日記・コラム・つぶやき

2014年2月15日 (土)

「勝手が言える」は「自由な言動」と等しいか?

「記者の一人から、自分の好きな演者だけを追いかける落語ファンが増えると寄席が衰退するのでは、という懸念が提示されると、小三治は『いいんじゃないですか。それとも、情けない世の中だ、とか言わせたいんですか?』と笑わせてから、こう続けた。「(略)誰かの落語を楽しもう、観てやろう、っていうようなものが、いっときその人を襲ったとしたら、もう万々歳ですよ。私、落語よこのままいつまでも、永遠に、なんて思ってないですから。ダメになったらダメになったでいいですよ。ビクビクしても仕方がない。西暦何年頃、落語がなくなってしまいました、ということになってもいい。』」(週刊ポスト 2014年2月21日号 134〜135頁)

蚊の鳴くような話を。蚊の鳴き声でござんす。

交響曲等のゴーストライター問題に便乗(?)していろいろ仰られてる、そのことには別に何も言うことはありまへん。みなさまご立派でたいへんよろしゅうおますでござりまする。
ご発言の方達が、世間の人たちは本当にそうだと素直に頷いている、などと思ってさえいらっしゃらなければ結構でござんす。

でも、いろいろと仰るかたは、ご自身も音楽の「商業的価値」のなかでおまんま頂戴してるってことを忘れちゃいませんかね。記事をいくつか拝読しての、一外野人の正直な疑問は、そっちにあります。
たとえば、現代音楽なんか「素人が聴いても分からない音楽」とか言われちゃってたりします。映画音楽がもっと売れればいいんだ、みたいな口ぶりです。深いお考えは分かりませんから、まぁ表向きそう見えちゃうのが、あたしみたいな長屋のはっつぁんのオツムの程度なんではございますけど。
で、オツムがそんなもんですから、こんな感動もしました。
交響曲だから売れちゃったんだって。交響曲はクラシック最大のイージーリスニングだったのか。もう、目から鱗、鼻から牛乳(古)でござんした。

が、ちょっと待ってくだしゃんせ。

こういうご発言って結局、音楽は商業ベースにあるものばかりが大事だ、って仰ってるんとちゃいます?
つまるところ、喋り手自身の保身、自己是認、自分擁護にしかなってないんとちゃいませんか?

週刊ポスト買ってきなはれ、小三治さんの噺、ぢゃない、話を読んでみそ♪

人はパンのみに生くるにはあらじん、ですけれど、魔法のランプを持っていないからパンを得るには誰でも自分で稼いでいる。
ネットやメディアで合意を得られない発言は御法度、批判噴出しかないこのせせこましいご時世、これぞあたしのパンの種だ、と信じている芸を、神の如くお好きなように総括がお出来になられるそのお立場が、正直者をさらにバカ正直にして飢えさせ、不正直者を新手の商才に走らせて罪に肥え太らせる。
そうしたことに対する節度とか自律心は、せめてプライドよりも前にお持ちになって下さいませんでしょうかしら。それが
「別にいいじゃん」
で生きてる大多数のあたくしどもに対する、汚点禍、もとい、お天下さまのお慈悲というもんじゃ、ありゃしませんのかえ?

最近とみに一事が万事ではありますが、自由なご発言だ、と思いこんでなさっていることが、本当はそうではない、自由の最大の侵害になっていることがある。そこをきちんとわきまえなければ、この極東の小民族はいつまでたっても「本当の自由の意味」を知らない、と、嘲笑ばかりをあびせられ続けるでしょう。

・・・と、はっつぁんとしては、せめてかしこぶって、こんくらいえばって対抗したくなるわけですな、やめときゃいいのにナうっかりはちべえ。

最後にミルトンの述べたものから小さな引用をしておきます。

「人はこの世に純潔のまま生まれてはきません。むしろ不純をもって生まれてきます。人を純化するのは試練であり、試練は敵対によってなされます。悪をよく考えることができず、悪が自分についてくる者に約束する、際限を知らず悪を知ることを拒否する徳は、空白の徳であり、表面だけの白です。」(29〜30頁)

「あなたがたは何をなすべきでしょうか。この都市に芽生え日々成長している知識と、花と咲く新しい草木のすべてを取り除こうとするのか。」(70頁)

「真理には場だけ与えよ。眠っている真理を縛るようなことをしてはなりません。捕えられ縛られると、神託を語った老プロメテウスとは違って、真理は真実を語らなくなります。」(74頁)

