音楽を読む

2011年12月 4日 (日)

【音を読む】古代の鳥はどう描かれているか?~雅楽「迦陵頻急」

初歩の「十二音」簡単なバランス崩し同じものをつかいまわす(能)・伸ばして重ねる畳んで開くいっそ絵にしてみる


20世紀の鳥はフランスのメシアンが音で描いていたのですが、古代の音ではどうだったのでしょう?

日本の雅楽の「迦陵頻急」というのが、想像上のものとは言え、鳥が舞うものです。この舞楽、舞のほうは子供が舞うシンプルなものですが、シンプルだけにかえって、鳥の悠々とした飛翔を見せてもらえるように感じられます。
では、楽の音はどうか、となると・・・う~ん、古代人は発想が違ったのかな? 音で鳥を描いているようでもあり、そうではないようでもあります。

私は実際の雅楽には縁がないので、舞はDVD(*2)で、成人したかしないかの若い女性が舞う映像で拝見しました。YouTubeには子供が舞ったものがありますので、そちらをリンクしておきます。


この調べから、鳥、あるいは鳥の飛翔をかたちに思い浮かべるのは、現代の私たちには無理でしょう?
それは、日本のものに限らず、「起こりが古い」と分かっている音楽すべてに言えることではないのかなぁ、と感じています。もし感じられるような調べがあれば・・・各地で収録された民族音楽・民俗音楽にはそのようなものもあるのですけれど・・・、どこかに近世の空気が混じり込んでいるんではなかろうかと勘ぐりたくなります。本当にそうなのかどうかは確かめる術はないのですが、怪しんでよいことではないかと考えます。

雅楽の笛がどんな音でどう吹くのかについては、譜ではカタカナで書かれる「唱歌(しょうが)」を口移しで教えてもらい、記憶することで、吹くべき調べを身につけます。
楽家の安倍季昌さんがご著書『雅楽篳篥 千年の秘伝』(たちばな出版、平成20年)の中で

「(篳篥などは)唱歌【しょうが】がしっかりできていないと、吹くことはむずかしいと思います」
と述べられています。
これは他の伝統邦楽にも通ずることでしょうが、本当は西洋音楽を演奏する際にも大変重要なことではないのかなぁ、と、最近感じております。

それは措いても、とりあえず雅楽の音を総合的に捉えるには、五線譜に置き換えるよりは篳篥と笛の対比を唱歌の仮名で目に出来るようにしたほうが、接し方としてはいいのかな、と思います。音程【音の高さ】や音価【音の長さ】、あるいは滑らかにするのか切り上げるのかなどの微細な部分は必ずしも五線譜に移しきれないからです(*1)。

ただし、パソコン上でベタのままで篳篥と龍笛の対比を細かいところまでをきれいにさせるのは難しいので、簡単に整理したものを、本文末尾に掲げます。 実際の雅楽譜は、こんなふうです。(*2)

それぞれを、上の映像の音声を聴きながら一巡目だけでも併せて読んでみているうちに、調べと譜の関係の雰囲気だけは何とか分かってくるでしょう。いちばん右の黒丸は洋楽で言う小節の区切りを表すもの、真中のカナは旋律を表すものすなわち「唱歌」、左の漢字みたいな記号が音程を表すもの、となっています。 唱歌は音程をもある程度表すものになっていますので、篳篥譜の唱歌を西欧式音名と対比させたものも載せようかと思っていましたが、スペースと時間とアタクシの能力の都合上、とりあえずやめました。ご容赦下さい。

龍笛譜

Karyobinnokyuryuteki

篳篥譜

Karyobinnokyuhichiriki

「迦陵頻急」でとられているのは壹越調という、D(固定ドで「レ」)を主音とした旋法【節の巡り】です。(*3)
こむずかしいのですが、本来、この壹越調を理屈通りに捉えると<ニ長調>に相当するものであるところ、実際に耳に入るのは、アバウトいわゆる「都節」音階で、(固定ドで)「ファ#」にあたる音がほとんど半音下がり、短調のような雰囲気を醸成しています。
すなわち、旋法の理屈では壹越調は「レ・ミ・ファ#・(ソ)・ラ・シ」なのですけれど、迦陵頻急ではどちらかというと「レ・ミ・ファ(シャープつかず)・(ソ)・ラ・シ」という音階の構成になっているのです。(これは理屈の上の呂旋法と律旋法が入り組んだものになっています。)
なおかつ、本当は理屈では「レ」が落ち着きどころにならなければならないのに、この調べで篳篥がならすいちばん高い音が「ラ」で、これが聴き手にも音楽の落ち着きどころと感じられるのが大きな特徴です。(すなわち、節は主音【宮(きゅう)】であるはずの「レ」よりも、ほぼ一貫して五度上【ドミナント=徴(ち)】の「ラ」のほうに強烈な引力を持っているのが、<迦陵頻急>の大きな特徴です。*3)

さて、細かい話。

雅楽譜の骨組みを舞の節と各楽器で重ねてみると、次のようになります。
ほんとうは雅楽譜の小さいカナまで含めないと旋律線が正しく把握出来ませんが、便宜上大きな仮名だけで代表させ、洋楽で言う一小節相当分を二文字までで収めてみることにします。(*2)


篳篥(大きな仮名だけ)
龍笛(大きな仮名だけ)

太鼓(CD「舞楽」の舞譜によるところだけ。
   実際には前に「百(ドン)」の前に「図(ず)」が入る。
   また、舞5節目からは加拍子となる。)

という並びにしています。

なお、笙の合竹の基音(迦陵頻急に使われているもののみ)はこのようです。
凢=D、乙=E、下=F#、十=G、乞=A、工=C#
これにより、笙は呂旋をきちんと保っていることが分かります。

舞               |2節
篳|チイ|チイ|引ラ|ロロ|チイ|引ラ|ロヲ|ホリ|
笛|タア|タア|ハア|チラ|リラ|ララ|チリ|アラ|
笙|乞 |引 |乞 |一 |乞 |引 |一 |下乞|
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

舞               |3節
篳|ヒイ|タア|リイ|チラ|リイ|チイ|ヒイ|引引|
笛|ア引|リラ|ラア|タラ|ラア|タア|ハア|引引|
笙|乞 |下 |乞 |乞下|乞 |引 |乞 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

舞               |4節
篳|チイ|引イ|リイ|レラ|タア|ハラ|ラア|ラア|
笛|タア|ハア|チヤ|リラ|タア|ハラ|トヲ|ラア|
笙|乞 |乞 |十 |下 |下 |下乙|乙 |下 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

舞               |5節
篳|ラア|タラ|リイ|引タ|リイ|チイ|ヒイ|引引|
笛|ラア|タラ|ロヲ|リタ|ロヲ|トヲ|リイ|引引|
笙|下 |下乙|凢 |凢下|凢 |引 |凢 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

                |6節
篳|タア|ロル|チイ|ロル|リイ|チロ|ラア|引ア|
笛|ラロ|ロル|トヲ|ロル|ロヲ|リロ|ラア|タア|
笙|凢 |一 |凢 |一 |凢 |凢乙|下 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

                |7節
篳|ラア|タラ|リイ|チロ|ラア|タア|ラア|引引|
笛|ラア|タラ|ロヲ|リロ|ラア|タア|ラア|引引|
笙|下 |下乙|凢 |凢乙|下 |引 |下 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

舞                |8節
篳|タア|ハラ|ラア|ララ|リ*イ|チタ|ハリ|チイ|
笛|タア|ハラ|トヲ|ララ|タ*ア|タタ|ロヲ|トヲ|
笙|下 |下乙|乙 |下 |乞* |下乙|凢 |引 |
太|  |  |  |  |百* |  |  |  |

舞               |退出の舞~入手へ
篳|ヒイ|チイ|ロヲ|チロ|リイ|チイ|ヒイ|引引|
笛|引引|トヲ|ロヲ|チヤ|ロヲ|トヲ|リイ|引引|
笙|凢 |凢工|乞 |一 |凢 |引 |凢 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

CD「舞楽」収録の演奏では、三巡目で、*で舞が終わり、そのあと壹越調の定型の終止形が演奏されています。聴き流している分には不自然さはないものの、それまでの「ラ」を中心とした節のめぐりからすると、それは実はかなり唐突なことなのではないかと思います。
このあたりの、「節のめぐり」というものについて、あらためて考えてみる必要を感じます。

打物(太鼓)は最も基本となる打音は5塊目、すなわち八単位の後半が始まるところで打たれるのですけれど、管を主体に考えればそのような位置にきてしまうものの、舞を主体として考えた時には、舞の区切り目のところで打たれているのが、上の譜の対比から明確になります。つまり、雅楽(舞楽)の構成は、まず舞を主体として太鼓の鳴る位置が決まっており、管は舞が実際に始まるところからを主体にするため、譜ではその位置を調整することになっているのではないかと見て取れます。太鼓の最初の打音(正しくは1つ前に予備の打音が入りますが)は節の8塊の中間位置に入るのが原則となっていて、それが雅楽の【西洋音楽的な意味での】拍子・・・早四拍子だとか早八拍子だとか・・・を決定づけるのだろうと思われるのです。

譜づらについて、素人として興味深いのは、雅楽の管の譜は、篳篥・龍笛・笙のどれもが、能の八割譜のように、八つの単位をひとまとまりにして描かれていることです。とはいえ、これはおそらく近世~近代に整理され得たことだと思われ、能の譜の歴史と併せてきちんと見直されなければならないでしょう。

