伝統音楽・芸能

2015年3月 2日 (月)

「能の学校」授業ノート〜2時限目「能の運動力学/型のinterpretation(解釈)」

山中迓晶(がしょう)先生、「能の学校」2時限目は
「能の運動力学/型のinterpretation(解釈)」
〜モノノフの振る舞い、スリアシの呪縛
というテーマでした。

で、実際になんかやるらしくって、白足袋持参とのことでした。
う〜ん、運動音痴だし、なによりおいら足袋ってもんを履いたことがないし!
とりあえずあわてて白足袋を売ってるお店を見つけて買い帰って、1週間、酔って帰っても用事で遅くなっても、足袋を履く練習。
これだけでもう充分収穫があったような気がしましたが気のせいでした。

先生の仕舞を手本に実際に舞ってみる、という、運動音痴な身には、げに恐ろしき授業内容。

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この授業後半の仕舞実習は「ダンサー組」・「ど素人組」←あたしココ・「能経験者組」にグループ分けして教えて下さったのでした。いやはや扇の持ちかたも開きかたも分からんし、上げる手は先生と逆になってばっかりだし、重心の取り方が分からなかったので体はフラつくし、で、さんざんでしたけれど、なんだかやっててとっても楽しかったのでした。「ど素人組」のほかに「ガキも同然組」を設けていただければ、そこに入れていただきたかったです。
授業終了後に希望者は能舞台に連れて行って頂いて、ハコビをさらに教えていただいたのでした。フラつかないバランスの考え方みたいなものは、そのときなんとかちょっとだけ分かって、本当に嬉しかったです。

以下、ノート。今回はメモをとったのですが、ペン先に気が行くとお話がきけていなかったりするのを思い知りました。しかも、どこが最初でどこが最後だか分からないぐちゃぐちゃなメモになりました。1時限のもの以上に誤りが多いかも知れません。誤りがあったらそこはすべて、あたくしという生徒の出来の悪さに起因します。どうぞお許し下さい。
(よく分かるレポートをお書きになったかたのものを参照して補いました。体の使い方が分かっていないと、大切なところを落としてしまうんだな、と痛感しました。)

・能は歌舞劇である。狂言と双子の兄弟で、次のような性格の違いがある。
 〜能はシリアスにつきつめている。狂言は大きな立場から見ている。
 〜能はウタ8割セリフ2割。狂言は逆(セリフ8割ウタ2割)
 〜能の主人公は「アドレス知らない」系。異界や貴人の所属
 〜狂言の登場人物は「アドレス知ってる」系。社長〜部長(太郎冠者)〜係長(次郎冠者)

・能は武家との強いつながりの中ではぐくまれてきた(お話は「羽衣」と「老松」で前後あり)
 〜足利義満は貴族と違う式楽を持ちたかったのではないだろうか?
  雅楽・舞楽=貴族 義満時代、武家は能楽(申楽の能)に。
 〜能楽は田楽・幸若等の芸能もパクり、いつのまにか「あ、これ能だから」と囲い込んだ。
  乃木坂46の歌をAKB48が勝手に「これ私たちの歌です!」と歌っちゃったようなもの。
 〜武家的動作が能の中に様々に生きている。
  ヒラくときも体重が後ろに逃げてしまわないようにやや前屈
  右の膝を付く姿勢=相手に敵意がないことを示す(帯刀していても刀が抜けなくなる)
  ・・・(室町将軍4代目の義教が能を見ているときに暗殺された)嘉吉の変に由来するのかも
  ・・・歌舞伎はあえて逆をやる。〜女形のしなのような魅力が生まれたりした(余談)。
【追記〜他のかたのレポートから】
・キヲツケは軍隊から生まれたどこにも行けない姿勢、一方能の基本姿勢はどこにでも動ける姿勢です
・UFOキャッチャーのアームが降りていくように座り、ぬいぐるみの形が変わらず、落ちないように立ち上がります

・「羽衣」キリの実演~説明をしないで一度。そのあと説明して下さってもう一度
 東遊(古謡)の起源潭みたいなお話。
 *「東遊の数々に 東遊の数々に」で立って
 *「その名も月の色人は」〜ヒラキ
  「三五夜中の空に又」〜右前に進んで、「月の扇」
   天女は白衣15人黒衣15人がいて15人が輪番で勤務して月の満ち欠けを司るのだそう。
   3×5=15
  ~右の上を見て顔の左下から顔を照らすようなポーズはレフ版みたいな役割。月の光を映す
 *「満月真如の影となり」〜左に向きを変えて一周
 *「御願圓満」〜正面に向いて、サシてから、「国土成就」ヒラキ
 *「七宝充満の宝を降らし」〜扇で、降る、積る、・・・
 *「国土にこれを施し給う」〜差し出して皆に施す(ほどこし扇)
  〜ここの山中先生はかがんで扇を前に平に出して、目線が本当に「施す」感じだった。
 *「さる程に時移って」
 *「天の羽衣浦風にたなびきたなびく」羽根扇~離陸、鳥が飛び立つように
 *「三保の松原浮島が雲の」
  〜(扇ヲ折返シツツ角ヘ向開〜直ニ扇ヲ右ニ持直シ乍ラ角ヘ行左ヘ回リ)
 *「愛鷹山や富士の高嶺かすかになりて」~かざした扇は空の上から富士を見ているポーズ
 *後ろに下がって「霞にまぎれ」る。

・「老松」でワークショップ・・・子供用のテキストで
 めでたい演目。「あしたはあおい猩猩」で覚える
 嵐山・し?・高砂・は?・淡路・老松・い?・猩猩・・・メモ読めへん! (>_<)
 ・・・「は?」は白楽天ですね。 
 扇は魔法の道具。
 昔は空気なんて分からないから扇であおぐと風(=何か)がくる、は、魔法に感じられたのだろう
 だから扇はふらふらさせない。魔法が散らかってしまう!
 *「よわいをさずくるこのきみの」
  〜右ひざをついて立て膝~扇ひろげ~立ち上がってカマエ 
  ・・・扇を広げるにも序破急がある
Oimatsufirst
 *「ゆくすえまもれと」
  〜肘の裏を天に向けるように両手を返す
  〜「サシ」とは文字通り「差す」ので、前でまっすぐ腕をそろえる
 *「わがしんたくの」
  〜右足から進む・・・角まで進んで、左足をそろえてとまる
 *「つげを」で扇を上げる
 *「しらするまつかぜもんめも」
  〜左~右~正面で元の位置(大小前)に戻る
 *「ひさしきはるこそめでたけれ」〜右ひざをついて立て膝、扇をたたむ。
 *扇を両手で持って立ち上がる
 ・・・あってるのかなぁ。。。

・能は「すり足」ではない。「ハコビ」という。
 相撲の足の運びが「すり足」。つま先が上がらない。
 能は体重がぶれないよう体幹を芯のように保つ結果足が板につくように運ばれていく。
 歩きかたが身に付く=「板につく」
 〜授業終了後、時間の取れる人は能舞台の見学に残り、
  そこで「ハコビ」をさらに教えていただいた。
  前から何かに引っ張られて進むのであって、「自分で歩く」のではない。
  同時に後ろからも引っ張る力が働いている。あらゆる方向から力がかかってきている
 〜幕の五色は五行。
 〜鏡の間から橋懸かりに出るときは、橋懸かりの中央は決して歩かない(「翁」のみ例外)。
 〜橋懸かりから鏡の間に戻るときは、橋懸かりの中央を歩く。(不思議!)

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次回は3月22日。「和の発声道場」かな?

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なお、私なんぞは授業をさぼってテストだけ受ける生徒にまわして小遣い稼ぎをしなければならないのでこんな分からんノートをつけていますが、劣等生の私のつまらんレポートより下記がおすすめです。

「能の学校」優秀生徒さんの素敵なレポートへのリンク
 
「650年前の想像力」
 http://ameblo.jp/daney/entry-11996190146.html
「キラキラ扇は魔法の道具」
 http://ameblo.jp/daney/entry-11996319727.html?timestamp=1425254517

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2015年2月 8日 (日)

「能の学校」授業ノート〜1時限目「能面の取扱い説明書」

山中迓晶(がしょう、ガ=シンニュウ+牙)先生の「能の学校」第1時限めに出席しました。
先生お手持ちの能面を授業の題材になさって、能の面白さの入口を面白く教えて下さって、とても楽しく授業を受けてまいりました。
へえ、こんなに面白いものなのだ、と、さまざま発見も感心もし、有意義な2時間を過ごさせていただき、たいへん感謝しております!
なるべく皆勤したいと思っています。楽隊の皆様、どうぞ、大目に見てやって下さい!
きっとお役に立つことを勉強してまいります!

悪い生徒で筆記用具を持参しなかったので、思い出し思い出しノートを付けます。
・・・間違ってるところもあるかもしれません。1507737_1577131209167940_3232374954

・面=めん、ではなく、おもて。「つける」と言う。人の顔と同じ。その「人」を身につける。
・(あとからのお話だったけれど)面を上向きにすれば(てらせば)笑い、下向きにすれば(くもらせれば)泣く、と言われますけれど、上を向ければ上を向くだけ、下を向ければ下を向くだけ、というのが本当のところでしょう。面の表情はあくまで鍛錬を積んだ能楽師がどう演技するかで生まれるのです、とのこと。観世寿夫師の文章を教材で配って下さいましたが、そんな趣旨のことがきりっと綴られているのでした。
「・・・能面は無表情ではないのだ。手に取ってみればいかに無表情でも、名手によって舞台にかけられたとき、その豊かな表情に驚かされる筈である。だがその豊かな表情に関して私はこう思う。面自体がたくさんの表情を持っているわけではない。・・・面の角度と光りとの関係も勿論作用するであろうが、それだけでなく、舞台上の行為のすべてが一つに溶け合って喜びなり哀しみなりを表出するのではないかと。」

・女面=小面・小姫・孫次郎・増女
 小面は髪がすっきり三本かかる。キューティクルがしっかりあるから。丸顔だがメタボにあらず(浅田真央ちゃんだって丸顔だが太っている訳ではない)。口元が上に上がって微笑んでいる。
 増女になると口元は下がる〜歳でたるんだのではなく、年齢を少し重ねて理知的な美人になってくるのである。髪もからまってくる。
 孫次郎には金剛孫次郎が亡くなった細君の面影を映したとの伝説がある。三井記念館にある本面の裏にはカタカナで「オモカゲ」と書かれている。先の展示では裏面は見られなかったのだが

・「班女」から中ノ舞の実演。多数決で増女をつけて。使った中啓は表裏同じ絵〜次の謡にかかわらず人の心はほんとうは表裏なし、ということにしましょう!
 恋に恋してしまって、目の前に恋人がいるのに気づかないで舞う。
 恋人と交換した扇が恋の対象になってしまっている。
 〜形見の扇より なほ表裏あるものは 人心なりけるぞや
 〜あふぎ(扇・逢う儀)とは虚言や

