧なご説明が加わっています。こちらで使っていらっしゃるような立派な影印本は私など見ることも出来ません。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/kagaku/kindai.html


ですので、今さら恥ずかしいのですが、岩波文庫『中世歌論集』所載の本文(定家自筆本が底本)によって、本文のみを読み直したいと思います。(例歌については上のリンク先をご覧下さい。)
漢字に変えるのを主に表記や区切り位置を変えますので、疑わしきは岩波文庫をご参照下さい。なお、田中裕編『影印本 定家歌論集』中の、陽明文庫蔵本の影印を参照しました(一部、脱落や誤写があります)。
文章の段落分けと現代語訳は、私の理解の仕方に遍しています。あまり和歌理解を前提としないようにしました・・・自分が分かっていませんので・・・。大逸れているところはご?正下さい。


 

   近代秀歌

 

【0】 

 今は、そのかみのことに侍るべし、ある人の「歌はいかやうに詠むべきものぞ」と問はれて侍りしかば、をろか(おろか)なる心にまかせて、わづかに思ひ得たることを書きつけ侍りし。いささかのよしもなく、ただ、言葉に書きつづけて、をくり侍りし。見苦しけれど、ただ思ふままの僻事に侍るべし。

 

【0 現代語訳】

 以前、ある人から「歌はどのように詠むべきものなのでしょう」とのご質問をうけましたので、分別もないままに、僅かに思いついたことを書き付けました。いかほどの根拠もなく、むだに言葉を書き連ねてお送りしたのでした。見苦しいのですけれど、ただ思ったままのひがごとではあるということで。

 

【1】

やまと歌の道、浅きに似て深く、易きに似て難し。弁へ知る人、また幾許ならず。むかし貫之、歌の心たくみに、言葉強く姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の体を詠まず。それよりこのかた、その流を受くる輩、ひとへにこの姿におもむく。ただし、世くだり、人の心劣りて、たけも及ばず、ことばも卑しくなり行く。いはむや近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字(*1)にいひ続けむことを先として、さらに姿・言葉の趣を知らず。これによりて、末の世の歌は、田夫の花の陰を去り(*2)、商人の鮮衣を脱げるがごとし(*3)。

 

【1 現代語訳】

和歌の道は浅いようで深く、簡単なようでも難しいものです。そこをきちんと知っている人はまた、さほどいません。昔、紀貫之は作歌の工夫が巧く、言葉が明瞭で表現が面白い趣向を好んで、情が後を引くとか、なまめかしいとかいうたぐいの歌は詠みませんでした。以来、貫之の流を受け継いだ人たちは、ひとえにこの貫之のスタイルに従っています。とはいうものの、時代が下って、人の能力も下がり、気品も落ちて、言葉もみすぼらしくなってきています。まして最近の人は、ただ考えついた情趣を三十字すなわち一首の文字数で言えることを第一にしてしまい、それ以上にスタイルや言葉のニュアンスなど知りもしません。これが原因で、最近の歌は、花の陰にいればまだサマになっていた農夫が花の陰を去ってしまい、良い衣装を着ていればまだサマになっていた商人が良い衣装を脱いでしまったような無味乾燥さに陥っています。

 

*1:小松英雄『古典和歌解読』(笠間書院 2000年)p.016に、定家自筆のこの部分の写真があり、「三十一字」ではなく「三十字」とたしかに書かれていますので、岩波文庫のテキストのとおり「三十字」のままにしました。

*2:田夫ではありませんが、古今集仮名序「大伴黒主は、そのさまいやし。いはば薪おへる山人の花の蔭に休めるがごとし。」

*3:古今集仮名序「文屋(文室とも)の康秀は、ことば巧みにて、そのさま身に負はず。いはば、商人のよき衣着たらむがごとし。」

 

 

【2】

しかれども、大納言経信卿・俊頼朝臣・左京大夫顕○(輔カ)卿・清輔朝臣、近くは亡父卿(=俊成)すなはちこの道を習ひ侍りける基俊と申しける人、この輩、末の世の卑しき姿を離れて、常に古き歌をこひねがえり。この人々の、思ひ入れて優れたる歌は、高き世にも及びてや侍らむ。今の世となりて、この、卑しき姿をいささか変へて古き言葉を慕へる歌あまた出で来たりて、花山僧正(=遍昭)・在原中将(=業平)・素性・小町がのち、たえたる歌のさま僅かに見えきこゆる時侍るを、物の心さとり知らぬ人は、新しきこと出で来て歌の道変わりにたりと申すも侍るべし。ただし、このころの後学末生、まことに歌とのみ思ひて、そのさま知らぬにや侍らむ、ただききにくきこととして、易かるべき事を違へ、離れたる事を続けて、似ぬ歌を真似ぶと思へる輩あまねくなりにて侍るや。

 

【2 現代語訳】

そうではありますが、源経信(1016~1097)・その子の源俊頼(1055~1129)・藤原顕輔(1090~1155)・その子の藤原清輔(1104~1177)、最近では私の亡父俊成がとりもなおさずこの和歌の道を習いました藤原基俊(1160~1142)という人、こうした人々は、近代のみすぼらしい詠み様を離れて、常に古歌を理想としていました。この人々の、心のこもった優れた歌は、理想的だった古今時代にも比肩するのではないでしょうか。現代になって、こうした、みすぼらしいスタイルをほんの少し変えて古語を追求する歌がたくさん現われて、僧正遍昭・在原業平・素性法師・小野小町らのあと断絶していた歌のスタイルが僅かにまた見受けられるようになってきているのを、ものごとの本当の意味をわきまえ知ることのない人は、新しいことが出来(しゅったい)して歌の道が変わってしまったなどと言ったりもしているようです。ただし、最近の後続の和歌学習者は、さて、ただ耳に馴染まないように易しいはずのことを難しくしたり関連性のないものをひと繋がりにすることを、本当にこれが和歌だと決めつけているのでしょうか。歌とは似ても似つかない、かたちだけの歌を模倣しようと思っている連中がはびこっているのではないかと感じます。

 

 

【3】

この道を詳しくさとるべしとばかりは思ふたまへながら、僅かに重代の名ばかりを伝へて、あるいは用ゐられ、あるいは誹られ侍れど、もとより道を好む心かけて、僅かに人の許さぬ事を申し続くるよりほかに習ひ知ることも侍らず。おろそかなる親の教へとては、歌は、広く見遠く聞く道にあらず、心より出でて自からさとる物なりとばかりぞ。いはむや老いに臨みて後、病ひも重く憂へも深く沈み侍りにしかば、言葉の花・色を忘れ、心の泉みなもと枯れて、物をとかく思ひ続くることも侍らざりしかば、いよいよ跡形なく思ひ捨て侍りにき。ただ愚かなる心に、今こひねがひ侍る歌のさまばかりを聊か申し侍るなり。

 

【3 現代語訳】

私はこの和歌の道を詳しくわきまえたいとだけは思ってまいったというものの、僅かに父祖伝来の形ばかりを伝えて、それがあるいは世に聞き入れられたり、あるいは非難されたりします。けれど、元来、和歌を追求することが好きなのだ、ということを心がけたうえで、伝わってきたことでわずかに人が知らずにいることを言い続けるよりほかに、教わって知ったこともございません。粗略な親の教えとしては、歌は渉猟したり深遠がったりするのが理解の方法ではない、心より出でて自ら会得するものなのだ、とあるだけです。その上私も老いに臨んでからは病気ものしかかり憂鬱に深く沈んだりしておりますから、言葉の花や色など忘れてしまい、心の泉も源が枯れて、ものをあれこれ考え続けることもなくなってしまいましたから、ますますわけも分からなくなり無関心にもなってきております。ただ愚かな精神から、いま理想だと思っている歌のありかたについてだけを、いささか述べさせていただきます。

 

 

【4】

言葉は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願ひて、寛平以往の歌にならはば、をのづからよろしきことも、などか侍らざらん。

 

【4 現代語訳】

言葉は古来のものを突き詰め、精神は新しいことを求め、たどり着きようもない高邁な歌姿を理想として、六歌仙時代の歌に馴染むようにしていたならば、おのずから悪くないほうへと向かうこともなくはない、と、私は思います。

 

【5】

古きをこひねがふにとりて、昔の歌の言葉を改めず詠み据えたるを、すなはち「本歌とす」と申すなり。かの「本歌」を思ふに、たとへば五七五の七五の字をさながら置き、七七の字を同じく続ければ、新しき歌に聞きなされぬところぞ侍る。五七の句は、やうによりて去るべきにや侍らん。「例へば、いその神・ふるきみやこ・郭公鳴くや五月・久方の天香具山・玉鉾の道行き人、など申すことは、幾度もこれを詠までは歌出で来可からず、年の内に春は来にけり・袖ひぢてむすびし水・月やあらぬ春や昔の・桜散る木の下風、などは詠むべからず」とぞ教へ侍りし。

 

【5 現代語訳】

なかでも、古来を重んじるときに、昔の歌の言葉を変えないで詠歌に据え置くことを、すなわち「本歌とする」といいますので、この「本歌とすること」を考えてみましょう。たとえば上の五七五のうちの七五の字を、そっくりそのまま置いてしまって、下に自分なりの七七を同じように続けてしまうと、新しい歌だとは思ってもらえないところがあるかと思います。また古歌の最初の五七の句は、場合によって敬遠するべきなのではないでしょうか。「たとえば『その神・ふるきみやこ・郭公鳴くや五月・久方の天香具山・玉鉾の道行き人』などといったことは何度でもこれを詠まないことには歌は心から出て来られないけれども、『年の内に春は来にけり・袖ひぢてむすびし水・月やあらぬ春や昔の・桜散る木の下風』などは詠んではいけない」というふうに、私の父は教えておりました。

 

【6】

次に、今の世に肩を並ぶる輩、例へば世になくとも、昨日今日ばかり出で来たる歌は、ひと句もその人の詠みたりしと見えんことを、必ず去らまほしく思ふたまへ侍るなり。

 

【6 現代語訳】

それから、今の時代に歌で張り合っている人々や、たとえば作者がもうこの世になくても最近になってその作が明らかになった歌は、一句でもその人々が詠んでいると目に止まっているだろうことは絶対に敬遠したほうがいい、と考えております。

 

【7】

ただこの趣を、僅かに思ふばかりにて、おほかたの悪し良し、歌のたたずまひ、さらにならひ知ることも侍らず。いはむや難義など申す事は、家々にならひ所々に立つる筋おのおの侍るなれど、さらに伝へ聞くこと侍らざりき。僅かに弁へ申す事も、人々の書き集めたる物に変わりたること無きのみこそ侍れば、はじめて記し出だすに及ばず。他家の人の説、聊か変れること侍らじ。

 

【7 現代語訳】

ただこうしたことを思っているのが私はせいぜいのところで、歌の善し悪しやスタイルの大体のところについてなど、これ以上習って知ったこともありません。まして、難しい言葉などに関しては、和歌の道をこととする家々に経験の積み重ねがあり、ほうぼうで流派を立てていることもあるようですが、あらためて伝え聞くこともありませんでした。僅かに理解していることも、人々が書き集めているものと変わっていることがありもしませんので、新たに明記するにもおよびません。他の歌道の家の説とて、わずかでも変わっているようなことはありますまい。

 


定家のこうした和歌観を知ってか知らずか、後鳥羽院の辛辣な定家評などがあったりするわけですが(『後鳥羽院御口伝』)、このあたりについてはまたあらためましょうか。

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2019年3月21日 (木)

