文化・芸術

2013年12月17日 (火)

「素人」と「アマチュア」

「いったい何がしろうとで、何がくろうとでありましょう。そんな物は世の中に存在しないのです。素人芸という程いやな物はありません。それはひがみであり、虚栄であり、責任のがれです。」(白洲正子『たしなみについて』九)

最近、久々にものを考えました。
ひとつには拝見した舞台から、もうひとつには自分も参加させて頂いた演奏会から、同じことの両面ではないかと思われることを省みる機会を得たのでした。

拝見した舞台は、いわゆる素人さんたちの演じる狂言でした。素人とはいってもバカにしているつもりはありません。どなたも真摯に演じ、観客を抱腹絶倒させるに充分な力量を発揮なさったのでした。
中に「川上」という演目があって、何かの病で目が見えなくなった人が川上のお地蔵さんの霊験で視力を回復するも、妻を離縁しなければまた全盲になるとのお告げをうけていたために、帰宅して妻と口論になる、という喜劇です。
目の見えない主人公を演じたかたは素晴らしい演技で、杖の使い方の巧みさや歩みの無意識な用心深さは、ずいぶん研究なさったのだろうと察せられました。とても感心して見入っていました。ところが、中盤を過ぎて安心なさったのか、セリフをぽろりと忘れてしまった。一緒に演じていたお師匠さんがさりげなく小声で補ったのですが、それに対して主人公さん、ああしまった、先生ありがとうございます、という感じで、ぺこり、と頭を下げてしまった。これがいけませんでした。保たれていた緊張が一挙に崩れ、演技もくずれてしまいました。
セリフだらけでどなたもたいへんで、一演目あたり一ヵ所は誰かがセリフを忘れるのでしたが、それはいいのです。とっさに補ってやりながら絶対目立たないお師匠さんの凄さには別の感銘を受けますけれど、その補いをさりげなく受けて劇の流れを崩さない演者さんにも良さを感じます。
けれども「川上」の主人公さんは、おそらくとても熱心なかたで思い入れも人一倍で、だからこそセリフを忘れた瞬間、すべてが真っ白になったのでしょう。
ここが、しかし、芸をやるときには、覚悟のしどころだったのでした。
古語のセリフ劇は、言葉をいたずらに差し替えられないのが演ずる人にはひとつの厳しい制約条件ではあるかもしれません。「川上」の主人公さんは、けれどもそのあとの演目で太郎冠者をなさった若い方と並んでセリフに生き生きとした生活感を与えていらしたので、本当に惜しいことでした。

(補:コメントを頂きましたが、こうなってしまったことにはご病気の事情もあったようです。失礼を綴ってしまいました。が、もし何もなくて健康な方が同じ状況だったとしたらここで感じて考え続けさせて頂いたことは間違いではないと思っておりますので、そのままに致します。お読み下さる方はこのあたりご勘案頂ければ幸いです。)

さて、参加させて頂いたほうはアマチュアオーケストラの演奏会です。
私は用をなしたとはとても思えませんので、先の「川上」の主人公さんに失礼を言えた義理ではありません。
が、こちらは別の面で私の好奇心をそそりました。
管楽器はともかく、弦楽器は周りを見渡すとアマチュアは私を含め数えるほどで、ほとんどがプロさんか、その卵の学生さんだったのでした。
それでもなぜ、このオーケストラはアマチュアで、演奏会もアマチュアのものということになるのか。
反面プロとは何であるのか。
プロや卵さんの面々は、報酬を得て帰りました。ですがオーケストラの採算から割り出された報酬ではなく、アマチュアメンバーが供出しあった会費から出たものです。また、アマチュアメンバーの中でも私のように非常で参加させて頂いた者は、報酬がないのは当然としても、会費など金銭的な供出はしていません。
現実に、プロとされるかたたちは技術的に難しいところも報酬にふさわしいだけ拾って下さって、なおかつお人柄もいいかたばかりで、演奏会の成功には大きな貢献をなさったのでした。
しかし、それは果たして昇華した芸だったか、となると、違う気がしました。
ヨーロッパではベートーベンのシンフォニーなんかの初演でもプロが不足でアマチュアをメンバーに補ってなされていました。ですからベートーベンのシンフォニーは、初めて聴いたお客さんたちには、現在聴くことの出来るような熟練者だけによる整ったものとは違ったのだろうと想像されます。同様の、そんな具合だったのではないか。
ただ、アマチュアだから本当に整わなかったのかどうかには確信が持てません。ベートーベンより前の時代には、エマヌエル・バッハにとってのフリードリヒ大王やハイドンにとってのエステルハージ公のように熟練した演奏ができたらしいアマチュアのパトロンがいました。
そこを勘案すると、洋楽のほうのアマチュアとプロは、日本で言う素人と玄人という対峙関係にはないのだな、と、ふと思い当たりました。プロとアマチュアは、まず、その芸で稼ぐ人と稼がない人の対照であり、さらに団体戦のときは、稼ぐ目的ならプロ、稼がないならアマチュアになります。今回の団体の演奏会がトータルではアマチュアなのも、むべなるかな、なのでありました。
「玄人」をプロと並べてみようとすると、何かが違います。
日本の「玄人」なる言葉には、その芸で稼ぐという意味合いはありませんで、この点では、あえてカナ言葉と対応させるなら、素人玄人はアマチュアの中の芸の初等上級を区分するのだと言ったほうが間違っていないのでしょう。
それに関連して、現代、職業としてあることをする人をプロと呼ぶことと、芸の善し悪しをアマチュア・プロの対峙と結びつける発想をそこに重ね合わせること、については用心が必要なのではなかろうか、と、ふと思ったのでした。

プロなる言葉が本来要求した専門家(職能者)の色が、現代日本の諸芸のプロにどれだけ持ち合わされているでしょうか。
もし持ち合わせがわずかだとしたら、色は元来はお客さんの厳しい評価で決まることなのに、プロの芸を見たとき「良かった」しか言えない客が大多数だからです。

また、プロを先生と呼ぶときには、時代劇で悪徳商人が用心棒を先生と呼ぶのと同じ軽さがあるのに、それを自覚していないのではないか。それは、先生を前にしたアマチュアとしての私らお客さん側が、芸の本質を見極めようとする精神に乏しいからではないのか。

芸の究極は遊びなのかも知れませんが、古典となってしまったホイジンガの表現を待つまでもなく、それは人間の性質の究極なのでもあって、だから私たちは厳粛な遊びに真摯に向かっていかなければならないのではなかろうか、との思いが、私に湧いてきたのでした。

まぁこんなしょうもない話です。すみません。

そういうわけで、私も私の遊びに向かって襟を正そうと考えている次第です。

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2013年7月11日 (木)

狐だって古い・・・のか?【狐と油揚(3)】

こちらに移動させました。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/okiraku/2013/07/post-88d9.html

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2013年7月 7日 (日)

狐が先かお稲荷様が先か【狐と油揚(2)】

こちらに移動させました。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/okiraku/2013/07/post-bc8b.html

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2013年6月30日 (日)

おいなりさん・・・「助六」からの脱線【狐と油揚(1)】

こちらに移動させました。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/okiraku/2013/07/post-92d6.html

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2012年7月15日 (日)

大阪はどこへ向かうのでしょう?

