第九

2011年10月19日 (水)

「第九」終楽章オーケストレーション 237-330小節

大井浩明さん POC#7 リゲティの会は10月22日〜MAPはこちら。


ベートーヴェン「第九」終楽章の、声楽が入ってからのオーケストレーションが詞の意味を強めているのを、もっとも図式のはっきりした「Seit umschlungen… 595-654小節」部分について、先に観察してみました。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/seit-umschlunge.html

バリトンの有名ながら短いレシタティーヴォに始まる「歓喜の歌」の冒頭部分(237小節以下)は、ベートーヴェンは基本の骨組みを「有節歌曲(同じメロディで1番、2番・・・と歌っていく)」として発想しているため、「第九」を最も親しみ深いものにしているこの箇所については、詞の意味を強調するなどというふるまいは見られない、と思われているかもしれません。
2番に当たるところまでは同じメロディになっています。でも、3番にあたる部分は変奏されていて、違ったものに聞こえるはずなのです。そこがベートーヴェンの上手いところで、全く違うかたちの3番が、2番までと同じムードで聴けるようになっていることは、まず留意しなければならないでしょう。
そのうえで、1番・2番・3番の構造の話になります。

1番は、バリトン独唱が「Freude !」と高らかに呼びかけるのに対し、男声合唱のバスのみが力強く応答するのは周知の通りです。それが2度繰り返される4小節の中で、いわゆる「歓喜の主題」はオーボエ・クラリネット・2本のファゴットで(フォルテになっている歌とは対照的に)ピアノ・・・すなわち小さく、この場合は柔らかく予示されるに過ぎません。これは、終楽章前半の器楽だけの部分で初めて「歓喜の主題」が現れ、チェロとコントラバスのレシタティーヴォによって肯定されるときと同じ編成になっています。
「この主題でいくんだ!」
は器楽だけで既に晴朗な響きで肯定してありますので、声楽が入ってからは、いよいよ「歓喜の主題」を歌い上げていくほうに力点をおくことになります。したがって、器楽部での最初の登場ではオーボエ2番・クラリネット2番が後発で「これでいいのかなぁ」と様子をうかがうように出てきていたのに対し、声楽が歌い出すこちらでの予示は「これだったよね!」と確認をとるものになっていて、2番オーボエと2番クラリネットは登場しません。
1番部分は、歌詞を読むと、決して「地味」なものではありません。むしろ、溢れ出すなにかを押えきれずにいるような派手ささえあります。
ところが、ベートーヴェンはこの部分は独唱バリトンひとりだけに歌わせ、まるでハープ代わりであるかのようなピチカートの弦に伴奏をさせます。それに対しオーボエとクラリネットが、これまたのどかなオブリガートを付けるだけです。オブリガート側のリズムは、器楽だけで「歓喜の主題」が頂点を迎えた時に弦楽器が奏でていた合の手を元にしています。器楽の頂点の時には管楽器の側がまるで吹奏楽のように「歓喜の主題」をがっちりした和声で高らかに奏でていたのにも関わらず、歌の第1番の後半リフレインは合唱も弦楽器もユニゾンで、まるで民衆の素朴な斉唱のように聴かせるだけです。・・・いっぽう、管楽器の合の手側に目(耳)を向けますと、これは器楽部の頂点で弦楽器が奏でていた時に比べると曲線的な音型を交えているのがはっきり分かります。
斉唱に持たされた「意味」は、おそらく歌詞中の「Alle Menschen」なのではなかろうかと思います。「みんながひとしく」を訴えたいのであるならば、それは多様に和声や旋律線を分業して歌われるべきではない。そのため、主題側は声楽も弦楽器も同一の旋律線を一緒になぞるのです。また、そうなると、管楽器が持たされる役割のほうが「(歓喜の天使の)柔らかな翼 sanfter Flügel」の象徴ということになるのでしょう。この部分は、1番にあてた詞の「享楽的雰囲気」をいったん保留しておく・・・それは3番までの展開を単調にしないためにも必要だったのでしょうし、Seit umschlungen前の6拍子の高らかな合唱で中間のクライマックスを作るためにも、また、この部分の歌詞本来のムードを後半の開始部とも言える655小節からの2重フーガまで留保することで「歓喜」の強調をはかるためにも、設計上必須だったものと推測出来ます。

2番部分、3番部分の器楽は、声楽抜きでこれだけ取り出しても、とてもまともな伴奏には聞こえない不思議な書き方です。すなわち、2番3番の部分は声楽と器楽、とくに後者が自立できる関係にはありません。2番部分で独唱者のアンサンブルの背後で鳴るホルンの断片的な和音では、「歓喜の主題」はちっとも補強されず、2番後半のリフレインで合唱が参加する部分になって初めて、オーボエとクラリネットの応援を得て「それらしく」なるのです。これは3番部分の木管楽器による独唱アンサンブルの模倣(八分音符音型)が切れ切れであるところについても全く同じことが言えます。すなわち、独唱アンサンブルは、これらの部分ではオーケストレーションの一部として書かれているのです。ベートーヴェンはなぜこんな書き方をしたのでしょう?・・・独唱アンサンブルで形作られる和声を、それ以上厚化粧する必要を感じなかったからなのでしょう。

2番部分は直接的に歌詞と関わるものは何も書かれていません。が、声のアンサンブルが器楽に依存せず自立しているところに注目するならば、多少こじつけの感は否めませんが、「人間としての自立、人間としての同胞の獲得」を、この書法にこめたと見なしてもよいのではないでしょうか? それがこの部分の詞の内容でもありますから。しかも、合唱はまずバスが1音先行して「Ja」の連帯的独立人格肯定を強調する面白さを引き立てます。「(できないやつは)泣いて去れ! Weinend sich aus diesem Bund !」が「去っていく」ようなピアノ(弱音)に転じるのは歌詞に即しているとして有名ですけれど、それは先行する独唱アンサンブルの自立による準備があって初めて効果的になっているわけです。