「彼らは自分の組合内の貧しい人々が騙されないようにというおためごかしと、各自が版権を正当に保有するという誰も反対できない名目で、さまざまなこじつけを議会にもちこみました。実際には、それは口実にすぎません。それは、書籍組合の隣人たち、学問が恩恵を受けているまともな職業にたずさわり他人の奴隷になるために努力するはずがない人たちに、連中が優越権をふるうという目的のためだけに役立ったのです。」(81頁)

以上、ミルトン『言論・出版の自由』から。岩波文庫、原田純訳

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月13日 (木)

息子も出させて頂いた発表会の寸景〜貴重な機会をありがとうございました

2月11日、クラシックギター教室の発表会で、息子も弾かせて頂きました。
息子の出来自体は、本人も充分自覚している通り、ぼろぼろでした。
でも、それもふくめてたいへん良い会でした。

リハーサルで、先生が生徒さんみんなに
「はい、どんどん緊張しなさい、アガりなさい うひひのひ」
と煽ること煽ること。

教えて頂き始めて5年、最近やっとまともにギターをやる気になった息子、やる気になったばかりに、先生の術中にまんまとハマったのでした。
まぁまだまだ上手ではありませんが、リハーサルではいちおうなんとか弾けたのでしたが・・・本番は
「あ・・・わかんなくなっちゃった」
「お・・・ん? あ? ごめんなさい」
の連発でありました。
まじめにやるようにすると、大失敗もし始めるのです。
これからずっとギターを「楽しんで」いくのなら、そしてそれがひとりよがりでなく、まわりの人にも楽しんで頂ける物にしていくのなら、大失敗経験はとても大切です。
息子がこんな経験をさせて頂いて、本当にありがたいと思っております。

一方、習い始めて2年半の若い女性Sさん、子供のころからお父様がなさっていた歌やギターが楽しくて、楽譜も分からないんですけど、と、文字通り清水の舞台から飛び降りる思いでギターの先生の門をくぐったかたです。
リハの最中は
「わたし、手がふるえてるの分かります?」
緊張する、あがっちゃう、と盛んに繰り返していました。
そこへ、リハから聴きにいらして下さった歌の先生が
「こうすればリラックスして出来ますよ」
と臨時レクチャー。
この臨時レクチャーと教室の先生の「どんどんあがりなさい!」が、ステキな車の両輪になりました。

本番、Sさんは、きれいな響きの、ゆったりした、拝聴していてとてもホッと出来る、いい演奏をしました。
終わって席に戻ってきた彼女に
「あがらなかったでしょ?」
と声をかけたら
「はい!」
と満面の笑みでした。

聴き手は身内だけ、の、世間様から見ればささやかな演奏会ではありました。
でも、参加したみなさんどなたも大音楽を奏でることにたいへん真摯で、こういう機会は
「ありそうで、実はなかなかない」
のですよね。
(ずいぶんまえに日舞のお稽古会を拝見したとき似た思いを抱いたことがありますが、他にはあまり思いつきません。)

大病との闘いを経て、長期の取り組みをなさってきたバッハ「シャコンヌ」をお弾きになったご年配のMさん・・・商業的なものと比較出来るものではないのがよかったなぁ。ご自身の「励みと楽しみ」として、私たちは日常生活の傍らでどんなふうに音楽を自身の支えとするのか、の素晴らしい規範をお示しになられました。次回の演奏を心待ちにしております。

貴重なムードを、聴いているだけの私にも味あわせて下さった森田茂先生に、あらためて深く感謝申し上げます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月11日 (火)

日本の音痴考

父・・・オヤジとカラオケに出掛けるのが、私はとても嫌でした。 
カラオケでは、オヤジは演歌をいい気分で歌うのですが、声を引き伸ばす部分になると、それが必ずカラオケよりも長く長く伸びる。それでも歌の間はまだどこかで帳尻が合うからいいのでしたけれど、セリフのところになると気合いが入って、これがまた次の歌い出しに間に合わないくらい長くなる。そんなこんなで、オヤジが全部歌い終わるのは、カラオケがとっくに終わってから、さらに1分後・・・とは言いませんが、その4分の1くらいはみ出すのが普通でした。で、 
「あぁ、今日の歌は、我ながら上出来だった!」 