文化活動のホンの端っこに過ぎない「クラシック」にほぼ限定したブログに綴っても、あんまり意義はないのかなぁ、とは思います。
しかしながら、とくに収益団体としてのオーケストラの運営には前から若干の関心もありましたので、その延長として「一個の小市民」が考えるテーマとしても、それなりに重みがあるかな、と考えてもおります。
そこで、少しだけは、綴ってみたいと思います。

昨日、産經新聞が掲載したものとして、Yahoo!JAPANニュースにこんな見出しの記事が転載されました。

「橋下改革の衝撃 直撃受けた大フィルは、文楽は…」
 産経新聞 7月14日(土)9時19分配信
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120714-00000507-san-soci

この中で、2・3、記事のお綴り手の「主観」で語られているのではないか、それをそのまま素直に読んでしまった、オーケストラのコンサートなんか経験もしたことのない人が、
「へぇ、そんなものなのか」
と思い込んでしまうのではないか、というあたりに、報道の恐ろしさを強く感じましたので、そこにだけちょっと注目しておきたい次第です。

【引用1】
「あと1曲アンコールをしてほしいのに
『超過勤務になるから』と断られた。サービス精神があまりにも欠けているのではないか」。コンサートを依頼した興行主は憤った。

【引用2】
興行主は「どこのオーケストラにも組合があるのは知っているが、大フィルの組合は特権意識が強すぎる。
フィナーレの大切な時間帯に残業手当を設けること自体が問題」と疑問を投げかける。

この2つの引用箇所で、おや、と不思議だったのは、興行主がどなたか、の明示がまったく無く、大フィル側だけが晒し者になっているのが第1点、そもそも本当に「超過勤務になるから」という断り文句だったのか、そうだったとしてそれだけだったのか、というところが第2点です。

興行主がどなたかを知る術は私にはないので、このかたの発言だとされるところから不自然に思われたことを申し上げます。
まず、制度的に残業手当云々が単純に問題なのなら、あと1曲のアンコールが出来るかどうかは、興行主さんがオーケストラに対してその分のコストも支払うことを考えていれば簡単に解消することであり、それは相手がオーケストラでなくても、パフォーマンス団体に対する報酬の事前交渉できちんと条件が決められることであって、根本にあるのはオーケストラ側の勤労条件云々ではないはずです。
セールスの営業担当などは超過勤務は当たり前だしやむを得ないのはセールスをなさっているかたならどなたでもご存知だと思いますが、その場合、担当が「充分だ」と思っているかどうかという心理的条件は措かれるとしても、雇主側は超過勤務分を何らかの見積もり方法で支払う旨は雇用契約の中で必ず明示されています。パフォーマーに上演を依頼する場合は契約形態が請負になりますから簡単に超過勤務云々は出来ないのかもしれませんが、もし興行主さんのご発言が真実だとしたら、「団員が超過勤務になった場合」の報酬条項が請負契約の中に盛り込まれていなかったことに問題の根があると考えられます。そこをすっ飛ばしての記事は報道として公平さに欠けるのではないかと強く感じております。
また、残業時間帯を設けることは組合の有無にかかわらず労働法が等しくどんな企業体にも認めていることではないのでしょうか? それを特権意識だと断定したり
「残業手当を設けること自体が問題」
という表現で語ってしまうことには、文化活動とされるものだけではない、日本のすべての働き手に対する、雇主側・興行主側の
<こうしなければ儲からないんだよバカども>
的な軽侮の視線さえ感じ取られてしまう・・・そしてそこに真意がないのであればなおのこと「残念な歪曲」が孕まれていはしないでしょうか?

そんなに、日本の雇主たち、興行主たちは、雇う相手に対して不親切なのでしょうか?

おそらくそもそも
フィナーレの大切な時間帯に残業手当を設けること自体が問題」
というところだけが今回この記事の本来の核心
であり、かつここにある問題はたったそれだけのことなのであって、本記事のこれ以下に他の在阪プロオーケストラへの扱いだの文楽問題だのと結びつけること自体が、たいへんなこじつけであるように思われてなりません。

大フィルの対応に非があったとすれば、たぶんずぶの素人さんであったかと記事からは推測される興行主さんに対し、大団体がどういうふうに動かないとお客様にも興行主さまにも迷惑をかけることになるか、を丁寧に説明しないで当日に至り、当日の意思疎通も(大フィル側の言い分はともかく)興行主さんにきちんと理解を得られる努力を怠ったところにあるのかもしれません。それはオーケストラといえサービス企業体であるからには、このようなニュースにされてしまった以上、よくよく運営体制を見直して頂く必要なあるのではないかと思っております。ファミレスとは違い、「深夜時間帯の交代者が、まだいるお客を前の担当者から引き継いでサービス出来るわけではないのだ」という、些細なことが非常に重いポイントだったりするはずです。

【補記】なお、この日は注文がついて追加のプログラムが1曲入り当初予定より長時間になった、との証言もこのあと耳に入りました。事実がそうでも、記事に書かれる恐ろしさは、そんなことは省かれた状態で記事が一人歩きするところにあります。純粋民間企業ならば名誉をかけて対処に全力を尽くすところです(それは別段提訴するとかそういうことでは必ずしもありません)。「お客側に立ったらどうか」を熟考したうえでの適切な対応を、大フィルさんがなさって下さることを、切に希望し祈っております。窓口が安易に追加を受け、現場はかならずしもそれを了承していなかったにしても、その実行がもたらすものは団全体の責任であり、団に関わるどなたもがそれを負っているのだという「外向けの顔」を、くれぐれもお忘れにならないで頂きたいと思います。

私の気になっているのは当面これくらい、なのではありますが、本「事件」が一連の大阪の「文化危機」問題と安易に一緒くたにされることには、外野の者ではありますけれど、強い危惧の念を抱いておりますことを、申し上げておきたく存じます。

なお、ひとこと余分を付け加えるなら、「文化危機」問題という表現をするのは、それが財政面から切り捨てにあうのではないか、と危機感を持つ方面からも、いや、やはり冗費なのではないか、と主張する方面からも、短絡的にでなく、充分に検討されなければ、そもそも文化とは何であるか、本当に護らなければならないものなのか、を私達が根っこから考える良いチャンスをみすみす失うことになる、と私が思っていることの裏返しでありまして、こういうところは自分はイソップ物語のこうもり君みたいでいやらしいのかもしれない、と自己嫌悪にも陥るのですけれど、ぜひ、幅広く、ただし知的に、世間で考えて行って頂きたく思っております。

大阪の一為政者ではなく、いま大阪のすべての大人たちが、どのようにふるまっていくか、は、私達日本語を使う民族が、これから文化と経済をどう扱おうとしていくか、の大きな試金石となるはずです。

大阪はどこへ向かうのでしょうか?

