古典派・ロマン派つれづれ

2016年7月 9日 (土)

「アルルの女」速報!

さて、手前どもの冬のコンサートでは『アルルの女』もやることになりました。
音楽周りのトピックは、また別に記すことにします。

ご存知の通り、これ、元々は劇伴なのですが、IMSLPにその楽譜がピアノスコアとして上がっています。このピアノスコアには、音楽が劇中のどのセリフに対応するかが(フランス語で!)書き込まれていますので、それを翻訳で出ている岩波文庫版(桜田 佐訳、1987年の第3刷を使用。いまは古本でしか手に入らないだろうなあ)と対照したものを掲載します。
・・・何かの参考になるかなあ。ならんかなあ。
・・・ストーリーとの兼ね合いは、この次少し触れるかも知れませんし、触れないかも知れません。

CDでも劇音楽全曲盤がいくつか出ていますが、いちばん入手しやすいプラッソン盤と
IMSLPのピアノスコアとの目立った対比について少し触れました。CDそのもののことについては、今回は省略します。

IMSLPにあるピアノスコアに基づく、劇と音楽の関連
http://imslp.nl/imglnks/usimg/e/e8/IMSLP89052-PMLP08871-Bizet-ArlesienneVSFc.pdf
1.  Ouverture    ・・・第1組曲第1曲と同じ(最末部一部和声が違う)

第1幕
2.  Mélodrame    ・・・第1組曲中間部の旋律
 第1景(岩波文庫8ページ 「・・・」部は省略を示す。以下同じ)
  フランセ・ママイ「ローズは・・・」
  ばか 「ねえ、じいや・・・」
  フランセ・ママイ「それに、こんな大事な時は・・・」
  ばか 「ねえ、じいや、おおかみが・・・」

3.  Mélodrame    ・・・第1組曲中間部の旋律
 第1景〜第2景の場面転換(岩波文庫12〜13ページ)
  バルタザール「へえ、へえ…承知しました…/かわいそうなばか・・・」
  ばか 「ね、話してよう、・・・」
  バルタザール「うむ、そうだ・・・」

4. Mélodrame    ・・・第1組曲中間部と最末部繋ぎ部分のの旋律
 第3景(岩波文庫15ページ)
  ばか 「『ウォー! ウォー!』これ おおかみだよ」
  ヴィヴェット「かわいそうに!・・・」
  バルタザール「皆、だめだっれいうんだ。・・・」

5. Chœur et Mélodrame・・・組曲に無し

6. Mélodrame et Chœur Final・・組曲に無し(第5曲の素材による)
  合唱の終わったあとに第1組曲第1曲最末部の旋律
  終幕部

第2幕
第1場
7. Pastrale       ・・・第2組曲第1曲
(舞台音楽では中間部は合唱、冒頭部への回帰無し)
(岩波文庫は32ページ以下。「正面はひろびろと限りない地平線。」)

8. Mélodrame    ・・・組曲に無し
 第2景〜第3景の場面転換(岩波文庫38ページ最終行〜39ページ第1行)

9. Mélodrame    ・・・組曲に無し

10. Mélodrame    ・・・第1組曲最末部の旋律
 第3景〜第4景の場面転換(岩波文庫40ページ最終4行〜41ページ8行目)
  ばか 「あっ!」
  バルタザール「どうした?」
  ・・・
  フレデリ 「・・・あの女たちはうるさくて。・・・」

11. Chœur - Mélodrame ・・・楽譜にはMélodrame部がみられない。第2組曲第1曲中間部の動機をテノールとバスでこだまのように響かせる。
 第4景〜第5景への移行部(岩波文庫45ページ 「(舞台裏で合唱が聞こえる)」

12. Mélodrame    ・・・第1組曲第1曲最末部最初の旋律
 第5景終末部(岩波文庫46ページ最終7行目〜5行目)

13. Mélodrame    ・・・組曲に無し
 第5景終末部(岩波文庫46ページ最終4行目以降)

14. Mélodrame    ・・・組曲に無し
 第1場終結部(岩波文庫52ページ ローズ・ママイ「・・・さ、おいで…」

第2場(プラッソン盤では「第3幕」)
15. Entr’acte     ・・・第2組曲第2曲
(岩波文庫52ページ以下。『・・・夜明け・』)

16. Final     ・・・第2組曲第2曲の素材による。
ここで前半の幕がおりる(岩波文庫67ページ最後)

間奏曲
17. Intermezzo  ・・・第1組曲第2曲(メヌエット)

第3幕第1場(プラッソン盤では「第4幕」)
18. Entre Acte   ・・・第1組曲第4曲(カリヨン〜中間部。繋がり方が組曲のようには整えられていない。プラッソン盤ではカリヨンの部分だけ演奏。)
(岩波文庫68ページ以下。第1幕第1場と同じ情景だが祭の装い)

19. Mélodrame    ・・・第1組曲第4曲中間部〜第1組曲第3曲〜第1組曲第4曲中間部)
 第3景(岩波文庫73ページ4行目〜76ページ9行目まで。その後第1組曲第4曲中間部が第4景への場面転換で演奏される)

20. Mélodrame    ・・・第2組曲第2曲の主旋律
 第4景終末部(岩波文庫79ページ)
 フレデリ 「では今、おれがおまえに・・・」
 ヴィヴェット「そう言ってちょうだい!」
 フレデリ 「ああ! 可愛いやつ!」

21. Farandole     ・・・第2組曲第4曲主部
 第1場終結部(岩波文庫83ページ、フレデリが半狂乱になりバルタザールに抑えられる)

第2場
22. Entr’acte     ・・・第1組曲第3曲

23. Chœur      ・・・第2組曲第4曲(ファランドール、王様の行進:合唱で)
 第2場幕開け部の遠景として(岩波文庫83ページ)

24. Chœur      ・・・第1組曲第1曲の「王様の行進」、合唱で
 第3景の外の景色として(岩波文庫90ページ)

25. Mélodrame    ・・・第1組曲第1曲終結部最初のやわらかい動機
 第4景、「ばか」の長ゼリフ(岩波文庫91〜92ページ)
 「白痴が治ると周囲に不幸が起こる」との俗説を背景に、「ばか」が兄フレデリの不幸を予言する。

26. Mélodrame    ・・・第1組曲第1曲終結部
 ピアノスコアでは前半は組曲にない旋律。プラッソン盤では演奏されていない
 第5景のローズ・ママイの独白部(岩波文庫93ページ)

27. Final(ピアノスコアではだいぶ短い。プラッソン盤は複合的な要素で組み立てられたものを演奏。原典確認できず。)
 第6景最後
 バルタザール「・・・あれをごらん! 恋で死ぬ男もいる!…」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月17日 (金)

ベルワルドのこと(1・・・のつもり)

私たちの楽隊では、冬の演奏会でベルワルドの交響曲「風変わりな(サンギュリエール)」(第3番)をやることになりました。

で、Gさんの
「ベルワルドのこと、当然書いて下さるんですよね・・・」
と、真綿で首を絞めるようなごお言葉が。(>_<)

少ないのですが手元に資料がなくはないので、伝記的なことを少しだけ綴りますね。


Franz Berwald(1796〜1868)(*1)は、フランス・ベールヴァルドと仮名表記するのが原語に近いようです。スウェーデン語は分かりませんが、そのアルファベットでは、zはセータと濁らないで読みます(*2)。Franzという名前も、彼がドイツ家系だったことにある程度の意味があって、ドイツ人的に「フランツ」と読んでもいいような気もしますが、これは無学者の勝手な推測です。
そうしたことはともかく、以降、慣用に合わせて「ベルワルド」と呼びます。
肖像写真はWikipediaから拝借しました。

Franzberwaldphoto 生まれた年はシューベルトの前年、72歳で亡くなった同じ年にロッシーニが、翌年にベルリオーズ死去していることから察せられるとおり、作風は「ロマン派」まっただ中の特徴を色濃く持っているかと思いますが、少しだけ聴いたことのあるその作品については、また今度。

F.ベルワルドは、大変面白い生き方をした人だったようです。
面白い生き方、とは傍観者の言で、本人にしてみれば大変な生涯だったのではあります。起伏があったからこそ、でも野次馬の私たちには面白いんですよね。

確認出来る先祖ヨハン・ダニエル・ベルワルト(1691年没)はバイエルン州ノイマルクトの楽師だったそうで、ヨハン・ダニエルの孫ヨハン・フリートリヒ・ベルワルトは4度の結婚で25人の子どもを設けたフルーティストでした。その子どもたちのなかの一人、クリスチャン・フリートリヒ・ゲオルク・ベルワルト(1740〜1825)が、フランス・ベルワルドの父です。クリスチャンの兄はヴァイオリニスト、弟はヴァイオリニスト兼ファゴット奏者でしたが、クリスチャン自身もベルリンでベンダの同窓で勉強した後ストックホルムに移ってスウェーデンの宮廷オーケストラに所属(1773〜1806在籍)したヴァイオリニストでした(*3)。