こんなところで。


*1:雅楽の調べを五線譜に移した優れた譜例は、私たち一般の者が手に出来る限りでは、増本喜久子『雅楽』に豊富に収録されています。これらは他の書籍が伝統邦楽を五線譜に移したものに比べて遥かに精度が高いものだと感じていて、尊敬すべきお仕事だと頭を下げる思いで読ませて頂いております。しかしながら、それだけきちんと拾ったものでも、やはりとくに音価については雅楽の持つ習慣を柔軟に記すことは出来ていません。そのあたりは五線譜の宿命なのだろうとも強く感じます。

*2:雅楽の譜は天理教道友社のものによりました。手に出来たのは、篳篥・龍笛が2009年、笙が1973年の出版のものです。CDは東京楽所【がくそ】『舞楽』(日本コロンビア COCJ-30793)を聴きました。舞、太鼓の区切りは、芝祐靖さん監修の同CDリーフレットによって把握をしました。

*3:「迦陵頻急」でとられているのは壹越調(宮【主音というより終止音というべきでしょうか】がDとされている)で「君が代」と同じ旋法なのですけれど、迦陵頻急はD音よりも五度上(徴【ち】)にあたるA音を中心にした節回しになっています。Aを終止音とするのは黄鐘調なのでして、黄鐘調は「迦陵頻急」が用いているような音の進行は全くしないので、これはヨーロッパのグレゴリオ聖歌でとられているものと対比すると<変格旋法>とでも呼べばいいのだろうか、と思われてきます。事実、壹越調の楽曲には迦陵頻急とは異なってA音を中心とはしないものもあります(「胡飲酒破」、あるいは歌謡の場合にはD音を落ち着きどころにしているのではないか、というのが、たとえば「春過」を耳にしての印象です)。といいながら、これは壹越調だけに限らず雅楽の調べは管絃では徴【宮から五度上の音】を軸に巡る傾向が強いとの印象も一方ではあり、簡単に結論づけないで数をたくさんきちんと調べる必要があります。
なお、黄鐘調と壹越調は前者が律旋、後者が呂旋ですが普通は(舞楽の場合)笙の和音のみに痕跡があるだけで管の旋律では使われている「音階」は区分が出来ないように思います(いずれもいわゆる都節音階の租型かと感じます。無理に「都節」だとか「イレギュラーな律旋」だという必要は無いと思いますが、それは学問をなさる方の世界では許容されそうにありません)。ただし、「迦陵頻急」の、明治神宮で収録された舞のバックで演奏されている楽は、管が呂旋の音程で吹かれる傾向が耳に留まります。DVD~『生きた正倉院 雅楽』Oldsea

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2011年11月19日 (土)

【音を読む】いっそ絵にしてみる~メシアン「鳥のカタログ」第1曲

初歩の「十二音」簡単なバランス崩し同じものをつかいまわす伸ばして重ねる畳んで開く


スキャナを使っていませんし、まともなデジカメもいま持っていません(子供たちに取られた【泣】)ので、ケータイで撮ったらピンボケ画像ばかりになりました。お許し下さい。

図柄になる楽譜の・・・手っ取り早いのは図形楽譜でしょうが、そうではないものとして・・・サンプルに、このまえはまたもウェーベルン作品を取り出してみたのでした。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-90f8.html

「いや、図を描くくらいならいっそのこと音の絵を描こう!」
とでもいえる試みをしたのが、オリヴィエ・メシアンの『鳥のカタログ』だ、ということにしておきましょう。

その最初の<絵>を眺めてみます。

00chocarddesalpes

・・・あ、これはメシアンの描いた絵ではありません。@MasakiKawamura

作曲家ですから、音で絵を描いたんですね。

こんな感じ。
←クリックで聴けます。(*1)

ウゴルスキというピアニストさんが録音したCDの日本語盤には、石田一志さんと村上美佐子さんがタイムテーブルに沿って絵の中身をまとめて下さったリーフレットがついていました(*1)。
これの大枠を引用させて頂き、楽譜例を幾つか掲載して、目で確かめてみましょう。上の演奏を追いかけながら、音も対応をとってみて下さると、よく分かると思います。

00"00 ラ・メージュの氷河への登り

01montant

以下、岩場を表すときは、これと類似のセットが出てきます。(A)(*2)

00"58 キバシガラス(の叫び声)・・・最初の絵の鳥です。

02chocarddesalpes1
03chocarddesalpes2

・・・こんな声で鳴く鳥なんでしょうか?(B)(*3)

01"22 イヌワシの飛翔(「音も立てずに堂々と」!!!)(C)(*4)

01"53 ワタリガラス(の、しゃがれた獰猛な鳴き声、だそうです)

07grandcorbeau2

05grandcorbeau1

・・・キバシガラスとは別なので、上下ともヘ音記号すなわち低い音域を使って、ちょっと音の色分けをしてあります。(D)(*5)

02"12 キバシガラスの飛翔(横滑りや宙返りや急降下)(E)(*6)

06vif

またキバシガラスが鳴いて(B)・・・(*7)
ちょっと洒落た鳴き方もしてみます。

03chocarddesalpes3

・・・基本の鳴き声(B)に比べて見た目もスッキリ(F)

で、もう一回飛び跳ねます。(E’)

02"52 また岩場が来て(A’)
サン・クリストフ山、だそうです。

04"28 キバシガラスは基本の鳴き方がひっくり返って(B’とでも言うべきでしょうか)

04"57 イヌワシさんがまた飛んで・・・と思ったらキバシガラスさんが悠々と、なのでした。

04ascension
・・・ここ、16分音符ですけど、とてもゆっくり。16分音符にしたのは、鳥の飛翔のあとを飛行機雲みたいに見せるためなのかしらん? (C’)

05"36 したらばまたワタリガラスがわめきます。(D’)

06"13 以降、またまたキバシガラス君の活躍。(B”)(E”)
・・・いい声の別ヴァージョン、「もっといい声」が出てきますが画像載せてませんスミマセン。

07"27 最後はまた岩場。(A”)
エクラン山塊・ボンヌ=ピエール圏谷

同じものが繰り返し現れるわけではないのですが、音型で「同じものの絵姿なのだ」と分かりますし、それは音になったときも明確に聴き取れます。

この第1曲が、『鳥のカタログ』の中では、絵としていちばんシンプルだと思っております。

どうでしょう、絵としてイメージできそうでしょうか?

ちなみに、楽譜の表紙にはこんな(目で見る)絵が描かれています。

Picture

音楽のほうの情景の順番をまとめて確認しますと、

(A)(B)(C)(D)(E)ー(B)(F)(E’)

(A’)(B’)(C’)(D’)(B”)ー(E”)

(A”)

という具合になるでしょうか?
これを、それぞれの情景音から受けたイメージに基づいて、視覚的な絵画に置き換えてみることが出来るかも知れませんね。ちょっと、絵巻物的にかなりの横長になるかも知れませんが。
音楽としては響きが古典から逸脱していますけれど、「形式」は上に見た通り、岩場を表すモチーフ(Aの系列がそれ)を枠にしている点、続く鳥の鳴き声や動作を表すセットの順番がほぼ同じように反復して現れる点で、案外古典的なのがはっきり浮かび上がると思います。

『鳥のカタログ』は全7巻13曲で、第1曲はカラス属の声だけだし、まだ作りがシンプルなほうです。2曲目以降にきれいな鳴き声の取りが登場しますから、それをお聴きになってみて下さいね。


蛇足の余談です。

音楽は、良く言われることですが、音が流れてなんぼの世界です。ですから、音で描いた絵なるものは、目で見ることの出来る絵とは違って、一瞬で
「おお、こういう絵なのか!」
なんて捉えることは不可能です。
耳に聴こえた印象を記憶して、そこに視覚イメージその他の経験から
「まぁ、こんなカタチや手触りや色合いだろう」
なる類推を加えることで初めて、音の絵は私たちの胸の中で像を結びます。 で、17世紀から21世紀の今に至るまで、音で絵を描いた(つもりになった)作品はいっぱい出来ました。

ヴィヴァルディの『四季』やラモーの『めんどり』やベートーヴェンの『田園(交響曲)』なんかは有名な例ですね。(このなかで『田園』だけは、な ぜか「標題音楽ではない」つまり「音の絵ではない」と学者さんたちに言われ続けて来ています。なんでそうなるのか私には分かりません。)そのものズバリ 「音の絵」なんてタイトルがついた作品まであります。

けれども、そうした「音の絵」は、だいたい、物語的な要素がくっつくのが常ですから、管弦楽の場合は、だんだんに「交響詩」と呼ばれるジャンルを形作っていたのでしたね。

 

メシアンの『鳥のカタログ』はピアノソロ作品ですし、交響詩にあるような物語性は帯びていません。視覚的な絵だってストーリーがある場合も少なくはありませんから、純粋に絵画的、と言うのは語弊があるかも知れませんけれど、それでも風景画的ではあるかと思います。

 

ではこの音の絵を目で見られないのか、となると、それは可能です、となるわけでして、そうです、楽譜の書き方がやっぱりどこか絵のようなのです(独断)。ただし、絵の具に当たるものは響き具合なので、それは模様から読み取るしか術がない、との話ではありました。


この作品自体は「総音列」ではないでしょうけれど、楽劇におけるヴァーグナーが主観的な要素をリズムと 旋律線で定型的に記号化したのに対し、メシアンは本来具象であるものを準定型的可変リズムと和声とディナミークの総合で記号属とでも言うべき系列的なもの を使用することで描こうと試みているところに、ロマン派音楽に比較した場合・・・ひいてはバロック期に遡っての記号化にはなかった「視点」を持ち込んだ新 奇さ、面白さがあると思います。