1375981_918351838197629_439834106_3 ・男面=童子・喝食(若男とかもありましたけどとくに用いず)
 童子も神がかった感じのもの(がある)。喝食は禅寺の給仕の侍童
 翁(父の尉、白色尉があった)は切り顎の特殊な面。神様をあらわすのだがなんの神様か正体不明。宮崎駿『千と千尋』の中で川の神が綺麗さっぱりしたときに竜身の翁になって飛び去るのは翁の適切な登場の仕方であってなかなか深い!
 小鍛冶の後段で使う小飛出や猩猩の面は赤い〜六道(天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄)のうちの畜生をあらわす色が赤だから。ちなみに地獄の色は黒。
 修羅〜酒を水で割って売っても修羅道に落ちると言うから、いまごろは銀座のママがたくさん修羅道に落ちているはずで・・・なんか、修羅も案外いいんじゃないか? なんだそうです。いいかも知れない。

・「小鍛冶」からの実演。多数決で童子をつけて。
 草薙の剣の物語を語るうち興奮して狐=稲荷明神の正体をあらわしそうになり、また冷静に戻る面白い演技

・面をつけてみるワークショップ
 面はひもを通す穴のところのみ持つ。
 面がいい位置になるように頬と額にアテを付けますが、簡便のため額のみで。先生がやって下さいました。
 アテがうまく行っていないと面が不適切に上向きだったりしました。それを下向きにするときに先生が「もう少しくもらせなければ」とおっしゃいました。
 耳のない面は外側から面紐を通す。耳のある面は(面を破損から守るため)内側から面紐を通す。
 面は一礼して(敬意をこめて)からつける。
 ・・・面紐はかなりぎゅっと縛るのでした。ちょっと驚きと感激。
 ・・・顔が大幅にはみ出るのもいとわず女面(孫次郎)をつけさせていただいたのですが、目の穴のところからはほとんど何も見えません。視界95%カットだと事前のご説明でしたが、その通りで、足元が分かりません。写真を撮っていただくときに面の内側で無意味ににっこりしてしまいました。
 ・・・弱法師は目の見えないキャラのはずなのに、切れ長の目の穴からは女面よりはよく見えるんだそうです。
 ・・・怪異な面(獅子口というのでしょうか)だとよく見えるらしいです。でもこの面はありうべからざるものになってしまうキャラらしいです。

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・般若〜偶然の縁で見立てを頼まれた面が般若坊作のオリジナルを大変忠実に写した優れもので、それをお買い取りになった由。桃山期のもの? 毛書きはまず細く彫ったところにしているので繊細さを失わないものになった。大名家にあるオリジナルなど滅多に借り出せるものではないので、修理かなにかを依頼されたときに写して、これを次のモデルにして、後日流布した般若の面を作っていったのかもしれない、という夢のあるお話をあとで質問者の方になさっていました。
 般若はインパクトの強い面なのでずいぶん知られているけれど、使われるのは「葵上」・「安達原」・「道成寺」の三つだけ、なのだそう。これもビックリですよね!

・「葵上」の「祈リ」の実演。かの般若の面は三年前のワークショップで実演に用いたとき、突然まわりが広く見えるようになってスゴいとお思いになっていたら、あとで外そうと思っても吸い付いてとれなくなった由。そのときは被り物と併せて無理矢理脱ぎはがすようにしてやっととれたとのこと。不思議ですが真実なのでしょう。

・山姥(やまんば)〜お持ちだったより古い方のものではなく、「銀座のビルを解体したら偶然出てきた」というこれも古い(やはり桃山期? 江戸初期?)の面を用いて世阿弥作の「山姥」から実演。
「山姥」は世阿弥がキャラクターを大きく作りすぎて悩んでしまい、一休さんに相談に行って、悩んでいるその姿もまたいいんではないかい、みたいなアドヴァイスで拓けて仕上げた作品だというお話(事後『新潮日本古典集成』の解説を見ましたがこのエピソードは載っていませんでした、でもなかなか興味深い話だと思います)。
山姥は「となりのトトロ」のトトロみたいなキャラクター。季節の移り変わる空を自在に行き来する。が、それは苦しみなのだと云う。(ここで先の修羅の話。)六道輪廻から逃れられない我が身を嘆く。

・「山姥」から立回りの実演。銀地に雲の扇。
 〜春は梢に咲くかと待ちし花を尋ねて山廻り
 〜秋はさやけき影を尋ねて月見る方にと山廻り
 〜冬は冴え行く時雨の雲の雪を誘ひて山廻り
 〜廻りめぐりて輪廻を離れぬ妄執の雲のちり積もって
 〜山姥となれる鬼女がありさま 見るや見るやと峰に翔り
 〜谷に響きて今までここにあるよと見えしが
 〜山また山に山廻り 山また山に山廻りして
 〜行方も知れずなりにけり

復習がこれまた楽しゅうございました。

これからの日程を自分の備忘のために記しておきます。
・3月1日(日曜日)15時より/会場未定~「能の運動力学/型のinterpretation(解釈)」~武士の振る舞い、摺り足の呪縛
・3月22日(日曜日)15時より/会場未定~「和の発声道場」~能のあの声、出しましょうね
・3月28日(土曜日)(自分だけの謡本をつくる由)
・5時限目「大人遠足」詳細未定 6時限目~4月19日(日)先生の「鉄輪」を鑑賞!

Aoinoue

http://umewakanoh.exblog.jp/i12/

山中 迓晶(ヤマナカ ガショウ)
昭和45年1月14日生れ。父山中義滋、現梅若六郎に師事。
山中義滋(重要無形文化財総合指定)長男。
昭和47年、2歳で初舞台「老松」。幼少より子方として舞台に立ち現在に至る。
平成5年より2年間、京都造形大学の非常勤講師を務め、同大学に初めて能学部をつくり、生徒と共に学園内での公演などを行う。平成7年、梅若 六郎家に入門し4年間の修行期間を経、平成11年春、卒業する。
現在、能の公演以外にも、「能へのいざない」と題して、誰にでも解りやすく能を紹介するレクチャーを数多く催している。
また、幼稚園・小中高・大学や専門学校での講座も積極的に行っている。
緑蘭会(りょくらんかい)主宰。

重要無形文化総合指定保持者。

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2014年6月24日 (火)

歌丸さんの『真景塁ヶ淵』聴いて来ました(2014年6月23日)

五十過ぎにして落語をホールでちゃんと聴くことを初体験しました。

寄席にもずっと縁がなかったし、落語初心者で、あこがれの演者であこがれの噺でもあり、わくわく出掛け、終わってみれば大満足でした。

とにかく初体験ですので、びっくりしたのは、時間前に間に合ったと汗をかきかき入って行ったら、若手のかたがもう噺をやってる。わかりませんが『道具屋』というやつだったのでしょうか? おしまいの方がすこし「耳に入った」だけですが、うまいし、たいへん感心してしまいました。でもお名前も分かりません。プログラムに載っていないんです。
・・・ああでも、こういうのが日本の芸能らしくていいなあ、と嬉しくなりました。
一度だけ見た相撲の地方巡業で、まだほとんど誰も見ていないような所で、若い人たちが真剣に取り組みをしていた、そのことを、遠い記憶の中から思い出しました。

開演となって、まず若手の三遊亭遊里さんが「肥がめ」をいきいきと演じました。
次いでベテラン桂歌助さんが『青菜』をやりました。
うまく言えないんですが、落語の面白さって、ひとりで何役も演じ分けるのを声だけでなく仕草で自在にやることなのですね。噺家さんの動作ひとつでお客さんが笑いに包まれるのが、同じ場所で過ごしていてとても気持ちいい。・・・これを機会に寄席というものにもちょっと通い詰めてみたくなりました。今回の会場は紀伊國屋ホールだったのですが。

41jj2a645yl_sl500_aa300_ さて会場がいったん暗転して緞帳がおり、ふたたびあがるとそこに歌丸さんがいました。
たいへんだったろう療養のことを笑いに変えてしまうのが、笑いを売る人ならではなんですね。ちっとも歌丸さんに同情せずに聴いてしまっている自分が可笑しくなりました。
帯状疱疹がまだつらいようで、
「まだ歩けない。本当なら(袖から高座の)ここまで歩かなくてはならないんですけどね、歩くと35分くらいかかる」
と、緞帳があいたときはもう高座に座っていたのでした。
「(体調が途中で思わしくなくなって)途中までしか行きませんでしたら、お客様がた、今日はあきらめて下さい」
とまたそれで笑いをとって始めたときには、まだ不安げに見えました。
が、枕もそこそこに「聖天山(第六話)」が始まり、佳境に入って行くにつれ、あれは気力がみなぎるというのでしょうか、無理して振り絞るんじゃなくて、ひとりでに湧いて来るんですね。いったん湧くと、あとはその気力が大きい川の滔々と流れる太い緑の水のように、もう押し寄せてくる感じでした。
10分程度の仲入のあと、「お熊の懺悔(第七話)」を始めるべく、ふたたびあいた緞帳の向こうの歌丸さんは、もう最初の歌丸さんとは別人でした。
登場する人々の演じ分けがたいへんに細かい噺ですが、歌丸さんが素晴らしいな、と思ったのは、声色をさほど変えずにすべての登場者を演じ分け切る。茶屋のばあさんや馬子さんなどは地方訛りをつけて、あとはイントネーションの使い分けでくっきり分かれてしまう。主要人物全て、特定の人物にはその人物用のイントネーションと言葉のスピード感の違いがしっかり設定されているようでした。これはベテランの人に変わって行けば行くほどくっきりするのを感じましたから、噺家さんはこういうことの訓練を生涯積み重ねるんだろうな、と・・・聴いているその時ではなくて、終わってウチに帰って余韻を味わいながら、つくづく思ったのでした。

でもなによりも歌丸さんを「凄いなあ」と思ったのは、語り始めるなり朗々と響いた声でした。その声の響きでもって、すぐに客席を包んでしまう。自分のはなす世界に引き入れてしまうんですね。これは若い世代が声を張り上げるのとは違いました。自然と、そのままの大きさで無理なく響くんです。テレビに映る「笑点」では、これは分からないことでした。

そんな感じで、ヘタな感想文ですが、とにかく幸せな経験をさせてもらえました。

面白かったのは、遊里さん、歌助さん、歌丸さんとも・・・これはたいへんなことではあるのですが・・・噺をとちったときに「アァ」と小声の吃音を立ててやりなおすんですね。なぜとちるかと拝聴していると、それは今の登場人物のセリフ様子の話であるうちに、次の登場人物を先取りしてしまうんで、言葉が指示する方向が違ってしまうんですね。「そうしてみたらどうだい」と言うところが次の人物の言うべき「そうしてみようか」になりかけてしまって、慌てて呑み込む。このこと自体は他のどんな世界でもあることで、しかも1、2ヶ所に限ることなので、責めるつもりもないし責められるべきでもありません。このこと自体が気になったわけでは決してありません(ということはくれぐれも強調しときます、下手でなることではないからです)・・・面白かったのは、そのとちって吃音になる、その吃音が、遊里さんも歌助さんも、そしてなんと歌丸さんも、まったく同じだった、そのことでした。
ああ、こういうことも師から弟子にうつって行くのね、と思ったら、ちょっと愉快なのでした。

ともあれこれを機にすっかり歌丸ファンになってしまい、探したら歌丸さんの『真景塁ヶ淵』が録音されているのも知り、中古でしか手に入らないのが悔しいのですが、そのCD5枚組を、ついAMAZONでボチッとしてしまったのでした。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000DZJLR0/

歌丸さんの万全のご回復を、こころから願っております。

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2014年6月18日 (水)

