心と体

2009年2月 6日 (金)

音楽美の認知(11):音の「受容野」

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さて、だいぶ空きましたが、セミール・ゼキ博士『脳は美をいかに感じるか』の後半を読んでいってみましょう。

「イデア」についての誤認はあったものの、これはたどっていくと既に中世のカトリック学者達にまで遡る誤認、さらには案出したプラトンでさえ、ゼキもその中から言葉を求めた彼の『国家』の中では、すでに『メノン』で最初にたどりついた本来的なその意味をあまりに敷衍しすぎ、自らごまかされているのでして、その責任をゼキに帰すことは出来ません。・・・晩年のプラトンによって具象化され過ぎた「イデア」論については、弟子、アリストテレスが既に危機感をもって猛烈な反駁を加えていますけれど、その読解はかなり難しいものでして、私も(日本語訳によっても)まだまだ理解出来切れませんから、それは機会があれば別の問題として採り上げることにしましょう。

世の中、何でも「脳」で語る風潮が強くなったことに対しては反論書も若干出るようになりました。
ですが、いまだに、<脳科学者>と称する中のホンの一部の(本当に、一部に過ぎません)、科学的根拠の薄い本が書店の棚を埋め尽くしていて、ガッカリします。
究極的に「脳がすべて」であることが、単に実験科学だけではなく論理でも、さらに形而上学的にも解明された後ならば、いくらそう語ってもらっても構わないのではありますが、現実に「脳」がどこまで「知覚」を支配しているか、を証明できる事実は、複雑に入り組んだ社会の中では、ほんのわずかなことがらについてしか解明されていないのが現状だ、ということを忘れてはなりません。

ゼキ著の偉いところは、最初から「脳がすべてを解明できるとは、私は未だ言い切れない」という態度で出発していることで、生理学上でも扱える抽象画に素材を限定しながらいよいよ具体的な記述に入る第2部では、彼の客観性が存分に発揮されています。

これを音楽とどのように対比できるのか、が、奇妙な言い方ではありますが、「どのような音楽創造がこれからの音楽ビジネスを形作りえるのか」を検討する出発点となるもの、とみなしても良いのではないでしょうか?

さて、第2部の最初は第11章の標題である「受容野」そのものの、脳に於ける視覚像の受容野についての概説から入っています。
具体的な内容は次章からとなるのですが、ここで彼は、視覚に関わる脳の「受容野」が、各担当領野ごとに、特定の色、特定の線の角度、特定の向きへの運動等にしか反応しない事実を明示しています。
抽象的美術を語る上では、たしかにこれで充分である、との印象を受けておりますが、こうしたデータ例を元に、ゼキは
「形を本質的な構成単位に還元しようと試みた画家の作品と、すべての形の構成要素が脳内で以下に表象されているかという問いの答えを脳の単一細胞の反応の中に求めた科学者の発見との間に、類似点があるかどうかを」見ていくと述べ(198頁)、それで本論(12章以下)に入るのを待たず、咲きに結論を次のように明示しています。
「生理学者と画家は脳について同じような問いを発して来たのである・・・画家が形の普遍性を抽出することに成功したかどうかを最終的に判断するのは・・・画家と鑑賞者の脳なのである。そして脳が下した決定は、何百年もの進化の過程の産物である脳の生理学的構造に基づいているはずであり、この進化の結果、脳はほぼ無限に存在する形を、共通する特定の側面から認知できるようになったのである。」(198頁)
この結論により、ゼキはなお
「モダンアートの価値を単一細胞の反応という観点からのみ説明できるというつもりはない」(203頁)
という慎重な姿勢を保ちながらも、実質上は美術家と生理学者=脳科学者を同列に置いています。

この同列関係は、果たして、正しいでしょうか?



音に関する受容野で、音楽に関わるものとしては、聞こえる周波数帯域によって、いくつかの受容野が順序良く並んでいて、特定の範囲の周波数の認知を司っていることまでは分かっています。
ですが、(音量・リズムの問題はとりあえず措くとして・・・とくに後者は運動を司る領野と密接な関係をもっているはずですから、ゼキの論との対比は可能になることでしょう)音色についてとなると、もしかしたら広い世界の論文の中には研究発表されたものが存在するのかも知れませんが、少なくとも公にされるほど一般的に発表し得る研究結果は存在しないように見受けます。・・・もし存在するようでしたら、ご教示下さい。

詳細は、ゼキが「色彩」を具体的に取り上げる際に検討することとしますが、仮に、音高(周波数帯域)だけでなく音色・リズムまでの問題が解決したとして、それは音楽がもたらす「情動」と・・・これは演奏家の上に起こるものと聴き手側に起こるものとで一致・不一致があることも考えられます・・・どのように結びついているか、までの解明は、果たして、どこまで可能なのでしょうか?
なおかつ、そのようなことが「科学的に」解明されなければ、音楽の「価値」というものは<客観的に>とまではいわなくても、美術品がそうであるように「オークションでの価格付けが可能になる」までに至ることはあり得ないのでしょうか?



以下は、まるきり「神話的寓話」ではありますけれど、特に哺乳類の子宮内での生育過程を観察しますと、そもそも感覚器官というものは、発生をたどればすべて触覚の延長と鋭敏化から分化したものであることは、既にどなたもご存知の通りです。その生物の目的によっても順番は異なるはずですが、それは、五感として現在人間が理解している限りにおいては触覚-->嗅覚-->味覚-->聴覚-->視覚と、おおよそそうした順番で出来上がってきたもので、生命維持本能に近いものから順に発達が始まった一方、後に来るものほど高度な機能・精密な構造を持つようになった、と言えるでしょう。
嗅覚や味覚は、言うまでもなく、肉体の維持にとって毒となるか否かを判別するために早くに成立し、聴覚は、どちらかといえば外敵の接近を回避する必要に起こって、さらには種の保存本能のために同種および異性の存在を確かめるために高度化して行ったのではないかと思います。

すると、聴覚という感覚の目的にとっては、「音楽」という創造物は、副次的なものに過ぎない。
視覚にとっての美術も同様ではあるでしょう。(もっと言うなら、高級料理の「上品な美味しさ」もまた、味覚にとっては副次的なものに過ぎません。)

そうすると、なぜ、そのような副次的な目的物(音楽作品、美術作品)を人間は求めだしたのか、という根本的な問いが、まず存在しなければならない。

ですが、議論はむしろ多くの場合、逆方向をたどっています。
「音楽こそすべてを律する」
「美術の崇高さの前に我々はひれ伏す」
本来は結果論であるはずのこうした主張の方が、まず大前提とされてきたのが、じつは生理学者のほうではなくて、「芸術家・あるいは芸術の理論家」と称してきた人々だった。とくに音楽については、古代の神話が前提もなく「人を律するものだ」と語っている例は、豊富に目にすることが出来ます。

問題なのは、そうした古代から決別すべく客観的な議論を試みるたてまえから出発したはずの「自然科学者」の末裔が、出発点をまたもや振り出しに戻し、自分が体感した事実からのみ
「音楽こそすべて」
のようなことを平気で書いて、しかもネームバリューで大量に売ってしまうことにあります。

音楽に限った話ではない。
そもそも「科学」と称しているものがなぜ、主にヨーロッパにおいて、中世末期には「哲学・神学」から分離と訣別を開始したのか、それがまたなぜ、20世紀後半から、少なくとも「哲学」とは融合したがり始めたのか、を明らかにしなければ、人の「生業(なりわい)」は将来如何にあるべきなのか、を人間自身が見失っていくことになるのです。

それを思うと、自己の見解にも慎重で謙虚さを保っているゼキ博士ですら、「美術家の考えてきたこと=生理学者の考えてきたこと」という等式を成り立たせてしまっていることに対しては、私は疑問を感じざるを得ません。

どのような意図をもって、ゼキはこんな等式を成立させるところから具体論に入っていくこととしたのか、は、したがって、本書を読み、読者なりに考察を加えていくにあたっては、極めて大切なポイントとなってくるはずです。
結論とまではいかなくとも、最終章でゼキがモネの絵を採り上げて語る際に、私たちがその続きを考える上での大きなヒントを見出すことができるでしょう。

趣旨をお汲み取りいただければ幸いに存じます。


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2008年12月15日 (月)

音楽美の認知【番外】:「プラトン問題」・「イデア」・「普遍」

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その大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)は、無事終了致しました。

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・・・どうも、ボケが進んでいるのか、今日ネタにしようと思っていた元ネタの本が見当たりません。
年齢のせいではないと信じていますが。。。

仕方がないので、いちばん肝心の部分は、間接資料を用いながら綴ります。・・・それでも、その資料からの引用の方が、私の「読み」よりは適切でしょう。

今日の話題は、久々に一般的なものではありませんので(いや、いつもか!)、ご容赦下さい。ご興味のない場合は読みとばして頂いて結構です。



エミール・ゼキ博士『脳は美をいかに感じるか』の読みを中盤で止めておいたのは、そもそもゼキの「イデア」(同書第5章が発端)の提示方法に疑問が湧いたからでした。
その疑問を、第5章の読みのところに、以下のように綴っておきました。

ゼキの提示したイデアは、次のようなものでした。
「人間の主観の中には経験を重ねる過程でさまざまな「像」の蓄積が出来る。人がものを「見る」ときには、その蓄積=イデア(というのが、端的に言えばゼキ見解です)として、その「もの」が何であるかを判定する。」

これに対して、私がすぐに抱いた疑問は、次のようなものでした。
「私たちは、自分達が未経験な事物・事象に出会ったときにでも、感激を覚えることがあるのではないか? そのときには、自己のうちには依存すべき原像がないはずであり、ゼキ定義の<イデア>ではこのケースの感激を説明することが不可能である」

では、プラトン(プラトーン)自身による「イデア」とは、どのようなものなのか?

竹田青嗣『プラトン入門』(ちくま新書190)198-199頁に、その要約が記されています。

「----『善のイデア』(『真のイデア』ではなく)こそ、一切の事物の本質(=イデア)を照らし出すその根本的根拠である----(中略)プラトンにおいてこの『善のイデア』は、一切の事物の本質を照らす根拠であるとともに、人間の魂の欲望の真の対象として性格づけられている(小略)・・・知の普遍性とは、あらかじめ何らかの絶対的真実を設定し、一切の考えをここに帰着させるというようなことではない。それは、各人のさまざまな『思わく』(各人の準則)における食い違いから出発して、そこに新しい共通理解を見出そうとする言葉の努力それ自体だが(じっさい言葉なしにこのことは不可能である)、この努力の根本動機となるのは、すでに何らかの『正しい知』をもっていること、ではない。それは人間間の確執や矛盾に際して、これを調停し争いを宥め解決を見出そうとする心意、つまり『善きこと』を求めようとする魂の欲望以外にはありえない。(以下略)」

<真のイデア>という部分は、とりあえず考慮しないでおくことにしましょう。プラトンは、人間にとってのイデアは<真のイデア>よりも<善のイデア>を上位においているからでして、とりあえず
「では、真のイデアとは?」
という問いは、今回考えたいことに対してさほど本質的な意味を持たないからです。

見当たらなくした肝心の本・・・プラトンの『メノン』という著作は、まだイデアという言葉はありませんが、「徳」とは何かについてソクラテスとメノンという人物が延々と、その「本質」を見出そうとしては論理の矛盾や仮説の偽が証明されていくばかり、でもって最後には結論が示されずに終わる、という、対話自体が狐につままれたような感じの、読むとタヌキにバカされた気がしてくる、不思議な書物です。但し、岩波文庫版は厚手ではない上に訳文が非常に良く、おそらく本対話編に続く『饗宴』および『パイドーン』で確立する<イデア論>の本来の意味を知る上では、絶対に読み解いておくべき作品でもあります。

竹田著の記述からの引用は、省いたところに本質を述べてある箇所もあるため、かえって難解なものにしてしまいましたけれど、ここで語られていることは、そのまま『メノン』の記述に通じます。すなわち、<(善の)イデア>というものは、何らかの「かたち」として思考されているのではなく、「求めるべきものを如何に得るか」という、むしろ精神そのものの姿勢を指している。・・・従って、本当は、必ずしも「結論としての<かたち>」を必要としていない。
それが、後代の人々にあたかも「イデア=理想像」的な解釈を受けるようになった原因は、『メノン』以後の著述の仕方が、より具体的に「姿形を伴ったものを通じてイデアを探求する」ようになっているからで(最も総合的で顕著な例は『国家』【岩波文庫では2分冊】に頻出します・・・『国家』には「音楽についてはイデアをどう考えるべきか」の対話も含まれています)、プラトン自身が<イデア>をどう人々に伝達するかでずいぶんと苦労したことが伺われるのですが、プラトンの苦労がかえって、<イデアとは形を持った抽象物、あるいは数に還元し得るもの>(ちなみに、『パイドーン』で死刑の毒を仰ぐ前のソクラテスの前に集まって<魂の不死>を議論する登場人物は、すべてピュタゴラス派の人物であり、プラトン自身の経歴にもピュタゴラス派との深い関わりがあります)という発想へと人々を縛り付ける結果となってしまった、と思わざるを得ません。(いちはやくその危険性に気づいたのはアリストテレスではないかと思いますが、彼の危惧はこれまた後代の人々からは逆手にとられて、ルネサンス期には非科学の象徴にされてしまいました・・・詳しくご紹介できるほどの理解力も力量もありませんが、プラトンの記述した方法での<イデア>ではいかんのだ、という危機感を、プラトンの名やイデアについては明記してはいないながらも、アリストテレスの著作(政治学・倫理学関係や形而上学)には色濃くにじみ出ていて、それはそれで、著者の苦悩を感じさせるものとなっています。)



以上のことから、ゼキの持ち出した「イデア」は、プラトンが本来考えた「イデア」とずれていることが確認出来ました。
すなわち、プラトンの言うイデアは、決してゼキが思ったような「経験を重ねる過程でさまざまな『像』の蓄積」ではない、のでした。

では、ゼキだけが「イデア」をこのように捉えているのかというと・・・全然違う話題の際に頂いたコメントから必要を感じて上っ面だけをニワカ勉強したのですが、言語学、とくに「生成文法」とその延長としての「普遍文法」を考える際に<プラトンの問題>というのがあることを知りました(町田健『チョムスキー入門』183頁以下参照、光文社新書244)。子供が生まれたあとの言語経験には不足があるにも関わらず、その子供は「完全な」言語を獲得する、というものです。「生成文法」じたいは、英語という特定の言語について発案されたものであり、町田氏は上掲著書の中で、日本語にも英語同様の「生成文法」が成り立つという見方を、懇切丁寧に解析しながら否定しています。「生成文法とは何か」を語れるほど私は理解できたわけではありませんが、誤りを恐れずに要約しますと、

・(言語における)文の構造を主語や述語という一般的な学校文法よりもさらに突っ込んで、構成素に分解し、それぞれの構成素に名前をつける。すると、一般に文法規則とされているものよりも実用上の言語に適応性の高い言語解析がなし得、かつ、それらがどのように「まとまるか(句構造標識化できるか)」についての解析が可能になる

といった具合でしょうか?
これに対する町山氏の疑問提示は『チョムスキー入門』でお読み頂くとして、この「生成文法」の発想の究極に、やはり、「形態化されたイデア」としての「普遍文法」なるものを追い求める、言語学のあるひとつの派を見出すことができます。さらに、これは、発想者チョムスキーをずっとさかのぼり、現代的な言語学の創始者であるソシュールの、言葉が伝える意味とは何か、についての探求にその淵源をみることも可能なのではないかと思います。ソシュールはそれを言語(単語)の「体系」とか「連合関係」として捉えており、後年のチョムスキー(句構造)に繋がる発想としては「連辞関係」なるものを考えています(同氏著『ソシュールと言語学』講談社現代新書1763)。
ところが一方で、ソシュールは「言語には恣意性がある」ことを認めています(言語の恣意性について私のような素人にも易しく理解させてくれるのは、黒田龍之助『はじめての言語学』講談社現代新書1701です)。言葉を記号として捉えた場合には、それは表示部(音素の構成)と内容部(意味)を有することになるのですが、この二つの部分は常に固定的に結びついているわけではない・・・すなわち、日本語の単語の例で言えば(これは上掲書に記載されているものではありませんが)「自由(ji-yu-u)・・・正しい音韻記号が使えなくてすみません)」というのは鎌倉時代には今で言う「勝手」とか「わがまま」という意味を表していました。あるいは、「気の毒(ki-no-do-ku)」という句の意味は、江戸時代を通して、「自分の心がいたい」から「困る」という意味を経て、現代に近い、他人への同情を示すものに変遷している例が有名です。もっと短い刻みで単語の意味、言い回しの変化が起こっていることは、私たちみんなが日常経験していることです。
これは、(極端すぎる表現ですが)「言語にも『かたちとしてのイデア』が存在するはずだ」との「普遍文法」の発想あるいは仮説には反する現象です。

このほかに、物理学と、おそらくはプラトンがピュタゴラス派と関係が深かったことの延長でしょうが、数学とを抱き合わせて、生理学生物学とは違った自然科学の領域から著されたロジャー・ペンローズ『心は量子で語れるか』(講談社ブルーバックスB1251)のような本もあり、この論も結局は「プラトン的世界」というものを思考上「物質的世界」と置換することの可能性から「認知」の世界を扱っていて、「イデア」に対する捉え方はゼキの生理学、チョムスキーの言語学と同一のものだと見なし得ます。



プラトンの発想した元来の<イデア>が、かたち・概念へとより固定化された「イデア」に変質したところから人間世界が観察されている(特に欧米で)、という事実は、ですから、私たちはよくよく銘記しておかなければなりません。
このことをまとめるにあたってヒントを下さったかたのコメントには「普遍楽典があったらいいのですけれど」とありました。
理想を言えば、そうしたものがあることによって誰にとっても「ああ、これは音楽だ」と認めうるものが出来るのであれば、それは素晴らしいことだと思います。ですから、コメントを頂いた時には、正直言って「うーん、いい発想かも知れないなあ」と思う反面、お答えのコメントには「でも、そういうものがあったら、ずいぶん内容が限られたものになるでしょうね」といったニュアンスのことを綴らざるを得ませんでした。

『ドレミを選んだ日本人』(千葉優子、音楽之友社)という、非常に興味深い本がありまして、それによれば日本人が現在のように西欧音楽を違和感なく受容するまでには、明治政府の政策で洋楽が推進された(これは実は正しい言い方ではありませんで、明治の音楽教育の確立に尽力した伊沢修二を中心とした音楽取調掛の記録・・・東洋文庫に収録されています・・・を読むと、当初は邦楽と洋楽の併行による国楽を意図したにもかかわらず、路線がどんどんズレていっている様子が手にとるように分かります)にもかかわらず、大正期を過ぎてもなおすんなりいっていなかった実情がはっきりと分かります。音楽史で戦国時代を話題にした際には確認しきっていなかったのですが、当時あくまで西欧式の音律にこだわろうとしたイエズス会に対し、戦国大名たちは正統にも、日本の伝統に馴染もうとしないまま一方的に自分たちの音楽文化を押しつける修道士に抗議していたという事実も記されていて、日本人の今の音楽享受環境を(ビジネスとしても)見直す際には、そういった経緯をよく見直す必要があると感じております。

すなわち、決まりきったかたちとしての「イデア」は、音楽においても、本来的な「イデア」でもなければ普遍性を持つものでもない。
「善いもの」を目指す精神の姿勢こそが<イデア>という語の元来示しているものだ、という再認識から仕切り直すことが、「ルックスを売る」・「スタイルを売る」類いの、必ずしも「音楽そのもの」が売りにはなっていないビジネスシーン、音楽生活に、もっともっと、あるべき深みを与えていくのではないでしょうか?



