助六

2013年6月30日 (日)

おいなりさん・・・「助六」からの脱線【狐と油揚(1)】

こちらに移動させました。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/okiraku/2013/07/post-92d6.html

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2013年3月20日 (水)

重層化した空気と時間:「助六由縁江戸桜」まとめ

(歌舞伎の「助六」に、くどくど野次馬してきましたが、「まとめ」らしくない「まとめ」を綴って当面の締めとします。野次馬してきた記事へは、関連した記述の後ろと全体の末尾にリンク致しますので、ご参照の上、不備・誤認について是非ご指導ご教示お願い申し上げます。)


音の世界は、空気を彩る絵の具だと思います。
手で触れられるもののほとんどすべてが、たしかに色をもっていますけれど、ごく普通の空気には独自の色がありません。
それが、響きで自在に色付けされるのです。

いまでは、色は光の波、音は空気の波で説明がつくと突き止められています。
光の波が色ならば、空気の波だって色、であってもおかしくない・・・とは、あるいは、とんでもないこじつけかも知れません。ただ、誰にでも当てはまるかどうかはっきりしないながら、色聴という心理的現象はあります。音を聴くと、その低い方から順に、虹の色の順番で、赤、橙、黄、緑、青、紫、と、響きに色を感じるというものです。
(ずいぶん前に綴ったことがあります http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_6902.html

音楽好きだと、劇を鑑賞するのでも、舞台装置のもつ色と共に、俳優のセリフの調べ、背景に流れる効果音に彩りが増幅される、そのことに興奮を覚えたりします。

ドイツには、リヒャルト・ヴァーグナーが描いた劇世界の、ひたすらその音響の色彩に魅入られてしまった作曲家がいました。アントン・ブルックナーです。彼はその響きを抽出して自分なりの加工を懸命に施し、音世界だけのドラマを9つ(ないしは10)書きました。
「色彩豊かなドラマは、空気から響きだけを取り出しても、響きの組み合わせで書けてしまう」
という立派な例でしょう。

日本でも、伝統芸能からの抽出を試みた人々は少なからずいます。
しかしながら、ブルックナーのように劇の音響のみを取り出したものは、ないように思います。
なぜ劇からの抽出はなかったのか、を考え出すと、またキリがなくなります。でも、こんな事情ではないかなぁ、と思い当たることは、あります。
近世以前に生まれた舞台芸術は、能をはじめとして、目に見える装置はシンプルで、ほぼモノトーンです。色づけは、囃子と唄(謡)でなされていました。それにしたって、たとえば能なら、人の衣装と声以外は、近いもの同士の4色程度です(笛、小鼓、大鼓、太鼓)。ならば、音楽的な色彩をもっと試してみたいと思うとき、興味は、舞台の装置や人の動きをいきなりすっ飛ばして、音響のみの世界に向くのが必須、となるでしょう。

03pic02 歌舞伎は、それまでの日本の伝統的な舞台芸術とは違っています。
登場人物の扮装だけにではなく、装置にまで、色が溢れている。
歌舞伎の舞台の多彩さが、かえって、音響世界だけを抽出して作品に仕上げたい、なる類いの興味は引き出しにくくしたのでしょうか、いまのところ、現代の音楽家の没入までを生み出してはいないように思います。(※1)

見たこともない「助六由縁江戸桜」を映像で目にしたとたん、私は強く魅かれてしまったのでしたけれども、それは歌舞伎の中でも「助六」が際立って、色彩を極端に切り詰めていながら、なお派手だからだったのかも知れません。
舞台中央は、白木の木枠の他は、ほぼ赤一色です。その両袖は、緑と黒と黄を交えています。
全部で、4色。ところが、これが強烈に目に刺さる。
鮮やかな純色の舞台装置は、歌舞伎以前に用いられたことがありませんでした。

それにしても、赤一色に添え物の3色だけで、筋の入り組んだ展開がないまま一幕2時間もかかる劇が、初めて見る客を、こんなに引きつけていられるはずがない。
それで、よくよく当たってみると、「助六」では音響が場の彩りを変化させる上で大きな役割を果たしているのが分かったのでした。→(5)
区切り区切りに華やかな衣装の人物を登場させる際、お囃子で空気をきらきらとさせる。そのきらきら具合も、男伊達の出ならば太鼓が主でやや四角ばり、花魁の出入りならば笛を添えてあでやかに、という具合。主人公の出には、全体の響きはやや暗めに押えた上で、主人公を象徴する尺八の音色を添えるのです。
あるいは、きらきら音色は、登場人物がほんの数人行き交う場面でも、もっとたくさんの往来があるように観客を錯覚させる不思議な効果を発揮したりします。
巧妙なのは、普通にセリフが喋られる背景で単調に等拍リズムで鳴り続ける三味線です。(※2)
前半、立て板に水の極め台詞の応酬を陳列する趣向のときは、リズムだけでなく、音の高さも同じままで変化せず、セリフのみを際立たせます。
ひと山過ぎたあと、この等拍リズムは音を旋律の断片のように変えて場の空気が揺らぎ出すのを感じさせ、以降は囃子、尺八、激しいツケの音、と、だんだん間隔を狭めて音を多色化し、巧みな黒子として劇の動く向きを役者にも観客にも澄まし顔で知らせてくれるのです。
歌舞伎の音響はもともと抽象度が高くて、太鼓一つで風音も水音も雨音も、稲妻の光る嵐までをも、一筆でえいっ、と描いてしまうようなところがあるのですが、空気の彩りまで、とは気づきませんでした。恐れ入りました。

音響にも大きな要因があるとは気づかず、惹き付けられる理由をあれこれ詮索してきたので、もちろん、それ以外のものを「それ以外」と一括りにしてはいけないことも、充分に認識させられています。
「助六」というこのお芝居には多様な時間が圧縮されていることを知ったのも、また大きな驚きでした。

「助六」劇という枠組みは最初、実際に取材もし元禄頃までに流行った「心中もの」という枠組みにも当てはまる事件を元にしたものだったのを、いつのまにか、江戸っ子の啖呵の応酬に相応しい内容へと換骨奪胎したのでした。
その過程で、主人公のふるまいや衣装も、特定のモデルの行状に制約されなくなり、舞台に設定した吉原に出入りする通(つう)の姿から粋なものを抽出して、ひとつの結晶のように仕上げていったのでした。→(1)

劇が観客にとって同時代物であるあいだ、「助六」は、目の前にある風物を、貪欲に盛り沢山に摂取し続けました。吉原の見世の名、酔い覚ましの薬、種類の豊富な煎餅、舞台の袖には饅頭屋の屋号、饂飩屋の出前は時勢と共に蕎麦屋の出前に、等々。→(3)

舞台を続けるには、しかし何かとお金がかかる。
著作権もなかったですから、興行で当たりを取りつづけるためには、大きな知恵での一工夫が必須でした。
風物の摂取などを通じて、「助六」は、お江戸限定地域色濃厚な芝居に仕立てる(※3)ことで、長いあいだ大スポンサーであってくれるような、組織的な固定客・・・吉原、蔵前の金融業者、江戸経済の重要な担い手であった魚河岸の人々・・・を掴み続けてきましたが、米主体から貨幣主体へと急激に移り変わる経済情勢化では、それも厳しくなっていきます。→(6)

そこで「助六」は、市川團十郎家の芝居として歌舞伎十八番の中に含められます。同時に、内容もほぼ固定されたのではないかと思われます。→(7)
折しも明治維新で、歌舞伎全体が存続にきわどい綱渡りを経験します。経験を通し、自らが持つ様式美こそが命綱、と悟った歌舞伎は、それを懸命に守り続ける奮闘を、いまなお重ねているのでしょう。

「助六」という、たかがひとつの芝居のなかに、これほどまでに空気の色の多様さ、時の積み重ねの多様さが、豊かに折り重なっています。
「たかが」などとは、とても言えません。

こうした重層性に感激しておきながら、自分自身がそこから何かを抽出し新たな何かに仕上げていけるような能力の持ち主ではないことを、甚だ遺憾に思います。

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※1 小泉文夫氏が、セリフと背景の三味線の清掻きのタイミングのズレ具合について調べていたのは読んだことがあります。日本伝統音楽の研究のリズム編にありました。ただし、それは限定されたロケーションの、さらに限定的なシーンでのことであって、劇作品全体にわたる興味とは言えないと思います。「場」の変化する舞台では「助六」のような単一の場と違って、全体的なものへの関心は呼びにくいかも知れません。ヴァーグナーの作例は、幕や場が複数あっても1作品が1全体となると見なし得る舞台背景で演じられますので(たとえば「トリスタンとイゾルデ」)、受け止め手にとって制約が生じなかったのではないでしょうか?

※2 三味線は吉原で客引きに清掻きで流しておくものだったようですから、三味線の音色自体が「助六」の舞台である吉原を象徴している面もあることでしょう。

※3 現行の「助六」にあたるものは、江戸時代中は、七代目團十郎が江戸追放になった時に旅先で演じたほかは、江戸以外の土地で上演されたことがありません。


【参照書籍一覧・CD1点】
〜*番号、は、過去記事(1)〜(7)で引用時に付した参照用番号

《「助六由縁江戸桜」テキスト》
*4)遠藤為春・木村錦花『助六由縁江戸桜の型』劇文社 大正14(*10と重複)
*5)諏訪春雄 編著『助六由縁江戸桜 寿曾我対面』歌舞伎オンステージ17 白水社 1985年
*9)「古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年
*12)守髄憲治校訂『助六所縁江戸桜』(底本:文化八年二月上演台本)岩波文庫 1939年

《「助六」周辺》
*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年
*3)赤坂治績「江戸っ子と助六」巻末、新潮新書、2006【平成18】年
*16)『日本随筆大成』第二期6 吉川弘文館 昭和49【1974】年
*17)斎藤月岑『声曲類纂』 岩波文庫 第1刷1941年 第6刷2001年
*18)佐藤仁『助六の江戸』 近代文藝社 1995年

《「助六」の贔屓筋関連》
*1)小野武雄「吉原と島原」1978年教育社歴史新書~2002年に講談社学術文庫
*20)尾村幸三郎『日本橋魚河岸物語』 青蛙書房 1984年
*24)十二代目市川團十郎『團十郎の歌舞伎案内』 PHP新書 2008年
*25)十二代目市川團十郎『歌舞伎十八番』服部幸雄解説、小川知子写真 河出書房新社 2002年

《市川團十郎家》
*8)「老のたのしみ抄」・・・郡司正勝校注、『日本思想体系61 近世藝道論』岩波書店1972年所収
*11)市川団十郎(十二代)『團十郎復活』文藝春秋 2010年
*14)戸板康二『歌舞伎十八番』隅田川文庫 2003年、原著は中央公論社1978年
*19)田口章子『二代目市川団十郎』ミネルヴァ書房 2005年
*26)今岡謙太郎「九代目団十郎の幕末」 歌舞伎学会『歌舞伎 研究と批評 22』所収 1998年

《その他の歌舞伎関連(近代史など)》
*13)郡司正勝『かぶき入門』岩波現代文庫 2006年
*15)『江戸の華! これが歌舞伎のBGMだ!! 鳴物選集』CD、KING RECORDS KICH 2092/3
*21)漆澤その子『明治歌舞伎の成立と展開』 慶友社 2003年
*22)中川右介『歌舞伎座誕生』 朝日文庫 2013年(原著 『歌舞伎座物語』PHP研究所 2011年
*23)渡辺保『明治演劇史』 講談社 2012年

本記事中の新富座の画像はこちらからお借りしました。
http://www.mizkan.co.jp/story/change/03.html
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc17/jidai/kabuki/index05.html


(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ

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2013年3月17日 (日)

江戸風物はなぜ残ったか?:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(7)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


・(アルファベット小文字)は、記事末の補足をご覧下さい。
・(*数字)は引用したり参考にした書名を末尾に記してあります。


Hachidaimesukeroku

「助六」は、特異なお芝居です。

歌舞伎十八番中、新しい「勧進帳」(1840年初演)以外の演目は、明治以降復活上演される際に、ほとんどが台本に手を加えられています。「暫」はもともと決まった台本がなかったそうですし(九代目市川團十郎以後に固定)、「毛抜」・「鳴神」は明治に補綴、「解脱」は大正の、「不動」・「外郎売」・「景清」・「不破」・「象引」・「七つ面」・「関羽」・「鎌髭」・「蛇柳」は昭和の脚本や補作です。その他、「押戻」は独立した芝居ではなく、「嫐(うわなり)」は復活されていません。(*25)

「助六」には、基本的にそのようなことがありません。(a)
「矢の根」も古そうですが、「助六」に比べるとシンプルな筋立てです。
より立体的な台本の「助六」は、二代目團十郎が三度目に演じた最後、1749年もの以降は年譜では変化が確認出来ず、ほぼ固定されたのではないかと推測します。(*2)

台本が固定された理由は、

・二代目團十郎の上演時点で「助六」が実質的に團十郎家の独占になった(b)

・以後、明治維新前は平均で3.7年おきに上演される人気狂言となり、おそらくはウケる芝居であったために改変要求が薄かった(ただし*2の年譜でカウント)

ところにあったのではないかと想像します。

改変要求が少なかったことのひとつの状況証拠は、蕎麦屋の福山がうどんを担いで来るところに求められると思います。ここは七代目の初演(1811【文化8】年)まではうどんの市川屋だったものが蕎麦屋の福山に替えられたのでしたが、助六がその出前持ちから受け取ってくわんぺら門兵衛の頭にぶっかけるのは蕎麦には替えられなかったのでした。→(3)
また、劇中に現れる揚巻や白玉(c)は最高級遊女の太夫の設定ですが、1734年に4人いた太夫(d)も宝暦期の1750年代には消滅したそうですので(*7 10頁)、舞台である吉原を凋落した同時代風にして行くわけにはいかなかったでしょう。それも場面を固定化する一因になっていたのではないでしょうか?