3番部分は独唱~合唱と木管楽器による、喜んで踊っている足取りの象徴ともいえる八分音符音型と、光がちらちら漏れ来るような弦楽器による装飾音型の二種のみが、321小節に始まるコデッタ部分にたどり着くまで執拗に対峙しているだけです。したがって、提供される図式は非常にシンプルであり、そのことで訴える力を強く持ち、声楽の入った最初の部分の第1段を締めるのに充分な・・・しかも「後にまだ何か続くんだな?」ときちんと期待させ得てもいる・・・面白いコデッタ(小結尾)を形成しています。321小節からのコデッタは und der Cherub steht vor Gott をあらためて強調して扱い、光が勝利した、なるイメージを容易に抱かせますので、20世紀前半の演奏では最後のフェルマータがいかに力強いままどれだけ長く引き伸ばされるかの競争みたいな演奏が多々なされ、録音されれば名演として愛聴されてきました。・・・でも、それではここで興奮が終わってしまいます。ベートーヴェンの仕掛けは、Seit umschlungen まで終わってからいよいよ本格的になるのでして、この楽章の全体をどう捉えるかを考慮したとき、330小節のフェルマータが本当に興奮の頂点的段落を形成してよいのかどうか、は、演奏に際してよくよく検討されなければならないことでしょう。・・・それでも、私なんか、フルトヴェングラーが15秒くらい引き伸ばしていた演奏にとっても感激した口だったんですけれどね! (^^;

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2011年9月27日 (火)

「第九」p(ピアノ)は<弱い>音にあらず~1、2楽章をめぐって

終楽章オーケストレーション(Seit umschlungen… 595-654小節)


終楽章の、声楽が入ってからのオーケストレーションで面白いことは、まだいくつもあるのですが、少しだけ、別の楽章の器楽部分について述べたいと思います。

昨日この曲の練習に参加して、帰りに指揮者先生と二人になったので、こんな雑談をしました。

私「耳が聞こえなかった人の書いたもんじゃないですね」
師「聞こえてたんだよね、外の音じゃないから」
私「演奏するほうが<聞こえてない>んじゃ、作曲者に怒られますね~」
師「あはは~!」
(一部・・・だいぶ凝縮)

声楽が入ると実際には困難さが増すのですがごまかしもききやすく、結果として前3楽章から終楽章前半まではいい演奏なのに、以降で台無しになってしまっている演奏も少なくないかと思います。声楽が入った後については指揮者が責任放棄しているのではないか、とさえ感じることもあります。
ただし、そう感じてもよいのは、器楽だけの1~3楽章がきちんと(フォルムと響きの総体をオーケストラが把握して)演奏されている場合に限るでしょう。

日本人が演奏したものでも、案外、昭和の頃の録音を聴くと、そんなことはないのです。最近のほうが、「はてな?」と思わされます。しかも、器楽だけの先行楽章がよろしくない。

世の中に「千人の第九」・「市民の第九」みたいなのが恒例になってしまって、会場の大規模化や参加者の素人化を促進し、どうにも美しくない器楽楽章の演奏が横行する結果を招いているのではないか、と危惧しております。
もともとは若輩が振ることを一切許されなかった(新進の頃の山田一雄がやむにやまれず指揮して、師と仰いだローゼンストックに破門されたエピソードが、山田氏の自伝に述べられています)くらい大事にされていたのに、いまではベートーヴェンの交響曲の中で最も数多く演奏されるものとなってしまい、結果的に取り組みの甘さを生んでしまったのだといえるでしょう。

「第九」はいろいろな点でベートーヴェンの交響曲の中では異例の作品(声楽が入り、そのため終楽章がソナタ形式ではなくなったこと・・・だけではありませんで、成功だったはずの初演の後、パリでアブネックが指揮した例外を除き、ヴァーグナーが活発に取り組むまで長くかえりみられず、復活の後はオーケストレーションの改変がまかり通ってきた、というあたりが外面的な事象ですけれど、作品そのものの内部にも「異例」が盛りだくさん)なのですが、今は括弧書きしたことくらいにとどめます。
少しだけ付け足すなら、第1楽章のみが、10年も先立って書かれた第7・第8、さらに遡って第5あたりまでの技法を明瞭に採り入れているのですけれど、第2楽章以降には基本的に交響曲から継承した技法は用いられていません。技法的にいちばん近いのは、弦楽四重奏曲の数々かと思うのですが、これは「第九」と同時進行で作られています。

なんて綴ってしまいながら
「おまえなんかの蘊蓄話は、どうでもいいんだよ!」
と自分で自分を叱っておかなければなりません。

演奏にあたって、絶対に気をつけておかなければならないことを主眼にすべきなのでした。

「第九」の器楽楽章、とくに第1・第2楽章は、動きの活発な中に、効果的なp(ピアノ)を配置しています。(第3楽章で留意しなければならない点はちょっと変化します。)これが、「交響曲」とタイトルづけされたベートーヴェン作品で特異なことの大きなひとつです。まだ聴覚が機能していた第8までの創作時期に、ベートーヴェンはこうした技法は交響曲に用いてはいません。
フォルテからにわかにピアノにディナミークを変化させる、ということならば勿論やってきているのですけれど、以下のようなものは初出です。

第1楽章冒頭
:ppで開始し、長くその状態を持続する

第1楽章途中(427-452小節)
:pで息の長いメロディを、単発ではなく、ヴァイオリンと木管を絡ませて、ピンと張った糸のように配置している
(第4交響曲の第2楽章を連想しては間違いです。)