固唾をのんで見守っております。


以下、ここまでで触れなかったことの簡単な補足です。

「文楽」問題の方はすでに大きく注目を浴びています。目線が正しいか間違っているか、という議論はさておきまして、論陣が既に動いていること、当事者団体自体が火急の対応を迫られていることでおのずとなんらかの結果が出る・・・出てしまうものと思いますので、ドナルド・キーン博士へのインタビュー記事へのリンクを貼る以上にはここでは述べません。ただ、支援・非支援どちら側の立場の方であっても、市長側の見解記事を含めたリンク集をつくり、よくよく内容を冷静にご検討頂く必要性は強く感じております。この手の問題は行政は短期的に手を下したいものであるいっぽう、そこでもたらされた結果は再び180度の転回をしたいとの意志を世の中が持ったとき膨大な時間をかけなければ復元出来ないものであることは、洋の東西を問わず歴史が証明している、とだけ申し上げておきましょう。

【ドナルド・キーン氏、文楽は「人間より美しい」】
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/stage/569723/
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/stage/569740/
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/stage/569741/


あるいは、そのほかに、こういう記事も見つけていますが、これもリンクのみとします。ただし、この記事には小劇団の採算はどのようなものかも載っているし、そこに運営者がどんな価値観を持っているかも綴られていますので、コンパクトながら、解析をしたい方には恰好の記事になっているかと思います。

「問答無用 切り捨てられた小劇団」
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/576425/

よろしくご考察下さい。

なお、以前綴ったものから。

【プロオケの財政(大阪センチュリー助成金問題を振り返って)】
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-ec7f.html

ほかにも綴ったことがありますが、まずはこれくらいで。

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2010年7月 8日 (木)

音の主観

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック〜終了
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会〜終了
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。



oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。6月29日に掲載しましたが、バナーに大井さんのブログ記事をリンクしてあります。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

今日は掲げませんが、舞楽の素晴らしい演奏の録音をご紹介頂いて拝聴し、あまりに感激しましたので、思いだしたように久しぶりに雅楽の入門書を手に取りました。

笹本武志『はじめての雅楽』(東京堂出版、2003)

何も知らなかった私のようなものには、類書に比べたいへんすぐれた本で、以後もこれ以上のものは出ていないと思います。「越天楽」と「五常楽急」と「陪臚」の唱歌(しょうが)の譜が載っていて、説明が加えてあります。・・・譜とは呼んでいるけれど(雅楽をやる人は楽譜とまで仰っているし、ヨーロッパの古いネウマを読める人には楽譜の範疇に含めることに躊躇はないのでしょうが、それらは意味合いが違う前提が明確にあるからであって)、現代人が理解している<楽譜>ではありません(このことは、だいぶ以前の本ですが、増本喜久子『雅楽』以上に洋楽世界の人間にも理解させてくれる書物はこれまた見当たりません・・・同氏の『雅楽入門』よりもこちらが良いです)。入門書に載った「譜」には、いちおう、拍と音程が分かるように添え書きしてあるし、大まかにでよいならそれである程度分からなくはないのですが、正確にどう言うリズムで・音程で、とかいうのは口伝の唱歌で学ばなければ覚えられないでしょう。まあ、私はまだそれもちゃんと読めるほどではないから、どうしようもないのですけれど。

雅楽はこの唱歌(しょうが)というのを歌ってみる方法をとりますが、同じ「越天楽」でも横笛(おうてき)と篳篥と笙で唱歌はそれぞれに違っているし、歌ったそのままをそれぞれの楽器で吹くのではありません(篳篥だけが唱歌に近い歌を演奏するので、横笛は笛の唱歌の他に篳篥の唱歌も覚えなければならないそうで・・・専門家さんはちゃんとご存知かも知れないけど、私には本に書いてあるのを真に受けて「そうなのか」と思うしかありません)。
笹本著では楽器ごとの唱歌を丁寧な五線譜に書き直してくれているのだけれど、これが「越天楽」の演奏の中で実際に響く「越天楽」とは別物なんだよな、ということは、この本を最初に読んだときも思いましたし、今回も同じ感触を持ちました。ご著者も
「これが絶対的なものであることは」
ない、と強調していらっしゃいます。

雅楽はそれでも、太鼓を「時を刻む」象徴としているから、拍は分かりやすいほうかも知れません。

以前、「津軽山歌」に感動して民謡集の五線譜を見て愕然としたことがあって、五線譜に書かれたものには、実際に耳にした「津軽山歌」の影もかたちも感じられなかったのでした。
で、自分なりに採譜し直したら、リズムが規則的に刻まれていないで伸び縮みするので、それを<時間どおり>に五線譜に落とそうとすること自体が間違いなのだ、ということを知らされたのです。
緩急を考慮すると、この民謡は五拍子に単純化してしまうのが最もきれいにいきます。
(ただし1つの小節の中で、洋楽の1拍に当たるものはある拍はやや長く伸び、あるものは短くなりするし、これは歌詞その他の要因とも密接な関係にあると思われます。)
・・・この採譜は、とても悔しいことながら、家内の葬儀のばたばたのときに無くなってしまいました。いずれやり直さなければなりません。

