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2015年6月24日 (水)

再掲【お仲間の皆様へ】次を(どんな小幅でも)もっと良くするために・・・のたわごと

私の大好きな東京ムジークフローの皆様へ

6月13日の演奏会ではさまざま本当にありがとうございました。
本記事、いったん削除しましたが、思い直して再掲します。・・・菊地先生へ、を含め、ふだんお伝えしたいたくさんの感謝の気持ちは別にお知らせしているとおりです。
こちらは、覗くかもしれない「身内」の人が、今後の練習で、この、キュッヘルさんでもないどころか、いつも申し上げているとおり世間様どなたに比べてもつたない、こんな私と一緒に、まず合奏する主体として私たち自身を考えて頂ければ、という願いから綴っているものです。よそのどなたに「だからあいつはバカなんだ」とか「がっかりする」とか言われようともかまいません・・・が、この記事にそんなコメントがついても当然表には出しません(笑)。

お客様各位に置かれましては、
「こんなバカがいるからあそこはもう少し良くなるものも良くならないのだ」
あきれてスルーして下さいませ。

以下、削除前のとおり。

「鉄は熱いうちに」と諺にもありますので、今回の若干例を引いて少しお話し申し上げます。

世に・・・特に関東にはアマチュアオーケストラは星の数ほどあります。
厳しいオーディションをなさって、厳しい出欠確認もして、メンバー各人が超絶技巧(?)で演奏していて、CDなんか出しちゃう団体もあります。
演奏するターゲット・テーマを決めて、テーマに沿うならばどんな難曲でも取り組む、熱心な皆さんもいらっしゃいます。
市民仲良しオーケストラもずいぶんたくさん増えました。

そんな中で、僕らは
「オーケストラをやりたいひとはどなたでも」
というスタンスでやってきたのではないかと思います。創立当時がどうだったとか、演奏の理念がどうだとか、僕には言うつもりはまったくありません(誇り高いメンバーのかた、ごめんなさい!)。たかだかサラリーマンぐうたら万年平社員のど素人がコンサートマスターだなんてものをさせて頂いているのですから。

でも演奏会があるたんびに、ぐうたらコンマスは四方八方から
「こんなんじゃダメだ・おまえがもっとなんとかせい!・もうちょっとなんとかならんのか!」
と叱責・苦情の雨あられにさらされ、体重は一向に変化しないながら実の細る思いを致します。
なんぼぐうたらでも、本当に辛くて涙ちょちょぎれです。

じゃあひとつ、次に向けてのご協力をなんとか頂けないだろうか、ということで、幾つかまとめておきます。

まず、選曲については、まちまちのレベルの人が集まっているので、どのパートもなんとか妥協出来るギリギリの線で、といつもたくさんの人が苦しみながら結論を出しています。決まった結果がどんな難曲であっても、僕としては、決まったらそれには素直にしたがって、本番として決められたその日まであきらめずに取り組みたく思いますし、お仲間の方々にも精神の姿勢としては同じことを望んでおります。で、うちの団で超難曲、というのはハナからみなさん外すように、いつもほんとうに苦しんでいらっしゃる、と承知をしております。
難曲に決まったのではとてもやってられない、と、いつもあとあとまでお言いになるかたがいらっしゃったりしたら(いらっしゃるのかどうか分かりませんが)とても悲しいことです。で、代わりに出して来られる候補が今度は他の人たちにとってまた違う側面から難曲だったりするので、もうなんなんだ、ということになってしまう・・・のは、やっぱりいやだなあ、避けたいなあ、と常々思います。
いずれにせよ、曲の決定については、どんな結論が出ようとも、私は皆様を信頼してまいりたいと思います。決まったら何でもやります!・・・自分が追いつかない時は救急車に助けを呼ぼうと思います。
曲に取り組むということはその曲の「難しいところ」もクリアしなければならない、という課題を与えられる面もありますが、第一にそれはしかし音符が細かいところが難しいのだとは限りません。そしてまた、アマチュアだから許されるのかも知れませんが、難しいことを「音を拾う」ことが完璧にクリア出来なくても、
1)最後まで「自分に」やれるだけの努力をすれば「自分が」満足出来る
2)追いかけきれなかったらそれらしく聴かせる手だてはなんとかある!
の二つの希望が与えられます。だから、決まったら、「自分なりに」なんとか頑張りましょう。

次に、純粋に機能的な側面以外で、僕らの技能の現状への配慮無しに、管楽器だからどうだとか弦楽器だからどうだとかいう議論があるようなら、それには入り込むつもりもまったくありません。アマオケのコンマスのお役目というのは、現状のメンツで、現状のそれぞれのメンバーの思いの集まりから、どの程度まで「最大限」を引き出せるのか、全体像に責任のあるものだと信じております。

管だ弦だ、と仰る前に、3例顧みて頂ければとピックアップしてみました。ただし、事故の起こった部分ではありません。事故はすべて僕の責任だと思っております。

テンポの問題に限って上げます。

第1に、序曲「ザンパ」の最終部分、テンポがもっと上がれば、との声をずいぶん頂きましたが、ではここでテンポが上がらなかった原因はどこにあるか、お聞きとりになってみて下さい。上がらなかったことを「誰々の責任」とおっしゃいますか? 「仕方なかったのだ」とおっしゃいますか? 単純に「事前の擦り合わせの問題だし、問題だと思うなら裏工作を早めに<お互いに>しあわなかったところがそうかも知れない」というのが、私の感じているところです。直前に特定のかたにだけはお願いに行ったのでしたが、まったくたりませんでした。