楽譜はAlphonse Leduc。

以下、上っ面な読みであることに予めお許しを請いますが・・・

*1:Anton Ugorski(Pf.) Deutsch Gramophone POCG-1751(1994)
日本語盤は現在入手出来ませんが、日本語盤附属のリーフレットが有用です。
   http://www.amazon.co.jp/dp/B00005FI0L
リーフレット中のテーブルの項目は、楽譜にフランス語で書き込まれているものが大半で、あとはストロフ【各曲の前に付いた標題的詩句】から情報を 付加したものではありますが、楽譜は高価なので、鑑賞する際にはとても助かります。なお、同盤には、楽譜の各曲の冒頭についたストロフの翻訳が鳥のイラス トに添えて訳されている冊子もついています。
メシアンの奥さんイヴォンヌ・ロリオが演奏した録音もありますが、輪郭の明確なほうの演奏で引いておきます。・・・なお、音声はモノラル化してあります。

*2:この音型は原則として1小節(2/4拍子)に12音すべてを使用しています。(A')のところでは小節あたり(16分音符を1拍と見た場合 に5拍子や7拍子9拍子11拍子など奇数拍子になるように・・・ただし1音符あたりの速度は4分音符を1拍と見た場合の4倍)の単位を16音ないし20音 に延長しています。その際、小節内で12音を一巡した後は新しいセットを次の小節とまたいで使用しています。(A")も同様です。

*3:キバシガラスの鳴き声の根底アイディアは完全5度と減5度もしくは完全5度同士の累積でしょう(その反転としての各4度音程を含めます)。 それを、上声部と下声部で短2度でぶつけあう作りになっているかと思います。上声部下声部に見かけ上の長2度や完全4度、長6度その他がみられたりします が、これはどこまでいっても見かけ上のものにみえます。これは、鳴き声のパターンが変わっても基本的に変化していないことです。メシアンはこの鳥の鳴き声 成分をそのように分析したということなのでしょうか。

*4:飛翔は、さまざまな3度音程を基本色として、あえて拍節を感じさせたい(それは飛翔が直線ではなくて曲線を描くのだということを主張した かったのかどうか)箇所では、音が低音域にあるあいだは4度ないし5度で上昇したあと3度下降するようにし、高音部に上昇しきると、拍節感を薄めるべく、 5度跳躍の後に2度下降する等により、線をなだらかにしていきます。聴覚絵画的であると言えるかと思います。

*5:ワタリガラスは、キバシガラスよりも狭まった4度ないし3度を使用しますが、*7と同様になる印象を避けるため、ひとつには音域を低めに集 中させ、もうひとつには(リズムパターンそのものは共用しながらも)ワタリガラスよりも細かい音価での動きや刺繍音的パターンへの変更、同一和音の3連続 以内での連打(あとに必ず8分休符が続く)を採用しています。パターンのヴァリエーションはキバシガラスよりも少なくし、骨太の構成にしています。

*6:「横滑りや宙返りや急降下」の表現は、譜づらの如何によらず、拍節的な書法によっていて、リズミカルな印象を意図的に創り出していると考えられます。即ち、とくに最後の登場時にはわざと崩してもありますが、登場箇所すべてで基調として3/16拍子をとっています。

*7:*3参照。なだらかな連打の中に、3度を交えることで、艶なり愛嬌なりを出している、とでも言えるでしょうか?

 

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2011年11月 3日 (木)

【音を読む】まんなかで折って開いてみる(ウェーベルン「変奏曲」第1曲)

初歩の「十二音」簡単なバランス崩し同じものをつかいまわす伸ばして重ねる


15世紀からまた時計を400年ちょっと戻して、ウェーベルンに還ってみます。

(楽譜の不揃いなのはお許し下さい。ソフトの使い方に不慣れでヘタでありながら、あんまり時間を割けないものですから。*のついたところは、面倒な話は下のほうに綴りました。興味がない場合はスルーでどうぞ。)

これは、ひとつの絵だと思って下さい。
音符を読もう、と思わないで、模様として横の位置の高さだけを眺めるのがミソです。ホントです。

【1】

Variation11_2
掲載した絵(=楽譜。少しでも分かりやすくしたいので、元の通りではなくて変形してあります。以下同様・・・注の*0に続く部分を参照)、真中の小節で二つ折りすると、音符がピッタリ重なることがお分かりになりますね?

・・・ハタや記号も裏返しに出来たら、もっとよかったんですけど・・・

「同じ線の上や同じ線の間の場所にある音が同じ高さである」ことだけ分かっていれば、すくなくとも、グラフとしてみることは出来ます。(*0・・・*2も参照)

まるで、紙半分に絵を描いて、絵の具が乾かないうちに真ん中で折って、そぉっとひろげてみたようです。

ウェーベルン(Anton Webern 1883-1945)は、この、二つ折りにすると重なる像だけを組み合わせて1曲仕上げました。
全体は3つの章からなる「変奏曲」という作品の第1曲です。
知る人ぞ知る。知らない人は知らない。知ってて得するわけでもないけど、知ってると楽しいかもしれません。(あたしは知りませんでした。weep )
・・・「変奏曲」なのに3章あって、昔ながらの意味での変奏曲は最後の3章目だけです。そのあたりは、今回は観察しませんので、スルーします。(*1)

これも「子供のための小品」同様、12音技法というやつで書かれていて、さらにもっと複雑なことをしているのですけれど、そのへんは押しやっておいて、絵柄だけ見ましょう。(*2)

先に上げた楽譜が、「変奏曲」第1曲の最初の部分です。(*3)

続く部分も、同じように二つ折り出来ますが・・・

【2】

Variation12_2

ちょうどまんなかのところが分厚い和音になっていて、そこの左と右で絵姿がちょっと違っています。まちがいさがしみたい。

で、その次はまた二つ折りに出来ます。(*4)

【3】

Variation13

・・・この部分、ただ折って重ねておんなじ~ぢゃあつまんねぇ、とウェーベルンが(たぶん)思ったので、実際の曲では、最後のほうは音の位置をオ クターヴ単位で変えちゃってます。音程は同じです。【6】も同様です。(こちらでは描きませんでしたが、【6】のほうは音を移動したあとの譜例も描きまし た。)

で、次で一旦締めくくられますが、これは【2】とまったく同じです。(*5)

 

【2’】

Variation14

・・・うそです。 happy01
・・・最後の小節に、休符が1個余計にあります。

このあと、曲はちょっと細かい動きになります。ここでは複数の折り重ねられる部分が糊付されたみたいになっていたりして、上で見て来たようにすっ きりいかない作りになっているのですけれど、基本はやっぱり二つ折りで重ねると重なるものばかりの連続です。見た目がぐちゃぐちゃするので、省きます。ぜ ひ原曲の楽譜を見て下さい。

で、また、上で見た、最初の部分と似た感じに戻ります。(*6)
ここからの骨組み自体は、最初の部分と同じです。ですから、「再現部」と呼びます。(現にそう呼ばれています。)

はじまり。

【4】

Variation31

最初となにかが違うでしょう?
実は、最初のときと、音の動きの関係を上下ひっくり返してあったりします。(*7)

2番目の部分

【5】

Variation32

つづき。

【6】

Variation331

3と同じような、音の配置換えをしています。こちらは譜例も載せておきます。

【6’】

Variation332

しめくくりも二つ折りではつまらないので、折り返してからは音の場所をちょっとズラしてみたりしています。音の高さ(いまはこのことばを音程の意 味で使っています)は変わっていませんが、絵柄としてみる時には違って見えてしまいます。それは、絵ならば色合い(彩度のほうでしょうか?)を変えてみ た、ということになろうかと思います。

【7】

Variation34

「え~? こんな《お遊び》で、本当に曲が出来るの~???」

で、こんなふうに聞こえます。

(高橋 悠治)

面白いでしょう?
そうでもない? (><)


*0:厳密には#だとかbだとかも同じについていれば同じ高さの音ですね。

以下、音の配置は楽譜の対称性をみるために変更している箇所がいくつもあります。さらに、音符はすべて16分音符にしてしまっています。ウェーベルンは実際には響きを考慮して音を長く引き伸ばしたりしています。

*1:ウェーベルンの「変奏曲」作品27(1937年初演)は基本音列とその反行(音度の移動を反転させたもの)、それぞれの逆行の4つの音列を用いた3曲からなり、第1曲は上例のようにそれを線対称点対称・・・この場合の点対称とは数学的な厳密さを持たず、ある点を中心に正負の領域を異にして音響の同一フォルムがおかれていることを指します、以下同じ・・・に配置したものの列挙で構成、第2曲は強弱とアーティキュレーションをも音列化し(「総音列主義」の嚆矢)、第3曲が「基本音列~反行音列~基本音列の逆行」の連なりを主題とした<5つの変奏曲>となっています。第3曲の変奏は、しかし、変奏部で音列の入れ替えを行なったりしているため、実際には古典的な意味での変奏曲ではありません。

*2:音列については末尾の図参照。中に反行・逆行・移高が現れますが、これらは五線譜にではなく12×12升のマトリックスに書くと読み取りがラクになります(慣れないとしんどいことに変わりはありませんけれど)。その際、マスを音名で埋めるより、基本音列の開始音を基準にして数字化(ピッチクラスとして読むために)したほうが、より便利です。五線譜は、とくにE-F音、B-C音(ただしBはドイツ音名のHに相当する)の半音音程も他の全音音程と同様に描かれるため、ピッチ関係の読み取りに苦労する場合があり、数字化することで五線譜の欠点が解消されます。このあたり、やり方はコープ『現代音楽キーワード事典』(石田・三橋・瀬尾訳 春秋社 2011年9月・・・タイトルの直訳は「音楽における新しい方向性」で記述もこのタイトルに沿っていますし、ちっとも事典じゃない気がするんですけど、事典との邦題がついています)第2章参照。