「文七元結」のこと

音楽一般に言えることだが、同じ音響条件で、同じ曲を、仮に二人の音楽家が演奏しても、一方は聴く者に感銘を与えるが、一方は御粗末ということは多々起こりうる。似たことが落語にも言える。
(『落語の種あかし』冒頭 中込重明【1965〜2004】)


こちらと同一記事でスミマセン。すこしなおしました。)

寄席には、からきし縁がありません。
落語を聞くのがきらいなわけでは、決してないのです。
でも寄席がふつうにあるのは東京くらいです。
東京勤務になって数年経ち、若い社員さんたちが成人式を迎えるとき、
「お祝いに、連中を東京らしいところに連れて行きたいなぁ」
という話になりました。私を含めた年配組のほとんどが地方出身で、東京らしいってどんなところだろう、で意見が一致したのが、寄席でした。
当日引率担当をして、まずは大人になった記念に、と、まずフランス料理屋でワインを飲ませたら、連中にはワインががとても目新しくて、さんざんおかわりしまくって、しこたま飲みやがったのでした。
寄席にいく頃にはどいつもこいつもすっかり酔っぱらっていい気分です。
ふらふらするご一行さまに、寄席の木戸をなんとかくぐらせて席につかせましたら、即刻、一人残らず高イビキです。舞台の噺家さんにまでとどくような、イビキの大合唱になりました。慌ててみんなを起こして、そそくさと表へ出たのでした。
以来、どうも敷居が高くて、寄席に入ったことがありません。

歌舞伎芝居にも落語、特に三遊亭圓朝の話を脚色したものがあるのですが、これも悔しいことに実演で目にしたことがありません。十八代目勘三郎が演じた映像が好きで、幾つか見ました。
十 八代目が古今亭志ん朝と対談したときのことが『勘三郎伝説』とかいう本に載っていて、自分たちの父親を落語の登場人物みたいにヘンテコだったと回想し合って大笑いしたさまが出ていたけれど、たしか志ん朝さんの方が父の志ん生を「文七元結に出てくる長兵衛みたいだ」と言っていた気がします。切ない事情で手にした大金も、見かねることをするやつを見かけると、ふいっとそいつに投げ与えてしまうような、そんな感じだったのでしょうか。

Bunshichi「文七元結」はだいたい次のような筋ですかしらね。
・・・ 腕の良かった左官の長兵衛が、博打に狂って家族のものまで質入れしてもお金がなくなって、とんでもない貧乏になっている。見かねた娘お久が自ら吉原の妓楼に駆け込んで質になり、おかげで借りることの出来た五十両を長兵衛が懐にしたところへ、川に身投げしようとする若者を目撃してしまう。なんとか止めて事情を聞けば、回収してきた売掛の五十両をスられて店に顔向けできないとのことなので、長兵衛は悩んだ末、押し問答のあげくに自分の五十両をその若者に投げつ けて駆け去る。若者文七は思いがけず命を拾って店に五十両を持ち帰るも、実は売掛金はスられたのではなく、碁の見物に夢中になり過ぎて得意先に置き忘れていて、気づいた得意先の人が店に届けてくれていた。そこで店の主人は文七を連れて長兵衛を探し当てて五十両を返しに行き、あらかじめ吉原から身請けしたお久をも連れ帰ってやる。
「このお久と文七が一緒になりまして、後に至って麹町に元結屋の店を出したと申します」(志ん朝の口演)
が噺のおしまい(オチがない)で、文七元結という題の由来はここでしか分からない。中身はぜんぜん、元結の噺ではないのですね。

この『文七元結』も圓朝の有名作だそうですけれど、由来を尋ねると面白いことがずらずら出てきます。
中国の古いお話を元に作ったのだと喧伝(*1)されましたが、元になった中国の話がまったく分かっていない。若い頃人に噺を盗られて苦労したのが創作を始めるきっかけになった圓朝さんの巧みなコマー シャル戦略だったのだろうか、ほんとうは中国の元話なんかありもしないんではないだろうか、と推測すると、クスッと笑ってみたくなりますが、べつに圓朝さんが
「これは中国由来の噺です」
と言っていたわけではなさそうです。
どこかで誰かが「文七元結」の骨組みで噺を演じていたのを、こいつは面白い、と組み立て直したんだ、という説もあって(*2)、こっちのほうが確からしいともされています。

文七と元結の関係についても説が入り組んでる。
文七は落語の通りに人の名前だ、だからその人が考案した元結を「文七元結」と言うんだ、と、すんなりしているなら話は簡単です。
いやそうじゃない、元結を結うのに使う紙のことだ、という話もあって、こっちは江戸末期の有名な百科全書みたいな本に載っている(*3・*4)ので、「文七元結」=「紙の名前」だというお説のほうが本当だ、と、いまでは普通に思われているようです。

ところがこないだ偶然、「やせガエル負けるな一茶ここにあり」の一茶さんが綴った日記の中に、こんな文があるのをみつけました。(*5)

 右左板壁にて三尺にたらぬ通路を
 文七元結こくやうに
 尾花の風に乱あひつつ、行きかひの男女たえざりき。

これだと「文七」は元結を結ているか結おうとしている(結ってくれる)人を指すようにしか読めません。
江戸時代に生きている一茶さんが慣用句のように使っているのだから、世間でも言い習わされていたと思われます。
すると、文七はやっぱり、もともとは元結の結いかたと何かしら関係のある「人」の名前だったのが、だんだんに忘れられて由来が分からなくなった、というあたりが本当なんじゃないかなあ、と思います。

落語「文七元結」は、マニアをくすぐる探求ポイントがたくさんあるようで、他にも地名や場所名をいっしょうけんめい調べた記事がネットでも豊富にみつかります。(*6)
そういう面白い話は、ですから今さらになりますので、ここではもうやめにします。
そのかわり、同じ「文七元結」でも噺家さんによっていろいろ違いがあります、そこのところを定点観察してみたあたりのことを少しだけお話します。

歌舞伎の台本は戯曲ではなくて脚本、なのだそうですが、落語はその色あいがもっと強くて、
「文七元結は圓朝が作ったんだから圓朝のテキスト通りにやらなくちゃならない」
などと律儀なことをする噺家さんは絶対にいません。セリフひとつからして、親と子でも、師匠と弟子でも、お互い縁を切っちゃったのかと思うくらいぜんぜん違っている。そもそも圓朝のものとして活字化されているテキストは圓朝が書いたのではなくて、喋っているのを他の人が速記で書き留めたのを清書した(*7)ので、口伝えが本来なのでしょうから、違うのはあたりまえなんでしょう。
で、しかし、言葉や表現が全然違うのに、噺家さんがかける「文七元結」はどれも同じ「文七元結」だとお客が認める。・・・違うのに同じなのが、落語のいちばん面白いところではないかと思います。

これを言葉尻の違いではなくて、話の繰り広げかたの違いがどんなふうかを追っかけてみました。それを見ることで、噺とはどんなふうに伝承されているのかを、垣間見ておこうと思ったのでした。

八代目正藏とか先代の馬生さんのも聴きたかったのですけれど、すぐには手に入らなかったので断念し、(六代目)圓生、志ん生、志ん朝、談志、小三治、の話す中身を、(青空文庫化されている)圓朝のものと比べてみました。(*8)

追っかけて観測した定点は、次の通りです。ほとんどの噺家さんが登場人物のありさまが面白く見えるように演出を加えている場面です。・・・これらが 実は、圓朝はあまりやっていなくて、圓生になると現われるのがほとんどなのですけれど、このことがあとの話に深く関係してきます。

1)長兵衛の行っていた賭場の名前が噺の中に出てくるかどうか(圓朝では出て来ない)
2)娘お久が駆け込んだ妓楼から長兵衛を呼びに来た使いの藤助の顔を、長兵衛は忘れていたかそうでなかったか(忘れていた、は後の演出らしい)
3)長兵衛は妓楼にすぐに行けないと言い訳するが、それは「娘が行方不明になったからだ」と自分の口から言うのか、藤助が「その事情とは娘さんがいなくなったってことでしょう」と当てるのか(圓生は前者)
4)呼び出された妓楼に出掛けるとき長兵衛は女房の着物を剥いで着てしまうのですが、女房は腰巻も付けていないと拒みます。女房はなぜ腰巻を付けていなかったのか。質に出しちゃったのか洗濯しちゃってたのか(圓朝にはこのくだり自体がない)
5)妓楼に入る前に長兵衛は藤助から羽織を借りるかどうか(平成中村座の歌舞伎と談志のみ後者)
6)妓楼で娘と対面した長兵衛はまず娘を叱るのか叱らないのか(圓朝では叱らない)
7)妓楼のおかみに「五十両貸すがいつ返す?」と聞かれて長兵衛はまずいつまで、と答えるか(圓朝にはこのくだりはない)
8)吾妻橋で文七が「娘さんが身売りして得た五十両だなんてとてももらえない」と断るのに業を煮やして長兵衛はふところにしていた五十両を文七に投げつけるのですが、顔に向かって投げつけるかどうか(これだけは圓朝にもあるが顔に投げつけるのではない)
9) 店に帰った文七はスられたと思い込んでいた五十両を実は得意先に置き忘れていたのだと知り動転するが、そのとき長兵衛が「娘のために不動か金比羅に祈って やってくれ」と言ていたのを思い出して「お不動さまか金比羅さまを祀らねば」と興奮状態になる・・・この場面があるかどうか(圓朝にはこのくだりはない)
10)長兵衛の居場所を聞いていなかった文七は店主や番頭にヒントとしてお久の入った妓楼の名前を尋ねられる、もしくはあらかじめ自分が記憶していてそれを言うが、妓楼の名前は結局どうやってはっきり分かったか(圓朝にはこのくだりはない)
11)文七を連れて長兵衛にお礼に行く店主は酒を買いに寄った酒屋(実際にあったお店だそうで、今は有名なワイン屋さんになっています)に長兵衛宅を尋ねるが、それは酒を買う前か後か、あるいは文七を酒屋につかわして聞き出しさせたのか
12)長兵衛宅を聞かれた酒屋は具体的な道順を教えたのかそうではなかったのか(圓朝だけが詳しい道順で教えている)
13) 噺の最後は、「文七元結」では通常はオチがなくて、最初の方で言った通り「この(噺の流れの)縁でお久と文七が夫婦になり、のちに元結の店を出して繁盛し たのでした。文七元結の一席でした」みたいな感じなのですが、噺家さんはそのままおしまい(下ゲ=オチがない)になっているかそうでないか(だいたいが通常のまま)

結果は表の通りです。クリックで拡大します。

Bunsichi_list    

上表のpdf

筆記された圓朝の噺はおおむねシンプルで、各登場人物へのドラマチックな肉付けがさほどなく、人物への演出がほとんどありません。

「文七元結」の噺は圓朝は晩年あまりやらずじまいだったそうですが、四代目五代目の圓生らが噺を引き継いだとのことです。五代目圓生を継父にもった 六代目圓生が、今回比べた顔ぶれの中では、そんなわけで「文七元結」が実際に話された古形をさまざま豊かにとどめている可能性があります。
すると、六代目圓生の噺の中には、他の噺家さんが使っている演出がほとんど盛り込まれているのが気になります。圓朝のオリジナル噺は、高弟たちによって、今のような肉付けを早い時期にされていたのではないでしょうか。

六代目圓生と同一の演出をしている場合を1点として点を付けると、志ん生6点・志ん朝9点・談志7点・小三治11点(枕のおしまいは実際には圓生【圓生百席でのスタジオ録音】と同じものなので、それを加点していいとすると12点)となります。(*9)