第2楽章数ヶ所(296-329小節を例示)
:弦楽器ないし木管楽器をエコーとして重なりあわせることによる膨らみの創造

pはもちろん、音量の大小で言えば小ですし、p(piano)のイタリア語本来の意味でも平らな状態や慎重さを表すものであるため、考えることが大変に難しいのではありますけれど、di primo piano で「とっても重要な」なる意味が生まれるくらいですから、とっても重要に考えなければなりません。

pianoが、日本語で言うところの「弱い」すなわち力の無い音になってしまっては、もともこもないのです。

上の3ヶ所については、まず、共通したコツがあります。
演奏するにあたって、絶対に体を緊張させないこと。普通に考えても、瞬発的な対応をしなければならないとき、体がこわばっていたら、その分動きが重くなって、望まれる対応が出来っこないのは、明白です。

そのうえで、3ヶ所それぞれにまたコツがあります。

第1楽章冒頭については、管楽器は口(アンブシュア)がこわばった状態から破裂するように吹き出すことは絶対にしないこと・・・と構えるとなおさら出来なくなりますので、破裂しそうなら、その瞬間を無音にする工夫をすることです。言葉で言うより、工夫なさってみることのほうが簡単にご理解頂けると思います。破裂の瞬間を微分的に減らしていくと、結果として、柔らかな入りのコツがつかめてくるかと思います。弦楽器は、共通のコツのままです。

第1楽章のヴァイオリン旋律部は、フォルテで弾くつもりで全く構いません。弓圧を弦にかけさえしなければいいのでして、その際もちろん、左手は各音程をしっかり押えている必要があります(握りしめるのではなく、体重を乗せてやります)。フォルテに聞こえてしまうか、指揮者さんが「大丈夫、ピアノになっている」とゴーサインを出してくれるかどうかは、音がよれよれになっていないかどうかで決まりますし、この箇所はよれよれになっては台無しです。掲げた音のサンプル例のバランスを、ぜひイメージとして大切に持て頂きたく思います。

第2楽章のエコー部では管楽器は第1楽章冒頭と同様のアンブシュアによる準備が肝要になります。弦楽器は硬直したらおしまいですし、音量を小さくする時往々にしてやってしまう「弓の毛のかさかさ音」を聞かせてしまったらみっともないので、左手をしっかり押えて弦がきちんと振動する状態で右手を腕の重みと最小の(動き始めさせるための瞬発力として、だけの)筋力のみで操らなければなりません。

技術云々をしたいわけではありません。
持っている技術を上げようとすると、それだけで膨大な時間がかかります。
持っている技術だけでもなんとかしなければならないときに、最小限念頭に置けばいいことを申し上げました。

なによりも、最初はミクロに、
「この箇所は、こういうイメージで音を出すのがふさわしい」
という公式を明瞭に念頭に置くことから始めるべきです。
イメージがなかれば、普段どんなに「技術」を誇る人でも、音楽の像を破壊します。
ミクロが実現できたら、それを徐々にマクロに積み重ねていくことが、次ステップです。
いくつかの作品で、そんな積み重ねを経験すれば、マクロからミクロへの逆コースをたどることが出来る可能性も、どんどん広がっていくことと思います。

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2011年9月18日 (日)

「第九」終楽章オーケストレーション(Seit umschlungen… 595-654小節):ベートーヴェン

ベートーヴェン「交響曲第9番」の終楽章、声楽が入る部分のオーケストレーションは、歌詞の意味に寄りかかるのではなくて、意味を強調する・・・あるいはドイツ語をあまり知らない人でも翻訳を手にすれば今どんな意味の部分を歌っているかが分かりやすくなるようにする・・・ために、大変な工夫がされています。そこを知っておくと、合唱する人たちにも役に立つことがあるのではないかと思っております。

声楽が参加してからの、後半の幕開けとなる Seid umschlungen(595小節)から über Sternen muß er wohnen(654小節)について、概略をご紹介しておきます。

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ご承知の通りのことですが、終楽章ではトロンボーンはこの箇所になって初めて加わります。ベートーヴェンにおいても第5や第6(田園)の例外があるくらいで、「第九」作曲当時はトロンボーンが交響曲に参加することはまだあまりない時期だったと思われますが、「第九」終楽章は声楽が加わるため特別に参加することになったのだと考えてよいのでしょうね? でも、なんでこの部分から参加することになったかのほうが、もっと大きな意味がありますよね?
ここより前の部分にも、神々だとか天にあたる語彙は登場するものの、この箇所以降で初めて、詞は神そのものに眼と心を向けます。トロンボーンの起用は、ですから、当時もドイツ・オーストリアの宗教音楽では歌を補強するためにトロンボーンを用いていたことと無縁ではない、ということになります。
極端に言っても差し支えなければ、トロンボーンの登場=この楽章に於ける「神の降臨」なのですね、って、これじゃ漫画か。

595-610小節:
「(数えきれないほど多くの)みんな、抱き合おうではありませんか! 全世界に向けてこのキスを!」

なんですものね〜、いまの人の感覚だと漫画的かもしれませんね。。。
でも、みんなの自由のためには心の共有が大切、というのが19世紀初頭の精神だったのだと思いますし、それは軽んじられない・・・と脇道にそれるのはよしましょう。