「百」について〜堀川院百首和歌

「百」について〜堀川院百首和歌
【百人一首はなぜ出来た(12)】

『三十六人撰』などで歌人の人数になぜ「三十六」という数が選ばれたのか、は、ちょっと分からない、ただ易(えき)で縁起のいい「坤」の卦が数で言うと三十六(卦辞は「元亨(おおいに通る=万事順調)」)であることと関係があるかも知れない、と、この前はそこまででした。この卦のプラスα(用六)には、さらに「利永貞(永き貞[と]ひに利あり〜長期にわたる占問には吉)」ともあります。易占が関係あるかも、と思ったのは、公任の時代の貴族は具注暦に日記を書く習慣があり、それを編纂した陰陽寮に属していた陰陽師は占筮も仕事にしていたこと、陰陽師といえば、公任と同時代の有名人、藤原道長を呪詛から救った安倍晴明の説話があったりする(宇治拾遺や古事談)ことから、もしかしたら公任にも陰陽師、ひいては易占が身近なものだったのではないか、あるいは貴族たちの間でもそうであって、「坤」の示す三十六は縁起のいい数と感じられていたのではないか、と憶測してのことに過ぎません。・・・後日また考えられたらいいな、と思っております。
『百人一首』にも結びつく「百」のほうは、万葉集に現われる枕詞「ももしき(百石城)の」などでも見られるように、日本では古来から身近な数だったかと思われます。和歌については、古今集の歌人である源重之が残した百首歌もあります。これから触れる『堀川院百首和歌』の、和歌文学大系での解説には、次のように書かれています(久保田淳 筆)。
「(略)三十一文字の短歌一首ではどうしても歌いおおせたという満足感が得られないという思いを抱く歌人は少なくなかったに違いない。ここに短歌を百首まとめて詠む百首歌という方法が考え出されたのだろう。」(『和歌文学大系15 堀川院百首和歌』解説、p.324 明治書院 平成十四年)
この解説で例示されているのは、源重之のほか、曽禰好忠、恵慶、相模、と、いずれも個人の百首で、これらが『堀川院百首和歌』に先行する、百首、と冠したものたちの主要なものでしょう。
そしてまた、上の解説が言うような百首歌の「歌いおおせた」感、略したところでいうと「複雑な思想内容を盛りうる器」としての長歌を詠まなくなった代償としての営みである百首歌は、個人にひもづく感覚でもあるでしょう。
『堀川院百首和歌』は、しかし、先行する個人の百首歌たちとは一線を画すことになります。百首と冠しながらそれは個々の歌人にとっての百首であるところの16人の百首歌の、ばらされてまとめ直された集合体であるからです。
16人の歌人は、個々が予め決められた百の題につき一首ずつ詠むのであり、書物となった『堀川院百首和歌』は16人の歌は題の下に各一首の合計16首としてまとめなおされているのであり、この詠まれ方と集の形態からして、個々人の感慨だの思想だのというところから、すっかり切り離された世界を繰り広げているさまを見せています。
あらかじめ題を決める、というのがどういうことか、というと、和歌についてのみ言えば、歌会、歌合の延長だったのでしょう。歌会や歌合こそ、人々があらかじめ決められた題で歌を詠み合う(現実だったり仮想だったりする)場だったのですから。藤原清輔『袋草紙』(1158[保元三]年頃成立)の最初の部分は和歌会の次第について書いていますが、その記述から、和歌会で詠むには題が必須だったことがうかがわれます。歌がお披露目(披講)されるときの題目の読みようについて『袋草紙』では説明されており、とくに題必須とは断られてはいないものの、「探題(さぐりだい、たんだい)」という、詩や歌の会で各人がくじ引きなどで題を選んで詠むことについても述べられています(新日本古典文学大系『袋草紙』p.11 岩波書店 1995年)。歌合ならば、もともと百首という数自体が、寛平(889〜898)に遡って、まとまりの数として採られていたりしますので、『堀川院百首和歌』が歌合の延長線上にあることは、いっそう明確なのではないかと思います。
では、『堀川院百首和歌』で決められたのは、どんな題だったのか。
列挙すると、かなり縦長になりますので、記事の後に記します。
その題は、実は公任が漢詩と和歌をないまぜにして編んだ『和漢朗詠集』が先鞭をつけたものだったのでしたから、その対比も併せて見られるようにします。公任さんの影響はこんなところにも及んでいるのでしたが、いま、これについてはこれ以上は考えません。かつ、対比で見て行くと、『和漢朗詠集』はおそらくまだ漢詩主眼で題を選んでいたのに対し、『堀川院百首和歌』は、さすがに和歌だけの集成なので、和歌向けにこなれた題に変わっているのが明瞭になります。
「恋十首」のそれぞれの題が、このことをはっきり知らせてくれます。
『和漢朗詠集』では単に「恋」とひとくくりであったところを、十の題に細分化していることが、その第一。
十の題がまた、『古今集』では題として明示されてはいなかったものの、『堀川院百首和歌』で分たれることとなる恋の変遷の過程に沿って並べられていることが、その第二と言えるでしょう。その『古今集』での隠れた題を、鈴木宏子『「古今和歌集」の創造力』(NHKブックス 2018年、p.107)によって掲げ、『堀川院百首和歌』の恋十首の題と順番に対比しますと、若干の不整合はありますが、
『古今集』           『堀川院百首和歌』
 恋一〜逢わざる恋(その一)    初恋、不被知人(ひとにしられざる)恋
 恋二〜逢わざる恋(その二)    不遇恋
 恋三〜初めての逢瀬とその前後   初逢恋、後朝恋
 恋四〜熱愛から別離まで      会不逢恋、旅恋    
 恋五〜失われた恋の追憶      思、片思、恨
という具合で、後者が『古今集』(ひいては『後撰集』・『拾遺集』)の伝統をよく継いでいることが垣間みられます。かつ、時間の連続、推移が、『堀川院百首和歌』では題に結晶化していることも分かります。
伝統に沿ったものだけでなく、夏の「蚊遣火」などのように新しい趣向の題もあるのが面白いところでもありますが、時代の変遷による風物の変化がある以上、これは必然だったことでしょう。これがまた、あとで一覧を見て頂けば、夏の時間の推移の中にうまく溶け込んでいることが分かるかと思います。
『堀川院百首和歌』が、公任の『十五番歌合』や『三十六人撰』では保持がはかられていた「連続体としての個々の歌」の世界とはいかにかけ離れているか、を、「立秋」の題の箇所を引いて見て頂いて、今回も長くなってしまった記事の最後とします。
                         公実
とことはに吹く夕暮の風なれど秋立つ日こそ涼しかりけれ
                         匡房
朝まだき秋の初風立ちぬれば思ひなしにぞ涼しかりける
                         国信
待ちわびて片敷く袖の寒き哉わがねやよりや秋は立つらん
                         師頼
昨日にはかはるとなしに吹く風の音にぞ秋は空に知らるる
                         顕季
朝まだき袂に風の涼しきは鳩吹く秋になりやしぬらん
                         顕仲(源)
夏の夜のあだ寝の床にふしながら身にしむ秋の風ぞ吹ける
                         仲実
秋立つと伊吹の山の山颪(おろし)の袂涼しく吹つなるかな
                         俊頼
千年経る御祓は昨日せしかども今朝は憂き世に秋立にけり
                         師時
これを聞け荻の上葉に風吹て秋なりけりと人に告ぐなり
                         顕仲(藤原)
吹く風の荻の上葉におとづれてけふこそ秋の立つ日なりけれ
                         基俊
ひとりゐてながむる宿に秋来ぬと荻の上葉のおどろかす哉
                         永縁
夕暮の物のあはれをいかにせんけふより秋に成ぬと思へば
                         隆源
秋立つと人に知らする風の音に涼しや今朝は衣かさねつ
                         肥後
朝まだき秋立つ空のしるしには風のけしきぞ先かはりける
                         紀伊
秋の立つしるし成べし衣手に涼しきけしきことになりゆく
                         河内
いつしかと今朝は身にしむ風にこそ秋来にけりと思ひ知らるれ
どの題でも歌人はこの順番で現われます。
この『堀川院百首和歌』、立秋の題の歌には見られませんが、全体では万葉風のことばをもちいた歌が目立つなど、細部に興味を引かれるところもあります。
それが面白くもある一方、しかし一首一首に情趣はあるかもしれませんが、並んでいるとみなどこか似ていて、印象が平板です。この立秋の例だけでも、いかに各人が各人の考えから歌を詠んでいて、次に現われる歌人と示し合わせて歌としての連続体を作るみたいな発想は持ち合わせていなかったのが分かるかと思います。これはまあ、実際に顔を合わせて詠み合ったのではないのですから当然なのでしょうが。
そもそも、連続体であることが、ここでは和歌そのものに求められることから奪い去られて、題のほうに、ある意味、抽象化されて移行しているのが、一番大きな特徴ではないかな、と、私は感じているところですが、いかがでしょうか。


題の対比
和漢朗詠集      堀川院百首
春           春廿首
 立春          立春
 早春          子日
 春興          霞
 春夜          鶯
 子日 付若菜      若菜
 三月三日        残雪
 暮春          梅
 三月尽         柳
 閏三月         早蕨
 鶯           桜
 霞           春雨
 雨           春駒
 梅 付紅梅       帰雁
 柳           呼子鳥
 花 付落花       苗代
 躑躅          菫菜
 藤           杜若
 款冬          藤
             款冬
             三月尽
夏           夏十五首
 更衣          更衣
 首夏          卯花
 夏夜          葵
 端午          郭公
 納涼          菖蒲
 晩夏          早苗
 橘花          照射(ともし)
 蓮           五月雨
 郭公          蘆橘
 蛍           蛍
 蝉           蚊遣火
             蓮
             氷室
             泉
             荒和祓(なごしのはらえ)
秋           秋廿首
 立秋          立秋
 早秋          七夕
 七夕          萩
 秋興          女郎花
 秋晩          薄
 秋夜          刈萱
 八月十五夜 付月    蘭
 九日 付菊       荻
 九月尽         雁
 女郎花         鹿
 萩           露
 蘭           槿(あさがほ)
 槿(あさがほ)     駒迎
 前栽          月
 紅葉 付落葉      擣衣
 雁 付帰雁       虫
 虫           菊
 鹿           紅葉
 露           九月尽
 霧
 擣衣
冬           冬十五首
 初冬          初冬
 冬夜          時雨
 歳暮          霜
 炉火          霰
 霜           雪
 氷 付春氷       寒蘆
 雪           千鳥
 霰           氷
 仏名          水鳥
             網代
             神楽
             鷹
             狩
             炭竈
             炉火
             除夜
           恋十首
 風          初恋
 雲          不被知人恋
 晴          不遇恋
 暁          初逢恋
 松          後朝恋
 竹          会不逢恋
 草          旅恋
 鶴          思
 猿          片思
 管絃 付舞妓     恨
 文詞 付遺文  
 酒         雑廿首
 山          暁
 山水         松
 水 付漁夫      竹
 禁中         苔
 故宮 付破宅     鶴
 仙家 付道士隠倫   山
 山家         川
 隣家         野
 山寺         関
 仏事         橋
 僧          海路
 閑居         旅
 眺望         別
 餞別         山家
 行旅         田家
 庚申         懐旧
 帝王 付法皇     夢
 親王 付王孫     無常
 丞相 付執政     述懐
 将軍         祝詞
 刺史
 詠史
 王昭君
 祇女
 遊女
 老人
 交友
 懐旧
 述懐
 慶賀
 祝
 恋
 無情
 白

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2019年3月16日 (土)

『三十六人撰』の後継たち 付)三十六という数

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『三十六人撰』の後継たち 付)三十六という数

【百人一首はなぜ出来た(11)】

公任『三十六人撰』の歌人たちは、いつからか「三十六歌仙」と呼ばれるようになっていたのでしたが(いつからなのでしょう?)、その人たちはみな、公任よりは前の世代に属します。公任と同時代の優れた歌人たちは、公任編とも、そうでないとも言われる『後十五番歌合』に登場します。
岩波文庫『王朝秀歌選』で中身を見ると、歌の配列のされ方からは『前十五番歌合』に大変近い感触が得られます。公任編だとすると、彼自身の歌が十四番左に「四条中納言」との作者名表記で現われますので、違和感もあります。ただし公任は1009年に権大納言になっていますから、中納言の表記から『後十五番歌合』はそれ以前の撰と捉えることも可能で、もし公任が周りからたしかにそう呼ばれていた(藤原行成『権記』で確認できます)四条中納言を自称して記したのだとすれば、歌の並べ方のセンスと併せて、『後十五番歌合』公任撰の可能性は大いにあるかもしれません。ただし、後に引く七首などは「山の端」が頻出するところなど、公任の目を高く評価する場合には引っかかります。
撰ばれている歌人は、登場順に、以下のとおりです。

