音楽

2014年4月27日 (日)

柴田南雄『音楽史と音楽論』

4107qij1tzl_sl500_aa300_ 岩波現代文庫として、2014年4月16日に発行されました。
これが実際の発行日なのか、それより前に書店店頭で見かけたのか、いや、そのあとだったのか、もう記憶が定かではありません。
手にとっていったん棚に戻したのですが、やっぱりまた手にとって、買ってしまいました。

http://www.amazon.co.jp/dp/4006003102/

日本人が日本と西欧を対比しながら音楽史や音楽の考え方の変遷をまとめる、という試みで最も記憶に残っていたのは團伊玖磨『私の日本音楽史』(NHKライブラリー http://www.amazon.co.jp/dp/414084101X/)でしたが、團さんの本は團さんご自身の貴重な体験を踏まえながら記された味わい深い本でした。

そういうスタンスではなくて、もっと思索的に、日本をめぐる音楽の歴史を見つめてみたい、との熱意から書かれたのが、柴田南雄さんのこの『音楽史と音楽論』ではないか、と、まず立ち読みしたときに強い印象を受け、やはり眼を通さずにはいられなくなって買ってしまったのでした。ただし、実際には思索を主にするには成立事情からちょっと制約はあったようです。

もともとは出来立ての放送大学の講義用テキストを意図したもの(1988年)だそうですが、あれもこれも言っておかずにはいられない、というくらいに豊富な情報が、分かりやすく、しかも興味でぐいぐい読者を引きつけるように並べられていますから、一気に読んでしまえます。
柴田氏の意図は、あとがきにご本人により7つに要約されていますが、それをさらに詰めるならば、本書の趣旨は
・日本の音楽史を中国、朝鮮、中世以降の西欧と直接対比させながら音楽文化を考察(満遍なく諸民族の音楽の歴史に触れることは避けた
・そうしてみると、直接の影響以外に、同時期的には相互に共有される時代様式、時系列的には外来音楽日本が受容するパターンの類似の繰り返しがあると判明する
・その他
といったところかなあと思います。

思索的であるためには網羅的であることをあきらめなければならないのですが、本書は教養テキストでなければならなかったために、網羅性を選択し、そのぶんおそらくもっと意を尽くしたかったかも知れない思索部分はやや後ろに回っています。
そうはいっても、人間・・・とくに日本人と音楽との関わりを俯瞰する興味を最優先させたければ、本テキストの方法をとらざるを得ない面はあるかと思います。

網羅的であることの欠陥として、とりあげている項目の音響像が一切明確でない恨みも残ります。音響面に関しては読者が知っていることが前提されないと、記述の平易さにもかかわらず、本書そのものが分かりにくいものになってしまいます。そこは放送大学のテキストでしたから、本来は放送で補われていたし、またそういう補いのあることが、必要な前提であったのかも知れません。
また、これは人間誰しも襲われる欲求ではありますし、それがあることでテキストとしての使用を歓迎される仕立てにもなるのですが(たとえば岡田暁生『西洋音楽史』)、著者自身が「感得」した、まだ本当には証明が確立されていない「法則」を一般図式化することに急な傾向が見られます。それらが充分な説得力を持ってしまうことには、読者を一定観念で縛る危険性が孕まれます。
しかしながら、本書には柴田氏自身が以上のような呪縛からどうにか逃れつつ書いてみたかったのではないかと感じる部分がところどころにあって、それがとくに古代の部分と現代の部分という両極に端的に見られるところが非常に興味深く思われました(まあしかし、このあたりは勝手な勘ぐり読みに過ぎません)。

古代の部分は、著者が注に記した文献以外に執筆当時の考古学の発掘や研究報告書を熱心に読んで書かれたようで、その後の有名な捏造発覚事件でふいになったことがたくさんあるのが残念ですが、この点を含め是正すべき点の主要な事柄については再刊版あとがきで笠原潔氏が列挙して下さっています。逆説的なのが皮肉ですけれど、このことによって古代を扱う1〜2章はエッセイとして柴田氏の思索姿勢を楽しみ得る良い部分になっています。

現代(柴田氏が亡くなった1996年現在に比較的メジャーだった事柄まで)の記述が前向きであることは、現代については悲観論ばかりだったり無視だったり、日ごろは過去の流行に迎合していながら自らのステータスのように20世紀音楽を一律現代音楽と称してとりあげて誇ってみたりする不自然な風潮と明確に一線を画していて、とくにいま専門に音楽・音楽史に携わるかたがたには是非きちんと読んで頂くべき大切な部分ではないかと思います。

第二次世界大戦後の音楽のありようについて、いたずらな終末論に陥ることなく、
「今や、純粋な西洋文明そのものは終わりを告げ、合理的な文化の時代に入ろうとしているのであり、音楽の領域もその例外ではない」(247頁)
「【現代のさまざまな態様にもかかわらず】ヒトは太古からの歌う習慣や弾く楽しみをそれらによって奪われることはあり得ない」(248頁)
「今やわれわれは西洋音楽の埒内にとどまって、音楽の未来について考えることはできない。西欧の音楽家や思想家たちも、われわれの環境にあるさまざまな音とのかかわり、非ヨーロッパ的な音楽認識へのアプローチ、あるいは、中世において美術・幾何学・天文学・音楽が四種の学芸(クァドリヴィウム)であったことを再び想起させるような考察、など、これまでとは異なる地点に立ち、新たな地平に未来を展望している」(249〜250頁)
と記している最終部は、柴田氏にとっては先行する各時代の記述のあちらこちらに埋め込まれた視点の要約になっているのでして、読者にとってはそのおおもとの視点を各章から読みとるのが本書を手に取る最大の喜びになるかと思います。そしてそれは、悲観的でも楽観的でもない、おおらかな「歴史と今」を展望する眼を再構築する上で妥当な基準点を私たちに提供してくれるものでもあります。

