音楽史

2017年4月 9日 (日)

【音楽史読書】2.古代エジプトの音楽(2)

古代エジプトには、その3,000年の歴史の中での文字や図像の不変ぶりから、3,000年のあいだ時間が止まっていたような印象を受けます。
しかしながら、あらためて歴史を勉強しますと、その激動ぶりに驚かされます。
とくに、紀元前900年頃以降は、それまでの古代エジプト語を母語とした王権ではなく、ヌビア〜アッシリア〜ペルシアの侵攻と支配が続き、様式は守られつつも、美術は写実性を帯びたものに、文字は簡便なもの(デモティック)に遷移して行きます(山花京子『古代エジプトの歴史』 慶應義塾大学出版会 2010年)。

『エジプト神話集成』に訳の掲載されたテキストは、年代のわからない「後期エジプト選文集」を除き、外からの支配に置かれる以前のエジプトの状況を反映しています。「後期エジプト選文集」も、文中に現れる神や作物の名まえから、他の作品の書かれた時期(前20世紀〜前12世紀くらいの範囲)に収まるものが大部を占めるものと思われます。

そこで、シュメルのときと同じように、前回拾い出した内容を、【演者・奏者と奏楽の場】・【楽器】・【演奏スタイル】〜またはジャンル〜という具合に分けておきます。期間は800年の長きにわたるものを同一平面に置くことにはなりますが、それでもシュメルとの傾向の違いが、わりと明確になるように思います。・・・今回は出典と年代も付記しておいてみます。文も極力省略せずにおき、分けた項目に関係するものに色をつけてみます。


【演者・奏者と奏楽の場】
(2) これらの女神たちは、踊り手に姿を変えて出発いたしました。(『ウェストカー・パピルスの物語』前20世紀)
(4) 女楽師たちは(今でも)〈宮殿の奥の婦人部屋に〉(坐って)いる。(だが)〈彼女たちの歌うのは、かつて石臼ひきの婢が歌っていたような嘆きの歌なのだ。〉(『イブエルの訓戒』前23~21世紀)
(5) 見よ、七弦琴(も)知らなかったものが(今では)竪琴[ハープ]の所有者だ。自分のために歌うことをしなかったものが(今では)楽の女神を称えている。(同上)
(6) それから領主は、そばにはべらせていたエジプト人の歌い女ティネトネウトを「かれのために歌え、かれの心から心配ごとを忘れさせよ」と言って私のもとに送ってきた。(『ウェンアメン旅行記』前1080頃)
(7) 歌と踊りと香(煙)とは神の食物であり、平伏されることは神の財産である。(『アニの教訓』前1500年代)
(11) われ、汝の美に酔い、楽人の竪琴に手をやりて汝のため歌わん。(『単一神への讃歌』前1300年頃)
(12) (列席した王女たちによる合唱)(『セド祭の碑文』前14世紀)
(13) 首席典礼司祭はミンの舞踊の歌を誦す(『ミンの大祭の碑文』前12世紀)
(14) 庭園にあるミンのための舞踏の歌(同上)
(15) ・・・いま、貴官家の中にじっと坐し、娼婦どもにとりまかれ(『後期エジプト選文集』)


【楽器】
(1) がらがらシストルム(「シヌヘの物語」前1950年前後)
(3) がらがら(『ウェストカー・パピルスの物語』前20世紀)
(5) 見よ、七弦琴(も)知らなかったものが(今では)竪琴[ハープ]の所有者だ。(『イブエルの訓戒』前23~21世紀)
(11) われ、汝の美に酔い、楽人の竪琴に手をやりて汝のため歌わん。(『単一神への讃歌』前1300年頃)
(12) 汝の美しき顔にシストルムを(『セド祭の碑文』前14世紀)
(15) ワル(という)横笛に合わせて歌を口ずさみ、竪琴[リラ]に合わせて吟誦し、ネチェク(木楽器)に合わせて歌う/腹の上で太鼓をたたいたり(『後期エジプト選文集』)


【演奏スタイル】~またはジャンル~
① センウセレト1世への讃歌(「シヌヘの物語」前1950年前後)
② シヌへの心境吐露の詩(同上)
・(付番漏れ)歌、踊り、音楽、喝采、(要するに)王のためになされるようなありとあらゆる物音(『ウェストカー・パピルスの物語』前20世紀)
(9) 夜暗きときうたう(『アメン・ラー讃歌1』前1238頃)
(10) 四回くりかえす。『アメン・ラー讃歌2』前16世紀と推定)
③(解説)讃歌の中心をなす「勝利の歌」は「われは来れり。汝をして………せしめんがために」をくり返すことによって韻律を整え、格調ある詩をつくりだしている。(『トトメス三世讃歌』トトメス三世の在位は前1490~1436頃)
④(解説)最近の研究によれば、古代エジプト人の文章はほとんどすべての場合、われわれにその詳細は不明であるとはいえ、一定の韻をふんでいるとみてよいとのこと(『セド祭の碑文』前14世紀)
(15) 貴官は笛に合わせて歌い、ワル(という)横笛に合わせて歌を口ずさみ竪琴[リラ]に合わせて吟誦し、ネチェク(木楽器)に合わせて歌うことを教わった。いま、貴官は家の中にじっと坐し、娼婦どもにとりまかれ、立ったりはねたり[……]そうかと思うとこんどは(中略)腹の上で太鼓をたたいたりする。(『後期エジプト選文集』)
〜『後期エジプト選文集』に
 *軍歌1編
 ~「この軍は無事に帰ってきた」のリフレイン7節
 *民謡恋歌7編
 *竪琴の歌1編


神の音楽というスタンスが濃かったシュメル(とりあえずのまとめは、http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/15-c263.html)と対比しますと、エジプトはもう同時期に人が音楽の主体だとの観念があったとの印象を受けます((4) や(5) が、既に前2000年前後のものです)。(4) にある「石臼ひきの婢が歌っていたような嘆きの歌」という表現には、それだけで魅き込まれるものがあります。
讃歌は神々の他に王を称えるものであった点は、シュメルと同様で、讃歌というジャンルの起源の古さを感じさせます。
軍歌の発生は、シュメルよりあとのバビロニアあたりから、対比すべきものを探し当てるべきかと思います。
シュメルのときにも感じたのでしたが、楽器や演奏法については、文学には図像ほど豊かな情報はないものなのでしょうか。楽器は文ではその形が描ききれませんし、演奏法は具体性をもって語るのはもっと難しいのですね。これはもちろん今でも事情は変わりませんが。

この時期の音楽を図像を中心に詳しく教えてくれるのは、マニケ『古代エジプトの音楽』(松本恵訳 弥呂久 1996年)で、考古学の成果に依る様々な推測はたいへん貴重なものだと思っています。そちらの参照を、しかし必要最少限にとどめて、図像は『人間と音楽の歴史』のエジプトの巻に重きをおいて、また次から演者や演奏場所や楽器、音楽様式を具体的に観察して、『集成』への読解をちょっとだけでも深めたいと思います。

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2017年4月 2日 (日)

【音楽史読書】2.古代エジプトの音楽(1)

「エジプトはナイルの賜」と言いならわされています。
この言葉は、本当は、ヘロドトスの『歴史』では「こんにちギリシア人が通航しているエジプトの地域は」(松平千秋 訳、第二巻五節)との限定がつきます。そしてそのナイルの賜の地域は「エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである」(同上)だとも言われています。
定期的に大規模な降水を起こすナイルは、じっさい克服困難であったのでしょう。
新石器時代から農耕文明の発展までに、エジプトにはメソポタミアでは見られない、大きな空白がみられるとのことです。
すなわち、メソポタミアでは旧石器時代から新石器時代を経て灌漑農業の大規模発展に至るまでの遺跡が段階的継続的にみられるのに対し、エジプトでは新石器時代の遺跡がたいへん稀で、前4500年頃の遺跡に突如として灌漑農耕文化の出現が見て取れるのだそうです(小川英雄『古代オリエントの歴史』p.11、p.32)。

いったん文明が栄え出した後のエジプトには、完成されてしまった象形文字、すなわちヒエログリフがあり、それがエジプトの滅亡まで三千年も使われていたほど、エジプトの文化は安定を誇ったのでした。そうは言っても、この長い時のあいだにはエジプトなりの激変が何度もあり、王朝交代の狭間の混乱や、外来の人々の侵攻による衰微も経験し、その経験がエジプトに豊かな精神を育んだものと推測されます。
文学の翻訳を集めた『エジプト神話集成』(杉勇・尾形禎亮訳 ちくま学芸文庫 2016年9月 訳業は1978年)の収録作品も、古代エジプト人の精神の襞(ひだ)を多様に刻んでいるものと見受けます。