 藤原実方  藤原道信  馬内侍   和泉式部  藤原為頼
▲相 如  △藤原輔尹 △橘 為義  賀茂為政  源 道済
▲斎院宰相  赤染衛門  大江嘉言  曾禰好忠  清少納言
△伊勢大輔  戒 秀   寛 祐   源 兼澄  大中臣輔親
 大江為基  藤原長能  勝 観   恵 慶  ▲清 胤  
 観 教   藤原公任  藤原高遠  花山院   具平親王
(△は後拾遺初出、▲はそれ以後または私には分からなかった人)

繋がりの面白いところは、たとえば二番右の和泉式部から五番右の道済まで。
歌人名は略しますので、上の順に追って見て下さい。

  暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月
  世の中にあらましかばと思ふ人 亡きが多くもなりにけるかな
  夢ならで又も見るべき君ならば 寝られぬ寝をも嘆かざらまし
  もろともに出でずは憂しと契りしを いかがなりにし山の端の月
  君待つと山の端出でて山の端に 入るまで月を眺めつるかな
  九重の内まで照らす月影に 荒れたる宿を思ひこそやれ
  行末のしるしばかりに残るべき 松さへいたく老いにけるかな


さて、公任の『三十六人撰』の歌人たちが三十六歌仙と呼ばれるようになったのに対し、別にまた、中古三十六歌仙というのが撰ばれていることを知りました。
これはネットで調べると、

「又後六々歌仙ともいう、刑部卿藤原範兼が三十六歌仙に擬して選びし所なり、左の如し。○和泉式部、相模、○恵慶法師、○赤染衛門、能因法師、○伊勢大輔、○曽禰好忠、道命阿闍梨、○藤原実方、○藤原通(道)信、平定文、清原深養父、○大江嘉言、○源道済、藤原道雅、増基法師、在原元方、大江千里、○藤原公任、○藤原(大中臣)輔親、○藤原高遠、○馬内侍、藤原義孝、紫式部、道綱母、○藤原長能、藤原定頼、上東門院中将、兼覧王、在原棟梁、[六歌仙]文屋康秀、藤原忠房、菅原輔正、大江匡衝 安法法師、○清少納言

(『画題辞典』斎藤隆三)

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E4%B8%AD%E5%8F%A4%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%AD%8C%E4%BB%99

と出典が書かれていました。
○をつけた人は、『後三十六人撰』と共通、15人ですので半数ですね。

この人たちを撰んだ藤原範兼については、手にとれた本の中で詳しく分かる記述はありませんでした。1107年の生まれですから、公任の時代から一世紀強を隔てた後の世代です。弟の藤原範季のほうが、その娘たちが後鳥羽の乳母になったこと等で有名です。その弟範季が10歳のとき父が亡くなり、兄である範兼が養子として範季を引き取ったのだそうで、系図上、範季は範兼の子ということになります。また、範兼の娘、範子は、平家政権下で栄進した能円(平家没落後凋落も、範子の連れ子だった在子は土御門天皇を産んだ)の妻となった旨、角田文衞『平家後抄』に記載されています。範兼が『後六々撰』で撰んだ三十六人が中古三十六歌仙としてそれなりに知られるようになったのは、このあたりの人的な関係もあったのでしょうか。
その『後六々撰』ですが、しかし、通して読むと、・・・いい歌を撰んであるのですけれど・・・だんだん気が抜ける気持ちになってしまいます。
というのも、和泉式部の歌を10首連ねるところから始まって、次の相模も10首なのですが、その次からは8首歌4人、6首歌2人、5首歌2人、4首歌6人、3首歌12人、2首歌8人、と、作者毎の歌が尻すぼみに減って行く並べ方になっていて、最後が清少納言の2首で終わっていて、「清少納言、ダメ歌人なんかい!」みたいな印象さえ受けかねないのです。清少納言、そんなことないとおもいます!
(『群書類従』第十輯 和歌部 所収)

具体的な内容は省きます。

『群書類従』第十輯は、このあとに『新三十六人撰』を収録していますが、『百人一首』よりも後の1252年頃の成立だそうなので、採り上げません。


ところで、公任の『三十六人撰』の、この三十六という数ですが、どういう意識で選ばれた数なのだろう、と、ずっと謎に思っています。
ちょっとあたってみると、三十六は、(中国古代からの占いの)易では「坤」の卦に当たり、これは下から上に六つ並ぶ易占の象すべてが陰(数では六と表される)になっているもので、易のことば(卦辞)では「万事順調(元亨[おおいに通る)]と縁起のいいものだそうです(三浦國雄『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 易経』角川文庫 平成22年)。「三十六計逃げるに如かず」で有名な『兵法三十六計』も同じ文庫シリーズに収められていて、こちらは中国の古典ですが、その三十六という数字は易の影響で選ばれたものだ、との説明がありました。公任在世当時の平安貴族は具注暦に日記を書いていました。この具注暦は、奈良時代から陰陽寮(天文暦数のことを掌った)で編纂されていたものです。直接的には具注暦は「日書」とよばれる、日の吉凶を記した類いのもの(古代中国の例が二十世紀になって大量に発掘され実態が分かって来たようです)ですから、それと易との関係を突き詰めなければならないのですが、基本的なことからまだ、私の理解が追いついていません。とはいっても、陰陽寮に属する陰陽師たちは卜筮をも行なっていたのですから(和田英松『新訂 官職要解』p.86参照、講談社学術文庫621、1983年)、公任も、当時の他の人も、三十六を何らかの良い意味の数と捉えていた可能性はあり、易と「三十六」の選択に何らかの関係性があるのではないかなあ、と、今まだ漠然とではありますが、思っているところです。ただ、『三十六人撰』より前に日本で三十六を好んで用いた例が見つけられない等で、確かなことが分かりません。

数についてはまた考えることにして、次は、これが歌百首とか歌人百人になって行く様子を見ていきましょうか。
どうしましょうか。

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2019年3月 9日 (土)

三十六人撰② 各作者の歌の配列

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三十六人撰② 各作者の歌の配列
【百人一首はなぜ出来た(10)】

『三十六人撰』の、歌の配列も面白いので、見ておきます。(岩波文庫の樋口芳麻呂校注『王朝秀歌選』を参照しています。・・・百人一首はなぜ出来たんだろう、は、この本を手にしているうちに湧いて来た気持ちで考え続けています。)

いま、十首採られた人たちの歌の並び方を見ますと、次のようになっているのが分かります。
歌の頭に、その歌の季節や、あるいは旅であるか哀しみであるか、というところを、括弧書きで表します。
( )は勅撰集上での部立て、[ ]は私家集上でどうみえるか、もしくはこの撰集の中でどう見たら良いか、を、ちょっと考えて足したものです。(35の兼盛と36の中務については私家集を参照できませんでした。買うと高いし、図書館に行く間はないし・・・涙)

まず、1〜4の作者。例によって、作者の真作かどうかは不問です。


1【柿本人麻呂】
(春)昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり(拾3)
(春)明日からは若菜摘まむと片岡のあしたの原は今日ぞ焼くめる(拾18)
[春](名)梅の花それとも見えず久方の天霧る雪のなべて降れれば(古334)
(夏)ほととぎす鳴くや五月の短か夜も独りし寝れば明しかねつも(拾125)
(秋)飛鳥川もみぢ葉ながる葛城の山の秋風吹きぞしぬらし(古284)
(旅)ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ(古409)
(恋)頼めつつ来ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待つにまされる(拾848)*
(恋)あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(拾778)
(哀)我妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき(拾1289)
(冬)ものののふの八十宇治川の網代木にただよふ波の行方知らずも[人麻呂集206]

2【紀貫之】
(春)とふ人もなき宿なれどくる春は八重葎にもさはらざりけり[貫之集207]
(春)行きて見ぬ人も偲べと春の野のかたみに摘める若菜なりけり[貫之集3]
(春)花もみな散りぬる宿はゆく春のふるさととこそなりぬべらなれ(拾77)
(夏)夏の夜の臥すかとすれば時鳥鳴く一声に明くるしののめ(古156)*
(秋)見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり(古297)
(春)桜散る木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降りける(拾64)
[秋](雑賀)来ぬ人を下に待ちつつ久方の月をあはれと言はぬ夜ぞなき(拾1195)
(冬)思ひかね妹がりゆけば冬の夜の川風さむみ千鳥なくなり(拾224)
(哀)君まさで煙絶えにし塩釜のうら寂しくも見え渡るかな(古852)
(秋)逢坂の関の清水に影見えて今や引くらむも望月の駒(拾170)

3【凡河内躬恒】
(春)春たつと聞きつるからに春日山消え敢へぬ雪の花とみゆらむ(後2)
(春)香をとめて誰折らざらむ梅の花あやなし霞立ちな隠しそ(拾16)
[春](賀)山たかみ雲井に見ゆるさくら花こころのゆきて折らぬ日ぞなき(古357)
(春)我が宿の花見がてらに来る人は散りなむ後ぞ恋しかるべき(古67)
(春)今日のみと春を思はぬ時だにもたつこと易き花の陰かは(古134 巻軸歌)
(夏)時鳥夜ふかき声は月待つとゐも寝で明かす人ぞ聞きける(×)
(秋)立ちとまりみてを渡らむもみぢ葉は雨と降るとも水はまさらじ(古305)
(秋)心あてに折らばや折らむはつ霜のをきまどはせる白菊の花(古237)
(恋)我が恋は行方も知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ(古611)
(雑)引きて植ゑし人はむべこそ老いにけれ松の木高くなりにけるかな(後1107)

4【伊勢】
(春)青柳の枝にかかれる春雨は糸もて貫ける玉かとぞ見る[伊勢集101]
[春](賀)千年経る松といへども植ゑてみる人ぞ数へて知るべかりける[伊勢集184]
(春)春ごとに花の鏡となる水は散りかかるをや曇るといふらむ(古44)
(春)散り散らず聞かまほしきを古里の花見て帰る人も逢はなむ(拾 )
(春)いづくまで春は去ぬらむ暮れ果ててあかれしほどは夜になりにき[伊勢集115]
(夏)ふた声と聞くとはなしに郭公夜ふかく目をも覚ましつるかな(後172)
(恋)三輪の山いかに待ち見む年経とも尋ぬる人もあらじと思へば(古780)
(秋)移ろはむ事だに惜しき秋萩を折れぬばかりも置ける露かな(拾 )
(恋)人知れず絶えなましかば侘びつつもなき名ぞとだに言ふべきものを(古780)
(雑)難波なる長柄の橋もつくるなり今はわが身を何にたとへむ(古1051)

*:参照した家集にない歌


ここまで、どの作者の歌も、春に始まってほぼ季節順に歌が並び、それを締めるように恋や雑にあたる歌が置かれていることが見て取れます。ただ、それは歌の並びから来る何らかの、想定されているストーリー展開に左右されているようで、2の貫之の場合には、それによる並び方の乱れ(と言ってしまっていいのでしょうか)があったりします。
ともあれ、最初の4人については、勅撰集の部立ての配列にほぼ沿った歌の配列となっているところが、注目ポイントかと思います。

対する最後の二人はどうでしょうか?


