「いま」を聴く

2015年1月12日 (月)

という夢をみた。〜三輪眞弘(「いま」を聴く〜ありえたかもしれない音楽)

さあ、面白いから次は三輪さんだ、と思っていたのでしたが、いざとなったら、どう取りかかっていいものか、とても難しかったのでした。

・・・う~ん、三輪さんの作品を「面白い」と思うかそうでないか、が、『現代音楽』を標榜する響きを「面白い」と思えるかそうでないか、の、分かれ道のひとつにはなる気がします。全部、ではないのですけれどね。

著述にみる三輪さんのお話は、音楽にとって根源的なことで、読んでいると強い共感を覚えます。けれど、次のように引用してみると、どうでしょう? 読み取れるまでに少し時間がかかってしまうと感じませんか?

音楽とは、才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか? その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を超えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか? もし、音楽がそのようなものでないのなら、J.S.バッハの音楽などに感動できるはずもないし、現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。(『三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八-二〇一〇』p.156 アルテス)

引用した文章の読み取りにくさは、三輪さんが周到に言葉を選んでいるために起こっているのであって、読み取れてみると趣旨はわりと明快です。作品も同性格で、この明快さまで聴き手の耳が素直にたどり着けるかどうか、が、三輪眞弘作品の受け止め方を決めるように思います。

Zap2_g5694073w 音楽に対する考え方の他に三輪さん自身による作品解説を集めた『三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八-二〇一〇』によりますと、三輪さんは21世紀にはいって「逆シュミレーション音楽」というのを編み出しています。

「逆シュミレーション音楽は地球上の古代人や未開民族が行なっていたかもしれない、あるいは行なうことが可能であったような音楽(これを『ありえたかもしれない音楽』と呼ぶ)を空想し、主にコンピュータ・シュミレーションによって検証しながら新しい音楽を生み出す試みである。」p.73

というもので、たとえばCDで聴ける「村松ギヤ」ですと次のような由緒が「逆シュミレーション」として生み出されています。

《村松ギヤ》は、明治中期まで北海道北東部一帯に居住していたと伝えられるロシア系先住民ギヤック族によって行なわれていた祭事と言われ、幕末期に北海道(当時の蝦夷地)で先住民族の現地調査を行なっていた松前藩の村松勇作(幼名、勇太)の報告によって現在に伝えられている奇習である。
・・・大幅略・・・
一見、多数の女性(この儀礼では男に対して三・四倍)の間を蝶が舞うように渡り歩く少数の男性の動きは、現代人にとってあるいは非道徳的で面白おかしくも見えるが、それは厳しい大自然に生きる少数民族の日常、部族間の抗争はもとより、後の大和民族の侵略まで続く、村の恒常的な男性不足という民族の過酷な歴史を物語るものだという。

という夢をみた。

(p.89〜91)

実演の一例です。〜別途CD収録例は下記のリストをご覧下さい。
京風 村松ギヤ

http://youtu.be/Wj4q03pXWMs

どうでしょうか?

さて、私のような傍流リスナーはCDとYouTubeしかその試みを拝聴できません。
で、CDですと今手に入るのは次のような作品群です。Zap2_g5694077w

・村松ギヤ(春の祭典) FOCD2573
 弦楽のための、369 B氏へのオマージュ
 逆シュミレーション音楽「村松ギヤ(春の祭典)」広島風
 オーケストラのための、村松ギヤ・エンジンによるボレロ

・復刻 三輪眞弘 「赤ずきんちゃん伴奏器」「東の唄」 FOCD9570/1(2枚組)
 赤ずきんちゃん伴奏器
 ディデュランプ
 夢のガラクタ市ー前奏曲とリート
 歌えよ、そしてパチャママに祈れ—ボリビアの歌に寄せるふたつの物語
 ・・・
 2台のピアノと1人のピアニストのための「東の唄」
 ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのための「私の好きなコルトレーンのもの」
 ピアノ・アンサンブルとコンピュータのための[東のクリステ]
 カウントダウン
 「東の唄」徹底解説

http://tower.jp/artist/285554/三輪眞弘

私は三輪眞弘作品として初めて出会った「東の唄」が大変気に入ったのでした。
いまは「赤ずきんちゃん伴奏器」がわりと好きです。

「赤ずきんちゃん伴奏器」は、歌手の声の高さや強弱を読み取ったコンピュータが歌を自動的にピアノ伴奏する、という作品なのですが、この伴奏がどこかヘテロフォニックで日本人としては馴染みやすい響きで、音楽の根源にちょこっと思いを馳せさせてくれる楽しさがあるように感じるのですが・・・こういうのが後年の三輪さんの「逆シュミレーション音楽」につながったのかどうかは定かではありません。