楔形文字が一様の言語を表わしているわけではないため素人には敷居が高いのに対し、エジプトのヒエログリフは独学でも音くらいは読めるようになるほどの入門書が、日本語でも豊富に出ています。文字が具象的な絵柄なのも、人気に拍車をかけているのでしょう(※)。
その歴史についても、私の子供時代(1970年前後)に比べ編年が格段に正確になり、新王国時代以後について信頼できる啓蒙書が出版されたりしているのも目にしました(山花京子『古代エジプトの歴史―新王国時代からプトレマイオス朝時代まで』慶應義塾大学出版会 2010)。

古代エジプトの社会や文明の様々な側面を詳しく教えてくれる本もまた、メソポタミア関係よりも、はるかにたくさんあります。音楽に関しても、リーセ・マニケ『古代エジプトの音楽』の訳書(松本恵訳 弥呂久 1996)があって、前はこれを斜め読みして大喜びしていたのでしたが、このたびは、先にあげた『エジプト神話集成』を中心に、古代エジプトの音楽を覗いて行きたいと思います。


『エジプト神話集成』から拾い出しますと、作品の文中で直接に楽器や歌唱に触れたものは、15ヶ所でした。作品は31編と、同じ出版社が文庫化した『シュメール神話集成』(同16編)のほぼ倍、ふられているページ数も696頁(『シュメール神話集成』は318頁)と、これまたほぼ倍であるにもかかわらず、文の量としては半分、すなわち密度は(単純にみて)4分の1になっています。
古代エジプト人は、シュメル人に比べて、音楽に対する関心が低かったのでしょうか?
そこはこれから見て行くわけですが、決してそうではなかったはずだ、とは思っております。残された壁画には豊富な種類の楽器も描かれていますし、拾い出したものを見れば、歌謡もふんだんにあったらしいことは推測出来るはずです。とくに「民謡と恋歌」は『エジプト神話集成』の本文中の添え書きで、編者が「今から四千五百年も以前の歌謡は、他の世界ではみられないものである。」と述べています。(ただし、いま、民謡などの訳そのものは書き出しませんでした。)
古代エジプト人が音楽する姿を文に述べることが少ないのは、(15)に抜き出したものなどを見ると、音楽に対する価値観がシュメルとはちがったからではないか、という気がしています。古い文では音楽は神が楽師に姿を変えて奏でていたりしますので、言いきれることではないのかもしれませんが。このあたり、追々確認して行きます。

文の抜き出し方はシュメルのときと同じですが、オリジナルの行数は訳書中にかならずしも明記されていませんので、代わりに訳書中の何ページにあるかを記しました。


「シヌヘの物語」(前1950年前後、中王国時代)
①(センウセレト1世への讃歌) p.12~13
②(シヌへの心境吐露の詩) p.17~19
(1) メニト首飾りやがらがらやシストルム p.25

『ウェストカー・パピルスの物語』(前20世紀 第12王朝期成立?説話は前25世紀?)
(2) これらの女神たちは、踊り手に姿を変えて出発いたしました。 p.40
(3) (一行は)かれに、メニト首飾りとがらがらをさしだしました。 p.40
・[付番を漏らしました。]歌、踊り、音楽、喝采、(要するに)王のためになされるようなありとあらゆる物音 p.42

『イブエルの訓戒』(第19~20王朝時代の筆写、成立は第一中間期~中王国初頭 前23~21世紀)
(4) 女楽師たちは(今でも)〈宮殿の奥の婦人部屋に〉(坐って)いる。(だが)〈彼女たちの歌うのは、かつて石臼ひきの婢が歌っていたような嘆きの歌なのだ。〉 p.91
(5) 見よ、七弦琴(も)知らなかったものが(今では)竪琴[ハープ]の所有者だ。自分のために歌うことをしなかったものが(今では)楽の女神を称えている。 p.97

『ウェンアメン旅行記』(前1080頃)
(6) それから領主は、そばにはべらせていたエジプト人の歌い女ティネトネウトを「かれのために歌え、かれの心から心配ごとを忘れさせよ」と言って私のもとに送ってきた。 p.172

『アニの教訓』(新王国時代 前1552~1070頃、第18王朝期【前1500年代】)
(7) 歌と踊りと香(煙)とは神の食物であり、平伏されることは神の財産である。 p.241
(8) サルは、母(猿も)もてなかった曲杖[メケルという踊りに用いる杖]をもつ。 p.256

『アメン・ラー讃歌1』(前1238頃)
(9) 夜暗きときうたう歌い手、かれのものなり。 p.389

『アメン・ラー讃歌2』(前16世紀と推定)
(10) 四回くりかえす。 p.415

『単一神への讃歌』(前1300年頃)
(11) われ、汝の美に酔い、楽人の竪琴に手をやりて汝のため歌わん。 p.440

『トトメス三世讃歌』(トトメス三世の在位は前1490〜1436頃)
③(解説)讃歌の中心をなす「勝利の歌」は「われは来れり。汝をして………せしめんがために」をくり返すことによって韻律を整え、格調ある詩をつくりだしている。 p.689

『セド祭の碑文』(前14世紀)
(12) (列席した王女たちによる合唱)「汝カーのために。/汝の美しき顔にシストルムを、/またメニト飾り[イシスのシンボルの首飾り]と鉤錫を。 p.464
④(解説)最近の研究によれば、古代エジプト人の文章はほとんどすべての場合、われわれにその詳細は不明であるとはいえ、一定の韻をふんでいるとみてよいとのこと p.690

『ミンの大祭の碑文』(前12世紀)
(13) 首席典礼司祭はミンの舞踊の歌を誦す p.468
(14) 庭園にあるミンのための舞踏の歌 p.471

『後期エジプト選文集』
道楽者の書記官にあてた非難
(15) 貴官は笛に合わせて歌い、ワル(という)横笛に合わせて歌を口ずさみ、竪琴[リラ]に合わせて吟誦し、ネチェク(木楽器)に合わせて歌うことを教わった。いま、貴官は家の中にじっと坐し、娼婦どもにとりまかれ、立ったりはねたり[……]そうかと思うとこんどは(中略)腹の上で太鼓をたたいたりする。 pp.484-5

⑤軍歌1編
〜「この軍は無事に帰ってきた」のリフレイン7節 p.495

⑥民謡と恋歌7編

⑦竪琴の歌1編


※ 私は現状中途半端ですが、ヒエログリフの勉強には、文法も分かりやすく体系的にまとめているものがいいなあ、と思っています。
それを勘案してのおススメは
吉成薫『ヒエログリフ入門 古代エジプト文字への招待』弥呂久 1988年初版 2001年新装版
です。いまでも入手可能です。新手のものがいろいろ出てきましたが、文法を順を追って丁寧に教えてくれるものは他にありませんでした。練習問題の解答もあり、後半の読解編の丁寧な解説もありがたいです。巻末の文字一覧、ヒエログリフ・日本語辞書がオーソドックスなものであり、本文中でその引き方も教えてくれていることに、後続他書の追随を許さないアドバンテージがあります。
字が小さくてしんどいときには、大判の
吹田浩『注記エジプト語基礎文典』 星雲社 2009年
があります。文法についてより新しい知見も盛り込まれています。文字一覧と辞典については吉成著と同じ構成です。字は見やすいです。練習問題の解答はありません。
まず主要な文字の音を知りたい、欲張るならヒエログリフが読めた気になりたい、というときには
松本弥(わたる)さんの
『ヒエログリフを書いてみよう読んでみよう』白水社 2001年
が断然お薦めです。2012年に新装版が出たようです。同じ著者による類書も、親しみやすいものばかりです。

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2017年3月24日 (金)

【音楽史読書】1.シュメルの神話のなかの音楽(5) 演奏した人々のことなど

日本語で、わりと手軽に読める本などを通じて、人が音楽をどう捉えてきたか、を見て行けたら、と、まずシュメルを入口にしてみたのでした。テキストは『シュメール神話集成』(杉勇・尾崎享訳 ちくま学芸文庫 2015年)でした。テキストのオリジナルは紀元前2000年前後のもので、見てきたのは、その頃のメソポタミアの音楽事情ということになります。

(1)音楽に関係する文を抜き出し(2)内容を区分し、それから(3)楽器(4)様式、と見てみましたが、しめくくりに、ではどんな人が、を見たいと思います。
『集成』のテキストは実際には広い幅の年代に成立したもので、その内容を同一平面で見てきたために、「傾向が漠然と分かる」以上のことは出来ていません。
これは『人間と音楽の歴史 メソポタミア』(スービ・アンワル・ラシード 音楽之友社 1985【昭和60】年)の遺物写真と解説で少し補充できます。「どんな人が音楽を?」は、こちらによりたいと思います。『人間と音楽』はアッシリア~パルティア期までの遺物を掲載してくれています。そのうち古バビロニア時代まで(前1600年頃まで)によってみます。

