音楽の愛し方

2010年2月11日 (木)

現場はみんな頑張ってる:たとえば「辻井伸行・コンクール20日間の記録」を拝見して

Matsushitaphoto「松下眞一追悼個展」、2月27日に京都で。
足をのばせるかた必聴です。
同時にクセナキスのピアノ作品全曲も演奏されます。
リンク先の記事をご覧下さい。
ピアノ:大井浩明さん http://ooipiano.exblog.jp/
打楽器:宮本妥子さん http://www.yasukomiyamoto.com/

現代音楽が本能的に好きだ、という獣の感性(私にとってこれは悪い意味ではありませんし、「野生」を意味するつもりもありませんが)をお持ちでしたら、その本能を存分にくすぐる効果が満載の演奏を、いま最も旬なお二人が、これでもかこれでもか、と繰り広げて下さいます。



日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの「おすし de イタリア」は、3月12日です。
oguraooi.jpgご予約はお早めに!

oguraooi.jpg

大井浩明さんがだぶりますが、個人的な好みです。
2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京3月18日:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん)詳しくは記事中のリンク先をご覧下さい。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。
上記2月27日の「松下眞一追悼個展」(於:京都)他、今年も瞠目の企画が豊富におありのようです。



教えて頂いて・・・途中からでしたが、

NHK「ピアニストの贈り物~辻井伸行・コンクール20日間の記録~」

を拝見しました。家庭の事情で途中からでしたが、いろいろ感じるところがありました。それを、まとまらぬままに述べておきたいと思いました。

辻井さんのことは詳しくは存じ上げませんが、実家では私の母(音楽世界には別段の縁はありませんが)が、この番組なのか別の番組なのか忘れましたけれど、
「見て、泣いちゃった」
と電話をくれましたし、私が密かに(でもないか)ファンである大宮光陵高等学校でご指導にあたられていた先生が辻井さんの恩師だという話もありまして、関心のない人ではありませんでした。

でも、コンクール云々につられて記事にすることのほうが自分の性にあっておらず、過去に辻井さんを対象にした記事を綴ったことはありません。

私自身がプロの演奏家さんたちの現場を少しばかり(ほんとうに、少し、a little どころか、a もつきませんが)覗かせて頂くようになったのは、このブログ(の前身である古いほう)を始めたあと、家内を急死でなくしてからです。それ以前から演奏家さんそのものと接点がゼロだったわけではないにせよ、自分自身が若く、なんぼヘタクソでも自分自身がアマチュアとして弾くことのほうに熱中しており、かつはプロの世界には・・・どんな職業や領域でもありがちなことですが・・・派閥争いみたいなものがありまして、そういう中に首を突っ込むのもつまらないとの思いもあり、あまりよそ見をしませんでした。家内を亡くしてみてはじめて、ああ、自分自身はあんまり演奏そのものでいいものは出来ていないんだなあ、と、夢からさめた気持ちになっているところです。

昨日ご紹介したコンサートで採り上げられる松下眞一さんは、なんでいまあまり知られていないのかを詳しい方にご教示頂いたりしてみますと(ちなみにコンサートの演奏者さんではありません)、ご生前は過激なお人柄で、ご逝去が急だったことから、彼の舌鋒にやられた人たちの感情が静まっていないために作品や功績も早めに葬られようとした経緯もあるようです。

・・・そういうことは、もういいではないか、と、この類いの話を耳にするたび思います。

私は偶然に松下さんの作品を知り、難しいことは分からなくとも魅かれるものがありました。生身を超えて、松下さんの「作品そのもの」に魅力を感じました。「作品そのもの」が誰かに訴えかけてくるものを持つ以上、それを後々まで大事にしようというかたたちが登場することは必要です。そこに「政治」を持ち込む・持ち込まれることは、なるべくフラットでいたい愛好家の一人としては、あまり気持ちのいいものではありません。

作曲家さんであれ演奏家さんであれ、その人がどういう主義主張で、こういう性格で、こういう障害があって、等々のことは何の意味も持ちません。物故者にして上述のような壁が存在するのは奇妙なことではありますが、生身の人ならなおさら、生身での「人間関係」が災いしたり、生身であるが故に陰口も叩かれ(私も叩いてますよねえε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…)、貶められるのは、政治家さんたちと一緒です。政治家さんたちとの違いは、とくに録音技術の劇的な向上で、演奏家さんたちも作曲家さん同様に死後も賞揚されたり蔑まれたりする(!)チャンスが増えたこと、でもって生きているあいだはあいかわらず、音楽家さんにはお金がないこと、でしょうか?

つい前置きが長くなるのは癖のようでして、お許し下さい。

ともあれ、こんなとき、一貫性がないものを平気で並べ立てられるのがアマチュアの特権であろうか、と思います。

辻井さん関係で常々いいなあ、と思っていたのは、お母様を含めて、まわりの誰もが、彼のことを
「これからがスタートなんだから」
と冷静に見つめている点でして、しかも辻井さんご本人も(20歳の若さで、まだ情緒的には翻弄されてしまいそうになることも多々おありでしょうに)まわりの先生・先輩たちの示唆を素直に受け止めていらっしゃることが、モニタの向こうから語られてくる彼の言葉と声の表情から文字通りまっすぐに伝わってくるさわやかさを持っているのにも好感を持っております。

繰り返しになりますが、辻井さんがどんな障害を持っているか、ということも、「音楽そのもの」の前では何の意味も持っていないはずです。・・・それは実は、辻井さんご本人が誰よりも強くお感じになっていることではないかと思います。

会社員と違って、音楽家さんは自分の腕で稼がなければなりません。独奏ないしアンサンブルで活動して行くとなると、大きな組織に属しているのとはまたさらに違って、腕の他に「顔」という要素が加わります。そこがお辛いところだろうとは、かねがね感じさせられております。

今回「ピアニストの贈り物~辻井伸行・コンクール20日間の記録~」を拝見していて、思わず微笑んでしまったのは、ヴァン・クライバーンコンクールの最終審査前のコンチェルトを終え、最終日に残された独奏曲3曲の練習に入る前に、辻井さんが
「曲が減った、曲が減った!」
と無邪気に喜ぶ声が入ったときでした。その前に舞台で終えたばかりのショパン(1番)と、とりわけラフマニノフ(2番)の演奏が渾身の素晴らしいものであったにもかかわらず、辻井さんの切り替えスイッチは、他の参加者の誰よりも早かったようですし、切り替えのよさは音楽世界か否かにかかわらず、私のような「あとまでねちねちこだわる」性格の者にはこの歳でなお学ばなければならないものでもありました。

優勝して、マスコミに大きく採り上げられて以後、
「ヴァン・クライバーンコンクールなんて、そんなにメジャーじゃないんだよ」
との陰口も聞こえて来ておりますが、じゃあ、陰口を言うご本人があの20日間のオフロードレースをやってご覧になったらいい、と申し上げたい気がします。
そのコンクールが世界的に見てどんな位置にあるか、ということが、そんなにメインの問題なのでしょうか?
マスコミが採り上げようが採り上げまいが、参加するには(運の要素も多分にあるとはいえ)それ相応の自力をあらかじめそれまでの生涯をかけて獲得していなければならず、資格を得ても、過酷なレースを淡々とこなす精神力が備わっているかどうかでまた結果が大きく異なってくる。その苦しみを誰よりも知っているのは本人自身と、その苦しみを一緒に肌で感じることはあっても本人に成り代わってやれることが出来ない家族のかたがた、でしょう。

かつ、いま辻井さんの優勝がニュース性を持っていても、それは人間世界の常として、永続するものではありません。
コンクール期間中彼をサポートした老紳士が、いみじくも仰っていた通り、

「曲を最後まで弾けるようになるのは、始まりに過ぎない」

のでありまして、テレビはいつか近いうちに彼を放り出してかえりみることもなくなるでしょうが、そこからが始まり、ということになります。
彼にとって幸せなのは、なによりもお母様がそのあたりの機微についてはずっと慎重にこんにちまで歩まれて来たことがそのご著書から伺われること、周囲のかたも彼を特別扱いしていないこと(少なくともご本人に対してそんな「甘さ」を見せないように自然に接していらっしゃること)、でして、まだまだお若い彼がひょいひょいと変な引っぱりに釣られて方向を間違えないよう脇が固められていることでしょうか。・・・このあたりが、なんだかんだいっても相撲界より音楽界のほうがマシな部分ではあるかと感じております。
コンクールはまだ、オリンピックほどの派手さはないにしても、また甲子園ほどの親しみはないにしても(あ、タイガースじゃなくて高校野球のほうですので、いちおう謝っておきます・・・なんで謝んなきゃないのかよく分かんないけど!)入口に過ぎません。今日もどこか複数の場所で、優れた演奏家さんたちも優れていない音楽家さんたちも、官僚さんより、サラリーマンさんより、必死で今日の飯のために自分に出来る限りの真心を込めてシェフとしてのサービスに努め、ママやマスターのようにお客さんにやんわりと立ち向かい・・・それでもなお、音楽の「こころ」そのものに、神官さんのように厳粛に奉仕をしているのです。その葛藤や如何?

私たち愛好者も、辻井さんに限らず、若手・中堅にたくさんいらっしゃる魅力にあふれた音楽家さんたちを、もっともっと大切に「愛して」いかなければならないでしょう。
先人の偉業は偉業で粗末に扱ってはいけませんが、若手中堅に対するに「昔は良かった、いまのおまえさんたちゃねえ・・・」とやってしまったら、相撲界とおんなじ墜落を、あるいはこのネット社会と同じ凋落を(ネットに商業が大々的に参入する以前に比べ、ここは本当に発言が制約される世界になってしまいました)音楽の世界にもたどらせてしまうことになるでしょう。

とりとめもありませんでしたが、私の駄文より、こちらをお読み下さい。

http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY201002100263.html

これまた、ひとさまからご紹介頂いた記事です。
表示されなくなったらご一報下さい。そんな日がきてしまったら、ここに転載をしておきたいと存じます。


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2009年12月20日 (日)

音楽の色を消すもの

さて、音楽にも色合いがあるのではないか、という話でした。しょうもないことにとらわれていないで、もっとしょうもないことに戻っていきましょう。

色聴ですと、単に(たぶん絶対的な音の高さとしての)「ドレミファソラシド」と(そうであれば必然的にハ長調の)主要な和音についてのみ考えられていました。
西欧音楽では、しかしながら、色彩そのものではないにせよ、同じ長調あるいは短調でも、基礎となる音の高さによって性格が異なってくる、と考えられていました。

ここでは、シューバルト(1739-1791)が述べた、調による性格の違いを、石多正男氏『交響曲の生涯』(東京書籍 2006、123頁)から孫引きしてみましょう。彼の説明は先輩後輩や同時代の作曲家の調の用い方とずれているのではないかと感じられることもなきにしもあらず、なのですが、他にここまで具体的に述べた例を参照できておりませんので、一例として取り上げておきます。

ハ長調:きわめて純粋な調である。その特徴は無邪気、素朴、無垢、子どもの言葉。
ハ短調:愛の告白、そして同時に失恋の嘆き。(以下 略)
ニ長調:勝利、ハレルヤ、戦争の叫び声、勝利の歓喜の調。(以下 略)
ニ短調:気まぐれで霧がかかったような性格を持ち、憂鬱な気持ちの女性のよう。
変ホ長調:愛、祈り、神との快い会話の調(以下 略)
ヘ長調:親切と安らぎ。
ト長調:どれも田舎風、田園風、牧歌風である。(中略)この調は優しくて静かな心の動きを表すのに最も適している。
ト短調:腹立たしさ、不快、計画を失敗したときの苛立ち(以下 略)
イ長調:無邪気な愛の告白、与えられた状況に対する満足の告白である。
変ロ長調:明るい愛、立派な良心、希望、よりよい世界への憧れ。

調に性格を感じる、というのは、素材として浮かび上がる個々の音の「色」が絵画上のフォルムだとするならば、それをひきたてる「地」の方にも、ムードを形成する基調としての「彩」がある、ということを示しているのでしょう。

ピッチの相対的な変化にもかかわらず、概して低めのピッチで演奏される「古楽」であっても(ひとこと余分を挟んでおけば、「古楽」=低いピッチの演奏、ではありません)、団体によってけっこうピッチに大きな高低差のある伝統的「モダンオーケストラ」であっても、たとえばベートーヴェンの交響曲9つの相互の色彩差は、ある団体の演奏で通して聴く、ということを何通りかやってみると、それぞれの個性を超えて一貫しているのだと感じ取れます。あるいは、モーツァルトのピアノ協奏曲なら、ハ短調の薄青い暗がりとニ短調の鮮烈な赤は、ピッチの違いによって基本的な色彩差は生じないように、私には想われます。

ところが、作品本来の持つはずの色彩感が全く感じられない演奏というのも存在していて、私が昨日ついついヒステリーを起こしたのは、その類のものにドカンと出くわしてしまったからなんだ、と、自分では思い込んでおります。(これは、この記事を綴ろうと思っていた途中に出くわしたことでして、本来はまさかそんなものを目にし耳にしてしまうだろうとは想像もしていませんでした!)

