好きな曲

2009年8月15日 (土)

ヴィヴァルディ「調和の霊感」から:好きな曲027

大井浩明さん、BSに登場です!下記リンクをクリック、是非お見逃し無く。
8月5日(BS hi)終了・9月15日(BS2)
大井さんのブログでの情報はこちら。http://ooipiano.exblog.jp/11605999/
・・・「フォルテピアノ」について貴重な知見の得られる番組となることでしょう!!!



吉田美里さんリサイタル・・・キャンセル待ちですよー。

52fdfc6a36389100さて、関東で3年セールスをやりまして、その後、温情で3年ほど、実家方面に赴任しておりました。

勤務条件がゆるくなって時間も出来、ブルッフの伴奏に加わってから、1年近くはヴァイオリンを持つこともありませんでしたから、楽器を再び手にするにはありがたい時間を頂けた、ということになります。
が、しかし、本当は実家から通勤なんかしたくなくて、
「独身寮かなんかに入らせてもらえませんかね」
と頼んだものの、人事に却下されました。

母校のオンボロ練習場に通って、ヴァイオリンを弾き始めてみました。

ホントは鈴木ヴァイオリンメソッドの「きらきら星変奏曲」と行こうかなと思いましたが、やめました・・・これは、好きなんじゃなくて、嫌いだから。

といいますのも、この楽器再開は、最初は思いがけず衝撃の日々になったからであります。

ヴァイオリン習い始めの子供がやらされるこの「きらきら星変奏曲」、1年ぶりくらいに楽器を手にしたとき、弾けなくなっていました。
当然、他のいろんな曲も弾けなくなっていました。
1年の中断で何にも弾けなくなる、って・・・それまでやっていたことが全部デタラメだった、と、こんなにはっきり証明される出来事もありません。
初めて母校の練習場に行った時、何度も何度も弾こうと試してみました。
試せば試すほど、
「ああ、こりゃ、だめだわ」
・・・どんどん、絶望の泥沼に足を引っ張られました。
恥ずかしい話ですが、周りに誰もいませんでしたので、おいおい声を上げて泣きました。
ふと気がつくと、目の前に鏡がありました。
そこに映った自分の顔が、そうでなくても不出来なつくりなのに、いっそう崩れているのを見たら、今度はなんだかおかしくなって、大笑いしてしまいました。

楽器ってどう弾くのかな、なんてことを、本気でちゃんと考えたのは、この時期だけだったかも知れません。

ただし、目新しいことをしたわけではなく、学生時代に教わったことを思い出し思い出し、
「おいら、どうやったら、またオーケストラで弾けるかな」
を試し続けたに過ぎないのですが。
以降、サトに滞在している間は母校のオーケストラにまた加えてもらって、少しずつリハビリしました。

ずっと後の話になりますが、結婚して以降は楽器はほとんど手に取れなくなり、週1回参加するアマチュアオーケストラの練習でしか触らないに等しい状態が続いています。例年8月と年末年始は練習もお休みに入りますから、1ヶ月くらい楽器を手に出来ない、なんてことは毎年2期間繰り返しています。・・・最長で1年半のギャップもありました。
それでも、楽器って、もしある程度きちんと操り方が分かってしまえば、オーケストラで合奏に混じっている分には「ボロがバレバレ」にはなりません。基本的には、有名どころでは、メンデルスゾーンのシンフォニーみたいに小難しいものでなければ、マーラーより前のもの(マーラーは、含みませんからね!)はオーケストラ曲なら初見で7割程度はイケます。・・・これは別に、私限定の話ではありませんで、アマチュアのどなたもが、なんぼサボり名人でも、そんくらいはイケるようになります。

こういうサボり方を身につけさせてもらったのは、この3年の、サトにいた期間でした。

「企業秘密」とか「秘伝」とかいった大それたものではありませんで、要は体のどこにも、演奏に不必要な力はかけないようにすればいいのでした。
恩師と仰ぐかたに、
「ここはこうやれば力が抜けるじゃないか」
と、学生時代にも言われていたことを繰り返し繰り返しまた言われました。
鈍いタチなので理解するまでには人様の何十倍も時間がかかったはずですけれど、おかげさまで、
「ああ、そうなのか、楽器の弾き方も自転車の乗り方とおんなじなのね」
程度は、なんとか教われたのかなあ、としみじみ思っています。

このことから申し上げられるのは、もしこれから何か楽器をなさってみたい場合には、

「無駄な力はいらないヨ。地球の重力があなたの体重を引っ張る力だけで充分」

くらい言い切って下さるお師匠さんに、ぜひ巡り会うようになさって下さい、ということです。

それでもって、毎日楽器を手に出来る環境があるなら、世の中にある作品は全て人間が書いたものなのですから、身体的な制約という事情で演奏できないものはあるにしても、充分なレパートリーは何歳からでもこなすことは可能なのではないかと思われます。

私は、お粗末ながら上のような環境ですので、とくに

「ソロなんかとてもとても!」

です。ときどき陰謀にハマって、ソロを含むオーケストラ曲で「やらされ」ちゃったりするのですが、とにかく練習が出来ませんから、ほんとうに勘弁してほしいです。・・・身内のかた、お読みでしたら、なにとぞ温情を私に!

この話に組み合わせる適当な曲は、本来ないのですが、私がまだ19歳のときに無理やり公衆の面前で独奏させられた、赤面せずには回想出来ない作品をお聴き頂いておきましょう。

もちろん、私の演奏なんかではお耳にしていただけませんから、ホグウッド指揮エンシェント室内管、ソリストはモニカ・ハジェットらのものにします。ソリストはバロックヴァイオリン奏法復元の先駆的な存在ですが、今聴くと、これでもまだやっぱり、それ以前の奏法から解き離れていないんだなあ、と分かります。・・・その分、年齢の高い層のかたには、現在最前線のバロック奏法のものよりは馴染みやすいかもしれません。

ヴィヴァルディの作品3から、バッハが編曲したことで有名なニ短調の、
「2本のヴァイオリンとチェロのためのコンチェルト」
です。最初の楽章では2ndのソロを弾いたヤツに冒頭のカノンで落ちられた上、嵌められて汚名まで着せられたイヤーな印象あります・・・あ、あいつ、このブログなんかみつけてないだろうな!・・・けれど、この楽章は、ヴィヴァルディの作品をあまり聴きもしないで「みんな同工異曲だ」などと思っている人には衝撃的な作りですので、この作品をご存知でないかたには、ぜひヴィヴァルディ観を一新して欲しい、との願いをこめて乗っけます。なお、通奏低音にリュートまで加わっているところにご傾聴下さい。


DECCA POCL-4772(モノラル化)

ヴィヴァルディは、こんにち、この作品を含む合奏協奏曲や、彼自身がヴァイオリンのヴィルトォーゾでしたから、ヴァイオリンのソナタばかりで名を知られていますが、チェロソナタもすばらしいものばかりですし、「赤毛の司祭」と呼ばれたということからも分かりますとおり、聖職者でした。ですから、宗教音楽作品にも秀作を数多く残しています。・・・なおかつ、聖職者でありながら、オペラの多作家でもありました・・・当時は普通のことだったのかもしれませんが、その数を私が把握しきれない(調べりゃ分かるんですけどねー、やめときます)、ほど沢山あるのです。

残念ながらオペラを映像化したものは出回っていないようですけれど、チャンスがあったらヴィヴァルディのオペラなんかも、ぜひお耳になさったり、上演されるようでしたらご覧になってみて下さい。・・・捨てたもんじゃありません!


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2009年4月23日 (木)

ブルッフ「ヴァイオリン協奏曲」:好きな曲026

齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。



Bruch会社員になった私は正真正銘のダメセールスマンで、家を売る商売だったのですが、お客様と初めて約束がとれて、出掛けてみると、そのかた、養豚業者さんだったのでした。
体格が体格なものですから、やがては肉屋さんに行ってしまうご同輩たちが居並ぶのを前にして・・・というわけではありません。まあ、沢山の豚が一所に集まってひたすらがつがつ餌を食っているとか、あるいはひたすら眠っているとかいう光景を目にするのは、ずっとあとに「千と千尋の神隠し」を見た時に恐怖が甦ったほど鮮烈でして、やっと辿り着いた玄関のベルを鳴らす時にはカチカチに緊張しておりました。
覚えているのは黒い屋根の大きな豚舎ばかりで、目の前にしたお客様の顔が、ちっとも思い出せません。たぶん、気さくに、おうちに上げて下さったのでしょう。
そのお客様を前にして、商品のカタログを開いたまではよかったのですが、説明しようとしても、どうしても言葉が出ません。今思うと、そんなに長い時間ではなかったのかもしれませんが、私の中では、その時間は少なくとも30分はあった、との感触が、四半世紀たった今でも抜けません。

こうした失態をやらかす上に、経験したことの無い関東の夏の湿気は大変に堪えまして、新入社員のうちから体を壊して、10月1ヶ月をまるまる病休してしまいました。それでも解雇にすることなく、1ヶ月待って下さった当時の所長さん・・・倒れられて重篤状態になりながら奇跡的に復帰した、精神力の人でもありましたが、定年でお辞めになりました・・・には、今でも感謝をしております。

2年ほどたって、ダメセールスの私でも、なんとか平均値は出せる程度のサラリーマンにはなれました。
その頃はまた別の所長さんの元で働いていたのですが、なんとかひとり前になると、休み無しだった勤務も少しは時間の融通がきくようになり、平日定休でしたので、ここなら何かあるだろうと思って上野の文化会館に出向いて、定休の曜日に練習があるアマチュアオーケストラを探しましたが、最初に見つけた評判の高い団体はオーディションがあるそうで、そんなものを受けにいく時間もなければ、そのための曲を練習する時間もありませんでしたので、諦めました。

ふと気づいたら、もうひとつの団体が練習をしていました。

申し訳ないことに団体名を忘れてしまいましたし、練習にもあまり通えなかった上に、その後の転勤で結局在籍1年足らずでしたから、団体の方も私を覚えていないでしょうし、私も、ご一緒させて頂いたたった1回の演奏会の中で、このブルッフのヴァイオリン協奏曲の伴奏を弾いたこと以外になにも想い出せません。



学生時代に
「おまえ、練習したら、きっと似合うコンチェルトだよ」
と周りに言ってもらえたのがこの協奏曲でしたが、私の弾き方ではソロなどとてもおぼつかなく(コンチェルトを弾くなどという技術は未だにもっておりません)、とくに最初の楽章は楽譜を見ただけで震え上がってしまいます。

第3楽章を、江藤俊哉さんの演奏でお聴きになってみて下さい。45歳の時の演奏です。

江藤俊哉/エドワード・ダウンズ/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 RCA BVCC-38160-63

マックス・ブルッフ(1838-1920)は、ブラームスと同時期、5つ年下ながら実績ではやや先輩格の作曲家で、ブラームスの第1交響曲に大きな影響を与えた人物でもありましたが、生前既に才能に優るブラームスの下手にまわされる憂き目に遭ってもおり、ブラームスに対しては本人は友人として対等に接してくれることを望んだようでしたが、無視されるにも等しい扱いを受けました。
確かに、2曲の交響曲はブラームスの4曲に比べると散漫な印象が拭えないのですが、ヴァイオリン協奏曲は彼の持つ叙情性が程よい統一感を保っており、ブラームスの協奏曲よりもソロコンチェルトの伝統に沿ってもいて、バランスのとれた美しい作品です。
かつ、この作品もまたブラームスの協奏曲に大きく影響を与えたことは、一聴瞭然でしょう。


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2009年3月19日 (木)

ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」:好きな曲025


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・・・是非、お目通し下さい。



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齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。

書籍「金沢城のヒキガエル」、記事をお読みになってお気が向くようでしたら、どうぞご一読下さい。

Rachmaninoffヴァイオリンを手にしていたのは
「オーケストラがやりたい・・・すると、いちばん人数が多いのはヴァイオリンだ、ということは、ヴァイオリンをやればどこかのオーケストラに潜り込める確率は高い!」
と、たったそれだけの発想でした。

ですから、学生時代のギリギリ最後までは、私にとって、ヴァイオリンという楽器そのものは・・・いろんな曲がやりたいとなると技術的なことは知ったり身につけたりしなければなりませんから、夢中で調べたり、お世話になった大人の方や先輩に叱られ叱られして、おもてっつらだけは何とか「身につけた」風、ではあったものの・・・江藤俊哉さんという衝撃を受けてもなお、
「おいらぁ、ソロ弾きになるわけじゃないから」
ってなわけで、さほど愛着の対象ではありませんでした。

それが、オイストラフ(の、時すでに遅く、ナマで接する機会は逸し、録音で、での出会いでした)という第二の衝撃波で、これはちょっと、別にソロ弾きになるわけではなくても考え直さなければいけない、と慌てた時には、もう、卒業間際でした。



初恋の相手が自殺したのがトラウマで、人の心の動く仕組みを知り、不幸を防げるようになれば、と専攻した心理学でしたが、いざ専攻してみると、現在の脳生理学のハシリみたいなことばかりが流行していて、
「あれ? おいら、行き先を間違ったんだ!」
そう気づいたころには、こちらも時すでに遅し、でした。
(私がやりたかったようなことは、医学部の精神科を学ばなければいけなかったのでしたが、歴史だとか人文的なことに未練たらたらだった私は理系学部に行くなどとは想像もできず、心理学専攻があるのを幸い、迷わず文学部の門を叩いていたのでした。)

オーケストラの大先輩でもあり、優れたトロンボーン奏者でいらした院生(アルトトロンボーンの音域を、テナーで何の苦もなく出すことができました)の方のすすめで、ちょっとは音に関係があることを、というので、与えられたのは「耳の錯覚」の実験、それも、自分が主体的にやったわけではなく、私はその院生(いまはどこかで教授くらいになっていらっしゃると思います)の、言葉は悪いのですが、モルモットの1匹でした。・・・ただし、大変トクなモルモットでもありまして、どうしてそんな実験をやるのか、私自身の出す結果はどんな意味を持っているのか、についてのレクチャー付きではあり、おかげで、ほとんど講義にもゼミにも行かない不熱心な専攻学生だった私も、「優秀な成績で」就職することができたのでした(内定の後、一通だけ成績表が手元に残っていて、就職して少ししてから自分で開けてみてビックリしたのですが、ほとんどの科目の成績がAであり、C、Dみたいなものは一つもなく、あきらかに「嘘八百」を優しく付けてくれていたものだったのでした)。

で、オイストラフの衝撃だとか、聴覚の実験だとかの中身は、とりあえず措きます。



大学は、私の故郷にありました。その故郷で、前に「好きな曲」カテゴリの中で綴ったように、私はあまり幸せな思いを持つことができませんでした。就職そのものが、故郷から脱出したい一心での、やけっぱちのものでした。
結局は3年後に一旦故郷へ転勤させられ、3年ほどまた故郷で過ごすことにはなるのですが、入った会社は、とある大会社の子会社で、組合管掌外の、実態はその当時は時間外無制限の販売会社でした(私の就職した頃は、まだそう言う会社がゴロゴロありました)。
あらかじめ
「夜は、帰りが11時過ぎるのが当たり前だけれど、それでもいいか?」
と、私の世話をしてくれた人から聞かれていて、
「別に構いません」
と答えて入ったものの、実際に入社してみると、11時過ぎに帰れるなんてまだいいほうで、ほとんど毎日、お酒も飲まずに午前様、私のように
「訛りが気になってセールストークも出来ない」
ような失格セールスマンでは、休日がフルに取れるのは月に一回、というのが当たり前でした。
とてもじゃないけど、楽器なんか手にする時間はない。あてがわれた寮も相部屋でしたから、音楽を聴く時間もない。

売れないセールスマンが心の慰めにしていたのは、まだ手取りもわずかで、おんぼろ中古でかろうじてカセットデッキが搭載された車を買って、その中で、セールスへの道すがらに流した曲ばかりでした。

ほとんどいつも、決まったように聴いていたのは、ラフマニノフのこのピアノ協奏曲でした。

・ピアノ協奏曲第2番(第1楽章)

ラフマニノフ自演、ストコフスキー/フィラデルフィア管 RCA BVCC-5115

当時はラフマニノフの自演ではなく別の演奏で聴いていたのですけれど、誰のものだか忘れました。

ついでながら、後年気に入って聴いたのはルービンシュタインが唯一ライナー/シカゴ交響楽団と共演した録音でしたが、いい演奏だと思っていたら、ルービンシュタイン自身は
「オレはとてもラフマニノフなんて弾けない」
と言っていたのだそうで・・・手が小さかったんでしたっけね。
「嘘だい! こんなに立派な演奏ぢゃあないか!」
そう信じていた私が、ルービンシュタインの言葉はホンネなのだ、と知ったのは、この自作自演を聴いたことによって、でした。
いや、ルービンシュタインの演奏は、間違いなく素晴らしいのです。
でも、文字通り体も精神も巨人で、ジャイアント馬場とどちらが勝っていたのだろうかと想像したくなるほど大きな手の持ち主だったラフマニノフは、上でお聴き頂けるように、冒頭部分から、この協奏曲を、よくあるような幾分きらびやかさを孕んだ音で、ではなく、「静かに流れるように」弾いて、平然としている。ルービンシュタインのような名人でも
「ああは出来ない」
と言ったのは、無理もなかったのでした。



ラフマニノフの調べは、ですが、私には常に、フォーレとは逆に、「悲しみ」を思い出させるものばかりです。
家内との思い出を巡っての話も彼の第2交響曲の映像リンクと共に、前に綴ったことがありますが、協奏曲のほうとなると、もっと侘しい気持ちになります。

なんせ他所の土地を一切知らずに育ち、初めて外へ飛び出た私には、見るもの聞くものすべてが・・・新鮮なだけだったらまだ良かったのですが、時間の制約の厳しさにめげていた時期でもあり・・・辛かった。

なんといっても辛かったのが、こんな出来事です。

ある夕方、やっぱりカセットでラフマニノフの協奏曲を流しながら出掛けていた私のクルマのバックミラーに、夕焼けの中でくっきり浮かび上がったきれいな山のシルエットが映ったのでした。
用が済んで事務所に戻って、その話を先輩にしました。
「なにせ、富士山に似たきれいなかたちだったんですよ。なんていう山なんですかね?」
「・・・バカ。富士山、だよ。」



転勤というかたちでの帰郷後のドジ話は、一度綴っているのですけれど、また角度を変えて振り返って、よく反省してみたいと思います。

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2009年3月12日 (木)

フォーレ「シシリエンヌ」:好きな曲024

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齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。

83267d789e989ce4フォーレは、学生時代以降、ステージでの演奏はもっぱら「レクイエム」ばかりですが、大好きな作曲家です。・・・そのわりに、一所懸命聴いていたのはLP時代でして、いまはCD2枚しか持っていません。本当は歌曲も、合唱曲(「ラシーヌの雅歌」や「アヴェ・ヴェルム・コルプス」など)も、室内楽、とりわけピアノ四重奏曲(これはそれまで顔見知りでもなかった方に声をかけて頂いて、白樺湖畔で泊まりがけで勉強させて頂いた思い出があります)など、お気に入りは結構あるのです。でも、「好み」というのは誰にとっても難しいもので、私もなかなか、これが最高、というフォーレ作品の録音は見つけかねております。

こと「レクイエム」となると、大好きな理由は、純粋に音楽的ではないものばかりです。
この曲を、私は学生時代を除いて「身内」で演奏したことがなく、学生時代も、選抜部隊の最年少の小間使いで出張演奏するのにくっついて行っただけです。
大学入学1年前には、愉快なエピソードもありました。
「よし、今度の出張演奏では、おまえをコンマスにしてやる」
と乗せられたSさん・・・次の年、すなわち私が大学に入学した年には本当に学生オーケストラのコンサートマスターになった人で、穏やかで素直な人柄でしたから、大変尊敬しておりました・・・、演奏はステリハと本番のみでして、それまでこの曲をご存じなくて、
「あれ? おかしいぞ」
と、ステージで初めて気が付いたそうです。

そう、フォーレの「レクイエム」では、最初の2曲にヴァイオリンが入っていないのです。

私自身は、この作品の出張演奏に初めて連れて行ってもらった時、前夜にしこたま飲まされまして、ステリハはしっかり勤めおおせたのですが、本番では、ふと気が付いたら自分たちの出番がちょうど来たところ・・・サンクトゥスが始まるところでした。慌ててヴァイオリンを構えて、隣を見たら・・・隣の人は、まだ寝ていました。

その後何度、演奏に参加させて頂いたかは、覚えていません。

ある演奏会では、ヴィオラを弾いていまして、やはり何か起こすのはサンクトゥスのときでして、ピチカートからアルコに弓を持ち替えるときに、勢い余って弓をロケットのように、手から発射させてしまったのでした。
スペースシャトルみたいに出発延期になってくれればよかったのですが、弓は待ってはくれませんでした。
このときは、編成も小さかったので、独唱者は後部の、合唱団の前列のところに立っていらっしゃいました。その独唱者先生が、弓をナイスキャッチして、私のところまで届けにきて下さったのでした。曲の切れ目ではなく、音が鳴っている最中に、足音をしのばせて、です!