音楽の担い手として『集成』から拾い出した人々は、これまで見てきたことをも併せて考えると楽手歌手男女の神官・そして自ら都市神の祭祀を行なえる市民(?)およびにまとめられます。

『人間と・・・』を、遺物の古い方から見て行くと、演奏する人の社会的位置づけまでは分からないものの、担い手や楽器・奏法の変遷を感じることが出来ます。感じたことは、解説によって補強が出来ます。

【奏者たちの変遷】
リラの現物が9台も発見されたウル王墓遺跡は前2600年頃のものです(小林登志子『シュメル 人類最古の文明』の年表による)。ここで幅も長さも1mを超える大型のリラがいくつも発見された傍に、シンバル[それ以外は解説になく分かりませんが]など楽器を携えた4人の女性楽手が眠っていました(『人間と・・・』図版1解説挿図)。別の墓にも女性楽手の遺骨があり、なかにはハープの弦に手を置いて亡くなっていて、死の瞬間までハープを弾いていたことが分かる遺骨も見つかっています。ちなみに、殉死は葬儀時に毒杯か麻酔薬をあおって行なわれたもののようです。抵抗のあとはまったくなく、おそらくすすんでなされたらしく、後年の私たちが抱くイメージとは精神構造が違っていたかと思われます。
Lira 大型のリラは、すわって演奏されたものらしく、また、支える人もいたかのようで、ロバがすわって指でリラを奏でている脇で、たった熊がそれを支えている図が残されています(『人間と・・・』図版8)。
大型のリラは作りの豪華さからも儀式用の特別なものだったようで、おなじ王墓地域から発掘された有名なウルのスタンダードの図では、人の背丈の半分くらいの中型リラが男性の立奏者に手持ちされています(→(3)楽器)。この大きさのものは、しかし、他の図版を見ると、立奏ではなく、椅子に腰掛けて演奏するのが普通だったようにも見受けます(『人間と・・・』図版41~43)。中型リラ座奏の図版はしかし、ウルのスタンダードより100年くらい時代が下るものとされています。神殿への古めの奉納板に描かれているのは、やはり立奏姿です。
王墓での楽手の発見状態やウルのスタンダード他に描かれた場面からは、楽手は王族貴族に属していたかのようです。しかしながら、ウル第Ⅰ期の文書によると、祭礼音楽に関わる女性はガラ神官やナル祭司という神職に就いていたことが分かっている、とのことです。ラガシュ市の俸給表には、176人もの女性ガラ神官の名前があらわれているとのことです(『人間と・・・』p.36)。ラガシュは前2500年頃から、初期王朝時代の中核となった都市国家です(『集成』解説p.264他)。
こうしたことから、祭祀の音楽は女性が大きな役割を担っていたこと、演奏の場は神聖な場に位置づけられていたことが推測され、音楽が神事と不可分だったかと考えさせられます。
ウルのスタンダードに見るとおり、しかし、楽手には男性もいました。その後ろの歌手とおぼしき人物は、『人間と・・・』では髪型から女性と見なされています。けれども小林『シュメル』によれば、カストラート(去勢歌手)で、これはマリ遺跡から出土したカストラート歌手像と類似の姿であるところから判明するもののようです。このカストラート歌手が「ガラ神官」と呼ばれていたのだ、と、『シュメル』では述べています(p.122)。

およそ300年後、ウル第3王朝が滅びる前の頃の遺物からは、まだ大型の祭祀用リラもあったものの、リラの小型化がだいぶ進んだことも窺われます(『人間と・・・』図版45~48、76~80)。中には全裸の女性が腕の長さ程度の小型リラを立奏している姿の浮き彫りもあります(同 図版59)。この図版の右下には、タンバリン上の枠太鼓を叩きながらコサックダンスのようなものを踊る男性ダンサーの姿もあります。古代の神事は性的なものとの深い関わりを指摘されることが多くありますが、この傾向は古いシュメルの時代の図像に発見例が無く、ウルがバビロニア等の台頭で衰退してから現われた風潮なのかな、と思わされなくもないところです。

リュートや角形ハープは、アッカド王朝期以降の図像に現われ始めるもので、リラや舟形ハープよりは新しく普及し、姿を整えていったものかと思われます。が、シュメルから古バビロニア(~前1600年頃)の遺物にリュートの明確な像は見出せません(円筒印章にある古い例は『人間と・・・』p.62にある)。

Harp1 明瞭に描かれた角形ハープは7弦で、椅子に座って弾くときいちばん手前になる弦は、いちばん向こう側の弦の半分の長さとして描かれていることから、オクターヴの響きが認識されていたように見て取れます。
椅子に座って弾くハープは女性が奏でており、なかには口を開けて歌っているさまを描いたものもあります(『人間と・・・』図版65)。ウルのスタンダードではリラ奏者が歌い手を別に従えていたのでしたから、その対比で興味を引かれます。ただし楽器がずっと小型化していることも関係しているでしょう。

この角形ハープはアッシリアに引き継がれ、それから千年を経て日本にも箜篌として伝わります。・・・箜篌のことは、また触れたいと思っています。

女性たちの神官的な地位について、それぞれの解説になお言及されていますが、図版との関わりが明確ではありません。ただ、角形ハープを弾く女性像の浮き彫りは量産されたもので、複数出土しています。出土の場所・状況が分かれば量産の意味も見えてきて、女性楽手と祭祀の関連がちょっとは分かったかもしれませんね。一切不明なのが惜しまれるところです。

Harp2 角形ハープは男性が歩きながら横抱きに抱えて演奏している姿も浮き彫りにされています(『人間と・・・』図版71~74)。行軍の姿だ、と解釈されています。(同 解説p.82)これは、指で、ではなく、プレクトルム(ピック)を使って演奏されています。古バビロニア期の遺物ですから、シュメル人たちにはなかった奏法かと思われます。軍楽はバビロニアででも起こったものなのでしょうか?
同時期の、弓形ハープを横にしてプレクトルムで演奏している浮き彫りもみつかっていますが、これはインダス文明との繋がりを示しているのであって、楽器自体はシュメルのものではないと考えられています(『人間と・・・』図版75)。・・・古代インドを覗くのが楽しみです。

ティンパニのご先祖さまに当たる楽器の図の、最初の例は、ちょうどウル第3王朝が滅びる頃のものです(『人間と・・・』図版60)。シュメル語でリリス、アッカド語でリリッスと呼ばれた楽器で、胴体は銅または青銅、皮は牛皮、重さは1㎏だった、とアッカド時代のテキストに書かれているそうです。この図ではリリッスが叩かれる隣でボクシングがなされていますが、ボクシングの場での奏楽はずっと遡った図にも描かれています(同 図版35)。何らかの神事と関わりがあったものなのでしょうか?

Lilis以上、きわめて漠然としているところから脱出は出来ませんでしたが、シュメルの音楽は神事と関わりの深い女性が重要な担い手であったこと、それはシュメルの文明が後継者に取って代わられても続いていたかもしれないいこと、時代が下ると性的な要素が強まったかもしれないこと(はっきりは分かりません)、を感じた次第です。
併せて、楽器は小型のものがだんだんに精巧になっていき、持ち歩かれることも増え、おそらくそれにより軍楽も形成されていったように思われます。


テキストにしたり参考にした本は、以下の通りです。こんな拙いブログ記事からでもシュメルに興味を持って下さるようでしたら、ぜひ私なんかより正確にお読みになって、楽しんで下さいね。

・杉勇・尾崎享訳『シュメール神話集成』ちくま学芸文庫 2015年
・スービ・アンワル・ラシード『人間と音楽の歴史 メソポタミア』音楽之友社 1985年
・小林登志子『シュメル---人類最古の文明』中公新書1818 2005年
・岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界』中公新書1977 2008年
・小川英雄『古代オリエントの歴史』慶應義塾大学出版会 2011年
・古代オリエント博物館編『シルクロードの響き』山川出版社 2002年

楔形文字については、この本が易しくて面白いのですが、アッカド語です。今回は勉強しきれませんでした。
・池田潤『楔形文字を書いてみよう読んでみよう』白水社 2006年

シュメル語についての日本語の本も出ているのですが、参照しませんでした。

もし後日メソポタミアの言葉を勉強する機会があり、それで新たに加えられることが出来るようなら、また加えてみたいと思います。
今回まで見てきたことのまとめもしなおしたいのですが、比較できる地域や時代が増えてからの方がいいと思いますので、また別途と致します。

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2017年3月17日 (金)

【音楽史読書】1.シュメルの神話のなかの音楽(4) 演奏スタイル

ブログですし、前回までを含め、お気楽に綴っているので、どうか硬くお捉えにならないで下さいね。あらかじめお願い致します。
んで、今回はまた文字ばっかりです。お退屈様ですが、せめて昔話のお好きな方におつきあいを頂ければ幸いです。


・シュメルの音楽に「調」はあったのか
・シュメルでは歌はどんなふうに歌われていたのか(器楽はさておき)
・歌はどんな「様式・形式」で構成されていたのか

を見てみたいと思います。


【調性などによるムードの伝達】
限られたものの収録とはいえ、『集成』に収められた文学には、「讃歌」・「哀歌」・「挽歌」・「悲歌」のようなジャンルがあって、訳文のタイトルは研究者が付けたものですが、多様ながら内容の類型があるために、こうしたジャンル分けも可能になっているようです。全部が歌われたものではなかったかも知れませんが、歌われたものであったならば、文学ジャンルの内容に応じて歌われ方が違ったのだろうか、というのが、次の関心ごとです。すなわち、近代の洋楽が長調と短調の差で、あるいはリズムや今日弱で気分の差を出したようなことは、シュメル人の王朝の時代にはあったのでしょうか?

