楽典・音楽用語

2011年10月 9日 (日)

【音を読む】バランスを崩してみる ハイドン:弦楽四重奏曲ト短調 作品20-3から

初歩の「十二音」


実際に遊んでみると分かるのですが、十二音技法で書かれたものは、長調のド、短調のラに当たる旋律の重心がありません。それが響きを不思議なものにします。
ですが、ウェーベルン「子供のための小品」は、一方で、以前のヨーロッパ音楽がとっていた伝統的な方法をひとつ、大事に使うことで、子供が少しはとりつきやすいように工夫されています。
それは、音楽のリズムが、2つ、4つ、ないし8つのまとまりで区切られているように聞こえる作り方です。
ウェーベルンの小品で は、3拍子が4つずつにまとまっているのでした。細かいリズムはちょっとズラしてあるので、十二音音列がもたらす曖昧さをさらに強く印象づけるのですけれ ど、それでも聴いているとなんとなく、基本は3拍子が4つずつのまとまりになっていることが感じられるようにはなっています。

ウェーベルンの時代から150年ほど前には、そうした2つ、4つ、8つのまとまりで作られた音楽がたくさんありました。
たとえばこんな具合です。

これは、交響曲や弦楽四重奏曲なる曲種を地に足がついたものにする上で大きな貢献をしたヨーゼフ・ハイドンの作品の冒頭部で(1772年出版)、2拍子の8つまとまりです・・・が、実はオリジナルではありません。

オリジナルはこちらです。(*1)

オリジナルのほうが、ちょっと落ち着きません。
ひとつ減った7つまとまりになっています。

音楽が安定するには8つまとまり(4+4)がなんとなく望まれるのに対し、ハイドンは多分、意図的にこの作品の出だしを7つまとまり(4+3)にしました。そのことで、どこか落ち着かない雰囲気を作品に与えるようとたくらんだのではないでしょうか?(*2)
ト短調といえば、モーツァルトの交響曲(第25番や第40番)、弦楽五重奏曲で有名ですが、ここにあげたモーツァルトの作例はいずれも2つまとまりを基本単位にしていて、奇数になるまとまりを持ち込んでいません。
ハイドンは、あえてそれをやっていたわけです。

日本の有名な歌なども、2つ(4つ)まとまりの組み合わせのものばかりですから安心して聴けるのですけれど、
「聴き手をちょっと不安にしたい」
なるイタズラ心を抱いたなら、歌を奇数まとまりに作り替えればいいのでしょうね。

遊んでみましょうか・・・

(「地上の星」であそんでみた)

無理矢理3つまとまりに収めてみましたが、3つまとまりでも偶数回繰り返されれば、別の安定が得られます。

(「シクラメンのかほり」であそんでみた)

普通はこんなふうに度が過ぎてはいけません・・・コミックソングになってしまいました。(>_<)

ハイドン作品でお耳直しして下さい。
第33番とされていて、作品番号20の全6曲の内3番目のものです。

第1楽章は2拍子で、7+7+10+2の組み合わせで始まります。以降は2つまとまりを単位にします。

(エオリアン四重奏団の演奏~第1楽章)

Haydnop3331

第2楽章もまた、5+5の組み合わせで始まるメヌエットです。当然3拍子になっています。

(エオリアン四重奏団の演奏~第2楽章)

Haydnop3332

(以上、LONDON UCCD-9357)

 

いずれも奇数まとまりを単位としていることで聴き手に「おや?」と思わせることを試みていますが、第1楽章と第2楽章では「おや?」を思わせる戦略が違います。
第1楽章の「7まとまり」は、4+4まとまりで安定すべきところに、後半が1つ足りない。・・・それによって、切迫感を持たせています。
第2楽章は4+4まとまりを5+5と、それぞれ1つずつ引き伸ばしている。これによってもたらされるのは、倦怠感になります。
ハイドンのこの弦楽四重奏曲は、そういう修辞法がシンプルながら効果的に使われている好例だと言えます。

第3楽章・第4楽章では、こういうイタズラはもうやっていません。先の2つの楽章で充分、と、ハイドンは考えたのでしょうか?


*1:このト短調四重奏は、ハイドンの太陽四重奏曲(全6曲、作品20、初版の表紙に太陽の絵があるのでそう呼ばれたとのこと)の中の作品。弦楽 四重奏曲としては、このあと出版された作品33(ロシア四重奏曲、6曲)のほうが新機軸として有名になったので若干影が薄くなっていますが、ハイドンの実 験精神がこのジャンルでは最初に現れたと言ってもいい面白い曲集です。

*2:(4+4)の8つまとまり(4小節1単位×2)は「楽節」と呼ばれるものの一般的なかたちだ、ということはだいたいの音楽事典(辞典)で述べられているのではないかと思います。たとえば
「楽節は言語の文と同様に1つの完結した意味単位で、たいていは8小節から成る。前楽節と後楽節に分かれる(半楽節)。」・・・白水社『図解音楽事典』1989年 107頁

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2011年9月30日 (金)

【音を読む】12音音楽の易しい創りかた~ウェーベルン「子供のための小品」

12音技法による音楽がどんなふうに作られているか、なんて、正直言ってちっとも分かりませんよね。もう90年近く前のものですのに!

でも、作った作曲家さんだってとても迷ったんだろうなぁ、と思います。

ウェーベルンはそれを子供にも分かるようにしたいと思ったのか、「子供のための小品」なるものを1曲だけ書きました。師シェーンベルクが12音技法により創作を始めた次の年、1924年のことです。
12音音楽の最もシンプルな例であるこれを用いて、その創りかたを見ておきましょう。

出来上がりは、このような曲です・・・

「子供のための小品」高橋悠治(2回弾かれています。)

まず、音階に代えて、半音階を形作る音程12音を、半音階そのままではないように、好きなように並べた音列をひとつ作ります。
そのあと、この作品ではウェーベルンは難しいことをしてはいなくて、同じ音列の音の高さ(オクターヴ上の位置)を変更したものを6通り用意して、順に並べているだけです。

ただし・・・同じ<音列>を6回繰り返している、と、書籍・楽譜の解説にありますが、同じ<音列>を6回繰り返しても、12音音楽にはなりません。

たとえばこれは同じ音をひとつも含まない12の音を並べて、6回繰り返したものです。

12音にならない例

3和音を並べたように聞こえるこれは、明文化されたものがあるのかどうかは知りませんが、いちおう、十二音技法と呼ばれるものの上では「禁則」で(あるはずで)す。調性感(長調とか短調とか)をイメージしてしまうからです。(*1)
でも思いがけずミニマルっぽい・・・ってのは措いとこう。

ウェーベルン「子供のための小品」に用いられている<音列>は次の通りです。

Kinderstucktone_2

・・・で、この音列の、音の高さをバラす。
音列を単純に6回繰り返すのではなくて、6通りに音高を変えたものをならべる。(*2、※)

「子供のための小品」の音列の音高配置変更1

さらに、同時に鳴らしちゃう音は、ぐしゃっ、とまとめる。(*3)
以上で、どれがその中の「文節」を決めるかも明確にする。

「子供のための小品」の音列の音高配置変更2

ここまでのプロセスで、音に色彩感が増していくのがお分かり頂けると思います。

音列は4小節に1、1、2、2の扱いでまとめて、エンディング用に最後の2音をとっておいて、1小節付加したところに用いています。全体で16小節+1小節、という、けっこう「古典的」な収め方にしています。

それにリズムを与えます。第1段を除き弱起で始まり、第2段は特殊で、<音列>の最初に位置づけられているはずの音で終わります。第3段は音列の第2番目の音で開始します。
曲のリズムはそのままに、もとの音列がどんなだったかを思い出すため、音をなるべくベタに配置すると、こんなふうになります。(段落が分かるように、各段のあいだに長めの休止を配置してあります。)

「子供のための小品」リズム付け

段落が分かる状態で、ウェーベルンのした通りに音を配置しなおします。
音色効果で印象が豊かになるのが分かります。

「子供のための小品」段落分け

で、ニュアンスちゃんとつけて、出来上がり。

再掲)「子供のための小品」高橋悠治

楽譜つきYouTube

・・・実際にはこの順番で曲が作られたわけではありません。
・・・ウェーベルンの、このシンプルな例を真似してみて下さい。まず12音の音列をどうしようか、と考える時に、それがデタラメに作れるものではなくて、これから響きをどんなふうにしたいのか、と音列作りとが、かなり密接に関わっているのを最初に痛感することになるはずです。

とってもヘタな自作例

ウェーベルンの作例とは逆に、最初に和音を鳴らしたい、おしまいは単音で終わりたい、というだけで音列を組みました。
才能豊かな方がおやりになるなら、もう少しいいサンプルも出来るでしょうが、そこはご容赦下さい。
にわか作りであることは言い訳になりませんで、凡人は「古典的」な見本から自由な自由な発想をどれだけ持てないか、の<好例>としてあげさせて頂いた次第です。・・・なんだかおかしいなぁ、と、あとで確認したら、音間違っとった!sweat01 ま、あかんほうの見本やからそのまんまにします。
さらに、ウェーベルンの例を改めてお聴き頂ければ、彼がいかに周到に
「同じように聞こえるものを排除する」
ことに腐心したかをはっきりお感じ頂けるのではないでしょうか?

「音列は、自動的には作れない。(中略)作曲家は、自ら、音列を創り上げねばならない。あるいは(中略)特別な音列を『見出す』ことが求められているのだ。そこには、明らかに作曲者の意志が反映する。」(岡部真一郎『ヴェーベルン』153頁)

なお、掲載できず申し訳ないことながら、この作品の楽譜は、すべての音にシャープかフラットかナチュラルの記号が必ずついています。これは後の世代、たとえばブーレーズが踏襲する方法となりました。

12音技法はもっといろいろなルールでいろいろな運用が出来るもので、シェーンベルクはもっと多様なものをそこに持ち込んでいますが、それはまた別な作品に応用例で見ていくことにしたいと思います。(*4)


【参考】
松平頼則『近代和声学』(音楽之友社 1655)
岡部真一郎『ウェーベルン』(春秋社 2004)
大竹道哉『ヴェーベルンピアノ作品全集(楽譜)』(ヤマハミュージックメディア 2011)

*1:クシェネック Ernst Krenek が「二つ以上の長または短三和音を三つの連続音によって構成することは避けなければならない」と述べているそうです(上掲 松平頼則『近代和声学』ドデカフォニズムの項、323頁)。

*2:音列の順序を入れ替えさえしなければ、音はどのようなオクターヴ位置でも使うことが出来る、というルールに則ります。これもクシェネックの述べている原則のひとつです。

*3:シェーンベルクが加えたルールで、音列を任意の群の集合と見なしうる、というものに則ります。ウェーベルンは「子供のための小品」で、6回用いられる音列を順に音列1、2、3-4、5-6(3-4、5-6は2つが融合)とみたとき、音列1の最後でおしまい2音(11/12)を1群とし、音列3-4では4の7/8/9音を3音1群・10-11音を2音1群、音列5-6では5の最初の2音(1/2)を1群・4/5音を1群・7/8/9音を1群・10/11/12音と6の1を1群・6の2/3/4/5/6音を1群・最終2音(11/12)を1群として扱っています。すなわち、見なし群を連結部にまで延長して導入しています。

*4:音列の逆行(最後の音から反対に始まる音列)、展開(転回、同等の音程による置き換えをした音列、反行)、逆行の展開(転回・反行)、が認められています。また、伴奏には、主旋律(と呼んでいいなら)としてその場所で鳴っている音以外の音を用いることになっています。また、同じ音程関係を保ったまま位置を半音単位で12通りに上下することも認められています(トランスポジション)。