音の高さも全然合わないのですから、リズム・節共々、正真正銘の「音痴」なのでした。 

ところが、そんなオヤジの歌でも 
「おお、いいねぇ!」 
なんて仰るご同輩がまたいらっしゃる。 
そのかたも、歌い出すとオヤジとおんなじ具合なのです。 
・・・あたしゃ具合が悪くなりました。 

でも、オヤジやご同輩は本当に「音痴」なのかと言うと、日本の伝統から見た時にはどうもそうではないらしい、と思われる記述に出会い、仰天しております。 

中世の人々は、音律に合わせて謡うのがどうも苦手だったらしい。たとえば雅楽の伝書『竜鳴抄』に・・・(中略)・・・『笛に合はせんには、この七の声(注:雅楽を始めとする伝統邦楽の調子、一越・平・双・黄鐘・盤渉の7つ)よりほかに知らず』と記した箇所がある。『笛に合わない声』があるかのような書きぶりである。実際このあと、『弾き物に笛のかぎり合はせなるには、さること(合わないこと・・・筆者注)ありがたし。声に従ひてあるらむ故なり。おほやうこれを心うべし。』と記している。箏や琵琶などの弾き物は声に合わせるので笛の音律に合わないことがある、というのだ。」(高桑いづみ『能の囃子と演出』p.47、音楽之友社 2003) 

「祭囃子の笛にしてもにぎやかに祭を盛り上げることが第一義であり、『音』にひそむ力を発動させて神を降ろすことが、メロディを美しく奏でる以上に重要だったのである。」(同書p.49) 

このあと、言葉を引用した高桑さんの本は、とある狂言の小舞に用いられた歌の復元をしてみせているのですが、復元された歌は、声で謡われる部分は笛とは違った<音程>になっている、つまり、歌のメロディは笛のメロディとはズレているのです。 

そんなものを目にしてみると、私が子供の頃に聴いた民謡は、三味線だとか尺八だとかと速さや音の高さがズレていても平気で歌われていたような気がしてきました。もっともそういう類の歌は以後確かめても録音されたものには残っていないようでしたが、録音に残されなかったということは、裏を返せば私の子供の頃(昭和の高度成長期直前)には音程の合わない歌でも構わないという審美感が岐路に立たされた時期だったのかも知れないのではないか、と感じ始めております。 

笛と歌、というのではありませんが、松平頼則という作曲家さんが1970年に『わらべ唄による こどものためのピアノ曲集』を全音楽譜出版社からお出しになっていました。この曲集、音符はそんなに難しくないのですが、最初の曲から、なんだかメロディ部分と微妙に音がズレた伴奏が付いていて、びっくりします。手にしたピアノの先生たちは、教材に使うのに相当ためらいを覚えたのではないでしょうか? そのせいか、この曲集、いまはたぶん、まったく顧みられていません。 
この人にはまた『美しい日本』という、民謡やわらべ唄や平家琵琶に題材をとった長編組曲があるのですけれど、こちらも昨年、現代音楽のエキスパートであるピアニスト大井浩明さんが再演なさるまで、眠りっぱなしになっていました。楽譜も通販などにひょこっと出てくる時には非常な高値が付いて卒倒させられるのですけれど、さて、大井さんの次に演奏会で採り上げる人は、いつ現れるのでしょうか? 

『わらべ唄による こどものためのピアノ曲集』に戻りますと、けれど、ヘタに西洋風のドミソの和音が付けられたものに比べると、私の遠い記憶の、あの「ズレた」民謡の謡われ方の調べに、むしろ近い気がするのです。もしそれが当たった感覚だとすれば・・・外れているのでしたらすべて、ここで申し上げることは狂人のたわごとになるのですが・・・まず、日本の歌というものは、もともと「音が外れている」感じを持っていたのが<正しい>あり方だったということになろうかと考えるのです。 

あるいは、雅楽にしても能にしても民謡にしても、明治以降、欧化政策の一環として五線譜に書き写されることが増えました。 
ところが、まず民謡について言えば、拍子にきちんとハマるように書き写されたものは、どことなくきっちりしすぎて気持ち悪いし、歌ってみるとオリジナルの歌には決してならない。んじゃ、複雑に、4拍子の次は5拍子、そのまた次は7拍子、みたいな書き写し方をされると、ある人の声の引き伸ばし方とは合っていたのかもしれませんが、同じはずの歌を別の人に歌ってもらうと、また全く違ったりするので、 
「あれ? この聴き取り、間違ってるんじゃないの?」 
となってしまう。 