最後に参加させて頂いたのは、もう12年も前のことになります。
子供達も生まれて、結構遠方での演奏会でもあり、夫婦とも出掛けたことのない場所でもあり、新婚旅行も行っていませんでしたから、主催者の人にお願いして、旅費は当然自己負担で、家族全員で二泊三日で出掛けていきました。北陸の、日本の何大名水とか言われるほど水のきれいな町でして、練習の間、家内は子供達をつれて、澄んだ水の流れに見とれて散歩を楽しんだようです。
演奏会の翌日には、あいにくの曇り空ではありましたが、夏でそんなに寒くもありませんでしたので、一家で海を見に行きました。
娘はかすかに記憶があるようですが、まだ1歳にもなっていなかった息子の方は、当然、何も覚えていません。
私は、鈍色の波がテトラポットに次々とぶつかってしぶきを上げていた風景が、忘れられません。



同じフォーレの作品の中で、是非一度、オーケストラで演奏したいものに「ペレアスとメリザンド」組曲(作品80、管弦楽編曲は弟子のケクラン、和声学の著書でも有名な人です)があります。

有名なシシリエンヌを名フルート奏者さんが吹くのに酔いしれることもできる楽しみがあるからですが、終曲は「メリザンドの死」という悲しい音楽です。
フォーレの「悲しい」メロディには、人の悲しみを浄める不思議な力があるように、ずっと思い続けて参りました。

終曲を待つまでもなく、遠い憧れを表わすようなこの有名なシシリエンヌのメロディにも、そうした力がさりげなく秘められているように感じられます。

エルネスト・アンセルメ指揮 スイスロマンド管弦楽団の演奏(モノラル化)

KING RECORDS 23OE 51074

学生時代には、この顔合わせで、フォーレ・ドビュッシーのオーケストラ作品を聴きまくりましたが、そのあとパリ管の演奏(まだ若き日のプレートルの指揮だったように記憶しております)で聴いた時には、さらにふくよかで奥深い音がすることに感嘆したものでした。

アレンジものでフルート以外の楽器でも学生さんが小さなコンクールなどで取り上げる頻度が、今なお高い曲のように感じていますが、どうなのでしょうか? 一度統計をとってみたいのですけれど、そう言う資料って、揃わないですねぇ。。。


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2009年2月10日 (火)

チャイコフスキー「冬の日の幻想」から:好きな曲023

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今日、出社して1時間も経たないうちに、娘からメールで
「腹痛で早退する」
とのメールが入り、慌てて自宅へ取って返して、病院に連れて行きました。
診察の結果はウィルス性胃腸炎で、学校は登校禁止にはなるものの、たいした病気ではなくてほっとしました。
ですが、娘を寝かせて、ぽつんと部屋にいると、やはり、気分は
「カカアがいないのは堪えるほど寂しいなあ」
でありました。

その家内と二人で出かけることの出来た数少ない中でももっとも縁のなかったオーケストラのコンサートで聴いたのが、このチャイコフスキーの『冬の日の幻想』でした。惜しくも最近逝去なさったロストロポーヴィチさんが新日本フィルを指揮した演奏でしたが、曲にふさわしい情感豊かな、にもかかわらず静けさをたたえた演奏で、二人して感銘を受けて帰りました。

第3楽章:スケルツォ(7:28)

クラウディオ・アバド/シカゴ交響楽団 SONY SRCR 8814(いつもの通りモノラル化してあります)



チャイコフスキーの作品は高校時代にも何曲か演奏していたはずですが、記憶にありません。おそらく、バレエの定番の組曲からだったとは思います。・・・大学では交響曲に、社会人になってからは他の曲にも縁はありましたが。
『冬の日の幻想』は、他の大学にエキストラに行った時に弾いて、大変魅了されました。
が、そのときの思い出はこの曲自体にではなく、同じ時にプログラムに乗ったディーリアスの『二つの水彩画
』第1曲で、指揮者先生に
「ちょっと見本演奏してくれない?」
と突然言われて面食らったことのほうにあります。
もともと人前で一人で弾くのは得意な方ではなく(今でもそうです)、その頃は増して、今の私をご存じなら信じてもらえないほど内気でしたから、すっかり緊張してしまって「ぶざま」だった、という、そのことしかイメージに残っておらず、その時周りの人がどういう表情をしていたか、弾き終わった後で指揮者先生がどういう反応だったか、は、いっさい記憶にございません。
・・・自意識過剰だった、というべきでしょう。


娘が寝ていて、いま、メインのパソコンは息子に占領されていますので、息子が開き次第、あるいはもう少ししたら有無をいわせずどかせて、この記事をアップするつもりでおります。

昔の様々なことに思いを馳せながら、当面課題にしている「音楽におけるバロックの精神と時代のとの関係」を考える一環として(寂しく)読書していた、ラ・ロフェシコーの『箴言集』(岩波文庫 赤510-1、二宮フサ訳)に併載された「考察」から、いくつか、後々参考になるものをメモとしてのせておきましょう。

・ほんものについて
ほんものである、ということは、それがいかなる人や物の中のほんものでも、他の本物との比較によって影が薄くなることはない。二つの主体がたとえどれほど違うものでも、一方における真正さは他方の真正さを少しも消しはしない。両者のあいだには、公汎であるかないか、華々しいかそうでないかの相違はあり得るとしても、ほんものだということにおいて両者は常に等しく、そもそも真正さが最大のものにおいては最小のものにおける以上に真正だということはないのである。(中略)ある人が幾つもの真正さを持ち、別の人は一つしか持たないこともある。幾つもの真正さを持つ方は、より大きな値打ちがあり、相手が光らない面で光ることができる。しかしそれぞれほんもののところでは、どちらも同じ光輝を放つ。(後略)

・信頼について
率直と信頼とは相通ずるところがあるが、それでも多くの点で違っている。率直は心を開いてありのままの自分を見せることである。それは真実への愛、自己を偽ることへの嫌悪であり、自分の欠点を、正直にそれを打ち明ける殊勝さで埋め合わせ、さらには減じさえしたいという願望である。信頼のほうは、これほどの自由を我々に残してくれない。信頼の掟はもっと窮屈で、より多くの配慮と慎重さを要求するから、われわれはいつでも自由に信頼を使えるとは限らないのである。(後略)

・手本について
よい手本と悪い手本のあいだには大きな違いがあるけれども、見たところ、どちらもほとんど等しくろくでもない結果ばかりもたらしてきたようだ。それどころか、むしろ、ティベリウスやネロの罪悪のほうがわれわれを悪徳から遠ざけ、最高の偉人の立派な手本は、それほど我々を美徳に近づけない、と言えるかもしれない。(中略)美徳は悪徳の国境である。手本はわれわれをしばしば迷わせる道案内であり、われわれのほうもまやかしだらけだから、美徳への道を辿るためよりもその道から遠ざかるためにこの道案内が使われることが少なくないのである。



『箴言集』に、少し戻ってみて・・・

35:おおぜいの人が信心家になりたがっている。しかし誰一人として謙虚になろうとはしない。

・・・ああ、これは、自分だ!

・・・この言葉に、ふと、ある日のイワンさんのブログでのお言葉を思い出させられ、ちょっと傷心にかられた本日の私でした。


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2009年2月 5日 (木)

マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲:好きな曲022

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オーディオファイルをアップできない状況だし。
今日はこむずかしいことを綴るほどへりくつ頭も回らないし。
・・・というので、アップ済みのファイルから
「いい曲ないかな」
と探し当てたのがこれでしたが・・・よくよく確かめたら記事にのっけるのは、これでもう3回目なのでした!

ゴメンナサイ。

でも、健康診断でメタボをたっぷりしぼられてきて意気消沈なんです。
たまにはいいでしょう。

・・・って、面白いもので、過去記事でこの曲を取り上げているときは、いつも何かの理由で気分が乗っていないのでした。なので、この作品の内容などに触れたことがありません。

しかも、大変申し訳ないことに、音は、「うつ」リハビリの一環でシンセサイザーを少しはまともに使えるようになりたい、と勉強していた期間に私がしたもので・・・出来はよろしくありません。でも、勉強自体、家内の死とともにやめてしまいましたから。心のどこかで、自分の「記念」にしているのですね。

マスカーニ

マスカーニ(1863-1945)は、事典では代表作はこれ1作とされていますけれど、生前の映像も残っているほど、第2時世界大戦まではイタリアの著名人でした。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」(1890)は、19世紀末に貧富の差が拡大していたイタリア社会をくっきり映し出した作品として大変な脚光を浴びました。たいてい、レオンカヴァッロの『道化師』とペアで上演され(日本がイタリアオペラを招聘していた時にも数回そのようにされたと記憶していますが、私にとってもっとも鮮烈だったのは、招聘末期に『道化師』で主役を歌ったプラシド・ドミンゴでした)、<ヴェリズモオペラ>の代表作とされています。
<ヴェリズモ(真実主義)>というのは、フランスのゾラ(1840-1902)が主導した自然主義文学の影響を受けた、イタリアの写実主義文学運動でしたが、結局のところ、マスカーニの本作の原作となった戯曲(ヴェルガ【1840-1922】)のほかにはあまり実を結ばず、オペラとしても上記2作以外にはジョルダーノ(1867-1948)の初期作品に例が見られる程度です。なにしろ、マスカーニ自身がヴェリズモを貫くことができず、次作品「友人フリッツ」は単なる叙情的田園劇に終わってしまっているとのことです。(未聴。参照:水谷彰良『イタリア・オペラ史』221-226、音楽之友社 2006)挫折したヴェリオペラズモにとってかわって躍り出たのがプッチーニでしたが、プッチーニがある意味で幸せだったのは、ファシズムがイタリアを支配する前に亡くなったことだったかもしれません。
マスカーニ(とジョルダーノ)はその後ファシスト党と接近したが故に、先ほどのように映像もしっかり残ることになるほど厚遇を受けたのですが、結果的にはこうした有力オペラ作曲家がムッソリーニに組したことが招いた良心的音楽家たちの精神は、イタリア敗戦の1943年を目前に、ダラピッコラやべリオの前衛的な反抗へと結晶していき、クラシックオペラとしてのイタリアの伝統を途絶えさせることになりました。

オーケストラ演奏での録音は、カラヤン/ベルリンフィルのもの以上に美しいものをきいたことがありません。カラヤンもいまだに様々取りざたされる人物ですし、彼の録音自体には私自身好き嫌いがありますけれど、この間奏曲についてだけは、他の演奏を聴きたいと思ったことがありません。


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2009年1月20日 (火)

ねこは猫の夢を見る。ニーノ・ロータ「山猫」から:好きな曲021

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『千五百番歌合』については、あと二、三綴りたいのですが、一息おきます。


今日は「好きな曲」カテゴリですけれど、併せて綴る話は、自分の独身時代の思い出からからいちど離れます。


*ニーノ・ロータ「山猫」から(ヴィスコンティの映画への音楽)14分22秒

リッカルド・ムーティ/ミラノ・スカラ座フィル SONY SRCR 2683
※ ちょっと長く引用してしまいました。つなぎ目の不自然さと併せてご容赦下さい。
※ 音楽およびそれが付けられた映画は、本文と直接関係ありません。猫の話でもありません。
※ ただ、同じ指揮者が昨年ウィーンフィルを率いて演奏するのを聴いて、一度で惚れただけです。


41diujtsifl_sl500_aa240_猫というのは、ほんとうに妙ないきものです。

「猫の額」というと、狭い土地の代名詞ですから、猫の脳ミソも小さくて、アタマ悪いんじゃないか、と思っちゃいたいのです。

でも、そうもいきませんでした。かしこい野良猫に出会ったことがあるからです。

その猫については、前にも綴ったことがありました。

幼稚園の頃から体は周りの子より大きめで、でも喋りが得意じゃなくて、腕っ節はいざとなったら強いのだけれど、それが自分で分かっているから人には手を出さない。勉強も出来ない方から順番を数えた方が早いけれど、なぜだか動物語は理解できるらしく、ある公園で大きな鶏小屋に飼ってあったニワトリの群れに向かって
「それではみなさん、ごいっしょに!」
と腕を振り上げて指揮したら、小屋の中の鶏が一斉に
「コッケコッコー!」
と鳴いた。
そんなことが出来るのが、その賢い猫、ではなくて、「うちの息子」です。

人間の友達は少なくて、でも、ウチの建物(中古マンションです)に集まるたくさんの野良猫とは大の仲良しでした。
中に目を病んでいる、たぶんメスのやつがいて、息子はこの猫をいちばん可愛がっていました。
マンションの規約で、野良猫に餌はやれません。それでも肥えている野良が多い中で、こいつは少しあばらが見えるくらいに痩せていました。
「なんだ、またあの子と遊んでるのかい?」
私も家内も、息子が非常階段に出掛けていって何をしているのか様子を見ていると、それが決まり文句になるくらい、その目の悪い野良猫ちゃんと息子は、毎日、夕方には一緒でした。

そのうち、この猫ちゃんは、私たち夫婦の顔も覚えました。
ある日とうとう、私が仕事から帰って来てエレベーターに乗ったら、そこに入って来て、そのまま我が家の前まで来てしまいました。

それから3年くらい、この猫ちゃんは、ときどき、夜にウチを訪ねて来ました。
可哀想ですが、餌をやれないだけでなく、ウチの中にも入れられない。
ですので、猫ちゃんが来ているのに気づくと・・・それは家内か私のどちらかでしたが、息子を呼んで猫ちゃんのところに行かせ、息子が「もういい」と言うまで、玄関のドアを閉めて、息子と猫ちゃんが戯れるにまかせていました。
家内も、見かけると
「あれまあ、なにしてるの?」
と声をかけるようになっていました。息子を通じて情がうつったのでしょう。

その猫ちゃんが最後に我が家を訪れたのが、以前にもどこかで綴った通り、家内の死んだ当日でした。急死したその明方に家内の遺体がウチに運び込まれ、昼にやっと少し僕と子供たちが落ち着きを取り戻して、何か用があって(たしか、前の晩まで家内が寝ていた布団をクリーニングに出しに行ったのでした)、ほんの少しの間留守にしていたところへ、ウチの中を覗き込み、それでは済まなくて中まで入って来たところを、この子のことは私たち親子以外にだれも知りませんから、留守をしていた親族に追い出されてしまいました。家内と最後の顔合わせは出来なかったかもしれません。

それからぱったりと、この野良猫ちゃんは、ウチを訪ねて来なくなりました。
ふと気が付いた頃には、姿を見かけることもなくなりました。



今日、中学生になってもあいかわらず前のままの性格の息子に、猫の本を買って来てやりました。

「ねこは猫の夢を見る」(竹書房)

与謝野晶子や野口雨情から、吉行理恵までの詩(ヴェルレーヌなどの訳詞も含む)に、竹久夢二から丸木俊までの画、合計32組の詩と画の組み合わせからなる本です。

その中から、吉行理恵さんの詩、「部屋の中に住んで居る月」を引用させて頂きます。

 月は
 道化師を眺めています
 
 道化師は
 とんぼがえりをしてみせます
 すると 月は眼を細めます
 
 高い所で
 月は
 道化師を 眺めています
 
 猫は部屋の中に住んで居る月
 明け方にひっそりと消えてゆくときに
 月は道化師をつれて行ってあげるでしょう


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2009年1月14日 (水)

「好きな曲」これまでのリスト

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これまで掲載して来た「好きな曲」のリストをアップします(各記事にリンクを貼っておきます)。
(疲労のため、本日は、これにてご容赦下さい。)

001:「見よ、勇者は帰る」(ヘンデル)

002:「ウィーンの森の物語」(J.シュトラウスⅡ)

003:「わたしの苦悩は誰もしらない」(黒人霊歌)

004:「トロイメライ」(シューマン)

005:「菩提樹」(シューベルト)

006:スラヴ舞曲第10番(ドヴォルジャーク)

007:「プロメテウスの創造物」終曲(ベートーヴェン)=「エロイカ」変奏主題のオリジナル

008:組曲第1番から「シャコンヌ」(ホルスト)

009:「アルルの女」第1組曲から「カリオン」(ビゼー)

010: 幻想交響曲第4楽章<断頭台への行進>(ベルリオーズ)

011:交響曲第2番 第2楽章(ボロディン)

012:「モルダウ」(スメタナ)

013:「祝典序曲」(ショスタコーヴィチ)

014:「死の舞踏」(サン=サーンス)

015:「クリスマス協奏曲」終楽章(コレルリ)

016:「アウリスのイフゲニア」序曲(グルック)

017:交響曲第35番「ハフナー」第1楽章(モーツァルト)

018:「ドン=キホーテ」終結部(R.シュトラウス)

019:ベートーヴェンの主題によるロンディーノ(クライスラー)

020:弦楽四重奏曲第75番ト長調 作品76-1 第1楽章(ハイドン)

021:映画音楽「山猫」組曲から(ニーノ・ロータ)

番外:弦楽四重奏曲ニ短調 第4楽章(ガスマン)


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2009年1月11日 (日)

ガスマンの弦楽四重奏曲から :好きな曲-番外

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さっき自分たちのハイドンの演奏についてコメントをやっと入れました。
で、本来は今日はモーツァルト作品の記事を久々に綴ろうと思っていたのですが、萎えました。
萎えた理由は、前の記事に自分が入れた文からお察し下さい。

962で、先日、「好きな曲」で採り上げたハイドンの弦楽四重奏曲についての記事のなかで、
「弦楽四重奏曲ジャンルの重要作曲家にガスマン(1729-1774)がいるが、残念ながら今は聴けない」
旨、綴りました。(ガスマンは今年、生誕280年です。

でも、捜してみるもんです。
今日、子供たちと買い物がてらの散歩をしていたら、見つけました、ガスマンの四重奏曲のCD。
しかも、日本人が演奏しているのでした。

これからシリーズ化されていくようですが、第1巻には4曲が収録されています(ハ長調【1765】、ホ長調【1765】、ヘ長調【1768】、ニ短調【1774】)。

・死の年に書いたニ短調から、終楽章をお聴き頂きましょう。

Haydn sinfonietta Tokyo HST 037

収録されたガスマン作品は、1774年のニ短調のみが4楽章構成で、あとは3楽章までですが、メヌエット楽章があるのはヘ長調(終楽章)とニ短調(第3楽章)の2曲です。
この4曲だけからは判断できませんが、ガスマンの作品はハイドンよりはモーツァルトと傾向が似ています。

ハイドンの四重奏曲の場合、偽作である作品3のなかに3楽章形式のものが1作(2楽章のものが1作)あるだけで、初期の作品は逆に楽章数が5、と多いのです。かつ、必ずメヌエットが含まれています。

モーツァルトの場合は、第1番にはあとから4楽章目が追加で書かれましたが、2番以降、ミラノで書かれた四重奏曲6曲は3楽章形式で、メヌエットを持つものと持たないものが混在しています(1772年から73年にかけての作品です)。

ガスマンとモーツァルトは共通する恩師を持ちます。クリスチャン・バッハを育てたことでも有名なマルティーニ神父です。
かつ、ガスマンとモーツァルトには、実際の過程には大きな違いはあるものの、イタリア勉学の後にウィーンで音楽的な洗礼を受け直した、という点でも似通ったものがあります。モーツァルトの初期四重奏群の後半6曲(1773年、ウィーン)は4楽章構成です。

どの年代に書かれたものも、耳にしてみると充実した作品でした。
1774年に45歳という早い死を迎えたガスマンの死因は前年ヴェネツィアへの旅行の途上で馬車の事故に巻き込まれて重傷を負ったことにある、と伝えられており、非常に惜しいことだと思われて来ます。

日本語で読める伝記は、知る限り『オペラの18世紀』(彩流社 2003)の1章として記載された14頁だけのもので(執筆:長谷川悦郎氏)、文中に登場するのは歌劇作家としての彼の姿だけであり、器楽に対する貢献がどのようなものであったかが明らかでないのは遺憾です。ただ、この伝記のおかげで、この人が双子の兄として生まれたこと(同時に生まれた妹はまもなく死去)、イエズス会学校でグルックと同窓であること、ハープが上手かったこと、商人にしようとした父の意向に反して家出し、13歳でまずは出身地近在のカールスバート(現チェコ:カルロヴィ=ヴァリ)でそこそこ成功したものの、ヴェネツィアに出て一文無しになり橋の上で泣いているところを通りがかりの司祭に助けられ、その司祭によりマルティーニ神父の元へ勉学に行けるようになったと伝えられていることなどが分かります。
1766年、その前の年に両親を亡くしたサリエーリの才能を見出して、すでに自身が宮廷に迎えられていたヴィーンへ彼を連れて帰って育てた人情家であることは、長谷川氏の文にも、水谷彰良氏『サリエーリ』にも出てくる話です。サリエーリはヴィーンで教育されたイタリア人作曲家だ、という事実は、その後のサリエーリがヴィーンにとって決して「異国人」ではなかったことを証明しており、彼の方がむしろモーツァルト親子からある種の「民族差別」の目で見られていたことを明らかにするものですが・・・その話はモーツァルトのトピックで、もう少し先にすることになるかと思います。

今日は、こんなところで。


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2009年1月 7日 (水)

弦楽四重奏の父もハイドンだ!:好きな曲020

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ここのところハイドン続きですが、偶然です。・・・というより、私は無意識にハイドンが大好きなのかもしれません。

180pxhaydn_portrait_by_thomas_hardy
長い間、日本では(特別に、なのでしょうか)ハイドンは「交響曲の父」と呼ばれていました。
同時に、彼はまた、「弦楽四重奏曲の父」とも見なされて来ました。・・・ただ、弦楽四重奏曲のほうがレコード・CD文化の中では地味な存在なのでしょうか、こちらの方では交響曲ほど一般的には話題になりませんでした。
Wikipediaの記事(日本語版)ではなお、彼が生前から「弦楽四重奏の父」と見なされていた、と記載されています。
音楽史のトピックとして立てたわけではありませんので、これ以上突っ込みはしませんが、父が「生みの親」の片割れを意味するのでしたら(「母」の方はなにものになるのかは分かりませんが)、厳密には交響曲についても弦楽四重奏曲についても、彼を「父」と呼ぶのは正確さに欠けるかもしれません。「交響曲」・「弦楽四重奏曲」という日本語の呼称自体が、本来の言語で表わされる彼のこのジャンル(Symphony, Sinfonie, Synphonia, Quartetなど)での業績を「限定的に」しか評価できなくしてしまうからです。 その傾向は、「交響曲」(というより、「シンフォニー」)の方に、いっそう強く現れるでしょう。
ただし、「父」が「育ての親」の意味を持つのであれば、これらのジャンルの「育ての親」は、間違いなくハイドンだと言ってもいいのではないかと思っております。
「シンフォニー」については母胎となった音楽の演奏形態は複雑な変遷を経ており、専門に扱った本でも正鵠を得ていると充分に納得させてくれる本には巡り会っていませんが、このジャンルが独立した楽曲となるだけに留まらず、クラシック音楽の中心的存在になるには、彼の手になる「第2期ザロモンセット(1794-95年)」、すなわち99番以降の「交響曲」(100番「軍隊」、101番「時計」、103番「太鼓連打」、104番「ロンドン」、と、その4曲までもがニックネームを持ちます)が必要でした。

「弦楽四重奏曲」は、バロック時代に流行したトリオソナタを起源にもちます。
トリオソナタの花形楽器は必ずしも弦楽器に限定されていたわけではありませんが、大多数はヴァイオリン2本もしくはヴァイオリン・ヴィオラと通奏低音(低音弦楽器【主にチェロ】およびクラヴィア)だったかと思います(統計はとっていませんので、主観ですけれど)。ハイドン以前に弦楽四重奏の編成で作曲した中でも重要なのが、サリエーリの師であるガスマンでしたが、残念ながらこんにち彼の作品を聴くことはほとんど不可能です。(こちらで1つの楽章だけ聞けるようにしました。)で、必然的に、この編成で64曲とも68曲とも言われる「名作」を残したハイドン(没後しばらくは偽作を含め83曲が彼の作品として出版されていました)が、このジャンルの「生みの親」だと見なされるようになっていました。・・・実際、このジャンルの定型化にあたっては最大の功績を残したことは否定出来ません。