合奏を念頭において綴っていますけれども、ピアノ音楽でも話は同じでして、設計なしに、単純に機械化した演奏の上に機械で計算したようなランダマイズを加えた程度のものは、わざわざ人間がやる必要はない。コンピュータによる「ヒューマナイズ」を施したMIDI加工で充分代替がきいてしまう。

道具立てが色彩の生成を損ねてきた側面もあるでしょう。

・ガット弦からスチール弦への移行、キーやピストンの発明。
・楽器の筐体の頑強化。
・世界標準ピッチなるものの普及(しかもこれは有名無実化しています)。
・平均律でしか行われない調律教育。
・録音技術の発展による「規範的な演奏への修正」の安直化。
・これらの普及で硬直してしまった私たちの保守的な「耳」。

では、そうした外面的なものを物理的に排斥しさえすれば音楽に色彩感は回復するのか、というと、話はそんな単純なものではないのではないでしょう。

諸悪の根源のように列挙した上の6項目のうち、最後のひとつを除くと、他のものは、音楽を演奏してきた人たちが、自分たちの味わっている不自由さをどうって克服しようか、と悩み、試行錯誤した結果なのであって、それそのものは本来悪ではなかったはずです。ですから、メリット面を生かした演奏だって、ちゃんと存在していますし、それによって感動を受けることも全然、不健康なことではない。

だとすれば、最後の項目とも関係しますが、先人の努力の結果できあがってきたものを、努力の過程を忘れて
「あたりまえのことだ」
としか感じていない、便利さの中に埋没してしまって鈍くなった私たちの「ヤワ」な根性こそが、本来は境目を見出せるはずのない虹の色彩のグラデュエーションに無理やり手かせ足かせを嵌めるような音楽の享受方法しか知らない愚人に私たち自身を仕立て上げてしまったのだ、ということになります。
(ここは音楽を考える場所にしていますので音楽の話にしかしませんが、とくに今の日本には何事につけ、こうした自体がはびこっていたりはしませんか? とくにここ十年ほどは閉塞感ばかりが徒にまして行く世の中になってきてしまった気がしております。)

私たちは何気なく聴いてしまうのですが、まず、ピアノ奏者は一様に平均律に調律されたピアノで演奏をしています(たとえばミケランジェリのような例外はあります)。ですのに、なぜ奏者が異なると違う「地の色」を・・・調性の持つそれとはまた別個に・・・感じ取るのでしょう?
同じ楽譜を読み取っても、「そうか、この図面から読み取るべきはこの線分とこの図形、立体だ」というところに、まず個人差があるからでしょう。(また話がズレますが、イランの伝統音楽は、こうした個人差をもっとも大切な要素とみなしています。)
奏者が優れているか、そうでないか、を分けるのは、そこから先の取組みと実現する力量です。・・・その人が世間一般的に人格者かどうか、ということとは、ここには待ったうちがうモノサシが介在するのですが、これは別段、音楽家さんに限ったことではないでしょう。
ピッチは、じつのところ、聴覚は物理的に調整された絶対音高そのものを聴いてはいません。低い音が基調に流れているときには、その上を流れる旋律音は下に引きずられ、基調音が高めになるほど上に引っ張られます。あるいは、鋭く鳴らされれば、やはり上向きにぶれて認知されます(これははニ短調のほうがハ短調より鋭利に聞こえること、小刻みなリズムのほうが高揚した色彩感を持つことと関連を持っています)。
優れた奏者は、音符という記号がどのような意図で配列されているかを適切に読み取った上で、自分の持つ筆の太さや硬さのうちどれが適切かを選び取り、出さなければならない赤の彩度をも慎重に選択し、いざカンバスに描画するときには、筆を走らせる速度をあやまたない判断力と運動能力を兼ね備えているのだ、と知るべきでしょう。
自分のそうした力量を生涯秘密にする人もいますけれど(ヴァイオリニストにはパガニーニという有名な例があります)、たいていの優れた奏者は、いかにして、そうした「描画法」を誰にでも分かりやすくするか、を考え続けてきています(ショパンはそうした一人でしたし、現代にはもっと多くの尊敬すべき存在が・・・日本にだっていらっしゃいます)。
日本の奇妙なところは、そうした「色彩感覚」の持ち主を得てして異端児扱いにし、影響力のある外国(クラシックの場合は東洋世界ではだめです)で評価されたことが大々的に報じられて初めて、掌を返したように高く評価し出し、果てはその人を「あばたもえくぼ」的に持ちあげてダメにしてしまったりする風潮があるところではなかろうか、と、私は常々、下種の勘繰りをしております。

でもって、普段の「権威」は、窮屈な規則に、さも窮屈さを感じないで従い、それでも見た目・聴く耳には円滑に流れる「だけ」の演奏に終始する、まるで彩りの失せた、表面的な模倣ができるだけの、印刷物の色彩しかないものに付与される。

カンバスの上にごつごつと盛り上がった絵の具の塊のような質感までをも含めて、初めて色彩が生成するのだ、ということには、私たちはいつの間にか鈍感になっていはしないでしょうか?

それを受け止められない「鈍った感性」こそ、私たちから、音楽が本来備えている「色」を、単に見失わせるだけでなく、そうした態度が一般化することで、作り上げる音楽そのものからをも「色」を奪い取ってしまうのではないでしょうか?

ちょっと抽象的な話題になってしまいました。

メインパソコンが復旧次第・・・これも機械ですから、機械がお伝えできる以上のものはご提供できないのですけれど・・・、少し具体例を観察していただけるように出来るようだったらいいなあ、と想っておりますが、さて、生意気を綴る割に私自身の力量はからきしですので、適切になしえるかどうか。。。

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2009年12月18日 (金)

彩りを「聴き」、響きを「見る」

Photodraw ずっと以前に色聴の話題を採り上げてみたことがありました。
「(ドレミファソラシドというオクターヴの範囲内で)音が高くなるにつれて、虹の色と対応するように音に色が付いて聞こえる」
というものでした。

これについては心理的な、しかもデータの古い実験しかなく、生理上どのように受容されているかというデータは私は今のところ目にしていません。で、感覚の心理(あまり「学」と付けたくありません)という意味では「共感覚」という、得体の知れない、物理や生理のメカニズムからは根拠の得がたい現象として認識され続けているようです。

まず、色そのものについて、色彩の専門家さんに耳を傾けますと、
「色は目だけで見ているのではなく、肌でも見ている」
とのことで、これは
「同じ室温でも赤い色の部屋にこもると温度が高く感じ、青い色の部屋にこもると温度を低く感じる」
という・・・これはたしかに体のあちらこちらに電極を貼り付けて体温測定をしたサーモグラフィ結果をテレビで放映したりして、ご存知の方も多いかと存じますが・・・そういうことから、色彩というものが眼球だけでなく肌にも感じ取られているひとつの表れとみてとるのが可能な例の一つだとされています。
「いや、そう言っても、色は目で見ているんじゃないの?」
という反論は出来ます。
ここは、さらに反証となるデータがあるのかどうか、知りません。

12406550026401 ですが、目のないトマトで行った、こんな実験があります。
トマトに、白、黒、赤の布をかぶせて育てます。
白布をかぶせたトマトは順調に育ちました。
黒布をかぶせたトマトは枯れました。
赤布をかぶせたトマトは・・・発酵しちゃったそうです!

闘牛の牛さんが興奮するのは赤い布ですが、人間も赤い色には刺激を受けやすいことも上の結果から分かります。・・・なんと、トマトもそうだったわけです。(光の透過云々、というあたりの話があるんですけどやめときます。野村順一『色の秘密』文春文庫PLUS 2005年)

この話が載っている同じ本に、一音一音(データは1905年と1914年のもの)、および「ドミソ(トニカ〜安定)」と「ファラド(サブドミナント〜開放へ)」と「ソシレ(ドミナント〜安定への志向)」の色聴についてエッセイ風に触れられていますが、調の違いをどうとらえたらいいか、短調はどうなるかへの言及はないし、さほど深入りしているわけではないので、そのままとりあげるのはやめましょう。ただし、「ド・ミ・ソは色の三原色に相当している」とか、「ドとファの#は混色して灰色に聞こえる」とか、興味深い記述がある(読みやすさを考慮し出典云々していないのが残念)ので、お目通しいただければ幸いです。

Cry 同じように、この本の記述によると、低音ほど暗く高温ほど明るい、音が硬いほど明るく軟らかいほど暗い、など、「たしかに」と思えることも書いてあります。音の高低・硬軟で受ける色彩感がどう変わるかのデータもあったかと思います。
低い音は、より低い音に引っ張られて暗くなり、高い音は、より高い音に引っ張られて明るくなる、とのこと。

こうしたことから連想されるのは、たとえばヴァーグナー「神々の黄昏」冒頭部分です。はじめの低くうごめく部分は闇に近い青を感じさせますが、次第次第に赤みを帯び、最後は金色に達する。同じく「パルジファル」の聖杯を表す音響部分は、薄暗い橙色が瞬く間に金色に転じていくさまが、トランペットの上昇する旋律とともに鮮やかに浮かんできます。R.シュトラウスの「薔薇の騎士」第2幕は、メタリックな音響で、見事に銀色の色合いを出しているとはお感じになりませんか?
音楽作品の色合いは、クラシックに限らず、さまざまな曲で感じられるものです。
ヨーデルの底抜けの明るさは彩度の高い黄色。
ジャズはやはり、その演奏される場をわざわざ連想しなくても、ワット数の低い白熱灯の薄暗さが煙った空間をぼやけた朱に染めている。
出来のいいPOPは、明るい空色。

2f8d30829067c390 では、絵画作品から音響を感じ取る、というほうはどうでしょうか?

ゴーギャンの鮮烈な色使いは骨太のリズムで私たちの鼓動を高めるように思います。
ゴッホは、それよりやや霞んだ色合いの中に渦が加わることで、脈拍を少し乱させるような気がします。
ピカソにはより不規則な変拍子の音楽を、ルソー作品には低い音調に移し変えられて童心を回顧させらるような、本来は素朴であっただろう調べの大人向け編曲を聞くような印象を受けます。

こうした例は私が私の個人的な感性で上げているだけですけれど、いかがでしょう、ちょっとそういう音楽の「見方」、絵の「聴き方」を試みると、響きと色彩の関連が「聞こえて・見えて」くるのではないでしょうか?