・・・そんな次第で、いま、
「邦楽の五線譜化は本当に出来るのか?」
と、あらためて首を傾げており、であるが故に、ちと胸が痛い思いをしております。

「音を聴く主観、演奏する主観」というへんてこりんなキャッチフレーズが、このほかにもたとえばショパン関係の調べものをしていると、沸々と湧いてくるのです。このことはまたリストがらみでも綴りますけれど、ひとつだけ言えば、ショパンの最初の練習曲(この呼び方にも少しだけ抵抗がありますがリストの「練習曲」が果たして「練習曲」か、というほどまでには疑ってはいません)の第1曲、ショパン弾きとして名を馳せたコルトーが注釈を加えた楽譜【コルトー版】では「筋トレ」チックな予備練習を勧めていますし(別に筋トレだと捉えないでもいいのですが、コルトー自身が「これで指が強くなる」的発言を添えています・・・特別にコルトーの名前は出てきませんが、この風潮については岡田暁生『ピアニストになりたい』を参照なさると良いでしょう)、私のようなもんがつっかえつっかえでも1頁だけのろのろ弾く分には非常にラクをさせてくれる良い予備練習でもあります。が、「筋トレ」をショパンが望んでいたかとなると、ショパン自身の言葉を記憶している弟子の言葉では、むしろ逆なのです。

「このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、私も先刻承知しています。でもショパンの場合には、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすればよかったのです。」
シュトライヒャー(1816-1895)
・・・『弟子から見たショパン』所収(エーゲルディンゲル、訳書音楽之友社 2005)

さてさて、はたと迷ってしまいます。

・・・音楽を巡って「客観的な」記述は、さて、どの程度成り立ち得るのでしょう?
・・・そんなものが、どの程度存在するのでしょう?

こうしたことを考えた後にシューマンの評論(これは訳者が嫌いですが英書もドイツ語原書も発見出来ずにいます)を読むと、またまたがっかりしてしまいます。

「音楽の発展の速いことは、実際ほかの芸術の比ではなく」云々

・・・ヘーゲル的な進歩史観だ。

当時は仕方なかったのでしょうか?
同時代のショパンの手紙がシューマンに比べてすっと客観的なのを読んだ後では、こんな言い草は冗談じゃあないと思うのです。
(ただし、「筋トレで指を壊した」伝説を持つシューマンが、ピアノ演奏に関しては逆に筋トレ否定的な発言をしている点は読み落とされがちで、これは気をつけておくべきです。)

エジプトの音楽を例にすれば、いま「伝統音楽」として国の支援を受けているものの音程感は西洋音楽のそれになってしまっていて、一生懸命なエジプトの方には大変失礼なのですが(お許し下さい)曲調も節回しがアラビックなだけ・道具を民族音楽にしているだけで、こんなのはちっとも伝統音楽ではないと思えて仕方がないのです。むしろコプト教会の荒々しい聖歌のほうが古態を保っているのです。

・・・このこともふくめて、私は、さて、何をどう考えて行ったらいいのか?

ちょっと苦悶しております。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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2010年5月14日 (金)

ひゆうことはさんの絵と橋口淳一さんのリュート

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月20日(木)船橋市民文化創造館
・5月22日(土)旧安田楠雄邸(千駄木)
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。



アマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会は、6月19日、浅草公会堂にて

最近ひそかにファンになった、ひゆうことはさんの絵の個展が5月10日から神保町で開かれているのですが、ご案内が遅れてしまいました。

飾られているのは20点強の作品です。
気に入った作品が幾つもありまして・・・さまざまな色合いの作品があるのですが、胸を突かれる思いをしたのは、それがたとえどんな色であっても(強い色、鮮やかな色)、そしてよく見せて頂くと、それぞれの色がそのままの力を保ったままであるにもかかわらず、かつまた、今回は小振りな作品の展示であるにもかかわらず、光も闇も、一体になってふうわりと融けている。

Moon

でも、その「見かけの上」でのやわらかさにだまされるのは、まだ早いのです。

会場を出たあとになってからのほうが、自分の目の中に強烈な光がよみがえって来て、時間が経てば経つほど、それに眩まされるのには、本音で驚きました。

残り2日ですが、東京にお出掛けになれる方は、そんな絵の力を、ぜひ実際に体感して頂きたく存じます。

地下鉄都営新宿線の「神保町」駅A7出口、もしくはA5出口を出ます。
A5出口の場合は、横断歩道を渡って左方向に歩き、書泉グランデの前の道を右にまがり、広い通りにぶつかったら左に行きます。

なお、最終日の12:30には、リューティスト、橋口淳一さんが生演奏を聴かせて下さるとのことです。リュートの音色は、ひゆうことはさんの絵の中の光そのものでもあり、たいへん素晴らしいイベントになるのは間違いありません。

会場は下記の通りです。

~ひゆうことは作品展~感性の世界~

5月10日(月)~5月16日(日)

http://www.bumpodo.co.jp/

無料

〒101-0051
東京都千代田区神田神保町1-21-1  文房堂3階B-shop
TEL:03-3291-3441(代)
FAX:03-3293-6374
E-mail:info★bumpodo.co.jp (★は@に置き換えて下さい。)

10:00~19:00まで(最終日は16:00まで)

なお、ひゆうことはさんの絵は、ネットでも販売されています。

ART-METERにて
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW039171

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW039165

作品の素晴らしさを思うと、お安いのは今のうちだけかも!!!


oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました。また掲載します。とりあえずバナーに大井さんのブログ記事をリンクしました。なお、門仲天井ホールで年9月に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われる模様です。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。
oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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2010年4月11日 (日)

井上ひさし氏逝去

ご冥福をお祈り致します。享年75歳の由。

朝日新聞web http://www.asahi.com/obituaries/update/0411/TKY201004110009.html 4時6分

毎日新聞web、産経ニュース 現時点で見つけていません。後者はすでに上がっているはずなのですが。

戯曲は新作を覗き全集出版されていますね。いま、これだけ「ウケる」戯曲、客席の目のほうを大事にした戯曲を書く日本人は皆無ではないかと思います。

小説もずいぶん読ませて頂きました。愉快な傑作が多いですが、「四十一番の少年」のような暗い作品も忘れ難いものがあります。

思想、とくに晩年のものには(「ひょっこりひょうたん島」あの世説)私自身は共感出来ない・・・本当でも黙っておけばいいのに、と感じたりして・・・部分も少なくありませんでしたが、それでも作品は大好きでした。

宮沢賢治、樋口一葉、太宰治を巧みに紹介した本(戯曲執筆時の材料をいかしたものですね)や、フランス座の往時をまとめた本も、有り難いご著作です。

子供時代はお母様がご苦労なさって、仙台の施設に預けられての中学・高校時代でしたが、中学時代から同窓者の注目を集める秀才でいらしたとうかがっております。
高校時代の井上さんたちのマドンナが若尾文子さんだったという逸話も、「青葉繁れる」以前から仙台ではよく知られた話でした。仙台で育ちましたので、懐かしく思いだします。