※音列上のオクターヴ配置は、ある種の規則を設け、それに「ぼかし」を入れて変更しています。原型アイディアにあたるものを最初の2音列について述べますと、偶数位置音のオクターヴ上下についてまず基本ルールを設けています。音列1は偶数位置音をオクターヴ上げ(もしくは4音までは奇数位置音をオクターヴ下げ)、5-6音は位置不変更、9-10音は最初の規則に戻し、7-8と11-12は偶数位置音をオクターヴ下げする。音列2は6音までは偶数位置音をオクターヴ下げ、7-8は元位置を保ち、9以降は奇数位置音をオクターヴ下げ。そこにまた手を加えています。
音列4は4音1群ですが、この音列以降は上記*3により2音列ずつが融合しています。

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2010年3月28日 (日)

音名・階名はじまり話

ギタリストの増井一友さんが、4月11日に世良美術館(阪急御影駅そば)で新作を含む演奏会をなさいます。詳しくはまたご紹介します。
こちらに掲載されています。


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2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京終了:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん、各々30名様限定です)詳しくは記事中のリンク先をご覧下さい。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。
大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。


ブラームスは、身内のかたの関心もあんまりお読み下さっているようではないので、全曲分は中止しました。ご関心のある方がいらっしゃれば、なお努めますので御一報下さい。完了次第メール等でお送りいたします。(恐縮ですが所属するアマオケメンバーに限らせて下さいね。)


先日ちょっとお尋ねにあって、曖昧な記憶でしか答えられなくて、手持ちの本をめくりなおしました。
日本音名の方はともかく、西欧関係は日本の人の記述なので、
「いや、ちがうのよ」
ということがあればご教示頂けると有り難いです。
(なお、引用した部分だけだと大事なことが抜けてるんですが、面倒くさくなるから補足しません。)

ティンクトリス「音楽用語定義集」訳書付章第3章から。高野紀子氏筆:中世において、音名をしるすには種々の方法があったが、10世紀には、い音からイ音までの1オクターヴの全音階的各音に、AからGまでのアルファベットの7文字を順に付し・・・(中略)・・・この方法は、クリュイニのオドOdo(942没)の著述に初めてみられる・・・(中略)一方、階名の基礎は中世の修道士グイド・ダレッツオGuido d'Arezzo(995ごろ~1050)によって築かれた。(1975記)

・日本音名のこと:・・・平調等の律名を用うるは、・・・記譜上等に不便少なからざるを以て、本掛(音楽取調掛)に於ては、従来イロハ等の仮字を以て其用に供せり。(明治二十年以前)東洋文庫188「洋楽事始」~57頁

補記をいくつか。

1)音楽取調掛ってのは、東京音楽学校(だっけ)・・・いまの東京芸大の音楽のほうの前身で、明治12年に政府命令で出来た機関です。邦楽の素養がある人をアメリカに派遣して洋楽を勉強させたうえで設立しました。東洋文庫にまとめられた文書(おそらくほんの一部)の中に、古代ギリシアのアポロン讃歌を雅楽譜にしたもの(各楽器別の文字譜)が載っていますから、当時のあちらの音楽学の最新知識までを必死で勉強したものと思われます。当時は、古代の楽譜の解読は、欧米でも特殊なものに属していたかと思います。
(詳しくは千葉優子氏 著「ドレミを選んだ日本人」音楽之友社)

2)僕らの世代の日本の音楽教育は、いわゆる「移動ド」という楽譜の読み方を使いました。シャープがひとつ付いた長調は、「ソ」を「ド」に読み替えるのです。
いつからだったか忘れたのか知らなかったか曖昧なのですが、あるときから「固定ド」という楽譜の読み方で音楽を教えるようになりました。この場合、シャープのひとつ付いた「ト長調」は、ソラシドレミファソ、と読むことになります。
「固定」だの「移動」だのと騒ぐのは、たぶん、日本に独自のことだと思います。専門家さんによる「高尚な」・「難しい」・わけわかんないお話はいっぱいあります。
音名と階名、って、厳密には「考え方」が違う(「音名」は、音の高さの絶対的な位置を「音の絶対的な名前」にしたもの、「階名」は、音の場所が変わっても音の階段幅が変わらない場合の関係を「音の相対的な名前」にしたもの、とでも言ったらいいのでしょうか? 本来は両方使い分けられるといいのでしょう。
イタリアやフランスでは、音名と階名が、いま「階名」として上げたものに一本化されています(いかにもラテン系っぽいです)。これを「誤解」したのが、日本の「固定ド」唱法なのですが・・・日本音楽の音の読み方(中国の音楽の理屈に倣って生まれたもの)は基本的に「音名」しかありませんので、まあ、仕方がない面もあるのかなあ、と思っております。
長調とか短調とか、その「調べ」がどういうものかを身につけるには、古代ギリシア式「音名」よりはラテン語式「階名」が便利ですが、20世紀の中盤以降の音楽には「音名」が便利で、ここの区分が分かっていないで学者さんも作曲家さんも不毛な議論をしている気がします。
本来あるのは「音名唱」か「階名唱」か、と言うことに過ぎないはずです。
いまのイタリアがどうか分からないのですが(お詳しい方がいらっしゃるから今度ご教示を仰ごう・・・)、トージの本をアグリコラが訳した有名な「歌唱芸術の手引き」だと、アグリコラの注釈部分ではなくて、トージその人の本文では、「階名唱」を勧めています。最初の章にこうあります(東川清一氏 訳)。
「§12 ついで教師は生徒に、フラットがいくつも現れる音階も階名唱(solmisiren<-アグリコラの本からの翻訳なのでドイツ語ですが)することを教えよ(以下略)」

関連記事:http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_486e_1.html


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日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。


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2009年12月 1日 (火)

数(すう)としての音楽

忘れていただいていい前置きですが、数学との対比において、「音程」は「角度」と同じとみなしておいて良かろうと思いますので、今回はまだその話題を述べるときには表面的な扱いをしていることはご容赦下さい。また、リズムは関数(時間・空間)との対比で語るべきものでしょうから、同様のお願いを申し上げます。・・・以上、いちどお忘れになってお読み頂き、何かヒントがあれば頂戴したいと存じます。



41dn1g6zqel_sl500_aa240_中世ヨーロッパにおいて「音楽」が「数学」と並列的な位置を持っていたことについては、私たちは西洋史を習うときに「歴史的事実」として頭に叩き込むだけで、なぜ「音楽」と「数学」が並列だったかの理由についてまでは考えることがなかったのではなかろうかと思います。

いや、考えている、というのであれば、それはあくまで「ピュタゴラス(ピタゴラス)」の発見した、音と音の間の(有理数的な)比の関係・・・オクターヴ上の「ド」はもとの「ド」の弦の長さを半分(2分の1)に分割したことで得られるし、「ソ」の音は同様に3分の2の長さにしたときに得られる、等・・・と関連するから、と、このことのみに関連付けて全ての理由だと思ってきたのではなかろうか、とも感じます。(ここから話をスタートして、平均律が生み出されていく過程でピュタゴラスコンマの問題が何故生じたか、まで話が進めるべきですが、これは後日、ということにします。)

さて、ご承知のとおり、西洋風の長調音階は

ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ(・ド)

と呼ばれています。こうして呼ばれる音の名前を「階名」といいます。

これに

ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソ(・ラ)

にまで下げて考えて、下から順番に

A・B・C・D・E・F・G(・A)

とアルファベットを割り当てたものを「音名」といいます。

実は、歴史的事実としては、「音名」のほうが発生が早く、942年に没したクリュニー修道士のオドという人物の著作には既に現れているそうです。「階名」のほうは1050年ごろ没したグイド(995頃生)が「ヨハネ賛歌」の各節の歌い出しの言葉から付けたのだ、という話は有名ですね。グイドが使用したのはド・レ・ミ・ファ・ソ・ラまでで、シは同じくヨハネ讃歌から取られた階名ながら17世紀になって導入されたものだそうです(金澤正剛「古楽のすすめ」音楽之友社 1998)。このあたりはヨーロッパ人が歌う歌の音域の広がりとも関係があったりするのですが、そうした経緯は省略します。

前に「移動ド」と「固定ド」についてちょっと観察したことがありますが、実は、「固定ド」は「音名」=「階名」、すなわち、歴史的には発祥の違うものを同一のものとみなしたところに成り立っています。「固定ド」唱法は、したがって、「音の高さ」をすべて一定のものとして捉え得るときに初めて有効になるのであり、無調と言われるようになった近・現代音楽では読譜をする際にそれなりの力を発揮することになります。

しかしながら、話は戻りますけれど、本来、「音名」と「階名」は違うものです。絶対的な音高を表すのが「音名」であり、相対的な音高を表すのが「階名」、というところに、歴史的には話は立ち戻っていかなければなりません。

そもそも、既に「音名」があったのに、なぜ「階名」が必要とされたのか、というところがミソです。

これはおそらく、ヨーロッパ中世期の「数(すう)」に対する感覚が、大きく影響しているのではなかろうか、というのが、これから私がする、ド素人の嘘っぱち推論です。

ソルミゼーション、という言葉がありますが、これはグイドの考案した「階名」を用いて歌を歌うことに関連して生まれた用語です。歌唱に際して「音名」(絶対的な音高)を用いません。
たとえば音名(絶対的な音の高さ)がC・D・E・F・G・Aと並んでいる音階の五音お互いの関係は、と並んでいる音階の五音お互いの関係は、それぞれ同じ比で表すことができることに着目しているもので、

・「C・D・E・F・G・A」はC音を「ド」と読み、以下「レ・ミ・ファ・ソ・ラ」と読む
・「G・A・B・C・D・E」はG音を「ド」と読み、以下「レ・ミ・ファ・ソ・ラ」と読む

という具合に、相対的に階名を当てはめていく方法です。これは、歌い出しの絶対的な音高が違っても、歌われる音階ないしそれによって作られたメロディが「同じ」であることを示し得るという大きなメリットがあり、音階・メロディの理解を平易にしてくれるため、時代が下がっても20世紀初頭に所謂「調性音楽」が崩壊するまで、「移動ド唱法」へと発展し、音楽の習得に貢献してきたものです。厳密にはグイドの方法はそのまま後代の「移動ド」とは異なるのですが、煩雑になりますし、専門の本もありますので、正確に理解するには、そのようなきちんとした資料をお読みになることをお勧めします。安価ではありませんが、ルネサンス期のものとしてはティンクトリスの「音楽用語定義集」の訳書(中世ルネサンス音楽史研究会訳 シンフォニア 1979)があり、それに詳しい解説が載っています。さらに、グイドの方法がバロック後期になっても重要視されていた証拠としては、イタリアのトージの著書に詳しい注釈を施したドイツ人(バッハの弟子)アグリコラによる「歌唱芸術の手引き」(東川清一訳 春秋社 2005)にもグイドの方法について詳しい説明を付していることから判明します。

先に、当時の「世界を支配する」数に対する捉え方ですが、紀元前にはピュタゴラス(派)によって無理数の存在が発見されていたものの、古代ギリシャ及びローマ文明でそれを一般的には是認しなかった・・・たとえば稀世の天才アルキメデスによる円周率の計算も正多角形の内接と外接を限りなく押進めることによってなされたことからも見て取れる・・・ように、すべては(正の)有理数=分数で表せるはずだ、との信念があったかに見えます。すなわち、どんなものも「整数の比」で表し得ると信じていた。
実際、ドレミファソラシドは、整数の比で次のように表わせます(この話題の中では余計な話ですが、「平均律」ではなくて、「純正率」と呼ばれるものの間隔であり、しかもギリシャ元来のピュタゴラスの純正調を、天動説で有名な2世紀のギリシア人プトレマイオスがより単純に修正しメモを残していたものをもとに、15世紀後半にスペインのバルトロメ・ラモスという人物が初めて発表した比であり、オリジナルは分数です)。