35【平兼盛】
(冬)かぞふれば我が身に積もる年月を送り迎ふと何急ぐらむ(拾261)
(夏)[鳥]み山出でて夜半にや来つる郭公暁かけて声の聞こゆる(拾101)
[春][花]やま桜飽くまで色を見つるかな花散るべくも風ふかぬ世に
[秋][月]望月の駒引き渡す音すなり瀬田の長道橋もとどろに
(秋)[霜]暮れてゆく秋の形見に置くものは我が元結の霜にぞありける(拾214)
(別)[関]たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと(拾339)
(賀)[賀]今年生ひの松は七日になりにけり残りの程を思ひやるかな(拾269)
[春][雪]朝日さす峰のしら雪むら消えて春の霞はたなびきにけり
(春)[梅]わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ思ひのほかに君が来ませる(拾15)
(冬)見わたせば松の葉白き吉野山幾世積もれる雪にかあるらむ(拾250)

36【中務】
(哀)忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む(拾1312)
(春)[鳥]うぐひすの声なかりせば雪きえぬ山里いかで春を知らまし(拾10 朝忠)
(春)[花]石上古き都を来てみれば昔かざしし花咲きにけり(新古今88 読人不知)
[秋][月]更級に宿りは取らじ姨捨の山まで照らす秋の夜の月
(恋)[涙]さやかにも見るべき月を我はただ涙に曇る折ぞ多かる(拾768 信明への返し)
[旅][関]待ちつらむみやこの人に逢坂の関まで来ぬと告げややらまし
(秋)[賀]我が宿の菊の白露今日ごとに幾世積もりて淵となるらむ(拾184 元輔)
[秋][水]下くぐる水に秋こそかよふらしむすぶ泉の手さへ涼しき
(春)[桜]咲けば散る咲かねば恋し山ざくら思ひ絶えせぬ花のうへかな(拾36)
(秋)天の川河辺涼しきたなばたに扇の風をなほや貸さまし(拾1088)


この二人については、季節を初めとする部立ての順には、素直には並べられていません。
では何を基準に、と見直してみますと、頭から二番目で[ ]で括ったほうの、言ってみれば景物の類い(祝賀の気持ちである「賀」も景物の一環としてしまいます)であって、お互いの最初と最後の歌を除いた中8首については、読み込まれているものが同じであるか類似しているものが、同じ順番で並んでいることが分かります。
最初の歌は、兼盛は「冬」、中務は「哀傷」。
最後の歌は、兼盛は「冬(吉野の雪)」、中務は「秋(たなばた)」。
この配列の上にはまた、ある種のストーリーを読み取ることが出来る、とも感じます。

それぞれのストーリーについては、決めつけはしないでおきます。私には、ふさわしい読が出来ていないかもしれませんし。
どうぞ、ぜひ、お読みになって感じたところを大切になさって頂ければと思います。
詞書が一切付かないことも、読む人各々が心に描くストーリーを自由にする役目を果たしている気もします。これが詞書付きだったら、たとえば中務の「忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む」は「娘におくれたまひて」、すなわち女のお子さんに先立たれての歌ですから、まあそれを知っていてもいいのですが、その前に位置する平兼盛の「見わたせば松の葉白き吉野山幾世積もれる雪にかあるらむ」との繋がりからもたらされる、どこかぼんやりした寂寥感から、夢にしか見ないあの人に会いたい・・・あの人は「我が子」ではなく「恋人」・・・気持ちへと展開して行くのだ、みたいな想像の自由度は、詞書を知らないままでいるより落ちてしまうことでしょう。

ちなみに、これらの間に挟まれて3首ずつ採られている人たちの歌の並びを見ても、ちょっとしたストーリーがあるように受け止められるものもあります。こちらはしかも、前の人の最後の歌と次の人の最初の歌に関連性を感じる箇所もあります。

冒頭の十首歌の最後に位置する伊勢の歌の、その最後から、少し眺めてみます。


【伊勢】
難波なる長柄の橋もつくるなり今はわが身を何にたとへむ(古1051)
【家持】
新玉の年行き返る春立たば先づ我が宿に鶯は鳴け
さ牡鹿の朝立つ小野の秋萩に玉と見るまで置ける白露
春の野にあさる雉子の妻恋ひにおのが在処を人に知れつつ(拾21 春)
【赤人】
明日からは若菜摘まむと占めし野に昨日も今日も雪はふりつつ


伊勢の「何にたとへむ」の気持ちに対して答えを与えるような家持の「先づ我が宿に」が続き、鳴く「鶯」に対して次の歌に「さ牡鹿」を、さらに次の歌に「雉子」を配置し、前歌の「置ける」に対してまた「在処」を置いて繋げている。その家持の最後の歌の「春の野」が、赤人の最初の歌の「若菜」に繋がっていく。・・・みたいな読みかたはカングリに過ぎるでしょうか?
こうした連関は、三首歌群の中には多く見出せます。

もっとも、オリジナルのレイアウトは、二人の歌人が色紙様の紙面の上段と下段で対比されていたかと思われますので(いい画像を見つけていません)、そこにせいぜい歌合の趣向はあっても、果して次の二人にさらにつながっていると読んでいいのかどうかは、難しいところかもしれません。
家持の下段に配された赤人の最後の歌
【赤人】和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る
が、次の上段に来る業平の最初の歌
【業平】世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
とつながっている、と読むのは、無理がある気がします。
ここはオリジナルのレイアウトをにらみながら読めたら面白いかも知れません。

ここまで読んで来て、『前十五番歌合』、『三十六人撰』で、公任は初めて「人」に重点を置いた撰歌を人々に示した、と言っていいのかな、と、思います。
「歌そのもの」の重視、という点では、まだ『和歌九品』のように歌論的なものを前面に出した著作では、たしかに「歌そのもの」重視の姿勢は強まっているのではありますが、僅かな歌を例示として挙げるにとどまっています。
では、『前十五番歌合』のほうが「歌そのもの」重視に近いのかな、というと、そうとも言い切れません。。部立てが見える配置が出来ない形ではありながら、『前十五番歌合』も、前後の歌の繋がりを見ると、『三十六人撰』のうちの三首歌群よりもやや緊密度の高いストーリー性が見えてくるからです。(そういえば、この前言い忘れましたが、『三十六人撰』の人の並べられ方は『前十五番歌合』と非常に良く似ています。)
徹底して「歌そのもの」を重視するのだ、という姿勢は、紀貫之の『新撰和歌』が先行例で既に存在していて、公任的なストーリー性が皆無とは言えないにしても、これは作者名もまったく記されずに歌が「春・秋」「夏・冬」等々と、延々と交互に並べられているわけです。たとえば冒頭。

  春秋
袖ひちてむすびし水の氷れるを春立けふのかせやとくらん
秋きぬとめにはさやかにみえねとも風の音にぞ驚かれぬる
春霞たてるやいつこみよし野のよしのゝ山に雪はふりつゝ
わきも子か衣のすそを吹かへしうらめつらしき秋のはつ風
春毎にかそへしこまに人ともに老そしにけるみねの若まつ
・・・等々
(『群書類従』第十輯 和歌部)

それでもいちおう、ストーリー性があるところに、公任の撰集には貫之の『新撰和歌』の後継を成してはいる、と見れば見られぬこともないと思っておくことにします。

ともあれ、公任の撰集の底流には、最初に見ておいた、かの後鳥羽上皇が隠岐島で書いた新古今への識語、
「たちまちにもとの集を捨つべきにはあらねども、さらに改め磨けるはすぐれたるべし(即座にもとの集を捨ててしまうべきではないのではあるが、さらに改めて磨いたものは、より優れていることだろう)。」
の精神に引き継がれる、歌の集からさらに純化することを目指した撰歌の精神が、確かに芽生えているように、私には感じられます。
それがたとえ『古今集』の緊密な歌配列ほどデリケートには出来なかったにせよ、十首採った人々の歌の並べ方を見ただけでも、なんとか密度を濃くしようと狙ったものであることが明らかであると思われます。
ここに至る試行錯誤は、おそらく先行して成立した『金玉集』・『深窓秘抄』でなされていたと見るべきかと思います。

駆け足の、浅い観察でした。

さて、歌人とか歌仙という言葉がどういう基準で用いられて来たのか、私にはよく分かりませんで、ただ古今集真名序に「歌仙」の文字があり、その訳語としてでしょうか、仮名序に「うたのひぢり」とあるのを見るばかりです。
周知のように、公任が『三十六人撰』で採った作者たちは、後の時代に「三十六歌仙」と称されることになります。ですので、もう、以後は歌仙の言葉は普通に使おうかと思います。
また、ほとんど全ての作者が歌を専門に詠む人だと見なされていることもありますから、作者、と言わず、歌人でよかろうか、とも思います。
ほんとうはこうした言葉についても謂れを知りたい気持ちはあったのですが、これはちょっと非力な素人には無理でした。。。

で、百人一首に至っては三十六人ならぬ百人の歌人が採られているわけです。
百人一首はなぜ百首か、も考えて行きたいのではありますが、まずは人の数が百人に至る経過を見たいと思いますので、この次は『後十五番歌合』や『後六々撰』なる撰集を見てみたいと思っております。

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2019年3月 2日 (土)

三十六人撰① 人選と出典

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三十六人撰① 人選と出典

百人一首はなぜ出来た(9)〜前置き話がもう9つめ(>_<)

さて、三十六人撰です。
どうせ深追いは出来ないので、もっとさらっとここまでたどり着くはずでしたが、浅追いでもここまでかかってしまいました。かつ、2回に分けなければいけません。理由は、まず三十六人がどういう基準で選ばれているかを見たいし、歌の出典の様子・・・どうせ特定は出来ない・・・にも見当を付けておきたいこと、次に、この三十六人やそれぞれの歌がどんな意図で並べられているかもちょっとは知りたいこと。これを両方いっぺんにやるのは、ちと無茶です。

なので、最初に、人選と出典について見通したいと思います。

まず、人選は、たぶんそれまでの勅撰集(三代集)に大きく関わった人が中心なのではないか、と仮定して、それぞれの作者の三代集での位置づけを、ざっと眺めてみました。
すると、以下のようになります。

【人】
01~04と35~36は『三十六人撰』に十首収録される人、その間の05~34は収録が三首までの人なので、間に空行を挟みました。
古今集仮名序に現われる人はその旨を記し、古今集と後撰集の撰者についても同様としました。他の人物には原則として三代集のいずれに初出か、その初出勅撰集に何首採られているかを記しました。
(人名の前に【】で記したのは初出の三代集で、古=古今集、後=後撰集、拾=拾遺集です。人名の前の○は、『前十五番歌合』非登場を表します。)

 【拾】01. 人麻呂:柿本人麻呂~古今集仮名序「ならの御時」1(古今集作者異伝)。作者名明記は拾遺集から。万葉集の歌人
 【古】02. 貫之:紀貫之~古今集撰者2
 【古】03. 躬恒:凡河内躬恒~古今集撰者3
 【古】04. 伊勢:(~古今集22首)

○【拾】05. 家持:大伴家持(拾遺集初出、3首)万葉集の歌人
 【拾】06. 赤人:山部赤人~古今集仮名序「ならの御時」2(拾遺集初出、3首)万葉集の歌人
 【古】07. 業平朝臣:在原業平:~古今集仮名序「近き世にその名聞こえたる人」2
 【古】08. 遍昭僧正:僧正遍昭~古今集仮名序「近き世にその名聞こえたる人」1
 【古】09. 素性(~古今集37首)
 【古】10. 友則:紀友則~古今集撰者1
○【 】11. 猨麻呂:猿丸〜(古今集真名序には名前が登場)
○【古】12. 小町:小野小町~古今集仮名序「近き世にその名聞こえたる人」5
 【古】13. 兼輔卿:藤原兼輔(~古今集4首)
○【後】14. 朝忠卿:藤原朝忠(~後撰集4首)
○【後】15. 敦忠卿:藤原敦忠(~後撰集10首)
○【拾】16. 高光:藤原高光(~拾遺集4首)
 【後】17. 公忠朝臣:源公忠(~後撰集2首)
 【古】18. 忠峯:壬生忠岑~古今集撰者4
 【拾】19. 斎宮女御:徽子女王(~拾遺集5首)
○【拾】20. 頼基:大中臣頼基(~拾遺集2首)
○【古】21. 敏行朝臣:藤原敏行(~古今集19首)
 【拾】22. 重之:源重之(~拾遺集13首)
○【古】23. 宗于朝臣(~古今集6首)
○【後】24. 信明朝臣:源信明(~後撰集4首)
 【後】25. 清正朝臣:藤原清正(~後撰集8首)
 【拾】26. 順:源順~梨壺の五人1
○【古】27. 興風:藤原興風~(〜古今集17首)
 【拾】28. 元輔:清原元輔~梨壺の五人3
 【古】29. 是則:坂上是則(〜古今集3首)
 【 】30. 元真:藤原元真(~後拾遺[8首]まで入集なし)
 【拾】31. 小大君:(~左近名で拾遺集3首)
 【拾】32. 仲文:藤原仲文(~拾遺集3首)
 【拾】33. 能宣朝臣:大中臣能宣~梨壺の五人2
 【後】34. 忠見:壬生忠見(~後撰集1首[拾遺集14首])