フランス・ベルワルドは父に手ほどきを受けて16歳からスウェーデン王立歌劇場のヴァイオリン及びヴィオラ奏者を1828年まで勤めました。その間、弟クリスチャン・アウグストと共にフィンランドやロシアへソリストとして演奏旅行に出かけ、自作の交響曲(大半が逸失の由)やヴァイオリン協奏曲(嬰ハ短調 作品2、現在も演奏される)により、作曲家として幾ばくかの評判を得たと思われます。
以降、父祖の地ドイツで活動したいとの夢醒めやらず、奨学金の獲得に数度挑戦しますが失敗。1829年にやっと資金援助を受けるめどが立ってベルリンに渡ります。
大望を抱いて出向いたベルリンでは、しかし音楽家としてはぱっとしませんでした。このとき彼がどこでどうやって音楽を勉強したのか、いまだにはっきり分からないくらい、ぱっとしなかったのでした。

そらならば、と考えたのかどうかは分かりませんけれど、向学心の強い人だったのでしょう、彼は医学に目を転じ、1835年にベルリンで病院を開業するまでになって、発明した独自の整形医療器具(Wikipediaの記載によると、この器具は・・・どんな器具だか分かりませんけれど・・・ベルワルドの発明後100年間使われたそうです!)でそこそこ大きな成功を収めたのだそうです。・・・お医者になったんですね! そしてこの病院に勤めたマティルデ・シェーラーを見初め、結婚します。

が、いや、オレはやっぱり音楽だ、と、せっかくうまくいった病院も6年後には売り払ってしまいました。
今度はウィーンに渡り、ここで『ノルウェーの山々の思い出』という交響詩的作品でやっと作曲家として好評を得ます。
余勢をかってオペラ『エストレラ・デ・ソリア』の創作に励み、第1交響曲(セリューズ)も完成して、交響曲を引っさげて翌年ストックホルムに帰りましたが、生前実現した唯一の交響曲披露となった第1交響曲の初演(指揮はいとこのヨハン・フレドリック・ベルワルド)は、演奏したオーケストラの練習不足でさんざんな結果に終わりました。当時スウェーデンには常設オーケストラは王立オペラ座付きのものたったひとつで、臨時編成も含め、彼の要求する技量に及ぶ管弦楽団はひとつも存在しなかったので、こんなことになってしまった、と言われています(*4)。

音楽はそれであきらめたわけではなく、1842年のこの失敗後も、演奏されるあてもない第3、第4交響曲を作曲し続け、1846年からはパリ、ウィーン、ザルツブルクと渡り歩き、1847年には推挙されてザルツブルク・モーツァルテウムの名誉会員となりました。

これで故郷も自分を音楽家としてきちんと評価してくれるだろう、と思ったのか、1849年再びストックホルムに帰って、しかるべき地位を得るべく応募をしたのでしたが、みんな落とされてしまったのでした。詳しい伝記は手元にないのではっきり分かりませんが、社会問題に対する積極的な論客でもあった彼は、スウェーデン楽壇とそりが合わず、対立してしまったようです。
保守的なスウェーデン楽壇に飽き飽きし、ベルワルドは1850年には友人の申し出でスウェーデン北部のSandöというところのガラス工場の経営者に転じ、さらに木材加工へと事業を広げます。実業家としての手腕も確かだったのでしょう、若い時の病院同様に、彼はこららの事業でも成功し、ストックホルムで自分の時間を費やすことも出来るようになり、こつこつと作曲を続けたのでした。

彼が故国で認められたのはやっと1862年、66歳のときで、オペラ『エストレラ・デ・ソリア』が王立歌劇場で初演され大好評を博してからで、その4年後ようやく音楽上の業績での褒章を受け、それまで彼を拒否していたストックホルムの音楽院もようやく1867年に彼を作曲家教授に任じましたが、翌68年4月、彼は肺炎で死去してしまいました。(*5)

ベルワルドは病院経営にもガラスや材木の工場経営にも実力を発揮したのでしたが、地道に作曲を続けて生涯を送ったあたり、精神の根底にはいつも音楽があった人なのだなあ、と、しみじみ感じさせられます。

駄文ご容赦下さいまし。


*1)団のかたには前にお知らせしましたが、ネットには熱心なかたが「ベルワルド研究会」というサイトをお作りになっていて、良い年譜があります。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7792/berwald-table.html
別のページに第3交響曲フィナーレの簡単な和声分析も載せていらっしゃいます。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7792/berwald-topic1.html
こちらを参考になさって下さいね。

*2)スウェーデン語の独習サイトがありました。
http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flc/swe/lands/01.html
Berwaldは後ろにrがくるeが長母音で、aには強勢がなく短母音として読み、語末のdは濁るのと濁らないのの中間のようです。

*3)NAXOS盤「Berwald Symphonies : No.3 “Symfonie singuliere”・No.4 in E Flat Major・Piano Concerto in D Major」解説リーフレットから。

*4)大束省三『北欧音楽入門』p.82 音楽之友社 2000年 他

*5)上記資料以外は、基本的に、戸羽晟『歌の国スウェーデン』新評論 2008年

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014年1月31日 (金)

チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」初稿のこと

所属のアマチュアオーケストラで初めてグラズノフの交響曲を演奏したとき、グラズノフの生涯を調べていて、ロシア五人組とチャイコフスキーの交流について知ったのでした。
こちらの本文でも、五人組のリーダーであったバラキレフがチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」作曲に肩入れした、と綴っていましたが、忘れていました。

http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_97e4.html

先日試奏をしたとき、指揮者先生がスコアに献辞があるのをご覧になって
「バラキレフにささげてるんだねぇ」
と仰ったので、あっと思って、それから初めて私もスコアを見ました。

オイレンブルク版のスコアが全音との連繋で日本語解説付きで出ており(2006年?)、今スコアを仕入れるなら、たぶんほとんどのかたがこれを御求めになると思います。
その解説に、こんなふうに書いてあります。

「(1869年に)仕上がった作品は1870年3月にサンクトペテルブルクで初演され、バラキレフや評論家スターソフから第2テーマを賞賛されたものの、 序奏部分をよりコラール風にした方が良いというバラキレフの批評を受けて、チャイコフスキーは同年夏から秋に序奏を改作する。(略)最終版と明らかに異な る序奏や展開部は、第2版に向けて書き直されたものだということがわかっている。第2版は同1870年に出版され(略)その後、ユルゲンソン出版のために 再び改作したのは1880年、終結部が弱いというバラキレフの批評を受け入れたとされる。そしてこの第3版が最終版となり、その初演は1886年のティフ リスでの記念演奏会で行なわれている。」

1869年はチャイコフスキーが法務省の役人を辞めた3年後、女性とまっとうに恋に落ち(!)婚約したものの結局破局に終わったその年でした。
1886年は「マンフレッド交響曲」完成の翌年、第5交響曲完成の2年前です。
ロシアの地理を知りませんので、ティフリスというのがどこかは分かりません。ユルゲンソンは帝政ロシア時代の代表的な楽譜出版社です。

で、「1869年版」をうたう演奏の録音を探してみました。ありました。

http://t.co/xslkuszEwZ

序奏部だけですみませんが、お聴きになってみて下さい。


上の演奏はCDで「1869年版」とされていますが、1869年のものは出版されていないので、ほんとうに1869年版かどうか判然としません。添付リーフレット(英語)にも説明がありませんでした。

今日初めてざっと聞きましたが、序奏はいま聴ける決定稿である1880年版とは全く違うことはすぐに分かります。現行のものより明るい、チャイコフスキーのバレエ音楽をイメージさせるものになっています。コラール風ではないので、1869年版であるのかも知れません。

現行版(発行されているスコア)で112小節目から始まるAllegro giustoの部分は、同271小節目までと(おそらくオーケストレーションも)変わりません。

続く部分はチャイコフスキーには珍しいフーガ風の仕立てです。ティンパニのソロがあったりして面白い部分です。

現行版353小節目から418小節目に対応する部分も構造的にはまったく変化はありません。ただしオーケストレーションが微妙に違うようです。明らかに違 うのは、現行版390〜418小節でホルンに割り振られているモチーフ(ゼクエンツ)がトランペットとトロンボーンに与えられ、最初からオクターヴ低い方 でもならされていることです。

419小節以降、終結部までは現行版とは全く違っています。

全体に、第1版の3年前に書かれた「白鳥の湖」や「スラヴ行進曲」を彷佛とさせるのが非常に興味深く思われます。

面白いな、とお思いになられるようでしたら、ぜひ全貌をお聴きになってみて下さいね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年11月30日 (土)

ヴァーグナーのやったこと・・・「ラインの黄金」を例に

近代の作曲家は詩的効果より音楽的効果を、歌詞より音楽の調べの方をさき立てる。ワグナーのオペラは音楽と詩を調和的に結合しようとしたものといわれるが、主人はやはり音楽であり、詩はその引きたて役であるのに変わりはない。/詩がことばを通してこの現実と大地にしばられているとき、音楽はとくにバッハ以後、ことばから独立した、純粋で自由な、みずからの形式を発明し、空たかく飛翔するに至った。詩人が音楽を羨望するという事態が、かくて生じる。だがこれは主として近代のできごとであり、梁塵秘抄もそうであるように、かつては詩と音楽、ことばと音楽との関係は均衡しており、さらに古くは逆にことばの方が主人であったと考えられる。」(西郷信綱『梁塵秘抄』158頁、ちくま学芸文庫 2004年。原著は1976年発行)

洋楽に飛んでいるところが「?」になるでしょうけれど、西郷氏のこの論は日本の歌謡曲のことも踏まえた文脈で語られているもので、1970年代の音楽観としては日本で一般的だったものをよくまとめておられるのではないかと思います。

