たわごと

2016年7月21日 (木)

【恥を忍んで】アマオケのコンマスについて

7月の3連休、10年来Y市がなさっているイベントオケにお邪魔させて頂いて、僭越にもコンサートマスターなるものをさせられ・・・もとい・・・させてまで頂けて、まあヤバかったのでありますが、ご一緒した某先生がちょっとおだてて下さいまして、考えなくちゃあなあ、と思いましたので、標題のようなことを少しだけおしゃべりします。

私はプロではありませんから、プロのことは分かりません。
アマチュアのオーケストラと言っても、プロの方をコンマスにお招きしているところがたくさんありますが、当然、そういう立場でもありません。本職の方に比べたら、弾く技術は、様々な面で劣っています。
それから、オーディションをなさるような、周りが「バリバリ演奏できる」団体のメンバーでもありません。
上のような団体のケースには、私の申し上げることは当てはまらないと思いますので、そういう団体にご所属の方には鼻で笑って頂きたいと存じます。

3項目だけで、簡単に、と致します。
もっと突っ込んだことが言えるくらい賢いといいんですが・・・(>_<)

1)なんで第1ヴァイオリンのやつがコンマスなのか
・・・オケの中で、統計的に、いちばんたくさん音符が書き込まれているからなんでしょうねぇ。だから曲全体で他のパートのメンバーよりもまんべんなく「曲のフォロー」が出来るし、裏返せば、そういうフォローを望まれるから、なんでしょう。
でも、ヴァイオリンのないところではそれは出来ないわけですから、そんなところにまでしゃしゃりでるのかどうかは時と場合によります。これはひとまとめにはできないので省きます。

2)んで、なにをするのか
どんなに優れた指揮者さんでも、曲のニュアンスまで指揮しなければならないとなると、拍を振っているとは限りません。そういうときの、あいまい拍・緩急のフォローが初歩なのかな。そんだけといえばそんだけです。
アマチュアの場合、オーバーアクションのほうがいいようですね。ただし指揮者のなさることを逸脱してはいけない。これが難しいかも知れません。(指揮者が絶対、と言いたいのではありませんので、ご勘案下さい。・・・と、この言い方もなんだか厄介! なによりも、信頼関係は絶対に必要です!)
で、アクションは、ニュアンスもやんないと周りに叱られます。
単純に拍をとる動きをするのでは、単純な例で言うと、たとえば穏やかな場所で、トンガった、はっきりしすぎる動きをするのではNGです。・・・でも、これはわりと「やっちまう」ので気をつけなければなりません。

3)最も気をつけなければならないのは
まず自分のパートの「あたしより弾ける人」ですね。
なぜか。
コンマスもヴァイオリンを弾いてるんだけど、ヴァイオリンのパートをしっかり弾くこと、が、アマオケの場合はコンマスのお仕事ではありません。
(プロさんだったら当たり前にできるのですが、アマは自パートを弾くことに気をとられると、コンマスまで努めなければ、となったら、能力的にオーバーフローします。)
んで、あたしのような能無しの場合、全体を気に留めようとすると、まず自分の弾く部分については落ちまくります。それを、「あ、落ちた」と周りに・・・団員さんにも、お客さんにも・・・見破られてはなりません。ですから、曲から外れないように、つっかえずに動き続けます。
こんなとき、自分のパートについては、おまかせしっぱなしに出来る人がいるのが、たいへん心強い、ということになります。
でも、弾ける人は、弾けるだけに、放っとくと、突っ走って行っちゃうんですよ。
そのへんが、プロ団体だとちょっとありえないことなんですけれど、アマオケは全体にもたもたしておりますので(って、メンバーさんごめんなさい!!!)、突っ走りは「おお、あの人すごい!」となってしまって、全体がそれで壊れることには誰も気付かないことがよくあります。これは、せっかく巧みに弾いて下さるそのメンバーさんに、実はいちばん申し訳ないことだと思っています。
弾ける人が弾いて下さることを大事にするときに、その人が「曲」を置いて先に走り去ることは、ほんの1音符であっても、絶対に防がなければなりません。
いちばんミクロなことなんですけれど、ここをなんとかしておかないと、悲惨なことになります。
それでも短期決戦の(数日、数時間の練習で本番に至る)時は、他にもう手が打てないので、
「そこはまかせる!」
流れで行くのがよろしいようです。
「もう、バリバリ先に行って!」
では矛盾するようですが、抑えようと思って引っぱってもいいことはありません。弾ける人の細かい音符は「立つ」ので、主要部分ではだいたいみんなそれに引っ張られます。
走られて混乱する兆しがコンマ1秒でもある時は、早めに悟って、こちらのアクションで、 なんとしてでも抑えます。そのときだけアクションする、そういう時に限ってアクションする、ということで、コンマスとしては、アクション自体を全般に抑え気味で設計しておく必要に迫られます。・・・これ、とっても大事です。なかなか「うまくいったなぁ」と思えることがありません。
長期決戦(の練習回数が多い)ときは、ポイントをちゃんと協議しお互い納得しあえるかどうか、にかかっていますが、私はあんまり協議する方ではないので、まあ、いけませんですねぇ。心を入れ替えなければならんと思っております。でも身内のメンバーさんはみんな素直でいいかたなので、あんまり心配になったことがないんですよね。
で、以上のことをした上で、弦の他パートに向けても、木管パートに向けても、距離の遠い金管パート、打楽器セクションに向けても、バリバリの人にどうノビノビしてもらえるか、一方でどう抑制もしてもらえるか、を、常に考えていなければならんわけですが・・・
そのためには「曲全体」の地図を自分の頭の中になるべく細かく書き込んでおく必要に迫られるのであります。
私の場合のそのへんを喋ってしまうと、底の浅さがバレバレになるだけですので、どうぞ、追求せんといて下さい。
なので、対他パート編は、いずれなにか具体例を見つけるまで、述べずにおきます。