ともあれ、長くなりましたが、ゼキの後半部を読むにあたっては、こうした点に留意して、美術と音楽を対比し、音楽に有益なものが見い出せないかどうかを探りたいと思っております。
都合の良いことに、ゼキが後半部で扱っているのはモダンアートであり、最後の締めに持って来ているのはモネが何枚も描き続けた「ルーアン大聖堂」です。

・・・ああ、だけど、ド素人の私には、これはあまりに荷が重いかな・・・


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2008年11月29日 (土)

音楽美の認知番外01:バカ田大生・愛の告白なのだ

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大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)のご案内を掲載しております。

Bakata先般亡くなった漫画家、赤塚不二夫さんの最高傑作「天才バカボン」に、こんな一節があります。
物語は、バカボンのパパがママにひとめぼれしてアタックする、というものなのですが、パパはバカ田大学の先輩のアドバイスで、まずラブレターを届けにいきますが、次のアドバイスは「百万円をプレゼントする」というもの。そんなお金はとてもないパパ。それでは、というので、「じゃあ、レコードを3枚買ってこい」と言われます。で、せっかく買って来たその3枚のレコードを、先輩がそれぞれ3つに切ってしまう。
「なにをするのだ」
と驚くパパ。
先輩は、その3つに切ったレコードを貼り合わせて、
「世界に1枚しかない歌のグランプリ」
のレコードを作ったのです。
・・・これが、パパの、ママへのプレゼントになります。
ちくま文庫「バカ田大学なのだ1?」に収録)

さて、こうして作った世界でたった1枚のオリジナル、果たして、ママにウケたでしょうか?

そこのところは描かれていません。

では、3枚のレコードを3分割してまた1枚に貼り合わせ直したレコードって、果たして、どんなふうに聞こえたのでしょうか(無事に再生できたとして、の話ですが)。

残念ながら赤塚作品に出てくるこの場面での曲の音声を持ち合わせていませんので、
「じゃあ、クラシックで試してみよう」
と試した見た結果が、これから聴いて頂くようなものです。ただし、聴いた人にまで私の「バカ」が伝染するといけませんので、1分間程度に留めました。

・貼り合わせ音楽(アバウトですが、貼り合わせの間隔は33回転を想定)

なお、レコードを貼り合わせたことによって出ただろう、針のとぶ音(レコードはキズが付くと、その場所でカチッとかブチッとかいうノイズが入りました)までは再現できませんでしたが、とにかく、3曲を貼り合わせてみました。いちおう、たくさんの人が知っているはずの曲を貼り合わせましたので、素材にした曲名は明かしません。・・・お知りになりたい場合はお問い合わせは受け付けます!

で、バカ田大学的に、大真面目に考えてみたい、というのが、番外編の入り口です。

※ 上の貼り合わせ、音楽に聞こえますか?
 ・音楽に聞こえる場合:なぜ音楽に聞こえるのでしょう?
 ・音楽に聞こえない場合:なぜ音楽に聞こえないのでしょう?



こんな試みをしたきっかけは、私と違って「バカ」ではないので「ヒントを頂いた」とここでお名前を出してしまうのが失礼にならないよう祈りますが、最近当ブログに寄せて下さったnabesinさんのコメントが、私の整理しかねていた「これから音楽を観察していくべき方法」に道を開いてくれた気がしたからでした。
nabesinさんは、言語学の例を引いて、音楽にも「普遍文法(チョムスキーの想定しているもの)」みたいなものがあるんじゃないか、と仰って下さいました。
それが刺激になって、コメントへの御礼を綴ってから、言語学のにわか勉強を始めました。ただし、入門書どまりの浅い勉強で、それも今時点では目標の3分の1です。

言語学は、学生時代に挫折した口で、ちゃんと勉強したことがありませんでした。
ですが、今回、そんなことで見直してみますと、「普遍文法」なる概念の陰にも・・・いや、そもそも近代言語学の祖であるソシュールの考え方の後にも、いま思うところあってその読解を前半で中断しているゼキ(『脳は美をいかに感じるか』)の論と同様、古代ギリシャの哲学者プラトーンが提唱したイデアについての近・現代自然科学者たちに共通する<解釈>が起点に据えられていることが透けて来ます。
「言語学よ、おまえもか!」
ってかんじです。

・上の貼り合わせ音楽(ここに再掲します)

を聴いて、音楽と感じるか感じないか、というところには、この<イデア>観の是非を問う大きな課題が孕まれているはずだ、と、今、私は勝手に考えているところですが、その課題とは何か、をかいつまんで述べますと、それは

・人間はどのような音の連続に「意味」を感じるのか
・「意味」とはそもそも、なぜ感じられるのか
・「意味」というものは、科学者が考えているような「イデア」的なものなのか?

といったようなところでしょうか。

それにはまず、「イデア」とはどんな概念なのか、ということをきちんと見据えなければなりません。
ただ、あまりに「きちんと」にとらわれると、それだけで、時間が足りなくなってしまいますので、本日の「貼り合わせ音楽」を素材にし、ほんのちょっとだけ、プラトーンその人がどういう過程を経て「イデア」を着想したのか、それは元来どのようなものだったのか、ということと照合して見たいと思います。

以下、<音楽美の認知番外>の次回に試してみることにしましょう。

それまでのあいだに、上の「貼り合わせ音楽」が音楽に聞こえるかどうか、その理由はどんなものなのか、でお感じになったことがあれば、極力「お感じになったそのままのこと」をどなたからでもお伝え頂ければ幸いに存じます・・・まあ、そんな「バカ田大学」OBはいらっしゃらないかもしれませんが、一人でもいらして下さることを、本当に切実に願っているというのが、私のホンネです。


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2008年11月 5日 (水)

少しでも「正しい」音楽理解とは?

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ネタ切れ、ではなくて、思考停止byフランチェン、です。

「古楽のピッチ」への素朴な疑問もひとつのきっかけではありますが、当たり前に、何も考えずに受け止めていることが、果たして「正しい」のかどうか、ということは、どんなことでも、突き詰めていけば、だいぶアヤシイ・・・そのことを思い知らされています。
(別に音楽に限ったことではないでしょうが。)

自分はだいたい大枠のターゲットを決めて記事にしていますので、そのために素人でも入手できる範囲の文献を手にし、読み込んでいけば、素人なりに面白いめっけもんがあるだろう、くらいに思って続けていますし、それで
「うーん、このトピックはまだ調べきっていないから、先にこっちを」
って具合にして、日替わりで話題を捜すのには事欠かないつもりでした。

いえ、今日も、ほんとうは事欠いているわけではないのです。

が、
「ダメだ、つっかえた!」
という局面にぶつかってしまいました。
話題を採り上げるのに「正しさ」だけにこだわるつもりはないのですが、本質をはずすのは最少限にしたいな、と思っております。
ところが、その本質が、ことごとく
「はずれている」
ことに、最近出てくる良書を通じ、集中して圧倒されています。中には、ついでに振り返ってみて、
「ああ、いかん、仕切り直しだ」
ということも出て来ています。



とくに「つっかえて」しまっている大きな二つについて少し述べると、こんな感じです。

・音楽史:ヨーロッパに関してはたくさんの本も出ているから、自分が深入りする必要はないだろう、と、その時代区分は「教科書通り」で観察しておけば良かろう、と決めつけていました。が、世界中の中世を通り過ぎ、ふたたび初期バロックと呼ばれる時期のイタリアに戻って来たところで、最近どうしても気になる2冊の本が出ましたから、立て続けに読み始めてみました。
佐藤望「ドイツ・バロック器楽論」(慶応義塾大学出版会、じつは2005年には出ていたようです)
東川清一編「対位法の変動・新音楽の胎動」(春秋社、2008年9月)
衝撃を受けています。
佐藤著のほうは、ドイツ器楽を扱っているとはいえ、もっと汎ヨーロッパ的に、私達の中に常識化された音楽のジャンル分類に一石を投じるものでした。ひとつの例をとれば、「シンフォニア」という用語は当初声楽作品もあった(たしかに、シュッツの「シンフォニア・サクレ」などは有名です)、にもかかわらず、従来の「交響曲・シンフォニア」をまとめた(少なくとも日本の)書籍では、声楽シンフォニアを採り上げた例は全くないことを、本書は指摘しています。その他にもさまざまな視点の変更が必要であることをこの本は教えてくれるのですが、なによりも、19〜20世紀のフィルタを経て築かれた音楽ジャンル観が、フィルタを批判して来た人たちによってもまだ殆どなにも取り除かれていないこと、「17〜18世紀当時の人々の<発想>で音楽ジャンルがどう捉えられていたか」の原点に帰っていないことを、痛いほど思い知らされます。
今日やっと手にした東川編のほうも、スポットを当てる部分は違うものの、こちらは「モンテヴェルディは17世紀当時の新音楽の、パレストリーナは同時期の旧音楽の代表例だ」という<常識>を足下から突き崩す内容で、私が前回記した音楽史のイタリアの記事について、見直しの必要を迫るものです。具体的には対位法の教科書で勉強なさったことのある方にでないと言葉で伝えにくい部分があり、まだ自分の中で噛み砕けていないのですが、対位法の発生と発展を見直してみると、じつはパレストリーナもモンテヴェルディも、ルネサンスから初期バロック当時の<新音楽>の両横綱だった、と見なすのがずっと妥当なのです。・・・これを、どう自分の中で体系付けしなおさなければならないか、に、非常な戸惑いを覚えております。

・音楽美の認知
指針にしているゼキ(美術と視覚の関係を扱っている)が<イデア>という「哲学用語」を誤用していることに気づいてからもそのまますすめて来ましたが、第1部まで読み終え、考察し終えたところで、では<イデア>とは何であるか、の見直しをする必要に迫られています。これが、少し時間を必要としそうです。プラトンの述べているイデアとはどんなものか、までは、幾多の対話編を読むよりも「プラトン入門」を読んだ方がはるかにスッキリ理解できます。ですが、これ以降は、はウィトゲンシュタインが「科学の上か下に」使うものだ、という「論理学」の目を通して、プラトンが述べているそのままの<イデア>を、プラトン自身の「対話編」を論理で評価したところから再出発しないと、第二部以降で認知の細目に入っていくゼキの著作に対して適切な目での観察が出来ない。・・・ですので、まず今は、論理学の初歩程度は見直しておき、そのうえで、<イデア>を語る上で欠かせない掌編「メノン」を読み解くところから再出発することが、どうしても必要です。



特に後者は人様にそう関心をもって頂ける内容ではないのですが、学生時代に「知覚・感覚」を専攻しながら輪郭もつかめず失望を感じ続けて来た自分自身にとりましては最も重い課題です。

したがって、こうやって唸っているあいだに、そこまでの深いツッコミをせずともやってこれていたモーツァルト観察も停滞していますけれど、当面、西欧音楽の近世への見直し・知覚へのアプローチを深めるための勉強を少しの期間、ちょっと水面下でやっておきたいと思っております。

その分、日々の記事は当面「お気軽」に走ることになるかと思いますが、小浜市、じゃねえや、オバマ氏が次期アメリカ大統領に決まった今日、自分の心も新たにしたいことをこの場で表明し、ご寛恕を乞う次第です。

今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。


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2008年10月29日 (水)

音楽が「とどまる」とき

「音楽とは音そのものである」
に、もう少しこだわってみましょう。

「音楽とは音そのものである」ならば、どんな「音」でも、「音そのもの」であれば「音楽」たりえるのか、ということについては、果敢な挑戦をした人たちもいましたし、その挑戦のありかたを強く否定した人たちもいます。

「N響80年全記録」に出てくるエピソードですが(立読みなので間違っていたらゴメンナサイ)、日本でシュトックハウゼン作品の記念碑的な演奏会が行われた時、臨席したかの名指揮者サヴァリッシュ氏が突然大声で、
「これは、断じて音楽ではない!」
と叫び、同じ会場にいたドイツ人たちもそれに唱和して大騒動になった、ということです。

シュトックハウゼンの音の扱い方が、サヴァリッシュ(やその共感者たち)にとっては、音楽とはいえなかった・・・それが何故だったのか、までは、同書には記していなかったと思います。

昨日<イデア>について見直した通り、それは決して「ほんとうの何物か」をさすのではありませんでした。むしろ「ほんとうのものとは何か、を追い求める精神のあり方」こそが<イデア>なのでした。
<音楽のイデア>というものもまた例外ではない。シュトックハウゼン・サヴァリッシュ対決事件とでも呼ぶべきこの事件は、そのひとつの現れだったと見ていいのではないでしょうか? 当時もてはやされた割には、シュトックハウゼンの作品は忘れられたに等しく、その名前だけが20世紀中葉の一大エポックとして記憶されているに過ぎない現状、この対決はサヴァリッシュに軍配が上がった、とみなすのは簡単なことです。かつ、シュトックハウゼン作品が今なお聴き直され(CDは今なお豊富に出ています)、CD、聴き手によって「ああ、やっぱり音楽ではない」と判定されるようであれば、やはりそれは音楽ではなかった、と言うことも、同じく簡単です。
「音楽をめぐる、ひとつのフロー(流れ)に過ぎなかった!」



別にシュトックハウゼンの肩を持つ、という意図からではなく、素朴な疑問から、私は問いたいと思います。
「では、シュトックハウゼンが作品化する過程にあったものも、『音楽』ではなかったのか?」
シュトックハウゼンの思考の過程では、それは「音楽」だったことに間違いないのではないか、とも思います(これは、私が彼の作品を好きだとか認めているとかいうこととは違います)。ただ思考する、その時純粋に「音楽」というものを追い求める、その営みこそが、<イデア>であった。それが具象化した時に、残念ながら、それはサヴァリッシュたちにとっての<イデア>とはまったくズレていたことがあらわになってしまった・・・本質的には、そういうことではないかと考えたいのですが、如何でしょうか?

とはいえ、そこに<イデア>同士の激しい対峙がある限り、否定したサヴァリッシュも、否定されたシュトックハウゼンも、決していっときの「流れ」に足下を救われることはないでしょう。勝負は、なんて、こんなことで勝負なんかに持ち込むのは本意ではないのですが、まあとにかく、勝負は「音楽の評価についてのさまざまなイデア」(なんだかまた妙な言葉をほざいてしまっています)という流れの中に、出来るだけ大きな石、 もしくは岩として、流されずに<限りなくイデアに近い音楽>ヅラをし続けられるのはどちらか、という土俵の上でなされ続けるでしょう。



最近、「オーケストラの経営学」という本が、カラヤンの真の友だったともいえるある大企業の社長経験者の讃辞を綴った帯付きで出ました。私のひねくれた目で評価すべきではないのですが、しかし、いくらオオモノさんが帯で讃辞を捧げていても、私には少なくともいまのところ、この本は魅力的ではありません。
なぜだか突然私も音楽を「ビジネス」なんぞという範疇で括り出し、脳神経と音楽の関係を云々するにあたってもビジネスと言う範疇を外すことがないのは、本来<音楽のクオリア>などというものは否定されるべきだ、との思いが入り口になっていて、それがだんだんに<イデア>などという話題にまで入って行くのだから、甚だ似つかわしくないことです。ですが、おそらくなんでそんなマネをするか、という精神においては・・・相手は大学の経営学の先生である上に上のような帯まで著作に付けてもらえるのですから、こっちはそれに比べれば蛙のションベンにもならないのですけれど・・・「オーケストラの経営学」をお綴りになったご著者と、実は共通した思いがあるからだと感じてはいます。

「音楽は、ほんとうは<財>なのである」

とでも要約したらいいのでしょうか?

ですが、私はオーケストラにせよ他の音楽にせよ、それらを扱う上で「経営」は存在しても「経営学」があるとは、全く信じられません。
まあ、そうした断言は、しかし、「経営学」を拝読してからしなければならないことでしょう。
それでもひとつだけ言えるのは、同じご著者は4年前に、オーケストラの「財政」について、きちんとデータを掲載した本も出されていて、そちらは素晴らしいと感じているのです。今回のご著書の方には、具体的なデータがありません。あるのは<オーケストラの経営のイデア>の、言ってみれば仮想図ばかりではないか、というイメージがあり、それで、まだ手を出す気になれません。

残念ながら容易に手に入らなくなってしまったのですが、あるプロジェクトの方たちが精魂こめてまとめた「ザ・オーケストラ」という本があります。1995年に出たものです。複数の筆者によるこの本の文章部には、筆者によっては強い主観もあり(って、その点ではこちらも負けませんね)、割り引いて読まなければならないことも沢山あるのですが、それにもまして、95年当時としては非常に努力しなければ集められなかったと思われる生データは、もう13年前のものとはいえ、現在にもつながる貴重な情報が詰め込まれていて、活用の仕方によっては、ヘタな理念を並べ立てるより、よっぽど
「音楽は財である」
ことを広く世間に認めてもらえる「経営」の舵を私たちに与えてくれるはずです。



「経営」に関する細かな話はいずれ述べる時が来ると思いますので、ただ印象を述べるだけにとどめますが、要は、それぞれの「経営」の本に対する私の善し悪しのイメージに関わらず、「音楽」が「財」としての確かな位置づけを持つためには、ただ音楽に留まらず、「経済」と、それを「営む」ということの原点に帰らなければならない、という危機感は、音楽を愛する人たちには共通して持たれているものではないかと感じているのです。
昨今の「市場」が端的に示しているように、過去にいかなる「経済学」や「経営学」が高く評価されて来たとしても、評価の物差しが「金銭」以外にあり得ない現在、この物差しさえちっとも絶対的ではあり得ず、「人の思惑」や「貨幣の横流し」がバランスを崩せば一挙に何の目盛としても役に立たない、「平均台上のヘボ選手」でしかない。フロー(流れ)がストック(財の確実な形成)にキチンと裏打ちされなければ、<ほんとうに限りなく近い財の価値>などというものは、所詮誰にも分からず、ただ
「これはいい、あれはダメ」
という空騒ぎの中でのみ相対的な評価を受けるしかない。
そういう「経済」の「営み」の中では、少なくとも<音楽>のほんとうの価値は測れない。
たとえば、ストラディヴァリには5億の値が付くので驚かれますが、もし中東の遺跡から「有史前後の貴重な楽器群」が完全な形、損なわれていないコンディションで現れたら、それらは文化財保全の立場から決して演奏されることはなくても・・・いや、皮肉なことに、演奏されないからこそ、ストラディヴァリの2、3倍、あるいは想像を絶する値段で取引されるかもしれない。つまり、歴然と「文化財」として、悪く言えば骨董的な価値が確立して初めて、モノはほぼ固定した、あるいは不況知らずに上昇する値段で、確定的に値付けされる。・・・実際に演奏されるが故に、保有することが「売り」にもステータスシンボルにもなり得るという、未だ「フロー」の渦中にあるストラディヴァリは、「骨董品」だったら、とても今の値段ではおさまらないはずなのだそうです。
・・・なお虚しいのは、これはあくまで「楽器」という「手段」の価格であって、価値なのではなく、さらに重ねて言えば、音楽の手段のホンの断片に与えられた価格に過ぎず、「音楽の価値」そのものには程遠いのです。


ならば、「音楽は財である」ということを、いかなる根拠から私たちは言明することが出来るのか?

