藤原定家

2010年1月 1日 (金)

俊成(釈阿)九十の賀

あけましておめでとうございます。

ずっとサボっていた、藤原定家ネタです。
「熊野御幸随行」(1201=建仁元年)についてごく簡単に綴ったところまでで、行き詰まっておりました。
創作面では、定家はこの翌年、後鳥羽に召されて、六月には水無瀬釣殿当座六首歌合に詠進、九月には水無瀬殿恋十五首歌合に出席しています。閏十月には左近衛権中将に任じられています(堀田善衛「定家明月記私抄」年表による)。後鳥羽の気まぐれに翻弄されて無理して出かけることも多かったようで、明月記には愚痴が多く見受けられるような気がします。統計をとってみてはいませんが、この年はまた、天気の悪い日が多い。定家の後鳥羽に対する感情が日に日に悪化していくのが文脈のあいだからじわじわとしみ出すようになってきます。昇進の月の日記で残っているのはただ一つ、しかも「反古裏」に書かれたものらしく、この昇進の次第をあっさりと述べたもので、彼の感動がどの程度のものだったかはよく分かりません・・・いや、言葉はいかめしいものの、字面はそんなに嬉しそうには見えません。

閏十月(反古裏)
    慶賀事、
右久積鳳闕左伏舊労、適浴虎賁中郎之朝恩、自愛無極候之處、今預賀札、殊抽感懐、
(右 久しく鳳闕左伏の舊労も積もり、虎賁中郎之朝恩に浴すに適う、自愛極まり無く候之處、今賀札に預かる、殊に感懐を抽す、)

  立昇たつのこころはをもひやれかひあるみよのわかのうら浪
  (立ち昇る龍の心は思いやれ 甲斐ある御代の和歌の浦波)

併期拝謁之次、恐々謹言、後十月廿一日左中将定、

さらに翌年(1203=建仁三年)四月には新古今集の撰歌を献じたりしています。

定家自身の歌については、新古今成立の話の中に含めてしまったほうがよかろうと思います。

この建仁三年には、父、俊成=釈阿入道が和歌所で後鳥羽上皇から九十歳を祝う歌会という異例の祝賀を受けるという、特別なことが行われています。有名な話ですが、これについて取り上げておきたいと存じます。



平安初期以来例のなかった、公卿個人に賜るというこの祝賀は、後鳥羽が『新古今和歌集』に見せた意欲の顕示の一環であった、とは、多くの書物に書かれている通りです。『源家長日記』によれば、
「かの光孝天皇の御時、はなの山の僧正仁寿殿にめして、賀をたまはられるを例として」
なされたということになっています。この時代は、実際には藤原基経が摂関政治を確立したころなのでしたが。
後鳥羽の俊成への心酔ぶりは、『御口伝』に
「釈阿(=俊成の入道名)は、やさしくえん(艶)に、こころもふかく、あはれなるところもありき。愚意に、庶意に、庶幾する姿なり」
とあるところからも窺え、後鳥羽が目指す新しい歌の世界の象徴としてたてておくには最もふさわしい長老だったのでしょう。

俊成は再三辞退したのですけれども、当初の予定では九月十三日に行なう、ということで、出席者十人までもが決定していましたが、折しも比叡山の学僧と衆徒が争うことがあり、十一月二十三日にようやく催されたのでした。・・・旧暦では厳寒の時期です。
ともあれ、この催しは京の歌人にとって非常に大きな出来事であったため、『源家長日記』の詳しい記述のほか、『建礼門院右京大夫集』にも逸話が登場します。この集の筆者が、後鳥羽院の仰せで、宮内卿の歌を俊成への贈物の法服に紫糸で刺繍することになったものの、歌の字がよろしくないので一部改めることを進言して入れられた、というものです。
もとの宮内卿の歌は

  ながらへて けさ「ぞ」うれしき 老の波 やちよをかけて君に仕へ「む」

というものだったのを、これでは俊成自身の歌になってしまうので印からのお祝いの品としてはお粗末だということで

  ながらへて けさ「や」うれしき 老の波 やちよをかけて君に仕へ「よ」

と、院の立場から俊成の長寿を願う意味合いのものに直したのでした。(『源家長日記』には、この直されたかたちで歌が記載されています。吉川弘文館の人物叢書『藤原定家』では、なぜなのか分かりませんが最後の句の締めくくりが「仕へる」に なっています。p.100)
なお、縫い込まれた歌はもう一首、藤原有家のものでした。

  ももとせのちかつく坂につきそめて いまゆくすゑもかかれとそおもふ

これは、さすがはベテランの歌、優しい思いやりを感じさせます。

賀の会が明けてから、建礼門院右京大夫は別に俊成に歌を贈って思いやっています。

  君ぞなほ 今日より後も かぞふべき 九(ここの)かへりの 十(とを)のゆくすゑ


極寒の中で催された会は、暖房など整っていなかった当時、高齢の俊成にはかなりきつかったのではないでしょうか? 『源家長日記』は、俊成の入場の模様をごく簡単に 「入道殿(=俊成)ややまたれて、新三位(=定家の兄、成家)・定家朝臣にたすけられてまうのぼる」 と記していますが、これだけでも老人の痛々しい姿が見えるようです。

式はまず、奏楽がなされて始まりました。

大納言隆房:拍子、権中納言兼宗:箏、権中納言公経:琵琶、
正三位経家:笙、経通朝臣:笛、頼房朝臣:和琴、雅経:篳篥

という編成でしたが、どのような曲を演奏したのかは『源家長日記』には明記されていません。
これだけでもおそらく結構な長さがあったと思われますが、奏楽の後に俊成本人を含む二十三人の詠歌です。詠歌が今の歌会始の形式でなされたのかどうか分かりませんが、一首二度の朗詠だとすれば(読み上げと唱和)、ひとつ3分はかかりますから70分。俊成が解放されたのは暁方だったとあり、かつ二十三夜の月がこうこうと照る晴れ空だったようですから、冷えが最もきつい時刻の退出で、老人の体にはどれだけこたえたことだろうか、と思います。

詠じた順番に、出席者(歌を詠んだことが明白な人物)は以下の通りです。

後鳥羽上皇
参議左大弁
釈阿(=藤原俊成本人。1114-1204)
摂政左大臣(九条良経、兼実息、新古今の代表的歌人。1169-1206)
太政大臣(藤原頼実。六条入道太政大臣と呼ばれる。1155-1225)
大納言通資(源通親の弟。)
中納言兼宗(藤原、正しくは権中納言?)
権中納言公経(西園寺、承久の乱の際、鎌倉幕府方として後鳥羽に幽閉される)
権中納言範光(藤原、この年昇進、翌年辞任)
右近中将通光(源通親の三男、後年、太政大臣にまで至る。1187-1248)
参議通具(源通親の次男。1171-1227)
正三位経家(藤原。1149-1209)
有家朝臣(藤原。1155-1216)
定家朝臣(=俊成息、このカテゴリのあるじ!)
つねみちのあそん(経通朝臣、藤原泰通の長男)
頼房朝臣(藤原。1176-1253)
雅経(飛鳥井、蹴鞠の名手で後鳥羽の寵臣)
具親(源通親の子息)
家長(源、『源家長日記』の筆者)
鴨長明(1155?-1216)
藤秀能(藤原、のちに承久の乱に追手の大将として関わる。遠島後の後鳥羽とも交流。1184-1240)