面白いことに、圓生および点数の高い志ん朝小三治は噺が1時間を超えており、点数の低い志ん生談志は短い(志ん生32分、談志44分)のが特徴です。

志ん生は枕らしい枕もなく人物の演出も少ない坦々とした話し振りです(正藏の残した録音も同様のようです)。
談志は人物は皆わりと理屈っぽいキャラで一貫していて、他の演者がオチを付けていない下ゲ相当部分にも、独自の人生哲学みたいなオチを加えています。
志ん生と談志の類似は少ないものの、脇に逸れないことでは共通していると言えるかもしれません。
脇に逸れないスタイルでいくときには、演出的な伝承はあまり引き継がないものなのでしょうか。
圓朝を基本型、圓生を発展型とすると、内容が折衷になっている部分がほとんどで、独自の部分は(談志のオチ以外には)ないに等しいように見えます。すると、引き継がない、のではなく、その噺家さんにとって良いとこ取りをしていると見るべきなのかも知れません。

実の親子だった志ん生と志ん朝は定点の4・5・8で他の噺家にはない演出を採り入れていて、しかもそれが親子で同じです。
長兵衛がすぐに妓楼に行くのを渋る理由を使者の藤助が言い当てるところ、他の噺家だと「売った」ことになっている女房の腰巻は売ったのではなく「洗った」のだとしているところ、同じく長兵衛が借りた五十両を来月まで返すと言うところを「七草まで」と季節的な味付けをしているところ、の3つです。
これは志ん生の工夫を子としての志ん朝が是としたからではないかと推測します。
これによって志ん生や志ん朝の噺には柔らかさが生まれているのを、はっきり体感できます。

まあありきたりの結論なのですけれど、噺家さんはみんな個性的なんですが、大先輩がやってきたことを「よかった」と信じてさえいれば、いっしょうけんめいそのことを守ったり育てたりしているんだなあ、と実感した次第です。

いま活躍中の噺家さんたちのも、聞いてみなければいけませんね。

・・・ところで、文楽のカシラに「文七」というのがあるんですが、これは「文七元結」と関係があるんでしょうかしら・・・

http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc18/natsu/haikei/ningyou/index4.html

興味はどこまでも尽きませんね。


全篇はお好きな落語家さんで、ぜひ実演や録音でお楽しみ下さい。
・・・私は念願かなってやっと来週、歌丸師匠の「真景塁ケ淵」実演を聴きに出掛けるのです!


 

*1:ウィキペディアの「文七元結」の説明をはじめ、落語の紹介本にはほとんどそう書いてありました。けれども、これを徹底的に追及したのは、*2 であげる中込重明『落語の種明かし』が最初で最後ではないかと思います。いまネットで見られる「文七元結」関連のサイト等で『落語の種明かし』を参照しているものを見かけないのが残念です。

*2:いま刊行中の新しい『圓朝全集』第六巻では「文七元結」の原話のひとつが『聞書雨夜友』(東随舎 作、文化2【1805】刊)ではないかとの説を上げ、このことは中込重明『落語の種明かし』(岩波書店 2004年)に触れられている、と述べています。この記述に仰天して『落語の種明かし』を手にし、ご著者の博覧強記に圧倒されてしまいました。この本で、中込さんは「文七元結」の中国原話の推測にまで手を伸ばし、断定は慎重にひかえながらも、他の噺と合わせ、原話は間接的に明時代の『輟耕録』中の説話ではないかと推測しています。またさらに、以上にとらわれずに探求の裾野を広げてさえいます (たとえば『耳嚢』巻之七「不思金子を得し事」・・・岩波文庫『耳嚢』中 422頁で読めます・・・など多数)。また文七の碁好きでの失態がありえたかどうかの手短かな考証もしています。江戸期の読本にものちに元結屋を開く俠客(雁金?)文七の話があることにまで言及していて(1808年刊『報寇 文七髻 結緒【かたきうち ぶんしちもとゆい】』・1810年刊『清川文七 元結濫觴【もとゆいのはじまり】』) 、舌をまきます。
『落語の種明かし』刊行の2004年は中込さんが病床で論文を書き上げ博士号を取得した年でもあり、また脳腫瘍で亡くなった年でもあるそうです。たいへんに惜しいことだと思います。いま古書でしか手に入らない『落語の種明かし』がまた復刊されることを強く望みます。

*3:慶応三年の『守貞漫稿』巻之九 岩波文庫『近世風俗志』(二)1997年
「(『世事談』【『本朝世事談綺』なのでしょうか? *4】に曰く)・・・また文七元結あり。これは紙の名なり。至って白く艶ある紙なれば、この紙にて製するを上品とす、云々」(62頁)
『守貞漫稿』ではさらに
「(『我衣』【19世紀初頭】に曰く)元文元年【1736】より、上方浄瑠璃太夫の髪の風を学び・・・宮古路風とも文七[文金]風とも云ふ、云々」(*2 28頁)
という別の引用もしていて、こちらでは元結用の紙と髪型の関係について特別な説明にまで及んでいません。
名前のおおもとの由来なんて、たぶんもう忘れられていて、分からなかったのではありましょう。
なお、天明八年【1788】刊の朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通』序に「文質元結人品として(ぶんしちもとゆいに結った頭は品があって)」なる表現があって、ここでは文質(=文七)元結は元結そのものをさしています。これは年代的に*5の小林一茶に先んじています。

*4:『本朝世事談綺』でよいようですが、これは享保19年【1734】刊・内容未見 国文学研究資料館 http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-03703&IMG_SIZE=&IMG_NO=2
この画像だと読みにくいので、活字化されたものを注文しましたが、間に合いませんでした。活字化された本には『十八大通』もあるので、いい資料になりそうです。→*2 であげる『落語の種あかし』に引かれています。

*5:小林一茶『七番日記』【文化7〜15年、西暦1804〜18年 文化15年は4月22日に元号が文政に変わっているが、本日記上はそのままの元号】上下二冊 丸山一彦校注 岩波文庫 2003年 「文七が元結こくやうに」の文は上巻99頁(改行は無し、本ブログ記事中はわざと改行)、文化七年 八月の記事。注には「文七 元結師の通称」とあります。
「痩蛙負けるな一茶ここにあり」は同年同月(上巻105頁)と文化十三年3月(下巻)に重複して登場。

*6:圓朝の噺の採録時期の違い等による話の中での場所名の相違点などについては『圓朝全集』第六巻に対照表が載っています。
ネット上での記事でいちばん面白かったのは『「文七元結」の達磨横町』 https://sites.google.com/site/ozlime/index/%E3%80%8C%E6%96%87%E4%B8%83%E5%85%83%E7%B5%90%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%81%94%E7%A3%A8%E6%A8%AA%E7%94%BA

*7:青空文庫におさめられたものは鈴木行三という人の清書したものですが、酒井昇造速記に拠る、と再末尾に記されています。

*8:圓朝以外はCD化されている口演を聴きましたが、テキスト化されている志ん朝・談志のものはテキストで比較しました。とくに談志のものは昭和 49年口演の録音よりテキストの方が内容が細かいので、テキストの方を採用して比較しました。圓生については採録された噺のテキストはCDの口演よりもコ ンパクトになっているため、口演の聴き取りの方で表に掲載しました。志ん生をテキスト化したものは噺の後半しかありませんでしたので使いませんでした。
どの噺家さんについても録音の方では喋られていないこともテキストに載っていることもあります。逆もあります。噺は1回きり演じられたものではないので、どれを基準とするのかは本当はとってもむずかしいことなのでしょうね。けれども複数聞いた例ではほとんどの場合同じ噺家さんは同じ演出でやっているので、今回用いた材料は的外れではないと思っています。
なお、Amazonで試聴できる八代目正藏のものは枕なし、馬生のものは博打の枕のようです。いずれも短め(40分くらい)の口演です。

*9:こういう点数化は、本来もっと微に入り細にわたってポイントを設けて全て比較して行なうべきなのでしょう。それでも、楽しみで眺める分には、このくらいでも傾向はわりと浮き出て来るように思います。

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2013年3月20日 (水)

重層化した空気と時間:「助六由縁江戸桜」まとめ

(歌舞伎の「助六」に、くどくど野次馬してきましたが、「まとめ」らしくない「まとめ」を綴って当面の締めとします。野次馬してきた記事へは、関連した記述の後ろと全体の末尾にリンク致しますので、ご参照の上、不備・誤認について是非ご指導ご教示お願い申し上げます。)


音の世界は、空気を彩る絵の具だと思います。
手で触れられるもののほとんどすべてが、たしかに色をもっていますけれど、ごく普通の空気には独自の色がありません。
それが、響きで自在に色付けされるのです。

いまでは、色は光の波、音は空気の波で説明がつくと突き止められています。
光の波が色ならば、空気の波だって色、であってもおかしくない・・・とは、あるいは、とんでもないこじつけかも知れません。ただ、誰にでも当てはまるかどうかはっきりしないながら、色聴という心理的現象はあります。音を聴くと、その低い方から順に、虹の色の順番で、赤、橙、黄、緑、青、紫、と、響きに色を感じるというものです。
(ずいぶん前に綴ったことがあります http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_6902.html

音楽好きだと、劇を鑑賞するのでも、舞台装置のもつ色と共に、俳優のセリフの調べ、背景に流れる効果音に彩りが増幅される、そのことに興奮を覚えたりします。

ドイツには、リヒャルト・ヴァーグナーが描いた劇世界の、ひたすらその音響の色彩に魅入られてしまった作曲家がいました。アントン・ブルックナーです。彼はその響きを抽出して自分なりの加工を懸命に施し、音世界だけのドラマを9つ(ないしは10)書きました。
「色彩豊かなドラマは、空気から響きだけを取り出しても、響きの組み合わせで書けてしまう」
という立派な例でしょう。

日本でも、伝統芸能からの抽出を試みた人々は少なからずいます。
しかしながら、ブルックナーのように劇の音響のみを取り出したものは、ないように思います。
なぜ劇からの抽出はなかったのか、を考え出すと、またキリがなくなります。でも、こんな事情ではないかなぁ、と思い当たることは、あります。
近世以前に生まれた舞台芸術は、能をはじめとして、目に見える装置はシンプルで、ほぼモノトーンです。色づけは、囃子と唄(謡)でなされていました。それにしたって、たとえば能なら、人の衣装と声以外は、近いもの同士の4色程度です(笛、小鼓、大鼓、太鼓)。ならば、音楽的な色彩をもっと試してみたいと思うとき、興味は、舞台の装置や人の動きをいきなりすっ飛ばして、音響のみの世界に向くのが必須、となるでしょう。

03pic02 歌舞伎は、それまでの日本の伝統的な舞台芸術とは違っています。
登場人物の扮装だけにではなく、装置にまで、色が溢れている。
歌舞伎の舞台の多彩さが、かえって、音響世界だけを抽出して作品に仕上げたい、なる類いの興味は引き出しにくくしたのでしょうか、いまのところ、現代の音楽家の没入までを生み出してはいないように思います。(※1)

