音楽を考える

2014年8月 2日 (土)

正高信男『音楽を愛でるサル なぜヒトだけが愉しめるのか』

中公新書2277 2014年7月25日発行
http://www.amazon.co.jp/dp/4121022777/

 

面白く読みました。
帯の表には「サルはiPodを欲しがるか?」とあるのですけれど、内容はむしろ帯裏側にある「人類はいかにして音楽を聴くようになったか」を真剣に考えるもので、人間にとって音楽とは何か、を問い直すものになっています。そしてその考えるところは短い「おわりに----孤人の誕生」に集約されているので、手っ取り早く要点をつかみたければ、一見そこだけ読めばよさそうに感じてしまうかもしれません。・・・いや、やっぱり全体を読むのがいいのですけれどね。それは末尾の引用数ヶ所からお分かり頂けると思います。

Saru

著者は1954年生まれの有名な霊長類研究専門家さん(京都大学霊長類研究所教授)、人間についての興味深い考察を本にし続けています。数多い著作の中でも本書は『0歳児がことばを獲得するとき』や『ケータイを持ったサル』での思考の延長線上にあるように感じました。ただしそれらの本の方は私はちらっと覗いたことがあるだけなので、これで当たっているのかどうかに確信はありません。

第1章がいきなり「九九は算数ではない」とのタイトルで、いったいこれはどういうことか、と思わず読み進めさせられることになります。以降、思考の核になるトピックはすべて心理学的な実験や堅実な観察に基づいています。
結論めいたことを決め打ちするような記述はほとんどされていないにもかかわらず、そのような手法をとることで読者をも確実に思考に巻き込んでいくところ、なかなかしたたかな筆法だな、と敬服させられるのでした。
「九九は算数ではない」の意味合いは、それがメロディの要素を強く持っていることで算数の理屈をまったく意に介することなく明瞭かつ色あせない記憶を構築してしまう、といったところにあるのであって、そのあたりは実際に読んで実験結果を参照しながら味わっていただくのがよいでしょう。併せて上げられている七五調の例や歴史的事件年代暗記の例を見て、私たちはその他の類似現象にも思いを馳せることになります。

以降、話は
・チンパンジーやテナガザルの発声と人間の発声の比較
・あるカニクイザル社会に糸ようじ歯磨きが浸透して行った理由
・ブッシュマンを観察して分かった人間固有の沈黙能力と他の動物がことばを用いずにする思考の態様
・BGMを伴ったメッセージの方がそうでないものより強烈に印象づけられること、ただし不協和音・・・著者のいいたいところはこれが音楽の理屈のうえでの不協和音に限られていないところが最後のミソではないかと思うのですが・・・への没入は束縛からへの解放を促すのではないかということ
と展開して行きます。

本書の魅力は、こうやって書き出してみると分からなくなる一貫性が、本文を読むことできちんと感じ取れること、しかも「だから絶対こうだ」というのではなくて、著者はこう考えるのだけれどどうですか、と暗黙の問いかけがこちらに向けられているのを意識しながら読み進められること、にあります。

日常の身体の動きと関係する発話を仔細に観察するならば・・・「音楽的なるもの」の浸透は存外根深い。ではそもそも「音楽的」なるものの起源は、どこに求められるのだろう?」(第1章p.30)

古来、音楽はそれがあるからといって、とくに人間の生存にとって重要な機能を果たすものではないと考えられてきた。生活上の「盲腸」のような代物というわけである。けれどもこの音楽観は非常に誤ったものであると、私には思えてならない。それどころか音楽性の高い流麗な運動に惹きつけられることが、当の身体の動きをアピールすることを解して見る側に「教育効果」を発揮することは、文化伝達や行為の継承という目的を達成する上で、絶大な効果を及ぼしていると思われる。」(第3章p.63)

「うたうという音楽的行動から、言語は誕生したのだろう。その際、両者を大きく分かったのは感情表現を含むか、それとも排除するかということだった気がしてならない。」(第4章p.108)

「そして人間は言語を操って理屈を働かすようになる一方で、感情に浸りたいときには音楽を愉しむようになっていったのだろう。「智にはたらき、情に棹さす」ものとして心の作用をとらえる発想、認知と情動を、それぞれ独立して機能する、それ自体完結した過程とみなし、かつその原則に従って行動することを自明とする世界が誕生したと表現できなくもないかもしれない。」(第4章p.130)

「なるほど音楽が、他の芸術作品に比べて感覚への依存度が高いのは否定できない事実であるかもしれない。いわば感性を覚醒させる。だがそれは「本当の自分」を目ざめさせる効果を発揮することにもつながるのである。むろん、「本当の自分」といっても、本当に「真実」の自分が存在するのではない」(第6章p.182)

「有史以来、音楽は協和音によってまず構成されるものという「常識」が連綿と継承されてきた。ところがやがて、そういう正統信仰に楯つく場が登場する。(中略)協和音は人間をより「人間的」に促す。しかしもう「人間的」であることはうんざりだ、動物でいいじゃないかという批判が音楽家のなかに出現した際、彼らがかつぎだしたのが不協和音だったのだろうと私は考えている。」(第7章p.198)

「人間が遺伝的に美しいと感ずる音楽の多様性はたかが知れていて、実はすでに出尽くしたのかもしれないのだ。(中略)もしもそうであるとするならばこれは、正統派の音楽業界は、なかなかの難題に直面していることを意味しているだろう。そもそも人間は好奇心に満ちた存在である。そうした新しもの好きの嗜好を持つ「孤人」に関し、アリストテレス言うところの徳の形成という自らの果たすべき機能をどうすればアピールできるのかを、真剣に考えるべき時期を迎えているからである。」(おわりに p.216-7)

音楽という観念にダイレクトに言及している部分からのみの引用をしてみましたが、これらがどういう実験や観察に基づいて言われたのか、を、本文に沿って考えてみると、なるほどそうかなあ、と思わされること、もうちょっと突っ込んでみたいと感じさせられることがたくさんあって、わくわくしてきます。

わりと著者自身の感情の起伏みたいなものをフランクに流し込みながら文章が構成されているので、じっくり楽しんで読めるものになっているのではないかなあと思います。

英語を母国語としている人ですらことばを聴き取れないままでも充分に楽しんでいたマイケル・ジャクソンの音楽の話とか、具体事例はないものの現代音楽が不協和音に満ちていることの意味合いとか、音楽の専門ではないところから突っ込んでいるのがまたメリットになっています。

ご一読をお勧め致します。

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2012年6月23日 (土)

Cosi Fan Tutteをめぐって・・・サリエーリとの相対比較

一時はかなり復活して大型店の店頭を飾ったサリエーリのオペラたち、最近はまたCD屋さんの棚には少なくなってしまいました。
が、映像で出ている「タラール」(1787年、フランス語、トラジェディ・リリク様式、「フィガロ」の劇作家であるボーマルシェとの共作)や、 オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の希望で「タラール」をイタリアオペラ(オペラ・セリア)に改作した「オルムズの王アクスル」(1787年、ダ・ポンテの台本 ※3)を見たり聴いたりすると、
「ああ、これじゃぁ、作品をオペラ・セリアそのものにしてしまっては、モーツァルトはかなわなかっただろうな」
と、つくづく感じます。
いずれも冒頭部が華やかで、「オルムズの王アクスル」の最初のレシタティーヴォの雅やかさに耳を傾けていると、当時劇場を訪ねた人たちの、この響きで現実から幻想の世界に逃れ得て充分満足しただろう表情が、ありありと浮かんできます。・・・例えとしてはそぐわないのですが、これを前にしたお客にもう一本モーツァルト作品を見せるとなると、時代劇を取り込んだ演歌ショーを楽しんだ人に、テントでやるような現代演劇をいきなり見せてしまうほどのギャップが生じてしまう気がします。

DVD「タラール」
http://www.amazon.co.jp/dp/B000BDJ8F4

CD「オルムズの王アクスール」
http://www.amazon.co.jp/dp/B000JCE9I8
http://www.amazon.co.jp/dp/B00005Y3JP