さて、三輪眞弘さんのピアノ作品が、細川俊夫さんのピアノ作品とともに、この1月25日(日)に大井浩明さんのPOCで演奏されます。どうぞお出かけ下さい。

【ポック[POC]#20】~細川俊夫/三輪眞弘全ピアノ曲
2015年1月25日(日)18時開演(17時半開場)
両国門天ホール (130-0026 東京都墨田区両国1-3-9 ムラサワビル1-1階)
JR総武線「両国」駅西口から徒歩5分、大江戸線「両国」駅A4・A5出口から徒歩10分
3000円(全自由席)

http://ooipiano.exblog.jp/22321199/

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2014年12月27日 (土)

「ベートーヴェンの8つの交響曲による小交響曲」(「いま」を聴く〜古典を入口とする場合)

クラシック音楽ファンはどうしても「1945年以前」の呪縛から抜け出せませんよね。

売り場を飾るCDやDVDは、アーティストこそだんだんに新しい人は加わりますが、作品は、オーケストラものだとモーツァルト、ベートーヴェン・・・ブルックナー、マーラー、という感じ。
「ショスタコーヴィチはもっとあとの年代ではないか」
と言われるかもしれませんが、いまだにいちばんよく聴かれる交響曲第5番は1937年の作品ですし、彼の交響曲は第9番までが1945年以前作です。

そのうえ、交響曲と名付けられるこの曲種じたい、学者さん評論家さんたちが揃って
「20世紀で終焉を迎えたか、役割を終えつつある」
と述べている類いのものになりました。(*)

室内楽やピアノ音楽、声楽のファンだと事情は異なってきますけれど、オーケストラ音楽ファンは、学者さんや評論家さんがなんと言おうと、どうしても「交響曲」と名がつくものに食指が伸びます。

「現代音楽」作家にも「交響曲」はないのか。
これまた、交響曲がお好きな方はご存知の通り、無くはありません。
新しいものは新しいものなりに高く評価なさっている方も少なくないかと思います。

ですが、いまは、新しいものにはどうしてもまだ、と思っているかたのほうを前提にしますし、何を隠そう私自身にその気が無いとも言えませんので、ちょっと毛色の違うものを採り上げてご紹介します。

19世紀の交響曲作家・作品を取り入れた新作交響曲に、ヴォルフガング・リーム(1952年生)Symphonie “Nähe fern”というのがあります。全曲は2012年初演、CDは2013年に出ています。バリトン独唱の入った短い第2楽章(リームの旧作の、やはりブラームスの引用をふんだんに行なったものに基づく・・・Amazonの内容紹介文も参照)の他は、近過去、とでも言うのでしょうか、ブラームスの4つの交響曲からのモチーフをちりばめて独自に仕上げてあるので、ブラームス作品に馴染んだ人には面白く聴けるかもしれません。オーケストレーションも美しいと思います。(http://www.amazon.co.jp/dp/B00A6U5BL2

いやあ、やっぱりどうもこんな、(ロマン派好きとしては)馴染めない響きでブラームス像が歪められるのはなぁ、とお考えになるようでしたら、20世紀前衛の中でも大家と言われていた一人、ルチアーノ・ベリオ(1925〜2003)による、シューベルト未完作の、わりと素直な編作(1990)をお聴きになってみるのもいいでしょう。

ニ長調交響曲(D936a)は、シューベルトが1828年に手がけ始めたものの、彼がこの年のうちに亡くなってしまったため完成に至らなかったものだそうですが、どの程度まで書かれていたのかは私のような素人の手元資料では分かりません。補筆版はたとえばブライアン・ニューボールト(Brian Newbould)という人が第3楽章までを仕上げ、ネヴィル・マリナー指揮Academy of St Martin in the Fieldsが第10番として録音したものが出ていたりします(マッケラス指揮でも出ている由)。