肺がんとの闘病、お疲れさまでした。

以下は、Yahooニュースに引かれた産經新聞の記事の転載です。



小説「吉里吉里人」やNHKの連続人形劇「ひょっこりひょうたん島」の台本のほか、戯曲やエッセーなど多彩な分野で活躍した作家の井上ひさし(いのうえ・ひさし、本名・●=ひさし)さんが9日夜、死去した。75歳だった。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く予定。

家族によると、昨年10月末に肺がんと診断され、11月から抗がん剤治療を受けていたという。

井上さんは昭和9年、山形県生まれ。上智大在学中から浅草のストリップ劇場「フランス座」文芸部に所属し、台本を書き始めた。39年からは、5年間続いた「ひょっこりひょうたん島」の台本を童話、放送作家の山元護久とともに執筆、一躍人気を集めた。

44年、戯曲「日本人のへそ」を発表して演劇界デビュー。47年に「道元の冒険」で岸田戯曲賞を受賞して、劇作家としての地位を確立した。奇想と批判精神に満ちた喜劇や評伝劇などで劇場をわかせ、59年には自身の戯曲のみを上演する劇団「こまつ座」の旗揚げ公演を行った。

小説家としても、47年に江戸戯作者群像を軽妙なタッチで描いた小説「手鎖心中」で直木賞を受賞。絶妙な言葉遊び、ユーモアたっぷりの作風で多くの読者に支持され、エッセーの名手としても知られた。自他ともに認める遅筆で、台本が間に合わず公演が延期となることなどから、「遅筆堂」と自称していた。

一方、戦争責任問題を創作のテーマに掲げ、東京裁判や原爆を主題にした作品も数多く発表。平成15年から19年にかけて日本ペンクラブ会長を務め、16年には護憲を訴える「九条の会」を作家の大江健三郎さんらとともに設立した。

戯曲「しみじみ日本・乃木大将」「小林一茶」で紀伊國屋演劇賞と読売文学賞(戯曲部門)、「吉里吉里人」で日本SF大賞、読売文学賞(小説部門)。小説「腹鼓記」「不忠臣蔵」で吉川英治文学賞、「東京セブンローズ」で菊池寛賞など受賞多数。16年に文化功労者、21年に日本芸術院会員に選ばれた。

●=マダレに「夏」

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2009年12月14日 (月)

文化の大切さを見直す:19世紀初頭ウィーン、オーケストラ事情と対比して

昨日覗き見た「音楽都市ウィーン」からの、もうひとつ興味深い事実です。

なぜこれも採り上げておきたいか、には、いま日本のオーケストラがおかれている位置と対比してご覧頂きたいからです。

自分は政治的人間でも、そうしたことに識見のある輩でもありませんから、あまり多く言辞を弄するつもりはありません。
とにかく、「政党」に偏する政治も、日本の場合は誰が成り代わっても所詮は低レベルで、寡頭政治と何の変わりもない・・・どんな「主義」を標榜なさろうが、担い手の如何で本質が変化することはない・・・ということには、長いこと失望を味わっております。ならば、世の中のことには「イエスマン」で過ごしていくのが一番だろう、というのが私の処世術でもございます。
「仕分け」と称する作業は、今回野党に転落した某政党のかたも興味本位でご覧になっていらしたようですし、政権党への反対者たちも、政治屋さんである限り、おしなべて「それなりに高い評価」をなさっているようです。が、あんなのは古代ギリシアの歴史に照らし合わせたって、衆愚政治以外のなにものでもなく、ファシズムやソヴェト式独裁の時代と比べたって恐怖政治以外の萌芽のなにものでもない。あの非礼な質問態度は、慢性的な赤字を抱える国家運営のツケをどこへまわそうか、ということだけに獣のような目線を注いだ「軍事的裁判」に他なりません。国民にいいところを見せようとカッコをつけるのはやめていただきたいと思います。コストダウンの必要性は、どこで働いている誰も彼もが感じていることではあるのです。根底に優しさがない限り、そうした人々の切実な思いがどうして汲み取れるというのでしょうか?

ここ十年来制定されてきた様々な法令も、良心的に働く人々の首を暗にぎゅうぎゅうと絞めていく一方です。
「なんの権利があって、あなたがたはそういう立法をなさるのか?」
と問いたい気持ちは山々です。
(「個人情報保護法」なんていうものは、良心的に働く人たちに、果たしてどれだけ貢献したと言えるのでしょう? 亡妻は教員でしたが、いまだに、どこかから違法に名簿を入手したのであろう業者からの電話が絶えません。一方で、もともと私どもの個人情報を丁重に扱って下さった業者さんが、私の頼みたい用事を果たすにもほうが妨げとなって不自由するケースがあったりしますし、支障なく話を進めるために面倒な手続きが必要になって腹立たしくなったりすることも増えました。罰すべき対象に照準が合っていないと言えます。)

ですが、この記事に政治的なコメントを頂くことは本意ではありませんし、最初に申し上げましたように、私は世の中の運営というものに対して甚だ音痴です。音楽も音痴かもしれません。ですが、世間音痴で味合わされた最大の苦しみは、私の家内を公立病院の稚拙な(ずさん、とは申し上げません)医療で失い、そのあと何の救済も受けられなかったことでして、これは世間音痴ゆえに私自身が責任を負うしか他にないということは重々承知をしているつもりでございます。

(ちなみに、NHKの世論調査では、事業仕分けを「あまり評価しない」人は18%、「殆ど評価しない」は4%とのことです。評価している方のほうが多いのです。追記しておきます。)

まあ、少しは優しい立法、優しい中央行政をなさって頂けますよう祈るのみです。
出先機関のかたがたは、おおむね大変にご親切なのですから。これは心底思います。接したどなたも、最大限をなさろうと努めて下さいました。これにはいつまでも感謝の思いでいっぱいです。



・・・皮肉につづってしまって本記事を始めることには遺憾の思いもありますが、取り上げる時代のウィーンの状況が似ていますので、対比上よろしいかと思いますから、このまま参りましょう。

オーケストラを維持する、というのは、その規模の大きさ(小さくても十数名から、19世紀前半のウィーンでの管弦楽作品に要した人数は30名を超える程度)から見ても、財政的に非常に難しそうなのは、想像がつくところです。いや、それだけではなく、文化活動に対する出資者を失うことは、元となる音楽を創造する人たちの経済をもかなり圧迫することになりました。
ウィーンの19世紀初頭は、フランス革命と、続いて一貫して起こったナポレオン戦役により、勝った側のフランス以外の国にも大きな財政的ダメージを与えました。
ウィーンは、損害を被った貴族が最も多い都市だったかもしれません。というのも、こんにちなおそうであるように、この都市は、この当時で言えばナポレオンの侵略戦争の地となったボヘミア地方やロシアとの接点を多く持ちましたので、貴族たちの財源ともなっていたこれらの地域が受けた痛手がそのまま彼らの生活の足場を揺るがせたからです。
ヨーゼフ・ハイドンを抱えていたエステルハージ家のオーケストラも解散に追いやられた団体のひとつです。
個人としてはベートーヴェンの庇護者であったリヒノフスキーやラズモフスキーも凋落して事実上貴族の抱えるオーケストラは消滅、そのサロンも(メッテルニヒのものを除けば)崩壊して、ベートーヴェンという個人も晩年の生活保証が得られないとの心配をかかえたことは、彼の伝記がおしなべて語っているところです。