19世紀に入って入れ替わったのは、福山の他には煎餅かも知れません。朝顔仙平の「せんべいづくし」に現われる煎餅は文政期(1818〜29年)のものだとするなら、実際に台本を参照すればそれ以前のものとは違う可能性がありますが、残念ながら確認出来ません。また、それぞれの煎餅がいつまで売られていたものかも分かりません。
これらはまた、明治維新までになくなったか、実在しなくなった可能性のあるものです。すると、いくら改変要求が薄かったと推測されるとはいえ、喜世川が白玉に置き換わったり、うどんの市川屋から蕎麦の福山に入れ替わったりしたことを考慮すると、場面の変更やものの入替えがなくなったのは、これらの入替えをしたあとの時期には事情が変化したのだ、と考えなければ、説明がつきません。

福山もせんべいづくしの煎餅も、文化文政期、七代目團十郎が「助六」を演じた時期の文物です。すると、市川團十郎家の独占的な「売り」として歌舞伎十八番を制定し宣伝した七代目が、ここで最後の入替えをすると同時に、台本の固定化を進めた、と考えられなくはないでしょうか?
また、七代目を精神的に継承した九代目がまた、それ以降の歌舞伎十八番の内容を固定化する規範になっている点は、最初に上げた「暫」の例でも伺えます。

もともと改変の少なかった「助六」台本は、七代目〜九代目路線で固定されたのではないでしょうか?

結果として維新後は失せてしまった江戸風情が「助六」には缶詰のように残されたのは、したがって、改変要求の少なかったところへ、七代目によって歌舞伎十八番に加えられたことにより固定化したテキストを、九代目が明治にそのまま守って上演したことが、その第一の理由なのではないか、と私は想像します。

Kudaimesukeroku

ではなぜ、以後、演劇に同時代的リアルさを求められた明治に入っても、同時代的リアルではない江戸情緒が、ほとんど台本確立時のまま保持され演じられたのか。
この原因は、九代目團十郎の資質と、明治期の歌舞伎の観客達の嗜好に求められるのではないかと思います。

じつは、このことを考え始めた当初、これは前回みた通り魚河岸や吉原の人たちが「助六」の江戸期以来の贔屓であったことから、この人たちが固定した台本を守りたい意識を強く持っていたのを、團十郎を始めとする関係者が無視出来なかったからではないか、だから演劇改良の理想に燃えていた團十郎も手をつけることをしなかったのではないか、と推測していました。

維新を期に新天地に劇場を移して魚河岸の束縛を抜け出した十二代目守田勘弥が、明治17年に九代目「助六」を上演したがったとき、魚河岸の人たちは、裏切り者とも言える勘弥に全く良い顔をしませんでした。それを九代目がようやく拝み倒して承諾をとったのでした。衰勢の吉原はともかく、魚河岸の人たちは、それほどまでに、「助六」上演に対する許諾権を強く保持していたのです。(*20 262頁)

ですが、台本の中身となると、贔屓達のそれに対する意向は確認のとりようがありませんし、意向があったとしても、「助六」に江戸の文物が残ったことの最大の理由ではないだろう、と、今は思っています。
なぜなら、「助六」が歌舞伎十八番のなかのひとつであることのほうが、とくに九代目にとっては重要だったはずだからです。それゆえ、演劇改良の理想に燃えていたとしても、九代目團十郎は「助六」の中身には手をつけなかったのだろうと推測するのです。

明治の演劇改良運動について詳しく触れることはしませんが、明治に入って演劇が多様化すると、観客は自分達の同時代を描く劇としては台頭してきた壮士劇、のちには新派・新劇などを支持し、歌舞伎にはあくまで従来通りの様式美を求めました。歌舞伎側も、最初は明治政府の意を迎え入れ、とくに九代目團十郎はそのことに大変熱心でしたが(e)、最終的には日清戦争を歌舞伎の手法で描くことの無理を悟らされ、様式美を守る道を選択することになり、明治28年には「暫」、翌年には「助六」や「娘道成寺」を本格的に再生させることとなりました。(*21 279頁、285頁、294頁注3・・・『暫』も『娘道成寺』も切符が売り切れるほどの大入りだったそうです。(f)

歌舞伎は、観客の反応から、あらためてその優れた様式美の大切さを思い知らされたのです。

ここで様式美の代表と目されているのが、「娘道成寺」の他の二つは、歌舞伎十八番の演目である「暫」と「助六」であるところに、また別の示唆が孕まれています。
写実指向であるのと矛盾するように見えますけれど、九代目團十郎は、その養家河原崎座が上演に深い縁のあった七代目制定の歌舞伎十八番に、大きく影響を受けていたと推定されています(*26 14頁)。
歌舞伎十八番に続く、新歌舞伎十八番の演目を、襲名前後の九代目は「市川海老蔵(=七代目團十郎)遺構の正本」と称して明治2年から9年にかけて盛んに演じています。

「その新十八番ものの一つとして、明治九年五月には『都て平家物語りに倣ひ河竹(新七、のちの黙阿弥)が筆をとり況や就中などと雅俗混合のせりふを用ひ』る、『牡丹平家譚』は上演された。彼の『活歴』指向は七代目の『十八番運動』継承の延長線上にあったと考えられる。」(今岡謙太郎、*26 14-15頁)

七代目の十八番運動の原因には「劇団衰退の局面打開のための復古運動」(河竹繁俊)も含まれていたそうですし、それを少年期から青年期の多感な時に目にしていた九代目には、他に新十八番もあったのですから、あるいは実父七代目の持っていたかもしれない「遺志」を大切にする上から、(新ではないほうの)歌舞伎十八番は父が演じたままに尊重する考えも、もしかしたらあったのではなかろうか、と思います。
尊重しておくことが、九代目が「團十郎」であるための足場としては、家の継承のために重要な意味を持っていたのではないでしょうか?

以上のようなことが重なって、後世には幸運なことに、江戸は吉原の華やぎを描いた「助六」の世界の中に、そのまま古い江戸の文物、ひいては気っ風までもが、鮮やかに残される結果に繋がって行ったのではないか、と考えております。


「助六」絡みの細々は、いったん、後日かいつまんでまとめて終わりにしておきます。

大小道具のこと、他の演目との比較等々、もう少し突っ込みたい気もするのですが、記事も煩雑、かつ視野の狭いものになりました。
視野をもう少し広げてから、あらためて取り組むもうと思います。

なお、参照した本のリストも入り組みましたので、その際に末尾に内容別に整理します。

これまで、気づいたところは訂正や補記をしておきましたが、まだ間違いも多々あるかと存じます(音響関係の用語への勘違いなど)。
助六寿司をめぐった野次馬話もしてみようかと考えましたが、材料が少なくてコントになりませんので、これもまたの機会に。写真はローソンで売ってる助六寿司。

Lawsonsukeroku

もし本記事をお目になさって「いかん」とお分かりになることがございましたら、是非ご教示下さいますよう、お願い申し上げます。


a. 台本の洗練は1771年桜田治助の関与が認められます。ヴァリエーションとしては、1764年市村座での長唄での上演、1785年の女助六、1787年のキャストに三庄大夫を加えた仕立て、1793年の改作といったものが認められますが、1749年以後30回を数える上演の中では希少だと言っていいように思います。

b. 年表で表面には出てきませんが、明治の上演まで続いた「助六」上演の際の様々なしきたりは二代目團十郎以来であり(*19 43頁)、他家が上演するには團十郎家に挨拶に出向く習慣も、歌舞伎十八番をぶち上げた七代目團十郎の頃を遡るのは、七代目の同時代に三代目尾上菊五郎が團十郎家に挨拶無しで上演して七代目を怒らせたことからも明白です。

c. 1779年に、吉原の贔屓筋に配慮して喜世川から当時実在の遊女に名前を変更→(6)【揚巻・白玉】

d. 太夫は1642年には75人いたそうですから享保期に4人とは既に激減です。(*1 59頁)

e. 明治政府は、歌舞伎を国民教育の具にしようと、従来の虚構化した世界ではなく、事実に沿った演劇を創作上演するように求めました(*21 120頁)。このことは、演劇改良運動を待つまでもなく、七代目の考証癖を精神的に引き継ぎ拡大しようとしていた九代目團十郎の意志にはそぐうものであったようです。幼くして養子に出された九代目團十郎は、当時は実父と知らなかった七代目が、天保改革時の倹約の精神に逆らって本物の鎧を着て舞台に出、即座に捕縛されて江戸から追放された事件を印象深く記憶していたそうです。
「演劇(しばゐ)を改良して見やうと思立たのは私が十三のころでしたが(中略)当時(いま)の演劇で仕て居るのは皆嘘だと、恁う考へはしたものの、此時代では迚も行なはれ無い、私の親父(=七代目)が真物(ほんもの)の鎧を着て舞台へ出てさへ、幕府の御咎を蒙ツて江戸構へと成たくらひだから、実地に行れやう筈がありません。」(*21 248頁)
こう考え続けていた九代目にとって、明治政府の考え方は我が意を得たりだったのでしょう、考証に優れた学者さんをブレインにつけて、本物にこだわった衣装と演技を続けました。が、これが観客にはさっぱりウケませんでした。

f. 「演劇は時勢と共に移り行かんこと尤も必要なり、われらがいふまでもなきことなれど適者生存の今日に演劇ばかり後れてよき訳はなけれど、古昔よりある狂言は甚しく猥褻なる処とか、不倫理なる処とかの外には手を入れぬが好しと思い初めたり、一体旧来の芝居は不自然なるが如き間に一種の趣味あるものゆゑ、徒に理屈のみにて矯正する時は却て全体の趣向を全滅する恐あればなり」(明治27年以降の伝統的作品復演をめぐってと思われる九代目團十郎の述懐、*21 285頁、明治36年刊『團州百話』からの引用)


*1)小野武雄「吉原と島原」1978年教育社歴史新書〜2002年に講談社学術文庫

*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年

*7)佐藤要人監修・藤原千恵子編『図説 浮世絵に見る江戸吉原』ふくろうの本 河出書房新社 2007年新装版

*20)尾村幸三郎『日本橋魚河岸物語』 青蛙房 1984年

*21)漆澤その子『明治歌舞伎の成立と展開』 慶友社 2003年

*25)十二代目市川團十郎『歌舞伎十八番』服部幸雄解説、小川知子写真 河出書房新社 2002年

*26)今岡謙太郎「九代目団十郎の幕末」 歌舞伎学会『歌舞伎 研究と批評 22』所収 1998年

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2013年3月14日 (木)

道具とご贔屓:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(6)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