(参考:新岩波古典文学大系『新古今和歌集』、山川出版社『公卿補任年表』、新人物往来社『鎌倉・室町人名事典』〜私に分かりきれないところはご容赦下さい。家長日記の注釈書と一人異なった人物を当てているはずですが、これは注釈書のほうがあやまっているのを確認済みです。)

このとき飾られた屏風にも、四季各々三首、計十二首の歌が書かれていて、中には慈円も歌を寄せている他、女流歌人が讃岐・宮内卿・丹後・俊成女と四人登場しています。

俊成が出席に気乗りしなかったのを端で見ていたからか、はたまた後鳥羽に対してだんだんと不愉快な感情を抱き始めたためか、定家はこの日のことについて、明月記には全く記していません。この年の十一月の記事は日にちが十日以外にこの二十三日だけ欠落しています。十日の欠落の理由は分かりません。それでも、これだけきちんと日にちが揃っている日記で(十五日は本文はないながら天気だけは記してある)、いちばんの出来事である二十三日についてはひとことも触れられていない裏には、やはり意図的なものを感じざるを得ません。



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2009年8月 7日 (金)

定家の熊野随行

大井浩明さん、BSに登場です!下記リンクをクリック、是非お見逃し無く。
8月5日(BS hi)終了・9月15日(BS2)
大井さんのブログでの情報はこちら。http://ooipiano.exblog.jp/11605999/
・・・「フォルテピアノ」について貴重な知見の得られる番組となることでしょう!!!



吉田美里さんリサイタル・・・キャンセル待ちですよー。

定家が西暦で言う1201年に生涯でただ一度、後鳥羽院の熊野詣に随行したことについては、「明月記」自体にもその日々のことが細々と記されてもおり、その部分だけが独立して読まれたりもし、詳しい書籍が豊富にあります。

ですが、「歌」という視点から見ると、あらためてブログくんだりで云々するほどのなにものかは、私には結局得られない気がしました。

現代の熊野を「出来るだけ徒歩で」という試みの書籍は定家が書き留めた足取りをたどっていたりしますし、<熊野御幸記>と称して独立して読まれてきた「明月記」の部分を軸にして時間軸を定家以前から近代まで自由自在に取ったものには角川文庫ソフィアの『藤原定家の熊野御幸』(神坂次郎著 角川文庫1463、平成18年)という、手軽ながら丁寧な記述の本があり、これさえあれば、「歌」についてのワンポイント以外は、今回の駄弁は弄する必要が全くないかと思います。

そこで、長々、様々読んでは見たのですけれど、この件については、私はあっさり触れるだけにとどめることにしました。

とにかく、この熊野への同行は、三十代の内に呼吸器疾患(喘息だったのでしょうか)を患い始めていたとおぼしき定家にとって端からきついものだっただけでなく、当時の社会は君主の旅行は臣下の健康にまで配慮するような優しさは全く持ち合わせていませんでしたから、旅程と賦課義務を果たすので目いっぱいだった定家には辛い期間でしかなかったことが、彼の言辞からうかがわれるだけです。

定家自身の作は、既に安定的な質は保っているものの、目の覚めるような詠歌はないように思います。

一例として、疲労の中で御前に召されたときに詠んだ次の歌には、かろうじて定家の本音が垣間見える気がします。


山路の月

そでのしものかげうち払ふみ山ぢもまたすゑとをきゆふづくよかな

一方、主君の後鳥羽は悠々たるもので、この御幸の間に、優れた歌を何首か残しています。

海辺眺望

うら風になみのおくまで雲きれてけふみか月のかげぞさむしき

この差異・・・定家の細やかな侘しさに比べ、後鳥羽の捉えた寂寥感の幅の、なんとひろいことでしょう!・・・から覗き見うる、後鳥羽と定家の精神的なゆとりの差が、このご引き続く主従の間の軋轢の端緒を形作ってしまったのかもしれません。

そうした軋轢を眺めるほうが、野次馬としては面白いので、ここで停滞するのはこれくらいにして、次のネタに目を移して行きたいと思っております。

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2009年1月25日 (日)

千五百番歌合5:判者の価値観(3)御子左家—旧世代から新世代へ

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<過去の定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:(今回)


専門歌人たちから、六条家を代表する人物の判をみてみましたが、今回は御子左家の俊成(釈阿)・定家親子の判の例を見てみましょう。

父の俊成は「春三」・「春四」を、息子の定家は「秋四」・「冬一」を担当しています。



俊成の例を、先に見てみましょう。
『六百番歌合』で一手に判を引き受けた際の機知と手腕を、今回の『千五百番歌合』でも発揮しているかどうか・・・こちらでは他の判者とも相対的に「価値観」が比較できるために、彼の和歌眼の真価が問われることになります。

ひとつひとつ見て行くと、彼の万葉集第一主義が垣間見えたりはするのですが、彼に対抗意識を燃やした顕昭の歌については別段万葉集を引き合いに出したりはせず(六百番歌合では顕昭の、俊成からみれば「不当な」万葉歌の参照については盛んに疑問を呈していました)、『千五百番歌合』の判に当たっては無用なカドを立てぬように配慮したのではないかと推測されます。しかも、顕昭の歌自体がこの歌合では『六百番』のときほどに奇抜なものはないからでしょう、その歌に対しての判は概ね落ち着き払っています。


百九十五番
   左 勝                     顕  昭
おもふことなくて見るべき花ざかり心みたるる春の山風
   右                       家隆朝臣
散なれし梢はつらし山ざくら春しりそむる花を尋ん

(判辞)右歌新樹をたづねんといへる心おかしくも侍を左歌の心よろしく侍と申べくや侍らん

・・・きわめてあっさりしたものです。六条家的な判辞にさえ見えます。ただし、クセモノなのがこの判辞の前半で、言葉には出していないのですけれど、俊成は新世代である家隆の歌をも良く評価している。ただ、推し量るしかないのですが、新世代の詠みぶりの、ある意味で俊成たちの世代に比べて「起伏の激しさ」に対しては、まだ彼の心のどこかに抵抗感がある。それが、ここでは顕昭の穏健な歌の方を勝ちにした動機になったのではないかと感じるのです。
俊成は、全般に、それでも新風の女流、小侍従や宮内卿、越前には、掛け値無しの高い評価を与えていたりします。これは、俊成よりもはるかに先輩格である女流にも、小野小町や和泉式部のような、心の波立ちの激しい歌が存在し、しかも高く評価され続けてきていたことも影響しているのかもしれません。・・・同じ女流でも、讃岐や丹後のように同世代に属する人たちの穏やかな詠みぶりには、平坦な判辞しか与えていないように思います。・・・すみませんが、このあたりは私の主観に過ぎませんので、むしろ旧世代(同世代)に属する方を勝ちにした女流同士の歌の次の番えの例を見ておいて下さい。姿さえ崩れていなければ、やはり俊成は「新風の起伏」に魅かれつつあって、老境に至ってなお、かならずしも「型通り」が良いとは思っていなかったと感じられる節があり、興味を引かれます。宮内卿の歌が「秋」に飛ぶ・・・古例がないわけではないのですけれども・・・突飛さが、丹後の安定した歌と比較されたところに、どうしても丹後を勝としなければならなかった理由がありそうです。