男声のユニゾンはトロンボーンとバス(自筆譜では1本にまとめて書いてあります)で、モーツァルトになぞらえればフリーメーソンちっくに強い呼びかけをする(595-602小節、611-617小節)のですけれど、ベートーヴェンはその呼びかけを女声に拡げてエコーさせます(603-610小節、618-626小節)。ここはトロンボーン以外の金管楽器は(通常の世俗的管弦楽曲では木管楽器と一体化しているホルンも、この楽章では金管楽器としてとらえらえていて、トランペットとともに)すべて沈黙していることに注意をしておかなければならないと思います。ついでながら、それまでのト長調が、618小節からは1度低いヘ長調に和らげられている点も留意が必要でしょう。(これがあるので、その前のBrüder!からの男声斉唱で表現を既に和らげてしまう演奏は何らかの誤解があるのではなかろうか・・・フルトヴェングラーのルツェルンでの1954年第九など・・・と考えております。)

611-626小節:
「仲間たち! 星の彼方にこそ、神様は住んでいるのかもしれませんよ」

でも、オーケストレーションに星が出てくるのは、この一連の部分(595-654小節)の最後の最後になってからです。

627小節からはテンポがさらにゆったり指示をされて、ト短調に転調し、弦楽器ではヴァイオリン2部とコントラバスが沈黙し、木管セクションではフルートは643小節のフォルテシモまではずっとユニゾンとなり、その箇所までオーボエが鳴ることは全くありません。この部分は20世紀の作曲家ですとオリヴィエ・メシアンの木管楽器の用法に非常に似た響きがするなぁ、と実感しておりますが・・・理屈で追っかけてみてはおりません。ただ、鳴り響き方は時代を考慮すると非常に「新しい」ものである気がしていて、調べる価値もあるかも知れないな、と思ってはおります。
トロンボーンは最後(643小節から)のフォルテシモに至るまでは、weltとzeltという語の来る箇所でディナミークの補強のためにフォルテで朗々と和音を響かせるにとどまっています。

627-646小節:
「ひざまづきませんか、みなさん? 神を感じることは出来ますか?(私語:でいいのかな?) 世界よ!(私語:・・・と切り離されて訳されるのが通例ですが違和感があるんですよね) 星々の彼方に神を見いだしましょう! 星々の上に、まちがいなく神はまします!」

フォルテシモまで盛り上がるこの箇所(627-646小節)で楽器を上記のように減らしていながら(コントラバスはこの区間では最後のフォルテシモまでまったく音を出しません!)、次の箇所(647-654小節)では、なんと、ホルン・トランペット・ティンパニを省いた全編成(フルートも和音になり、オーボエ、トロンボーン、ヴァイオリン2部、コントラバスも加わります)でピアニシモを鳴らす、などということには、どうでしょう、演奏なさる方は本当に全く違和感はお抱きにならないのでしょうか?
絵的には646小節までスッキリしていたのに、647小節からは低空(スコアの配置では弦楽器が来るところ)になんだか雲が立ち込めて、上空(木管楽器)がその2小節後からなんだかキラキラしている。印刷譜ですと四分音符で真っ黒けなんで、ちょっと上が重たいイメージになっちゃうんですけれど、ここの木管が星々なのでしょうね。でもって、その上にましますはずの神は描かれていない。この部分の自筆譜は現在見つかっていないそうです。別紙であとから付け加えたものだったろうか、と推測されているようです。

647-654小節:
「(ピアニッシモで)星々の上に、まちがいなく神はまします!」

星がリアルになるのは、やっとこの箇所になってからでしょう。

主観による錯誤につきましては、乞御容赦。

(付記)
627小節のフルートとヴィオラが最終の四分音符にはスラーで向かっているのに対し、同じ音型が5小節後で合唱と一緒になる時には四分音符はスタッカートになっていますね。スタッカートになるのは単純には言葉の都合であることはたしかなのですけれど、最初の器楽だけの時にスラーなのは、締めくくり(650小節以降)の朦朧とした音響を「結」とする「起」であるがゆえに、文脈的に首尾一貫させる狙いがあったのではないか、と、私は下衆の勘ぐりをしております。

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2010年12月11日 (土)

「第九」ファクシミリのみどころ〜第4楽章中盤まで

http://ooipiano.exblog.jp/15549738/

杉山作品が聴けるサイトへのリンクは、こちら。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-6321-1.html

前回大井さんが作品を演奏した伊左治直さんによる杉山洋一エッセイ<
http://ooipiano.exblog.jp/15568547/

第4回POCについてのラヂオつくば放送の際のトゥゲッターのURLはこちら。
http://togetter.com/li/76851



第1楽章呈示部展開部

「第九」ファクシミリは、アカデミアミュージックで特価販売中です。
電子データではわからない肌合いが、よい印刷で重層的に伝わってくるのが、冊子出版の最大の魅力です。従来版の4分の1という価格が、また奇跡的です。お手元に置かれることをお勧め致します。

あいかわらずケータイの不鮮明な画像なのをお詫び致します。

まだそれぞれに興味深い箇所のある第1楽章の残り・第2楽章・第3楽章をひとまず措いて、第4楽章を見ておきます。ベートーヴェンの創作が、スケッチより後に至っても、最後の最後まで重層的だったことが窺える部分を含みます。(余談ですが、じつはモーツァルトの、とりわけ「ジュピター」の終楽章にも似たものが読み取れるのですが、そのことについてはだいぶ前に綴りましたし、別の機会にまた見て頂こうと思ってもおります。)

・第4楽章冒頭部。ベートーヴェン名物、「訂正のグチャグチャ渦巻き」はありますが、略記をしているので、印刷スコアよりはスッキリして見えます。

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・第4楽章116~119小節、ヴィオラの主題の出。上部のファゴットは第1しか書いていません。で、長らくこの部分は第1ファゴットだけが吹かれていたのは古いクラシックファンならご承知の通り。が、ファゴットの音符の下に「第2ファゴットはB(バス)と共に」と、明らかにベートーヴェンの手になるエンピツ書きがあるのです。