 【拾】35. 兼盛:平兼盛(~拾遺集38首)
 【後】36. 中務:(~後撰集初出、拾遺集14首)

まとめると
古今集仮名序登場者:5人
古今集撰者:4人
古今集初出:7人
後撰集撰者:3人
後撰集初出:6人
拾遺集初出:9人
その他  :2人(猿丸、元真)

それぞれの人の生没年に当たるまでもなく、人の並べかたは、厳密にではないにせよ、年代順を大まかに意図しているであることが分かります。なぜなら、前半が万葉集および古今集関連、中間が後撰集関連、後半は古今集収録歌の作者が混在しながらも拾遺集関連の人が、それぞれ集中している様子が見て取れるからです。

01~04は十首収録の万葉・古今の作者で、古今集の仮名序(本当は真名序も)に関わるか、撰者である人または撰に主要な役割を果たした人(伊勢)です。
ここまででいったん完結して、05はあらためて万葉の作者から始まります。

04までを含め、古今集の撰者は、すべて含まれています。古今集仮名序に「ならの御時」の人として登場する人麻呂と赤人は、両者とも登場します。批評対象として現われる6人(いわゆる六歌仙)は、文屋康秀・喜撰・大伴黒主の3人を欠きます。いずれも他の3人に比べ古今集の収録歌数が少ない人で、康秀は五首、黒主が三首、喜撰は一首だけです。
猿丸は特殊例かと思いますが、別に述べます。

これが後撰集関係となると、撰者である梨壺の五人のうち、三人までしか採り上げられていません。なお、後撰集には撰者の歌は含まれない為、彼らの三代集初出は拾遺集となります。
後半登場の拾遺集関連は、05~34の作者は重之と壬生忠見のみが拾遺集にそれぞれ13首、14首と採られている他は、皆、5首以下となっています。それを見ると、35の平兼盛(38首)・36の中務(14首)は際だった存在だと言えるでしょう。かつ、36の中務は、冒頭部で十首収録されている04伊勢の娘であることも、注目しておいていいのかも知れません。

拾遺集と関連して面白いのは、3首歌群最初の大伴家持は万葉集のひとであるにもかかわらず、三代集の中では、最後の位置にある拾遺集で初めて3首採られたのだ、という事実です。これは『三十六人撰』の歌の出典と関わるものと見なせる気がします。
三代集には名前の現われない猿丸も、この点では興味深い存在です。
猿丸を除けば、皆、古今集~拾遺集収録の歌の作者であることが分かりますが、それでも拾遺集所載の歌の作者については、必ずしも拾遺集の中で抜きん出ているわけではないところ、本当は作者の来歴まで見て『三十六人撰』で選ばれている理由を探るべきところかと思います。あるいは、時代が入り交じって人が並べられているところ(26~30)にも注目が必要そうですが、まずはここまでとします。

ということで、次に、出典について、ちょっと考えます。

【出典】
先のそれぞれの作者の『三十六人撰』での歌が、三代集のどれに掲載されてたものが何首あるか、を表にします。
古=古今集、後=後撰集、拾=拾遺集です。×は三代集にはない歌の数です。
×のうち、『前』は、『前十五番歌合』に載っているものです。三代集所載で前十五番にある場合については記しません。
その他参考事項があれば末尾に記します。
人は初出の三代集がどれか、で並べ替えました。

【古】02. 貫之  :古=3、後=0、拾=5、×=2
【古】03. 躬恒  :古=6、後=2、拾=1、×=1
【古】04. 伊勢  :古=4、後=1、拾=2、×=3
【古】07. 業平朝臣:古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】08. 遍昭僧正:古=1、後=1、拾=0、×=1(『前』)
【古】09. 素性  :古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】10. 友則  :古=2、後=0、拾=1、×=0
【古】12. 小町  :古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】13. 兼輔卿 :古=1、後=1、拾=0、×=1
【古】18. 忠峯  :古=0、後=1、拾=2、×=0
【古】21. 敏行朝臣:古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】23. 宗于朝臣:古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】27. 興風  :古=3、後=0、拾=0、×=0
【古】29. 是則  :古=1、後=0、拾=1、×=1
【 】11. 猨麻呂 :古=3、後=0、拾=0、×=0(全て読人不知歌)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
【後】14. 朝忠卿 :古=0、後=0、拾=2、×=1
【後】15. 敦忠卿 :古=0、後=1、拾=1、×=1
【後】17. 公忠朝臣:古=0、後=1、拾=2、×=0
【後】24. 信明朝臣:古=0、後=2、拾=0、×=1
【後】25. 清正朝臣:古=0、後=0、拾=0、×=3(2首め『前』)
【後】34. 忠見  :古=0、後=0、拾=2、×=1
【後】36. 中務  :古=0、後=0、拾=6、×=4
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
【拾】01. 人麻呂 :古=3、後=0、拾=6、×=1
【拾】05. 家持  :古=0、後=0、拾=1、×=2
【拾】06. 赤人  :古=0、後=0、拾=0、×=3(拾遺集参考1)
【拾】16. 高光  :古=0、後=0、拾=2、×=1
【拾】19. 斎宮女御:古=0、後=0、拾=3、×=0
【拾】20. 頼基  :古=0、後=0、拾=1、×=2
【拾】22. 重之  :古=0、後=0、拾=1、×=2
【拾】26. 順   :古=0、後=0、拾=2、×=1
【拾】28. 元輔  :古=0、後=0、拾=2、×=1(『前』)
【拾】31. 小大君 :古=0、後=0、拾=2、×=1
【拾】32. 仲文  :古=0、後=0、拾=2、×=1
【拾】33. 能宣朝臣:古=0、後=0、拾=3、×=0
【拾】35. 兼盛  :古=0、後=0、拾=6、×=4
【 】30. 元真  :古=0、後=0、拾=0、×=3(1首め『前』)

古今集収録の歌が42(28%)、後撰集収録の歌が10(7%)、拾遺集収録の歌が56(37%)、三代集にない歌が42(28%、うち4首は『前十五番歌合』所載)。後撰集所載歌が極端に少なくなっています。後撰集初出の7人の歌21首に限っても、当の後撰集所載は4首であるのに対し、拾遺集所載は13首です。
また、三代集非所載歌が3割あります。うち4首は、『前十五番歌合』所載歌です。
拾遺集関連は、本当は拾遺抄と対照する必要もあるのですが、今、この手順は省いています。
このことから、出典は、後撰集に近いものはほとんどなく、古今集と拾遺集、とくに後者に近しいもの、その中に『前十五番歌合』と共通するものが用いられていることが窺われます。

推測するに、公任は拾遺抄の選歌をするのに使用したのと同等の資料を主に用いたのでしょうが、それは各作者の家集のようなものだったのでしょうか。

このことは特に、古今集の撰者でありながら古今集よりも拾遺集から多く歌を選ばれている紀貫之を観察して感じるところなのですが、選ばれている中で三代集にない二首は、確かめますと、『貫之集』にあるものです。

伊勢については古今集から4首、後撰集から1首、拾遺集から2首、と、三代集からもまめに選ばれていますが、三代集にない3首は『伊勢集』所載です。

万葉歌人である人麻呂、家持、赤人は、作者名の明示は『拾遺集』にはじまっていますので、やはり拾遺集関連の出典と同じものが参照されていると思われますが、こちらは少なくとも活字で手軽に読める『和歌文学大系』所収のそれぞれの家集には上がっていない歌が含まれていて、かつ、それらの歌は、この三人の間で作者に揺れがあったりします。
(人麻呂の最初の歌は『人麻呂集』にも『赤人集』にも載っています。)
(家持の1、2首めは『家持集』にも他二名の家集にもなく、3首めは『赤人集』のほうにあります。)
(赤人の1首めは『赤人集』にも他二名の家集にもなく、二首めは『赤人集』にも『家持集』にもあります。)

興味深いのは猿丸で、選ばれている歌は3首とも、古今集に読人知らずとして載っているものです。また、猿丸という名前は、三代集のいずれにも作者名としては出てきません。猿丸の人名にひもづくのは『猿丸集』だけです。この『猿丸集』の成立は、古今集以降と推測され、公任が『三十六人撰』で選んだ3首は『猿丸集』もしくはその粗本を考慮に入れた撰歌だと推測されています(鈴木宏子氏、『和歌文学大系 18』解説)。猿丸は、人麿の「人」に対する「猿」を冠した名前で、実在の人の名前ではない、とする観察が、近年ではもっぱらであろうかと思いますが、だとすると、この人名は「読人知らず」の魂の集合体を表すものでもあったのでしょうか?

これら、家集から『三十六人撰』に選ばれたとおぼしき人たちの歌で、とくに10首選ばれている人麻呂(仮託ふくむ)・貫之・伊勢については、その歌の並べられ方にも、また最終の兼盛・中務と対比しても、さらに興味深いことがありますので、あらためてそれに触れることにします。それを最後に、公任さんとはいったんさようなら、かな?(笑)

参照した家集のそれぞれの底本は、以下のとおりです。
『人麻呂集』=書陵部蔵本
『赤人集』=西本願寺本三十六人集系
『家持集』=西本願寺本三十六人集系
『貫之集』=正保版歌仙家集本
『伊勢集』=西本願寺本三十六人集系、『伊勢集』の粗本は『後撰集』成立後、伊勢に非常に近しい人の手になるものと推測されています。
『猿丸集』=書陵部蔵本(御所本三十六人集)

追伸)
文庫になった片桐洋一『古今和歌集前評釈』(講談社学術文庫、2019年2月)の、上巻だけで1092頁という分量に圧倒される本の、その上巻に恐る恐る手を出して、詳しいご説明のなかに、古今集仮名序の古注は公任さんが記したものだ、との伝承もあることを初めて知り、ビックリ仰天しました。またいつか追求したい気持ちがわいております。それはともかく、仮名序の読解に関してだけでも、単に目から鱗が落ちるだけでなく、分量から「衒学的だったりしないだろうか」との先入観を持って読み出すと、まるでその逆で、むしろ、この分量だからこそ過去の衒学的な垢を削ぎ落とせるんだ、と知らされるほど、有益な書であることが分かり、ちょっと感激しております。私なんぞに理解できるかどうか、ではありますが、何ヶ月かかけて、全三冊を読んでみたいと思い始めているところです。・・・あ、上巻を読み終えてから中巻を買うことにします。でないと積ん読必至なので。
また、伊勢やその家集のことを少し知りたくて古本屋さんで見つけた、山下道代『伊勢集の風景』(臨川撰書24、平成15年)は、伝記を追いかけただけだと浮き彫りになりにくい伊勢の気持ちの襞や、伊勢集に混入している他人の歌の読み取りまでを含めて、
「歌ってこんなふうに読むと私たちにも随分と身近になるのね」と思わされる、魅力的なエッセイで充ちていて、分からん物好きがたまたま和歌関連を知りたい、と考えなければ出会えなかっただろうと感じつつ、嬉しく拝読しました。
この二著作は、ぜひお勧めします。

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2019年2月21日 (木)

公任の和歌撰集~前十五番歌合までの編作順について

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公任の和歌撰集~前十五番歌合までの編作順について

【百人一首はなぜ出来た(8)】〜まともに先へ進むのだろうか?