いや、デタラメかも知れない蘊蓄を述べている場合ではありませんでした。 なぜ、ハイドンの、この弦楽四重奏曲が「好き」なのか、をお話したかったのでした。

・弦楽四重奏曲第75番ト長調 作品76-1 第1楽章

The Aeolian String Quartet DECCA UCCD-9367 

学生時代、オーケストラの下練習として弦楽メンバーは四重奏曲を弾くのが常でしたが、他の作曲家のものではなかなか思ったような演奏が出来なくても、ハイドンの弦楽四重奏曲だけは違いました。
当時は、それだけ「弾くのが易しいから」だと思っていましたが、後になればなるほど、そうではないのだ、ということを思い知らされることになります。
ですが、とにかく、モーツァルトやベートーヴェンを弾いて先輩に叱られたときの、いちばんの回復剤は、ハイドンの四重奏曲集でした。
なぜ弾けたか・・・今思うと相当ヘタクソだったはずですが、それでも・・・は、ハイドンの作品の造りが安定しているから、なのです。
モーツァルトの「ハイドンセット」の素晴らしさは、勿論否定しないどころか、大いに認めます。ですが、モーツァルトの作品は「誰にでも開かれた」音楽ではないのです。音符の意味を、極端に言えばひとつひとつに至るまで理解できる人によって初めてよい演奏も出来れば、よい聴き手にもなれる。
ハイドンの場合は、たとえば、比較的手に入り易い「ひばり」の楽譜(全パートが書いてあるスコアというもの)を手にとって、モーツァルトと比べてみて下さい(音譜が読めなくてもいいのです。絵模様として比較してみて頂くだけでもいいのです)。見た目がより単純に見えます。ですが、もうひとつはっきりするのは、単純に見える分、抽象度が高い、ということ。図柄・・・デザイン・・・として、整然としているのです。

「交響曲」に劣らず、ハイドンの弦楽四重奏曲には標題付きのものが豊富にあります。
第2楽章のピチカート伴奏の美しさで有名な第17番「セレナーデ」は残念ながら偽作であることが判明していますが、真作に注目すると、1番「狩」、38番「冗談」、39番「鳥」、48番「夢」、49番「蛙」、61番「カミソリ」、67番「ひばり」、74番「騎士」、76番「五度」、77番「皇帝」、78番「日の出」、79番「ラルゴ」、といったところです。

仲間内では、やはりニックネーム付きのものが人気で、上に挙げた「ひばり」を好んで弾く人が多かったと記憶しています。次に人気だったのが、「鳥」・「五度」・「皇帝」、そして、上手い先輩たちのアンサンブルで聴かされると憧れを感じたのが「日の出」と「ラルゴ」、「騎士」あたりではなかったかと思います。

それが、どんなきっかけでだったか全く記憶にないのですが、私はひょんなことで、この標題をもたない「ト長調」がいちばんのお気に入りになっていました。
他県の市民オーケストラに手伝いにいくとき、乗った急行列車ががら空きで、そのときいた先輩連中が仲間に入れてくれて、他にお客のいない運行中の車両の中で、ハイドンの作品76シリーズを弾いて遊びまくったことがありました。このシリーズの第1曲が、今日採り上げたト長調なのです。
お聴き頂ければ分かりますとおり、決して「簡単に弾ける」曲ではありません。移弦がきちんとできなければ輪郭が出来上がりませんし、音程がとぶので、ポジションがしっかり決まっていなければ無様な出来になります。ですが、あのときは、旅行気分の気安さもあったのでしょう、セカンドヴァイオリンを弾かせてもらえたと思うのですが(ファーストだったかも知れず、記憶が定かではありません。内声がファーストを支えるので堅実さを求められますから、いちばん下っ端でヘタッピの私がファーストであった確率が高いと思います)、おそらくそのとき、魅入られたのだと思います。

学生時代は、しかし、自信がなくて、ウチワの発表会のようなことをしてもこの曲を人前で仲間と弾くことはせずにいました。

初めて聴衆となってくれる人たちの前で(それもやっぱり仲間内ではありましたが)この作品を弾いたのは、社会人になって10年くらい経って、
「アンサンブルに関しては、おらあ、もうよく分かっているんだ」
と、いっとき大それた慢心を抱いた時でした。その時どんな演奏をして満足したか、は今でもよく覚えています。その時自分が出した音も覚えています。・・・それはひどい、移弦が露骨で荒っぽい、およそ品のない音でした。

ハイドンの四重奏曲を、是非できるだけ読み直して、信頼できる友人と取り組み直したいなあ、と思う今日この頃ですが、四重奏で意気投合するのって、とても難しい。仕事仲間同士の仲が悪い代表格は、漫才師さんと弦楽四重奏団さんなんじゃあないかと思います。


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2008年12月31日 (水)

ベートーヴェンの主題によるロンディーノ(クライスラー):好きな曲019

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所用をこなしているうちに、日付が改まってしまいました。。。
本年も大晦日です。
もうひと記事綴るかどうか、迷いましたが、まあ、今年はこれでいいでしょう。
内容も、それにふさわしい演奏家に登場して頂くものとしましたから。

大学オーケストラでは協奏曲の経験は定期演奏会自体ではほとんどありませんで(1年先輩でしたらピアノ協奏曲をやっていました)、他所様へエキストラに行く時になら定番のようにピアノ協奏曲の伴奏はしましたが、それ以外の楽器のソロと合わせる、という経験は社会人になるまで待たなければなりませんでした。

0213d99e79c88d6aそんな数少ない、定期演奏会での協奏曲経験は・・・当時のメンバーにとっては奇縁だったと言えるでしょうが・・・2回、いずれも、今年1月に亡くなった江藤俊哉さんとのものでした。
私の場合は、1年の冬にベートーヴェン、4年の冬にブラームス、と、3大ヴァイオリン協奏曲(あるいは4大ヴァイオリン協奏曲)と呼ばれるもののうち2曲までを、ある意味で節目のときに、メンバーの小粒な一人としてご一緒させて頂いたのでした。
ベートーヴェンのときは、はじめて全曲のステージに載せてもらえたのでしたし、ブラームスは学生として最後の演奏会でした。

もともとヴァイオリンが弾きたいというよりは、オ−ケストラがやりたくて、いちばん人数が多いからという理由だけで私はヴァイオリンというものを手にしていましたから、江藤さんとのはじめての共演の時に、これも本当に初めて、自分が弾いている「ヴァイオリン」という楽器のものすごさを知らされたのでして、それは以前綴りました。

忘れ得ぬ音楽家:3)江藤 俊哉


4e6c4bf68c77ef2aヴァイオリンを、結局のところは、ほぼ独習で身につけた私にとって、そのころテレビでやっていた「ヴァイオリンのおけいこ」(タイトルが好きじゃあありませんでした)で、江藤さんが担当なさるときは中身が特別でした。素人目に(耳に、とも言うべきですが、視覚的にも)たいへん面白かったのです。残念ながら、家の中の番組争いで毎回は見ることが出来なかった(1台しかありませんでしたので、大人からニュースを見たいと言われればそれまででした)ことが、いまだに悔やまれます。少なくとも、江藤さんの説明を聞いていた限りでは、独習していて涌いてくる演奏法への疑問がすうっと解けた気がしたからです(ただし、実際に「解けた」通りになれたかどうかは別で、今思うと、難しいことを分かり易くお話するのが大変に上手でいらっしゃった反面、では独習の場合どう練習したらいいのか、までの説明はありませんでした・・・これは江藤さんに限ったことではなく、テレビという枠の中では仕方がなかったことですから、「分かり易かった」だけでも凄いことだったのですね)。

その江藤さんが「ヴァイオリンのおけいこ」を担当なさる時にテーマにしていたのが、クライスラーの、この作品です。江藤先生ご自身の演奏でお聴き下さい。

・ベートーヴェンの主題によるロンディーノ

このロンディーノ、
「実は主題はクライスラーのオリジナルだ」
ときかされて信じて来ましたが、最近お詳しいかたに伺ったら、ベートーヴェンの作品にこの主題を持つものが間違いなくあるのだそうです。ただし、それが何と言う曲なのか、私は知りません。ご存知でしたらご教示下さい。

また、この曲は、私自身、町内会の文化祭で家内の伴奏で弾いた数少ないもののひとつでもありました。

なお、クライスラーは、ヴァイオリン独奏に初めてヴィブラートを全面的に取り入れた(それでも録音を聴くと、それ以前のヴァイオリニストより使用頻度が「かなり高い」というニュアンスです)演奏家です。


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2008年12月29日 (月)

みんな人生「ドン=キホーテ」R.シュトラウス:好きな曲018

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大学オーケストラは年2回の定期演奏会が主体で、その他に近場への演奏旅行があったり、限定メンバーで隣接する地域へのエキストラ出演に出向く、という活動でした。
弦楽器のエキストラは、在学中ずっと(つまり4年生になっても)何故か私がいちばんの年下で、これはこれで笑い話もいろいろあるのですが、その話は未だとっておきましょう。

定期演奏会では、記憶をたどると、
1年の春〜「ルスランとリュドミュラ」序曲・「リンツ」・「幻想交響曲」
1年の冬〜「『トリスタンとイゾルデ』前奏曲と愛の死」・「小組曲」・「ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲」・「ブラームス2番」
2年の春(夏でした!)〜「ドン・ファン」・(1曲忘れました)・「ベートーヴェン7番」
2年の冬〜「悲愴」の他は忘却
3年の春〜「謝肉祭」・「モーツァルト40番」・「ショーソン:交響曲」
3年の冬〜「リエンチ序曲」・「ハイドン99番」・「ライン」
4年の春〜「禿げ山の一夜」・「モーツァルト25番」・「ブラームス3番」
4年の冬〜「オベロン序曲」・「ブラームス:ヴァイオリン協奏曲」・「ドヴォルジャーク8番」
てなかんじでした。・・・間違っているかもしれません。

5ba21f4c537733bc_2リヒャルト・シュトラウスは、上記の通り、1回だけしか経験しませんでしたが、素人にとっては難しいダブルシャープだらけの箇所があって(全体に占める割合からいえばたいしたことはないのですが)、正しい音程を取るのに非常に苦労した思い出があります。ただ、これは奏者を困らせようとしてそう書かれたのではなく、ドン・ファンという色男をおっかけするかしましい娘ッ子たちのおしゃべりを表わすためなのでして、それまでも聴く方では2つの「ホルン協奏曲」、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」が大好きだった私には楽しい練習でした。この時の指揮は大町陽一郎さんでしたが、大町さんという人も(言葉が悪くて恐縮ですが)ずっこけた愉快なところがありまして、
「それではウィンナワルツを始めます、3、4!」
なんてやらかすオジサンでした。(蛇足ですが、ワルツは3拍子です。)



リヒャルト・シュトラウスは、音楽における「描写」に対して非常な自信を持っていた人で、
「私の家族の顔を知りたければ、私の『家庭交響曲』を聴けばいい!」
と言い放ったという逸話もあります。
彼の奥さんが美人なのかそうではないのか、子供さんは利発な顔立ちなのか幼げなのか、映像的に特定の顔そのものを思い浮かべるなんて、『家庭交響曲』を聴いたって不可能です。でも、彼は平気だった。
「ドン・ファン」の最後、決闘に敗れたこの美男子が喉を切られ、そこからひゅうひゅうと息が漏れる音がする場面は、演奏していて空恐ろしくなるほど迫真的でした。まだ「死」そのものに直面したことのない私にも、「死」とはどんなものであるかを、たしかに音だけではっきりと「見せて」くれるのを感じました。
そういう面で、彼がもっとも実力を発揮しているのは、オペラ(楽劇)『サロメ』と『エレクトラ』でしょう。これらの作品は、その衝撃的な内容にふさわしい、調性音楽ぎりぎりの可能性を最大限に発揮して、まだ映画のない時代に空前の大ヒットをとばしたのでした。

ですが、注目すべきは、それ以後の『バラの騎士』や『影のない女』、『ナクソス島のアリアドネ』など、中期の歌劇でして、そちらでは、なおいっそう、心のひだまで細やかに表現しうるようになったこの作曲家の神髄に触れることができます。・・・ただし、私自身がこれらの作品のそのような深さを感じられるようになったのは、成人して、ヘタな恋愛もしてからあとのことでしたが。


リヒャルト・シュトラウスは、何故かその実力に比して評価が低いような気がしてなりません。 生を見つめるにも、死を見つめるにも、こんなに客観的で・・・そのくせこんなに感傷的だった人もいない、と、私は思っております。そんなあたりに、彼の音楽や人間性に入り込んでいききれないものを、彼の音楽を聴く人は感じてしまうのでしょうか?

特に、人生の総決算としての死を見つめる、ということに関しては、彼は「ドイツ帝国」というひとつの時代の臨終をも看取り、「レクイエム」とは題さずに帝国の死を供養する音楽(メタモルフォーゼン)を書き、その数年後には自身も人生の最後を迎えました。

彼は、彼自身の死がどのようなものであるかを、あらかじめ予見していたかのようです。
とあるスペイン文学研究者のかたが、彼の音楽の原作文学への忠実さに驚いたという「ドン=キホーテ」が、その作品です。

今回は、その最後の場面をお聴き頂き、文章もこれまでにしましょう。

・交響詩「ドン=キホーテ」フィナーレ

ルドルフ・ケンペ/シュターツカペレ・ドレスデン/トルトゥリエ(チェロ)/ロスタル(ヴィオラ)
EMI CLASSICS 5 73614 2

滑稽でない悲劇的人生は、どんな偉大な人にも避けられない。


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2008年12月20日 (土)

衝撃のモーツァルト演奏:好きな曲017

東京ムジークフロー演奏会(12/27)、是非お越し下さい。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1227-22d9.html



心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」・・・是非、お目通し下さい。
http://savedm.web.fc2.com/


大宮光陵高校管弦楽部がSONYのウォークマン"Play You"のCMに12月13日から出演しています!
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/sony-play-youcm.html

16世紀後半〜17世紀初頭のイギリス音楽についてまとめたく思っているのですが、時間不足でまだ終わっておりません。また、「楽典」の「調のはなし」も同様です。
そんな次第で、場つなぎ記事の連続で恐縮ですが、また思い出話にお付き合い下さい。

とりあえず、演奏をお聴き下さい。

・モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」K.385から、第1楽章

オトマール・スウィトナー/シュターツカペレ・ドレスデン  edei CLASSICS 0002612CCC

「偉容」と「軽妙」がこれほど同居している演奏には、私は19歳にして初めて触れました。
その衝撃に至った経緯について、毎度の駄弁を弄したいと思います。

なお、この演奏が他の演奏の録音とどれほど違うか、については、ブログを始めたての頃の記事で、ちょっと比較して頂けますので、以下の駄文よりいいかもしれません。
「ああ、また昔話か、付き合いきれねえや」
と言う方は、どうぞ、そちらの「文」はやはり読みとばして、音を聴き比べてみて下さい。

http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_dede.html


41r3srsyf8l_sl500_aa240_念願の大学「オーケストラ」に入団出来て、私はとにかく、学業よりオーケストラに夢中でした。 ・・・団員になる殆ど全てのメンバーが、似たようなもんだった、と思います。 ただ、この大学のオーケストラ、入ってすぐにわかったのですが、頑固者の集団で(いわゆる蛮カラ気風がまだ残っていて、かつチカラのあるOBは大学を離れてあとも尊重されました)、新米学生の目からしたら、現役軽視・非力者排除の、民主主義時代にはおよそ信じられないほど<封建的社会>に見えたのでした。・・・そう思ったまま卒業していった、排除された側の「非実力者」もたくさんいます。私もある意味ではそうしたひとりかもしれません。ですが、新米当時のそうした見え方は誤っていた、と、今では思っています。・・・それは、会社員生活をしながらアマチュアオーケストラもハシゴする生活を続けていくうちに、当時のこの大学オーケストラが「何を大切にしていたか」、一般のアマチュアオーケストラでは、いかに同じようには行かないか、を、経験を通して思い知ることが出来たおかげです。

じゃあ、どういうところに差があるのか、ということを精神論でぶっても、おそらく通じませんから、この大学オーケストラが当時「実現」出来ていた優れた点について、出来るだけ具体的に列挙してみます。・・・これでもひとつひとつ解説しないと、本当はなかなかご理解頂けないのではなかろうかと思いますが、解説することで誤解を受けることも多々ありますので、列挙に留めます。

・技術力が上がらないのであれば、「耐えた」だけではステージに乗せない(情でプレイしない)
・技術力が上がらなければ、最悪、罵倒され続ける:退団するか残るかの最初の関所
・面白いことに、それでも最低1年、最長3年で、居残っていると技術力が上がった(例外存在)
・定期演奏会のメンバーに選ばれても、練習中に音楽が理解出来なければ容赦なく交代(管楽器顕著・・・退団するか残るかの、第2の関所)
・広地域への遠征は極力避け(とくに東京へは出なかった)、自分たちの演奏を過大評価しなかった
・個人としての技量ではなく、アンサンブルの呼吸(他パートの動きを読み取り、または相手にこちらの動きを読み取らせる)に重点を置き、その理解度の高いメンバーが理解度の低いメンバーの練習を監督する慣習があった

とくに、最後の点から、ソロ曲を練習していると技術の高いメンバーから完璧に白眼視されました。百年早い、が「罵倒」の決まり文句でした。ひとつには、そこで萎縮するか意地をはるか、あるいは受け流せるか・・・正解の3番目を選択出来るメンバーが確実にいい演奏を支えるようになる仕掛けでした。

私は弦楽器ですので、管楽器の日常は知らないのですが、とにかく毎日、プログラムは基礎練習(シェフチェック【セヴシック】など)、オーケストラ曲の個人練習、同レベルのメンバーがパラパラ揃って来たらクァルテット・・・初歩のうちはハイドン、モーツァルト初期全曲で、だんだんにベートーヴェン初期、モーツァルト後期、ボロディンなどへと曲を拡げていくのですが、これは学年によって団員数がまばらだったので、トクする学年【団員が多い学年】と損する学年【団員が少ない学年】が存在しました。



上の要約は、あるいは「好感を持たずに退団したり卒業したりしたメンバー」からみれば理想化し過ぎに見えるかもしれません。
ただ、私自身は卒業後いったん仕事の性質から3年一緒をすることが出来ず、そのあとまた3年間、今度はOBとして後輩たちに優しく迎えてもらえ、そのあいだに先輩たちの「後輩への口の出し方」に疑問を感じながら3年を過ごし、転勤を機に実質上縁を自分から切ってしまった団体でして、やはり客観的にこの大学オケを見てきたわけではない、むしろ一時は「ここの路線は間違っているのではないか」との強い疑問に取り憑かれた人間です。
ですが、可愛がってくれた先輩に貰って、今でも大切に思っている「格言」が二つあります。

・「音」は「人格」である
・道具(=楽器)がなければ出来ないようでは、音楽ではない

これらについては、また後日駄弁を綴ることにします。
この2つを尺度に、自分自身が東京という土地で、いちおう今所属する団体をホームグランドにし、いろいろなアマチュアオーケストラを歩かせて頂きながら観察を続けて来ましたが、歩けば歩くほど、自分が疑問に思っていた大学オケの姿勢がいかに「実現の難しい」ことか、を思い知らされることが重なりました。離れて20年経ちました。ですから、理想化している面があるとはいえ、上に要約した基本姿勢は、20年を経てやっと理解でき、心からの敬意と賛同を感じられるようになったもので、本質からそう遠くない「まとめ」が、ようやく出来るようになったか、と少しだけ自負しております。・・・もちろん、同時期のメンバーで過去にこだわるかた(「良かった」であろうが「悪かった」であろうが)に、私と同じ「評価」を強いるものではありません。私が受け止めた、私の20年前、でしかありませんから。

CDを発行でき、私の頃とは違って安定した力を子供たちに付けさせるジュニアオーケストラをも熱心に育成してくれる心強いプロオーケストラが仙台にも存在するようになった現在では、大学オケ自体の役割は変質しているかもしれません。でも、そこは独立独歩で歩んでくれていることを、私は信じております。



意気揚々と入った大学オケでしたが、最初の定期演奏会で、私は屈辱の「降り番」を初体験することになります。メンバーを減らさなければならないモーツァルト(演奏したのは今回掲載した「ハフナー」ではなく、「リンツ」でした)のセカンドヴァイオリンで、最後の1席を同学年の東京出のボンボンと争って、結局敗れたのでした。ちなみに、「勝った」このメンバーは最初の定期演奏会後さっさと退団し、私に「どこかのオーケストラに入りたい」と泣きついて来て、前回まで述べたユースオーケストラに紹介してやりましたが・・・(この先は、話題にしない、と前回誓いましたので、話題にしません。)

そのとき、ある先輩から、
「参考にするならこの演奏だからな」
と言われて買ったのが、当時セラフィムというEMIの廉価盤レーベルで出ていた、スウィトナー指揮・ドレスデンシュターツカペレ(と、あのころはこの語順で日本では紹介されていました)の「ハフナー・リンツ・プラハ」の1枚でした。
聴いて、私のそれまでの、モーツァルトの交響曲は演奏がカンタン、というイメージがガタガタに崩れました。
とくに衝撃的だったのが、演奏する予定の「リンツ」ではなく(その柔らかさも非常な魅力ですが)、今日掲載した「ハフナー」第1楽章でした。それまで名声を独占していたベームの「ハフナー」を完全に凌駕していました。

音声を、再掲します。

モーツァルトのトレモロは「スピッカート」という、弓が自然に弾むにまかせる奏法で軽々と聴かせるのがヨーロッパの常道なのですが、音階進行までをスピッカートで、しかもヴァイオリンからコントラバス、木管楽器群まで、これほどの一体感を持ってなされる演奏は、ベルリンフィルやウィーンフィルのものでも聴いたことがありませんでしたし、今でもこのドレスデンのメンバーを超える技を聴かせてくれる録音はないはずです(聴いた限りの「新録音」は、やっぱり負けています)。トランペットとティンパニのバランスの良い抑制感覚にも感嘆せざるを得ません。彼らは響き「だけ」で音楽の輪郭をくっきりと浮かび上がらせます。「古楽」再現と称してこれらの楽器を騒々しくならす演奏の存在には、こうした演奏と比較すると、私個人としてはやはり疑問を感じざるを得ません。クヴァンツなどのアンサンブルについての言及も、バランス感覚を大切に考えていた形跡があるのですから、なおさらです。

話は戻りますけれど、この「スピッカート」を、学生オーケストラでありながら、初心者にまで身につけさせ得たのが、私の所属した大学オケです。もちろん、スウィトナー指揮下のドレスデンには叶うべくもないのですが、日本のオーケストラで、「モーツァルトにはスピッカートが必須」であることをきちんと理解している団体はプロにも少ない(現に、新録音でもみっともないものがあります)ことは、是非申し上げておきたいことです。かつ、アマチュアの初心者にスピッカートを体得させるのがいかに困難かは後年身にしみて知りました。・・・この話も、あらためてしなければならないかな?