見たこともない「助六由縁江戸桜」を映像で目にしたとたん、私は強く魅かれてしまったのでしたけれども、それは歌舞伎の中でも「助六」が際立って、色彩を極端に切り詰めていながら、なお派手だからだったのかも知れません。
舞台中央は、白木の木枠の他は、ほぼ赤一色です。その両袖は、緑と黒と黄を交えています。
全部で、4色。ところが、これが強烈に目に刺さる。
鮮やかな純色の舞台装置は、歌舞伎以前に用いられたことがありませんでした。

それにしても、赤一色に添え物の3色だけで、筋の入り組んだ展開がないまま一幕2時間もかかる劇が、初めて見る客を、こんなに引きつけていられるはずがない。
それで、よくよく当たってみると、「助六」では音響が場の彩りを変化させる上で大きな役割を果たしているのが分かったのでした。→(5)
区切り区切りに華やかな衣装の人物を登場させる際、お囃子で空気をきらきらとさせる。そのきらきら具合も、男伊達の出ならば太鼓が主でやや四角ばり、花魁の出入りならば笛を添えてあでやかに、という具合。主人公の出には、全体の響きはやや暗めに押えた上で、主人公を象徴する尺八の音色を添えるのです。
あるいは、きらきら音色は、登場人物がほんの数人行き交う場面でも、もっとたくさんの往来があるように観客を錯覚させる不思議な効果を発揮したりします。
巧妙なのは、普通にセリフが喋られる背景で単調に等拍リズムで鳴り続ける三味線です。(※2)
前半、立て板に水の極め台詞の応酬を陳列する趣向のときは、リズムだけでなく、音の高さも同じままで変化せず、セリフのみを際立たせます。
ひと山過ぎたあと、この等拍リズムは音を旋律の断片のように変えて場の空気が揺らぎ出すのを感じさせ、以降は囃子、尺八、激しいツケの音、と、だんだん間隔を狭めて音を多色化し、巧みな黒子として劇の動く向きを役者にも観客にも澄まし顔で知らせてくれるのです。
歌舞伎の音響はもともと抽象度が高くて、太鼓一つで風音も水音も雨音も、稲妻の光る嵐までをも、一筆でえいっ、と描いてしまうようなところがあるのですが、空気の彩りまで、とは気づきませんでした。恐れ入りました。

音響にも大きな要因があるとは気づかず、惹き付けられる理由をあれこれ詮索してきたので、もちろん、それ以外のものを「それ以外」と一括りにしてはいけないことも、充分に認識させられています。
「助六」というこのお芝居には多様な時間が圧縮されていることを知ったのも、また大きな驚きでした。

「助六」劇という枠組みは最初、実際に取材もし元禄頃までに流行った「心中もの」という枠組みにも当てはまる事件を元にしたものだったのを、いつのまにか、江戸っ子の啖呵の応酬に相応しい内容へと換骨奪胎したのでした。
その過程で、主人公のふるまいや衣装も、特定のモデルの行状に制約されなくなり、舞台に設定した吉原に出入りする通(つう)の姿から粋なものを抽出して、ひとつの結晶のように仕上げていったのでした。→(1)

劇が観客にとって同時代物であるあいだ、「助六」は、目の前にある風物を、貪欲に盛り沢山に摂取し続けました。吉原の見世の名、酔い覚ましの薬、種類の豊富な煎餅、舞台の袖には饅頭屋の屋号、饂飩屋の出前は時勢と共に蕎麦屋の出前に、等々。→(3)

舞台を続けるには、しかし何かとお金がかかる。
著作権もなかったですから、興行で当たりを取りつづけるためには、大きな知恵での一工夫が必須でした。
風物の摂取などを通じて、「助六」は、お江戸限定地域色濃厚な芝居に仕立てる(※3)ことで、長いあいだ大スポンサーであってくれるような、組織的な固定客・・・吉原、蔵前の金融業者、江戸経済の重要な担い手であった魚河岸の人々・・・を掴み続けてきましたが、米主体から貨幣主体へと急激に移り変わる経済情勢化では、それも厳しくなっていきます。→(6)

そこで「助六」は、市川團十郎家の芝居として歌舞伎十八番の中に含められます。同時に、内容もほぼ固定されたのではないかと思われます。→(7)
折しも明治維新で、歌舞伎全体が存続にきわどい綱渡りを経験します。経験を通し、自らが持つ様式美こそが命綱、と悟った歌舞伎は、それを懸命に守り続ける奮闘を、いまなお重ねているのでしょう。

「助六」という、たかがひとつの芝居のなかに、これほどまでに空気の色の多様さ、時の積み重ねの多様さが、豊かに折り重なっています。
「たかが」などとは、とても言えません。

こうした重層性に感激しておきながら、自分自身がそこから何かを抽出し新たな何かに仕上げていけるような能力の持ち主ではないことを、甚だ遺憾に思います。

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※1 小泉文夫氏が、セリフと背景の三味線の清掻きのタイミングのズレ具合について調べていたのは読んだことがあります。日本伝統音楽の研究のリズム編にありました。ただし、それは限定されたロケーションの、さらに限定的なシーンでのことであって、劇作品全体にわたる興味とは言えないと思います。「場」の変化する舞台では「助六」のような単一の場と違って、全体的なものへの関心は呼びにくいかも知れません。ヴァーグナーの作例は、幕や場が複数あっても1作品が1全体となると見なし得る舞台背景で演じられますので(たとえば「トリスタンとイゾルデ」)、受け止め手にとって制約が生じなかったのではないでしょうか?

※2 三味線は吉原で客引きに清掻きで流しておくものだったようですから、三味線の音色自体が「助六」の舞台である吉原を象徴している面もあることでしょう。

※3 現行の「助六」にあたるものは、江戸時代中は、七代目團十郎が江戸追放になった時に旅先で演じたほかは、江戸以外の土地で上演されたことがありません。


【参照書籍一覧・CD1点】
〜*番号、は、過去記事(1)〜(7)で引用時に付した参照用番号

《「助六由縁江戸桜」テキスト》
*4)遠藤為春・木村錦花『助六由縁江戸桜の型』劇文社 大正14(*10と重複)
*5)諏訪春雄 編著『助六由縁江戸桜 寿曾我対面』歌舞伎オンステージ17 白水社 1985年
*9)「古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年
*12)守髄憲治校訂『助六所縁江戸桜』(底本:文化八年二月上演台本)岩波文庫 1939年

《「助六」周辺》
*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年
*3)赤坂治績「江戸っ子と助六」巻末、新潮新書、2006【平成18】年
*16)『日本随筆大成』第二期6 吉川弘文館 昭和49【1974】年
*17)斎藤月岑『声曲類纂』 岩波文庫 第1刷1941年 第6刷2001年
*18)佐藤仁『助六の江戸』 近代文藝社 1995年

《「助六」の贔屓筋関連》
*1)小野武雄「吉原と島原」1978年教育社歴史新書~2002年に講談社学術文庫
*20)尾村幸三郎『日本橋魚河岸物語』 青蛙書房 1984年
*24)十二代目市川團十郎『團十郎の歌舞伎案内』 PHP新書 2008年
*25)十二代目市川團十郎『歌舞伎十八番』服部幸雄解説、小川知子写真 河出書房新社 2002年

《市川團十郎家》
*8)「老のたのしみ抄」・・・郡司正勝校注、『日本思想体系61 近世藝道論』岩波書店1972年所収
*11)市川団十郎(十二代)『團十郎復活』文藝春秋 2010年
*14)戸板康二『歌舞伎十八番』隅田川文庫 2003年、原著は中央公論社1978年
*19)田口章子『二代目市川団十郎』ミネルヴァ書房 2005年
*26)今岡謙太郎「九代目団十郎の幕末」 歌舞伎学会『歌舞伎 研究と批評 22』所収 1998年

《その他の歌舞伎関連(近代史など)》
*13)郡司正勝『かぶき入門』岩波現代文庫 2006年
*15)『江戸の華! これが歌舞伎のBGMだ!! 鳴物選集』CD、KING RECORDS KICH 2092/3
*21)漆澤その子『明治歌舞伎の成立と展開』 慶友社 2003年
*22)中川右介『歌舞伎座誕生』 朝日文庫 2013年(原著 『歌舞伎座物語』PHP研究所 2011年
*23)渡辺保『明治演劇史』 講談社 2012年

本記事中の新富座の画像はこちらからお借りしました。
http://www.mizkan.co.jp/story/change/03.html
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc17/jidai/kabuki/index05.html


(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ

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2012年11月25日 (日)

戸塚囃子(東京都新宿区指定無形民俗文化財)を拝聴しました

2012年11月23日、東京都新宿区の四谷区民ホールで、「伝統芸能フェスティバル」がありました。

5年来存じ上げていながらじかに拝聴するチャンスのなかった、新宿区地元の「戸塚囃子」(同区指定無形民俗文化財)を、そこでやっと初めて拝聴することが出来ました。
お客さんが身を乗り出す好演で、心地よく耳を傾けさせて頂きました。

昨年の映像ですが、どうぞ、お聴き下さい。(約17分)


戸塚囃子のHP
http://2nd.geocities.jp/waseda_fuekichi7/

パンフレットによると、戸塚囃子は江戸末期に阿佐ヶ谷の田淵初五郎により編み出された祭囃子とのことで、昭和初期にいったん途絶えたものが第二次世界大戦後にゆるゆる再開、昭和51年以降本格的に復興されたものだそうです。

復興は保存会の会長さんをお勤めになっている吉田紘一さんの努力のたまものです。

祭囃子は「伝統文化」と呼ばれるにはまだ新しい部類なのかもしれず、文化財としての認知度は定番の歌舞伎〜能〜雅楽クラスまでには及んでいません。
が、おそらく江戸祭囃子については、江戸末期までの舞台芸や巷間芸の中で流行したものを巧みに取り入れ、それを中世期に形が整っていただろうと思われる祇園囃子の備えた定型に当てはめて、江戸ならではの華やかなものに仕立て上げたのではなかろうか、と推測しております。
如何せん、私には、そのあたりの根拠まで調べ上げる力量も環境もありません。
けれども、その価値の高さについては、今後徐々に定評を得て行くものと確信をしております。

吉田さんの工夫は、ご自身がご幼少期に能楽囃子などの経験をなさったことを踏まえて、伝承の仕方に定番のない祭囃子に「唱歌(しょうが・・・笛や太鼓で 演奏するものを、習い覚える際にまず口で歌ってみられるようにすること)」を取り入れ、笛譜も戸塚囃子ならではのものに整えてこられたところにありました。
それで、若いお弟子さんにも優秀な方が育ち、地元では小学生の皆さんも習得に励んでいるという、都会のお囃子の世界の中ではなかなか得難い豊かな環境を築き上げることに成功なさっています。
それでも、万年少年の精神をぱりぱりっ、と持ち続けている吉田さんは、心配と情熱を絶えずお持ちになり続け、休まる暇がありません。

伝統の泉は、まず「正しく伝承しよう」との熱意が源になります。
その熱意が豊かに受け継がれていき、次第に川の姿を整え始めると、やっと「伝統」と呼ばれる世間的な資格を得ます。
そこからさらに、流れを太く確かなものにするためには、その文化が発祥したときに、作り手の人たちや受け止めた人たちが感じたであろう新鮮な楽しみと謹厳な喜び、を、さらに進取の精神で新たな世の中の空気の中で、新たな命を呼吸出来るものに仕立て上げて行く、不断の努力が必要です。
後続の人の大変さは、その新しい呼吸が、源泉源流の「かたち」をそこなわずになされなければならないうえに、仮にそれをなしとげても、創案者の名声は決して得られない地味な存在に甘んじなければならない・・・自己に名声は決して求められないことではないかとおもいます。

しかしながら、名声のためにではなく、空気は絶えず変転する時代を経ても、変わらない何かがあることを人間が悟って行くためには、「変わらないけれど新しい」・「新しいけれど変わっていない」ものを真摯に見つめつづける常緑樹のような若さが、これまた絶えることなく注がれなければなりません。

吉田さんの精神を汲み取ったお若いみなさんの、いっそうの充実を、心から応援したいと存じます。

 

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2011年12月 4日 (日)

【音を読む】古代の鳥はどう描かれているか?~雅楽「迦陵頻急」

初歩の「十二音」簡単なバランス崩し同じものをつかいまわす(能)・伸ばして重ねる畳んで開くいっそ絵にしてみる


20世紀の鳥はフランスのメシアンが音で描いていたのですが、古代の音ではどうだったのでしょう?