 24:27:30:32:36:40:45:48
 
(それぞれの前後の音の間隔を参考までに記しますと、3、3、2、4、4、5、3でして、ドからファまでは8、ソから上のドまでは11と、3の差があります・・・これは整数比にすると過大に大きく見えることもありますし、今日の話題では避けておきたいのですが、音程関係でいくと、ド・レ・ミ・ファの間隔もソ・ラ・シ・ドの間隔も「全音・全音・半音」であり、グイドの方法そのものではありませんがグイドに習った流儀でいくと、連結の間隔が全音であるとの前提の上で「ドレミファ」・「ドレミファ」の2段重ねで1オクターヴの長音階が出来るはずなのですが、純正調ではこれが「ド【全音・間隔3】レ【全音・間隔3】ミ【半音・間隔2】ファ」、「ソ【全音・間隔4】ラ【全音・間隔5】シ【半音・間隔3】ド」と違った性質のものになってしまいます【間隔のより間違いのない計算は有理数で表現すべきであり、隣り合う音同士の比で計算しなければならないところ、ここでは分数を表示することなく話を簡便にする為に、主音からの各音の音程比を整数化したもの同士の減算をだけ行なっているので、歪みが不正確で大袈裟に出ていることはご了承下さい・・・きちんとした計算方法については「小方厚『音律と音階の科学』講談社ブルーバックス、西口・森『もっと知りたいピアノのしくみ』音楽之友社、などに掲載されています】。単旋律で歌われるならば支障は感じないですむのかもしれませんが、二つ以上の音を一緒に、すなわち和音として歌うことになると、自然なはずのこの整数比が等間隔ではないために、人々はだんだん不自然に感じるようになり、こんにち「中全音律」とか「平均律」と呼ばれている音程感覚の調整が行なわれるようになります。なお、グイドの時代も含め中世からルネサンスのヨーロッパでは、グイドが階名を与えた6つの音をひとまとめにして「ヘクサコルド」として扱っていますが、古代ギリシアの音楽理論・・・実際に読めるものは古代ローマ期に入ってから記されたものですが・・・では4つの音の間の三つの関係である「テトラコルド」で、既にかなり複雑な音程理論を展開しており、この音階構成音相互の間隔の問題の縁源は、直接的にではないにせよ、古代ギリシアの音程論を引き継いだ結果生じたものであると見なしてよいかと思います。)

さて、この正の整数が一定の比を成さずに、音が高くなるにつれて変化するのでしたら「自然数」である、という以上のことは何も言えなかったのですが、古代ギリシア人や中世ヨーロッパ人が目を付けたのは、この比が、上のド(48)をまた24と見直すと、実用上は3オクターヴではあったものの、観念的には音階はどこまでも同じ比で循環する、というところであったかと思われます。
この数比の循環に「神の摂理=中世当時の<形而上的理念>∈後代の<数理物理学的な公準に近似するもの>」を見出したが故に、グイドは「階名」の発想を構築したのではなかろうか
・・・すなわち、単純に「音の中にも数(すう)がある」ということのみならず、

「その数の並びはオクターヴごとに一定の比で循環する」

ところに、科学的な、あるいは論理的な法則を発見したと信じたが故に、音楽は単なる音の技芸ではなく、数理としてこの世に体現された最も美しいもののひとつとして神学を中心とした中世期の学問の大系の中に位置づけられたのではなかろうか、と推し量ることは、どうでしょう、妥当性に欠けるでしょうか?

音楽ではありませんが、ニュートンも万有引力の法則を証明した有名な著書「プリンキピア」の最後は、自然界の全ては神の意志から生じている、と締めくくっているそうです(背景にはニュートンなりの思惑はあったのですが、それにしても、自然科学の一大結晶である17世紀後半の著作がまだこのような表明をしていることには注目しておくべきでしょう)。

ちなみに、ソルミゼーションという用語自体がこうした循環を象徴しているのでして、グイドの手法が「ドレミファソ」まで歌ったら、ラにあたる次の音を「レ」と読み替える・・・すなわち「ソ(sol)」を「ド(ut)」と暗黙のうちに読み替えることにより、音列が「sol-la=re」と順に読み替えていけることから、その手法を象徴する言葉として誕生したのでした。ここでは循環をオクターヴでではなく、ヘクサコルドで捉えていることは申し添えておきます。

ソルミゼーションそのものについて最も入手し易い和訳書は現在のところ東川氏訳「歌唱芸術の手引き」でして、その18頁から31頁まで、とりわけ22頁掲載の表と24-28頁掲載の譜表を参照して下さい。本日の私の記事はこの点、音楽史上の正しい理論を例示したものではありません。

突っ込んで行くと、最初の方で言葉だけ出したピュタゴラスコンマのことだけでなく、クセモノである「B」音からシャープ・フラットの話にまで広がって行ってしまうため、あえて恣意的に話を「今ふう」にしてみました。
ヘクサコルドをもとにして分かり易い「音階の考え方」を説明なさっているかたを存じ上げておりますので、可能であればいずれそのご記述を転載させて頂きたいと思っております。

数(すう)としての音楽の話は、さらに古代ギリシア風幾何学的な発想を理解した上で拡大して行く必要があります。次の機会にはそちらへ視野を広げて行きたいと存じます。・・・すると、話が必然的に「自然数」<「整数」<「有理数」の範疇ではおさまらなくなって行きます。

またちょっと勉強します。



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2009年11月11日 (水)

ブラームスの交響曲をやるなら

増井一友さんクラシックギターリサイタル、東京公演11/21、大阪公演11/28、おススメです。
下記の2記事を是非ご参照下さい。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/11211128-e6af.html
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7de4.html



本記事は、今度ブラームスの交響曲からどれかを演目に選択しようとしている、あるアマチュアオーケストラを念頭に綴ります。記憶だけで綴りますので、誤りはご指摘下さっても結構です。ただし、もし誤りを見つけて下さったなら、そこから先は私への指摘ということではなくて、お気づきになったあなたが突き詰めて考えて頂けるようでしたら、より幸いです。

本職さんは商売で体を張っているんだから、こーゆーことは本稿よりずっとまっとうに考え続けていらっしゃるのは当たり前・・・と思っております。中には「自己の理論」ばっかり固めて観察をないがしろにしている人も僅かながらいるかも知れませんが、論外です。知ったことを自慢する「プロ」さんも、私にとっては「プロ」とは認め難い。

いえ、「プロ」さんはそもそも、こんなアマチュアの言うことなんかに目もくれないで、ただし、虚心に音楽そのものとは何かを見つめ続けたらいいのです。

あくまで、アマチュアさんがターゲットです。ですので、プロさんは突っ込まないで下さいまし。

アマチュアに、出来れば私の身近に、「本気で」・「楽器を手にしていなくても」・「自分の能力の許す限り虚心に」音楽に立ち向かっている人と・・・私はそろそろであっておきたいなあと思います。
ホンネを言えば、そういう存在は大変に希少です。いつも悲しく思います。・・・この件、たぶんもう一記事綴ります。

以下、面倒かも知れませんが、当該団体の「良心的」なかたには、出来ましたら全てお目通し頂きたいと願いながら綴っております。わからない言葉は、是非自主的に調べて頂きたい。そのことで本文の間違いを見つけて下さるようだったら・・・それが嬉しいのです。ただし、相手がアマチュアさんだったら、です。本職さんは私より正確に知っている、したがって指摘が出来るというのは当然であるはずだからです。

特殊な目的で編成されたのでない限り、アマチュアオーケストラは、必然的に「正団員」が過不足無く出演でき、それだけでなくて「音を出すことも出来る」曲を選択しなければなりません。
この点では、60人程度を超える団体(弦楽器の正メンバーはその半分に過ぎない場合が多いかと存じます)は、近代オーケストラであればプログラムに載せ得るバロック・古典から「前期」ロマン派の作品であっても、大部分を候補から落とさなければなりません。

ブラームスの交響曲は、トロンボーンまでを含むという点では申し分無く候補に入るように見えますが、トロンボーンが「音を出す」箇所は極めて少なく、実は、上記のような団体にとっては、選択は大英断、ということになります。
「音を出す」ということが「音楽を演奏すること」と等号では結べないことを、きちんと理解しているぞ、と、外の「ツウ人」さんたちに表明することになるからです。・・・で、これ以上は申しませんが、ブラームスの4つの交響曲のどれひとつとして、音楽的に非常に重要な意味を、まさにトロンボーンにこそ与えていないものはありません。トロンボーンを鳴らしっぱなしのベタな管弦楽よりも、トロンボーンの光を、あるいは眩しく、あるいは軟らかに、際立つべきところで際立たせる。そこのところにブラームスは心血を注いでいるからです。

いったい、「音を出す」というのが「音楽を演奏する」というのとイコールでないのは何故なのでしょう?
私なりの感じ方を述べるのは、本日は留保します。探せばネタは沢山ある、とだけ申し上げておきましょう。これを最も極端にしたのが、例のケージの「4分33秒」(で合ってましたっけ?)だと考えてもいいでしょう。ただし、ケージが考えたこの無音の「音楽」が「音楽」と呼びうるのかどうかについても、本筋から逸れますので述べることは控えます。

で、ここからは、まず第3番と第4番についてだけごくかいつまんで触れ、続いて第4番のみに話を絞って参ります。

第3番と第4番は、極めて対照的な作品です。
どこが対照的か?
作品設計の基本に置いている音程の取り方が明確に違うのです。
第3番は減五度ないし減七度、第4番は増五度を主体としている、と私は捉えております。
第4番については、和書ならば今は古書でも入手が困難ですが、ウォルター・フリッシュ『ブラームス 4つの交響曲』(天崎浩二氏 訳、音楽之友社 1999)に明確に
「交響曲に彩りを添える3つ目の要素は増音程を含む3和音だ」(訳書188頁)
と記されています。
第3番と第4番のこの違いによって何がもたらされるか。
一般に、減音程は安定した音程への「収縮」を、同じく増音程は「拡大」を指向します。
それにより、減音程を基調とした第3番は安定した静かな終結へと道をさぐり続けます。
増音程を基調とした第4番は、攻撃の手を緩めない外向的な響きで聴き手を圧倒しようとします。
第3番も第4番も、後日シェーンベルクが分析研究の対象としていることを念頭に置かなければなりません。脇道にそれますが、これはシェーンベルクが「無調」を検討する際にブラームスから受けた恩恵も少なからずあったという事実を示しています。すなわち、「十二音技法」は愛好家の世界ではこんにちまだ単純に「無調の代名詞」のように思われがちですが、「無調」はなにも「十二音技法」の専売特許ではありません。決め切った語法に頼っていない例としてはショスタコーヴィチの作品群などを典型としてあげることが出来るでしょうし(にもかかわらず彼の音楽は「調」名を付されているのが面白いところです)、語法を確立した作曲家の最右翼はバルトークあたりでしょうか。その他、教会旋法を基調に「無調」を編み出したドビュッシーなども名前を挙げておくべきかも知れません。この人たち以後の「無調」音楽は、これら様々な「無調」を統合した体型を産み出すには至っていませんが、それがまた響きの世界を百花繚乱させているのです。(そこのところを一般愛好家がなかなか楽しめない理由はいくつか存在すると思われますが、今日は述べません。)
では、シェーンベルクは何故、「調性音楽の最後の砦」とおぼしきブラームスから恩恵を受けたのでしょう?
それは、蓋を開けてみると、ブラームスの音楽も「無調」に向かって大きな一歩を踏み出していたからなのです。
では、それから受けた恩恵とはいかなるものだったのでしょうか?
「十二音技法」が否定したのは「調」と呼ばれるなにものかだったのであって、そのなにものかとは、「長調と短調」という二つに限定されてしまった「旋法」に他なりません。
したがって、「十二音技法」の根底には、「作曲者が自ら<旋法>を構築しなければならない」という厳しいルールが課せられているのです。「十二音技法」には、「旋法」が必要なのです。
19世紀末期から20世紀前半にかけて編み出された「十二音技法」以外の「無調」も、「(伝統的なものというよりは、歴史的にはイレギュラーで新規に感じられなくもない)教会旋法」〜ロクリアだのエオリアだのというのは古来の教会旋法ではありませんね、もしくはバルトークが「ミクロコスモス」で様々に提示しているような五音音階や音度関係が長調短調とは異なる音階組織などもあり、ショスタコーヴィチの「収束しない」全音音階など・・・どれもこれも旋法ありきであることには、案外注意が向けられていないように思います。