演劇でも舞踊でも奏楽でも、時代を超えて演じられるものには
・それが生まれたとき以来の方法
・通過してきた時代の趣味の堆積
・転機を乗り切ったときの刻印
それぞれの、なんらかの跡が残っているのかも知れません。

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現状の「助六」に、いまは失われてしまった江戸期の文物のCMが豊かに残っている旨(3)を綴りましたら、お言葉通りではありませんが、
「それらが江戸時代終焉後も残っているのは、明治に何らかの然るべき事情があったからではないか」
とのご指摘を頂きました。
うわぁ、もの凄い目の付けどころだなぁ、と、卒倒してしまいました。
これはたいへんごもっともで、私のド素人野次馬根性に火をつけて下さるご指摘です。

で、ちまちまと調べてみましたら、江戸期にも大正期にも台本にある意休のかっこいいセリフが、明治の台本だけカットされていたりします。これは九代目團十郎の意思が働いていたんじゃないか、と勘繰ってみましたけれど(4)、確認の取りようがないので、着目点としてはパッとしません。
河東節というのが「助六由縁江戸桜」独自に用いられる浄瑠璃なので、こちらに目をつけますと、ちょっと脈がありそうでした(5)
いちおう、そこまでやったのでした。

なおあさっていくと、明治維新になって江戸三座が猿若町から順次移ったり新たな劇場が出来たりしていったときの入り組んだ事情や、写実路線による演劇改良指向への歌舞伎観客の冷ややかな目線、新劇への潮流が生まれる中で歌舞伎は様式性を差別化の材料としていくようになったこと、等が絡み合って、どうやら一筋縄では行きません(*20、*21、*22)。

このあと引く十五代目市村羽左衛門の大正4年の芸談でもまだ、魚河岸や吉原への挨拶が欠かせない旨が述べられているところからも、また、亡くなった十二代目團十郎さんの話からも、とりわけ「助六」は、支えてきてくれた蔵前、魚河岸や吉原との密接な関係をずっと保ってきた、特殊な芝居であるらしいことが分かります。

「・・・『助六』は、御贔屓に支えられ、江戸時代の礼を尽くした粋な遊び心を感じる珍しい演目です。昨今は遊びというと、簡単に何も覚えず楽しめるものと思われがちですが、本来遊びは努力を伴うものなのです。普段は社長や会長といった方が、河東節の稽古では師匠に厳しくしごかれ技を磨いて晴れの日をむかえる、これが遊びなのです。」(十二代目團十郎 *25 48-49頁)

そこで、「助六」と魚河岸や吉原との繋がりが、どのように明治維新後も劇中の江戸情緒残留に影響したのか、の経緯を考える前に、下準備として、「助六」劇中の道具等と「助六」贔屓の人たちとの関わりあい方を、現存する「助六」劇の創始者と認められている二代目市川團十郎の時期から俯瞰しておきます。それらの中に、最初に掲げましたようなことどを見つけられればよいなぁ、と思っております。

以下、列挙。


【助六の扮装】

・1716年(享保元):黒小袖に小刀、紫の鉢巻、下駄ばき、尺八は手に提げ蛇の目傘をさして現れ(*2 年譜~二代目團十郎)

・鮫鞘の脇差と印籠とは、当時吉原へ通ふ男達の風俗を真似たのださうで、兎に角助六の拵へは当時の流行を穿ったものと見れば間違はありません。現に此の時、作者の斗文は言ふに及ばず、俳諧師の湖十、日本橋の金子屋文来という通人、また蔵前では(略)大口屋暁雨、これ等の人々に相談をかけて、髪の結びぶりから、着物、穿物まで通人の風を写したと言ひまする。(*2 52−53頁、伊原青々園筆~二代目團十郎1749年の上演をさしているはずです)

・1776年(安永5):吉原の揚巻なる傾城が桟敷を買切つて見物し、八百蔵に傘五百本を進物にしたといい(*2 年譜)

・1828年(文政11):先例通り吉原より傘三百本、小田原しんば(小田原町も新場も魚河岸)より紫縮緬三十疋・・・(*2 年譜~七代目團十郎。*9の393頁、鉢巻用の紫縮緬については「助六」補注にも記載)→【観客・贔屓筋】
・十二代目團十郎:わたくしが助六をつとめるときに履く下駄は、魚河岸からいただいたものです。(*24 209頁)


【揚巻・白玉】
・1779年(安永8):(河東節)・・・二代目門之助初役にて助六。この時瀬川菊之丞の後援者で、当時吉原できけ者で通つていた火焔玉屋が自家の遊女白玉の名を売出そうと、菊之丞の弟子瀬川吉次が勤めるを機に、従来の喜瀬川を白玉と替え、以後それにならつた(*2)

・(揚巻の出のときの)提灯は例の白張・・・此提灯は吉原から贈られたもので六個あります、裏に町名が書いてあって、京町一丁目、京町二丁目、江戸町一丁目、江戸町二丁目、揚屋町、角町と云ふ様に、夫(それ)を毎日替りに用ゐてゐます。(*4 25頁)

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【河東節】
・1733年(享保18):此時始めて二代目の宇平治河東が節付して語り、助六を河東節にて語る始となる(*2 年譜)

・『助六』上演の話がもちあがると、河東節十寸見会(かとうぶしますみかい)の皆さんに出演のお願いをします。公演の半年くらい前の吉日をえらび、新橋の竹葉亭の座敷で、河東節の世話人の方と興行主が集まり「この度、どこどこの劇場にて『助六由縁江戸桜』を上演させていただくことになりました。つきましては、河東節ご連中様にご出演をお願い申し上げます」と、私どもは紋付袴の正装で口上を述べます。ここで出演を快諾してくださると、助六の上演が決定となります。/河東節は江戸時代に流行した音曲で、お店(たな)の旦那衆がよく稽古していたそうです。このご連中は、昔は男だけでしたが、現在は女性もたくさん出演してくださいます。今は亡き、書家の町春草さん、地唄舞の武原はんさんといった方々もいらっしゃいました。(十二代目市川團十郎 *25 48頁)
なお、参考 http://www.norenkai.net/shinise/concierge/kabuki1005.html


【観客・贔屓筋】
・1749年(寛延2):吉原芸者総出にて花道にて、助六−海老蔵を称える「ほめ詞」をいうなど大いに吉原気分、芝居気分をあおつた事が大評判をよんだ(*2 年譜〜二代目團十郎)

・二代目七十を越して・・・三度目の助六を一世一代として勤たる時、中村座にて下桟敷片側残らず買切にて暁翁(=大口屋暁雨)が見物、東桟敷は小田原町鯉屋藤左衛門が連中也。(*9 389頁 「助六」補注、『十八大通』よりの引用 *2では四代目團十郎が初めて助六に扮した1756年のこととしている)

・1811年(文化8):七代目団十郎初役にて助六。此時は魚河岸蔵前吉原恒例の積み物は勿論、吉原の連中三百人が揃いの縮緬の首ぬきで柿と白との手拭いを冠つて土間を三桝の形で見物したのを始め、助六さん、揚巻さんの引幕が一日では引き切れぬ程贈られたと云う。(*2 年譜)

・1828年(文政11):その他、又揚巻(粂三郎)へも積物夫々、右の品(→【助六の扮装】)を仕切場へ飾り、茶屋茶屋へは吉原女郎より提灯すだれ毛氈を引き、二階へは霞と桜の作り物を出し、又明地(あきち)へ桜を植えて茶見世を出し、助六劇と云う餅を製して売るなど、その人気引立つる事尽しがたし。(*2 年譜~七代目團十郎)

・1884年(明治17):此時例に依つて茶屋の軒頭へ暖簾をかけ、往来に桜を植て仲の町に見立てんとしたが、其の筋が許さない為、恒例の表飾りも大分淋しくなつたと云う。(*2 年譜~九代目團十郎・・・*23、298頁による補:明治十七年、団十郎三度目の時に東京の新しい都市計画で劇場前に桜を植えることが禁止された。今度【明治29年】の歌舞伎座もまた桜を植えることができなかった。)

・1896年(明治29):此の興行中(四月)八日には吉原の幇間一同助六に貰いたる黒縮緬に杏葉牡丹の紋付も揃いにて総見し誉め詞、又十三日には魚河岸の連中数百人河東連中を先に双魚に牡丹のかが紋ある黒七子の揃いと遠州形の繻珍(しゅちん)の帯にて東西花道にて助六以下と手打ちあるなど「助六劇」最後の熱狂ぶりを展開した。(*2 年譜~九代目團十郎・・・*23、298頁による補:劇場正面には吉原から寄贈された提灯を二段に掛け、各芝居茶屋は柿色に白く屋号を染め抜いた暖簾、軒先には青簾と枝垂桜に団十郎の替え紋である杏葉牡丹と揚巻結びを描いた暖簾をかけ、・・・店先には揚巻と白玉の提灯を飾った。その上劇場も「助六」の始まる前に東西の桟敷の軒に紺に引手茶屋の屋号を染めた暖簾を飾った。こういう劇場の内外が吉原になるという古例が行なわれたのはこの時が最後であった。

・「助六」上演に際し、吉原へあいさつまわりに来た関係者にごちそうをしたり、興行中は五度にわけて総見するといったならわしは二代目団十郎以来のしきたりだというから、当時、すでに「助六」は二代目団十郎のものとしてすっかり世間にみとめられていたのである。(*19 43頁)

・十二代目團十郎:魚河岸のところにも紋付袴の正装で、必ず挨拶に伺います。昔から、魚河岸からは鉢巻きと下駄を頂いております。今は直接品物を頂くのではなく、魚河岸の役員さんから目録を頂戴して、こちらで誂えています。魚河岸も代替わりしていますが、心意気が受け継がれていて、ありがたいことです。(*25 48頁)


【演じ手】
・御承知の通り此狂言を出しますのには、市川宗家の許しを得ます事は勿論、吉原魚河岸へ挨拶をして、吉原からは助六の傘、魚河岸からは鉢巻を送って貰いますのが古例で、それが為に吉原と魚河岸は盛んな連中を催して、舞台で手打をする事が、是も一つの定めになっています。(十五代目市村羽左衛門、大正4年の芸談。*2 113頁、*5 146頁)


*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年

*4)遠藤為春・木村錦花『助六由縁江戸桜の型』劇文社 大正14

*5)諏訪春雄 編著『助六由縁江戸桜 寿曾我対面』歌舞伎オンステージ17 白水社 1985年

*9)「日本古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年

*19)田口章子『二代目市川団十郎』ミネルヴァ書房 2005年

*20)尾村幸三郎『日本橋魚河岸物語』 青蛙書房 1984年

*21)漆澤その子『明治歌舞伎の成立と展開』 慶友社 2003年

*22)中川右介『歌舞伎座誕生』 朝日文庫 2013年(原著 『歌舞伎座物語』PHP研究所 2011年

*23)渡辺保『明治演劇史』 講談社 2012年

*24)十二代目市川團十郎『團十郎の歌舞伎案内』 PHP新書 2008年

*25)十二代目市川團十郎『歌舞伎十八番』服部幸雄解説、小川知子写真 河出書房新社 2002年

写真は、YouTubeの映像からスクリーンショットをとりました。

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2013年3月11日 (月)

音に聞く江戸の空気:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(5)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


助六という人物のモデル、舞台装置、背景としての吉原、劇中に盛り込まれた実在した江戸の風物、主要なセリフまわしの面白さ、を見て来たついでですので、「助六」の中の音響についても概観しておきます。
音声を拾い出して例示するのも良いのですが、以下は前回埋め込んだ映像を見ながらお確かめ頂いた方が実感を持って理解出来ると思います。

(前半)http://youtu.be/PkbrsR855T4
(後半)http://youtu.be/0B6tcDGDTMU

そんなわけで、文字ばかりになってすみませんが、お許し下さい。(実際に聞き取った上での記述ではあります。)

歌舞伎では、扮装や鳴物(音楽と効果音)について「附帳」というものにまとめられているそうで、『助六』をはじめとした歌舞伎十八番のものは、幸い日本古典文学大系本(*9)に整理されたものが載せられています。とはいいながら、主な段取りが記されているだけですので、それで全部は分かりません。また、鳴物に寄らないながら、大切な音響もあります。