前掲「N響80年全記録」にある2つのエピソードが、とりあえず、そんな疑問を抱き続ける私の胸に強い印象を刻み込んでくれています。

ひとつめは、N響1000回記念講演のとき、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を推す事務局に対し、サヴァリッシュが
「いや、日本はキリスト教国ではないのだから、その点に配慮すべきでしょう。宗教色の薄いものを」
ということで、当時の日本ではほとんど知られていなかったと言っていいメンデルスゾーンのオラトリオ「エリア」を選んだ話。この選曲に周囲は客寄せにならないのではないかとの危惧を抱きましたが、結果的には大成功だったのです。・・・なぜ、日本で認知度の低い曲が大きな成功をおさめたのか、については、本の上にはそれ以上、理由付けの記述を見出すことは出来ませんでした。サヴァリッシュのほうが、日本と言う国の本質とは何かを考え抜いていたからこそだった、とだけでもひとことあれば嬉しかったのですが。

ふたつめは、ギュンター・ヴァントが年末にベートーヴェンの「第九」を「5回も振るだって? とんでもない!」と拒否して譲らなかった話。
「第九」が西欧の近・現代文化上どういう重みで捉えられて来ていたか、日本の「第九」認識とのあいだにどうしてヴァントがこのような拒否をするだけの大きな差があるのか、は、日本には「第九」に関する出版物があるので、それらを本気でひもとけば、サヴァリッシュのケースより明瞭に理解できるでしょう。
ロマン・ロランが、長編とは言えないまでも決して短くはない思索を「第九」1作に捧げたこと、ヒトラーもスターリンも「第九」で称揚されることをこの上ない喜びとしたこと・・・でありながらかの「ベルリンの壁」崩壊の時に高らかに歌われたのも、チェコが旧ソ連からほんとうの開放を勝ち得た時に熱狂的に演奏されたのも、同じ「第九」だったこと・・・

サヴァリッシュも、ヴァントも、「財」としての西欧クラシック音楽とは何か、の要諦を身にしみて知っていたからこそ、上のように振る舞って来たのです。



日本は・・・武満徹が亡くなっても国葬になりませんでしたし、そうでなくても、日本人作曲家の作品を中心とした演奏会はほとんど催されません。
N響がもっとも飛躍を遂げた時期に、日本人作曲家の作品特集の演奏会を催したとき、聴衆の拍手がお義理に聞こえてたまらなくなった故・岩城宏之は(だいたいこんな意味合いのことを)叫んだそうです。(これも「N響80年全記録」で読んだ話です。)
「みなさん、本当に良いと思ってくれたら、その時拍手してくれればいい! つまらなかったら、拍手なんか、いっそしないで下さい!」

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2008年10月28日 (火)

「すみれ」と「老婆」:科学的<イデア>観の誤謬

(標題に掲げたモーツァルトの歌曲は、あとでこの文章に必要な「資料」として実際に聴いて頂きます。)



<イデア>という言葉には、愉快な思い出があります。
大学に入学したての日のことです。哲学なんてまったく知識が無かったに等しい私は、同級生になるはずの連中と会話しようがなく、たいへん困りました。なにせ、話題が哲学者の名前の羅列だったのです。・・・いま思うと可愛いもんで、出てくる名前はせいぜい「カント、ショーペンハウエル、ニーチェ」程度のものだったのですが、それでも私にはさっぱり分からない。で、高校の倫理社会の時間にきかされた話(男と女は最初はひとつだったのが、ゼウスの電撃で二つに割れて、出っ張りが残った方が今の男に、くぼみの残った方が今の女になったんだ、という、プラトーンの対話編『饗宴』のアリストファネスの上げたエピソードをさらに戯画化したものでした)の記憶くらいしかありませんでしたので、それまでの会話に名前が出て来ていないことをいいことに、
「プラトンがいちばん面白いよ!」
と見栄を切ったのでした。

そうしたら、最初の日の講義が終わったあと、自転車置き場に向かう僕の後をついて来たヤツがいました。なんでだろうか、変な奴なんじゃないか、と怪しく思って腰が引けました。
とっても天気のいい日でした。駐輪場に着くと、自転車1台1台の陰が、地面にくっきり映っています。
そのとき、後をついて来たヤツが、口を開きました。
「<イデア>って、もしかしたら、この自転車の陰みたいなものなのかな・・・」
・・・
「あのさあ、オレ、急ぐから、また明日な」
私はとっととその場を逃げ出しました。



今になって思うと、ヤツは多分、以前にプラトーンの『国家』を読んだことがあって、そのなかの有名な「洞窟の比喩」が強烈に脳裏にあったのでしょう。・・・ただし、意味は逆に捉えていたことになります。「洞窟の比喩」でプラトーンが述べているのは、(生まれながらに)洞窟の中に手足を縛られ、洞窟の奥の壁しか見られない者は、背中の方にある本当の光(太陽)と、それに照らされている事物そのものに気づくことが出来ず、それに照らされた実物の方ではなく壁に映った方の影を事物の本質だ、と信じ続けるだろう、というものです。・・・この先が重要なのでしょうが、いまはここまで述べておけば充分でしょう。詳しくは、今日の記事のテキストにした竹田青嗣『プラトン入門』178頁をご覧下さい。


いまでも私はプラトーンを含め「哲学」についてはちっとも分かってはいないのです。
ですが、(繰り返しになりますけれど)多くの名音楽家が
「音楽は音そのものであって、他の何者でもない」
と明言していることと照らし合わせ、同時に「音楽の美しさ」をむりやり「脳へのいい影響」に理屈で結びつけようとする考え方が絶えないことには嫌悪の気持ちも強く、脳の捉えられる「美」の限界を示すものとして非常にいいなあ、と感じたエミール・ゼキ『脳は美をいかに感じるか』に巡り会った時には有頂天になりました。この本は美術を対象としていますし、それに対する脳の反応がどこまで明確に分かり、どこからは明確に分からないかもはっきり記しているのにはたいへん好感を持ちましたので、せっかくだから、ゼキの記述を音楽とも対比させてみられないものか、と1章1章丁寧に読んでみようと試みて来ました。

ところが、第5章に至って(初めてさらりと読んだ時にも記されていること自体には気づいていたのですが)ゼキがプラトーンの『国家』からのひとつの比喩を、あたかも<イデア>の根本であるかのように考えている誤謬を抱いていることを自覚してから、この尊敬すべき書物の記述を読むのにも、懐疑の精神を忘れてはならないことを徐々に思い知らされました。(気づいた誤謬の内容についてはリンクした記事をご覧下さい。)



ここで、モーツァルトの手になる有名な歌曲2作を聴いて頂きましょう。

・「すみれ」

・「老婆」

エリー・アメリンク/ジェラール・ムーア EMI CC30-9018

・・・さて、これらを、二つとも「美しい」と思ってお聴きになるでしょうか?

作曲者モーツァルトについて創作心理を推測しますに、仮に彼に音楽の「美」の標準(イデア全体ではなく)があったとして、後者は明らかに「美しくない」ことをもくろんで作ったはずでしょう。

では、それにもかかわらず、聴き手としての私たちは、どちらの歌をも「美しい」と思って聴くでしょうか?
答が「ノー」であれば、それはモーツァルトの創作心理に近いものでしょうから、それ以上言うことはありません。
「イェス」であったとすれば、話が違って来ます。
「美しくない」はずの歌と「美しい」歌を同列に「美しい」と評価するのであれば、そこには、聴き手の中に介在物としての何らかの「美の標準」が、また別個に存在するだろうからです。
それをたとえば「モーツァルトの作品であれば全て美しいのだ」(それにしては「音楽の冗談」なんて作品もあるのですが・・・脇に逸れっぱなしになるから、よしましょう)という「美の標準」だとする。それは、<イデア>というもの=<事物の理想像>であると前提してしまっている時には、<イデア>の一部分を構成することにもなり、同じ聴き手が「でも、武満徹の作品だって、武満徹の作品であれば全て美しいのだ」と別の「美の標準」をも併せ持っていたとすれば、<イデア>は異質のものの集合体であり、そこからある定型的な<事物の理想像>を引き出すことは不可能である、と見なすほかありません。



ここで我流にプラトーンの対話編を拾い出して読んでも、理解力が付いて行きませんので、私が最近、プラトーン哲学の最も優れた要約かつ総括であると感じた竹田青嗣『プラトン入門』(ちくま新書190、1999)から、そもそも<イデア>とは何であるか、についてまとめたものを数ヶ所拾い出すことで、上の<イデア>理解の誤謬を明らかにしておきたいと思います。・・・で、同書が体系立てた記述で明らかにしてくれていることは、まず、初期のプラトーンの哲学には<イデア>という言葉がまだ用いられていない、<イデア>はプラトーンが経験と洞察を深めて行った過程で初めて術語化されたものであることで、もしプラトーンの対話編そのものを読む場合には、その対話編がプラトーンの生涯のどの時点で書かれたかが非常に重要であることを示唆しています。ちなみに、有名な『ソクラテスの弁明』や『クリトン』は初期、『パイドン』『国家』・『饗宴』は中期のものでして、私の呼んだ浅い経験でも、そう言われてみれば、前者に<イデア>の言葉を見た覚えはなく、後者は逆に<イデア>を巡ってさまざまな「比喩」が飛び交う書物です。・・・これは、ご参考までに、ということにしておきます。

以下、竹田著の詳細はだいぶはしょりますので、これだけでは勘違いされるか、浅くしか読み取って頂けない危険性が99%ありますけれど、あとは「本当に興味があれば」竹田著そのものを読んで下さるようにお願いする他ありません。私の引用が、いかにこの本の全体像を捉えるには不十分すぎるか、は、よく分かって頂けるはずです。

私は今、ただゼキの<イデア>理解、すなわち科学に敷衍しようとして限定的な意味を付与されてしまう<イデア>像では、プラトーンが本当に言いたかったことが曲げられていることを見ておきたい、という目的だけで引用を行なうのですが、竹田氏は実際には<イデア>を巡る諸問題を現代哲学にまで広げて懇切丁寧に説明してくれています。

「哲学者たちがかくも熱心にものごとの『原因』を探求してきたその理由は何か(中略)・・・おそらく、『善く』生きたいとか『ほんとう』に触れたいという人間の欲求の本性が、それらの問いを作り出しているのだ。だとすると、真に探求すべきなのは、これまで哲学者が問うてきた『原因』それ自体であるより、むしろこの問いを動機づけている人間の欲求の本性それ自体ではないだろうか。/おそらくこのような考えから、プラトンにおいては、自体的なものとしての『原因』の概念(中略)という発想は捨てられ、『善』なるものの『本質』を端的に捉えようとする新しい探求の道が開かれたのである。」(167頁)

「プラトンは、あらゆる人間の欲望は最終的に『本当の美』へ向かうべきだ、といいたいのではない。むしろこうである。/人はさまざまなものに対する欲望をもつ。その欲望の形は千差万別だ。しかしそれにもかかわらず人間の欲望には、つねに より美しいもの より善いものを求め、ついにその対象を、何かこの上ない『ほんとうのもの』という形で思い描かざるをえないような本来的な性格がある、と。」(232-3頁)

「注意すべきはこの『本質考察(注:=思考が共通了解を得る上での哲学的な基礎付けの試み)』の原理が、論理の使用法を厳密に規定するという発想とはまったく違っているという点だ。論理学主義は、正しい判断や正しい認識という概念を前提とし、結局『真理』という概念にむすびつく。しかし本質考察という方法はあくまで『普遍性』という言葉を生かすものであって、いわゆる『真理』という概念にはつながらない。」(279頁)

「事物とは、むしろ知覚と事物の相関性において現象するものであって、知覚(あるいは感覚)も事物もそれ自体『不変な存在』ではない。つまり、感覚的な事物の存在本質は『生成』ということなのだ。事物が『何であるか』は人間のさまざまな立場や状況に応じて変わる、つまりそれはつねに『〜にとって』という本質を持つからである。」(286頁)

「『普遍性』とは、異なった信念の間から了解の共通項を見出すための原理をめがけるものだ。それは、現代の思潮が主張するような、『一切の事柄について唯一の正しい考え方がある』という絶対的思考と、むしろ本質的に対立する。」(316頁)



プラトーン自身の言葉ではなく、そこから竹田氏が引き出したものだけの引用になってしまいましたが、以上のことから、ちょっと考えただけでも、ゼキが<イデア>について脳神経科学から絶対的な何かを取り出せると発想していることは、概念としての<イデア>本来が目指す方向とは正反対に向かっていることはご了解頂けると思います。

これは蛇足になるのでよそうと思っていましたが、ちょっと最後に付け加えます。

ウィトゲンシュタインにとっては、と、突然持ち出すのも妙だと思われるかも知れませんが、彼は論理の追求者であり、その限りにおいては<イデア>という概念自体は、彼の提示している
「原始記号の意味は解明によって明らかにされうる。解明とは、その原始記号を命題において用いることである。それゆえそれらの記号の意味がすでに知られているときにのみ、解明は理解されうる(3・263)」
ことよりもさらに包括的であり、
「pがqから帰結するならば、『p』の意味は『q』の意味に含まれる」(5・122)
ということよりもさらに巨視的でありながらさらに微細であって、ウィトゲンシュタインの『論理哲学考』を解説したラッセルの弁によれば
「哲学は科学よりも上に、あるいは下に位置しなければならない(とウィトゲンシュタインは考えていた)」
すなわち哲学は科学のカヴァー仕切れない領域について思考するためのものだ、という理念をもってこのような結晶化を成し遂げて来た帰結をもってしてなお、「原始記号」だとか「意味の包含」という以上にフォローできなかった広がりを持っている・・・おそらく彼はまだ、そういう「世界」を信じることを続けていたし、出来ることなら論理を超えてその世界にまで達したいとの思いを抱いていたのではないか、ということも充分想像できるのです。



「音楽とは音そのもの」である、と、およそ音楽家の信念として述べられ続けていることが、それでは果たして、ゼキの後半部(第二部、第三部)で科学との接点が見出せるかどうかは、あるいは、ウィトゲンシュタインがまだ見ていた夢をフォローすることにもつながるのではないか、であれば、ゼキの読書と考察はなお続ける意義があるかもしれない、と、以上のことから考えている次第です。

本来は門外漢ゆえ、プラトーンやウィトゲンシュタインについて誤った認識を持っての再スタートになるのかも知れませんが、そのあたりはご指摘頂きながら、またゼキの続きに取りかかって行くことと致します。


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2008年10月25日 (土)

ひとつの音から生まれる----雑感----

「音楽は、音そのものでしかない」
ということは、書籍『絶対音感』に引用されたバーンスタインの言葉の究極でもありますし、立読みしたアルド・チッコリーニ(フランスの名ピアニスト)も述べていることです。

音楽が、本当に音そのものであることを明確に示してくれるのは、「ひとつの音」が広がって行くことによって生まれる、というかたちで作られたさまざまな曲です。

今日、グロッケンの1音から始まる2つの欧米作品(一方は厳密にはずっと低い方で別の音が鳴っていますが)を耳にしつつ、ふと
「音そのものでしかない」
音楽に、あらためて思いを馳せてみました。
お付き合い下さるかたは、いずれでも、お好みの方をお聴きになりながら、駄文をお読み下さい。

(掲載にあたっては、いずれも9分程度ですので、容量の関係でモノラルにしてあります。)

・ショスタコーヴィチ「交響曲第15番」第1楽章

バルシャイ/WDR  Brilliant Classics BRL6324

・ライヒ「ドラミング:パートIV」

ライヒ&ミュージシャンズ  Warner Classics WPCS21250


まだ家内が生きていた頃、ちょうど<うつ>になってしまい、自分の回復のために何をしたらいいか、ということが当座の課題となり、アマチュアとしてクラシック音楽のオーケストラ活動を続けていたことから、「音楽」を出来るだけ突き詰めて考えてみよう、そのことに熱中すれば先が見えるかもしれない、ということから、折よく始めていたブログで好き勝手を綴り始めたのが、そもそもの始まりでした。 折しも、モーツァルトの生誕250年でもあり、「モーツァルト療法」なる言葉が妙にはやり始めていたこともあって、なぜモーツァルトの音楽が「療法」という言葉に結びつかなければならないのか、その不自然さをどうやったら明らかにできるか、ということが手はじめに胸の底にありました。ですから、当初はとにかく、モーツァルトを軸に音楽を「読む」ことからやってみることにしたのでした。

ですが、まずモーツァルト一人の作品をとってみても、全作品で真作と「確定」しているものは600曲もあり、バッハやハイドンに取り組むのに比べれば曲の数は少ない反面資料は入手しやすい、というメリットはあったものの、いざ始めてみると、始めて3年経った今になって、ようやく7分の3程度を「辻褄合わせで」読むのがやっと、というていたらくです。そのうち、「モーツァルト療法」なんて言葉はあっという間に古び、きちんとした意味での音楽療法には使われる曲はモーツァルトに限定されなくてもいい、あるいは、クラシックである必要もない、という認識もきちんと広まってしまっています。

3年経ったのです。
そのうち、家内に背中を見守ってもらえながら綴れた期間は、もう3分の1にも充たないものになってしまいました。



モーツァルト一人の音楽を「読む」にも、モーツァルトだけを追いかけていてはダメでして、考える対象は自然と別の音楽にも広がって行きました。
家内が死んだ後になると、夫婦で、こんなの、ちゃんちゃらおかしな話だよねえ、と笑い者にしていた「モーツァルト療法」に代わって、<音楽のクオリア>だとか、どうしても「音そのもの」とはかけ離れているとしか思えない、「音楽の外側」からの受容に対する<おまじない>の言葉が目に付きだしました。・・・いま、脳神経系のデータをきちんと示しながら「美術」と対峙しているゼキ氏の著書を類推の材料に使いながら、<クオリア>という事後的な事象で捉えられる「音楽」などというものは、決して「音楽そのもの」ではない、ということを、どうしても明らかにしたいと思っています。で、このことは進行中ですから(「心と体」のカテゴリでまとめ読み頂けます)、これ以上詳しくは触れません。
最初は「これはいい根拠を与えてくれるのではないか」と取り組み始めたゼキ著からの類推ですが、彼が第5章で<イデア>という用語を持ち出しはじめたことから・・・最初は浅い共感からそれとなく読み流していたのですが、詳しく読んで行くと<イデア>に対するゼキの理解は誤謬を孕んでいることに気づいた瞬間から・・・、話は振出に戻さざるを得なくなった、との思いを強くしています。

要するに、
「音楽は、音そのものでしかない」
ということを、そのまま素直に認識するためには、科学用語なんかを導入しては絶対にいけないのです。

家内が急に倒れたとき(翌日早朝に家内は死んだのですが)、運ばれた救急病院で家内の症状の適切な診断が出来なかった医師を、私はずっと恨んできました。けれども、それは「症状の適切な診断」という「科学に裏打ちされた」ものを根拠にしか人間がものの価値や状態を判断できなくなった世の中である以上、虚しいことなのだ、ということを、ゼキが<イデア>を誤って捉えている、ということに気がついた瞬間、強烈に思い知らされました(このことはまた機会をあらためて述べます)。

・・・私は、いったい、何を追いかけて来たのでしょう?