代わってオーケストラ活動の表舞台に登場してきたのが、楽友協会です。
この団体は、しかし、現在のウィーン・フィルにまで大成するには、なお多大の時間を要しました。
メッテルニヒ体制化での活動では、楽友協会のオーケストラはプロとアマチュアの混成部隊であり、演奏会前の練習回数もせいぜい1回から3回で、難曲をこなすなんてとんでもない話でした。

ウィーンで中産階級と呼ばれる人たちの年間生活費が1786年に464フローリン(内食費180フローリン、以下括弧内同じ)、1793年に775フローリン(365)、1804年に967フローリン(500)と、フランス革命の年を挟んで倍増(工場労働者は19世紀中葉でも300フローリン以下、日雇いで稼ぎのいい者で700フローリン弱、ベートーヴェンの女中が120フローリン、貴族家庭の料理人が400フローリン、海軍大尉で860フローリン、陸軍は少佐で950フローリン)して行ったのに対し、オーケストラメンバーに渡される給与は30名程度の規模でも総額15,000フローリン(1815-37年頃のプロの中堅ヴァイオリン奏者の年収が800フローリン、その他の楽器の奏者の場合は240-480フローリンであったとのデータが掲載されていますので、仮にヴァイオリン以外の奏者の給金がヴァイオリン奏者の半額だったとすれば、これくらいの額であり、しかもオーケストラの殆どの団員はそれだけでは生活出来なかっただろうこともうかがわれます)。
演目がオペラである場合・・・当時は器楽の演奏会よりはこちらのほうが一般的だったでしょう・・・、主演級の歌手には4,000フローリンを超える額が年俸として支給され、楽長が2,000フローリン、副楽長が1,000フローリン程度支給されたのですから、4名の主演級歌手がいると想定すると、人件費だけで32,000フローリンのイニシャルコストがかかったことになります(計算の簡単のため1回につき8,000フローリンとしてしまいましょう、かつその他の歌手や合唱の存在を考えればこれでもだいぶ安すぎる見積額だということは承知をしておきましょう・・・舞台装置は考えていません)。

一方で、オーケストラが活動する会場や楽譜・照明などの費用は、楽友協会の定例会の例では年間1,000フローリン(演奏会4回なので、1回につき250フローリン、ベートーヴェンの事例では、1824年の第九初演の際、ケルントナートーア劇場とそのオーケストラを使用するのに1回だけで1,000フローリンの出費をしています)でした。収益0でも稼がなければならないのは33,000フローリンということになります。収容人員については読み落としをしているのか情報を見つけておりませんが、パッと見たところの入場料の平均は1.5フローリン程度ですから、5,300人以上の聴衆(観客)を得なければならなかったことになります。平土間に席も設けていなければ可能な人数ではありましょうが、劇場の強度を想像すると、じつに恐ろしい人数です(おそらく、大きな劇場でもこの半分も収容出来なかったでしょう)。楽友協会の定期的なものに限定しなければ年間100を超える演奏会があったようですから、ここまで極端でなくても食い扶持は何とか稼げたのかも知れませんが、音楽家の絶対人数、それぞれの人が100回のうち何回に参加出来たかが分からないと何とも言えません。ただし、会場の収容人員を1,000人と見れば、ひとりのオーケストラ奏者が団の維持に貢献するためには最低年間20回の演奏会でペイ出来なければならなかったのだとは言えます。ほぼ半月に2回の頻度です。年俸が前述の通りの低さでは、インフレの激しい中でオーケストラ活動にこれだけの時間を費やすことは、まだ地域的な縛りが強かった時代であることを勘案すると、かなりキツいはなしだったのではないかと思われます。彼らはオーケストラ活動の他になお400-600フローリンは稼がないと、「フツウの生活」を送れなかったのですから。事例では、もっと低い給与水準(200フローリン台)にあった40代の団員が解雇後の復職を求めているものがあげられています。

そうした環境下、この他に当然広告費などもかかったのですから、現実にあったことなのですが、演奏会を組織する立場としては、演奏者のコスト削減をどうしても考えざるを得ず、それがプロとアマチュアの混成部隊の編制に繋がったものと思われます。その結果、演奏会では難曲を採り上げることが非常に困難であったのだ、と、「音楽都市ウィーン」では述べられています。
文化を守る人々は、生活の苦しさと常に背中合わせだったわけです。



以上、オーケストラに関してばかりつづりましたが、同じ話でいけば、戦後の日本のオーケストラも財政的に紆余曲折を繰り返してきたことはご承知のとおりです。
これらオーケストラは、地域の要請で成立してきたものが多いにもかかわらず、作られた割には客寄せもままならないで苦しい財政を強いられ、助成金を大きな柱にしてなんとか踏ん張ってきたのでして、その割合は前に記事にしたことがありますし、大阪センチュリーの話題も取り上げたことがあります。

そうしたなかで、なんといっても記憶から消えないのは、小澤征爾さんが懸命になって新日本フィルを支えた姿です。
彼の音楽作りがどうのこうの、という表面的なことを云々する以前に、楽団を守り、文化を守ろうとしたその姿勢の真摯さは、まだろくに社会というものを知らなかった十代前半の私にも、非常に鮮烈に映りました。あれは、厳しい中でなんとかオーケストラが自立していかなければならないんだ、という使命感をも併せ持っていましたし、こういう情勢下では、各プロオーケストラもその原点を見つめなおす必要があることは確かです。

その小澤さんが政治家の小沢さんの元に苦情を述べに行ったニュースは、すでにご存知でしょう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091209-00000141-mai-pol