日本の雅楽の「迦陵頻急」というのが、想像上のものとは言え、鳥が舞うものです。この舞楽、舞のほうは子供が舞うシンプルなものですが、シンプルだけにかえって、鳥の悠々とした飛翔を見せてもらえるように感じられます。
では、楽の音はどうか、となると・・・う~ん、古代人は発想が違ったのかな? 音で鳥を描いているようでもあり、そうではないようでもあります。

私は実際の雅楽には縁がないので、舞はDVD(*2)で、成人したかしないかの若い女性が舞う映像で拝見しました。YouTubeには子供が舞ったものがありますので、そちらをリンクしておきます。


この調べから、鳥、あるいは鳥の飛翔をかたちに思い浮かべるのは、現代の私たちには無理でしょう?
それは、日本のものに限らず、「起こりが古い」と分かっている音楽すべてに言えることではないのかなぁ、と感じています。もし感じられるような調べがあれば・・・各地で収録された民族音楽・民俗音楽にはそのようなものもあるのですけれど・・・、どこかに近世の空気が混じり込んでいるんではなかろうかと勘ぐりたくなります。本当にそうなのかどうかは確かめる術はないのですが、怪しんでよいことではないかと考えます。

雅楽の笛がどんな音でどう吹くのかについては、譜ではカタカナで書かれる「唱歌(しょうが)」を口移しで教えてもらい、記憶することで、吹くべき調べを身につけます。
楽家の安倍季昌さんがご著書『雅楽篳篥 千年の秘伝』(たちばな出版、平成20年)の中で

「(篳篥などは)唱歌【しょうが】がしっかりできていないと、吹くことはむずかしいと思います」
と述べられています。
これは他の伝統邦楽にも通ずることでしょうが、本当は西洋音楽を演奏する際にも大変重要なことではないのかなぁ、と、最近感じております。

それは措いても、とりあえず雅楽の音を総合的に捉えるには、五線譜に置き換えるよりは篳篥と笛の対比を唱歌の仮名で目に出来るようにしたほうが、接し方としてはいいのかな、と思います。音程【音の高さ】や音価【音の長さ】、あるいは滑らかにするのか切り上げるのかなどの微細な部分は必ずしも五線譜に移しきれないからです(*1)。

ただし、パソコン上でベタのままで篳篥と龍笛の対比を細かいところまでをきれいにさせるのは難しいので、簡単に整理したものを、本文末尾に掲げます。 実際の雅楽譜は、こんなふうです。(*2)

それぞれを、上の映像の音声を聴きながら一巡目だけでも併せて読んでみているうちに、調べと譜の関係の雰囲気だけは何とか分かってくるでしょう。いちばん右の黒丸は洋楽で言う小節の区切りを表すもの、真中のカナは旋律を表すものすなわち「唱歌」、左の漢字みたいな記号が音程を表すもの、となっています。 唱歌は音程をもある程度表すものになっていますので、篳篥譜の唱歌を西欧式音名と対比させたものも載せようかと思っていましたが、スペースと時間とアタクシの能力の都合上、とりあえずやめました。ご容赦下さい。

龍笛譜

Karyobinnokyuryuteki

篳篥譜

Karyobinnokyuhichiriki

「迦陵頻急」でとられているのは壹越調という、D(固定ドで「レ」)を主音とした旋法【節の巡り】です。(*3)
こむずかしいのですが、本来、この壹越調を理屈通りに捉えると<ニ長調>に相当するものであるところ、実際に耳に入るのは、アバウトいわゆる「都節」音階で、(固定ドで)「ファ#」にあたる音がほとんど半音下がり、短調のような雰囲気を醸成しています。
すなわち、旋法の理屈では壹越調は「レ・ミ・ファ#・(ソ)・ラ・シ」なのですけれど、迦陵頻急ではどちらかというと「レ・ミ・ファ(シャープつかず)・(ソ)・ラ・シ」という音階の構成になっているのです。(これは理屈の上の呂旋法と律旋法が入り組んだものになっています。)
なおかつ、本当は理屈では「レ」が落ち着きどころにならなければならないのに、この調べで篳篥がならすいちばん高い音が「ラ」で、これが聴き手にも音楽の落ち着きどころと感じられるのが大きな特徴です。(すなわち、節は主音【宮(きゅう)】であるはずの「レ」よりも、ほぼ一貫して五度上【ドミナント=徴(ち)】の「ラ」のほうに強烈な引力を持っているのが、<迦陵頻急>の大きな特徴です。*3)

さて、細かい話。

雅楽譜の骨組みを舞の節と各楽器で重ねてみると、次のようになります。
ほんとうは雅楽譜の小さいカナまで含めないと旋律線が正しく把握出来ませんが、便宜上大きな仮名だけで代表させ、洋楽で言う一小節相当分を二文字までで収めてみることにします。(*2)


篳篥(大きな仮名だけ)
龍笛(大きな仮名だけ)

太鼓(CD「舞楽」の舞譜によるところだけ。
   実際には前に「百(ドン)」の前に「図(ず)」が入る。
   また、舞5節目からは加拍子となる。)

という並びにしています。

なお、笙の合竹の基音(迦陵頻急に使われているもののみ)はこのようです。
凢=D、乙=E、下=F#、十=G、乞=A、工=C#
これにより、笙は呂旋をきちんと保っていることが分かります。

舞               |2節
篳|チイ|チイ|引ラ|ロロ|チイ|引ラ|ロヲ|ホリ|
笛|タア|タア|ハア|チラ|リラ|ララ|チリ|アラ|
笙|乞 |引 |乞 |一 |乞 |引 |一 |下乞|
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

舞               |3節
篳|ヒイ|タア|リイ|チラ|リイ|チイ|ヒイ|引引|
笛|ア引|リラ|ラア|タラ|ラア|タア|ハア|引引|
笙|乞 |下 |乞 |乞下|乞 |引 |乞 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

舞               |4節
篳|チイ|引イ|リイ|レラ|タア|ハラ|ラア|ラア|
笛|タア|ハア|チヤ|リラ|タア|ハラ|トヲ|ラア|
笙|乞 |乞 |十 |下 |下 |下乙|乙 |下 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

舞               |5節
篳|ラア|タラ|リイ|引タ|リイ|チイ|ヒイ|引引|
笛|ラア|タラ|ロヲ|リタ|ロヲ|トヲ|リイ|引引|
笙|下 |下乙|凢 |凢下|凢 |引 |凢 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

                |6節
篳|タア|ロル|チイ|ロル|リイ|チロ|ラア|引ア|
笛|ラロ|ロル|トヲ|ロル|ロヲ|リロ|ラア|タア|
笙|凢 |一 |凢 |一 |凢 |凢乙|下 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

                |7節
篳|ラア|タラ|リイ|チロ|ラア|タア|ラア|引引|
笛|ラア|タラ|ロヲ|リロ|ラア|タア|ラア|引引|
笙|下 |下乙|凢 |凢乙|下 |引 |下 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

舞                |8節
篳|タア|ハラ|ラア|ララ|リ*イ|チタ|ハリ|チイ|
笛|タア|ハラ|トヲ|ララ|タ*ア|タタ|ロヲ|トヲ|
笙|下 |下乙|乙 |下 |乞* |下乙|凢 |引 |
太|  |  |  |  |百* |  |  |  |

舞               |退出の舞~入手へ
篳|ヒイ|チイ|ロヲ|チロ|リイ|チイ|ヒイ|引引|
笛|引引|トヲ|ロヲ|チヤ|ロヲ|トヲ|リイ|引引|
笙|凢 |凢工|乞 |一 |凢 |引 |凢 |引 |
太|  |  |  |  |百 |  |  |  |

CD「舞楽」収録の演奏では、三巡目で、*で舞が終わり、そのあと壹越調の定型の終止形が演奏されています。聴き流している分には不自然さはないものの、それまでの「ラ」を中心とした節のめぐりからすると、それは実はかなり唐突なことなのではないかと思います。
このあたりの、「節のめぐり」というものについて、あらためて考えてみる必要を感じます。

打物(太鼓)は最も基本となる打音は5塊目、すなわち八単位の後半が始まるところで打たれるのですけれど、管を主体に考えればそのような位置にきてしまうものの、舞を主体として考えた時には、舞の区切り目のところで打たれているのが、上の譜の対比から明確になります。つまり、雅楽(舞楽)の構成は、まず舞を主体として太鼓の鳴る位置が決まっており、管は舞が実際に始まるところからを主体にするため、譜ではその位置を調整することになっているのではないかと見て取れます。太鼓の最初の打音(正しくは1つ前に予備の打音が入りますが)は節の8塊の中間位置に入るのが原則となっていて、それが雅楽の【西洋音楽的な意味での】拍子・・・早四拍子だとか早八拍子だとか・・・を決定づけるのだろうと思われるのです。

譜づらについて、素人として興味深いのは、雅楽の管の譜は、篳篥・龍笛・笙のどれもが、能の八割譜のように、八つの単位をひとまとまりにして描かれていることです。とはいえ、これはおそらく近世~近代に整理され得たことだと思われ、能の譜の歴史と併せてきちんと見直されなければならないでしょう。

こんなところで。


*1:雅楽の調べを五線譜に移した優れた譜例は、私たち一般の者が手に出来る限りでは、増本喜久子『雅楽』に豊富に収録されています。これらは他の書籍が伝統邦楽を五線譜に移したものに比べて遥かに精度が高いものだと感じていて、尊敬すべきお仕事だと頭を下げる思いで読ませて頂いております。しかしながら、それだけきちんと拾ったものでも、やはりとくに音価については雅楽の持つ習慣を柔軟に記すことは出来ていません。そのあたりは五線譜の宿命なのだろうとも強く感じます。

*2:雅楽の譜は天理教道友社のものによりました。手に出来たのは、篳篥・龍笛が2009年、笙が1973年の出版のものです。CDは東京楽所【がくそ】『舞楽』(日本コロンビア COCJ-30793)を聴きました。舞、太鼓の区切りは、芝祐靖さん監修の同CDリーフレットによって把握をしました。