ここからは2作ともですと散漫になりますので、第4番のいくつかの点についてだけ述べ、その無調性もしくは無収束性に目を向けて頂けるようにしてみます。

ブラームスの第4番の「増音程」基調は、必然的に「拡大」を指向している旨、先に記しました。
増音程を含む三和音とは、(以下、移動ド読みを基本とします)次のようなものです。
まず、長調の主和音は、御承知の通り「ド・ミ・ソ」です。このとき、ドとミは長三度、ミとソは短三度の関係にあります。
(くどいですが、念のために基礎的なことをメモしておきますと「ド(全)レ(全)ミ(半)ファ(全)ソ」というのが、このあいだの5つの音の音程関係です。)
このうちのソの音程を半音高めて「ド・ミ・ソ#」という和音を作れば、長調の増五の和音が出来上がります。これが長調の増五の三和音なのは、お分かりですね?
短調の主和音は、「ラ・ド・ミ」ですが、これを短三度持ち上げると「ド・ミb・ソ」となります。この場合の増五の三和音は「ド・ミb・ソ#」と、先ほどの「ド・ミ(ナチュラル)・ソ#」の二通りとなります。(和声の教科書通りの表現でないことはご容赦下さい。)
ブラームスは、第4交響曲の中で、実は「短調の増五の和音」に当たるものを二つとも、入れ替わり立ち替わり使っています。そのことによって、短調と長調の境目をそれとなくボカしている。・・・ただし、ボカしているといっても、それをたとえばドビュッシーのように「あらゆる旋法」に仕組むことによって行なっているのではない。ブラームスの用いている「旋法」は、あくまで「長調」と「短調」なのです。このことが、一般の聴き手である私たちには、どことなくブラームスの方がドビュッシーより輪郭がはっきりしているような錯覚を起こさせる。
「そうじゃあないんだ!」
と見抜き、ブラームスがボカしておいた壁を完全に消してみようと冒険したのがシェーンベルクだった・・・もちろんこれが全てではないので極端な言い方ではあります。
話がまたそっちに行ってしまうのは避けましょう。
ここまでで分かることは、ブラームスの第4交響曲の第1楽章を「ホ短調だ」という既成概念で演奏することは許されない、という、演奏者に課せられた厳しい試練の存在です。
ブラームスは、こういう意地悪を、さらに様々なオブラートで包んでいます(オブラートって、そういえばこの頃はあんまり直接には使わないですね)。
第1楽章の主題が三度の下降を持ち上げ持ち上げ作ってあるのは有名です。これも移動ドで行きます。
「ミ(長)ド(短)ラ(長)ファ(短)レ(短)シ(長)ソ(短)ミ」
と下降していくわけです。・・・これで調性をカモフラージュしておくのですが、これを一転して上昇音型に用いることで華やかな派生主題を構築していくのもまた鮮やかです。で、この派生主題にまたも増五度を忍ばせてみたりしています。それはスコアからお探しになってみて下さい。さらに、このカモフラージュ動機は、増音程(パッサカリア主題第5章節目の増四度を含め・・・これは増五がサブドミナント【長調ならいわゆるドファラ、短調ならいわゆる【ラレファ】への拡大を指向するのとは異なり、トニカ【ドミソないしラドミ】に「ひろがって」いくことで安定を確保するのですが、突っ込むとキリがないことながら、ブラームスはパッサカリアの主題6小節目を素直なトニカの和音にはしていません・・・これもスコアからお読みとり下さい)第4楽章でも巧みに用いられています。

長くなりましたが、あと二つだけ、他のことにも着目してみましょう。
(第3楽章は第1楽章との兼ね合いで理解すべきです。)

まず、出て来たついでなので第4楽章が「パッサカリア」であることについてですが、世間では概ねこの楽章が「パッサカリア」だと言い張ってやみませんけれど、そうではなくて、「パッサカリア」の手法を借りた、ブラームス当時の現代音楽なのです。本来の「パッサカリア」はバロックの舞曲ですから、体を使って踊れなければいけません。ブラームスのこの終楽章で、ダンスをすることは出来ません。・・・醜悪な指揮者を除きますが。
これもまた、意識したかしなかったかを問わず、ブラームスが投げかけた、過去への巨大なアンチテ−ゼなのです。バロックのスタイルを正々堂々と使ってバロックを否定したのは、ブラームスが最初ではないか、と思えるくらいです。ところが、これはバロック否定としては次の世代には理解されませんで(いや、ブラームス自身、そのあたりはどうだったのでしょうか?)、皮肉にも、ブラームスのこのパッサカリアは20世紀の3分の2ほどの期間のバロック演奏の規範となってさえしまったのであり、そうしたバロック演奏はフルトヴェングラーやグレン・グールドが最も結晶したかたちで受け継ぐものとなり、こんにちでもファンが絶えない状況を産み出しています。・・・それはそれで歴史的には意味のあることです。ですが、ブラームスあってこそバロックの最後の牙城(バロック時代の作品はもはや一般的には演奏されていなかったとは言え)である「即興性」に完膚なきまでの打撃を与え、「音楽」が勝手に踊り出す陽気さを「音楽」から締め出し、まったく別の世界の響きが構築されたのだ、との事実を、私たちはあらためて念頭に置かなければなりません。
・・・誤解のないように申し添えれば、私はブラームスを嫌悪してこんなことを口走っているのではありません。私をご存知のかたは、私がどれだけブラームスのファンかも十分ご承知のはずです。

もうひとつは第2楽章の主要主題についてです。
これも、「無調」への静かな、しかし充分傾聴すべき一歩なのだ、と申し上げたら、
「何を極端なことを!」
とお叱りを受けるかも知れません。
ただ聴いていると、これは冒頭、
「ミー・ミー・ファーソ|ミー・ミー・レード|etc.」
と聞こえます。
ところが、ホルンがひとしきりアルプス山腹風に響いたあと、同じテーマは突然高さが変って聴こえます。
通常、この変化について、アマチュアオーケストラのメンバーは、どう変わったのか、について耳を傾けていません。
蓋をあけて中身を調べてみて下さい。
クラリネットに始まる、高さの変った「ミー・ミー・ファーソ|ミー・ミー・レード|etc.」が、本当は正式の主題です。
かたちは同じですが、ホルンが最初に鳴らしているのは、
「ラー・ラー・シbード|ラー・ラー・ソーファ|etc.」
なのでして、これを移動ドで「ミー・ミー・ファーソ|ミー・ミー・レード|etc.」と読んでしまうのは正式には誤りであることが・・・この楽章の最後の最後で明らかになります。
すなわち、第2楽章冒頭は、ブラームスがこの楽章をどう閉じたいかを先に示してしまう、という、凡な神経では考え難い、もっと極端に言えば「常識人」に対しては禁じ手でさえある暴挙を行なっているのです。
ホルンが予示し、楽章を締めくくる
「ラー・ラー・シbード|ラー・ラー・ソーファ|etc.」
は、この楽章が単純な長調なのではなく、別の旋法を指向していることを示しています。リディア旋法(単純にそうなのではなく、リディア旋法すなわち第3旋法、の変格旋法、すなわちヒポリディア=第6旋法)です。「ラ」は、ヒポリディア旋法の吟唱音です。シが変位している(bemolle)点がドリア旋法と共通なので紛らわしいのですが、短調を指向していませんからヒポリディアとなります。・・・楽章全体を長調の音楽にしておきながら、バックに教会旋法をマスキングしてある、美術的配慮が周到になされている楽章です。

以上、断言的に、しかもこれでもごくかいつまんで述べて来ましたが、是非、ここまでの記述の正誤も含め、音楽を「読む」という大切な吟味の過程も、おひとりおひとりが充分すぎるほどにやって頂きたいのです。

指揮者だろうがその他優秀なトレーナーさんだろうが、奏者の理解出来ないことまでさせることは出来ません。
音にしてみる前に、ちょっと踏みとどまって、主体的かつ客観的に「音楽を読む」作業も、欠かさずやって頂きたい。
私が願うのはそのことばかりです。

長くなりました。以上です。


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2009年3月24日 (火)

「ソナタ形式」って何?:聴き手のための楽典006

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
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・・・是非、お目通し下さい。



齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。

書籍「金沢城のヒキガエル」、記事をお読みになってお気が向くようでしたら、どうぞご一読下さい。

大井浩明さんのベートーヴェン演奏(フォルテピアノによる)、新鮮です!

ブラームスの「交響曲第4番 ホ短調 作品98」を素材に
001-拍子
002-速度(テンポ)
003-表情
004-調
005-作品番号
について、素人考えをまとめていましたが、中断しておりました。

同交響曲の、表記上のもので、まだ話題にしていないのは「形式」のことです。次の、色をつけた部分です。

第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ ソナタ形式 ホ短調 2/2拍子
第2楽章 アンダンテ・>モデラート 二部形式 ホ長調 6/8拍子
第3楽章 アレグロ・ジョコーソ ソナタ形式 ハ長調 2/4拍子
第4楽章 アレグロ・エネルジーコ・エ・パッショナート パッサカリア ホ短調 3/4拍子

・・・で、最後の「パッサカリア」というのは、ちょっと性質が違うかと思いますので(もともと舞曲の一つでした)、まず、これは分けておきます。
「二部形式」というのは、文字通りふたつの部分から出来た音楽で、上例では出て来ませんが「三部形式」なら
みっつの部分から出来た形式、ということになります。で、この先の「四部形式」とか「五部形式」ってのがあるのかな、と思ってワクワクしながら音楽の教科書を見ても、これは出て来ません・・・つまんねーの!
さらに、三部形式の前には「複合」の二文字がついたものがありますが、これを考え出すと頭の中が「複雑」になります。
「え? 複合ってなにー?」
「わっかりましぇーん!」
はい、避けて通りましょう。
「その前にさあ、二部形式のふたつの部分、三部形式のみっつの部分、ってどうやって見つけるのー?」
は、これも避けて通りましょう。
「なんで三より大きいのはないのー?」
・・・「形式」なんてものを考えた人に聞いて下さい。

「ソナタ形式」という言葉を考えた人は、ちょっとははっきり特定できるようです。
言葉としては見かけが一番分かりにくい、この「ソナタ形式」から取りかかるのは、そんな事情からです。
「その前にさあ」
「・・・はあ、また、その前に、ですか?」
「うん。あのね、ソナタって、なに? あっ、そっか、江戸時代の人がつかってた<あなた>に当たる言葉だよね!」
「・・・」
今日は、やけに風が冷たいようです。