記事によってはもう少し過激な文のものもありますが、毎日新聞社のものを転載します。

2月9日21時49分配信 毎日新聞
指揮者の小澤征爾氏が9日、国会内で民主党の小沢一郎幹事長と会い、来年度予算編成に向け、資金不足に苦しむ日本の民間オーケストラへの支援を要請した。小澤氏は財団法人の一部オーケストラについて、省庁OBの天下りで人件費がかさんでいる現状を説明。「財団法人の無駄を削らず、貧乏な民間オーケストラにしわ寄せがいくのは無理がある」と見直しを求めた。
「ダブルオザワ」会談では、小沢幹事長が「私は評判の悪いほうだけど」と切り出すと、小澤氏も「僕も音楽界では嫌われているから同じ」と笑顔で応じる一幕もあった。同じ名前で以前から小沢幹事長に興味があったという小澤氏は「官僚システムを変えるのは、政治が変わったいまがチャンス」とエールを送った。



文化に対する多くの無理解は、別段オーケストラに対するものに限られてはいません。
伝統文化でも、いまでこそなんとか成り立っている能・文楽・歌舞伎のいずれも、明治期の社会体制の変化の中で一方ならぬ苦労を強いられてきました。そうした歴史をもういちど、私たちは紐解くべきです。
小さな村のお囃子は努力をしてもしても過疎で滅び、伝統工芸には、利益中心に組み立てられてしまった産業構造の中で十分な収益を得られないために消え去ったものが多々あります。

それらへの目配せも、私たちが私たちの「文化」を考え直す上で非常に大事であることはいうまでもありません。

こんなバカな国が「先進国」だなんて名乗っているのは・・・アジアでも日本くらいのものではないでしょうか? 実態はアジア随一の非文化国家に成り下がろうとしているとしか思えません。

文部科学省の意見募集の頁はこちら。文科省さまの良識を信頼したいと存じます!
http://www.mext.go.jp/a_menu/kaikei/sassin/1286925.htm

なお、広島交響楽団でも意見募集をしていますが、締め切りが明日12月15日です。
http://hirokyo.or.jp/

お名前は伏せますが、情報ののリンク先は、今回の事態に危惧の念を抱いていらっしゃるかたからの情報によるものです。心から感謝申し上げます。

なお、メジャーな伝統文化関係の本としては、その歴史的な時間軸での取扱われ方の変遷をみるには

ドナルド・キーン「能・文楽・歌舞伎 (講談社学術文庫) 」

郡司 正勝「かぶき入門 (岩波現代文庫)」

をお薦め致します。

民間伝承文化や工芸については、その引き継がれて来た背景まで覗かせてくれる好著は、いまのところ手にしたことがありません。お薦めをお待ち申し上げております。



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2008年10月10日 (金)

「音楽」マーケティングは<本当に>存在するのか?

大宮光陵高等学校音楽科23回定期演奏会、是非お越し下さい。



仕事のスケジュール、およびスタミナの問題もありあまして、

・モーツァルトの「フルート四重奏曲」を読譜中ですが完了せず
・ゼキ氏著第7章を通じての「視」と「聴」の対比もまとまらず

でして、かつ、音楽史は宣教師の訪れた戦国時代の日本から、ふたたび「イエズス会」の原動力であったローマ世界を含むイタリアへと戻っていかなければならないのですが、これは少し時間がかかります。

したがって、昨日の屁理屈の続きで行きたいと思います。



ギャラリスト小山登美夫さんの「現代アートビジネス」にあったうちで心を動かされた、この言葉からスタートします。

「新しいアートが世の中に受け入れられていく過程とは、今までまったく存在したことがないものに、どうやって価値を見いだしていくか、ということではないでしょうか。」

モダンアートの世界は、たとえばこうした小山氏のような発想と、それを貫いた情熱によって、日本ではまだまだ、だそうですが、欧米はおろか、アジアにも大きな市場を形成しており、それは未だに成熟途上だそうです。

ただ、小山さんは、大先輩ギャラリストの西村さんが常々お話になっていたという
「(モダン)アートの世界にはマーケティングが効かない」
ということを<初心>・<原点>としています。かつはおそらくギャラリストなる人々は常にこの<原点>を維持しているからこそ、「新しいもの」を「売る」ノウハウを、そろそろ確立し、確立したことを実感もし始めた。実際、彼らの実感は、いちおうは価格という物差しによってしか明示されてはいないものの、「現代アートビジネス」のような著作が発行されるのは、価格には現れない「社会が求める<新しい美術>の価値を測る尺度が生まれ、または生まれつつある」ということが世間の認識に裏打ちされているからこそ可能なのであろうか、とも思います。

そこで逆に、非常に引っかかったのが、「音楽や映画はマーケティングが効くが・・・」という前置きが、ギャラリストたちの、いわば<アンチ・マーケティング>発想に付随していることでした(小山氏の著作で明確に文言化されています)。

映画や音楽については、本当に「マーケティング」が「効いて」いるのでしょうか?

映画方面は<息子と映画を考える>のほうで別途また考えていきたいと思いますが(まだろくに記事も綴っていません)、とにかく親子連れで見に行ってみたり、関連する書籍をあたってみたりした限りでは、以下に見ていく「音楽」同様、ビジネス的な「マーケティング」導入に若干の余地はあるように見えますけれど、私の実感するところを小山氏の著書の記述内容と比較すると、むしろ、本来的意味合いでのマーケティングは「モダンアート」の方が、よりしっかりしたものが確立されているように感じられます。

・アーティストが自身を客観的に評価できるかどうかの見極めから入り(つまり、ギャラリストさん自身がアーティストさんを「客観的に」好きになり
・アーティストが信頼できれば、その人につけるべき最安値から売り出しを開始し
・作品はその段階で、作品を純粋に愛する人に買い取られる

ここまでがギャラリストさんたちの基本のお仕事で、後年オークションで目の玉が飛び出るような(十億単位以上の)高値が付くような「アート」でも、最初は数十万円もしない。
かつ、オークションでいくら高値がついても、その段階では売り手はギャラリストさんではない。あくまで、「アート」を愛して買っていった人たちの手から手へ渡っていく過程でつく値段ですから、超高値物件の売却でもたらされる大幅な収益は、売却主のものであり、ギャラリストさんはそこからマージンを得るわけでもなんでもない。
・・・ただし、副次的に、そのアーティストを見出した実績を評価されて、高値品の転売を委託されることがあれば、ギャラリストさんは初めてそこで、「上がった価値」の幾分かの実入りを得ることが可能になり、結果的に・・・儲かる、というのが主眼なのではなく・・・また新たなアーティストの発掘に注力できる、というのが「モダンアート」業界のベーシックな流れです(小山さんは美術品が何故しばしば投機の対象になるかについてもきちんと記述していらっしゃいますが、今回は貨幣で測られる「収益」を主眼に置くわけではありませんので、そのあたりのことは省きます)。

「売り手」にとっても「買い手」にとっても、作品を愛することが基本です。ですから、その「真贋」の管理も徹底していて、ギャラリストの手を離れた後には、オークション時にカタログも(ミスケースは皆無ではないとのことですが)きちんとしたものが整備され、「買い手」となる意思を持つ人は、それを物差しにすることが出来ます。
商業世界で一般的な、エリアや世代展開を目的とした「マーケティング」ではありませんから、たしかに常識的なマーケティングの教科書に載るような類いの仕組みではありませんが、
「作品を愛する個々人」
にしっかり浸透する、という面では、実は最も理想的なマーケティング戦略が、かなりきちんと定式化されていると見なせるのではないでしょうか?