*3:冒頭部は最初の1拍分の休符を省略して描きました。ちなみに、古典的な拍節感で言いますと、冒頭部7小節は最初の休符を加味しなければ5拍子で、そこからあとようやく3拍子となります。・・・なお、ディナミークは全く無視しています。これは【1】~【3】までのセクションでは7小節目までpp、8-10の3小節間はp、11-14の4小節間はf、15-16小節がp、17-18小節がppとなっています。ディナミークについては非対称であるものの、第2曲のディナミークの音列化をちょっとだけ伺わせるようになっています。これは中間部がfないしffをメインのでディナミークにするために、【4】以下の部分(すなわち再現部)では同じセットとしては再現されませんけれど、【4】以下では46-47小節目を境界にpp-pが線対称的に配置されています。

*4:本当は2拍目から始まります。1拍ズラして描いてあります。

*5:本来は2拍目から始まります。

*6:以下、リズムの読み替えは、最終部分を除いて第1部と全く同じ

*7:下図を見て分かるように、再現部は音列の配置を冒頭部(17小節目まで)とは全く変えておらず、ただ音列の位置(ピッチ)を変えているだけです。ただ、これは曲そのものの楽譜を見れば一目瞭然である通り、冒頭部が右手でやっていたこと左手でやっていたことの役割分担をすっかり入れ替え、運動も上向きだったものを下向きに反転させていて、音列とはまた違う「反行」をとりいれています。全体に、楽句の始まりと終わりを7度で、音が広がって行く部分を9度で統一した響きにすることが曲の一貫性を保たせるとともに、9度から音程が狭まった7度で終結させることにより段落感を明瞭にし、さらにこの再現部での運動の反行で曲が落ち着いて終わるように、巧みに設計されているのが分かります。こんな音列・・・どんだけ時間かけて考えついたんでしょう? おもろいです。

<図>「変奏曲」第1曲の音列
・1段目~基本音列とその反行
・2段目~基本音列の逆行とその反行
・3段目~【1】(曲の7小節目まで)での基本音列の使われ方
・4段目~同じく【1】での基本音列の逆行の使われ方
・5段目~【4】以下の基本音列とその反行。長3度上に移動(移高)。
・6段目~【4】以下の基本音列の逆行とその反行

Variation1reihe

3段目と4段目が点対称になっています。
即ち、第1セクションは基本音列とその逆行で出来ておりさらに、それが点対称的になるよう配置されています。以下のセクションにおいても同様の観察が出来ます。
5段目6段目は長3度上に移高していますが、じつはこちらがこの作品全体をみたときの正式の音列のピッチだそうです。

 

楽譜は大竹道哉校訂「ウェーベルン ピアノ作品全集」(ヤマハミュージックメディア 2011)を参照しました。

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2011年10月29日 (土)

【音を読む】のばしてずらして重ねてみる~オケゲム「ミサ・プロラツィオーヌム」のKyrie

初歩の「十二音」簡単なバランス崩し同じものをつかいまわす


(音声プレイヤーの位置がバラバラですみません。)

こないだ、日本の能の例で、同じものが「有効活用」されているのを見てみました。 
譜例に掲載はしませんでしたが、能では、同じ節(メロディ)が笛で繰り返される時に、打楽器が叩くパターンを変えることでメリハリをつけていました。 
ご存知のことだろうとは思いますけれど、ヨーロッパでは、低い音で鳴る一定の旋律を何度も繰り返し、その上に乗せる高い音の旋律(メロディ)や響きを変えるものが作られていました(パッサカリア)。 
あるいは、一つの旋律をいく通りにも姿を変えさせる、変奏曲という形式も発達していきます。 
いずれにしても、ヨーロッパは高い音のほうの旋律はどんどん姿を変えさせるのが好きなようで、日本の能の舞囃子とは対照的です。 

探すと他の世界にもこれらに似た発想のものがあるのかもしれませんね。あったら面白いですね。ご存知でしたら是非ご教示下さい。 

さて、同じ一つの旋律をそのまま繰り返すのではなくて、ずらして重ねるテもあります。最近はどうか知りませんが、キャンプというとつきものだった「静かな湖畔」みたいな、「輪唱」ってやつがふつうです。カノン、と呼ばれるこの種類の音楽は、たくさんの作曲家によってたくさん作られています。(*1) 

ふつうでない、こんな例もあります。 
1497年に亡くなったフランドルの巨匠オケゲムの作曲した、とあるキリエです。 

まずこれがメロディ。

Kyriesop
 


これを、ちょっと間延びさせてみます。(*2) 

Kyriealto
 

で、もとのやつと、ちょっと伸ばしたりしてみたものを一緒にくっつけると・・・

 

あら不思議、なんだか面白い響きが出てきました。

でもまだ何だか物足りない。 

最初のメロディに組み合わせる、もう一つのメロディを考えます(って、オイラが考えたわけじゃないですけど【爆】)。 

Kyrieten

で、これを最初のメロディと組み合わせたら・・・ 
 

う~ん、なんだかまだまだ中途半端だ! 

で、こっちも間延びさせてみます。 

こうだったのを・・・ 

Kyrieten_2

こんくらい。(*3) 

Kyriebs

で、これも、最初のメロディみたいに、同じものどうしくっつけてみます。

 

まだなんだかピンと来ません。 

で。 

全部くっつけてみちゃいます。 

即ち、(【1】+【2】)+(【3】+【4】) 

・・・すると、あら不思議!!! 

 

響きがすっかり充実しました。 

Kyrieall

数字があるところを区切りにして、2分音符1拍の3拍子に割り当てて線を引くと、どういうタイミングで合わせてあるのかが分かります。・・・ただし、この音楽は三拍子ではありませんから、注意が必要です。(*4) 

ちゃんとした演奏で聴いたほうが、すごさが良く伝わってきますので、それを最後に掲げます。・・・音が1全音分くらい低いのですけれど、お許し下さい。

(ヒリヤードアンサンブル)
 

このキリエを含む "Missa Prolationum" は、他の章もこのような組み合わせを大変に興味深い方法でやっていることで有名です。 
(楽譜はオンラインではIMSLPにあるのをご教示頂きました。同じご教示で拝読した資料に、オリジナルの指示で上声部に2/2と3/2、下声部に4/2と6/2【3/1か?】が記入されていることも確認出来ました。深く御礼申し上げます!)


*1:モーツァルトやベートーヴェンの例からは、カノンが気軽な、あるいは心のこもった挨拶代わりにやりとりされた様子が伝わってきます。

*2:【1】の最初の二単位相当分を近似的に1.5倍くらいにしています。 

*3:【3】の最初の
二単位相当分を、近似的に1.5倍くらいにしています。・・・【1】・【2】の関係と基本アイディアが同じです。 

*4:全体を組み合わせた上で旋律線を眺めると、2分の3拍子で通っているパートはありません。ソプラノ(【1】)は基本は2分の2拍子ですが計量上は2分の1拍子とでも言うべきものです。あくまで計量上のものだという点に気を付けなければならないでしょう。近代的な拍子に完全に置き換えてアクセントを考えるのは誤りのもとかと思います。アルトは一貫性のある拍子として眺めた場合には4分の6拍子ですけれども、小節を割り振ってしまうと、強弱アクセントは小節ごとにかなり変動します。とはいえ、そのアクセントのズレて行き方は、五線譜表に書かれたバロック期のものに似通っているのが興味を引きます。テノールは最初の2小節は付点四分音符を1拍とした4拍子、3小節目は4分の6拍子、以下は2分の3拍子。バスは、小節を割り振った時には、最初の3小節は付点二分音符を1拍とした3拍子、残りの6小節は付点無しの二分音符を1拍とした3拍子(2分の3拍子)となるかと思います。・・・あくまで音符の長さをはかる単位としてだけ全体を2分の3拍子と決めつけて眺めるようにすると、全体が9小節、すなわち3×3になる(歌詞の区切りとは一致していませんけれど、キリエは3回繰り返される、ということ、カトリックにとって3は聖数であることにつながります)のですが、オケゲムがそんなことを意識したかどうかは全く分かりません。オリジナルには小節線がありませんから。

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2011年10月21日 (金)

【音を読む】同じものを使い回す(日本の能)

大井浩明さんPOC#7「リゲティ」は明日10月22日(土)ハクジュホールにて。
会場地図、情報リンクはこちら
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/map1022poc-a45e.html


初歩の「十二音」簡単なバランス崩し


ウェーベルンの「子供のための小品」をとっかかりに、まずはそこに感じられた「バランスを崩してみる」例が古典だとどんなふうな現れかたをしていたか、について、ハイドンの弦楽四重奏曲を例にとってみたのでした。(*1) 
で、他にまたまた十二音技法の初歩を大雑把に言いますと、この技法、半音12個の音の並び方をひとつ決めて、それを「使い回し」するのでした(すげ~大雑把!)。 
でも、この20世紀初めにドイツ圏で使われるようになった方法では、12の音程がみんな別々です。 

同じものを「使い回し」する、と言う点では、日本の「能」の舞のお囃子が、実は大変な優れものです。 
音程は同じものが何度も現れるとはいえ、節は4つの定型で、一噌流(いっそうりゅう)の唱歌でいきますと、次のようになります。 