「ソナタ」は、「シンフォニア」・「オーバチュアー」と並んで、もともとは現代的な意味での「特定の音楽や形式」をさす言葉ではなかったことを、もっともきちんと教えてくれるのは、日本の著作物では
佐藤望「ドイツ・バロック器楽論」慶応義塾出版会 2005
だと思っております。なかでも、後年共に長い期間(19世紀いっぱいに至るまで)オペラの序曲の呼び名でもあった「シンフォニア」と「オーバチュアー」がどのような変遷をたどって混同されたまま使用されることになったのか、などについても、ストレートな記述があるわけではありませんが、関連項目を拾い出して整理していけば、日本語の本としては、他の音楽理論史の資料と比べ、飛び抜けて透き通った見通しを与えてくれます。
とくに、「シンフォニア」から変形していった言葉である「シンフォニー」を「(大規模な器楽=管弦楽による)交響曲」と翻訳してしまったことからにっちもさっちもいかなくなってしまっている、ちまたの「交響曲」解説に対しては、佐藤著は時代をバロックに、地域をドイツに限定することから敢て深入りはしていないのですが、きちんと読むと、極めて冷静な目から警鐘を鳴らしています。「ソナタ」についても、佐藤著の態度は同様です。
ただし、今回は楽曲の種類についての記述ではありませんので、楽曲としての「ソナタ」を考えることはしないでおきます。

「ソナタ形式」とは、世間ではどんなふうに説明されている「形式」なのか、だけ、見ておきましょう。
短いサンプルを作りましたので、それを補助的に用います。

この例で、「汽車ポッポ」に当たる部分が、以下の記号の「A」にあたり、「ブランコ(形をかえてありますのでお聴き取りになれるかどうか・・・)」に当たる部分が「B」に当たります。途中、短調に変わる部分が「C」に当たります。



田村和紀夫「名曲が語る音楽史」(音楽之友社、2000・・・もともと1,800円でしたのに、中古は異様に高値です!)

に記載されているところを参照しますと、もともとこの「形式」はアドルフ・ベルンハルト・マルクス(1795-1866)なる人物がベートーヴェンを中心とする音楽作品の解明のために導入した概念だそうで、簡単に言えば、それは「呈示部、展開部、再現部」の三つの部分をもつ、すなわち三部形式的なものだと説明されています。そして、この用語はハイドンやモーツァルトの楽曲を「形式分析」するときにも用いられています。
ところが、これに対して20世紀前半に活躍したフランスの大作曲家ミヨーが、「ソナタ形式」なる言葉をモーツァルトに当てはめるのは奇妙だ、といった意味のことを述べているのが、上記の説明の後に続いて述べられています。そしてさらに、18世紀には、「ソナタ形式」のもっと初期の例として18世紀中になされたものがある、ということで、リーベルなる人物の『音秩序の原理』(1755年のものの由)に以下のように示されていると記しています。
「主調から属調へ転調し、最終的には属調の平行調(もしくは主調の平行調)から主調に復帰する」(田村著p.88)
のが、18世紀の、「ソナタ形式」というものに対する認識だった、ということです。そして、この記述は、ソナタ形式を二部形式として述べたものだ、としています。主調=A、属調=B、平行調=C、とすると、

A-B|C-A

という二部からなっている、という意味であろうと思われます。

ふーむ。難しいですぅ。

引用文からは、ミヨーの言い分は「ソナタ形式」というものの乱用に対する嫌悪を示したものであるように読めるのですが、田村さんは、それを「モーツァルト以前とベートーヴェン以後」の分岐点を示す言葉として捉えていらっしゃるようです。(本書を初めとする田村さんのご著書は、素人にとっては大変親切な、楽曲分析の本ではあります。)
たしかに、ベートーヴェン以後の「ソナタ形式」とされているものは、

・A部分を「第1主題」、B部分を「第二主題」と呼び、以上をひっくるめて<呈示部>と称します。
・C部分はAかBのいずれか、または両方から素材を拾って来て、自由に展開されるので<展開部>と称します。
・ふたたび現れるA部分にはB部分も「主調」で付加されて一体化しており、<再現部>と称します。

一方で、モーツァルトより一世代前にあたるクリスチャン・バッハの『シンフォニア』でソナタ形式とされるものは、二分構造の後半に当たるはずの、まずCの部分については、AともBとも全く関係のない素材で作られていることのほうが多く、18世紀の「ソナタ形式」説明に合致しますが、のこるAの部分は単純に主調に回帰するのではなく、前半部で「属調」であったB部分はAにくっついて「主調で」現れます・・・

このことは、ミヨーの批判よりも、後で出てくる、田村さんご自身による「ソナタ形式」とアリストテレースの『詩学』との対比のほうが、正鵠を得ているように感じられます。・・・田村さんは、わざわざミヨーの言葉なんか引く必要はなかったんじゃないかな、という気がするのです。

「悲劇が描く行為とは、一定の大きさをもって完結している。ということは、そこには『始め』と『真中』と『終わり』があることを意味する。そして、それが統一された全体であるということは、本来的にそうでしかありえない『始め』と真に真中らしい『真中』、それに必然的な帰結としての『終わり』をもつことである。」(同書p.90)
こういう、劇の原理の音楽化こそが「ソナタ形式」なのではないか、ということを、田村さんは、このあとモーツァルト『フィガロの結婚』第3幕5場の六重唱を例に検証していくのですが、これは見事に図に当たっていることになります。

すると、やはり、とくに「C」部がA、Bと直接的な主題の繋がりがあろうが無かろうが、「ソナタ形式」というのは、三つの部分

1)主題を明らかにする部分で、基本的に2つのものが、最初(A)のは主調で、次(B)のは属調で示される
2)自由なドラマ展開部分で、基本的に属調または主調の平行調で示される
3)主題に戻ってくる部分で、A、B共に主調で示される

言い換えれば

1)ドラマが幕を開けるが、そこにはまだ少なくとも二つの対立がある
2)ふたつの対立の中の幾つかの要素を用いるか、または全く用いないで、ドラマを盛り上げる
3)最初の二つの対立が、(同じ主調で示されることで)歩み寄って解決する

という、小規模ならば三場の、大規模ならば三幕の劇をしめすようなものが、基本的な「ソナタ形式」であると見なせるのではないか、と思います。

ただし、ミヨーの反発に戻れば、それにはもっともなことがあるのでして、ミヨーが言う通り、
「モーツァルトのソナタのなかには、導入部のアダージョだけでも、10にものぼる主題のみつかるようなやつがある。しかも、どの音もみんなしかるべきところにおさまっていて、弱いところなど一箇所もない!」(同書P.88に引用)
・・・こんなこともありますから、上の「A」を「第1主題」、「B」を「第2主題」と呼び変えることは、必ずしもふさわしくはありません。

このあたりの機微を知るには、ブラームスのこの交響曲は少し複雑すぎるのですが、第1楽章をお聴き頂き、そのドラマの大きな「三つの部分」がどうなっているか、にじっくり耳を傾けて頂ければと存じます。(調の関係は上述の模式的なものよりずっと複雑ですので、あえて触れません。構造は、耳でもよく把握できる曲です。)

・第1楽章(カルロス・クライバー/ウィーンフィル、ドイツグラモフォン国内盤から。モノラル化)

Deutshe Gramophone UCCG-70020


「三つの部分で出来ているんだったら、三部形式なんじゃないの?」 ・・・うーん、このことについては、実は、たしかにビミョーなのではないか、と、私は思っております。 余分なひとことを付け加えるならば、「ソナタ形式」と呼ばれるものになったもののおおもとは、イタリアオペラで発達した「ダ・カーポアリア」という歌唱曲の書法(書き方、作り方)に由来するんじゃないのかな、という思いが、私の胸の内にあるからです。 ですが、いまのところ検証をしたわけではありませんので、これは折りをみて勉強してみたいと思います。

いきなりまとめますと、
「ソナタ形式」というのは、おそらく、たぶん、「幕開け」と「錯綜」と「大団円」という劇構造を持った「三部形式」の特殊形・・・などという「まとめ」は、どうでしょう、まだちょっと根拠が薄いかなー???


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2009年2月12日 (木)

テンポ備忘録(聴き手のための楽典:番外)

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・・・是非、お目通し下さい。



大宮光陵高校管弦楽部がSONYのウォークマン"Play You"のCMに12月13日から出演しています!

「テンポ」のことにつき、メトロノーム以前にはどう捉えられていたかを、自分のために若干、ここにメモしておきたいと思います。



クヴァンツは「フルート奏法」の第17章「当時のリピエーノが注意すべき義務について」のなかでテンポの重要性についても言及していますが、その§51においてAllegro系統とAdagio系統の諸テンポ(AllegroにしてもAdagioにしても、他の発想記号同様、原点は音楽の雰囲気を表わすものでしたが、クヴァンツの時期には既に速度標語としての意味合いも獲得していたことが、ここでの記述から伺われます)について脈拍数を用いて測っています。なお、脈拍は1分間に80程度を標準に考えているようですので、4/4拍子の方にはメトロノームに換算したらどれだけの速さになるかも併記します。

4/4拍子では
Allegro assai      半小節ごとに一脈拍(♩=160)
Allegretto        各四分音符に一脈拍(♩= 80)
Adagio cantabile    各八分音符に一脈拍(♩= 40)
Adagio assai      各八分音符に二脈拍(♩= 20)
 
アッラ・ブレーヴェでは
Allegro assai      各小節に一脈拍
Allegretto        半小節に一脈拍
Adagio cantabile    四分音符に一脈拍
Adagio assai      四分音符に二脈拍

・・・なんか、凄い極端な気がしなくもないんですが・・・私が計算を間違えたかなあ。
ちなみに、「聴き手のための楽典」と称して来た記事の2回目で自分自身を尺度に計算したAllegroは、私の一分間の脈拍数76を基準にした時、1分間に111くらいでしたから、assaiがつかないAllegroは脈拍を80に補正すると、117くらいになります。

繰り返しになりますが、Allegroがもともとはテンポ感ではなく、「気分を楽しく、明るく」という意味を持っている(現代のイタリアでも日常会話の中ではその意味で使われる)ことは、先の記事に記した通りです。
Adagioは、「ゆとり、くつろぎ」の雰囲気を表わすものだそうです。あるいは、慎重を要する時に高かけ声をかけられるようです。
assaiがつくと、それがどうして倍にまでテンポが加速され、あるいは引き延ばされるのでしょう?
この語自体は、英語で言うとveryに相当するものです。それを、もしかしたら、クヴァンツは、少々端折り気味に解釈して(何せイタリア人ではありませんから!)、機械的にassaiがつけば倍テンポ、と決めつけてしまった可能性はあります。
彼はこのあとさらにこまごま書いているのですが、省略します。(全音出版社の訳書268頁に書いてありますから。)ただ、上の数字を列挙したあと、
「特に4/4拍子にはいわば中庸の速さのAllegroがあり、これはAllegro assaiとallegrettoの中間である。そしてしばしば声楽曲やパッセージがあまり速くないほうがよい器楽曲に用いられる。これはPoco allegroとかVivaceと書いて示されることもかなりあるが、Allegroとだけ書かれることが最も多い。この際は3つの八分音符に対して1拍が当たり、第4番目の八分音符のところに2拍目が当たる。」
と記していますから、これによれば、クヴァンツの考えているAllegroの速さは120で、私の脈拍からの換算値と近い値になります。
難点は、クヴァンツのこの記述ではAllegroとVivaceには速度の違いがないことになってしまうことでして、気分を表す言葉としてのVivaceは「陽気に」とは異なりますから、物理的な速度だけが同じで雰囲気が違うだけだ、と捉えるのが適切だと言わんばかりです。Vivaceは「活気」のニュアンスを持つ言葉で、同時に(Allegroとは異なり)スピード感も含意していますから、ちょっとこの件は保留です。
プレストについての説明も別途ありますが省略します。・・・今日はもう、そこまで頭が回転していませんので!