音楽を無理やり「科学」で説明しようとする試みを、もし家内が今も私の背中のところにいてくれるなら、一緒に笑っていることでしょう。
なぜ、私は、家内と一緒に笑えないのでしょう?
私には、いま、涙を流すことしか出来ません。
家内は、でも、それを望んでいないはずです。
端的に言えば、肉体としての伴侶には「また別の人」を求めることもできます(子供たちにとっては違います)。もしかしたら、ちゃんとそういう人にいてもらいなさい、というのが、家内が私に対して今、背中の後ろから言ってくれているひとことなのではないかと思います。
肉体は代わっても、一緒に笑ってあげるから、と、言ってくれているかも知れません。

そう、肉体がどうであっても、こころはずっとひとつながりで繋がって行く。

私たちが共通して愛して来た「音楽」には、本質として、そういう、切れ目のない時間が、何の説明をも必要とせずに、私たちの肉体の生をも死をも乗り越えて「存在」する。

ですのに、なぜ、私は涙を流すことしか出来ないのか。
それは、ひとえに、私が「音楽」というものを、いまだに、そしてもしかしたら肉体の死を迎えるまでに、本質から捉えられないままの未熟者であり続けるからにほかなりません。

ああ、科学ではいけないんだ。
かといって、宗教でも思想でも、信条でも、ダメなのです。

哲学を、しなければならない、と思いました。



本当の「哲学」は、役に立たないものではありません。
ただし、入門書では往々にして「思想」と混同されがちでもありますし、哲学の非常な天才でも、ふとしたひとつの踏み外しで、その追求すべき「純粋に抽象的な」知恵の世界の「正しい境界」には、完全にはたどりつくことが出来ないでいる、とても厄介な代物なのだ、ということも、50歳を前にした今になって、ようやく知りました。

「音楽は、音そのものでしかない」

このことには、これ以上、何も求めようがありません。では、なぜ求めようがないのか、については、哲学でも永遠に突き詰められることではないかも知れません。

それでも、「科学」、たとえば物理学が、いくら素粒子のおおもとの、さらにおおもとを見つけた、と言って人間を喜ばせようとも、あるいはビッグバンこそが宇宙を誕生させた、それ以前は問わない、と胸を張ってみせても(これらは微細な素粒子と広大な宇宙という、外観上は極端な差異を示していながら、発生論的には「大きなエネルギーを持った、原初的ななにものか」が存在することを大前提としていることで、実は同じ<点>から出発し、それに対する帰結を求めるもので、物理学が確立した学として存在してしまっている現状では、本来は全く違うものであるかもしれない他の<発生の可能性>へと視点を移すことが出来ないという限界があります)、「哲学」のもたらすだろう、もっと多様な<追求不可能の意味>の発見に比べれば、はるかに狭いものでしかありえない、と、私には思えてならなくなりました。

ただし、これはまだ「感じた」段階の話に過ぎず、私の勉強は不足しており、分かり易く噛み砕く知恵もありませんから、これ以上を語ることは、まだ控えておきましょう。



音ひとつから音楽が生まれて行く、広がっていく有様は、上掲の2作だけでなく、ゼキの記述との関連で引いた「ラインの黄金」の前奏曲、ベルクの「ヴォツェック」冒頭・・・ベートーヴェンの第4交響曲の開始部、等々、クラシック作品にもいくらでも見出せますし、世界に目を広げれば、民族音楽の大半は、音ひとつに唱和する音がだんだん重なっていく事例はあまねく存在します。本日あげたライヒの作品などは、ニューギニアの響きを連想させたくらいです。日本ならば、雅楽の「音取り」は必ずこの形態を取っているのでして・・・それでもヨーロッパ式オーケストラのチューニング(オーボエのA一音で始める・・・雅楽と違って様式化されていない、とお思いかも知れませんが、そうだとは言えないなあ・・・)のに比べてヴァリエーションに富んでいます。


以下は、饒舌になりますが、自分の気分転換も兼ねての「おまけ」です。

オーケストラのチューニングで最近体験した笑い話をひとつご披露しますと、前回の演奏会のアンケートに
「コンサートマスターのチューニングが合っていません」
という厳しいお叱りがありました。
このあいだ、娘のお師匠さんと二人でこの話をして、大笑いをしました。

「エンターテイメントのつもりだったんですけど、真面目なお客様には通用しないんですね」
「そりゃそうですよ。クラシックのお客さんは、寄席に来てるんじゃないんだもの」

・・・この時の件は、直後に、わざとやったことを見破ったあるかたからすぐ質問を受けまして、
「企業秘密なのでバラさないで下さいね、さもないと・・・」
と、脅しをかけて口封じしてあったのですが、今日は面白くも何ともないことを綴りましたから、最後のおまけで、仕掛けをお披露目してしまいます。

アマチュアのオーケストラは、大抵は無理してステージの上で一生懸命チューニングするのですけれど、舞台に乗ってしまうと時間制限がありますので、ステージ上でのチューニングに頼ると、合わないままで演奏を始めなければなりません(私もそういう場面を沢山目撃して来ました)。で、どのくらいの割合でなされているのかは知りませんが、ステージに出る前に、あらかじめ袖でチューニングを済ませ、ステージ上では形式的に確認を取るだけで済ませるのがラクです。
ただ、気温が高くて湿度も高い日、というのが、最も苦労します。
袖とステージ上で、温度・湿度条件が大きくずれているからです。
で、管はどうしても高くなりますし、弦は低くなって行きます。

プロオケのチューニングなら、場数を踏んだ人ばかりですから、対処方法は知っていて、上手いこと処理していますけれど、年に1回か2回程度しか本番をしないアマチュアでは、そんな対処方法を身につけている人は稀です。
・・・それでも、普通は無理して、ステージ上で最初のチューニングがピッタリ聞こえれば良し、ということになっています。・・・すると、高音高湿度の日のコンサートでは、演奏の途中から、弦楽器はどんどん音が下がり、管楽器はどんどん音が上がります。で、お客さんは不満に思うかというと、まず、思わないでしょう。
「ま、アマチュアだから音はずれていたけれど、気合いのこもった演奏だったからよかったね」
そのように、親切に仰って下さいます。

私はひねくれ者ですから、この夏の、気温もそこそこ高く、雨なので当然湿度の高い演奏会で、袖でのチューニングが合ってもステージに行けば容積が急に広がるので楽器に加わる条件が変わりますから、端から袖での正確なチューングは意図していませんでした。

かつ。

ステージ上では、管は低めに合わせておいてもらいました。
そのうえで、自分は、お客様が聴いたら「ありゃりゃ!」と驚いてくれるかな、と、ワクワクしながら、弦楽器はオーボエより高めに合わせました。
管と弦の落差は、私の頭の中の計算では3Hz程度にしておきました。
冒頭の曲は音楽が泥臭ければ泥臭いほど良いものでしたから、ずれていても構わない、という、こずるい腹づもりです。
で、休憩をおかずに、長丁場のチャイコフスキー「悲愴」を演奏する、というところが、事前の3Hzの「ズラし」のミソです。とくに金管楽器の強奏は音程が低くなります。「悲愴」には冒頭楽章からそうした箇所があります。
ですので、最初に「笑い」をとっていて、「悲愴」でピッタンコいってお客さんに泣いてもらおう、という目論見だったのですが・・・こないだ娘のお師匠さんが仰って下さった通り、場所はたしかに「寄席」ではありませんで、かつ、私は志ん生や志ん朝のような落語の名人でもなかった、という次第です。・・・いちばんビックリしてくれたのは、身内の団員サンたちだったかも知れません。

おしゃべりが過ぎました。

ですが、こんなおしゃべりを、ついしたくなるほど、音楽の世界は「ひとつから始まり」、そのくせ「無限の多様さをみせてくれる」のです。


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2008年10月22日 (水)

音楽美の認知(10):捉えられなかったものは永遠に分からない

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ゼキ博士『脳は美をいかに認知するか』も、第10章をもって<第一部 能と美術の役割>を終えます。
第二部<受容野の美術>で、彼は主に抽象絵画やキネティックアートにたいする具体的な脳神経の反応をもって、「知覚と美術」の世界に、より明るい光を当ててくれるでしょう。
私の、本書を音楽と関係づける講読を、ここまでで一段落させておき、第一部で思いに任せてランダムに綴ってきたことを、再度読み返し、整理しなおしてみておかなければならないでしょう。そのことによって、第二部でゼキ博士が美術のずっと細部まで見通せるほどにあててくれる光の恩恵を、音楽の上にも与えてもらうようにしなければなりません。



ところで、ここまで読んできた部分では、「美術」が「形、色、運動」に関係してくること、それが知覚されるか、その知覚が疎外されるか、ということだけが問題として採り上げられ、したがって、音楽との対比も具体的に行なうことが出来てきました。

ところが、ゼキは、第10章を、フランスの外科医モローの驚くべき証言を引くことで締めにかかっています。
「外科手術により視覚を取り戻した患者が外界を見ることができると考えるのは間違いである。目は確かに見る力を獲得するが、その時点から、この力の使用法を・・・まったく最初から習得しなくてはならないのである。」(モローの言のゼキ引用、186頁)
・・・つまり、生まれてこのかた「もの」を見ることが出来なかった人は、仮に視覚能力を回復しても、「形、色、運動」が知覚できない。モローの発言の前に掲げられているある少年のケースでは、2つ3つのものの形を覚えるだけでも何ヶ月もの訓練を受けなければならず、しかも、二年後にはそうやって苦労して身につけたはずのことを、ほとんど忘れていたというのです。
同じように、先天性の白内障で視力を失った、といった類いの患者さんが手術で視力を獲得したとたん、たいへんな混乱に陥り(14歳の少女の例)、
「どうして前より幸せになれないの? 見るもの全てが私を不愉快にするの」
と叫んだそうです。(185頁)

ゼキは、実は第10章にこうしたエピソードを挟み込む前に、第5章でしっかり伏線を張っています。マグリットの「これはパイプではない」の絵をご記憶でしょうか? それについてゼキが記述する際、前提としてゼキが掲げていたのは、「人間の主観の中には経験を重ねる過程でさまざまな『像』蓄積が出来る」ということこそがプラトンの<イデア>の脳神経的な裏付けである、ということでした。
第10章は、ゼキが自らの<イデア>観、を脳神経生理の症例から、実に鮮やかに裏付けているのです。かつ、第6章以後で彼が述べて来たことも、第5章と第10章を繋ぐための周到な準備段階だったのです。
ゼキは、<プラトンのイデアとヘーゲルの概念の病理学>と題したこの章を、
「プラトンのイデアは、脳とは関連がなく、外界に理想形があるとしている点で神経生理学的に欠陥がある。」(181頁)
と、胸を張って述べることで始め、第6章では実作の上では必ずしも実らなかったキュビズムを主張した美術家の言をあらためて採り上げ、
「キュビストたちの発言は結局のところ直感的なものであり、過大評価に注意しなくてはならないが、彼らの発言のうちにみられる神経科学的正確さには驚嘆せざるをえない。たとえばグレーズとメッツァンジェは、絵画における線の関係について述べた文章で、ある状況においては、『私たちが認識するものと私達の中に先在するものとの間に知覚される類似性で、それ以上通分できないものの総和、すなわち質が具象化されている』と述べている。」(193頁)
このような引用をなすことで、6章以降見てきたことから、視覚脳の特定の領野に病巣をもつ人々が、視覚世界の他の属性を見る能力はそのままで、ひとつの属性を見る能力の味を喪失しうることを示してきたことが、プラトンが(ゼキの想定によれば)考えていたであろうような、総合的な対象としての<イデア>というものは成立し得ないのだ、と、控えめながら堅実な口調で重々しく語り、第一部を総括するのです。

「神経科学的に言えば、『美術はもうこれ以上対象なんていうものとは関わりたくないのである』というマレーヴィチの言葉は正しかったと言えるだろう。」(194頁、第10章の最後の言葉)



まったく音の聞こえなかった人が聴力を回復した時にどうであったのか、の症例をひとつも知らない私には、ゼキの「視覚におけるイデア論の欠陥」に付いての記述に反論できる余地は全くありません。
「光を取り戻した人が、取り戻した故に、かえって光によって盲目にされる」
ということが事実として存在する以上、ただそのことに驚嘆し、説き伏せられ、聴覚においても同等なのであろう、と、想定する他に術がありません。

かつ、聴覚を失っていない人でも、自分の<イデア>に存在しない「音楽」を受け入れられなかった例には、音楽史のカテゴリで戦国期の日本を扱った時に出会っています。当時日本に来たヨーロッパ人は
「(日本の音楽は)単音がきしきしと響くだけで、ぞっとする」
と言い、日本人の方は
「(協和音や調和は)かしましい、といって好まない」
というのでした。

・・・いや、この例を<イデア>(この用語を用い続けることが、そもそも妥当性を欠くことになるのかも知れませんが、それでも<クオリア>という時系列的には終点に位置する現象で知覚を理解するよりはより人間、あるいは生命の本質により近く接していること、また、いまのところ代替出来る用語を知らないこと・・・少し面倒くさく言えば「定義域を持つ<名>」こそが論理学上では<イデア>に代わった記号と見なしてもいいのでしょうが【恐縮ですが、この件についてはいったん忘れて頂いてもいいかと思いますので、今は詳述しません】、では「名」とは何か、というところ突き詰めなければならず、それについては私はまだ何の手も加えていません)を「持たない」ものは「受容され得ない」ひとつの証拠としてあげてよいのかどうか。

知覚のひとつの局面・・・視覚なら視覚のみ、聴覚なら聴覚のみ・・・だけに注目するならば、<イデア>は(ゼキの理解によれば)プラトンの考えたような総体的なものとしては人間の前には存在しない、ということは、真理なのかも知れません。

ですが、省みてみると、まず第5章で私は「ゼキの前提には、対象に対する<枠>がはずれているのではないか」という意味合いの疑問を持ちましたし(その時の文そのものでそういういい方はしていません、今読みなおすと、そういうことだったんだなあ、という話です)、第6章、第7章、第8章ではゼキにおける知覚把握の<枠>概念の不在についてさらに突っ込んでみて来たわけですし(とはいえ、浅いものではあったでしょう)、第9章では「視覚」と「聴覚」が捉えるものの相違点と、それがあってもなお存在する「共通項」が知覚として連動し得る可能性をイメージするところまでたどりつきました。

<クオリア>=<心にあるもの>という等式が成り立たないことは、既にゼキの実証したところです。
第一部については、このことが確認出来たことで満足しておけば充分かも知れません。

ただ、<クオリア>という用語を一度も用いることは無かったものの、ゼキはそれを否定する材料としてプラトンの<イデア>を、プラトンの表現したまま・・・すなわち、報告し、自己の裏付けをとる材料としては最新のものを上げながら、総括するべき概念としては<否定されるべき総体的イデア>とでも言うべきものを持って来ている、さらに言えば、古代人が考えるにはギリギリであったろう概念を、現代のものに完全に補正・置換する過程を経ることなく、古代人と同列なままで「知覚の科学」に援用している点には、さらに検討すべき大きな課題が残っているのではないか、と、まだ漠然とではありながら、それでも強く感じざるをえません。



ゼキの症例に相当するものを、当然、音のサンプルとして掲げることは出来ませんが、最後にチャールズ・アイヴズの最も有名で最も分かりやすいと思われる7分ほどの作品をお聴き頂きながら、拙文をお読み頂いたかたにもご考察頂き、もしアドヴァイス頂けることがあればご指導を乞うことで、今日は終えておこうと思います。

この作品について簡単に言い添えておくならば、誰にでも「音楽」であると認識(認知、ではなく)されるであろうものは、弦楽が最初に奏で始める原初的な音階です。そのあいだに、トランペット、フルートの「句」が、それぞれ決して重複することなく挟み込まれるのですが、これもまた「音楽」として認識し得るかどうか・・・そのあたりにご傾注頂ければよろしいのではないかなあ、と思います。

・「答のない質問」

M.Gould(cond.)/Chikago Symphony Orchestra, 1966 RCA TWCL-4004

はてさて、何で、こんなことを考え続けるのが「音楽ビジネス」と直結するのでしょうね?

今時点でひとつだけ言えることは、
「音楽そのもの、がきちんと<売り>になっているマーケットは、日本にはまだ存在しない・・・いや、世界の中でもどうだろうか?」
ということを、歴史と科学の、少なくとも二つの面から可能な限り確かめてみることによって、「音楽」の価値とは何であるか、を見直すいい契機になる可能性はあるのではないか、と、そんなバカな妄想を、私は抱いている、ということくらいでしょうか・・・



なお、下にいつもリンクしているsergejOさんが、タイムリーに(って、私にとってたまたまそうだったということで、先を越されちゃってたのですがアイヴズの特集を記事になさっています。音楽という意味では、そちらをご覧頂いた方がよろしいかと思います。

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2008年10月20日 (月)

音楽美の認知(9) 色彩と運動、その把握についての課題

「音楽のような」映画をDVDで見ましたので(とはいえ、その映画を「音楽のようだ」と思ってみる人は少ないと思います。私の感覚、ちょっとヘンかも知れませんから。監督した人も「音楽みたいに作った」とは一切思っていないようです)、そちらの話を、ほとんど記事を綴っていない「映画」のほうに載せたかったのですが、その話題にも絡んでくるので、「脳」シリーズを先にします。



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「色合い」と「動き」に関しては、音楽と美術を同列で考えてよいのか?
・・・これには、少し戸惑いを覚えます。

ゼキ第9章は<視覚美のモジュール性>というタイトルになっているのですが、扱っている主要な内容は、
・色覚を失った場合でも形態は知覚できる(168頁)
・運動を知覚できなくなると、移動したり量が増減したりする対象を知覚できなくなる(174頁)
ということを巡っての考察です。

視知覚上の色彩は、文字通り、「赤」・「青」・「黄」・「緑」等々、具象的な<色>を指します。で、<色>によって光の波長が明確に区分けされます。

同じく、運動は、物体(の境界線)が上下左右にあるスピードで<動く>ことを指します(位置の運動)。

聴覚上、「音色」と呼ばれるものは、同一の周波数であっても、音波の波形が異なれば、違う<色>として捉えられます。かつ、いかに音叉から発せられる「純音」に対してであっても、私たちは通常、「純音とはこういうものだ」という音色感を持っています。
音叉の金属音や、放送の時報のようなパルス音は、まずアナログ的な正弦波か、デジタル的な擬似的正弦波としてのパルス波かを聞き分けられます。
アナログ的なものならば、時間の経過とともに減衰・・・すなわち音量が小さくなっていく・・・のに対し、パルス波には、その発生源が一定である限りは減衰が生じないことも、先験的に知覚できると推測し得ます。

また、聴覚上の運動は、「音」という、目には見えない対象が
・「右から左へ」とか「上から下へ」とかに移動して「聞こえる」こと(位置の運動)
・ある高さの音が、ある時間の経過後に、より高いか、より低い、別の音に移動すること(波長の運動)
という、それぞれ違う<動き>を複合的に捉えているものです。

したがって、視知覚的な「色彩」・「運動」と聴知覚的な「色彩」・「運動」は、(回りくどい言い方で恐縮ですが)「色彩」・「運動」という同じ<大きな集合>に属するものであっても、その<大きな集合>の中で、明確に区分される部分と重なり合う部分がある、ということを、まず念頭に置かなければなりません。



ゼキの著書に挙げられている、「脳の損傷によって色彩を知覚できなくなった」画家の絵(169頁)は、悲しいものです。そこにはバナナの形も、リンゴの形も・・・心が荒れているからでしょうか、線は荒っぽいものの・・・しっかりと捉えられています。陰になっている部分が塗りつぶされているのを見ると、おそらく、明暗までの知覚は出来ているのでしょう。ですが、この画家さんは、色彩を失った後、それまで愛したフェルメールの絵を振り返ることもなくなり、ギャラリーへ出かけることも無くなった、ということです。

音楽は、「まったく聞こえない」ということを除いて、果たしてこの画家の例と同じような「色彩の喪失」を私たちに経験させるでしょうか? 上の純音の例を見ても、完全に、というわけには、どうもいかなそうです。
が、「単色」の濃淡だけにすることは可能です。

一つ、例をお聴きください。

・ブラームス「交響曲第4番」2台ピアノ版・・・第1楽章(立体感を消す為にモノラルにしました)

ラ・マルティース/ケーン NAXOS 8557685

ここには、最後に聴いて頂く、オーケストレーションされたあとの豊かな色彩は、確かにありません。
この2台のピアノ版は、ブラームス自身が交響曲を公衆に発表する前に、自分を理解してくれる友人を集めて披露するために編曲したものです。このときの友人達の反応が、興味深いのです。
ブラームスともう一人の人物がこれを弾いた後には、長い沈黙が待っていた、というのです。
・・・おそらく、いくらブラームスを理解している友人達でも、いわば「モノクロ」のこのヴァージョンからは、ブラームスが頭の中で何をイメージしているのか理解できなかったのでしょう。
作品自体は、通ならば「仕掛け」が分かるようになっていて(音を3度ずつ下げていく音列を、4音目で一見上昇したかに見せる)、このことは、即座に分かってはもらえたらしいのです。ですが、誰も、一言も発することが出来なかった。最後に、まだ歳若かった指揮者リヒターが、気まずい沈黙を破ろうとして
「一人くらいは大声で『ブラヴォー!』って叫ぶと思ってたんで、若輩者の僕は遠慮してたですが」
と発言したことで初めて場が和み、次の楽章の演奏に進むことが出来たのです。

何故そんな事態に陥ったか・・・秘密は、ブラームスがこの作品の評価を乞うた長年の友人エリザベート・フォン・ヘルツォーンベルクの
「これは(とても素晴らしい作品だけれど)普通の人たちにとっては難しすぎる」
との発言が物語ってくれます(ただし、エリザベートは正式のオーケストラスコアを見て発言したかも知れません。それでも、曲のイメージを頭の中で掴む上では、ピアノ版を聴くのと大きな差はなかったと思われます。以上は、フリッシュ『ブラームス 4つの交響曲』音楽之友社、絶版・・・英語版は容易に手に入ります、および同社版のスコアの解説を参照しました。)

ところが、オーケストレーションを施された正式版が大衆を前に演奏されたとき、作品はエリザベートたちの憂慮を見事に裏切り、大喝采を浴びた。

やはり、さまざまな楽器で音楽が明確に「色分け」されることによって、印象が平明になったのですね。

この例をみるかぎり、ピアノにはピアノの音色がある、とは言いながら、視覚とは意味合いにズレがあるものの、音楽にも「色彩」が作品を豊かにするとの事実は、厳然として存在することがわかります。

しかしながらもう一方で、音楽作品は、「音色が存在するのに、音色を聞き分けられない」という症例を見出すことが、出来たとしても非常に困難でしょう。「音色」には同一の周波数でも別の色がついている、ということが当たり前にあるのですから。
それと同時に、音楽作品には、本来的に、先ほど挙げた、音楽上の意味合いでの「運動」は、具象的な物体とは異なり、必然的について回る。
難聴にいくつかの種類があるとして、ある種類の波長は聞こえない、ということは、あるかもしれない。
ですが、聞こえない波長は、私の知る限りでは、途中の音域が抜けている(低音と高音は聞こえるが、中間の音は聞こえない)という非連続性を示すことが無い。物体の移動の知覚とは違うのです。ですから、波長の変化については音楽では「運動」なのですけれど、視知覚としては「色彩」の問題と同列に扱われるべきものになる。



ゼキの挙げている「運動の知覚障害」症例の中に、音との連動を扱ったものが現れないのを、非常に惜しく思います。
音もまた、知覚の世界では、音を発することを伴う「物体の移動」を知る際に大きな手がかりを与えてくれるのは、誰でも体験していることです。
では、ステージの右側で歌っていた歌手が、歌ったままで走って左側に移動した場合でも、運動を知覚出来ない視覚の持ち主は、やはり歌手を見失うのでしょうか?