雅楽を五線に写したものは装飾音符だらけになるのですけれど、その装飾音符を洋楽の決まり事のままに奏でてしまうと、雅楽の旋律が持つ<あいまいさ>のようなものが消え去ってしまって、これまた雅楽にならない。雅楽の装飾音は、洋楽のように装飾の音そのものをひとつひとつきちんと音程化するのではなく、一つの音の延長としてなめらかに切れ目なく高く低くへめぐるだけなのです。 

能に至っては聴いた印象のシンプルさ(まあ、それでも能の謡や囃子はけっこう複雑に聞こえるものですが)とは全く違う、とても入り組んだ楽譜になる。これは、高桑さんの本にあったような事情からか、能の謡と笛とではまったく音程が違い、リズムもあわないことに由来するようです。 
能の場合では、稽古用に、ひとくさり(能をなさる方のお考えになるひとくさりとは違って、単純に<区切ってみるなら一区切りとみなせる>程度の意味で使っています)を8つの拍に当てはめる八割譜をお作りになるのですけれど、これが洋風に8拍を8つの等しい時間の長さと考えてしまったらダメで、とくにお囃子のほうは小鼓と大鼓が顔を見あわせ呼吸を読みあって拍と拍の間の長さを変幻自在に伸び縮みさせるのが前提ですので、これは人間的要素が大きく関わるために、五線譜に落とすためには大変複雑に記号を入り組ませたものを書かないといけなくなってしまいます。 

・・・しかしながら、それぞれ、複雑に書き落とすことが、果たして正しいのでしょうか? 
・・・複雑化された五線譜を目にした時戸惑うのは、「聴いていると、その音楽としてのまとまりは、非常にシンプルなんだがなぁ」と、どうしても考え込まざるを得ないからなのです。 

・呼吸で時間が伸び縮みする 
・音程は、一緒にやる人同士で必ずしも同じものにはならない 
・装飾にあたるものは(暗黙の了解でルール化された)気分で、一つの「伸ばされる」あるいは「切られる」声のなかに<ひと繋がりで滑らかに>押し込められる 

というのが日本の古くからの音楽的特徴だったのだとすれば、それはたとえば五線譜のような別の記号に置き換える時には、なるべくシンプルなものでなければならない。 
ただし、それは「呼吸で時間が伸び縮みする」のですから、楽譜上はその点を注記する程度にしか留められない。さらに、音程もズレるのが<正しい>のですから、 
「五線譜に書かれた音程は、歌う人の都合、笛で合わせる人の都合で、勝手に変えてよろしい・・・けど、出来たら邦楽いっぱい聴いて正しいセンスでやってちょうだいね」 
くらいの注釈を施すしか手が無いんじゃないでしょうか? 

極めて乱暴な言い方ですが、そんなあれこれを考えますと、 
「ひょっとしたら、とても音痴だ、と決めつけていたオイラのオヤジのほうが、オイラなんかよりずっと、日本人的には正統な音感の持ち主だったんじゃないだろうか? きっとそうだ!」 
と思い直したくなってくるのです。 

・・・いや、それでもやっぱり、私はまたオヤジとカラオケに行くのはごめんです。 

(><)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 3日 (日)

いまはもう

こんなかんじ。

Mike_down

せめて、こうなろうか。
Takashi_flower_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 1日 (土)

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

去年一昨年のいまごろ何を宣ってたかな、と振り返ったら、まあちんまりしたもんだったなあ。前に綴ったものを読み返すと、なんかヘン。

というわけで、前だけ向いたほうが良いかもしれない。

小さな小さな世界の中でしたけれど、自分が自分が、としゃしゃりでるところから、子供たちの受験が口実とはいえ、ようやく一歩退く時間を持って、 かえって物事の面白さが見えて来たのかなぁ、と思っています。まして、何事に秀でているわけでもありませんので、「いいもの」の見分け聞き分けがせめても の分であると知ると、硬い引用になりますが、世阿弥のこんな言葉がいいなあ、と思われてきます。そんなふうに、子供たちをはじめ夢を追いかける人たちを、 そしてもちろん、円熟の境地にあるかたをも、種類を問わず、精一杯応援できるようになっていければ、もっともっと面白かろう、と感じる年の明けです。