なお、古代と現代を除いては各章が各時代を均等に扱っていることにより、日本人が専ら享受しているバロック〜後期ロマン派(20世紀前半まで)の西欧クラシック音楽が約250頁の分量の本書の中で11頁にしかなっていません。時間を物差しにしたときのこの分量の正当性について、私たちはよく再認識しておくべきであるかもしれません。

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2014年2月24日 (月)

スタッカートについて

所属団体の練習で
「スタッカートは<音を短くする>のではない」
云々をめぐって少し議論がありましたが、よいことだと思いますので、いくつかの資料を引用してみます。
(前半で概略は理解できると思いますが、後半をお読みになると、わりと面倒なんだな、ともお分かり頂けるかと思っております。)

お考えになる上での参考にして頂ければ幸いです。


・・・でも、残念ながらスタッカートには<切る>という意味は全くないのです。
スタッカートは<切る>のではなく「離れた、分離した」という意味です。
(中略)
くっついているものを離すのがスタッカートですから、切手を葉書からスタッカートする、シールをスタッカートする、電車の車両連結をスタッカートする、あるいは「あの人は危険人物だからスタッカートした方がいいわよ」など、さまざまな状況で広く使われています。
どれも<切る>ではなく、あくまでも<離れる>という意味です。
音が離れていれば、もうそれはスタッカート。
ということはレガート(音を結ぶ)でなければ、基本的にはすべてスタッカートということになります。(略)
ある辞典では、スタッカートは音の長さが1/2になる。そしてメッゾ・スタッカート mezzo staccato は3/4、スタッカッティスィモ staccattissimo は1/4になると定義しています。しかし、そんな風に覚えてしまうのは大変危険です。だってそんな決まりなどないのですから。
スタッカッティスィモは最上級ですから、たしかに音の長さは一番短くなります。でも、それとて感覚の世界です。曲の雰囲気や速さやスタイルなどのいろいろな状況でスタッカートの表情も変わります。
(関孝弘/ラーゴ・マリアンジェラ『これで納得! よくわかる音楽用語のはなし』226〜228頁 全音楽譜出版社 2006年)


スタッカートの記譜法は、時代によって多少の相違がある。バロック時代には、スタッカートは短い垂直線またはダッシュを、音符の上または下につけて指示した。(略)スタッカートの意味でを用いるようになったのは、たぶんレオポルト・モーツァルトがはじめててあろうと推定されている【注:この説は誤り。少なくともC.P.E.バッハの1753年著『正しいクラヴィーア奏法』に用例と点の使用の明言がある。後出訳書181頁。L.Mozartの『ヴァイオリン奏法』は1756年の刊行。どちらの書にもくさび形と点の両方の例がある】。(略)C.P.E.バッハ、ハイドン、ベートーヴェンなどは、こんにちのスタッカートにあたるものを<くさび形の記号>であらわし、メッゾ・スタッカートにあたるものをであらわしている。
(『標準音楽辞典』音楽の友社 昭和41【1966】の「スタッカート」の項、岩井宏之執筆)


スタッカートのパッサージュを教える場合、教師は学生にたいし、パッサージュを構成する音符はみな、同じ速さで発音され、明確にされ、しかも互いによく分け隔てられ、切り離されるようにして、声をごく軽快に動かすことを覚え込ませなければならない。それというのも、パッサージュを構成する音符どうしは、過度にくっつきすぎても、過度に離れ過ぎてもいけないからである。
ヨハン・フリードリヒ・アグリコーラ『歌唱芸術の手引』154頁 1757年 第4章§4 トージ1723年著による原文部分の訳 東川清一訳 春秋社 2005年)


アレグロの活発さは概してスタッカート音符、そしてアダージョの優しさは保持されたレガート音符で表現される。(略)私がすぐ上で、わざと「概して」と言ったのは、どんな音符でもあらゆるテンポであらわれ得ることを、私はよく心得ているからである。
C.P.E.バッハ『正しいクラヴィーア奏法』第一部 175頁 1753年 第3章§5 東川清一訳 春秋社 2000年)

スタッカート演奏は、音符の時価が2分音符か4分音符か8分音符か、テンポが速いか遅いか、その楽想が強いか弱いかを考慮しながら、それらを区分しておこなわなければならない。
(同上 182頁 ただしC.P.E.バッハの主張では「この場合音符はきまって、その時価の半分よりはいくらか短めに保持される。」〜次出テュルクの記述も参照。C.P.E.バッハにおいては「時価の半分の長さ」はスタッカートでもレガートでもない場合の音符の長さであることには留意が必要。すなわち、スタッカートは音符の長さを「半分にする」のではなく、普通より短めにする、と言っているのである。)


(C.P.E.)バッハ(Ⅲ §22)は「スタッカートでもレガートでもなく、また音符の時価いっぱいに保持するのでもない音符は、その時価の半分の長さだけ保持する」と述べている。しかし全体としてみると、この奏法は私には、必ずしも最良ではないように思われる。なぜなら、
1)曲の性格のために、そのようには弾けないケースが多い
2)そのことによって、実際にスタッカートされるべき音符と通常の奏法で奏されるべき音符のあいだの相違がほとんど完全に解消される【注:スタッカートの音とそうでない音の区別がつかなくなる意】。
3)レガートされるべきではない音をすべて、その時価の半分しか保持しないで、その後半のあいだ休むとすれば(掲載例省略)、その演奏は短すぎるということにもなる
からである。
ダニエル・ゴットロープ・テュルク『クラヴィア教本』412頁 1789年 東川清一訳 春秋社 2000年)

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2012年10月 1日 (月)

かたちにする

10月4日(木)第1回2012年POC:ラッヘンマン&ホリガー(大井浩明さん)
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/102012poc-ce53.html

かえりみるに、音楽ほど奇妙な享受のされ方をしているものはない気がします。
お子様の教室発表会はともかく、大人の演奏会でも、
「きゃっ!」
と叫び声を【聞こえる場合と聞こえない場合がありますけれど】あげて、また間違ったところからやり直す、なんてことが、日常茶飯事でもある。

え〜? お客さんからブーイングでないの〜? 