ベリオの編作も同じ第3楽章までのものです。
が、ベリオの面目躍如なのは、各楽章の、おそらくシューベルトが書き上げられなかった部分に対する処理方法です。そうした箇所になると、とたんにオーケストレーションを近代的にし(チェレスタが入ったりする)、音模様ももやもやとぼかして、聴き手に
「ここはね〜、残念だけど、シューベルトの原稿には無いんだよ〜。だから夢で聴いてちょうだい」
と、やんわり伝えてくれるのです(この言い方であっているのかどうか知りませんけど)。シューベルトの未完部分の規模がどうやって推測されたのかは分かりませんが、ベリオがそういうぼかしを施している箇所は楽章の冒頭部だったり(第2楽章)、再現部にあたるはずなのになぜか復元されていなかったり(第1楽章)、で、長短様々です。あるいは個別パートを細かく追いかけていくとパートの中もぼかしが聞き取れたりするかもしれません。(http://www.amazon.co.jp/dp/B0009JAENK/ リンクしたシャイーの指揮によるCDはベリオのOrchestral Transcriptionsの集成ですので、他にパーセル、バッハ、ボッケリーニ、ブラームス作品にベリオが施した音響【すでに聞こえていたもの、ベリオが編作の過程で内的に聴いたもの】を味わうことが出来ます。)

ちょっとベリオが長くなっちゃいましたが、「未完成部分は整った美しさで補完しなければならない」みたいな従来の補作の考え方へのアンチテーゼであるところに「いま」らしさがあります。補完姿勢は従来のものが現状も(例としては古めですがモーツァルト「レクイエム」のバイヤー版などのように)踏襲されているのが一般的ですから、ベリオの見せている「いま」は、むしろ音楽創作の全般に現れている思潮の色合いが濃いと見るべきでしょう。
ベリオによるこのSchubertのrendering for orchestraはYouTubeにいくつか演奏例がアップされていますので、ひとつ埋め込んでおきましょう。

Aldo Ceccato/Orquesta Sinfónica de Radiotelevisión Española  1995
37分19秒

http://youtu.be/gzAj5wm2c6E

いやいや、編作ではなくて、やっぱり「古典」を活かした新作がいいんだ! ただ出来ればリームみたいに重たいのじゃないほうがありがたい! という場合。
とどめの逸品が日本人の作にあります。

2007年にいずみシンフォニエッタが「第九」をやるとき、その序曲に出来るような新作を、というので西村朗氏に委嘱し、出来上がったのが、ユニークで楽しい、
「ベートーヴェンの8つの交響曲による小交響曲」
でした。
日本人のベートーヴェン交響曲好きの急所をよく突いた明るい浪花のおっさんの音楽になっています。
タイトルから分かる通り、この小交響曲は、第九を除くベートーヴェンの8つの交響曲、そのすべてからモチーフを引用した4つの楽章から成り立っています。第九の前座だから第九は入らない、というだけでも、委嘱の意図を充分汲み取り、聴きにくるだろうお客さんのニーズにも応えた、心憎いまでのマーケティングを施してあります。
この先がしかし、創作として凄みがあります。
第1楽章には、ベートーヴェンの8つの交響曲の、各第1楽章からしかモチーフがとられていません。
第2楽章には、同じく各第2楽章からしかモチーフがとられていません。
第3楽章、第4楽章またしかりです(「田園」第5楽章のモチーフは第4楽章にはめ込んであります)。
さらに心憎いことに、第3楽章と第4楽章は切れ目無く続けて演奏されます。・・・ベートーヴェンが第5、第6で打ち立てた創作方法を踏襲してみせているわけです。
こんだけふんだんに、しかも適所にベートーヴェンからのモチーフ・方法を配置していながら、出来上がった音楽の構成がまったくユニークになっている。しかも演奏時間11分程度。
この密度の濃さが作品を聴きやすく親しみやすくもしながら
「ああ、なんだか昔聴いたはずなのに新しい!」
という奇妙な満足感を聴き手にもたらしてくれます。個人的にはリームを凌駕してるんじゃないかなとヨイショしたい気持ちでいっぱいであります。
ここまであげてきた中で、いち押しです。
日本のベートーヴェン交響曲フェチなら必聴です。
音を載せられないのが残念!