使う楽器やその叩き方で、ある程度ジャンルの区分があったかもしれない、とは、『シュメル神話の世界』にある、ご研究者の次の記述から想像しています。
シェムもアラも打楽器の一種で、祭礼で盛大に打ち鳴らされティギは礼拝奏楽に用いられることが多い。」(p.314)
また、「ウル滅亡哀歌」の第2キルグ(『集成』では「幕」と訳す)に「哀歌が激しい」、第7幕に「激しく泣いた」、等々のリフレインがあること、「まるで浄らかな太鼓でもあるかのように、彼女は自分の胸を打ちたたき」の表現が見られることから、「哀歌」が歌われたときの様子は少し想像できます。
近代洋楽の長調短調的なものはなく、それ以前の、主音の位置の違う、いわゆる教会旋法的なもの、もしくは日本の雅楽の調のようなものならば、あったかも知れない気がします。
7音音階が使われていた、と仮定するならば、調の存在は絃楽器、とくに主要な楽器であったリラが7弦を基本としていることから類推されます。弦の数が11本のものもありますから、音域としては日本の雅楽の調に似たものをカヴァーはしていたかもしれません。日本の雅楽の場合は、旋律楽器である篳篥の音域が狭いものの、「調」は多様です。とはいえ、弦数の標準が7本だったらしいことを考慮すると、多様性を想像しすぎることは出来ないかも知れません。

文学ジャンルというより演奏様式を示すのではないかと思われる「ティンパニー歌」が、神の賛美に用いられたかと思うと(「イナンナ女神の歌」はティンパニー歌である、と、この歌の末尾に明記されています)、賛美の音楽も哀歌、嘆きの歌に転じることがあると受け止められている(「ウル滅亡哀歌」360行、初回の抜書きの(19))ことからも、歌の調性自体には、ムードなどに対して明示的なものは、なかったのではないでしょうか。このことは、むしろ調性の多様性があったことを疑わせる材料になるかと思います。


【歌唱法】
「激しい」との表現からは歌唱法の具体像は描けません。
(17) 心を楽しませる(楽)器の太鼓やタンバリン、ティンパニー
の「心を楽しませる」も、奏法の具体像まで知らせてくれるものではありません。
唯一、格言に出てきた次の文だけが、具体的な歌唱法を窺わせてくれます。
(29) 歌い手がたった一つしか歌を知らなくても、
 彼の<顫音(せんおん)>がすばらしければ、彼はまさに歌い手だ。
「顫音」の原語が分かりませんから、日本語ではこれがトリルやトレモロを表わすのだということだけをヒントに、現在の民族音楽辺りにヒントを探しますと、クルド人の歌唱の中に、数種のトレモロ唱法を聴き取ることが出来たりします。クルド人はシュメルの直系の子孫ではないでしょうし(後のメディアの子孫だ、と称しているようです)、現在の音楽が直接に古代の歌唱法を示しているのではないでしょうから、想像の域を出ないのではありますが、西アジア地域にこのような歌唱法が残っていることを勘案すると、シュメルの声楽はトレモロをつけること、あるいはヴィブラートをかけることが上手の条件とされたのでしょうか。
歌が悲しいものであるときには
「(16)まるで浄らかな太鼓でもあるかのように、彼女は自分の胸を打ちたたき、「ああ、私の町よ!」と叫ぶ。」
のようなこともあったのであすから、直立不動で歌うというのではなく、内容に応じて演技的なふるまいをするのであったかも知れません。

器楽については、器楽のみの演奏があったのかどうか分かりません。
「(03) 三日三晩が過ぎ去ってから/彼女の使者ニンシュブルは/[2行略]/(丘の上で)彼女のために嘆き/玉座の間で太鼓を打ちならした。」
のような記述もありますから、打楽器は何らかの合図のためにそれだけで鳴らされることはあったようです。


【様式・形式】
文を拾い出したとき、併せて丸数字で拾った注釈を中心にして、様式・形式の観察ができます。

「不明な記号」
①~解説[この物語が書かれている粘土板文書の左欄(中略)この欄には、’a-a-a-a-a-a’とか’ku-ku-ku-ku’、’maś-maś-maś’などと楔形文字で書かれている。これが何を意味するのか、まだ不明であるけれども、おそらくは音符あるいは時には歌い方の指示であろう。](p.246)
ギルガメシュ叙事詩の粘土板にも何らかの記号がある、と別の本で読みましたが、どんな記号化の記載がなかったので比較が出来ません。この解説にあるものだけだと、せいぜい日本の謡本のゴマ点のようなものが連想される気もするのですが、何とも言えません。

「交互に歌う」
(09)      この物語は交互に歌い合うものである。 144行
②~解説[この物語の冒頭および末尾にある bal(-bal)-e(-dam) という術語によって、この物語は、登場人物に扮する人々が交互に歌い読む、ないしは演じたものであると思われる](p.272)
交互に歌い合うものである、とある「ドゥムジとエンキムドゥ」は、次の登場者が入れ替わりでセリフを述べる(歌う)作りであり、②は、それに対する自然な解説です。
語り手ウトゥ神(兄)~||:イナンナ女神(妹)ウトゥ神(兄):||(8セクション)〜語り手ウトゥ神(兄)イナンナ女神(妹)語り手牧人ドゥムジ語り手農夫エンキムドゥ牧人ドゥムジ農夫エンキムドゥ語り手
最高で5人、最低ではおそらく2人の歌い手が交互に演じることの出来る作りになっています。
日本の能のように、語り手が地謡であり、シテがイナンナ(前ジテ)とドゥムジ(後ジテ)を演じ、ワキが前半はウトゥ神を、後半は農夫エンキムドゥを演じる、のような構成であったとしても面白いなあと思います。もちろん、想像の域を出ません。

「サギッダとサガルラ」〜二部構成(④)
『集成』では「イナンナ女神の歌」と「ババ女神讃歌」にこの語が現われ、後者の解説にはぞれぞれ[サギッダ=「長い絃楽器?」 ここでこれが演じられたものであろう。]・[サガルラ=絃楽器の一つ。ここでそれが演奏されたのであろう。]との注があります。けれども『シュメル神話の世界』ではサギッダに「賛美歌」、サガルラ(サガラ)に「答唱」の訳語を当て、楽器との関連は述べていません。いずれにしても、「交互に歌う」式の延長線上にある形式のようです。ただし、入れ替わり立ち替わりになるのではなく、サギッダが前半、サガルラが後半、の二部構成です。「ババ女神讃歌」では「ウルビ」と称するコーダが付いています。

「イナンナ女神の歌」では、サギッダ、サガルラのそれぞれに明確な詩形式があって、解説でもこのことが述べられていますが、訳文でも形式感が充分わかります。
サギッダは、abab形式です。たとえば
冒頭4行の訳文が
 ・・・産んだお方よ。
 ・・・あたえられた。
 ・・・産んだお方よ。
 ・・・あたえられた。
最終4行の訳文は
 ・・・登ってくると、
 ・・・もたらす。
 ・・・登ってくると、
 ・・・もたらす。
という具合です。
サガルラはabcd形式です。
最初の4行の訳文は
 ・・・発するお方よ、
 ・・・歓呼して、
 ・・・打ちこわす。
 ・・・殺してしまう。
次の4行の訳文も
 ・・・発するお方よ、
 ・・・歓呼して、
 ・・・打ちこわす。
 ・・・殺してしまう。
終わりから8行目からの訳文は
 ・・・あなたのために闘う。
 ・・・身体をおおっている。
 ・・・産み給う。
 ・・・誉め称える。
そして最後の4行の訳文も
 ・・・あなたのために闘う。
 ・・・身体をおおっている。
 ・・・産み給う。
 ・・・誉め称えます。