(呂)  ヲヒャラーイ|ホウホウヒ    A/B 
(呂ノ中)ヲヒャヒュイ|ヒヒョーイウリ  A'/C 
(干)  ヲヒャラーイ|ヒウヤ      A/D 
(干ノ中)ヒウルヒュイ|ヒヒョーイウリ  A"/C 

笛の唱歌と合わせて演奏したものの例を聴いておきましょう。 

笛:呂・呂ノ中・干・干ノ中
 
(日本伝統文化振興財団「能楽囃子体系(四)」から。笛:寺井政数) 

これを覚えていると、舞の音楽の殆どが聴き取れます。これを繰り返す方法を「呂中干(りょちゅうかん)形式」と言います。 
この形式で演奏されるものは、 
・序ノ舞、中ノ舞、破ノ舞、急ノ舞、早舞、男舞、神舞 
などがありますし、部分的に取り入れたものには 
・羯鼓、神楽、猩々乱 
などがあります。 

・・・で、実際に聴いてみると・・・(「能楽囃子体系」所載のもの)

イロエ掛り破ノ舞
(藤田流) 

太鼓入り破ノ舞
(一噌流)(*2) 

あれ? 
同じような、違うような・・・ 

呂中干形式がくる前に、カカリという導入がありますが、上掲二例のその部分の違いは問わないことにしましょう。 
で、「破ノ舞」では呂中干形式は最初のほうで二巡して後半一度登場する(初段目)だけで、「トメ」という終結部に進みます。この終結部分も問わないことにしましょう。 

さっきの「呂~呂ノ中~干~干ノ中」の組み合わせを思い出しますと、「破ノ舞」本体部分とでも言うべきとくに「段」の部分の呂中間形式の部分は、確かに同じようだ、とまでは感じられると思います。 
ところが、節回しがどこか違う気がする。 
(舞の速さが違うと、また違って聞こえます。) 

まず、能で使われる笛(能管)は、指を順番にあけていっても、いわゆる「ドレミファソラシド」にはなりません。それより狭い音程になります。ですから、運指表で拾ってみても西欧音階のどの音に当てはめたらいいかは聴き手の耳次第ということになるでしょう。また、笛を吹いたものを西欧音楽の耳で五線譜に書き落とすと、聴き取った人によって違ったものが書かれてしまうし、西欧音楽に詳しい能のご関係の方がそれを点検しても「どれも正しい」となってしまうようです。(金春惣右衛門・増田正造監修「能楽囃子体系」の解説に掲載された舞の音楽の五線譜化【*3】したものと、浅見眞高編著「能の音楽と実際」【*4】での舞の音楽の五線譜化されたものとでは、拾われてい笛の音程が全く違っています。) 

もう一点、「呂中干形式」の笛の唱歌を確かめてみますと、先の一噌流のものと、他の森田流・藤田流のものでは微妙に異なっています。とは言っても、A/B・A'/C ・A/D・A"/Cという構成は共通です。 

・・・かたちが共通でも少しだけ違って聞こえるものを大雑把に「同じ」と言ってしまって良いのかどうか、疑問が湧くかもしれません。 

しかしながら、いわゆる「ドレミ」の音楽でも、能楽ほど極端ではないにせよ、実は時代が変わると響きは変わるのが最近明らかになっているにも関わらず、それによって(やはり能楽ほど極端ではないにせよ)違って聞こえるものを「同じ」と聴いている。多少強引に言ってしまえば、流派の違い、速さなどによる聞こえ方の違いがあっても、これらは「同じ」ものの使い回しと見なすのが、捉える耳のあり方としては正しいのではないのかなぁ、と、私は考えております。 

あえて短くて比較しやすい例だけをお聴き頂くようにしましたが、どうぞ、あとは世間の「能の囃子」の類のCDなどで、とくに「序ノ舞、中ノ舞、急ノ舞」などとタイトルがついたトラック、あるいは「羯鼓、神楽、猩々乱」などをお聴きになり、 
「あ・・・同じだ」 
を実感して頂けるのがよろしいのではないかと存じます。 

日本人でありながら、私も伝統邦楽の理屈などについてはまるで疎いのですけれど、こんなあたりに面白さを感じてたくさん聴いていくようになるのはきっと新鮮な面白さをたくさんの人に覚えさせてくれるものと信じております。


 

*1:ウェーベルンはもっと分かりやすい「バランス崩し」を、作品番号21を当てた変奏曲の第1曲でやっている。そこでは、記譜上は最初から三拍子なのですけれど、開始からちょっとのあいだを五拍子にすることで、「あれ? ちょっとちがうぞ」と聴き手に感じさせるように仕組んでいる。 

*2「太鼓入り破ノ舞」の、太鼓の手の名称と笛の唱歌のみ 
  太鼓 
カカリ~打込    : 
地  ~頭     :ーヲヒャーーーーラ 
    付頭    :ーヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ【呂ノ中】 
    ヲロシ   :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ(呂) 
    高刻    :ーヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ(呂ノ中) 
    ハネ    :ーヲヒャラーイ|ヒウヤ(干) 
    刻四ツ   :ーヒウルーイ|ヒョーイウリ(干ノ中)
 
    刻2    :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ(呂) 
    刻3    :ーヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ(呂ノ中) 
    刻4    :ーヲヒャラーイ|ヒウヤ(干) 
    上ゲ・打切 :ーヒウルーイ|ヒョーイウリ(干ノ中)
 
    頭     :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ【呂】 
初段目~付頭    :ーヲヒャヲヒャーリヒウヤラ (テンポが遅くなり、気は張る)
    ヲロシ   :ーリ|ヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ【呂ノ中】
    刻三ツ   :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ(呂) 
    刻2    :ーヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ(呂ノ中) 
    刻3    :ーヲヒャラーイ|ヒウヤ(干) 
    上ゲ・打カケ:ーヒウルーイ|ヒョーイウリ(干ノ中)
 
地~  打込    :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ【呂】 
地頭~ 頭     :ーヲヒャヲヒャーリヒー 
トメ        :(イヤア) 
・・・太鼓の手の名称の同じものは同じ叩き方。すなわち、笛の一定の旋律に対し太鼓の違う手を組み合わせることによって、旋律の趣を異なったものに聴かせる(あるいは逆もまた言えるのであって、太鼓の一定のリズムに対して笛の違った旋律を組み合わせることによって、リズムを違った趣のものに聴かせる)、という「響きの多様化手段」もあるのだということを、能の舞囃子は示唆している。平家琵琶はまたいくつかの定型を物語の文の趣旨に沿った組み合わせに多様に変えることで多様さを実現していることが思い起こされる。->「平曲・平家琵琶・平家」カテゴリ参照 

*3:「太鼓入り破ノ舞」はCD版同梱冊子では63頁、LP版同梱冊子では45頁。上掲の笛の唱歌はそれによる。その他にも所載あり。録音に収めてあるものを譜にしている。その演奏では、笛は一噌幸政、小鼓は北村治(大蔵流)、大鼓は安福建雄(高安流)、太鼓は観世元信(観世流)。 

*4:音楽之友社、1993年刊。258頁から「羽衣」全曲を五線譜に採譜したものを掲載しており、287頁から「序ノ舞」、299頁から「破ノ舞」の譜となっている。点検してもらったかたが観世流なので観世流のシテで演じられたものを採譜したのであろうと思われるが、来歴が分からない。すくなくとも、観世寿夫の残した録音とはいくつもの大きな差がある。

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2011年10月 9日 (日)

【音を読む】バランスを崩してみる ハイドン:弦楽四重奏曲ト短調 作品20-3から

初歩の「十二音」


実際に遊んでみると分かるのですが、十二音技法で書かれたものは、長調のド、短調のラに当たる旋律の重心がありません。それが響きを不思議なものにします。
ですが、ウェーベルン「子供のための小品」は、一方で、以前のヨーロッパ音楽がとっていた伝統的な方法をひとつ、大事に使うことで、子供が少しはとりつきやすいように工夫されています。
それは、音楽のリズムが、2つ、4つ、ないし8つのまとまりで区切られているように聞こえる作り方です。
ウェーベルンの小品で は、3拍子が4つずつにまとまっているのでした。細かいリズムはちょっとズラしてあるので、十二音音列がもたらす曖昧さをさらに強く印象づけるのですけれ ど、それでも聴いているとなんとなく、基本は3拍子が4つずつのまとまりになっていることが感じられるようにはなっています。

ウェーベルンの時代から150年ほど前には、そうした2つ、4つ、8つのまとまりで作られた音楽がたくさんありました。
たとえばこんな具合です。

これは、交響曲や弦楽四重奏曲なる曲種を地に足がついたものにする上で大きな貢献をしたヨーゼフ・ハイドンの作品の冒頭部で(1772年出版)、2拍子の8つまとまりです・・・が、実はオリジナルではありません。

オリジナルはこちらです。(*1)

オリジナルのほうが、ちょっと落ち着きません。
ひとつ減った7つまとまりになっています。

音楽が安定するには8つまとまり(4+4)がなんとなく望まれるのに対し、ハイドンは多分、意図的にこの作品の出だしを7つまとまり(4+3)にしました。そのことで、どこか落ち着かない雰囲気を作品に与えるようとたくらんだのではないでしょうか?(*2)
ト短調といえば、モーツァルトの交響曲(第25番や第40番)、弦楽五重奏曲で有名ですが、ここにあげたモーツァルトの作例はいずれも2つまとまりを基本単位にしていて、奇数になるまとまりを持ち込んでいません。
ハイドンは、あえてそれをやっていたわけです。

