こういう掛け合いが、器楽同士の中で行われるようになり、それが「コンチェルト」という曲種になったのは、(先駆者はいて・・・合奏協奏曲の創始者はストラデッラだった、というのが通説です)コレルリのおかげです。そして、コレルリが書いたもので、出版されて残ったのは、「コンチェルト・グロッソ 合奏協奏曲」です。 元は歌の役割だった(?)華やかさは、コレルリのコンチェルトの中では、きらきらと現れるソロ(コンチェルティーノと呼ばれています)が果しています。それでもコレルリのコンチェルトの中でのソロは基本的に合奏(リピエーノと呼ばれています)と対等で、かつ独りだけではなかったりするので、私たちがコンチェルトの名前でイメージしがちな、独奏が主役、みたいなところはありません。ジャズのビッグバンドでサックスが、次にはトランペットが、と、スタンドプレイが繰り広げられる感触に似ているところがあります。 もう少し発展的ではありますが、デューク・エリントン “It don’t mean a thing” を聴いてみて下さい。
バッハの管弦楽組曲4作はもちろん、文教大学室内楽の皆さんが演奏した経験のあるフックス(Johann Joseph Fux 1660-1741)のovertureも、テレマン(Georg Philipp Telemann 1681-1767)の「ドン・キホーテ」も、序曲の主部はフーガになっています。舞曲を伴わない、本来的な意味での序曲であるオラトリオ「メサイア」の序曲でも、ヘンデルは同じように主部をフーガに仕立て上げています。
Ouvertureの作例には優雅なものも豊富にあり、探してみたら面白いと思います。
北海沿岸のフリースラント出身で、ドイツ中央部のテューリンゲン方面で宮廷楽長をしていたというエルレバッハ(Philipp Heinrich Erlebach 1657-1714)のト短調のOuvertureは、主部はニートの説明通り3拍子ですが、フーガになってはいません。
I. Ouverture II. Air Entree III. Air Gavotte IV. Air Menuet qui se joue alternativement avec le Trio - Air Trio V. Air La Plainte VI. Air Entree VII. Air Gigue VIII. Chaconne
Shostacovich’s 5th shymphony, to me, it’s a mirror which represents the life and the era in which he lived. He was the messenger. And I think his music is a hymnal to all of us who lived, survived and passed on. (Zoya Leybinさん・・・団員さんからのこういう語りかけがあるのが、本シリーズの素敵な特徴です。)
The music’s purpose is to reach you. Inevitably, it will mean different thing to different people. (略) What’s left with you when the last note is played? In the end, the choice is yours. (Michael Tilson Tomas from “Keeping Score” series,Shostakovich Symphony no.5)
『四季』はたいへんなロングセラー作品ですが、同じトップセラーの「『メサイア』やモーツァルトの『レクイエム』、ベートーヴェンの第九(これらは作曲者の自筆譜が残っています)と違って、原典資料がほとんどない」、と、高名な学者で優れた音楽家だった故クリストファー・ホグウッドが述べています。 『四季』はヴィヴァルディの自筆譜が発見されておらず、20世紀になって出版されるようになったスコア(全部のパートが書いてある楽譜)は、どれも、1725年に印刷されたパート譜(Le Cène ル・セーヌによる)を元にして作られたものです。幸いにして、このパート譜は現在ネットでダウンロードできます[IMSLP http://imslp.org/wiki/Il_cimento_dell%27armonia_e_dell%27inventione,_Op.8_(Vivaldi,_Antonio) ]。 このパート譜には、現在私たちが手に入れることのできる現代版総譜に書き込まれているコメントが既に全部入っています。 コメント、というのは、たとえば「春」の第2楽章でのヴィオラに “Il Cane che grida”(吠えている犬)とあり、ヴァイオリンのソロに “Il Capraro che dorme” (まどろんでいるヤギ飼い~羊飼いじゃないんだわ!)とあったりするように、「春」に付随するソネット・・・おそらくあとから作られたのでしょう・・・の、前回引いた翻訳だと11行目の「忠実な番犬をかたわらに、羊飼いはまどろむ」が音楽の中ではこのヴィオラとヴァイオリンで表わされているのが分かる仕掛けになっています。伴奏のヴァイオリンは「草木のやさしいささやき」になるわけで、これも “Mormorio di Frondi, e piante” と、ちゃんとコメントされています。
こうした情景的なコメントの他に、演奏の仕方に関わるものが稀に出て来ます。 中でも「夏」の第1楽章のヴァイオリンソロ(31小節目)にある “tutto sopra il Canto” は大変重要なものです。
この箇所、(鳥の)カッコウがけたたましく鳴くさまを描写しているのですが、日本語版の全音のスコアを見ると、“tutto sopra il Canto”はカッコウの歌を指すかのように読めてしまいます。たしかにCantoはイタリア語では「歌」を表わす語彙です。 ところが、37小節目まで進むと、今度はヴァイオリンソロのところに “sopra il Cantino” というコメントが、あらためて入ります。これはいったい、前のコメントとの兼ね合いを、どう理解したら良いのでしょう? 「Cantinoの上で」?。 辞典を引くと(イタリア語のね!)、Cantinoは弦楽器の第1弦を表わす語彙です。してみると、“sopra il Cantino”は「第1弦で弾く」、すなわち、ヴァイオリンならばE線で弾く、ということになります。その前の“tutto sopra il Canto”が有効な場所(31~36小節は、したがって、E線では弾かないわけです。すると、Cantoは、奏法の観点から書かれたコメントだとすると、どうやら「歌」を表わすものではない。 ベーレンライター版スコアでは、“tutto sopra il Canto” は ”all on the A string” と英訳されています。これが正解です。31~36小節は2番線で弾くわけです。残念ながら、日本版スコアでは、このように弾く旨のコメント訳はついていません。
このメロディ、ミサ曲の作者デュファイが、以前作ったシャンソンなのです。 このシャンソンの最初の歌詞が「私の顔が蒼いのは Se la face ay pale 」で、このメロディが「キリエ」だけでなく、ミサ曲のすべての章のテノールで使われているために、このミサ曲もまた ”Se la face ay pale” の名で呼ばれています。 聖なる音楽を形作るのに、大切な素材として、世俗的なシャンソンのメロディを使っているわけです。
「(歌い方について原譜に記された指示句Canonは)キリエ、サンクトゥス、アニュス・デイでは<テノールは2倍に拡大せよ Tenor crescit in duplo >、グロリアとクレドでは<テノールは3回歌え、1回目はどの音符も3倍に拡大せよ、2回目は2倍に、3回目はそのままで歌え。 Tenor ter dicitur. Primo quaelibet figura crescit in triplo, secundo in duplo, tertio utjacet.>となっている。」 (アルファベットで記した方の言語は、ラテン語ですね。) 先の「キリエ」は、デュファイのこの指示により、テノールは元のシャンソンの2倍に引き延ばされているわけです。それが、こう聞こえる。(楽譜を順次表示するものを埋め込んでおきます。)
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