「助六」の背景の音の構成は、大きく、五つの括りでみることが出来ると思います。順に、カタカナで記号をふっておきます。【】で囲んで、その部分の音楽の呼び名らしいものを入れますが、正しい自信はまったくありません。ご教示を乞いたいと存じます。いちおう、*18を参照しました。

ア)昭和・平成の、映像で見られる三上演(十一代目團十郎襲名披露公演、平成十五年公演、平成二十二年歌舞伎座さよなら公演)では、幕が開くと、まず「助六」芝居の由来を述べる口上があり、その紹介で河東節の浄瑠璃となります。河東節は、近々考えてみたいと思っている、明治に江戸を残した「助六」という点からのキーの一つになるかも知れませんので、最後にまとめます。
河東節の浄瑠璃を背景に、時鐘塔からの時の知らせを擬したのであろう鐘が聞こえ(吉原にはお寺の鐘もきこえたそうですが、時の鐘がありました)、まず現れるのは鉄棒(かなぼう)引きです。下手花道と上手臆病口から現れ、ゆっくりした間合いで棒を激しく地面(お芝居ですから床面)を突き、金属の棒の上に付いた複数の輪を、じゃらん、と鳴らしつつ行き過ぎます。これがなにを表すのか、という解説は助六劇関連の本にはまったくなく、物知らずな私は途方に暮れたのでしたが、鉄棒引きは火の用心の自警団なのだそうで、一般の街中にもいたようです(江戸に詳しい人は良く御存じなのでしょうが私は分かりません。お恥ずかしい限りです。)吉原のことを述べた本のいくつかには、絵だけは載っていました。いまの演出ですと、この鉄棒引きが鐘の音とともに登場するのは、吉原の夜見世が始まる時刻ですよ、とお客様に知らせる役割があるのですね。時代が下る設定の「籠釣瓶」ですと、鉄棒引きは花魁道中の先頭にくっついて現れます。助六では道中を冒頭に持ってきませんし、花魁がまとめて五、六人も登場しますので、道中の先触れ代わりの意味もあるのかも知れません。

イ)鉄棒引きが舞台を通り過ぎて、いよいよ華やかな花魁の出となりますが、いっそう華やぐのは揚巻が花道を酔態で現れるときで、このときに初めて笛がヒャラヒャラと入ります【通り神楽】。揚巻が定位置に座ってひととおりの演技をしたあと、白玉に同行してもらった意休の出になりますが、このときは笛が入るのではなく、唄【只唄】になります。人の声ですので、こちらはやや落ちついて聞こえます。
このあたりに限らず、ほぼ全編にわたって、登場人物の普通の会話のあいだは、三味線がトン、トン、トン、と、等拍で静かに鳴り続けます【只合方?】。
近代劇ならば無音であるべきところですが、「助六」劇で舞台が無音になるのは、そのあとにくる重要なセリフを際立たせてお客さんに聴かせたい場面に限ります(セリフ本体のときはまた三味線がなり出すのが面白いところです)。
ここまでですと、揚巻の悪態のセリフが始まる前と、終えて意休にひらきなおって見せるところに、そうした沈黙があります。助六の花道の出の後、意休とやり取りする前、やり取りが悪態の応酬となって山を迎えるところでも、三味線は黙ります。この沈黙の挟み込みかたで、劇の空気に、優れた立体感を持たせています。

ウ)華やかさをいっそうもり立てる笛と太鼓、鉦が鳴る【これも通り神楽です】中を揚巻と白玉が三浦屋の暖簾口に消えると、音はいったん静まり返って、尺八が聞こえてきます。これが、尺八を背負って出て来る助六の出を巧みに暗示しています。よく知りませんが、歌舞伎に尺八は珍しいのではないでしょうか? なおかつ、尺八の前身である一節切(ひとよぎり)は室町時代(a)から江戸初期にかけての流行ですから、新味というよりは古風をとどめていて、面白いものだと思います。
このあたりに多く現れる、記号化された音響は、福山のかつぎの登場・退場時の短い「通り神楽」でかつぎの走りの速さを感じさせてくれたり、喧嘩となる場面で打たれる大太鼓とツケはシンプルながら荒々しさを充分演出したり、と、聞き逃せません。
(「助六」中にはありませんから余分なことですが、大太鼓は歌舞伎では水音・風音、雷まじりの風雨までをも自在に表す優れたはたらきをするのに驚かされます。)

エ)他の連中が退場し、助六の兄である白酒売り新兵衛が現れて語り始めるところからは、それまでの単調さとは違って、三味線が旋律らしいものを奏でます。それまで何人もいた登場人物が、はじめて二人だけとなるので、情緒を持たせるのでしょうか。以後、これが伏線となって、股くぐらせの場面、母・満江の登場までの囃子は、端唄・只唄にかわって、劇中盤の空気を違ったものにします。
満江と新兵衛が去り、意休が再び現れると、三味線はまた単調な等拍になりますが、前半では一定の音程だったものが、唄のさらにかけらのように、旋律の断片のように聞こえるように仕組まれています【只合方のヴァリエーション?】。ここまでのながれ、よく出来たものだと感心します。
満江の登場に先立って、助六と新兵衛が通行人に股をくぐらせる悪さをする場面では、軽やかな太鼓に鉦(ここでは、当たり鉦のほか、コンチキというものでしょうか)や笛が入って、鮮やかな唄となるため、登場人物が助六と新兵衛の他は僅かな通行人・・・まずは国侍とその奴、それが去ると通人(c)だけであるということを忘れさせられ、賑やかさを錯覚させられますから、これもなかなか面白く感じます。

オ)揚巻の後ろに隠れていた助六が意休に見つけ出されると、ふたたび尺八が鳴り響きます。尺八が助六を象徴していることが、ここからもよく分かります。
幕切れは激しいツケ打ちと速い笛、強い太鼓で、気負って駆け去る助六の昂りを象徴し、また印象的です。

上手なまとめでなくてすみませんが、以上が「助六」劇中の音の、全体の流れです。

さて、河東節です。
河東節については、文化元年(?【1804】)の『近世奇跡考』(山東京伝)、天保10年【1839】の『三養雑記』(山崎美成)巻之一(この二つは吉川弘文館『日本随筆大成』第二期6に収録、*16)、弘化4年【1847】の『声曲類纂』(齋藤月岑、*17)に書かれているのを読みました。『近世奇跡考』の記述はごくあっさりしたもので、河東と仲の良かった岩本乾什についての記述が分離しており、(*16、364〜365頁)、『声曲類纂』のものは先立つふたつの内容をとりまとめたような記述になっていて、系譜の図、担い手が使用した印の影まで載せています(*17、193〜197頁)。それらを含め、河東節の起こり(享保2年【1717】または享保4年【1719】)については「助六」について述べたものには必ず書いてありますので、略します。
しかしながら、いちばん興味を引かれるのは起こりについてではなく、『三養雑記』の次の記述です。

「さて河東節の唱歌には、有名人の作文ままあり。おきな(翁)が島といふは、つる蔦や蘭洲五十回の追善、安永六年【1777】に、山岡明阿の作なるよし。(太田)南畝(1749〜1823)翁の麓の塵に見ゆ。すがた絵といふ唱歌は、木辻の遊女の名よせにて、柳里恭の作と、自撰の独寝といふ随筆にいへり。(後略)」(*16、85頁)

文中で有名人と言われている人たちのことは、私はちっとも知らないのですが (^^; ここから伺えるのは、河東節は江戸の趣味人に愛好されたらしいことです。
これは今は冒頭の口上に残っているのですが、
「河東節は蔵前の旦那衆の芸であって、魚河岸が江戸大夫河東の名を預かっていたところから、助六の劇中に一度演出を止めて、『河東節御連中様どうぞ』と挨拶する風習を残し」
ているとのことです。(*9、485頁、用語集)
次回以降でまとめたいと思って材料を漁っている最中ですが、蔵前、魚河岸は、初回で見た二代目團十郎と大口屋暁雨の関係から推測される通り、吉原と並んで「助六」上演時の大切なスポンサーでした(*9、28〜29頁、「助六」解説 観客の慣例)。
すなわち、河東節の弾き手は「助六」のスポンサーたちなのです(今もそうなのでしょうか?)。

こんなこともあって、近代に入っても「助六」の中に江戸色が色濃く残されたのは、これらスポンサーと助六劇の関わりあいの中にその理由があるのではないか、と思い始めているところです。

加えて、この、スポンサー自身が出演することになる河東節は、歌舞伎の浄瑠璃としては市川團十郎家による「助六」だけが特権的に用いています。他家が用いることは、ありません。
明治以前の「助六」での河東節の使用は、*2の年譜と*19で確認出来るところでは、1733年(三代目團十郎、このとき初めて河東節がついた)、1749年(二代目團十郎0、1755年(八代目羽左衛門)、1756年(四代目團十郎)、1761年(九代目羽佐衛門)、1764年は市川雷蔵の助六で河東節のはずだったが事情で半大夫節となる、1764年(二代目彦三郎)、1779年(二代目門之助)、1782年(羽左衛門)、1791年(門之助)、1797年(高麗蔵)、1805年(男女蔵)、1811年(四代目海老蔵のちの七代目団十郎)、1819年(七代目團十郎)、1828年(七代目團十郎)、1862年(のちの九代目團十郎)、と、19世紀に入ってからのものがはっきり分かりませんし、かつ八代目團十郎は半大夫節で演じたりしているので、必ずしも團十郎家の独占には見えないのですが、九代目團十郎以降は他の家の人は河東節を用いません。これもまた、明治に入ってからの芝居小屋移転にからんでの魚河岸と劇場の関係が背景にあったのではないかと想像していますが、確証は持っていません。ここまで何かが分かるといいなぁ、と祈る思いでおります。

ということで、誰にも読まれんでも、まだ続く。( ̄Д ̄;;


a. 室町時代末期から江戸初期にかけての普化僧の流行という背景もあったとは思いますけれど、戦国時代と呼ばれた時代のごく初期にあたる時期に書かれた『宗長日記』には尺八(当時は一節切)の話題がわりとよく出てきたかと思います。書き手である有名な連歌師の宗長自身が尺八の大の愛好家だったそうです。

b. 「歌舞伎座さよなら公演」での十八代目勘三郎さんの通人は、さよなら公演でギャグの点ではかなり徳をしているし、大好きなのですけれど、DVDで出ている平成15年の「助六」で故・松助さんの使った小ネタがずいぶん採り入れられているのではないかなと思います。松助さんも素晴らしい役者さんでしたが、実演をあまり見ることが出来ませんでした。


*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年、年表は富田鉄之助筆、16〜35頁。

*9)「日本古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年 「助六」の附帳は437〜444頁。劇中で真っ二つに斬られる香炉台の仕掛けも載っていたりして面白いものです。

*15)『江戸の華! これが歌舞伎のBGMだ!! 鳴物選集』CD、KING RECORDS KICH 2092/3

*16)『日本随筆大成』第二期6 吉川弘文館 昭和49【1974】年

*17)斎藤月岑『声曲類纂』 岩波文庫 第1刷1941年 第6刷2001年

*18)佐藤仁『助六の江戸』 近代文藝社 1995年 都立高校で教鞭をとられていた1928年お生まれの方がこつこつお調べになってまとめられた、脱帽の本です。ご著者はいまどうしていらっしゃるでしょうか? お元気で95歳をお迎えだったらいいなぁ・・・

*19)田口章子『二代目市川団十郎』ミネルヴァ書房 2005年

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2013年3月 8日 (金)

「実は」の世界と語り芸:「助六」をめぐって(4)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


歌舞伎の芝居は、荒唐無稽だとも思われています。
○○実は△△、という図式が、実に多い。
どこぞのお武家のお姫様が実は弁天小僧(「白浪五人男」)、山伏一行、実は弁慶他の義経主従(「勧進帳」)なんていうのは分かりやすいほうで、銀平実は平知盛(「義経千本桜」)とか、アホの一條大蔵卿、実は賢いとか・・・ちょっと違いますか。