 



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2009年12月10日 (木)

感覚と技術(ベルリオーズ『音楽のグロテスク』から)

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「思い込み」ということ、それを出来るだけ乗り越えるための「見つめなおし方」ということ、に、愚かしい考えを重ねてきました。後者はとりあえず社会的な話題の文例を用いましたが、音楽関係でふさわしいものはまた別途探します。・・・それは話をもう少し突っ込んで考えてからでもよかろうと感じてもおります。

「思い込み」を起こさせる大きな要因のひとつである、音楽を演奏する側の感覚、聴く側の感覚、について、さらに愚考を重ねたいと思います。ただし、ベルリオーズの著作(わりと最初のほうに集中して拾いますが)を材料にし、彼がどのように思考していたかを除き見てみて、<興味>としての推論をそこから組み立てるにとどめます。

ベルリオーズ『音楽のグロテスク』(森佳子訳、青弓社、2007)からの逸話。

「聴く側」からいってみましょうか?
といいますのも、タイトルにくっつけた「技術」は、ベルリオーズの思考の上では、どうも音楽にとって聴き手にはあまり関係がないもののようだからです。

「君たちは、よかれ悪しかれ、聴衆の洗練度を知っているだろう! 彼らに腹が立つだって! こりゃ驚いた! この試みのために選ばれたホールに集まった八百人のうち、おそらく五十人ほどが心から笑っただろうが、その他の聴衆はずっとまじめに聴いて拍手喝采したかもしれない。私は恐いのだ。聖歌とフィナーレの演奏の後を思うと。キリエのことを人は『これは難しい音楽ですね!』と言っただろうし、交響曲はずっと好まれただろう。/序曲について、行進曲とイギリスの歌には何人かがあえて不信を抱いたかもしれないし、隣の人に『これって冗談?』と耳打ちしたかもしれない。/しかし、それだけのことだ。」(訳書42頁)

曲が具体的に分からないながら、聴き手と演奏家それぞれが違ったほうを向いていて、とくに聴き手の大多数は音楽そのものの持つ意味合い等について考えながら聴くわけではない、と、演奏家(この場合はベルリオーズですか)側が受け止めているのがはっきり読み取れます。

・・・では、皮肉の対象になるのは聴衆側だけでしょうか?

さらに同じものから、こんなお話を。

「最後の繰り返しの間、名人はこの不運な楽器(クラリネット)のためのいろいろな曲を吹き続けた。そして、またしてもそれを・・・脚の間に置いた。次に、ポケットからナイフを取り出して、なんと、クラリネットのリードを大急ぎで削り始めたのだ。/笑い声やざわめきが会場に響き渡った。ご婦人方は顔をそむけ、ボックスの中に身を隠した。紳士方は逆に立ち上がり、よく見ようとした。叫び声や小さなうめき声が聞こえたが、この人騒がせな名人はリードを削り続けていた。」(同58頁)

これを読みますと、演奏者の技術が自分たちを満足させるかどうか、ということには、<考えていないはずの聴衆>でも、しっかり感じ取ることは出来ているのが判明します。(まあ、大袈裟な例ですが。これは引用元全体をお読み頂く機会がおありでしたら、そのほうがよく分かります。・・・ただ、訳者さんには大変恐縮ながら、読み易い訳ではありません。訳者さんがいけない、というのとはちょっと違うのです。フランス語原書の和訳には、よみづらいものが多いです。日本語との発想の落差ゆえでしょうか?)

となると、二番目の例から窺われる、ベルリオーズが心に描いているような音楽享受の上での理性的なもの、は、演奏者の技術力に左右されるのではないか、と、想像されることになります。

果たして、この推論は正しいのでしょうか?

で、もうひとつ。

「私はしばしば自問自答していた。ある人々が音楽にとらわれているのは、彼らがばかだからなのか、それとも音楽が彼らをばかにしたのか? 公正に考えた結果、私はこのような結論に達した。・・・・音楽は恋愛のような荒々しい情熱である。すなわち、音楽のせいで理性的な個人が一見理性を失ったかのようになってしまうことがある。しかしその大脳の混乱は突発的なものであり、その人たちの理性はその支配力をすぐに取り戻す。(中略)それ以外の人びと、本物のグロテスクたちにとって、明らかに音楽は彼らの精神的能力の混乱に一役買うものではなかった。また仮に、この芸術の実践に身を捧げようという考えが彼らに浮かんだとしても、それは彼らが共通の感覚を持つということではなかった。音楽は、彼らの偏執狂ぶりには無関心なのだ。(中略)そもそも、おかしな機知の枠組みに自らを置くことを大変誇りにしている人たちが存在するのだ。彼らには機知など全くなかった。それらは空っぽの、少なくとも片側が空っぽの頭蓋骨である。大脳の右葉も左葉も彼らにはなく、つまり二つの葉がいっぺんにないのだ。」(同46〜47頁)

・・・はてさて。おいらのことをおちょくってるみたいな。

だめ押しにもうひとつ。

「彼はトロンボーンの無限なる優位性を証明するために、乗合馬車で、鉄道で、あるいは蒸気船で、または二十メートルの深さの湖を泳ぎながら演奏したことを自慢にしている。彼のメソッドには、湖で泳ぎながらトロンボーンを吹く方法を知るための特別な練習とともに、結婚式や宴会用の楽しい歌が含まれている。それら傑作のうち一つの下方に、このような忠告があるのに気づいた。『結婚式でこの曲を歌うとき、Xとある小節のところで、高く積まれた皿の山を飛ばさなければならない。これがすばらしい効果を生み出すのだ』」(同50頁)



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2009年12月 9日 (水)

見つめなおす方法

捨てようとしても捨てきれない「思い込み」というものについて、昨日はとりとめもなく綴りました

では、
「それでも、できるだけ《思い込み》から解き放たれるためにはどうしたらいいか?」
を、検討したいと思います。
これには、いい見本となる文を見つけましたので、「転載の転載」になりますが、後で文例として掲げます。ただし、音楽関係の文ではありません。



「思い込み」から逃れるためには、自分がこうと思い込んで見つめているその対象から、いったん自分が距離を置いてみなければならないのではないかと思われます。

41z5z7d8mql_sl500_aa240_単純に「論理学で<正しい論法>だと保証されている方法で見つめているから大丈夫だ」
とは、じつは言い切れないのだ、という点につきましては、分かりやすそうな「論理学」のテキストでもお読みになってみて下さい。私の一番のお勧めは、NHKブックスの『論理学入門』(三浦 俊彦著)でして、練習問題が付いています。永遠の初学者である私のようなものでも、なんとかかんとか日数をかけて納得することが出来た本でもあります。で、この本でも、「論理」とは道具立てに過ぎず、本当の真実を証明するのには測りの役割は果たすかもしれないが、絶対的真理を見出す道具のひとつに過ぎないことが平易に書かれている・・・と、誤解でなければ私はそのように読み解いております。

ルネサンス期の有名な科学者(本当は数学者)であるガリレオ・ガリレイは、『新科学対話』(岩波文庫収録)という著作の中で、おそらくヨーロッパ人としては初めて「無限」について数学的に論証していますが、読んでみると、その手段は帰納法によっています。にもかかわらず、ガリレイの無限についての論証は、無限を証明尽くしたものとは人々に捉えられず、せいぜい無限論の嚆矢と評価されているに過ぎません。論理学の手法を使っても世間がすぐには「是」としなかった一例です。
それはそれとして、彼が最も注目されているのは
「それまで人々に正しいと『思い込まれて』いたアリストテレースの所説を客観的に否定した」
点なのですが、これがそのまま
「ガリレイはアリストテレースを否定した」
という『思い込み』に変形されているのはご承知のとおりです。
ガリレイはアリストテレースが導いた結論の「前提」の真偽を・・・数学的手段だけでは確信し切れなかったからでしょうか、実験観察によって入り込んでいったのですが・・・、それは当時は人々がものを見て結論を出すときの大前提、真偽を疑い得ないので真としか信じられないものと等価であったがゆえに、まず
「では、その前提は正しいか?」
と立ち戻って見つめなおすところから出発したのでした。
出発点をアリストテレース(より正確にはアリストテレースの著作を読んだ後代の人たちがまとめなおし世間に常識として広めたもの)の設定した「疑い得ない前提」の見直しから始めた、ということであって、先の
「(ガリレイは)アリストテレースを否定した」
なる命題から受ける、彼がアリストテレースの人格を否定したとか、アリストテレースの論理を否定したとかいうのとはまったく異なることについては、専門のかたが口を酸っぱくしておっしゃっておられるにもかかわらず、いまだに誤解されたままのようです。ガリレイは、学問の徒としてのアリストテレースには、終生、敬意は払い続けているのです。
ところが、では、これを
「(ガリレイは)アリストテレースを否定しなかった」
なる命題に切り詰めてしまったらしまったで、また誤謬を起こすことになる。
「アリストテレースを否定した」
であろうが
「アリストテレースを否定しなかった」
であろうが、どちらの命題も、その真偽を論理の手法だけでは真偽の証明が出来ない。
ガリレイの著作を自身で注意深く読み、そこでガリレイがアリストテレースについて語っている賛美の言葉が「ああ、嘘じゃなくて、本音なんだなあ」と実感するよりほかない、というだけでなくて、真偽を証明するには命題の中身があまりに切り詰められすぎている、ということにも、私たちは注意をしなければならないのです。

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まずは、状況証拠が要る。
この状況証拠、とは、起こっている事実としての「ものごと」なのですから、起こっている以上は「起こっていない」と否定することが出来ませんから、論理的に証明できなくても真です。(このあたりは、アリストテレースやエウクレイデス【ユークリッド】が拠りどころとしたものと何も異なりません。)
でもって、これがまた曲者です。
ひとつの状況証拠があるからといって、それを用いて「真」だと証明できる「命題」は、上の例のような切り詰められたものであってはならず、なるべく具象的に設定されたものでなければなりません。
逆に言えば、あまりに単純化された命題を、数少ない状況証拠から「真である」と証明することは誤謬を含んでいる確率が非常に高いであろうと予想されます。(だからこそ、ガリレイによる「アリストテレース(の論証)の否定」も、「非ユークリッド幾何学の発想」も誕生の余地を与えられたのでした。)

・・・世の中のニュース、それに踊らされる私たちは、いつも「誤謬」の海の中にいるのだと思ってよろしいでしょう。

こうした点の上手な疑い方の例文として、非常に感心したのが、某所で拝見した下記の文章です。
転載者の方が転載の許可を得ており、そのかたからさらに転載のご許可を頂きましたので、ちょっと読んでみて下さい。

腎移植に関わる、専門の医師の書かれたものですが、平明ですから、こうしたことに不案内でも内容は十分理解できます。
お書きになった医師のかたも、転載なさったかたも、究極には「腎移植をより推し進めて、透析に苦しむ多くの患者さんを救いたい」という願いを込めてはいらっしゃるのですが、私はそれ以前に、付加的な価値観を抜きに、虚心にこの文の「着眼の鋭さ」を読み取っていただくことを目的として転載をさせて頂くしだいです。この点ではご執筆者・最初のご転載者には甚だ申し訳ない限りなのですが、他の分野にも応用の利く規範的な論述の進め方であると存じますので、まず、読んで下さるかたには、そういう目線で眺めて頂けることのほうを、強く望みます。

引用も長いのですが、前置きもだいぶ長くなりました。・・・私としての目的は、この話を、いつものように「音楽」に繋げるところにあるのですけれど、この長さに至りましたので、今回は断念します。

(以下、転載)



 ★ 万波移植の特異性     藤田保健衛生大学 医学部教授   堤 寛
  (生命化学の総合誌《ミクロスコピア》冬号=最終巻所載、転載者のかたの記事から。)
  (下線付け、色づけは私。)