第2に、チャイコフスキーの終楽章の部分、頑強なキャラクターのテーマが終わって、かろやかなそれに乗り移ったとき、奏者さんが最初に提示した軽やかさには、とうとう乗れませんでした。原因として何が考えられるでしょうか。伴奏音型の進行がハナからテンポの軽やかさについて行っていませんよね。そしてそれがそのまま主流となって先に進んでしまいました。そうしておかないと先が崩れてしまうからです。落ち着きどころが直感的多数決状態で決まってしまうと、そこから変えることは、充分な時間のない箇所では、誰がやることも不可能です。実は「ザンパ」の最初のアチェランドの箇所は練習段階で僕もちょくちょく煽ろうとしていたのですが、いつもただバラバラになるだけでした。個人では出来ない、ということを身にしみて感じております。水も大量になるとさらさらとは流せなくなるように、人がたくさん集まると、プレイにも単独メンバーではあらがえない重さが絶対につきまといます。(その点、第2楽章はみなさんとてもよくなさったと嬉しく、深く感謝しております。)

第3に、ドヴォルザークのピアノ協奏曲の第2楽章からの例ですが、これは前にソリスト練習の中で上野先生から「十六分音符が(いちばん)はっきり聞こえたところに乗りますから」という意味のお話があって、僕としてずいぶん意識した箇所です。最初ばらけているけれど、それでも上野先生が、いちばんはっきり聞こえている十六分音符を基準に乗って下さっているのが、非常に明瞭になっているのではないかと思います。あとの部分に上野先生にこんなふうに弾かせてしまったか・・・と、そのことにはとても強い後悔の念を抱いております。

こうしたあたり、どんなオーケストラであろうと、指揮者先生に演出して頂くことが絶対の骨格ではあっても、団員相互の練習合間のコミュニケーションで前向きに改善していけることだと、僕は信じております。
そのとき、コミュニケーションを取り合う自分・相手を相互に尊重し、お互いに非礼がないようなさって頂けると、非常に有り難く存じます。

ちょっと、の割に長くなりましたが、口頭でしゃべったら、おいら、もっとくどくなるんだろうなと思います。ただ、響きの作り方とは、いつもストレートにポンと音を出せばいい、というものでもありません。そこの力学のようなものにも、是非、アマチュアなりの造詣を深めて行って下さるなら、この上ない幸いです。

なにとぞ、思うところを寛容にお汲み取り頂きますよう、切にお願い申し上げます次第でございます。

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2014年5月 6日 (火)

アンサンブルをするにあたって2

東京ムジークフローの皆様

ゴールデンウィーク中の合宿お疲れさまでした。
いろいろと充実させて頂き、楽しい思いもさせて頂き、ありがとうございました。

合宿を通じて考えたことを3つだけ記してみます。
以前弦楽器のかた向けに綴ったものもご参照下さるようでしたら有り難く存じます。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-9637.html

【楽譜・・・できればスコア・・・全部に目を通してみて下さい】
とにかくまず各自の中に「この作品はこういうストーリーなのだ」との確信がないと、出て来る音にも確信がありません。
いい演奏の録音をくり返し聴いてイメージをつかむのもよいですが、「楽譜を完読してみる」ことを強くお勧めします。
音符を見てすぐ音にしてしまうのではなく、まずは楽譜を読んでおくのです。
文学には文学の、演劇には演劇の、映像には映像の、それぞれの手法によるストーリーがあります。
音楽にも、音楽独自のストーリー作りがあって、それは必ずしも文学その他のストーリー作りとイコールではありません。
ですが、私たちアマチュアが大勢でとりかかるような作品は、幸いにしてほとんどが「いりぐち」と「いりまじり」と「まとまったエンディング」のある、戯曲と同じような構成があります。
パート同士の掛け合いとかいう複雑な読みである必要はありませんで、音符の絵模様で充分ストーリーが読み取れます。それだけでもだいぶ違うと思います。
読んだものを、理解できるかぎりの範囲でよいので、まず自分のイメージの中で「響き」に翻訳してみる。「響き」としての立体的なストーリーの読みが出来るように、ちょっと楽譜の読み方を工夫してみて下さったら嬉しいな。

【他パートの「セリフ」を聴いてから、では遅い】
他のパートが演奏してくれた前のフレーズを「次はこちらが引きとらなければ」と、意識してなさっているご様子がたくさん聴き取れて、いいことだなあ、と感じております。
ただ、その引き取りが往々にして、適切なタイミングより一瞬遅いのです。
これはご指導でもよく指摘されることですが、「自分に音がないと、前の部分を一緒に演奏していない」から・・・が基本ではありますが、そんなつもりがなくても遅れるところが盲点になっているように思います。
話が逸れるようですが、たとえば道で信号を見ていて、青信号に変わった、と思ってから歩き出すまでは、かなり長い時間の間隔が空くのをお感じになったことはありませんか?
相手側信号が黄信号から赤信号に変わるタイミングをある程度予測していても、目が「青信号だ」と知ってから歩くことに決めていると、歩き出すのがかなり遅れてしまうのです。
青信号になったのと同時に歩けるようにするには、予測の方法をかなり工夫しなければなりません。
・・・そういう話です。
で、これは自分がいの一番に音を出さなければならないときには、「青信号」はもう点灯しているのですから、堂々と渡る度胸ないしおおらかさを持っていた方がよい科と思います(大変なんですけどね)。窮屈に構えてしまうことが「相手側の、ありもしない赤信号」を心の中に作ってしまうことにも繋がります。

