楽譜・楽器・奏法

2014年2月20日 (木)

長い前置き【楽譜の問題】モーツァルト「ハフナー交響曲」(0)

0:前置き1:入手しやすいスコア2:新旧印刷譜の相違箇所3:20世紀の演奏から4:校訂者泣かせの自筆譜5:ブライトコップフ新版前書き(上)6:ブライトコップフ新版前書き(下)7:旧校訂系の楽譜成立への小さな推測  


まだ「ハフナー」交響曲の楽譜そのものの話は出てきません。
見て行くにあたって、どう進めたらいいか、考えておきたいと思います。

ふつうの書籍ですと、古典は
・いま印刷されているこの本の直接の先祖はいつの本か
・その先祖の本はオリジナルとどんな親子・兄弟関係にあるか
・そもそもオリジナルはどんなだったか
みたいなことを解説してあるのが現在では普通のことになっていますよね。

でも、古典の楽譜は、いまでもそんなことまで解説したものはほとんどありませんね。

そもそも楽譜は「演奏されてナンボ」の価値が出るものですしね。

オリジナル、に即して言うならば、演奏者の使っている楽譜がオリジナルにどれだけ近いか・遠いか、については、いまだに、聴くだけの人にとってはそんなに興味があることでもありません。趣味で演奏する人にも関心を持たれないことのほうが多いのではないかと思います。
また、「オリジナル楽譜を使っています」と謳われる演奏が、さて、「オリジナルに忠実に」演奏しているかどうかは、厳しめのお客さんにとっても結局は分からなかったりします。
解釈の問題があるので、優れた演奏でも細部が違って聞こえることは当り前にあります。・・・ただしこれは言語の場合でも、古語を現代語に訳すとき、訳者のとらえかたでいろいろ違ってきますから、音楽固有の問題とは必ずしも言えません。
あるいはしかし、演奏家の能力都合で(たとえばスラーのかかる範囲や、スタカートがついているかどうかなどについて)勝手に変えられていることも、なきにしもあらずです・・・が、愛好家としては、まさかそんなことはないだろう、と、なんとか信頼したい気持ちです。
さらに、楽譜とはまた別に使用楽器やピッチの問題も係わってきます。

こんな複雑で面倒なことを抱えながら、最近の演奏家さんは、なんで、使う楽譜や楽器やピッチにこだわるのか。

それは、最近の演奏家さんが、実にきちんと、音楽家としての大先輩たちの作品に敬意を払うようになったからではないか、と私は感じております。もともと、旧世代の感覚の中で音楽好きになった一素人の私には、縁のない発想でもありましたので、そんなかたたちがとても頼もしく見えます。

音楽に敬意を払う、という点では、19世紀20世紀の演奏家さんたちだっておんなじではあったのですけれど、以前は、悪く言ってしまえば、演奏するかた自身の中に勝手に湧き上がってくる響きや流れのほうが、作品が本来成り立ったときの響きや流れよりもずっと大事にされていた気がします。それがまた時代の嗜好に合ってもいたのでしょう。けれどもおかげで、オーケストラ曲ならば好きなように楽器を付け足したり音を加えたり、は、当り前に行なわれていたのでした。(細かくは単純に「好きなように」とは言えないことも少なくない【メンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』蘇演の際の諸改編など http://www.ne.jp/asahi/jurassic/page/talk/matt2.htm 音の例:http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/js-caba.html】かと思いますが、そうした話は省きます。)

そうではなくて、元を正そうじゃないか、とお考えになる方がようやく多くなった、というのが、私の最近の印象です。そして、そのことに非常に頭の下がる思いがしております。

さて、しかし、何が「オリジナル」なのか、とは、思ったよりも難しい話です。

作曲した人が自分で書いた楽譜が残っているとしましょう。
それが「オリジナル」なのか、となると、そうも言い切れません。
ベートーヴェンの第九交響曲あたりを例にとりますと、これは手書き譜が(終楽章は1頁欠落があるものの)残っていますけれど、最初に印刷されたほうの楽譜と(最初の印刷譜を目にしていないので確かめられていませんが、ベーレンライター版スコアの緒言を読みますと http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-1941.html)食い違っているところもあるそうです。食い違いは、手書き譜のあと校正の段階でベートーヴェンが「やっぱりこうしよう」と指示した可能性もありますし、実際そうだったことは、先の緒言でうかがえます。すると、ベートーヴェンが指示を加えたあとの最初の印刷譜が手書き譜に優先して「オリジナル」だということになります。
ところが、今度は印刷譜のほうに明らかにその元原稿である手書き譜を読み間違えたゆえの誤りがあったら、それをどう捉えたらいいのでしょうか。
これは、印刷を誤った部分については手書き譜に準じて最初の印刷譜を訂正したものが「オリジナル」と考えるのが自然なようにも思えます。
しかし、手書き譜自身が「こうも読める/ああも読める」みたいな曖昧さを持ってしまっていたら、万事休すです。

楽譜が印刷されるようになる前の時代でも、似たような、あるいは異なった問題はいろいろあって、オリジナルとはなにか、は意外と「こうだ」と決められないことが多い、という点には、よくよく気を付けなければなりません。

で、この次自分たちのアマチュアオーケストラで演奏することになったモーツァルトの「ハフナー交響曲」を材料に、楽譜の持つ<あんなこんな>を、これから見て行くことにしたいと思います。

とはいいながら、現状まだ自筆譜ファクシミリ未入手(入手見込)等、材料を揃えている途次で始めてしまいましたので、途中で二転三転の七転八倒をしましたら、どうぞご寛恕願います。

間で違うことに走ってしまうこともありますので、見出し後にリンクを付けて参ります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 9日 (火)

フォルテピアノに触ってきました(9月3日ラストチャンス!)

8月4日のことですので、日にちがあいてしまいました。

フォルテピアノに触ってきました。・・・ああ、触っちゃった! (T_T)

も少し正確に言うと、鍵盤を叩いてみて来ました。

いままでは傍まで寄れても手出しはできない、蓋に触れる人を恨めしく指をくわえて遠巻きに見るだけ、ということが続いていましたので、もう目の中に星が輝き、頬がバラ色に染まってしまいました。

東京・目白の明日館(ロイド・ライトの設計で有名)が開いている
東日本大震災復興支援コンサート with 明日館」
企画の一環で、あと1回だけチャンスがありますが、第1回はまだ開催を知らずに逃し、第3回は土曜日なので、いま震災に伴う節電対応の土曜日出勤をしている私はおそらく伺えず(この日は16時開演)、第2回に出掛けさせて頂いた次第です。

http://web.me.com/bergheil69/fp_reconst/Welcome.html

楽器の提供と詳しい解説は、梅岡楽器さん。日本のフォルテピアノ取り扱いでは草分けですね。

http://homepage3.nifty.com/umeoka-gakki/

フォルテピアノやクラヴィコードはもちろん、現代ピアノの、普通の日本人が知らないような種類のものまで、およそピアノ系の鍵盤楽器なら何にでもそのメカニズムに精通なさっている、筒井一貴さんが、まず、その日のフォルテピアノの機構にぴったり合う作品を選曲して弾いてみて下さいます。(筒井さんは昨年もショパン時代のプレイエルで見事な「ショパンの音」を聴かせて下さいました。

8月4日の楽器は、2002年制作ですがワルターモデルのアクションを採用したフォルテピアノでした。音域は5オクターヴ半。
筒井さんがこの楽器のために選んだのは、

・モーツァルト:幻想曲ハ短調KV396
・ベートーヴェン:ピアノソナタ第8盤(悲愴)
・ベートーヴェン:ピアノソナタ第13番(幻想風ソナタ)作品27-1

の3作品。

ワルターのモデルになって、それまでのものに比べて力強さを得たフォルテピアノは、ディナミークの起伏も豊かでありながら、今日的なピアノに比べると、聴く人の耳を柔らかに包み込むような響きを持っていました。
筒井さんの選曲はベートーヴェンの初期ゾナタの傑作ですから、楽器のこうした特性を味わうのにふさわしかったと思います。慧眼です。

演奏終了後に、「試奏会」があり、先だって梅岡さんが鍵盤を取り外しハンマーを取り出して、この楽器を私たちに隈無く見せて下さいました。ハンマーまで取り出しちゃう、なんてことは、楽器製作や修理に携わることのない私たちには、通常、経験のチャンスがあるはずもないことです。会場は感激ムードできよらかに静まり返りました。

あとはてんでに、震災へのカンパをしたうえで、楽器を好きなように触らせてもらえました・・・あ、鍵盤を弾き、膝テコ(ペダルにあたるもの)を操作するだけです! 鍵盤は勝手に抜けません!