出ないんです。

だって、お客さん、身内だもの。

つっかえて戻る、じゃなければまだまし、なんですけれど、造型がちっとも分かんない、と思って聴いてても、終わって、隣の席の人が
「ブラボー!」
なんてやるもんなら、いやぁ・・・おいらの耳が悪いんだろう、きっとそうなんだろう、と、こっちも顔が真っ赤になるまで熱狂して拍手して、なんだかわけわかんなくなる。

かと思うと、ある大変に技術のある演奏家さんが、とっても独特な演奏をすると、
「こんなセンチメンタルなバッハのアリア、バッハちゃうがな・・・技術も旧式だし」
と、ツウの人が言うのを聞かされて、いやぁ・・・おいら、わりといいと思ってたんだけど、でも、いい、だなんて口にするのはやめよう、と、姑息な根性を発揮してしまう。

でもねぇ、つっかえてお茶を濁したものより、おお〜、って思わず身を乗り出してしまうような、強い造型の線や肉付けのあるものが、本来はきちんと「音楽」としてまかり通っていてくれないかなぁ、と思うのです。

これ、つっこむと難しい問題がいっぱい出てくるので、あっさりこれで通り過ぎておきたいのですが。。。

まず「造型のきちんとした調べ」だからこそ、初めて耳にし体で受け止めても、なんだか身震いするのをおぼえてしまう素晴らしさがあるんだ、と、そのように思うのです。

だって、自分が最初に、雷に打たれたように音楽に打たれた、なる経験、って、そういうものからもたらされたのではなかったのか知らん?

それが、なまじっか、自分自身も歌ったり楽器を弾いたりし始めて、なんだか技術のことにばっかり気をとられて、技術が身に付かないからつっかえまくって、そのまんま・・・まぁ素人なら仲間内程度だったりしますから、話の振り出しに戻るわけですが・・・お客さんに聴かせて恥じ入らなかったりして。

わぁ、おいら、わりと、いや、かなり、とんでもないかもしれない!

とんでもない、のは、やっぱり何かおかしいですよね。

んじゃぁさぁ、その、造型のきちんとした調べ、って何なのよ?

となると、現代音楽、とりわけ前衛と呼ばれているものは、とことん「そんなものをぶっ壊せ〜〜〜!」ってやってるんだから、造型なんて分かんなくて当たり前、って話になります。

んで、私はいまだに、分かってるか、と言われれば、分かりません。頭では、たぶん永久に分かりません。
それで、ずっと、受け付ける耳を持ってこなかった、受け付けるフリをしても、受け付けられなかった、と言えるでしょう。

ところがどっこい、最近は前衛音楽にも、なんだかゾクゾクと震えが来るような感覚を覚えるようになりました。

大井浩明さんの演奏、との出会いが、大きかったです。

大井さんは強過ぎるくらいアクの強いキャラだ、と、個人的には、なんとなく感じております。
あくまで推測ですが、たぶん、お話なんかしたら、ことばにとんがりがある。敵が出来るのを辞さない。それで誤解もいっぱい受けるけれど、それも構うもんか、と、(たぶん)つい、そんなふうにしてしまう。
くどくなりますが、あくまで次に言いたいことのための、私の勝手な推測です。
なんでこんな推測をするのか、は、大井さんの演奏会ごとのこだわりの強さへの印象が、そのようなものだからです。

1回1回のご自分の演奏会で、ひとりないしふたりの作曲家の作品の「造型」に、徹底的にこだわる。ときには、いや、いつもか!、事前に採り上げる作曲家に否定的な見解をお述べになったりするのだけれど、取り組むからには、その否定的に見ている作曲家の作品であっても、絶対に否定しない。
そこの矛盾は、案外まわりに気づかれていない気がするのです。
作品は、取り組む上では決して否定しないどころか、作品の持つ「造型」世界を、くっきり浮かび上がらせる最大限の努力を払う。

ここが、非常に魅力でしたし、初めて大井さんの現代曲演奏を拝聴して以降、今なお、私にはたいへんな魅力です。

既存の「造型」を否定するところから始まっている前衛に、否定から出発したが故の「造型」があることを、演奏会の場では理屈抜きに、ぐいぐいと知らせてくれる。

それはしょっぱなから不思議な体験でしたし、不思議でありつづけることでもあります。

ひとつひとつ、1回1回にこだわりながら、なおかつ本当に注目すべきは、網羅的に見るとき、大井さんが採り上げている作曲家さんは、昔の大家から未来の大家まで、たいへんに幅が広いことです。
大井さんの演奏会を通じて、聴きにいらした方の認識が新たになったり、より広く知られるべきであることが浮き彫りになったりした人・作品が、たくさんあります。

日本の作曲家も頑張っている。
海外の作曲家も頑張っている。

でも、大井浩明という演奏家がいなかったら、その誰もが、こんなにまんべんなく、少なくとも私という「いち素人」に、音の曼荼羅を繰り広げてくれることがあっただろうか・・・

拝聴しているあいだ、私の眼の中では、大井浩明という演奏家は、音の中に溶けて輪郭がなくなります。
「え? あんだけおっきい人なのに!」
というツッコミはさておいて、いざその場になったら、ある意味では安心して、音そのものに浸る初心へと素直に聴き手を回帰させてくれる。しかも前衛作品を通じてでも(そして古典でも)それを実現させてしまう。