日本の有名な歌なども、2つ(4つ)まとまりの組み合わせのものばかりですから安心して聴けるのですけれど、
「聴き手をちょっと不安にしたい」
なるイタズラ心を抱いたなら、歌を奇数まとまりに作り替えればいいのでしょうね。

遊んでみましょうか・・・

(「地上の星」であそんでみた)

無理矢理3つまとまりに収めてみましたが、3つまとまりでも偶数回繰り返されれば、別の安定が得られます。

(「シクラメンのかほり」であそんでみた)

普通はこんなふうに度が過ぎてはいけません・・・コミックソングになってしまいました。(>_<)

ハイドン作品でお耳直しして下さい。
第33番とされていて、作品番号20の全6曲の内3番目のものです。

第1楽章は2拍子で、7+7+10+2の組み合わせで始まります。以降は2つまとまりを単位にします。

(エオリアン四重奏団の演奏~第1楽章)

Haydnop3331

第2楽章もまた、5+5の組み合わせで始まるメヌエットです。当然3拍子になっています。

(エオリアン四重奏団の演奏~第2楽章)

Haydnop3332

(以上、LONDON UCCD-9357)

 

いずれも奇数まとまりを単位としていることで聴き手に「おや?」と思わせることを試みていますが、第1楽章と第2楽章では「おや?」を思わせる戦略が違います。
第1楽章の「7まとまり」は、4+4まとまりで安定すべきところに、後半が1つ足りない。・・・それによって、切迫感を持たせています。
第2楽章は4+4まとまりを5+5と、それぞれ1つずつ引き伸ばしている。これによってもたらされるのは、倦怠感になります。
ハイドンのこの弦楽四重奏曲は、そういう修辞法がシンプルながら効果的に使われている好例だと言えます。

第3楽章・第4楽章では、こういうイタズラはもうやっていません。先の2つの楽章で充分、と、ハイドンは考えたのでしょうか?


*1:このト短調四重奏は、ハイドンの太陽四重奏曲(全6曲、作品20、初版の表紙に太陽の絵があるのでそう呼ばれたとのこと)の中の作品。弦楽 四重奏曲としては、このあと出版された作品33(ロシア四重奏曲、6曲)のほうが新機軸として有名になったので若干影が薄くなっていますが、ハイドンの実 験精神がこのジャンルでは最初に現れたと言ってもいい面白い曲集です。

*2:(4+4)の8つまとまり(4小節1単位×2)は「楽節」と呼ばれるものの一般的なかたちだ、ということはだいたいの音楽事典(辞典)で述べられているのではないかと思います。たとえば
「楽節は言語の文と同様に1つの完結した意味単位で、たいていは8小節から成る。前楽節と後楽節に分かれる(半楽節)。」・・・白水社『図解音楽事典』1989年 107頁

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2010年7月19日 (月)

記譜し得ぬショパン:リスト考(番外)

oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。6月29日に掲載しましたが、バナーに大井さんのブログ記事をリンクしてあります。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。



リスト考 (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)
     (9)(10)
     番外(ショパン1)・番外(ショパン2)


ショパンへの脱線を、もう一回、ちょっとだけ、します。

ベルリオーズはショパンの天才を適切に観察できた・・・ショパンが天才であることは誰にでも分かったことですが、なにゆえに天才と呼び得るかを明確にし得た人物は多かったとは言えないでしょう・・・「ピアノ奏者以外」の音楽家としては稀有な人でもありました。

「惜しむらくは彼の音楽を演奏するにあたり、これほど独創的に表現し、意外な展開によって人の心を虜にできるのは、他ならぬショパンしかいない」(エーゲルディンゲル『弟子から見たショパン』訳書100頁所収)

ショパン以外にショパンの音楽を表現出来ないと見なされた要因は、大きくはふたつあるでしょう。

ひとつはショパンの優れたルバート技術であり、もうひとつは、彼の活動舞台であったパリの人々には理解しきれなかった、彼のみに染み付いたポーランド固有の色合いです。

後者を先に見て行きますと、『弟子から見たショパン』の証言の数々に、とくにマズルカについてはショパンの演奏が4分の3拍子ではなく、4分の2もしくは4分の4拍子(すなわち2拍子系)に聞こえた、と一致して述べられているのが注目されます。

とくに、作品33の3のマズルカを巡って、ショパンがマイヤベーアと大げんかをしている話があり、たいへんに興味を引かれます。

この曲です。


私達がこれを3拍子として聞取れるのは、演奏自体が近代的な3拍子を意識して演奏されたものだからであって、ショパンの同時代人には2拍子に聞こえた、というからには、ショパンの演奏は違ったものだったと想像することしか出来ません。

マズルカという舞曲の特徴についてはエーゲルディンゲル『弟子から見たショパン』訳書の注釈(p.208-210)にも詳しく述べられていますが、加藤一郎『ショパンのピアニズム』にある注釈(p.320-330)のほうが分かりやすいかと思います。いずれにしても、マズルカについて知りたければ、私達(日本語を読む民族)にとってはこの2著くらいしか参考に出来るものは無く、YouTubeの映像でも本来の民族舞踊のマズルカは「これだ」という決定的なものは見いだし得ません。

速いテンポのマズルカ舞踊(歌付き)

ゆっくりしたテンポのマズルカ

加藤著から一文だけ抜いてみますと、
「民族的マズルカでは歌唱のさい、歌詞のアクセントをともなう2拍目の音節がやや引き伸ばされ、その分3拍目が短くなることがある」(p.323)
というのがあり、エーゲルディンゲルの注釈もこれに関連してショパンの拍節観を説明しているのですが、どうしても文からだけですと具体的にどうだったのか、は分かりません。
果たして、ショパンの弾くマズルカは、「音価をなるべく時程どおりに記す」という20世紀初頭の最後期ロマン派的な観点から記譜していたら、(バルトークやストラヴィンスキーに見られるような)8分の5拍子的なものになっていたのでしょうか? あるいは、もう少し前の19世紀末的な記譜でしたら、1拍目の裏にフェルマータを付けるなりリテヌートといちいち注記したりするような表記になっていたのでしょうか?

事態は別段、そんなに複雑なことではなかったかもしれない、というのは、エーゲルディンゲルの注釈のほうから推測は出来ます。

「・・・作品33の3の主要モチーフには、2拍目に規則正しくアクセントが来るという特徴が歴然としているではないか! アクセントの来る音符が特別の意味を担って長くなるために(注:これは先ほどの加藤著の注釈に対応しています)、その前後にある音符がその分だけ短くなるということなら、アゴーギクのルバートと同じことになってしまう----この奏法には、全体として多少とも2拍子のような印象を作る効果があるのだから。」(208頁、なお、同書71頁のクレチヌスキの説明も参照)

ちょっと気になるのは、この記述を全面的に信頼するなら、ショパンの演奏するマズルカの聴き手は、ショパンの自由な右手が奏でるメロディだけに耳が向いて、メロディの2拍子だけを聴き取っていたことになるのではないか、と思われてしまう点です。
ショパンのマズルカの楽譜は、原則として、左手はいつも3拍子をきわめてきちんと刻んでいる(強拍がたとえ2拍目に移動したとしても、どこかの時点で明確に3拍子と分かるはずの刻みになっている)のでして、また、ショパンのルバートの性質は決してテンポの緩急の揺れ動くものではなかったことは、リストはじめ多くの人が一致して証言しているところでもあります。
リストは次の詩的な表現

「あの樹々を御覧なさい。葉むれが風にざわめき波打っているけれど、幹は動かないでしょう。これがショパンのルバートですよ」(『弟子から見たショパン』p.72他に引用)

だけでなく、もっと具体的にショパンの方法を説明した言葉も残しています。(同書同頁)

もっとも分かりやすいのはマチアス【1826-1910、ショパンに最も長くレッスンを受けた弟子のひとりに数えられている】の述べている次の言葉です。

「ショパンがいつも注意していたのは・・・左手の伴奏には正確なテンポを保ち、歌のほうはテンポを変えながら伸び伸びと弾きなさい、ということだった」(同書70頁)

これがどんな演奏だったか、は、ショパンを直接耳にした人たちが後世に残った録音の誰の演奏をして「最もショパンに似ている」との証言も合わせて行なってはいない以上(コチャルスキの演奏が孫弟子に当たるものでショパンの特質をよく示しているらしいのですが、私はこの人の演奏の録音を発見していません)、正確な想像をすることは至難の業だと諦めるしかありません。

ただ、ショパン作品の演奏について、私達はもしかしたら誤解をし続けてきたのではないか、ということを、今回ならべたててみたこうしたことから付随的に推測が出来るのは、非常に大切なことです。

またもや「エチュード」作品10の第1番の話に戻って恐縮なのですが(前回をご参照頂ければ幸いです)、このエチュードの技術面での主眼は、決してコルトーが述べたような「強靭なタッチを養う」等々にあるのではなく、ショパン自身の言葉、

「このエチュードは役に立ちますよ。私の言う通りに勉強したら、手も広がるし、ヴァイオリンの弓で弾くような効果も得られるでしょう」

のほうにあるのでして、右手は、強靭に、ではなくて、まさにショパンが言っているその通りの、擦弦楽器のボウイングに要求されるような軽さ・柔らかさを養うことを意図しているはずです。傍証としては、このエチュードの左手が、以後のエチュードのどれに比べても単純であり、そちらにあまり気をとられないで済むように、太い旋律線でしっかり書かれていることを上げれば充分でしょう。すなわち、左手の音型は、左肩に乗ったヴァイオリン(にしては低音域で大型過ぎますが)のようなものなのです。

これで、ショパンの目指していたものの背骨だけは、誰でも明瞭に見直し得るのではないでしょうか?