Fortepianopaulmcnulty

ペダルに当たるものは鍵盤を収めてある箱の部分の下に付いた、膝で操作するテコなのですけれど、実際にいじってみると、足で踏むペダルより音を体感しながら演奏を変化させられるという点では合理的な面もある気がしました。
鍵盤の深さはモダンピアノの半分、重さは3分の1とのことで、ほんとうに軽い感じだから、雑に弾くとすぐ分かります。鍵盤は黒檀となんだかの骨の由。この楽器は黒白を現代ピアノと逆にしてあります。

この日の会場は明日館の本館のほうで、20人程度しか入れない会場に定員より多めのお客様でした。

9月3日は講堂のほうで行なわれますので、かなりの収容人数です・・・80人以上入ったはずです。

しかも、過去2回は、メカニズムは伝統的なものを踏襲はしていても21世紀になってからの新作品でしたが、次回(最終回)は1820年のオリジナル楽器(Johann Georg Groeberという人の作だそうです)です。
演奏は16時に始まり、その前後にフォルテピアノを試奏する時間枠が設けてあります(前半の試奏可能時間枠は14〜15時)。試奏には東日本震災への義援カンパが必要です(明日館がとりまとめをなさるようです)。
どうぞ、お出掛けになってみて下さい。

目から鱗、が存分に味わえます!

日時:9月3日(土)演奏開演16時(筒井一貴氏)
   試奏可能時間帯は14時〜15時と演奏終了後
料金:2500円(試奏には別途随意のカンパ)
会場:明日館講堂
(マップはhttp://web.me.com/bergheil69/fp_reconst/Map.html
   池袋駅とJR目白駅のいずれからでも行けます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 7日 (日)

アフェクト瞥見・・・エマヌエル・バッハの場合

まとめて考える、なる時間がとりにくい環境にもなっており、ここのところ、自分は雑感程度でもきちんと考えることを怠っている気がします。

そんななかで、あるかたが、思い入れタップリ過ぎ演奏の類に対して短く、しかし強く警鐘を鳴らされていたのを拝読し、ちょっと思い出したことがありました。

エマヌエル・バッハの演奏に親しく接したイギリスの音楽史家バーニーが描写した次のような一節です。

「演奏中の彼は次第に生気を得て、そして何かに取り憑かれたようになった。音楽を演奏している人というよりも、霊感を帯びた人のようだ。両目を閉じ、下唇は垂れ下がり、顔面からは興奮の雫が滴り落ちた」久保田慶一によるエマヌエル・バッハ伝【東京書籍】の289頁に引用訳されているもの。1771年。)

エマヌエル・バッハ自身がいわゆる「多感様式」を代表する作曲家であり、久保田著の伝記に引用された彼の『クラヴィーア奏法』の中で彼はこんなことを述べているとされています(し、実際述べています・・・第1部第三章§13)。

「音楽家は、自分自身が感動しなければ、他人を感動させることはできないので、聴衆の心に呼び起こそうとするすべての情緒【原語ではアフェクト・・・東川清一訳ではそのままカタカナ、訳書178頁】の中に自分自身もひたることがぜひとも必要である。」(久保田著158頁記載の訳)

彼の手になる通称ハムレット・ファンタジー(1767)は、彼自身によってではなく、同時代の別人(ゲルテンスベルクという人物)によって、もともと純粋な器楽曲であったものにハムレットのセリフを乗せたものだそうです(私はその詳しい記載を見たことはなく、現時点でとくにその曲自体も耳にしておりません)。

曲に後からでも言葉を付け得たというこの事実は、先のようなエマヌエルの音楽演奏に対する姿勢からみると、「言葉の付かない音楽はただ一般的な理念を代表するだけですが、言葉が付けられると理念をはっきり特定することができる」(ハムレットファンタジーにセリフを付けたゲルテンスベルクの発言、久保田著163頁の引用訳)のですから、エマヌエルにとっては願ったり叶ったり、だったように思えてきます。
ところが、エマヌエルは、別段そんなに喜んでもいなかった、と捉えてもよさそうな態度を示しています。先のバーニーがエマヌエルに会う4年前、「ハムレット・ファンタジー」が世に知られた1767年に、ジャーナリストのクラウディウスがエマヌエルと交わした会話から、それが窺えます。(クラウディウスが言及している作品はハムレット・ファンタジー以外のものをも含めていると思われますが、その再確認はしていません。)

ク:貴方は人物の性格を表現した小品を作曲していますね。同じような曲をこれからも書かれますか?
エ:いいえ。そうした曲は折に触れて書いたもので、忘れてしまっていますよ。
ク:でも、新しい道を歩まれたのではないですか?
エ:でも、ほんの小さな一歩で、言葉を付ければよくわかる、というだけのことです。
(久保田著伝記266頁、句点1ヶ所変更)

これは、エマヌエルの考えの中で、言葉で表せる理念とそうではない情感を分けていたから、なのでしょうか?
エマヌエル自身が演奏時のアフェクト表現法をどう捉えていたかについて、伝記の引く主情的な部分でとは異なるところに目を向けなおしてみなければ、そこのところは解りません。先の『クラヴィーア奏法』第1部第三章§13の訳で久保田氏が「・・・」で省略した後続部分には1787年の第3版で増補された文言が含まれていますけれど、その増補部分はこのようなものです(東川訳179頁)。

「しかしここでは、過度の冗長なり緩慢といった誤りに陥らないように注意すること。アフェクトとメランコリーがあまりに多すぎると、この誤りに陥りやすいからである。」

前段の§12では「よい演奏表現を習得するための手段」として「すぐれた歌手を聴く機会をおろそかにしないように」と述べていることもあり(§16も参照すべきでしょうが、これはいわゆる「発想記号」としての言葉について述べた箇所ですので、別のものとして扱うべきでしょう)、曲に言葉がともなうかどうかで何かが左右されていたと考えていたわけではないようですが、クラウディウスに応えたときの背景にある考え方は、絶頂期以降つねに持っていたらしいことわかります。
歳をとってからわざわざこんな文を加えるあたり、他人に結構厳しくて接すると無愛想だったと伝えられるこの人は、よっぽど懲りる局面に何度も曝されてきたのではなかろうかと推しはかられて、ちと可笑しくなってさえきます。

エマヌエル・バッハが演奏表現(Vortrage・・・このことば自体には「表現」の意味までは無いように思うのですが、東川清一氏は内容からみてわかりやすいようにわざわざ「演奏<表現>」との訳をおあてになったのでしょう)について述べた本章で、むしろ実践的に重要だと思われる箇所には次のように述べられているのであって、先の§13の久保田氏引用部に目を奪われすぎると、こちらの大切さを見落としがちになります。

「何がよい演奏表現を成り立たせるのだろうか。それは、楽想を歌ったり演奏したりしてその真の内容とアフェクトを聴衆の耳に感じ取らせる技量に他ならない。演奏表現が違うと、同じ楽想でも耳には非常に違って聞こえるようになり、それがもともと同じ楽想であったことなど分からないほどになるのである。」(§2)

「演奏表現にとって重要な題目は、音の強弱、打鍵法、シュネッレン、レガート奏法、ベーブング、アルペッジョ、音の持続、リタルダンド、アッチェランドである。これらをまったく使わないとか、不適切な時に用いると、悪い演奏表現になるのである。」(§3)

「まるで指と指のあいだに膠(にかわ)を塗っているかのように、粘っこく弾く人がいる。彼らの打鍵は長すぎる。つまり彼らは、音符をその時価以上に長く鳴り響かせるのである。なかには、今述べた誤りを避けようとして、まるで鍵が焼けているように、指を鍵から早く離しすぎる人もいるが、これも良くない。中道が最良なのである。無論私はここで、一般論を述べているにすぎない。どんな打鍵でも時宜を得れば良いことになるからである。」(§6)

とくに注意しておくべきなのは§28で、やはり第3版で付け加えられた長い追記部分ではないかと感じます。

「アフェクトのこもった演奏の際に注意すべきは、あまり頻繁に、あまり過度に滞留して、結局はテンポをひきずるようなことにならないようにすることである。アフェクトはいたって簡単にこの誤りを招くのである。・・・世に有能な音楽家は数多いが、文字通りの意味で、あの人は曲を始めたのと同じように終わると言える人はほんの僅かしかいない。」
このあとテンポ・ルバートについての非常に注目すべき記述がありますが(ルバートが大好き過ぎる人も大嫌いな人も必見でしょう・・・まとまった書き物にはしていないショパンも、おそらく同様の所見をもっていたのではないかと思われるのですが、対照はしません。私自身は鍵盤奏者ではないのでしかとは言えませんから)、感受性の重要性をしきりに説いているため、「感受性」を「主情性」と勘違いする誤読をも招きやすい部分です。そのまえに上記引用のようなことがきちんと述べられている点を決して忘れてはならないはずです。

バーニーが書き留めたその演奏スタイルの印象とは裏腹に、エマヌエル・バッハがもっとも重んじたのは、音ひとつひとつに対する<客観性>を保った音楽の読み取りだったことは、「感動」や「感受性」の大切さを述べた部分の周囲に目を向ければはっきり分かることです。そちらにまったく目が向いていない演奏は、警鐘を鳴らされた方が怒りまくっていたのもごもっとも、と申し上げたくなるほどに横行しているかも知れません。

一方で、「音楽は何も表現しない」と発言したストラヴィンスキーが、最晩年の映像でオーケストラを指揮する際、リハーサルでふとニコッとしたりすのを見ていると、このおっさんは本当に「音楽は何も表現しない」なんて信じていたんだろうか、そんなはずはなかろう、確信犯だろう、と感じたりしますけれど・・・そっちに話がいくのは脇道なのでやめておきます。