大井さんを宣伝しようと思ってるんだから(なんでこんなばかな文綴るか、って、ご本人にはおこられるでしょうねぇ・・・)大井さんの話になっちゃったけれど、ともあれ、「造型」に分け隔てなく耳を傾ける、全身を深く委ねる、その貴重さを毎回しみじみ知らせてくれるこういう機会は、ずっと大切にして行きたいと思っています。

音楽そのものを、私たちの内側で、かたちにする。

そうでなければ、音楽なんて、あっても何の意味もないかもしれないのです。
なんてことを感じています。

・・・おいらは、どうも、文がヘタだなぁ。(><)

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2011年4月 5日 (火)

ベートーヴェンに負わせるな。

ふと思い立って、R.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を、数日聴いてみました。
彼はいったい、この中で何を書きたかったのか、という興味からだったかも知れません。
聴くにあたっては、曲が作られた背景や、R.シュトラウスその人が言葉で語っている趣旨は、度外視しました。

数日聴いての実感。

「この作品は、リヒャルト・シュトラウスによって作曲されたという事実以外に、なんの価値も有しない」

声部がどのように緻密に描かれているかどうか、等々ではなく、率直に、耳を傾けていて吸引されていくような何ものをも感じることが出来なかったのです。
・・・それ以上の意味ではないかも知れません。
・・・この作品をお好きな方、ごめんなさい。

音という具象を<意図的に>用いるのであるかぎり、そこにはなんらかの造型が孕まれているでしょう。
であれば、R.シュトラウスは、この一塊の造型によって何を私たちに見せたかったのか。

この作品は、周知のように、終結部にベートーヴェン「エロイカ」の葬送行進曲冒頭部を低音に奏でさせてしめくくりに向かいます。
そのような引用もしくはコラージュの部品としての「エロイカ」葬送行進曲は、実は前半部で既に第2動機が付点音符の下降形として別部品扱いされて登場しており、しかもそこでは部品はベートーヴェン作品として聴き手に認知されないよう、すぐに様々な彩りを加えられ、とくに「アリアドネ」音型で包み隠されているために、本来の葬送行進曲としてのシンプルな機能を奪われています。
「アリアドネ」のモチーフは、その鮮烈な明るさにもかかわらず、というよりはむしろ、その明るさが鮮烈過ぎるが故に、作品の色合いを、むしろぼかしてしまうはたらきしかしていません。
ですから、頻出するエロイカの葬送行進曲の(大きい意味での)第2動機は、いよいよこれで締めだ、というときに低音に登場する第1動機を初めて明確に聴かされたときようやく正体が悟られることとなり、
「なぁんだ、そういうことか!」
なる、とって付けたような回想で私たちを失笑させさえしてしまいます。

「ティル・オイレンシュピーゲル」で、「サロメ」で、輝いていたこの作曲家は、どこへ行ってしまったのでしょうか?

早い晩年を迎えたモーツァルトやシューベルトの場合には、本人が意図したかしなかったかにかかわらず、その晩年には拡散していっても構わない飛翔がありました。ベートーヴェンその人の晩年はまた、軽やかさを獲得していました。
そういう晩年を手中にする保証のなかったロッシーニは、(おそらくは社会的駆け引きの結果でもあるのでしょうが、後世から見れば賢明にも)主たる創作活動からはさっさと身を引きました。・・・シベリウスはなぜだったのでしょう?
マーラーは死ぬギリギリまでドロドロでした。
まあそんなのは、人それぞれでもいいのでしょう。

作品に晩年を曝すかどうか、もあるのですけれど、曝しているかぎりは、飛び去ろうが軽業しようがドロドロを見せようが、それぞれに何かが詰まっていれば面白い。

「メタモルフォーゼン」は、そうした晩年の条件に当てはまりません。

調性音楽でありながら、「トリスタン」的転調を多用することで、聴き手からするすると逃げることに専心しているようです。・・・それを、巧みな書法、と持ち上げてしまってよいのでしょうか?「トリスタン」的転調を永久機関のように用いることは、無調へも向かえない半端さの裏返しとなって、聴き手をぐい、と捕える力を喪失させてさえいるように感じます。

そこには、現役作曲家として一色の色調の中で長生きをし過ぎたR.シュトラウスの、老いのからっぽさしか見て取れない。

これは、廃墟の風景の音楽なのでした。
具象風景だけでなく、心象風景までもが廃墟になってしまっている。

いや、言葉が過ぎたかも知れません。

「老い」をもとことん老いた彼だからこそ、書いても許される音楽だったのかも知れません。

こんにち、音楽はモーツァルトやシューベルトの飛翔をも、ベートーヴェン晩年の軽妙さをも超えて、方法上は自由に浮かんだり沈んだり出来る多様な語彙と手段を獲得しています。

では、多様な語彙や手段をもって、R.シュトラウスの廃墟からほんとうに立ち上がったと言える音楽がどれだけ生まれて来ているのか。
たしかに気配はある、と信じ続けているのですけれど、つかもうとすると、それはただ焼け野原にくすぶり続ける硝煙と、未だ見分けもつかず、手でも触れられません。

ベートーヴェンの部品を感傷に用いることで「虚」を演出した晩年作は、ショスタコーヴィチもヴィオラソナタとしてものにしています。しかも、やはり同じ「同音程に留まる付点音符」のモチーフ(こちらは「月光」ソナタから、ということになっています)であるところが、人間のふるまいの傾向を探る上で興味をそそります。
そんなかたちで用いることが、しかし、20世紀における19世紀の継承だったのだとしたら、それはやはり硝煙とともに空に散乱するしかなかったのも当然だったのかな、と考えてしまいます。

19世紀はすべての「正」をベートーヴェンに負わせたのだったでしょうか?
だからこそそれは、R.シュトラウスやショスタコーヴィチの「滅び」の象徴として廃墟を演出することにもなったのでしょうか?

