a. 台本の洗練は1771年桜田治助の関与が認められます。ヴァリエーションとしては、1764年市村座での長唄での上演、1785年の女助六、1787年のキャストに三庄大夫を加えた仕立て、1793年の改作といったものが認められますが、1749年以後30回を数える上演の中では希少だと言っていいように思います。
b. 年表で表面には出てきませんが、明治の上演まで続いた「助六」上演の際の様々なしきたりは二代目團十郎以来であり(*19 43頁)、他家が上演するには團十郎家に挨拶に出向く習慣も、歌舞伎十八番をぶち上げた七代目團十郎の頃を遡るのは、七代目の同時代に三代目尾上菊五郎が團十郎家に挨拶無しで上演して七代目を怒らせたことからも明白です。
c. 1779年に、吉原の贔屓筋に配慮して喜世川から当時実在の遊女に名前を変更→(6)【揚巻・白玉】
d. 太夫は1642年には75人いたそうですから享保期に4人とは既に激減です。(*1 59頁)
e. 明治政府は、歌舞伎を国民教育の具にしようと、従来の虚構化した世界ではなく、事実に沿った演劇を創作上演するように求めました(*21 120頁)。このことは、演劇改良運動を待つまでもなく、七代目の考証癖を精神的に引き継ぎ拡大しようとしていた九代目團十郎の意志にはそぐうものであったようです。幼くして養子に出された九代目團十郎は、当時は実父と知らなかった七代目が、天保改革時の倹約の精神に逆らって本物の鎧を着て舞台に出、即座に捕縛されて江戸から追放された事件を印象深く記憶していたそうです。 「演劇(しばゐ)を改良して見やうと思立たのは私が十三のころでしたが(中略)当時(いま)の演劇で仕て居るのは皆嘘だと、恁う考へはしたものの、此時代では迚も行なはれ無い、私の親父(=七代目)が真物(ほんもの)の鎧を着て舞台へ出てさへ、幕府の御咎を蒙ツて江戸構へと成たくらひだから、実地に行れやう筈がありません。」(*21 248頁) こう考え続けていた九代目にとって、明治政府の考え方は我が意を得たりだったのでしょう、考証に優れた学者さんをブレインにつけて、本物にこだわった衣装と演技を続けました。が、これが観客にはさっぱりウケませんでした。
f. 「演劇は時勢と共に移り行かんこと尤も必要なり、われらがいふまでもなきことなれど適者生存の今日に演劇ばかり後れてよき訳はなけれど、古昔よりある狂言は甚しく猥褻なる処とか、不倫理なる処とかの外には手を入れぬが好しと思い初めたり、一体旧来の芝居は不自然なるが如き間に一種の趣味あるものゆゑ、徒に理屈のみにて矯正する時は却て全体の趣向を全滅する恐あればなり」(明治27年以降の伝統的作品復演をめぐってと思われる九代目團十郎の述懐、*21 285頁、明治36年刊『團州百話』からの引用)
a. 室町時代末期から江戸初期にかけての普化僧の流行という背景もあったとは思いますけれど、戦国時代と呼ばれた時代のごく初期にあたる時期に書かれた『宗長日記』には尺八(当時は一節切)の話題がわりとよく出てきたかと思います。書き手である有名な連歌師の宗長自身が尺八の大の愛好家だったそうです。
b. 「歌舞伎座さよなら公演」での十八代目勘三郎さんの通人は、さよなら公演でギャグの点ではかなり徳をしているし、大好きなのですけれど、DVDで出ている平成15年の「助六」で故・松助さんの使った小ネタがずいぶん採り入れられているのではないかなと思います。松助さんも素晴らしい役者さんでしたが、実演をあまり見ることが出来ませんでした。
a. 袖の梅のこと、*9、81頁の頭注11・・・「吉原大全」に「袖の梅は正徳年中(1711年4月25日〜1716年6月21日)、天溪といえる隠者ありて、伏見町に住けるが、酒客の為にこの薬を製してひろめける」。
b. 「福山のかつぎ」〜*9、390頁。「助六」の補注七・・・七代目団十郎初演のときから、福山となった。福山は堺町の蕎麦屋で、芝居へ蕎麦の出入りを勤めていた店、芝居が猿若町へ移転したとき、同所へ引越し、一丁目新道の角に居たが、嘉永の初年に絶えた。福山の前は、二代目の三度目の寛延二年以来、市川屋で、市川屋は、堺町にあった名代の饂飩屋市川屋弥助のことである。「担ぎ(かつぎ)」は出前の男のことで、挟み箱ようのものに入れて配達したのをいう。なお、福山の蕎麦屋になっても、それ以前の市川屋のうどんを残し、芝居にうどんを出すことになっている。
c. 揚巻登場前の、現在大幅に省略されている台本部分には、いまみられる芝居では途中から現れる助六母満江、くわんぺら門兵衛、朝顔仙兵衛、遊女白玉(揚巻の妹分)、白酒屋新兵衛(実は助六の兄)が登場します。この部分が上演されると、「助六」の芝居は、他の世話物と似た感じの筋立てに見えて来るのではないかと思われますが、いまも2時間かかって演じられるところが、3時間かかることになります。
d. 「外郎売」はもともと独立狂言としてなされることがあまりなく、後の十一代目團十郎が、昭和15年に七代目市川海老蔵の襲名披露公演をした時に、大正四年とはまた違う演出で「助六」の中に組み込んだそうです(*9 395頁 「助六」補注4)。白酒売りの言い立てと同じ形式なので、それと取り替えられることがある由。
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