*3:「迦陵頻急」でとられているのは壹越調(宮【主音というより終止音というべきでしょうか】がDとされている)で「君が代」と同じ旋法なのですけれど、迦陵頻急はD音よりも五度上(徴【ち】)にあたるA音を中心にした節回しになっています。Aを終止音とするのは黄鐘調なのでして、黄鐘調は「迦陵頻急」が用いているような音の進行は全くしないので、これはヨーロッパのグレゴリオ聖歌でとられているものと対比すると<変格旋法>とでも呼べばいいのだろうか、と思われてきます。事実、壹越調の楽曲には迦陵頻急とは異なってA音を中心とはしないものもあります(「胡飲酒破」、あるいは歌謡の場合にはD音を落ち着きどころにしているのではないか、というのが、たとえば「春過」を耳にしての印象です)。といいながら、これは壹越調だけに限らず雅楽の調べは管絃では徴【宮から五度上の音】を軸に巡る傾向が強いとの印象も一方ではあり、簡単に結論づけないで数をたくさんきちんと調べる必要があります。
なお、黄鐘調と壹越調は前者が律旋、後者が呂旋ですが普通は(舞楽の場合)笙の和音のみに痕跡があるだけで管の旋律では使われている「音階」は区分が出来ないように思います(いずれもいわゆる都節音階の租型かと感じます。無理に「都節」だとか「イレギュラーな律旋」だという必要は無いと思いますが、それは学問をなさる方の世界では許容されそうにありません)。ただし、「迦陵頻急」の、明治神宮で収録された舞のバックで演奏されている楽は、管が呂旋の音程で吹かれる傾向が耳に留まります。DVD~『生きた正倉院 雅楽』Oldsea

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2011年10月21日 (金)

【音を読む】同じものを使い回す(日本の能)

大井浩明さんPOC#7「リゲティ」は明日10月22日(土)ハクジュホールにて。
会場地図、情報リンクはこちら
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/map1022poc-a45e.html


初歩の「十二音」簡単なバランス崩し


ウェーベルンの「子供のための小品」をとっかかりに、まずはそこに感じられた「バランスを崩してみる」例が古典だとどんなふうな現れかたをしていたか、について、ハイドンの弦楽四重奏曲を例にとってみたのでした。(*1) 
で、他にまたまた十二音技法の初歩を大雑把に言いますと、この技法、半音12個の音の並び方をひとつ決めて、それを「使い回し」するのでした(すげ~大雑把!)。 
でも、この20世紀初めにドイツ圏で使われるようになった方法では、12の音程がみんな別々です。 

同じものを「使い回し」する、と言う点では、日本の「能」の舞のお囃子が、実は大変な優れものです。 
音程は同じものが何度も現れるとはいえ、節は4つの定型で、一噌流(いっそうりゅう)の唱歌でいきますと、次のようになります。 

(呂)  ヲヒャラーイ|ホウホウヒ    A/B 
(呂ノ中)ヲヒャヒュイ|ヒヒョーイウリ  A'/C 
(干)  ヲヒャラーイ|ヒウヤ      A/D 
(干ノ中)ヒウルヒュイ|ヒヒョーイウリ  A"/C 

笛の唱歌と合わせて演奏したものの例を聴いておきましょう。 

笛:呂・呂ノ中・干・干ノ中
 
(日本伝統文化振興財団「能楽囃子体系(四)」から。笛:寺井政数) 

これを覚えていると、舞の音楽の殆どが聴き取れます。これを繰り返す方法を「呂中干(りょちゅうかん)形式」と言います。 
この形式で演奏されるものは、 
・序ノ舞、中ノ舞、破ノ舞、急ノ舞、早舞、男舞、神舞 
などがありますし、部分的に取り入れたものには 
・羯鼓、神楽、猩々乱 
などがあります。 

・・・で、実際に聴いてみると・・・(「能楽囃子体系」所載のもの)

イロエ掛り破ノ舞
(藤田流) 

太鼓入り破ノ舞
(一噌流)(*2) 

あれ? 
同じような、違うような・・・ 

呂中干形式がくる前に、カカリという導入がありますが、上掲二例のその部分の違いは問わないことにしましょう。 
で、「破ノ舞」では呂中干形式は最初のほうで二巡して後半一度登場する(初段目)だけで、「トメ」という終結部に進みます。この終結部分も問わないことにしましょう。 

さっきの「呂~呂ノ中~干~干ノ中」の組み合わせを思い出しますと、「破ノ舞」本体部分とでも言うべきとくに「段」の部分の呂中間形式の部分は、確かに同じようだ、とまでは感じられると思います。 
ところが、節回しがどこか違う気がする。 
(舞の速さが違うと、また違って聞こえます。) 

まず、能で使われる笛(能管)は、指を順番にあけていっても、いわゆる「ドレミファソラシド」にはなりません。それより狭い音程になります。ですから、運指表で拾ってみても西欧音階のどの音に当てはめたらいいかは聴き手の耳次第ということになるでしょう。また、笛を吹いたものを西欧音楽の耳で五線譜に書き落とすと、聴き取った人によって違ったものが書かれてしまうし、西欧音楽に詳しい能のご関係の方がそれを点検しても「どれも正しい」となってしまうようです。(金春惣右衛門・増田正造監修「能楽囃子体系」の解説に掲載された舞の音楽の五線譜化【*3】したものと、浅見眞高編著「能の音楽と実際」【*4】での舞の音楽の五線譜化されたものとでは、拾われてい笛の音程が全く違っています。) 

もう一点、「呂中干形式」の笛の唱歌を確かめてみますと、先の一噌流のものと、他の森田流・藤田流のものでは微妙に異なっています。とは言っても、A/B・A'/C ・A/D・A"/Cという構成は共通です。 

・・・かたちが共通でも少しだけ違って聞こえるものを大雑把に「同じ」と言ってしまって良いのかどうか、疑問が湧くかもしれません。 

しかしながら、いわゆる「ドレミ」の音楽でも、能楽ほど極端ではないにせよ、実は時代が変わると響きは変わるのが最近明らかになっているにも関わらず、それによって(やはり能楽ほど極端ではないにせよ)違って聞こえるものを「同じ」と聴いている。多少強引に言ってしまえば、流派の違い、速さなどによる聞こえ方の違いがあっても、これらは「同じ」ものの使い回しと見なすのが、捉える耳のあり方としては正しいのではないのかなぁ、と、私は考えております。 

あえて短くて比較しやすい例だけをお聴き頂くようにしましたが、どうぞ、あとは世間の「能の囃子」の類のCDなどで、とくに「序ノ舞、中ノ舞、急ノ舞」などとタイトルがついたトラック、あるいは「羯鼓、神楽、猩々乱」などをお聴きになり、 
「あ・・・同じだ」 
を実感して頂けるのがよろしいのではないかと存じます。 

日本人でありながら、私も伝統邦楽の理屈などについてはまるで疎いのですけれど、こんなあたりに面白さを感じてたくさん聴いていくようになるのはきっと新鮮な面白さをたくさんの人に覚えさせてくれるものと信じております。


 

*1:ウェーベルンはもっと分かりやすい「バランス崩し」を、作品番号21を当てた変奏曲の第1曲でやっている。そこでは、記譜上は最初から三拍子なのですけれど、開始からちょっとのあいだを五拍子にすることで、「あれ? ちょっとちがうぞ」と聴き手に感じさせるように仕組んでいる。 

*2「太鼓入り破ノ舞」の、太鼓の手の名称と笛の唱歌のみ 
  太鼓 
カカリ~打込    : 
地  ~頭     :ーヲヒャーーーーラ 
    付頭    :ーヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ【呂ノ中】 
    ヲロシ   :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ(呂) 
    高刻    :ーヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ(呂ノ中) 
    ハネ    :ーヲヒャラーイ|ヒウヤ(干) 
    刻四ツ   :ーヒウルーイ|ヒョーイウリ(干ノ中)
 
    刻2    :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ(呂) 
    刻3    :ーヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ(呂ノ中) 
    刻4    :ーヲヒャラーイ|ヒウヤ(干) 
    上ゲ・打切 :ーヒウルーイ|ヒョーイウリ(干ノ中)
 
    頭     :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ【呂】 
初段目~付頭    :ーヲヒャヲヒャーリヒウヤラ (テンポが遅くなり、気は張る)
    ヲロシ   :ーリ|ヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ【呂ノ中】
    刻三ツ   :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ(呂) 
    刻2    :ーヲヒャヒュイ|ヒョーイウリ(呂ノ中) 
    刻3    :ーヲヒャラーイ|ヒウヤ(干) 
    上ゲ・打カケ:ーヒウルーイ|ヒョーイウリ(干ノ中)
 
地~  打込    :ーヲヒャラーイ|ホウホウヒ【呂】 
地頭~ 頭     :ーヲヒャヲヒャーリヒー 
トメ        :(イヤア) 
・・・太鼓の手の名称の同じものは同じ叩き方。すなわち、笛の一定の旋律に対し太鼓の違う手を組み合わせることによって、旋律の趣を異なったものに聴かせる(あるいは逆もまた言えるのであって、太鼓の一定のリズムに対して笛の違った旋律を組み合わせることによって、リズムを違った趣のものに聴かせる)、という「響きの多様化手段」もあるのだということを、能の舞囃子は示唆している。平家琵琶はまたいくつかの定型を物語の文の趣旨に沿った組み合わせに多様に変えることで多様さを実現していることが思い起こされる。->「平曲・平家琵琶・平家」カテゴリ参照 

*3:「太鼓入り破ノ舞」はCD版同梱冊子では63頁、LP版同梱冊子では45頁。上掲の笛の唱歌はそれによる。その他にも所載あり。録音に収めてあるものを譜にしている。その演奏では、笛は一噌幸政、小鼓は北村治(大蔵流)、大鼓は安福建雄(高安流)、太鼓は観世元信(観世流)。 

*4:音楽之友社、1993年刊。258頁から「羽衣」全曲を五線譜に採譜したものを掲載しており、287頁から「序ノ舞」、299頁から「破ノ舞」の譜となっている。点検してもらったかたが観世流なので観世流のシテで演じられたものを採譜したのであろうと思われるが、来歴が分からない。すくなくとも、観世寿夫の残した録音とはいくつもの大きな差がある。

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2011年10月 4日 (火)

「黙阿弥の明治維新」渡辺 保・・・伝統とは何か?

岩波現代文庫に収められることになったので手に取りました。

http://www.amazon.co.jp/dp/4006021909

Mokuamimeiji単行本は平成9年(1997)だったそうですから、けっこう前に書かれた本です。
でも、今なお刺激的で衝撃的な、私たちに
「黙阿弥とは<何をした>人だったのか?」
「歌舞伎の<江戸>とは何であるのか?」
と訴える力を強烈にたもっている書物です。

何故か?

それは、著者自身が文庫版に寄せたあとがきに述べられているような事情が未だに絶えないからではありましょう。

「ベテランでさえ江戸の地名を間違えるし、江戸の風俗はもとより、そのせりふのイントネーションの間違いは、しばしば耳立つようになってきた。
 むろん間違いは直せばいい。直しようがないと思うのは、役者が黙阿弥のせりひを歌わなくなってきていることである。さすがに『月も朧に白魚の』や『悪に強きは善にもと』を歌わない役者はいないが、何気ないせりふや脇役たちのせりふはどんどん現代語調になってきている。少なくともリアルに言おうとして七五調が乱れてきている。」
(379頁)

なぜリアルがいけないのか?
歌舞伎が虚構の世界だからなのか?
黙阿弥は歌舞伎のために虚構の世界を書き続けた最後の作家だったからなのか?