少年にてし出だす所の二曲の間に、舞にてもあれ、音曲にてもあれ、 生得、舞へば面白く、謡へば感のあらんは、はや「苗」なるべし。苗をば何と育つるものやらん。ただ田水をたたえて、おのれと育つるばかりなり、と見えた り。さて、早苗ふしだちて、植田になりて、次第々々に本付く時分に、草を取り、水を入れて、雨を待ちて、やうやく稲葉になる頃は、肥立つ時なり。また、 「稔る」とは、はや色づきて、日ごろ待ちつる雨水をも、今は厭ひて、日を待ち、陽気に曝して、これをもて扱ふは、稔らせむとなり。(世阿弥の「遊楽習道風見」という文)

いまのことばに直したもの
少年期に演ずる歌曲・舞曲のどちらでも、舞でもいいし歌でもい いのだけれど、生まれつきの素質で、舞えばおもしろく歌えば感心されるというのが、すでに「苗(なえ)」というのだろう。その苗をどんなふうに育てるか。 ただ田を水でたっぷりにしておけば、苗自身で育つのだ、とおもわれる。さて、初々しかった苗も節が見えるように成熟して来たら、あらためて田に植えて、根 が付いてくるころに雑草を取りのけ、あらためて水を入れて、降雨を待つ。ようやく稲葉になるころが(その苗だったものが)成熟に至り始める時なのだ。ま た、「稔る」とは、すでに、こがねに色づいて、それまでは欲しがった雨水をも今では必要としなくなるところからはじまるものなので、世話するほうとして は、日光を待ってそれにさらして、この稔って行く稲葉の面倒をみるのは、たくさん実が入るようにとするためなのである。(小西甚一訳をもとに改変)

まあ、ほんとに、この言葉がわかるくらいに、自分自身がもののよく見えるヤツになれれば、ということ自体が高望みかもしれませんが。

本年もよろしくお願い申し上げます。

ぼんやりいちにち過ごすつもりだったのに、娘が「外に行きたい」とうるさい。

あ〜あ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月19日 (日)

京都のひと やんやんマチコ

日本人作曲家の作品を集中的に紹介する大井浩明さん《Portraits of Composers》(POC)、第1回2010年9月23日(祝)が近づきました。以降、2010年10月16日(土)、010年11月13日(土)、2010年12月15日(水)、2011年1月23日(土)です。1回券はローチケ(ローソンチケット)で(入手法まとめました)・3回パスポート・5回パスポートはopus55にて入手出来ます。当日演奏される野村誠さん作品の解説こちら



ヨーロッパ在住の非常に優れた古楽奏者阿部千春さん(Vn.コンチェルト・ケルン等で活躍)による「バロックヴァイオリンコンサート」は10月8日(金)新高円寺のスタジオSKで。

上記の阿部千春さん・大井浩明さんによる「モーツァルト:作品2」昨年大好評の作品1に続きより充実の響きです。10月13日。(リンクでは大井さんの師カニーノとアッカルドの演奏引用で曲のサワリをご承知頂けます。)

その他、10月のコンサートは日が近づいたらまたご紹介します。

で。

突然ですが。

京都のひと やんやんマチコ。(マチコのブログはこちら←をクリック)


・・・うかばれへんやん (><)


野村誠さん・片岡祐介さん「音楽ってどうやるの」「即興演奏ってどうやるの」もっと早く知っていたかった好著でした。ご一読を強くお勧め致します。
oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月 7日 (月)

ねこ・・・

アマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会は6月19日(土)浅草公会堂にて。モーツァルト:「魔笛」序曲、ブラームス:交響曲痔3番、サン=サーンス:「アルジェリア組曲」です。



上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック〜終了
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。

oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。とりあえずバナーに大井さんのブログ記事をリンクしました。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

えっと、何もよけいなことは言いません。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月24日 (水)

まー、世間もこちらもあたくしも不景気でございますから。

今日はこんだけ〜。

おまけ〜。

http://en.tackfilm.se/?id=1269434485516RA78

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月13日 (土)

ちから

日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの「おすし de イタリア」は昨日、満員御礼、しかも定員オーバーでの終了でした。
oguraooi.jpgレポートはあらためて。



F9120周年記念 ナーシャムジカマンドリンコンサート(川口雅行氏を迎えて)は、3月13日(土)静岡市「静岡音楽館AOI」にて。
幅広いレパートリーの音楽をいっときに楽しめるのはマンドリンアンサンブルならではです!