しかしながら、「ババ讃歌」の訳文にはこうした定型はみられません。
サギッダの最初の8行はひとかたまりのようですし、以降は4〜3〜4〜3〜4〜4の行数ずつのかたまりのようです。それぞれ、神に捧げる褒め言葉になっています。
サガルラは神の行動を4〜3行で述べたあと、神の威信がより高まるようにとの祈りが重ねられ、最終3行が冒頭4行に対応するかたちで終わります。
ウルビはサガルラの冒頭を補強するような内容で短く終わります。ウルビの意味は注や解説からでも分かりません。
サギッダとサガルラの間に、サギッダへの返し歌と称する1行のみのセクションがあります。あたかも日本の万葉集の、長歌のあとの短歌形式の返歌のようです。サギッダ全体を締めくくる内容となっています。

「ババ女神讃歌」がサギッダ(・返し歌)・サガルラ(・ウルビ)と拡大しているものの、「イナンナ女神の歌」と「ババ女神讃歌」に共通するのは、骨組みがサギッダ・サガルラの大きな二部構成であることです。拡大形式は「ウルの滅亡哀歌」に見られるキルグとの関係が深いかと思われます。キルグのあとには最終の第十幕を除いて返し歌があるからです。2例だけでははっきりしませんが、言葉の展開の仕方に、サギッダは反復、サガルラは延長とでも呼んでいいような特徴があるのかも知れません。もっといろいろ見たいところです。原語を勉強しないと無理かな。

ここまで、能だの万葉集だのと挟みましたが、形式感が似ているというだけの話で、もちろん、直接関係があるとは言いませんし、思ってもいません。

「キルグ」〜拡大構成
③~解説[この哀歌は全体が十一幕に分けられている。今「幕」と訳してみたが、実はシュメール語ではキルグといって、たぶんこれは各章を歌い終わったあとで、それに対して答唱するグループに向けて、または何か、誰かに向けて軽く礼をすることをさしているのだろう。] p.278

『集成』中では「ウルの滅亡哀歌」だけに見られるキルグですが、『集成』の中では③に引いた通り「幕」と訳されており、『シュメル神話の世界』ではキルグで区切られたそれぞれのセクションを順に第1歌、第2歌、・・・と呼んでいます(「シュメルとウルの滅亡哀歌」、『集成』の哀歌とは別のもの)。いずれも、キルグの語で区切られるまでの各セクションは、セクションごとにひとまとまりの歌になっていますので、第○歌、という捉え方は正しいものだと言えるでしょう。しかし、各セクションを近代演劇の幕に例えてみたくなるほうが面白く感じます。「ウルの滅亡哀歌」を読むと(あるいは心の中で自分なりの節で歌ってみると)、それぞれのセクションがそれぞれひとまとまりの内容を持ちながら、次のセクションと有機的に繋がっているため、作品全体のムードに緩急があり、クライマックスとその後の沈潜も見事にあるのです。
キルグ自体は③で言われているように返歌を答唱するために待つ群などに対し何らかの礼などをする仕草をさす言葉なのかも知れませんけれど、これを今『集成』の訳通り「幕」としておくと、「ウルの滅亡哀歌」は、ざっと次のような構成です(私の勝手な要約です)。
第1幕(歌)神々がウルの神殿を見捨ててしまった、その羊小屋が空になってしまった。
第2幕(歌)町には激しい哀歌ばかりが、いつ果てるとも泣く続くばかり。
第3幕(歌)ウルを襲ったのは(襲撃という名の?)嵐であり、ウルの人々は涙に沈んだ。
第4幕(歌)ウルの神の制止にも関わらず、神々がウルに破壊の運命を決めたのだった。
第5幕(歌)悪風の嵐がウルを席巻する。
第6幕(歌)嵐の後には、惨殺された人のたくさんの死体、廃墟となった町が残った。
第7幕(歌)ほろんだ町、失った家を思って泣く、ウルの都市神。
第8幕(歌)人々は都市神を慰める。
第9幕(歌)町を滅ぼした暴風への、合唱ふうな怨みの歌1。
第10幕(歌)町を滅ぼした暴風への、合唱ふうな怨みの歌2。
第11幕(歌)ウルの町の復活を願う祈り
直接の対比は出来ませんが、あるいはキリスト教のレクイエム曲の構成感に似ている、と言ってもいいのかもしれません。
「ウルの滅亡哀歌」、「シュメルとウルの滅亡哀歌」共に、最終歌を除き、各「幕」のあとに返歌(答唱)があります。これは、サギッダとサガルラから成っていた二部構成の考え方がが、さらに拡大されたものだと捉えていいように思います。

総じて、前2000年前後のシュメルの歌唱は、2人以上の人が交替して歌うことにより、演劇的な内容にまで立ち入ることが可能になっていた、との印象を受けます。交替して歌う人たちは、あるいは登場者を演じ分け、あるいは場面を演じ分け、あるいは前に歌われた内容に短く応答し、【歌唱法】のところで想像したように、それぞれの役割にかなったかたちで、演技的なこともしたのかもしれません。


ちょっと前ふりですが・・・
アッシリアなどの時代はシュメル人の活躍より遥かに後代ですから、シュメルの音楽と一緒くたに見ることは出来ません。けれども図版の他に庶民にお手軽な野次馬材料もなく、500年刻みで次を、というわけにもいきません。であれば、シュメルとその千年後の違いを、いずれ旧約聖書あたりに題材を求めてみて見るしかないのかなあ、と思っています。そして、旧約聖書の舞台となっている時代にメソポタミアと並んで大きな影響を与えていたのはエジプトです。後代を見るためには、次はエジプトを見ておくべきなのかな、という気がしてきています。

そちらへ移る前に見ておかなければならないこととして、シュメルの音楽をどのような人々が荷なったのか、が、とりあえずシュメルをめぐる最後の関心事です。
この次それを見るところまでやってみようと思います。

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2017年3月 9日 (木)

【音楽史読書】1.シュメルの神話のなかの音楽(3) 楽器

さて、前回の疑問を確かめていくと、驚きの実態も浮かび上がってくるのでした。

古代音楽関係の図像は、大型本『人間と音楽の歴史 Musikgeschte in Bilden』シリーズに掲載されていて重宝するはずなのでしたが、新刊当時はかなり高価でしたし、いまは古書でしか入手できません。『メソポタミア』の巻(スービ・アンワル・ラシード著 原著1984年 訳書昭和60年 以下『人間と音楽』)は新刊時8,800円、古書でも3,000円台でした。古い時代の編年が最近のものとズレていますが(*1)、日本語で読める啓蒙書としてはメソポタミアの音楽を荷なった楽器、歌手や奏者の社会的背景などについて、専門にまとめたものは、今でもこれしか見当たりません。
また、コンパクトながら、U.ミュルス編『図解音楽事典 dtv-Atlas zur Musik』(日本語版監修 角倉一朗 白水社 1989年)が、古代の四大河文明地域の音楽について、まとまった情報を提供してくれます(編年は『人間と・・・』と同じです)。これらを覗いてみますと、特に楽器について、前回コメントした推測が正しくないことが分かりました。

そこで、最初に、シュメルの楽器について見直しておくことにします。


【管楽器】
『集成』に登場したのは、「フルート」・「笛」でした。

「フルート」
01flauto フルートについては『人間と音楽』に言及があります。そのまま引きます。
「ウルクで発見され、近年、ハンス・イェルク・ニッセンによって公表された粘土製の容器状フルートは、ウルク時代末期(*2)のものである。このフルートは、中心に気道がある型のフルートの歌口を示しているが、上端は吹口まで折れてなくなってしまっている。また指孔は2つ開けられている。」(p.22)
指孔こそかなり少ないですけれど(そういう点では、土製であることからもオカリナのほうが幾分近いようでもあるのですけれど・・・オカリナのほうがまだ孔が多いですね)、音を出す原理が現在のフルート、日本の横笛(あるいは尺八)、もしくはリコーダーのいずれかと近かったことが窺われ、現代語でフルートと呼ぶのは錯誤ではないことになります。シュメル語ではなんと言ったのでしょうか? この拙い記事をご覧に頂いた中にご存知のかたがいらしたら、教えて頂ければ幸いです(*3)。
竪(たて)型のフルートについては鮮明ではないながら円筒印章の印影にその姿が確認できました。猿が竪型フルートを吹いているとされる図版(『人間と音楽』図版25)は、小林『シュメル』p.218に印影があります。