【まず音が出ていなければ演出の要求に応えられない】
オーケストラですから指揮者の演出に沿った音楽作りをしていくわけですが、せっかくいい演出を工夫して頂いても、実際に音を出すべき個々人が音を出していなければ演出自体が成立しないことになります。
まず音を出しましょう。
「そこをもっとピアニッシモで!・・・そう、とてもいい!」
と言われた箇所で、実際には誰も音を出していなかった、とのジョークは御存じだと思います。それが適切な場合もあります。
ですが、基本的には音符の書かれた箇所はその音符の音価で音が出ていなければ話になりません。
「その音符の音価で」というのは、たとえば(特段スタカートなりマルカートなりになっていない、次の音符に繋がるために必要な長さとして書かれている)二分音符を軽く、という要求が(演出を待つまでもなく音楽の性質の要求として)あるとき、二分音符を次に続く音まで鳴らさないで四分音符分でやめてしまう演奏は決して正解ではありません。ここにも往々にして間違いが聴き取れます。
軽く、という要求は、次に続く音符込みでの要求であることを考えに入れなければなりません。考えなくして「ふわあと切り上げれば、軽く、という要求にかなう」との誤解は是非取り去った上で、作曲家、指揮者の演出を客観的に捉えられるようにしてみて頂ければいいのだけれどなあ、と、常々思っております。自分の思い込みで演出してしまわないことです。いったん「OK」されたことは「OK」で納得でおしまいにするのではなく、「どうしてあれでOK」だったのか、と反芻してみて下さいますようお願い申し上げます。

合宿で感じた今回の先生の演出はたいへん理にかなったものだと感じておりますので、いい本番が迎えられることを祈っております。

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2014年3月23日 (日)

アンサンブルをするにあたって

東京ムジークフロー弦楽器の皆様

本日はどんちゃん騒ぎの中学部活的練習で本当にお粗末様でございました。

(><)

こまかなことは今後いろいろご指示があると思います。
今日拝聴しながら(自分のためも含めて)感じたことを簡単にまとめておきます。
お役に立つかどうかは分かりません。(^^;;
「芸術的」な事柄に関しては先生の練習に委ねます。

・テンポが速くても曲の構成や音の流れが(ある程度感覚的に、程度でいい)分かっていると、自分で思っていたよりワリとどんどん行けてしまうのは実感なされたと思います。・・・こまかいこだわりより、まずは大まかにでも曲の作りを理解しておくことは、大切なのではないかと思います。

・弾く旋律(主役であろうと、脇役だろうと)に対しては、まず「少女マンガ的」でいいから自分なりのストーリーを持ってみることをお勧めします。「ハフナー」の第2楽章でちょっとそんなことをやりました。時期を外していますがクリスマスのイメージだと前提しました。
第1ヴァイオリンが十六分音符のスタッカートを弾くのがサンタのソリの鈴だとしたら、第2ヴァイオリンとヴィオラはプレゼントを待ちこがれる子供のワクワクする様子です。低音はさらさらと降る雪ですから、決して重たくはないわけです。
こうしたストーリーは最終的には過剰にならない方がいいのですけれど、私たちのようなアマチュアには、いの一番にきちんと抱いておける「空想力」は必要ではないかと考えております。

・以上の準備をした上で、拍子のカウントは、その曲の中で一番細かく動く音符の、さらに倍の単位を基準になさる習慣をつけて下さるとよろしいかと思います。同じく「ハフナー」の第2楽章の例で行きますと、最初に第2ヴァイオリンが十六分音符で動きますから、この場合三十二分音符でカウントする、という具合。

・他のパートと同じタイミングで出る箇所は、いっしょに出る相棒パートの「息づかい」・・・これはほんとに空気そのものの流れを皮膚感覚的に感じるものなのですが・・・をよく感じ取れるようにしましょうね。今日こういう言い方はしなかったのですが、あたかも自分の皮膚がカエルの皮膚であるかのように、他パートの「発音以前に出る音」を敏感に感じるアンテナは、その気になれば必ず持てると思います。

・他パートといっしょに動く(ユニゾンだったりいっしょに和音を作るのだったり)ときは、同タイミングの場合の応用です。一音一音すべてに皮膚感覚がいりますが、技術がついていかない場合、全部を音にするのではなくて、揃うところをうまくきちんと拾って揃える工夫がいるかもしれません。ただし、実のところは、同じタイミングで出るよりもユニゾン等で一緒に動く、その動きを揃える方が難しくありません。

・音楽の適切なニュアンス作りでいろいろ注文はされますけれど、「そこは柔らかく消えていくように」という指示がある場合、本当に消えてしまうのは、私は「いけないこと」だと考えております。フレーズの最後の、消えていく音の「長さ」が四分音符であれば、四分音符分はちゃんと音を出しつつ、それが「消えていくように」聞こえるべくご工夫頂ければと存じます。・・・大変ですけれど!!!