CD「トロフォーニオの洞窟」
http://www.amazon.co.jp/dp/B000BUCW50

CD「サリエリ・アルバム」バルトリ
http://www.amazon.co.jp/dp/B0000QWZI4

「オルムズの王アクスル」は、かつて映画『アマデウス』でモーツァルトと比べたときのサリエーリの凡庸さを際立たせるという意地悪な意図から、そのヒロインの第4幕でのアリアの終結部、作品全体のクライマックスの終結部だけが引かれていました。今でも高校生くらいですと授業の一環で鑑賞するようですから、そのイメージはまだまだ根強いのでしょう。(※1)

しかしながら、通して聴くと、「オルムズの王アクスル」のフィナーレが、オペラ全体の設計からすると、ベートーヴェンの「苦悩から歓喜へ」なるキャッチフレーズに恰好のモデルを提供していたことがはっきりと分かります。
また、同じサリエーリの喜劇(オペラ・ブッファ)「トロフォーニオの洞窟」(1785年)は、序曲(ハ短調・・・ベートーヴェンの調ですね)、それに用いた短調主題が作中に出てくる場面では、モーツァルトのオペラで石の騎士長がドン・ジョヴァンニに話しかける際の音響(ニ短調・・・これはモーツァルトの調)、あるいは同じくモーツァルトのレクイエムのRex Tremendaeの音響の原型を、これまた明瞭に聴き取させてくれるのであって、サリエーリは決して凡庸だったわけではない事実を知らしめさせられます。
「トロフォーニオの洞窟」はまた、作品成立当時かなり人口に膾炙した啓蒙主義的物語だそうで、封建制を揶揄した「タラール」共々、決してリスクを避けた作品ではありませんでした。この点はモーツァルトの方がサリエーリより冒険的だった、との定説を否定するために記憶すべきことだと思います。(※2)

それでもなおモーツァルト作品の方がこんにちまで生命を保っているのはなぜなのか、には、幾つかのポイントがあるでしょう。

第1には、モーツァルトには家庭音楽として19世紀にとりあげやすかった器楽作品も多く(しかも相対的には演奏に必要な技術は<以後の作曲家>より容易で【そんなことはない、というのは、作品の背後までを考えて演奏することが常識化した今だから言えることです】、そのぶん音楽に「深い」意味を考えるゆとりをも提供したのでしょう)、そこから関心も親しく持たれやすかったために、サリエーリだけでなく、同時代の、歌劇を主とした創作者たちを駆逐する上で有利だったであろう こと。

第2には、技術が完成したころ短時間のみ可能であった録音で、そのような事情を反映し、クラシックジャンルの録音は、古典派では19世紀後半に中に見直され評価が高まっていたモーツァルト作品が多く、モーツァルトの名前の方がいっそう人々に広く馴染まれたこと。

第3には、それらの条件に関係無く、やはり作品を聴いて行くと、モーツァルトの方が近代的なデリカシーを確かに豊かに持っていて、現在にまで強い影響を残している19世紀後半以降の嗜好のうえで「優れて聞こえる」要素を豊富に持っていること。

そもそも言葉の明瞭な単旋律化でジャンルが確立されたオペラではありますが、歌唱技術からの旋律の自立は、モーツァルト以前のどんなオペラを鑑賞しても、モーツァルトより際立つものはないように感じます。それが、19世紀以降壮大な音響を築くようになったホモフォニー音楽への愛好風潮の中で、人々がモーツァルトを最初の古典としていったプロセスに決定的なポイントになったのではないでしょうか?(※5)

モーツァルト在生時のウィーン(1781~91)でどんなオペラ作曲家が愛好されたかの順位表が、水谷彰良『イタリア・オペラ史』(音楽之友社  2006年 143頁)に掲載されています。それによれば、サリエーリはパイジェッロに続き第2位だったのに対し、モーツァルトは第7位、上演回数ではサリエーリがモーツァルトの1.8倍でした(※4)。

ウィーンでのモーツァルトは、歌劇では喜劇、イタリアオペラではブッファの作家だったことに目を留めておかなければならないでしょう。他に成功を収めたのはジングシュピール(「後宮よりの逃走」と「魔笛」)であって、ウィーンで自立した後に書かれた唯一のオペラ・セリア「ティト帝の慈悲」は、生前も当たらず、死後もしばらくかえりみられませんでした。モーツァルトが高い評価を定着させて行く過程で、今日では「ティト帝の慈悲」も名作だ、との主張もありますが、オペラ・セリアでも成功したサリエーリの作例を前にすると、私にはやはり霞んで感じられます。

こうした中、サリエーリの投げ出した台本にモーツァルトが作曲したのが、「コジ・ファン・トゥッテ」であることは、よく知られた話かも知れません。
「コジ・ファン・トゥッテ」は、シェークスピア劇で言えば「間違いの喜劇」や「夏の夜の夢」のような、取り違えが引き起こす笑いを素材にしたものです。こうした種類の笑いは、先祖をローマ喜劇にまで遡ることが出来るものだそうです(「間違いの喜劇」の元ネタは、古代ローマの喜劇作家プラウトゥスの手になる「メナエクムス兄弟」です)。
サリエーリの作曲したブッファ「トロフォーニオの洞窟」も同じ系譜に属する喜劇で、
「哲学者で魔術師のトロフォーニオが暮らす洞窟は、ある人が入口の一つから入って別の出口から出ると、その人の性格が正反対になってしまう・・・硬い人間がおおっぴらな人間に、おおっぴらな人間が硬い人間になる」
という舞台設定で、そこに入った姉妹とその婚約者たちが性格の逆転ゆえに引き起こす泣き笑いを描いた、ユニークなものです。
魔術的なものを媒介とした取り違え、という点では、これは「夏の夜の夢」のほうのヴァリエーションになるでしょう。

一方で、人間そのものの取り違えが、シェークスピアであれば「間違いの喜劇」のほうですけれど、「コジ・ファン・トゥッテ」はこちらの系譜に連なることになるでしょう。
ところが、「間違いの喜劇」では人が作為でなく取り違えを起こすおかしみでお客を安心させる作りになっているのに対し、「コジ・ファン・トゥッテ」はフェランドとグリエルモという二人の男性があえてわざわざ、それぞれ他人に変装して、自分たちの恋人を入れ換えて騙すのです。元締めの仕掛人は哲学者ですが、「トロフォーニオの洞窟」の場合とは違って、この哲学者アルフォンソは魔術は使いません。恋人を騙させるために大仕掛けをしなければならないので、お金はかなりつかったものと思われますが、とにかくそうした現実的な手段以外にはなんの仕掛けもない。
「コジ・ファン・トゥッテ」はウィーン時代のモーツァルトのオペラ・ブッファとしては彼の死後最も長くかえりみられない作品、あるいは難癖を付けられる作品となっていくのですけれども、原因は「コジ・ファン・トゥッテ」の中で起こる取り違えが全く魔術によらないものであり、そのため、男性の登場人物たちは常に「取り違え」を現実問題として意識し続けており、つらいしっぺ返しも受けるので、享受するはずの観客も舞台上の彼らと辛さを共有しなければな らなかった、そのあたりが19世紀的なモラルの目で眺めるにはあまりに苦痛だった、というところにもあったのではなかろうか、と推測します。実際に、19世紀にはウィーンなどの一部の都市以外では、この作品の復活上演の試みは<道徳的に>書き換えた台本を用いてなされたことが分かっています(名作オペラ ブックス9「コシ・ファン・トゥッテ」音楽之友社 昭和63年 所載のドキュメントを参照・・・なお、タイトルは「コジ」と濁音にはなっていない)。