なお、エマヌエル・バッハの著述も読んでおきたかったのですが、残念ながら未見です。



レオポルト・モーツァルトは、「ヴァイオリン奏法」で、数字ではなく、文章表現で速度を示しています。
第一章第3節§27に全部で(発想記号とこんにち言われているものと混在させて)33語あげていますが、速度に関わるものから幾つかだけ抜粋しておきます(同出版社 訳書36頁以下)

・Prestissimoは最も速いテンポを示し、Presto assaiはこれと殆ど同じです。
・Prestoは「速い」という意味で、Allegro assaiとほとんど違いません。
・Allegroは、活気があるが、とても速いというわけではなく、特に、形容詞や副詞で加減されている場合は急ぎません。(後略)
・AllegrettoはAllegroよりやや遅く、普通は快く、魅力的で、かっこうがよく、ふざけたがる感じがして、Andanteと共通点があります。(後略)
・Vivaceは生き生きという意味で・・・(中略)速いテンポと遅いテンポの中間ぐらいです。(後略)
・Andanteは歩くようにという意味です。この言葉自身が、曲が自然な進行をしなければならないことを示しています。(後略)
・Adagioは遅くという意味。
・Largoはさらに遅いテンポ(後略)
・Graveは悲しい気に、おごそかに、従ってとてもゆっくり弾きます。

これくらい、かな?
ちなみに、Andanteはイタリア語の会話の中では「歩く速さ」なる意味はもっていないそうで、レオポルトの説明で行くと、後半部分のニュアンス、すなわち、レオポルトの言葉をそのまま借りるなら、「自然な進行」を表わすだけだそうです。これに「歩く速さ」なる意味を付加したのはドイツ人ではないか、というのが、「これで納得! よくわかる音楽用語のはなし」(これまた全音楽譜出版社)のご著者の見解ですが・・・なんと、父ちゃんモーツァルトの記述の中にありました!(訳書なので原書もそうなのかどうか、は確認したいところですが。)



以上の二人も含めての、18世紀中葉頃のテンポ設定がこんにちのメトロノーム記号でどれくらいに当たるのかの詳細は、橋本英二『バロックから初期古典派までの音楽の奏法』(音楽之友社 2005)第3章に事典的に一覧表化されて載っています。
また、上記のクヴァンツの数字も含めて、ですが、バドゥラ=スコダ『バッハ 演奏法と解釈』(全音楽譜出版社 2008)第3章は「バッハの正しいテンポを求めて」とのタイトルでまとめています。ただ、その中に、「テンポに関する注意事項」という節があって、数字的なもの、当時の言葉の翻訳だけでは捉えきれないことが現代人向けに書かれていて、重要です。その中から・・・

2)18世紀におけるアンダンテは”前進する” 流麗な演奏を示し、しばしば”適度に速い”テンポだととらえられていました。したがって「モルト・アンダンテ」は「より速く」と言うことを意味します。(後略)

3)ヴィヴァーチェは本来テンポを指示する用語ではなく、「生き生きと」という意味の形容詞でした。

5)メヌエット(Menuett, Menuet, Minuet, Menuetto, Minuettaなど)は、フランスでは”適度に速い”テンポから”とても速い”テンポの舞曲です。テンポは♩=160(クヴァンツ)から(フォントがないので)付点二分音符=70(ラフィラール)の間と考えて下さい。(後略。バッハやヘンデルでより遅いメヌエットがあることをも示唆。)

こうした記述は貴重です。

迂闊にも付箋を貼っていなかったので探し出せませんでしたが、フランスの「バロック」舞曲を取り扱った書籍に、類似の記述があります。

してみると、余談ですが、ベートーヴェンの第1・第4交響曲の「メヌエット」は、スケルツォの前身なんかではなくて、やっぱりメヌエットなのです。(時代背景的にも、フランス革命期に重複しますから、メユールの音楽などから類推しても、まだまだ常識化している、フランスの影響を受けたはずのドイツ音楽の「遅いテンポ」は、おそらく時代考証をした場合には非正当なものなのではないかと思われます。



思ったよりいっぱい綴っちゃいました。
・・・備忘録、に過ぎないんですけれどね。スミマセン。

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2009年2月 3日 (火)

「作品98」・・・作品番号の意味するもの:聴き手のための楽典005

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ブラームスの「交響曲第4番 ホ短調」には「作品98」という番号がついています。これを「作品番号」ということは、ご存じかもしれません。
でも・・・クラシック音楽には、なんでこんなものが付いていることが多いのでしょう?
そんな話、「楽典」の教科書には載っていませんよね。・・・当然といえば当然、音楽作品の内容には全く関係がないからです。

ですけれど、「聴き手」としては、やっぱり知りたいですよね、この番号に何か意味があるのかどうか。
残念ながら、探ってみた限りでは、webサイト上には(Wkipediaを含め)印刷物の事典に盛り込まれている記事はありませんでした。雑学としては面白くて情報も豊富なサイトもあるのですが、起源の追求がなされていません(「情報豊富」にリンクを貼ったこのサイト、なかなか面白く、よく調べていらっしゃると脱帽しましたが、遺憾なことにバッハ以前についてお調べになる気はもとからなかったようです)。・・・もちろん、そんな追求は私自身もできないので、大口は叩けませんが、「ネットの上でも、脇道にそれない情報が欲しいんだけどなあ」という寂しさを感じました。


まず、これまでブラームスの本作品からトピックを取り出し続けてきたのですから、彼の交響曲第4番がどうして作品「98」なのかを、ちょっと調べてみましょう。・・・といっても、おおまかな推測しかできないのですけれど。

彼の作品表の、楽譜の出版年まで分かるものが手もとに用意できれば、そのおおまかな推測ができます。
音楽之友社、作曲家○人と作品シリーズの『ブラームス』(西原稔 著、2006)の作品表と年表は、この点、非常に今の目的にかなっています。さまず、年表の方を参照すると、「作品」の欄には、若干の逆転はあるものの、作品がほぼ番号順にそろっているのが分かります。続く作品一覧で「初版」の年を参照すると、作品番号が、ほぼ作品の出版順に並んでいること、初演の年は、にもかかわらずかなり後である場合もあることが分かります。(早い時期に出版された例では、「作品6」は6曲からなる歌曲集なのですが、初演は1862年に1曲、1863年に1曲なされたのが最も早い方で、残りは1881年以後の初演となっています。ところが、出版自体は1854年。すなわち、演奏ではなく、出版の方が優先されて番号付けされていることが判明するのです。ついでですから、それ以前の作品番号の出版年を記しておきますと、作品1=1853年、作品2=1854年、作品3=1853年、作品4=1854年、作品5=1854年です。作品2と3の間の年の前後逆転は、出版社の事情が絡むかどうかは精査しなければ分かりませんが、おそらくそうではないかと推測しても不自然ではありませんよね。

すなわち、
・作品番号は、出版された作品に、出版(が手配)された順番で付けられたもの
と思ってよさそうです。


では、番号付けは誰がやったのか、というのが次の話ですが、19世紀以降は作曲家がやることが一般的になっていたそうで、近代的な意味での嚆矢はベートーヴェンであることが分かっています。ただし、かなり早い例外として、ハインリッヒ・シュッツが自分の意志で作品番号を振っていることが知られており、その「作品1」は1611年のマドリガル集です(白水社「図解音楽事典」参照)。

ベートーヴェン以前は、ハイドンにしてもモーツァルトにしても、作品番号付きの作品がいくつか存在するのですが、出版業者側が付けていた、とのことです。(モーツァルトの作品1は、7歳の時にフランスで出版されたK【ケッヘル】6、7のソナタですが、出版社に関連することとしては「ヴァンドーム夫人版刻。国王により充許。」の言葉があるとのことです・・・海老澤敏「モーツァルトの生涯」による。)この当時は、同じ曲を違う出版社が争って人気曲を印刷したため、作品番号に混乱が生じる場合もあったようで、読んだ限りの手元資料では確認しきれなかったものの、ヨーゼフ・ハイドンの作品にはそのような例が見られるそうです。モーツァルトの作品1は、先ほどあげたものの他に、22歳で出版したヴァイオリンソナタ集にも重複して付けられています。

いずれにせよ、「作品番号」は、楽譜の出版と密接に関わっており、基本的に出版の手配ができた順番で付けられたものだったのでして、これが付いている作品については、番号の近い他の作品の出版年と近い時期に「出版」されたことが分かる、ということになります。
気を付けなければならないのは、原則として「出版順」の番号ですから、必ずしも「作曲された順」にはなっていない点でして、ベートーヴェンでも作品136以降は作曲者没年後に付番されたものですし、今年が生誕200年のメンデルスゾーンになると、没後の出版作品に付けられた作品番号がかなりあるため、かなり初期に作曲された作品であるにも関わらず、作品番号80番台以降の番号が付せられたものが少なくありません。(たとえば交響曲第5番「宗教改革」は1829-30年に作られましたが、その出来に不満足だったメンデルスゾーンは生前にはこの曲を出版しませんでした。そこで、死後出版されたこの第5番の作品番号は107となっています。ちなみに交響曲は第2番から第4番までが第5番より後に作られており、それぞれ、作品番号は52、56、90・・・第4番の創作・出版事情については日本人の女性研究家による優れた文献がありますが、高価なので遺憾ながら手にしていません・・・です。)


では、作品番号が付けられていない曲に独自の番号が付いているケースがありますが(先の例のモーツァルトやハイドンのように)、これってなんなのでしょう?

web上の情報でいちばん不満だったのは、作品番号とこうした独自番号の混同です。

独自の番号は、その性質からして、むしろ「整理番号」と呼ぶべきものです。

整理番号には次のようなタイプがあります。

・特定の作曲家を詳しく研究して作品を整理した人の姓を呼び名としたもの
 (シューベルト=ドイッチュ、モーツァルト=ケッヘル、ハイドン=ホーボーケン、などが代表例)

・ドイツの作曲家について、作曲家のイニシャルの後にWV(Werke-Verzeichnis 作品目録)と付したもの
 (バッハ=BWV、ブクステフーデ=BuxWV、ヘンデル=HWV、シュッツ=SWVなど)

・やはりドイツ系で、作曲家を問わず、WoO(Werke ohne Opuszahl 作品番号のない作品)と付けたもの
(私個人はベートーヴェンとブラームスの例を見ました。他の作曲家でも使われているはずです)

その他のタイプも、もしかしたらあるかもしれません。


話は戻りまして、では、いつ頃から作品番号なるものがどこで付けられはじめたか、なのですが、これはルネサンスで活版印刷が盛んになったイタリアでのことでして、16世紀末から17世紀初頭(先ほどのシュッツの作品番号が付けられた頃)に登場し、流行るようになったとのことです。

平凡社音楽大事典にあげられている初期の例は、
・ヴィアダーナ(1564-1627):モテット集 "Motecta fesrorum..." op.10 (1657)
・パンキエーリ(1568-1634):"La barca da venezia per Padva" op.12 (1605)
・マリーニ(1567-1665)ソナタ集 "Affetti musicali" op.1 (1617)
でした。最初の2人はボローニャで、最後の1人はヴェネツィアで活躍した音楽家です。