こういうことを言葉にするのって、とっても難しいですね! (>_<)

でも、今日ご一緒頂けていれば、ご理解頂けるものと確信しております。

・・・楽しみましょう!!!

(「ハフナー交響曲」からの音のサンプルは、オトマール・スウィトナー指揮ドレスデンシュターツカペレのものです。)

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2012年10月13日 (土)

「《ロシアの復活祭》序曲」ドキュメント~1月5日曲目の内

アマチュアオーケストラ、東京ムジークフロー、2013年1月5日曲目関連ドキュメントです。

オイゲンブルク日本語版(小節番号のないスコアですのでご注意下さい)の見返しに、曲に関連する詞章が記載されている(オリジナル楽譜の前書きらしい)のですが、これまた音楽そのものとの結び付きが必ずしも明らかではありません。解説には、読み取れるだけの充分な説明がないからです。

後期ロマン派とか国民楽派とか呼ばれる人たち特有のことなのでしょうか、ドキュメントと、その象徴としてのテーマは、情緒的要求として、密接に関係しています。
したがいまして、これも名曲解説全集(旧版)から、各主題がなんの象徴に充てられているかを書き抜いておきます。ただ、譜例を載せるいとまがありませんので、小節番号やパート名の付記でご容赦を頂きます。
おついでのご参考になれば幸いに存じます。


1.【名曲解説全集 旧版 管弦楽曲Ⅱ 333頁~336頁、1982年】
 (一部、句読点や意味のとりにくい字は変更しました。文は記載のママとします。)

楽譜にはつぎのような前書きがある。

[この部分、オイゲンブルク日本語版の見返しの訳の方が分かりやすいと思います。こちらの訳は、必然性のない疑似文語体ですので。]

「願わくば神、起きたまえ。その仇はことごとく散り、神を憎むものは御前よりにげ去らんことを。煙の追いややるる如く、かれを駆逐(おいや)りたまえ。悪しきものは火の前に蝋の溶くるごとく神の前に亡ぶべし」----詩篇68

「安息日終わりし時、マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、およびサロメゆきて、イエスに塗らんとして香料を買い、一週のはじめの日、日の出たるころ、いと早く墓にゆく。誰か我らのために墓の入口より石を転すべきと語り合いしに、目を挙ぐれば、石のすでに転じあるを見る。この石は甚だ大なりき。墓に入り、右の方に白き衣を着たる若者の坐するを見て、いたく驚く。若者いう、おどろくな、汝らは十字架につけられ給いしナザレのイエスを尋ぬれど、既に甦りて、ここにいまさず」----マルコ伝第16章1〜6節

「よろこびの知らせは全地に広まり、イエスをにくみし者は彼の前より逃れ、煙の如く消え去りぬ。『よみがえりぬ』と天使の歌声は天に響き、天使長のラッパとセラフの翼のはためきに和す。”よみがえりぬ”と香の煙たちこめ、無数の灯ともり、勝利の鐘鳴り響く寺院にて、僧侶等歌へり(注:ここだけ旧かなづかい!----典拠不明)

曲の進行はこの前書きと完全に一致するものではないが、中で用いられる聖歌の旋律に関連があり、全般に交響的な構成をとっている。

(以下、略)


2.同書による主題の説明【聖歌に関連するもののみ】4つだけです。
(スコアに小節番号のない事情から数え間違いがあったらすみません。違う場合はご教示頂ければ幸いに存じます.)

・冒頭に木管のユニゾンで「オビホード」(ロシア正教の一般向け賛美歌集)の中の「願わくば神、起きたまえ」の旋律が呈示される。この主題は全曲を通してモットーのように用いられる。

・9小節目チェロ〜聖歌「天使は嘆く」(31小節目でクラリネットに)

・81小節(Allegro agitatoになるところ)から〜聖歌「神を憎むものは御前より去らんことを」

・201小節(Poco più sostenuto e tranquillo、練習番号I【アイ】の14小節後)から〜復活の歌「キリストは起てり」

オイレンブルク日本語版の解説等の文は、お持ちの方に見せてもらって下さい。

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2012年10月10日 (水)

「ボヘミアの森と草原から」〜1月5日曲目の内

アマチュアオーケストラ、東京ムジークフロー、2013年1月5日曲目関連ドキュメントです。

スメタナ『我が祖国』は、本来、1曲1曲に作曲者の詞書があるのですが、スコア(私が手にしたのはEDITIO MUSICA BUDAPEST版)には掲載がありません。

名曲解説全集(旧版)には全体を指し示す文が掲載されていますが、曲に即した部分は示唆にとどまっています。「ボヘミアの森と草原から」(名曲解説全集での訳は「ボヘミアの牧場と森から」)についても同様です。他の書籍でいいものを見つけられませんでした。
そこで、名曲解説全集からの引用を記し、アーノンクール/ウィーンフィル盤のリーフレットでにあるアーノンクールのコメントをも引用します。

参考にして頂ければ幸いです。
なお、末尾に演奏の一例の映像を埋め込んでおきます。


1.【名曲解説全集 旧版 管弦楽曲Ⅰ 431頁〜432頁、1982年】

スメタナの書いたものの訳

「ボヘミアの風景を眺めたときに受ける情感が描かれている。いたるところから歌がきこえてくる。それは陽気なものであったり淋しげなものであったりするが、牧場や森からひびいてくる。森の地域はホルンの独奏で示され、明るい肥沃な低地は、喜ばしい主題で描かれている。誰もが各自の幻想に応じて絵をかくことができる。詩人は、たとえ独自の仕事に従わねばならぬとはいうものの、自分の前に開かれた道をもっている。」(門馬直美訳)