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実は、というほどには「実は」は多くないんですけれど、「助六由縁江戸桜」は、このパターンです。
助六、実は曽我五郎。
髭の意休、実は平家の旧臣、伊賀平内佐衛門家長。
ほかに、白酒売りの新兵衛が、実は助六の兄、曽我十郎。
じゃあ、この「実は」にびっくりするのか、というと、そんなことはない。お客さんは「実は」をあらかじめ知っている。劇中の人物同士だけが知らない。ハヤタ隊員実はウルトラマン、本郷猛実は仮面ライダー、みたいなもんですね。隣にいる普通の存在が特別な何かに変わって力を発揮する、それを「おいらなんて前から知ってるんだぜ〜」というプライドに、私たちは、すかっとさせられるのでしょうかしらね。

でもこの図式、実は(ばっかりになってしまってスミマセン)歌舞伎より古い能のほうが著しい。いま演じられる古典の能は、かなり高い割合で、最初はそのへんにいそうな、そうでなければちょっと不思議な人物として現れるシテ(主役)が、途中で正体を明かしたり見破られたりして、後半で本性を現します。その変化が見どころを作ります。

歌舞伎の「助六」の場合には、ところが、「実は△△」は、お芝居を見える上ではあんまり関係がない。

髭の意休の正体が明らかになる最後の部分は省略されて演じられることが多いですし、助六は曽我五郎であることが分かって初めて何か特別な力を発揮する、というのでもない。白酒売りの新兵衛さんは、曽我十郎祐成だとはっきりしても、なんだかヤワヤワと間の抜けた感じのままだったりする。

助六は助六のまんまで粋なふるまいをしたりセリフを言ったりするので、わざわざ「実は曾我五郎」でなくっても、お客は一向に構わない。

だのになぜ、あえて曾我五郎でなければならないのか。

落語にオチが必要なように、「○○実は△△」は、必要なオチなのでしょう。
オチの肝である後半の△△には、スーパーヒーローの名前が来る。これが必要なのでしょう。

歌舞伎では、華やかな舞台装置を背にしてキラキラ舞踊る役者さんに、お客はうっとりします。うっとりさせてくれるその人は、お客にとって、スーパーヒーロー、スーパーヒロインなのです。
「助六」が成立した当時は、曽我五郎がスーパーヒーローの代名詞でした。
曽我五郎はなぜスーパーヒーローだったのか、「三十字で述べよ」などと問題を出されても、「ウルトラマンがスーパーヒーローだった訳を三十字で述べよ」というのと同じで、とても無理ですから、説明抜きで「そういうもんだったんです」で済ませますけれど、とにかく、助六がスーパーヒーローであることが、暗黙のニーズだったのではないでしょうか。

ただし、「助六」には舞踊そのものの要素はありません。
お客を魅了するのは、もっぱら「語り芸」です。

語ることが、舞踊と同じように、充分に「見せる」芸であった事情は、誰もが多弁になった現在ではぴんと来にくいかも知れません。

先日亡くなった十二代目市川團十郎さんの思い出話に、こんなのがあります。
「昔の人は静かな環境で過ごすことを何とも思わない人が多かったようだ・・・(天保時代に出来た金丸座での歌舞伎公演のとき)夜、私たちは温泉に入り、食事を摂り、後はテレビなどを見て過ごすが、(河原崎)権十郎のおじさんの部屋を覗くと、食事はすでに片付けられ、座卓の前に座り、目の前に置いてあるテレビもつけずジッとしている。二時間くらいしてまた覗いてみると、静寂の中、前と同じ姿勢で座っていた」(『團十郎復活』39〜40頁、文藝春秋 2010年 *11)

私の祖父は明治生まれでしたが、やはりこの文中の権十郎さんみたいなところがありました。

少しタチが違うのですけれど、第二次大戦が終わったばかりの頃に放送局が地方の人にインタビューしたときの録音を、ラジオできいたことがあります。みんな、学校で教わったようなことは硬い言葉でしっかり喋れるのですけれど、「それは具体的にどう言うことですか?」と質問を重ねられると言葉に窮するのでした。単純に「語彙が貧弱だったから」ではないのだろう、とは思うのです。聞いた時にはむしろ、戦前までは、言葉はそんなに繁く日常で語られるものではなかったのかも知れないなぁ、との印象がありました。

必要以上にの言葉は発しない日常を、人々が過ごしていたのであれば、芝居で言葉が滔々と「語られる」ことが、いかにキラキラした芸であったのか、は、そこはかとなく分かるように思います。

「助六」では、キラキラした言葉が豊かに縷々と流れます。
ほとんどは、例えが並ぶ「ツラネ」という話術です。
登場者がそれぞれに、相応の、すかっとする「ツラネ」のセリフを語ってきかせてくれます。前回ちょっと触れた朝顔仙平の「煎餅づくし」もそうですし、仙平の兄貴分の門兵衛にも粋なのがあります。
そしてなんといっても主要な三役・・・助六、揚巻、意休・・・は、特別に胸のすく「語り芸」を《見せて》くれるのです。《見せて》くれる、と《 》で括るのは、「語り芸」には視覚的な要素も非常に大切だからです。

小さな箇所にたくさんちりばめられているものをあげるとキリがありませんので、主なものを。

意休が登場するところもなかなかですが、これは伏線があるので最後に回します。

登場した意休に、惚れている助六をさんざんにけなされて、怒って揚巻が言い立てる
「悪態の初音」
は、見所として有名です。玉三郎さんが演じたYouTubeの映像を、そこから始まるようにして載せておきますので、ご覧下さい。


この上演は組み物のDVDで見ることができます。
単独発売のDVDでは故・雀右衛門さんが演じていますが、これもたいへん見事です。
このセリフ、文字起こししたものを眺めるだけだと、演じる姿を見て伝わって来る迫力まで感じることが出来ません。
玉三郎さんのとは細かいところで違いますが、江戸時代後期(1811年)のテキストではこうなっています。(*12、以下、セリフの引用は同じ。悪態の区切りがついて「おほほほほほ〜」と笑うところの演技が、見ていると凄みがあるのです。でもこれはセリフにはありません。型として採り入れられているものです。)

「○お前と助六さんを並べて見た所が、こっちはりっぱな男振り、又こちらは意地の悪さうな男つき、譬へて言はば雪と墨、硯の海も鳴門の海も、海といふ字は一つでも、深いと浅いは客と間夫(まぶ)、間夫がなければ女郎は闇、暗がりで見ても助六さんとお前と、取り違へてよいものかいなア。例へ茶屋・船宿の意見、親方さんの詫び事でも、小刀針でも止めぬ揚巻が間夫狂ひ。○サア切らしやんせ。わたしにかう言はれて、よもや助けては置かんすまいがな。」(54頁)

助六は、とっちめた門兵衛にあらためて「なんという野郎だ」と言われて答えるところが爽やかです。これは同じ映像を故十二代團十郎さんが語る所から。

「いか様、この五丁町へ、脛をふん込む野郎めらは、俺が名を聞いておけ。先づ第一瘧が落ちるわ。まだよい事がある。大門をづつと潜ると、俺が名を手の平へ三遍書いて嘗めろ。一生女郎に振られると言ふ事がない。見かけは小さな男でも、キモが大きい。遠くは八王子の炭焼き売炭の歯っかけ爺、近くは山谷の古遣手、梅十婆アに至るまで、茶飲み話の喧嘩沙汰、男伊達の無尽の掛け捨て、遂に一度も引けを取った事のねえ男だ。江戸紫の鉢巻に髪はなまじめ、刷毛先の間から覗いて見ろ、安房上総が浮画の様に見えるわ。相手がふえれば龍に水、金龍山の客殿から目黒の眠蔵まで御存じの、お江戸八百八町にかくれのない、杏葉牡丹の紋附も櫻に匂ふ仲の町、花川戸の助六とも又は揚巻の助六とも言ふ若い者、間近く寄つてしやつ面を拝み奉れエエ。」(68頁)

後回しにした意休の、花道に出てきたときの粋なセリフは、古いテキストで拾いますとこんな具合です。

「誠や一双の屏風仙人の枕とやら、鴻門を破って高祖を助けし樊噲が力業、力づくでも動かぬものは傾城の意気地、今宵も振らるる仲の町の花の雨、干すかたもなき袂と思へば、振らるるも一興、若い者共、いつその事酒と討ち死にはどうだ。」(48頁)

以上は、揚巻、助六と同様に、文化八年二月七代目團十郎助六初演台帳を底本とした岩波文庫本から拾いました。映像のものとは違う所が少なくありません。
大正四年に十五世市村羽左衛門が二回目の助六を演じた際の本を書き写した『助六由縁江戸桜の型』にも、小異で同じセリフがあります。
上掲の映像から左團次さんの語るのを見て下さい。

ところで・・・
明治十四年印刷本を写したものを元にした古典大系本(*9)、同じく白水社の歌舞伎オンステージの本(*5)には、実はこの、意休のいちばんいいセリフが、ない。
これが、今回の私の「実は」であります。

大正四年にはあっても、明治前半にも、より古い文化八年にもない、というのであれば、意休の「いちばんいいセリフ」は明治十四年より後に出来た、と簡単に結論づけられます。
ところが、文化八年、七代目團十郎が演じた時には、「意休のいちばんいいセリフ」は、すでにあったのです(上の引用の通り)。

どうしたわけか、途中の明治十四年に、ない。
この年は「助六」の上演自体がなく、この前後での上演は、明治五年(助六=團十郎、このときはまだ養家の河原崎を姓とし権之助の名だった)から明治十七年(助六=團十郎)まで空白です。
このテキストでは、意休のこのセリフを意図的に抜いたのでしょうか。
だとしたら、どんな意図からそうしたのか、となると、答えに直結するヒントは、全くありません。
明治十四年本で助六役に想定されている九代目團十郎がかんでいたのでしょうか?

九代目團十郎は、明治5年にいわゆる「散切(ざんぎり)物」という新社会・風俗劇が登場して以来、おそらく新しく現れ始めた他の演劇に対抗心を燃やし続けた人だったのではないかと思います。明治11年には、時代物を活きた歴史たらしめようとした「活歴劇」なる名称が演劇史に登場しますが、これには團十郎が大きくからんでいたと言われています(*13、70〜71頁および79頁の注36)。
九代目は、こんにちの歌舞伎の演出に大きな影響を残しています。
歌舞伎十八番の「勧進帳」で、もともとはいまより軽い衣装だった四天王(弁慶以外の義経の家来)を義経・弁慶と同じ大口袴にしたのは九代目だったとのことです(*14、81頁)。これによって「勧進帳」はどこか高尚なものになってしまいました。
また「熊谷陣屋」の最後、息子を敦盛の身代わりにした熊谷直実が幕のしまった後「十六年はひと昔。夢だ、夢だ」と詠嘆して去って行く場面も、九代目の型とのことです(*11、83頁)

九代目は「できるだけ従来の様式的演出を避けて、いわゆる『腹芸』の自然主義的な表現をとった。また有職故実を正して絵巻物のような舞台をみせた」(郡司正勝による、*13、71頁)のだそうで、上の「勧進帳」や「熊谷陣屋」の例も、そうした九代目の演じかたにそぐうものだと感じます。

意休のセリフは、もし九代目がカットしたのだったとしたら、なぜカットされたのでしょう?