エマヌエル・バッハが言うところのアフェクトに目を奪われ過ぎ、「木を見て森を見ず」の演奏になることには、実践者は常に注意しなければならないはずです。音楽教育=情操教育なる恒等式が成り立つだなんてお考えの教育者の方は、少なくとも現代日本では絶滅種でいらっしゃるのでしょうから、なおさら、そんな演奏が後を絶たないことには驚きをおぼえます。
とは言いながら、客観性にだけとらわれた演奏が望まれるわけでもないことは、エマヌエル・バッハの記述の場合でも、それらをバランスをとって眺めれば明白であるかと思います。そのバランスの難しさも、なかなかのものです。エマヌエルの記述自体が、どこでどうバランスをとっていいのかと苦渋しているように見えます。第3版で増補された文言には、そうした苦渋がはっきりと埋め込まれている、とは、今回彼について思い出したとき、ようやく読み取れるように感じたことではありました。

まことに、本職で演奏をするとはたいへんなことでありますね・・・と、おキラク万年初心者の私は自分が本職ではないことに胸をなで下ろさずにはいられません。

「指がいくらよく動くようになっても、公開で演奏するときには、自分にできること以上に自分の力を過信してはならない。」(§9)

この部分は、私自身はエマヌエルが意図したのとは別の意味合いで読みたい衝動を抑えかねます。
エマヌエルは、(メカニックな意味での)演奏技術を本番で落とさないための心の落ち着きの保ち方、を説くつもりで、その前にこの言葉を置いたのですけれど、私にすれば、それこそ同時にアフェクトの読み取りを(自分の達しているレベルで)間違えないためにも、我を知っている精神を保たなければならない、と読むべきであろうと感じさせられる次第なのです。

エマヌエルの注文の、しかしなんと敷居の高いことでしょう!

速いパッセージをちゃらちゃらと、アダージョを綿々と演奏したいアマチュア器楽奏者は、エマヌエル・バッハの前では全滅ですよ・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月28日 (火)

びよらじょーくにつっこむ

「え? びよらひくんですか?」
「はい・・・あ、ひかないでください。おねがいです。(涙)」

ですから、びよらじょーくを読むと、ひとごとではありません。とてもわらえません。つい、まじめにつっこんでしまうあたしです。

・・・ひかないでください。

・・・あ、ツイッタでおなじジョークを繰り返してるびよらじょーくを見かけたら、優しいアナタもぜひあたたかくつっこんでやって下さい。腹の底からお願い申し上げます。

#violajoke @violajoke_bot

あ〜しかし、まとめてならべると、ひくなぁ・・・
暑さ対策にもならん。  ┐( ̄ヘ ̄)┌


おら、ひきこもり。 RT @violajoke_bot: 春になった。びよりすとをとじこめよう。冬になった。夜までまって、びよりすとを外に出そう。


それはうれしい。タバスコでも良し。RT @violajoke_bot: びよりすとを刺激的にするには、どうしたらいい?
トウガラシをかける


カノンちゃんにしつれいだわっ! RT @violajoke_bot: カノン(訳注:追走曲、つまり輪唱や輪奏。パッヘルベルのカノンや"かえるのうた"が有名)はどのように発明されたのでしょう? 二人のヴィオリストが同じパッセージを同時に弾こうとしたことです。


すみません・・・(T_T) RT @sznmmo: ヴィオラジョークのうちの多くは時代に淘汰された古典ともいえるものですが、現代にいたるまでそのモデルとなるヴィオリストは淘汰されていません。


こんなむりせんでも、びよりすとのかおになりきればじうぶん。RT @violajoke_bot: どのようにしてヴァイオリンでヴィオラのような音を出しますか? 1. 後ろの方の列に腰掛けて演奏しない。 2. 低いポジションでたくさんの間違った音を弾く。


そもそもボウイング考えるが必要ない。 RT @sznmmo: ボーイング同じだけどうちは二人だから一人が休めば問題なし。RT@viola_joke Q「12人のびよりすとの音程を合わせるには?」A「1.11人撃殺す2.全員撃殺す3.そもそも12人必要ない」


ばらしてはいけない。RT @violajoke_bot: 何故ヴィオラはそんなに大きいのでしょう? それは見た目の錯覚です。ヴィオラが大きいのではなく、ヴィオラ奏者の頭が小さすぎるのです。


おら、ゲコゲコだが。RT @violajoke_bot: ヴィオリストの脳みその大きさがグリンピースぐらいなのは何故? アルコールで膨れたからです。


おぼれそうな自分に気付くチェリストいるの? RT @violajoke_bot: ヴィオリストとチェリストが沈没しつつある船の甲板上にいました。 助けてくれ。わたしは泳げないんだ!チェリストが悲鳴。大丈夫大丈夫。泳げるフリをすれば大丈夫。とヴィオリストが。


野暮な短音階、の間違いだろ。RT @violajoke_bot: ビオラが奏でる短音階の種類は? 野生的短音階。


これは正しい。どこが間違いなんぢゃ? RT @violajoke_bot: 本番前に、プルトを組むことになったびよら弾き2人が打ち合わせしていた。「ねえねえ、譜めくりはどっちがするんだっけ?」「うーん、その時弾いてないほうがめくることにしよう」


・・・レベル高過ぎ。 RT @violajoke_bot: 指揮者が練習中,ビオラ奏者に質問しました「F-durのさぶどみなんとは?」「F-durは…サブドミナントじゃないの?」


そんなにがまんしられましぇん。 RT @violajoke_bot: びよりすとはいつ弓を返すんだろう?隣の人が返したら。


そんなの、気付けません。(;_;) RT @sznmma: 隣の人が弾いている間に、です。RT@kenhongouそんなにがまんしられましぇんRT@violajoke_bot: びよりすとはいつ弓を返すんだろう?隣の人が返したら。


わるかったね。RT @violajoke_bot: びよりすとの2倍迷惑なものは?
びよりすと2人。


毒は、じわぁとしみるんやで。どうなっても知らんで。 RT @violajoke_bot: オーケストラでびよらが出てきても死ぬことがないのはなぜ?他のパートの音でかき消されるから。


ボントロ吹けたらよかったなぁ・・・RT @violajoke_bot: 医者が町を歩いていると件のびよら弾きが歩いてくる。
「患者さん困るじゃないですか。脳味噌を置きっぱなしで帰っちゃ」
ニコニコ答えたびよら弾き。
「大丈夫!今はトロンボーンを吹いているから」


ま~だ工夫がたんねぇなぁ。受け皿が無ぇだよ。 RT @violajoke_bot: びよらはよく音を落とすばよりにすとのために作られた楽器。落とした音がこぼれないように大きめに作られすぐに拾って使えるべく、音の高さもばよりんより低めに設定されている


最初から弦張っとかなきゃよかったのか。そうだったのか。 RT @violajoke_bot: 演奏中にすべての弦が突然切れてしまったびよりすとは、どうしたらいい?
ほっとして楽屋にもどる。


ひとりはさみしい・・・ RT @violajoke_bot: 無人島でびよりすととふたりきりになった。さて、どうすればいい?
はやくひとりになろう。


痛い。(;_;) RT @violajoke_bot: ヴィオラとタマネギの違いは?ヴィオラを切って涙を流す人はいません。


のこりの1割です、すみません。(;_;) RT @violajoke_bot: びよらは見た目が9割


そこにわたしはいません。 RT @sznmma: テレビの歌番組で、歌い手の後ろに弦楽が配置されているといつも気になります。ヴィオラはいるのだろうかと。


ゴルゴ13呼んどいて下さい。 RT @violajoke_bot: ヴィオラソロは爆弾に似ていると言いますが、何故?その音を聞いてしまった時点ではもう手遅れだからです。


とめて下さい。(;_;) RT @violajoke_bot: ヴィオリストが調子っ外れに弾いていると判断する根拠は?弓が動いていることです。


まぁむりせずとも・・・ RT @sznmma: はいはい、信じてあげますよ。・・・と、つっこまずにはいられない。#violajoke RT@flatstone21 昨日と今日はうまいびよら弾きをみた


(T_T) RT @flatstone21: 幻覚をみていたのかもしれない RT “@kenhongou: まぁむりせずとも RT @sznmma: 信じてあげますよとつっこまずにはいられない。#violajoke RT@flatstone21 昨日と今日はうまいびよら弾きをみた


大差ない。 RT @violajoke_bot: 質問、ビオラセクションの最前列と最後列の差は?「はい、半小節!」「いえ、半音!」


内部に詳しいやつだな。だまっときゃいいのに。 RT @izumi8123: そんなの低音楽器なら全員そうだろ RT @violajoke_bot 「びよりすとが誇る特殊技能は?」「ハ音記号が読める」「ト音記号読めないけど」by @viola_joke #violajoke


「ハ」の他に「ヘ」ってのもあったのか? RT @tododellafenice: へ音記号と勘違い? RT @izumi8123: 低音楽器なら全員そうだろ @violajoke_botびよりすとが誇る特殊技能?「ハ音記号が読めること」「ト音記号は読めない」