2006年末、難波紘二先生の推薦で、私は宇和島徳洲会病院の病腎移植問題の専門医委員会 外部評価委員に指名された。私は学会代表でも移植医療の専門家でもない、唯一自由な立場の医師だった。専門委員会では、ドナー腎全摘の是非が論じられ、多くの症例で「腎全摘の適応なし」(腎臓をまるごと摘出すべきでなかった)と結論された。

腎癌は大きさに依らず腎全摘されるのを実感してきた病理医として、小径腎癌の標準治療は腎部分切除という主張に納得できず、異議を唱えた。

病気の腎臓は移植に使わないとする日本移植学会の主張は、本質的な矛盾を内包する。40歳以上では、動脈硬化や糸球体硬化など、腎臓は何らかの病変があり、病変のない中年以降の臓器は先ずない。

死体腎移植を考えよう。そこでは、血圧低下の結果「ショック腎」(病理学的に急性尿細管壊死)に陥った「病的な」腎臓が移植される。病気の腎臓が不適なら、死体腎移植は成立しない。

小径腎癌は部分切除が標準治療であると主張する一方、全摘出した腎臓から癌の部分を直視下に部分切除して移植に用いる病腎移植は、再発・転移のリスクが大きいという日本移植学会の論旨は、明らかに自己矛盾

万波移植の特異点を考えて見よう。移植医療は、通常 都会の大病院で行われる高度で先進的な医療であり、日本移植学会の指導者を含む多くの医療者は、その前提で移植医療に取り組んでいる。

飛び抜けて「術」に長けた万波誠医師は、あの宇和島という地方都市の、常勤医師数がわずか8名の宇和島徳洲会病院(最近12名に増えたそうだ)で、腎移植を実践する。そのこと自体、ミラクルだ。

万波移植手術の人員は多くて3名。世界中 探しても、おそらくそんな病院はなかろう。病腎移植の議論で感じた違和感は、都会の論理を宇和島に持ち込む強引さにあると気付くのに、私はだいぶ時間を要した。

万波医師と患者は、年余にわたる深い人間関係を築いている。一緒に釣りに行く友人が患者。生活保護を受けている患者が少なくないため、万波医師は、患者に金を貸す。そんな宇和島という町で行われた地域医療。「病腎」でもいいから、血液透析を離脱して早く仕事をしたい。

万波医師のレシピエントの大半が、2回目以降の移植だった点は特筆される(計 42例中 2例は4回目の移植)。移植腎は 10〜20年の経過で、慢性拒絶の状態に陥り、患者は血液透析に戻る(移植腎の平均生着率は、生体腎で17.9年、死体腎で11.3年)。

そうなった人にとって、家族から腎臓を提供されない限り、2度目の腎移植のチャンスは先ずない。移植ネットワークに登録した患者の移植待ち時間は、1回目で17年が日本の現状。万波医師は、2度目の移植をつよく待ち望む人の希望を叶えた。

血液透析を長期続けると、萎縮した腎臓の嚢胞が多発し、「後天性多嚢胞腎」から腎癌が発生する点も重要である。多嚢胞腎に10年血液透析をさらに続けると、実に4.9%に腎癌が生じる。移植病変に於ける小径腎癌の再発率よりずっと高い。

万波医師を中心とする「瀬戸内グループ」の腎移植の手腕は、700例に達する日本一の実績のもと、最高級レベルにある。癒着が強く困難度の高い3回目、4回目の手術もこなす。

小径腎癌の多くに部分切除を標準的に実践し、腎臓を摘出して患部を除去した後、その患者に戻す自家腎移植も、日本最高の20例の実績。そんなブラックジャック移植医に対して、日本移植学会は小径腎癌の標準治療や自家腎移植を指南する。何かおかしい。

文献
1)堤 寛:「病腎移植」禁止の動きに意義あり、ミクロスコピア 24:200-6,2007.
2)堤 寛:病腎移植(レストア腎移植):知られざる事実。現代医学56:247-54,2008.

つつみ ゆたか 藤田保健衛生大学 医学部 教授. 1980年、慶応義塾大学 大学院 終了 病理専門医。
http://info.fujita-hu.au,jp/pathology1/



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2009年12月 8日 (火)

惚れ込む、という感覚

「あばたもえくぼ」とはよく言ったもので、惚れ込んでしまったら、それが傍目から見てどんなに奇妙奇天烈であって、なんぼ忠告をしたところで、「惚れちゃった」当人は耳を貸しません。(はい、私もその口です。)

これがしばしば、人の心の中に「固まりきった」思いをこびりつかせてしまい、新鮮なものを発見させる妨げになることがあるのも事実です。

ですから、良識的には、
「もう、これしかない!」
という思い入れで物事を見聞きすることはお勧めすべきではありません。

ただ、「思い込み」だけが「惚れ込み」の全てではない、ということさえわきまえられるならば、むしろ、「惚れ込む」のは、どんどん奨められても差し支えないことかと感じます。

音楽の上でいやなパターンは、たとえば
「クラシック以外のものは認めない!」
「フルトヴェングラーの第九だけが絶対だ!」
あるいは
「決まりきったことをやってるクラシックなんて糞食らえだ! ジャズに勝るものなし!」
みたいに、自分の全体で世界の全体を決め付けてしまう恐ろしさでして・・・これがもし(たとえ小規模なサークルの中であっても)社会的な行動を伴うものになってしまったら、音楽活動でさえも・・・それが演奏そのものであれ、受容する立場であれ・・・「独裁・強制」の一種を形作る恐怖を生む点では、他の事象となんら変わりはありません。

あらゆる「思い込み」を捨て去ることは、人間、いや、もっと広く、動物一般にしたって不可能事ではあります。
家猫は野良猫に比べると、むしろ警戒心が強く、同じ家に飼われている猫仲間がいれば、そのそばから離れることに恐怖を感じ、飼い主でもない人間が幾度も可愛いと撫でてやっても、ほとんどなついてくることはありません。野良のほうが、幼いうちは却って人懐こくて、あるとき仔猫がなつかされてむごい殺され方をしたうえネットに残酷写真を載せられる、というかわいそうな事件もありました。しかし、仔猫の時期を過ぎると、それまで経験が活きてきて、これは安全に餌をくれる人かそうでないか、餌はくれないけれど自分を可愛がってくれる人か、自分の仲間レベルか・・・ウチの息子です (^^; ・・・を、ほんとうにジロジロ観察しながら、判断します。・・・私自身はその辺を良く知るてだてには疎いのですが、ウチの息子は人間の友達作りが下手な分、コツとか猫の癖を良く掴んできて、あーだこーだ、あーでもないそーでもない、と私に教えてくれます。息子の話を聞いていると、
「野放しの世界、っていうのは、ほんとうにたいしたもんだなあ」
と、凄みさえおぼえます。

せめて、野良猫ほどの鋭さで、惚れ込む相手には「客観的に」惚れてみたいものです。
世の中に純粋な「客観」というのはありえないはずですから、これは矛盾しないはずです。



私の親しい人にも、いろんな音楽家のファンがいます。
さっきちらっと名前を出したフルトヴェングラーだったり、グレン・グールドだったり、森麻季さんだったり。
内心
「このひとはどうかなあ」
なんて思っていても、そういう人たちの前ではおくびにも出せません。・・・あ、ここに名前を挙げた人たちを私がどうこう思っている、ということではありません! 念のため!
ただし、
「絶対にその人だけがいい!」
とあまりに言い切るようでしたら、そのときは反論することもあります。

思い出に残っているのは、イツァーク・パールマンをめぐって、アマチュアとしては最高のオーボエ吹きでコルアングレ付記でもあった、今は亡きHさんです。
Hさんは足が不自由でいらしたので、とりわけ、似た境遇にあるパールマンが大好きでしたし、そこまでは突き詰めませんでしたが、面識もおありのようでした。
私自身、実はパールマンをとても尊敬していたのですが、Hさんのあまりの入れ込みように、まだ初めて彼に会って間もない頃、ちょっと意地悪を言いたくなりました。若気の至りです。
とある演奏会でご一緒したとき、運よく、酒の席で隣りあわせで座ることが出来、作戦開始。

「パールマンさん、下半身が利かない分、音に体重が乗り切っていないんじゃないですか?」
「何を言うか! そんなことはない! あんな芳醇な音をしているじゃあないか!」
案の定、Hさん、真っ赤になって怒りました。
で、実は、Hさんの主張の中には正解へのヒントがあったのでした。
たかだかヴァイオリンの演奏と思うなかれ、ヴァイオリンの、とくに左手は、力を入れて押さえると音を潰します。あるいは、手の自然な形とは何か、とか、指一本一本のはたらきがどうか、とか分かっていないと(右手は右手で、筋肉力で運弓すると、いわゆる「力弾き」になり、弓の毛が異様に早く多量に切れる・・・これが私の最も威張れないところですが、私なんかもそうです・・・という現象で悪さがはっきり分かったりします)、ネックを握り締めてしまって、弦の振動を止めてしまうのです。そこで、弦の振動を殺さないためには、少なくとも左手で弦をネックと一緒に「握り締めてしまう」ことは避け、指の乗せ方で上手に体重がかかって、しっかりした支点がとれるようにしなければならない。
下半身が不自由、ということは、全身の体重を乗せる上ではハンディキャップになります。
ところが、パールマンの演奏は、そうしたハンディキャップをまったく感じさせない。
彼は神童だったから、といってしまえばそれまでですが、天性だけではどうしようもないこともあったはずで、だから本当は、陰で非常な努力をしたに違いないのです。
Hさん自身も、そういう努力を「無自覚的に」なさっていたのでした。
私が意地悪なことを言ったことで、Hさんは最初、たいへんな屈辱を覚えたはずです。

にもかかわらず、そこで私に激しい言葉をぶつけてから、Hさんは、自分もパールマンも、本当はどれだけ「頑張って」きたのか、ということに、たぶん気づいてくださったのだと思います。
一方で、仕掛けた私は、偉そうに意地悪をしたくせに、パールマンはもちろん、亡くなったHさんの足元にも及ばない演奏(それも、もし演奏と呼べるなら、というレベルで)しか出来ないでおります。

惚れた相手には意地悪をして、こちらをも好きになってもらわなければなりません。

理屈が当たっているかいないか、それこそ
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」
なのですが、おかげで私はそのあとHさんとは信頼関係をもてたのではないか、と、かたくなに信じております。私はHさんという人間性に、最初から惚れこんでいたのだと思います。

家内を失ったときも、いちばんなにくれとなく連絡をくれ、気を使って下さったHさんも、私の家内の数ヵ月後に急逝なさってしまいました。

有名演奏家ではもちろんなく、アマチュア仲間、ということではありましたけれど、私はいつも、これだけは何を言われても譲れません。

「本職さんだろうがなんだろうが、今なお、Hさんにかなうコルアングレの音を出せる人はいない。」

・・・これは、「客観」ではありませんが。

・・・これでは、上で述べてきたことには何の意味も見出せませんね。(^^;

はてさて、私は何を言いたかったのだろう???



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2009年10月26日 (月)

「悲しい」と正直に言えば喜劇になる:音楽の愛し方15(end)

過激なまでの名ギタリスト、森田茂さん(クラシックギター)「デ・ポンセ」は10月31日、さいたま市大宮区のバッハアカデミーホールです。ポンセは難曲ですが名曲揃い。お聴き逃しなく!


紳士的名ギタリスト増井 一友さんのリサイタル(クラシックギター)は、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!