「笛」
02pifa フルートではないものをさす訳語ですが、私は原語を知りませんので、蓋然性は分かりません。発見されている遺物からすると、『人間と音楽』が次のように述べている楽器のことかと思います。
「ウルの王墓で、指孔のある銀管の破片が発見され、それはシュメールの王ウルナンムの石碑の背面に描かれているような双管オーボエ・タイプの双管楽器と推定されている。」(p.22)
ただし、この遺物の図版の解説では、研究者の中に、これがフルートなのかダブル・リード楽器なのか確認することは出来ないと考える人もいると述べられています。シュメル人王朝時代の双管オーボエの図版は『人間と音楽』の図版には無く、アッシリア期のものが載っていました(図版122)。とはいえ、ダブル・リード楽器は古代ではほとんど例外なく2本一組で用いられたとのことですから、より以前とはいえ、シュメル人王朝時代も例外ではなかったのではないしょうか。

岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界』(中公新書1977)には、神を祝福して迎える場面に、ティギ笛という名称が登場します(p.118、『イナンナ女神とエンキ神』)。(26)にあらわれるティギ太鼓という聖歌用の太鼓は、別の神話にも登場しますので、この笛も聖歌用、そして場面から推測するに祝儀用の楽器だったと思われます。具体的にどんなものだったかは分かりません。(→「太鼓」)

05trmp 他に、トランペットと呼ばれている、ツィンク状の管楽器も図版に見出すことが出来ます(図版37)。また、シュメル人の記したものの中に、ホルンが公的広告のために使われたとあるとのことです。トランペットはメソポタミアでは前2600年には使われていたことが証明されていて、これはエジプトのどの例よりも古く、トランペットの発祥はメソポタミアに求められるべきだ、とのことです(同上図版解説)。第3ウル王朝の経済文書に、「(金や銀の)長い管」を表わすgi-gídという名称があり、これが裏付けとなる、と主張されています。


【絃楽器】

リラのみが『集成』のテキストに登場しました。

「リラ」
03lyra リラはウル王墓から9台分の残存部(『人間と音楽』による。古代オリエント博物館編『シルクロードの響き』では8台とされていました)が発見された上に、内5台が復元に成功していますし、シュメル人の残した奏楽の図版にも大量に登場します。
「リラはシュメールの国民楽器といえ、すでに前4000年紀末に描かれている。・・・弦の数は図像では4、5、7弦で、また出土品には8弦11弦のものもある。」(『図解音楽事典』p.161)
前1000年紀の楔形文字資料に見える、9本弦の楽器の弦(sa)の名前が、ひとつは7弦のみにとどまり、ひとつは5弦まで数えたところで「後ろから○番目」となるところから、専門家によって
メソポタミアの音楽が少なくとも前1000年紀以来7音の音組織に基づいており、第8弦は第1弦に対してオクターヴ音を形成しているという解釈」がなされているとのことです(『人間と音楽』p.20~p.21)。ウル王墓出土のリラの弦の数はこれに符合するように感じます。7音の音組織だったことについての資料には、もっと古く前2000年紀末のものもあるとのことです(同上)。
リラについてはいくつか細かい情報があります。
ウル王墓出土のものはすべて、縦1メートル程度・横1メートル程度、と大型です。中でも<黄金のリラ>は、楽器上部の横木の幅が1.4m、高さが1.2mあります。楽器下部の共鳴胴は横幅65㎝・高さ33㎝・奥行8㎝です。大型のリラは座って演奏したもののようです(『人間と音楽』図版8)。
有名な「ウルのスタンダード」で描かれているものは手で持っていますが、持っている人物の背丈の半分くらいと、決して小型とは言えません。この「ウルのスタンダード」のリラの絵には、楽器下部の響版前部に小さな三角が描かれており、これは響版で音をより響かせるために開けた孔ではないか、と推測されています(『人間と音楽』p.30~p.32)。
リラは、楽器上部の横木には、調律のためと思われるレバーがあります。楽器前部に、雄牛・雌牛・仔牛・鹿など動物の顔の像が付けられていますが、この動物の違いがそれぞれの楽器の音域を特徴付けていて、シュメル人が高度な和声法を持っていたのではないか、との推測もあるそうですが、証明するものはありません(『人間と音楽』図版45の解説)。最古の音楽の楽譜として発見され、1972年に解読されたという粘土板について、その音を再現したというものがあって、3度、4度、もしくは6度をとる2声部になっていることでよく知られていますが、とりあえず私は読めませんので、何とも言えません。 http://commonpost.info/?p=97555

絃楽器としては、リラの他にハープ、リュートの類いもあったとのことです。

04arpa 『人間と音楽』掲載の<プー・アビーのハープ>(ウル王墓出土、図版9)は11弦です。ウル第1王朝期のテラコッタに描かれた、ロバの楽隊が持っているハープは、7弦の楽器であると分析されています(図版30)。図版に横型(弓形)のハープもありますが、これはシュメルのものとは異なり古バビロニア(前2000年前後)のもので、しかもインダス文明との交流を証するものだそうです(図版75)。ついでながら、テラコッタに描かれている古バビロニアのハープの弦数は7弦に見えます。ハープの、シュメルでの呼び名は balag (バラグ)だったようです(p.12)。

テラコッタに見える像からは、リュートについては、古い時代のものについては、おおまかな形と演奏の仕方以外は何も分かりません。前14世紀とされているテラコッタの浮き彫りのもの(図版105)では4弦くらいに見えます。
サギッダ・サガルラの語が『集成』では絃楽器と関連づけられていましたが、ポテロ『最古の宗教』や岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界』(中公新書1977)の中では歌唱の様式を指すと捉えられています。サギッダとサガルラは絃楽器の伴奏を伴う歌唱様式だったのかとも思われます。これは、原語を知らない私には、推測以上のことは出来ません。


【打楽器】
『集成』には太鼓・タンバリン・ティンパニーが登場しましたが、ティンパニーと訳されたものに当たると思われる楽器のことから始めます。

「ティンパニー」
06drums 古代にティンパニはさすがになかっただろう、と思っていたら、『図解音楽事典』の古代メソポタミア関係のイラスト(おそらくテラコッタからの模写)に「ティンパニ」と称しているものがあったのでした(p.160)。金属製の鍋型ティンパニ、と、ひとこと説明されています。しかし調律が出来たものとは思えません。解説にも調律が出来たとは書いていません。
イラストで、この楽器を叩いている人物は禿頭に見えますので、現物のテラコッタは古い時代に属するものではないかと思われます。模写の元となったものの写真は、こちらに掲載しておきます。

「タンバリン」
『図解音楽事典』では、小さな枠太鼓をこう呼んでいます。現代の私たちがタンバリンと言っているような、回りに小さなシンバルがついていたものではないようです。
他に詳しい記述は見出せませんでした。
旧約聖書で、「出エジプト記」などにタンバリンと訳されている楽器が登場しますが、メソポタミアとの関係を含め、旧約聖書の中の音楽をみる際にでもまた振り返ろうかと思っております。

「太鼓」
『図解音楽事典』のひとこと解説には、メソポタミアの打楽器の中に、
「腹の上に〈直立〉に持ったり、または両面太鼓として〈水平〉に持って両面を両手で叩く小さな円筒太鼓」
「2人の奏者で演奏する両皮の大きな枠太鼓(直径約1.50~1.80m)」
が登場します。前者のイラストはありません。
岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界』(中公新書1977)に紹介されている神話には、次のような太鼓の名称と用途が現われます。
・哀歌用のシェム太鼓(から覆いをはずさせよう。)(p.94『エンキ神の定めた世界秩序』)
・聖歌用のティギ太鼓(を家にしまわせよう。)(同上 →「笛」)
シェム太鼓アラ太鼓(p.118 『イアンナ女神とエンキ神』)
めでたい場面にも登場することから、シェム太鼓の用途は、哀歌用とは限らなかったことが分かります。しかしたとえば、初回の引用文の(03)に登場したのは、もしかしたらシェム太鼓だったのではないかな、と想像してみています。
残念ながら、具体的に、テラコッタの浮き彫りの中に姿の描かれたどの太鼓と、それぞれの名称の太鼓が一致するのかは、知る手がかりはありませんでした。
『人間と音楽』の図版に見る太鼓は、手持ちのものから地面に据える大型のものまで、じつに様々です。

『シュメル神話の世界』には、次の記述もあります。
「シェムもアラも打楽器の一種で、祭礼で盛大に打ち鳴らされ、ティギは礼拝奏楽に用いられることが多い。」

打楽器等としては、他に拍子木(日本の今のそれとは違って屈曲しています)やシストラム類の図版が見られました。シンバルは、全9世紀まで時代が下ったものの図版でした。シュメル王朝時代の存否は私には確認できませんでした。


以上、『集成』の訳文などのテキストから知ることの出来るシュメル王朝期の楽器は多様であるにもかかわらず、テキストに対して遺物から具体像がなんとか描ける楽器は、
(07) フルート〜竪型のもの
(13) ・(28) リラ
(17)・(25) ティンパニー〜現代のティンパニとは異なりますが
くらいでした。
時代の遠さを実感します。