RT @violajoke_bot: メンデルスゾーン率いるゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会を撮影した写真発見。銀板の湿式写真で撮影に2時間。楽団は動くのが当然で写真はメンデルスゾーンも団員も幽霊のようにぼやけ、びよりすと達だけがぶれないで写っていた。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月22日 (日)

表現としてのテンポをいかに把握するか:テュルクから読む場合2

松平頼則「美しい日本」第1曲〜第3曲(大井浩明さんによる演奏)
武久源造さんによるクラヴィコード演奏
・・・是非ご覧下さい。


(故郷方面の震災後、「考える」ことが出来なくなってしまっており、その間、子供たちが・・・おかげさまで、それぞれ自分で行きたがっていた学校へ・・・それぞれ進学が決まり、安堵する間もなく子供たちへの新たな応援体制を築く必要に迫られたり、職場は定年の方が2人、期間契約が切れていらっしゃらなくなる方が1人いらして、もともと小所帯である職場で業務の割当が増え、家庭も会社員生活も多用になりました。自分で考えられる範囲がいかに狭く、自分が考えてみた中身がいかに些末であるかを痛感はしておりますが、それでも「考えられない」ことに比べれば致命的ではないのだな、と、強く思っているところでもあります。ぽつりぽつりと、ガラクタ脳の働きの回復を模索していきたいと存じます。)

間が空いてしまいましたので、「音一つ一つに何を聴き取るか」で考えたことと齟齬があるかもしれません。
前は、テュルクの言うペリオーデに注目して、演奏の部分部分でのテンポ変化、デフォルメの適切さとは何かについて粗々(かなり雑に!)考えてみたのですが、それは鍵盤楽器作品の場合、チェンバロからピアノへと楽器が変化したことにも影響を受けていながら、そうした時程的な変化が演奏上必ずしも考慮されて来なかったし、聴く側もそのあたりへの関心は全くといえるほどに持ち合わせていなかったらしいあたりをちょっとだけ見て来たのでした。

全体としての「テンポ」にも同様の問題があるのではないかと考えてみようと思います。現れかたが「部分」ではないので、気付きにくいことではあります。

バッハのイギリス組曲を素材にしていますが、彼が組曲(suiteないしpartita)と称したもの、あるいは後の世代の人によってバッハの「組曲」に擬せられている作品(管弦楽「組曲」・・・元来"Overture")は、舞曲の集合体になっています。管弦楽組曲の第1曲はすべて例外ですが、いま考えたいことの中ではハナから考慮の外に置いて差し支えがないかと思います。
これがまたsuiteかpartitaかで若干の差異があったりする気もするのですが、それについても今は考えません。
管弦楽組曲を含め、大括りなところのことについては、昨年の3月4日から6日にかけて、ラモその他の作例も鑑みながら「浅く」観察をしております。

組曲を形成する「舞曲」については、ただし、「踊られる」ものとして書かれている場合もあり、そうでない場合もあるかのようで、そのあたりの区分については素人が考えるには史料・材料が不鮮明で、確かなことは言えそうにありません。
ただし、バッハ(ゼバスティアン)に限って言えば、「踊られる」ための舞曲ではなかったと推測しても大きく外れることはなかろうと信じております。「踊られる」ための、とは、この場合、あくまで舞踏会のような場を想定すべきであって、家庭を始めとするプライヴェートな空間をも前提に含めると収拾のつかないナンセンスな事態を招くことになるでしょう。

それぞれの舞曲の性質・定義については昨年3月5日にリストを作成しましたので、繰り返しません。

「踊られない」のであれば、舞曲の持つ性質は、舞曲の種類を明記した音楽作品のテンポを規定する、と、まず大雑把に言ってしまうことを許容するでしょう。
テュルク「クラヴィーア教本」では、そんなに大きなウェイトを占める部分ではないものの、既に舞曲についての規定がテンポ寄りでなされていることが目につきます(東川氏による訳書p.468-472、Loureについてはマッテゾンの記述を参照していたりしますが例外的です)。これはテュルク著作が著された時期(1789年)を考えあわせると、その記述分量にも関わらず、非常に重い事実でもあるかと感じます。、以下を、昨年3月5日のリスト(とくに浜中康子著書から引いた後半部分)と比較してみて頂ければ、そのことがはっきり分かるかと思います。

テュルクからは3つだけ引用してみます。

アルマンド Allemande は4/4拍子で、アウフタクトから始まる。その演奏表情は厳粛で、あまり急速には奏されない。アルマンドはしばしば、組曲やパルティータに現れれる。この名称はアレマネンAllemanen、つまり昔のドイツ人に由来すると言われる。アルマンドのもう一つのタイプは舞曲として用いられる。このタイプは2/4拍子で、陽気な性格である。したがって、速い動きに加えて軽い演奏表現が要求される。

ブレ Bouree は、2/4拍子か4/4拍子で書かれていて、4分音符のアウフタクトから始まる。性格はいくぶん快活である。そこで、ほどよい速さで奏され、その演奏表現はかなり軽くなければならない。

ガヴォット Gavotte は、ほどよく速いアッラ・ブレーヴェ拍子のテンポを要求する。二つの4分音符のアウフタクトから始まり、感じがよくて、かなり陽気な性格をもつ。これに基づくと、その演奏表現も容易に決定することができる。

さて、このテュルクの記述を参照した上で、グレン・グールドの弾くアルマンドを聴いたら・・・グールドの弾くバッハは「バッハの音楽」だと言えるのか、それとも「グールドがバッハの作品に基づき編曲した音楽」だとみなすべきなのか、は極めて明瞭ではないかと思います。



「グールドのバッハ」と言われるものは、「グールドのバッハ解釈」と置き換えられるのは決して適切ではなく、やはり「編曲」なのではないか?
かつてハーティがヘンデルの「水上の音楽」を近代オーケストラ向けに「編曲」したのと同様の意味合いで、楽譜はオリジナルを追いかけたようであっても(ただし、そもそも近代ピアノ向けに直されたバッハの楽譜はオリジナルとは大小さまざまな違いがありますが)、グールドの演奏は実は「編曲」行為ではなかったのか?
なぜならば、簡単に言えば、グールドの弾くアルマンドが、バッハから時代の下ったテュルクの物差しからしても、またテュルクに影響を与えたはずの前世代の舞曲テンポ感からも逸脱していて、とても「解釈」という枠に収まるものだとは見なし得ないからです。これはグールドの弾く「ゴルトベルク変奏曲」ではもっと顕著に言えることではないでしょうか?

曽根麻矢子演奏と聴き比べてみて、このあたりに少し思いをめぐらせてみるのも、これからの音楽享受を考える上で面白いと思います。


さらに裏返して言えば、チェンバロでの演奏でさえもまた、バッハをはじめとするチェンバロ時代の鍵盤作品の「編曲」行為である可能性も孕むのであり、なおまた「編曲」は「解釈」とは峻別し難いながら、演奏者は聴き手に対し、自分の演奏が「解釈」なのか「編曲」なのかを明示していく重い義務を負うのだと言うことは、またあらためて問題としていかなければならないことではないかな、と思っております。いま、ゴルトベルク変奏曲についてだけ例示すれば、レオンハルトによるその主題演奏も、チェンバロを用いながら「編曲」になっているのではないか。そう言う根拠は、レオンハルトの採用しているテンポがグールドに近いところにあります。次世代の奏者はそれを無反省に踏襲しているケースも少なくありません。ゴルトベルク変奏曲の主題(アリア)の想定するテンポが、チェンバロの糸の響きが途切れる寸前まで引き伸ばされるほど遅いものであるとは、到底考えられない気がするのですが、いかがでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月24日 (日)

音一つ一つに何を聴き取るか:テュルクから読む場合

松平頼則「美しい日本」第1曲〜第3曲(大井浩明さんによる演奏)
武久源造さんによるクラヴィコード演奏
・・・是非ご覧下さい。


標題に直接触れるような内容には到底出来ないのですが、考えたいことは標題の通りです。

まずは、掲げる演奏の「是非」を、ではなくて、「違い」を読み取りたいと思っています。
(それをもって、自分が音楽を考えるアタマを取り戻していくきっかけにしたいと願っています。)

J.S.Bachのイギリス組曲第2番の演奏を素材にし、ピアノで弾いたもの2例、チェンバロで弾いたもの2例を聴いてみながら考えています。
まだよく整理出来ていないので、支離滅裂な文表現になっていることは、とりあえずご容赦下さい。
あとでまた振り返るためにも、いったん記してみます。

J.S.バッハ演奏でなくても、私が思い描く「演奏」は、自分が独奏者でもなく腕も悪いことから「合奏」での像が先に立つのですけれど、そういう足場から独奏がどう聞こえているか、というあたりに少し自分でツッコミをいれてみようか、と思います。
聴く前提として、テュルクの「クラヴィーア教本」の記述をどう念頭に置いたらいいかを考えます。
J.S.バッハの演奏についてテュルク記述を前提に聴くのは、じつのところちょっとズレがあるのではないかとは思っています。エマヌエル・バッハと五十歩百歩、と言ってしまっていいかどうかは、先の課題とします。ピッチやチューニングの問題はさしあたって一切度外視します。