ここで「音楽と詩を調和的に結合しようとしたもの」だと言われいているヴァーグナー作品は、さて、本当に詩より音楽が優位に立ったものなのでしょうか?
あてられた詩を外国語として聴き取り、あるいは聴き取れずに無意味な人声の羅列として耳に入れている私たちには、たしかに音楽優位としてしか作品を享受出来ない側面が強く、またアマチュアがヴァーグナー作品をとりあげる場合も声楽ぬきで演奏するケースが圧倒的に多いかと感じます。
長大な『ニーベルングの指輪』四部作においては、全篇を鑑賞しきれるのも大変であるため、いっそうその傾向に拍車がかかっています。

最も短い『ラインの黄金』を観察してみたとき、それでもヴァーグナーがことばと音楽の間で試みたことが少しは見えて来るのではないでしょうか。
で、そのとっかかりになりそうなことだけ手短にとりあげてみたいと思います。

オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社)『ワーグナー ニーベルングの指輪 上』(2002年)に添えられた高辻知義氏による「あとがき」によれば、『ラインの黄金」の詞(詩と言うよりこちらのほうが合っているでしょう)に施された工夫は、こういうことだそうです。
「古ドイツ語の言語感覚に根ざし、従来の尾韻に代えてここで初めて採用された頭韻の使用は効果をあげた。これは、歌詞中の1行または数行の中で、アクセントのある音節に同じ響きを繰り返して、韻律的効果と構造的まとまりを実現するもので、歌劇ではワーグナーの試みが最初だった。」
あげた効果の顕著な例としては、四部作の最初に当たる『ラインの黄金』の、これまた最初の、ラインの乙女ヴォークリンデの詞に解説が添えられています。

 Weia! Waga!
 Woge, du Welle!
 Walle zur Weige!
 Wallala weiala weia!

これは、『ラインの黄金』の単純から複雑へと進む前奏に引き続き、
「wの頭韻を重ねながら、人間言語が形成される過程を模してみせる」
のだと説明されています。

そもそも『指輪』四部作は、場面場面の大物・小物から登場者の心情に至るまで「『指輪』全曲では100余にものぼる示導動機が少数の根本的な形から生成発展する体系を作り、関連し合って全体のまとまりをも作り出している」(上記対訳本あとがき)ことで名高く、鑑賞にはそれらの示導動機=ライトモチーフが何を表しているかへの知識が欠かせないと考えられています。なぜなら、『指輪』四部作中では終始「歌詞に対しては、肯定的ばかりでなく、批判的、否定的なコメントも【補:ライトモチーフによって】入ることがある」(同上)からで、ライトモチーフがシンボライズしたものを具体的に知ることで、たとえ詞が完全に分からなくても音楽から情景が出来ると信じられているからでしょう。

『ラインの黄金』について見るならば、とくに最終部分がこの点では興味深いものがあります。
管弦楽として独立して演奏される際には「神々のワルハラ(ヴァルハル)への入城」と呼ばれる『ラインの黄金』幕切れ部分は、器楽だけで演奏されても荘厳な魅力でいっぱいです。
最後の226小節が該当場面で、まず雷神ドンナーが空気を浄める雨を降らせ(35小節間)、次いで陽の光の神フローによって虹の橋が架けられ(23小節間)たところで、虹の向こうにワルハラの動機が壮麗に響き始めます。
みごとなまでに、「これがドンナーの動機だ」・「これが虹の動機だ」とそれぞれ明確に分かるように配置されていて、虹の動機の背景で光がひらひらしている合間からワルハラの動機が湧き上がって来るという、音楽が勝った構造になっています。器楽のみで演奏すれば、これだけで成り立ってしまいます。(『ラインの黄金』のライトモチーフを閲覧出来るサイトはこちら http://www.rwagner.net/midi/e-rheingold.html

ところが、この部分には、実は器楽には書かれていない重要な音の線があります。
ひとつは、自分たちが見張り番をしていたラインの黄金をワルモノに奪われてしまったラインの乙女たちの声で(最終から数えて71小節目以降に現れる)、これがなければ、ワルハラに入城する神々の四部作中での本当の位置づけ、その後の運命が浮かび上がってきません。ただし、ラインの乙女たちの声で歌われる動機は歌曲のように分かりやすく、もし何らかの方法で補うなら、『黄金』最終部の意味は器楽だけでもかなり保つことが可能です。(とはいえ、私は補った演奏例を聞いたことがありません。)
もうひとつは、ワルハラに向けてかかった虹の橋を見た大神ウォータンの詠嘆(最後から143小節前に始まる)で、

Abendlich strahlt der Sonne Auge;

で始まる47小節にわたる箇所は 、ウォータンのことばが器楽とまったく対等の一本の太線であるかのように節付けされています。しかも、その述べている意味合いは、器楽からだけでは判明しないものです。けれども、神ともあろう存在が感銘に打たれきっているそのさまは(残念ながら外国語のほとんど不自由な私には強く主張出来る権利はないのですけれど)ことばへの理解ぬきに味わえるものではありません。ウォータンの歌う線の起伏は完全にことばと同化しています。・・・これは、聞いて頂くしかありません(この例では歌いかたがちょっとリアル過ぎかなと思いますが)。


WOTAN: FERDINAND FRANTS
(フルトヴェングラー/イタリア放送響1953年ライヴ EMI 9 08164 2)

すなわち、こんな一ヶ所をとっただけでも、ヴァーグナーは西郷氏の言う「かつては詩と音楽、ことばと音楽との関係は均衡しており」のところまでは回帰したかったのだろう、そのための精一杯を試みたのだろう、という面が浮き彫りにされて来るように、私は思っております。

あらためて詞をあげておきます。(訳:高辻知義〜語彙の順は原語と訳で一致していませんのでご留意下さい。)

Abendlich strahlt der Sonne Auge;
(夕暮れに太陽の瞳が輝いている。)
in prächtiger Glut prangt glänzend die Burg.
(城は見事な光の中で誇らしく聳える。)
In des Morgens scheine, mutig erschimmernd,
(暁の光を浴びた勇ましい姿は)
lag sie herrenlos, hehr verlockend vor mir.
(まだ主を持たず、気高く誘う気配をわしに見せていた。)
Von Morgen bis Abend, in Müh' und Angst,
(朝から夕べまで、辛苦と不安に彩られて、)
nicht wonnig ward sie gewonnen!
(城の獲得はこころ楽しい作業ではなかった!)
Es naht die Nacht: vor ihrem Neid bietet sie Bergung nun.
(闇が忍び寄る。夜の嫉みからの隠れ家を城は与えてくれる。)
So grüß' ich die Burg, sicher vor Bang' und Grau'n!
(かくて、わしは城に挨拶する。不安と恐怖からの安心を覚えて!)
Folge mir Frau: in Walhall wohne mit mir!
(さあ、ついておいで、妻よ、ヴァルハルに一緒に住まおう!)

詞(詩)を歌う声と管弦楽との兼ね合いについては、『トリスタンとイゾルデ』の有名な終曲(「愛の死」)も、このウォータンの場面とまったく同じ問題を持っていて、むしろそちらのほうがよく知られているだけ例としては分かりやすいかも知れません。「愛の死」でもイゾルデの歌う太線は、管弦楽側にはほとんど出てきません。それにもかかわらず、「愛の死」は慣例的にイゾルデの声なしで管弦楽だけで演奏される機会が・・・最近は知りませんが30年ほど前くらいまでは・・・けっこう多くありました。
いまは、場面場面をよく見て行くとこんなことがある、と例示するにとどめます。

『ラインの黄金』全体の構成を眺め渡しますと、もっと面白いことがあります。
(面白い、と思って頂けるならば、ですが。)

『ラインの黄金』が以下のような4場からなっているのは、諸書にある通りです。

第1場:ラインの乙女たちに冷たくあしらわれたニーベルング族の醜男アルベリヒは、乙女たちの守っていたラインの黄金を奪ってしまう

第2場:天上では大神ウォータンが美の女神フライアを人質に出して巨人に城を築かせている。城が出来上がった暁にはフライアを取り戻したいが、身代金の持ち合わせがない。火を司る半神ローゲが語るラインの黄金の話に飛びつき、それを手に入れようと、ローゲを案内に立てて、アルベリヒがいるニーベルングの地下世界へと下って行く

第3場:ラインの黄金で造った指輪の魔力でニーベルング族を支配したアルベリヒは弟ミーメが造った隠れ頭巾(これをかぶると姿を消したりいろいろなものに変身したり出来る)をもミーメから奪って得意満面だったが、訪ねてきたローゲの計略にハマって、隠れ頭巾で小さな蛙に変身したところをウォータンにつかまり、天上まで連行される

第4場:天上に連行したウォータンはラインの黄金を貢がせた上にアルベリヒから指輪まで奪い取り、貢がせた黄金をフライアの身代金に充てて城を造った二人の巨人たちに渡す。巨人たちはウォータンの手放したくなかった指輪をもせしめたが、アルベリヒによって指輪にかけられた呪いで巨人同士は殺しあいになる。巨人たちの諍いを目撃したウォータンら神々は指輪の鈍いに震撼するものの、なんとか無事に手に入れた城に、虹の橋を渡って入って行く

この4つの各場は、一幕ものである分色合いが強まっていると言えるのでしょうが、それぞれに他の場と明確に異なる際立った特徴があります。ちょっと極端な物言いになっているのはご容赦下さい。