サラリーマンですし、素人ですし、和歌を知ってるわけでもないし、脱線しながら間違いながら(本人は楽しんで)やってます。なんにつけてもそうやってます。そこ大事です(笑)。
もともと「百人一首ってなんで百首なんだ?」程度の疑問から始めたのだったし、いろいろ読むと「あ、なんだ、こんなこと、詳しい人はとっくに分かってるんじゃん」と思うのですが、たいしためっけもんもなく今昔物語集に野次馬したり、勅撰集の作者の数を数えたり、公任さんの人柄へと脇道に逸れたり、が案外面白くて、だらだらここまできました。まあ、誰も読んでくれなくてもやるって感じやってます。

で、そもそも『百人一首』のような撰歌集が出来た大元のアイディアは、どうやら公任さんの『前(さきの)十五番歌合』とか『三十六人撰』らしい、と、岩波文庫の『王朝秀歌選』の解説から勘ぐったのが、私の公任さん追っかけのきっかけになって、ここまで来たのでした。
とりあえず『百人一首』云々はしないで、公任さんの撰歌集を眺めるのが、公任さん追っかけの最終目標です。

さて、『拾遺抄』と『和漢朗詠集』は別として、藤原公任の手になる和歌撰集は4つあります。
『後拾遺和歌集』の序に、
「大納言公任朝臣(中略)わが心にかなへる歌一巻を集めて深き窓にかくす集といへり。今も古へもすぐれたる歌を書き出だして、こがね玉の集となむ名づけたる。」
と言及されている『深窓秘抄(しんそうひしょう)』と『金玉集(きんぎょくしゅう)』は、いずれも歌を春夏秋冬恋雑と部立順にならべたもので、残りの『前十五番歌合』は三十人の作者の歌をそれぞれ一首ずつ左右に番えたもの、『三十六人撰』は文字通り三十六人の作者の和歌を6人の作者については10首ずつ、他の作者30人については3首ずつ選んで合計150首を載せたものです。
以上のうち『金玉集』については、『梁塵秘抄』巻第一のなかでも
「聞くにおかしき和哥の集は、後撰古今拾遺抄、新撰金玉朗詠集、六帖前後の十五番」
と、紀貫之の『新撰和歌』、公任自身の『和漢朗詠集』と並んで歌われていて、わりと流布していたものかと思われます。

『深窓秘抄』と『金玉集』は、後拾遺の序にこの順で現われること、前者のほうが歌数がやや多く、後者のほうが整理された印象を受けたことから、この順番で作られたもの、と思っておりました。
かつ、「『前十五番歌合』の三十首中二十二首までが『金玉集』に見出され」(樋口芳麻呂『王朝秀歌選』解説、岩波文庫p.219 1983年)、『前十五番歌合』は『金玉集』に負うところが多いと考えられています。
これを念頭に『深窓秘抄』も併せて読んで行っているうち、もしかしたら時系列が違うんじゃないかな、と感じるようになりました。
いま、公任編の4つの和歌撰集の出来た時系列は、私は
『金玉集』~『前十五番歌合』~『深窓秘抄』~『三十六人撰』
と考えているところです。(『後十五番歌合』は『前十五番歌合』の続編の性格を持ちながらも、公任撰ではあるまい、とも、いや、公任撰だ、とも、意見が分かれていますので、今は考えないことにしました。)

こんな時系列で考えるようになった理由を述べてまいります。

公任の小規模な和歌撰のゴールと見てよいかと思われる『三十六人撰』は、巻頭を柿本人麻呂の十首、続けて紀貫之の十首で飾っています。この理由は明確になっているようです。
『前十五番歌合』では、巻頭を飾っていたのは貫之のほうでした。それが不満だった具平親王が公任と人麻呂と貫之の優劣論を交わし合い、二人の間で人麻呂・貫之十首歌合が行なわれた結果、人麻呂の圧勝となって、公任は人麻呂の価値に蒙を啓かれた、と、『袋草紙』等が伝えている由(『王朝秀歌選』三十六人選前説、巻尾解説参照)。
すると、ここでのポイントは、『三十六人撰』では巻頭に人麻呂の歌が配されている、というところとなります(人麻呂の真作かどうかは別の話で、あくまで作者名として人麻呂が最初に現われるのがポイントです)。

このことを念頭に『深窓秘抄』と『金玉集』を眺めてみましょう。

後者の『金玉集』の巻頭歌は、凡河内躬恒のものです。躬恒は、『前十五番歌合』で、いの一番に貫之と番えられている作者です。一方、『深窓秘抄』の巻頭歌の作者は、「ひとまろ」です。

※『金玉集』収載の78首の和歌で、「雑」の部に入る32首(別歌10首を含む)のうち16首(内別歌3首)が詞書を持ちます。春の部の3首(22首中)も詞書を持ちます。一方、『深窓秘抄』収載の101首の和歌で詞書を持つものは、ひとつもありません。『深窓秘抄』は歌そのものにだけ着目していることがあきらかです。

※それぞれの集の構成歌と『前十五番歌合』収載の歌との関連も見てみましょう。
『金玉集』と『前十五番歌合』に共通する歌は、『王朝秀歌選』の解説にもあるとおり、22首です。では、共通しない8首については、どんな現象が見られるでしょう?
具体的に歌を眺めておいたほうがはっきり分かりますので、『前十五番歌合』を載せます。歌の末尾に「金」とあるのは『金玉集』に、「窓」とあるのは『深窓秘抄』に載っているものです。その後の数字は、『金玉集』にはない歌に順に番号を振ったものです。


『前十五番歌合  上古』
 ~古典文庫の表記に依り、漢字は分かりやすいものにしました。

  一番
                   貫 之
桜ちる木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降ける (金・窓)
                   躬 恒
我宿の花みがてらに来る人はちりなん後ぞこひしかるべき(金・窓)

  二番
                   素 性
いまこんといひしばかりに長月の有明の月を待出るかな(金・窓)
                   伊 勢
ちりちらずきかまほしきを古郷の花みて帰る人もあはなん(金・窓)

  三番
                   業 平
世中に絶て桜のなかりせば春の心はのどけからまし(金・窓)
                   遍 昭
末の露もとの雫や世中のをくれさきだつためしなるらん(窓)1

  四番
                   忠 岑
春たつといふばかりにやみよしゝの山も霞て今朝はみゆらん(金・窓)
                   能 宣
ちとせまでちぎりし松もけふよりは君にひかれて万代やへん(金・窓~春)
(金玉集=千とせまでかぎれる松も イ)

  五番
                   公 忠
行やらで山路暮しつ郭公今一声のきかまほしさに(金・窓)
                   忠 見
さ夜更てね覚ざりせば郭公人伝にこそきくべかりけれ(金・窓)

  六番
                   兼 輔
人の親の心はやみにあらね共子を思ふみちにまどひぬる哉(窓)2
              土御門中納言朝忠
あふことの絶てしなくば中々に人をも身をもうらみざらまし(金~冬・窓~秋)

  七番
                   友 則
夕さればさほのかはらの河ぎりに友まどはせる千鳥鳴也(金~冬・窓~秋)
                   清 正
天津風ふけ井の浦にゐる田鶴のなどか雲ゐにかへらざるべき 3

  八番
                  小野小町
色みえでうつろふ物は世中の人の心の花にざりける 4
                   元 輔 
秋の野の萩のにしきを我やどに鹿の音ながらうつしてしがな 5

  九番
                   惟 則
みよしのゝ山の白雪つもるらし古さと寒く成まさる也(金・窓)
                   元 真
としごとの春のわかれをあはれとも人にをくるゝ人ぞしりける(金~雑・窓~雑)

  十番
                   仲 文
有明の月の光をまつほどにわがよのいたくふけにける哉(金~雑・窓~雑)
                   輔 昭
まだしらぬ古里人はけふまでにこむとたのめし我を待らん(金・窓)

  十一番
                  斎宮女御
琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけん(金~雑・窓~雑)
                   小大君
岩はしの夜の契りも絶ぬべしあくるわびしきかつらぎの神(金・窓)

  十二番
                  傅殿母上
嘆きつゝ独ぬるよのあくるまはいかに久しき物とかはしる 6
                  帥殿母上
わすれじの行末まではかたければけふを限りの命とも哉 7

  十三番
                   重 之
やかずとも草はもえなん春日野をたゞ春の日に任せたらなん(金・窓)
                   順
水の面にてる月なみをかぞふればこよひぞ秋の最中成ける(窓~秋)8

  十四番
                   兼 盛
かぞふれば我身につもる年月ををくりむかふと何いそぐらん(金~冬・窓~冬)
                   中 務
うぐひすの声なかりせば雪きえぬ山里いかで春をしらまし(金・窓)

  十五番
                   人 麿
ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島かくれ行舟をしぞ思ふ(金・窓)
                   赤 人                   
和歌の浦に汐みちくればかたをなみ蘆べをさして田鶴鳴渡る(金・窓)


以上、『金玉集』にはない8首のうち、『深窓秘抄』には載っているものが3首あります。遍昭の和歌(1)は後に新古今に入集するもの、兼輔(2)は後撰集に既出、順(したごう、8)は拾遺抄にあるもので、そのまま拾遺和歌集に取り入れられています。
『深窓秘抄』にも載っていない5首のうち、3首が女性の作者です。
この女性の作者たちについて見ますと、小野小町と帥殿母上は『金玉集』でも『深窓秘抄』でもまったく採り上げられていません。傅殿母上は『金玉集』雑の部の12首めと、『深窓秘抄』雑の部の後ろから3番目に、べつの歌が載せられています。『金玉集』と『深窓秘抄』で比べても、傅殿母上の歌は違うものです。
残り二人の男性の作者のほうも見ておきますと、元輔が『金玉集』雑の部に、清正が『深窓秘抄』では秋の歌に登場します。『三十六人撰』には双方とも現われます。

※戻りますと、読人知らずの歌は、『金玉集』には10首、『深窓秘抄』9首で、数の面では差異がありません。

女性の作者について登場順に並べて見ておくと、
『金玉集』~中務・伊勢・斎宮女御・傅の殿の母(傅殿母上)・小大君・遊女しろめ
『深窓秘抄』~中務・伊勢・愛宮(源高明室)・斎宮女御・小大君・白女(遊女しろめ)・傅母氏(傅殿母上)
で、双方で若干の揺らぎがありますが、同じ作者の登場順は両者でほぼ同じです。ついでながら、これらの人々の中から『三十六人撰』に残ることになる女性作者は、伊勢・斎宮女御・中務の3人で、これに『金玉集』にも『深窓秘抄』にもあらわれない小野小町が加わります。先に言いましたように、小野小町は『前十五番歌合』には登場します。

以上をまとめてみますと、
1)『深窓秘抄』が巻頭に人麿歌を上げている
2)『深窓秘抄』は詞書を排して歌を掲載しており、『十五番歌合』や『三十六人撰』の姿勢に近い
3)『十五番歌合』の歌で『金玉集』にない8首のうち3首が『深窓秘抄』にはある
4)ただし、読人知らずの歌数、女性の作者の採り上げ方に『金玉集』と『深窓秘抄」では大きな差はなく、両集に未掲載の男性作者は各集でひとりずつ載っている
という具合です。男性作者2名は『三十六人撰』でどちらも採り上げられますので、『金玉集』も『深窓秘抄』も、いずれも『三十六人撰』より前に編まれたと推測しても、妥当性の保証はないものの、不自然にはならないと思います。

1)からして『深窓秘抄』は人麻呂に重きをおくようになってからの撰歌集とみてよいのではないかと思われますし、すると『前十五番歌合』よりは後に位置づけられることになると考えたいところです。
2)からは『深窓秘抄』が『前十五番歌合』と同じような時期に考えて編まれたもののように見え、かつ3)からも『前十五番歌合』と密接な関係にあることが窺われるようであり、4)から『深窓秘抄』はこのようなタイミングで『金玉集』を下敷きに編まれたものであると見なせるかと思います。
以上から、おのずと
『金玉集』~『前十五番歌合』~『深窓秘抄』~『三十六人撰』
の編著の時系列が導かれるものと考えます。

難点がありまして、群書類従に載った『金玉集』では最初に「倭歌得業生柿本末成撰」との署名があり、この署名に人麻呂尊重の意志がみてとれることです。これが『金玉集』を人に写させるようになってからわざと加えた署名なのだ、と言える証拠はどこにもありません。ただし、下にリンクを上げる書陵部蔵の写本にはこの署名はありません。

『前十五番歌合』の和歌の性質について、ひとことだけしますと、歌の上三句の「本(もと)」に作者の思いが述べられたものは三十首中に一首もありません。思いはみな「末(すゑ)」で表明されています。これは公任が『新撰髄脳』で
「いにしへの人おほく本(もと)に歌まくらを置て、末に思ふ心をあらはす。さるをなん、中頃よりはさしもあらねど、はじめにおもふ事をいひあらはしたる、なほつらき事になんする。」
と述べていた価値観に、ぴったり添っていると言ってよいでしょう。

なお、『深窓秘抄』『前十五番歌合』のそれぞれの歌について説明したサイトは、検索するといくつも見つかります。歌そのものを味わうには、そうしたサイトを探して下さいませ。

歌の解説:
『前十五番歌合』 https://mukei-r.net/waka-kintou/15ban-utaawase.htm
『深窓秘抄』 https://mukei-r.net/waka-kintou/sinsou-hisyou.htm

前十五番歌合の写本の画像:
国文学研究資料館(肥前松平文庫) http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0358-16709&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%89%8D%E5%8D%81%E4%BA%94%E7%95%AA%E6%AD%8C%E5%90%88%EF%BC%8F%E5%BE%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E7%95%AA%E6%AD%8C%E5%90%88%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=1

金玉集の写本の画像:
宮内庁書陵部(柿本末成撰の語なし) http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-32012

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2019年2月16日 (土)

公任の和歌観

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公任の和歌観

【百人一首はなぜ出来た(7)】~ちょっとだけ前進?