さしあたって「運動失認」患者さんには物が場所を変えることが理解できない・・・液体の量が増えても、その液体と空間の間の線が認識できないので、お茶をこぼれないように注ぐことも出来ない、ということもあるそうです・・・のがもっとも重大なことですから、歌手の移動などという悠長な例で「視覚の運動失認」を考えるなど、もってのほかなのかもしれません。
ですが、もし「位置の移動」が視覚では知覚できない場合でも音で知覚できるのでしたら、音を使ってそういう患者さんの手助けになる工夫が見出せる可能性もあるのです。

そうした実用面はさておいても、興味深いことが把握できる入り口を見出し得ることになります。
五感のうちの少なくとも「視覚」・「聴覚」は、もしかしたら密接に連動して機能しているのかも知れない!

「色聴」と呼ばれる感覚を持っている人たちがいることが分かっていますけれど、これは特別なものか病的なものか、まだ判明していない、とされています。

私は、自分自身は自覚的な色聴の持ち主ではありませんが、色聴は特別なものでも病的なものでもないと思っております。

映画の、とくに印象的な場面転換の際によく使われる音を、思い浮かべてみて下さい。

突然真っ暗闇に陥る場面では、非常に低い音が使われます。
反対に、これもまた突然に燦燦と光がさす場面では、高い音が使われます。

これらのことだけで、どの高さの音がどんな色か、というディテイルは措いても、「色聴」は世間の誰もが持っていることは、自ずと明らかになるのではないでしょうか?
(ここであえて聴覚障害者を含めないのには考えがあるのですが、それをお披露目するチャンスがあるかどうか分かりません、ただ、いま、ここでは上手く述べられません。)



光の波の「波長」は、音の「波長」とは比べ物にならないくらい細かいし、光と音では物理的に異なった性質を示してもいます。
ただ、「波」である、という点では、一致している。

そうすると、知覚は、
「音とはどんな成り立ちの物理現象で、光とはどんな成り立ちの物理現象である。故に、別々のものとして捉えられる」
などという割り切った原則を立てるよりは、光にも音にも共通する「波」という性質のへの類推から、違った感覚器官でも、「波」という共通性質を抽出し、近似させ得るものは近似させて、相互補完しあっている、ということも想定したって決して変なことではないと思うのですが・・・
・・・やっぱり、変かなあ。



ブラームスの「交響曲第4番」第1楽章がオーケストラ版で演奏されたものをお聴き頂きながら、今日は最後の引用になってしまいましたけれど、ゼキの見出したいくつかの事柄で本章に採り上げていることがらのまとめを、どうぞ、お読み下さい。

・カルロス・クライバー/ウィーンフィル(1980)

Deutshe Gramophone UCCG-70020


「色は(中略)脳の構築物であり、外界に色が存在しているのではない。このことは、はるか昔にニュートンが気づいていたことである。ニュートンは次のように述べている。『正確に言えば、光線には色はついていない。この色やあの色の感覚を呼び起こす一定の力と性質があるだけなのである』と。」(171頁)

「視覚性物体失認には制約はあるものの、不思議な点も認められる。認知できる物体と認知できない物体があったり、検査によって同じ物体が認知できたり、認知できなかったりすることが認められるのである。この違いの背後に潜む謎はまだ解き明かされていない。」(177頁)

「色の美しさ、肖像画の美しさ、風景画の美しさなどという言葉は、美しさに独立した複数のカテゴリーがあることを暗黙のうちに示している。」(180頁)


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2008年10月15日 (水)

音楽美の認知(8) 「理解する」とは?

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どんどん溝にハマッて・・・アクセス数を落としております。 (^^;

専門家さんから見れば、素人考えなんか別に視野にも入りませんでしょうし、もしご好意をもって覗いて下さっても、議論がチャンチャラおかしいか、徹底していないでしょうし。。。

アマチュア仲間にとっては「なんでこんなことに熱中するのか」、キチガイ沙汰でしかないでしょうし。
第一、世間様でこんなことに興味を持つ人も少ないでしょう。
要するに、私は実に取るに足りない、無益なことに熱中している。
しかも、人様が敷いて下さった線路の上を歩きながら、価値のない石ころを拾いつづけているようなもんです。

まあ、懲りずに続けます。



さて、この曲、賛美歌のメロディーのアレンジですが、元のメロディが分かりますか?


ゼキ氏が第8章<見ることと理解すること>で注目しているのは、「失認症」と呼ばれる疾患です。脳の一部欠損によって起こる視知覚の「狂い」で、たとえば「部分」はどこもかしこも見ることが出来ても、それを「全体像」として捉えることが出来ないとか、自分の肉親を他人と並べて座らせると識別できない、とかいうような症例です。 が、ゼキの興味は、そうした症状を持つ人は「何が分からないか」ではなく、「何ならわかるのか」のほうに向けられている点で、従来の発想とは逆転しています。 「全体像」として把握できない人でも、風景は見事に写生出来る。・・・それが何であるかを説明は出来ないにも関わらず、彼の絵には、すべてがしっかりと描かれている。(訳書154〜156) じっと並んで座った肉親を同じ列に並んだ他人と区別できない人も、みんなが一斉に走れば、その途端に 「あ、あれが私の妹です!」 と即座に答えることが出来る。(158頁)

・・・この、「出来る」ことのほうに、注目した。
(他に色彩の失認についても採り上げていますが、今回は省略します。)

そこで脳の領野にどのような変化があったか、ということは、前章と読み比べればすぐに推測できることです。
すなわち、ゼキたち最先端の研究者によれば、視覚を司る脳は連繋プレイはしているものの、決して統合されているわけでもなく、統合するための特定の司令塔となる領野も見出されていない。
「一定の色」・(まだ前章には出てきませんが)「一定の傾き」・「一定の動き」等々を時間差をもって知覚する領野だけが存在し、視覚像が知覚される瞬間には、それらはそのままの時間差をもって受け止められているのであって、私たちがあるひとつの視覚像を「統合されている」と思い込むのは、各々の間の時間差が短いからに過ぎない・・・すなわち、視覚像のうちの特定の特徴を知覚するシステムは、各々「自律的に」活動している。
「見ることは知覚することであり、理解することなのである。そして見ることには(中略)仮定が含まれているのである。」(165頁)
これは、ゼキが直接触れることは一度もなく終わるのですが、<クオリア>を知覚の究極とする感覚・感性論とは、大きな一線を画するものです。
私たちの知覚は、統合されてはじめて「知覚」となるのではなく、したがって、<クオリア>と呼んでいるものに生理的なもの以上の「知覚としての」価値を見出すことには、何か誤謬があるのではないか?・・・それは、本来の<クオリア>というプロセス的な「ある一連の」生理的現象を、「知覚」が「記憶」に変じるまでの時間をあえて無視して、旧来の「知覚」に対する捉え方をそのまま<新しそうにみえる>言葉で<美人さん>にお化粧直しをさせただけなのではないか?

「全体」だけを考えることに固執すると、「一部一部では何が出来ているか」を見失う、という例でして、「森を見て木を見ない」ことにも「木を見て森を見ず」と釣り合うだけの<論の欠陥>があることを、<「失認症」でも出来ること>の確認例から、私たちは充分思い知ることが出来るのではないでしょうか?


<クオリア>について、ここで復習、というより突っ込み直しをしておきましょう。 いちばん純粋に脳を調べる立場から記述している池谷裕二氏の表現は、こうなっています。

「脳波をモニターしながら脳の活動を調べると、(略)先に『運動前野』という運動をプログラムするところが動き始めて、それからなんと1秒ほども経ってから『動かそう』という意識が現れたんだ」(ブルーバックス版『進化しすぎた脳』170頁)
すなわち、この、あとから生じた「意識」をもって、池谷氏は<クオリア>と呼んでいる。脳の働きの上での<クオリア>という言葉の位置づけは、これが最も基本的なものでしょう。
しかし、ゼキは「意識」されてからの「脳の反応」ではなく、前の第7章において既に、受容器官から脳が対象についての信号を受け取った瞬間からの観察を行なっており、その結論(まだ最終ではないことは次回以降見ていくことになりますが)として、先の

「見ることは知覚することであり、理解することなのである。そして見ることには(中略)仮定が含まれているのである。」

の言葉を述べているのであり、そこには信号を受けた脳があらかじめ「仮定」をなすことによって「意識」を形作っていくプロセスまでを追いかけているのであって、結果としての<クオリア>を待つまでもなく、感覚器官は対象から信号(刺激、と呼んだようが、用語上妥当でしょうか)を「理解」している(それがたとえ「誤解」であったとしても)ことを突き止めているのです。したがって、ゼキの得た結果によれば、<クオリア>が池谷氏の言うような「表現を選択できない(149頁)」脳の副産物であっても構わないとしても、<クオリア>すなわち<覚醒感覚>が、少なくとも脳の理解する「全て」なのではないことを示唆しています。
したがって、脳を客観的に観察した池谷氏の記述とは別段齟齬はないものの、それを
「心に見えているものは、クオリアから出来ている」(茂木健一郎「クオリア入門」文庫版37頁)
のようにまで敷衍してしまうのは否定されている、と見なすのは、妥当性を欠いていない、と私は思っております。



さて、聴覚においては、ゼキの観察したような、「部分が分からなくても理解は出来る」現象がみられるかどうか。
最近、最相葉月さんの『絶対音感』を読み始めましたら、やはりいろいろな症例報告があるのだな、ということが分かりましたが、症例の出所がわからず、ゼキがまとめてくれている視覚の例とどう対比させてよいか、に、まだ迷っております。見つかれば、適宜利用はしたいと思いますが、当面は従来どおり、主に西欧音楽の実作例から、聴覚健常者でもゼキの例と似た体験を出来るものを探し出し、お聴きいただいてみる方法で進めようと思います。

今回は、上に挙げた二つの例に必ずしもピッタリ対応しないのですが、次のような選曲をしてみました。



まずは、冒頭に掲げたオルガン曲です。
・バッハ:オルガン小曲集から「いざ来ませ異邦人の救い主よ」BWV599

これの元のコラールはこのようなものです。

同じ旋律だ、と感じ取ることが出来ますか?
バッハのオルガン編曲は、元の旋律を、細かな音符の唐草模様の中に巧みに織り込んでいます。そしてそれは、細かな音符の動きに注意を向けて聴く限りでは、おそらく決して、後者のようなひとつながりの旋律としては聞こえないはずです。・・・後の旋律を知っていて初めて、私たちはバッハの編曲の「骨組み」を知ることが出来る。・・・視覚と異なるのは、「全体像」を知るにもそれなりの「時間」を要することです。
が、その全体像を知る頭ないかに関係なく、バッハの音楽は「知覚」できる。「知覚」と言ってしまうには<クオリア>という言葉が孕んでいた「記憶」の混同を取り払えないのですが、知覚される対象が「瞬時に」捉えられるものかそうでないものかに由来する差異であって、「知覚される絵画」と「知覚される音楽」には<時間が(膨大に)認知を媒介するか>というところに相違点がある限り、同じ線上で観察すること自体に無理があるのでしょうね。

ですので、もう一つ、逆のケースを用意しました。

・バッハ:カンタータ第60番「おお永遠の神、轟く言葉であるお方よ」終曲のコラール

N.Harnoncourt/Cocentus musicus wien TELDEC 2564- 69943-7 Disc18

これをお聴きになってから、次の曲を聴いてみて下さい。バッハの上のコラールの旋律が登場します。・・・ただし、15分ほどかかる長い曲ですので、お時間が許すときになさって下さいね。
ヒントとしては、7分経過したあたりにほうに現れるので、はしょりたければそのあたりまでカーソルをドラッグしてみて下さい。

・ベルク「ヴァイオリン協奏曲」第2楽章(終楽章)

H.Szeryng(Vn.)/R.Kubelik/Bavarian R.S.O Deutsch Gramophone 469 606-2

これはもうご存知のかたには「安直な例」と思われてしまうかもしれませんが、十二音技法で作られた響きの上にバッハのコラール旋律を乗せたものです。しかし、もしあらかじめ何も知らされずに聴いたとき、この曲のなかに「なんとなく馴染みやすいメロディがあるな」と感じたとしても、それを最初から明確なメロディラインとして捉えることが出来るでしょうか?

さらにお時間があるようでしたら、ベルクの方を2、3度聴いてから、次にまたバッハの原曲をお聴きになってみてくださることをお勧めします。そうすると、上に述べたあたりの事情が、少しははっきりと実感されるのではないかと思います。
あるいは逆に、バッハの旋律を明確に認識してしまう手順を踏んだ最初の聴き方では、あとでベルクのオリジナル部分を何度聴いても「分かりにくい」印象を持ったりしませんでしょうか?


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2008年10月13日 (月)

音楽美の認知(7):「涙は脳から出るのではない」

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このごろ恒例のようにしてしまいましたが、まずお聴き下さい。
その際、お願いがあります。
これを聴いた後でのまとめての印象で、ではなく、最初どのように聞こえ、次にどのように聞こえてくるのか、をメモしてみて下さい。それから以下をお読み頂ければ、大変ありがたく存じます。




ゼキ博士『脳は美をいかに感じるか』第7章<視覚のモジュール性>の主眼とするところをまとめるのは難しいのですが、用いられている専門用語を出来るだけ省略してまとめれば、次のようにでもなるのでしょうか?

「(従来はそこで視覚像が一括して処理されると見なされていた、)網膜の像を受け取る中心的役割を果たす領野(V1)は、実は受け取った像を各種処理を施す特殊な領野へと即座に分配する。特殊な分野は、例えば、<赤なら赤の色にしか反応しない(V4領野の一部)>・<左から右への運動にしか反応しない(V5領野の一部)>等々、像のうちにある、かなり特化された現象だけを処理する。」

しかし、私たちは、そうやって受け取られる像を、一度に知覚している、と信じて生活しています。それでも、種々の実験から、中心領野(V1)から各特殊領野への分配は、35ミリ秒から70・85ミリ秒かかっており、領野によって分配された情報を受け取るまでにかかる時間が早いもの、遅いものがあることが分かっています。
「動きよりも前に形が、形よりも前に色が知覚され、動きに対する色の先行時間は約60-80ミリ秒だった」(142頁)。

それらが統合されて初めて、私たちはその像を見ているのだ、と、果たして本当に思っているのでしょうか、感じているのでしょうか?
「本当に思っている」
というのが、端的に言えば、<クオリア>という、ほんの一事象の呼称を、「脳の受容像の統合された結果こそ知覚である」というところ(哲学的用語)にまで地位を高めさせ、崇拝する立場なのではないか、と、私見では考えております。
ところが(ゼキの本論には全く関係がないのですが)、もし<クオリア>というものがそのような「統合の結果であり、知覚の源泉である」とすれば、視覚健常者と視覚障害者の<クオリア>が違っても然るべきである、という矛盾が生じます。・・・現実は(私自身が経験したところでは)そうではありません。私に「見える」像は、(障害の種類にはよりますが)視覚障害者にとっても「同じ」に見えるのです。
突き詰めれば、たとえ<クオリア>が知覚の究極だとしても、そこにはおそらく人の数だけの差があり、同一なものは存在しない、と言ってしまってもいいのですが、そうしたニヒリズムに陥るのは(それが私のホンネであっても)ここではやめておきます。「類似」という言葉も、半端ですから避けます。あくまで「同じ」、とのみ言っておきましょう。

ゼキの呈示している、脳そのものには、しかし、統合のはたらきが、いまのところ見出されていないのです。
「・・・脳損傷の事例において、脳内の特定の部位の損傷後に、他の知覚システムの機能はそのままで、ある一つの知覚システム(中略)のみが障害されるような証拠が得られており、異なる処理・知覚システムが相応の自立性を持ち、最終的な統一像を生み出す統制領野は存在しない」(145頁)
と受けとめ得る事例が多々あるのであって、
「広義に解釈すれば、非常に短い時間枠では、脳は同時に起こったことを結びつけることはできないとみることができる。したがってリアルタイムに結びついているわけではないのである。」(143頁)



ゼキが追いかけているのは「美術」の世界ですが、音楽でも同じことがいえるのではないか、と私は受けとめています。本章でゼキの採り上げた脳の働きの、どの領野がどういう働きであるか、という細目を捨象すれば、絵を見る「瞬間」と、音楽を聴く「瞬間」に、知覚上の差異はないと思われます。

音楽会の印象をひとことにまとめるのは、曲を聴き終わり、音楽会が終わったあとで行なわれる、まったく別の心のはたらきであって(すなわち、仮に心が脳からしか生み出されないのだとしたら、それは脳の「知覚」とはまた別の段階で行なわれるはたらきなのであり)、音が鳴った・・・それを受けとめた・・・その知覚の瞬間に、音を認知しうるまでには音の各要素について時間差があることは、演奏例を上げてもうまく示すことが出来る自信こそありませんが、聴き手としてでも、またなおさら弾き手としてならば、明確に意識できることを、私は経験していますし、これは「ジャンル」を問わず、好きな音楽をお持ちの方ならやはり同様の経験をもっていらっしゃるはずだと確信しています。

音楽が右脳で受容されようが左脳で受容されようが、いまはそんなはなしはどうでもよろしいのでして(ただし、後日、最相葉月さんのご著書『絶対音感』をご紹介する時にはこの話題にも触れることになるでしょう)、事実として、脳のある部位が損傷することで音色感を失った例がある、という記載が最相さんのご本にあるのを見出したときには、「やっぱり!」と、嬉しくて飛び上がる思いでした。(今日の標題は、最相さんのこのご著書の第七章のものをお借りしました。)

ただ、知覚される「音」の要素は視覚像とどのような類似性で区分できるのか、あるいはどのような相違点があるのかを把握できていませんので、視覚と聴覚の対比を正確に行なうことは、今の私の能力では、手に余ることです。

少なくとも音一つごとに「音の大きさ」・「音高」・「音色」・「持続する時間(時程)」というものが物理的には存在しますが、啓蒙書で見る限り、脳の領野でその受容が、どの部位で・どのような順番で・どのような時間差でなされるのかは、ゼキほど明確に記述したものには、残念ながら素人の私はお目にかかることが出来ていません。
経験的に推測するに、その順番は

・大きさ-->高さ-->音色-->持続時間

(視覚の場合とはずれていますが。視覚では、色-->形-->動きでしたね。)

ではないかなあ、と思うのですが、いかがでしょうか?
微妙なのは、大きさと高さの順番で、これは少人数で演奏するとき、自分がリーダーであれば、まず、相方の音が基準であるべき自分の音に比べて「高すぎる」か「低すぎるか」でストップをかけているような気がします。大きさの問題はその次、なのです。・・・難しいところです。

で、音楽を聴くとき、その響きを最初から一様に「音楽という総合体」としては、私の耳は捉えていない、ということも、しばしば感じます。
本日冒頭に掲げたのは、知名度の割に耳になさったことがある方は少ないのではないかと思いましたので(そうでもないかな?)、選んだものです。
最初にお願いしましたように、これが・・・聴いた後でのまとめての印象で、ではなく、最初どのように聞こえ、次にどのように聞こえてくるのか、をメモしておいて下さったのでしたら、私の「仮定」とお比べ頂き、
「Ken、そいつぁ、ちょっと違うぜ」
なんてお話頂けたら、とても幸せです。

ちなみに、曲は、ワーグナー「ラインの黄金」前奏曲。カール・ベーム指揮バイロイト祝祭管弦楽団の1967年の演奏です。この作品で始まる「指輪」4部作を、就職して初めて買って、居眠りしつつ何ヶ月かでようやく全曲を聴いたという、私にとって思い出のCDからのものです。(PHILIPS 412 475 2)

再掲しておきます。

本来、「時間のズレ」がそのまま「知覚」され、そのまま受け止めている例として「越天楽」も掲載するつもりでしたが、長い(9分!)のでやめました。モノフォニー(グレゴリオ聖歌でCDででるような洗練されたものを除く)やヘテロフォニーですと、この時間のズレがそのまま聴き手として受容できていることがよく分かります。いい事例があれば。。。


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2008年10月 7日 (火)

音楽美の認知(6):西欧クラシックは「キュビズム」か?