「いずみシンフォニエッタ大阪 プレイズ 西村朗 沈黙の声(西村朗 作品集 17)」
http://www.camerata.co.jp/music/detail.php?serial=CMCD-28290
http://www.amazon.co.jp/dp/B00GA7GJ20

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* 交響曲の変遷史は大崎滋生さんが精力的で大いに賛美されるべき「文化としてのシンフォニー」シリーズで捉え続け、最近とうとう『20世紀のシンフォニー』で実質の完結を迎えたのではないかと思います。 http://www.amazon.co.jp/dp/4582219667/ これには当然1945年以後の交響曲もたくさん登場するのですが・・・)

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2014年12月20日 (土)

「ためらいのタンゴ」タンゴ・コレクション(「いま」を聴く・・・最初の1枚)

「いわゆる現代音楽ってやつをCDで聴いてみたいんだが、とっつきにくくて・・・」

と、ためらいがおありだったら、最初の1枚にはこれをオススメします。
無心に楽しめるCDです。
とくべつ現代音楽のCDというものではありません。

高橋アキさんのピアノ演奏による51suwlmbal_sx355__2
「ためらいのタンゴ」タンゴ・コレクション1890-2005
 カメラータ CMCD-28105
 http://www.camerata.co.jp/music/detail.php?id=57
 Amazon:http://www.amazon.co.jp/dp/B000E9816C/
 *ダウンロード販売は残念ながら見つけられませんでした。
  とってもいい企画なので、もしダウンロード販売されていないのなら惜しい!

現代音楽の素晴らしいピアニストとして有名な高橋アキさん(http://www.aki-takahashi.net)ですが、繰り返しますけれど、これは特段、現代音楽のCDというものではありません。

いま高橋アキさんがコツコツと録音を積み重ねているのはシューベルトのソナタで、最新の第4弾がこの11月25日に発売になったところです(http://www.amazon.co.jp/dp/B00PG3UO2U/)。
人間が弾けるとはとても思えないリズムも、高橋アキさんは超人的な感覚で明確にこなしてしまうのですが、これまた素敵で自然な歌心があって、シューベルトなんかほんとにピッタリなかたなんですよね。

技術だけの人でも歌心だけの人でもない高橋アキさんならではの、異色のセレクションが、このアルバム「ためらいのタンゴ」です。

何が異色か。

・サブタイトルに「1890-2005」とあるとおり、年代の異なる20曲のタンゴがこのアルバムには集められています。・・・115年も年代の幅のある選曲がされることがまず、そうあることではありませんよね。

・でも決定的にユニークなのは、これらの並べられ方です。最初が19世紀末のアルベニスから始まって、順々に新しいものになっていき、10曲目に最新の2005年作が置かれていて、そこをピークに今度は創作年を遡っていって、20曲目は1904年のサティの作品で終わります。・・・順番に聴いていくと、音楽の合わせ鏡を眺められるのです。

気に入った1曲を抜き出して聴いても楽しいです。
そうして曲に馴染んでおいて、時間が許すときにいちどはこのアルバムを最初から通して聴いてみて下さい。
ちょうど真ん中あたり、折り返し点に、日本の「いま」の作曲家さんたちの手がけたタンゴが集中して現れますけれど、通して聴くと、この「いま」のタンゴたちが自然にスウッと、耳に受け入れられている。そんな自分に、ある瞬間ふと気づくはずです。

素材が「タンゴ」と規定されているので、ごくごく一部を除いては「おお前衛!」の印象がありません。そのおかげで「とっつきやすい」んですよね。

まあ細かいことは言いません(って、ここまででも充分細かいか!)、よろしければ、まずこれをお手に取ってみて下さいね。

ついでながら、締めがサティ、しかもフェイドアウトする、というところが、密かにミソだったりします。
なんといっても、高橋アキさんは、日本でエリック・サティが流行る大きなきっかけを作ったかたですから(これまた最新の演奏が10月25日に発売されていて、これはダウンロードでの購入も出来ます http://www01.hqm-store.com/store/item_new.php?album_no=HQMD-10040)。

曲のリストはこんなです。
(カメラータのサイトから引用し、作品の発表された年を追記しました。)