テュルクの記述の前提となっている「クラヴィーア」は、オルガンでないことは明示されていますから論外です(ただし、たとえばp.181にフリードマン・バッハのオルガン演奏への推測を加えた運指法についての小考が含まれたりはしています)、少なくともフォルテピアノではありませんね。フォルテピアノを説明するのに「小さくて新式のフォルテピアノのなかには、クラヴィーアの形をしたものもある」(東川訳書p.6)とあります。表現に関するテュルクの記述を検討するには、ここは重要なのかなぁ、と感じたりしています。
中間部分の、楽典と演奏法を関連づけながら述べている大部分をきちんと理解しないと本来は読み誤りを起こすのでしょうから、そこへの細かい立ち入りも必要なのですが、私がそこまでの器ではないので、あえて避けて通ります。また、テンポの問題も検討しなければなりませんが、それはJ.S.バッハの組曲での各ピースが、プレリュードを除き舞曲名で規定されている点に着目して別途なされるべきことかと思いますので、そこまでの拡大は次にすることとします。

まず、いちばん目を向けたいのは、ペリオーデ(Periode、英語のperiod。テュルク曰く「大なり小なりの静止部分 Ruhestelle」【訳書p.389注】)と彼が呼んでいる、東川さんは訳せないと仰っているのですが敢てこんなものかと考えるならば「楽節的動機」〜音楽の展開に用いられる断片としての要素的動機ではなくて、完全終止であれ不完全終止であれ「まとまり」をもつもの・・・だからこそテュルクはこれを限られた部分では簡便的にRuhestelleとも呼ぶことにしているのではないかと解釈しました・・・をめぐるテュルクの記述です。

ペリオーデの開始音などはすべて、通常の強拍よりはもっと明確に強調されなければならない。厳密にいえば、この開始音すらも、それが曲全体の比較的大きな部分を開始するのか、それとも比較的小さな部分を開始するのかによって、強く、あるいは弱くアクセントをつけられなければならない。つまり同じ開始音でも、完全終止の後に続く開始音は、半終止後の開始音やただのアインシュニット(文を述べる際の句節点に相当するもの、程度に、いまは捉えておきます)後の開始音よりも強くアクセントをつけられなければならないのである。」(訳書p.389、§14)

これに続くテュルクの記述は、究極は最初に掲げられたこの要約を具体的に説明するものに過ぎません。
これを、「強く」とか「弱く」とかいうアクセントで句節を置くことは、市場に出回っている殆どの演奏はそれなりに責任をもって遂行していて、この点そのものについて演奏の問題はさほど大きく発生はしていません(ただし、独奏の場合。管弦楽規模になるほどおざなりになっているものは「名演」と賞賛されているものの中にも多々あります)。

クラヴィコードならば、現在のピアノに相当するような強弱アクセントでの句節配置が出来るのですが、ではそれがテュルクに遡ったときに妥当な方法だったのか、となると、テュルクの時期には既に混同が生じている、少なくともテュルクの記述にはクラヴィコード的なものとチェンバロ的なものについて混同があるのではないか、との疑いが湧いて来ます。・・・もっとも、混同とは混乱のことではなく、演奏方法の捉え方についてはある種の広がりが生じている、進んだ状況を示しているのではあるのです。それは、ウェイトを置くべきところの音はその音の時価分充分に保持されなければならない、という点と、それを述べる際に<強弱ではなくて音の保持の程度の問題>と言うことによって、実体は保持と強弱の両面が<重さ>を現すという認識がテュルクの中にも眠っているとみなすべきだ、との、テュルク自身の把握・認識にある内在的な領域の広さと関わりがあります。

チェンバロでも、強弱感は単鍵盤でもそれなりに出せる・・・それはテュルクが別の箇所で触れている「重い・軽い(訳書p.414〜416、§43〜46)」の方法を実演上どう扱うかで可能性が幾重にも広がるものだ、とは思います。しかしながら、この「重い・軽い」をどう表出するか、によって、ペリオーデへの取り組みは全く違ってくる。

重い演奏表現では、どの音もしっかり(強調的に)奏し、そして音符の時価がすっかり過ぎ去るまで保持しなければならない。一方、どの音もそれほどしっかりは弾かないで、その指も、音符の時価が規定するよりいくらか早めに鍵から上げるとすれば、その演奏表現は軽いと言われる。・・・ここでいう、重いとか軽いとかいう表現は、音の強弱よりはむしろ、音の保持と中断に関連することである」(p.414〜415、§43)

テュルクはおもにクラヴィコードを前提にしている節はあるのですが、これはチェンバロも視野に置いた考え方であるような気がします。基本的には「重い・軽い」なのでしょうが、具体策としては次のようなことを言っています。(文脈からすると、抜き出すのは必ずしも適切な行為ではありません。そこをあえて、抜き出しで呈示してみます。)

「急ぎやためらいが行なわれ得る箇所をすべて指定するのは難しいことである。・・・忘れてはならないのは、ここで述べる手段は、自分ひとりで演奏するか、非常に注意深い伴奏者と一緒に演奏するかの場合に限って、使うことが出来るということである。/(このような意図的な急ぎやためらいを、序論で述べた誤った急ぎなどと混同してはならないのは、言うまでもない。)」(訳書p.429、§65)

「激烈、怒り、憤激、狂乱といった性格をもつ曲では、もっとも力強い箇所は、いくらか加速気味に(accelerandoで)演奏することが出来る。普通よりは強くして(普通よりは高くして)繰り返される個々の楽想もある程度、速度が加速されることを要求する。穏やかな感情が時として活発な箇所によって中断されるとき、その場合の活発な箇所もいくらか急ぎ気味で奏することができる。」(訳書p.429〜430、§66)

「きわめて優しく、センチメンタルで、悲しげな箇所、つまりその感情がいわば一点に凝縮されているといった箇所では、ためらいを募らせること(滞留、tardando)によって、その効果をとくに高めることが出来る。」(以下略、訳書p。430、§67)

これらについて、とくに§65でわざわざ序論を参照するようテュルクが求めているところからすると、序論(序章)は大事に受け止められなければなりません。該当するのは序章の§37でしょうか、そこではテュルクはこう述べています。

「ある人がいつも急ぐ(少しずつ速くなっていく)かと思うと、別の人は、停滞anhalten(引き摺りschleppen)といわれる、それとは正反対の誤りに陥る。そこで教師は、学習者が最後の音符まで最初のテンポを維持するように、細心の注意を払わなければならない。」(訳書p.30、§37)

テュルクは勿論、初心者が初歩的にテンポを維持出来ない誤りについて述べています。

では、現実に是とされて来た演奏は、どのようであるか。
それとペリオーデの把握はいかようになされているか。

チェンバロの例とピアノの例を、まずはひとつずつ聴いておくことにしましょう。
イギリス組曲第2番(ハ短調)のプレリュードです。

チェンバロは、アラン・カーティスの1980年の録音(apex 0927 40808 2)

ピアノは、マルタ・アルゲリッチの1980年の録音(Deutsch Grammophone 463 604-2)

カーティスはヘンデル指揮者として名を馳せている人で、録音したこの時期からすると、(今で言うモダンの)オーケストラ奏者からすると「バッハらしい重さ」ではありました。「重さ」の表現のために、音の保持に重点を置いている様子が、良く聴き取れます。一方で、これはこのころの他の人のチェンバロ演奏にも・・・そしてしばしば荘重な曲の演奏に際して現在なお・・・聴き取れる、これは合奏奏者としては「やってもいいの?」なschleppenがあることに気を留めておきたいのです(これが「ミス」ではなく「妥当」に聞こえるのは習慣的なものでもあり、生理的に必ずしも不当とは言えない側面を持つからではありますし、私も「是」と思って来ていることなのではありますが、その妥当性はこうだからだ、と明示的に述べるのは大変難しいことです)。合奏でこのような音の扱いは、メンゲルベルクやフルトヴェングラーの当時でなければまずやらないことになっていました。ただテンポ感だけが同じのまま1980年頃までを迎えています。・・・この方法は、果たして妥当なのかどうか。少なくとも、テュルクのうちにはこう奏してよいとする論拠は全く見当たらない気がするのです。

一方、アルゲリッチの演奏は、同年の録音でありながら、全く対照的です。現今の、むしろ快速で演奏されるようになったJ.S.バッハのプレリュード、たとえば曽根麻矢子のチェンバロ演奏(4分31秒)と近い。では「軽い」演奏か、というと、強弱の起伏によって浮き上がらないように制御されているのが伺われます。これはピアノでの演奏時間が近似するグレン・グールド(4分30秒)とは対照的なものではないかと感じます。