大宮光陵高等学校音楽科23回定期演奏会、是非お越し下さい。



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変人的考察も2/7に達しました!

最初に、これを聴いておいて見て下さい。

・メシアン「鳥のカタログ」から第8曲

"Messian Edition" CDS11から。メシアン夫人のイヴォンヌ・ロリオによる演奏(初稿)
Warner Classics, Erato Disques 2564 62162-2

・・・さて、この曲の中に、鳥は何種類登場するか、考えておいて下さいませんか?



ゼキ『脳は美をいかに感じるか』第6章は<本質的なものを求めて----キュビズムのアプローチ>とタイトルづけられています。
ここでもまだデータが示されるわけではありませんが、前章まではゼキの「仮説=確信」をまとめたものであったのに対し、本章以降は、いよいよ「確信」を裏付けるための「本論」に入っていきます。
<キュビズム>(ただし、前期に限る)を例示し、それが「神経科学的には失敗だった」と結論づけることで、次章以降、ゼキが最も訴えたい「脳にはモジュール化のはたらきがある」ことの前置きとしているのです。

Frauenbildnis_2初期キュビズムの「イデオロギー」を看破した美術評論家の言を借りて曰く、キュビズムの絵画の目的は、「描こう」としている対象の中で変動性の小さい要素を発見することであった、そして、彼ら(キュビストたち)は、把握を通じて頭の中に残っている、流動的ではない要素のカテゴリー(すなわち恒常的かつ本質的な要素)を選んだのである、と。(114頁)
また、リヴィエールという著名な美術評論家の言からは次の引用を行なっています。
「絵画にその真の目的を取り戻させること・・・がキュビストたちに与えられた役割なのである。真の目的とはすなわち対象をあるがままに・・・模写するということである。」(115頁)
そのためには明暗の影響を受けてはならない、また、遠近感もなくさなくてはならない、なぜなら
「物体はさまざまな距離や角度から、そしてさまざまな明るさで見られ、なおかつ同一性を失わない」(116頁)
からであって・・・要するにゼキのまとめたところによれば、絵画においてキュビズムは感覚のフィルタを除いた「事物の把握」を目的とするものにほかならなかった、ということにでもなるのでしょうか。
ゼキが前もって述べているところによれば、
「一般的に考えられているのとは違い、視覚とは連続的な感覚なのである。ある一つの対象についてよく知るためには、多くの知覚像を合成しなくてはならないのである。」(115頁)
時間におけるある特定の瞬間ではなく、空間におけるある特定の一を反映した、固定的なものが、キュビズム以前の絵画であった、というわけです。
・・・ゼキがこう述べる根拠は次章以下の、脳の各部位がどのように独自に視覚の一側面を捉え、それらがどのように統合されていくかを整斉と示した記述です。
ところが、その「統合」の結果と、初期キュビズム絵画の行なった上のような試みは、結局は脳が解読し得るものとはならなかった・・・掲載したピカソの、まだ分かり易い方の絵を参照して下さい。女性の顔を正面から見たものと横から見たものの合成で、これはまだ分かり易いものですが、確かに「脳の統合した結果としての像」とは全く一致しないのは明らかです・・・。これは初期キュビスト(従ってキュビズム後期のピカソ作品は含まれません)のとった「多くの異なる角度から見た対象の姿を表現する」戦略は、脳神経学の見出した「脳による恒常性の追求」とは一致しなかった、失敗だった。であるからこそ、ここで脳による視覚像へのアプローチを、より精密に検証する必要がある、という主張が、ゼキの本章での「締め」に持って来られているのは、結構な頭脳プレーだということになります。



絵画の場合には、キュビズムの理念を持ってしても、どうしても「固定像」であることから脱し得なかったのに対し、音楽は、前回までに見てきたように「時程」を必然的な要素として持っているため、もののかたちを具体的に描くことは出来ないかもしれませんが、いちどにさまざまな角度から「見る」ことが出来ます。ただし、それは対位法的な運動の認知を同時進行でなし得る場合に初めて「見る」ことが出来るものであって、旋律に沿って単純な和声付けがされるだけの場合やモノフォニー、ヘテロフォニーでは「見る」ことはやはり不可能です。したがって、音楽の「立体視」は、西欧の対位法的な音楽によって初めて可能なものなのではないか、と、私には思われます。
「見る」という言葉をそのまま援用したのは、耳に入るままを聞いただけでは、その立体の認知が必ずしもできるわけではないからです。
音楽は、美術における「キュビズム」を、努力なくして常に獲得しているものではない、という例を聞いて頂きましょう。

・レスピーギ「鳥」から<雌鳥>(原曲:ラモー)

ケルテス/ロンドン響 LONDN POCL-4427

原曲はクラヴサンの独奏曲ですが、オーケストレーションされたこちらのものの方が、「聞いている」だけでも「雌鳥」の像が色合い豊かにイメージできることから、あえて原曲ではない方を選んでみました。
これは・・・「キュビズム」の音楽ではありません。やはり原曲が書かれた時代を反映していて、下ってもロココ期の目に優しい絵画に対応するといえます。



さて、ここで最初に掲げた例の方の音楽をもう一度「見て」みて下さい。(「見る」とは強いて意識して傾聴することだとお考え下さい。)
同じ作品ですが、説明の便宜上、演奏者を変えます。

・メシアン「鳥のカタログ」から第8曲

アナトール・ウゴルスキのピアノ演奏です。Deutche Grammophone POCG-1751-3

「鳥のカタログ」自体は、7巻13曲からなるピアノ独奏曲群で、どの曲も鳥の名前がタイトルとなっています。全部を演奏すると2時間半はかかる、という、単独楽器のひとまとまりの作品群としては非常に規模の大きいものに属し、1曲1曲も最長で30分前後かかる(第7曲で、第4巻1冊は、まるまるこの曲で占められています)などというものもあります。
今回選択したのは、最短のもので、メシアン夫人の演奏で5分半、ウゴルスキも4分半で演奏しています。

この曲の場合、漫然と「聞いている」だけでも、確かに鳥が鳴いているようだなあ、ということは分かります。しかし、レスピーギ(=ラモー)の例とは異なり、こちらは「鳥の営み」をメシアンがその耳に聞こえるままにスケッチしたものを元にしてあり、その分、象徴的でも一側面的でもなく、「鳥の営み」を「立体的に」捉えているため、耳に入るままに聞くのではなく、メシアンのスケッチした情景を前後左右、上下から「見る」努力が、鑑賞者に求められます。

すなわち、レスピーギの例でもメシアンの例でも、たしかに音楽は絵画に比べて「時程」を持つ有利さから「立体像」を捉える点では美術の「キュビズム」で実現不可能なことが、「キュビズム」の発想が生まれる遥か前から行ない得たことを示す点では同列に立っています。
しかしながら、「キュビズム」の発想は、レスピーギ編曲のラモーの「雌鳥」にはありません。「雌鳥」の発想は、独奏曲としてなら美術でも彫っただけの像で同様の再現が出来ると見なせます。

「キュビズム」の発想は、美術では極めて短期に挫折したかも知れない。・・・では結果的にどういう実を結んだのかは、ゼキ著の次章以降と共に考察して行きましょう。
音楽においては、メシアンに、「キュビズム」に対応する一つの典型例を見出すことができる、というのが、私の感覚です。

ウゴルスキのCDのほうには時間経過による場面変転の説明が丁寧になされていますから(楽譜が欲しかったのですが、この曲集、7分冊・・・実質は6分冊だったかな・・・である上に、1冊あたり1万円くらいする高値なもので、入手を断念しましたので、ウゴルスキのCDのリーフレットに頼りました)、最後にそれを示しておきます。最下段に音を再掲しておきますので、お時間がある時に、是非、タイムスケジュールと音楽の進行(プレイヤーに経過時間が示されます)を対比してご覧になってみて下さい。

・第8曲のタイトル=「ヒメコウテンシ」
<セクション1>0'00〜情景、0'04〜ヒメコウテンシ、0'31〜セミ、0'42〜チョウゲンボウ、
     0'47〜ウズラ、0'53〜ヒメコウテンシ
<セクション2>1'20〜ヒメコウテンシ、1'24〜カンムリヒバリ、1'53〜ヒメコウテンシ
<セクション3>2'23〜セミ、2'44〜チョウゲンボウ、2'52〜ウズラ、3'09〜ヒメコウテンシ
(コーダ>3'44〜ウズラ、3'47〜ヒバリ、4'08〜ウズラ、4'18〜ヒメコウテンシ

つまり、出てくる鳥は5種類でした!(セミまで出て来てますが。鳥には数えられませんね。)

・ウゴルスキによる演奏の再掲

・ロリオによる演奏の再掲



・・・この「認知」の考察が回帰していくべき「ビジネスとしての音楽」としては、どうでしょう、メシアンとレスピーギでは、レスピーギの方が、現状では有利なのではないでしょうか? その是非を含め、それは、「認知」の考察が結了した後に考えましょう。

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2008年10月 2日 (木)

音楽美の認知(5) 絵画のイデア、音楽のイデア

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先に、お聴き頂いておきましょう。
これは、音楽でしょうか? 音楽以外のものでしょうか?




ゼキ先生、第5章は<プラトンのイデアの神経科学>、と来ました!
これは、前章でショーペンハウエルを引いていることからのつながりから来るのでしょう。
この章から、ゼキは脳神経系の臨床データを用いているのだ、と最初は誤読していましたが、本章は未だ序論の一節でした。ですから、本章でも、ゼキはゼキの「観念」を述べているに留まります。

そこで、私の「読み」も観念的なものにしておきます。

私の以下の要約で適切かどうかは心もとありませんが、極力、細かくなりすぎないように努めましょう。

趣旨としては、人間の主観の中には経験を重ねる過程でさまざまな「像」の蓄積が出来る。人がものを「見る」ときには、その蓄積=イデア(というのが、端的に言えばゼキ見解です)を原像・・・雛型、と呼ぶことをあえて避けたのは、私の意思です・・・として、その「もの」が何であるかを判定する。
したがって、初めて見るものに対する判定も、経験の蓄積による原像が元になっている。
美術として一つの驚きをもたらすものは、その原像に当てはまらないものが描かれている場合、あるいは画像としては原像にリンクさせ得ても、副次情報(タイトルなど)がリンクした原像に一致しない場合である、というもので、これをマグリットの作例3つをもって読者に確認させています。・・・ですから、内容としてはまだ、視覚脳の働きとしての原像とは何か、の彼なりの立脚点を見出すことに重点が置かれており、視覚脳各論の詳細には立ち入ってはいません。
ただ、非常に根本的な概念として、プラトンの哲学用語であった「イデア」が、脳・神経系の経験の蓄積による原像である、という置き換えを行なうために用意されている、ということで、非常にウェイトの高い一章となっています。



ゼキの捉えている「原像」は、はたして、どの程度の範囲をおさえているのか?

あとでヘーゲルを引用したりして、必ずしも次の記述からだけで判断していいものではないのかも知れませんが、ゼキ自身が「期待」しているものよりは<狭い>のではないか、との感じを拭い去れません。

「ここにある一つの寝椅子は、横から見たり、前から見たり、あるいは他の方向から見ることによって、それ自体と異なるものになるということがあるのだろうか。むしろ、違うように見えるけれどもまったく違わないのではないだろうか」
「その通りです。違っては見えるけれども、実際には違っていません」
「では、まさにこの点について考えてもらいたい。絵画はどんなときにも、実体をあるがままに模写することを目的としているのだろうか? つまり、見かけの模写なのかあるいは真実の模写なのか」
「見かけの模写です」
「そうすると、模倣の美術というのは真実から程遠いところにあるといえるね」
「ええそうです/形の見かけでしかなく、実体でも真実でもありません」

(ゼキは明記していませんが、プラトン『国家』第10章からの引用です。)

ゼキが典型としてあげている、プラトンの問答・・・これがゼキの最も依拠する記述です。
・・・静止像が前提になっているのは、氏の取り上げているテーマ・課題の上からくる制約でもあり、この限定無しには美術についてまとめることが出来ませんから、この点の責をゼキに帰することは出来ません。

最小限、二つ、検証が必要です。
ひとつめは、果たして、ゼキが事例として掲載しているマグリット作品は、ゼキの定義しなおしている「イデア=経験の累積の原像」の崩れに、本当に繋がっていると言えるかどうか。
ふたつめは、音楽に、「経験の累積の原像」の崩れに相当する事例を、私たちが見出しえるかどうか、です。
この一方でも、ゼキ定義では正確に不足が生じる場合には、「イデア」の脳神経科学からの再定義自体が「不充分」であるか、「不可能」であるか、のいずれかになるのではないか、と私は考えます。
・・・念頭にあるのは、次のようなことです。

「私たちは、自分達が未経験な事物・事象に出会ったときにでも、感激を覚えることがあるのではないか? そのときには、自己のうちには依存すべき原像がないはずであり、ゼキ定義の<イデア>ではこのケースの感激を説明することが不可能である」

ただし、前提として、ゼキの立脚点から逸脱しないように、プラトンがもし「運動」や「時間」について定義している<イデア>があるとしても、考慮しないこととします。これは前回、音楽を観察する上で「時程」が重要な位置を占めることが分かってしまっているので、音楽側からは実に厳しい制約なのですが、あえて挑戦してみましょう。・・・実際問題として、プラトンは音楽についても『国家』第3章の中で音楽のイデアについての最初の検証を試みている(山場に達してからの第7章で、天文学の次に置かれていますが、これはピュタゴラス派の見解の総括りであると同時に、ピュタゴラス派に対する非難ともなっています)のですが、これは当時のギリシャ音楽のあり方(歌詞があり、ギリシャ語の持つ長短アクセントに伴うアクセントがその歌詞が歌われるリズムを規定している)が前提に据えられているため、旋法(いわゆる「調」)以外に関しては、そのまま現代に援用することが出来ません。



Knmvjot8ゼキが挙げているマグリットの作例3つはいずれも有名なものですが、木陰を通り過ぎているはずの馬が木の表面に現れているかと思ってよく見ると歩いているはずの地上にはいない部分が含まれているもの(「白紙委任」)、海辺に打ち上げられた生物の上半身は魚だが下半身は人間の女性(「共同発明」)、という2例は除外しましょう。これは単に、情景のトリックにより「原像」が中断されるのであって、ゼキの再定義した<イデア>の崩れの根本にまで触れるものではないからです。

パイプ(であるはず)の絵の下に「これはパイプではない」とフランス語でサインされた絵を、俎上に乗せて考えます。・・・これは、ゼキが依拠したプラトンの記述に、最も合致します。

・・・じつは、プラトンの専門家のまとめたものによりますと、そもそも<イデア>とはプラトンが先験的な普遍性を追求するにあたって用いた術語であり(ちくま新書190『プラトン入門』1999年参照)、このことを理解した時点で、ゼキの「脳神経的なイデアの再定義」が経験の蓄積に依拠している以上、プラトンの意図からは逸脱していることが明らかなのです。むしろ、ゼキの定義は「クオリア」を哲学的な定義に見せかけている諸著作のものと同じ、もしくは近似している、ということになる。
ただ、ゼキが追求したいのは「クオリア」ではない・・・前回私があえて音色については「質感」という日本語を用いましたが、そこで考えていることも「クオリア」とは区分けしておきたいためにあえてそうしたのでして、そのほうがゼキの意図に叶う、と判断したからです・・・。プラトンにとっての<イデア>が先験的であることを意図したからといって、それに拘泥する必要も、また、ないでしょう。従って、繰返しになりますが、ゼキの定義は、まだ、あえて<イデア>の脳神経的な再定義である、ということを認め、前提としておきます。

話をややこしくしました。すみません。戻りましょう。

2265254558マグリットの「これはパイプではない」という、パイプの絵の話でした。

この絵に対する、いくつかの、代表的と思われる「鑑賞者の受け止め方」を考えてみましょう。

「パイプの形を描いているのに<パイプではない>と言っているからには、

<パイプ、というものを見たこと、触ったことがある人の受容>
1)これは確かに「パイプ」そのものではなく、「パイプの絵」という、絵画である。
2)「パイプを描いたのではないのだとしたら、果たして何を描いたんだ? 描かれた物はパイプではない、ということか?」

<パイプというものを知らない人の受容>
3)「ふうん、じゃあ、ここに<描かれている>のはパイプという物ではないんだ。じゃあ、何という物だろう?」

他にも考えられますか?・・・私の貧弱な発想で思いつくのはこれだけです。

また少々用語だけはややこしくなりましが(じつは私も理解してるわけではないからです、お恥ずかしい限りで!)、ゼキの再定義の根拠となったプラトンの<イデア>には、探れば非常に難しい話ながら、割り切ってしまえば実に単純なパラドックスがあります。
もういちど、ゼキの引用したプラトンの文をお読み下さい。

「模倣の美術というのは真実から程遠いところにある」云々

・・・ここには、<イデア>云々する際に読み落としてしまう重要なポイントがあります。
「事物そのもの」と「事物を引き写したもの」の混同、という、私たちに起こる一般的な心的現象への無考慮です。

プラトン(『国家』中ではソクラテスに語らせていますけれど)は、一見、前者を「寝椅子そのものという事物」、後者を「寝椅子を描いた絵」ということで明確に区分しています。ですから、読者(あるいは話の聞き手)は、
「なるほど、実物と絵は別々のもんじゃわい」
とあっさり納得します。

ですが、実際に絵を鑑賞するとき、私たちは「絵」を見ているのでしょうか?
そこに対する根本的な問いかけが欠けているのです。

マグリットの「<パイプではない>というパイプ(らしきもの)の絵」を見るときに、鑑賞者が見ている対象の枠組みは「絵」であって、1)としてあげた反応を示している人だけが、明確にそれを意識している。しかも、それは「絵」ではなく、「絵」に付した、マグリットの「これはパイプではない」という文、この「文」という副次的な情報によって、初めて「絵」を見ているのだという自覚に至っているのです。
ましてや、2)・3)のほうが、私たちが絵画を鑑賞する際の一般的な反応でしょう。

展示されたり印刷したものを通して見るのが一般的ですから、私たちの誰もが
「描かれたもの」
という枠組みの中にあるものを見ているのだ、という「不明確な」意識は必ず持ち合わせてはいるのです。
ですが、本当に「絵画」に没入するとき、その枠組みは、実際には意識の外へ飛んでいってしまうのではないでしょうか?