・・・ですから、過去の日本の「バブル経済」時の馬鹿げた美術品高額買いみたいなことは通常行なわれず、そこには景気に影響されない「富」が蓄積される。



「貨幣価値」でしか「富」をイメージできないのでしたら、ここまでの話も「ピラミッド上に積み上げられた金の延べ棒」を脳裡に描いてしか読んでいただけないかもしれません。

本来は、私は「収益」を目指すわけではない「アマチュア」についてまで視野に入れて、以上のことに考えさせられたのですが、それについてはまだ一言も述べていませんし、今日だけでは無理でしょうから、まずは「貨幣」イメージでお読み頂いても結構でしょう。

では、金銭価値としての「富」が蓄積されるという、いわば表面的な部分からだけ見た場合でも、果たして、「音楽」には、「モダンアート」に匹敵するマーケティング展開がなしえているでしょうか?

「ポップはいけてるけど、ジャズやクラシックはむずかしいな!」

・・・はあ。

「ジャズはまあともかく、根強いファンがいるからある程度はね。クラシックは、古い。硬い。え? 現代音楽? 訳わからんだけじゃない! やっぱりポップだよ! 新しい。 最先端だ。タレント性もある。」

・・・念のためですが、「現代音楽」は、「クラシック」の延長線上で扱われていて、CDショップの棚でも「クラシック」に分類されていますし、それ以前に、演奏されるコンサートも「クラシック」として扱われていて、演奏者も9割方はクラシックと重複しています。話を複雑にしないために(もう充分複雑かも知れませんが)、この先は現代音楽は「クラシックの<新しいもの>」ということにしてしまいましょう。

・・・それから、ジャズについて、かつまた、ここまでも登場させていませんが、ワールドミュージックなるものについて、は、省いて考えます。



上のセリフは、日本のマーケティング担当ならこう言うかな、と仮想してのものです。
つまり、いちおう、ここからは日本を前提とした話です。
このマーケッターのセリフの背後には、「音楽」そのものを「売ろう」という精神が、まず存在するでしょうか?

試しに、何でもいいから、今10代の間で流行しているポップをお聴きになってみて下さい。
リヴァイバルも結構な割合を占めているのは、ご承知の通りです。
そうではなくて、新作と称するものの方を聴いてみましょうか・・・。

試しました。・・・「音楽」そのものには、ガッカリするほどに、「新しさ」は感じられませんでした。
さすがに1960年代までには遡らないとは思いませんでしたが、70年代に聴いたロックとかフォークとか歌謡曲とか、同時期のアメリカン・ポップやロック・・・要するに30年から40年前には開拓されていた「大衆音楽の新スタイル」を踏襲しているに過ぎない、というのが、私の正直な感想でした。
つまり、ポップが売れているのは「音楽が新しい」からではないのだ、と思われます。

ポップの特徴として、若干の例外を除き「楽器だけで演奏される目的で作られたもの」は、存在しません。
ポップのご先祖様をたどれば、都都逸〜浄瑠璃〜謡〜平曲〜和歌の朗詠、みたいになるのでしょうが、近代に至るまでは、節回し(メロディ)も、作品ごとに際立った個性があるというわけではありません。器楽側も、演奏の基本スタイルよりはパフォーマンス性という視覚要素が関心の中心となります。
したがって、「聴き手ないし観衆」は「音楽」ではなく、歌のセリフに託された、今という時代への共感をもって、ポップを聴く。あるいは、歌い手・演じ手のキャラクターに、現在そのものの理想を見る。

ポップの「聴き手(ないし観衆)」の目的は、「音楽そのもの」ではなさそうです。

ということは、「音楽のマーケティング」というものは、日本の音楽マーケティング担当者が先ほど仮想したようなセリフを発想の根源としている限り、実は「音楽そのもののマーケティング」ではない。

という次第で、じつは、「音楽そのもの」には、マーケティングは戦略的に行なわれているわけでもなんでもなく、「音楽そのものの愛好家」がターゲットにされていないのではないでしょうか?

この、基本・根本のズレを見直すことが、なんだかいつまでもしゃちほこばってしか捉えられていない<クラシック>だって、本来的に「音楽そのもの」で・・・プロ作曲家・演奏家は生活が成り立ち、アマチュア演奏家は聴衆と一緒に音楽を愛せる、等々・・・「新しいもの」に馴染んでもらうマーケットを、数段のレベルで拡大出来ていくのではないでしょうか?



私がなぜ「クラシック音楽ビジネス」なるものを考えようと思ってみたり、一見それとは繋がりのない、「音楽の認知のされ方」を素人レベルのままながら検討してみようと思っている最大の理由は・・・前の記事の「くどい」反復にはなりますが・・・アバウト、こんな思いがあるからでございます。

またまた穴埋め記事ですみません。

本論に入るには、まず「認知」の件を片付けなければいけませんので、合間にまた似たような駄文を綴るかも知れませんが、お付き合い下さっているかたには、引き続き宜しくお願い申し上げます。

こんな記事ばっかりなので、さすがに、こちらに移行してからの方の読み手は少ないんですよ。
未だに、旧版の記事のほうが、毎日同じペースの「一元さん」に恵まれています。
どっちにしたって、個人の趣味ですからね、数を云々しても無意味なんですが、
「なんかが違う、なんか変えたい」
自分には、たかだか1日百数十アクセスの旧ブログでも充分に大きな母数ですから、新の方がその3分の1程度しかいかない、という現実には
「うーん、やっぱり、こりゃ下積み丸出しだからかなあ」
と、少し、肩が落ちる思いでは、いるのです。

でも、かの伸介竜助だって、売出しまで1年の前準備をじっくりしたのですから、どうせ先々も一介の素人で行こう、日に100人共感してくれるようになったら御の字だ、と思っている私には、こっちのほうがずっと貴重な「自分のための準備」ノートだと思って続けている次第です。

「アキレスと亀」の、売れない画家さんと同じだ。
(リンクした私の記事にはストーリーのことは殆ど綴っていませんので、この記事に寄せられたトラックバックをご参考になさって頂ければと存じます。)


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