R.シュトラウスやショスタコーヴィチによって用いられた部品は、しかしながら、ベートーヴェンにとってはまだ「達成」への発展途上にあったときに用いてみた小道具の一つに過ぎなかったのです。「エロイカ」とはそういう作品ではなかったのでしょうか?

発展途上部品を虚空に消し去ったのは、たとえシュトラウス・ショスタコーヴィチ共に尊敬すべき先人であっても、誤りだった、と、私たちは認識しなおしてみてもよいのではないか?
その認識がさらに誤りなのなら、誤りを見出す能力を確実に獲得した次世代が、よりよい稔りをもたらす種となるのではないか?

・・・そんなものは幻想に過ぎないのか?

過ちは、すべてを汚染して、すべてを滅ぼして、それを犯した種の終末に向かうしかないのでしょうか?
あるいは、過ちは同じ種の中で、その生を改めるステップとして、次世代の耕す焼畑の有効な天然肥料足り得る灰となれるのでしょうか?
果たして、次世代などというものが、あり得るのでしょうか?

もはや世紀も変わりました。答えをベートーヴェンに負わせることは、もう許されないでしょう。

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2011年3月30日 (水)

仙台フィル【転載】「音楽の力による復興センター」事業にご協力を

元記事:http://www.sendaiphil.jp/news/index.html#news110328

2011年3月28日
「音楽の力による復興センター」事業にご協力を

さまざまな災害で、音楽は計りしれない力を発揮してきました。私ども仙台フィルには、クラシック音楽の演奏とそれに伴う諸々の業務に関するノウハウと人的資産があります。
このセンターは、その資産をもとに多くの志をともにする方々とともに、被災者に直接音楽を届け、復興に生かすために設置されるものです。
どうか、私どもの趣旨にご賛同、ご協力いただきますよう心よりお願いいたします。

■活動の内容:直接被災地、避難所を訪ねてのコンサートをボランティアで行う 

■ご賛同いただける皆さんへお願いしたいこと:

 ① 演奏会実施のための資金のご援助
 ② ボランティアで活動していただけるアーティストのご参加
 ③ 被災者が集まりやすく 演奏できる会場について、場所や情報のご提供 

■センター代表 大滝 精一 (東北大学経済学部教授、せんだい・みやぎNPOセンター代表理事) 
 (事務局業務については、仙台フィル事務局員がボランティアで従事します)

■センター事務局 公益財団法人仙台フィルハーモニー管弦楽団事務局内 
 〒980-0012 仙台市青葉区錦町1-3-9 
 電話022-225-3934 FAX022-225-4238
 E-mail: info@sendaiphil.jp 

■お振込先: 七十七銀行本店 普通預金 口座番号 7921667 
  口座名義: 音楽の力による復興センター 代表 大滝精一

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2011年3月23日 (水)

帰ってきたあいのてさん#10 - Drain Hose Music

こんなところにたのしいおとが!

「帰ってきたあいのてさん」も10個できちゃったんですね!
いつもうれしく見せていただいています。
YouTube見られるかたはぜひ見て下さいね!

「あいのてさん」ホームページからは、ほかのも見られるよ!

http://ainotesan.kenkenpa.net/ai-note/toppage.html

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2011年3月21日 (月)

ドラえもんの歌(おふらんす版)

もうしってるかもしれませんけどね〜
YouTube見られるひとはどうぞ〜

http://www.youtube.com/watch?v=R4KJ3cVYeaM

ほかのも、みてね〜

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2011年3月20日 (日)

アマチュア音楽家のお仲間へ

連日の地震で、ご心労のことと存じます。
アマチュア音楽家のみなさまがお元気でいて下さることを、心から祈っております。
どうぞ、ご無理のありませんように。

また、大きく被災した地域にご家族ご親族がいらっしゃる皆様に、併せてお見舞いを申し上げます。

地震につきましては、たとえば昨日宵の口の地震もあくまで余震でして、確実に規模は小さくなってきております。

大地震の後は1ヶ月前後余震が続きます。

東京隣接の県につきましては、昨日、小売店の物資状況を見て回ったところ、だいぶ落ち着きを取り戻しています。
ぜひ、安全第一にお過ごし下さいますように。

私自身が東北の生まれ育ちですので、地震発生後、ばかみたいに地震情報や関係リンクをブログに載せ続けました。
予想外に、たくさんのかたがご覧になったようでした。
ただ、役割を果たせたのかどうか、は、こころもとありません。
それも、もうすぐ終息だ、と、いま確信しております。

初期情報の役割はもう終わったと思っておりますが、その中に、皆様が生活情報を得る上で有益なリンクも張っております。なにかございましたら、下記リンクからお探しになって、お役立て頂けたらと存じます。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/cat22626942/index.html

皆様の元気なお顔を拝見出来る日を、とても楽しみにしております。

まずは、どうぞ、ご無事でお過ごし下さいますように。
ご自分が演奏するなんてことは、いっとき忘れて頂いても結構ですから。
そういうゆとりは、そんなにたたないうちに、またご自身のうちに戻ってきます。

くれぐれも、ご健康とご安心を大切になさって下さいね。

長々お邪魔致しました。

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2011年1月 9日 (日)

書かれていない音楽

小倉貴久子さん×大井浩明さん 2台のフォルテピアノによるモーツァルト全曲演奏会第3回第15〜18番)は、2011年1月13日(木)18:30〜 東京・池袋の明日館にて。今回はまたいっそう聴きごたえがあります!