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・第4楽章187~190小節。このページ(ファクシミリ冊子第273頁)の裏面には何も書かれておらず、新たに書かれた次葉では弦内声部の内声部のこのスッキリした筆跡が、太く荒々しいものへと変貌します。

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・バリトンソロの終わったあとから、テノールソロの部の前(フェルマータによる合唱第1部の終了)までは23段の五線紙が使われるようになります。これは314-315小節ですが、ページがかわった最初に先に315小節を書いてしまっており、それを抹消して314小節から書き直しています。本稿が出来る前に(この筆跡であってもなお!)下書があったことを、この抹消が物語っているわけです。

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・第4楽章331-317小節、6/8拍子に変わるところで、いったんは一葉だけ12段の五線紙に戻ります。このあと3枚だけ再び23段の五線紙が用いられ、379小節からまた12段の五線紙となります(まったく記入のないものを含め37葉、762小節まで)。

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・第4楽章、テノールソロの手前の器楽部を342小節目まで書いたあと、最初はすぐにテノールソロを入れる考えだったようですが、ベートーヴェンはそれを抹消して(現行の375-377小節、ファクシミリ譜には376-378小節とあるのですが・・・)器楽部分を延長しました。これは「下書」にはなかった新たなひらめきだったのだろうと思われる。343小節からは23段の用紙を3枚使用。大きさがこんなに違う!

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2010年11月30日 (火)

「第九」ファクシミリのみどころ〜第1楽章展開部

ベートーヴェン「第九」ファクシミリ、アカデミア・ミュージックで特価販売中。入手のチャンスです!



大井浩明さんの第4回Portraits of Composers「平義久×杉山洋一」2010年12月15日(水)19:00開演(開場18:30)門仲天井ホールにて。

杉山作品が聴けるサイトへのリンクは、こちら。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-6321-1.html



「第九」自筆譜、第1楽章呈示部の見所は、こちら。

ベートーヴェン「第九」の、第1楽章展開部から、彼がどう書いたかを拾ってみました。
ケータイ写真ですので、小さくて不鮮明なのをご了承下さい。
また、電子データではやはり伝わらないものがあるとの思いを強くしています。・・・ファクシミリも良質の印刷物でないと、やはり電子データと似たことが言えます。

「第九」第1楽章展開部は、まさにそれを実感させてくれる代表例です。

・180-181小節:前の小節から、クラリネットとファゴットがあるべき段では乱暴にかき消されています。

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・それが下段に書き直されています。これは189小節まで続きます。

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・200-201小節:第1楽章ファーストヴァイオリンとヴィオラは消した上に書き直され、ヴァイオリンの方はそれで済まずに下段に書き直されています(判読不明になってしまったためでしょうか? 後の書き足しなのか、筆跡がまた違って細くなっています)。

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・204-207小節:フルート・ヴァイオリン・ヴィオラに激しい書き直しが見られます。

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・239-245小節(と読んだのですが240-247小節なのか?):このあと253小節までホルンが激しく抹消され、最下段に書き直されています。ヴィオラはちょうどこの頁だけ(ファクシミリ冊子上は48頁)消した上から新たに書かれています。

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・ファクシミリ冊子の53頁目。255-258小節に当たる部分ですが、裏面はもともと音符が何も書かれておらず、長年スケッチと見なされていた紙とのことです。(裏面である54頁には他者の手になる1841年のメモ書きがあります。ファクシミリ冊子51頁には、やはり最上段に他人の鉛筆メモがある他は何も記入されていません。)この頁と全頁に配された紙にはベートーヴェンの手になるメモがあります。第53頁は、そうした性質にも関わらず、こんにちでは先ほどの荒々しくホルンをかき消した頁の墜の次(冊子50頁)で「×」で抹消された部分に挿入されるべきものの「決定稿」であることが判明しています。第53頁のメモはファクシミリ冊子付録の解説で判読されています・・・ここでは省略します。

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・・・「第九」を仕上げた頃のベートーヴェンは、初演でのエピソードから推測するに、骨導音すらもどの程度聞こえたか分からない状態だったはずですから、これらの修正はピアノなどを用いて「耳で」なしたもの、とは考えにくいかと思われますが、そこは分かりません。
いずれにしても、最後の最後まで「より良い響き」を求め続けた真摯な姿勢がにじみ出る部分ばかりでして、もしそれがイマジネーションの中での改訂であったのならば(仮にピアノを使えたとしても、この点はやはり変わらないのかもしれませんけれど)、凄まじい「プロ」根性に圧倒されずにはいられません。

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2010年11月22日 (月)

「第九」ファクシミリのみどころ〜第1楽章呈示部

ベートーヴェン「第九」ファクシミリ、アカデミア・ミュージックで特価販売中。入手のチャンスです!



さて、入手しやすくなったおかげで目に出来たベートーヴェン「第九」の自筆譜ファクシミリですが、やはり見どころ満載です!

性能の低いケータイのカメラでの撮影ですし、スコア全面を捉えることは不可能ですので、詳細は是非、現物でご覧になって下さい。もっとたくさんのことが見えてくると同時に、既存の日本語刊行物だけで考えてよいかどうかを振り返らせてくれます。

第1楽章の呈示部から拾ってみたものをご覧頂いておきましょう。

1)冒頭部に指示されたメトロノーム速度
  ベートーヴェンは108から120としています。
  この速度については、印刷されるまでに、書簡等により指示が変遷しています。

1movfront

2)19-20小節に記譜されたスタカート記号(弦楽器部分)
  最近の印刷譜で楔形で表示されるようになったものは、このような縦長の「点」です。

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3)24-26小節のポルタート指示(ヴァイオリン〜ヴィオラ)
  20世紀中葉まで、これを「長め」に演奏した例は稀なのではないでしょうか?