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2008年12月17日 (水)

グルック「アウリスのイフゲニア」序曲:好きな曲016

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その大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)は、無事終了致しました。

好きな・・・というには、実は、ちょっと半分複雑な気持ちのある曲です。かつ、いつも「好きな曲」で載せるのは大体5分枠と決めているのですが、8分かかります。
加えて、音楽はグルックのオリジナルではありません。ワーグナーが編曲したものです。

・グルック「アウリスのイフゲニア」序曲(ワーグナー編)

クルト・アイヒホルン/ミュンヘン放送管(1972) DENON COCQ84199

9478a389209df278浪人時代に復帰した「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」で、私はコンサートと言えば最初を除いて序曲はこればかり演奏されたようなものでした。
事情が分からないまま体制が変わってしまっているところへ入り込んだこと自体が、思い返せば自分自身を不幸にしました。
あまり突っ込んで記すと、万が一偶然にでもこの記事を読んだ時に傷つく人がいるかもしれませんので、それは死ぬまで胸にしまっておきます。
ただ、なぜこの曲ばかりだったか、というと、それだけこの団体が「魅力のないもの」になり、どこかの高校の弦楽合奏団でも取り込まない限りは演奏会なんか出来ない状態になっていたからでして・・・初心者でもなんとか演奏できるのがこの序曲だったため、都合上その繰り返しになってしまっていたのです。
なぜその制限が取り払えないのか、を、浪人時代からずっと疑問に思っていた私は、演奏レベルを上げたい思いでいっぱいでした。で、幸いにして、前に記したことのある大学に入学でき、学問はしないでオーケストラに入り浸る毎日を過ごすようになりましたが、思いはいつもユースオーケストラの上の方にあって、大学のオーケストラの演奏水準を自分が学んで持ち帰れば、ユースオーケストラも水準が上がる、と、純粋に信じていました。・・・人間模様というものに対しての無知、信じてはいけない人への免疫のなさは、学生ゆえの軽率さだったかもしれません。かつ、学生ひとりが、何の「世間的」下地もないままに「団体の演奏レベルを上げる」だなんてことは、ある意味で愚かな夢想に過ぎなかったのです。

思いだけ向いていても、「大学の水準を身につける」が前提である以上、私がユースオーケストラへ足を運ぶことは自然と減りました。それでも、「行ったらいつでも受け入れてくれる、自分の成果に耳を向けてくれる」と、みんなを信頼していました。
ある日、いつものように間が開いて、「ゴメン、ゴメン」と出向いたら、私の席はありませんでした。指揮者に尋ねたら、
「あ、キミ、もうこなくていいから」
と言われました。背景にいろいろあったことはだんだんに分かりましたが、それは今となっては綴っても無意味です。事前通告なしに、私は「解雇」されていたわけです。
・・・ですが、団員たちの方が、そのことを知りませんでした。指揮者と、私の後釜に座った人物とが、団員になにも告げていなかったからです。
通わなくなったユースオーケストラの団員たちから、
「なんで来てくれないんですか?」
と再三言われました。行かなければならない、と思って、出掛けました。指揮者と後釜氏に言われました。
「なんでまたきたの?」

・・・以後、私は、その団の人たちから、どうやら団を見捨てたオトコ、とレッテルを貼られたようです。どうしても懐かしさに耐えられなくなって再訪した時に、もう新陳代謝したはずのメンバーたちから浴びせられたのは、冷たい視線だけでした。
ですから、これだけは言っておきたいのです。私の方から団への愛着を断ち切ったことはありません。
ただ、あえて理解を求めようとも思いません。時間は、あまりに遠ざかってしまいました。

・・・この話はこれくらいにしましょう。(どうぞ、この事態についてのコメントも、なさらないで下さい。音楽そのものの方へのコメントは、有り難く受け止めます。)

いい思い出も、沢山あったのですから、そちらを大事にしたいと思います。
この団にいたことで、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」や数曲のミサ曲、同じくシューベルトのミサ曲を演奏することもできました。交響曲は、私が復帰する前の年に演奏されていた「未完成交響曲」以上には進展がなく、管弦楽曲もグノーの「ファウスト」バレエ音楽を繰り返すばかりでしたが。ただ、復帰した最初の年には、メンバーにはまだ、ベートーヴェンの「レオノーレ序曲」第3番をやる力はあったのです。同時に演奏したカバレフスキーの「道化師」は、まあまあでした。ところが、ハチャトゥリアンの「ガイーヌ」からの抜粋、とくに終曲のレスギンカは信じられないほどのスローテンポでした。それが、団に鳴り響きはじめた「不協和音」だということに、私ははやく気づくべきだったのです。2年後の冬に、私はヴィヴァルディの作品3のヴァイオリン2台のコンチェルトのソロの終楽章で、次の年に「後釜」になった人物から手ひどいしっぺ返しを受けることになりましたが、彼にはその痛みはとうとう伝わらずじまいでした。
最初の2年と、この復帰期間と、どちらで演奏したのか記憶が曖昧な作品もあります。ウェーバーの「魔弾の射手」序曲は、2年目にやっていたかもしれません。明らかに復帰後弾いたものには「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲がありました。ベートーヴェンは「第5」くらいはやった気もするのですが、記憶が曖昧です。ロマン派以降の作曲家の交響曲は、この団体では手に余りました。

・・・これくらいにしましょう、と言っておきながら、長くなりました。この話題自体、今後、することはしないようにします。



グルックは、ドイツ人であるにも関わらず、ドイツ語オペラは1曲も作曲していません。作ったオペラの数は膨大だそうですが、すべて、イタリア語かフランス語です。
オリジナルを知らないので私には断言できないのですが、「アウリスのイフゲニア(オーリードのイフィゲーニエ)」は、フランス語オペラだと思います。
ただ、オペラ改革運動を繰り広げたことで高い知名度と名誉を誇った彼は、のちにワーグナーによって理想的な音楽家のひとりと見なされ、そうした経緯で、この序曲もワーグナーによって編曲されたのでした。(編曲には別に、モーツァルトのものと誤認されていたヨハン・フィリップ・シュミット版もあります。)
ワーグナーの編曲は歌劇全体にわたっており、台本もドイツ語に変えられています。
上演ではグルックのオリジナルが演じられることもあるようですが、録音では、遺憾なことに、グルック作品の中では何故かこのオペラだけ、私にはオリジナルでの演奏を見つけることが出来ずにおります。
序曲は、グルックが「オペラ改革」の柱のひとつに掲げた、ドラマの内容と意味を予告し重視する(所有CD解説による)との方針に基づいた、構成のしっかりした作品で、おそらくはモーツァルトの「後宮よりの誘拐」や「ドン・ジョヴァンニ」、「魔笛」などの序曲にも強い影響を及ぼしています(「魔笛」序曲は形式を直接は受け継いではいませんが)。また、オペラ作品がひとつしかないベートーヴェンの場合には、劇音楽の序曲(「コリオラン」と「エグモント」が代表例でしょう)で、グルックの形式を踏襲しています。
ただし、グルックのオリジナルは序曲は序曲として独立で完結するものではなく、そのままオペラ本編に流れ込むものだったそうで(今回掲載した演奏はその部分までになっていますが、演奏会用のワーグナー編曲には、この曲の序奏部を素材にした、序曲だけのコーダがついています)、いつかはそれをオリジナルで確認したいと思っております。

ワーグナー版の録音は、フルトヴェングラーのものやクレンペラーのものもあったと記憶しております。最近のオーケストラでは演目としては採り上げられなくなったようで、残念です。


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2008年12月13日 (土)

コレルリ「クリスマス協奏曲」:好きな曲015

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その大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)のご案内を掲載しております。

180pxcorelli「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」に入団して、高2までに演奏を経験した作品は、思い出す限りでは次のとおりです。
・J.シュトラウス「こうもり」序曲
・ヘンデル「水上の音楽」ハーティ版
・ベートーヴェン「エロイカ」
・同上「エグモント」序曲(これは記憶に自信がありません)
・ビゼー「アルルの女」第1・第2組曲
夏1回の演奏会なので、あと1曲だけはあったはずですが、忘れてしまいました。
指導して下さったのは、合唱曲に名作を残している、仙台在住の岡崎光治先生でした。先生の代理で頑張っていたのは、市の清掃課で働きながらフルートを勉強していたKさんでした。
高2の演奏会が終わったあと・・・団の運営については全く知らなかったので事情はいまだに分からないのですが、急に岡崎先生の指導が仰げなくなり、Kさんも団から姿を消しました。コンサートミストレスを務めていたEさんも、同時にやめたのではなかったかな。練習場所も変わりました。それがきっかけだったのか、それとも高3の夏は参加の案内が来なかったのか、私は高3の演奏会には出ず、一聴衆として会場に坐っていたことだけを覚えています。
翌年、一浪していた僕はオーケストラへの思いを捨てきれず、変更になった練習場で団が活動しているのを聞きつけて再度参加することになったのですが、同時に、わけもわからずコンサートマスターというものにされてしまいました。腕にも自信がなく、コンサートマスターというのがどんな役割を持つのかも知らないままでした。
結果的に、これで私は仙台で過ごした残りの学生時代の音楽活動にはたくさん悲しい思い出を持つことになったのですが、それはまた次に記します。・・・ついでながら、そうではあっても、当時のことについて、今はただ懐かしい、という以上の感慨はなく、利害がどうだったか、などということに執着はありません。もし仙台の方がお読み下さっていても、その点は、ですから、あらかじめご了解頂ければと存じます(とはいえ、このブログ、仙台のかたが読んでいるなんてことは稀なようです)。

時間は少し戻って、
「大きなオーケストラの曲もいいけれど」
と、Eさんが紹介して下さって、センプリーチェ、という、ユースオーケストラよりは少し年長の人たちがやっていた室内楽の団体にも数回参加をさせて頂きました。ただ、練習が平日、かつ時間と体がキツいために、私は結局そちらの団体には正式参加しませんでした。
それでも、たった数回の参加で、この団体には素敵な室内楽・バロック初体験をさせてもらえました。
バッハのブランデンブルク協商曲を数曲、モーツァルトの、今の通称で「ザルツブルクシンフォニー」と呼ばれているK.136、K.137、K.138との出会い(とくにK.137は私の心を打つ音楽でした)、ヘンデルの合奏協奏曲1曲(2集ありますがどちらに入っていたものだったかは記憶していません)及び12曲あるコレルリの合奏協奏曲から3・4作は、少なくとも練習した記憶があります。
そうした中で出会った1曲が、今回掲載するコレルリの「クリスマス協奏曲」でした。

・コレルリ:合奏協奏曲第8番(クリスマスの真夜中のミサのために)第6楽章

マリナー/アカデミー室内管 LONDON POCL-2857

この演奏は私の好みや、当時自分たちが弾いていたテンポよりはずいぶん速いのですが。

クリスマスには、誰でもいろいろな思い出をお持ちでしょう。
私が初めて弾いた時も、たぶん、「もうすぐクリスマスだから」という練習の時ではなかったのかな。でも、練習場所がお寺さんなので(やはり仙台の素晴らしい作曲家、片岡良和さんがお寺の住職さんで、この団体の援助をしていたからではなかったかと思うのですが、定かではありません)、なんだか妙に可笑しかった、でも敬虔な気持ちにもなったように記憶しています。

その他の私のクリスマスの思い出は、移行前のブログに綴り、そのまま残してあります。その翌々日に家内を亡くしたことが、新しい思い出に加わったからです。

いま、つくづく思うに、「神」や「仏」という言葉で呼ぶのが妥当であろうがそうでなかろうが、宗教の違いを超えて、「神」と捉えてよい「なにか」は、有形か無形かは分かりませんが、存在するのではないのでしょうか。この宇宙が誕生した契機が・・・別にビッグバン説が正しかろうと正しくなかろうと・・・あったからには、様々な事象を生み出し、かたちとして固定し、再び解体してはまた再創造する、そのようなエネルギーがあることを、誰も否定できないはずです。ただし、人間というものは、それを「神」という言葉で固定したがってきた。だから、有神論だの無神論だのという「理論」を築かずにはいられなかった。いずれにせよ、少なくとも物理学の世界観でも「本当に全てを語り尽くせる」法則は人間には未だ発見できていないにもかかわらず、私たちの前には厳然として、日々誕生があり、死があり、生がある。それに固定化した呼び名をを与えること自体に、おそらくは無理があるのではないか、と感じます。
そうした固定的なものではないが故に、人間ごときには永久に発見できない「法」とでも言うべきものが、個々人の意志を超えて「ある」のではないか、ということに・・・私も半世紀も生きてしまったからでしょう・・・深く思いを致すようになりました。
コレルリのこの作品は、そんな私が最初に出会った、「宇宙の前に跪(ひざまず)く」音楽でした。



アルカンジェロ・コレルリ(1653-1713)のヴァイオリン音楽は、全部に接してはいないので確言は出来ませんが、第3ポジションと呼ばれる手の位置よりも高い音を弾くことは求められていなかったかと思います。それでもヴァイオリンの第1人者として人々に高く評価されていた晩年の彼の前に、新進気鋭のヘンデルが現れ、コレルリの旧弊な作風を揶揄したエピソードは有名です。
「コレルリさん、第7ポジションまで使えば、音楽はもっと輝かしくなるのに!」
「ヘンデル君・・・わたしには、もうこれ以上出来ないんだよ。(あとはまかせた。)」
みたいなかんじの話です。
これには、重要な時代背景、表現の欲求のエントロピー増大が背景としてありました。
西欧クラシック音楽では、器楽が声楽よりも上、というのが今日の聴き手には価値観としてあるようですが、実際にそうなったのは17世紀後半、すなわちコレルリの活躍した時代になってからのことで、器楽の地位を高める上で最も大きな功績があったのが、ほかでもない、コレルリ自身でした。それをコケにしたヘンデルも、なんだかんだ言って、合奏協奏曲の作曲にあたってはコレルリの影響を色濃く受けています。
器楽が重視されるようになった事情については音楽史を辿っているカテゴリで見ていこうと考えております(まだその一時代手前までしか至っていませんし、これからしばらくヨーロッパからまた離れるはずです)ので、よろしければそちらもお読み下さい。

一足早いクリスマス音楽の掲載ですが、もしお信じの宗教がおありでしたらそれを感じつつでも結構です、もし「無神論者」でいらっしゃるなら創造の神秘ということには是非思いを致して頂き、宇宙・世界に向かって「敬虔な」お気持ちを抱いて頂けるようでしたら幸いです。


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2008年11月27日 (木)

サン=サーンス「死の舞踏」:好きな曲014

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ファジル・サイのつくば公演もお聴き逃しなく!
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/in-808f.html


「初老の回想録」が続きます。・・・さすがに、次回はちょっと宣伝、次次回は趣向の違う話にしたいと思っておりますが、どうなることやら。


Cd2a1836b1852576「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」なるジュニアオケから連絡を貰うまで、私は地元にあるオーケストラは後年入学することになる大学の「交響楽団」だけだと思っていました。実際には私が中二のとき、1973年に社会人のアマチュアオーケストラが出来たばかりで、大学の方に比べれば認知度はまだまだ低いものでした。・・・このオーケストラは、しかしアマチュアに留まることは最初から考えていなかったようで、5年後にはプロとしての活動をはじめます。その際、張り切ってアマチュアで入団した友人数人が退団させられたかと思えば、本来専門の勉強をしたわけでもないのに居残ってコンサートマスターになったような人もいて(これは一般のアマチュアであり、かつ団をやめさせられた友人もいたことの裏返しの感情もあった私には、ご本人の技量から判断しても不可解で仕方ありませんでした)、さらにその5年後に芥川也寸志さんの指導を受けるようになるまでは、「まとも」な音楽を奏でていないのではないか、という不信感が、私なぞにはありました。ただ、プロ活動をはじめてからは、この団体から「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」を「手伝っ(謙虚にも、<指導>などとはおっしゃいませんでした)」て下さった方がいらっしゃいました。・・・プロになったこの団体(現在の「仙台フィルハーモニー管弦楽団」)が「音楽で稼ぐ」まっとうな道を模索しはじめたちょうどその時期から、(それなりの事情はあったのですが)反比例するようにジュニアオケが凋落の道をたどったのは、たいへん残念なことでしたが、そのときの思いについては今回は綴りません。

こういう時期でしたので、地元で最も定評のあるオーケストラは大学の交響楽団で、その頃の有名指揮者の姿には、この大学の交響楽団を聴きにいくことで接することが出来たのでした。
しかも、今ではとても信じられないことですが、この大学オケ、その頃は昼夜2回公演を行っていて、たしか昼間の方が少し安く聴けたのだったかそうでなかったか、とにかく中学生でも明るいうちに聴きにいけるので、そこへ出掛けることで、いままで知らなかったり接することのなかったりした作曲家の作品にも、大学オケの演奏会で出会うことができたのでした。
お聴き頂く作品も、そんな中のひとつです(演奏は大学オケのものではありませんが)。

・サン=サーンス「死の舞踏」作品40

バレンボイム/パリ管弦楽団(1978) Deutsce Grammophone UCCG-9315

・・・夜なら雰囲気は違ったのでしょうが、大学のオーケストラの昼のコンサートは聴く側にとっては気楽なもので、あるとき、最前列の、指揮台の真ん前に、野球帽をかぶったまま坐って聴いていたことがありました。その時の指揮者は、当時テレビ「オーケストラがやって来た」にも頻繁に出演し、その後札幌交響楽団の常任を務められたペーター・シュヴァルツさんでした。数回この大学オケを指揮して下さったシュヴァルツさんがどのプログラムで演奏した時のことかは記憶にないのですが、覚えているのは、全プログラムが終わった時、ナマイキな恰好で聴いていた子供の僕に向かって、彼がにこっと笑って手を振って下さったことです。
「ああ、こんな人の指揮で演奏したい!」
夢見心地で帰路に着きましたが、後年この大学オケに入った時にはもうシュヴァルツさんの客演は無く、夢に終わりました。ただ、シュヴァルツさんの思い出は、その棒の下で弾いた先輩たちにとって貴重な体験だったようで、彼については褒め言葉ばかり聞かされ、軽口話も悪口をも耳にしたことがありません。・・・札響を去られた後どうしていらっしゃったのか、調べたのですが、とうとう分からぬまま、こんにちに至っています。



サン=サーンスが見事に描いている「死の舞踏」(曲についてのWikipedhia記事をリンクしておきます)は、もともとはマニエリスム美術の題材として絵画に多く書かれたものでもあり、だいぶ前には中公新書で、近年では八坂書房(藤代幸一『「死の舞踏」への旅』)で、この題材が採り上げられた背景を丁寧にフォローした発表がなされています。(ここに美術上の「死の舞踏」へのWikipediaリンクを貼っておきます)。ペストが大流行し、戦争が百年も続いた時期の題材とはいえ、髑髏(どくろ)が平気で描かれる感覚は、土葬が普通で骸骨を目にすることに慣れていたヨーロッパ人ならではの、現実の残酷さに臆することの無かった精神のなせる技、と、ただ感心してしまいます(日本人の作品では、文学には『方丈記』のようなものが、美術品では『地獄草紙』・『餓鬼草紙』・『病草紙』、何種かの小町変相図がありますけれど、どこでもかしこでも髑髏を描きまくった中世ヨーロッパ後期のような<生と死の直視>の姿勢は薄く、むしろ死の恐怖の前で後ずさりしているように思えます)。

サン=サーンスは最初神童としてデビュー、モーツァルトのような不幸には会わずに順調な音楽活動を続け、「私の作品に欠点は無い」と豪語した人物です。この発言をした際、聞いていたベルリオーズ(だったかな)が「だからつまらないんだ」と応酬した、というエピソードもあります。ですが、作品は「動物の謝肉祭」のようなものを例外として、堅実ながらも決して「退屈」ではない傑作も少なくなく、3曲の交響曲、4曲のヴァイオリン協奏曲、5曲のピアノ協奏曲なども、なかなかに魅力があります。一時期はこの『死の舞踏』が、日本では最も演奏頻度が高かったのではないかと思います。長寿だった彼の晩年、山田耕筰が彼と面会を果たしています。長寿のおかげで、自身の弾いたピアノの録音も残っていますが、ノイズの中から透けてくる彼の演奏から察するに、清潔な音を出すいいピアニストでもあったように感じられます。
『死の舞踏』自体は、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」を織り込んでいる点でベルリオーズの幻想交響曲終楽章、明方と共に死霊が去って行く描写を含むことでムソルグスキーの『禿げ山の一夜』を連想させてくれ、たった6〜7分の演奏時間のあいだに、題材とタイトルからは想像しがたいほど「面白い」音楽世界を繰り広げてみせてくれます。


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2008年11月26日 (水)

ホルンにサヨナラした日〜ショスタコーヴィチ「祝典序曲」:好きな曲013

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



ファジル・サイのつくば公演もお聴き逃しなく!
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/in-808f.html


「へりくつ」には違いないのでしょうが、純正な「へりくつ」よりは「初老の回想録」みたいになってしまっていて恐縮です。・・・勉強は、難しい。。。


2ea7dc20a3aea59c_2吹奏楽部のない2年間を過ごし、進学したらまたブラスバンドでホルンを吹くのが憧れでした。
で、高校に入ると、さっそくブラスバンドに入りました。男子校2つが合同演奏会を開く、というかたちで活動をしており、結構な規模の曲が演奏できました。
ただ、クラシック馬鹿一直線の私には、ビッグバンドもどきはまだしも、ブラスバンドがポップスもやるのにはどうしても抵抗がありました。それが、結局はブラスバンドを離れる最初の要因になったのではないかと思います。
ただ、規模が大きいので、不満足ではありませんでした。クラシック・ナンバーも、オーケストラ曲のアレンジではありますが、たった一度参加した合同演奏会で、優秀な編曲の大曲を4つ演奏できました。
ひとつは、ヴァーグナー「エルザの大聖堂への行進」(楽劇「ローエングリン」のなかでは第2幕に合唱曲として現れ、その合唱に、有名な結婚行進曲が続くのです)、ドヴォルジャーク「新世界から」第1楽章、ベートーヴェン第5の3〜4楽章、それに、お聴き頂く、ショスタコーヴィチ「祝典序曲」でした。1年生であったにもかかわらず、ヴァーグナーでは1番を吹かせてもらえるとのことで、大喜びしましたが、実はそんなに目立たない、四分音符の伴奏を吹くのでして、しかも音程を外すと曲がぶちこわしになるというクセモノパートでした。ドヴォルジャークではどのパートを拭いたのか忘れました。ベートーヴェンでは2番、ショスタコーヴィチでは3番を吹いたように思うのですが、逆だったかもしれません。

・ショスタコーヴィチ「祝典序曲」作品96(1954)

アシュケナージ/ロイヤルフィル London POCL-5263

合同演奏会があったのと前後して、突然、
「オーケストラに入ってヴァイオリンを弾かないか?」
との電話がありました。オーケストラをやっている知人なんて全くいませんでしたから、中3の時テレビに出たのを見ていた人だったのでしょうか?・・・ジュニアオケでした。ここでは波瀾万丈(というほどでもないか)を味合わされることになるのですが、そんなことは思いもよらず、心はオーケストラに傾き、なおかつ、ブラスバンドの練習が生徒だけ(先生の指導は一切ありませんでした)の好き勝手な雰囲気だったのも気に入らず、短気を起こしてやめてしまったので、今さら他に行き場もなく、ホルンは買うほどの財力もなく、誘われたジュニアオケで、安く買った持っていたヴァイオリンを弾き続けることになったのでした。「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」という名前のそのオーケストラで2回目に出演したコンサートは、私が心の中で「ホルンにサヨナラした日」になりました。・・・で、この「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」も、ある意味、内容的には数年後に崩壊を迎えるのです。・・・いま仙台にいくつジュニアオーケストラがあるかは知りませんが、その中に、このオーケストラの直系を称する団体もあるかも知れず、とくに私がいた当時から頑張っていたメンバーもなお応援し続けているのかもしれませんが、私という存在はそこからはもう抹消されているでしょう。悲しいけれど仕方のないことです。・・・それでも、その頃のお話は(仙台の方が読んで下さるかどうか分かりませんが)いずれ記しておきたいと思います。・・・私には、楽しさも、嬉しさも、悲しさも、寂しさも、全部教えてくれた、貴重な団体だったからです。



さて、それはさておき。

ショスタコーヴィチは私の少年時代はまだ活躍中(もう晩年でしたが)で、中学時代に、結果的に彼の最後の交響曲となる第15番(1972年=昭和47年、私は中1でした)が初演される、というニュースは、中学生ごときまでを大興奮に巻き込んだものでした。ですが、日本初演のラジオ放送でやっと耳にしたその作品は、当時誰でも知ることが出来た彼の唯一の作品だったと言える「交響曲第5番」(地方都市では、特別に好きなヤツなら7番も知っていた、しかも7番や、出たての15番のレコード【子息マキシムが指揮したものでした】を持っているヤツなんて金持ちに決まっていたという程度でした)に比べるとあまりに軽妙なうえにウィリアム=テルの動機の引用が出て来たりする、どことなく拍子抜けする第1印象のもので、聴いた翌日からは誰も話題にしなくなったのを覚えています。・・・交響曲第15番の真価は、日本ではもう少し後になって初めて理解されたのではないでしょうか?