・・・こんなんで分かるかしらん?

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2014年11月28日 (金)

【酔っぱらい話】音楽にとって「現代」とはなんなのだろう

まあ素人考えだと思ってきいてください。

(POC今シリーズ)http://ooipiano.exblog.jp/22321199/

2010年からですから、大井浩明さんのPOCシリーズに嬉々と出かけるようになって、はや4年になります。
いわゆるクラシックをロマン派の成れの果てまでしか知らなかった私にとって、1回1回取り上げられる現代音楽の作曲家・作品、ほとんどどれもが未知のものです。聴いて分かるか、と言われれば、たぶんさっぱり分かってません。

今年のシリーズに入って、最初のミュライユは自分の動物的な感覚でも「おお、そうなのか!」と感じたものがあって、かろうじて感想をぺらぺら喋ることはしたのでした。でも、2回目の近藤譲さん、3回目のヴォルフガング・リームについては、完全に絶句状態でした。なんか理詰めな気がしたんだろうな。基本、ここでしちめんどくさいこと言っててもオバカなので、理詰めになると脳みそパンクで目ん玉ぐるぐるになります。自分はたとえそうであっても、分かる人は分かっている。リームのものはまだ目にしていませんが、近藤作品の感想集を読むと、ああ、みんなちゃんと理解できてるんだね、うらやましいね、と、ひねくれでなく素直にそう思います。

(感想集)http://togetter.com/li/738137

こんな調子でも、けれど、行くことも、聴くことも、余韻にひたることも、どれもすごく楽しいんです。

「分からない」と思って出かけても面白くないから、1回1回簡単な予習は、時間が許す限りするのです。
ただ、じゃあ振り返って勉強しようか、と探しまわっても、いまCDはなんとかあるものの、とりあげられる作品や作曲家を簡単に説明してくれる本は、ほとんどない。
でも大井さんとこのブログに上がる解説が詳しいので、それを重宝し当てにすればなんとかなるので、まあ間に合ってはきたのです。

それで、いつも、はたと思うのは、
「現代音楽」
っていう言葉のいい加減さ(?)、いやらしさです。

廉価で手に入りやすい音楽史の本などで「現代音楽」と言われているのは、いまだにシェーンベルクやストラヴィンスキーやショスタコーヴィチどまり。メシアンがちょこっと出てくるかこないか。まれにクセナキスやシュトックハウゼン。ブーレーズは指揮者として出てくる方が圧倒的に多く、ベリオやリゲティが少し高い本に出てくるくらいで、フェルドマン? ミュライユ? リーム?(後2者は原著2000年の『現代音楽キーワード事典』にも登場しません、リームは西村朗さんが対談の中で触れているところからようやくぼんやりした像がつかめたくらいでした)それ誰なの? 状態です。
日本に限れば、たとえば2010年に出た『戦後の音楽』という本には、今回POCの近藤譲、西村朗、細川俊夫、といった名前は出てこない。世代的にまだ新しい方だからか、と思って見直しても、じゃあ松下真一だの松平頼則だの平義久はどうか、と探したところで、やっぱり見つけることが出来ない。こういう人たちが網羅的に出てくるのは私は『日本戦後音楽史』上下巻(平凡社 2007年)以外にまだ見つけていません。なんにでも出てくるのは武満徹と芥川也寸志と黛敏郎くらい。あとは書き手の恣意か視野なのか、なにかそんなもので限定されていて、全体と欲張らないまでも、俯瞰像すら見ることが出来ない。
「現代」に無知な素人が、素人の範囲でなんとか家捜しして、こんなくらいの状態です。