Oguraooi


Douyaruno 「書かれていない音楽」だなんてものは、それこそ沢山あるでしょう。
民族音楽、とよばれる範疇に入るものは、ほとんどすべて、「書かれていない」はずです。
でも、そういう話ではありませんで、お許し下さい。

「書かれていない」ということが何を指すか、も、実はまた難しい。書かれている、というと、それぞれの音楽を聴いた印象を文に綴ったものも含まれますから、上で言ったことをさっそく覆すことになります。それでは趣旨に反しますので、文で綴られた感想・評論の類いは、まず除きます。
次に、音楽を文書に記録する媒体で、譜面なるものを思い浮かべますと、絵画的なものあり、文字で綴られたものあり、記号で綴られたものあり、と、だいたい三様あるでしょう。
で、実は、これだけの方法がありながら、それでも、創作家さんなり採譜をなさるかたなりが、そこに盛り込みきれない「音楽」がある。いま考えてみたいのは、そちらのことです。

絵画的な譜面、というので非常に面白い経験をさせて頂いたのは、そうしたことについてのパイオニアである大井浩明さんが昨年採り上げた松下眞一「スペクトラ第5番」を復活上演なさったときでして、ピアノの蓋に映るこの曲の譜面は、読めない私には、ただの「絵」でしかない。それが音に変わったときに豊かな世界を時空に描く、それを耳で「見る」というのは、まことに不思議な、魅力的な瞬間でした。これについての、とても初歩的な考え方は、野村誠+片岡祐介著『音楽ってどうやるの』96-97頁に、「絵画作曲」と称して出て来ます。こちらは「絵を楽譜だと思って、無理矢理に音楽にする」なる面白いものですが、その、ちょっとしたコツに

あくまで絵を楽譜とみなして、解読する。形、色の組み合わせ、線などを、漠然と見るのでなく・・・

と述べられています。
大井さんの方法は、それを精密に、かつ「無理矢理」ではなく、書かれたものから重要なヒントを読み取っていくものでした。

あるいは、古代ギリシャの音楽は文字譜で記されていましたから、その復元の手続きも、絵画的な譜面を読み取るのと、趣意は異ならないでしょう。

この、「読み取り」について、少しだけ考えましょう。

日本の伝統音楽では、雅楽は文字譜、声明はネウマ的なもの、で、平曲や能になると、その併用となっています(能は正しくはネウマ的ではありません)。併用型は、絵画譜や文字譜に比べると、音楽を書き表す上では、精緻になっていると言えるでしょう。

ヨーロッパで、ネウマではことたりなくなって生まれ、最終的に整えられた五線譜は、記号化された譜面の中でもいちばん分かりやすいものとみなされ、活版印刷にも馴染みやすかったからでしょう、いまでは(たぶん多くの世界で)譜面の標準形とみなされ、「楽譜」と言えば「五線譜」である、と暗黙の了解をした記述がなされているのが普通です。

五線譜は、音符ひとつひとつの長さも、そこに書かれた音楽のテンポやリズムも、平明に読み取れるように記されています。では、それで「音楽」のすべてが書かれているのか、と言えば、優れた作曲家さんや演奏家さんが度々仰っているとおり、そうはなっていません。五線譜で記されない代表的なものは「フレーズ」とでもいうべきもの、音楽がどこからどこまでで「ひとかたまり」なのか、というあたりでしょうか。歌詞が付いている作品ならば、歌詞がヒントにもなりますが、楽器だけで演奏される作品となると、補助的に書き加えられた記号(スラーや、ピアノならばペダル記号や、弦楽器ならば運弓記号など)から読み取るしかなく、それらもない譜面となると、譜面だけではお手上げとなる場合もあります。音符と音符を繋ぐ手段(連桁)で、フレーズの読み取りが妨げられる場合も、数知れぬほど多くあります。

一方、日本の伝統的なものの中でも、「謡」の譜面(謡本)となると、こちらは必ず歌詞があるわけですから、言葉が読めれば区切りについては読み誤ることはありません。音の高さも、謡い出しのところや、変わり目となるところに、文字で指定されています。西洋風の十二音でも、南〜西アジアの微分的に細分された音でもなく、(ヨワ吟と呼ばれるものでは基本的に)4つないし5つの音高が使われるだけであり、そこからちょっと浮くか、下向きに変えた音を派生的に用いるだけですので、初心のわたしたちには難しいですけれど、慣れた人には充分な情報量が書き込まれていると言ってよいかと思います。音の長さも、ゴマと俗称される点(横に真っ直ぐなものを直章【スグショウ】ないし平ゴマ、読点のように右下に下がるものを下章【サゲショウ】ないし下(ゲ)ゴマ、と呼ぶとのことです)ひとつを、普通のスピードのときには五線譜の八分音符ひとつ分だと思えば、その打たれかたや重なりかた、変形された記号(¬の類い・・・通常、点2つ分の音価を基準とします)で、ほぼ読み取ることが出来ます。ただし、とくに句の終わりは特別な区切りがなくても習慣的に延ばされますし、しかもそれが必ずしも常にそうだとは限らないので、これは習慣を知らないと譜面からだけでは分からないことになります。(五線譜にしても、本当は同様です。謡のほうに戻りますと、謡い出しの音の高さも言葉のイントネーションの影響を受けたりしますが、これは謡のほうの固有のことかもしれません。)本格的に演じるときには舞を舞ったり囃子と連繋したりしますので、その情報が最小限しかない「謡本」は能の譜面としては欠落がある、と言われることが多いようですが、文化史的な背景から謡だけで演じられる習慣のほうが巷間に広まっているので、そのための便宜としては不足はないと言えると思います。かつ、そうしたことを「欠落」と言うのでしたら、五線譜であっても、合奏用のパート譜は同様の欠落があると言うべきでしょう。

話がずるずる横道に逸れます。

細々した話に立ち入ると、五線譜と謡本の対比だけからでも、たくさんの尾鰭がびらびらとしてしまいます。
それらは、上で綴った中の小さいことどもから推測もして頂けますでしょうから、御推測頂くことで充分、ということにします。
とにかく、ここまでで言いたいことはただひとつ、