ショスタコーヴィチの「祝典序曲」は、内容としては彼の交響曲や協奏曲、若き日のバレエ音楽、不幸だったたった一作のオペラに比べると、極めて穏健な、その分平明な作品です。ロシア革命37周年記念作品として書かれたため、大衆的でなければならなかった、という事情もあるでしょう。(1952年のヴォルガ=ドン運河完成記念のために書かれた、との説、1947年の革命30周年のためだったとの説もあります。なぜこのように作曲年代に多くの説があるのかについては、ショスタコーヴィチに大変お詳しい工藤庸介氏の著書『ショスタコーヴィチ全作品解読』85頁をご参照下さい。)比定される作曲年代の最後のものを除けば、いずれにせよ53年まではまだスターリンが存命でもありましたから、彼の1945年作の交響曲第9番(当局はベートーヴェンの「第九」の洋に壮大なものを期待していたが、ショスタコーヴィチは短くてユーモラスな曲想に仕上げた)に始まり、スターリン死去の1953年にはスターリン批判を盛り込んだとされる重い交響曲第10番を仕上げていますから、当時のショスタコーヴィチにしては作風が素直なのは、『森の歌』同様のカモフラージュだった可能性もあるかもしれません。・・・それでもなお、『森の歌』にせよ『祝典序曲』にせよ名作であるのは、ショスタコーヴィチの腕の確かさを証明しています。

なお、この序曲の冒頭は、1944年に娘ガリーナのために書いた『子供のノート(音楽帳)』作品69の第7曲(全音版の楽譜でのタイトルは「誕生日」)を元にしたものです。これにはショスタコーヴィチ自身の演奏した録音があります。お聴き下さい。

・誕生日

Revelation RV70007

最初に聞こえる声は、ショスタコーヴィチ本人のものです!

この曲を含めた『子供の音楽帳』、政治家たちのパーティの際に父と共に招待を受けたガリーナが、演奏途中で弾けなくなって泣き出し、あわてて父がそのあとを引き取って弾いた、というエピソードが残されています。


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2008年11月25日 (火)

「環境」はいつ変わったか?〜スメタナ「モルダウ」:好きな曲012

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曲の長さもいつもの倍ですが、リンクを貼った記事も長いです。

・スメタナ「モルダウ」(『我が祖国』第2曲)

フリッチャイ/ベルリン放送響(1960)輸入盤 Deutsche Grammophone 463-650-2

0d17159849886db8リンク先には、この年、この演奏をしているフリッチャイが南ドイツ放送交響楽団(現シュトゥットがルト放送交響楽団)とリハーサルをした際に、フリッチャイがオーケストラの面々に話したことの一部を載せています。このリハーサルはDVDで残されており、癌(すなわち死)と戦っていたフリッチャイの、真摯ながらも優しい、音楽への心遣いを、深い感動をもって見ることが出来、それによってオーケストラの音がどのように変化していくかを聴くことが出来ます。
Pioneer PIBC-1076

・・・このDVDは、sergejOさんがページトップに掲載なさっています。そちらからご購入なさってみては如何でしょうか?(お手になさって損のない、どころではない、世間に出回っているリハーサル映像の中でも特別な価値を持つものだと、私は思っております。)

ここでは、フリッチャイが、おそらくベルリン放送響との演奏にあたっても、痛み止めを打ちながら全身を「耳」にして、リンク先の記事で述べたような<音楽それぞれの部位についての細かな情景描写>の実現に精魂をかたむけていたであろう、ということを述べて置くに留めます。
フリッチャイの死は、2年後の1963年2月20日でした。



私が「モルダウ(ブルタヴァ)」を初めて聴いたのは、雑誌に付いて来た付録のレコードで、でした。中学生当時、学研から「ミュージック・エコー」という音楽雑誌が出ていて、これに毎月、17センチ盤のLPが付いてくるのです。外国人アーティストの場合は日本では知られていない人の録音でしたが、記憶している2つの歌曲特集(ひとつはバリトン歌手による『冬の旅』の抜粋、もうひとつはソプラノ歌手によるドイツの有名歌曲集【シューベルト、シューマン、ブラームスの作品が収録されていました】)は、なかなかに優れた歌唱でした。
オーケストラ曲は日本人の手になるものでしたが、朝比奈隆指揮の『運命』、近衛秀麿指揮の『第九ー終楽章』、秋山和慶指揮の『くるみ割り人形』組曲など、やはり上質なものが揃っていました。当時はレコードショップで売られている17センチ盤は600円から800円したかと思うのですが、この雑誌はそれよりずっと安い値段でしたから、中学生がクラシック作品の知識を増やすには絶好でした。
あるときの付録に付いてきたのが、山田一雄指揮による『モルダウ』だったのでした。・・・当時の私は、まだ、後年この名(迷?)指揮者に大学オケでお世話になる(もちろん、メンバーの一人という小さな存在としてですけれど)とは思いもよりませんでした。ですが、非常に気に入り、すりへるまで何度も聴きました。中間部のピアニシモ(フリッチャイの記事で述べてある、「5)・・・月の光・・・妖精の踊り・・・」の箇所)が、とてもきれいなこと、クライマックスが壮大なことが非常に印象的な演奏でしたが、現在CD化されてはいないようです。CD化されるなら是非また聴きたいと思っております。

自分がオーケストラのメンバーとしての演奏経験は、残念ながら過去2回だけです。



「モルダウ」とは関係がない、といえば関係がないのですが、川、という意味では「モルダウ」にかさね合わせてしまう、子供の頃の思い出があります。
中二で新設校に行くことになった大きな理由は、私の実家が、それまで住んでいた地域の裏手の山を削って造成したところに出来た新興住宅街に引っ越したからでした。
引っ越す前は、その裏手の山の麓から川が流れ出していました。ホンの短い上流は岸辺に土筆が生え、水の中を泥鰌が泳いでいるほどの「清流」で、まだ造成が始まる前は、そこまで行って土筆を摘んだり泥鰌をつかまえて来て味噌汁の具にしたりしていました。山にも、食べられる茸がたくさん生えていましたし、山芋を掘ってくる人もいました。
ですが、川はすぐ、住宅街の方へ流れ込み、そのとたん、生活排水で、それまでのさらさらした水から一変して、ドロドロになるのでした。これは、裏山の造成前からそうでした。
それでも、小学生の間は、そんなドロドロ川を、何人もで連れ立って上流まで遡る。「モルダウ」の音楽とは正反対の方向へ向かうわけです。それで、きれいな上流にたどり着くのが冒険、なのでした。

造成が始まると、上流も、もう泥鰌も棲まず、土筆も生えない有様になってしまいました。
忘れられないのは、いざ自分の家が造成地の方に新築が始まる間際の頃、ふと「そういえば、あの土筆の生えたあたりはどうなったかな」と行ってみた時のことです。
人が訪ねなくなっていたので、一面、丈が伸び放題の雑草が生えていました。それをかきわけかきわけ歩いていき、足下に何かが転がっているのに気づいてふと目をやり、びくっとしました。
転がっていたのは雉子の死骸でした。
「え?」
と、周りにも目をやると、転がっていた死骸はそれひとつだけではなかった、だなんていう言葉では到底いい尽くせないほどの数でした。無数に折り重なって、というのでも、表現が及ばない。うずたかく積もっていたのでした。

そうやって作られた、当初人口2万人を擁したといわれる(ここは記憶が曖昧)新興住宅街も、40年後の今日では、老人世帯ばかりの増加が目立つ場所になってしまいました。ピカピカだったコンクリートのアパート群は老朽化して傾き、昨年完全に取り壊されました。跡地の使用法は、もう決まっただろうか?

自然環境を壊して作った新環境が、たったこれだけの年数・時間でまた破壊されていっているわけです。

環境というものの正体とはなんであって、その破壊とはどうして起きるのでしょうか?

・・・「モルダウ」に似つかわしくない話ですみません。


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2008年11月21日 (金)

父の「影」〜ボロディン「交響曲第2番」から:好きな曲011

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・ボロディン「交響曲第2番」第2楽章〜カルロス・クライバー指揮 シュトゥットガルト放送響


「好きな曲010」で綴った、イッちゃんが死んだ日の夜は、たまたま具志堅用高の防衛戦だった・・・ように覚えているのですが、記憶違いかもしれません。何を見てるんだか分からず、ただテレビの前でぼおっと画面にたたずんでいたのだけはたしかです。

高三になっていた私は、当時は父親との仲は最悪でした。
ひとつ目の原因は、「私と血のつながりがない」祖母(母方ですが、父は婿養子です)と父の関係もこの頃一番ひどいと思われるくらい良くなかったこと(その頃は知りませんでしたが、金銭がらみだったようです。父は給料の殆どを新築した家につぎ込み、自分はせいぜい昼飯代程度しか手元に持っていなかったはずですが、それでも「家なんか建てて、どっかに大金を隠しているんじゃないか」みたいなことを祖母に言われたこともあったらしい。そんなことを言われれば、当然、我慢にも限界がありますよね)・・・理由を知らない私は、私を可愛がってくれる祖母を露骨に嫌う父が、自然と嫌いになっていたことにありました。
二つ目の原因は、進路です。私は高校入学のときから、大学は文学部、と、親に内緒で心に決めていました。「だから、高校のうちに理科系を勉強しておこう」という魂胆で、「理数科」というのに入ったのです。父は、私が当然理科系の大学を目指すものと信じ込んでいて、「大学に行くなら工学部だ、そうじゃなきゃ就職しちまえ」が口癖でした。この意識の食い違いで、よく大喧嘩をして、ある時には電気ストーブを蹴飛ばして壊してしまい、そのまま家を飛び出したりしましたし、しまいには口もきかなくなってしまっていました。

そんな時期の話ですが・・・でもって、時系列で行くと、初めてナマのオーケストラを聴いた話、レコードは雑誌の付録を集めてレパートリーを広げた話、中学の時には地元の大学オーケストラの演奏会に通い詰めるようになった話もしたいんですが、とりあえずすっ飛ばすことにして・・・、日頃露骨に「嫌い合っていた」父との、私にとって忘れられない大きな思い出(幼児期のものも別にあるのですけれど)のひとつは、この、イッちゃんの死んだ日に父がしてくれたことでした。

テレビの前にいる私のところへ、父は無言で一升瓶を持って来てコップを手渡し、日本酒をついでくれました。自分のコップも持って来て、父は手酌でそれに父自身が飲む酒を注ぎました。
そうして二人、そのテレビ番組が終わるまで、ちびりちびり酒をのみながら、黙って並んですわっていました。

大きい思い出、と言いましたけれど、中身はそれだけの話です。



冒頭に掲げた、カルロス・クライバーの指揮によるボロディン「交響曲第2番」は、面白いことに、父でやはり名指揮者だったエーリヒ・クライバーが演奏したものと同じCDに収録されて発売されています。(SWR music CD 93.116)

・エーリヒ指揮のNBC交響楽団の演奏もお聴き下さい。

エーリヒ・クライバーは、ウィーンではない場所のオーケストラでもウィーンの雰囲気を充分に持ったウィンナワルツの演奏をさせられるほどの名指揮者として評判の高い人でした。R.シュトラウスの歌劇(楽劇)『バラの騎士』の録音は、いまなお名盤の評判が高いですし、実際に、モノラル録音であるにもかかわらず、高い評判に値するだけの豊かな音を聴かせてくれ、目には見えない場面を音楽を通じて私たちにはっきりと見させてくれます。
残念ながら、ドイツ音楽で活躍した指揮者は、ナチスの台頭中、ドイツに残ったフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュの方が第2次世界大戦後いっそう名声を高めていったのに対し、皮肉なことに、そのファシズムに反抗を表明し亡命した人たちは、正当な行為をしたはずだったにもかかわらず、戦前の名声を取り戻すことが出来ませんでした。とくに故地に昔ほど受け入れられなくなってしまった典型例はブルーノ・ワルターですが、ワルターはアメリカに新天地を求めることが出来ましたから、まだ幸運でした。エーリヒの場合は、南米に活路を見出しはしたものの、結局は安住の地を再び見出すことが出来なかったに等しかった。1956年という、戦後まだそれほど経たないうちに亡くなったことも不運でした。・・・そうでなければ、彼の音楽性の豊かさは、彼にもっとふさわしい、高い知名度を、現在でももたらしていたかもしれません。

息子のカルロスは、終生、この父を「規範」とし、父を超えようとし続けた、と伝え聞いています。詳しい話はたくさんの刊行物にもあり、ブログなどを捜してもエピソードが出て来ますので、あらためては触れませんが、このボロディンにしても、「バラの騎士」(録画が2種類、現在も入手できます)にしても、父の重要なレパートリーでした。2回タクトをとったウィーンフィルのニューイヤーコンサートで採り上げたJ.シュトラウス作品、またしかり、です。彼のレパートリーは極めて限定されたものでしたが、
「父を超える演奏が出来ないものは、自分はやらない」
と、心に決めていたのでしょうか?

是非、もう一度、親子の演奏を聴き比べて見て下さい。・・・2拍子のスケルツォです。

・父(エーリヒ)

・子(カルロス)

・・・化学者としても第一人者でありながら、音楽家としてもロシア国民楽派(五人組)の中で、リムスキー=コルサコフの先輩として最も優れた作品を残したボロディンの、ずっと弾きたかったシンフォニーですが、実際に弾けたのは社会人になってだいぶ経ってからでして、しかも、その時の演奏とは成功とは言いかねましたので、リベンジしたいと思っております。
小学校時代にたまたま、珍しい20センチ程度の赤い半透明のレコード(30センチ版でも同じ創りのものがあり、EMIのエンジェルレーベル独特のものでした)で中古屋さんで見つけて来たのが、私とこの曲との出会いでした。珠算検定の帰りでした。・・・後先になってしまいましたが、じつは、ベートーヴェンとドヴォルジャークに次いで3番目に知った交響曲でした。


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2008年11月18日 (火)

ホントの初恋は辛かった(ベルリオーズ <断頭台への行進>):好きな曲010

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・・・是非、お目通し下さい。



ファジル・サイのつくば公演もお聴き逃しなく!
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従来の話題も復帰すべく怠らず勉強しておりますので、そちらはしばしご猶予下さい。モーツァルトは、短期しか滞在しなかったにもかかわらず、マンハイム時代の関係書簡が膨大で、純粋に「音楽」だけを観察して割り切ろうかどうか迷っています。もう一方の、感覚と音楽の関係については、読み解く道具の基本的な勉強にまだまだ時間がかかりそうです。・・・藤原定家関係は千五百番歌合が一向に読み終わらず、1年が経とうとしております・・・(T_T)


86176bf0d291fa62吹奏楽部のない新設校は不満でしたが、その発散に、私は友達連中に誘われるまま、部活動を4つ掛け持ちする、という暴挙を冒しました。陸上部・剣道部・音楽部・それから、男子部員が一人しかいない、と心細がられた友達の泣き言に釣られて、センスもないのに美術部。・・・もちろん、どれひとつとしてものになりませんでした。いつどこで何をしているか分からないから正部員扱いはされませんでしたし、それで気楽に、昨日は走った、今日はしないを振り回す、明日は仕方がないから油絵でも描くか、と、勝手気ままもいいところでした。
そんな生活を送って1年経ち、中3の時には大きな出会いも経験しました。
私の市と「音楽姉妹都市」だと言う長野県中野市に市の代表として行き(私の学区は当時、市が最も力を入れていた新興住宅街でした・・・今では陸の孤島化して老人世帯ばかりになってしまっています)、自己流でヴァイオリンの製作を続けているOというおじさんとも出会い、以後大学2、3年の頃、Oさんの奥様が亡くなるまで、家族ぐるみで交流することになったりしました。ヘタクソきわまりないのに、この出会いがきっかけで、同じ時中野市に行った、こちらは正真正銘エレクトーンのうまかったEさんと一緒に地元のテレビに出演させられたりしましたし、Oさんから自作の寄贈も受けました。(Oさんの若い頃の話は、その後児童向けの本にもなりました。)今思うと、大それた出来事でした。この時の同行者には、その後東北のピアノコンクールで優勝したS.T女史(私と同じ歳です)もいましたが、いい育ちであるにも関わらず、カラッとした親分肌の性格で・・・いまどう過ごしているかな、と、ふと思い出すことがあります。

こんな頃に、岩手から転校生が入って来ました。美人、とまではいかなかったかも知れないけれど、目鼻立ちのくっきりした、髪の毛が栗色の、話すと気さくな子でした。席替えでも不思議と同じ班になることが多く、今度はラブレターなんか書くことはありませんでしたが、傍にいると気持ちが落ち着くような、反対に落ち着かないような、妙な気分ばかりを味わいました。イッちゃん、とみんなに呼ばれたこの子が、いつも心から離れなくなっていました。
「こいつがホントの恋、ってもんか」
というので、熱中したのがこの曲です。

・ベルリオーズ「幻想交響曲」(今回掲載は第4楽章「断頭台への行進」)

アンドレ・クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団 KING K32Y 183


中学で一緒の間、イッちゃんとは上手くいっていました。・・・というより、イッちゃんの存在が他の何よりも私の慰めでした。というのも、働いていた母に代わって私を小さいときから育ててくれた祖母が、私とは「血のつながりがない」ことを、中2のある日突然聞かされ、しかも祖母と母の間がうまくいっていないことを知らされ、アタマも心も混乱していたからです。大人になってみれば、どんな家庭でもなにかしらの葛藤があるのは自明だと理解できますけれど、まだ十代半ば程度の人生経験では混乱していた自分の気持ちをどう整理していいのか分からず、訳の分からない本を買って来ては授業中に机の下で読む、という習慣は、このころいっそう強まっていました。・・・あるとき、こんどは年輩の国語の先生から職員室に呼びつけられ、おそるおそる出向いてみたら、先生、引き出しを開けて 「しょうがねえなあ」 と、当時で二千円分ほど(と記憶しています)の図書券をくれた、なんてことがありました。イッちゃんに会うまでの自分は、気持ちの根っ子では、本と音楽以外に慰めがありませんでした。

イッちゃんと会った後、一番嬉しかったのは、美術の時間にある友達が私のイーゼルの足を間違って折ってしまった時に、泣きそうになったその友達に「気にしなくていいよ」と声をかけたら、あとでイッちゃんがにっこり、「ken君、優しいんだね」と言ってくれ、舞い上がってしまっちゃったときでした。
中学での恋愛経験なんて、さほどのことも出来ず、大袈裟な思い出はありません。ただ、高校受験が近づいた時、イッちゃんと僕は「同じ高校に入ろうね」と約束したのでした。
ところが、イッちゃんは頭が良かった。かつ、私たちの市は男女別学が多かった。
イッちゃんは賢いから、親御さんや先生にも「将来性」を説得されたのでしょう、若尾文子が在学していたことがあるので知られていた名門女子高に入ることになりました。私はせめてその学校の近くの高校に入れるように、3年生の暮れから重い腰をやっと上げて夢中で勉強したのですが、もう追いつけるほどの学力を付けるまでには至りませんでした。それでも、自分としては最大の難関校に合格しました。合格発表後に学校に報告に行ったとき、イッちゃんとすれ違いました。
「おめでとう」
とイッちゃんは言ってくれたけれど、約束違反をされた、という思いでいっぱいだった私は、イッちゃんにお祝いを言うことが出来ず、そっぽを向きました。イッちゃんと言葉を交わしたのは、それが最後でした。

それから3年、どんな理由からだったのか、とうとう分からなかったのですが、イッちゃんは自分の家の物置で首を吊って自殺しました。人づてに聞いた話では、中3で転校して来た当時にはすでに、イッちゃんは何回か手首を切ろうとしたことがあったのだそうです。・・・ほんとうに中学生の頃からそうだったのか、もしかしたら、あの、私がお祝いも言わないですれ違ってしまったことが原因なんじゃないか、と、これは自分が働き出して「人生損な甘くも簡単でもない」ことを思い知らされるまで悩みました。