音の時価の保持、という面では、テュルクの考えからすると初歩的な誤りであったものへの「芸術的」逸脱によって「重い」表現がデフォルメされて来たのが19世紀後半から20世紀中盤までの主要な動きだったのかも知れません。そのあいだ、チェンバロは実質上廃れています。クラヴィコードも消えています。となると、20世紀後半になってようやく復活を認知されたチェンバロ演奏は、クラヴィーアとして19世紀以降唯一生き残り、独自の恐竜的進化を遂げたピアノ演奏の遺伝子を受け継いでいるものとして捉えなおされた方がいいのかも知れません。
いっぽう、ピアノ演奏はさらに独立して何らかの展開を遂げ、今回その言葉は引きませんでしたが、テュルクも、テュルクに多くの示唆を与えたエマヌエル・バッハも重視していた「アフェクト(いまはこれもまた、感情表出、という訳語で捉えておきましょう)」に対する何らかのデフォルメを、行ったん淘汰しようとする動きの中で、「保持による崩し」ではなく、「強弱による掘り下げ」の方に舵を切り替えている・・・その最も優れた成果の一つが、このアルゲリッチの例ではないかと思うのです。
ただし、これはピアノだからとり得た方法ではあるのです。
アルゲリッチの録音を聴きながら、はたとそのことに思い当たりました。
ピアノだからこそ、という面は、プレリュードではなく、続く舞曲標題の曲の方で、より際立って気付き得ます。
それが現今のチェンバロの演奏とどのように繋がりあってくるのか、果たしてピアノで弾かれるJ.S.バッハの音楽は、本来的な意味でのJ.S.バッハ音楽足り得ると言えるのか、もしくは他の何ものか、なのか、とは、伝統となっているさまざまな音楽の演奏の現在を私たちがどう位置づけたらいいのか、を検討する際に大きなヒントを与えてくれはしないのでしょうか?

・・・という具合で、すみません、非常に半端な文になってしまったことは否定しません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月30日 (火)

「第九」ファクシミリのみどころ〜第1楽章展開部

ベートーヴェン「第九」ファクシミリ、アカデミア・ミュージックで特価販売中。入手のチャンスです!



大井浩明さんの第4回Portraits of Composers「平義久×杉山洋一」2010年12月15日(水)19:00開演(開場18:30)門仲天井ホールにて。

杉山作品が聴けるサイトへのリンクは、こちら。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-6321-1.html



「第九」自筆譜、第1楽章呈示部の見所は、こちら。

ベートーヴェン「第九」の、第1楽章展開部から、彼がどう書いたかを拾ってみました。
ケータイ写真ですので、小さくて不鮮明なのをご了承下さい。
また、電子データではやはり伝わらないものがあるとの思いを強くしています。・・・ファクシミリも良質の印刷物でないと、やはり電子データと似たことが言えます。

「第九」第1楽章展開部は、まさにそれを実感させてくれる代表例です。

・180-181小節:前の小節から、クラリネットとファゴットがあるべき段では乱暴にかき消されています。

1mov180181

・それが下段に書き直されています。これは189小節まで続きます。

1mov1801812

・200-201小節:第1楽章ファーストヴァイオリンとヴィオラは消した上に書き直され、ヴァイオリンの方はそれで済まずに下段に書き直されています(判読不明になってしまったためでしょうか? 後の書き足しなのか、筆跡がまた違って細くなっています)。

1mov200201

・204-207小節:フルート・ヴァイオリン・ヴィオラに激しい書き直しが見られます。

1mov204207

・239-245小節(と読んだのですが240-247小節なのか?):このあと253小節までホルンが激しく抹消され、最下段に書き直されています。ヴィオラはちょうどこの頁だけ(ファクシミリ冊子上は48頁)消した上から新たに書かれています。

1mov239245

・ファクシミリ冊子の53頁目。255-258小節に当たる部分ですが、裏面はもともと音符が何も書かれておらず、長年スケッチと見なされていた紙とのことです。(裏面である54頁には他者の手になる1841年のメモ書きがあります。ファクシミリ冊子51頁には、やはり最上段に他人の鉛筆メモがある他は何も記入されていません。)この頁と全頁に配された紙にはベートーヴェンの手になるメモがあります。第53頁は、そうした性質にも関わらず、こんにちでは先ほどの荒々しくホルンをかき消した頁の墜の次(冊子50頁)で「×」で抹消された部分に挿入されるべきものの「決定稿」であることが判明しています。第53頁のメモはファクシミリ冊子付録の解説で判読されています・・・ここでは省略します。

1mov255258p53

・・・「第九」を仕上げた頃のベートーヴェンは、初演でのエピソードから推測するに、骨導音すらもどの程度聞こえたか分からない状態だったはずですから、これらの修正はピアノなどを用いて「耳で」なしたもの、とは考えにくいかと思われますが、そこは分かりません。
いずれにしても、最後の最後まで「より良い響き」を求め続けた真摯な姿勢がにじみ出る部分ばかりでして、もしそれがイマジネーションの中での改訂であったのならば(仮にピアノを使えたとしても、この点はやはり変わらないのかもしれませんけれど)、凄まじい「プロ」根性に圧倒されずにはいられません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月22日 (月)

「第九」ファクシミリのみどころ〜第1楽章呈示部

ベートーヴェン「第九」ファクシミリ、アカデミア・ミュージックで特価販売中。入手のチャンスです!



さて、入手しやすくなったおかげで目に出来たベートーヴェン「第九」の自筆譜ファクシミリですが、やはり見どころ満載です!

性能の低いケータイのカメラでの撮影ですし、スコア全面を捉えることは不可能ですので、詳細は是非、現物でご覧になって下さい。もっとたくさんのことが見えてくると同時に、既存の日本語刊行物だけで考えてよいかどうかを振り返らせてくれます。

第1楽章の呈示部から拾ってみたものをご覧頂いておきましょう。

1)冒頭部に指示されたメトロノーム速度
  ベートーヴェンは108から120としています。
  この速度については、印刷されるまでに、書簡等により指示が変遷しています。

1movfront

2)19-20小節に記譜されたスタカート記号(弦楽器部分)
  最近の印刷譜で楔形で表示されるようになったものは、このような縦長の「点」です。

1mov019

3)24-26小節のポルタート指示(ヴァイオリン〜ヴィオラ)
  20世紀中葉まで、これを「長め」に演奏した例は稀なのではないでしょうか?

1mov025026_2

4)74-75小節のホルンの訂正
  ホルンは当初はフルートと組み合わせようと考えられた模様です。
  インクの色合いから、これが消されたのと、
  フルートがクラリネット・ファゴットと組み合わされたのは同時点のことかと推測されます。

1mov074077

5)81-82小節、自筆稿での記譜は「d」。
  ベーレンライター版がこれを採用していることの是非判断には、
  他の初期資料との対比が必要です。
  なお、マインツのショット社が1826年に出したスコアでは「d」になっています。
  1863年のブライトコップフ&ヘルテル版では「b」になっています。

1mov081

6)108-109小節のフルート訂正
  いまの印刷譜にある対旋律が、訂正した上に書き直されています。
  訂正前はどんなであったか、は、校訂報告書などを参照したいところです。
  
1mov108109

7)116-117小節のsemple pp記入例〜読めません!
  この周辺は第2ヴァイオリンが第1ヴァイオリンと同じなので省略されたり、
  ヴィオラは途中から「チェロとユニゾン」と記されてまた省かれたり、と、
  それがまた強烈な書き癖で記入されているので、
  清書する人を泣かせたんじゃないかと思いやられます。
  スコア全面で見て頂きたい箇所です。

1mov116117

8)120小節ヴィオラは、当初は現行よりやや複雑な動きを考えていた
  以降、129小節まで同様の修正が施されています。
  赤のCresは浄書者に「クレッシェンドを書いてね!」の意図で強調して加筆したもの。
  この手の加筆は随所にあります。

1mov120vla

9)130-131小節ヴィオラは、先行する部分の変更により、下を消して新たに書きかえています。

1mov130131vla_2

10)132小節の、オーボエであるべきところに、
  現行の印刷譜に見られない音が書き込んであります。
  最下段に、関連する書き込みがあり、抹消されているのを目にすることも出来ます。
  以降、6小節間続きます。
  これが現行のかたちになった理由は、浄書稿等を参照しないと分かりません。
  校訂報告が読みたいところです。

1mov132woodwind_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月16日 (火)

ベートーヴェン「第九」ベーレンライター原典版緒言の日本語訳

先日、アカデミア・ミュージックから特価でベートーヴェン「第九」のファクシミリが特価販売されている件をご紹介しました。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-68b6.html

それに関連し、こちらは印刷スコアである、ベーレンライター原典版(1996刊行?)の緒言を以前(2004年)アマボケ(ちゃう、アマオケ)仲間向けに抄訳しておりましたので【多分あんまり読んでもらえなかったでしょうが】、参考までに掲載させて頂きます。このスコアには、第九作曲の歴史的経緯とこの版の特徴の概略を述べた序文、校訂情報の要約である緒言(こちらはデル・マーによるもの)があります。序文も実に面白い(過去の読み物と相違点もあり興味深い)のですが、読譜に当たって役立つと思われる緒言のほうを、いらんと決めてかかったところは激しく省略して翻訳してみました。ご参考になれば幸いです。(訳したとき見てもらって指摘されたところは修正してありますが、なお誤訳がある場合はご容赦下さい。)