人がどれだけ「不朽の作品を作りたい」と考えるのかは私には分かりません。劇音楽の創作はまずそうではなくて、当面当座のお客となる人々にその面白み、笑いの要素とは限らない<興趣>を伝え、認められたい、との思いからなされるのであるとすれば、どんな<興趣>で勝負するか、が作曲者の大きな賭け になるのでしょう。
「コジ・ファン・トゥッテ」は創作依頼主であるオーストリア皇帝ヨーゼフ2世の死の時期に上演されるというタイミングの悪さがありながら、現世的な掛けという点では決して<当たらなかった作品>ではありませんでした。1790年2月の皇帝の死の前に5回、死後の服喪期間後に5回なされた上演回数 を、少なくて失敗であったとする見解が目立つようですが、これはサリエーリの成功したオペラ・ブッファ「トロフォーニオの洞窟」がウィーンのブルク劇場で 1784年以降4年間で26回上演されたことを参考にするなら、1年間の上演回数としては決して少ないものではありません。
にもかかわらず、「トロフォーニオの洞窟」がそれ以降1809年まで多くの都市で上演され国際的名声を得たと記録されているのに対し、モーツァルトの没年である1791年以後の「コジ・ファン・トゥッテ」上演史には華々しい記録は見出せません。不思議なことに、それでもたとえばベートーヴェンは間違いなくこのオペラの存在も内容も知っていて、口では負の評価をしながら、歌劇「フィデリオ」のアリアでは手本にしたりしているのです。

サリエーリのヒットは、サリエーリが現役の歌劇作家であるあいだじゅう持続したようです。
オペラ作家としては、充分だったのではないかと思えるのですが、それでも彼は現役を退いた晩年に至ってなお、作品の改訂作業を続けていたそうです。それを思いやると、以後の彼に対する世間の無視がたいへん痛々しく感じられて来ます。本当はサリエーリは不朽を目ざしていたのでしょうか?

「トロフォーニオの洞窟」に限らず、サリエーリの書いたアリアは、概して音域が頻繁に派手に広過ぎることはなく、旋律も、どこか民謡調の平易さを持っています。チェチリア・バルトリが先年サリエーリの名アリアを集めて出したアルバムには、かなり技巧的なものもありますが、オペラの中では劇的効果を存分に発揮する線の太さの方を強く感じさせられます。「トロフォーニオの洞窟」の中の傑作アリアのひとつ、「ラララ・・・」も、底抜けな陽気さを持ちながら、歌い手の愉快な気分をストレートに感じさせてくれます。


(ソプラノ:マリー・アーネット http://www.amazon.co.jp/dp/B000BUCW50

モーツァルトの方は、とくに「コジ・ファン・トゥッテ」の中のアリアなどは、一筋縄では行かない屈折を孕んでいます。
初演時のフィオルディリージ(恋人たちの、姉の方)を歌った歌手はたいへんな技術力の持ち主だったそうですが、モーツァルトがその歌唱をあまり評価していなかったとも伝えられています。そのフィオルディリージに与えられた第1幕のアリア(14番)ほど作曲者の底意地の悪さを感じさせるものも珍しい気がします。歌い出して12小節の間に、このアリアの最低音である下線1本のAから、最高音である上の架線のついたBまでを一気に駆け上るのであって、この間、最大の音の跳躍は二音間で12度という無茶なものです。


(Soile Iskoski La Petitte Band / BRILLANT CLASSICS 93925)

とくに彼女に与えられた歌にはこうした傾向が目立ちます。他の、妹ドラベッラ、本来はその恋人で姉の方を騙すことになるフェランドの歌にも、サリエーリの作ったもののなかには存在し得ない、はちきれんばかりの激しさが与えられています。

後世の復活であらたに長く持続する生命を手中に出来たかどうか、は、以上のような台本や作曲技法の差が大きくモノを言ったのではなかろうか、サリエーリのほうが人々の興味の対象から離れてしまったのは、サリエーリという人がモーツァルト暗殺者の噂を立てられ葬られて以降であっても、そのような冤罪のゆえでは決してないのではないか、という気がしています。

サリエーリは、時の観客・聴衆たちにとって優れて「同時代者」でありました。それゆえに、作風の上で衣鉢を継いだベートーヴェンやシューベルト(彼らはサリエーリの意に反してオペラ作家ではありませんでした)の中に、サリエーリの音楽は発展解消して行ったのではないのでしょうか?
一方で、モーツァルトは、いまは「コジ・ファン・トゥッテ」についてだけ見るならば、その台本は、まだ神話や魔法の世界に逃げてた楽しみたかったと見受けられる当時の人々にとって、同時代のものではさっぱりなかったし、付けられた歌唱もあまりにもリアルに技巧的だったり起伏が激しかったりしたのでした。そのぶん、モーツァルトの方が、おそらくは<これからの風>というものにサリエーリより深く染まっていたのでしょう。それは、彼が自身の人生を、敢て安定ではない方向に踏み出すように歩んでしまったがゆえに獲得した、副次的な、生存中にはあずかるることの出来なかった恩恵によって、証明されて行ったのではないかと思われます。

ヘタなおしゃべりが過ぎて、「コジ・ファン・トゥッテ」の内容にまで立ち入れないでしまいました。
「コジ・ファン・トゥッテ」についてはもっと他に考えたいことがあるのですが、別途と致します。
末尾に、構成を掲げておきます。

※1:「オルムズの王アクスール」とそのもととなった「タラール」は、本当はモーツァルト「フィガロの結婚」より後に出来た作品ですのに、映画『アマデウス』では、それよりずっと・・・「後宮よりの逃走」よりも前のものだと信じ込ませられます。

※2:「トロフォーニオの洞窟」は「フィガロの結婚」と同時期に出来て上演を争っていた、との言説があります。言い出しっぺはフィガロの初演に出演した歌手ケリーのようですが、これは事実に反します。「トロフォーニオの洞窟」初演時にはモーツァルトの「フィガロの結婚」のほうはまだ一音も書かれていませんでした。

※3:「タラール」をイタリアオペラに改作した「オルムズの王アクスル」では、皇帝の要請による作品だからという理由で、台本作者のダ・ポンテが 先鋭的な啓蒙主義の色合いを薄めてしまっていると言われています。おそらくそれは表面上のことで、「フィガロの結婚」をオペラ化したときと同じように、検閲を通してもらえる見込み程度の削除を施しただけであり、オペラ自身のもつ風刺性を失うことは慎重に避けた、と見なす方が正しいように思います。ヨーゼフ2世は「アクスー ル」が「タラール」と全く違う作品になってしまったのに仰天したとのことで、皇帝としてはもともと「タラール」をそのままイタリアオペラにしたものを見物したかったのでした。

※4:いちおう、あくまでウィーンでのデータであることは念頭に置く必要はあります。モーツァルトをいちはやく高く評価したのはプラハのほうでした。

※5:単純な旋律は複雑な歌唱技術を要しないために、モーツァルト以前の歌劇の中では、しばしばむしろ枠にはめられ た窮屈さを持っていたように思えます。モーツァルトは正反対に、複雑な歌唱技術を要するアリアの中にも<動機>の明確な旋律を作っていて、いかなる場合も 旋律が聴き手に認識されるものとしているのです。引用したアリアを分析なさってみて下さい。

なお、「コジ・ファン・トゥッテ」の構成は下記の通りです。
新全集(第8分冊)のスコアからまとめたものですが、当然ながら全てを文字に引き写すことは出来ませんし、小節数などには数え間違いもあるかも知れません。ご容赦下さい。

登場人物
L:Fiordiligi
D:Dorabella
S:Despina
F:Ferrando
G:Guglielmo
A:Don Alfonzo

Act 1
1. Terzetto (F,A,G) Allgro 4/4 G dur 61
Recitativo secco
2. Terzetto (F,A,G) Allegro 2/2 E dur 55
Recitativo secco(2-55=1)
3. Terzetto (F,A,G) Allegro 4/4 C dur 76