1mov025026_2

4)74-75小節のホルンの訂正
  ホルンは当初はフルートと組み合わせようと考えられた模様です。
  インクの色合いから、これが消されたのと、
  フルートがクラリネット・ファゴットと組み合わされたのは同時点のことかと推測されます。

1mov074077

5)81-82小節、自筆稿での記譜は「d」。
  ベーレンライター版がこれを採用していることの是非判断には、
  他の初期資料との対比が必要です。
  なお、マインツのショット社が1826年に出したスコアでは「d」になっています。
  1863年のブライトコップフ&ヘルテル版では「b」になっています。

1mov081

6)108-109小節のフルート訂正
  いまの印刷譜にある対旋律が、訂正した上に書き直されています。
  訂正前はどんなであったか、は、校訂報告書などを参照したいところです。
  
1mov108109

7)116-117小節のsemple pp記入例〜読めません!
  この周辺は第2ヴァイオリンが第1ヴァイオリンと同じなので省略されたり、
  ヴィオラは途中から「チェロとユニゾン」と記されてまた省かれたり、と、
  それがまた強烈な書き癖で記入されているので、
  清書する人を泣かせたんじゃないかと思いやられます。
  スコア全面で見て頂きたい箇所です。

1mov116117

8)120小節ヴィオラは、当初は現行よりやや複雑な動きを考えていた
  以降、129小節まで同様の修正が施されています。
  赤のCresは浄書者に「クレッシェンドを書いてね!」の意図で強調して加筆したもの。
  この手の加筆は随所にあります。

1mov120vla

9)130-131小節ヴィオラは、先行する部分の変更により、下を消して新たに書きかえています。

1mov130131vla_2

10)132小節の、オーボエであるべきところに、
  現行の印刷譜に見られない音が書き込んであります。
  最下段に、関連する書き込みがあり、抹消されているのを目にすることも出来ます。
  以降、6小節間続きます。
  これが現行のかたちになった理由は、浄書稿等を参照しないと分かりません。
  校訂報告が読みたいところです。

1mov132woodwind_2

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2010年11月16日 (火)

ベートーヴェン「第九」ベーレンライター原典版緒言の日本語訳

先日、アカデミア・ミュージックから特価でベートーヴェン「第九」のファクシミリが特価販売されている件をご紹介しました。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-68b6.html

それに関連し、こちらは印刷スコアである、ベーレンライター原典版(1996刊行?)の緒言を以前(2004年)アマボケ(ちゃう、アマオケ)仲間向けに抄訳しておりましたので【多分あんまり読んでもらえなかったでしょうが】、参考までに掲載させて頂きます。このスコアには、第九作曲の歴史的経緯とこの版の特徴の概略を述べた序文、校訂情報の要約である緒言(こちらはデル・マーによるもの)があります。序文も実に面白い(過去の読み物と相違点もあり興味深い)のですが、読譜に当たって役立つと思われる緒言のほうを、いらんと決めてかかったところは激しく省略して翻訳してみました。ご参考になれば幸いです。(訳したとき見てもらって指摘されたところは修正してありますが、なお誤訳がある場合はご容赦下さい。)


緒言

<原典>

(註:今回アカデミア・ミュージックから販売されたファクシミリに含まれるのは、以下の記述から、A・J【ファクシミリ版53頁、ベーレンライター原典版スコア39-40頁】であることが分かります。(他に第4楽章にはパリ国立図書館蔵の23段譜3葉6頁も含まれています。)

A)自筆総譜、1823−4年に書かれ、大部分はベルリン国立図書館ープロイセン文化財(音楽分室)所蔵。
自筆のコントラファゴットパート譜も共にある。
2,3の断片、ならびに自筆のトロンボーンパートが、別のさまざまな場所に保存されている。(註:ファクシミリ版425-436頁所収、コントラファゴットパートはベルリン国立図書館蔵、トロンボーンパートはボンのベートーヴェンハウス蔵)

PX)9つの弦パート手写稿で1824年5月7日の初演に使われた最初の物に由来するもの。ウィー
ン楽友協会図書館所蔵。すべてにベートーヴェンの手になる二、三の修正が施されている。

B)写譜師による総譜でベートーヴェンの修正があるもの。1824年12月ロンドンに送られ、ロンドンの英国図書館所蔵。

C)写譜師による総譜で、E、P、V(後述)の版下屋用の写し(版下案)として使われたもの。1825年1月にショット社に送られ、マインツにあるショットミュージックインターナショナルの図書館所蔵。Aを元に複写された最初の総譜であり、ベートーヴェンの改訂、修正が大量に含まれている。数ページが写し直され、C’として参照されているが、こちらのベートーヴェンによる修正はわずかである。

X)もともとCに属していたがC’と取り替えられたページ。最も重要なのは、これにはベルリン市
立図書館プロイセン文化財にある12葉も含まれるという点だが、Xの大部分は散佚してしまっている。

CP)トロンボーンセクションと声楽パートの手写稿、ショットミュージックインターナショナル図書
館蔵。もとはPXの一部。トロンボーンパートにはベートーヴェンによる修正がある。

D)写譜師による総譜、アーヘン市立図書館蔵。最初の3楽章を含む巻はベートーベンの修正が施れ、1825年3月にアーヘンへと贈られた。

DC)写譜師による総譜、アーヘン市立図書館蔵。ベートーヴェンの修正がある。

F)ベルリン国立図書館ープロイセン文化財蔵の、ベートーヴェンの修正がある、写譜師による総譜。贈呈用総譜で、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世への献辞が自署されている。1826年9月に、国王に送られた。