すなわち、私は二つの検証のうち最初のものに限っても、ゼキの再定義は「不可能」とまでは言いませんが、不充分であると考えます。

他の例をも考えてみて下さい。
極端な例ならば、戦争の写真。その下に「これは戦争ではない」と記されているとき、私たちは、果たして上記の1)のように単純に「じゃあ、これは戦争そのものではなくて、戦争の『写真』なんだな」という発想で済ませるでしょうか?・・・中にはそういう方もいらっしゃるかも知れませんが、私には、そういう発想をする人、というのは、ちょっと想像できません。しかも、1945年以降に生まれた日本人(そしておそらく従軍したことの無い米国兵なども)について言えば、「戦争」は直接的な経験の蓄積としての「原像」は形成されていないにもかかわらず、戦争の何たるかを、観念ではなく情景として把握しえるのではないでしょうか?

話をそこまでひろげないにしても、こうは言えるでしょう。
すなわち、形として既に「存在」しているものを更に引き写した、(言葉は不適切かも知れませんが)「擬似的な「存在」の中にも、私たちは、その元となっている「存在」を<見る>のです。
その事実を、ゼキに限りませんが、脳神経系ですべてを説明できると信じている人は、意識しているかいないかに関わらず、結果として「否定する」前提から入っている。

今回はこれをあえてまた音楽体験に置き換えて言い直すことはしません。その点で、標題に「音楽のイデア」と記しておきながら、まったくそれに触れないで終わっているではないか、とお叱りを受けるかも知れません。

これについては、また謎かけ・・・読んで下さる方にも、私自身にも・・・で、まだまだ話を中に浮かせたままにしておきます。毎度ですが、ご容赦下さい。

その謎かけとは、冒頭に聴いて頂いた
「これは、音楽でしょうか? 音楽以外のものでしょうか?」
という、その音声です。

蓋を開けますと、これは「コーランの読誦」の例です。

第2章「牝牛」の一節です。
CDは、音楽物として出ています。ですが、本物のイスラム教徒のかたが、これを「音楽だ」と言われたら、多分お怒りになるはずです。
何故なら、いかに節回しが付けられていようと、コーランの読誦は決して
「音楽ではない」
からです。

さて、このことを、私たちはどのように解釈すればよいのでしょうか?

・・・毎度、お粗末さまでございました。


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2008年9月29日 (月)

音楽美の認知(4)音楽における「未完結」・「多義性」と美術との差異

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文字通りの屁理屈の中でも、いちばんわけのわからん屁理屈が、あと18回は登場する予定ですので、すみません(1回以上おきになるようには心がけております)。文も難しめなのは反省しておりますが、自分自身が考え考え進めているので、これ以上噛み砕けないのもご容赦いただきたく存じます。


Tenbinゼキ『脳は美をいかに感じるか』第4章は、<神経生物学から見たフェルメールとミケランジェロ>とのタイトルです。随時「脳は、脳は」と反復することを忘れてはいませんが、その実、前章に比べるとダイレクトな脳や神経の記述はありません。学際的なことよりも、むしろ、この章で図版例として呈示するフェルメールの絵やミケランジェロの彫刻が読者にとってゼキの考察どおりに目に映るかどうかを「確認してもらう」ためのプレゼンテーションを意図したのではないかと思われます。

フェルメールにおいては、その絵画全般にわたる「描かれた物 相互の関係性の(高度に意図的な)欠如」に重点を置いています。

「筆者や筆者と同じような他の多くの普通の鑑賞者の注意を最もひくのは、欠点一つない室内の描写でもなければ、光蜥蜴の微妙な交錯でもなく、鮮やかな彩色でもなければ、細部の完璧さでもなく、みごとな遠近感の描出でもない。筆者の考えでは、この絵画は、その卓越した技術があいまいさを生み出すために使用されているからこそ偉大なのである。」(68頁)
「哲学者ショーペンハウエルはかつて、絵画の仕事は『個々の事物としてではなく、プラトンのイデアとして対象を認識すること、すなわち、その種(類)の事物すべてが持つ不変の形として、対象を認識すること』であると述べている。/フェルメールの絵画は『その種(類)の状況すべてが持つ不変の形』であるという点でこの条件を満たしている。」(69頁)

Michelangeloミケランジェロについては、未完の作と完成作を数例対比させながら、未完であるが故に喚起される「想像力」について言及しています。

「ミケランジェロは作品をノン・フィニート(未完成)にしておくことによって鑑賞者の想像をかきたて、作品を見た鑑賞者が、それぞれの脳の中にある多くの概念、すなわち蓄積されている表象を当てはめることができるようにしたのである。簡単に言えば、これらの未完成の作品にも曖昧さ、したがって恒常性が認められるのである。」(85頁)

すなわち、これらの作品の持つ性質により、美術に対し「能動的に」鑑賞者がはたらきかける(これはとくに第1章で述べられた「脳による恒常性の追求」を裏打ちする目的があるのでしょう)ということが、まず誰でも直感的に知り得るのだ、と強調することで、次章以降で精密なデータ例を駆使しつつ「美術に対する眼」を検証していくために議論をスタートラインに戻し、かつ詳細にしておく効果を狙って配置されたのが、本章なのです。



さて、音楽においては、フェルメールのような「多義性」は、とくに具象的な標題を与えられない作品すべてに「みられる」ものではありますが、一方で
「あ、これは舞曲のリズムだ」
「おお、これはソナタ形式!」
等々、別の与件があるうえに、それが人の聴覚像にどのような作用をもたらすのかは一概に語りにくく、フェルメールの絵画ほど明確に語り得るものは希少だと言わなければなりません。
また、「未完成」の作品は美術と同次元で論じることは出来ません。私たちは、聴くという立場では厳密には音楽を「未完成のもの」として捉えることはありません(「未完成交響曲」は完成した2楽章の作品として聴かれ、「フーガの技法」の絶筆部分での中断は、未完による中断であるにも関わらず、「ここまでで完成しないで<終えた>のだ」という聴き方をしているはずです)。それは、美術作品の9割9分には不必要な与件である「時程」が、音楽では必須の条件であり、時間の到来がある種の<完結感>を私たちにもたらすためではなかろうか、と私には思われるのですが、「科学的に」裏付け得ることではありません。
ですから、形式を認識されやすい音楽をフェルメールと対比することは出来ませんし、「草稿が未完成だった」音楽作品をミケランジェロと対比することも出来ません。

それでも、音楽における「多義性」は、絵画に描かれた像の「視線や表情の曖昧さ」と同様のシステムでは生まれてはいないこと、「未完」を感じる場合には美術に対応する形態は「未完の楽譜」という書かれたものではないこと、が、明らかでしょう。

後者については、むしろ、いちばん単純な例で言うと、教科書で言うところの「カデンツ(終止形)」(最も知られているのは、小学校で全員が一致してお辞儀をするときに合図として鳴らされるピアノのミソド-レソシ-ミソド)、あるいはそれを類推させる響きで終わる(これは伝統音楽モノフォニーでも洋楽風の和音付けをすると同じ結果になることが圧倒的に多いのが面白いところですけれど、立ち入りません)のでなければ、<音楽が中に浮いたままになる>ような感じを私たちに与えるため、そういう作品との対比が有効であるかと考えます。
すなわち、属和音のまま曲を閉じる音楽に、私たちは、たとえば古代遺跡から発見された首の無いトルソと同じような「完結されていない」美を感じる。

・マーラー「大地の歌」終曲のエンディング

ジュセッペ・シノポリ/イリス・ヴェルミヨン(アルト)/シュターツカペレ・ドレスデン
Deutsche Grammophone UCCG-5056

前者については、無標題(「舞曲」の種類名を含む)のものであっても、慣習となっているリズムや節回しの影響を受けるために「多義性」が制約されるケースが意外に多いかも知れません。

ところが、仮に「舞曲の種類名」がついていても、「多義的」に感じることの出来る作品は、存在します。バロック期にとくに多作されることになる無伴奏(鍵盤楽器による和声付けなどが施されない、また当然歌詞を伴わないことにより特定の意味付けがされない、単独楽器による)器楽曲に、そうした例を見ることが出来るでしょう。
J.S.バッハの「無伴奏」作品群が、その中では最も有名、かつ現在でもよく聴かれる例でしょうか。
フルートやチェロにもありますが、ここではヴァイオリンのものを聴いて頂きましょう。

・無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番から、アルマンド(主部とドゥーブル)

スザンネ(スザーネ)・ラウテンバッハー(Vn.) UNIQUE SVBX 526

まず、この楽章には「アルマンド」という舞曲の標題が付いており、主部はその舞曲のリズムを採用しており、ヴァイオリンに可能な限りの和声付けもなされ、「多義性」は狭められています。注目したいのはドゥーブルの部分で、同じアルマンドの「続き」でありながら、リズム形も崩れ(規則正しい八分音符の列ではありますが、そうすることによって「アルマンド」としての性質を消し去っています)、和声もなくなり、単旋律となります。このドゥーブル部分がどう聞こえるかは、主部のリズムと和声による「残像」によってのみ規定されることになり、残像が持続しない「耳」にとっては、ドゥーブル部はもはや「アルマンド」としての意味は持たない、別個の楽曲となります。・・・そう聴いてはいけない、という制約は、(本来は)もちろん無いわけです。・・・さて、いかがでしょう、この「アルマンド」、主部とドゥーブル(和声もリズム特徴も廃棄された部分)は、一連の音楽として聞こえますか? 別々に聞こえますか? 一連のものとして聞こえるとすれば、なぜつながりを感じるのでしょう? 別個に聞こえるのなら、なにがこの二つの部分を分けるのでしょう?

答えは、私も見出していません。一端保留としておきましょう。



それでも、今回は美術と音楽の「差異」を検討する上で、ひとつ大きな条件の違いが明らかになりました。
よくよく考えれば、結局は前章で推測したことの延長なのですが、音楽(ないしは聴覚像全般)においては「時程」の支配を考慮しなければならず、それが(ゼキの立脚点にこだわるならば)ただ経過するものとしてしか認知されないのか、残存する記憶に影響される機構が存在するのか、というあたりに、ゼキが見出した以外の「脳のはたらき」が関与している可能性が高確率であると推測される、ということです。

聴覚像には聴覚像の、やはり別の個性があるのでしょうか?
視覚像と一体化することは、経験としてはあるように、誰しも感じていると信じますが、聴覚像が視覚像とは別のものとして捉えざるを得ないのでしたら、この二つはどう連繋し、あるいはどう分離しているのか、ということも、問うていかなければなりません。

私は「わからないことは何か」を呈示するばかりで、一向に「何か具体的な結論めいたもの」が出てこず、またもや半端に終わったかも知れませんが・・・この先もご一緒に考えて頂けるようでしたら幸いです。


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2008年9月27日 (土)

音楽美の認知(3)「音楽」は耳のみでは聴かれていない

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ゼキ『脳は美をいかに感じるか』第3章「眼で見ると言う神話」を音、音楽に対応させるのは、非常に困難な問題です。
ゼキの本章での焦点は、視覚像はそれを網膜から受け取る脳の領野(一次視覚野、彼はこれを仮にV1と呼んでいます)によってのみ決定づけられていない、ということに当てられています。
V1の欠損により、直接的な網膜像は、まず全体として(ただし「そのときに注意を向けているものを中心とした歪曲された像」として)脳により把握される。V1の欠損が大きければ大きいほど、視覚像が知覚されなくなる範囲も大きくなる。
ところが一方で、V1が欠損していない「視覚障害者」でも、V1によって捉えられた視覚像が全体としては知覚できても、それがなんであるかが分からない(質感が欠損している)という症例もある。
これは、全体像が存在しなくても、知覚される限りにおいて、視覚は「見たものの形状・色彩・質感・・・等々」を把握可能であるし、逆に全体像が存在しても形状・色彩・質感・・・等々が把握できないこともあり得る。
すなわち、人間はV1に直結する「眼」によってのみモノを見ているのではない。
「脳は視覚世界の知識を探求する過程で、捨て、選択し、選択した情報を蓄積されている記憶と比較することにより、脳の中に視覚像を生み出す。」(58頁)
この過程は芸術家の行なっていることと非常ににているのだ、とゼキはいうのです。
以降の章で、ゼキはさまざまな症例を駆使して、脳のこのような働きを私たちの前に「見せて」くれることになります。


4988065034252ゼキの論は、(脳が全てである、との立場に仮に立っておけば)聴覚についてもそのまま援用できそうです。すなわち、脳は聴覚世界の知識を探求する過程で、捨て、選択し、選択した情報を蓄積されている記憶と比較することによって、脳の中に音像=聴覚像を生み出している
音像=聴覚像とはすなわち、音の高さであり、強弱であり、質(言語か・ノイズか・有機的な音か・無機的な音か、など)であり、時程(持続する長さや、捉え得る間隔)であろうかと思います。
一方で、聴覚障害においては、その一部欠損、というかたちでは症例や実験データが揃えられているわけではないように思います。難聴は音の強弱(音圧レベル)によって区分されているだけであり、特殊な「伝説例」を除き、聴覚像の欠損はこの一面以外から観察されていることはありません。
「伝説例」というのは、ベートーヴェンは<ピアノの音だけは聞こえた>なる話が代表的なもので(鉄の棒をくわえなくても、です)、
「確かに、そういう型の<難聴>もあり得る」
という見解が、聴覚障害の書物に記されているのを垣間見はしました。これは、聴覚像においても「質感」は保持されている欠損、というものがあり得ることを示しています。ところが、聴覚障害における臨床は、諸外国は分かりませんが、日本国内においては次のようである、という実態があります。
すなわち、聴覚障害者は「言語を受容し・発する」機能を持たないことにより擬似的に精神病と類似した行動をとりがちであり、手話による自由なコミュニケーションを獲得すれば、彼らの心理的な障害が取り払われることが多くのケースで明らかである。つまり、聴覚障害者が、聴覚に障害を持つということ以外には全くの健常者であるということがもっと明確にならなければならない、というところに、いまのところ主要な臨床報告が留まっている段階です・・・確かに、まずこのことは社会的に急務でもあり、臨床例が心理ケアに重点を置かれていることは現時点ではやむを得ない、いや、最も大事にされなければならないことでしょうから、これ以上先に進むためには、まずこうした聴覚障害者の臨床例がより多くの人に知られ、常識となって行くことが急がれるのです(村瀬嘉代子 編『聴覚障害者の心理臨床』日本評論社 1999年 など)。
したがって、聴覚に関しては、まだまだゼキがまとめ得たほどの体系で脳の詳細を論じるには、客観的な材料が揃えにくい、というのが現状であろうかと思われます。

ただ、少なくとも、ベートーヴェンのような「症例」が<伝説で>ではなく実際に存在するのかどうか、等の解明も進められれば、聴覚障害に対するフォローも視覚障害と同様のきめ細やかさが得られるようになって行くものと思われ、社会的環境が聴覚像の詳細にもより詳しく客観的な把握が進められる日が来ることを待ち望む思いです。



とはいえ、ベートーヴェン同様の例(質感の判別は可能)があるのではないか、ということのほかに、音高に対応する脳の聴覚野は周波数帯ごとにきれいに別れていることは判明していますから、その一部欠損の症例は、おそらく専門家の中にはご存知の方もいらっしゃるはずで、そうした情報も是非知りたいところです。コミュニケーション手段を獲得しさえすれば、聴覚障害者は「聴覚像の一部ないし全部欠損」がある以外には健常者であることも、臨床報告をまとめたかたがたの努力で判明しているわけですから、彼らの巧みな手話のリズミカルで美しいのを見ていますと、時程(リズム)に対応する知覚領域は聴覚脳との連携はとってはいても、本来独立して存在するであろうことは、素人なりに推測することが出来ます。
つまり、聴覚においても、聴覚像の要素となされている音高、音圧、質感、時程感は、ゼキのまとめた視覚像の諸要素と相似しているのは、現段階でも明らかである、と断言しても良いのでしょう。


問題は、それら聴覚像を脳がどのように捨て、選択し、選択した情報を蓄積されている記憶と比較するのか、その機構については、繊細な症例が分からない以上、ゼキのように整斉と論を進めるのは困難ではないか、と思われるところにあります。

音楽の認知ということに関しては、とりあえず健聴者(補聴器で聞こえる軽度な聴覚障害者も含む)だけを前提におかなければ、もはや語れないのだろうか、ということには、この先、不安を覚えております。・・・本来は、「質感だけは分かる」・「時程だけは把握できる」等々の症例を考慮しなければ、ゼキにはその著書の最初で既に述べることの出来た「美術の定義」にあたるものが、最終的には得られないままに終わるであろうからです。
そのあたりは、引き続き資料を探すなどの努力をしていきたいと思っております。

どうも、この考察は歯切れの悪い進行をしていますので、読んで下さるかたには、ただ申し訳ない限りです。

くどくなりますが、健聴者だけを対象に聴覚像の例を掲げるしかないので・・・
日本の作曲家に、コンピュータを駆使して、かのジョン・ケージの世界からはずっと先を行っている面白い方がいらっしゃいます。全編を掲げると長くなり過ぎますし、容量の問題もあるので、冒頭からこの人の作品をモノラル化して抜粋しますが・・・これが果たしてどのような「音楽」に聞こえるか、それはお聴きになるあなたの中に蓄積されたどんな経験をもって「音楽」たりえるのか、あるいは音楽足り得ないのか、を、最後にお考え頂ければ(なおかつ、できましたらお感じになり、お考えになったことの一片だけでも構いません、私にもお教え頂ければ)大変ありがたく存じます。

・三輪眞弘:2台のピアノと1人のピアニストのための「東の唄」冒頭部から

 1人のピアニスト、とは高橋アキさんを指します。彼女の委嘱作品です。fontec FOCD3425
・・・このCDの最後で、三輪氏自身の曲についての解説が「語られている」のが非常に面白く、そちらも興味深く聞きました。


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2008年9月24日 (水)

音楽美の認知(2)「音楽」は定義し得るか(脳神経的に!)

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・Ave verum corps



音楽がどのように「認知」されるか、について考える目的を確認しておきますが、非常にバカバカしい理由から、ではあります。

・はたして、<ビジネス>として成り立つ「音楽」とはどんな特徴をもつのか

・では、<ビジネス>として成り立たない音楽というものもあるのか

・上記2つのそれぞれの(陳腐に言ってみれば)資産価値とは何か?