4. Duetto (L,D) Andante 3/8 A dur 154
Recitativo secco
5. Aria (A) Allegro agitato 2/2 f moll 38
Recitativo secco
6. Quintetto (L,D,F,A,G) Andante 2/2 Es dur 110
Recitativo secco
7. Duettino (F,G) Andante 2/4 B dur 38
Recitativo secco
8. Coro Maestoso(Marche) 2/2 D dur 50(クラリネット、ホルンを用いないところ注目)
Recitativo secco
Recitativo acomp. (管はクラリネットとファゴット8a. Quintetto[L,D,F,G,A]) Andante F dur[表記はC)] 27)
~RequiemのOro supplexの音型による伴奏
9. Coro Maestoso 2/2 D dur 25
Recitativo secco
10. Terzettino (L,D,A) Andante 2/2 E dur 41
Recitativo secco
Recittivo acomp. (A) Allegro moderato 4/4 d moll(表記はC) 21

Recitativo secco
Recittivo acomp. (D) 4/4 d moll-B dur
11. Aria (D) Allegro agitato 2/2 Es dur 102
Recitativo secco
12. Aria (S) Allegretto 2/4 22 & Allegretto 6/8 F dur 39
Recitativo secco
13. Sestetto (L.D.S.F.A.G)  Allegro 4/4 53 & Allegro 3/4 73 & Molto Allegro 2/2 94 C dur
Recitativo acomp.
14. Aria (L) Andante Maestoso 4/4 14 & Allegro 4/4 64 & Piu Allegro 4/4 50 B dur

Recitativo secco
15. Aria (G) Andantino 2/4 67
16. Terzetto (F,G,A) Molto Allegro 3/4 G dur 61(パパゲーノ的)
Recitativo secco
17. Aria (F) Andante cantabile 3/8 A dur 80
Recitativo secco
18. Finale
Andante (L,D) 2/4 D 61
Allegro (L,D,F,A,G) 2/2 g moll(表記はG dur)-Es(from bar 138) 230
Allegro(L,D,S,F,A,G) 3/4 G dur 137
Andante (L,D,S,F,A,G) 4/4 B dur 56(RequiemのBenedictus的)
Allegro (L,D,S,F,A,G) 2/2 D dur 213

Act 2
Recitativo secco(D durはじまり)
19. Aria (S) Andante-Allegro 6/8 G dur 99(初期のト長調弦楽四重奏曲第3楽章と通底)
Recitativo secco
20. Duetto (L,D) Andante 2/4 B dur 77
Recitativo secco
21. Duetto con Coro (F,G) Andante 3/8 Es dur 83(Fl,Cla,Fg,Hrのみの伴奏 セレナータ)
Recitativo secco
22. (S,F,G,A) Allegretto grazioso 6/8 - Presto 4/4 D dur 91
Recitativo secco
23. Duetto (D,G) Andante grazioso 3/8 F dur 120
Recitativo acomp. (L,F) 4/4 g moll - Es dur - F dur - (省略可の指示あり)
24. Aria (F) Allegretto 2/2 B dur 133
Recitativo acomp. (L) Allegretto 4/4 B dur - g moll - d moll - g moll - e moll
25. Rondo (L) Adagio-Allegro moderato 4/4 E dur 127
Recitativo secco (F,G) 62
Recitativo acomp. (F,G) 32
26. Aria (G) Allegretto 2/4 G dur 176
Recitativo acomp.(F)
27. Cavatina (F) Allegro 2/2 c moll - C dur 73
Recitativo secco (S,D,L)
28. Aria (D) Allegretto vivace 6/8 B dur 112
Recitativo secco
29. Duetto (L,F) Adagio-Allegro 2/2 A dur - C dur 75
  - Largetto 3/4 A dur 25
  - Andante 2/2 A dur 42

Recitativo secco
30. (F,A,G) Andante 2/2 C dur 26

Recitativo secco
31.Finale
Allegro assai (L,D,S,F,G,A) 4/4 C 65
Andante (L,D,F,G,CORO) 2/2 Es 107
Larghetto (L,D,F,G) 3/4 As(標記はEs)  31
Allegro  (L,D,S,F,G,A) 2/2 E ~ Maestoso(CORO) D 106
Allegro (L,D,S,F,G,A) 3/4 Es ~ 2/2 g 62
SCENA ULTIMA
Andante -Con piu moto  2/2  59
Allegro 25
Andante 35
Allegretto-Andante(3/8)-Allegretto 44
Andante con moto 2/2 45
Allegro molto 96

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2012年2月26日 (日)

「演奏(楽譜?)の開放」問題

ある演奏家さんが、日本のある有名作曲家(故人)さんの編曲作品について・・・言葉は変えますが
「委嘱者が楽譜を開放しない限り演奏させてもらえないのでしょうか?」
とご発言になっており、そこにおバカな誰かさんがボケたツッコミを入れて、ひとことで厳しくコケにされてて
「それみたことか!」
と抱腹絶倒しておりました【なぜなら突っ込んだ阿呆は自分だから!】。

が、笑えない背景があると思っております。

その編曲作品、未出版です。

まず、もし出版作なら、演奏家さんはプロである限り著作権料云々はないわけで、そちらの問題はとりあえず考える必要がありません。・・・とくに音楽における著作権や版権のありかたは別によく考える必要を感じてはおりますが、そういうことでここでは全く関係してきません。

未出版なら、まず、それは編曲者がプライヴェートな範囲で披露されることを望んでいたかも知れず、そうであればかの演奏家さんのお願いごとは無理難題であったりするかも知れません。

ところが、未出版でありながら、この編曲作品は作品表にも堂々と記載されており(それで未出版だと分かります)、CDにも特定の演奏家さんによって収録されており、しかも現在では廉価盤で聴くことさえ出来るのですから、耳への普及度は高い、と推測する他はありません。
そうなると、その編曲の楽譜は、それを録音できているかたが、あたかも
「これを弾く許しを編曲者さんから頂いたのは私だけ」
と、事情を知る人たちに対しては誇示し、昔の音楽家さながらに、ご自分の看板よろしく独占化しているというストーリーしか成立しないように思います。なぜそうなるかを、さらに意地悪く憶測するなら、
「人に広げないことでかなりの金づるからじゃないか?」
「もしそうでもないのだったら、そいつは名誉欲というものではないか?」
あたりでして、これはせっかくその録音の当事者である音楽家さんをこれまで好きだったり、編曲者さんを尊敬したりしていたとしても、事情を憶測するだけでいっぺんに幻滅を感じてしまうことに繋がります。・・・バカボンのパパのように「それでいいのだ」、と仰られるなら、頭の固い私のような小市民はあとは別に何も申し上げる事はありません。そこまで発想は飛躍できませんので。

編曲者さん・・・有名作曲家さんについては、作品の録音もご著作も豊富に発行されていて、日本人音楽家としては極めて稀な例でもあり、そんなことでイメージが崩れるのは大変な損失だと感じております。ついでに言えば、このかたの作品の楽譜は他の日本人作曲家に比べて豊富に出版されているにもかかわらず、値段が相対的に他の作曲家さんのものよりかなり高く、そのことも私はかねてから疑わしくも残念にも思っております。(こちらは誤解でしたらすみません。)

録音も著作も世間に豊富に出ているその作曲家さんは、生前このように発言なさっています。

「すべては歴史が公平な眼によって見分けるだろう。真に民衆と共にある音楽は、民族音楽にほかならない。/日本現代の音楽のすすむべき方向は、私としては日本の国民すべてに愛される音楽を産み出す事にあると思う。又そう断言したい。」(武満徹「現代日本音楽の方向」1949年、単行本未収録作品~『武満徹著作集』5の191頁に収録)

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2011年2月26日 (土)

音楽とどのように出会うか

面白そう!<落語で観るオペレッタ「メリー・ウィドー」>は、2月27日(日)


ハイドン コレギウム第2回演奏会は3月6日(日)
ハイドンの交響曲第2番、10番、ヴァイオリン協奏曲第1番など。貴重な演奏会です。


( )の中に数字を記した部分については、文末の「文献など」に出所や参考となるものを記してあります。


なぜ音楽はあるのか?音楽と出会う場所音楽とどのように出会うか


さて、音楽と出会う場所、などというものを拾い出してみましても、決してすべてを尽くすことはできません。

そういいますのも、
「ああ、音楽と出会った!」
と思う瞬間は、きまりきった場所で自分に訪れるわけではないからです。

本などに出てくる例を、ちょっと拾ってみましょう。これが、感動までを書いた文、述べた言葉に出会う機会は存外にすくないのです。音楽のことを語るものは、音楽を「知っている」ことを前提にしてしまっているからかも知れません。