第1場は全体がラインの水流を表す動機一色で貫かれています。
http://www.rwagner.net/midi/rheingold/e-m003.html

第2場は天上の神々が主要登場者であるため旋律的ですが、まとまった歌らしいものが聴こえません。(従来のオペラのレチタティーヴォ・アコンパニャート的)

第3場は地下のニーベルングの世界で、ニーベルングの鍛冶の動機が頻繁に聴こえますが、それが支配するというのではなく、登場者の語りの色合いが強くなっています。(従来のオペラのレチタティーヴォ・セッコ的)
http://www.rwagner.net/midi/rheingold/e-m033.html

第4場は、最も歌らしい歌が支配することの際立つ部分になっています。

こう記しますと、第4場だけが「歌謡的」なイメージになってしまいますが、そんなイメージを持ってしまうと誤りでしょう。それぞれの場の特徴は特徴として、実は声のパートについては全篇が「語り」一色だと捉えた方が、『ラインの黄金』の持っている像はよく見えて来るのではないかな、と感じます。

まず、従来のオペラのような、独立型のアリアは全く存在しない、とは、言うまでもないことです。
冒頭でラインの乙女たちに与えられた幾つかの旋律にしても、最終第4場のエルダによるウォータンへの警告の歌、旋律的なドンナーの歌にしても、それらはリート(歌曲)的で規模の小さいものであり、場面の輪郭の一部を音楽的にくっきりさせる働き以上のものを持ってはいません。

第2場や第4場で歌謡的に聴こえる神々の声も、よくよく聞けば「語り」の一部であって、これに似た例で思い浮かぶのはバッハ「マタイ受難曲」でイエスにつけられた声の線ではないかな、と思います。

配役の中で、「歌」的なキャラクターと「語り」的なキャラクターがうまく書き分けられていて、後者は黄金を奪ったアルベリヒと火の神ローゲが代表者です。とくにローゲは第2場以降のすべての場面で「語り」要素を最も全面に押し出しています。また、大神ウォータンの心理を註釈する役割を持つと見なせる妻の神フリッカも、ウォータンに寄り添うところでは「語り」要素を色濃く見せます。

アリアに当たるものがまったく無いわけではありません。
ところがまた興味深いのは、アリアと呼んでもよいような歌を持つのは、第2場のローゲ(ラインの黄金が奪われた経緯をウォータンに物語るとき)だったりアルベリヒ(第3場でニーベルングを支配したことを自慢するときや、第4場で指輪に呪いをかけるとき)だったり、と、「語り」キャラクターのほうなのです。そしてまたそのアリアが全く旋律的ではありません。そのかわり、上に見たウォータンの箇所と違って、これらにはオーケストラからのダイレクトな音の補強が多めにあり、伝統的なアリアの書法となっています(Dover版スコアでは、ローゲ=p.121〜p.126、アルベリヒ=第3場p.190〜p.196、第4場p.237〜p.242)。際立った旋律的特徴を持たせないことで伝統色を弱めておきながら、これらの箇所では従来のアリアの書法を姑息に(!)守っているところが興味を引きます。

すなわち、『ラインの黄金』においては、音楽を用いる以上、「歌謡的」な役と「俳優的」な役とを書き分け、取り混ぜてメリハリをつけており、しかもオペラの伝統業はむしろ「俳優的」な役の方に持たせて音楽的なものと語り的なものとの境界をぼかしているのではないか、と思われるのです。
そして全篇は「語り」で貫く。それにより、オペラではない演劇同様に、劇の空気が途切れないようにしている。ただし、「語り」が音楽に寄り添い得るようにするため、詞は徹底して韻文的に練りあげて、音楽を付けやすくしているわけです。

このあたりの特徴からして、ヴァーグナーの、とくにこの『ラインの黄金』を含む指輪四部作は、やはり、ことばにも傾注して鑑賞出来るようにしたら、もっともっと本来的な面白さが見えて来るのではないかなぁ、と、そのように考えている次第です。

なんか、ゴテゴテしてしまってすみません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月21日 (日)

ハイドン「告別」【自筆譜を読む(2)】

(1)モーツァルト「ジュピター」(2)ハイドン「告別」・(3)ベートーヴェンの協奏曲 

 


ウィーンフィルのニューイヤーコンサートも最近はワルツの迫間に記念年作曲家の作品をはさみこむようになりました。2009年には没後200年だったハイドンの「告別」シンフォニーの最終楽章が演奏されましたね。この作品のエピソード通り、楽員が一人去り二人去り・・・最後にヴァイオリン2人だけになる。・・・視覚的にこの場面を楽しむ機会はそうそうありませんから、(指揮しているバレンボイムの最後の演技過剰は措いても)嬉しいひとこまでした。

YouTube
http://youtu.be/vfdZFduvh4w

この箇所、ハイドンは実際にどう書いたのでしょうか?
自筆譜のファクシミリは1959年、これもハイドンの没後150年を記念して出版されているため、身近に見ることができます。

他作品は知らないのですが、モーツァルトが横長を愛用したのとは違い、ハイドンはこの作品では縦長の五線紙を使っています。段数は12段で同じですが、パートの割り振りかたも違います。
モーツァルトは最上段にヴァイオリン2つとヴィオラを置き、ジュピターの例で言うとその下にフルート、第1オーボエ、第2オーボエ、第1ファゴット、第2ファゴット、ときて、ホルン、トランペット、ティンパニ、チェロとバス、でした。これは違うオーケストラ作品(声楽を伴奏する作品を含む)でも基本的に変わりません。
ハイドンの「告別」シンフォニーでは、最上段から第1ホルン、第2ホルン、第1オーボエ、第2オーボエ、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ヴィオローネ(最低音弦楽器)となっています。
これで12段は埋まりませんので、第1楽章は下4段をあけたまま書かれています。(あいかわらず携帯電話写真ですみません。それぞれクリックで拡大します。)
(第1楽章冒頭部)
1_1istmov_2

第2楽章と第3楽章ではではホルン2本とオーボエ2本を一段ずつにまとめて6段1セットとして紙を節約しています。
(第2楽章冒頭部)
2_2ndmov

ところがまた最後の第4楽章は第1楽章と同じように8段記入下4段あけ、で書き始められています。
そしていよいよ問題の箇所。
(第4楽章途中)
3_finale1

各パートを個別に減らして行く目論見があり、かつヴァイオリンを4部にするので、それまで8段で書いていたものを12段に拡大、弦楽器はパート名を改めて記入しています。

以下、ちょっとぎゅっと詰め過ぎましたし、画像ソフトを使い慣れないので整列させきれませんでしたが、クリックすれば拡大すると思いますので、ご覧下さい。(陰はお許し下さい。)
(第4楽章最後)

6_finale4

印刷譜に直したスコアですと、まず休符で退場するパートが埋められ、ページが改まるとまだ残っているパートだけが引き続き書かれますので、楽器が減って行く印象が少し薄くなります。
ハイドンの手書き譜では、退場するパートがページ末尾で打ち切られ、次のページには減ったあとのパートが徐々に上に詰めて書かれているので、楽器の減るのを如実に感じ取ることが出来ます。

ところで、この手稿譜には、モーツァルトに見られたような訂正がまったくありません。
音符や発想記号が書き改められた痕跡がないのです。

二ヶ所だけ、黒く塗り潰しているところはあります。
第2楽章のオーボエパートに4小節間、終楽章のホルンパートに4小節間です。
和声を彩らせるつもりで書いた長い伸ばしの音を抹消したもののように見受けます。
2013072018270000_2
訂正はこれだけです。

ミスがないので、曲の解釈をめぐる謎も何もなく、その点では面白くも何ともないものです。

けれども、ミスがないことを含め、実際にはこの手稿譜からは興味深いことが幾つでも読み取れます。

(1)ミスがないということは、ハイドンはこの楽譜の上では「考える」作業は一切していないということであろうと思われます。これは、①作曲に当たって下書が存在したか、②下書などというものはハイドンの頭の中にしかなかったか、のどちらかを示していると考えるべきなのかも知れません。②だとしたら、驚異的なことです。

(2)しかも清書譜にしては音符はかなりラフに書かれていて、臨書にあたってハイドンに特別な思い入れはまったく無かったのだろうとの印象を受けます。仕事のために急いで書く必要はあったかもしれませんが、ミスがないところから、それでも慌てふためくような態度なり慌てなければならないような状況下だったりではなかったことが分かります。

(3)訂正はオーボエ、ホルンそれぞれに4小節連続のものが1ヶ所あるだけに限られているところから、書く前に曲は完成していたものの、楽譜を書きながら考えることが全然なかったわけではないことも判明します。となると、もし下書きがあったとしても、オーケストレーションを完全に終えたものであったとは考えにくくなります。管楽器パート(ホルンとオーボエのみですが)についてはハイドンの頭の中だけだった可能性が大きいのではないかと思います。(前掲は第4楽章のホルン抹消部)

(4)この手稿譜自体が下書き譜ではありえない、ということについては、状況証拠とこの譜面に自ら書き入れた証拠の両面から確言出来るようになっています。状況証拠の方は、このスコアの来歴です。第1ページ目、すなわち第1楽章の開始部の、タイトル部分にある書き入れ(ハイドンではない人の手による)、青い「fol.13」と黒鉛筆の「N.139」は、旧エステルハージライブラリでの整理番号で、おそらく19世紀中のものだろうと考えられています。いうまでもなく、エステルハージ家はハイドンがこの曲を提供した先であり、そのライブラリがそのまま19世紀のハンガリーに引き継がれていたそうです。