二百四十七番
   左                       宮内卿
をしこめておぼろ月よの春ならば霞のほかを秋となかめし
   右 勝                     丹 後
春風にしられぬ花やのこるらん猶雲かかるをはつせ乃山

(判辞)左歌おぼろ月よの春ならばなどいへる心こもりてはみえ侍を
    右歌猶雲かかるをはつせの山すがたよろしくも侍かな以右可為勝

これらの判辞はたまたま短く、また、前回見た季経の判辞と似ているように見えなくもないのですが、歌の姿を優先する点では確かに違いはないものの、歌合の作法を破ってでも自分自身の歌を勝ちにした次の例には、俊成の、作歌技法に対する厳しく冷静な目が鋭く光っています。

二百四十五番
   左                       公経卿
つぶつぶと軒の玉水数そひてしのぶにくもる春雨の空
   右 勝                     釈 阿
猶さそへ位の山のよぶこ鳥むかしの跡をたえぬほどおば

(判辞)左歌末の句などすがたもおかしくこそ侍を はじめの句につぶつぶといへるや
    いかにぞ聞え侍れど いはばや物を心行までとうたふ郢曲の歌も侍ればおかし
    くも侍べし
    右歌は老法師乃述懐に侍けり ただ左のまさると侍らまほしく侍を このよぶ
    こ鳥はいささか人の憐憫もこひねがふべく侍を たまたま判者の人数にまじは
    りて侍ればこればかりは得分にや申うくべくはべらん

露骨な判辞ですが、本来的な意味でなぜ公経の歌よりも自分の歌をよしとしたのか・・・いや、俊成自身の歌でなくてもよかったのですが、むしろ俊成自身の歌であることを幸いとして焦点をずらし、ある意味で「無難な」判辞を「わざと」仕立て上げたのです・・・は「こんな郢曲でもあるというのでしたら、公経さんの歌でもよろしゅうみえることにならはるのやすやろな」という強烈な皮肉に籠められているのでして、じつのところは、「歌」は「郢曲(今様を含む)」に比べて高雅であるべきなのに、なんと不用心な、という非難を浴びせかけているのです。俊成の面目躍如、といったところでしょう。



さて、息子の定家の方は、どうでしょう?

彼の方は、父の毅然さに比べると、この時点ではまだ揺れ動きがあるように見えます。父と共通する目線を感じるもの(典型例は八百七十番)、鮮烈な感化を受けたばかりの後鳥羽と共通する視点をもつもの(同じく典型例は八百八十四番)などもあります。
ただ、六条家だけでなく、父にもあった「トータルとしての歌の姿が整っていなければならない」という価値観は、定家は既に捨てつつあります。いくつもそのような例を上げることは可能かと思いますが、「冬一」の中にある次の例を見て下さい。・・・明らかに右歌が劣っている例なので、目立たないのですが・・・

八百七十二番
   左 勝                  女房(=後鳥羽)
もみぢするほどは時雨のむら雲に空行月やめぐりあふらん
   右                    寂蓮
軒ちかき峯の嵐も心せよ木のはならではくもるやとかは

(判辞)右歌心せよと侍るこひねがはれずや侍らん
    もみぢするほどは時雨のなど姿詞まぎれずおかしくきこえ侍れば空行月の
    ひかりもなを勝たるにや侍らん

「もみぢなど」云々以下は、「歌全体」としては破調することがあっても、それが詩情を充分に呼び起こすのであれば、それは素晴らしいことなのだ、と、暗に主張しているのです。
落ち着いて後鳥羽上皇の歌をよく読めば分かることですが、もくもくと分厚い雨雲が月の光と両立する、という景色は、実際に存在するでしょうか?・・・詩的イメージでなければ、これは成立しないのです。
父、俊成なら、「あまりよいとは言えない<持>」と判定してもおかしくなかったのではないでしょうか?



簡単ですが、六条家と御子左家の歌を見る態度の違い、また、同じ家でも、培われて来た伝統の上で可能な限り新風を認めようと努力する父、努力を要せずあっさりと新風を当然のことと受け入れる息子、の差異をご覧頂きました。
『千五百番歌合』については、こんなところまででお茶を濁しておきます。

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2009年1月22日 (木)

千五百番歌合4:判者の価値観(2)専門歌人—六条家

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直近の「クラシック音楽」関係記事は、「ねこは猫の夢を見る」です。
心づもりでは、数日後から「バロック」・「モーツァルト」関連、または記念年作曲家等について綴りたいとは思っております。


<過去の定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:


前回は、『千五百番歌合』の中で「為政者」たちが判者となったケースを見てみました。

残る七人の判者は、いちおう専門歌人たちとみなして良いかと思います。
六条家と御子左家の代表選手が名を連ねています。
今回と次回(の『千五百番歌合』関連記事)で、
・彼らが下した判は、為政者たちとはどのように異なっているか
・六条家と御子左家の判に、果たしてそれぞれの個性が表れているか
・その中にあって、さらに新世代(といっても定家しかいませんが)は別の特徴をもっているか
を観察してみたいと思います。

専門歌人の判は、どちらの家の流れを汲んでいるかに関わらず、基本的に散文であり、まずそこに、為政者たちとの違いが現れています。
為政者たちが「精神的な判」を重んじたのに対し、歌の詠み方を、専門家として具体的に分析する、という立場を固守しています。
それでも判者ごとに違った特徴が見られることは、関連記事1で簡単にまとめた通りです。

では、それがなおかつ「流派」的なものによって相違点を見出しうるものなのかどうか、を問題にして、この『歌合』についてのまとめに備えたいと思います。

今回は六条家側の例を採り上げます。まだ御子左家との対比はご覧頂けませんが、為政者との違いは、字面を見ただけでも明々白々になることでしょう。

採り上げる判者は二人、ほとんど同年輩のベテランです。それぞれ、御子左家とは犬猿の仲だった、と伝えられる人物ですが、その「犬猿の仲」ぶりが、果たして判に反映されているかどうかについても探っておきましょう。



まずは、定家と(三十歳の年の差があるにもかかわらず)激しく対立した、と伝えられている、藤原季経です。・・・彼が本当に定家と対立していたのなら、「対立」という言葉から連想されるのは定家に対する、あるいは御子左に対する、感情むき出しの「低評価」をしているのではないかと想像されます。
そこで、季経が判を担当した「冬二」・「冬三」について、定家の歌をどのように判じているかを数えてみました。
その結果は・・・該当10首中、勝3、持4(うち千八番は慈円との番え)、負3(うち千二十二番の相手は良経、千三十六番の相手は上皇)で、為政者以外との番えで負けとなったものは一首に留まっています。
これは、季経にはなにも媚びるべき理由はないのですから、たとえ「対立」が本当にあったのだとしても、定家の歌について「対立」感情をもってではなく、客観的な目で、きちんと評価してやっているのではなかろうか、と想像させられる数字です。為政者を除いて見直せば、のこり7首の勝負の内訳は、「勝3、持3、負1」ですから、むしろ高く評価していると言ってもいい。
この結果から、では同じ六条家側の顕昭についてはどんな判を下しているのだろう、というところに、俄然興味がわきましたので、同じように数えてみると、該当10首中、勝は1のみ、持が6(うち千五番は釈阿=定家の父、俊成)、負3、と、さすがに負は3に留めて彼の顔を潰さぬようにはしているものの、あまり高く評価していないさまが見て取れ、ちょっと驚きました。かつ、為政者を相手方として負と判じられたのは九百四十五番の良経と番えられたもののみであり、持となったものには為政者に準じる三宮との番えはあるものの、直接的な為政者と番えられたのは良経とのものだけです。