J)自筆単葉。ベルリン市立図書館ープロイセン文化財所蔵。Aにはなかった新たな4小節(第1楽章 255ー8)を含む。

K)自筆の修正リスト。1988年にロンドンのSotheby 's社がオークションにかけ、現在個人蔵。

L)Kの修正版。写譜業者の手によるもの。ボンのベートーヴェンハウス蔵。

E,P,V)フルスコア・パート譜・ヴォーカルスコア初版。それぞれ1826年8月にショット社から出
   版された。

これらのスコアについて、およびそれぞれの関係についての詳説は、Critical Commmentary to BA9009を参照のこと。

Bt9<編集上の特殊な問題>(校訂の結果採用した記載上の約束事に関する記述なので、省略)

<装飾音から及び装飾音へのスラーについて>

ベートーヴェンは装飾音と主要音の間にスラーを描くことは決してなかった。しかしながら実演上は変わることなく、こうしたスラーはあってしかるべきだと想定されている。我々校訂者はこうした慣習を保持したが、そのことはop.125(第九)原典すべてが一貫してしたがっていることである。また、トリルに続く後打音についても、同様に取り扱った。第4楽章297−319小節の装飾も、同じ考えに従って(訳者補:スラーなしで)表記している。ここでは後打音は装飾音としては描かれておらず、事実上連桁で結ばれた二つの32分音符(訳註:原文では音符で記されている)なのだが、従来トリルと一連をなす音として理解されており、したがって当然のようにスラーを付けて演奏されているのである。

<木管楽器譜の分岐した符尾に付けられたスラーなどについて>

このたびの原典版では、我々校訂者は現代流に従った。上下それぞれの符尾には各々の奏者のために別々のスラーが必要となるのだが、2音に一つだけの符尾が付されている場合は、2奏者には1つのスラーで十分である。スタッカートも同様に扱っているが、ひとつだけ例外がある。2奏者がユニゾンであるとき(第1楽章65小節目のホルンなど)は、2つの符尾を付すことなく一つのスタッカートを付けることで十分だということにした。
 しかしながら、期待されるかも知れない通り、op.125の初期原典では、こうした慣習的なことの扱いについては、よりいっそうルーズな様相を呈している。さらに、AやC文献での分岐した符尾は、セカンド奏者のスラーがどうであるかを曖昧にする原因をなしていたりするのである(第4楽章196小節の2番フルートなど)。(訳注:ここの記述はブライトコップフ系のスコアを参照すると良く分かる。ついでだが、この個所の2番フルートは四分音符4つで、他のパートすべてとリズムが異なっている。)

<ディナミークについて>

言うまでもなく知れわたっていることだが、ベートーヴェンにおいては、f(フォルテ)を続けて幾つも記しているのはアクセントの反復をあらわしており、実際にこうしたケースではfは文字通りsfを速記したものと言ってしまっても、事実上まちがいはない。現実に、ベートーヴェンは(このような記譜をしたところでは)写譜師がfをsfと書いてしまっていても、あるいはその逆の場合でも手直しをしなかったので、これらの違いは些細なこととしてそのままにしておかれるのが当たり前となっている。そうは言っても二者間には気分的な違いがある。そこで我々は、出来るだけ厳密に、この相違点を保持することにつとめた。それでもなおいくつかのパッセージ(第4楽章463-70小節など)では二者のいづれなのか、オリジナルの記譜に一貫性がなく、そうした場合には代わりに論証的な処置を施し、fが一貫性を保っている箇所についてだけ、同様の小節についてsfには変えずにおくようにした。
 ベートーヴェンは時々、音楽理論ではほとんど述べられていないような術語を用いている。cresc...il forteとか、(これまたもっとしばしば)il forte piu forte、ときにはil forte...piu forte...と書かれているのである。我々はベートーヴェンのil forteをfに置き換えたが、この術語の統一は、第2楽章171小節で原典Bではベートーヴェンがヴィオラにfと記しているのがみとめられる一方、A(自筆譜)とCの弦楽器セクションを見るとil forと読みとれることからも確かなものだといえる。
 特別な問題があるのはピチカートの場合である。いくつかの理由から、ピチカートのパッセージはディナミークを要しないものとして、ベートーヴェン(そして一般的に、同時代の作曲家たちも当然同様に、ただしベルリオーズは例外だが)は扱っている。実際、ディナミークの欠如は国際的に顕現していることであり、ベートーヴェンにおいてもp(アルコでの)がpizz.に変えられてしまっている例が多く見られるのである。とはいえフォルテのピチカートの例も、ベートーヴェンにおいてはまれではあるものの、確かにあるのであって、ピチカートにクレッシェンドやディミヌエンドを施す例になると、これはふつうに見いだせる。(op.125すなわち第九では)第2楽章322小節、第4楽章787小節、(原典Cのベートーヴェンの手跡では)第1楽章266小節のコントラバスなどが、その例である。ただ同時に、ベートーヴェンが第3楽章99小節の低弦をsub.p(スビト・ピアノ)としていることは、クレッショエンドの後なのであるから実現が困難なのではないか、という一般的な(しかしそれほど注目されてはいない)疑問もある。第4楽章の238・40小節は原典Aにおいてはもともとfであったのがpizz.に変更されたと読めるのだが(Critical Commmentary to BA9009を参照)、241小節ではpizz.pという記入が残されたままであるので、238・40小節はやや大きめに演奏されることを意図したのであろうと思われる。ベートーヴェンにおける最も難解な箇所は、ふつうにはディナミークがfだと見えながら、ピチカートの方でディナミークの表示を頑固に拒んでいるようなところである(交響曲第5番第2楽章7小節[訳注:ここではアルコの低弦はそれまでのピアノからフォルテになる]や、ピアノ協奏曲第4番第3楽章61小節など)。明らかに、こういう極端なあいまいさは現代の演奏向けの版では受け入れられないので−−−この数十年、もちろんたとえば第3楽章157(最終)小節のピチカートはベートーヴェンはフォルテで演奏されることを意図していたのではないか、などといった論争点もあったのではあるが−−−我々は編集上の追加事項として必要に応じこうしたディナミークを補足した。
 ベートーヴェンのディミヌエンド・ヘアピンは、シューベルトのそれほどではないにせよ、劣らず難解である。シューベルト同様、長く描かれたものもあれば、アクセントと見まごうほどのものも、しばしばある。シューベルト(一般的に音符の上または下の真ん中にヘアピンを置いている)と異なるのは、ベートーヴェンのヘアピンは音符の真下に始点がある傾向にあり、そのためとくにディミヌエンドに似て見える、という点である。こんにちではこうした、本来的に不明瞭な性質を持つ記号について、明瞭に注記する適切な方法がない。前後関係によって、アクセントかディミヌエンドかの相違の度合を示して行くべきなのであろう。我々はこうしたものをアクセントとして扱ったが、強調しておかなければならないのは、かなりしばしば(たとえば第4楽章254,753,810−1、833-4小節 訳注:いずれも声楽パートにおけるものを言っている)こうしたアクセントは本質的にはディミヌエンドの要素を兼ね備えているものと見なしうる、ということである。(Critical Commmentary to BA9009を参照)