赤津眞言さん他「フランス ヴァイオリン音楽の流れ」については、複数日程につき記事にリンクを貼りましたのでそちらをご覧下さい。


3・7・8・9(7から9は当面欠番)
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番外1 番外2


「人生、短い目で見れば悲劇、長い目で見れば喜劇」
とは、出典までは調べなおしませんが、チャップリンの有名な言葉ですね。

日常の中で、私たちの誰もが、朝おきてから夜寝るまで、たくさんの悲劇を、無我夢中で演じています。
「私」という俳優は、いちにちを通してみると、圧倒的に「悲劇」を演じている割合が高かろうと思います。

朝、目覚ましの音に驚いてひっくり返ったついでに、近くの衣装ダンスの角に頭をぶつける。
出勤途中で、靴の踵がはがれてしまう。
学校や職場では、昨日
「急いで解いてくれ」
と渡された問題がまだ分からずにいて、
「どうしたんだ」
「いや、どうやってもつじつまが合わないんで」
「そんなことじゃあ間に合わないじゃないか」
と怒鳴られる。
夜、ストレス解消とばかりに、ゲームに浸りきれば、親や相方からは軽蔑のまなざし。
お酒でべろんべろんになって、翌朝を迎え、目が覚めてみたら天井がなかった・・・道理で寒いと思った。。。

ひとつひとつのことは、それが身に降りかかっている当人にしてみれば、大変に悲しいことです。
ですが、辺りの人たちから見れば、鼻で笑われるような、軽い出来事でしかなかったりする。

ここで、
「おいら、悲しい」
と、本当の気持ちをぼそり、と口にしてみましょう。
はっきりと。

とたんに、ほんの些細な、歯牙にもかけられないような「私の悲劇」は、周りの人にとって、印象深い出来事になります。
はじめに
「おいら、悲しい」
の一言があるのが肝心でして、これがなければまず、「私の悲劇」という事実に対する周りの関心を呼びません。
「おいら悲しい」
と、きちんと周りに聴こえるように、でも、ぼそりとした味わいだけは失わずにアピールすることが要になります。
これではじめて、
「え? ヤツに何が起こったんだ?」
と、周りは色めき立つ。
好奇心が、誰もに、「大きな事件」を期待させる。

ところが、ひきつけられて注視してみると、注視した相手(周りから見られた私)の有様は、日常の正常で無事な営みから、ほんのちょっとズレた程度の、それだけとったら、まったくもってつまらんことに過ぎない。

踵が剥がれた靴で不器用にピコタンピコタン歩く私の姿は、
「ああ、大変そうだ」
と仮に同情されても、仕草だけ見れば、単純に滑稽なだけです。

「人生、卑近に見れば悲劇、隔てて見れば喜劇」。

巧みな喜劇作者は、チャップリンが明言した時間軸からだけでなく、視線という空間軸もよく計算して、ドラマを仕立て上げるのだな、ということが、こうして、劇作とは別段関わりのない「私」でも学びえるものとなります。

シェイクスピアの悲劇のようなものでも、場面場面を都合よく切り出せば容易に喜劇にしえるのは、悲劇が悲劇として成立するためにあえて覆い隠している「俯瞰的な時間軸・空間の座標」を暴き出すことのほうが、人間にとっては容易だからに他ならないのでしょう。

「音楽を愛する」ことの、とりあえずの締めくくりとしてこんな話を持ってくるのは突飛かもしれません。

ですが、「音楽」という台本ほど、作り手(それが単数だろうが複数だろうが、有名だろうが無名だろうが)が巧みであれば、それが正直に「悲劇を強調するために時空の軸をぼかしている」のか、「あえて軸を明確にして愉快にしているのか」を明確に記号化したものは、文学や美術の世界には見当たらないのではなかろうか、と、私は思っております。

ですから、音楽を享受するときには、
・聴き手は作品の時空軸の輪郭にほくそ笑むこと
・演じ手は、応用であることが明確ではない限り、作品の時空軸の輪郭に、自己の技量を超えた場違い・筋違いな<付加物>をもたらさないようにすること
に集中することが、おそらくは望ましいのでもあろう、と、考えている次第です。

では、<付加物>とは何であるか、それが筋違いだったり場違いだったりするかはどうやって判断すればいいのか?

これは、音楽が生み出され、享受されてきた歴史環境で、様相が様々に変化してきたもののようです。

とくに、19世紀にはいると、洋の東西を問わず、音楽の書法に、それまではなかった、劇的な演出用語が頻繁に現れるということが起きてきているように感じております。

感じている、というだけではいけませんので、このあたりで、音楽の歴史のお勉強に立ち戻って、途中でほったらかしにした近世から、再度仕切りなおしたいと思っております。

東洋の思潮は、遺憾ですが素人が容易に手に出来、読み解ける書籍が少なくて、一市井の素人では手に負いきれないことが多いのですが、ヨーロッパについてはやや明確に分かります.

いずれにせよ、またそのあたりから観察をしていって見ましょう。

今回はこんなところで。


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2009年10月17日 (土)

CD本、読みますか?:音楽の愛し方14

過激なまでの名ギタリスト、森田茂さん(クラシックギター)「デ・ポンセ」は10月31日、さいたま市大宮区のバッハアカデミーホールです。ポンセは難曲ですが名曲揃い。お聴き逃しなく!



紳士的名ギタリスト増井 一友さんのリサイタル(クラシックギター)は、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!

赤津眞言さん他「フランス ヴァイオリン音楽の流れ」については、複数日程につき記事にリンクを貼りましたのでそちらをご覧下さい。

3・7・8・9(7から9は当面欠番)
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この記事の後、パソコンのメンテナンスのため、ちょっとの間ブログの更新は致しません。

さて、私が自分なりのクラシックCD・DVDリストを作った種明かしです。
恣意ははさまなかったつもりなのですが、私のリスト(前半後半)は、これから上げる二つの本(書名は出しません)を意識はしてしまったかもしれません。

私のリストの内訳です。(項目数)
作品の時代別
・古代=2
・中世=5
・ルネサンス=2+1
・バロック=23
・古典派=18
・ロマン派=32
・20世紀=17

地域別を出したいところですが、ちと出来る内容ではなくなりました。
特定の作曲家で多いのは
・モンテヴェルディ=4
・モーツァルト=7
・ベートーヴェン=6
・シューベルト=4
----ドイツ圏が多そうな傾向にありますね。ただし、20世紀ものは日本2、中国(実質アメリカかなあ)1、韓国1です。演奏家では、最近自分が集中して聴いて新鮮みを覚えた点を反映しているのでしょう、ヴァントが目立ちます。他にはクリュイタンス、アーノンクールが多そうです。

ところで、最も売れているらしいCD紹介本Aは、3人の有名評論家の手になるもので、番号のふってあるページ数は470、項目数は177ほどです(コラムを含まず)が、採り上げられた作曲家数は42です。以下、カウントが少々不正確かも知れず、そこはご容赦を乞いますが、傾向は明確に分かります。
作曲者(と項目数、括弧内)の地域別内訳は、ドイツ圏=14(114)、フランス=9(17)、ロシア=7(20)、イタリア=4(6)、東欧=3(8)、イギリス=3(3)、北欧=1(5)、日本=(1)と、ドイツ圏に極端に遍していることが窺われます。
作曲家の時代別は、ルネサンス以前0、バロック4(17)、古典派3(49)、ロマン派26(92)、20世紀8(19)です。
いちおう、私の主観で、定番だろうと思われるものは、個人的な好みと一致するもの42、不一致であるもの29、どちらともいえないもの15で、総数86。項目全体の48.5%を占めます。

それにしても、古典派が28%で3人(教科書でお決まりのヨーゼフ・ハイドン、アマデウス・モーツァルト、ベートーヴェン)で49曲は、ハイドンだけが3項目だけでして、後の二人で46項目。全てドイツ圏のものですから、この本は古典派ドイツの定番を軸に据えていることが見え見えです。ロマン派(52%)の作品も作曲家によってばらつきはあるものの、平均を取れば一人当たり3.5曲です。
時代のパーセンテージで言えば、私のリストは古典派18%、ロマン派32%で、やはり高めですが、バロック以前とロマン派後は「クラシック音楽」ではない、という考え方は・・・まあ、厳密に言えばこっちのほうが正解なのかもしれません。
で、定番と考えて良さそうなものが好みを度外視すれば半分は含まれる、というのは、一見、この本が、これからクラシック音楽の録音を聴く人には適切な本のように思わせられます。
が、大きな問題があります。
文章です。
作品の解説に重点を置いた文が、全くと言っていいほど,見当たらない。演奏家についてある程度知っていて好みも明確な読者が目にして初めて
「うんうん、そうだそうだ」
と言える内容なのです。
となると、この本Aの購買層は、「クラシック音楽通」を自認している人であり、その購買目的は「自分の思考の正当性を確認するため」であろうかと推測されます。
・・・果たして、そういう本に、存在意義があるのでしょうか?

「正統なクラシック」(日本人が享受して来た、という意味で)の世界に留まる人のためにしか意味が無い・・・これから聴きたい人が何かを知ることが出来るわけではない、だのに、そういう本が売れる、というのは、日本人の国民性でしょうか?
定番がこれだけ意見の一致を見るのでしたら、購入する必要はない。別に自分も定番だ思っているというだけだし、どうして定番だと思うかの理由については、なにも権威あるご著者たちと意見が一致している必要はない。だったら、いりませんよねぇ。。。
文の主観の中で個人的には「ブラームスの、ピアノを伴わない室内楽曲に傑作はない」みたいなものは私が最もカチンと来たところの一つですが・・・彼の弦楽四重奏曲は名品です、ただしいい録音には恵まれていません・・・、そういうこまごましたことは、上のような状況だけ見て、こうした本は不要だと判断出来てしまえば、もう別にどうでもよいことです。
なおかつ、最近のクラシック好きの傾向として、バロックの裾野が30年くらい前に比べると格段に広がっているはずですのに、それが未だに取り入れられていないのも不審です(9%)。20世紀ものは評価が定まっていない現状、聴き比べるほどの録音が出回っていないことからすると、数の少なさはちょっとは理由付け出来るのでしょうし、11%という割合はそこそこ評価していいのかもしれませんが、次に上げる書籍Bは20世紀作品の占める割合が36%なのです。・・・それにしても、わざわざ20世紀のクラシック音楽、みたいなタイトルを付した新書も出ているのに、けっこう厚手なこの本の内容も、20世紀中葉までの作曲家のなかで目立つ存在だけを採り上げているのは、同様に不審だと言わざるを得ません。・・・まあ、それくらいでよしましょう。

で、20世紀作品を積極的に掲載している、もうひとつの書籍Bは、215ページの本ですが、同様の集計をしてみると次のようになります。
地域別は、ドイツ圏12(36)、ロシア9(19)、フランス8(9)、北アメリカ6(6)、イタリア4(6)、イギリス3(3)、チェコ2(5)、ハンガリー2(3)、アルゼンチン2(2)、エストニア1(1)、フィンランド1(1)、日本9(9)。
時代別は、ルネサンス以前1、バロック5、古典派16(ロッシーニを古典派と見なす)、ロマン派42、20世紀36です。
バロックの作曲家はモンテヴェルディ1、ヴィヴァルディ1にバッハ2で作曲家の人数は同じです。実はAはバッハばかりで占められているに等しい(他の作曲家の作品は1曲のみ)のですが、ここはBのほうが割合も小さいですけれど、同傾向を見せています。古典派も、ロッシーニ2作を除けば、ハイドン1で、残りをモーツァルトとベートーヴェンで分け合っていて、これもAとBには同じ傾向が見られます。
決定的な違いは、Bはロマン派以降に大きなウェイトをおいている点でして、日本人作曲家を9人採り上げているところに「日本人だって音楽作ってるんだぜー」と意気込むご著者の姿勢が見て取れます。
文章の記述も、いくつかの例外を除いて、半分から3分の2を作品の成立事情などの平易な説明に充て、残りで、紹介する録音の、演奏や演奏家の特徴を記すというスタンスをとっています。
・・・このほうがまだ、「そうか、ちょっとクラシックでも聴いてみんべえか」という意欲を、「クラシック」を初めて聴く人にも抱いてもらえる可能性は高まるのではないでしょうか。かつ、このジャンルの中で日本人は何をして来たか、を日本人として確認し得る入口を用意していることは、大切なポイントになるのではないかと思います。(私のリストでは日本人の作品は二つしか採り上げていません。)