・・・実のところは、リアルがいけない理由は、黙阿弥が「虚構の世界を書き続けた」作家だから、ではないことが、後半最後「第二番目 大詰 明治を呪う女」を読んだ後で明らかになります。
晩年の黙阿弥があえて七五調を捨てて書いたセリフが、いかに凄みを持ったものであるか、もまた、同じ章の中で明確に述べられています(344-345頁)。
「明治を呪う女」に採り上げられた黙阿弥最後の作品は、それ以前の作品のどれに比べても、現実が最もよく反映されたものです。でありながら同時に、それまで、言ってみれば虚構の中に巧妙に現実を映し出してきた黙阿弥の手腕が見事に結晶化したものでもあると、その作品を読んだわけでもないのに信じられてしまうのは、大詰めに至るまでに現れる人間模様が、現実でありながら虚構よりも遥かに私たちに遠く思えるほど劇的であるからかもしれません。

発端として語られる市川小団次の死とそれをめぐる黙阿弥の思いへの著者の洞察は、まるで推理小説を読み始めるかのように私をずるずると本書に引き込んでいきました。第一番目は、この小団次の話を縦糸にしてさまざまな彩りの横糸をかけてみせてくれます。
中幕に語られる三代目沢村田之助のすさまじくも短い生涯もまた、読者に息を継ぐゆとりを与えてくれません。
そして、明治とともに始まる近代化への黙阿弥の積極的な取り組みと挫折を読み進むうち、
「もしかしたら、私たちは、近代化の名のもとに、本当は連綿と引き継がれるべきであった大事な何かを置き忘れてきてしまったのではないか?」
との疑問が沸々と湧き上がってくるのを覚えるのです。

七五調を軽んじた日本現代詩が、一面では少数者による例外を除いて自己のリズムを確立し得なかった理由も、黙阿弥の自力での脱出をかない難いものにしてしまった時代と密な関係があるのではないか、とは、読みながらふと感じた脇道ではありました。あるいはまたそれは、日本の音楽全般にも言えることではないでしょうか?

またも、あとがきから。前出引用のすぐ続きです。

「しかし黙阿弥のせりふは、現代劇のように人間の心理(黙阿弥の時代には心理などという言葉はなかった)と直結しているわけではない。むしろ断絶している。七五調のせりふを歌って自然とそこに人間の感情が浮かぶように出来ている。現代人はせりふを歌えばリアルな感情が表現できないと思うかもしれない。耳に空疎に響くと思うかもしれない。しかし実はそうではない。まるで歌でも歌っているように喋っていて、そこから人間の心持ち、周囲の状況、生活の実感が浮かんでくるというのが黙阿弥のせりふである。」(379-380頁)

私はいわゆる「クラシック音楽」好きであるからこんなことを思うのかもしれませんが、この文の中に、私たちはまた、外来文化であるオペラを本当はどのように摂取すべきであったのか、あるいは摂取をどのようにしなおすべきなのか、をも重ねて示唆されるように思います。
いや、もし演劇マニアだったら、シェークスピア劇の捉えなおし方を思い描くかもしれません。

それぞれの「言葉」「リズム」「調べ」文化の中に、人間がその土地その土地で長年かけて養ってきた何ものか、そんなにも大事に育まれてきていたにもかかわらず急激な時代の場面の変化の中で瞬時にして忘れ去られた何ものか、を、私たちはもういちど真摯に探りを入れていくべきなのかも知れません。

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2011年1月 4日 (火)

でたとこ能見物(2)小段構成の具体例

(1)能の大まかな構成(2)小段構成の具体例(3)能の始まりかた(常座・ワキ座・狂言座)(4)能の臍(5)能のクライマックス


(1)の復習をしておきますと、能の構成について、世阿弥は『能作書(三道)』(応永三十年【1423、世阿弥61歳】)という書物の中で、能の台本(謡曲)は序1段、破3段、急1段の計五つの段から成るのが原則だ、と述べていたのですが、現行の謡曲は、古典の全集では10段前後に区分されているのを目にすることが出来ます。
ただ、それらを観察しますと、各段2つずつが世阿弥の五段のうちの一段を構成する、なる単純なものではなくて、「序」と「急」にあたる部分は大抵は1段のみであり(複数の段にわたることがある)、残りは主として、劇としての演出を作者がどう考えたか、あるいはその台本の素材が劇にどんな流れを要求することによって、「急」の部分の小段配置に工夫を凝らすことから変化と充実がもたらされているかのようです。

今後の「観察」を念頭において、いくつかの例を見ておきましょう。市販の古典全集はどれも親切に分かりやすい傍注を記入してくれていますが、いまは新潮日本古典集成によります。
()内はよく用いられる演出方法とのことです。□は、分類を決め難い構成要素とのことです。
だいたいこのへんかな、というところに<序>・<破>・<急>と入れておきましたが、誤っているかもしれません。
なお、次第、サシ、一声(イッセイ)、問答、クセについては(1)でどんなものかの説明を引いておきました。他に出てくる小段要素については、いまのところは、「こういうことばが出てくるのか」程度にとらえておき、それらの中から特徴的なものについて、今後観察して行くことにしたいと思います。


高砂(たかさご、世阿弥作〜脇能【初番目】物)

<序>
1.(真ノ次第)〜次第〜名ノリ〜上ゲ歌〜着キゼリフ
<破>
2.(真ノ一声)〜イッセイ〜(アシライ)〜サシ〜下ゲ歌〜上ゲ歌
3.問答〜上ゲ歌
4.問答〜クリ〜サシ〜クセ
5.ロンギ
6.問答〜語リ〜問答
7.上ゲ歌
8.(出端)〜サシ
<急>
9.上ノ詠〜一セイ〜神舞
10.ロンギ


頼政(よりまさ、伝世阿弥作〜修羅【二番目】物)

<序>
1.(名ノリ笛)〜名ノリ〜上ゲ歌
2.□
<破>
3.問答〜上ゲ歌
4.問答〜語リ〜掛ケ合〜上ゲ歌[中入り]
5.【アイの】名ノリ〜問答〜語リ〜問答
6.□
7.(一声)〜サシ〜上ノ詠〜一セイ
8.掛ケ合〜上ゲ歌
9.名ノリグリ〜サシ〜クセ
10.語リ〜中ノリ地
<急>
11.ロンギ


井筒(いづつ、世阿弥作〜鬘【三番目】物)

<序>
1.(名ノリ笛)~名ノリ~サシ〜歌
<破>
2.(次第)〜次第〜サシ〜下ゲ歌〜上ゲ歌
3.問答~上ゲ歌
4.クリ〜サシ〜クセ
5.ロンギ[中入り]
6.【アイの】語リ~問答
7.上ゲ歌
8.(一声)〜サシ
9.一セイ〜序ノ舞〜ワカ
<急>
10.ワカ受ケ〜ノリ地〜歌


道成寺(どうじょうじ、作者不詳、観世信光作?〜四番目物)

<序>
1.(名ノリ笛)~名ノリ[ワキ]
2.問答〜触レ
<破1>
3.次第〜名ノリ[前シテ]〜上ゲ歌
4.問答[アイとシテ]
5.問答[アイとワキ連]
6.問答[アイとシテ]
7.アシライ=□〜次第
<急1>
8.乱拍子[乱拍子謡]〜[ワカ]~急ノ舞[ワカ]
9.ノリ地〜[前シテの鐘入り]
<破2>
10.□〜問答[アイ同士]
11.問答[ワキとワキ連]〜問答[ワキとアイ]〜語リ〜問答[ワキとワキ連]〜(ノット)
<急2>
12.□〜ノリ地
13.祈リ=中ノリ地〜歌


船弁慶(ふなべんけい、観世信光作〜切能【五番目】物)

<序>
1.(次第)〜次第〜名ノリ〜サシ〜下ゲ歌〜上ゲ歌〜着キゼリフ
2.問答[ワキとアイ]
<破>
3.問答[ワキと子方]〜問答[ワキと前シテ]〜問答[ワキと子方]〜上ゲ歌
4.問答~掛ケ合〜詠〜問答〜物着アシライ〜[一セイ]〜イロエ
5.サシ〜クセ
6.[ワカ]〜中ノ舞〜ノリ地〜上ゲ歌(中入り)
8.[シャベリ]〜問答
9.□〜問答〜一セイ
10.問答[ワキとアイ]〜問答[ワキとワキ連とアイ]
11.□〜問答[ワキと子方]〜[クリ]〜歌
<急>
12.(早笛)〜名ノリグリ[後シテ]
13.□〜ノリ地〜舞働=ノリ地


何番目物、というのは、元来、能が五番だてで演じられ(世阿弥の絶頂期は三番立くらいだったようですが、その晩年には五番どころではないほどに増えたりし、世阿弥は少々危惧の念を持っていたようではあります・・・で、彼の書き残したものからは、彼がいちおう五番立てに分類される嚆矢をなしたように読めます)、それぞれの順にどんな趣の物語なり内容が演じられるかが決まっていたことから来る呼び名で、初番が神ないし神の化身、二番が修羅道に堕ちた武人、三番が女性もしくは美男、四番が狂あるいは他のどれにも入れ難いもの、五番が異界からの来訪者を、それぞれ扱うのが原則だそうなのですけれど、例外もあります。船弁慶などは四番目物だと記してある本もあります。
段の構成は、上記の謡曲が何番目物であっても、その分類を特段代表するものではなく、物語の要請によって自由に組み合わされています。ですから、上例からは、むしろ、その謡曲が何番目物であっても、かなり似たところがあるのに注目しておけば良いと思います。五番目物の名作、「猩々」(作者不詳、金春系統の能か?)などは、謡曲そのものには殆ど言葉がなく(新潮日本古典集成では3頁足らず、4段)、舞のみが大きな見どころとされています。
作者が世阿弥または世阿弥だと思われているもののシンプルなつくりに対し、能が危機に瀕した頃の功労者だった観世信光の作だと考えられている「道成寺」・「船弁慶」は、もし能が幕で区切られる演劇だったら二幕になっただろう、入り組んだ構成になっています。上では「道成寺」の方は仮にそのような意識で<破1>・<急1>と挟んでみました。本来は<急1>とした「乱拍子」の部分は、まだ<破>の部分に属すると見るべきでしょうが、この「乱拍子」は「道成寺」のみにある小段でもあり、非常に緊迫した静粛による長い間が大きく開くうえに、このあとで前シテが鐘に飛び込むという、これも独自の激しい演出を伴っていて、ここにいったん<急>が来る、と見なしても不自然ではないと感じております。そのあとの、アイの問答が、独立した狂言(ただし話は謡曲本体に密接に絡んでいるため切り離すことはあり得ない)と思ってもよいほどに長いのも特徴ですが、これは「船弁慶」の8〜10段の問答にも似通った点があります。・・・とはいえ、この問答をあまりに長々演じると、能全体が緩みます。

「ロンギ」についてだけ説明を引いておきます。

これは論議の義で・・・多くは地謡とシテとの掛合であるが、稀にはワキとシテ、又はツレとシテでロンギを謡ふ場合もある。(藤波紫雪『お謡ひ稽古の手引』)

三省堂の『能楽ハンドブック』では、「中入の前にあるシテとワキのかけ合い」云々とありますけれど、実践家である藤波師の説明のほうが、謡曲の内容に照らし合わせると正しいのが分かります。

ここまでみておいたところで、小段の要素の特徴などを、また少しずつ見て行きたいと思います。

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