音楽との初めての感動的「出会い」、としては、19世紀フランスの作曲家ベルリオーズのもの。7歳のときかと思われるような記述になっていま す。・・・ちょっとキザに見えるところが面白いのですが、胸に手を当ててみれば、だれでも大なり小なり最初はこんな感じだったのではないかという気がしま す。

「朝の6時に修道院の教誨師が、私を探しにきた。時は春である。太陽は微笑んでいる。そよ風はポプラ の葉ずれの音をたてながら吹いていた。大気がこれほど甘味な馨りに充ちていたことはない。私はまったく感動しきって、聖堂の入口に飛んでいった。堂のなか へ入ると、白衣を着た姉の学友たちが真中に列んでいる。私は彼女たちと一緒に祈りながら、荘厳な儀式の時間を待った。司祭が歩み出て、ミサがはじまると、 もう私は総てを神にまかせる気になった。司祭は少女たちの前にあるきれいな卓の方へ出るように私を招いた。けれども私より少女たちの方がさきになる筈だの にと思うと、聖壇の下にまで男たちが、自分達男性に優先権を与えようとする失礼な不平さに嫌な思いがした。とにかく私はこうした意味のない名誉に顔をあか らめながら進んだ。ついでお供えの聖体パンを受けようとすると、突然、聖餐讃歌の女声合唱が始まった。私はその神秘と感動とでまごつき、並居る人々の注意 をどうしたらそらすことが出来るか分からないほどであった。私は天国が開けるのを見たように思った。愛の天国、聖なる歓喜の天国、いく度も話にきいたもの より、幾千倍も純潔で美しい天国を。真実の言葉はいかに不思議な力をもつことか。真心の旋律はいかに美しいことか!・・・」(1)

18世紀後半の神童、モーツァルトは、多分自分がどうやって音楽に出会ったか、なんてことは考えもしなかったでしょう。が、父親に涙を流させた次の エピソードは非常に有名です。既に音楽をモノにしたはずの大人が、無心に巡り会う体験をしたものです。父の友人だったシャハトナーの回想。

「いつか私は木曜日のお務めのあと、お父上と連れ立って、お宅に戻りましたが、私たちは四歳のヴォルフガンゲルル(モーツァルトの愛称)が一生懸命ペンを動かしているのをみつけました。
 父--お前、なにをしているんだね?
 W--クラヴィーアのための協奏曲なの。第1部はもうじき出来上がるよ。
 父--見せてごらん。
 W--まだ出来ていないの。
 父--見せてごらん。これは面白い。
  お父上がそれを彼から取り上げて、音符のなぐり書きを私に見せて下さいました。その大部分は消したインクのシミの上に書いてありました。つまり、幼いヴォ ルフガンゲルルは、どうやったらよいのか分からず、インク壷の底まで毎回ペンをさしこんで、それを紙の上まで持っていくので、インクはそのたびごとにこぼ れてしまうのです。でも彼はそんなことにはいっこうお構いなく、手のひらでこすり、その上に書いてしまうのでした。見たところまったくめちゃくちゃなこの 楽譜に、私たちは初め大笑いしました。しかしやがてお父上は、一番大切なこと、つまり音符や曲の作り方に注意を向け始めました。彼は長い間、じっと楽譜を 見ていましたが、涙が、喜びと驚きの涙がその眼からしたたり落ちました。見たまえ、シャハトナー君、と彼は言いました。すべてなんと正確に、規則どおり書 いてあることだろう。・・・」
(2)

子供は子供で、神童でも天才でも、子供なりに感じ取っているものが正直に語られている例は、日本の美空ひばりの、太平洋戦争中の軍需工場慰問をしたときの回想にあります。

「みんな、荒々しい時代のなかで、やさしいものに飢えていたのだ、と思います。わたしは、男の人たち の、つかれてすさんだ心に、ささやかな贈りものをしてさし上げられたのかもしれません。そうだとしたら、あのとき、わたしは、歌い手として、もっとも幸福 なときを持つことができていたのです。」(3)

初めて見たオペラに身も心も奪われたお手伝いさんの、微笑ましくも示唆に富むエピソード。

「筆者がまだベルリンに滞在していたころ、チェコ人の若い女中さんを使っていたことがありまし た。・・・仕事をしている合間にも、間断なく民謡や当時の流行歌などを口ずさんでいる元気のいい娘でしたが、ある時、ちょうど筆者がオペラで指揮していた とき----モーツァルトの《魔笛》でしたが----楽屋に、弁当や着替えをとどけに来たついでに、四階の大衆席へ行って、このオペラの終幕を、生まれて はじめて見たわけなのです。・・・この田舎育ちのチェコの娘は、オペラが終わっても席が立てなかったくらい、感激してしまったのでした。彼女自身の言葉に よれば、『自分の久しい念願がかなったような喜びや悲しみなどがこみあげてきて、ときどき心臓がとまりそうになった』というのです。家に帰ってからも、 二、三日、ぜんぜん仕事が手につかず、台所の一隅に坐ったまま物思いにふけっているようなふうで、そうっと行ってみると《魔笛》の二幕目に出る節を、ほと んど全部おぼえてしまって、その歌詞を思い出しながらうたっている始末です。そして、自分はこのすばらしい音楽をきいて、身も心もまったく別の人間になっ たとか、今までの唄(流行歌)などとはぜんぜん別な世界を発見したなどといっていました。
 ところで、話はまだこれだけではありません。この田舎 出の若い娘は、自分を別人のようにしてくれたという、この偉大な音楽の作者が、だれであるか、何年に、どこで作られたかなどは、全然知ろうとも思わぬらし いのです。・・・おそらく神様が作られたとでも思っているのでしょう。それでいて、名曲の名演に接すれば、雷にうたれたように感激し、また二流の演奏で、 ある楽器がちょっと調子をはずせば、日本の専門家などよりももっと敏感に反応します。」
(4)

こういうふうに音楽にうたれてしまったあとの話ではありませんが、音楽療法の世界に積極的に飛び込んだ打楽器奏者で作曲家の片岡祐介さんが上げてい る、施設の人たちとのセッションは、施設の人たちが演奏へと一歩踏みだすときの出会いの例をいくつか掲げています。そのなかの一例。これは、自閉症患者の かたと片岡さんと、どちらにとっての出会いだったと言えるのでしょうか?

「音楽にはあまり関心がなさそうな自閉症のDさん(20代男性)。ほかの人が太鼓を叩いたり、ピアノで遊び弾きをやっている時も、Dさんだけは我関せず、勝手にぴょんぴょん跳ねていた。
 ある日、片岡がほかの人といっしょにピアノの即興セッションをやっていると、後ろでDさんは独り、クルクルと丸椅子を手で回していた。『Dさん』と呼びかけて、楽器をすすめてみたが、反応はなかった。楽器には興味がなさそうだ。
 ある時、片岡たちの弾くピアノの音がふいに止まった。すると、Dさんの回す丸椅子も急に止まった。
 再びピアノを弾き始める。するとDさんも楽しそうに椅子を回し始める。
 そうか!!
 Dさんは音楽に合わせて椅子を動かすのを楽しんでいたのか。彼は音楽が大好きだったんだ。ぴょんぴょん跳ねていたのも、感極まってのダンスだったんだ!!
 それ以来Dさんは、片岡にとってセッションの空間に彩りを添えてくれる貴重な共演者になった、」
(5)

先のチェコの娘さんとは違い、音楽を自分でやりたい、と思うようになって、やれるようになるための出会いを求めて出歩くようになることもあります ね。そんなときのことを、ビートルズのポール・マッカートニーが、DVDに収録されたインタヴューのなかで思い出話をしています。