意休のセリフをもう一度読んでみると、意休は「女郎に振られる」のを覚悟しているようです。
いま前半をカットした上演でこの場面をみると、なんの不合理もないようにみえます。
ですが、カットされた前半部では、まえもって現れている揚巻は、方便ではありますけれど、若い者を茶屋に使者に立てて
「意休さんはいよいよ今宵おいでなさんすか」
、待っていますよ、といわんばかりの言づてをさせているのです(*5は45頁、*9は83頁、*12は42頁)。
この言づてにのって現われる意休が振られる覚悟だなんて、不自然と言えば不自然です。
もし明治十四年の本のカットが意図的になされたのであれば、そしてそれはもともとの台本を省略しないで演じる立場から考えられたのであったら、カットは、意休の出をなだらかにしたいとの、九代目團十郎の自然主義からなされた可能性があったとしてもおかしくないのではなかろうか、と思います。
・・・まぁ、勘ぐりには過ぎないのですけれど。
(なお、九代目團十郎の最後の助六となった明治29年の上演は、満江・新兵衛が去ったとで助六と揚巻がいちゃつく場面をカットした他は、いま活字で読める前半部分も実際に演じた「準・ノーカット版」であったことが、渡辺保『明治演劇史』から分かります。)

九代目團十郎は、一方で、歌舞伎十八番のものに限っても、前時代的なさまざまをそのまま残していたりします。自然主義とは矛盾すると感じられるこうしたさまざまは、しかしながら、省いたり替えたりして劇を成り立たせたり、歌舞伎好きのお客さんをつなぎ止めたりは出来ないから残されたのでもありましょうか?
このあたりは、(7)で考えます。

歌舞伎十八番の内の「暫(しばらく)」については、
「終始、江戸時代にのみ、打てば響くような反応のあった洒落が、今なお台本の中に温存されている。/岡鬼太郎がこの芝居について『何処がおもしろいと訊かれれば、何処もおもしろいと答へよう。何処が詰まらないと訊かれたら、何処も詰まらないと答へよう』と書いているのは、卓見であった。」(*14、157頁)
と、戸板康二さんが言っています。
・・・参考になるような、ならないような。


*5)諏訪春雄 編著『助六由縁江戸桜 寿曾我対面』歌舞伎オンステージ17 白水社 1985年

*9)「日本古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年

*11)市川団十郎(十二代)『團十郎復活』文藝春秋 2010年

*12)守髄憲治校訂『助六所縁江戸桜』(底本:文化八年二月上演台本)岩波文庫 1939年

*13)郡司正勝『かぶき入門』岩波現代文庫 2006年

*14)戸板康二『歌舞伎十八番』隅田川文庫 2003年、原著は中央公論社1978年

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2013年3月 3日 (日)

CMいっぱい!:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(3)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


さて、お芝居の中に入って行きたいですね。
実際の舞台でも拝見したいものです。

新しい歌舞伎座の杮葺落公演で、6月に、亡くなった團十郎さんが助六を演じることになっていたのでしたが、それはかなわなくなりました。でも、先ごろ息子の海老蔵さんが代役になった、と発表がありましたので、楽しみです。特別な会の会員などになっていませんので切符がとれるかどうか心配ですが、とれたら是非見に行きたいと思います。

http://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/2013/06/post_57-ProgramAndCast.html

「助六由縁江戸桜」は、江戸時代のCMがてんこ盛り、も見ものです。

映画なら本編が始まる前にCMのフィルムが何本も流されますね。
歌舞伎の「助六」では、劇中に、とくに前半に集中して、何本もCMを挟み込んであります。

幕が開けば吉原とりわけ三浦屋、吉原に出入りしていた菓子屋の竹村伊勢が、文字で目に入ります。

Takemuraise

「三浦屋」の暖簾から花魁たちが登場し、続いて花道を、酔ったさまで揚巻が登場し、お付きの禿(かむろ)に酔い覚ましを渡されます。この商品名が「袖の梅」。

さらに意休〜助六が登場し、意休の子分のくわんぺら門兵衛が現れた後、「福山のかつぎ」というのが出てきます。残念ながら福山通運さんではありません。蕎麦屋の出前です。しかも、運んで来るのはうどん。なんで?→(b)

Hukuyamakatsugi

この福山のかつぎにぶつかられてしまった門兵衛は、かつぎにしつこくからんで助六にやりこめられ、お煎餅の名前がついた弟分の「朝顔仙平」を呼び出します。

Asagaosennbei

これらはすべて、「助六」を見た18世紀のお江戸の人たちにとっては、実際に存在したものでした。

(写真はYouTubeの映像からとりました。歌舞伎座さよなら公演で平成22年4月に演じられたときのものです。助六=十二代目團十郎、くぁんぺら門兵衛=仁佐衛門、かつぎ=三津五郎、朝顔仙平=歌六)

菓子屋の竹村伊勢については、(2)で触れた通り、新吉原の紋日に饅頭を納入していた菓子業者、ということしか突き止めていられません。

吉原は、昭和半ばまで現実に存在する遊郭でした。

「袖の梅」(a)は吉原の商家にはあたりまえに置いてあったもののようです(『守貞漫稿』娼家 下【岩波文庫、『近世風俗志(三)』343頁、1999年】)。

蕎麦屋の福山は「助六」初演時には別のうどん屋がとりあげられていたものが、その後は「助六」が演じられた劇場、市村座の隣にあったので入替えで採用されたと聞き及んでいます。それで、蕎麦屋なのに古形をとどめてうどんを運んで来るようです(b)。
福山も、文政の頃には店が移転したか潰れたか、だったそうで(小池章太郎『考証江戸歌舞伎』三樹書房 1997年を立ち読み!)、幕末の嘉永年間にはもうなくなっていたそうです(*9、390頁。「助六」の補注七)。

朝顔仙平は、北八丁堀の有馬清佐衛門が売り出した「朝顔煎餅」を人名に洒落たもので、この清佐衛門が男伊達だったので三回目の助六上演からこの役を加えた由。この、擬人化された朝顔さんが、助六へ向って啖呵を切るとき、「煎餅づくし」というセリフを喋るのがまた愉快です。
「煎餅づくし」の中に出て来る朝顔煎餅以外の4種の煎餅も、みんな実在したものです。伊勢屋の薄雪煎餅、翁屋の木葉煎餅(文政期か?)のふたつが固有名詞で、砂糖煎餅と塩煎餅はそうではなかろう、とのことです(*9、392頁。「助六」の補注一八)。

いま上演される範囲ではこれくらいですけれど、現在の「助六由縁江戸桜」は、活字で見ることの出来る台本のうち、全体の3分の1を省略して上演されています(c)。出ている映像では見ることの出来ない末尾の部分は省略されないこともありますが、冒頭の、揚巻が登場する前の部分、大きく省かれているところには、白酒売の言い立て(売るものを宣伝する喋り)が出てきます。
現行と同じような枠組みの上演であった大正4【1915】年の台本(*10)では、省略した白酒売の言い立てに替えたのでしょうか、「外郎売」の言い立てが劇の最初の方に盛り込まれています(→d)。このときの外郎売の口上は歌舞伎十八番の「外郎売」にある口上(セリフに出て来る透頂香は、小田原のとら屋藤右衛門が売っていたもの。これだけは現在もある。http://www.uirou.co.jp/http://www.uirou.co.jp/uiroutoha.html)を大幅に省略したものが台本上に載っていますけれど、実際の上演でも省略が加えられたのでしょうか、どうでしょうか。

それにしても、現実に存在したとはいえ、吉原遊郭を除けば、ほかのものは明治維新よりも前に消え失せたものばかりです。
なぜ現在のものに置き換えて行かなかったのでしょう。

CMにはなっていませんが、助六の履く下駄は、いまでも「魚河岸の人たちからいただいたもの」を使っているのだそうです(十二代目市川團十郎『團十郎の歌舞伎案内』207頁、PHP新書 2008年)。鉢巻の縮緬も明治29年の上演までは魚河岸から贈られるのが慣例だったそうで、福山のかつぎの半纏も、蕎麦屋の福山があったときには、福山が提供したのだそうです『考証江戸歌舞伎』に書いてあったように思います)。揚巻や白玉が登場する際に若い衆が持つ箱提灯も、吉原が提供したものでした。
みんな、江戸期の商業の台頭と確立の中で花を咲かせ、消えて行った存在です。

「助六」劇は、上演が重なるたびに世話になり続けたこれらのスポンサーを今も大事にしている、ということなのでしょう。過ぎ去り、消え失せた、と見えているものも、永遠の感謝を捧げることで、その存在の新鮮さを保ちつづけるのだ、という精神は、「助六」劇全体を貫いています。
現在では上演されない白酒売や外郎売の言い立ても、江戸中期の、しゃべりを看板にした商売の面影を良く伝えているのでしょう。
この、しゃべりの面白さが、舞台装置や衣装の鮮烈さとともに、商売っ気とは関係のない助六、揚巻、意休の台詞まわしの中にふんだんに採り入れられています。それはまた別に注目して行きたいと思います。



a. 袖の梅のこと、*9、81頁の頭注11・・・「吉原大全」に「袖の梅は正徳年中(1711年4月25日〜1716年6月21日)、天溪といえる隠者ありて、伏見町に住けるが、酒客の為にこの薬を製してひろめける」。

b. 「福山のかつぎ」〜*9、390頁。「助六」の補注七・・・七代目団十郎初演のときから、福山となった。福山は堺町の蕎麦屋で、芝居へ蕎麦の出入りを勤めていた店、芝居が猿若町へ移転したとき、同所へ引越し、一丁目新道の角に居たが、嘉永の初年に絶えた。福山の前は、二代目の三度目の寛延二年以来、市川屋で、市川屋は、堺町にあった名代の饂飩屋市川屋弥助のことである。「担ぎ(かつぎ)」は出前の男のことで、挟み箱ようのものに入れて配達したのをいう。なお、福山の蕎麦屋になっても、それ以前の市川屋のうどんを残し、芝居にうどんを出すことになっている。

c. 揚巻登場前の、現在大幅に省略されている台本部分には、いまみられる芝居では途中から現れる助六母満江、くわんぺら門兵衛、朝顔仙兵衛、遊女白玉(揚巻の妹分)、白酒屋新兵衛(実は助六の兄)が登場します。この部分が上演されると、「助六」の芝居は、他の世話物と似た感じの筋立てに見えて来るのではないかと思われますが、いまも2時間かかって演じられるところが、3時間かかることになります。

d. 「外郎売」はもともと独立狂言としてなされることがあまりなく、後の十一代目團十郎が、昭和15年に七代目市川海老蔵の襲名披露公演をした時に、大正四年とはまた違う演出で「助六」の中に組み込んだそうです(*9 395頁 「助六」補注4)。白酒売りの言い立てと同じ形式なので、それと取り替えられることがある由。


*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年、年表は富田鉄之助筆、16~35頁。

*8)「老のたのしみ抄」・・・郡司正勝校注、『日本思想体系61 近世藝道論』岩波書店1972年所収 これ、本当に二代目團十郎が書いたものを引き写したのだという印象を受けました。って、誰も疑ってないんですが(汗)。

*9)「古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年

*10) 遠藤為春・木村錦花共編「助六由縁江戸櫻の型」劇文社 大正14【1925】年

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2013年2月27日 (水)

抽象の吉原:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(2)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


「助六所縁江戸桜」の舞台は、新吉原の妓楼の中でも最高級の大見世、三浦屋の入口をかたどっています。
屋根は普通の切妻かと見え、玄関には唐破風がのせられています。江戸期の風俗店はこのような意匠だったのでしょうか。

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新吉原の街割りは、極めて大雑把に言うと、目の字を横に二つ並べたようになっていて(目目)、最下部(北東)中央に大門(おおもん)があり、あとは四角の中が下から順に江戸町、角町、京町で、右側が一丁目、左側が二丁目でした。ただし、左側の最下部(大門寄り)の一角は伏見町で、そのぶん左側は区画が多かったのでした(*1 46頁図)。目と目の間が、仲の町というメインストリートで、1741年頃に桜が植えられました(この桜は、以後、毎年植え替えられた由)。新吉原の殷賑を描いた浮世絵には、この仲の町の桜が見られます。歌舞伎では「鞘当」や「籠釣瓶」というお芝居の幕開きで、往時の仲の町の桜を華やかに見せてくれます。いまの吉原の跡地である千束界隈には、こうした往時の面影はありません。

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ついでなので現在の仲の町通りのあたりの写真を載せておきます。

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吉原の往時の名残は、大門に至る道が真っ直ぐではなくて曲がっていたのが、そのまま舗装されていると分かるくらいのものです。で、大門から吉原跡地には、常のお勤めの女の人や生真面目な男の人は、ちょっと立ち入れないでしょう。
昔の新吉原のいちばんはずれに当たる場所には、吉原神社があります。この仲の町通りの景色は、吉原神社前からのものです。

三浦屋(a)は新吉原の京町一丁目に元禄期に実在しており、支店(のれんわけした店?)もあったほどの吉原の顔でしたが、「助六」の舞台が三浦屋そのものをかたどったかどうかは分かりません。