「どんなに詳しく書き込まれた譜面でも、そこに音楽作品のすべてが書かれているわけではない」

なることのみです。

先にちょっと触れましたとおり、作品の背景にある、民族や時代に依存する習慣については、譜面には「書かれていない」ことが当然にあります。区切りや、さらにはイントネーションについても、同様に習慣に依存する面が大きくあり、これは「書かれていない」のがあたりまえだ、と認識しておく必要があるでしょう。ですから、専門の演奏家さんや研究家さんは、そうした習慣を、国々や時代時代の記録なり、残っている道具から必死で探り出したりなさいます。専門家さんなのに、あまりに的外れな解釈を堂々としすぎる態度で公表すること自体には、その影響力を考慮すると、たいへん問題があると言うべきですが、正しいか正しくないかには線を引ききれないのが「書いてしまう」ことの常に孕む問題ですから、謙虚さが保てているならば良しとしておいても構わないのでしょう。

では、仮に時代や習慣に対する「読み」が正しくできたのなら、それでいいのか、あるいはまた、「読み」が正しくなければ、譜面の上に「書かれていない」音楽を奏でることは不可能なのか、なる話が次に来ます。

音楽は、響いてなんぼの芸能です。

根源的な問題は、むしろ、読めるか読めないかよりもこちらにあるのだ、とは、演じ手は肝に銘じなければならないのだろう、と、常々思います。・・・だから、まわりくどくしないで、その話だけに留めてもよかったのです。ただ、ピント外れにならないためには、研究は大変重要なことのひとつではあるので、触れておくべきかと考えております。

響きを楽しむ立場・・・演じ手からみれば、お客様・・・にとっては、背景だの習慣だのがどんな理屈であれ、響いてくるものが、聴く耳にそれなりに整って届かなければ、とたんに退屈になったり、不愉快になったりします。

仕上がった演じ手を自認するひとのものでも、聴き手にそう感じさせてしまうのは、片側には聴き手の上から取り去り難い、聴き手の殆どを覆っている「今の習慣や固定観念」があるからで、これは聴き手側がそれを取り去って純粋素朴に響きを楽しむ耳を持ち、面白がる感性を養う必要もあると思います。

もう片側には、調べても調べても、訓練しても訓練しても、それだけでは「書かれていない音楽」をきちんと整えて提供し得ない、演じ手の能力の限界が立ちはだかっています。技術の難度の高さ故にどうしようもない場合がありますけれど、そこは演じ手が自らの限界を(密かに充分に)認識しているかどうかで演目を緻密に選ぶことにより回避し得ることもあります。・・・そこで「逃げを打てない」と思ってしまうのが落とし穴であることも少なくないかと感じます。「逃げない」ひとには、どこまで行ってもかなり苦しい精進がまっているのは、とくに難曲でも避けずに通らなければならない専門家さんにとっては、そのあたりに起因することではないかと思います。ですからいっそう、素人はよく弁えて、「落とし穴に落ちない」配慮をすることが大切かと感じます。

勉強の途上にあるひとの発表を虚心に聴かせて頂くと、もっと基本的に、
「書かれていない」
ものを
「読み取れている」
かどうか、がはっきり分かるものだなぁ、と驚かされます。そんなこともありますので、勉強途上のひとの演ずるものを見聞きさせて頂くこともまた、大変な勉強になります。
そのときには、聴き手の私は、自らも勉強途上だ、何故なら自分は目の前で演奏しているひととは違って、体にたしかに音楽の困難さを直感しているわけではないのだから、との謙虚さを保つべきであります。

奏でられ、歌われるもののなかに、伝えるべく整えられた、しっかりしたメッセージがなければ、どんな種類の音楽であっても、まずは、音楽として存在する価値がありません。

それを、譜面という手段に拘泥して、そこに並ぶ記号を勢いよく追いかけているうちは、演じ手にせよ聴き手にせよ、音楽を味わう最も大切な「書かれていない」要素の数々を、まだ懐中に抱いていない・・・まったく抱いていない、と言うべきでしょう。

心が大切だ、と表現されてしまうことがままあるのですけれど、それはしかし、たとえそうでも「ムード」としての「心」ではない、と知ることが肝要なのではないかと感じる今日この頃です。

大切なものを本当に手中にするには、いま手元にある「手段」の数々を、もういちど虚心に振り返って、演じるなり味わうなりしなおしてみて、
「これを音楽として掴むには、では何が不足なのだろう?」
なるあたりを、よくよく検証しなおす必要があるケースが、思いのほかたくさんあるのではないでしょうか?

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2010年12月26日 (日)

片岡祐介さん木琴談義

8月にご著書の紹介をし()、監修なさったCDについてもご紹介させて頂いた、私の尊敬する打楽器奏者で作曲家の片岡祐介さんが、木琴についてまとまったツィートをなさっていらして、大変に興味深いので、お許しを頂いてこちらに引き写させていただきます。


【1】それにしても今年は「木琴再発見」の年だった。今日はヒマなので「自分と木琴」について、何のオーダーもないのに書くとするか。

【2】それにしても今年は「木琴再発見」の年だった。今日はヒマなので「自分と木琴」について、何のオーダーもないのに書くとするか。小学5年の時、ふとつけたテレビで妙な音楽に出会ったのが、音楽に興味を持ったきっかけ。故芥川也寸志と黒柳徹子が司会をつとめる「音楽の広場」という番組だった。

【3】(かなり後になって判明したことだが)そこで演奏されていたのは、ドイツの現代作曲家ヘンツェのマリンバソロ曲「雪国からの五つの情景」。演奏は高橋美智子だった。たぶん抜粋演奏。休符、沈黙の多い、超渋い曲で、時には低音部を指でそっと叩いたりしていた。

【4】それを聴き、当時のぼくは「デタラメ弾いてる!」と思った。しかし凄くカッコよかった。なんだか全然分からない!けど凄い!