ソナタやコンチェルトを3、6、12曲まとめて一つの作品番号として出版する例は初期のベートーヴェンまで継続して見られることですが、この習慣は17世紀後半に始まったようです。こうして付番された作品は、同じ事典によりますと、アルビノー二には作op.9まで、コレルリにはop.6まで、ヴィヴァルディにはop.13ないし14まで、ヘンデルにはop.7まで、クリスチャン・バッハにはop.22まで見られる、とのことです。クリスチャン・バッハのみ、作品番号の有無をすぐに確認できる資料をすぐに取り出せましたが、上の記述通りで、曲集でないもの(歌劇が代表例)には作品番号が付されていませんでした。

以上、今回は「楽典」からははずれた話になりました。

今後はいよいよ、曲の「形式」の話に触れていかなければなりませんので、やっと音楽自体をもお聴き頂きながらの説明となるかと思っておりますが・・・どうなることやら。


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2009年1月 4日 (日)

胃が痛くなる「調」の話(音名・固定ド・移動ド):聴き手のための楽典004

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ブラームスの「交響曲第4番 ホ短調 作品98」を素材に

001-拍子
002-速度(テンポ)
003-表情
 ※ それぞれ「基本的な考え方」の説明を試みていますので、辞典代わりにはなりません

の素人説明を試み、「次は調の話を!」と息巻いてから、はや一ヶ月が経ってしまいました。
何故なら・・・「調」の説明は、もともとかなり割り切って端折ってするつもりだったのですが、根本的な難題があることに気づき、ちとばかり長い期間、悩んでしまったからであります。

正月も三が日を過ぎ、ごちそうで胃がもたれているところでしょうから、そんな状況にはふさわしいかな、ということで、まあ仕方ない、もうそろそろタイムリミットだな、ということでおっかなびっくり
「いってみようか」
と清水の舞台の縁の上に立った次第です。



さて、この交響曲の構成は、過去三度見てきましたが、繰り返します。

第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ ソナタ形式 ホ短調 2/2拍子
第2楽章 アンダンテ・>モデラート 二部形式 ホ長調 6/8拍子
第3楽章 アレグロ・ジョコーソ ソナタ形式 ハ長調 2/4拍子
第4楽章 アレグロ・エネルジーコ・エ・パッショナート パッサカリア ホ短調 3/4拍子

今回は、色をつけた「○○調」というところがなんなのか、をお伝えするのが課題です。・・・しかも、方針として、音符を使わない。・・・音符を使って視覚的にした方が、もしかしたら平易になるかも知れないのです。そこは、ですが自分で決めてしまったこと。方針は守りましょう。



まず、「長調」と「短調」について、きわめてざっくりと行ってしまいましょう。
次のうち、どっちが「長調」で、どっちが短調か、という、簡単なクイズに答えられれば、この件はおしまいです。

1)ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ
2)ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド

ヒント・・・「ドレミの歌」は、さすがにご存知ですね?
「ドはドーナツのド、レはレモンのレ・・・」
なに、ご存知ない? はい、そのかた、すみませんが、お別れしましょう! 私にはあなたに「調」を分かって頂けるだけの能力を持ち合わせていません。(T_T)

「ドレミの歌」の調べと歌詞に一致するのは1、2のどちらですか?
2)ですね。
じゃあ、「ドレミの歌」は明るい歌ですか? 暗い歌ですか? ・・・あの、この歌が流れる「サウンド・オブ・ミュージック」のストーリーからいろいろ深く詮索しないで、素直に「思って」下さい。
すると、当然「明るい」歌ですね。
明るいので、伸びやかですから、伸びのある方向の字がついた方の「調」が正解。はい、2)が「長調」です。
最近の一般的なポップや欧米音楽(およびそれに影響を受けた音楽)には・・・すなわち、ふつうにテレビやラジオに流れる音楽には、「長調」か「短調」しかありませんから、のこった1)が「短調」ということになります。
また、「長調」が「明るい」調でしたから、「短調」は「暗い」調、ということになります。
※ 厳密にはそんなに単純な話ではないのですが、これも深く考えないでおいて下さい。この楽典の話の延長(それは私自身にとっても基礎の勉強のやり直しなのです)がどこまでいけるかによって、複雑な話はこのあといつでもチャンスがありますから。



上の「ドレミの歌」のように、長調を「ドレミファソラシド」、またそれを真似して仮に短調を「ラシドレミファソラ」と歌うのでしたら、その歌い方を「階名唱」と言います。
もしあなたがイタリア人かフランス人だったら、ここまでで調の話を終わりにすることができます。
イタリア式ですと、「ドレミファソラシド」はそのまま絶対的な音の高さを表わしますので、ブラームスの交響曲第4番の調について、イタリア式の読み方をするのでしたら
・タイトルの調:「ホ」短調=「ミ」短調(・・・ああ、ミカン食いたくなって来た!)
・第1楽章:ホ短調=「ミ」短調
・第2楽章:ホ長調=「ミ」長調
・第3楽章:ハ長調=「ド」長調
・第4楽章:ホ短調=「ミ」短調
という具合になります・・・あれ?
どうやら、はなしがここから難しくなりそうです。

日本式(日)とイタリア式(伊)の対応は、ブラームスのこの作品からははっきり見えて来ないのですが、実は以下のようになっています。(ここでは日本式の方を分かり易くするために平仮名にし、加えてわざと、短調での対比をしておきます。理由はすぐにはっきりするでしょう。)


日: い ろ は に ほ へ  と
伊: ラ シ ド レ ミ ファ ソ

すなわち、またブラームスの交響曲第4番の各楽章の調を見て頂くと、日本式の「ホ」にあたるイタリア式は「ミ」であることが分かります。第3楽章の「ハ長調」がイタリア式だと何故「ド長調」になるのかは、応用問題として解いてみて下さい。

さて、ところで、「ミ」長調とか「ミ」短調、って、一体なんでしょう? これが、第1の難問として私たちの前に立ちはだかります。
かいつまんでえば、
・「ミ」長調=「ドレミファソラシド」を「ミファソラシドレミ」に置き換えて歌う
・「ミ」短調=「ラシドレミファソラ」を「ミファソラシドレミ」に置き換えて歌う
と、これだけなんですが・・・頭で考えるとこんがらがるでしょう?
要は、「ドレミの歌」を「ミはドーナツのミ」で歌い始める。以下、「ファはレモンのファ、ソはみんなのソ、ラはファイトのラ」となるんですが・・・歌えますか?
「冗談はヨシコさん(古いか)」
と言われてしまうかもしれませんが、音楽専門の高校や大学の「ソルフェージュ」という勉強では、こうした歌い方を実践しています。この歌い方を「固定ド唱法」と呼んでいます。
メリットとして、熟練すれば、音の「絶対的な」高さで楽譜を自在に読めるようになるため、現代音楽のような「無調」と呼ばれる「長調」とも「短調」ともつかない複雑な音楽でも歌ったり演奏したりすることが容易になることが上げられるかもしれません。
デメリットとしては、「調」とは何かを先に理解してしまった場合には、この唱法は実に歌いにくい、すなわち独学では熟練しにくいこと、熟練した人でも長調短調で出来た音楽については転調(曲の途中で調が変わること・・・いずれまたご説明できる・・・でしょうか?)についての感覚が鈍いケースをよく見受けること、が上げられます。



さて、上の日本式の音の名前(「音名」と呼びます)が、何で「イロハニホヘト」なのかは、イタリア・フランス式とは別に、そもそも、もっと統一的なヨーロッパ式(欧)の「音名」がありまして、その順番通りに日本語の「イロハ」を当てはめたものになっています。日本式とイタリア式を比較したものの下に、それを付け加えてみましょう。


日: い ろ は に ほ へ  と
伊: ラ シ ド レ ミ ファ ソ
欧: A B C D E F  G

ブラームスの交響曲の各楽章の調を、これに基づいて英語で標記しますと、
・第1楽章:ホ短調=E minor
・第2楽章:ホ長調=E major
・第3楽章:ハ長調=C major
・第4楽章:ホ短調=E minor
となります。輸入盤のCDでの英語の調の標記はこのようになっているはずですから、確かめてみて下さい。

で、この欧米での一般的な「音名」は、そのまま絶対的な音の高さを表わします。この音名を「固定ド唱法」に置き換えて「ドレミの歌」を歌うと、こうなります。
「CはCCレモンのC」
・・・いや、失礼しました。お宅はすきま風が入るような造りではありませんね?
・・・ちゃんとやります。
「CはドーナツのC、DはレモンのD・・・」

なんだか不合理ですね(いちおう、「音名唱」と呼ばれる歌い方なのですが)。で、この「音名」を絶対的な音の高さとして決めておいて、たとえばホ長調なら「E」の音を「ド」と読み替えてしまう歌い方をすると、「ドレミの歌」は、もとのまま
「ドはドーナツのド、レはレモンのレ・・・」
で歌えることになります。文字だけでは分かりにくいのですが、こういう歌い方を「移動ド唱法」と言います。

つまり、まずイタリア式でホ長調を歌うとなると(#は実際に長調にするために楽譜上の音が半音上がることを示すために使用される記号です。いまは頭に入らなくても結構です。)

(音名唱)EF#G#ABC#D#=(階名唱)ミファソラシドレ・・・「固定ド」

でなければならないところが、他のヨーロッパ諸国式に音名のABCと階名の「ドレミ」の二本立て路線で行きますと、ホ長調は

(音名唱)EF#G#ABC#D#=(階名唱)ドレミファソラシ・・・「移動ド」

という読み方(等式)で結び合わせられることになります。

日本では、30年ほど前までは、当時の文部省の指針で、義務教育では「移動ド唱法」を指導していました。メリットとしては、音の高さが変わっても「長調」か「短調」かの判別がし易いし、そのさいの基準となる音(相対的に「ド」となる音、その調の「主音」と呼びます)が何であるかの判別もし易い、ということが上げられます。デメリットとしては、調が変わるたびに、楽譜上で同じ位置にある音の名前を変えて階名唱をしなければならず、あらかじめ調号(これもできればあらためて説明したいと思います)についての知識を身につけておく必要があること、無調音楽、ならびに後期ロマン派あたりの楽譜を読む際には混乱をきたし易いこと、が上げられます。
ヨーロッパ各国の実情は、イタリアとフランスが「固定ド」、その他の諸国は「移動ド」で階名唱をしているようです。
日本では、先ほどちょっと触れましたように、近年は「固定ド」が主流となっていますが、長調・短調というものの感覚がもともと外来のものであり、その感覚が充分身に付いていないところへ「固定ド娼法」を導入することには異論もあり、「移動ド唱法」の重要性を訴える重鎮もいらっしゃいます。

私は、出来るだけ臨機応変に「固定ド」・「移動ド」を使い分けられることが理想だと思っております。

なお、これは読みとばして頂いていいのですが、なぜ「ハ長調」の主音ではなく、「イ短調」の主音である音の方にヨーロッパでは「A」が割り当てられたのかについては、音楽史の本の記述も意外と曖昧で、音名・階名ともその由来を確立したグイードという11世紀の理論家がそうしたからだ、とあっさり述べ、あるいはそれを自明のこととして取扱っているのですが、たとえば平凡社の「音楽大辞典」などには「9世紀頃には長調の主音にAを割り当てていた」なる記述もあり、この「長調」が「短調」の誤植でなければ、事情はそう簡単ではありません。また、11世紀当時はまだ長調や短調という「調」の捉え方はなく、自然発生的にまとめられた「教会旋法」が4種2類あっただけでして、そのなかでおそらく基本とされた旋法(=中世ヨーロッパの「調」)は正格のものはドリアでして、この調の主音はDです。この旋法の変格型であるヒポドリアの主音ならば「A」です。かつ、このA音は、ドリア・ヒポドリア両旋法の本来の呼び名である(と私が誤解しているのかな?)プロトゥスでは、正格の場合の吟唱音、すなわち聖歌が歌われる場合に最も引き延ばされる音高だったのでして、私としては、グイード云々以前に「歌い方」そのものに由来して決定されたのではないか、との疑問を持っております。
このあたりを確認できる資料があるようでしたら、ぜひご教示頂ければと存じます。
※ なお、リンクしたWikipediaのグイードの記事の内容には、異説がある部分もありますので、ご留意下さい。たとえばヨハネ讃歌に基づいて彼が考案した階名のうちのUtがDoに変換されたのは"Dominus"のDoをとったからだ、というのは、定説ではありません。



やっぱり、文字でだけでは分かりにくい説明しか出来ません。
能力の限界、とお笑い頂ければ幸いに存じます。

ただ、最後に、この音楽を「ドレミ」で歌ってみるとしたら、お読み下さったあなたにとって
「どちらがラクですか?」
という問いかけをして、本記事を締めくくりたいと存じます。

歌い方1:そ|どー、しどみソド|ドー etc.
歌い方2:ど|ふぁー、みふぁらドファ|ファー etc.