oguraooi.jpg

2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京3月18日:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん)詳しくは記事中のリンク先をご覧下さい。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。2月27日の「松下眞一追悼個展」は大好評終了。音楽評論家、白石知雄さんが「はてな」でまとめていらっしゃる当日までの経緯、当日の充実ぶりが手に取るような文章で拝読できます。
なお、大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)が発売予定日より遅れましたが入手容易になりました。HMVにリンクを貼ってあります。Amazonではまだ入手できないようです。



青木さんのコンサートの件は、まだひきずっている感情を整理してからでないと綴れそうにありませんので、とりあえず別に綴った日記をそのまま転載しておきます。

昨日は昼には絵の、夜には歌の「ちから」を、じっくり感じさせて頂いてきた。

昼間は「長谷川等伯展」。遠くから来た友人が、つれあいさんに是非見て来な、と勧められたとのことで、そのつれあいさんは素晴らしい目利きだから、だったらその言葉に従おう、ということで友人と二人で出向いた。東京:上野の国立博物館)で最新の建物である平成館で実施されている。

Shourinzu

平日なのでご年配の方が殆どんだったけれど、入場まで70分と告げられるほどの大行列。こんな行列に並ぶのは、幕張メッセに家族で「大恐竜展」を見に行ったとき以来だった。じゃあ、展示の中身にも大恐竜の骨がまたあるのかな、なんてバカなことを言いながら入ったら、展示品の荘厳なことは恐竜どころではなかった。
展示はほぼ制作年代にそって、かつテーマごとに分けられて、のものだったが、等伯が若い頃は絵仏師さんだったのだ、というのは知らなかった。この仏画がまた精緻で美しい。あとで図録を買ったが、常のことでそちらの方が発色がいい。でも、実物には写真では伝わって来ない「人肌の」あるいは「いのちの」香りがする・・・ガラスの向こうから実際に匂いがしてくるわけではないんだけど、そういう触覚や嗅覚のメッセージが間違いなくある。奇妙なことだけれど、これは誰の作品でもそうだ、とは限らない。それに、大徳寺の天井や柱の絵はさすがに外せないので実物大の写真展示、天井の竜の絵は実物に似たかたちに再現してあったのだけれど、これからは「伝わってくる感覚メッセージ」はまったく無いのだから不思議だ。いや、そんなのあたりまえさ、と見ている間には思っただけだったけれど、いまつくづく思い直すと、やっぱり、「なんでだろう」と首を傾げたくなる。
中国伝来の、あるいは日本独自の、遠近法的な立体感は一切持たない(立体的ではない、という意味ではない)画風であることは他の絵師と同様なのだが、驚いたのは、一瞥しただけでは記号的にしか見えない草の生え方や松の木肌が、近寄ってみると「現物」をきちんと描写してあること。ほんとうに土から草が生えている様子、木肌の手触りが目によって忠実に絵筆の上にとらえられていること。柳の枝の量感・質感には特に舌を巻いた。・・・等伯の絵のことを綴り続けたらきりがないのでここまでにする。

Kobokuenkozu

夜は、この世界の第一人者青木純さんのカンツォーネをお寿司を食べながら聴くという会。

出かける前から娘が「胃が痛い」。試験が終わってほっとしたのも手伝ってなのか、神経性胃炎なのだと思われる。それでもとにかく、お寿司は食べたい。好きな寿司から手をつけて、3カン残ったところでエビかホタテかの選択に迷い、ホタテを選んだのが娘の運の尽きだった。ホタテを先にいけば残りは食べられる、という計算だったらしいのだが、これがはずれた。最低もう一つ食べたかった特上のボタンエビは泣く泣く弟に譲り渡す結果となった。

いや、お寿司もおいしかったのだが・・・お歌が始まって驚いた。
青木さんって、実は落語家だったの?
・・・と思わされるくらい、お話のなさり方が、大好きな志ん朝に似ていた。トークの中で分かったのだが、それもそのはず、義務教育時代の担任の先生がチャキチャキの江戸っ子だったよし。
オペラやミュージカルの経験が豊富でいらっしゃるから、お客の気持ちを掴むのもうまい。歌の合間のどのお話にも腹の底から笑わせてもらったが、いちばん胸に刻まれたエピソードが、ある漁港の街でのイタリアンショーでの出来事。そのときの客席をギターをつま弾きながら流してまわっていると、ドテラ姿のおっさんが椅子の上にあぐらをかいていて、
「かんつぉーね、っつうのかなんだかわかんねえけど、演歌が聴きてえんだ、おめえ、演歌はやれねえのか」
ときたので、演歌を一発歌ったら、感心してそのおっさんがチップをくれた。
くれたのが500円玉なのはいいが、それをギターの真ん中の穴に放り込んでいれちゃったので取り出すのが大変だった、っていう話。
で、歌った演歌、ってのが、実はカンツォーネの歌詞を日本語にしたものだったのであった。