「(ギターの)コードを教わるためだけに、リヴァプール中を回った。B7を知っている奴がいたんだ。 当時、EとAは知ってた。だがB7は知らなかった。そこでバスをいくつも乗り継ぎ、その男に会いに行った。そしてB7を教わった。覚えて家に帰り、友達の 前で弾いてみせる。ジン〜(コードを弾く仕草)、やったぜ!」(6)

自分でやる、となり、訓練が本格的になってくると、辛い思いもします。能の梅若実さん(1959年没)の回顧。

「私は自分で言うのもおかしゅうござんすが、若い時は声に自信があったものですから、充分に聞かせよ うとして、声にまかせてたっぷり謡います。すると何度やっても(師であった父が)許してくれないんです。さあ、もう恥ずかしくてね、大勢の前に立ちん坊に されて、汗の出る思いです。しまいにはぽろぽろ涙が流れてまいります。いよいよいけないんで、父が謡って聞かせてくれますが、こちらに力がないもんで、真 似しようにも出来やしません。おいおい、泣きだしちまいました。後で言って聞かせてくれましたが、お前のナダのダの字がいけない。声で聞かせようとするか ら、仮名がのびる。節で謡え----それで解ったのでした。」(7)

解るか解らないか・・・チェコの娘さんのように、解ろうと思わなくてもいいものなのか。
音楽も人の営みである以上、私はどちらでも構わない、と思います。
が、 もし私たちがほんとうに「音楽が好き」なのであれば、聴かせてくれるかたたちが、梅若実さんのお若い頃のような厳しさを経て私たちのところに届けてくれて いるものを、これはまたチェコの娘さんのように、敏感に「見分ける」耳を、幼いベルリオーズと似たウブなものとして持ち続けることは、必要なのではない か、とも思っております。

1)清水脩 訳『ベルリオーズ回想録』音楽之友社 昭和25年 p.4-5 漢字の字体と旧仮名遣いのみ改変
2)海老澤 敏『モーツァルトの生涯1』白水Uブックス 1991年 p.41-42(単行本は1984年)会話部表記改変
3)斎藤 愼爾『ひばり伝』講談社 2009年 p.64での引用。もとは『ひばり自伝----わたしと影』の由
4)近衛 秀麿『オーケストラを聞く人へ』音楽之友社 昭和45年 p.12
5)野村誠+片岡祐介『即興演奏ってどうやるの』あおぞら音楽社 2004年 p.113
6)DVD "The Beatles Anthorogy" ザ・ビートルズ・クラブ翻訳 東芝EMI  TOBW3201 disc1 chapter2
7)白洲 正子『お能』所収「梅若実聞書」講談社文芸文庫 1993年 p.202

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2011年2月19日 (土)

音楽と出会う場所

明日なんです。おすすめです!・・・でも私は行けない。。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。↓

Ooibanner

( )の中に数字を記した部分については、文末の「文献など」に出所や参考となるものを記してあります。


なぜ音楽はあるのか?音楽と出会う場所


私たちは、どういう場所で、音楽と出会うのでしょうか?
これは、もし後々「音楽の意味って何?」などと考えるようなことがあるならば、いちばん大事な要素ではないかと思っています。
いまは、とにかく、場所のことだけみていきます。

昔の人には想像もできなかった「録音」や「録画」なることが可能になり、この百数十年でその質もたいへんによくなって、それを再生して見聞きできる機械もずいぶん安くなりました。
おかげで、普通の家庭で音楽を再生する機械を買うことが出来る国では、機械を家庭に置いたり、ポケットに入る小さなものを持ち歩いたりして、音楽 を聴く場所を選ぶことが、それほど必要なくなりました。そういう地域で生まれ育った子供たちは、家庭で、機械のスピーカーを通じた音楽と初めて出会うこと になりました。
機械で聴くことの出来る音楽は、商品化されたディスク・・・少し前までは磁気テープも・・・に収められたものに限られるのですが、私たちはその事実を、あまり自覚はしていないはずです。
(自分たちで演奏する人は、録音すること自体が手軽になりましたから、自分たちで録音したものをディスクに収めて聴くことができますし、これもた いへん普及していることではあるのですが、自分で演奏をしない人たちを含めて観察するなら、これはあくまで特別なことだと言わなければなりません。)

技術がどれだけ進んでも、あるいは機械にかかるお金がどれだけ安くなっても、場所を問わずに聴くことの出来る音楽は、音楽すべてからみたならば、ごく一部に過ぎません。

では、録音や録画だけでは出会えない音楽とは、私たちは、どこで顔合わせするのでしょう?

ぱっと思い浮かぶのは、ホールです。
演じられる音楽の種類が何であっても、「演奏会」や「発表会」が町のホールで行われ、私たちはホールに足を運んで「演奏会」なり「発表会」を観聴 きします。諸外国は分かりませんが、日本では普通はホールが多目的だ、というのが特徴でした。クラシックオーケストラのコンサートでも演歌ショーでもポッ プスでもお箏の発表会でも、みんな同じホールで入れ替わり立ち代わり催されるのは、現在でも変わりません。いきおい、とくに音響効果に神経質なクラシック の分野の人から、多目的ホールの音響上の問題に苦言が呈されることになりました。
故・近衛秀麿さんのオーケストラ入門書に、ホールの音が、音楽専用のもの・セリフを聞き芝居を見るためのものの簡単な模式図が出ていて、それぞ れをさらにオペラ劇場・歌舞伎劇場と見比べられるようにしてあります。音楽専用のものは響きのほとんどが客席に向かっていくのに対し、芝居を見るためのも のは響きは上に抜ける、すなわち、セリフの芯だけが聞こえるようになっています。(1)
第二次世界大戦後は、音楽専用ホールがないことについての問題意識が広がり、60年経ったいまでは、東京にはオペラ劇場もあります。その他の都 市にも、クラシック向けに響きを整えたホールが、ごくあたりまえに建っているようになりました。ですが、オペラ劇場の例ですと、音響は理想的だが採算の取 れる集客をするには小さいと言われています。クラシック用に音響設計をしたホールの多くは、やはり採算の関係から、クラシック以外の演奏会・発表会が日常 的に行われていますから、結局のところ、多目的ホールの音響設計が変わった、と見なすのがふさわしいかも知れません。ホールが成り立つためには、採算、と いう、見えないオバケをうまく退治しなければならないのが現状です。人間が「お金」なしには生きていけない動物である以上、またはホールを作る「モノ」が 年を経て質が衰え、維持のための修理が必要となる以上、いたしかたないことなのでしょうか。
日本の場合は、聴いてもらうより観てもらうことに重きが置かれる「歌舞伎」や「能」は、遅くとも江戸時代には専用の舞台を持っていましたが、歌 舞伎の舞台は江戸時代には客席の上には屋根がありませんでしたし、能舞台は明治にそれがそっくりそのまま建物の中におさまった「能楽堂」となるまで、やは り客席は露天でした。そういう能舞台は、いまでもあちこちにあります。能舞台そのものが建築物となったのは、もともと猿楽と呼ばれていた能楽が室町時代に 将軍家御用達の芸能になってから始まったことです。それまでは能は寺社の前の広場で舞われ、能の囃子も当然屋外で奏でられていたのでした。奈良県の興福寺 では、南大門の前で演じられる能は幕末(江戸幕府の崩壊した時期)まで芝の上だったそうです。(2)

話が日本に偏しましたが、建築物の中での演奏があたりまえになったのはそう古い時代のことではなさそうに見えます。しかも、舞台がしつらえられる、というのは、よっぽど特別なことではありました。
インドの、ヤクシャナーガという伝統劇の演じられ方の観察から、このように述べた文章があります。
「伝統的なヤクシャナーガの踊り場は、地面の一面に正方形の柱を立 てたもので、そこにランプとマンゴーの葉がつけてある。従って役者と観衆は同じ高さにいるわけで、視線も水平に近い。柱と柱の間はがらんどうで何もないか ら、四囲の風景が視界にとり込まれ、大自然に抱擁された形で進行していく。/ところが文字通りの舞台、つまり高さのあるステージへ演じる側が上ってしまう と、観衆との間の親密な関係はかなり損なわれる。役者たちは額縁で切り取られた中に入ってしまうし、バックには真紅のビロードのカーテンがかかっているの で、楽師たちは下手【しもて】に控えていなければならない。観客の視線は舞台を仰ぎ見るようになる。」(3)