緒言

<原典>

(註:今回アカデミア・ミュージックから販売されたファクシミリに含まれるのは、以下の記述から、A・J【ファクシミリ版53頁、ベーレンライター原典版スコア39-40頁】であることが分かります。(他に第4楽章にはパリ国立図書館蔵の23段譜3葉6頁も含まれています。)

A)自筆総譜、1823−4年に書かれ、大部分はベルリン国立図書館ープロイセン文化財(音楽分室)所蔵。
自筆のコントラファゴットパート譜も共にある。
2,3の断片、ならびに自筆のトロンボーンパートが、別のさまざまな場所に保存されている。(註:ファクシミリ版425-436頁所収、コントラファゴットパートはベルリン国立図書館蔵、トロンボーンパートはボンのベートーヴェンハウス蔵)

PX)9つの弦パート手写稿で1824年5月7日の初演に使われた最初の物に由来するもの。ウィー
ン楽友協会図書館所蔵。すべてにベートーヴェンの手になる二、三の修正が施されている。

B)写譜師による総譜でベートーヴェンの修正があるもの。1824年12月ロンドンに送られ、ロンドンの英国図書館所蔵。

C)写譜師による総譜で、E、P、V(後述)の版下屋用の写し(版下案)として使われたもの。1825年1月にショット社に送られ、マインツにあるショットミュージックインターナショナルの図書館所蔵。Aを元に複写された最初の総譜であり、ベートーヴェンの改訂、修正が大量に含まれている。数ページが写し直され、C’として参照されているが、こちらのベートーヴェンによる修正はわずかである。

X)もともとCに属していたがC’と取り替えられたページ。最も重要なのは、これにはベルリン市
立図書館プロイセン文化財にある12葉も含まれるという点だが、Xの大部分は散佚してしまっている。

CP)トロンボーンセクションと声楽パートの手写稿、ショットミュージックインターナショナル図書
館蔵。もとはPXの一部。トロンボーンパートにはベートーヴェンによる修正がある。

D)写譜師による総譜、アーヘン市立図書館蔵。最初の3楽章を含む巻はベートーベンの修正が施れ、1825年3月にアーヘンへと贈られた。

DC)写譜師による総譜、アーヘン市立図書館蔵。ベートーヴェンの修正がある。

F)ベルリン国立図書館ープロイセン文化財蔵の、ベートーヴェンの修正がある、写譜師による総譜。贈呈用総譜で、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世への献辞が自署されている。1826年9月に、国王に送られた。

J)自筆単葉。ベルリン市立図書館ープロイセン文化財所蔵。Aにはなかった新たな4小節(第1楽章 255ー8)を含む。

K)自筆の修正リスト。1988年にロンドンのSotheby 's社がオークションにかけ、現在個人蔵。

L)Kの修正版。写譜業者の手によるもの。ボンのベートーヴェンハウス蔵。

E,P,V)フルスコア・パート譜・ヴォーカルスコア初版。それぞれ1826年8月にショット社から出
   版された。

これらのスコアについて、およびそれぞれの関係についての詳説は、Critical Commmentary to BA9009を参照のこと。

Bt9<編集上の特殊な問題>(校訂の結果採用した記載上の約束事に関する記述なので、省略)

<装飾音から及び装飾音へのスラーについて>

ベートーヴェンは装飾音と主要音の間にスラーを描くことは決してなかった。しかしながら実演上は変わることなく、こうしたスラーはあってしかるべきだと想定されている。我々校訂者はこうした慣習を保持したが、そのことはop.125(第九)原典すべてが一貫してしたがっていることである。また、トリルに続く後打音についても、同様に取り扱った。第4楽章297−319小節の装飾も、同じ考えに従って(訳者補:スラーなしで)表記している。ここでは後打音は装飾音としては描かれておらず、事実上連桁で結ばれた二つの32分音符(訳註:原文では音符で記されている)なのだが、従来トリルと一連をなす音として理解されており、したがって当然のようにスラーを付けて演奏されているのである。

<木管楽器譜の分岐した符尾に付けられたスラーなどについて>

このたびの原典版では、我々校訂者は現代流に従った。上下それぞれの符尾には各々の奏者のために別々のスラーが必要となるのだが、2音に一つだけの符尾が付されている場合は、2奏者には1つのスラーで十分である。スタッカートも同様に扱っているが、ひとつだけ例外がある。2奏者がユニゾンであるとき(第1楽章65小節目のホルンなど)は、2つの符尾を付すことなく一つのスタッカートを付けることで十分だということにした。
 しかしながら、期待されるかも知れない通り、op.125の初期原典では、こうした慣習的なことの扱いについては、よりいっそうルーズな様相を呈している。さらに、AやC文献での分岐した符尾は、セカンド奏者のスラーがどうであるかを曖昧にする原因をなしていたりするのである(第4楽章196小節の2番フルートなど)。(訳注:ここの記述はブライトコップフ系のスコアを参照すると良く分かる。ついでだが、この個所の2番フルートは四分音符4つで、他のパートすべてとリズムが異なっている。)

<ディナミークについて>

言うまでもなく知れわたっていることだが、ベートーヴェンにおいては、f(フォルテ)を続けて幾つも記しているのはアクセントの反復をあらわしており、実際にこうしたケースではfは文字通りsfを速記したものと言ってしまっても、事実上まちがいはない。現実に、ベートーヴェンは(このような記譜をしたところでは)写譜師がfをsfと書いてしまっていても、あるいはその逆の場合でも手直しをしなかったので、これらの違いは些細なこととしてそのままにしておかれるのが当たり前となっている。そうは言っても二者間には気分的な違いがある。そこで我々は、出来るだけ厳密に、この相違点を保持することにつとめた。それでもなおいくつかのパッセージ(第4楽章463-70小節など)では二者のいづれなのか、オリジナルの記譜に一貫性がなく、そうした場合には代わりに論証的な処置を施し、fが一貫性を保っている箇所についてだけ、同様の小節についてsfには変えずにおくようにした。
 ベートーヴェンは時々、音楽理論ではほとんど述べられていないような術語を用いている。cresc...il forteとか、(これまたもっとしばしば)il forte piu forte、ときにはil forte...piu forte...と書かれているのである。我々はベートーヴェンのil forteをfに置き換えたが、この術語の統一は、第2楽章171小節で原典Bではベートーヴェンがヴィオラにfと記しているのがみとめられる一方、A(自筆譜)とCの弦楽器セクションを見るとil forと読みとれることからも確かなものだといえる。
 特別な問題があるのはピチカートの場合である。いくつかの理由から、ピチカートのパッセージはディナミークを要しないものとして、ベートーヴェン(そして一般的に、同時代の作曲家たちも当然同様に、ただしベルリオーズは例外だが)は扱っている。実際、ディナミークの欠如は国際的に顕現していることであり、ベートーヴェンにおいてもp(アルコでの)がpizz.に変えられてしまっている例が多く見られるのである。とはいえフォルテのピチカートの例も、ベートーヴェンにおいてはまれではあるものの、確かにあるのであって、ピチカートにクレッシェンドやディミヌエンドを施す例になると、これはふつうに見いだせる。(op.125すなわち第九では)第2楽章322小節、第4楽章787小節、(原典Cのベートーヴェンの手跡では)第1楽章266小節のコントラバスなどが、その例である。ただ同時に、ベートーヴェンが第3楽章99小節の低弦をsub.p(スビト・ピアノ)としていることは、クレッショエンドの後なのであるから実現が困難なのではないか、という一般的な(しかしそれほど注目されてはいない)疑問もある。第4楽章の238・40小節は原典Aにおいてはもともとfであったのがpizz.に変更されたと読めるのだが(Critical Commmentary to BA9009を参照)、241小節ではpizz.pという記入が残されたままであるので、238・40小節はやや大きめに演奏されることを意図したのであろうと思われる。ベートーヴェンにおける最も難解な箇所は、ふつうにはディナミークがfだと見えながら、ピチカートの方でディナミークの表示を頑固に拒んでいるようなところである(交響曲第5番第2楽章7小節[訳注:ここではアルコの低弦はそれまでのピアノからフォルテになる]や、ピアノ協奏曲第4番第3楽章61小節など)。明らかに、こういう極端なあいまいさは現代の演奏向けの版では受け入れられないので−−−この数十年、もちろんたとえば第3楽章157(最終)小節のピチカートはベートーヴェンはフォルテで演奏されることを意図していたのではないか、などといった論争点もあったのではあるが−−−我々は編集上の追加事項として必要に応じこうしたディナミークを補足した。
 ベートーヴェンのディミヌエンド・ヘアピンは、シューベルトのそれほどではないにせよ、劣らず難解である。シューベルト同様、長く描かれたものもあれば、アクセントと見まごうほどのものも、しばしばある。シューベルト(一般的に音符の上または下の真ん中にヘアピンを置いている)と異なるのは、ベートーヴェンのヘアピンは音符の真下に始点がある傾向にあり、そのためとくにディミヌエンドに似て見える、という点である。こんにちではこうした、本来的に不明瞭な性質を持つ記号について、明瞭に注記する適切な方法がない。前後関係によって、アクセントかディミヌエンドかの相違の度合を示して行くべきなのであろう。我々はこうしたものをアクセントとして扱ったが、強調しておかなければならないのは、かなりしばしば(たとえば第4楽章254,753,810−1、833-4小節 訳注:いずれも声楽パートにおけるものを言っている)こうしたアクセントは本質的にはディミヌエンドの要素を兼ね備えているものと見なしうる、ということである。(Critical Commmentary to BA9009を参照)