対比して、私の作ってみたリストではバロック以前が結構な量を占める、というのは、私がその時代の音楽にちょっと強めの好奇心を抱いたことの反映に過ぎないのかも知れず、他に何冊か覗いてみたクラシックCD紹介本でも、あまりないことでした。モーツァルト・ベートーヴェンを多く選んでしまう、というのは、私も同じでして、これはやっぱり日本人としての一つの特徴になるのでしょうか。

かつて石井宏さんが「反音楽史」なるご本を書かれて、強烈に「ドイツ偏重」を皮肉ったのでしたが、その影響はクラシックCDを紹介しようとする人たちにはどうも及んでいないらしいことも分かります。・・・これは、私の選んでみたリストでもドイツ圏系の音楽がやはり多めになることから、過去の「クラシック音楽享受法」は、けっこう変化していないのかなあ、と、自分自身首をひねってしまっています。

以上のような次第で、クラシックCD紹介本は日本のクラシックファンの現状を単に鏡のように移す傾向がまだまだ残っていて、それは個々人がリストを作ってみても、出回っている著作と似た傾向になる割合が未だに高いことを物語っていると言ってよろしいかと思います。

そこいらへんを打破してみたい、とお考えになる場合は、ですから、普及本を参考にすることは出来ず、聴き手である「私自身」が好奇心を持ち、切り開いていくしかないのです。

いかがでしょうか?


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2009年10月13日 (火)

私個人の愛聴盤100(後半!):音楽の愛し方14前フリ(2)

過激なまでの名ギタリスト、森田茂さん(クラシックギター)「デ・ポンセ」は10月31日、さいたま市大宮区のバッハアカデミーホールです。ポンセは難曲ですが名曲揃い。お聴き逃しなく!



紳士的名ギタリスト増井 一友さんのリサイタル(クラシックギター)は、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!

赤津眞言さん他「フランス ヴァイオリン音楽の流れ」については、複数日程につき記事にリンクを貼りましたのでそちらをご覧下さい。

3・7・8・9(7から9は当面欠番)
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番外1 番外2

昨日の続きです。
・・・最後の1枚を除き、これらをお薦めしたい、という趣旨でリスト化したのではなく、市中に出回っているクラシックCD紹介本の意義を考える際に自分自身をも対比の材料にしたいがためめのリストであることを、あらかじめご了承下さい。
そういう視点でご覧頂ければ、昨日のリストと併せ、私には私なりの「偏向」があることにお気づき頂けると思います。そこが肝要です。

後半のリストは、時間の都合上、一部を除き録音年次を記さないことをお許し下さい。

051-シューベルト: 交響曲全集ヴァント/北ドイツ放送響 RCA
かつてサヴァリッシュは下積みでドレスデンシュターツカペレと「メジャーなシンフォニーは録音させてもらえない」とぼやきながらシューベルトやメンデルスゾーンの全集を録音しました。気持ちが尖っていたせいか、悪い演奏ではないのですが、音が尖っていました。ヴァントのこの全集は、シューベルトの交響曲が第1番から非常に生き生きしたものであることをしっかり認識させてくれる上で、最良の全集だと思っております。

052-シューベルト:「美しき水車小屋の娘」ヴンダーリッヒ Deutsche Grammophon(現在非所有)

053-シューベルト:「冬の旅」ホッター入手不可?

054-シューベルト:アルペジョーネソナタ ジャンドロン(Vc.)/フランセ(Pf.) PHILIPS PHCP-3683
・・・私は子の演奏以外では聴けない体になってしまいました!

055-ロッシーニ:「セビリアの理髪師」(DVD)アバド/スカラ座管弦楽団および合唱団 Deutsche Grammophon 00440 073 4039

056-ロッシーニ:「アルジェのイタリア女」(DVD)ヴァイケルト/シュトゥットガルト放送響ARTHAUS 100 121

057-ロッシーニ:ピアノ曲集第1巻 L'Album pour les enfants adlessentsジャコメッティ(Pf.) CHANNEL CLASSICS CCS 12398
歌劇から身を引いたあとのロッシーニが、数は少ないながら、どれだけ愛らしい作品をものしていたか、をうかがわせてくれます。

058-メンデルスゾーン:交響曲第1番〜第5番 マズア/ゲヴァントハウス 30枚組のMASTER WOEKSに収録

059-メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ヒラリー・ハーン/オスロ・フィル SONY SICC 1051

060-シューマン:交響曲全集 バーンスタイン/ウィーンフィル Deutsche Grammophon
フルトヴェングラー以前、そしておそらくカラヤン世代も、スコアに手を入れて演奏して板であろうシューマンの交響曲ですが、バーンスタインは、そんなことをしなくてもシューマンのオーケストレーションはバランスを考慮すれば見事な輝きを放つことを証明してみせました。

061-シューマン:「子供の情景・森の情景」 ケンプ(pf.) Deutsche Grammophon

062-ベルリオーズ:幻想交響曲 クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団(東京ライヴ) ALTUS(私の所有しているのは以前出たもの)
このときの日本の録音技術の優秀さにも耳を傾けるべきです。「本当のオーケストラの音」がします。

063-グノー:歌劇「ファウスト」(DVD) エチュアン/NHK交響楽団(1973年) NHK KIBM1021
NHKがイタリア歌劇を招聘していた時期の貴重な映像の一つ。グノーのこの歌劇は、しかし、バレエ音楽を除いて、いまだに隠れた名品であるのが惜しまれます。バレエ音楽もかつては随分演奏されましたが、最近あまり聴きません。

064-ショパン名曲集 ルービンシュタイン(Pf.) RCA---これもどこかに・・・(--;

065-リスト「ファウスト交響曲」 シノポリ/シュターツカペレ・ドレスデン Deutsche Grammophon 476 219-5

066-ドニゼッティ「マリア・スチュアルダ」(DVD) カルミナーティ/ベルガモ・ドニゼッティ劇場 DYNAMIC 33407N
・・・このオペラは、凄い!

067-ブラームス交響曲全集 ヴァント/北ドイツ放送交響楽団 RCA BVCC-38158-59
ブラームスの交響曲全集は、フルトヴェングラー、ケンペのものも大好きなのですが、ヴァントのこの録音ほど、透き通った海を思わせる演奏はない、と、驚かされました。

068-ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」 カルロス・クライバー/バイエルン放送響 Deutsche Grammophon

069-チャイコフスキー:交響曲第5番 ムラヴィンスキー/レニングラードフィル DREAMLIFE DLCA 7017
ショスタコーヴィチの5番(後掲)とともに、彼が何度も録音したりライヴ演奏した中で最良の演奏だと思います。

070-チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」 カラヤン/NHK交響楽団 Deutsche Grammophon
NHK交響楽団とどさ回りしたカラヤンの貴重な録音。

071-ドヴォルジャーク:交響曲第9番「新世界より 」フリッチャイ/ベルリンフィル Deutsche Grammophon

072-ブルックナー:交響曲第5番 ヴァント/北ドイツ放送響 RCA 09026 68503 2

073-ブルックナー:交響曲第8番 チェリビダッケ/ミュンヘンフィル EMI TOCE-11619-20

074-ブルックナー:交響曲第9番 シューリヒト/ウィーンフィル EMI TOCE-14023
ブルックナーはウィーンでは自作がどう響くように願っていたのでしょうか? 本当の意味でそれを考え、想像させてくれる貴重な録音です。

075-マーラー:交響曲第4番 フォン・シュターデ(Sp.)/アバド/ウィーンフィル Deutsche Grammophon
アバドの新録音よりも、いろいろな意味で、この曲の良さを引き出していると感じます。フォン・シュターデの、抑制された声がまた、私にはとても魅力的です。

076-マーラー:「大地の歌」 ヘフリガー他/ワルター/ニューヨークフィル SONY
ウィーンンフィルとのモノラル録音を押す人が多いのですが、私の主観はこちらを愛します。

077-ヴォルフ:22 Lieder シュワルツコップ(Sp.)/フルトヴェングラー(Pf.) EMI 7243 5 67570 2 8
フルトヴェングラーがピアノ伴奏をしている、資料的にも貴重な録音。

078-ボロディン:弦楽四重奏曲第2番 ボロディン弦楽四重奏団 LONDON
・・・鋼鉄の響きがします。音程もニュアンスも、これだけピッタリ合ったアンサンブルを聴けるのは、この団体ならではでした。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の全集もまた、同様の素晴らしさを見せつけてくれます。

079-ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ラフマニノフ(自演)/オーマンディ/フィラデルフィア管 RCA BVCC-5115
手の大きかったラフマニノフは、この協奏曲を「ほんとはこんなふうな静粛さで聴かせたかったんだろうな」と思わせられます。

080-ラフマニノフ:交響曲第2番 プレヴィン/ロンドン交響楽団 EMI
プレヴィンによる、この交響曲復活のきっかけとなった記念碑的録音。その後のロイヤルフィルとの録音よりも優れています。

081-R.シュトラウス:交響詩「ドン=キホーテ」 R.シュトラウス(1941年自作自演)バイエルン州立管弦楽団 DANTECD LYS394
何種類も残っているR.シュトラウスの自作指揮の録音は、どれを聴いても面白いですけれど・・・せっかくですから「ドン=キホーテ」を是非聴きたいと思ったのでした。

082-R.シュトラウス:「バラの騎士」 エーリヒ・クライバー LONDON---iPodには入れてあるのに。(T_T)
息子も名録音を残していますが・・・オヤジさんのほうがムーディだなあ。

083-ベルク & シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲 シェリング/クーベリック/バイエルン放送響 他 Deutsche Grammophon 469 606-2
・・・実は、ベルクの協奏曲をウェーベルン指揮によるもの(古いモノラル)やズーカーマン/ブーレーズ(SONY)のもので愛聴していたのですが、これはシェーンベルクの協奏曲とカップリングされており、これまたいい作品だと思っておりますので、以後これを聴いております。

084-ウェーベルン:管弦楽曲全集 ブーレーズロンドン交響楽団、ジュリアード弦楽四重奏団(旧録音)"SONY SM3K 45 845

085-ドビュッシー:ピアノ作品集 ドビュッシー(自演)Pierian 0001

086-レスピーギ、カゼルラ:自作自演集 レスピーギ、カゼルラ(Pf.)"Pierian 0024

087-ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲 他 クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団(東京公演ライヴ)ALTUS ALT-004~5
「ダフニス」の出だしで、本当に鳥がさえずり、飛び立つのが見える演奏は、聴いた限りこれをおいて他にはありませんでした。実演を耳にした人のお話では、音が鳴りだすのが聞こえる前に東京文化会館のホールの空気が揺れたそうです。

088-ストラヴィンスキー:「火の鳥」他(DVD) ストラヴィンスキー/NHK交響楽団TDK---みつからない!
ストラヴィンスキーの指揮姿が見られるだけで、もう楽しい!