・そもそも「音楽」とは価値あるものとして定義し得るのか

そうしたことを確認するほんの一端に過ぎません。そこを見失わないで、自分も考えていかなければならないことを常に肝に銘じながら、とりあえずゼキ博士『脳は美をいかに感じるか』の筋立てに沿って、その美術に対する脳神経システムからのアプローチが、どの程度音楽にも共通するのか、あるいは共通しないのかを、長々と見ていくわけです。・・・予想通りなのですが、前提を述べてみた初回から、あまり人様に読んでいただける代物になっておりません。(こんなマイナーブログにも関わらず、音符の初歩や曲の素人解析をした記事は、あいかわらず日に100件以上は読んで頂けているので、一般の人が『音楽」に何を求めているか、は傾向的には感じるものがありますし、今試みようとしていることが、一般的なことからいかに外れているかも了解は出来るつもりです。)

で、読んで下さる方、気が狂ったかとお思いになるかもしれませんが、しばらくお付き合い下さい。21回考えた後は、「音楽市場」とか「演奏者の道具と規模」の経済性(必ずしも流通に乗る、ということだけについてみていくつもりではありませんが)に話が戻っていきますし、そっちの方が身近で面白いはずですけれど、今の考察はそこに至る前提としてはやっておかなければなりません。



さて、ゼキの<第2章 本質的なものを求めて----美術からのアプローチ>に相当することを音楽に援用できるかどうか、が、今回のお題です。

ゼキは、本章を「美術家側は<美の本質>をどのように考えているか」を出発点に・・・すなわち、第1章の立場を反転させたときにどうなるかを見ています。従って、まだ序論の延長であり、ここにも臨床例は登場しません。
しかし、仔細に読んでみると、果たして、ゼキは本当に<脳科学者側ではなく美術家側から>という、第1章と逆のアプローチで言葉を選んでいるのか、には疑問の余地があります。
彼は最初から、
「美術は視覚脳の延長」(34頁)
である、との価値観に、言葉を悪くして言えば、「固執」しています。
彼によれば、包括的な<美術の定義>とは、
「物体、表面、顔、状況などの不変かつ永続的、本質的かつ恒久的な特徴を表現し、カンバス上に表現された特定の物体、表面、顔、状況についての知識を与えるだけではなく、そこからその他の多くのものに一般化できる知識、すなわち広い範囲に及ぶカテゴリーの物体や顔についての知識を与えること」(37頁)
であり、これは
「脳の機能と極めてよく似た定義になる」(37頁)
としています。
ここまでゼキが胸を張って「美術の定義=脳の機能」と主張する背景には、次章以降彼がまとめている豊富な臨床例・データがあるのであって、主張はすでにゼキの心の中では<仮説>ではありません。
世の中の優れた書物と言えど避け得ない例が豊富にありますが、<仮説>からではなく<帰納された結論>から本論に話を進めていく、という点では、ゼキの著書も同様だ、ということが分かります。

ただし、体裁としてこれが美術家・・・実際には美術評論家・・・の次の言葉
「真実の関係を表すには、無数の見かけの真実を犠牲にしなくてはならない」(37-38頁、ある美術評論家のクールベ論からの引用である模様)
を最も中心的な支持意見として採用することで、ゼキは自身の「結論」を補強するものだと見なしているのだ、という筋立てにしています。とはいえ、これは非良心的な恣意ではないことは、次章以下を見ていけば確信できるとは思っております。



脳の行なっていることは、アメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズが
「絶望的にはかない瞬間の中から永遠を引っつかむ」
と述べていることに符合する、この言葉がまさに、第1章でゼキが強調した「脳の<恒常性の追求>」の働きに一致する、というのです。
また、カントが「美とは完全なものの表象である」とすることも同様だ、としています。

常に変わり続けている世界の中で完全なものを抽象化する、ということが「恒常性の追求」だというわけですが、ではさて、音楽においても同様のことは言えるのでしょうか?

臨床例・実験観察データ無しには語れないことですが、「視覚脳」というものと・・・もし存在するのなら・・・「音楽脳」というものの働きには、完全に一致しないところがあるのではなかろうか、というのが、目下の私の疑問です。
そもそも、「音楽」について、「美術」と似たような定義を行なうことが出来るのか、となると、難しい。
視覚像は、人間の場合には受容器官が「眼球」に限られるので、あるいは少しは「音楽」よりも考察が行ないやすいのではないか? そのことが、症例やデータを通じただけでもゼキに「確信を抱かせるに足る>情報足りえたのではないか?

音楽の受容器官、いえ、まだ「音の受容器官」と、幅を広めにとっておきましょう。
音の最も鋭敏な受容器官は耳であり、内耳からの情報が、少なくとも音の高さにおいては脳のどの領域で認知されているかは判明しているようです。言語と言語以外(研究の素材になっているのは「音楽(どのような定義におけるものかはわかりませんが)」が正反対の領野で認知されている、ということも分かっています(主に失語症の研究から)。
しかし、「音楽」と呼ばれているものには、現代では実に多様なものが含まれていますから、その多様さの中から素材を選択して脳信号を観察しない限り、「音楽脳」なるものが存在するかどうかは証明できないはずですが、おそらく、そうした実験は、まだ一つもなされていないでしょう。

音の受容、あるいは耳に入る音の種類ということに戻りますと、まず、聴覚障害者でも、骨(などの肉体)を通じて音を聴くことが出来ます。ベートーヴェンが耳の聴力を失ってから、ピアノにつけた鉄の棒を口にくわえ、その振動で音を聴きながら作曲した、というエピソードは有名ですし、私自身、聴覚障害者の人たちのためのコンサートに参加して風船を抱いて、その振動で音を聴く経験をしたことは、だいぶ以前に記事にしたことがあります。音の種類は、と言いますと、純音、楽器音のように<濾過>されたものは特異な部類に属しまして、人が出す声(言葉、言葉になっていないもの)、生物が発する音(鳴き声、そうではない音)、その他さまざまな物体が発する音、と雑多であり、これが「光学像」と同様に扱えるのかどうかは、いまのところ明快であるとは言い難いかと思っております(→「色聴」の話)。

後に持ってきてしまいましたが、ゼキは視覚がいかに発達しているかを表現するために、章の始めのほうで、このように述べています。
「私たちはしばしば、絵画の美しさやその表現力を説明する適切な言葉を見つけられない」(35頁)
それゆえ、視覚は言語表現よりも広い範囲をカヴァーできる知覚なのである、と強調しています。
・・・絵画を初めとする美術には、(極端な例を除いて)「言語」そのものが含まれていないことには留意して、その上でこう述べられているのだと言うことを銘記しておきましょう。


音楽」は、しかし、先に述べましたように「言葉をも包含する」ものでありながら、美術と同様に
「美しさやその表現力を説明する適切な言葉を見つけられない」
のです。受容器官も「耳」に限られない。
したがって、ゼキの表現が何故「音楽」にも当てはまるように見えるのかについては、ゼキの立脚点では不足しているか、あるいはまったくズレているか、私たちはよくよく考慮しなければいけないでしょう。

再度。

・Ave verum corps


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2008年9月22日 (月)

音楽美の認知(1)知覚は何を「美」とするのか

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ゼキ『脳は美をいかに感じるか』との対比に、早速取り掛かってみたいと思います。
考える、ということを常に現在進行形で進めて行きますので、回によって前との不整合が生じる場合もあり得ますが、最終的には調整しますので、ご了承下さい。

まずは<第1章 本質的なものを求めて----脳からのアプローチ>に対応する、導入部分についてみていきます。

その前に、下の音楽をお聴きになっておいて下さい。

ショパン「チェロソナタ」作品65からのラルゴ楽章です。



ゼキ氏は、未成熟な学問である神経生理学からの、可能な限りの「美」のアプローチであり、過去に誰も試みたことは無い領域ではありながら、何らかの有益な考察をなし得るとの希望をもって『脳は美をいかに感じるか』を開始しています。そして、全般に、本書は目的を充分に達しているもの、と、敬意をもって接させて頂きたいと思っております。
ゼキ氏の「成功」は、焦点を「美術」に絞り、それを視覚に関連する脳の生理と病理のデータに対応させることに徹した、その方法にあります。
・・・というのが私の感想ですが、実際にどうかは、御興味があってお読みになる方はご自身の印象でお読みになるべきかも知れません。ゼキ氏のアプローチは「科学」が人間の感じ、考える「美」にどこまで接近できるかのアプローチであり、ある意味では、
「ここまで徹底しても、ここまでしかわからない」
ということを如実に示しているのであり、著者自身の結論も、それを強調しているからです。
ゼキ氏のこの態度は、しかし、非常に良心的ではないか、と私自身は思っていることを、くどくなりますが、付け加えておきます。


私はまったくの門外漢でありながら、ゼキ氏のアプローチを規範として、
「では、音楽の場合はどうなのか」
に迫ろうと思っているわけで、身の程知らずもいいところです。学生時代の経験から聴覚についての知識・実験的なアプローチについての知識はまったく無いわけではありませんが、それは既にもう相当古いものでもあり、自分が主体的に行なったものではなく(なんでこんなつまらんことをするのだろう、とばかり思っていました)、現在では専門文献に自由にあたることのできる環境下にありません。
それでも、ゼキ氏の記述から抽出しえると感じ取った有益な情報、あるいは逆に疑問をもたざるを得ない点の拾い出しを元に、出来る限り、音楽(クラシックが中心になるでしょう)について「体が」一般に理解しているであろうものの像を見出していきたいと思っております。


話は戻りますが、今回はゼキ著の第1章<本質的なものを求めて----脳からのアプローチ>が、音楽ならばどう言い換え得るか、あるいは、この章にはまだ臨床例が登場していませんから、ゼキは視覚とは何かの定義のしなおしから始めているのですけれど、それが妥当かどうか、を、ちょっと考えてみたいと思います。

ゼキは、従来の視覚の定義について、従来の研究者たちが下したものがいずれも狭すぎるとし、
「視覚は、この世界についての知識を得ることを可能にするために存在する」(27頁)
というところまで極論しています。
ところが一方で、・・・これは視覚の定義とは一見したところなんの関連もないように思われてしまうかもしれないのですが、
「画家が好きなように使える『素材』は、脳に見えているものだけである」(26頁)
と述べています。
これはゼキの視覚定義と矛盾をきたしまではしませんが、ゼキの視覚定義が「広すぎる」ことを、無自覚的に表明しているのではないかと思われます。すなわち、世界の知識は、視覚だけから得られるのではない!(ゼキの意図からすると、これは皮相な揚げ足取りなのにはお気づきになられるとは思いますが、あえてそう言っておきましょう。)

ゼキの論の優れているところは、彼の専門からして「脳」に特化して話を進めていくにも関わらず、「脳」がすべてか、ということに対して「他のアプローチも可能である」と見なす余地を読者に残しているところで、たとえば前著で採り上げていた音楽家の例から、次のようなワーグナーの言葉を引用しています。

「私の書いたリブレットを理解できるかどうか心配する必要はない。音楽がすべてを完全に明らかにしてくれるからである」(23頁・・・ただし、典拠については私は突き止めていません)



ゼキの限界なのか、はたまた人間が本当に「脳」にすべてを制約されているからなのかは「科学的」には」分かりませんが、ワーグナーのこの例やダ・ヴィンチの例(後者は主体色が背景色によりその知覚される色相に変化をきたす・・・あるいは補色の原理をダ・ヴィンチが1500年には実験的な証明無くして発見しているのに、それが科学によって確認されたのはつい40年前である、ということを強調するために引かれています)を挙げ、これらが、芸術家が神経学の知識無くして既に立派な神経学者であることを示している、と述べています。(23頁)

この記述の是非については、あらかじめこちら側としての見解や仮定を加えることは、無用な先入観を持たないためにも、避けておきましょう。

さて、では、ワーグナーは、先に引用した言葉、そしてそれを「優れた神経学者」としての音楽家と解釈したゼキの見解に値する仕事をしていたのでしょうか?
次の音楽から、私たちは、なにか具象的な情景を思い描くことが出来るでしょうか?(音が古くて恐縮です。クライバー盤を持っているのですが、保管が悪かったために素材として使えませんでした。)

・「トリスタンとイゾルデ」第2幕第1場

フルトヴェングラー/フィルハーモニア管、イゾルデ=フラグスタート
EMI 7243 5 67626 2 6

私は、台本が無くても、舞台や映像で見なくても、この部分は(そして楽劇「トリスタンとイゾルデ」全体が)優れて「私たちの前で具象化する」と感じています。・・・ここにはなお、視覚と聴覚の連動という興味深い問題提起も孕まれているのですが、チャンスがあるまでこの問題には立ち入りません。
ところで、「音楽だけで具象化されたイメージを受容できる」ことには前提がありまして、ヨーロッパでの狩の習慣や、ワーグナーの仮想した中世の貴族階級の居館像をあらかじめ知識(出来れば経験)としてもっていなければなりません。
すなわち、ホルンは「狩」の合図の楽器であり、貴族の居館は立地が丘陵のそばにあり、内部は光に乏しい。
そうした知識があって初めて、ワーグナーの言うことは真になる。
すなわち、この3つだけが了解できていれば、次のような情景が見えてきます。
場面はおそらく夜であって、居館に程近いながら少し距離をおいた森で、松明を灯した貴族や騎士達が狩をしている。そのホルンの遠鳴りが居館に聞こえてくると、歌っている女性は、その旋律からして、狩の一群の中に、おそらくは彼女が強く意識せざるを得ない異性がひとり存在している・・・

すなわち、まったくの前提なくしては、ワーグナーの自信も裏打ちはされない。・・・とはいえ、ワーグナーの念頭にあった聴衆(楽劇の観衆)はヨーロッパ人ですから、そこまで言ってしまうと元も子もないのです。。つまり、ゼキの議論に付き合っていくには、こうした民族固有の習慣は不問に付さなければならない。
そのうえで、ゼキの発言は、ワーグナーの場合とは違って対象の入れ替えは自由に効くわけですから、極めて汎用的な命題となっていることが、ようやく確認できます。
脳と神経、知覚ということに限定すれば、芸術家は理論の考究無くして、既に優れた神経学者である、との見解は、まったく正しいことでしょう。・・・もっとも、ゼキはその前に、彼らは
「本人それを意識することなしに、心について」理解していた、と、「脳・神経」に限定しなくても素直に読み取れる、そしてゼキ自身まず最初に素直に感じたであろうことを、彼のアプローチ上
「<心>ついての理解=脳についての理解」
という等式をあくまで貫く姿勢を崩さないように言葉を補ってではありますけれど、述べています。(23頁)



この命題を置いた上で、ゼキはさらに、なぜそのような優れた「神経学者」が生み出されたのか、を知覚する脳の機能に帰結させています。その機能とは、
「物体の真実の姿を表現することであり、(中略)瞬間瞬間に見える姿を表現することではない」(40 頁)

すなわち、脳は(ゼキの採り上げている美術の範疇では)「恒常性の探求」、すなわち、
「脳に届く常に変化している情報の中から、視覚世界の本質的かつ不変の側面についての情報を抽出するという困難な問題を乗り越えなくてはならない」(41頁)
ことを使命として働き続けている、というのがゼキの最初に呈示し、本書を貫かせている主張です。

では、音楽・・・聴覚は、どうなのでしょうか?

ここで、最初に「聴いておいて下さい」と述べておいた音楽を思い出して下さい。

あの曲は、間違いなく、ショパンの「チェロソナタ」であって、ほかの楽器のためのものではありません。

しかし、実は、上の例では、コントラバスで演奏されています(Hans Roelofsen BRILIANT 92413)。

たとえお聴きになって、
「なんだ、標題が<チェロソナタ>だから、チェロで演奏されているとばかり思っていた」
としても、それはつまらない錯覚の実験の結果に過ぎず、「チェロの曲だからチェロで弾かれている」という固定観念そのものがあっても、それ自体は「恒常性の追求」の問題の表層に過ぎません。

ただ、この例の場合には錯覚していただいていたほうが都合がいいのです(サンプルの性質上、実際にはそんな錯覚をしなかった方のほうが圧倒的に多いのかも知れませんが)。
「チェロはチェロの色合いで」
というのは、まず、生理的にみた脳の働きとしては「恒常性の追求」の最初の一歩であり、
「なあんだ、コントラバスじゃあないか!」
と初めから分かってしまったのでしたら、それはまた「美」・・・といっても、ここではまだ音色の問題にしか限られていないのですが・・・をどう評価することへの入り口に過ぎないのであって、どちらにしても、

「音楽にもまた、ゼキの前提として設けた<脳による恒常性の追求>のはたらきによる「美」の受容の原則は当てはまるとみなして観察をして行くことができる」

と言い得る。

追認に過ぎませんが、これでとりあえず、私はゼキとほぼ同じラインから出発できることが分かったことで、充分な価値があった、と自己満足しておきます。



この章は、受容者側の立場からの「本質」の入り口を示したものでしたが、次章は「創作者」の立場からの「本質」を考察しているものです。そちらでは、美術(絵画)と音楽に何らかの差があるものでしょうか?

またあらためて考えてみましょう。


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2008年9月20日 (土)

音楽美の認知(0):美術との対比のために〜ゼキ『脳は美をいかに感じるか』目次

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41eqzbqtxgl_sl160_aa115_音楽美そのものを生理学から追求した本は、探したけれど見つかりませんでした。
で、前に予告しました通り、セミール・ゼキ『脳は美をいかに感じるか』(日本経済出版社)の各章をヒントに、音という素材、聴覚という知覚をゼキ博士が述べるところの「視覚」と対比することによって、私に可能な限り見て行きたいと思います。・・・ただ、素材が重いので、連続して行なえるかどうかは分かりません。

ゼキ博士の著書には本書に先立って別に『脳のヴィジョン』というのがありまして、そちらにはシェークスピアやベートーヴェン、ヴァーグナーなども取り上げられているようなのですが、未読です。
いずれにせよ、ゼキ氏の言う(あるいは一般的にそう言われているのでしょうか)「視覚脳」と美術の問題に特化したこの著作の方を「聴覚脳と音楽」の問題にどの程度置換可能か、その際考慮すべき相違点は何か、を考えていってみた方が、私のような門外漢にとっては、より具体的な「何か」がつかめるのかもしれない、と夢想しております。・・・結果的には挫折が待っている可能性もあるのですが。



以下に、ゼキ氏の本書『脳は美をいかに感じるか』の目次を掲げ、とりあえず(私には脳という「働き」は最小限のことしか分かりませんから)音楽に置換する場合、どのような素材が考え得るかを併記しておきたいと思います。(音楽側の素材の選択はまだ、とてもやりきれませんので、うめていないところは、あとで加えて行きます。)

ただ、ゼキ氏の著書は視覚脳の働きが「抽象画」と結びつけることの方がはるかに容易であるため、第6章から第20章までは抽象画美術家の作品を取り上げているのですが、音楽で「抽象」と呼ばれている現代作品と美術のそれとには、特に「線・形」(これらはモジュール性を語る場合に重要となるものです)という局面では乖離が見られる気がします。そこで、具象美術とロマン派以前の音楽、抽象美術と印象派以降の音楽、という等式でゼキ氏の議論に音楽の話題を嵌め込むことは妥当ではないと思われます。一見不整合な音楽側の対比試案は、したがって、「私が・そのように対比することのほうが妥当だと・いま現在感じている」ひとつの例に過ぎず、決めきれずにいるものも、曖昧なままのものも多く、実際に考察を始める際には変更が加わる可能性が大であることを、最初におことわりしておきます。


<第一部:脳と美術の役割>
第1章 本質的なものを求めて----脳からのアプローチ
(音)ヴァーグナー「トリスタンとイゾルデ」第2幕抜粋
第2章 本質的なものを求めて----美術からのアプローチ
(音)モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
第3章 「眼で見る」という神話
(音)三輪眞弘「東の唄」
第4章 神経生物学から見たフェルメールとミケランジェロ
(音)J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリンパルティータから他
第5章 プラトンのイデアの神経科学
(音)ワグナー「神々の黄昏」から
第6章 本質的なものを求めて----キュビズムのアプローチ
(音)メシアン「鳥のカタログ」から
第7章 視覚のモジュール性
(音)ウェーベルン「管弦楽のための6つの小品」から
第8章 見ることと理解すること
(音)ベルク「ヴァイオリン協奏曲」第2楽章 他
第9章 視覚美のモジュール性
(音)ブラームス『交響曲第4番」(2台ピアノ版とオーケストラ版)
第10章 プラトンのイデアとヘーゲルの概念の病理学
(音)アイヴズ「答のない質問」

<第二部:受容野の美術>
第11章 受容野
(音)タン・ドゥン作品から
第12章 モンドリアン・マレーヴィチと線の傾きの神経生理学
(音)J.S.バッハ作品から
第13章 モンドリアン、ベン・ニコルソン、マレーヴィチと正方形や長方形の神経生理学
(音)ベートーヴェン第5の第1楽章
第14章 受容野によって生じる知覚の諸問題
(音)J.S.バッハ作品から
第15章 『メタマレーヴィチ』と『メタカンディンスキー』の神経生理学
(音)「地平線のクオリア」
第16章 キネティック・アート
(音)ストラヴィンスキー「花火」

<第三部:美術形式の神経学的検証>
第17章 顔の知覚不全と相貌質人の肖像画
(音)ブーレーズ作品?
第18章 色彩視の生理学
(音)J.S.バッハ「音楽の捧げもの」6声のリチュリカーレのオリジナルとウェーベルン編曲版
第19章 フォーヴィストの脳
(音)ショスタコーヴィチ「交響曲第2番」
第20章 抽象絵画と具象絵画の神経科学
(音)モーツァルト「キラキラ星変奏曲」
第21章 モネの脳
(音)バッハの同一フーガのヴァイオリン、オルガン、リュート版(本人編曲)


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