舞踊や劇を伴う音楽、いや、むしろ音楽や舞踊に従わされる音楽が演じられる場所は、写真でみると世界各地、どこでも屋外の広場です。広場は壁や屋根に仕切られた空間のような制約がなく、多くのお客の視線を集めるのに適切だからでしょうか?
ヨーロッパで中世の典礼劇もまた、屋外の広場で演じられていたものでした。典礼劇は宗教的なものから徐々に世俗的な内容に変わっていき、16世紀 前半の南ドイツの例では、職業俳優はひとりも加わらず、聖職者や聖歌隊の他に市長から大工さんまで演じ手に加わった、上演に三日かかる大がかりなものだっ たそうです。同じ時期にオペラが盛んになり始めてから、典礼劇は急速に姿を消したようですけれど、現在でも民俗芸能として残っている地域もあるようで す。(4)
日本の絵巻に描かれた舞楽も屋外に舞台をしつらえたものですが、これは現在も寺社の前でなされる舞楽ではすっかり同じ様子です。(5)

広場は、たくさんの人を前にして演じ得る点では、限られた空間であるホールよりは利点もあり、これも技術の進展で音を大きくする装置が普通に用意 できるようになりました。そのため広場の中には「野外劇場」と称してロックバンドのコンサートをたくさん催すものも増えました。が、広場とは言っても、人 為的にしつらえられた特別な場所ではなく、海岸の果てしない砂浜を広場に当てて、そこに聴衆がおおぜい集まって催されるフェスティバルもあります。(6)
その淵源はしかし、やはり何らかの特別な場所が意識されていたのかも知れません。
農耕民族の例ですが、中国南西部の広西壮【チワン】族自治区で行われている春牛舞は、田の上を均して苗を入れ、水を汲み入れて耕し、収穫し、米を 搗くプロセスを演じるのであって、これはしつらえられた広場が「田」に見立てられていなければなりません。演じられる「場」については詳しく分かりません が、こうした「芸能」は、農耕民族に限らず狩猟に関するものもあるそうです。(7)

何らかの特定の場所を設けて、という演奏がある一方、私たちは、不特定の道ばたで音楽に出会うことも少なからずあります。ストリートミュージシャン、というやつでしょうか。
最近の日本は管理や行政が厳しくなって、ここ数年、たとえば新宿あたりで見かける量が激減しましたけれど、ストリートミュージシャンを続けている人たちが全くいなくなることはありません。
音楽と出会うのはどこか、という問いかけにぴったり来る文句、
「こんな出会いがあったんだ!」
をタスキに掲げているのが、野村誠『路上日記』という本です。(8)
鍵盤ハモニカによるストリートミュージシャン活動のその日その日の場所と様子と稼いだ額まで載っている面白い本ですが、発行していた名物出版社の ペヨトル工房が発行翌年に解散したため、入手難なのが残念です。野村氏は専門のストリートミュージシャンではないので(作曲家さんです)、日記見られるス トリートライヴの時刻も演奏時間もかなりばらつきがあり、どこを引用しておこうか、と本をめくっても、日の選択に困ります。ただ、演奏場所のひとつの選択 目標が山手線全駅制覇なのは、興味深い面の一つです。

現代日本では路上で出会えると言っても、チンドン屋さんのほかは、せいぜいお祭りで練り歩く神輿や山車に合わせて奏でられるお囃子だけになってし まいましたが、昔は傀儡【くぐつ】と呼ばれる人達がいて、路上での人形劇を生業にし、それに伴って歌うなり鳴り物を鳴らすなりはしていたかと思います。あ るいは、三味線や漫才の門付けというのもあり、世の中の変化で目撃できる機会は稀になったものの(私は一度も目撃経験がありません)、今でも受け継がれて いる例はあるようです。
民俗的には路上の奏楽者・演者は「マレビト」と呼ばれ、特別な日(正月や季節の変わり目、葬儀など)のときに他所から訪れてはまたどこかへ去る 人々です。ジプシー(ロマ)の例に示されているように、こうした放浪の人々が担ってきた音楽・舞踊などは、演じ手を賤民扱いするのが通常であったにもかか わらず、またこのことはマレビトが呪術にたずさわることに理由があるようで、無意識的ながらもいまなお人々から抜き去り難い感覚であるにもかかわらず、音 楽でも非常に重要な位置を占めています。クラシックの場合、フランツ・リスト、ヨハネス・ブラームスといった作曲家たちがジプシー音楽を存分に利用した作 品を書きましたし、その背景には当時のドイツ社会でのジプシー音楽流行があったことも調べられているかと思います。さらにまた、ヴァイオリンの有名レパー トリーにはサラサーテの《チゴイネルワイゼン(ジプシーの歌)》もありますし、ビゼーの代表作であるオペラ《カルメン》のヒロインもジプシーだったりしま す。
19世紀ヨーロッパのジプシー音楽をめぐる情況はひとつの特殊例ではあり、ジプシー(ロマ)については読みやすい本も結構出版されるようになり ました。流浪を習いとする民族は少ないものの、自分たちだけが定住してあちらこちらへ出向く「マレビト」は世界各地に存在するとのことです。また、路上で 奏楽したであろう中には、中世ヨーロッパの遍歴学生・・・ひとつの大学に束縛されるのを嫌がった人たち・・・のような存在もありました。破戒僧もまた遍歴 の詩人であり楽人であったことでしょう。そうした人々が残した歌の数々が、「カルミナ・ブラーナ」という書物に編纂され、20世紀にはカール・オルフが注 目して、また新たに曲をつけたりしています。(9)

広場も路上も屋外でして、屋外が音楽享受の原初の場だったのは、人間が音楽を始めたころにはまだしっかりした建物も無かっただろうことを想像すると当然のように見えてきます。

難しいのは、でも、洞窟は少なくとも音楽が奏でられた可能性があったかも知れない、みたいな類の問題です。

アフリカやヨーロッパで発見された石器時代の有名な洞窟壁画は、祭祀の舞踊と見られるものや、生贄の代わりかと思われる動物図像をえがいていたり します。そんな論文は見たことがないのですけれど、壁画が動物や祭祀をえがいているのだと考えると、祭祀は屋外でやったことを写したかもしれないとして も、動物の絵がもし生贄の代わりだったのだとしたら、祭祀はその絵の前で行なわれていたかも知れない、と、想像をしたい衝動に駆られます。

音楽がなんらかの「閉じた」空間を要求する場合には、人間の営みのわりと早い時期から、音楽は室内で奏でられたり歌われたりすることを大事にしてきた可能性は決して低くないと思います。
日本の絵画史料では、屋外と屋内の境目で歌い踊られている様子は、「一遍上人絵伝」に見ることができます。京の東市【ひがいいち】で一遍が催した踊り念仏は、屋根のかかった板屋で踊り唱われています。(10)

Ippen22
完全に室内で行なわれている例は、「中殿御会図(ちゅうでんぎょかいず)」に見られます。これは順徳院(後鳥羽の二代後の天皇で後鳥羽の子)が宮 殿内で琵琶を弾くのを廷臣たちが拝聴する場面を描いたもので、なかに藤原定家の顔も描かれていたりする興味深い絵ですけれど、室内での楽器演奏の場面が鎌 倉時代には絵に描かれていた事実に注目しておきたいと思います。(11)

 

文献など
(1) 近衛秀麿『オーケストラを聞く人へ』音楽之友社 昭和45 p.226
(2) 『岩波講座 能・狂言 I 能楽の歴史』岩波書店 1987 p.209-211
(3) 姫野翠『芸能の人類学』春秋社 1989 p.236-237
(4) 皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社現代新書 1977 p.49-53
(5) 『日本の絵巻8 年中行事絵巻』中央公論社 1987 巻五最終図、p.28
(6) 久保田麻琴『世界の音を訪ねる』岩波新書 2006 p.69写真
(7) 姫野翠『芸能の人類学』(前出)p.24-28
(8) 野村誠『路上日記』ペヨトル工房 1999
  (2000年で活動休止 http://thought.ne.jp/peyotl/index.html
(9) 姫野翠『芸能の人類学』(前出)p.80-109
(10) 『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社 1988 p.195
(11) 『日本の絵巻12 随身庭騎絵巻 中殿御会図 公家列影図 天子摂関御影』中央公論社 
      1991 絵の部分はp.17-21 現存する「中殿御会図」は室町時代の写し

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2011年2月11日 (金)

なぜ音楽はあるのか?

