柴田南雄『音楽史と音楽論』
岩波現代文庫として、2014年4月16日に発行されました。
これが実際の発行日なのか、それより前に書店店頭で見かけたのか、いや、そのあとだったのか、もう記憶が定かではありません。
手にとっていったん棚に戻したのですが、やっぱりまた手にとって、買ってしまいました。
http://www.amazon.co.jp/dp/4006003102/
日本人が日本と西欧を対比しながら音楽史や音楽の考え方の変遷をまとめる、という試みで最も記憶に残っていたのは團伊玖磨『私の日本音楽史』(NHKライブラリー http://www.amazon.co.jp/dp/414084101X/)でしたが、團さんの本は團さんご自身の貴重な体験を踏まえながら記された味わい深い本でした。
そういうスタンスではなくて、もっと思索的に、日本をめぐる音楽の歴史を見つめてみたい、との熱意から書かれたのが、柴田南雄さんのこの『音楽史と音楽論』ではないか、と、まず立ち読みしたときに強い印象を受け、やはり眼を通さずにはいられなくなって買ってしまったのでした。ただし、実際には思索を主にするには成立事情からちょっと制約はあったようです。
もともとは出来立ての放送大学の講義用テキストを意図したもの(1988年)だそうですが、あれもこれも言っておかずにはいられない、というくらいに豊富な情報が、分かりやすく、しかも興味でぐいぐい読者を引きつけるように並べられていますから、一気に読んでしまえます。
柴田氏の意図は、あとがきにご本人により7つに要約されていますが、それをさらに詰めるならば、本書の趣旨は
・日本の音楽史を中国、朝鮮、中世以降の西欧と直接対比させながら音楽文化を考察(満遍なく諸民族の音楽の歴史に触れることは避けた)
・そうしてみると、直接の影響以外に、同時期的には相互に共有される時代様式、時系列的には外来音楽日本が受容するパターンの類似の繰り返しがあると判明する
・その他
といったところかなあと思います。
思索的であるためには網羅的であることをあきらめなければならないのですが、本書は教養テキストでなければならなかったために、網羅性を選択し、そのぶんおそらくもっと意を尽くしたかったかも知れない思索部分はやや後ろに回っています。
そうはいっても、人間・・・とくに日本人と音楽との関わりを俯瞰する興味を最優先させたければ、本テキストの方法をとらざるを得ない面はあるかと思います。
網羅的であることの欠陥として、とりあげている項目の音響像が一切明確でない恨みも残ります。音響面に関しては読者が知っていることが前提されないと、記述の平易さにもかかわらず、本書そのものが分かりにくいものになってしまいます。そこは放送大学のテキストでしたから、本来は放送で補われていたし、またそういう補いのあることが、必要な前提であったのかも知れません。
また、これは人間誰しも襲われる欲求ではありますし、それがあることでテキストとしての使用を歓迎される仕立てにもなるのですが(たとえば岡田暁生『西洋音楽史』)、著者自身が「感得」した、まだ本当には証明が確立されていない「法則」を一般図式化することに急な傾向が見られます。それらが充分な説得力を持ってしまうことには、読者を一定観念で縛る危険性が孕まれます。
しかしながら、本書には柴田氏自身が以上のような呪縛からどうにか逃れつつ書いてみたかったのではないかと感じる部分がところどころにあって、それがとくに古代の部分と現代の部分という両極に端的に見られるところが非常に興味深く思われました(まあしかし、このあたりは勝手な勘ぐり読みに過ぎません)。
古代の部分は、著者が注に記した文献以外に執筆当時の考古学の発掘や研究報告書を熱心に読んで書かれたようで、その後の有名な捏造発覚事件でふいになったことがたくさんあるのが残念ですが、この点を含め是正すべき点の主要な事柄については再刊版あとがきで笠原潔氏が列挙して下さっています。逆説的なのが皮肉ですけれど、このことによって古代を扱う1〜2章はエッセイとして柴田氏の思索姿勢を楽しみ得る良い部分になっています。
現代(柴田氏が亡くなった1996年現在に比較的メジャーだった事柄まで)の記述が前向きであることは、現代については悲観論ばかりだったり無視だったり、日ごろは過去の流行に迎合していながら自らのステータスのように20世紀音楽を一律現代音楽と称してとりあげて誇ってみたりする不自然な風潮と明確に一線を画していて、とくにいま専門に音楽・音楽史に携わるかたがたには是非きちんと読んで頂くべき大切な部分ではないかと思います。
第二次世界大戦後の音楽のありようについて、いたずらな終末論に陥ることなく、
「今や、純粋な西洋文明そのものは終わりを告げ、合理的な文化の時代に入ろうとしているのであり、音楽の領域もその例外ではない」(247頁)
「【現代のさまざまな態様にもかかわらず】ヒトは太古からの歌う習慣や弾く楽しみをそれらによって奪われることはあり得ない」(248頁)
「今やわれわれは西洋音楽の埒内にとどまって、音楽の未来について考えることはできない。西欧の音楽家や思想家たちも、われわれの環境にあるさまざまな音とのかかわり、非ヨーロッパ的な音楽認識へのアプローチ、あるいは、中世において美術・幾何学・天文学・音楽が四種の学芸(クァドリヴィウム)であったことを再び想起させるような考察、など、これまでとは異なる地点に立ち、新たな地平に未来を展望している」(249〜250頁)
と記している最終部は、柴田氏にとっては先行する各時代の記述のあちらこちらに埋め込まれた視点の要約になっているのでして、読者にとってはそのおおもとの視点を各章から読みとるのが本書を手に取る最大の喜びになるかと思います。そしてそれは、悲観的でも楽観的でもない、おおらかな「歴史と今」を展望する眼を再構築する上で妥当な基準点を私たちに提供してくれるものでもあります。
なお、古代と現代を除いては各章が各時代を均等に扱っていることにより、日本人が専ら享受しているバロック〜後期ロマン派(20世紀前半まで)の西欧クラシック音楽が約250頁の分量の本書の中で11頁にしかなっていません。時間を物差しにしたときのこの分量の正当性について、私たちはよく再認識しておくべきであるかもしれません。
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