以下、登場小節については、もう充分お分かりになるとは思うのですが、念のためスコアから補いました。

・冒頭の弦は「風を暗示するような」
・クラリネットの主題はボヘミアの牧場を示す(37)
・オーボエで村の娘たちとその歌を描くといわれる旋律が現れる。(46)
・ヴァイオリンの弱音器つきの主題は牧歌の和やかさを示すと言われている(74)
 (注:私はこの主題はフリアントもどきだと思っています。ただし、先生は先日、「先入観を棄てて、風の吹いているように弾きなさい」とのことで、まことに適切だと思っております.)
・ホルンは森を示す主題(130)
これまでの主題の展開ののち
・ポルカが冒頭の弦の主題から導かれる(234、270から本格的に)


2.【アーノンクールによるコメント】(CDリーフレットに掲載
(譜例の箇所は小節番号および該当パート名に置き換えます。ただし、小節番号はアーノンクールの元の文にほとんど入っています。)

交響詩《我が祖国》で、スメタナは彼の故郷を愛情を込めて、しかし同時に冷徹に描いている。見事な音楽的手腕によって素晴らしい全体を構成している6曲の交響詩は、2曲ずつ、それぞれ神話(注:1、3)、自然(注:2、4)、歴史(注:5、6)をテーマとしている。スメタナはまた、政治と宗教の結びつき、ドイツ人とボヘミア人の共存、母系家族制の問題といった、極端な対立をはらんだテーマを音によって象徴的に表現している。このような作品を書く中で、スメタナにとって何よりも大切だったのは、言葉の助けを借りることなく、あるいは合理的な思考の助けを借りることすらなく、音楽という手段のみを使って、音楽が喚起する感情を通じて聴き手の心に直接うったえかけることだったように思える。これに類した作品はヨーロッパ音楽にはない。

Ⅳ.ボヘミアの森と草原より
(冒頭部のスメタナの記述は略、注:リーフレットの言葉は違っているが、門馬訳の文と同一のものの一部である。)
冒頭の、ト短調の豊かなテクスチュアの中で、最初の交響詩〈ヴィシュフラド〉の波うつ動機が再び聞こえる(冒頭部金管)。そして優しく悲しいドゥムカ(ウクライナ民謡)がト短調で「dolente 悲しげに」聞こえてくる。(第37小節:クラリネット、ホルン、ファゴット)。
やがてト長調に明るく転じて、ボヘミアの歌が現れる.(第46小節。スメタナは「うぶな田舎娘が故郷を離れるときのように・・・」と書いている:オーボエとファゴット)。
第74小節からのフガート(弦楽器)は、スメタナによると「・・・・・・夏の正午ごろの森の美しさ」を伝えているのだという。「・・・・・・木の葉の間で陽光がきらめき・・・・・・鳥が歌っている・・・・・・」。ここで思いもかけず、まるで森のざわめきのように、明らかにドイツ風の歌の3節が聞こえてくる。(注:122小節からたちあらわれてきて130小節で輪郭を明瞭にするホルン、168小節アウフタクトからの木管群、196小節からの全体合奏を指している。)
これを聞くと、ボヘミア人とドイツ人が何百年にもわたってこの土地で隣り合って暮らして来たことが思い起こされる。(注:これがどんな裏付けを持っていわれているのか、私には分かりません.)3番目の、活気に満ちたお祭気分の節を中断してポルカが始まる(第234小節)。
この後さらに数分間、音楽はドイツ風の歌とボヘミア風のポルカとを行ったり来たりするが、最後にはポルカが農民の祝い事の中で勝利を収める(第270小節:注、前述)。曲の終わり近くで、ドイツの歌が短く簡単に回想され(第439小節:主題そのものはクラリネットにある)、そのあと、冒頭に波打つ動機が再び登場する。あの悲しげなドゥムカまでが再び聞こえてくるただし今度は全木管がfffで奏して(第509小節)、曲を締めくくる。(栗田 洋 訳)

RCA 37616-7 2001年11月、ウィーン・ムジークフェラインザールでのライヴレコーディング)

参考:アーノンクール/ヨーロッパ室内管の映像


編成としてはわれわれはこれくらいになりますので・・・冒頭部、オーボエの旋律の背景のフルートのブレスのとり方が、ちょっと好きではないのですが・・・いや、全般に、フルートは特に、吹き方のフォームがちょっと。。。チェロのおねいさんも、きれいだけど、顎が上がってるもんなぁ。

それでも、全体でこれくらいの演奏が出来るんだったら、本当は嬉しいですよね〜(泣)

クーベリックがチェコに一時帰国した際の全曲演奏が、個人的には最も好きな演奏です。ただしかなり大編成です。チェコフィルの名演としては、他にアンチェルが指揮したものがあります。

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2012年7月 4日 (水)

【内輪向け】7月1日はありがとうございました。

(いらして下さった方々への御礼を綴るのが筋ですが、ここでの私はご覧になるかたに「理屈っぽい」と思われています。自分は本来、ここで自分と内輪になって下さる不特定のかたと一緒に「考えたい」からそうしているつもりで来ました。その延長なので、このかたちでお許し頂ければと存じます。)