<点とダッシュ>

ベートーヴェンは、(訳者補:スタカートを示す)点とダッシュの違いについて厳密だった(Nottebohm,op. cit.,pp.107-25参照)と言われてきたが、その証拠としては1825年8月のカール・ホルツ宛書簡(Emily Anderson, The letters of Beethoven(1961),No.1421:訳者コメント−邦訳の書簡選集では該当の書簡は発見できませんでした)の中でベートーヴェンが「四分音符の下にダッシュを記したもの(訳注:原文は音符表示)と点を記したもの(訳注:原文は音符表示)は同じではない」と明確に教示していることが引き合いに出されている。しかし、こんにち一般的に賛同されているところでは、ベートーヴェンの原典にある二者間の相違はあまりに偶発的であって、同一視しうるという以外にどんな論理性や蓋然性をもってしても新版に反映し得ないのである。これには例外が一つある。ポルタートは当然つねに点を伴わなければならないわけだが、しかるにポルタートを出た箇所では、ベートーヴェンのスタッカート表現はいつもダッシュであり、しかもこのことは第7交響曲(作品92)の初演パート譜への彼のおびただしい修正(Nottebohm, op. cit. pp.107から9にもまた引用されている)によって間違いなく確かめうる。すなわち、第2楽章のテーマの、2,3番目の八分音符はスタカートのダッシュが、その後の二つの四分音符にはポルタートとしてのスラーと点が記されている、といった類である(訳注:原文は音符で表記)。

<フィナーレ固有の問題:シラーのテキストの綴りと句法について>
(テキスト的な校訂問題なので省略)

<声楽パートのスラーについて>

ベートーヴェンが声楽部分に付けたスラーは、シラブル(訳注:語彙の音節)の変化にいつも一致するなどということは決してないばかりか、より短いことがしばしばである。実際には(これらのスラーは)フレージングを考慮するためには重要なのであって、結果的に(通常の慣習とは相反するが)背景(訳注:シラブルなどのこと)とは別個のものだと見なす必要がある。ひとつの典型例は、(訳者補:終楽章の)895−8小節である。しかるに、大変わずかだが、彼のスラーがシラブルより長いという例もあるにはあって、これらはすべて実質的に誤りであるとしてしりぞけてよいものである。これらはふつうは、言葉が(訳者補:器楽よりも)後から入ってくる場合に起こっている。もちろん、(訳者補:こうしたミスの)ほとんどはA(訳注:自筆スコア)にのみ現れるのであって、X(訳注:写譜師の手になるスコアから校正の結果取り除かれた稿)において除去されたのだろうと思われる。ところが、本当に1箇所だけ、実際的な目的があり、かつ除去されずにある長いスラーがある。それは840小節である(ソプラノソロ:訳注 sanfterのterまでスラーがかかっていることを指す。ブライトコップフ版ではこのスラーは除去されている。日本の出版社が出しているヴォーカルスコアも同様のようである)。

<声楽パートのディナミークについて>

A(訳注:自筆スコア)では、ベートーヴェンはしばしば、ソプラノの段にだけディナミークを記入している。それで全声部のディナミークとするのだと意図していたことは、はっきりしている。しかも、彼はほとんどいつも、C(訳注:写譜師の手になるスコア)での声楽パートのディナミーク省略を手直ししていた(たとえば282小節)。とはいえ、たまに彼は修正を失念している(たとえば280小節)のだが、我々はこうした明白な場合には注記することなく修正するという原則を許容した。しかしながら、798-800小節(ソプラノソロ)には明示的に、この原則を採用しなかった。また、疑わしい場合(すなわち797小節や742小節などのような箇所)には、厳しく原典に依拠することにこだわった。(訳注:文中の個所ではソプラノソロにfやsfが記入されているが、それらを他のパートにまで敷延させることはさけており、「厳しく原典に依拠する」とはそのようなことを指して言っている。)

<練習記号について>(使用の便宜を図り従来普及通りとした、という記述なので、省略)

謝辞(省略)

(ジョナサン・デル・マー筆)

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