(片桐洋一『古今和歌集全評釈』が全三巻で講談社学術文庫になりましたけど・・・あたしゃこれは読み切れそうにないや 涙)

人生の半ばから藤原道長への追従に生きて世の顰蹙も買った、とか、道長息の経通さんに嫁がせた娘さんが亡くなると世間への執着も失せて出家した、とか、馬鹿息子を溺愛していた、とか、そんなあたりまで詮索するのは目的ではないので(詮索してるって 笑)、公任さんがどんな人だったか、への野次馬は終わりにします。私たち素人でも読める伝記は絶版となった『王朝の歌人7 余情美を歌う 藤原公任』(小町谷照彦 集英社 1985)くらいしか見つけられませんでしたが、公任の和歌を中心に、その内面をも窺わせてくれる、良い本でした。ご興味があったら読んでみて下さい。

公任と言えば和歌、和歌と言えば公任、という評価は同時代人に定着していたもので、『枕草子』には清少納言が公任から人づてに「すこし春ある心地こそすれ」と書かれた懐紙を渡され、思案の末に上の句を「空さむみ花にまがへてちる雪に とわななくわななく」書いて返事に渡して、「いかに思ふらんとわびし」と複雑な心境に陥った話がありますし(百六段「二月つもごり頃に」)、『紫式部日記』にも、道長の娘、彰子が一条天皇の皇子を産んだ後の産養(うぶやしなひ)の祝宴に公任も臨席して歌の会があって、そのとき女房たちが公任に「盃を受けて歌を詠め」と指名を受けたらどうしようか、「歌をばさるものにて、声づかひ用意すべし(歌はひとまずどうであっても、発声とかイントネーションとかは良くできるように準備しておかなくっちゃ)、とささめきあらそふ」状態だったことが書かれています(岩波文庫版ならp.25)。こうした公任の名声は、第三の勅撰集である拾遺和歌集の母体となった拾遺抄を編んだのが公任その人だったことでいっそう定着してもいたのでしょう。やはり『紫式部日記』に、「よべの御おくり物(中略)つくりたる御冊子ども、古今後撰拾遺抄」(岩波文庫版 p.49)の記述があるところから、拾遺抄の世間での評価の高さが窺われますし、当然、その編者も高く評価されていたと言って差し支えないかと思います。

評価の高い公任が他にも和歌の撰集を著していたとなると、そこに反映された和歌観は、同時代を代表するものとなった、と考えても良いのではないか、と思われます。あるいはまた、その時代の和歌観の代表的なものが、公任の和歌撰に浸透している、と見てもいいのかも知れません。
漢詩と和歌が声に出して歌われることを目的とした『和漢朗詠集』については、今は視野の外に置きます。
和歌だけの撰集は、『深窓秘抄』~『金玉集』(重箱読み禁止!)~『前十五番歌合』~(『後十五番歌合』~)『三十六人撰』と、おそらくこういう流れで、公任の手で編まれて行くことになりますが、この流れの中で公任は何を基準にしながらどう考えを整理発展させていったのでしょうか。

公任には「歌とはこういうもの」を簡潔にまとめた『新撰随脳』(随脳=奥義、心髄)という著作があります。公任が大きな役割を果たした『拾遺和歌集』の次の勅撰集『後拾遺和歌集』序文に、公任が「ここの品のやまと歌を撰びて人にさとし」た、とある『和歌九品』で、公任は具体的に十八首を二首ずつ上品上、上中、上下、中上、中中、中下、(下)上、下中、下下と並べて和歌のあるべき姿を呈示している(「上品上 これはことばたへにしてあまりの心さへある也。・・・下下 詞とどこほりておかしき所なき也」)のですが、では歌は具体的にどう詠めば良いのか、を綴ってあるのが『新撰随脳』です。そんなに長いものではなく、次に掲げる冒頭部以降は具体的に歌を上げながら方法論とでも言うべきものを展開しています。
基本的にはこの冒頭部が公任の言いたいことの骨子となっています。

歌のさま三十一字惣して五句あり。上の三句をば本(もと)と云、下の二句をば末といふ。一字二字のあまりたりとも、うちよむに例にたがはねばくせとせず。凡(およそ)歌は心ふかく姿きよげにて、心にをかしき所あるを、すぐれたるといふべし。事多く添(そへ)くさりてやと見ゆるがいとわろきなり。一筋にすくよかになんよむべき。心すがたあひぐする事かたくば、まづ心をとるべし。つひに心深からずば、姿をいたはるべし。そのかたちといふは、うちきゝきよげに故ありて、文字はめづらしく添へなどしたる也。ともにえずなりなば、いにしへの人おほく本(もと)に歌まくらを置て、末に思ふ心をあらはす。さるをなん、中頃よりはさしもあらねど、はじめにおもふ事をいひあらはしたる、なほつらき事になんする。

(現代語訳)
歌というものは三十一文字で全体で五句ある。上(かみ)の三句のことを「もと」といい、下(しも)の二句のことを「すえ」という。一字や二字あまってしまっていても、思い切って詠む時に通例からはずれていなければ欠点となしない。およそ歌は思慮深くて整っており、心に興趣があるのを、優れているというべきである。盛り込まれている事象が多くて加えたことが入り組んでいるように見えるのがあまりよくないようだ。ひとすじにしっかりと詠むべきである。心と見た目を双方備えることが難しいなら、まず心を取るのがよい。どうしても思慮が深くないのであれば、かたちを大事にすればよい。そのかたちというのは、耳にするとすっきりしていて品格があり、文字はふさわしいように添えたりしたものである。(心も姿も)昔の人は多くの場合「もと」に歌枕を置いて、「すえ」に思う心を表明している。そうであるとはいっても、少し前から以来はそれほどではないけれども、始めに思うことを表明してしまうのは、やはり耐え難いものである。

非常にスッキリしています。(『和歌九品』、『新撰随脳』とも、原文は古典文庫『公任歌論集』を参照しました。)
歌(和歌)の作りそのものに焦点をあてているところが、中古の和歌論の嚆矢である「古今集仮名序」から一歩進んでいるところかと思います。「古今集仮名序」は紀貫之の熱い思いがこもったものか、和歌とはこういうものだ、という話が豊かに展開されていますが、和歌をかく詠むべし、というところは、いわゆる六歌仙に対する評言で品位をめぐって言われているに過ぎず、どうであるのが良い、との技術論はなく、貫之自身の手になる本文には具体例さえ上げられていません(具体例は後年誰かが書き入れた「古注」によって加えられているものです)。
僧正遍昭は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。絵にかける女を見て、いたづらに心をうごかすがごとし。
とか
文屋康秀は、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人(商人)のよき衣着たらむがごとし。
といった具合です。(角川文庫『古今和歌集』)
比較は出来ないかも知れませんが、和歌に対する観念の抽象度は、公任の記述のほうが高い、と感じておくのは許される気がします。つまり、和歌の詠まれる機会や和歌の多様性がどんなものかよりも、和歌そのものののスタイルのほうが、公任の見方の中では比重が大きくなっているように見えます。

『古今集』や『後撰集』がわりと歌の詠まれた機会、背景を大事にしているのに対し、批判的にではありませんが、おそらく意図的に、歌を背景的なものとは独立したものとする姿勢を採っていることが、公任の当代の、直接間接の度合いは分からないながら公任の関与が深い勅撰集である『拾遺和歌集』の、詞書の特徴から見て取れると思います。

春上の最初の十首が詞書と共に並ぶ様子を見てみましょう。
(作者名は省きます。)

『拾遺和歌集』
 平良文が家の歌合に詠み侍りける(④)
春たつといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらむ
 承平四年中宮の賀し侍りける時の御屏風に(④)
春霞たてるを見ればあらたまの年は山よりこゆるなりけり
 霞を詠み侍りける(②)
昨日こそ年は暮れしか春がすみかすがの山にはや立ちにけり
 冷泉院春宮におはしましける時、歌奉れとおほせられければ(③)
吉野山みねの白雪いつ消えてけさは霞のたちかはるらむ
 延喜の御時月次の御屏風に(④)
あらたまの年たちかへるあしたより待たるるものは鶯のこゑ
 天暦の御時の歌合に(④)
氷だにとまらぬ春の谷風にまだうちとけぬうぐひすの声
 題知らず(①)
春たちてあしたの原の雪みればまだふる年の心地こそすれ
 貞文が家の歌合に(④)
春たちてなほふる雪は梅の花咲くほどもなく散るかとぞ見る
 題知らず(①)
わがやどの梅にならひてみ吉野の山の雪をも花とこそ見れ
 天暦十年三月廿九日内裏の歌合に(④)
うぐひすのこゑなかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし
(岩波文庫版、1938年第1刷)

『古今和歌集』
 ふる年に春立ちける日よめる(②)
年のうちに春は来にけり一年をこぞとやいはむ今年とやいはむ
 春立ちける日よめる(②)
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ
 題知らず(①)
春霞立てるやいづこみよしのの吉野の山に雪は降りつつ
 二条の后の春のはじめの歌(②)
雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙今やとくらむ
 題知らず(①)
梅が枝に来ゐる鶯春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつつ
 雪の木に降りかかれるをよめる(②)
春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く
 題知らず(①)
心ざしふかくそめてしをりければ消えあへぬ雪の花と見ゆらむ
 ある人のいはく、前太政大臣の歌なり

 二条の后の春宮の御息所ときこえける時、正月三
 日、御前にめしておほせごとあるあひだに、日は
 照りながら、雪のかしらに降りかかりけるをよま
 せたまひける
(③)
春の日の光にあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき
 雪の降りけるをよめる(②)
霞たち木の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける
 春のはじめによめる(②)
春やとき花やおそきと聞き分かむ鶯だにも鳴かずもあるかな
(角川文庫『新版古今和歌集』、平成21年)