089-ガーシュウィン:歴史的録音集 ガーシュウィン他RCA TWCL 3007

090-ヴォーン=ウィリアムス「トーマス・タリスの主題による幻想曲」 バルビローリ/シンフォニア・オブ・ロンドンEMI DE33-5245
この作品の、最も美しい演奏。

091-バルトーク:BARTOK plays BARTOK バルトーク他Pearl GEM 0179

092-バルトーク:ヴァイオリンソナタ シゲティ(Vn.)/バルトーク(Pf.) DENON COCQ-83796
上記2枚、バルトークが美しい音のピアノを弾いていたことを聴かせてくれる貴重なものです。シゲティのヴァイオリンも素晴らしい。

093-ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ムラヴィンスキー/レニングラードフィル(1982)DREAMLIFE DLCA 7017
チャイコフスキー第5を参照下さい。

094-ショスタコーヴィチ:交響曲第8番ムラヴィンスキー/レニングラードフィルBBC BBCL 4002-2
本作のイギリス初演の時のライヴ録音です。客席の咳払いが多いのが難点ですが、オーケストラは委細構わず、非常に緊張度の高い演奏をしており、凄みに身震いを覚えます。

095-メシアン「鳥のカタログ」ウゴルスキ(Pf.)Deutsche Grammophon POCG-1751/3
メシアン夫人のイヴォンヌ・ロリエによる録音の方が作品の持つ優しさをよく聴かせてくれるのですが、単発での発売がなかったと思います。ウゴルスキは、イヴォンヌとは異なった男性的アプローチで聴かせてくれます。イラスト冊子が付いてくるのと、丁寧な解説のリーフレットがあるのが、作品理解を助けてくれるので、こちらを選びました。

096-矢代 秋雄:ピアノ協奏曲岡田博美(Pf.)/湯浅卓雄/アルスター管弦楽団NAXOS 8.555351J
名作だと思います。

097-武満 徹:「鳥は星型の庭に降りる」小澤征爾/ボストン交響楽団Deutsche Grammophon

098-タン・ドゥン:歌劇「マルコ・ポーロ」タン・ドゥン(cond.)/オランダ放送室内管SONY SRCR 1881-2
彼の作品ではヴァイオリン協奏曲「京劇を出て」と"Death and Fire"が、私は最も好きですが、このオペラのほうがタン・ドゥンという人の基本的な語彙を豊富にちりばめているかと思い、こちらを選択しました。

099-ウンスク・チン:作品集Ensemble Intercontemporain他Deutsche Grammophon 00289 477 5118
韓国の、いまやベテランにして最大の女流作曲家でしょう。作品は平明で聴きやすいと思います。

バロックを1枚、追加させて下さい。・・・クセナキスやシュニトケじゃなくて。

100-「バロック・リュートの音楽」ミヒャエル・シェファー(バロック・リュート)SEON (SONY) SRCR 2111
日本を愛し、日本人の奥さんとご結婚なさっていた天才リューティストです。惜しくも早世なさったのですが、お詳しいかたから、彼は奈良に分骨のお墓を持っていると聞きました。

私のリストは、以上です。
これと、市販本の傾向とを比較して考察していきたいと思っております。


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2009年10月12日 (月)

私個人の愛聴盤100(前半!):音楽の愛し方14前フリ(1)

過激なまでの名ギタリスト、森田茂さん(クラシックギター)「デ・ポンセ」は10月31日、さいたま市大宮区のバッハアカデミーホールです。ポンセは難曲ですが名曲揃い。お聴き逃しなく!



紳士的名ギタリスト増井 一友さんのリサイタル(クラシックギター)は、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!

赤津眞言さん他「フランス ヴァイオリン音楽の流れ」については、複数日程につき記事にリンクを貼りましたのでそちらをご覧下さい。

3・7・8・9(7から9は当面欠番)
10111213
番外1 番外2

コンサート、となると、これまでを総括するために考える対象としては難しいので、録音録画について観察して「現状」を見ておこうと思うのですが、単に人さまを批判する(非難ではありませんので・・・日本人はここをあまり使い分けしてくれません)のでは片手落ちですから、私が聴いて気に入った、あるいはもう耳の底にこびりついてしまった(これは全体の中ではわずかな割合しか占めないのですが、明記しておきます)CD・DVDを、ほぼ「クラシック音楽」の時代順に並べておきます。
・・・お詳しいかたには、「なんだあ、随分好みにムラがあるなあ!」と呆れられるかもしれません。
なお、同一曲に好みが複数ある場合は、演奏者の重複を極力避けることとしました。また、好きな曲でも決定的に好きと言える録音等が存在しない場合には省略しました。
なお、現在入手出来るかどうかの確認はとりません。
かつ、現在は手元にないものもあります(その場合、品番を省いております)。
全集盤やセット版収録のもので、一部しか採り上げない場合は、その旨記します。
なお、古代エジプトの楽器を復元して演奏した、なんてシロモノもありますが、この手のものは音楽は楽器の時代に出来たものではないうえに、現代モノとしてみても半端なので、省きます。

やってみると、50引っ張りだすだけでもひと苦労でありましたので、とりあえず前半50ほどです。
古代ギリシャからベートーヴェンまで。

001-"Musique de la GREECE ANTIQUE" Gregorio Paniagua harmonia mundi HMA 1951015
(古代ギリシア音楽の復元演奏。録音1978年。いまのところいちばんまともな復元演奏)

002-"CHANTS DE L'EGLISE DE ROME " Marcel Peres harmonia mundi HMA 1951218
(19世紀末にローマで写本が発見された、キリスト教の古い聖歌。録音1986年)

003-"CANTO GREGORIANO" 10CD Set membran ちと正体不明。
(格安の、網羅的なグレゴリオ聖歌集。便利なので愛聴。4、5団体が歌っています)

004-「十字軍の音楽」 デイヴィッド・マンロウ他 DECCA UCCD-3257 録音1970年
(中世の有名歌がまとめて聴けます。)

005-「パリ・ノートルダム楽派とランス大聖堂の音楽」デラー・コンソート deutsche harmonia mundi BVCD-38003
(ペロタンのグラドゥアーレ、マショー「ノートルダムミサ」他。レオナンは未収録。録音1961年。レオナン【レオニヌス】を聴く場合には、マンロウ『ゴシック期の音楽』が入手容易です。)

006-"DANIEL AND THE LIONS" NEW YORK'S ENSEMBLE FOR EARLY MUSIC fone 016 SACD
(録音1986年)中世の台本が残っている貴重・希少な音楽劇のひとつ(ダニエル劇)で、最も有名なものです。

007-「ザ・ヒリヤード・アンサンブルの芸術」EMI CLASSICS CHIL-1001~4
(ダンスタブル、オケゲム、デュファイ、ジョスカン・デ・プレの作品を収録)

008-「ヘンリー8世とムジカ・スペクラティーヴァ」 フランス・ブリュッヘン他 deutsche harmonia mundi BVCD-38184

イギリスのものではシェイクスピア劇で使われた音楽やダウランド、バードの作品集なども手にしていますが、じっくり聴いたことがありません。ピューリタン革命の頃の俗謡を集めたものなどもあります。

009-Palestrina「教皇マルチェルスのミサ」・・・iPodには入れたんだけど・・・おーい、どこ行ったー? まあ、いくつも種類は出ていますが。代わりに
"Madrigals---First book of madrigals for four voices" Concelto aitaliano BRILIANT 93364
(録音1994年)

011-Jacopo Peli "EURIDICE" Ensemble Appeggio ARTS 47276-2
(録音1992年)

012-Giulio Caccini "Euridice" Scherzi Musicali ricercar(DEXIA) RIC269
(録音2007年)

013-ヴィクトリア「皇太后マリアを悼むレクイエム」 モンセラート修道院聖歌隊他 deutsche harmonia mundi BVCD-38011
(録音1977年)

014-カヴァリエリ"Pappresentatione di Anima , et di Corpo" L'ARPEGGIATA Alpha 065
(録音2004年)

015-モンテヴェルディ「オルフェオ」サヴァール指揮のもの。DVD。BBC OPUS ARTE OA 0843 D
(これでいちばん強く印象づけられました。今なら他にもいいものが出ているかもしれません。収録2002年)

016-モンテヴェルディ「ウリッセの帰還」アーノンクール盤、DVD。 ARTHAUS 100 353
(ヒロインを演じているカサローヴァにロッシーニ作品で魅かれていたので見ちゃったシロモノ。収録2002年?NHK)

017-モンテヴェルディ「ポッペアの戴冠」コンチェルトケルン 、DVD。ARTHAUS 100 109
(収録1993年)

018-モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」ガーディナーほか、DVD。ARCHIV 073 035-9
(収録1983年?)

019-"ROMA" Alte Musik Koeln myrios classics MYR 002
(ボンポルティ、ストラデッラ、カルダーラらの作品を収録。録音2009年。ストラデッラの1枚ものの作品集も見つけましたが、あんまり気に入りませんでした。)

020-リュリ「カドモスとヘルミオーネ」POEME HARMONIQUE、DVD。Alpha 701
(制作2008年。バロック東寺の部隊を見事に再現した逸品です。)

・・・カヴァッリやヴィヴァルディのバロックオペラもCDを探しだしましたが、まだ「これ」と言えるものに出会っておりません。カリッシミの「イェフタ」のCDも入手して何度も聴いて気に入っていたのですが、現在行方不明です・・・(^^;
シャルパンティエ作品は、買ったもののちゃんと聴いていない、というところです。
ルクレールやビーバーのヴァイオリン曲も好きですが、これは気に入った、とまで言える録音を持っていません。・・・でもって、やたらとモンテヴェルディばっかりです。実はモンテヴェルディにはもうちょっとお気に入り盤がありますが、省きます。片付けちゃってるし。
コレルリも、残念ながら気に入ったというほどのものを見つけていません。
ガブリエリ、シュッツ、ブクステフーデ、パーセルなんかについても熱心な聴き手ではないので、「持っているだけ」状態です。でも、みんな素敵な作品ばかりなのですヨ・・・

021-ジェミニアーニ:合奏協奏曲集 ラ・プティット・バンド deutsche harmonia mundi BVCD-5009
(ニ短調の「ラ・フォリア」を使った作品が最も有名です。作曲者はイギリスに渡ってヴァイオリン奏法の本を著した人としても有名です。録音1984年)

022-ヴィバルディ「四季」他 FREIBURGR BAROCKORCHESTER deutsche harmonia mundi 88597 281822/46
(「春」の2楽章のヴィオラがきちんと犬の鳴き声に聞こえたのはこの演奏だけでした。1997年録音。)

023-ヴィヴァルディ「調和の霊感」 マリナー/アカデミー  ロンドンレーベルのLP。今は手元にありません。学生時代にお手本用に聴いたもので、最近の専門家の演奏による奏法にはなっていませんが、耳に染み付いてしまって、他がなかなか聴けません。

J.Sバッハ作品は、じつは「これが絶対お気に入り!」というものに巡り会っていません。出ている録音の演奏様式がさまざまで、いいものはどれの中にもそれなりの正解を持っていますが、やはりたくさん演奏される作曲家の中で、楽器や奏法の転換期に位置した人物でもあり、それを先にイメージすると、どれを「好き」と断言してよいかが決められなくなります。4つ上げるに留めることにします。

024-バッハ・ヴァイオリン協奏曲集 オイストラフ親子他 Deutsche Grammophon 現在手元に無し
今聴くと「仰々しい」かも知れませんが、私にとっては、「えっ! ヴァイオリンって、こんなに締まった音がするんだ!」とショックを与えられた最初のⅠ枚でした。ただし、左手のポジションは明らかにバッハの時代には使用されていなかったえであろう高位置まで使用しています。ロマンチックに音の色合いを変える、という意味では、「バッハを」ではなく、「オイストラフを」聴くための演奏であり、その目的で聴くのであれば、最良の録音です。

025-バッハ「マタイ受難曲」アーノンクール旧録音の方 現在手元に無し
CD化されたかどうか知りません。旧録音の方が、言葉の訴える力をよく聞かせてくれた気がしますが、それだけ新鮮な思いで手にとったからかもしれません。器楽が声を飛び越えていかない「マタイ」演奏の録音は少ないだけに、貴重な出会いをさせてもらったものでした。