東京ムジークフローの皆様、7月1日には私も良い会をご一緒させて頂けたことに、深く感謝しております。会を通じて、あらためて考えましたことを3点綴って、私の「ありがとう」にさせて下さい。

【お客様の方を向いて】
アマチュア楽隊のありがたさは、自分たちの好きなように演奏会をすることが出来ることでしょう。もちろん、様々な制約があるのですけれど、個々人の稼ぎを考える必要には迫られませんから、たとえば70人のメンバーに対し聴き手が10人でも演奏会が「成功だった」と祝杯をあげることが許されます(実際、お手伝いでそういう現場に数度出くわしたことがあります)。
でも、町場の小さな発表会でも、私は素人だって、出来るだけたくさんの「身内ではないお客様」の「他人の耳」で聴いてもらい、文句を言ってもらい、出来ることならばたった1ヶ所だけでも誉めてもらえることが望ましいと考えています。大きな団体でしたらまして、のことです。
そんな中、1日の私達の演奏会は、入場者の1割強が当日券だったと伺い、たいへん喜ばしく感じました。
ひとえに、運営の皆さんが積極的にチラシ配布の協力要請をしたり、自らなさったからだろう、と、尊敬申し上げております。
大部分の、とくに自分ひとりの音が独立した1パートとなる管楽器のかたたちは必ずお考えでしょうが、そして集団の中で弾くことにどうしても甘んじてしまう弦楽器群の我々は考えて行かなければならないのですが、演奏そのものについても
「お客さんに聴いて頂くんだ、さて、わたしはどう仕上げようか」
を常に念頭に置けるようになったら、私達は、終わってみても「ほんとうによかった」と私達自身が納得出来る演奏会を出来るようになって行くのでしょう。そのためには、いつでも容易に演奏出来るところを練習しても仕方ないのであり、力量として不可能な場合は潔く棄て、出来ないながら自己の技術ならなんとか追いつきそうだと思われるところを充分チェックしてみて、そこについてはメンバーの衆智を集めてなんとかする・・・課題をしっかり発見し、解決する方向へと軌を一にしていけたら素晴らしいだろうな、と、ちょっと夢をみています。現実としては、まさにこの点について、まず私自身が不十分であったことを、よく反省したいと思います。
「お客様が聴きたい音楽を」
を目ざすことは、アマチュアにおいては、いらして下さったかたたちと音楽を素朴に共有出来る世界を築くことであろうかと思うのです。より質の高いものは本職さんの手に委ねる、のであっても、全く構わないのだとも思うのです。・・・でも、自分の努力は、自分という殻からやっとの思いで半身乗り出すくらいであろうと、少しでも外から自分というものを眺めつつやれるようになりたいな。・・・この器量なしでは実現が危ぶまれますけれど。

【楽器を持つことが練習ではない】
これは、私がセールスマンに奉職して楽器を手に出来なくなるのがはっきりしたとき、お世話になったかたが私に含めるように仰って下さった言葉です。
その後、セールスマンではなくなっても、家庭を持ってこのかた、私は家ではほとんど楽器を手にすることが出来ませんでした。家内を亡くした今の環境になってからは、事実上まったく、ウチで楽器は手に出来ません。
どうするか。
体のエクササイズとしては、楽器が手元になくてもやれるものは、もしレッスンを受けていらっしゃるなら先生がご存知だし、良いレッスン本ならいくつかを披露している場合もあります。それらをまずアタマに摺り込んで、日常の合間にチャンスを狙ってやることは可能だし、むしろ楽器を持たない方が
「楽器を持つとはどんなことか」
を考え、実際に手にしたときには新鮮に感じることになるので、私はそれらが案外有効なのには本気でビックリしたことがあります。あるいは、音楽以外の仕事、とくにスポーツ選手のフォームや、料理のプロさんの手さばきでも分かるのだ、とは、この言葉を私に仰って下さった方が重ねてお述べになったことでした。
もっと大切なのは、目の前に「今度の演奏会に乗せる曲」があるとき、それを自らのパート譜だけで全体像をつかめるまで、音を楽器で出してしまわないで、まず自分の中に「イメージ」を築き上げて行くことではないのかなぁ、とも感じています。
これは、その曲の「良い」音を聴いて、という手で築けるのかな、と考えたこともありましたが、間違いでした。練習の中で、各々が手探りで探っている像を、全体での練習の中から断片でもいいから1回1回記憶して帰って、自分のパート譜だけを読みながら、そこに他の人たちが出していた音を重ね合わせていく。パート譜という問題集の答えはオーケストラならスコアに書いてるんですけれど、スコアはやっぱり回答集に過ぎませんから、まずは問題そのものであるパート譜を読み込んだ方がいい。クルマを運転して全体練習に通っているのでは無理ですが、そうでなければ、これだけなら行き帰りの道だけで充分出来るし、そこで一生懸命考えていれば、飯を食っているときでも用便しているときでも思い出して反芻し、ぼんやり気楽に考えることができます。
どなたもがたいへんお忙しい日常をお送りのことでしょうから、どうでしょうか、こんなふうなことであれば、普段でも何かがやれることの小さなヒントにはならないでしょうか?