Y.Kさんに抱いたほんのりした好意とは違う気持ちを、私はイッちゃんに持ち続けていたのですね。
これが、だから、私のほんとうの初恋だったのだと思っております。

余分な話で長引きました。



私の初恋は、しかし、ベルリオーズのように熱狂的なものではありませんでした。女優に恋をして、無名の自分を売り込むために必死で書かれたという伝説(まあ、事実に限りなく近い伝説ですが)を持っていたのを知って夢中になった『幻想交響曲』は、私は「好きな曲009」でご紹介した「アルルの女」の指揮をしているマルケヴィッチの録音で愛聴していました。
『幻想交響曲』にはフランス系指揮者のもとでなされた録音にはシャルル・ミュンシュのものを始めとした名盤が目白押しで存在するのですが、今日掲載した演奏は、アンドレ・クリュイタンスというベルギー生まれの名指揮者がたった一度だけ来日した1964年に東京文化会館で残した録音です。
この録音、なかなか面白くて、ヴァイオリンがミュートを外す「コリコリッ」なんて音まで入っていたりしますが、私が少年〜青年時代に聴いたオーケストラの響きがします。それは、古楽派であるかモダン派であるかを問わず、現在では経験できない、豊かな倍音が会場に充満するような音でした。ナマで聴けなかったことが返す返す残念ですが、この録音の当時は私は幼時でしたから、仕方ありません。
同じ来日時にラヴェルを演奏したのを聴いた方の経験談がありまして、そのときは、「ダフニスとクロエ」第2組曲が、まだ音が鳴り出すのが聞こえる前から、空気が波立って押し寄せてくるのを感じたそうです。
クリュイタンスは、ベルリンフィルが初めて自分たちの<ベートーヴェン交響曲全集>の製作を企画したとき、彼らが選んだ指揮者でもあります。日本で最も「偉い」らしいクラシック音楽評論家Y氏の評論では、クリュイタンスのベートーヴェン演奏はものたりない、ということになっていますが、これには正直言って腹が立っています。「自分たちにふさわしい」ベートーヴェンに取り組むにあたって彼らが選んだ指揮者は、カラヤンでも他の指揮者でもなく、クリュイタンスだった、ということを、もっと考えて頂きたかった。ベルリンフィルのメンバーが「ごついばかりがベートーヴェンじゃない」ということをしっかりアピールしたかったのではないかと思います。全部の交響曲がオーケストラの意図にかなう結果ではなかったとしても、第4・第7・第8は今なお、ベルリンフィルが残した、これらの交響曲演奏の最高傑作だ、と、私は信じて疑いません。
ベートーヴェンの交響曲全集は、現在は国内盤では手に入りません。
「幻想交響曲」とラヴェルの演奏は新装版となって再発行されています。

なお、私の「幻想交響曲」初演奏は、大学1年の春、小林研一郎さんの指揮の下で経験させて頂きました。セカンドヴァイオリンの最後列でした。


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2008年11月15日 (土)

「アルルの女」組曲の成立事情(ビゼー):好きな曲009

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従来の話題も復帰すべく怠らず勉強しておりますので、そちらはしばしご猶予下さい。ひとつは下書きにかかれるところまでたどりつきました。
・・・なお、昨日はブログはサボりました(って、私が勝手に日課にしているだけで、恒常的に読んで下さるかたはわずかですから大した問題ではないのですが)。昨晩、「第6 回アジアオストミー協会の大会」レセプションで14人の選抜メンバーで初日レセプションに出演させて頂け、遅くまで暴飲暴食までさせて頂けたおかげさまでございます。協会の運営に尽力しているTさん、それをフォローして懸命にメンバー集めをなさり、滞りなく当日のセッティングまで汲んで下さったOさんの、誠実さと堅実さがなかったら、メンバー自体そろうかどうかも危ういところでしたが、パーティー会場での演奏としては本職さんに遜色ない出来で演奏を終えられた(なんて言ってしまったら本職さんには大変恐縮ですが)のも、ひとえにお二人のご人徳によるものです。この場で心から御礼を申し上げておきます。


180pxgeorges_bizetさて、私は小6の時には既に某フランスのモラリストの『恋愛論』を読んでいた(スタンダールの、ではありません)ませガキで(そのくせ女の子に対しては奥手でした)、当時既にラッセル『哲学入門』みたいな本まで買って来たりしていました。まあ、本棚だけ見れば「天才かも知れない」なのですが、実体は読んでも中身が分からないから途中で放り出すのですから、妙な本を買ってくる小学6年生〜以降、同様、だったのですけれど。
中学校では授業に退屈すると机の下に隠して本を読んでいる。先生はたいてい気づかないフリをするのですが、やっぱりそこは時々お灸は据えなければいけないから、中1のあるとき、保健体育の先生が、授業に関係ない本を夢中で読んでいる私の手をひょい、と取って、何の本を読んでいるかをしげしげと眺めて、
「うーん、ホントは怒りたいんだけどなあ。怒れないんだよなあ。おまえ、真面目な本しか読んでないからなあ。困るんだよ。この次はマンガにしてくれ」
・・・その時読んでいたのは『象形文字入門』でした。

そんな変わり者ですが、思春期ともなれば、変わり者でも普通に異性に恋したり、とかいうことに憧れます。・・・『恋愛論』を初めて読んだ頃は、ほんとうはまだそこまでいっていなかったんですが、中1の時には「これが初恋ってヤツかな」というのはありました。で、周りがなんだか知らないけれど応援してくれて、相手の子(イニシャルY.Kの、背の高い美人さん・・・細面で、切れ長の目で、口元がキリッとしていました。今もきれいだろうな)と一緒に学級委員に仕立て上げてくれました。にもかかわらず、この初恋、私が新設校にうつらなければならなくなる直前、その子といつもくっついていたTという子に「勇気出せよ」と半ば強いられて初めて綴ったラブレターなるものの返事をもらって、まあ、こういうときは年齢からして男の子の方が幼い分言葉がストレートになるし、女の子はやっぱりもう大人の感覚を知りはじめているから、冷静な文を書く。後から思い出すと断りの返事ではなかったのですが「とりあえずはいい友達でいようね」みたいな意味で書かれてあったのを読んだ瞬間に、「ああ、ダメなのかな」と思い込んでしまって、「初恋らしきもの」は終わってしまいました。

そんな頃は、その子の家のあるあたりは線路沿いでしたが、そこから後は一面の田んぼでした。
私の育った仙台は、初春や初夏の頃は霧が濃かった。好きな子の家のまわりが霧に囲まれる風景を、この曲を聴くたび思い出し、今でも胸がキュンとすることがあります。中1のときの学校の鑑賞曲だったんです。
・・・家内の育った実家(今は引っ越してしまっています)が、そういえば、この子の家のあたりと煮た風景でした。家内に「ひっかけられた」のは、今思うとこの風景という伏線もあったのかもしれません。どっちが美人だったか、というと、やっぱり、Y.Kさんに軍配を上げちゃうな。

・「アルルの女」第1組曲から「カリオン」(ビゼー)

イーゴリ・マルケヴィチ/コンセール・ラムルー管弦楽団 PHILIPS 17CD-28

マルケヴィチは日本のオーケストラの演奏力向上にも大きな役割を果たしてくれた人です。ほんとうはモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団(前任フレモーから音楽監督の地位を引き継いだモンテカルロフィル、との演奏ではなかったと記憶しています)と録音したLPが13歳当時の私の愛聴盤でした(頂き物でした)が、今、それを持っていませんので。。。甘く流されない、締まった演奏であるにも関わらず、中間部は彼の作り上げているこの「情緒」でないと、私には「ちょっと、違う」になってしまいます。作曲家としても優れた作品を残しているのですが、20世紀の他の「作曲家兼指揮者(フルトヴェングラーしかり、少しは報われましたがバーンスタインしかり、です)」同様、自作の方では運に恵まれていません。


「アルルの女」は「最後の授業」で有名な(今となっては「有名だった」でしょうか?)フランスの作家ドーデーの短編集『風車小屋便り』の中の掌編がもともとのもので、作者自身がそれをさらに劇に仕立て上げたのでした。
劇になった「アルルの女」を上演する際に付けられたのがビゼーの音楽で、劇場用に作られたオリジナルの音楽も最近はいくつかCD化されています。で、そちらの掲載をする方が、マニアックな私の趣味には合っているんですけれど、劇音楽のオリジナルと言うのは、往々にして音楽だけ聴いても仕方がない、つまらないものです。別の例で言えばグリークの「ペールギュント」なんかでもそうです。 それでも、「アルルの女」上演の時、ビゼーの音楽はとても評判が良かった。
劇の方は、ドーデーにとって最悪の経験ともいえるほど、最悪の評判だったのです。でも、音楽はビゼーの名をおおきく高めるものになった。(Wikipediaでは音楽についても「評判は芳しくなかった、6年後の、ビゼー死後の再演で初めて評判になった、とあるようですが、戯曲と音楽を一緒くたにしているようです)。
もともと劇場や予算の制約で小規模なオーケストラ用にしか曲が作れず、不満もあったのでしょう(これは推測です)、ビゼーは音楽は好評だと見てとるや、すぐさまそれを、オリジナルの断片をうまく繋ぎ合わせなおしたりして、4曲からなる「第1組曲」に仕立て上げました。第1曲「前奏曲」は有名な民謡を素材にラヴェルの先をいくような旋律を変化させない(1回だけ長調にしますが)変奏曲とそれに続くファンタジーに仕上げ、素朴なメヌエット(宮廷的・ブルジョア的な性質を抜いたメヌエットは、それ以前のものとは名前が共通するだけで、別種の音楽と考えた方がいいと思います)を第2曲に置き、劇中では老いた「元恋人同士」再会の場面で使ったアダージョを配置し、終曲としたのがこの「カリオン」です。
4曲構成にしたのは、楽曲の配置からみても(2曲目がスケルツォ的なメヌエットであり、3曲目が緩徐楽章ですからなおのこと)おそらくは「交響曲」を意識していたのではないかと思われます。この点で、彼の死後に友人のギローが編んだ第2組曲にはない、作曲者自身の強烈な意図の力を感じます。
ビゼー自身は31歳で結婚し、36歳で亡くなりました。私の家内の結婚生活の3分の1しか、夫婦生活の幸せを持てなかった。
「アルルの女」への音楽は、33歳の頃の作品です。

私は、高1から始まったアマチュアオーケストラ団員生活の2年目に初めて、2つの組曲の全曲演奏に参加しました。


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2008年11月13日 (木)

これでいいの? 吹奏楽の最近の動向(ホルスト:組曲第1番から「シャコンヌ」):好きな曲008

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現在の精神上、かつ、手をつけてしまった教材の難しさから、なかなかメドが立ちませんが、従来の話題も復帰すべく怠らず勉強しておりますので、そちらはしばしご猶予下さい。
とりあえず、前回の「イタリア」の見直しが終わり、手がけはじめましたが、明日もまだ間に合いそうにありません。。。モーツァルトは曲の背景をより知るためには書簡も読みたいけれど、これは半ば断念、という感じです。分量的に、荷が重いです。


さて、ヴァイオリンを始められたはいいけれど、一体全体、どこに「入れてくれる」オーケストラがあるかはさっぱり分かりませんでした。私の育った市には、この頃はまだ、大人の地元オーケストラもなかったと記憶しております。当初あるのが分かったのは大学オーケストラだけでした。社会人オーケストラは私が中学生になって少ししてから出来たように思っていましたが、今調べたら図星でした。最初はアマチュアとして発足し、5年後にプロになった時には、実際にはまだアマチュア時代から継続して参加していたメンバーもいました。プロになったあと、大学生になっていた私はこのオーケストラの演奏旅行にアルバイトでくっついて行きましたが、その時の笑い話は、またチャンスがある時に。


F9a5d8cbf36cdf9a手軽に入れるオーケストラはありませんでしたが、中学校に入れば吹奏楽部がありました。
ヴァイオリンを手に出来るようになったころ、1,000円(もっと安い900円のものもありました)でLPが手に入るようになり、少しずつ集めはじめたのですが、最初は定番の「運命/未完成」、次がベートーヴェンの「第九」、3番目がやっぱりベートーヴェンの序曲集、次にようやくモーツァルトのレクイエム(ベーム/ウィーン交響楽団の演奏を疑似ステレオ化したものでした)、で、5番目がベイヌムの指揮するコンセルトゲボウによるマーラー「大地の歌」でした。ちなみに、ベートーヴェンの序曲の中で最も好きだったのは「コリオラン」です。
こうやって並べると、モーツァルトを除いて、ある共通点があることに気づいて頂けるでしょうか?
・・・そう、ホルンにカッコいい、あるいは素敵なソロもしくはユニゾンが含まれているのです。

で、ホルンなら吹奏楽部でも吹けます。楽器も借りられましたから(当時は楽器を自分持ちしている吹奏楽部員は稀でした)、儲け物でした。入学して早々、「ホルンをやりたい」と出掛けていったら、「ホルンを志望してくるなんて珍しい」と、即、楽器を渡され、練習を始めることが出来ました、

やっているうちに、吹奏楽もいいなあ、と思うようになりました。
それは、先輩たちが前の年のコンクールで演奏したこの曲にホルンの素晴らしいパッセージがあったから、というだけでなく、この曲がオーケストラ曲と遜色のない色彩を持った優れた作品だと感じたからです。

・吹奏楽のための組曲第1番から「シャコンヌ」(ホルスト)

「吹奏楽大全集Vol.9」航空自衛隊航空中央音楽隊 CROWN CRCI-20357

残念ながら、1学年15クラスあったマンモス校のこの中学校は翌年新設校に学区を分割することになっていて、私の実家はそちらへ転居してしまいました。新設校はブラスバンドを作りませんでしたので、私の正式の吹奏楽生活は1年で終わらざるを得ませんでした。ですが、そのあと1年間だけは、私を可愛がってくれた部長さんの裁量で楽器を借り続けることが出来、ホルン自体は2年間吹けました。その2年間、同学年のヤツを無理やり引っぱり込んで文化祭のステージでベートーヴェンの第8交響曲第3楽章をのトリオを吹いたり、同じくベートーヴェンのホルンソナタに手を出したり、と、結構無謀なこともしましたが、今振り返ると「よく吹けたなあ、今より音楽のセンスが良かったんじゃないか」と思ってしまうほど、難度の高い低音のF以外は不思議に吹きこなせました。
ホルン自体は吹いてもみっともない音が辛うじてするだけ、という状態になって久しくなりますが、ベートーヴェンのソナタの第1楽章の半分くらいは、今でも暗譜している・・・気がします。



ホルストはもっぱらオーケストラの組曲「惑星」、中でも「木星」(最近は「ジュピター」というとモーツァルトの交響曲よりはこっちを思い浮かべる人のほうが増えてしまいましたね)で有名ですが、弦楽合奏の「セントポール組曲」や、上の「吹奏楽のための組曲」2つなどでも、巧みな楽器法で印象深い旋律を膨らみのある暖かい音で作曲しています。
ですが、最近の吹奏楽コンクールでは、これほどの名曲が、ちっとも採り上げられません。
「何でだ? こんな名曲があるのに」
と、生前吹奏楽部の顧問をずっと務めていた家内に訊いたら、今は入賞狙いで難曲をこなすことばかりに学校も目が行きがちだから、との答えでした。審査は「難曲を高度な技術でこなす」ことに対して為されているのでしょうか? 本来は、「基礎的な技術を真面目に習得して、どんなシンプルな音楽でも豊かに演奏される」ことこそが審査されるべきなのではないでしょうか? 学校側の見方はともかく、審査するお立場の人たちがどうお考えになっているかによって、これからの日本の子供たちの演奏する音楽の「豊かさ」の質が決まる気がします。
それが
・表面上、非常に巧みであるし、少々薄手でも見逃していい程度のもの
に過ぎないものになるのか
・素朴ながらも堅実に音の響きを体得した、本来的な厚みを持つもの
として地に根を張ったものになるかは、「大人たちの耳」次第ですね。

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2008年11月12日 (水)

ご存知でしたか?「エロイカ」変奏主題のオリジナル(ベートーヴェン):好きな曲007

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現在の精神上、かつ、手をつけてしまった教材の難しさから、なかなかメドが立ちませんが、従来の話題も復帰すべく怠らず勉強しておりますので、そちらはしばしご猶予下さい。


さて、いざヴァイオリンをやりたい、と言い出しましたら、
「ウチみたいな身分の者がやるモンじゃない」
と大人全員に一蹴されました。
「楽器だって、高いんだし。月謝も安くないだろう」
・・・お金がいくらくらいだと高くていくらくらいだと安いのか分からない小学生には、そう言われてもピンときません。それまでせいぜい、10円握って、近所の駄菓子屋(まだ結構ありました)の糸で引っ張る飴をどうやったら一本余計に手に入れられるか、とか、くじ引きひとつ誤摩化して余計に引けるか、とか、その程度のことしか、お金の使い方は考えられない。プラネタリウムに通うようになって、バス賃がいくらだとか天文台の入場料がいくらだとか、それでようやく百円単位のお金を知った程度でした。
「じゃあ、月謝だけでも自分で稼ぐし、楽器代は貯めて後で返すから」
それで、ほんとうは中学生にならなければ出来ない新聞配達を、従兄のつてを頼ってトシを1年ウソをついて始めたのが小6になったかならないかの頃でした。・・・月謝は稼ぎましたが、楽器代は親には返しませんでした!
新聞配達をやることが前もって決まって、先生を自分で捜してくることを条件にされて、ヴァイオリンを習えることになりました。ただ、結果的に3年弱しか習いませんでした。情報がないですから、見つけて来た先生は幼稚園を借りて教えている人でしたが、2年くらいは順調に進んでいたレッスンが、ある日突然
「ヴィブラートをかけられるようにならなければこの先には進ませない」
と言われ・・・そうでなくても自分で勝手に教本の先をどんどんやっていたのに、たいして「どこがいい」とも「悪い」とも言ってくれない先生でしたので、冗談じゃないや、と思ってやめました。なにせ、その肝心の「ヴィブラート」って、どうやったらかかるのか、僕に教えられなかったのです。いま思い返すと当然で、まず、左手の教え方を間違えていました。御承知の通り、ギターと同じで、ヴァイオリン属も左手で弦を押えるのです。弦が張ってある部分をネックと言いますが、先生は私にそのネックを「握りしめるように」して持ちなさい、と教えていました。握りしめてしまったら、左手首が固定されてしまいます。指も決まった場所におろしたら最後、前後に揺さぶったり押える強さを変えたりすることが出来ません。左腕全般がこわばるので、肘から上全体が、まるでギブスをはめられたも同然に動かなくなります。
ヴィブラートには大まかに指のヴィブラート、手首のヴィブラート、肘のヴィブラートの3種あって、使い分けも可能なのですが・・・こんな押え方では3つのどれを使うこともできなかったわけで、先生を見限ったのは、申し訳ないけれど正解だったと思っております。


3244706208やっとオーケストラへの夢に一歩近づけることになった私の家に、昨日お話した以外に、大曲のLPがもう一枚だけありました。
ベートーヴェンの、交響曲第3番「エロイカ」でした。
いまでは覚えている人が少ないかもしれませんし、当時の私も知らない人物(って、当時はどんな音楽家が有名かなんて一切知りませんでしたけど)が指揮していたもので、オーケストラがどこかは忘れましたが、堅実ないい演奏で、「長い」などとは思わずに、いつも夢中で聴いていました。
この堅実な指揮者の名前は、パウル・クレツキと言います。日本人にとっては馴染みが薄いでしょうか、そんなにCD化された演奏を見つけていませんが、有名曲を初めて聞く時に、モノラルでも構わなければ、この人が指揮している演奏があったら絶対に「買い」だと思います。作品の構成を地道に解析して、良心的な演奏をしています。派手さはないから、同じ曲をあとで別の指揮者のもので聴くと「クレツキのは地味すぎたんじゃないか?」という印象を受けるかもしれませんが、「作曲家が書いた音楽は本来こういう<創り>だ」ということをきちんと示してくれる、という点では第一人者で、他の派手な演奏で煙に巻かれたら、クレツキの指揮した演奏に戻ってみると、「ああ、そうだったんだっけな」と整理しなおすことが出来たりします。

で、この「エロイカ」、アマチュアで、とはいえ、実際にオーケストラを始めてからは、自分の人生の節目節目に大きな位置を占める曲になるとは、その頃は知る由もありませんでした。
両極端だけを上げますと、初めてオーケストラで弾いた交響曲であり、家内が生前最後に聴きにきてくれた演奏会で奏でた交響曲でもあったのです。



出し惜しみしてしまいました。

「エロイカ」は1803年の作品ですが、フィナーレが彼の大好きだった(とされる)テーマの変奏曲を持って来ていることでも知られています。同じテーマはやはりピアノでも変奏曲(1801年)となっており、このピアノ独奏曲も有名です。
・・・ですが、「オリジナル」のほうは、聴いたことがある人は、あんまりいないんじゃないかと思います。
ですので、今日は、その「オリジナル」をお聴き頂きます。

・バレエ音楽「プロメテウスの創造物」から終曲(ベートーヴェン、1800年)

ギュンター・ヘルビーク/シュターツカペレ・ベルリン ETERNA(BERLIN Classics) 003642BC(ドイツ)

・・・どんな印象を受けて下さるでしょう?