この中の6曲から引用したサンプルをお聴きになりながらリストを眺めて下さい。
2分です。

[ 1] I.アルベニス:タンゴ(組曲「スペイン」作品165より)1890年
[ 2] S.バーバー:ためらいのタンゴ 
 (組曲「スーヴェニア」作品28より)1952年
[ 3] A.カラン:タンゴ No.1 1971/83年
[ 4] M.サール:流浪者のカフェ・タンゴ 1984年
[ 5] C.ナンカロウ:タンゴ? 1984年
[ 6] ジェイムス・セラーズ:タンゴ・タカハシ 1999年
[ 7] 三宅榛名:北緯43度のタンゴ 1986/95年
[ 8] 近藤 譲:記憶術のタンゴ 1984年(*)
[ 9] 西村 朗:タンゴ 1998年(*)
[10] 佐近田展康:ニュー・センチュリー・ソング 2000/2003/2005年
[11] AYUO:ユーラシアン・タンゴ No.1 1998年
[12] AYUO:ユーラシアン・タンゴ No.3 1998年
[13] AYUO:ユーラシアン・タンゴ No.5
  (ビザンチウム~ペルシャの美)1998年
[14] アストル・ピアソラ:ミケランジェロ 70 1969年
[15] イゴール・ストラヴィンスキー:タンゴ 1940年
[16] ステファン・ヴォルペ:タンゴ 1927年
[17] ダリウス・ミヨー:フラテリーニのタンゴ
  (バレエ「屋根の上の牡牛」作品58より)1919年
[18] ジャン・ヴィエネ:タンゴ 1955年
[19] アンリ・クリケ=プレイエル:タンゴ No.1 1920年
[10] エリック・サティ:ル・タンゴ
  (「スポーツと気晴らし」より)1914年

ギター系のファンには・・・アルベニスもピアソラもあるでよ!
濃いめ系のファンには・・・バーバーにミヨー、えっ? ストラヴィンスキー?
でもってナンカロウでございますから、どんな嗜好の方でもピッタリくるんじゃないかと思います。

この中で佐近田展康さんは三輪眞弘さんと「父親違いの異母兄弟によって2000年に結成された作曲・思索のユニット」フォルマント兄弟を組んで面白い活動をなさっています。
って、私はまだよくわかっていないんですが、ず〜っと前に「ライバルは初音ミク」と言っていた記憶があるんで、これからいっぱい好きになりたいと思っております。
(リンクはりたいYouTubeとかあるんですけど、今回は逸れるからやめておきます。 いちおう、こちら♪ http://formantbros.jp/j/top/top.html


*:近藤譲「記憶術のタンゴ」(http://ooipiano.exblog.jp/22690684/)・西村朗「タンゴ」(http://ooipiano.exblog.jp/23165600/)は、大井浩明さんが今2014年のPOCシリーズで演奏しました。2015年1月は細川俊夫・三輪眞弘作品、2月は南聡作品です(http://ooipiano.exblog.jp/22321199/)。

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2014年12月17日 (水)

「いま」を聴く・・・前置き

このブログを冷かしてくださる方はきっと
「なんだ、おまえんとこには大井浩明って名前ばっかり出てくるじゃねえか」
とお思いかもしれません。

それには、ささやかなわけがあります。

Btop272auto いまから6年くらい前、私はある人から
「これ、ぜひ聴いてみてください」
と1枚のCDを紹介されました。
ベートーヴェンの『月光』ソナタでしたが、自分がそれまであまり興味を持たなかった、フォルテピアノという、ピアノのご先祖様で演奏されたものでした。
どんなものか、と耳を傾けて、最初からなんだろうこれは、と首をかしげて、聴き終わってすぐ・・・私はたまたま「月光」のベートーヴェン自筆譜を複写したもの(ファクシミリ)を持っていたのですが・・・ファクシミリを開いて眺めて、また考え込んで、もういちどCDを聴きました。
それを何度か繰り返して、思わず唸りました。
こんなに楽譜のイメージにぴったりの「月光」を聴いたことがない、と、すっかり感心してしまったのです。楽譜のイメージにピッタリ、というのはどんなものなのか、は言葉にするのがなかなかむずかしいのですが、ベートーヴェンの自筆譜は興に乗ってくると勢いがついて音と音を結ぶ連桁がどんどん先のほうへ傾いていくのです。まさにそんな音がしたのです。堅実でありながらノリがとても豊かだった。このCDのでフォルテピアノを演奏していたのが、大井さんでした。

それから間もなく、ケルンの古楽畑で活躍している旧知の阿部千春嬢がたまたま大井さんと組んでモーツァルトのヴァイオリンとフォルテピアノのソナタを全曲演奏することになり、しかもこのとき大井さんはクラヴィコードによるバッハ『フーガの技法』をCDリリースしていましたから、私は大井さんはてっきり古楽畑の人だと思い込んでいました。このまた2年前に私は家内を亡くして男やもめでおりましたので、子連れでのこのことモーツァルトを聴きに出かけて、またとても満足したのでした。