この次は、音楽・・・歌に限られてしまうでしょうけれど・・・の形式や演奏スタイルが、どれだけ訳文から窺えるか、を探ってみようと思います。音楽を演奏した人々の社会的なありかたにまで視野が届けば、そこまでを見てみたいと思いますが、回を分ける必要があるかもしれません。


*1:小林登志子『シュメル』と比較するとウル王朝滅亡からバビロン第1王朝滅亡あたりまでは60年程度遅い時期となっている。カッシート王朝滅亡以降は一致
*2:ウルク時代末期~紀元前3100年頃
*3:「限定文字ギ gi(管)は気鳴楽器のために使われた・・・」(『人間と音楽の・・・』p.12)

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2017年3月 3日 (金)

【音楽史読書】1.シュメルの神話のなかの音楽(2)

まずは、この前引いたシュメルの神話の中の、音楽に言い及んだ文を眺めて、そこから見えてくるもの・こないものを、簡単にまとめてみます。(文そのものは前回をご覧下さい。)

シュメルの人たちの頃から1000年あとを扱ったものになりますが、小板橋又久『古代オリエントの音楽 ウガリトの音楽文化に関する一考察』(以下、『考察』)では、分析に際して、章立てを「音楽家」・「歌唱形態」・「楽器」・「記譜法」・「歌のジャンル」・「音楽の宗教的機能」としています。
先に『集成』から拾い出した文では、材料も限られますけれども、『考察』が章立てしたようなことを、シュメルについてもある程度まとめることは出来ます。ただし、歌う人や楽器を奏した人については、「音楽家」とは言わず【演者・奏者】とし、「音楽の宗教的機能」を【奏楽の場】と捉えて、ひとまとめにします。「歌唱形態」と「記譜法」と「歌のジャンル」は、ひとまとめにして【演奏スタイル】とします。
注釈から拾った分は含めません。それらは具体的なことに立ち入るヒントになるものでもあり、今回のまとめを元にしながら、あとで考えることとします。


引用文からのまとめは、各括りでは、登場順に、以下のようになります。


【演者・奏者と奏楽の場】
・楽手[宗教儀式等の際の聖歌隊] (01)
・彼女(女神イナンナ)の使者は・玉座の間で (03) 〜女性の神官にあたるか?(ジャン・ポテロ『最古の宗教』りぶらりあ選書 を参照)—>(02)・(05)
・ガラトゥル[祭儀で聖歌を歌う人] (04)
・歌を唄う人、私のシャラ (06)
・牧人[イナンナの夫の牧神ドゥムジ]に・彼女(女神イナンナ)の前で (07)
・主 (12)
・人々 (17)
・(シュルギ王)(26)
・歌い手 (29)・(30)・(31)・(32)
・ガラ神官[儀式で聖歌を歌う神官] (32)
・フルート奏者 (32)


【楽器】
・太鼓 (02)・(03)・(16)・(17)・(25)
・ティギ太鼓 (26)
・フルート (07)
・笛 (07)
・リラ (13) ・(28)
 〜 『(シュメールの)国土のドラゴン』(あるリラの固有名詞)=大きな音を立てる有名な(楽器)=<彼とともに熟考する>[神託を与える]もの
・タンバリン (17)・(25)
・ティンパニー (17)・(25)
・サギッダ[「長い絃楽器?」] (21) 〜ただし、歌唱の様式のようなものではないか、との推測をしている記述もある(ポテロ『最古の宗教』)。
・サガルラ[絃楽器の一つ。ここでそれが演奏されたのであろう。 (23) 〜~ただし、歌唱の様式のようなものではないか、との推測をしている記述もある(ポテロ『最古の宗教』)。


【演奏スタイル】
・(葬送)曲 (01)
・讃歌 (08)
・物語を交互に歌い合う (09)
・返し歌 (10 )〜〔その〕サギッダに対する返し歌 (22)
・哀歌 (11) ・(12)
・悲歌 (14)・(15) 〜まるで浄らかな太鼓でもあるかのように、彼女は自分の胸を打ちたたき、「ああ、私の町よ!」と叫ぶ。(16)
・(楽し気な)歌 (18)
・嘆きの歌 (18) ・(19)
・ティンパニー歌 (19)・(20)
・ウルビ[サガルラを受けて内容をまとめて強調する意?] (24)〜[神々の讃歌に多い類]
・<小さな>唄 (27)
・彼の<顫音(せんおん)> (29)〜「顫音」は、トレモロもしくはトリルの意味。


各項目について、これだけで気がつくことをコメントしておきましょう。

『集成』は宗教に関わる讃歌等のみ載せているため、【演者・奏者】には神官もしくは祭儀の関係者が目立ちますし、【奏楽の場】も、唯一具体的に記されていた「玉座の間」の玉座とは女神のものですので、祭祀の場です。


【楽器】では、フルート、タンバリン、ティンパニーの訳語が当てられているものは、実際には近代その名で呼ばれるそれぞれの楽器とは機能の異なるものだったのではないかと思います。
フルートは「笛」と称しているものが縦笛なので、横笛を区別するためにあてた訳語なのではないかと推測しています。→ハズレでした(縦笛のようです)。
タンバリンは、なにかしら類似の枠太鼓だったのではないでしょうか。現在その名で呼ばれるものには枠に鈴がありますが、シュメルの枠太鼓が鈴付きだったものかどうか、分かりません。
ティンパニーは、太鼓がある程度小型のものを指しているのであれば、やはりそれとの対比で大型のものを指しているのではないかと推測しています。古代オリエント博物館編『シルクロードの響き』(山川出版社 2002年)には、「膜鳴楽器には小型の枠太鼓や大型の両面太鼓があった」と述べられています(p.7)が、この後者ではないかと思っています(シュメル語との対比が出来ない以上、確かではありません)。→これも違うようです。楽器のまとめをご覧下さいまし。
これらについては、照合できる図像を探してみたいと思います。→探してみました。
『集成』の注で絃楽器とされているサギッダ・サガルラは、楽器のことではなく歌唱の様式をさすものかもしれず、実態が分かりません。リュートの祖型を奏でる人物像は出土例がありますので、あるいはそうしたものを弾きながら歌う、等のことを指しているものでしょうか。
なお、DSRミュージックのサイトに次の記述があります。(http://dsr.nii.ac.jp/music/02persian.html
「前3千年紀の初期王朝時代のウルの王墓(前2600)から楽器の実物が発掘された。二張の弓形ハープ、八台の牛頭の飾りをもつリラ、八本の銀製の管の断片(その中には明らかに指孔をうがったものもある)、そして一台の舟底形共鳴胴をもつリラと青銅のシンバルの残欠などである。ハープとリラの一部は復元されてロンドンの大英博物館(「王妃のハープ」「王妃のリラ」と名づけられている)や、フィラデルフィアのペンシルヴァニア大学博物館、そしてバグダードのイラク博物館に展示されている。きらびやかな装飾がほどこされた見事な楽器であり、奏楽がいかに重要な役割を担っていたか想像される。楽器は単に奏楽のみならず、祭祀のための法器でもあった。王墓からは何十人もの殉死者の遺骨が発見され、その中の数人は息絶えるまで楽器を奏でつづけていた。」


【演奏スタイル】のなかで、ジャンルを指すものではない「交互に歌い合う」(09)は、後日、注部分から引いたものを考え合わせ、テキスト(訳文ではありますが)から少し具体的に見たいと考えています。読み取れる何かがあればいいなと思います。
悲歌を歌う「自分の胸を打ちたた」く姿(16)、「顫音(せんおん)」(29)が、当時の歌い方・演じ方を僅かに垣間見せてくれる点、面白いと感じています。


このあと、楽器と演奏スタイルを中心に、具体像を少し見ておくところまでやっておきたいと思います。

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2017年2月27日 (月)

【音楽史読書】1.シュメルの神話のなかの音楽(1)

ブログでリハビリに夢中になっていた頃、世界音楽史のようなものが知りたいと毎日調べては懸命に綴っていたこともありました。ずいぶん慌ただしかったので、満足な中身ではありませんでした。

それで、仕切り直しをしたいと思っています。
出来れば概説書ではない資料・史料を、月1冊程度読みながら考えて行くことにします。
時代の古いものから順に、なるべく洋の東西を問わず目を通していきますが、読めるものの制限から、偏りはできるかもしれません。

なぜ音楽史なのか、の能書きは、いずれあらためてとします・・・もしそんなものがあれば!