026-J.S.Bach Das Orgelwerk 1 & 2 (10CD & 10CD) Wolfgang Stockmeier membran
(グレゴリオ聖歌と同じ「ブランド」の、やっぱり正体不明なCDですが、これ2セットでバッハのオルガン作品は格安で殆ど全て聴けてしまうというビックリもの。演奏も悪くないです。有名どころの高いものを買うくらいなら、とのことで手中にしましたが、繰り返し聴いています。・・・でも、どれがどの作品かは、いっこうに覚えません。涙。)

027-バッハ「フーガの技法」 大井浩明(クラヴィコード)キングインターナショナル EZCD-10004
(2008年録音。この作品、いろいろな楽器や変声での演奏に胡散臭さを感じていたのですが、日本人演奏家として最も胡散臭い大井浩明さんが、最も胡散臭くない「フーガの技法」を出しました。これを聴いてからは、今まで聴いて来た大仰で深刻な過去の録音類は聴けなくなりました。かといってこの演奏が軽いのではないのです。素直なんですよ。)

028-ヘンデル「メサイア」ドイツ語版 カール・リヒター/ミュンヘン・バッハO ARHIV POCA-2058/9
(1964年録音。こればっかりは、何度、他の新旧時代の演奏の録音を聴いても、この盤ほどに愛着がわきません。バロックの演奏法、ということで言えば、これが私の10代後半の奏法でしたし、声楽のきれいさも抜きん出ています。正規の英語版ではないとは言え、いたずらにドイツ的な演奏であるとも感じられません。このオラトリオの全体像もよくつかまれています。・・・私事ですが、家内の通夜のあいだには、このCDを流してもらいました。ヘンデルのオラトリオは「エジプトのイスラエル人」も大好きです。名曲と言われる「サウル」は、残念ながら私は未聴です。)

029-ヘンデル 歌劇「セルセ」ドレスデン音楽祭2000のもの DVD TDK TDBA-0087
(有名な「オン・ブラ・マイ・フ」で始まる歌劇ですが、全体も愉快な作品です。バロックや古典オペラの現代風な衣装や装置での演出は個人的には好きではないのですが、そうしたなかでは、「でもこれなら面白いじゃないか」と思わせてくれた数少ない一つです。ヘンデルのオペラはDVDで入手し易くなって来ており、喜ばしいことだと思っております(私自身が他に見たものには「アグリッピーナ」・「タメルラーノ」がありますが、いずれもモダン演出ながら楽しさ溢れるものでした。また、最近ようやく、彼のアンセムなどもCDで入手し易くなって来ています。)

030-ヘンデル:合奏協奏曲作品6 カール・リヒター/ミュンヘン・バッハO ARHIV POCA-3200/2
(ヘンデルの音響だけは、どうも、「バロック」ではないような気がして・・・ソナタの類いは別なのですが・・・、どうしても20世紀中葉の演奏方法で創り出される響きのほうに魅かれてしまいます。やっぱり、自分が育てられた音響環境からの脱出は、なかなかに困難であることを痛感させられます。ヴィバルディやバッハではさほどでもないのですが・・・なぜなのでしょうね。)

031-ゲイ&ペイブッシュ「乞食オペラ」 イングリッシュバロックソロイスツ DVD ARTHAUS 102 001
(BBC 1986収録、ガーディナー監修。ロック歌手が主役を歌っているのがミソです。ヘンデル当時のイギリス音楽史を体感するには見ておきたい、楽しい1枚です。こういうものは、視覚も動員しないと面白みが分からないですよね。)

032-"DON QUISCHOTTE IN HAMBURG" ELBIPOLIS BAROCKORCHESTER HAMBURG RAUM KLANG RK 2502
(2005年録音。テレマン、マッテゾン、コンティの作品を収録。ドン=キホーテにまつわる音楽集で、作品は出色のものばかりです。)

リュートで「これは!」という1枚もあるし、バッハ一族の作品を集めた録音集などにもいいものがありますが、片付け過ぎて見当たらず。クリスチャン・バッハのオペラ、シンフォニア、ソナタなんか、大好きだったんですけれど・・・どこやっちゃったんだろう? (T_T)
テレマンももう少しご紹介したいところですが、聴きこんだというほどのものがないので諦めます。
ラモー、グルックについても同様です。とくにラモーは良い作品があるので残念ですけれど。

033-ハイドン:交響曲全集 ドラティ/フィルハーモニア・フンガリカ DECCA
(いまでは軽装パッケージで入手可能です。品番を確認するには引っ張りだすのがおっくう。(^^;
ホグウッドの演奏が出来るだけ入手出来れば、それがいちばん面白いのですが、ドラティ盤は、ハイドンの交響曲が全てこんなにも素晴らしい、ということを活き活きと知らせてくれた記念碑的な録音として、今でも色あせない魅力を持っています。)

034-ハイドン:弦楽四重奏曲全集 絵檻案弦楽四重奏団 DECCA UCCD-9349/70
(録音1972年-1976年。)

モーツァルトと共に、管楽アンサンブルにもすぐれた作品をたくさん残しています。そちらも注目です。
声楽作品でも落とせないものが多々あるのですが、じっくり聴いていません。


035-モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」・36番「リンツ」・38番「プラハ」 スウィトナー/シュターツカペレ・ドレスデン PHILIPSのスウィトナーのボックスセットに収録。
(録音1970年。EMIから単独盤で出ていましたが、今はそのかたちでは入手出来なさそうなのが残念です。)

036-モーツァルト:交響曲第40番、第25番 ワルター/ウィーンフィル(ライヴ) 行方不明!
(ワルターが第2次大戦後ウィーンに一時帰ったときの熱狂的なライヴ録音です。モーツァルトを、というより、ワルターと再会したウィーンの人々の熱狂を聴く、という感じ。)

037-モーツァルト:歌劇「ポントの王ミトリダーテ」 アーノンクール/コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン (DVD) Deutsche Grammophon 00440 073 4127
(1985年制作。モーツァルト初期の歌劇で、元のスコアには冗長なところがあるのですが、そうした部分を切り詰めて見応えのある映像作品に仕上げたという点で、監督に当たったポネルの手腕がいかんなく発揮された名映像です。)

038-モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」 フルトヴェングラー/ウィーンフィル(DVD) Deutsche Grammophon 073 019-9
(1954年制作。ロマン派の伝統を受け継いだモーツァルト演出はどのようなものだったかを知る上で貴重な資料でもあります。)

039-モーツァルト:弦楽四重奏曲集「ハイドンセット」 ベルリン弦楽四重奏団(第1ヴァイオリン:カール・ズスケ) DENON COCO-7740-42
(録音1971年。録音当時、最も規範的なモーツァルトの室内楽演奏だったものです。現在は別レーベルで輸入盤でしか入手出来ないかもしれません。モーツァルトを聴く、という意味でも、残念ながら、これ以後、この演奏を凌駕する弦楽四重奏曲の録音の存在を、私は知りません。)

040-モーツァルト:ヴァイオリンソナタ集作品2(全曲) シュレーダー(Vn.)/インマゼール(
Hammmerklavier) deutsche harmonia mundi BVCD 35082-3
(モーツァルト当時の状態に調整したヴァイオリンによるソナタ演奏では出色のものです。作品1のほうはヒロ・クロサキの名演がありますが、こちらは廃盤なのか、入手し損ねております。)

041-モーツァルト:ピアノソナタ全集 ピリス(1974年録音) DENON COCQ 84115-9
(たくさんのピアニストが全集を出していますが、まだういういしいピリスの音が個人的には好きです。)

042-サリエーリ:歌劇「タラール」 DEUTSCHE HAENDEL SOLISTEN(DVD) ARTHAUS 100 557
(サリエーリの歌劇映像では他に「ファルスタッフ」が入手できますが、この「タラール」は、彼がなぜモーツァルトを凌ぐオペラ作曲家と位置づけられていたかを雄弁に物語る作品です。)

043-サリエーリ:二つのピアノ協奏曲、「スペインのフォリア」による変奏曲 他 スパダ(PF. and Cond.)/フィルハーモニア管 ASV CD DCA 955
(器楽作品は数が少ないサリエーリですが、ピアノ協奏曲はモーツァルトにも影響を与えた重要作です。「フォリアによる変奏曲」は数種の録音を見かけましたが、演奏の出来不出来が極端に洗われてしまう曲で、この盤のものが、最も安定して聴けると思っております。)

その他、モーツァルトからベートーヴェン当時にかけての同時代作曲家の作品もCDで入手し易くなりましたが、いまのところピント来るものに出会っておりません。ディッタースドルフなどはもっと注目されていい演奏も出てしかるべきでしょうし【ナクソス盤にシンフォニア集があり、ききました】、ハイドンと親しかった「アマチュア」プレイエルも多くの秀作を残していますから、ちょっと残念です。シュターミッツ【息子】やカンナビヒは聴き劣りがする気がしたのですが、演奏起因なのか作品起因なのかは判断出来ずにおります。歌劇で名を成したパイジェッロのピアノ協奏曲【ナクソス盤あり】なども面白いですけれど。クレメンティのシンフォニアも、本来は落とせない良い作品が揃っています。)

044-メユール:交響曲第1番・第2番・・・またもや行方不明! ナクソス。
(ベートーヴェンにも強い影響を与えた、革命期前後のフランスの夭逝した作曲家です。)

045-ベートーヴェン:交響曲第1番・第2番(全集から)ヴァント/北ドイツ放送響 RCA BVCC 38152
(最初のこの2交響曲をこれほど「きちんと」音楽的に仕上げた演奏には、初めて出会いました。1986年、1988年録音)

046-ベートーヴェン:交響曲第3番「エロイカ」 ケンペ/ベルリンフィル EMI TOCE-55437
(エロイカの管弦楽法の鮮やかさのみならず、和声の美しさを存分に引き出した演奏です。ルドルフ・ケンペや、今回登場しませんがフィレンツ・フリッチャイのような良心的な指揮者が早く亡くなったのは未だに残念なことに思われてなりません。)

047-ベートーヴェン:交響曲第4番・第7番・第8番(全集から) クリュイタンス/ベルリンフィル EMI 現在輸入盤のみ入手可能だったと思います。
(とくに第4番の美しさは比類がありません。驚嘆しました。なお、この全集はベルリンフィルが初めて自主企画したベートーヴェンの交響曲全集であり、指揮者にクリュイタンスを選んだのもベルリンフィルのメンバーたちでした。)

第5、第6は、これと決められる録音とは出会っておりません。

048-ベートーヴェン:交響曲第9番 クレンペラー/ニューフィルハーモニア管(DVD) EMI 5999349
(じつは、ベーレンライター版による校訂をあまり信用していないので、ベーレンライター版準拠のものはそれだけでアウト、にしています。が、CDではインマゼール盤などは好きです。アーノンクールの新録音は、「この人がなぜ?」と耳を疑ったのですけれど、歌唱法にベートーヴェン当時の習慣を考慮していませんでした。ありゃー。)

049-ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 フランチェスカッティ(Vn.)/ワルター/コロンビア響 SONY SBK 47659
(この盤はオイストラフとオーマンディ/フィラデルフィアによるシベリウスの協奏曲を同時収録していました。いまはどんなかたちで出回っているか知りません。フランチェスカッティにすれば技術上は容易な部類であったはずのベートーヴェンの協奏曲が実に丁寧に弾かれており、感銘を受けて以来、この協奏曲の規範として聴き続けています。)

050-ベートーヴェン:弦楽四重奏曲全集 スメタナ弦楽四重奏団 DENON
(なんで市中で見かけなくなってしまったのか・・・いちばん好きなアンサンブルが聴けましたのに!)

前半は以上ですー。後半・・・出来るかなあ。。。


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