(5)ハイドン自らの書き入れによる証拠は、手稿譜のところどころにある、小節数を示す数字です。
(第4楽章の場面転換箇所の例です。)
2013072018270001これらの数字は、各楽章の前半(呈示部)が終わったところ、途中でフェルマータが付されたところ、全ての楽章の最終小節に付けられています。

しかも、数字は冒頭小節から通して数えられた全小節数ではなく、前に小節数を書いた箇所からいまここに書かれた箇所までの小節数になっています。すなわち、第1楽章ですと、まず前半が終わるところに「74」(最初からそこまで74小節)とあり、次にはフェルマータが付されている箇所に「35」(1小節多くかぞえまちがっています)と書かれているのですが、この「35」はまえに「74」と書いたところの次の小節からフェルマータの付されたところまでの小節数です。以下、同じように全部で14ヶ所書かれています。
これは何を表しているか。
ハイドン自身に数えなければならなかった事情があるとは考えにくく思います。
(4)からも、この手稿譜が本作品の最終形を間違いなく書き留めているだろうと推測出来ますから、これらの数字は、これからすぐに演奏に供するパート譜を作成しなければならない写譜屋(係)の便宜を図ったものではないだろうか、と思われます。すなわち、作品完成後さほど時間を経ずに演奏しなければならない状況下にあるため、パート同士の整合性を検証する際に目印にしやすい箇所までの小節数を書いておいたのだろうと思うのです。通しの小節数を書くより、分かりやすい目印から次の目印までの小節数を書いておいた方が、実務的には照合がラクになるのは、手書きでパート譜を作ったことのあるかたなら容易に合点がいくでしょう。

以上、ハイドンは作曲にあたって下書をしたかどうかは分かりませんが、曲の仕上げはスピーディに、しかし冷静にすることの出来る高い能力を持っていたこと、そうして出来上がった作品はまた急ぎ演奏にかけられるので即時写譜屋(係)に回されたであろうこと、が、他になんの断り書きもない手書きスコア1冊から感じ取られるのですから、やっぱり面白いなぁ、なのであります。


 このファクシミリは印刷の通し番号があり、私の所持しているのは「103」番です。
PUBLISHING HOUSE OF THE HUNGARIAN ACADEMY OF SCIENCES 1959

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月12日 (金)

旋律性のささやかな否定(プッチーニ「私の名はミミ」)

面倒が好きな私でも面倒なのは面倒なのでして、ブルックナー「ロマンティック」第2楽章以下はは先送りです。マニアックに眺めるのは楽しいのですけれど、割ける時間も必要ですね〜

 で、脇道です。


今、余興用にコンパクトにアレンジしたくてプッチーニのオペラをいくつか読んでいます。
で・・・もしかしたら前にも騒いだのかも知れませんが、やっぱりこれは面白いなぁ、と思うのが、『ボエーム』の中の「私の名はミミ(私はミミって呼ばれています)」です。

どこが面白いか。

この歌、オペラを離れて単独で歌われもするのですけれど、聴けば聴くほど、本物の「劇のセリフ」だなぁ、と感じ入ってしまうのです。

「はい、私はミミって呼ばれてます。でも本当の名前はルチアなの。」
と、戸惑いながらつつましやかに始める。
それが、だんだん興に乗って来る部分が、まずこれ(この歌が始まってから15小節目〜25小節目)です。

ここでは、歌が音階に沿って滑らかに進んでいるのを確認しておいて頂ければと思います。
そして、いったん、自己紹介を聞いてくれている相手に
「おわかりになって?」
と確かめることで沈静化します。

最初と同じラインで、より詳しい自己紹介が歌い始められますが、ここでミミは聞き手を差し置いて夢見てしまって、ひとりで思いが昂っていきます。
こんなに自分だけで昂られるのを目の前にしたら、実際に
「あ、このコ魅力的」
と思って
「君のこと教えてよ」
と言い出したのがこっちでも、結局はどん引き(死語か)するだけでしょう。
けれどもそこはお芝居の中なのです。プッチーニ自身がそのことをよく分かって作曲していますし、作られた時期の人の感情の起伏も最近よりは激しかったようです。

夢想の昂りがいちどおさまりかけたときに、先ほどの興に乗り始めたときと基本は同じ旋律があらわれます(60〜71小節)

ここが、たいへんに良く出来ています。

独立した歌、として聴いてしまうと、実はこの部分の最初の方が不自然なのが、お分かり頂けるでしょうか?
さっきは滑らかに上昇していた旋律線に、断絶があります。
歌詞で言うと、
"Foglia a foglia la spio!"

"Cosi gentil"
の間です。
休符を挿んで2度(C#-D ミ〜ファ)であるべきところを、3度( C#-E ミ〜ソ)跳躍しています。
長音階で言えばたかだか3度なのですが、されど大変に大きな3度で、ここから語られる思いの切なさを強くアピールするのです。

音楽音楽していながら、旋律的な自然さを破って、歌を「語り」化している凄さがある箇所だと思います。

でもって、心のヴェールを大きく開いてみせていながら、最後は慎ましく(レシタティーヴォとして)終える。もはや古典的なオペラアリアではありません。

ですので、
「う〜ん、これはアレンジして単独に歌うようにしてしまっては、なれない伴奏の人たちが苦労するだけだなぁ」
と、ちょっと諦めさせられてしまったのでした。

上の歌の抜粋はレナータ・テバルディの歌唱でしたが、歌詞を理解しながら聴けるYouTubeのマリア・カラスの歌を埋め込んでおきますので、全体を楽しんで頂けましたら幸いです。


*旋律性の否定が調性音楽の中で現れたのは20世紀的現象なのかも知れません。前衛と呼ばれた作品群では大きく否定されるのですけれど、十二音技法は技法そのものが旋法を指向していましたので、旋律的なのです。むしろ調性を守って作られた音楽のほうに旋律否定の片鱗が現れることは、偶然なのか必然なのか、興味が湧くところです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月 4日 (木)

優しい方がお好き?【第1楽章】ブルックナー第4(2)

(1)(2)


初稿の第1稿と、実質的な決定稿である第2稿ブルックナー「ロマンティック」(交響曲第1番)第1楽章を見て行きましょう。

全体を俯瞰した時に、第2稿は全部の楽章が「4の倍数」の小節数プラスマイナス1の小節数であることに触れました。

第1楽章の各セクションの練習番号(記号)は第1稿と第2稿が概ねきちんと対比出来ますので、それを表にしたものを載せておきます。
これによって細かく見るならば、
・4小節フレーズのセクションが圧倒的に多い
・第2稿が結果として4で割り切れる小節数になった理由は、余りが2となるセクション(ピンクに塗ったセクション)が8つで計16小節を形作るところに求められる
と知れます。

表を掲げる前に聞いて頂きたいのが、次の音声です。
第1稿における、第1楽章の、とある部分です。どこだか、ピンと来ますか?
唯一のヒントは、終わりの方にあります。答えは後ほど。
音声の典拠は前回の全体俯瞰のときと同じですので、表記しません。

全体の構成小節数対比表を掲げます。クリックで拡大します。

Br4_1_all

この表を見ての通り、第1稿・第2稿とも、同じ骨組みのソナタ形式で出来ています。
ただ、全体のバランスが大きく変わっています。長さも、第2稿はほぼ9割に縮んでいます。

第1稿:呈示部190 展開部188 再現部252(3対3対4)
第2稿:呈示部216 展開部148 再現部209(3.5対3対3.5)

すなわち、第2稿は、各部分がほぼ同じ長さになるように整えられ、中でも展開部は規模を小さくしてあります。これはハイドンやモーツァルトのソナタ形式楽章の展開部の比率よりやや長く、ベートーヴェンの交響曲のソナタ形式楽章程度の比率なのではないかな、と思います。
第1稿は再現部が長く、聴いていると冗長な感じがまったく無いとは決して言えません。第2稿における構成比率の改善は、「聴き手に優しい」改変をしたものだとみなせるでしょう。

こんな具合で、現行の第1楽章は、「優しい方がお好き?」と私たちに問いかけているのですね。

細部の面白い特徴は、第2稿は終結部(S)を除く全てのセクションが偶数小節数(全22セクション)なのに対し、当初の第1稿は奇数小節数【オレンジ色に塗った部分】のセクションが4ヶ所もある点(全26セクション)で、ここには第1稿がブルックナーの「思いのまま」に近い形で仕上げられたことを読み取れるのではないかと思います。

また、展開部で3セクション削減、再現部では1セクション削減で2セクション統合を行なっていながら、第2稿は単純な「縮小版」ではないことは、数字では兆候を発見しにくいかも知れませんが、次のようなところで判明します。

・呈示部全体は第1稿より14%増しに拡大している
 (細かくは、冒頭部を除き、セクションB、Cのみ2小節ないし4小節縮小、他は全て数小節延長)
・展開部 I は第2稿では続くセクションを削減したが、削減部分を含め第1稿では2セクション40小節あったものを統合して全体で6小節削減したに過ぎない
・再現部第1稿T〜U合計36小節は、第2稿Qに32小節に統合・整理されたものである。
・同じく第1稿XYZ全66小節は第2稿S全41小節に整理されているが、これは全くの書き直しとみなせる。