この店先でくりひろげられる男伊達・女の張り、の芝居は、三浦屋である必然性はないでしょうから(事実、江戸での初めての助六狂言は別の妓楼前の設定だったそうです)、この店の意匠で吉原の世界を抽象しているのだ、と捉えてもいいんじゃなかろうか、と、勝手に感じております。
抽象である、と感じて良いと考える一つの理由は、明治十五・十六年版の『歌舞伎十八番の内』(*5の底本)には、揚幕の所に大門口を飾り付け、劇場のなか全体を新吉原仲の町にみたてる、とあるからです。これは、同じことが、岩波文庫版の底本になった文化八年(1811)の市村座での上演本にも記されています。ただ、それ以上に古いものを活字で見てはいませんので、このことはどれくらい遡れるのか、分かりません。

三浦屋は江戸の遊女屋としては古くから名前が出てきていて、元吉原当時から徳川幕府が遊女屋と話をするときの代表に選ばれていたということですから(小野武雄『吉原と島原』39頁、講談社現代文庫)、この名前自体が吉原を象徴するのにふさわしかったのだろうと推測されます。(b)

玄関は上手寄り3分の1くらいの位置になっていて、中央から下手にかけての四間は赤い総籬(そうまがき)の大格子になっています(*4 19頁、*5 15頁)。お客は、籬の格子の間から見える遊女を眺めて品定めしたのでした。総籬は、上級遊女を抱えた大見世の象徴です。中見世になると四分の一くらいが、小見世となると上半分が明いていました。(*1、50頁)
「助六」の舞台では、この総籬の前に、赤い毛氈をかけた長床几が五脚しつらえられています。現実に、妓楼の店先にこんなベンチが置かれることがあったのでしょうか? 浮世絵などではそんな場面を見たことがありません。「助六」劇中では、ここに花魁や新造(なりたての遊女で、まだ花魁の付人をしながら接客法を学ぶ)がずらりとならんで掛けます。とくに、大格子の前には花魁たちが座ります。
ほんとうの妓楼前では、客の側が格子の中側に優雅に座っている花魁たちを眺めるのです。でも、舞台では、遊女たちが外側に出ている。これも、劇ならではの一種の抽象なのではないかと感じます。(格子の内側にいる高級遊女たちを描いた「張見世の遊女」という見事な浮世絵があります。*7 52〜53頁に部分的に掲載。)
吉原の遊女と遊ぶには、安くても一両ではとてもたりなかったそうです。単純に比較出来ませんが、一両はいまの十万円以上の価値がありましたし、一方で庶民のお給金は年に五、六両くらいでもましなほうの水準だったようです。歌舞伎も決して安価な見物ではなかったのですけれど、観客は、せめて歌舞伎を見るお金を払って、吉原の高級感を垣間見たかったことでしょう。演じる側は、それにこたえて、ほんとうなら吉原でも見えにくい高級遊女たちの姿を表側にしてみせる大サービスをしたのかも知れませんね。

遊女町ですから、高級、と言っても、他の町から実際の吉原を覗きに行ったのは男ばかりだったことでしょう。
とくに「助六」では吉原の華やかな面のみが切り出されています。
江戸期から昭和33年の売春禁止法による遊郭廃止までの吉原を解説した諸書には、遊女町ゆえの人身売買まがいや性病など暗い話題にもかならず触れています。吉原の背景をきちんと知りたければ、そういうものも読んでおかなければなりません。読んで初めて、劇中の揚巻や白玉といった人物の言動の意味も分かって来たりします。とはいえ、「助六」の舞台そのものを見る時には、吉原の持っていた陰の面をそこから引き出そうとしても無駄だとは心得ておくべきでしょう。(c)

脱線してしまいました。

舞台の上にはなお、下手に水桶があったりします。これは、演技に使われる時には本当の水を張るんだそうですが、残念ながら市販の映像ではこれを使った演技が行なわれる部分は省かれた上演のものしか見られません。台本と芝居の運びについては後日眺めたいと思っております。

舞台写真再掲。

Butai02

舞台の両脇は「丸に隅立四つ目の紋を描いた四角形と、『新吉原竹村伊勢』の文字とを交互に組み合わせたデザインの道具が飾られる。これは、竹村伊勢から贈られた蒸籠の積物を、模様のように様式化して表現している」のだそうです(*6 98頁)。蒸籠とは饅頭を蒸す木箱で底が簀になったもの。肉饅を蒸す時に使っているのを見たことがあるでしょう。饅頭は芝居見物のときの代表的な食べ物だったようです。で、饅頭屋は芝居のときに劇場にこの蒸籠を積んで祝いの心を表したのでした。積まれたのは他に酒樽や米俵、炭俵などでした。これらを「積物」と称したのです。積物の起こりは元禄期をそう遡らない時期だったようです。竹村伊勢とは、吉原の紋日(客寄せのための特別サービス日、*1 101頁以下参照)にそこへ蒸籠の積物を贈った菓子業者だそうです。積物は、富裕の象徴として物をたくさん積み上げてめでたさを表現する手段だったので、これが舞台の両側を彩っているのは、「助六」がある種の祝祭劇なのだということを象徴しているのでしょうか。(以上、*6 91〜101頁参照)

以上、不十分かもしれませんが、とりあえず「助六」の舞台装置について、その主なところを見てみました。


a. 三浦屋は代々の高尾など高名な大夫、花魁を抱えていたために、吉原について書いたり触れたりした本には三浦屋の名前がしばしば出てきます。たとえば『吉原徒然草』(結城屋来示 作、元禄時代、上野洋三校訂 岩波文庫 2003年)には三浦屋の遊女が何人も登場します。早いうちに廃業した、となにかで読んだ気がするのですが、はっきりしません。本家と思われる他にも京町二丁目などに分家なのか暖簾別けなのか私には分からないのですが別の三浦屋もありました。いまでは上演されない前半部の門兵衛のセリフに、助六の母、満江を「貳丁目で見た」とあることから、「助六」の舞台の三浦屋は二丁目の方の見世だった、とする注釈が、諏訪春雄編著『助六由縁江戸桜 寿曾我対面(歌舞伎オンステージ17)』(白水社 1985年、22頁)にあります。

b. (1)で参照した赤坂治績『江戸っ子と助六』には、「三浦屋は、大門(おおもん)近くにあり、会所を兼ね、仕置場(懲罰場)でもあったようだ」(137頁)とありますが、三浦屋があったという京町一丁目は吉原大門から見ていちばん奥ですから、この記述には矛盾があります。吉原を細かく調べた本でも見つければ、本当の所が分かるのでしょうけれど。なお、元吉原時代の三浦屋(本家本元でしょう)が元吉原京町一丁目で仲の町に面するかのように存在していたことは、『守貞漫稿』巻之二十二所載の元吉原の図から読み取れます。(喜田川守貞『近世風俗史』三、岩波文庫 1999年 312頁)

c. 往時の吉原の情景や人模様を、なるべく実感をもって知りたいときには、ふくろうの本『図説 浮世絵に見る江戸吉原』(河出書房新社 2007年新装版)をお勧めします。図版を見るだけでも印象が強く、読めば説明もかなり詳しく書かれています。


*1)小野武雄「吉原と島原」1978年教育社歴史新書〜2002年に講談社学術文庫

*4)遠藤為春・木村錦花『助六由縁江戸桜の型』劇文社 大正14

*5)諏訪春雄 編著『助六由縁江戸桜 寿曾我対面』歌舞伎オンステージ17 白水社 1985年

*6)服部幸雄『大いなる小屋』講談社学術文庫 2012年、原著 平凡社ライブラリー 1994年

*7)佐藤要人監修・藤原千恵子編『図説 浮世絵に見る江戸吉原』ふくろうの本 河出書房新社 2007年新装版

舞台図版はこちらからお借りしました。松竹さんスミマセン!
http://www.kabuki-bito.jp/special/kabukikeitai/04/

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2013年2月23日 (土)

助六から助八まで:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(1)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


歌舞伎に脱線します。

数少ない実演観劇体験で魅了された大きな役者さんが次々と物故し、團十郎さんも亡くなってしまい、いちどは團十郎さんの実演で見たかったという夢もかなわなくなった「助六」をDVDとYouTubeの映像で繰り返し拝見しながら涙に暮れておりましたら、「助六」の魅力にどっぷりハマってしまいました。
「助六」の舞台装置そのものは、シンプルきわまりない。ところが、シンプルなのに強烈に目に焼き付く。登場する助六・揚巻・意休その他の人たちも同様です。
この強烈さがどこから来るかを突き詰められたらいいな、と思ってしまいました。

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さっそく本を漁りましたけれど、そこは一般サラリーマン、なかなか思うようなものにめぐりあえません。舞台をめぐること、テキストをめぐることも、数冊の本を読んだだけのことをどのように整理するかだけで、考えあぐねてしまいます。
それでもその分、思いのほかに尽きない興味のネタが「助六」にはあるのでした。
何回かかけて、いくつかまとめていこうと思います。

まずは、助六は現実にいたのか、という疑問をとりあげてみましょう。
助六以外の登場者には、またお芝居の場面にこと寄せて、別に触れられればと思います。

劇中人物は、たとえばシェークスピア劇ならば、最近遺骨が発見されて話題の「リチャード3世」なども、遺骨の特徴がシェークスピアに描かれた通りだったとかそうでないとか、実在と創造の迫間で人々の大きな関心をかいます。

http://www.47news.jp/CN/201302/CN2013020401002216.html

その人物は実在したのか、しなかったのか。したのならば、劇に描かれた姿は真実なのか。

歌舞伎の「助六」も、実在の人物をもとにして造形された、とされています。
Wikipediaの「助六」の項にも、わりと細かく綴られていますが、[要出典]だなんて付けられちゃっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD
でも、実在の「助六」について出典を求める方が無理難題なんではないのかえ、と、わたくしなんざ思ってしまいます。
「助六」の舞台は江戸の色街、吉原(よしわら)です。立派な学者さんが、その吉原についてまとめた啓蒙書(「吉原と島原」、*1)にも、実在した助六と意休のことらしい話がちょっとだけ出てくるのですけれど、出典が何か、なんて、どこにも書かれてません。

助六に特定の実在を結びつけるのは、困難なようです。

細かな説はともかく、「助六」上演関連でまとめられた年表(『「助六」研究資料』*2、『江戸っ子と助六』*3)は、助六の名を冠した歌舞伎が京・大阪で、まずは心中ものとして登場している事実を示しています。
昭和33年の*2の年表では1709【宝永6】年に名優芳沢あやめが「助六やつし」というのをやってウケた、というのが最初に置かれていますが、*3の年表ではその3年前に京・早雲座で大和山甚左衛門(※)が『助六心中紙衣姿』なる狂言で助六を演じたことを記しています。同じ年には大阪・片岡座で揚巻も登場する『京助六心中』が演じられているそうです(意休の登場が確認出来るのは4年後の『花館愛護桜』、*2、*3とも年表に記載)。
さらに、*2中の『「助六」考』・『続「助六」考』(伊原青々園)には、『上巻助六千日心中』が延宝6【1679】年3月に浄瑠璃となり、『万屋助六心中』は同年5月に大阪の芝居で当たった由が記されていて(45〜46頁)、*3に上げられているものより古いところが気になります。このあたりは、実見しないと本当のことは分かりませんね。

心中、はこんにち私たちが普通に見る「助六」には馴染まない気もしますが、紙衣(かみこ)ならば助六が劇中で母の満江(まんこう)から渡されて着ますので、これらの心中ものは今の「助六」とまったく関係がないとは考えられません。揚巻が登場するのも同様です。したがって、この上方の心中ものが江戸の「助六」のルーツと見なすのは適切だということになります。

では、この心中ものは、実際の事件を元にしたものなのかどうか。

京の遊郭、島原の遊女で揚巻という人が万屋助六と心中をした、というのがその事件だと言い、1673【延宝元】年(*2年表)のこととも、年また前掲『助六心中紙衣姿』上演の少し前(*1の230頁には1709年3月10日に千日寺で情死、女は即死、男は翌日夕方死す、とありますが、年が後です)とも言われていますが、はっきりはしないそうです(*3)。
1709年説の出典は明確ではありません。また、前出のとおり、1706年、早ければ1679年には「助六」の心中ものが上演されている事実があるとなると、信憑性が希薄だろうと思います。なお、助六は揚巻とのあいだに子供が出来たために勘当された、なる趣旨の風聞がある他には、この事件の背景が不明確なので、助六と揚巻の人物像は何も分かりません。