大井さんが「現代音楽」でたいへんな活躍をしている人だ、と知ったのは、こんなわけで、ちょっと後になってからでした。大井さんを知った筋道としては珍しく、また間抜けだったかもしれません。

20世紀に入ってからの音楽を大井さんが演奏するのを初めて聴いたのは、2010年7月31日、渋谷の公園通りクラシックスで開いた「新ウィーン楽派ピアノ曲集成」でした。これまた子連れで出掛けたのでした。
野々村禎彦さん(現代音楽の評論を積極的になさり、柴田南雄音楽評論賞を受賞)がhttp://www.web-cri.com/review/1007_ooi-NVS_v01.htmでお書きになっている通りの内容で、私も子供たちも新鮮な驚きと感激のうちに帰宅したのが、まだ昨日のことのようです。

野々村さんが上の文章で述べていらっしゃる通り、この演奏会は大井さんにとって、ひとつの決意表明だったのでしょう。
「現代音楽演奏に自主的に取り組む若手は、多井智紀らアンサンブル・ボワ周辺の音楽家くらいしか見当たらない状況で大井が再び重い腰を上げたのは、もう若い世代に道を譲ってはいられないという義務感と、アマチュア時代の試行に決着をつけておきたいということだろう。(中略)来年度のPOCの予告では、彼が青年時代に取り組んでいた現代の古典が並べられており、この日のような踏み込んだ解釈が期待できそうだ。それに先立つ今年度のシリーズが日本人作曲家の特集になったのは、留学後も長らくヨーロッパに居を構えていた彼は、彼地の『現代音楽専門ピアニスト』たちの自国偏重ぶりを目の当たりにしてきたからだろう。日本人だけがコスモポリタンを気取っても意味はない。ただし、かつては東アジアの作曲家を広く取り上げていた彼が今回は日本人に絞ったのは、近年の国際コンクールでは韓国・人民中国のピアニストが台頭しており、もはやお節介は無用という判断なのだろう。」

このPOC(Portraits of Composers)というシリーズの深遠な趣旨も、またこのとき以前のものも、私は知りませんでした。
復活開始したシリーズは、基本的に各1回で1作曲家のピアノ作品全作品を演奏する大井さんの自主企画で、1企画でほぼ半年かけて複数の作曲家を採り上げるのです。言ってしまうと簡単ですが、演奏する方はとても大変です。
これを2010年から・・・別企画で休止した年もありましたが・・・今年まで、大井さんはこつこつ続けています。

私は子持ちやもめなので、日々あちこちで開かれる多様な演奏会に出向くことはほとんど出来ません。それでもPOCシリーズに(行けなかったことは数回ありましたが)ほぼ毎回通うことだけはなんとかできました。「新ウィーン楽派ピアノ曲集成」で受けた感銘からでしょうか、まあなんでだったのか、これは通ってみるべきだ、通ってみたい、と思えてならなかったのでした。

最初は日本の新旧前衛作曲家を特集した2010年のシリーズでした。
2011年はクセナキス、リゲティ、シュトックハウゼンら海外の前衛元祖みたいな人たちの作品を、2012年はケージを真ん中に据えて日本の実験工房の作曲家たちの作品も含めた少し前の世代の作曲家たちのものを、そして昨年のフォルテピアノによるベートーヴェンのソナタ全曲演奏を挟んで今年は2012年シリーズの次世代にあたる人たちの作品を来年2月まで採り上げています。

これに通えたおかげで、それまで現代音楽にあまり関心がなかった私は、たくさんの演奏会に通うよりも多様な音色彩・音造形を味わうことが出来ましたし、価値観もずいぶん変わりました。とはいえ野々村さんのきちんとした穿ちに結びつくような、高度なことは、いまだにまったくわかりません。ただ
「なんだかとっても面白いじゃないか」
という単純な興奮が毎回あるだけです。
それでもこの単純な興奮に、自分自身で驚いています。音楽を好きになったばかりの頃の素朴な興奮といまのこの興奮が、なんだかとっても似ているからです。