そういう次第で、季経が定家を勝としたものの中から、ひとつを選んで載せておきましょう。
九百二十四番はあっさりしすぎ、九百八十番は顕昭や御子左家的な理屈っぽさがありますので、いちばん自然に読めるものを挙げます。

九百五十二番
   左                      宮内卿
花にとひしあとを尋てまつ人もこずゑの雪に嵐吹也
   右 勝                     定家朝臣
これやさはあきのかたみのうらならんかはらぬ色をおきの月影
(これや、さは、秋の形見の占【浦】ならん変はらぬ色を置き【沖、隠岐】の月影)

(判辞)左歌 花の折は訪ひし人も今は来ずとよめるにや 心きこえて侍れども
    右歌 これやさは秋のかたみのうらならむ などいへる、宜しく侍り。
    おきの月影ぞ、いかにぞ侍れども勝と申すべし。

「おきの月影」という表現が季経としては【沖】が【隠岐】まで飛んで行ってしまっているような大袈裟な印象があってしっくりきてはいないのですが、それでも確かに、この二つを比べると、定家のウィットのほうがはるかに面白い。六条家関係者は情から歌を判じているケースが多いのですが、季経のこの判辞は、その点、客観的な視線をはっきり感じます。



さて、もうひとり採り上げたいのが、身内の季経もそんなに高く評価している気配のない顕昭です。
この人が、俊成の『六百番歌合』での判に不満たらたらで、対抗して陳状を書き残したことについては、幾つか綴った『六百番歌合』記事の前半に集中して綴りましたので、その面白さを思い出して味わって頂ければと思います。
御子左家への「対抗意識」丸出しだった顕昭、『千五百番歌合』では相変わらずなのでしょうか? それとも少しは変わったところを見せてくれるのでしょうか?

季経と似たように、ただし、身内関係者ではなく、彼がライヴァル御子左家の俊成・定家親子に下した判の数を、担当した「恋二」・「恋三」で数えてみました。

※俊成(釈阿)への判=勝6(うち千二百三十番は顕昭自身と番えたもの)・持2・負2(うち一つは上皇との番え)

※定家への判=勝2(慈円・顕昭が相手方)、持0、負7

・・・どうやら俊成のことは持ち上げているようですが、定家に対してはケチョンケチョンと言えます。
慈円との番えで「勝」としたものの判辞は長ったらしいしので(他人の歌への判も長くて理屈っぽいところは、『六百番陳状』を彷彿とさせ、このひとの性格も考え方も本質的には全く変化していないことを知らせてくれます)、定家を負けにしたものから、ちょっとでも読み易いものを挙げておきましょう。ただし、いちばん短い判辞では顕昭の特徴が見えて来ませんので、辛抱して「少しだけ長いけどこんなもんか」という例を載せます。

千二百五番
   左 勝                    公経卿
かくしつつうき身消なばありしよの夢をはかなみあはれともみよ
   右                     定家朝臣
夢なれやをののすが原かりそめに露わけしそではいまもしほれて

(判辞)左歌は伊勢物語のねぬるよの夢をはかなみまとろめばと侍歌
    のこと葉をおもはれたるにや あはれにきこえ侍。右歌はお
    もはれたる筋侍歌にこそおぼつかなく侍。但もし源氏の物語
    に北山のたびねにむらさきの上のむば(乳母)の尼君にあひ
    て はつ草のわかばのうへをみつるよりたびねの袖は露もか
    はかず と侍歌のやがて詞乃侍。そのことの有様などをおも
    はれたるにや 小野のすが原なども北山のたびねにたよりあ
    りてや この事雲をばかりのことに侍 歌合の歌はたしかな
    るべければ そのことうけたまわるほど 左 可勝歟。
    
せっかく勝たせてもらった公経卿も、これほどまでに蘊蓄づくしの判を読まされては、すこしうんざりだったのではないでしょうか?
顕昭は万葉集に詳しいと自負していたようですが、この判の場合には、別に顕昭ではなくてもよく知っていたと思われる短い『伊勢物語』と、長いとはいえその比較的初めの方に出て来る『源氏物語』の有名な場面をわざわざ判辞に明示しているから、なおさら鬱陶しい感じがします。・・・彼は、こんなふうにおのれの通ぶりを顕示したくてたまらない。

六条家の判はたしかに古典籍を御子左家側より厳密に読んでいたことが、俊恵の残した多くのエピソードから窺われるのですけれど、俊恵当人はあくまで歌を詠むさいにその「心」を求める手段として古典籍を大事にしたことが長明などの残した逸話から明確に伺えますから、歌合の判でしたり顔に転籍そのものに言及するのは、六条家側としても本意ではなかったはずです。
ですから、今日挙げた例では、季経の判は健全ですが、顕昭のものにはやはり異常さを感じます。



六条家側の、歌の評し方を、正常だと思われるものと変なものとの二例上げましたが、やはり為政者とは違って、歌の心そのものよりも、歌を詠む「技術」を評価する姿勢が前面に出ているのが分かります。この点は御子左家側も基本は同じです。
では、なにか相違点があって、それがこの二家を「対立させた」と世の中に見なされることになっていたのでしょうか? そのあたりは、次回、御子左家の判者の判辞を見ることで(ごく上っ面にはなってしまうでしょうが)確認したいと思います。(1、2回、間を置きます。)

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2009年1月21日 (水)

千五百番歌合3:判者の価値観(1)為政者の場合

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・・・是非、お目通し下さい。



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純粋に「クラシック音楽」関係ではありませんので、ご容赦下さい。
わたくし的には、「ねこは猫の夢を見る」をお読み頂ければ幸いに存じます。

<過去の定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:


またもや千五百番歌合の続きです。

通常の歴史家と違い、「和歌」の研究者である目崎徳衞氏が「歌も政治であった」という意味合いのことを述べているのは、何故でしょう?(「和歌の勅撰は若い治天の君の最初の政治的達成であった。」同氏著『史伝 後鳥羽院』72頁、吉川弘文館2001)

目崎氏の記述を裏付ける言葉は、『新古今和歌集』の仮名序に
「やまと歌は・・・世を治め民を和らぐる道」(九条良経)
同じく真名序に
「夫和歌者、群徳之祖、百幅之宗也。玄象天成、五際六情之義未着、素鵞地静、三十一字之詠甫興。爾来源流寔繁、長短雖異、或舒下情而達聞、或宣上徳而致化。(或ハ下情ヲノベテ聞ニ達シ、或ハ上徳ヲ宣ベテ化ヲ致ス。・・・」(藤原親経)
という具合に見ることができます。詠歌が「勅撰」でまとめられるのは政治的意図に基づいていることが、明示されているわけです。
その「政治的目的」は、歌を通じて民意を汲み、あるいは上意を下達するところにある、というわけです。