発端は情死事件をもとにした心中ものであったにせよ、事件じたいは、のちに江戸で上演されるようになった「助六」に人名と場所の雛形を提供したに過ぎない、とみなせます。

上方の「助六/揚巻」は、江戸に名前だけを提供して成仏したのでしょうか。
(いまなお心中物として演じられる助六劇もあるやに聞いてはおります。)→【付記1】参照

『助六所縁江戸桜』に登場する助六は、いつも喧嘩をふっかける荒っぽい男です。
こちらは、助六劇が江戸っぽくなっていく過程で、江戸の人物たちから肉付けをされていったかと思われます。が、これまた実在の人物との関係がはっきり分かりません。

*2によりますと、文化【1804】元年刊、山東京伝「近世奇跡考」に、花川戸の助六という浅草三谷のたいしたこともない俠客が、万屋助六と同名なので、(吉原に本当にあった)三浦屋の総角(あげまき・・・この人は実在したかどうか分かりません)と組み合わせ(て狂言を仕立て)た由が記されているとのことです(65頁)。

江戸の助六については、*2の本が、出所不明ながらも面白い話を豊富に伝えていますので、それを書き抜いておきましょう。

75df685af748ffcea432ll_2 京伝の記述の出所かどうか分かりませんが、青々園によりますと(*2、45〜59頁)、『説文集(ぜいもんしゅう)』なる書物に、宝永の頃(1704年3月後半〜1716年6月中旬)、花川戸の戸沢某という人の三男に助六という人がいたけれど、俠客でも揚巻の情夫でもなんでもなかった、との記載があり、さらに、その人のいた戸沢長屋に同じ名の助六という、禁獄経験のある俠客が住んだ、と「今昔集」という書物に載っている、とされています。
さらに、『宝享見聞集』にはこの戸沢長屋の助六が三浦屋の揚巻と深い仲で、揚巻の客であった田中という武士に喧嘩を仕掛けられた話があるそうです。これは何らかの事実を反映していたのでしょうか、花川戸の助六ならぬ「蔵前の大口屋<助七>」が大松屋の松枝(まつがえ)という遊女の馴染みで、恋敵だった湯島辺りの田中三佐衛門に闇討ちにされかかったのを、<髭の意休>という幇間が内通したので、逆に大勢を打ち懲らした、と、『椎の実筆』に書かれていて、同工異曲が『萍華(ひょうか)漫筆』に書かれているとのことです。意休が幇間だ、というのも面白いのですが、いまは立ち入りません。
さて、さらに加えて、『萍華漫筆』には、大口屋<助八>という義侠の人がいて、人を殺してしまった或る男が一人残る母の食うに困るのを嘆いて命の助かるよう相談を持ちかけたところ、助八が罪を被って牢死した、その馴染んでいた吉原の大松葉屋小紫が助八の所にいって助八の母を養い、母の病死ののち鳥越の易行院(浅草山谷町にあったが、現在は東京都足立区東伊興4丁目5−5に移転)の助八の墓前で自殺して果てた、とある由。

助六だの助七だの助八だのという名前が江戸にどれくらい溢れていたのかは知り得ませんが、吉原に出入りしていたいろいろな人物像が、芝居の「助六」を肉厚にしていったさまは、こうした記述が残っていることから察することが可能でしょう。

なお、Wikipedia記事には、大口屋暁雨という通人が「助六」のモデルだと考えられている、とありますが、違うようです。→と、まとめたあとで、別の記述を見つけて、少しうろたえています。【付記2】参照

通人とは遊郭で生まれた言葉で、いわば金も力も兼ね備えていた顔役のような存在を指すとのことです(*3、153頁)。『助六所縁江戸桜』で助六の股をくぐる通人には、とても力のありそうな風はありませんので、これは一律にとらえられないイメージではあるかもしれません。

大口屋、というのはサラ金業者のようなもので、札差も、歴史的なことはともかく、ほぼ同義です(語義は辞典を参照下さい)。
遊郭の上客は江戸時代初期には高位の武士や材木屋が多かったのが、享保の改革あたり(1716〜1745)を境目に米の価格が大きく下落して貨幣経済への本格的な移行が進むと、札差に変わって行ったようです(*3、136頁)。あぶく銭をたくさん持つ人物が、通人と呼ばれたのだということになります。
その代表的な面々は十八大通と称されたそうですが、暁雨の同時期の大通の大半は札差なのだそうです。ただし、十八は実数ではなくて縁起のいい数だから使われたものらしく、十八大通の顔ぶれも書物によって異なるとのことです。

十八大通のひとりとされた暁雨は、宝暦〜天明(1751〜1788)期に吉原に通った人物で、馬文耕の書いた『江戸著聞集』に、蔵前の大口屋暁雨の吉原での行状を助六の芝居にしたとあるけれど、それは違う、と、青々園が述べています(*2、49頁)。暁雨の年代が「助六」の劇の整った時期より後と考えられるからです。
奥村政信が浮世絵に描いた助六の拵えは、暁雨の姿を写したという説があるとのことですが、赤坂治績氏は、暁雨の方が真似したのだろう、と否定しています(*3、93頁)。真似だとすれば誰の真似だったのか、は、明らかではありませんけれど、二代目團十郎ということになりそうです。
暁雨(本名は治兵衛)という人は、「助六を気取って、黒羽二重に緋博多の帯を締め、鮫鞘の刀を差し、桐の下駄を履いて吉原に通ったという。試し切りで罪のない人を殺した伝説もある。大口屋は要するに、頭の中も着ている物も俠客と変わらなかった」(*3、152頁)のでした。
この、助六を気取った暁雨の扮装自体は、こんにちまで伝えられる助六の扮装になっています。しかしながら、黒羽二重等々の拵えは、寛延2【1749】年に中村座で演じられた『助六廓家桜(すけろくくるわのいへざくら)』で二代目團十郎がととのえたものと*2の年表で読み取れ、やはり暁雨が発祥ではないと考えられます。政信の絵も、じつは寛延2年の二代目團十郎を描いたものなのだそうです(*3 http://www.shinchosha.co.jp/books/html/610178.html)。

助六なる人物のモデルは誰だったのか、の話は、これくらいで。


※現代ではジサマくさく見える名前ながら、大和山甚左衛門は、当時のトップスター坂田藤十郎に後継指名を受けたほどの素晴らしい若手だった、と*3の赤坂著本文62頁に書かれています。

*1)小野武雄「吉原と島原」1978年教育社歴史新書〜2002年に講談社学術文庫
*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年、年表は富田鉄之助筆、16〜35頁。
*3)赤坂治績「江戸っ子と助六」巻末、新潮新書、2006【平成18】年、年表は巻末

参考
http://www.ikedakai.com/cn20/cn26/pg276.html(隆慶一郎ワールド)
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg572.html(武江年表 承応二年右末尾参照)

【付記1】
万屋助六と揚巻の心中事件には異説がある由、渡辺保『江戸演劇史(上)』に載っているのを、立ち読みして(汗)知りました。曰く、助六というひとは(どういう理由でなのか)徳川秀忠暗殺未遂事件に絡んで刑死した、揚巻はその後追いで自殺した、という。これは都一中(1706年の大阪・片岡座の囃子方だった人、一中節の始祖)が語ったものだ、とのことです。この話は目にした限りの本には、まだ他に載っているものを知りません。もし何か情報がありましたらご教示下さい。・・・2013年3月10日追記:この話、伊原青々園の「続『助六』考」(*2 54〜59頁にしっかり書いてあるのを見落としていました。これは事実とは信じられない旨も述べられています。

【付記2】
田口章子『二代目市川団十郎』(ミネルヴァ書房 2005年)を拝読しましたら、次のようなところがありました。この記述を信じて良いなら、少なくとも、大口屋暁雨は現行の助六の意匠的モデルではあったことになります。二代目團十郎の日記「老のたのしみ」(享保19年〜延享4年、1734〜1747)を読んで、確認出来る限りの事実を確認したいところです。この日記は山東京伝が抜き書きした『老のたのしみ抄』が出版されていて、格安の古書で手に入りそうです。抄の信憑性までは分からないまでも、近々目を通したいと思います。
以下、引用。

関根只誠(『助六総角狂言考』)によれば(略)【三演目の】男伊達助六のいでたちは、黒羽二重の小袖に杏葉牡丹(ぎょようぼたん)の五つ紋を染め抜き、裏地は紅絹(もみ、赤い無地の絹地)で目のさめるようなはなやかさ。頭には紫縮緬の鉢巻をしめている。小道具の一つ印籠、尺八をうしろにさして花道から登場する。
この衣装は豪華をきわめた蔵前風といわれるファッションで、蔵前の札差大口屋治兵衛暁雨を見立てたものだという。暁雨はこの格好で吉原へ出入りしていたらしい(三升屋二三治『御蔵前馬鹿物語』)。二代目団十郎の日記『老のたのしみ』には、暁雨と交際していたことがしるされているが、小物類の鮫鞘の脇差、印籠、下駄ばきというのは当時、廓へ通う男たちの流行風俗だったというから、二代目団十郎はそのままとりいれたものであろう。(『二代目市川団十郎』51頁)

・・・でもって

【付記3】
暁雨が二代目團十郎(俳号、栢筵)と交流のあったことは、二代目の日記を山東京伝が書き抜いた「老のたのしみ抄」(*8)からはっきりします。享保19(1735)年5月10日に團十郎から暁雨に鱒を贈ったと記されており、また、元文5(1740)年3月15日には「浅草の暁雨丈御出。短冊三枚、予に発句たのみ也」とあります。元文5年は三代目團十郎(1742年に夭逝)が助六を演じた翌年です。三代目團十郎は尺八が得意だった、と歌舞伎年代記にあるそうですが、元文4年に助六を演じた時の拵えは「杏葉牡丹に五所紋、裾は色ざしで水に海老の模様、下着を重ね、帯は三升形の織出し、黒塗り下駄の黒鼻緒」だったと*2の年譜にあります。三代目の扮装が今日の助六とは異なること、暁雨と二代目との交流が確認出来るのが、二代目によって助六の扮装が今日のものになったとされる1749年よりも前であることは、心に留めておいてもいいでしょう。
もうひとつ、古典文学体系(*9)の「助六」の補注1に、暁雨が助六の扮装を真似たので今助六と呼ばれた、暁雨は1749年の「助六」上演のとき中村座で下桟敷片側を残らず買い切って見物した、との記述を引いています。これは『日本随筆大成』第二期六巻(吉川弘文館 http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34905.html 新刊本は現在品切れ)所収の「十八大通」中にある「御蔵前助六之事」(馬文耕)の記述だそうです。暁雨が助六を真似た、という時期が不明ながら、文からは暁雨の「真似」の時期が二代目の問題の三回目の「助六」より前に読めてしまうところが不審ですので、これはまた目を通したいと思っております。
決着のつかない話ではあるかと感じますが、現在の助六の扮装を暁雨が真似たのであれば、その期間は1749年から二代目逝去の1758年までの間であり、そうではなくて二代目が暁雨を真似たのであれば二代目が二度目に「助六」をやった1716年が下限となります。
「老のたのしみ」から推測される暁雨の年の頃は二代目團十郎と似たり寄ったりかと思われ、実際に1724年には札差株仲間の起立人の一人だったそうですから(Wikipediaで参照しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%A3%E5%B1%8B%E6%9A%81%E9%9B%A8)、暁雨が「助六の扮装をして吉原でもてた」となると、暁雨の方が真似をした、というのはちょっと無理があります。老齢の二代目(1749年には62歳)が演じた物を真似た暁雨も50代から60代だったかもしれないからです。
緩く考えて暁雨が若い時分に見た二代目の助六の印象が強くてそれを真似ているうちに、暁雨の方がだんだん洒落たなりになってきて、老いてまた「助六」に扮する際に今度は二代目團十郎が暁雨を真似た、ということがあったとしたら、面白いんじゃないかな、と考えます。
ただ、歳をとっても遊郭に出入りしていた、もてたのはその時だ、となれば、話は別なんですけれど。
・・・別に面白い所見があるまで、この件はこれでいったん忘れましょう。


*8)「老のたのしみ抄」・・・郡司正勝校注、『日本思想体系61 近世藝道論』岩波書店1972年所収 これ、本当に二代目團十郎が書いたものを引き写したのだという印象を受けました。って、誰も疑ってないんですが(汗)。

*9)「古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年

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