【いろいろな録音を聴くことについて】
楽隊なんか好きな人は、コンサートに出掛けることや録音を聴くことも大好きだったりします。
で、コンサートにいく時間が取れない忙しい人は、CDやMP3ファイルなどの録音を一生懸命聴きます。
ここに、落とし穴があると思うのです。
録音は、音が実際に鳴っていた空間にある豊富な情報の、芯の部分しか残していてくれない。
自分たちの録音を注意深く聴くと、それははっきり認識出来る気がします。
メーリングリストにちら、と流しましたけれど、実際に演奏しているときに全身の皮膚感覚で感じる微妙な間合い(メーリングリストではテンポのことだけを示唆しましたが、他には音程や音量、音の輪郭線とでも言うべきもの・・・鋭かったりぼかされていたり・・・も同じ)は、ぜんぜん分からなくなってしまいます。音の芯だけになってしまった録音では、耳だけが情報を集約してしまうせいでしょうか?
ですから、自分たちの演奏の参考にしたいために録音を聴く、との目的があるときには、かなり注意しなければいけません。
手っ取り早いのは、まだ実感が失われていないうちに、このあいだの録音を聴いてみて、あの日自分が感じたであろうこと(の多さ)と録音を聴いて感じること(の少なさ)を比べて考えてみることです。
そして、できることなら、いい機会を見つけて、優れた演奏の録音からも、同様に
「この録音から復元すべき音楽の情報は何か」
を考え、復元を試みる習慣を持って行けるようなら、なおよろしいのではないかと思っています。

以上、もっと手短になるはずだったのですが・・・スミマセン!

目を通して頂けたようでしたら、演奏会そのものへ、に合わせて、さらに重ねて御礼申し上げます。

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2011年6月17日 (金)

イタリア風に聞こえるオーケストラ演奏とは。

大井浩明さん芦屋シリーズ第1回は6月18日です。
http://ooipiano.exblog.jp/16136451/
http://ooipiano.exblog.jp/16465036/(第1回曲目解説)
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/2011618-e25a.html


説明しません。
こんど「名物故」ちゃう、「ナブッコ」序曲やるかたたちに目に見て耳に刻んで欲しいだけでございます。曲は違って、『運命の力』序曲ですが。


見て聴いて応用編で胸に刻む、は、媒体が豊富になった今日この頃、とてもおろそかにされていると思います。

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2010年6月20日 (日)

終了御礼:東京ムジークフロー第47回定期演奏会

東京ムジークフローの定期演奏会は6月19日(土)浅草公会堂にて、おかげさまで大入りでした。ご来場の皆様、ご支援下さった皆様に心より御礼申し上げます。



上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック〜終了
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会〜終了
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。

oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。とりあえずバナーに大井さんのブログ記事をリンクしました。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

アマチュアオーケストラ「東京ムジークフロー」第47回定期演奏会は、昨日、サッカーの日本×オランダ戦と日にち・時間が被ったにもかかわらず、プログラム配布予定数を上回る多数のご来場をいただき、最後までお聴き頂ける光栄に預かりました。

団員のひとりとして、心から御礼を申し上げます。

プログラムをお渡し出来ていなかったかたには、大変申し訳ございませんでした。

私達の水準からは多少冒険の選曲だったかと思っており、第1曲の「魔笛」序曲から、みな非常に緊張しておりました。

が、客観的な出来がどうだったかはともかく、ブラームス第3でも、サン=サーンスでも
「ブラボー」
のお声がかかり、メンバー一同、面映いながらも非常に喜んでいるのではないかと思います。

今後ともお引き立てのほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

取り急ぎ、感謝をこめて。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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2010年5月30日 (日)

TMF5月30日練習記録

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・終了〜5月30日(日)西荻窪のサンジャック
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。



oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。とりあえずバナーに大井さんのブログ記事をリンクしました。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

本日も3時着で、恐縮でした。

手短に二点だけ述べますが、二つに共通するのは、「指揮者から見えきれない部分は団員相互の責任」なる金科玉条です。

一点目・・・まずは、「いい音楽を奏でたい」と各自が希求しなければ、いい音にはなりようがありません。かつ、いい音にする、とは、合奏の場合、相互のコミュニケーションの中で、ピアノで言うなら「指の交替」なり「ペダルの踏み込み・切り上げ」を如何に揃えるか、耳をすましあいながら決めていかなければならないという努力を要します。これは精神の姿勢の問題であって、指揮者のみならず、自分以外の誰にも責任転嫁は出来ません。このあたり、是非ともご一考下さい。

二点目・・・和声とテンポは、「自己完結」ではなく、周りから聞こえる音程・リズムをもって量らなければ・計らなければなりません。前回はテンポについては「少なくとも拍子の基本となる音符が四分音符なら八分音符まででの、可能なら十六分音符までのカウントを」というつもりで記しました。それはまず自分の中で心がけておかなければならないことではあります。ですが、もっと肝心なのは、たとえば管楽セクションのリズム打ちは、弦楽がさらに細かいパッセージを担当している場合には(弦楽器はパート内でその音符を揃えておくことに責任があるのですけれど)、そのパッセージの音がどのように流れているかに充分耳を傾け、その上に乗せるかたちでリズム打ちをしなければ、通常は前倒しになりすぎるといったことです。また、低音部が基礎リズムを打ち続けている場合には、細かいパッセージを担当するパートは、その基礎リズムを、旋律の構造に従ってさらに二分割・三分割・四分割のいずれかを基礎にして自己パートのリズムを構築しなければなりません。これもまた大事な相互関係です。以上のこと無くしては、テンポの変化(ルバートなりアチェランドなり)に「自然に」対応することは不可能です。
和声は多少難しいのは、アンサンブルの場合、旋律線(独立性のあるものと補助的なものがありますが、いずれであっても)の横の流れから単純に導かれる音程で奏し続けると、縦の線の和声という側面では大きなズレに広がってしまう懸念があることでして、指揮者には結果として「大きくなった狂い」しか聞こえない、と肝に銘じるべきです。横の流れが不自然にならないように心がけながら、縦の線をより重点的に意識するというのは、高度なことになりますが、私達に可能な限りの耳を研ぎすましただけでもいい線は行けると思います。