ベートーヴェン2作目の管弦楽曲です(1作目は第1交響曲)。モーツァルトの影響をあまり感じさせない交響曲第1番の方とは違い、全部で17曲ある中にはモーツァルト色が意外なほど強いものもあり、興味深い作品です。かつ、彼の書いた唯一のバレエ音楽でもあります(ダンス音楽はボン時代から作っていましたが、劇音楽としての舞曲の集合体であること、各曲の形式が自由であることから、明らかに舞曲類とは一線を引くことが出来ます)。上演時はかなりの好評で、ベートーヴェンの名をウィーン中に知らしめた、彼の出世作です。機会があったら是非、全曲をお聴きになってみて下さい。


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2008年11月11日 (火)

涙の(?)「スラヴ舞曲」(ドヴォルジャーク):好きな曲006

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日本人からまた女性宇宙飛行士が誕生するニュースが流れていましたね。私がオーケストラっていいな、と思いはじめていた頃は、私にとっては同時に天の星々へのあこがれも強い頃でした。アポロ11号の乗組員2人が月面に着陸したのを、まだ珍しかったカラーテレビを持っていたお金持ちの農家の友達の家へ大勢集まって見せてもらい、感激しました。それが引き金になって、市街の公園にあった天文台のプラネタリウムにひとりでバスで通うようになりました。宇宙飛行士とか天文学者になるのもいいな、なんて妄想を抱きながら出掛けていったものでした。
そのプラネタリウムを操っていたのは、後年、木星の地道な観測を続けた功績で、日本の天文学会で有名になったかたでした。が、当然まだお若くて、プラネタリウムの上映にいろいろ工夫を凝らし、子供だけでなく大人も楽しめる、当時としては最高の演出をなさっていました。星座には中世の星図(星の位置の背景にその星座が表わす人物や動物、ものの絵が描いてあります)の画像の輪郭を重ね合わせて見せ、まず神話のエピソードを紹介し、それから具体的に「この星までの距離は光のスピードで何年」とか「赤い星ほど大きいか、年寄りなんだ」とか、分かり易く説明してくれるのです。そのあいだ、当時の流行曲で星空に合いそうなもの(たとえばサイモンとガーファンクルの「サウンドオブサイレンス」とか)を流すのです。
あるとき、音楽と暮れていく空がピッタリくるオーケストラ曲を流されたのが、「宇宙飛行士」・「天文学者」なんて妄想を私から押し流し、代わりに「オーケストラ、やりたい」妄想に私を埋めてしまったのです。
1937963746ドヴォルジャーク(ドヴォルザーク、と表記されるのがつい最近まで一般的でしたが、私が初めて図鑑でこの人にであった時にはドヴォルジャック、でしたし、現地の発音では「ジャ」が近いそうです。リンク先のKlaviermusikを綴っていらっしゃるDさんがお詳しいです)の交響曲第9番「新世界から」の第2楽章でした。
導入部は、まだ夕焼けです。有名なメロディが続くあいだにドームの中が徐々に暗くなり、だんだんに盛り上がって金管楽器の壮大な和音がなる瞬間に、満天の星をドーンと映し出したのです。

この曲は、幸い、人から貰ったレコードが家にありました。プラネタリウム・ショックを受けた日から、懲りずに絶えず聴き続けました。

で、私を今も続く「妄想」に決定的に引きずり込んだのはこの曲なのですから、これをお聴かせすればいいのですが、この作品、いろんないい録音が出ている上に、人によって好みも違う。CDショップでも見つけやすいですから、もしも聴いたことの無い方は、まずお手に取ってみて頂いて、全曲(4楽章あります)聴いて下さるのが一番いいと思います。

代わりに、オーケストラに引きずり込まれた後で出会った同じ作曲者の曲のなかで、最も好きなものを聴いて頂きます。「好きな曲」のなかでは、初めてのオーケストラ曲です。

・スラヴ舞曲第10番(第2集第2番)ホ短調(ドヴォルジャーク)

クーベリック/バイエルン放送響 Deutsch Gramophone UCCG-3322

・・・これは、たまたま持ち合わせていたCDです。クーベリックは亡命中でしたのでバイエルンのオーケストラと録音していますが、指揮者は違って構いません、できればチェコフィルの演奏でお聴き頂くことをお勧めします。可能なら,、すぐに手に入るノイマン指揮のものではなく、もう少し古いターリヒかアンチェルが指揮したものを、より強くお奨めします。ノイマンが嫌いだから、ではありませんで、チェコフィルの音を育てたのがターリヒ、アンチェルだからです。この指揮者たちによる録音の方が、チェコが本来持っていた魅力がよく伝わって来ます。



ドヴォルジャークは優れたメロディメーカーでしたから、歌曲でも「母の教え給いし歌」、器楽曲でも「ユモレスク」、弦楽四重奏では「アメリカ」、協奏曲もチェロを筆頭にヴァイオリン、ピアノも聴きやすい作品を残しました。「スタバート・マーテル」のような素晴らしい宗教曲もある一方、交響詩や標題序曲を筆頭に、小規模な管弦楽曲や弦楽セレナーデなど、19世紀チェコではもっとも親しみやすい作品を多くものにした人であることは・・・とっくにご存知ですね。
「スラヴ舞曲集」は、その中で最も「短い」作品の集合で、個性に溢れた民族舞曲集です。2集ありますが、第1集はブラームスの紹介で彼の作品を出版することになったジムロックが、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」を真似て創作するようドヴォルジャークに依頼したものでした。今日掲載した曲を含む第2集は、ためらうドヴォルジャークを急かし続けたジムロックに根負けして、それでも第1集の8年後に作曲・出版したものです。オリジナルは4手のピアノ用です。・・・曲そのもののムードについて、あえて駄弁を弄するのは避けておきましょう。ただ、私がこの曲を初めて弾いたのは大学生のときだったこと、以来、他のスラヴ舞曲は演奏する機会があっても、この曲の美しさを実現するのはあまりに難しいためか(オーケストレーションは第8交響曲に近いのですが、ディナミーク【強弱感】の違いがこちらの舞曲により高いデリカシーを要求するのです)、そう何度も弾けず、残念に思っていることのみ、付け加えておきます。それでも、大学時代には3回弾けました。どのときも、ヴァイオリンなんてたくさん人数がいるにも関わらず、まわりの先輩が「おまえの弾き方、いいねえ!」と誉めてくれたのが、先輩たちとは葛藤を感じさせられた辛い思い出の方がたくさんある私にとっては、珍しくいつも喜びをもって回想できることに、いまは感謝をしております。


話は変わって、「新世界より」は4つあるどの楽章も、非常に魅力的です。実は、私は自筆譜のファクシミリも持っているくらい好きなので、出来ればファクシミリも見て下さい、と言いたいところですが、なにぶん高価です。
CDで一般に評判がいいのは、指揮者で言うとケルテス、セルあたりのようですが、私の最も好きな演奏はフィレンツェ・フリッチャイによるものです。最近のかたの演奏は、知りません。・・・周りの方のご感想も参考に、ご自身のお気に入りそうなものを見つけて下さればよろしいかと思います。

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2008年11月10日 (月)

菩提樹(シューベルト):好きな曲005

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・菩提樹〜「冬の旅」第5曲(シューベルト)

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ/イェルク・デムス(1965)
Deutsch Gramophone UCCG-5080


「歌ってばかりいた」話ばかりですみません。
今回あたりが、「歌う」ことからもう少し世界が広がっていく転機につながっていくところです。

2738625885歌集の中で、フォスターの歌と同じくらい好きだったのは、シューベルトの「菩提樹」でした。
ただし、歌集にある楽譜では、今日掲載した全曲が、ではなく、中間の激しい表情の部分は含まれていず、メロディも少し違うところがあります。
ただ、フォスターが「賑やか系」か「しっとり系」で感情が入り込みやすかったのに対し、「菩提樹」は、歌っていると、どことなく「大人になった」気分を味わえる、特別な雰囲気を持っていました。ですので、歌詞を忘れたたくさんの歌の中で、今でも最初のワンフレーズの歌詞を覚えている、という、貴重な存在であり続けています。

小学校でも「鑑賞曲」というのでいろいろ聴かされるようになり、シューベルトという作曲家の名前も知りました。実は、その頃は、運動音痴でもプールで長距離泳ぐのだけは得意で、当時は
「補欠でもいいから水泳の選手に仲間入りさせてもらいたい」
と思っていたのですが、音楽の先生に無理やり合唱団に入れられて、残念ながら水泳の選手になれず、授業の音楽は大嫌いになっていました。
授業が嫌いな分、「鑑賞曲」にはのめり込みはじめ、シューベルトにも「軍隊行進曲」と言うのがあるのを知りました。あとで分かってみると、この曲はピアノの連弾曲だったのですが、当時聴いたのはオーケストラでの演奏でした。
・・・人には「プラネタリウムで聴いた<新世界>の第2楽章が印象深かったから」と話して来たし、決定的だったのはたしかにそのことだったのですが、その話はまたします。
ですが、オーケストラにのめり込んだのは、なんと、オーケストラ編曲版の「軍隊行進曲」だったのでした。いま思い返すと大した編曲ではなかったのですけれど。
それから、オーケストラに入るにはどうしたらいいか・・・人数が多い楽器ほど入れてもらいやすいんじゃないか、と数を数えたら、ヴァイオリンがいちばんたくさんいるのが分かったのが、あとでヴァイオリンを始める結果となったのでしたが、同時に、別にヴァイオリンに興味があってオーケストラで弾いていたのではない、という<へんてこな>プロフィールを歩むきっかけになったのでした。

ともあれ、私の「アマチュアオーケストラ」生活のスタートを切らせてくれたのは、「菩提樹」の大人びたメロディの魅力と、編曲で聴いた「軍隊行進曲」の、いくら安っぽいとは言っても、おそらくはシューベルトという人の才能がもたらした、厚みもありながら軽やかさも兼ね備えているという、不思議な魅力でした。

「水泳が出来ないなら、学校の連中とは違うことを!」
みたいな、子供ながらの意地っ張りも合ったのかな。

でも、ヴァイオリンを手に出来るまでの道程は、子供ながらに平坦ではありませんでしたけれど。
それは、また。


歌集に載っている「菩提樹」は、おそらく今でも、シューベルトが作曲した通りのものではなく、最初の長調のメロディをすこし変形して3番までの有節歌曲(同じメロディを何回か繰り返して歌うもの。誰にでも身近な例は、学校の校歌でしょうね・・・校歌を「歌曲」と言っていいなら、ですけれど)になっています。合唱でも、そのかたちで歌われます。

なぜ、合唱では中間の激しい部分が削られたのか?

最近出た伝記に、その理由がキチンと推測されていますけれど、シューベルトの歌曲には勿論有節歌曲もありますが、名作の殆どは清らかで親しみやすいメロディで始まっていあるにもかかわらず、中間部やロンド部分に激しい表現を示しているため、そこまで含めて聴いてしまうと、清らかさとは程遠い、人間の正直な感情があまりに露わになるからです。

「冬の旅」でも、他には第11曲「春の夢」が代表的な名曲です。
一方で、ほとんど有節歌曲でありながら、繰り返されるうちに情感が深まっていく第1曲「おやすみ」、最終(第24)曲「ライエル弾き(ライアー回し)」といった魅力的な歌が揃っています。・・・それらすべてが悲哀感に溢れた美品ですけれど、私がそのことを知ったのは中学生になってからでした。

バイロイトの名ワグナー歌手だったハンス・ホッターが前線を引退したとき、この「冬の旅」をひっさげて日本にもやってきて、全曲演奏会を何度も開きました。
彼の歌で聴きたいところですが、手持ちがありません。

同じくこの歌曲集を愛したフィッシャー=ディースカウが3度目に録音したときのものでお聴き頂きます。彼は、歌詞の意味をよく捉えた歌いぶりに遺憾なく才能を発揮した人で、マーラーの「さすらう若人の歌」をこの人の歌で初めて聴いた時には仰天させられました。

Am Brunnnen vor dem Tore,              門前の泉に
Da steht ein Lindenbaum,                立てる菩提樹、
Ich träumt in seinem Schatten             陰でほの見た
So manchen süssen Traum.               夢の数々。

Ich schnit in seine Rinde                幹に刻んだ、       
So manches liebe Wort;                 愛の言葉を。
Es zog in Freud' und Leide Zu ihm mich immer fort.   嬉しきにつけ、悲しきにつけ。

Ich musst' auch heute wandern             行かずにいられぬ
Vorbei in tiefer Nacht,                  深い夜でも。 
Da hab' ich noch im Dunkeln              闇であるのに
Die Augen zugemacht.                 目を閉じたまま。

Und seine Zweige rauschten,              枝はざわめき
Als rriefen sie mir zu:                  ささやいている。
Komm her su mir Geselle,                「おいで、ここなら
Hier Findst du deine Ruh'.                 君はやすらぐ」

Die kalten Winde bliesen                頬を貫く
Mir grad' ins Angesicht,                 冷たい風。
Der Hut flog mir vom Kopfe,              帽子は飛び去った。
Ich wendete mich nicht.                でも振り返らない。

Nun bin ich manche Stunde              いまは離れた
Entfernt von jenem Ort,                あの木の側は。
Und immer hör' ich's rauschen:            でも聞こえる
Du fandest Ruhe dort!                 梢のざわめき
                            あそこならおまえは
                            憩えるのに
                            あそこならおまえは
                            やすらげるのに、と。
                            
(エスツェットのみ、手持つツールでは文字化けするので、s二つとしました。訳詞は原詩に忠実ではありません。拙くて恐縮ですが、適宜歌に併せたリズムにしてみました。)


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2008年11月 9日 (日)

トロイメライ・・・夢・・・(シューマン):好きな曲004

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・・・是非、お目通し下さい。



ファジル・サイのつくば公演もお聴き逃しなく!
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現在の精神上、かつ、手をつけてしまった教材の難しさから、なかなかメドが立ちませんが、従来の話題も復帰すべく怠らず勉強しておりますので、そちらはしばしご猶予下さい。


おそらく、どなたもご存知の曲です。トスカニーニも娘婿だった故ホロヴィッツが、アンコールで必ず演奏していた、という作品です。私の最も気に入っている・・・というより、尊敬している演奏で。

シューマントロイメライ:「子供の情景」から

ウィルヘルム・ケンプ



歌を一生懸命うたうのは楽しかったですけれど、学校で渡されたハーモニカを通じて、楽器を奏でることの喜びの方が、もしかしたら歌より大きいかも知れないな、という気持ちも、小さい私の中で徐々に大きくなっていました。
今にして思えば、歌であろうが楽器であろうが、音楽というものは手段で価値が変わるわけではないのですが、なによりも楽器は「歌」では出せない高さ・低さの音まで出すことが出来る(人の声やある楽器が出せる音の高さの範囲のことを音域と言いますね)。それで心を表わす幅も、ずっと広がるような気がしたのでした。・・・ですが、
・まず、我が家には小さなプレーヤーがひとつあるきりで、レコードの数も少なかった
・レコードの演奏にしても、後年知ったものに比べると、レベルは低いものが圧倒的に多かった
・とりわけ、日本の合唱の質は(今なおそうですが)ヨーロッパに比べると低いか、異質である
ために、声楽の良さにほんとうに感動する機会は、すこしあとでNHKが毎年招聘するようになった「イタリアオペラ」を初めてテレビで見るまで訪れませんでした。そのテレビも、
「子供が、何でそんなものを」
と言われながら、家族に無理やり頼み込んでみせてもらったものでしたが・・・
とにかく、声楽への感動は、時期としてはあとちょっとだけ後の経験です。

3702461157もちろん、歌うだけでなく、数少ないレコードを繰り返しじっと聴くのも、密かな楽しみでした。歌をうたってもいい時間が過ぎて、寝るまでのちょっとの間、小さな音量で聴くのです。これが、そう言う制約の下だったからでもあるでしょう、何とも言えず夢心地にさせてくれる、大事な時間でした。
まだ「クラシック」に凝る以前のことですし、10歳にもならないうちのことですから、長い曲は無理で、いくつかあった短いピアノ曲(17センチ盤のEPかLPでした)が中心になります。
そのなかに、弦楽オーケストラをバックにした、この「トロイメライ」の演奏がありました。
記憶の中では素晴らしいアレンジだったと思っているのですが、その後実家が転居してから、何度捜しても見つかりません。大学生の時に、千円で入手できたのが、幸いにして今日掲載した、ドイツの名ピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプのものでした。現在は他の曲との組み合わせで数種のCDになってしまっています。

子供の頃は、自分のうちの宗派に関係なく、子供会で、夕方になるとまちはずれ(むらはずれ、と言った方が近いのですが)のお寺の鐘を衝きにいく当番があり、行くと、帰りに、住職さんがお供え物のお菓子を分けてくれるのでした。
「線香臭いな」
「けど、うまいよな」
なんて言い合いながら、歩きつつそれを食べるのが楽しみでしたが、「トロイメライ」には、そうやって衝いてくる鐘の響きをもふと思い出させる柔らかな、厚い綿でくるまれるような暖かみがあって、それもこの曲が好きになる上でおおきかったのではないかな、と思います。

ピアノは、妹は買ってもらえ(実家がそれまでの長屋から戸建てへと転居した後のことです)、先生にも付けてもらえたのに、何故か私は頼んでも頼んでも「ダメ」の一点張りで、とうとう習う機会がありませんでした。ですので、大学時代にケンプのLPで感動するなり、楽譜を買って来て自己流で弾きました。自己流ですから、そのときから何年間かはずっと弾けていたのですが、今はもう弾けなくなってしまっています。いま、楽譜も所有していません。また弾きたいなあ、と思っています。
ただ、弾けていた、という当時の私のピアノは、ケンプの敬虔さをたたえた演奏とは違い、感情の起伏にまかせた大げさなもので、ピアノの達者な1年先輩に「もうちょっとなだらかな曲なんじゃない?」と注意されましたっけ。

この曲には、そんな、音以外の思い出はなにもくっついていません。それでも、他のどんな音楽よりも忘れがたいのは、10歳にもならないうちから50歳を前にした現在まで、一環して大好きな曲であり続けるからだと思います。
結婚して数年して、やっと電子ピアノを買うことが出来た時、家内に弾いて聴かせようと思った時には、もう弾けなくなっていました。ですので、家内は私の弾いたトロイメライは(彼女の耳にとって幸せなことに!)聴いていない、と思います。



精神異常で不遇の最期を遂げたシューマンは、管弦楽曲を書くにあたっても非常に優れたオーケストレーションを施した人物であるにも関わらず、その構成の複雑さから音が濁りやすく、母国でも最近まで低い評価に甘んじざるを得ませんでした。岡田暁生さんの近著「ピアニストになりたい!」に登場する、ピアニストとしての指作りをするための道具をいち早く試した一人であり、結果は指を壊すという失敗に終わったのですが、見方を変えれば、これも、音楽の時流の最先端に常に目を向けていた気鋭の人物だったことのひとつの現れだといえるでしょう。彼の批評が当時の楽壇の若手たちを前向きに刺激し、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、ショパン・・・最初は否定的でしたが結局はワーグナーも・・・といった、先輩、同年輩を含む多くの新世代を精神的にバックアップした功績は、こんにち多くの人が認めている通りです。最後に見出した俊英が、ブラームスでした。
一方で、作品の方は、ピアノ曲・歌曲を中心とした限られたものだけが評価された程度で、こちらは不遇と言わざるを得ません。ピアノソロ以外に好評を保ち続けて来たのはピアノ協奏曲くらいのもので、4つの交響曲が均等にその素晴らしさを認められるようになったのもここ数十年のことです。室内楽は精魂こめたわりには、比較的聴きやすいピアノ五重奏以外にはあまり知られていません。野心作のドイツ語オペラ「ゲノヴェーヴァ」は、ようやく日の目を見はじめたところです。

ピアノ曲も、当時の先端をいく高テクニックを要するものが多いのですが、じつは他のジャンルの作品も、そうしたピアノ曲と構造的に差異があるものではありません。「モノクロ」であるはずのピアノ曲は、とても1台の楽器で奏でられたものとは言えないほど色彩感に富んでいます。
ところが、高技巧で複雑な作品よりも、「子供の情景」のようなシンプルな作品の方で、いっそうその色彩感が表面化しているのは、不思議なことでもあり、シューマンの最大の魅力でもあります。
「子供の情景」は、「トロイメライ」以外のどの小品も素晴らしいものではありますが、じつは1曲1曲を別々に聴くのではなく、全部を、シューマンが書いた通りの順番で、通して聴く時に、初めてその真価が分かります。前の曲から次の曲への繋がりが・・・理屈で言うと、不自然にならない調の関係で・・・なだらかで、ムードにも切れ目がありません。是非、全部通してお聴きになってみて下さる機会をお持ち頂ければ、と思います。(おなじような「森の情景」と題された曲のグループがあり、これもケンプのCDでは一緒に収録されたものがあります。「森の情景」も私の大好きな曲集ですけれど、統一感という点では「子供の情景」には及びません。)


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2008年11月 8日 (土)

「わたしの苦悩は誰もしらない」(黒人霊歌):好きな曲003

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大声で歌うのが大好きだった小学校低学年時代、もらった歌集にたくさん載っていたのはフォスターの曲でした。歌わなくなってからも、フォスターのメロディはずっと好きでした。ですが、それをレコードやCDで聴いたことがありません。
唯一持っていたのは、『黒人霊歌集』で、結婚してから、合唱の指導もしていた家内の影響で買ったこのCDには、フォスターの作品は含まれていません。1曲を除き、作曲者の分からない、19世紀以前からの純正の「黒人霊歌 The Negro Spiritual」で、有名な数曲を除き、私の耳に馴染みのないものでした。
・・・その中から、美しくて、誰の心にも響くのではないかなあ、と(勝手に)感じた曲をひとつ。

「わたしの苦悩は誰もしらない」

ロジェー・ワグナー合唱団  EMI TOCE-8969



通った小学校の近くには、今で言う「孤児院」がありました。キリスト教系の施設で、男の子の方はラサール会が作ったもの(函館ラサールなどを作ったのとおなじ会ですが、こういう事業もやっていたわけで、今もあります)、女の子の方はカトリックの修道院でした。ついでながら、修道院は私の大叔母が私の生まれる6年前に27歳で結核で息を引き取った場所でした。その大叔母の遺骨は、半分は実家の墓に、半分はカトリック墓地に、と分骨されています。今日の思い出話からは10年ほど後の話ですが、カトリック墓地に眠る大叔母は、高校から大学時代にかけての私の、いちばんの心の支えでした。・・・その話は、ひとまず措きます。

で、そこの子供たちも、私たちの小学校に通っていました。
女の子の方は数もあまり知りませんでしたし、印象に残っていないのですが、男の子たちは、だいたいが「乱暴者」で名を鳴らしていました。当時の私はノンビリやでおっとり気味だったのですが、それが付き合いやすかったのでしょうか、仲が良かった友達の殆どは、この「乱暴者」の子供たちでした。施設にも、毎日遊びにいくくらいでした。ですので、他の「乱暴者」グループから私がいじめられると、こちらがわの「乱暴者」グループが私を助けてくれる、という具合でした。あの頃は世の中も学校も、子供の「乱暴」にはそううるさくはなく、「乱暴者」=「学校ののけ者」ではありませんでした。そのおかげでしょうか、少し前の頃のように子供が公共施設を壊すといった事件は、まずありませんでした。でも、喧嘩となると、持ち出してくる道具はすごかった。ナイフあり、自転車のチェーンあり、木刀あり、何でもありでした。ただ、自分たちで加減が分かっているので、相手を実際に怪我をさせることは無い。それでも、その場面はちょっとした映画に出来るようなもので、広場に「武器」をもった子供軍団が草ッ原の右と左に別れてにらみ合いをするところから始まるのです。どっちかの親分の合図で、うわーっと、掛かり合いが始まる。・・・で、暗くなると自然に終わるんで、そこは拍子抜け、なんですけれどね。
施設に遊びにいくと、だいたいちょうどおやつの時間で、施設の子供たちにはおやつが配られるんです。当然、私はそこの子ではないから、貰えない。そうすると、保母さんがいなくなったのを見計らって、分けてくれようとするんです。家から「そういうときは絶対貰っちゃいけない」と言われていたので、迷いましたが、結局は貰って食べました。
何人かの友達に、素朴に訊いたことがあります。
「ねえ、○○君には、なんで、おとうさんとおかあさんがいないの?」
死別は、訊いた限りでは全くいませんでした。子供ですから突っ込んだ事情はわからないのですが、親の離婚か、経済破綻が、ここの子たちが施設に預けられた理由の殆どを占めていて、親の経済問題が解決するとまた親に引き取られて施設を出て行く子もいました。作家、井上ひさしさんも、この施設にいたことがあります。但し、私の親の世代です。