こんにち的な目からすれば、「歌集ごときで、何を!」となるでしょう。
たしかに、平安中期までは見られた具体的な社会政策は、朝廷及び官僚によって成されることは、当時既に絶えていました。
しかしそれは、官僚としての国司が自ら任地に赴かず、現地の下級官僚に民政も財政も委託してしまったからであり(その歴史的な意味合いについては述べるまでもないでしょう)、京にまします上皇やお公家様には直接そうしたことに手を染める体制ではなくなってしまっていたからで、とくに下級官僚の大半(ではないかと思っております)が武士化し、さらには民政と財政の実務を完全に握ってしまったあとには、皇族と上級官僚はそこから約束事に従った「あがり」だけを受け取ればすべて済んでしまった、と言っても良いのかもしれません。

それでもなおかつ朝廷が「直接出来る政治はないか? 民意を汲み、朝廷の威を世に示す手だてはないか」となると、残っていたわずかなひとつの手段が、「勅撰」により和歌集を編む、ということだったのです。
・・・従って、「承久の乱」の準備をし始めて、あるいは武芸にとりかかってみて、初めて後鳥羽が政治を意識した、という見方は、『新古今集』の序文から見ても誤っています。「承久の乱」自体は、前回少し述べた通り、皇族・公家社会と武士社会のあいだにあった「はず」の財政分担上の暗黙の了解とでも言うべきことどもが崩壊してしまったことで初めて企図されたものではないか、と思われます。

「新古今」そのものが、後鳥羽上皇に達成可能だった初めての政治的結晶だとすれば、その前段階での後鳥羽をはじめとする為政者(=朝廷)の意識は奈辺にあったのでしょうか?

それが、『千五百番歌合』の判者を担当した彼らの判辞のうちに垣間見られるのではないか、というのが、今回の仮説です。



この歌合で判者となった為政者は、急死した源通親を除けば、後鳥羽上皇自身の他には左大臣の九条良経です。それに準じる立場にあったのが、九条家出身の慈円だった、と言うことになるでしょう。

それぞれが担当した巻から、興味深いと思われた判辞を、その判を下した歌の番えと共に各自一例ずつ紹介しておくことにします。



まず、後鳥羽上皇自身が担当したのは「秋二・同三」の巻です。
特徴は、判辞が折句(歌の番えから、そこにある言葉を引き、それを織り込んで和歌の態に仕立てたもの)になっていることで、このことは『千五百番歌合』に言及した書物では必ず触れられていることです。
いまは、その「面白さ」をではなく、なぜこのような「遊び」を後鳥羽が行なったのか、を、少しでも見ておきたいと思います。

六百三番
   左 勝                   前権僧正(=慈円)
なくしかのこゑにめざめてしのぶかなみはてぬ夢の秋の思ひを
   右                     雅  経
たづねてもたれかはとはんみわの山きりのまがきに杉たてるかと

(判辞)しのふ夢かつがつさめぬそらの月よはわたる山のきぎの秋かぜ

・・・この例で勝ちとされた慈円の歌は、『新古今集』にも撰ばれることになります。
判辞は、後鳥羽の担当した中では最初の方の、担当巻中もっとも典型的なもののひとつとなってます。
すなわち、「折句」のキーになる語彙は基本的に勝ちとする歌の方から採り(この例では「しのぶ」・「夢」)、可能な限り負けにした方の歌との対比が分かるかたちで(雅経の歌からは「山」を採っている)、「勝ち」の歌のどこが優位かを汲み取り、それを読んだ負け側が「なぜ自分の負けか」を悟ることが出来るように配慮するこまやかさを示しています。判辞は、
「見た夢の余情を忍ぶ心根は、(雅経が詠った)山霧の中に杉の木々が立っているとだけの単純で動きのない風景に比べて、そこがまるで月に照らされて、秋の冷えた風が呼び覚まされ、哀れに鳴く鹿の声をこちらに伝えてくれることから、それを目の当たりにして無常を悟り、こだわりを捨てようと試みる作者の諦観までが伝わって来るではないか」
とでも読み取ればいいのでしょうか?
言葉から「民意」を読み取り、その深さを感得しよう、という姿勢が生真面目に現れているケースでして、読み流しただけの印象で恐縮ですが、後鳥羽の判辞の圧倒的な割合がこの精神で貫かれているように思われます。で、その中に、折句の各句の頭をとると、
「し・か・そ・よ・き」
で、左が勝ちである、ということが明確に示されるユーモアをも交えている。
発想は、後者のユーモアが先立ったことでしょう。しかしながら、それを元に「歌のこころのどこが優劣を決めたのか」をきちんと考えている。・・・本当は繊細な判辞なのに、それを
「句の頭だけとってみれば勝敗が分かるよ」
とおおらかにとぼけてみせるところに、このときまだ22歳だった後鳥羽が、まちがいなく「帝王」としての器を見せているのを感じさせる、そんな「凄み」がこもっています。
(先行する六百一、二は「か・ち」のことばがはっきり分かってしまいます。それぞれ、「み・き・の・か・ち」、「と・こ・は・か・ち」・・・「とこは」は六百二番の左の歌にある「とこ」と「草葉」の言葉をとったものです。六百二と六百三の判辞は、こうしてみると二重の<折句>とみなしてもいいかもしれません。



同じく和歌のかたちで判辞を下したのが慈円です。担当したのは、この歌合の最後の2巻「雑一・同二」です。
かたちは後鳥羽に似ていますが、単純な折句でして、「各句の頭をとって見な!」というようなユーモアはありません。
ただ、他の判者と大きく違うのは、歌の脇に「勝」とか「持(引き分け)」とは記さず、判辞の歌の後に「よって左が勝ちでしょうなぁ・・・」といった風にして初めて結果を見せる。気を持たせるため、というよりは、「どちらの歌もよく玩味させて頂きましたよ。その結果なんです、悪しからず」という、ある種の貴族的な優しさが籠められているように見えます。この優しさは、彼が出家の身であることにも関係するかもしれません。が、慈円の人生は、充分に政治的であり、為政者側のものでした。

ちょっとたいしたことがなさすぎるなあ、という「持」の例。ここでは、うんざりしているような感触も無きにしまらず、ですが、「歌」のかたちの判辞になっていて、かつ結果が最後に現れる時にはこれくらいその結果の予測がつく判辞を付けた方がいっそ思いやりがあるのかも知れません。・・・それが「優しさ」というものの本質なのでしょう。

千四百七十七番
   左                      宮内卿
谷ふかみかさなるやどをみわたせば軒よりいづる山川の水
   右                      家 長
もしほ草かきをく末のあととみればむかしにこゆるわかのうらなみ

(判辞)とにかくにいひながしてもみえぬ哉(かな)、和歌のうらなみ山河の水 仍持歟



和歌できた前二者に対し、左大臣良経は、摂関家にふさわしいとの考えからでしょうか、詩に擬した漢文を判辞として用いています。まずはこの精神の姿勢に注目しておきたいと思います。
七言で二句を基本としたようですが、破調もあります。韻を踏むことも諦めているようです。ただ、字数はきっちり十四字を守る。その中に「どう読み取ったか」を渾身で刻み込んでいることが窺え、良経が教養の人でもあり情の豊かな人でもあったと伝えられる片鱗を目の当たりにするようです。この真摯さは、とにかく、ただものではありません。
女流歌人讃岐と定家の番えを判じた、夏の歌の例。

四百八十八番
   左 勝                   讃  岐
夏の夜の月のかつらの下紅葉かつがつ秋のひかりなりけり
   右                     定家朝臣
なつのよはまたよひのまとながめつつぬるやかはへのしののめの空
(夏の夜はまた宵の間とながめつつ寝るや川辺の東雲の空)