手短に、と申し上げたわりには、いえ、手短ですからなおのこと、すこし難しくお感じになられるかもしれません。
が、詰めの段階に来たところではとくにご留意頂きたいことではありありますので、お気に留めて頂けることを心から祈りたく存じます。

毎度僭越で恐縮ですが、なにとぞよろしくお願い申し上げます。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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2010年5月23日 (日)

TMF5月23日練習メモ

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。



oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。とりあえずバナーに大井さんのブログ記事をリンクしました。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

練習内容そのものより、通して感じたことを大雑把に述べてみたいと存じます。

さて、最初に、某団員さんのお話を伺って「そりゃ道理だ」と感じたことがありますので、それをちょっと。

「とくに管楽器に、吹きながら合間にスコアを一生懸命見ている人がいるけれど、ちょっと違うんじゃないかなあ。演奏中は流れを<聴く>ことに注力すべきであって、スコアを参照するのは、練習中であれば注意の<確認>のときだと思う」

・・・瞬間瞬間の響きがどうなっているかも重要ですが、全体としての音楽がどうなっているかに耳を傾け続けていることは、「集中」の上での欠かせない条件であり、これなくしてはいざトラブルだ、というときの対処も出来ないでしょう。
至極尤もと思いましたので、綴り留めておきます。


<ブラームス第3 第2楽章>
作曲者にとっては作り上げた音楽そのものがメッセージですから、作曲者が
「この作品のこの部分はこういう内容だ」
と述べていることは稀だし、述べてしまったら邪道なのだとも思いますが(んじゃ武満徹は邪道か?・・・なる細かいことは吹っかけられても論じませんけど)、言葉で述べるとしたらどのような言葉だったのだろうか、ということは享受者としての私達は常に想像をめぐらしておく必要はあるでしょう。とくにアマチュア演奏がボロを出しやすいのは、意外にもゆったりした音楽でありまして、この楽章ですと「・」のついた四分音符とついていない四分音符をどう区分するかによって
「ああ、こいつら、わかってるか、わかってないにしても考えてるか」
と聴き手にしっかり受け止めてもらえる(失敗すればそこで席を立たれる)のでしょうね。
で、スラーのついていない四分音符も、練習記号Cの部分やGの部分はベタでは次の二分音符にくっつかない。骨と骨の間に軟骨が必要なように、粘着力のあるクッションとしての「間」が必要です。息のスピードないし弓のスピードを「微分的には」四分音符と二分音符の接続というタイムテーブル上でどのように変化させるか、を計るのは大変な作業ですが(個人的にはここにはルバートが介在するのではないかと考えております、非があるようでしたら是正しますけれど)、センテンスを成り立たせるための計量を怠らないのがよい仕上げへの第一歩となるかと存じます。

<同 第1楽章>
じつは、練習記号Lのところを私はまだ読み切っておらず、「どうせ弦楽器はユニゾンだからサボれるな!」とタカをくくって弾くふりだけしておりましたが、ふたを開けてみたら誰も弾けていないではありませんか!!! (^^;
・・・まずは、弾かなくていいから、読みましょうね。はい、私もです。(T_T)
ローカルな話はこれだけにしまして、とにかく楽章全体、ブラームスは小節線から音楽をずらすことをわざと意識して意地悪な組み立てを徹底して行なっています。のみならず、素直に流せば済みそうな部分でも、シンコペーションを噛ませて、固定的なリズムが際立たないように曲を構成しています。したがって、音楽が常に横に流れるようにとの要求が作曲家によってなされているわけですが、それを実現するためには演奏者は非常に厳格な「カウント」を要求されます。全体の指定からあえて「外した」移動拍に寄り添ってしまった方がラクだから、と、思ってしまいがちですが、極力厳格に、小節内の拍をカウントしてみて下さい。もう少しかっちりとした響きになるはずです。次回この楽章を練習するときにそれを心がけていれば、本番には「拍ズレを意識させない」演奏に出来ると思います。

<サン=サーンス第1曲>
ブラームスの第1楽章のような意地悪さが無い分、拍をカウントしていないのがよりはっきり分かってしまいます。足踏みしたり体を揺さぶったりのカウントはすべきではないと信じますが、胸の中で常に「123|123|123」あるいは「123|456|789」のカウントを、できればこういう整数単位ではなく、0.5ポイント単位でなさって下さいますように。

<「魔笛」序曲>
・・・南無三!
ズレたらズレっぱなしで演奏するのだけは、やめましょうね~。(T_T)
それから、えっと、魔笛には「象サン」が登場するんでしたっけ?

あっ、そうか、最初の場面に怪物が出てくるんだった!
すぐやられちゃうやつが。


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