『後撰和歌集』
 正月一日二條の后の宮にて、白き大内袿を賜はりて(③)
降る雪のみのしろ衣うち着つつ春来にけりとおどろかれぬる
 春立つ日よめる(②)
春立つとききつるからに春日山消えあへぬ雪の花とみゆらん
今日よりは荻の焼原かきわけて若菜摘みにとたれを誘はむ
 或人の許に、にひまゐりの女の侍りけるが、月日久しう経て、正月
 の朔日頃、前許されたりけるに、雨の降るをみて
(③)
白雲の上知る今日ぞ春雨の降るにかひある身とは知りぬる
 朱雀院の子日しにおはしましけるに、障ることありて、え仕うまつら
 で、延光の朝臣のもとにつかはしける
(③)
松も引き若菜も摘まずなりぬるをいつしか櫻はやも咲かなん
 院の御返し(③)
松に来る人しなければ春の野の若菜もなにもかひなかりけり
 子日に男の許より、今日は小松引きになんまかる、といへりければ(③)
君のみや野邊に小松を引きに行く我もかたみに摘まん若菜を
 題知らず(①)
霞立つ春日の野邊の若菜にもなりみてしがな人も摘むやと
 子日しにまかりける人におくれてつかはしける(③)
春の野に心をだにもやらぬ身は若菜は摘まで年をこそつめ
 宇多院に子日せんとありければ、式部卿の親王を誘ふとて(③)
故郷の野邊見に行くといふめるをいざもろともに若菜摘みみん
(岩波文庫版、1945年第1刷)

三つの勅撰集の詞書は、
①題知らず
②何々を詠む、暦上のいつに詠む
③個人的にどういう理由だったので詠んだ
④歌合または屏風に寄せる機会に(詠んだ)
に大別できるように思いますが、これが巻頭の10首の詞書で、
古今〜①=3、②=6、③=1、④=0
後撰〜①=1、②=1、③=7、④=0、詞書なし=1
と、②あるいは③のウェイトが大きかったのに対し、
拾遺〜①=2、②=1、③=1、④=6
と、④が大きなウェイトを占めています。
もちろん、それぞれの全体を見れば、ここまでで0だった類いの詞書も存在するのではありますが、巻頭を開いた時の印象は『拾遺和歌集』は『古今和歌集』・『後撰和歌集』とはハッキリと違っている、と見てよいのではないかと思います。

こんなあたりを踏まえて、公任の撰になる『三十六人撰』を眺めたいと思っております。
今はここまでとします。

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2019年2月10日 (日)

モノクロ時代劇のような説話「四条大納言の事と申は、まことやらん」

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モノクロ時代劇のような説話「四条大納言の事と申は、まことやらん」
【百人一首はなぜ出来た(6)】〜ちょっと脱線

古典文庫『公任歌論集』後半の「公任卿説話集」の中に、『宇治拾遺物語』のこの話が引かれていて、読むと、この前見た公任さんの人柄・・・育ちが良すぎて平気で失言もするけど、仕事ぶりは真面目で、心優しいところもあった・・・がにじみ出ているような気がして、やっぱり公任さんの話なんじゃないかな、と思われてならないので、ご紹介します。少し長いお話です。


(宇治拾遺物語 157 或上達部、中将之時逢召人事 巻十二ノ二一)

【原文1】
今は昔、上達部のまだ中将と申ける、内へ參り給ふ道に、法師をとらへて率ていきけるを、「こはなに法師ぞ」と問はせければ、「年比使はれて候主を殺して候物なり」といひたれば、「まことに罪重きわざしたるものにこそ。心うきわざしける物かな」と、なにとなくうちいひて過(ぎ)給(ひ)けるに、此(の)法師、あかき眼なる目のゆゝしくあしげなるして、にらみあげたりければ、よしなき事をもいひてけるかなと、けうとくおぼしめしてすぎ給ひけるに、

【現代語訳1】
今は昔、ある公卿がまだ中将でいらしたとき、参内なさる途中、(検非違使が?)法師を捕えて連行していくのを、「いったい何をしでかした法師なのかな」と仰ったところ、連行している者が「何年も使ってくれていた主人を殺した者なんです」と言うので、「まったく罪の重いことをしてしまったものだね。不愉快なことをしてしまったやつだな」と、なんの気なしに軽く言って通り過ぎると、この法師、不吉で悪そうな赤い瞳をした目で中将を見上げてにらんだので、中将は、つまらないことを言ってしまった、と、疎ましくお思いになってその場を過ぎて行かれたのだったが、

【原文2】
又男をからめて行(き)けるに、「こはなに事したる物ぞ」と、こりずまに問ひければ、「人の家に追ひ入(れ)られて候つる男は逃げてまかりぬれば、これをとらへてまかるなり」といひければ、「別のこともなきものにこそ」とて、そのとらへたる人を見知りたれば、乞ひゆるしてやり給(ふ)。

【現代語訳2】
また別に男を連行していくのを見て、「いったい何をした者なのかな」と、ついさっきしたばかりの失敗にも懲りずに問うたところ、「私どもが人家に追い込んだ男は逃げ去ってしまいましたので、この男のほうを捕えてまいるのです」と言うので、この公卿は「別に悪いこともないのでは」と、男を捕えて連行していくその役人を見知っていたので、頼んで男を許してもらって解放させたのだった。

【原文3】
大方、此(の)心ざまして、人のかなしきめを見るにしたがひて、たすけ給ひける人にて、はじめの法師も、ことよろしくは、乞ひゆるさんとて、とひ給(ひ)けるに、罪の、ことの外に重ければ、さの給(ひ)けるを、法師は、やすからず思ひける。さて、程なく大赦のありければ、法師もゆりにけり。

【現代語訳3】
だいたいにおいて、このような気だてで、誰かがいたましい目にあっているのを見るとお助けになる人で、はじめの法師も、たいした事情でなければ頼んで許させようというのでお問いになったのだったが、法師の罪科が予想と違って重かったので、あんなふうに仰ってしまったのを、法師は穏やかならない思いだった。その後、ほどなく(重罪でも許される)大赦があったので、法師も許されたのだった。

【原文4】
さて月あかかりける夜、みな人はまかで、あるは寝入(ねい)りなどしけるを、この中将、月にめでて、たゝずみ給(ひ)ける程に、物の築地をこえておりけると見給(ふ)程に、うしろよりかきすくひて、とぶやうにして出でぬ。

【現代語訳4】
さて月のとても明るい夜、みんな人はいなくなったり寝入ったりしたのだったけれど、この中将は月に魅せられて留まっていた。すると、何者かが土塀を越えて降りた、と見ているうちに、その者が中将を後ろからさっと抱きかかえて、飛ぶようにしてそこを出た。

【原文5】
あきれまどひて、いかにもおぼしわかぬほどに、おそろしげなる物來集ひて、はるかなる山の、けはしく恐ろしき所へ率て行(き)て、柴のあみたるやうなる物を、たかくつくりたるにさし置きて、「さかしらする人をば、かくぞする。やすきことは、ひとへに罪重くいひなして、悲しきめを見せしかば、其(の)答に、あぶりころさんずるぞ」とて、火を山のごとくたきければ、夢などを見(み)るここちして、わかくきびはなるほどにてはあり、物おぼえ給はず、

【現代語訳5】
驚きかつ動揺して、何が何だか分からないままにいるうち、怖そうな連中が寄り集まって来て、中将を遠い山の険しく恐ろしい所へ連れて行って、柴を編んだようなものを高々と作ったところに中将を放置して、「差し出がましいことをするやつなど、こうしてやるのだ。たいしたことでもないのを、むやみに重罪だと誇張して言って、悲しい目を見せてくれやがったから、その仕返しに炙り殺してやるのさ」と、火を山のように炊いたものだから、夢なんかを見るような心地になって、若くてか弱くもあるころだったので、何も考えることがお出来にならなくて、

【原文6】
熱さはただ熱になりて、たゞ片(かた)時に死ぬべくおぼえ給(ひ)けるに、山のうへより、ゆゝしきかぶら矢を射おこせければ、ある者ども、「こはいかに」と、さわぎける程に、雨のふるやうに射ければ、これら、しばしこなたよりも射けれど、あなたには人の數おほく、え射あふべくもなかりけるにや、火の行衞もしらず、射散らされて逃(げ)て去にけり。

【現代語訳6】
どんどん熱くなっていって、もうほんの少しのうちに死んでしまうだろうとお思いになったところへ、山の上から立派な鏑矢が射込まれてきたので、その場の連中が、「なんなんだこれは」とざわざわするところへ、山の上から今度は矢が雨のように射てきたので、こちらの連中も暫くのあいだこちらからも山の上に矢を射たのだけれども、あちらは人の数も多く、射るのを競い合いきれなかったのだろうか、(編み上げた柴に点けた)火がどうなるかも構わず、射散らされて逃げていなくなった。

【原文7】
其(の)折、男ひとりいできて、「いかに恐ろしくおぼしめしつらん。をのれは、その月の其(の)日、からめられてまかりしを、御徳にゆるされて、世にうれしく、御恩むくひ參らせばやと思(ひ)候(ひ)つるに、法師のことは、あしく仰せられたりとて、日比うかゞひ參らせつるを見て候ほどに、つげ參らせばやと思ひながら、わが身かくて候へばと思ひつるほどに、あからさまに、きとたち離れ參らせて候つる程に、かく候(ひ)つれば、築地をこえて出で候つるに、あひ參らせて候つれども、そこにてとり參らせ候はば、殿も御きずなどもや候はんずらんと思ひて、こゝにてかく射はらひてとり參らせ候つるなり」とて、それより馬にかきのせ申(し)て、たしかに、もとのところへ送り申(し)てんげり。ほのぼのと明(あか)るほどにぞ歸(かへり)給ひける。

【現代語訳7】
そのとき男が一人出て来て、「どれだけ恐ろしくお思いになったことでしょう。私は、某月某日、しょっぴかれて行くところを、あなたさまのおかげで許されて、非常に嬉しく、報恩をしなければと思っておりましたところ、法師のことは、悪く仰ったのだということで、中将様を日頃から付け狙っていたのを見ておりましたので、ご報告申し上げられたらと思っていましたけれども、我が身がこのように付き従っておれば大丈夫だろう、とも思っておりましたところ、少しの間、あなた様からふと離れてしまっているときに、こんなことになってしまって、賊が築地を越えて出て行くのに遭遇したのでしたが、その場でお取り返ししようものならば、殿様も傷をおうけになるかもしれない、と思って、ここに参ってからかように矢を射て追い払ってお取り返ししたのでございます」と言って、それから馬に扶け乗せして、たしかに、もとのところへ送って差し上げたのだった。夜がうっすらと明けて来る頃にお帰りになったのだった。

【原文8】
年おとなになり給(ひ)て、「かゝることにこそあひたりしか」と、人にかたり給(ひ)けるなり。四條大納言のことと(ゝ)申(す)は、まことやらん。

【現代語訳8】
年長になられて、「こんなことに遭遇したのだったよ」とその公卿は人に語られたのだそうだ。四条大納言のことと言われているけれど、本当なのかしらん。


新古典文学大系の注によると、平安時代末期までに「四条大納言」と呼ばれた人は二人いて、公任のほかには、のちの後白河法皇の寵臣だった藤原隆房(『平家物語』で小督という美人さんに失恋しちゃう人)がそうだった、とのことです。そうなると、この説話に「中将」とあるので、中将だったことのあるほうが、この説話の「四条大納言」になるわけです。しかし残念ながら、どちらも中将だった時期があるので、ここからも、どちらの「四条大納言」だったかは特定できません。
あとは「大赦」がポイントかと思われますが、公任が中将だった時期は983-984年、これに近い時期にあったかどうか、ですね。隆房が中将だった時期は私には分かりませんでした。
ただ、公任のほうは後に検非違使別当になっている。隆房にはその経歴がない。この話は検非違使関係っぽい。話の初めのほうで窺われる、考えなしで失言をする公卿の性格も、なんだか公任さんっぽい。
私は、この話の公卿さんは公任さんだと思えてならないのですが、いかがでしょうか?

(古典文のほうのテキストは、駒澤大学総合教育研究部日本文化部門「情報言語学研究室」のテキストデータを使わせて頂き、新古典文学大系42『宇治拾遺物語 古本説話集』の本文と見比べて修正しています。とくに読み仮名はだいぶ省きました。https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/txt_ujisyui.TXT 現代語訳は 新古典文学大系の注を参照しながらざっくりとやりました。)

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