引用した音楽については、既にご存知だとは思いますが、こちらの記事をご参照下さい。同じものを使っています。

今回は、要約しませんね。ゴメンナサイ。

残るところは、とりあえず、作品番号とは何か、ということ(なんで作品98なんて番号がついているんでしょうね?)と、形式の問題ですね。そこまで進んだら、その先をどうしていくか、あらためて考えます。
長くなり、ご退屈様でした。


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2008年12月 3日 (水)

それは「ムード」か「命令」か?〜ブラームス「第4」:聴き手のための楽典003

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・・・是非、お目通し下さい。



大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)のご案内を掲載しております。

家内の三回忌の法要の準備に入りますので、明日から4日間、ブログに記事を綴るのはお休みします。・・・世の中に何の影響も無し!

本格的な(?)「楽典」を期待なさっていたのなら、前回採り上げた「速度標語」がたった二つなのには非常にご不満かと存じます。ですから、いずれ一覧表でも作らなければいけないのかもしれません。私が経済的な都合上から未だ現物(翻訳)を持っていないので前回はあえて触れませんでしたが、有名な本で、クヴァンツという人が書いた「フルート奏法」というのがあります。著者はモーツァルトの二、三世代前の人物ですが、「フルート奏法」と称しながら、彼の著書は音楽を広範に取扱っており、そのなかに「速度標語」と「脈拍数」を対比させる試みを行なっています。

「じゃあ、赤字になってもいいから、さっそくその本を買って来て読んで紹介しろ!」

・・・はあ、はい、でも、少し待ってて下さいね。
その前に、カタカナの残りの部分とか、他のことについても、頭に収めておきたい<キホン>があります。
で、今回は、カタカナの部分の、「速度標語」以外についてみていくのですが、併せてちょっと考えておきたいこともあります。・・・ただし、最初の部分と最後だけが「まとも」な文ですので、中間部(突然数式がでて来たりします!)は読みとばして頂くのが無難であることを、あらかじめおことわり申し上げておきます。


ブラームスの「交響曲第4番 ホ短調 作品98」は、

第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ ソナタ形式 ホ短調 2/2拍子
第2楽章 アンダンテ・モデラート 二部形式 ホ長調 6/8拍子
第3楽章 アレグロ・ジョコーソ ソナタ形式 ハ長調 2/4拍子
第4楽章 アレグロ・エネルジーコ・エ・パッショナート パッサカリア ホ短調 3/4拍子

でしたね。これまでのところ、拍子と、カタカナの最初の部分の「速度標語」までについて、
「ああ、そういう意味か」
と分かったところです。
とくに、「速度標語」は(たまたまイタリア語の語彙だからではあるのですが)、イタリア語の日常会話の中では、実は「速度」なんか表わしていない、むしろ気分を表わす場面で使われる、いわば「形容詞」であることを観察して来たのでした。

今回は、そのへんは、少しサボります。参照するのは、前回上げた「これで納得! よくわかる音楽用語のはなし」「音楽用語のイタリア語」、それでもし足りなければ小さなイタリア語辞典です。

第1楽章の「ノン・トロッポ」は、「あまりそうでありすぎないように」。ノンは、non(英語のno)
ですね。
第2楽章の「モデラート」については、速度標語にも用いられる場合があることを前回述べましたが、ここでの用いられ方は「ちょうどいい程度」のアンダンテなのですよ、という具合の、「」の中身に当たるもの。
第3楽章の「ジョコーソ」は「おどけて」とでもいったところでしょうか。
第4楽章の「エネルジーコ・エ・パッショナート」の、真ん中の「エ」は、英語のand、ドイツ語のund、フランス語のetに当たるもの・・・と、これだけ列挙すれば推測が付きますね。「エネルジーコ」かつ「パッショナート」で、と言っているのですね。で、残りの二つも、なんとなく連想できますね。「エネルジーコ」に近い言葉で思い浮かぶのは「エネルギー」・「エネルギッシュ」。これの、後者がイタリア語では「エネルジコ」。「パッショナート」は英単語を使っていうなら「passionをもって」。第4楽章で使われているこの2つの単語は、いずれも女性名詞の形容詞化したものです(但し、後者は私の手持ちのイタリア語辞典にはでて来ませんで、もし大きい辞典にもでていないようなら、音楽用にドイツ人が造語したものである可能性もあります・・・そんな難しいことは、私には分かりませんが)。

このように、「速度標語」の後に続いている語彙は、形容詞か副詞なのですが、「速度標語」も形容詞ですから、・・・文法用語の正確な使い方には疎い私ですので、誤った言い方であるのをお許し頂けるならば、これらは

・音楽の主たる<形容詞>である「速度標語」のニュアンスを強める(「意味」をより限定する)<補語>にあたるもの

であることが分かります。



で、問題は、ここからです。(読みとばすべき部分も、ここからです。)

さて、各楽章につけられているこれらのカタカナ語は、全体で捉えた時、次のどちらなのでしょう?

1)曲の持つ表情について、聴き手にヒントを与えるもの
2)演奏者に対する、曲に込めるべき表情についての指示または命令

言葉はヨーロッパのもので、形容詞で始まっているのですから、これ自体は「文」を形作りません。はたらきは、あくまで、「音楽の表情について形容する」フレーズです。ですから、単純に受け止めれば、「1)」が正解だとしか思えません。聴く人にとっては、前もってこの言葉を知っておくことで、これから演奏される曲の「ムード」に思いを馳せることが出来ます。

ですが、もし「2)」の働きを持つのだとすれば、最初にあるべき、とある動詞(「べきである」・「(このように)せよ」あたりでしょうか)を省略した命令文であるかもしれません。・・・で、実際に、演奏上、楽譜の曲頭に記されたこれらのカタカナ語は、演奏を設計する上では「作曲家からの指示であり、ミューズの命令である」と捉えないと、とんでもない間違いを犯すことになります。もし逆らえば、これらのカタカナ語が持つ「1)」の性質から聴き手があらかじめ予想しているものを裏切り、失望させるでしょう。



きょう色をつけた方の、カタカナ語後半部分は「発想標語」と呼ばれているのですが、ちょっと小難しくいうと、これは「速度標語」が本来「速度を表わす」のでもなんでもない以上、「速度標語」に「表情はこうなんですよ!」といった意味を「付け加える」ものではないのだと、私には思われます。

すなわち、楽典で「速度標語」・「発想標語」というものは、決して

式1:「スピードはこう」×「表情はこう」

という掛け算で成り立っているのではない、と思うのです。

すなわち、歴史上は結果的に「式1」のような意味を有することになってしまったとはいえ、モーツァルトやハイドンまでは"Allegro"とか"Andante"という以上には、後に何の言葉も付けられていない場合の方が圧倒的に多いのです。
掛け算の後ろは決まって値が1、すなわち「掛け合わせられる何物もない(ということは意味を変換させるものがないために数値に換算すれば0ではない、ということです。難しく考えないで下さいね。なぜ0ではないか、というなら、0の掛け算は全体を0にしてしまう、つまり、たとえばせっかくAllegroと付けておいても、その後ろに「なにもない」ということがゼロであるならば、Allegroという言葉を付けた意味が無くなってしまう。従って、「速度標語」と呼ばれる主たる形容詞には、後ろに別の形容詞ないし副詞を伴っていない場合には、単純に数値1が掛け合わされている、と見なすのが妥当だ、という考えを取るしかなくなる。

・・・後ろになにもないのに、いつも「1」という背後霊がつきまとうなんて、なんだか不自然ではないでしょうか?

そもそも、もちろん冒頭に来る言葉(「1番目の語」)が受け手にとってはいちばんインパクトが強いのですが、言葉が「1番目の語」・「2番目の語」・「3番目の語」・・・と、まあ、いくらでも続けられるのでしょうが、そのように続いていけばいくほど、2番目以降の語は「1番目の語」が好き勝手に振る舞いたくても、「ちょっとまって、それで、こうもしなくちゃいけないのよ」とか「あ、でもって、こんなふうになるのはやめてチョウダイ」とかいう具合に、「1番目の語」の進退を制限する働きを強めていく・・・意味としての限定の度合いを強めていくわけでして、いま、「1番目の語」を「速度標語」ではなく「主表情語」、その意味に限定を加えていく2番目以降の語を「副表情語」という呼び方に置き換えるとしますと、カタカナ語の読み方は

式2:「主表情語」+「副表情語1」+「副表情語2」+・・・「副表情語N」

という単純な加算として捉えることが最も簡単な見方ですけれど、意味がどんどん制限されていくことを考えますと、

式3:「主表情語」∈「副表情語1」⊆「副表情語2」⊆・・・⊆「副表情語N」

みたいな、なんだか訳の分からん、中学か高校の「集合」で習ったような記号に読み替える方がいいのかな、なんて思ってしまいます。
(物珍しい記号を使ってみたかっただけでして、私、実は「集合」の本質なんてちっとも理解できていませんから、式3は書き方としては大間違いを犯しているかも知れません。それがお分かりになる方にはおおめに見て頂き、突然何を綴り出したのか、と思った方には、なにせ私は「バカ田大の卒業生なのだ」ということを思い出して頂き、不問に付して頂きたいと存じます。ただし、「主表情語」のみを集合の<要素>にしたのにはそれなりの「考え」はあるのですが、それがいちばんの間違いのようです。次からの記号は、左のものが右のものの<部分集合>であることを表わしています。場合によって、集合には「かつ」にあたる記号も使用しなければならないでしょう。「または」にあたるものは、西欧クラシック音楽では、私の知る範囲では使われていないと思います。)
・・・私の造語は、ここまでで忘れて下さって結構です。ちょっと脱線し過ぎました。



まともにまとめておきましょう。

聴く人のための楽典3-1=「『速度標語』の後ろには別の言葉がついている場合とついていない場合がある。(ブラームスの交響曲第4番の場合は、全楽章についている。)ついている時、それを『発想記号』すなわち曲の表情を表す言葉であると捉えるのが<常識>である。」・・・今回、私はそこからちょっと脱線している!

聴く人のための楽典3-2=「『速度標語』と『発想記号』は、本来はそれぞれの呼び名が表わすような役割分担をしているのではなく、一体となってその曲の『ムード』を聴き手にイメージしてもらう機能を果たし、同時に演奏者に対しては動詞『このように演奏すべきである』が省略された命令文として受け止められて初めて、演奏家によって『より妥当な』音を構築してもらうことを可能にする」・・・のだと、私は信じている。

順番としては、「音譜が読めなくても」という主旨からいけば、次は「ソナタ形式」等々の「形式のはなし」にすべきところですが、いまのところ、そうではなくて、「調」のお話を先に持って来たいと思っております。・・・方針変更はあり得ます。


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