(判辞)只翫桂花秋色染 夏宵不憶一夢成
    (ただ翫ぶ桂花の秋色に染むるを 夏の宵は憶えずして一夢と成る)

・・・どちらの歌も捨てがたいのがホンネなのです。ただ、定家の方はあっさりし過ぎだよなあ、というのが良経の受けた印象だったのですね。



以上、拙い引用で恐縮でした。為政者にはそれなりの「精神の芯」があり、それを形として律する姿勢をも併せて持っていることが明らかになったと思います。
惜しむらくは、彼らはしかし、実務家ではないところが、「時代の子」なのでした。
こうした彼らの精神的姿勢が、専門歌人を自負した判者たちといかに違っているか、を、この歌合について、さらに見て行きたいと思っております。

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2009年1月19日 (月)

千五百番歌合2:成立事情と当時の世情

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<過去の定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:


昨日の続きです。

・・・実は、この集の成立を追いかけたい目的で、まだ家内の生前に入手してあったいちばん肝心の論文集が、家内死後のゴタゴタで行方不明です。
それがあっても分かったかどうかは心もとないのですが、少なくとも、いま手元で参照できる限りの文献には、後鳥羽院がなぜ『千五百番歌合』を企画しようと思い立ったのかについて明確な理由を述べたものはありません。加えて、『新古今和歌集』となる勅撰集の編纂も、いつの時点で決心したのか、やはり分かりません。
ただ、次のようなことは言えます。

正治二年(1200)8月に定家が見出されるきっかけとなった『院初度百首』は、定家の歌に限らず、試みとして後鳥羽院にとっては思いがけない大成功だったとみえ、院はたて続けに『正治後度百首』を、十名の歌人に命じて冬に詠進させ、さらに翌年三月(前月13日に建仁と改元)には伊勢神宮内宮に奉納するための『内宮御百首』を、同じく外宮に奉納するための『外宮御百首』も詠じ、その後、『院三度百首』として企画して6月までに30名から百首を集めたものが『千五百番歌合』となった事実が、まずあります。
『千五百番歌合』の歌が出そろった翌7月の27日には和歌所を設置した旨が前日付けの『明月記』記事にあり、自身が和歌を次々と詠じる才に恵まれていることへの自覚がこの二年の間に急激に生まれ、一気に勅撰集を編むところへまで思いが飛んで行ったのでしょう。

『明月記』を参照すると、ここにあげた以外にも、百首和歌でなければ、この期間たびたび院主宰の歌会が催されています。建仁元年3月以降、3月16日(六題各一巻、各十番の歌合。通親・権大納言【は誰だったでしょう、忠良の名は後に見えます】・大貳【?】・慈円・隆信・通具・保家・有家・具親・家長・鴨長明・寂蓮・忠良・宮内卿・越前・兼実の名が見えます。もちろん定家もいたのです)、船遊びのついでの22日(十首歌。通親・皇后宮大夫【季能】・左兵衛督【?】・宰相中将【公経】・六角宰相親経・侍従三位【?】・新三位仲経・大貳・信雅・隆清・親兼・通光・親実・定通・長房・有通・有雅・通方・親定・忠信・師季、と見えます)、28日撰左右和歌(良経・通親・寂蓮・家隆・慈円・大貳と見え、三十六首撰ばれた内訳も記されていて。御製7・慈円6・権大納言1・兼宗中納言1・宰相中将公経3・大貳2・定家5・雅経3・具親1・家長1・宮内卿3・讃岐1・丹後2、となっています)29日にまた歌(定家の感激の言葉があり、出席者の座席図もあります。図によると、上皇・良経・通親・慈円・俊成【入道殿】・雅経・家隆・寂蓮・範光・公経・通具が出席、定家は講師をつとめています)、4月26日(歌の他に奏楽)・・・慌ただしいことこの上ないだけでなく、歌のない日も今様を歌う会、遊女に郢曲(郢曲・・・民謡的な流行歌)などがあって目が回るようです。なお、5月については『明月記』に記事はありません。



この時期、社会は、平穏無事ではありませんでした。
武家側の記録である『吾妻鏡』を参照しますと、1月23日には越後の有力者で平家に加担しながらも頼朝の奥州征伐に参向したため所領を安堵されていた城氏(長茂)は、在京中、関東方の小山朝政らが土御門天皇・春宮(のちの順徳天皇)らの上皇訪問の警護で留守になった間、朝政邸を囲んで反乱の兆しを見せ、失敗して地元に逃れて三月まで抵抗しました。
このとき生き残った甥の城資盛も5月に敗れるまで戦いました。
この戦で捕虜となった坂額御前という女性は男性にまさる戦い振りを見せたことで評判をとり、処刑されるべきところを、時の幕府の将軍、頼家が阿佐利義遠という御家人のたっての望みで彼にめあわせる、という粋な計らいをしているのです。これが頼朝のしたことでしたら称揚の記事になったのかもしれませんが、『吾妻鏡』の記述は頼家をあえておとしめるような記述をしています(六月二十九日条「シカルニ義遠ガ所存、スデニ人間ノ好ムトコロニ非ザル由、頻リニ嘲弄セシメタマフ」)。
以後、頼家が蹴鞠に凝る記述も表現が冷たいのですが、頼家自身は蹴鞠を通じて京への恭順を示すつもりであったのだろうと想像できます(ただし、上皇自身が蹴鞠に凝るのはまだ少し後です)から、『吾妻鏡』の冷たい記述は、鎌倉方(まだ幕府という呼称は必ずしも馴染んでいなかったはずです)の中に、かつて頼朝の陰謀で誅殺された平広常のような「武断派」が少なからず存在したことを反映しているのでしょう。・・・頼家についての記述の冷たさが「北条氏を正当化するため」なのが確かに究極の目的であったとしても、そういう文脈でだけ頼家への目の冷たさを捉える必要は、必ずしもないのではなかろうか、と思っております。そう思わされる記述は随所に見られますが、頼家の行為は、その冷たい形容を度外視して『吾妻鏡』を読む限りにおいては、彼が強引に引退させられ(殺され)た後を継いだ実朝と大きな相違はみられないのです。鶴岡宮への決められた参拝も、流鏑馬等の行事も、きちんとこなしている。・・・それが主眼ではないため、ここではこれ以上は述べません。

※ 城氏の反乱と坂額御前については、角田文衞著「平家後抄」(講談社学術文庫、二分冊。一冊本は古書で入手可能)に詳しい記述があります。

とはいえ、武家の世界は、あくまで公家のそれとは別だった、というのは、平家滅亡の前後で、まだ変化していなかったのでして、
「武家方は血なまぐさいのに、公家は何と呑気な!」
と言ってしまうのも早計だと思われます。
平家の滅亡は、朝廷を中心とした京の公家世界には、精神的にそれを悼む人たちが存在したとはいっても、本質的な変化は、まださほどもたらしていないのです(そのあたりを窺う手軽な古典の例として、「建礼門院右京大夫集」があげられるでしょう。なにせ、著者は平家の中心に直接仕えていた女性であるにもかかわらず、その記述には生活への切迫感は感じられません)。少なくともまず頼朝存命中は頼朝のブレーキがかかっていた様子が『吾妻鏡』記事の随所から見えて来ますし、またその死後も頼家・実朝がトップに立っている間は、公家の荘園に対する権利はまだ、地頭として現地に乗り出した武家に横取りされてはいなかったのです。
後鳥羽が、源氏将軍在世中は決して「承久の乱」などという暴挙を思いつくことがなかった背景には、こうした京の社会・経済構造の「無変化」があった、と考えるのは、間違っているでしょうか?