そんな友達のうちの一人が、あるとき、
「このごろさあ、とうちゃんから手紙が来なくなったんだ。半年前くらいまでは毎月くれたのにな」
と言ったのを、ずっと鮮やかに記憶しています。ですが、その友達が、手紙のことでどんなふうに胸を痛め、どれほどの寂しさのうちにあったのか、ということに思い至ることが出来るようになったのは、その友達とあうことがなくなってだいぶたってから・・・高校時代くらいの頃から、だったと思います。



黒人霊歌は、ご存知の通り、本来はアメリカの黒人奴隷たちが独自に歌い続けて来たキリスト教の聖歌です。
奴隷貿易自体は、現代(19世紀以降)の倫理観とは違う世界でなされていたことで、欧米に独自のものではありません。古代から、洋の東西を問わず、戦争に勝った側が敗者を奴隷として使役していたのが中世までの常識で、戦勝国が他の国と友好関係を結ぶとき、自国の余剰奴隷を相手国に進呈することもごく普通に行なわれていました。ただし、奴隷、というものに対する考え方も現代の価値観とは違い、人権の8割から9割は認められなかったにせよ、独自の家庭を持つことは許されたり、家政に大きな貢献をした場合には奴隷身分から開放されて自由人となるケースもありました(真偽不明ながら、イソップはそうした一人だった、という伝承もあります)。
こんにち常識と見なされているようなかたちでの黒人に限定された奴隷貿易の発祥は、15世紀頃にスペインやポルトガルが黒人を本国に連れ帰るようになったのが発端で、当初は古代からの奴隷貿易の延長線上でなされたものでした。(そのため、インディオの征服については敏感に非難を繰り返した聖職者たちも、現代から見れば驚くべきことですが、黒人奴隷については全く意に介していないのです。)
ヨーロッパにとっての新大陸発見と、とくに北米に於ける急激な開拓拡大が、それまでの奴隷貿易の常識を崩しました。余剰人員としての奴隷以上の数を奴隷として確保しなければならなくなり、開拓を進めるためにはさらに、このタダで使える労働力の最低の権利まで認めるゆとりもなくなり、17世紀までに安定してしまったアジアとの関係から、アジア・ヨーロッパは奴隷供給地域ではなくなり、アフリカに限定されてしまったのが、黒人奴隷の悲劇につながったのです。

こうしてギリギリまで追いつめられた奴隷たちによって編まれた、本来の黒人霊歌の歌詞は、聖書の故事に託して巧みに隠しながらも、悩み苦しむ人間の素直な声を切々と伝えるものとなっています。

シャカの(あえて「仏教の」とは言いません)言葉に、次のようなものがあります。
「こころがどんなところをさまよっても、自分自身よりいとしいもののところへたどりつくことは決してない。同じように、ほかのひとにとっても、そのひとの自分自身がとてもいとしいのです。だから、自分自身がいとしくてあがいているひとは、ほかのひとをいためたりしてはいけないのです」
(石飛道子『ブッダ論理学』講談社選書メチエ中の言葉を私なりに改変したものです)

歴史上かつてない苦しみ、悲しみを味わった黒人奴隷たちのかたちづくって来た歌詞には、このシャカのことばに通じる優しさがあることを、最後に見て頂きましょう。鍵は、「自分の」苦しみを「苦しい」と歌っているのではないところにあります。でなければ"Glory Hallelujah!"という言葉は出て来ないでしょう。
もう一度、歌詞と対比しながらお聴き下さい(和訳は添えません、ご容赦下さい)。

「わたしの苦悩は誰もしらない」

Oh, nobody knows the trouble I've seen
Nobody knows but Jesus!
Nobody knows the trouble I've seen, Glory Hallelujah!
Sometimes I'm up, sometimes I'm down, oh, yes Lord.
Sometimes I'm almost to the ground, oh, yes Lord.

※念のため、ですが、"I'm almost to the ground"とは、「(地に倒れふして)死にかけることもある」という意味です。upもdownも、ここから類推して意味をお汲み取り頂ければよいかと思います。


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2008年11月 6日 (木)

「ウィーンの森の物語」(J.シュトラウスⅡ):好きな曲002

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3388849140ウィンナワルツ、と言えば、いまやウィーンフィルのニューイヤーコンサートです。それも、衛星放送で、ウィーンでの上演と同時に日本でも見ることが出来るご時世です。

ですが、半世紀前の日本人にとっては、遠い異国の「夢」の音楽だったのではないでしょうか?

小学校の2年か3年の頃、我が家には、日本人が演奏した「ウィンナワルツ集」のフォノシ−ト(ソノシートという呼び方が普通でしたが、これは朝日ソノラマ社かどっかの登録商標だったと思います)がありました。2枚組だったかと思います。演奏は、今思うと、おそらく日本人による寄せ集めの小規模なスタジオ用オーケストラで(当時は学校の鑑賞用のレコードもそういうオーケストラによって演奏されているものが少なくなかったはずですけれど、演奏の質は決して悪くはありませんでした)、私はそれを聴いて、有名どころのワルツのメロディを覚えました。
ところが、当時のフォノシートでは作品をオリジナル通りに演奏しているものは稀でして、中学生になって聴いたLPで「本物」を聴いた時には、あまりの曲の長さと作りの違いにビックリ仰天したものでした。

それでも、そのフォノシートで嬉しかったのは、曲によっては魅力的な詞の合唱がついていたことでした。なかでも、「ウィーンの森の物語」についていた歌詞は、もうちっとも覚えていないのですが、一節に<月が銀の矢を放つ>なんてのがあって、子供心に想像力をかきたてられたものでした。・・・ちょうどアメリカのロケット、アポロが次々と月にだいぶ接近していた時期でした。(人間の月面着陸はこのワルツの思い出の頃より少し後です。)小学4年生くらいまでは、夕方遊び終わって帰ると、三畳の部屋にこもって夜ご飯まで、いや、ご飯の後も叱られるまで、大声で歌うのが大好きな子供でしたので、当時は歌詞をすっかり覚えて繰り返し歌っていたはずなんですけれどね・・・小5(実質上は小6)で楽器に夢中になり始めてからは、歌詞を忘れるようになりました。

そんな思い出もありますので、今日の「好きな曲」では、「ウィーンの森の物語」を、ウィーン少年合唱団が歌ったものでお聴き頂きましょう。1988年録音のものです。


EMI EASTWORLD TOCE7925-26

これを器楽でオリジナル通り演奏すると11分かかるのですが、合唱は4分半ほどに短縮されています。
ただし、歌詞(ドイツ語)は相当長いものが付けられているので、掲載は省略させて下さい。



ヨハン・シュトラウス二世が父の反対で10代の後半まで音楽活動が(表面的には音楽の勉強も)出来なかったのは有名な話です。それが、ちょうど20代を迎えた頃に15人編成の楽団を組織し、あっという間に父を上回る人気を獲得し、父と険悪な関係になったりしています。作曲したメロディの美しさが人気の秘密であったのも間違いないでしょうが、オーストリアで革命のあった1848年(シュトラウスは23歳でした)には共和制支持派に回ったことも、こんにち彼がなおウィーンで重んじられる上で大きな意味を持っているものと推測されます。
そんな彼も、ほんとうに今日に残るワルツを書くようになったのは40代の頃でして、「ウィーンの森の物語」は1868年、43歳の時の作品ですし、「青きドナウ」もその前年の作品です。
ただ、ワルツ王と呼ばれているわりには作ったワルツの数は168曲、というのが、以外に少ない気がしないでもありません。彼がワルツ王と呼ばれるようになった背景には、協力者となった弟ヨーゼフの、やはり素晴らしい作品群もヨハンの楽団で演奏されたことによる「割増」があると考えていいでしょう。
とはいえ、さらに1871年からはオッッフェンバックの人気に対抗してオペレッタの創作も始め、今日でもオペラ劇場で欠かすことのできないレパートリーとなっている「こうもり」を筆頭に名作を残したことは、今なおウィーンの人々の誇りになっていることでしょう。

ヨハンは49歳のときに最初の妻(年上でした)と死別、その後30歳年下の女性と再婚するも上手くいかず、3度目の結婚でようやく心の安らぎを得、74歳で亡くなっています。


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2008年11月 3日 (月)

「見よ、勇者は帰る」(ヘンデル):好きな曲001

誰でも、初めて知った(思い出に残った)クラシックがこの曲だ、などと言ったら、タイトルだけ見ると
「え?」
と思われるかもしれません。

まずはお聴きになって下さい。

・See the conquering hero coms!

SCHLIEBERBACHER MOTETTENCHOR, SCHLIEBERBACHER KAMMERORCHESTER
(CHRISTOPHORUS DIGITAL 77128, 1992)

保育園や幼稚園の運動会で、いまでも子供たちが表彰される時に流れる曲です。
・・・でも、ずいぶん趣きが違いますね。ここへ掲載したのが「オリジナル」です。


Haendel私は小学校に入ったとたん、徒競走(最近では50メートル走とか、距離で呼ぶようになって来ましたね)では順位は後から数えた方が早いくらいになりました。中学では、新聞配達をしていたおかげで、またそこそこの順位がとれるようになりましたけれど、小学校での運動会は、とにかく鈍足だったから嫌いでした。 嫌いだった運動会で何度も何度も聴かされたこの曲が「好きな曲」の最初に上がるのは変な感じがしないでもありません。ですけれど、2年を過ごした幼稚園時代は、春と秋の2回、通算で4回あった徒競走は2年とも2位でした。どうしても抜けない子が必ず一人混じっていて、仲良しでしたが、運動会のときだけは抜けないのが口惜しいのでそっぽを向いて口をきかなかった。 そんな、幼稚園のときの運動会は、記憶の中ではいつでも空はすっきりと青かった。 雲ひとつなかったような気がするのは、記憶が思い出をきれいにしているからでしょう。 そんな青空の中で朗々と鳴るこの音楽は、長い間、耳にするたび私を爽やかな気分にさせてくれました。

オリジナルを知ったのは、中学時代、「クラシック好き」になってから、ラジオのバロック特集番組を聴いていて、だと思います。
それまでの、堂々としたファンファーレ、という印象とは全く違うのに、仰天しました。
慌てて、貯めておいた小遣いを引っ掴んで、バスに乗ってレコード屋さんまで行きましたが、オリジナル版での録音は売っていませんでした。仮にあったとしても、おそらく、中学生が手を出せる値段ではなかったでしょうね。当時はちょっと大きな町でも、バロック以前の作品のレコードは「選集」がある程度で、あとはバッハの大曲が数枚組で高値で売っているくらいでした。

掲載した録音は1992年の発売から多分そう遠くない時に、CDショップの棚にたったひとつあったものを手にしたものだったと思います。子供が生まれるには持っていたのは間違いないからで、結婚したのが1992年でしたから。



曲の説明をちょっとだけします。

作曲者はゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル、但しこのひとの生まれはドイツですから、ドイツとイタリアを行き来していた25歳まではこの名前で人にも呼ばれ、自分でもそういう名前だと思っていたことでしょうが、26歳から亡くなった74歳まで活躍した場所はイギリスですから、人生の3分の2は「ジョージ・フレデリック・ハンデル」というのがこのひとの名前になります。
『反音楽史』という面白い本でこの点を盛んに強調している石井宏さんの正論には反しますが、以下、馴染まれているヘンデルのほうで、この人を呼びます。

ヘンデルはオペラの多作家で、かつ有能な興行者でもありました。縁をつかんで乗り込んだイギリスで、43歳の年までなんと18年間、自他多くの作曲家のオペラをイギリスの舞台にかけ、王室の保護も得て、優秀な興行成績を残し続けましたが、その分ライヴァルも多く、結局は破産の憂き目に遭い、体も壊します。(詳しい伝記は、ご興味があれば、書籍Wikipediaでお調べになって見て下さい。面白い逸話にも事欠きません。)

友人たちの催してくれた慈善演奏会の収益で借金から逃れ、脳卒中で倒れながらも奇跡的な回復を遂げたヘンデルでしたが、オペラから手を引くと、演技を伴わないでコンサートが出来るオラトリオへと創作活動の軸を変えてしまいます。オラトリオだから教会向けに書いたのか、というと、そうではなくて劇場向けだったところが、またこの俗物作曲家らしいところで、1741年の初演の時「ハレルヤコーラスで聴衆が全員起立した」オラトリオ<メサイア>も、劇場用に意図された作品です。エピソードは実際にあった通りのことのようですが、劇場で宗教劇が演奏されるということには当初は聴衆のためらいがあり、<メサイア>がほんとうに成功を収めた、といえるまでにはなお十年を要した、というはなしです。

「見よ、勇者は帰る」も、そうしたオラトリオの1作、「ユダス・マカベウス(マカベアのユダ)」(1747作)の第3部の中に出てくる合唱曲および行進曲です。
「ユダス・マカベウス」の物語は旧約聖書の外典と呼ばれる一群に含まれる「マカバイ書」に沿ったものでして、この「マカバイ書」も、子供時代の私には目に出来ないシロモノでした。聖書は信者(教徒)ではないものが手に出来るものとしては協会版の旧約新約が一緒になったものだけが殆ど独占的に出回っていて(したがってカトリック版ではないのです)、外典は大学に入ってから研究者向けのものが出ているのをやっと見つけましたが、目ん玉が飛び出るような値段でした。内容は歴史物語で、周辺の大国から常に虎視眈々と狙われ続けていたイスラエルの地の独立を守り続けたマカバイ家の中でも最大の英雄と見なされているユダ・マカバイが戦争に出掛け、生死も不明となっていたところで、イスラエルの人々が遠くから生還して来た彼を目撃し、喜びを徐々に大きくしていくさまを表したのがこの合唱です。情景が目に浮かぶようです。

歌詞は、次のとおり(訳しません・・・能力不足!)。

歌詞を読みながらお聴きになれるよう、こちらにも音を再掲載しますね。

(Chorus)
See, the conquering hero comes!
Sound the trumpets, beat the drums.
Sports prerare, the laurel bring,
Songs of triumph to him sing.

(Duet)
See the godlike youth advance!
Bteathe tha flutes, and lead the dance;
Myrtle wreaths, and roses twine,
To deck the hero's brow divine.

(Chorus)
See, the conquering hero comes!
Sound the trumpets, beat the drums.
Sports prerare, the laurel bring,
Songs of triumph to him sing.


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2008年10月31日 (金)

「好きな曲」カテゴリを新設します

ちょっと、少年期に還ってもいいかな、と、思い始めました。

いま「聴いている」・「奏でている」ものを考えるだけでは見失っているものがあるんじゃないかな。
じゃあ、それに気づくために手軽にとりかかれることは、自分の原点を見つめなおすことなのかな、と。

クラシックを好きになりたての10代前半の頃、まだ当然レコードを買うお金を貯めるには時間もかかりましたし、そもそも何を聴いていいか、なんてことも分かりませんでした。カセットレコーダーなんてものも、最初は家にありませんでした。ラジオと、親がどこかから貰ったらしい2、3枚のレコードと、親の趣味で買った、クラシックをムードミュージックにアレンジした「フォノシート」が、「聴く」レパートリーを増やす手段でした。
録音を手元に持っていないので、前もってノートを用意し、放送される曲を新聞で調べ、たまたま家にあったジャンル別百科事典の「音楽」の巻をエンピツで引いた線だらけにして分かるだけのことを調べ、顔写真が載っていれば、ノートの上の方にその肖像のヘタクソな似顔絵を書いておき、放送を聴きながら、曲から受けたイメージをどんどん書きなぐる・・・それが、私の「音楽作品記憶術」でした。

中学から高校にかけては、むしろ、演奏に加わることで知る曲が多かったと思います。中学入学と同時にブラスバンドに入るも、翌年学区制で転校せざるをえなかった新設校にはブラスバンドが無く、学校に立った1本あったトランペットを独占して、そこいらにある曲を吹きまくって「そうか、こんな曲もあるのか」と知りました(その後は金管楽器には縁が無くなり、今では全然吹けません)。

ヴァイオリンを始めたのは小5から、と遅かったし、地元には目立った団体も無かったし、人脈もありませんでしたから、まあそこまでか、と思っていたら、どういう経路で情報が回ったのか、市内の高校生オーケストラから声がかかり、(1年浪人しましたから)都合4年間、そのオーケストラで弾かせてもらい、併行して、年長の団員さんが所属する室内楽団に参加させてもらったりして、放送では聴けなかったような作品も知り始めました。
それでも、大学のオーケストラに入った当時は、知っている曲の数は、同じ学年の中ではダントツに多かった。みんな今の学生さんほど「お金持ち」ではなかったし、ちょうど出始めたCDも財布にとっては割高でしたから、やはり、大学のオーケストラで演奏する曲、訓練で弾かされた室内楽を中心に覚えた曲の数の方が結果的には多くなりましたが、それだけ、「世の中にどんな曲があるか」に付いての知識は、自分だけでなく、周りの友人も貧弱でした。

ですが、そうした時期に知った曲の数々には、普段のようには理屈では書けない愛情を感じ続けています。
曲を知った時期の新鮮な思いを綴っておくことも、だから、悪くないな、と思いました。
・・・その代わり、それは、小学から中学時代に付けたノートに書きなぐったように、「理屈」であるよりは、出来が悪くても「おはなし」にしていければ、なおさらいいかも知れない。

ただ、最後に、選曲の仕方や記すにあたっての自分なりのルールは決め、お断りしておくつもりです。



子供たちが大きくなって来た頃、「クラシック名曲案内」的な本が世の中に出回るようになりました。クラシックのCDを論評する本も、ずいぶんと出回るようになりました。別に子供たちまで音楽好きになってもらうつもりはありませんでしたし、ですから実際こうした本を買うことは無かったのですが、
「これこそが名曲」・「これこそが名演奏」のような限定をしてしまう風潮には肯定できないものがあり、あまり嬉しく思っておりませんでした。
そこへ、一時期、そのお書きになった内容の純粋さから尊敬の念を抱いた音楽家Mさんが、ユニークな名曲案内書を出し、飛びついたのですが、結果的には飛びついてしまったことが最終的に私のMさんへの敬意を失わせてしまいました。・・・好意を持っている間は、その本の「血液型別おすすめ」・「星座別おすすめ」といった切り口はMさん一流のユーモアだと自分に言い聞かせていたのですが、ご商売で音楽をやるということには、(どなたもが、とは決して思っていませんが、Mさんについては)どうしても「名前を売りたい」・「自分を絶対化したい」欲求が見え見えであるような気がして、半年たった頃には熱が冷めてしまいました。
ただし、Mさんの名曲案内は、最後に『マタイ受難曲』の、私のような理解の浅いものにも理解を深めさせて下さる丁寧な説明がある点で、従来書とは一線を画していましたし、Mさんご自身は大変研究熱心なかただ、ということへの敬意は失っていません。
それでも、その後『拍手のルール』などと題した本までお出しになったのを瞥見してしまい・・・内容がこれまでのMさんのイメージを反転させるほど堅ければ好感に転じたかも知れないのですが・・・残念ながら失望が上塗りされただけで終わってしまいました。
Mさんはまだ東西に分離していた頃のドイツに滞在してたことがあり、今は違うタイトル付けをされた文庫に当時の経験談を綴っていらっしゃるのですが、その中に、西から東へ移動した際の二度とは得難い感触、忘れがたい「純粋な」エピソードがちりばめられています。そのうちのひとつを引用させて頂きます。東ドイツのある街で、ホームステイした先の子供たちと別れるシーンを採り上げましょう。どの部分を引用するかは、大変に難しいのですが、適宜省略しながら引いてみます。

「はるか彼方に、朝靄にけむる山並みが見え、その、最も高いいただきに、ひとつの大きな古城が、伝説のようにそびえているのが見えた。/『ワルトブルクよ」/スザンネがいった。/「タンホイザーを知ってる」/姉が聞いた。/「あの、歌合戦の場面のお城。あれが、アイゼナッハの自慢なの」/このお城、朝靄の中で見る時に一番美しいお城を見せてくれることが、ふたりがおれにしてくれようとした最大の贈り物だった。/それは、どんなに高価で贅沢な記念品をもらうよりも、おれの心に深く残った。(中略)この姉妹が、おれに会うために国境をこえようとすれば、機関銃で撃たれて殺されるのだ、ということを、当時はそれで仕方ないとされていた、まぎれもない事実を、思った。/もう会うことは出来ない。(中略)バスが走り出すと、二人は競争するように、手を振りながら走った。/おれも、ふたりが息を切らせて、とまってしまうまで、座席から身を乗り出して、手を振っていた。」(初名だけ上げておきましょう。『オーケストラ空間空想旅行』音楽之友社1997)。
・・・幸いにしてMさんの感じざるをえなかった悲劇は、その後解消されたのですが・・・

折角なら、このときのような「こころ」だけを結晶化させた著述だけなさってくれればいいのに、と、いまは寂しく思っています。いや、Mさんに限らず、音楽の現場にいる人たちには現場ならでは触れ得ない演奏や創作の感動を、聴く立場の人には聴くことによって受けた感銘だけを、「純」に綴り、結晶化させたものだけを、活字にして頂ければ嬉しいのだけれどな、と感じています。

前にも引用したバーンスタインの言葉をも、繰り返し載せておきましょう。

「音楽が伝えるのは物語じゃない。音楽は、何かについて表わすものでは決してないんだ。音楽は音楽、ただそれだけ。たくさんの美しい音符と響きがひとつになって、聴いていると喜びを得られるもの、これが音楽のすべてだ。(中略)・・・音楽を理解するのに、シャープやフラットや和音なんて専門的な知識なんか必要ない。音楽が僕らに何かを語りかけてくる。物語や絵ではなくて、感情を運んでくる。音楽を聴いて、心の中に変化が起き、そして音楽が僕らにくれるたくさんの感情に身をまかせることができたとき、そのとき僕らは音楽を理解したってことになるんだ。音楽とは、まさにそれに尽きる。」



そんな願いも込めて・・・私は私の反省をせねばならず、それにはたとえ素人体験からであっても、自分自身が「聴いた」・「奏でた」感動の初心にもう一度戻ってみよう、というのが、カテゴリ新設の主旨です。

ただ、出会った曲は長短さまざまで、とくに長い方は聴いて頂く上でも、私のメンテナンスの上でも、ちょっと大変ですので、ほぼ次のような基準で「好きな曲」を採り上げたいと思っております。

*なるべく、出会った作曲家の順番で、重複は避けて
*その作曲家の、5分前後の曲を(必ずしも私が出会った曲そのものではなく)
*原則として「モノラル」で

聴いて頂き、簡単に私なりの「イメージ」を綴る。バーンスタインが否定した「物語」になってしまうかもしれません。

なるべく自分が気に入った演奏例を上げたいのはやまやまですが、それがお聴きになる方によってはお好みに合わない場合もあるでしょうし、私の方の手持ちが、私の気に入ったものではない、という場合もあります。しかし、演奏の評価は「相対的」なものだと思いますので、どうしても自分から拭い去れない思いがある場合は開陳しますが、そうでもない限りはCD等のご紹介に留めます。

本日は、能書きのみ。


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