統合・整理を行なった部分がいかに分かりやすくなったか、を音の例で上げたいところですが、統合に伴い変成岩化していますので対比しても分かりにくいかも知れません。
あとでとられた改変方法が比較的よく分かる、第1稿Lの部分を、代わりにお聴き下さい。

これが、第2稿では、まるまるKの部分となります。数としては6小節減っているのが表で分かりますけれど、この削減は、この箇所でヴィオラに置かれた極めて平明な対旋律が、第2稿で断然メロディらしいものに改善された結果であることが明確に理解出来ます。(それに伴い後続部のファンファーレ的なコラールもディナミーク等に改造が加えられています。)

第2稿になるとまるきり削られるのが、展開部のN・Oのセクションです。
ブルックナーがなぜ削ろうと考えたのか、は、この部分の音声を聴けば推測が可能です。
すなわち、最初に上げた音声は、この第1稿N・Oのセクションである、というのが正解なのです。
突然「ロマンチック」に動きが入り乱れ、第1稿ではこの部分だけが浮いて聞こえます。
・・・とはいえ、捨てたのがあまりにもったいない、面白い響きがするとは思いませんか?
   ずいぶん絵画的だなぁ、と、私などは印象づけられています。

第2稿が1差し引くと4で割り切れる小節数になるることについて、少し付言しておきます。
セクションの記号は第2稿のものです。
・1小節の余分は終結部の最後に付け足された1小節によります。
・2小節余分のセクションの内、冒頭部は序奏として2小節付加されたもの(第1稿も同じ、ただし第2稿では再現部では前奏2小節を置かない)、他もNを除き基本4小節フレーズを次のセクションへのつなぎなどで2小節延長したもの(2小節に圧縮した別フレーズではない)になっています。
・Nの2小節余分だけは例外で、これはNの冒頭部が3小節フレーズを2回繰り返しているため、結果として最初に6小節付加されているせいです。

以上、ご精査の上、不備誤り等お気付きの際は、いつも通りですが、なにとぞご助言ご指摘乞い願い奉ります。

本来はこれも見ておきたいオーケストレーション面には触れませんでしたが、第1稿のほうが、別の動きをするもの同士の重なり合いが圧倒的に多く、その結果、響きが華やかになっている点を述べるにとどめます。これは他の楽章についても言えます。よりヴァーグナーに近い音色がします。第1楽章の場合は、「ローエングリン」・「マイスタージンガー」色が強いように思います。これらは、第2稿では消えてしまいますけれど、同時にいまの私たちがブルックナー的だと感じるものへと整ってもいるので、一長一短でしょうね。

なお、第2稿の第1楽章最後にある有名なホルンのユニゾンは、第1稿にはありません。

なお、スコアは、第1稿は全集版とオイレンブルク版が入手可能で、私は安い方のオイレンブルク版を参照しています。校訂者はノーヴァク(旧訳ではノヴァーク)です。第2稿も、安い音楽之友社版(ノーヴァク校訂)です。Doverからペーパーバック大型判のハース版が出ていますが、素人目にとっては目立つ差異がなく、使うメリットを感じませんでした。(ノーヴァク版の方がより新しい発見成果を反映している、との前書をいちおう信用しておきますし、おそらくオーケストレーションの問題以外では特徴的な差はまったく無いものと推測します。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年3月28日 (木)

ロマンチックを止めたのね・・・ブルックナー第4(1)

(1)(2)


さて、西洋クラシックに戻ります。(;^_^A

自分たちのアマチュアオーケストラが今度ブルックナーの交響曲第4番(ロマンティック)をやりますので、そのネタです。

「ロマンティック」はブルックナーの交響曲の中でいちばん知られていますのに、いま読めるクラシックの国内書籍でブルックナーのトピックをたてるときには、いちばん採り上げられることが少ないという、不思議な運命の作品でもあります。

4109022126 もし採り上げられにくい理由があるのだとしたら、それはなんでしょう?
他の交響曲に比べて、古典的に非常に均整がとれていて、クラシックマニアな人たちには奥を覗き見たいと思わされる魅力に欠けるからなのかも知れません。
第1楽章572小節、第2楽章247小節、第3楽章主部259小節トリオ54小節、第4楽章541小節・・・実は、第1楽章はそのまま、第2、第3楽章主部は1を足し、第4楽章は1を引けば、すべて4で割り切れる小節数になります。おのおのの楽章を聴けばいっそうはっきりしますが、どの楽章も、4小節1フレーズを基本に作られています。(*1)
古典派とされるハイドンでもモーツァルトでも、ここまで執拗に4小節1フレーズ主義ではなく、奇数小節で区切る例が少なからずあるものの、音楽の根元が4小節1フレーズではありましたので、ブルックナーにおいても、第4番は古典的である、と言って差し支えがないでしょう。

・・・ですが、これはあくまで、いま専ら演奏される第2稿での話です。

今年偶然に、教えて下さる人があって、YouTubeにある第1稿の演奏というのを聴いて、あたしゃヒックリけぇってしまったのでした。
第1稿は、ちょっと違うのです。
小節数こそ、第1楽章と第3楽章以外は、むしろきれいに4で割り切れます(第1楽章630小節、第3楽章主部362小節。4では割り切れません。以下は割り切れます。第2楽章244小節、第3楽章トリオ132小節、第4楽章616小節)。これが何を隠そう、かえって怪しいのでありまして、第2楽章、第3楽章は、余韻部分のために1小節付け足して理解するのが自然なのではないかと思っておりますが・・・まぁ異論もあるかも知れませんから強くは言わないでおきます。第2楽章以下は4小節1フレーズであることは否定しません。
でも、第2楽章以下でも聴いてビックリなのは、第1稿でブルックナーが「ロマンティック」に与えた色合いは、第2稿に比べてずっと多彩で華やかな点です。
第3楽章は、第2稿ではすっかり書き換えられたために、譜づらを眺めたり軽く聞き流したりする限りでは、第1稿のものはまったく違う音楽です。・・・これは後日、第3楽章に突っ込んでみるとき改めて観察しましょう。
第2楽章、第4楽章も、第1稿と第2稿では、似て非なるものになっています。とくに、第4楽章が、いま普通に演奏されるものよりも明るいもの悲しさで満たされていることには、耳になさったらきっと仰天されるに違いありません。・・・これも後日の楽しみにしましょう。

第1楽章の相違は、双方を比較する上で、もっとも分かりやすいものです。
ためしに最初の部分を聴いてみて下さい。

第2稿・・・普通に演奏され、私たちも演奏するもの。

(ハインツ・レグナー/ベルリン放送交響楽団 ETERNA 1983年)

第1稿

(ケント・ナガノ/バイエルン国立管弦楽団 SONY SICC10078 2008年)

第2稿に比べ、第1稿には次のような特徴があるのが、耳でも充分判別出来ます。

・冒頭からの光の広がるような響きの演出が、第1稿の方が早く明るさを増し、多色刷りになる。

・全体が出揃ってから(力強い響きが続くようになってから)、管楽器と弦楽器が、第1稿では運動が入り組んだものになっていて、第2稿では整理されて同じ動きにされている。

・第1稿は奇数小節数のフレーズがある。第2稿では同じものを2回繰り返して偶数小節数のフレーズに整えている。・・・数えなくても、安定した感じに聞こえることで分かります。

つまり、「ロマンティック」というタイトルは、第1稿の方がよりふさわしい。
第2稿は、「ロマンティック」であることを止めてしまったようにさえ感じられます。

「ロマンティック」という標題はブルックナー自らが付けたものです。
第1稿は、全体に、この「ロマンティック」というタイトルにふさわしい叙情が溢れています。末尾にYouTubeのリンクを貼っておきます(*2)ので、今後だらだらと記事を連ねていくのには耐えかねもし待ちかねもするようでしたら、どうぞお聴き下さい。管楽器と弦楽器が、不安定なほどに異なった動きで重なりあいます。
それが、現在私たちがごくあたりまえに聴く「ロマンティック」では、同じ動きになるように整理されています。どこがロマンティックなんだ、と思うくらい、それは無骨でもあります。第1稿を聴いて初めて、彼がなぜこの作品を「ロマンティック」と呼びたかったか、やっと分かるようになっています。第1稿を聴くことに縁がなければ、永遠に分からないのでもあります。

ブルックナーは、なぜ「ロマンチック」を止めてしまったのでしょう?