【5】すぐに「デタラメ演奏」を真似したくなり、お小遣い(お年玉?)をはたいて卓上木琴を買って来た。幼稚園によくある、音板が黒いヤマハのアレです。半音付きで当時3400円だった。

【6】安物の木琴は、テレビで聴いた音とは全然違っていた。いくら手を速く動かしてもトレモロ音がしょぼいし… 今思えば当然。テレビで使ってたのは、5オクターブの、バスの音域まである巨大マリンバだったはずだから。

【7】それで、お中元の鰹節が入ってた缶を下に付けて響かせたり、水を入れたコップで高音域を追加したりしていた(笑)。即興をラジカセで録音し「さっきの演奏の方が良かったな」とか何とか… 今の録音好きは最初からだったんだな。(ピアノのデタラメ弾きも平行して始めていたが、この件は省略…)

【8】「テレビでやってたアレは、たぶんジャズっていうやつだ。ジャズは楽譜を使わずにデタラメ弾くらしいし…」と勝手に勘違いし、豊橋で一番大きいレコード屋へ行き「マリンバが入ってるジャズのレコード」を探した。当時小六か中一だと思う。

【9】それで一枚だけ見つけたのが、マリウス・コンスタンとマーシャル・ソラールの共作品が入っているレコード。なんでやねん(笑)

【10】いま検索したらそのレコード出てきました。CD化はされてないみたい。このページの『31-8』がそれです。http://www7b.biglobe.ne.jp/~konton/gaibanAclass-2.htm

【11】ジャズだと思い込んでいたのに、結果かなりマニアックな現代音楽のレコードに辿り着いたあたり、我ながら運と勘が良かったね。でも、買って来て針を落とした時は「あれ〜?なんか違うなあ」。

【12】余談ですが、このレコードに収録の「ストレス」という作品は、金管楽器隊が、ペダルを踏んだピアノの中に向かって音を吹き鳴らす場面があります。(ライナーノーツに配置図あり)もろクセナキスの「エオンタ」やん!

【13】そんなこんなで、中学2年の時、ついにマリンバを買ってもらった。楽器が家に来た日、喜び勇んで弾いたのに「ちょっと響きすぎて胸焼けする」と感じたのを鮮明に覚えている。この時は木琴の固い音色にすっかり耳が慣れていたため。

【14】その後、譜面の読み方を覚え、現代音楽というジャンルの存在も知り(NHK-FMの番組『現代の音楽』にはお世話になりました)音楽科のある高校へ潜り込み、おもちゃみたいな「木琴」は置いておかれ、すっかりマリンバ一色に。

【15】音大1年生の時、アフリカの木琴「バラフォン」にハマり、少ない仕送りをカバーするために路上演奏をやり始めた。2、30回はやったかな。当時はまだバブルの名残もあり、けっこう稼いだ。でも完全にお金目当てなので、妙に媚びた表現をしてしまうのが嫌になって止めてしまった。

【16】(音大時代はいろいろ省略)それから長い年月を経て、2000年、愛知芸術文化センターが主催の「若手邦楽家の挑戦」というコンサートで、義太夫三味線の田中悠美子さん、野村誠さん(鍵盤ハーモニカ)とトリオ演奏することになった時、

【17】「三味線にはマリンバより卓上木琴の方が合うだろう」と思い、卓上木琴(いくぶん上等の物)を用意し、アンサンブルしたのが「木琴再浮上」の幕開け。http://www.aac.pref.aichi.jp/aac/aac30/aac30-6-3.html


【18】あと、「あいのてさん」のツアー中、マリンバの運搬やレンタルが大変なので、卓上木琴で代用してたら「こっちの方がいいじゃん」ってなったりとか… (特に口琴と木琴の相性は最高ですね)

【19】そんなこんなが、今年の「木琴再浮上」(再々々浮上くらいか…)までのいきさつ。今年の木琴、極めつけは、今年の3月におこなった「野村誠×北斎」のコンサート。http://www.youtube.com/watch?v=C_pdadBr98A
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 引用者注:必見、おもろいですっ!!!

【20】11月には、小学校で、1930年代に一世を風靡したジョージ・ハミルトン・グリーンのラグタイム作品も弾いた。(この人は木琴界ではそれなりに有名なので、マニアック自慢する話でもないけどね)

【21】「木琴」はある種、古楽器みたいな感じかもしれないな。マリンバがモダンピアノだとすれば、木琴はクラヴィコードみたいな…。倍音の繊細さ、タッチの難しさ…。クラヴィコードについて詳しいわけではないけど…

【22】マリンバは、音が大きいわりに、響くホールに弱い。すぐにフレーズがコモってしまう(モダンピアノもわりとそうですよね)。木琴は逆に、小さく叩いても、どこまでもハッキリ聞こえる。

【23】あと、木琴はピアノとの相性も悪くない。マリンバは、倍音的、音色的に「ピアノよりも低い」感じなので、ピアノに伴奏させて上でメロディーを弾くのには無理がある。

【24】今思い出した(話がそれます)。中学の時「岡田知之打楽器合奏団」が学校公演に来たんだった。すごく楽しみにしていたのに、実際聴いたら拍子抜けするくらい何も感じなかった。たぶん中学生に媚びたプログラミングだったんだね。体育館の音響も悪かったな。

【25】小五の子どもにヘンツェがぐっと来たわけで、何が子どもの心に引っかかるか分からないものですよね。小学校で演奏する時、対象が五年生だと気が引き締まります…(←ほかの学年の時も引き締まれよ!)

【26】ちなみにヘンツェの例の曲、いま聴くとそれほどいいとは思えない。「意外とロマンチックな音楽だったんだなあ」というのが感想。不思議なものだねー。

【27】唐突ですが、これでおしまい。来年も木琴たくさん弾きま〜す!

TgetterのURL:http://togetter.com/li/83067
(ここと同じ内容です。)

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