<点とダッシュ>

ベートーヴェンは、(訳者補:スタカートを示す)点とダッシュの違いについて厳密だった(Nottebohm,op. cit.,pp.107-25参照)と言われてきたが、その証拠としては1825年8月のカール・ホルツ宛書簡(Emily Anderson, The letters of Beethoven(1961),No.1421:訳者コメント−邦訳の書簡選集では該当の書簡は発見できませんでした)の中でベートーヴェンが「四分音符の下にダッシュを記したもの(訳注:原文は音符表示)と点を記したもの(訳注:原文は音符表示)は同じではない」と明確に教示していることが引き合いに出されている。しかし、こんにち一般的に賛同されているところでは、ベートーヴェンの原典にある二者間の相違はあまりに偶発的であって、同一視しうるという以外にどんな論理性や蓋然性をもってしても新版に反映し得ないのである。これには例外が一つある。ポルタートは当然つねに点を伴わなければならないわけだが、しかるにポルタートを出た箇所では、ベートーヴェンのスタッカート表現はいつもダッシュであり、しかもこのことは第7交響曲(作品92)の初演パート譜への彼のおびただしい修正(Nottebohm, op. cit. pp.107から9にもまた引用されている)によって間違いなく確かめうる。すなわち、第2楽章のテーマの、2,3番目の八分音符はスタカートのダッシュが、その後の二つの四分音符にはポルタートとしてのスラーと点が記されている、といった類である(訳注:原文は音符で表記)。

<フィナーレ固有の問題:シラーのテキストの綴りと句法について>
(テキスト的な校訂問題なので省略)

<声楽パートのスラーについて>

ベートーヴェンが声楽部分に付けたスラーは、シラブル(訳注:語彙の音節)の変化にいつも一致するなどということは決してないばかりか、より短いことがしばしばである。実際には(これらのスラーは)フレージングを考慮するためには重要なのであって、結果的に(通常の慣習とは相反するが)背景(訳注:シラブルなどのこと)とは別個のものだと見なす必要がある。ひとつの典型例は、(訳者補:終楽章の)895−8小節である。しかるに、大変わずかだが、彼のスラーがシラブルより長いという例もあるにはあって、これらはすべて実質的に誤りであるとしてしりぞけてよいものである。これらはふつうは、言葉が(訳者補:器楽よりも)後から入ってくる場合に起こっている。もちろん、(訳者補:こうしたミスの)ほとんどはA(訳注:自筆スコア)にのみ現れるのであって、X(訳注:写譜師の手になるスコアから校正の結果取り除かれた稿)において除去されたのだろうと思われる。ところが、本当に1箇所だけ、実際的な目的があり、かつ除去されずにある長いスラーがある。それは840小節である(ソプラノソロ:訳注 sanfterのterまでスラーがかかっていることを指す。ブライトコップフ版ではこのスラーは除去されている。日本の出版社が出しているヴォーカルスコアも同様のようである)。

<声楽パートのディナミークについて>

A(訳注:自筆スコア)では、ベートーヴェンはしばしば、ソプラノの段にだけディナミークを記入している。それで全声部のディナミークとするのだと意図していたことは、はっきりしている。しかも、彼はほとんどいつも、C(訳注:写譜師の手になるスコア)での声楽パートのディナミーク省略を手直ししていた(たとえば282小節)。とはいえ、たまに彼は修正を失念している(たとえば280小節)のだが、我々はこうした明白な場合には注記することなく修正するという原則を許容した。しかしながら、798-800小節(ソプラノソロ)には明示的に、この原則を採用しなかった。また、疑わしい場合(すなわち797小節や742小節などのような箇所)には、厳しく原典に依拠することにこだわった。(訳注:文中の個所ではソプラノソロにfやsfが記入されているが、それらを他のパートにまで敷延させることはさけており、「厳しく原典に依拠する」とはそのようなことを指して言っている。)

<練習記号について>(使用の便宜を図り従来普及通りとした、という記述なので、省略)

謝辞(省略)

(ジョナサン・デル・マー筆)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月11日 (木)

入手のチャンスです:ベートーヴェン「第九」ファクシミリ

大井浩明さん"Portraits of composer"第3回は11月13日、いつもの門仲天井ホールにて。リンク先をご覧下さい。
作品解説:
・塩見允枝子さん作品
 http://ooipiano.exblog.jp/15379131/
・伊左治直さん作品
 http://ooipiano.exblog.jp/15419774/
伊左治さんについては、野村誠さんによるドキュメントが野村さんの6日付ブログ記事に掲載されています。
 http://d.hatena.ne.jp/makotonomura/20101106


Bt9ベートーヴェンの「交響曲第9番」自筆譜ファクシミリは、従来は古い出版のものが30万円程度のものでなければ買えず、手が出ませんでした。

高価であることには変わりない、とはいえ、これが4分の1程度の値段で手に入ることになりました。

アカデミア・ミュージックでの、11月末までの特価販売です。2009年にベーレンライター社が発行したものに解説の日本語訳も付いたもので、この解説は、どんな「第九」関連書籍を差し置いてでも読むべきものではないかと思います。

https://www.academia-music.com/academia/search.php?mode=detail&id=1501647697

寸法がかなり大判(37 x 40 cm)ですし、重さも結構ありますので、保管場所の確保が大変ですが、とくにアマチュアオーケストラで何度も「第九」を演奏なさるチャンスがあるかたは、自分たちの演奏を研究する上でも是非入手することをお勧めします。(本来は写譜師による浄書稿も合わせて参照したいところです。)11月中は在庫が切れても優先的に取り寄せをしてくれるようです(ただし価格は変動します)。

私も少々背伸びをして入手をしました。

手に取っての第1印象・・・でかい!!!
やむを得ない事情がありまして、本作ではベートーヴェンは16段と23段の二種類の五線紙を混用しているため、全体をまとめる冊子のサイズを大きくせざるを得なかったようです。図版は最新の写真技術を用いており、良質です。
1冊にまとまっているものの、本ファクシミリ版は、現在4ヶ所に分散して保管されている15の資料(うち大部分を占める8資料はベルリン国立図書館にあり、世界遺産に指定されています)および補遺のコントラファゴットパートとトロンボーンパートをもまとめた貴重な集成でもあります。

開いてみての第2印象・・・ベートーヴェンの自筆はやっぱり読みにくい。
私の手元にあるベートーヴェンのファクシミリは、今回の「第九」の他には「月光ソナタ」・「ヴァイオリン協奏曲」・「エリーゼのために」・「ミサ・ソレムニスのスケッチ」ですが、最初の2者はそんなに読みづらいことはないのです。ですけれども、後2者はかなりの悪筆でして、「たぶんスケッチだったり、それに近い性質だったからだろう」と思い込んでおりました。

とんでもありません!

この「第九」の自筆譜(ファクシミリ)は、よっぽど読み込まないと、判読できない頁がたくさんあります。解説を参照しながら譜を読もうとしても、興味深い訂正あるいは追加・削除箇所などは、パッと見ただけでは分かりません。

それを読む楽しみを、今後にとっておくつもりでおります。・・・興味深いことを見つけたら(なによりもその時間を見つけなければなりませんが)、レポートしたいと思います。

とりあえず、関心のあった3点については確認をとりましたので、そのことだけ述べておきます。

・第1楽章の第2主題・・・従来はd'--g'|f'-b'|a'--es"|c"-- (ドイツ音名)と演奏され、ベーレンライター原典版ではd'--g'|f'-d"|a'--es"|c"-- と改められた箇所について、「再現部とは異なる進行になるから不審」と考えていましたが、これはベートーヴェン自身がオクターヴ下で重複するパートについても明らかにd--g|f-d'|a--es'|c'-- と書いており、少なくとも自筆時のベートーヴェンの意志はベーレンライター原典版通りであることを確認しました。

・第4楽章のバリトンの歌い出しは、ギュンター・ヴァント/NDRの録音では歌手が装飾を加えずダイレクトにeをのばして歌っています(O freundeのfreun-部分をAで装飾するのが従来のやり方)。これは自筆では装飾を加えておらず、ヴァント/NDR録音の通りです。解説によると、装飾は清書譜で写譜師が付け、ベートーヴェンが(暗黙のうちに?)承認したもののようです。

・同じく第4楽章、746小節には空白の小節が一つあり、サイモン・ラトル指揮の録音では、これを1小節間の休符として捉えたものがあったと思いますが、解説者の碩学デル・マーは「ベートーヴェンは小節線を1本書き込み過ぎたようだ here Beethoven seems to have drawn one barline too many」と一蹴しています。写譜師の清書譜には空白小節の痕跡がまったくないのが、デル・マーの論拠です。これは、上のバリトン独唱の装飾の有無とは全く別問題であることは言うまでもないでしょうし、自筆譜の印象も無造作ですから、休符の意図はやはりなかったものと考えるべきかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