衣装の話も面白くて、前半は光り物衣装(シルバーのスーツだが上品なので言われないと気づかない)太刀魚風。後半は濃紺スーツで真っ赤なネクタイの鉄火巻き風、と、お寿司屋さんにふさわしいようにコーディネートなさった由。それぞれにイタリアもののきちんとしたものなのだけれど、ご愛嬌が、前半はネクタイがイトーヨーカドー、後半は靴下がユニクロ。まあ、これはしかし、嘘だと思う。

http://www.1101.com/store/bag/zampano/funicli.html

どうでもいいことばっかりだらだら綴っちゃったが・・・なによりも感激ものだったのは、歌そのものだった。娘がいつも歌の先生に「イタリアってねえ、言葉も歌もあっけらかんとしてるんだよ」と、その先生も実際には説明が巧みなのでホントはもっと分かりやすく説明して下さっているのだけれど、そのあっけらかんぶりがまさにホンモノとして実現されていたことには、お聴きしていて、じつは時に涙がじわっと湧くほどに胸を打たれた。
どう綴ろうと思っても、これだけは言葉にするほど嘘になる。かつ、僕には(言葉に限らず、なのだけれど)描写能力がない。

とにかく腹痛の娘もそれまでしかめっつらしていたのが、歌が始まるともう満面の笑顔で青木さんを見つめ、聴き入っていた。歌の解説の面白さに、お笑い好きの息子もぐいっとひきこまれ、目をキラキラさせていた。とうちゃんは、共演のフルートの美しいおねいさんに目をキラキラさせていた・・・のは否定しないが、それだけ、ではなかった。時々、あまりにあれこれ胸をゆさぶられる気がして、涙をこぼさないようにするのに一苦労していた。
休憩のとき、ギターの杏里さん(男性である)が煙草を吸いに表に出ていらした。ちょっと普通見たことのない顔つきのギターを使っていらしたので、お訪ねしてみたら
「オースト・ラリア製です、なんか、スペインものよりめんどくさくないんで」
「で、作った人は?」
「はい、オーストラリアの人です」
質問するとちょっと照れくさそうに答えて下さるのが面白かった。見た目もお話の仕方も青木さんと違って控えめでいらっしゃるけれど、杏里さん、イエペスの直弟子である。途中で打楽器的な・・・タンブラン的な効果を出す場面があって、小道具を取り出して使っていらしたので、
「あれ、どんな道具なんです?」
と、これも質問したら、
「あ、百円ライターっす。ライターは持ってきたんですがタバコ忘れまして」
って、吸っていたのはその隣で吸っていた人からのもらいタバコだった。

実は、青木さんは、イタリア政府から正式の「カヴァリエーレ」叙勲を受けている。日本人では、たしか、非常に稀なことだったと思う。


L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD・書籍検索に便利!バナーをクリックして下さい!


sergejOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月27日 (土)

音楽的?

Matsushitaphoto「松下眞一追悼個展」、大好評終了です。
演奏なさったのは
ピアノ:大井浩明さん http://ooipiano.exblog.jp/
打楽器:宮本妥子さん http://www.yasukomiyamoto.com/
でした。
スペクトラについての解説を含む松井卓九大教授が寄せたエッセイもご一読下さい。
世界初演「スペクトラ第五番」図形楽譜の一部はクラシックニュース2月18日記事 でご覧になれます。
http://classicnews.jp/c-news/index.html



日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの「おすし de イタリア」は、3月12日です。
oguraooi.jpgご予約はお早めに!

oguraooi.jpg

2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京3月18日:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん)詳しくは記事中のリンク先をご覧下さい。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。なお、大井さんの直近の催し物は3月1日、3日、芦屋山村サロンでの「J.S.バッハ/フランス組曲(全6曲)&イギリス組曲(全6曲)」です。



ということで・・・気が抜けましたので。

猫ちゃんのおしゃべり。



L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD・書籍検索に便利!バナーをクリックして下さい!


sergejOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)