「ロマンティック」が最初に完成したのは、1874年です。
出来上がって、このときの第1稿で演奏されるかも知れない話もありました。ですが、それはうやむやになってしまいます。試演はなされたようですが、ブルックナー自身は聴いていなかったかも知れません(根岸一美「ブルックナー」73頁参照、作曲家○人と作品シリーズ 音楽之友社 2006年)。
現在一般に演奏される第2稿は、四年後の1878年暮れに基本的な改訂作業が終えられたものです。初演はさらに約14ヶ月後の1781年2月で、この間にも初演の半年前までブルックナーが手を加え続けたことが明らかになっています。この初演は、聴衆が退場して行く悲惨さに見舞われた第3初演とは違い、楽章ごとにお客の喝采を受ける大成功のものでした。
「ロマンチック」を止めてまでも、ブルックナーは、この喝采のために執念を燃やし続けたとは受け止められないでしょうか?
1878年10月の手紙に、彼は
「どの曲も外国で演奏されるようになるまで・・・」
彼の地元のウィーンでの演奏は願い出るつもりがない意図を語ったとのことです(前掲85頁)。ウィーンでは先に第3交響曲で痛い目にあわされています。ウィーン移住前、既にミサ曲などでドイツでは小さくない成功を収めた経験のあるブルックナー(彼自身は生粋のオーストリア人)には、これは、外来の名声には右習えするウィーンの聴衆の弱みを突いた精一杯の戦略だったのでしょう。しかし、結局ドイツでの初演は実現せず、その間にも改訂作業は進み、年月が「ロマンティック」をどんどん「クラシカル」に変えて行き、結局は第4交響曲はそのかたちで人々に記憶されることになったのでした。
このあたりの精神史を覗くのも興味深く思われますけれど、充分な材料がありません。書簡集でも当たれれば面白いのでしょうけれど、手を出すと際限もなくなります。
次回以降、なるべく楽譜と音響に即して「彼は何を止めたのか」を見て行きたいと思います。

「ロマンティック」のふたつの稿は、練習番号(アルファベット)のつけられかたが揃っていますので、すっかり作り替えられた第3楽章までをも含み、全体の骨組み自体は大きくは変えられていないのが、すぐ理解出来るようになっています。そのことは、次回、第1楽章をやや細かく見て理解して頂こうと思います。
その、そんなに異ならない骨組みの上に付けられた肉がどれだけ違った色合いか、あるいは、骨の硬さにどれだけの違いがあるか、は、冒頭部分だけでも察しがつくのではないでしょうか。それは他の楽章でも同様です。
そういうあたりから見て行きたいと、いまのところは考えております。


第3交響曲については、以前、3つある稿の差異を眺めてみたことがあります。
その際、彼の各交響曲の改訂履歴に付いても触れました。
ご興味がおありでしたら、そちらもご一瞥下さいね。
ただし今度はこのころとは目のつけかたを変えたいと思っております。

(1)・(2) 入口だけなのでリンクしません。
(3)http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_9ec9.html
   (各交響曲の改訂履歴)
(4)http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_1d51.html
   (比較素材について)
(5)http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_b551.html
   (規模比較)
(6)http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_f257.html
   (長短比較)
(7)http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_c435.html
   (簡単なまとめ)


*1:もちろん、第1楽章冒頭、第3楽章トリオ冒頭、第4楽章冒頭にみられるように、微妙に調整部分はあります。第3楽章トリオは単純な作りなので、初めの2小節が前奏としての付け足しであることがいっそうきわだち、その2小節を差し引いてフレーズを理解して良いことがはっきり分かります・・・すると4小節1フレーズになります。

*2:https://www.youtube.com/watch?v=YLtCeOwsaXQ 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月17日 (水)

ガッツァニーガの「ドン・ジョヴァンニ」(2)台本

(1)


さて、ダ・ポンテがモーツァルトのために書いた「ドン・ジョヴァンニ」台本は、ガッツァニーガが作曲したベルターティによる台本の「盗用」だったのでしょうか?

アルフレート・アインシュタインは、
「彼(=ダ・ポンテ)がベルターティを厚かましく盗んだと言うとすれば、正しいことにも、正しくないことにもなろう。」(『モーツァルト その人間と作品』訳書592頁)
と、なんだか分からんことを言っています。
ベルターティの台本の筋書きが似ていることをもって、どうも当時著作権法があったらこれは違法だ、と言いたいところはあったようです。それを、
「十八世紀における精神的所有権の概念が今日とは違っていた」(同書次頁)
と表現していますが、・・・今日と18世紀で、そんなに違いますか?
たとえば「忠臣蔵」ネタの小説なんか、原作が江戸時代なので著作権料が発生しないのをいいことにたくさん書かれて来ていることになるし、同じネタで小説を書いたら
「オレの方が先に書いた!」
なんてわめいて著作権を主張できる作家はだれもいません。
「盗用があれば、それでも前後関係の主張は出来るんじゃないの?」
・・・はい、その通りで、明らかに盗用と認められるものが裁判などで認定されれば著作権は「原作者」のものになります。でも、それは「忠臣蔵」全体ではない。

「ドン・ジョヴァンニ」の筋書きを見れば、なるほど、ベルターティとダ・ポンテのそれは,よく似ています。しかしそもそも、ドン・ジョヴァンニ(ドン・ファン)伝説という枠組みで見るならば、ベルターティにさえ先行者がいるので、ベルターティが筋書きをもってダ・ポンテに対し自分のオリジナリティを主張することは出来ないでしょう。

では、ベルターティからの盗用がダ・ポンテに認められるかどうか。

仔細に見たわけではないので断言はできませんが、セリフそのものを「盗用」した事実は認められないように思います。
なおかつ、細部は多様な違いを見せている。
父を殺されたドンナ・アンナは、ガッツァニーガの作曲したベルターティ台本では最初の場面にしか出て来ません。
ダ・ポンテ台本のツェルリーナにあたるベルターティ台本でのマトゥーリナは、ドン・ジョヴァンニにあっさりひっかかって、フィアンセをかえりみませんし、このフィアンセ(ビアージョ)は、ふられて以後やはりまったく姿を現しません。ドン・オッターヴィオもドンナ・エルヴィーラも、ベルターティ台本では道徳っぽいことは一切言わないし、深いためいきをつくこともありません。なにより、終幕ではベルターティ版はダ・ポンテ版のように悪の敗北を高らかと歌うことはないのは、前回みたとおりです。

アルフレート・アインシュタインが「盗用に近い」サンプルとして挙げている「カタログの歌」(レポレロに当たる人物は、ベルターティ版ではパスクワリエッロという名で、彼が歌います)は、ベルターティ版では2節17行(9行+8行)であるのに対し、ダ・ポンテ版では4節29行(4行+4行+5行+16行)、と、構成が大きく異なります。アインシュタイン著には原詞も出ていますので見比べて頂きたいのですが、ダ・ポンテの詞には1行たりともベルターティと同じ箇所はありません。したがって、わざわざアインシュタインがやっているようには、両者を具体的に並べてみる必要は全くありません。
アイディアの「盗用」はあっても、ダ・ポンテは今日的な意味合いでの著作権違反はまったくしていないのは、以上から明々白々だと思います。
別にダ・ポンテを擁護しようと言うわけではありませんし、擁護したってどうしようもありません。ただ、誰かがそう言っているからダ・ポンテは「詐欺師で山師だ」とされるのなら、それは違うだろう、そう言いたいならきちんと検証してみるべきだろう、と思うのであって、それはダ・ポンテのことに限らないとも考えています。

アインシュタインがダ・ポンテを(習慣に従って低く見ようとしながらもなお)近現代の目から良く評価せざるを得ないのが、
「彼の『ドン・ジョヴァンニ』においてベルターティをはるかに抜いたから」(前掲書593頁)
であるのは、その通りだと思いますし、これは、上の「カタログの歌」の構成の差からも類推できるのではないかと思います。そしてそれは、やはりアインシュタインがそこにまた作曲したモーツァルトの近代的な大胆さを認めていることからも裏付けられます。

ところが、前回の末尾に引いてみた通り、ダ・ポンテは
「(この台本に作曲した)モーツァルトひとりを除いて誰もが、何かが欠けている、と思った
と述べている。モーツァルトと共犯者だったはずの彼が、彼に、ではなく、モーツァルトに「欠けている」何かがあった、などと平気で述べているのは、しらばっくれているのでしょうか?

「欠けている」からには何とかしなければならない、と、ウィーン初演を前に、ダ・ポンテは、おそらくモーツァルトと協議しながら台本にいくつかの改変を加えています。少なくとも、ダ・ポンテが感じた「欠けているもの」が何であったか、は、この改変から窺われはしないでしょうか?

ドン・オッターヴィオにかかる部分(第2幕第10場のアリアをカット、第1幕にやや小振りなアリアを置いた)は歌手の力量の足りなさを考慮したものである、とのことですから、それは度外視しなければなりません。ただ、彼の第2幕のアリアがあった部分、第2幕第9場から10場にかけては、大きな変更が加えられています。プラハでの上演(今日見ることの出来るオリジナル)では、ドン・ジョヴァンニに変装しているのを白状して皆に詰め寄られたレポレッロは無事に逃げ遂せるのですが、ウィーンでの上演を前にして、第9場のレポレッロのアリアはカットされてレシタティーヴォ化し、本来ドン・オッターヴィオの美しいアリアだけがメインだった第10場については、場面を長引かせて滑稽化してあるのです。(名作オペラブックス21『モーツァルト ドン・ジョヴァンニ』音楽之友社 昭和63年 175〜187頁 ただし、ほとんどレシタティーヴォであるため所要時間は増えた行数ほどには延びなかったことでしょう。)
概要は以下の通りです。

a:レポレッロはツェルリーナにつかまって逃げ損ない、彼女によって椅子に縛られる(二重唱)
b:縛られて取り残されたレポレッロが愚痴をこぼしながら縄を引っぱると、縄の向こう側が結い付けられていた窓が落ちてくる(往年のドリフターズのコントのようです)。
c:ツェルリーナとマゼットに伴われてドンナ・エルヴィーラが登場し、前のふたりの短い掛け合いの後、ひとりになる
d:ドンナ・エルヴィーラのアリア(ドン・ジョヴァンニの裏切りを呪詛する歌・・・劇としては、石の騎士長の登場前に彼女がドン・ジョヴァンニに改心を求めに訪れるのとは齟齬をきたす)。