以上の経緯や興奮があるので、おのずと大井さんの名前がいっぱい出てくることになりました。

が、こうやって私がずいぶん好きにならせてもらった「現代音楽」、世間の、とくにクラシック音楽好きな人たちからは、思いがけず冷遇されているようです。現代の音楽ですから歴史的位置付けなんか持たないのはまだいいとしても、手軽に読める音楽史の本の中で切って捨てるような扱いをされているのを目にすると、なんだかガッカリしてしまいます。

音楽専門の高校で副読本ともなっていた(4年くらい前のことで、いまは分かりませんが、いい本なのでいまも使われているかな)岡田暁生著『西洋音楽史』からと、近年クラシック音楽関係や歌舞伎関係で読みやすい網羅本を次々出している中川右介さんの記述をひっぱってみます。

「私がここで問題にしたいのは、いわゆる前衛音楽における公衆の不在である。・・・20世紀後半においては、(略)パトロンを喪失した芸術音楽は、一種のアングラ音楽へと尖鋭化【先鋭化を修正してみました】していったのではないか?」(岡田氏)

「現代音楽とは、それまでの音楽を否定し、『これが現代の音楽だ』と主張するものだった。実験的なものも多いし、電気【!】楽器を導入するなど、新しい試みもあった。しかし所詮は実験である。一部のマニアには受けたが、大衆性はまったくなかった。作曲家はコンサートやレコードからの印税収入は期待できないので、奇特なスポンサーでもいなければ、やっていけず、結局は廃れた。経済的な理由もあったが、奇抜なことばかり追い求めていかなければならないので、芸術的にも行き詰まったのである。こうして、『現代音楽はもう古い』ということになった。」(中川右介『クラシック音楽の歴史』七つ森書館2013年。なお、続く記述に「現代音楽の始まりは、前述【中川氏自身の記述】のように第二次世界大戦後とされる。」とありますが、私はド素人ながら、中川さんはたとえばロシア・アバンギャルドなんかご存じないのだろうか、もしご存じならどうとらえていらっしゃるのだろうか、と、首をかしげたのでした。・・・まあ余談です。)

さてしかし、こんなものなのでしょうか?

POCシリーズを聴きに出掛けて私自身が痛切に感じたのは、聴く私の「いま」を聴く熱意と関心のなさが「現代音楽」を私から遠ざけていたのではないか、ということです。
むずかしい、とっつきにくい、意味わかんない・・・そんな思い込み。

実際に物量作戦で聴いてみると、「いま」の音楽作りは響きや色の求め方、扱いかたが多様で、ああそうなのか、を目の当たりにすると、理屈が分からなくても、感覚でかなり愉快に聴くことができます。

私はいまだに理屈はこれっぽっちも分かりません。それでもなお、古典でもたいへんすばらしい演奏をする大井さんが「現代音楽」でまた充実の演奏をし、わけもわからない私のような者がそれに唸らされて、現に「面白い!」と興奮し続けているのです。

このブログを野次馬するかたくらいにはせめて、その興奮をもうちょっと噛み砕いたところを見ていただいて、
「またあいつバカなこと言ってるよ!」
と笑いながら関心を広げてもらえたらいいんじゃないかな、と、思うようになりました。

とはいえ、とくに中川さんが仰っているような外野目線の「現代音楽」、野々村さんがきちんと正面からとらえていらっしゃる、なお生きているそれ、を、ど素人の私が知ったかぶりで述べるなんて、とんでもないことです。
しょっぱなからマトモがいい人は、野々村さんの示して下さっている素敵なディスコグラフィーがありますから、そちらでまっとうな入門をなさるべきでしょう。

http://www2.big.or.jp/~erd4/suisou/mm/gendai/index.html

私は、自分が「いま」にちゃんと耳を傾けてこなかった反省がありますので、現代「の」音楽(ただし主にポップス系ではないもの)を初心で聴きなおすことから始め、読んで下さる方といっしょに楽しみたいと思っています。
おまえは「いま」を聴くのだ、とわが身に言い聞かせつつ、とっつきやすいものから順次、のんきに聴いて感想を言って、読んで下さる方との雑談の種にしよう、と、その程度の考えしか、私は持っていないのです。


※大井さんの名を世間に知らしめたクセナキス「シナファイ」の演奏については、それなりに話がすすめられるようだったら、あらためてご紹介しますね。

ベートーヴェンの「エロイカ」をフォルテピアノで弾いた映像(後半)
2009年8月・9月 NHKのBS1およびBS2にて放映されたものから

http://youtu.be/c1nnAuO7oog

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