Ooibanner


こちらに綴ったものと同記事です。リンク先のブログはこの話題と雑談に特化する所存です。
( )の中に数字を記した部分については、文末の「文献など」に出所や参考となるものを記してあります。


音楽なんてものをやるのは人間だけですが、それはひとえに、口や手が自由で、声を好き勝手にあやつったり、ものを叩いたりはじいたり、息を吹き込んでみたり、みずからいろんな音をつくりだせるのが人間だけ、だからにほかなりません。

でも、べつにデタラメに音を出すだけでじゅうぶんおもしろいかもしれませんのに、人間はなぜわざわざ、音を出す行為のなかのあるものを「音楽」なるかたちにととのえずにはいられなかったのでしょうか?

19世紀ごろからの、とくにヨーロッパの学者さんは、音楽の起源ってなんだろう、を、むずかしく考えて来ました。楽器を詳しく調べたので有名なザックスという人は、「音楽」は原初的には二つの様式を備えている、と言ったそうです。
第1は、抑揚をつけてことばを唱えることから始まった、動きのわずかな様式。
第2は、感情をほとばしらせるような、動きの激しい様式。

この二つが入り交じって、高度なメロディをもつ音楽が出来上がってきたのだ、と、だいたいそういうふうに考えたのです。(1)

かたちとしてどのようなものを起こりにしているのかはともかく、人間が「音楽」をととのえずにいられなかったのには、なにか特別なわけがあったのではないでしょうか?
そ んなものは突き詰めようがないのですけれど、いま、いくつかの古い伝承を、かたちとしてのではなく、こころとしての「音楽」の起源を推しはかる参考に掲げ ておきましょう。それにはあわせて、舞うことや踊ることも含めておかなければならないと思いますが、今はそこまで述べません。ただ、舞うこと踊ることは、音がととのえられて鳴らされることからうまれるリズム無しにはなりたたないと思うのがごくしぜんなことではあるでしょう。

ほんとうは、古代四大河文明が起こったあたりの神話でも分かればよいのですが、私たちの目に触れるかぎりでは、メソポタミアやエジプト、インドの神話には、ふさわしいものがありません。(2)

中国は探せばいくつかあると推測されますが、いまは司馬遷『史記』の「楽書」から拾ってみます。「楽」が音楽をさします。

大史公(=司馬遷)いう。そもそも上古の明王がを 用いたのは、何も、それによって心を楽しましめ・自ら楽しみ・意を快くし、欲をほしいままにするためなのではなく、それによって治を致そうと希望したため なのである。教を正しくする者はみな音から始める。音が正しくなると、行いが正しくなる。。故に音楽は血脈を揺り動かし、精神を流通し、正心を和するわけ である。(3)

ことばのむずかしいところがありますが、要は、音楽はゴラクなのではなくて、聴く人や奏でる人が、それを通じて心を道徳的に正しくととのえ、それによって世の中が治まることを目的としたものなのだ、と言っているのですね。

ただ、『史記』の述べている「音楽」の役割は、人間の原初からきた観察ではないのが明白です。

もっと素朴なものはないのでしょうか?

日本で音曲芸能の祖と仰がれるのは、アメノウズメノミコトですが、この女神が天岩戸に籠ってしまったアマテラスを再び誘い出すのに成功した有名な神話の中で、女神はいったいなにをしたのか、『古事記』に目を通してみましょう。

アメノウズメノミコト、天の香山の天の日影(長い蔓草)をタスキに 繋けて、天の真折(アメノマオキ=髪飾りに使われた常緑の蔓)をカズラとして、天の香山の小竹葉(ササの葉)を手草に結ひて、天の岩屋戸に桶伏せて、踏み とどろこし、神懸りして、胸乳を掛出で、裳緒をほとに忍し垂れき。しかして、高天の原動みて(とよみて=鳴動して)、八百万の神共に咲ひき(=笑った)(4)

したことそのものはきわどいので現代語訳しませんが、演じ手も神ならば、それを楽しんだのも神です。
ずっと時代が下りますが、世阿弥の次男、元能が世阿弥のことばをきいてまとめた『申楽談義(世子六十以後申楽【さるがく】談義)』の冒頭には次のように記されていて、日本では音楽を含む芸能が「神をたのしませるもの」なる認識を持たれていたらしくおしはかれます。

・・・申楽とは神楽【かぐら】なれば、舞歌二曲をもって本風と申すべし(5)

中国古代も、司馬遷の時代からさらにさかのぼれば、甲骨文字の存在や使われかたからあきらかになりますように、「人を治める」ことは「神をことほぐ」ことでした。してみると、楽は先ず、神に捧げることを本意としていたとみなすことが出来はしないでしょうか?
神 がどんなものであるにしても、それは原初では「自然へのおそれうやまい」だったのでして、人間がやすらかに生きていくためには、あらぶる自然のご機嫌をと るのが最優先だったでしょうから、その手立てとして「音楽」をととのえる必要が生じたのかもしれない、と、いま私はひそかにそう信じています。

古代ギリシャの叙事詩は、ホメーロスのものにしても、ヘーシオドースのものにしても、まずその歌を芸神ムーサたちに呼びかけることから始めているそうです。(6)

「イーリアス」の例:怒りを歌え、女神(=ムーサ)よ (岩波文庫 上 第1章冒頭 呉茂一 訳)

「神統記」の例:ヘリコン山の詩歌女神(ムーサ)たちの讃歌から歌いはじめよう (岩波文庫 廣川洋一 訳)

といった具合です。

ギリシャ神話の中で、有名なオルフェウスが琴の音で冥界からエウリディケーを連れ戻すことにいったん成功したのも、かなでた調べが冥界の神ハデスを揺り動かし得たからでした。

漢字の「楽」という字は、
「[説文]に・・・鼓へい【いくさにもちいたつづみ】を木に著けた形とするが、形それはもと神楽の舞に手にとる鈴で、かざして鳴らしたものである。」(7)
というのですから、それこそダイレクトに神事に関わっています。

神、あらぶる自然のご機嫌をとるのが本意であった「音楽」が、いかにして人間のたのしみに変じていったのかは、たどるすべもありません。古代に戻ってそれを聴くこと、奏でること、舞うことも、不可能です。

ですから、そのあたりのいきさつはおしはかるにとどめて、いまの私たちがこころを揺り動かされる「音楽」を相手にしながら、なぜ私たちのまえに「音楽」があるのか、を、少しずつ眺め、たしかめていきましょう。
それを通じて、人間が突き詰め続けて来た「音楽」が備えている、ほんとうのちからを見定められるようだったらいいな、と、かすかながらも、そんなだいそれた望みを抱いているところです。

文献など
1)『はじめての音楽史』音楽之友社 1996年 p.8
2)ひどい文ですが、私のブログの「古代メソポタミア」「古代エジプト」「古代インド」、ついでに「古代中国」参照
3)『史記』上 平凡社版中国の古典シリーズ1 野口定男他訳 1972年 p.226・・・儒教の影響あり
4)『古事記』新潮日本古典集成 昭和54 p.51
5)『申楽談義』表章 校註 岩波文庫 昭和35 p.13
6)呉茂一『ギリシア神話』新潮文庫 昭和54 上 p.255
7)白川静『漢字の世界 1』平凡社ライブラリー 2003 p.288

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