最後のアリアはモーツァルトの要求だったのでしょうか?
これだけがプラハ上演時の雰囲気を保っていますけれど、それまでは滑稽劇の要素を補強するために付け加えられているようにしか見えません。
ということは、ダ・ポンテがウィーンの皇帝や予定される支持者の顔色を見て感じた「欠けているもの」は、最後のアリアがどうだったかを留保するなら、「滑稽劇としての要素」だったことになります。・・・これは、アインシュタインが
「『ドン・ジョヴァンニ』を作曲しようと考えたモーツァルトの大胆さと功績を評価することは、キェルケゴールの《ドン・ジョヴァンニ》幻想や十九、二十世紀の書物によってモーツァルトの叡智を学び知る場合にではなく、あの素材に対する十八世紀の立場を知るときにのみはじめて可能なのである」(前掲書593頁)
と、この言葉以降に述べている近世的(近世という区分は本来日本史以外には存在しないのですが)「ドン・ジョヴァンニ」享受のありかたと符合します。
すなわち、十八世紀的享受における「ドン・ジョヴァンニ(ドン・ファン)」は
「お偉がたの大胆な恥知らず、その犠牲になった女の反応、彼の召使いの厚かましさ、考えられる限りの舞台効果をもって現われる地獄行きの光景で終わりを告げる超自然の正義の干渉に対する恐怖----これらを観たがる欲望に訴えかける」(同書595頁)すべてがバランスのとれた喜劇でなければ、《ドン・ジョヴァンニ》は十八世紀の、少なくともイタリアやウィーンの観客には受けなかったのです。
ではプラハは何故違ったか、という点は、元来ここを首都とするボヘミアの地が、当時はオーストリア帝国傘下の一地方都市に甘んじなければならずにいた、という一事を挙げれば、当面は事足りるのではないかと思います。

ものはためしで、前回引いたガッツァニーガによるドン・ジョヴァンニの地獄落ちの場面の軽さと、モーツァルトのそれとを耳だけで聴き比べても、18世紀を甘く享受していた人たちにのしかかったモーツァルト世界の「重さ」、それがゆえに削ぎ落とされて欠けてしまう滑稽な楽しみ、を、はっきり感じ取って頂けるのではないかと思います。


カール・ベーム指揮1977年ザルツブルク・モーツァルテウムでのライヴ
ドン・ジョヴァンニ:シェリル・ミルネス
騎士長:ジョン・マカーディ
レポレッロ:ワルター・ベリー

ガッツァニーガを再引用します(先行する場面が入っています)。

ヘルベルト・ハント指揮(1963年)
ドン・ジョヴァンニ:フェルナンド・ヤコプッチ
騎士長:アルフォンソ・ナンニ
パスクワリエッロ:ジェイムズ・ルーミス

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月15日 (月)

ガッツァニーガの「ドン・ジョヴァンニ」(1)音楽

(2)


モーツァルトが作曲したダ・ポンテによる「ドン・ジョヴァンニ」台本は直接には1787年(モーツァルト作品が10月に初演されたのと同年)2月にヴェネツィアで初演されたジュセッペ・ガッツァニーガのオペラ・ブッファの台本らしい、という話は、いろいろな本に記載されています。これはジョヴァンニ・ベルターティという人の手になるもので、筋書きがダ・ポンテ台本に酷似しているとのことですが、私は目にしたことがありませんでした。

先日、CDショップをうろついていて偶然に、モーツァルト作品に混じって、ガッツァニーガの「ドン・ジョヴァンニ」があるのに気づき、それで初めて触れる機会を得ました。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000JCE9HO/

2009年にDVDもでているのですね。
http://www.amazon.co.jp/dp/B001RPZDZY/

堀内修『モーツァルト オペラのすべて』(平凡社新書 2005年 208頁)にも、そのネタ本になっただろうアルフレート・アインシュタイン『モーツァルト 人と作品』(浅井真男訳 白水社 1961年訳 1997年新装復刊 596頁)にも、さらには水野彰良『イタリア・オペラ史』(音楽之友社 2006年 145頁)にも、ガッツァニーガが曲をつけた「ドン・ジョヴァンニ」は1幕物だとしてありますが、私の手にしたCD(NUOVA ERA 223296-311)のブックレットでは "Opera in Two Acts" となっています。2003年に日本でも新国立劇場(小劇場)で上演されたようですが、それをご覧になった方の文には何幕かの情報の記載はありませんでした。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~arepo/opera100.htm
http://giac.web.fc2.com/g2003/20030515g.htm

2006年までの上演情報を見つけました。
http://tc5810.fc2web.com/operat/sakkyoku/gazzaniga.htm

それを伝手に関西二期会の上演をご覧になったかたの文も参照しましたが、やはり残念。(涙)
http://tousanhituji.blog74.fc2.com/blog-entry-2176.html

新国立劇場での上演時の紹介記事をようやく発見したら、やはり「全1幕」とありました。
http://www.nntt.jac.go.jp/season/s191/s191.html

・・・うーむ、CDと上演の違いについては、これ以上追求しないでおきます。

幕数についてはこれで解決ということにして、考えたい問題は2つ出て来ます。

ひとつめは、ダ・ポンテはこの台本を剽窃あるいは盗用した、と言えるのかどうか。
ふたつめは、ガッツァニーガの作品はモーツァルト作品に見劣りがすると言われているのですが、それが本当なら、ガッツァニーガの音楽的才能はモーツァルトに劣っていたのかどうか。

あとの方から行ってみますと、ガッツァニーガの作曲したドン・ジョヴァンニの地獄落ちの場面はこんな具合です。(9分あります)

モーツァルトのこの該当部分に比べると象徴的なものがなく、軽い、かも知れませんが、私の印象としては、上演されるものとしては、短い中に手際よく場面転換をまとめてあって、決して才能のひらめきがない感じはしません。
この場面の後、ラストシーンでは、ドン・ジョヴァンニが地獄に堕ちた場面を聞かされた面々が恐怖に駆られ、おのおの楽器を口まねして気を紛らわせます。(6分半)

各自が口まねする楽器をオーケストラが実際に演奏する工夫があって、お客には楽しめるものになっていると思います。

次回見てみたいと思いますが、ガッツァニーガの作りが「軽い」のには2つの理由があると思われます。
ひとつは台本がこみいっていないこと。
もうひとつは、台本がそうした作りになった背景に、お客がこみいったものを要求していたわけではなかったこと。
そんなあたりではないかな、と思います。

ガッツァニーガというひとは能力のない人ではなかったように感じます。こんにち唯一聴くことの出来るこの作品全般から受ける印象も、よく整って耳に心地よい音楽を書いているなぁ、というものです。伝記情報はほとんどないのですが(CDのブックレットも水島著も同じ程度)、水島著から引くと、このようになっています。
「ジュセッペ・ガッツァニーガ(1743〜1818)はヴェローナに生まれ、1760年ヴェネツィアに出るとポルポラの勧めでナポリに移り、同地の音楽院で6年間学んだ。続いて3年間ピッチンニに師事し、インテルメッゾ《トロッキア男爵》(1768)でデビュー、以後1801年まで34年間に50作にのぼるオペラを発表した(うち約20作がヴェネツィア初演の喜歌劇)。」(『イタリア・オペラ史』145頁)

師事した先生の当時の格を考慮し、50作を書き続けて生計が立っていたのだろうと推測した上で、ウィーンでも1作の成功作を出している、との記述があるところをみますと、こんにちまで名前の残る超一流陣には及ばなかったものの、そこそこイケた作曲家さんではあったと考えていいと思います。
先にリンクした部分で、観劇して来た人たちが言っているところを参照しても、ガッツァニーガの《ドン・ジョヴァンニ》は好印象を得ています。

では、ガッツァニーガの《ドン・ジョヴァンニ》はモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》と太刀打ちできるのか、というと・・・おそらく、そういう比較を二つの作品のあいだで行なうこと自体が、ちょっと違うのではないかな、と思います。それは、作品の享受のされ方の違い、背景の違いがあるからで、とにかくガッツァニーガはガッツァニーガの求められたことに対して最善を尽くしたのであり、最善を尽くしたからこそ、おそらくはそこそこ評判になって、その台本にダ・ポンテが目をつけたのだ、と考えるのがいいように思います。
当時のイタリア流オペラ享受と、モーツァルト作品がヒットしたプラハあたりの享受のされ方が違ったのではないか、という推測は、モーツァルトのほうの《ドン・ジョヴァンニ》をプラハでの成功を受けてウィーンで初演することになったときのいきさつを書き留めたダ・ポンテの記述(それがほんとうの話だとして)から推しはかってみることができます。すなわち、試演を聴いたオーストリア皇帝陛下は気に入らなかったというのです。かつ、最初の試演では「モーツァルトひとりを除いて誰もが、何かが欠けている、と思った」のだとも言われています。さらに皇帝ヨーゼフ2世は、何点かをあらためて再度行なわれた試演を聴いてこう言った、とされています。
「このオペラは世ならず見事だ。おそらくは《フィガロ》よりも美しい。だからわれらウィーン人の歯に合わぬ。」(名作オペラブックス21『モーツァルト ドン・ジョヴァンニ』音楽之友社 昭和63年 214頁)

足りなかった何か、は、台本のせいなのでしょうか?
はたまた、モーツァルトの音楽のせいなのでしょうか?

ダ・ポンテの剽窃問題と合わせて、またこの次考えてみましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