細かなことはまあいいとします。

最低限、「現代音楽」をストラヴィンスキー・ショスタコーヴィチ・メシアンどまりにしているのは、なんか違うんじゃないですか、と感じるのであります。
いや、そもそもこの人たちの作品は「現代音楽」なのでしょうか?
「現代音楽」に何か固定的なニュアンスがつきまとうのでしたら、この言い方は避けた方がいいかもしれません。
言い換えましょう。
そもそも、もう私たちの耳に普通になじんでしまったシェーンベルクやウェーベルンやストラヴィンスキーやショスタコーヴィチやメシアンの作品は、まだ「現代の」音楽と呼べるのでしょうか? そう呼んでよいものなのでしょうか?

「現代」とつくと、いまこのときのタイムリーなもの、みたいな錯覚を起こしやすいのですけれど、別の領域、たとえば社会の「現代史」なるものについて書かれた本の大半が、実のところ、いまこのときなどではなくて、ちょっと過去になったことを記しているに過ぎない。
そういうニュアンスからすれば、シェーンベルクでもショスタコーヴィチでもメシアンでも「現代音楽」と呼ばれる資格はゼロではない。
しかしながら、「現代の」音楽か、となると、これは明らかに違う。メシアンだって、もう亡くなってから22年経つのです。

僕らど素人がいまだに十二音技法のこともさっぱり理解できないうちに、もっともっと地平や空間を広げたいのだ、と欲求して音楽を書いている人たちの語法は、そんなものからどんどん離れて行っている。

かつて私自身は日本の洋楽にロマン派的な遺産が乏しいのをたいへん残念に思っていました。ドレミで書かれた豊かな旋律がない、まがいものの日本旋法を欧風を擬態した和声が彩っているだけ、と、そんな感想だけで接していました。

日本に限ってみても、ああ、違っていたんだなあ、というのが、POCシリーズに接してきての率直な反省です。
個々の作家さんが、こんなに百花繚乱状態で、旋法から和声まで、なんとか新鮮なものを見出したい、と、もがいた時代は、過去にはなかった。そういうことに、自分の耳を素直に向けてみると、1回1回繰り広げられる音世界、響き世界が驚くほど豊かなことに、はっとさせられる。これはもう、はなから、ロマン派の延長なんて発想はなかったのです。あるのは、どうやったら借り物ではない自己をもった音楽を築けるか、と、そちらに向かってあふれている気力の数々なのでした。

それを「現代音楽」なんて言葉で括るから、お決まりであるかのようにいつまでも近過去に縛られるのではないか・・・20年以上も経ったらもう「近」は付けることすらおかしいかも知れませんが。

大昔の例をあらためて参照しても、ヨーロッパにデュファイが現れたとき人々がどれだけ驚いたか、は、デュファイ以前の音楽がもうなかなか正確に再現できませんから、私たちは感じにくくなっています。でもデュファイ(や同時代の人たち)の作りかけた響きが豊かだったがために、デュファイより前の音楽はもう消え失せてしまうしかなかったのではないか、と推測することは出来るのです。
以来だいたいこのあたりを出発点にして変容しながら続いてきた音楽の、その結晶としてのベートーヴェン(など)に、明示的にも隠喩的にも依存してきた音楽は、結晶を得てから200年を経て、また大きな転換点にさしかかっているのかも知れない。ビートルズにやっつけられたベートーヴェンにはそれでもまだ出る幕はありましたけれど、そう遠くない時期に(遠くないと言っても百年後かもしれませんけれど)、もしかしたらやはり消失するのかも知れない。
なんだかふと、そんな気がするのです。
聴かせてもらってきた「いまこのとき」の音楽たちの喋ったり歌ったりする姿は、それだけ多種多様で、彩りに溢れ、意表をつきます。

こんな豊かな展開を目の当たりにしてなお、「現代音楽」という言葉で括られるものとして許容できる、実はもう過去のもの、に、いつまでもしがみついていて、何が面白いでしょうか?
・・・「昔のもの」として楽しむのは、それはいいことだとは思うのですが。
・・・私もそれがまた楽しいのですから。
・・・でも、それは「現代の」ものではない。そこを自覚しておかなければならない。

それよりもいまこのときの人が、いまこのときをどう響かせようとしているのか。
そちらのほうにこそ、もっともっとたくさんの私たちが耳を開いていける、そんな音楽の時代がこれからきてくれるだろうと、私は信じたく思います。

音を、響きを、もっと根源的に素直に楽しむことが、みんなのあいだに広がっていっていってくれますように!

すみません、酔っぱらい話でした。ろれつが回っておりません。 (><)

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