鎌倉時代を専門にする史学者は、新古今までの後鳥羽は「政治を忘れていた」と評したりしています。
であれば、それは後鳥羽だけが忘れていたわけではなく、戦乱の直中にいたはずの祖父、後白河にしても、頼朝上京時に彼に秘蔵の絵巻物の数々を見せようとして断られたりしていて、とても今日的な意味での「政治」を意識していたとは思いがたいのです。
このあたりは、目崎徳衞氏が「歌もまた政治であった」旨を強調なさっています。
『新古今和歌集』の成立にまで立ち入っていく話にもなるのですが、では何故
「歌も政治だった」
のかについて・・・かつまた、「歌」の政治の中で定家を初めとする歌人たちがどのような「政治意識」を持っていたのか、を探ってみるのを、次の課題としましょう。
・・・なんて、大言壮語してしまっていいのかなあ。・・・危ないなあ。
・・・路線変更あり、ということにしておいて下さいね。

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2009年1月18日 (日)

藤原定家:千五百番歌合1)作者と新古今・新勅撰への入集数

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後白河法皇:1234
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六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:

日曜日は読者数も減りますので、この機会を狙っておりました。勉強不足が(いつものことですが、余計に)バレバレになるから。

新ブログに移行して初めて、「藤原定家」関係記事を綴ります。
あとでインデックスを作るつもりですが、過去記事はこちら(色の変わっているところ)をクリックしてご覧下さい。



「定家」を採り上げたきっかけは、愛読していた「定家ファンサイト」がある日消えてしまっていたことなのですが、彼が仕事とした「和歌」は「歌」の字がついている事から分かりますように、音楽と無縁、というわけではありません。いや、むしろ、古代ギリシャ的な、「音楽と言葉が一体である状態」を現代にまで伝えている貴重な存在で、現代のものがどこまで古態を保っているかは分かりませんが、まちがいなく、旋律をもって「歌われる」ものでもあります。
その歌われ方についても、後日ご紹介する用意をしています。
かつ、「定家」と対比して見ていくべき「後鳥羽上皇」が、古代の終焉期の貴重な器楽奏者であったという事実もあります。こちらも、ふさわしい記事と共に、この上皇が奏でていたであろう音楽をご紹介出来ればいいな、と思っております。

ともあれ、「藤原定家」については、旧ブログでの最後の記事から、綴らずじまいであること、なんと一年4ヶ月もたってしまいました。
が、関心が失せたわけでもなく、継続を断念したわけでもありません。
ところが、前の記事に引き続き話題とすべき『千五百番歌合』で、にっちもさっちも行かなくなりました。
先の『六百番歌合』と歌の集め方・判の仕方は共通点がありますけれど、『千五百番歌合』は歌の数だけでも1.5倍。これだけならなにも時間を食う理由にはなりませんが、最も大きな差は、判者が10名となっていて、それぞれに個性のある判辞を述べているところです。ですので、立ち入って読もうとすると、素人である私は混乱せざるを得ませんでした。(『六百番歌合』の判者は定家の父、俊成ひとりだけでしたから、そういう悩みを持つ必要はありませんでした。)
アプローチの方法を変えなければならない、と思いつつ、その方法も考えあぐねておりました。
ですが、本ブログを愛読して下さるnnさんのおひとこと(「定家の記事もやってねー」)に、「このまんま行き詰まっていてはダメだ」と、背中を押されました。

規模と内容面から、これまでのように一気に、とは行きません。数回に分けて、日を開けて綴ることになると思います。

今回は、まず、読み進めるにあたっての基礎データを用意することを目的とし、その簡単なまとめで終わらせておきます。
従って、私にとっての『千五百番歌合』との「勝負」は次回以降、ということになります。

とはいえ、これだけでも、お好きな方にはわりあい面白い材料をご提供できるかと思います。



『千五百番歌合』が企画された動機、その成立までの展開については、1201年(建仁元年)であること以外については、次回に譲ります。『明月記』その他の資料・論文についても、次回以降の参照とします。

この歌合では、左右各15名、計30名が、例によって百首歌を提出させられ、その後に編纂されて巻ごとに10名の判者に委ねられたもの、と思われますが、判者について見て行く前に、歌を寄せた人々がどんな面々だったか、かつ、その人たちの歌が、この歌合の主目的であった後鳥羽指揮下で編纂されることになる「新古今和歌集」、及び後鳥羽が承久の乱で配流となった後に、定家が一手に撰を引き受けることになった「新勅撰和歌集」にどれだけ採録されたか、を巻ごとに見ておきましょう。
本来はそれぞれの人の魅力的な経歴を述べるべきところですが、まずはこれからこの歌合を<観察>するための基本とスべき上のデータを記すところから始めなければなりません。これだけでも長くなりますので、今回はデータ提示に留めさせて頂きます。
使用したテキストは、古典文庫『千五百番歌合』全4巻です(古書でないと入手できません)。

略称を以下のとおりと決めておきます。略称の後に(六)とある場合は六条家関係者、(子)とある場合は御子左家関係者。(承+)と記した人物は、承久の乱推進者、(承ー)は承久の乱反対者です。・・・誤りがありましたらご容赦下さい。なお調べます。
<左方>
女房(後鳥羽)=上皇(承+。-->判者の項参照)
左大臣正二位藤原朝臣=良経(-->判者の項参照)
前権僧正慈円=慈円(承ー-->判者の項参照)
従二位行権中納言臣藤原朝臣公継=公継(承ー)
参議正三位行左近衛権中将兼越前権守藤原朝臣公経=公経(承ー)
正三位行大皇太后宮大夫藤原朝臣季能=季能(1211没)
宮内卿=宮内(1205頃夭逝)
讃岐=讃岐(生没年未詳)
小侍従=小侍(生没年未詳)
散位正四位下行臣藤原朝臣隆信=隆信(子、1142-1205)
散位正四位下行臣藤原朝臣有家=有家(六、1155-1216)
散位従四位上臣藤原朝臣保季=保季(六、1171-1204以後)
正五位臣左近衛権小将藤原朝臣良平=良平(良経弟。1184-1240) ※「小」はテキストのまま。
従五位下左兵衛佐臣源朝臣具親=具親(師光男、宮内卿の兄、生没年不詳)
僧顕昭=顕昭(六-->判者の項参照)

<右方>
三宮=三宮(後鳥羽兄の惟明親王。1179-1221)
内大臣正二位兼行右近衛大将弟傅臣源朝臣=通親(-->判者の項参照)
正二位権大納言藤原朝臣忠良=忠良(六-->判者の項参照)
従二位権中納言藤原朝臣兼宗=兼宗(1242没)
従三位行右近衛権中将臣源朝臣通光=通光(みちてる、通親男。1187-1248)
沙源釈阿=俊成(子-->判者の項参照)
俊成卿女=俊女(子、1171?-1252以後)
丹後=丹後(?-1207?)
越前=越前(?-1249以後)
正四位下行左近衛権少将兼安芸権介臣藤原朝臣定家=定家(子-->判者の項参照)
正四位下行左近衛中将臣源朝臣通具=通具(通親男。1171-1227)
従四位下行上総介臣藤原朝臣家隆=家隆(子)
従五位上守左近衛権少将臣藤原朝臣雅経=雅経(1120、乱勃発前の3月に死去)
沙弥寂蓮=寂蓮(子、1139?-1202)
従五位下行右馬助臣源朝臣家長=家長(生年未詳-1234)