すなわち、特別な「力」を必要としない自然な肉体が、自然なままでどれだけの広がりを持つことが出来るのか・・・ただし、そのためには何を芯として守らなければいけないか、は、ショパンの脳裏には常にくっきりとした輪郭をもって描かれていたはずなのです。

残念なことに、心象の輪郭は本人にとっていかに明瞭であっても、いや、明瞭であるほど、紙に書き留めたりすることが出来ないものなのかもしれません。
ショパンの死と、録音技術・録画技術の誕生、発展との時間のギャップが、言葉で伝承されたショパンの心象の断片を具象化するには、かえって複雑な事態を私達にもたらしてしまっています。

ヴァイオリン、という言葉を、最後のキーワードにしておきましょう。ここで思い浮かぶショパンの同時代人は、いうまでもなくパガニーニです。そして、ショパンはこのパガニーニから、他の人々同様に鮮烈な印象を受け、熱狂しています。

いま言えるのは、ショパンはピアノ演奏に当たって、演奏という行為が肉体から解放されることをのみ願っていたのではないか、あるいはそれを彼なりに見事に体現していたのではないか、との推測ばかりではあります。ですが、作品10のエチュード第1番は、ショパンがパガニーニから受けた衝撃が、リストやシューマンやシューベルトとは違い、自由な「精神の飛翔」としてのものに留まっていたのではなく、肉体で実践すべきものとして誰よりもしっかり消化され結晶化したひとつの現れであるのだ、と、私は思っております。

さて、この演奏は、どう理解すべきなのでしょうか?・・・明らかにコルトーとも違い、のちの世代のショパンコンクール覇者たちとも違いますが。。。


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2010年7月12日 (月)

リスト考(10)エチュード・・・ショパンとリストに於ける

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック〜終了
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会〜終了
・7月11日(日)絵本塾(四谷)10日前には売り切れだったそうです!!!
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。



oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。6月29日に掲載しましたが、バナーに大井さんのブログ記事をリンクしてあります。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

リスト考 (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)
     (9)(10)


エチュードについて綴ろう、と思って、はた、と止まっておりました。ピアノを弾けない自分は門外漢だ、と気付いた途端、
「ああ、いかん!」

リストとの比較の上でのショパンを主に見ていくのですが、ショパンについては、やはりピアノの門外漢だったベルリオーズも
「彼の音楽は演奏会を離れて傍で聴かなければわからん」
と言ったそうです。

ショパンは生涯に数度しか演奏会を開きませんでしたが、それはたとえば岡田暁生氏が十九世紀欧米のピアノ教育の実態に迫った好著『ピアニストになりたい』(春秋社 2008)でも遺憾ながら誤解して記述なさっているように
「ショパンは音量が小さかったがために演奏会を続けられなかった」
からではなく、ショパンの求めた音楽の伝達が一度に大勢の聴き手には繊細過ぎたから、と、ショパン自身が積極的に選んだ方向性だったのでして、それはエチュードの創作姿勢におけるリストとの相違点からも明らかになることです。

しかしながら、本論に関係しませんので、このことは措きましょう。

先に大きく問題として考えたいのは、リストやショパンにとって、「エチュード」とはどういう位置にあるのか、ということです。
本来はもっと大上段に、エチュードとは全般的にどういう曲種か、との問いを発したいところでしたが、市井人の視野にはいる資料は全体を見渡すためには限定され過ぎます。
ただ、チェルニーなどといっしょくたに「練習曲」と訳されているのは奇妙ではないか、ということだけ、簡単に申し上げておきます。
練習のためといっても、機械的技術の修得を目的とした場合にはメトードmethodの呼称が妥当でしょう。ショパンもまた、草稿で終わったものの、メトードを書きかけていました。メトードの類いについては前掲岡田著が詳しく掲載しています。
では、チェルニーの「練習曲」のようなものはどうか、といいますと、こちらの曲集のタイトルはschuleすなわち「学校」です。(uはウムラオトです。)お弾きになれば直感出来るように、各曲はある決った機械的技術に限定して、そこに音の大小の変化やテンポの変化という、「生理的技術」とでも呼んだらいいようなものを加味しています。・・・チェルニーがそこまで到達したのかどうか分からないところが門外漢の悲しさですが、いわば、完成された音楽を目指す前に、音楽の喋りかたの基本的な約束事・・・文法と修辞法を身に付けることに照準を合わせたものだろうと思います。

さて、リストは14歳で作品1の「エチュード」を出版します。これは日本では全音から発行されていて入手が容易です。中をめくって分かるのは、解説を読むまでもなく、12ある各曲の、その曲の中でのリズムパターンが概ね一定で、チェルニーの「学校」を連想させるところです。
が、幼く初々しい感性が書かせた曲集だからでしょうか、チェルニーでは遭遇しないような破調がどの曲にも必ず含まれ、そのため、チェルニーでは明瞭に把握できる定型的な楽式や和声進行が、リストの作品1では、まず楽譜を厳しく吟味してからとりかかる必要に迫られます。

・子供さんの演奏。リスト作品1の第1曲(あとの「超絶技巧練習曲」第1曲と比べてみて下さい。

ショパンの最初の「エチュード」は作品10で、創作経験を積んだ上で書かれたものですが、機械的技術の面ではリストの作品1よりもメトード的な狙いが、最後の曲(世人が「革命」と呼ぶことになります)を除いてハッキリ見てとれます。(もっとも、私のような素人は、それを知るためにはコルトーがしてくれたような注釈が必要な上に、コルトーが彼の解釈でショパン本来の狙いを変えている点については別の勉強も必要になります。)
で、ショパンの「エチュード」は、機械的技術を把握した先がクセモノです。
たとえば、有名な第3番(「別れの曲」・・・ショパン自身が「悲しみ」と呼んでいた、との話もありますが、他の11曲同様、楽譜上に標題はありません)については、ショパンは
「僕はいまだかつて、こんなにきれいな音楽は書いたことがない」
と友人に語っています。
すなわち、第3番にかぎらず、ショパンは「エチュード」を弾く際の照準を機械的技術に置いてはいないと思われるのです。
音楽内容重視の傾向は作品25の「エチュード」でいっそう強まる・・・と言ってしまうことは、まだ私の理解の浅薄さを示しているでしょうか?

ショパン:作品10-1(ベレゾフスキ)

翻って、リストの「エチュード」を見ますと、ショパンから作品10を献呈されたこととの関連性もあきらかでなく(作品25の方もリストの愛人、ダグー夫人に献呈されていますね)、作品1の改訂版も目にしていませんが、1851年の「超絶技巧練習曲」(この訳語が正しくない、との話には今回は立ち入りません・・・その類いの記述をご参照頂ければ充分でしょう)を頂点に、もはや何の「練習」なのか、技術的な観点からは全く顕らかにならない、と言うしかないでしょう。前にも申し上げたことがありますとおり、これらの響きは、その気になれば管弦楽に書き換え得るものだと、私は感じます。
それ以前に、さて、ピアノだけに沈潜して考えるならば、練習曲に「演奏会用」とか「大」とか訳せるような修飾語を、果たして冠するような発想をするなんて、あり得るでしょうか?

リスト「超絶技巧練習曲」第1曲 Jenö Jandó(ナクソス)


別に観察すべきかと思いますので詳述しませんが、ショパンにおいては作曲とは「ピアノ」という特定の道具を最大限に活かすための創作であったが故にピアノの語法も大切であって、であるがゆえに、あるときリストがショパンの作品を好き勝手に演奏したと激怒したとのエピソードがありますが(1842年に、かつてリストの弟子であり、この年の訪問以来ショパンの弟子となったレンツがショパンの面前でリストが大幅に装飾をつけたショパンのマズルカ作品7-1を弾いたとき、40年あたりから抱いていたリストへの不信感は頂点に達した模様です・・・「弟子から見たショパン」174頁)、リストはショパンやパガニーニからの衝撃のあとでは、ピアノという道具で出来るもの、出来ないもの、について、心中渦巻くものがあり、まだピアニズムにこだわってみた「パガニーニ練習曲」をも書いたのではないか、しかしながらそれに「大」をつけずにはおれなかったところに、リストのもどかしさの反映があるのではないか、と勘繰りたいのですが、これはまだ観察を残している交響詩との兼ね合いで、改めてみていく所存です。

なお、ショパンの「エチュード」にもなお些末ないくつかを見ておきたく、これもあらためます。

・・・ともあれ、ショパンやリストにとっての「エチュード」は、メトードや学校なる「練習曲」と同等の訳語なのは、ちょっと見なおされなければならないのでないか、というのが、本記事の提起したいところです。

ハンパですみません。

( ̄~ ̄;)


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2010年6月 1日 (火)

リスト考(6)シューベルト作品の編曲1

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック〜終了
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。



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リスト考 (1)(2)(3)(4)(5)・(6)


音の例は最後にお聴き頂きます。
冗長な駄文ですから、以下は飛ばして頂いて、音だけお聴き頂けるようでもよろしいかと存じますので、予めお断りしてお詫びにかえさせて頂きます。

同時代のピアノ奏者としては、おそらくショパンをいちばん理解していたのではないか、と私の信じる人物ではありますが、リストは音楽家としての資質はショパンと正反対だったのではないかと思われます。