巻は二十に別れており、二巻ずつをひとりの判者が担当しています。それぞれに特徴のある判がなされていて、この歌合に触れたエッセイ類は漏れなくその面白さに注目しているのですが、素人としてこの歌合に何を読み取るか、を考えるとき、それは判者の性格・視点という個々の問題であり、突っ込みきるゆとりはないと思われますので、今回採り上げるにあたっては、そこは素通りします。
後の便宜のために、判担当者別に番号を振っておきます。

(1)春一・二〜判者:忠良=(六、1164-1225)冷静な目を感じる判辞
(2)春三・四〜判者:俊成=(子、1114-1204)六百番歌合を思わせる理詰めの判辞
(3)夏一・二〜判者:通親=(1149-1202)死去により判は残らず。
(4)夏三・秋一〜判者:良経=(1169-1206)漢文の七言二句で判辞
(5)秋二・三〜判者:後鳥羽=(1180-1239)和歌(折句)の風体で判辞
(6)秋四・冬一〜判者:定家=(子、1162-1241)父・俊成に似た傾向の判辞、ときに漢文(散文)
(7)冬二・三〜判者:季経=(六、1131-1221)主情的判辞。作者には入っていない。
(8)祝・恋一〜判者:師光=(六)村上源氏。生没年未詳。1181頃出家。俊恵への傾倒が感じられる判辞。作者には入っていない。
(9)恋二・三〜判者:顕昭(六)=1130?-1209?。衒学的な判辞
(10)雑一・二〜判者:慈円=1155-1225。和歌の風体で判辞、ただし後鳥羽よりも生真面目さが窺える

以上を念頭において、それぞれの歌集への入集数を人別に見ていきましょう。・・・ただし、数は『千五百番歌合』テキストの歌の脇に「どの歌集に収められたか」が傍注として記載されているものを拾い出しました。かつ、『新古今和歌集』との対比をするいとまがありませんでした。
目崎徳衞氏によると、『千五百番歌合』から『新古今和歌集』にとられた歌は90首あまり、とのことですから、後20首程度の落ちがあるのですが、その点は素人ゆえの時間のなさに免じてご容赦下さい。



まず、『新古今』への入集歌数。「勝・負・持」は『歌合』中での判者の下した勝敗です。

   1   2   3   4   5   6   7   8   9   10    計
上皇                                         (0)
良経             1負                  4持勝 1勝  (6)
慈円                 1勝                      (1)
公継                     1勝                  (1)
公経     1負      1持  1勝              2負勝     (5)
季能     1負                  1勝          1勝  (3)
宮内             1勝                          (1)
讃岐                         1勝  1勝      1勝  (3)
小侍                                         (0)
隆信                                         (0)
有家 1勝  1持                          1勝  1勝  (4)
保季                                         (0)
良平     1勝      1勝                          (2)
具親             1勝      3勝持負                (4)
顕昭             1勝                          (1)
三宮                                         (0)
通親                                         (0)
忠良             1持              1負          (2)
兼宗                     1勝                  (1)
通光                     1勝                  (1)
俊成             1勝  2勝持 1勝  1勝      1負      (6)
俊女 2勝                  1持  1負          1負  (5)
丹後                                         (0)
越前         1                               (1)
定家     1持      1勝  1勝          1勝  1負  1持  (6)
通具 1勝  1勝      1持  1勝  1負  1持      1勝  1持  (8)
家隆                     1勝      1負  1持  1負  (4)
雅経                                         (0)
寂蓮     2持勝 1                               (3)
家長                                         (0)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
合計 4   8   2   10  6    10  5   4   11  8   68



ついで、『新勅撰』への入集歌数。

   1   2   3   4   5   6   7   8   9   10    計
上皇                                         (0)
良経                                         (0)
慈円                                         (0)
公継                                         (0)
公経                                         (0)
季能                                         (0)
宮内                                         (0)
讃岐 1勝  1勝                      2負          (3)
小侍                                         (0)
隆信                                         (0)
有家                     1勝
保季                                         (0)
良平                                         (0)
具親                                         (0)
顕昭                                         (0)
三宮                                         (0)
通親                                     1勝  (1)
忠良                                         (0)
兼宗                                         (0)
通光                                         (0)
俊成                         1持  1勝          (2)
俊女                             1勝          (1)
丹後             1負          1勝              (2)
越前                                         (0)
定家                                         (0)
通具                                         (0)
家隆     1勝          1負  1勝                  (3)
雅経                                         (0)
寂蓮                                         (0)
家長                                         (0)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
合計 1   2   0   1   1   2   2   4   0   1   14



まず、全体的に、この歌合に関与した歌人・判者で、後年の「承久の乱」に積極的に関わったのは後鳥羽上皇独りであるところに注目しておきましょう。王朝文化の最後の灯を保とうとしたと見なしてもいいこの面々は、歌合の時点だけでなく、承久三年に至っても、台頭して来た武家との衝突は望んでいなかったと思われます。当然、この歌合の時点での後鳥羽もまた、この歌合での人選を根拠として、武家に対抗するなどということは構想だにしていなかったと断言してよいと思われます。

判者の価値観と歌集への撰入の関係も、ある傾向が見られる気がします。

定家が個人で撰を行なった『新勅撰和歌集』について先に述べますと、数は少ないものの、判者3(判をするまえに逝去した通親)、9(父と激しく対立していた顕昭)以外の関与した巻から歌を選んでいます。選ぶにあたっては承久の乱後の武家と公家の関係に配慮していたことが明らかになっていますが、通親を除いた皇室と摂関家の作歌が入っていないところにそれが窺えるものの、六条家の作歌は採っていないところには、もっと別の意図・・・ライヴァルの黙殺と自陣営の勢力強化の狙いも見え隠れしているのではないでしょうか? 良経や後鳥羽、六条家関係者の師光が「負」と判じた丹後、家隆、讃岐の歌を採用していることにも同じ精神の姿勢を少し感じます。ただし、本当にそうなのかどうかは、『新勅撰和歌集』そのものを見てみなければ分かりません。断言はしばらくご容赦下さい。

『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の設けた「歌所」の主要メンバー6人に撰ばせたとは言うものの、最終的に後鳥羽上皇の意志が最終的にはかなり強く働いて、撰歌の入替が行なわれていることが明らかになっています。詳細は、ですから『新古今』の撰歌の入れ替わりを辿らなければ、やはり断言できません。ですが、傾向として明らかなことは、俊成、慈円、顕昭といったベテラン陣の判(勝)にはほぼ半分しか従っていない一方で、良経、定家といった若手の判には高い割合で従っているということで、ここに「歌の詠みぶり」の変遷、新風を重んじた後鳥羽の鮮やかに切り替えられた視線を感じ取れます。

具体的に『千五百番歌合』が企画された経緯、歌の集まった過程、その中での定家や後鳥羽の心理については、記事をあらためて見ていきたいと思います。


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