ショパンは(シューマンと似たことでもありますが・・・シューマンには例外がわずかにありますから、ショパンの方が徹底していたというべきでしょうけれど・・・)他人の作品を、主題までは利用しても、フルに編曲することはなかったかと思います。また、ショパンの場合には、自作が他人に編曲されることも好まなかったらしく、ものの本でその旨が語られています。即興をするのでも、なにかしら、言葉では表現し得ない型のようなものを、ショパンは確固たる指針として持っていたのかも知れません。

対するリストは、流れに任せた逸脱なら彼にとって心地よければ差し支えない、といった奔放があったかも知れず、それゆえに、ショパンの曲を自由に飾り過ぎてショパンの怒りを買い、一時、絶交状態になったこともあるとのことです。

リストのある種の「こだわりのなさ」は、リストのもうひとつの(実は対照的とも言える)側面とともに、彼が熱心に編曲したシューベルトの歌曲の数々に極めてよく反映されていると感じます。

創作面では(ピアノソロは程度問題についてはどう言うべきかわかりませんが)、ピアノと管弦楽、あるいは管弦楽のみ、また合唱曲・・・どんな種類のリストの作品にも留まるところを知らない<光と闇の拡張>があり、長大なオラトリオ「キリスト」はヴァーグナー夫妻を辟易させたと伝えられていますし(ただし、夫人でリストの娘コジマは、父自身の手による演奏を聴いて感じ方が好転したとのことです)、「ファウスト交響曲」や「ダンテ交響曲」にも、当時にすればあまりに型を逸脱していたと受け止められたのか、酷評が残されています。ピアノと管弦楽による作品でも「ベートーヴェンの(「アテネの廃墟」の)主題によるファンタジー」は、「ファウスト交響曲」や交響詩「タッソー」とともに無調に足を踏み入れており、
「無調なる発想は、もしかしたらピアノという楽器の整備とリストという演じ手の登場に淵源をもつのではないか」
と思いたくなるところです。
この奔放さが通俗的な味わいを持ったときにはリスト作品は喝采をもって迎えられており、交響詩「レ・プレリュード」、ピアノと管弦楽のための「ハンガリー民謡に基づく幻想曲」などは、おそらく<受けた>類いに入るのではなかろうかと思われます。いずれも、20世紀アメリカの映画音楽のようでさえあります。

ただし、リストの「奔放さ」とも見える手法は、決して「型を壊す」ところに意味を持っていたとは思われず、であるが故に彼は晩年になるにつれて、自分の手法が持ってしまうかもしれない通俗性に対しては警戒心を強めて行ったのではないか、と感じられることがあります。宗教曲への傾斜が、そうしたリストの心理を端的に現しているかもしれません。

それが他者の作品であっても、優れた音楽であるのなら、それを、少なくともリストの時代に合った様式で、よりいっそう際立たせてみたい・・・こうした音楽そのものに対する彼なりの「純粋な」希求が、ショパンやシューマンのように他者の主題による変奏なりパラフレーズなりを「作曲する」という、いわば即興の延長にある手法だけにリストを縛り付けておくのを許さなかった、であるが故に、リストはベートーヴェンなりロッシーニなりヴェーバーなりのオリジナル作品を、枠組みはオリジナル作品のままにとどめ、あくまでそのなかでの「奔放さ」、いえ、「音楽の飛翔への憧憬」を具象化した編作を多く手がけたい衝動へと誘われていったのではないかと、私には感じられてなりません。

で、シューベルト作品の編曲では大きな、非常に重要なものがあるのですけれども、それはもう一回先にとっておきます。

今回は、シューベルト歌曲のオリジナルと、それをリストが(1台2手すなわちふつうの独奏のために)ピアノ編曲したものをお聴き頂き、リストの「飾り具合、音響の変え加減」をお感じ頂ければと存じます。(音声はオリジナルのステレオをすべてモノラル化しております。)

「魔王」

フィッシャー=ディースカウ/ムーア Deutsche Grammophone 753 676 2

(リスト編曲)

ヴァレリー・トリオン Naxos 8.544729

「アヴェ・マリア」

アメリンク/デムス EMI CC30-9018

(リスト編曲)

ヴァレリー・トリオン Naxos 8.544729


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2010年5月26日 (水)

リスト考(5)寄り道2:演奏会の変遷

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。



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過去の音楽史関連記事はこちらの「曲解音楽史:総合リスト」からご覧頂けましたら幸いです。

リスト考 (1)(2)(3)(4)・(5)


前回は「ソナタ」も、とくに冒頭楽章によく用いられる「ソナタ形式」は、つまるところ声楽のアリアに渕源を求め得るのではないか、なる主旨でふらふらしました。
リストは、それに拘泥しない傾向が顕著だった早い時期の創作者でしたが、背景には、音楽会の様相の変化も絡んでいるのではないか、との勘繰りから、今度は、彼の時代から百年遡ったあたりのものからの変遷の実例を、若干見ておきましょう。
素人が手に出来る書籍で、ある演奏会の全プログラムが分かるものは、当たってみましたら、意外に少ないのでした。結果的に、ヘンデルの1例を除き、ドイツ・オーストリアの例に留まり、かつ殆んどがウィーンでの例となりました。したがって、ここに挙げたサンプルで結論を出すのは早計なのですが、一応、だいたいリストのピアニストとしての活躍時期を境に、それまで必ずと言っていいほど音楽会に含まれていたアリアが、器楽のコンチェルトにとってかわられていったように見えます。
また、プログラムの短時間化・・・曲数の減少が、リストの晩年あたりから始まっているようにも思います。
シューベルトの音楽会は特殊例ですけれど(いや、こうした会は案外沢山あって、そちらのほうが主だったかもしれない気が、実はしているのですが、例を見いだせません)、彼のこの音楽会の直後にパガニーニのウィーン公演が行われて大評判をとったように、この時期は器楽ヴィルトゥオーゾのリサイタルが浸透しはじめている点は、気を付けておかなければならないかも知れません。ショパンも、あるいはヴァイオリンの伴奏を務めたブラームスも、そうしたなかで育っていくのでした。
・・・リストまた然り、だったわけです。
で、前にかかげたことのあるリストのプログラム例は、アリアを元にしたファンタジーをふんだんに取り込んでいたことを想起すべきでしょう。
今回の例からは、裏のこのような事情は見えません。ですが、音楽会の器楽化の進行には、歌が器楽へと編作されたリストのリサイタルのような動きが何か影響を持っていたことをも想像しておきたい気がします。
なお、リストと同時代の例をよく情報化してくれているシューマン「音楽と音楽家」からは、この書物がよく読まれていると考え、引用は避けました。

能書き以上。
以下、例示。

ジョージ・フレデリック・ハンデル(ヘンデル)のための顕彰演奏会(伝記【三澤寿喜】p.116)
1734年3月28日(ロンドン、ヘイマーケット劇場)
第1部:アンセム「鹿が冷たい谷川を慕いあえぐように」
第2部:オラトリオ「デボラ」のアリア
第3部:戴冠式アンセム、アリア、二重唱

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(伝記【久保田慶一】p.236)
1779年三位一体後の第二日曜日(ハンブルクの教会)
第1部〜フリーデマン・バッハ:カンタータ「地獄の罪業を我らから取り除き給え」
第2部〜テレマン:カンタータ「私につねに優しくあられますように」
第3部〜ヴァイオリンソロを伴う小曲、ドイツ語合唱楽章

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(ドキュメンタリー【ドイッチュ・アイブル】p.169)
1784年4月1日(ウィーン、帝室王室国民宮廷劇場)
1)トランペットとティンパニ付きの交響曲
2)アリア(男声)
3)フォルテピアノ協奏曲(新作)
4)交響曲(新作)
5)アリア(女声)
6)管楽器とピアノのための五重奏曲K.452
7)アリア(男声)
8)フォルテピアノによる幻想曲
9)交響曲

ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(伝記【大築邦雄】p.89)
1808年12月22日(アン・デア・ウィーン劇場)
第1部
1)「田園」交響曲
2)アリア「ああ、不実なる人よ」作品65
3)ハ長調ミサ抜粋
第2部
4)ハ短調交響曲
5)ラテン語讃歌
6)ピアノ独奏の幻想曲
7)合唱幻想曲作品80

フランツ・シューベルト(伝記【村田千尋】p.114
1828年3月26日(ウィーン、楽友教会ホール「赤い針鼠」)
1)弦楽四重奏曲
2)4つの歌曲(「十字軍」・「星」・「漁師の歌」・「アイスキュロスよりの断片」
3)グリパルツァーの詩による「セレナーデ」
4)ピアノ三重奏曲
5)歌曲「流れの上で」(ホルンとピアノにより伴奏)
6)歌曲「全能の神」
7)二重合唱「戦いの歌」

ウィーンフィルハーモニー第1回演奏会(「王たちの民主制」p.79)
1843年4月3日
1)ベートーヴェン:第7交響曲
2)ベートーヴェン:アリア「裏切り者」
3)モーツァルト:「劇場支配人」序曲
4)ベートーヴェン:「レオノーレ」序曲第2番
5)モーツァルト:コンサートアリア
6)ケルビーニ:「メデア」からの二重唱

ウィーンフィルハーモニー演奏会(同上p.215)
1870年11月13日
1)ウェーバー:「オイリアンテ」序曲
2)ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番
3)ルードルフ:「金髪のエックベルト」への序曲
4)シューマン:交響曲第3番

ウィーンフィルハーモニー「モーツァルト記念碑基金のための演奏会」(同上p。283)
1)「魔笛」序曲
2)ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲
3)Ave verum corpus
4)ピアノ協奏曲ニ短調
5)ト短調交響曲(K.550)


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