文字で歴史を記した人たちをベースに、人間は音楽をどう捉えてきたか、を、素朴な目線で読み取って行きたいと思います。音楽の起源までにはとうてい遡れないのですけれど、読み取っているうちに、いままで漠然と感じたり思い込んだりしていたことに、少しは、はっきりした答えや展望も産まれてくるのではないか、と期待しつつ、進めて行きます。

手始めは、紀元前2000年前後に文明を拓いたシュメル、ということになろうかと思います。

使った言葉が分かっている世界最古の民族、シュメル(※)の人々が粘土板に記していた神話に、音楽に関わる文が豊富にあります。杉勇・尾崎亨訳『シュメール神話集成』(2015年 ちくま学芸文庫)に頼り、それを見ることによって、人間の文明が音楽をいかに産み出したのかを推測できればと思います。

起源が未だに不明なシュメル人は、ペルシャ湾河口から北西に広がる肥沃な三日月地帯で灌漑農業を大きく発展させ、紀元前3000年紀には王朝を拓き、「神殿共同体から都市国家に至る政治形態、法典に基づく司法と行政、楔形文字、宗教生活の形態」(小川英雄『古代オリエントの歴史』29頁)など、メソポタミア文化のほとんどを創造しました。シュメル人の王朝は前2004年(前2006年?)にすべての都市を破壊されて終焉を迎えましたが、後続の国々が、その崇めた神々を同化吸収し、文字を独自に引き継ぎ、言葉を聖なるものとして秘伝的に継承したのでした。
『シュメール神話集成』(以下、『集成』)の解説によると、シュメル語で書かれた膨大な粘土板文書の95%以上は経済行政文書で、残りが王碑文、語彙集、文学テキストなのですが、それでも文学テキストは一万点近く出土しているとのことです。『集成』は、そうしたテキストから碩学の故・杉勇さんが1978年に全集本のなかで刊行した翻訳を尾崎さんが若干訂正して文庫化したものです。

原語に初歩的な知識すら持ち合わせませんので、この『集成』の日本語訳が頼りです。

『集成』の訳文から、音楽に関わると見られるものを拾い集めます。
長くなるので、今回はまず収集までにし、そこから垣間みられるシュメル人の音楽については次回(一週間後かな?)まとめたいと思います。

抜き出した文は、以下の約束事にしたがって記します。
分かりやすさ等、参考のために注や解説を参照して補ったことは[]内に示します。
()は原訳文にあるものです。
<>は原文難読部分の原訳文における翻訳です。
〔 〕は原文に欠損のある箇所です。欠損部分に音楽に関わる語のみがある場合は拾い出しません。(「ウルの滅亡哀歌」102行〔哀歌〕のみ。)
「○行」は、その物語等の訳文の何行目にあるかを示します。原文の行番号に忠実なものだと思われます。同じ表現が複数現れるときは、最初に現れる行の文のみを拾い、他は行のみを記します。

引用誤りや、拾い漏れもあるかと思います。ご興味のある方は、ぜひ『集成』そのものをお手にとってみて下さいね。


「人間の創造」
①~解説[この物語が書かれている粘土板文書の左欄(中略)この欄には、’aa-a-a-a-a’とか’ku-ku-ku-ku’、’maś-maś-maś’などと楔形文字で書かれている。これが何を意味するのか、まだ不明であるけれども、おそらくは音符あるいは時には歌い方の指示であろう。](p.246)

「農牧のはじまり」~とくになし。

「洪水伝説」~とくになし。

「エンキとニンフルサグ」
(01) 楽手[宗教儀式等の際の聖歌隊]が(葬送)曲を演じることもない 29行

「イナンナの冥界下り」
(02) 玉座の間で太鼓を私のためにたたきなさい。 35行 [嘆きの行為? 神々の招集のため?]
(03) 三日三晩が過ぎ去ってから/彼女の使者ニンシュブルは/[2行略]/(丘の上で)彼女のために嘆き/玉座の間で太鼓を打ちならした。 169〜174行
(04) 彼[エンキ神]は彼の爪から垢を取り出してクルガルラ[泣き女?]を作り/彼の赤く(そめ)られた爪から垢を取り出してガラトゥル[祭儀で聖歌を歌う人]を作り出した。 219〜220行
(05) [ニンシュブルは]太鼓を玉座の間で私のために打ちならしてくれたし 303行
(06) 歌を唄う人、私のシャラは 319行
(07) 彼ら[冥界の手先のガルラ霊たち]は牧人[イナンナの夫の牧神ドゥムジ]に彼女の前でフルートや笛を吹かせない 337行
(08) 浄らかなエレキシュガル[冥界の女王神]よ/あなたの讃歌(を歌うこと)はすばらしい 断片B 14〜15行

「ギルガメシュとアッガ」〜とくになし。

「ドゥムジとエンキムドゥ」
(09)      この物語は交互に歌い合うものである。 144行
②~解説[この物語の冒頭および末尾にある bal(-bal)-e(-dam) という術語によって、この物語は、登場人物に扮する人々が交互に歌い詠む、ないしは演じたものであると思われる](p.272)

「ウルの滅亡哀歌」
(10) それへの返し歌である。 39行、136行、172行、207行、253行、330行、387行、399行、417行
(11) ああ、町よ、お前を嘆く哀歌が激しい。 40行 
 以下62行まで毎行、及び75行に「哀歌が激しい」
(12) お前を嘆く激しい哀歌を、涙する主は、いったいいつまで続けるのだろうか。 63行
 以下、64行、71行、72行に「お前を嘆く激しい哀歌を・・・いったいいつまで続けるのだろうか」
(13) その婦人は、彼女の〔 〕、涙のリラを大地に立ててから 86行
(14) みずからうたう、破滅した家のための悲歌を静々と 87行
(15) 『嵐が私を訪れて----悲歌が私を満たした。 88行、91行
(16) まるで浄らかな太鼓でもあるかのように、彼女は自分の胸を打ちたたき、「ああ、私の町よ!」と叫ぶ。 300行
(17) あなたの祭りの(おこなわれる)家、アウでは人々はもはや全然祭りを祝わなくなった。/心を楽しませる(楽)器の太鼓やタンバリン、ティンパニーを人々はもはやあなたのために奏しなくなった。 355〜356行
(18) あなたの(楽し気な)歌はあなたにとって嘆きの歌になってしまった。いつまで〔 〕。 359行
(19) あなたのティンパニー歌は、あなたにとって嘆きの歌になってしまった。いつまで〔 〕。 360行
③~解説[この哀歌は全体が十一幕に分けられている。今「幕」と訳してみたが、実はシュメール語ではキルグといって、たぶんこれは各章を歌い終わったあとで、それに対して答唱するグループに向けて、または何か、誰かに向けて軽く礼をすることをさしているのだろう。] p.278

「イナンナ女神の歌」
(20)      サガルラ。イナンナ女神の、ティンパニー歌である。 54行
④ 〜解説[この歌は sa-gid-da と sa-gar-ra との二つの部分に分れている。これらは a-da-ab 歌と呼ばれるものに多く現われるものであるが、はっきりその内容は理解されていない。] p.283→「ババ女神讃歌」参照
 *私注:この文以降に様式(ことばの繰り返しかたのパターン)の説明がある。

「ババ女神讃歌」
(21)      サギッダ[「長い絃楽器?」 ここでこれが演じられたものであろう。] 31行〜[私注:器楽独奏?]
(22) 〔その〕サギッダに対する返し歌 33行
(23)      サガルラ[絃楽器の一つ。ここでそれが演奏されたのであろう。「イナンナ女神の歌」にも現われる。] p.228
(24)      ウルビ[サガルラを受けて内容をまとめて強調する意?]。ババの〔アダ〕ブ歌[神々の讃歌に多い類]。 65行

「シュルギ王讃歌」
(25) そこで牛を屠り、多数の羊を<殺した>。
 (そして)太鼓とティンパニーを打ち鳴らさせ 52〜53行
(26) (シュルギ王は)ティギ楽器を楽しく演奏させた。 54行(26) 私の楽手たちはティンパニーとタンバリンを私のために奏した。 81行
(27) <小さな>唄の中で(私の名を)歌って  94行

「グデアの神殿讃歌」
(28) 『(シュメールの)国土のドラゴン』(と呼ばれている)彼愛好のリラを持って----(それは)大きな音を立てる有名な(楽器)であって、<彼とともに熟考する>[神託を与える]ものですが---  Ⅵ24行、Ⅶ24行

「ダム挽歌」〜とくになし。

「悪霊に対する呪文」~とくになし。

「ナンナル神に対する『手をあげる』祈祷文」~とくになし。

「シュメールの格言と諺」
(29) 歌い手がたった一つしか歌を知らなくても、
 彼の<顫音(せんおん)>がすばらしければ、彼はまさに歌い手だ。  p.191
(30) 歌い手の<声>がよければ、彼はまさに歌い手だ。  p.191
(31) <声>のよくない歌い手----彼は並みの歌い手だ。  p.191
(32) 面目を失った歌い手は笛吹きになる。
 面目を失ったガラ神官[儀式で聖歌を歌う神官」はフルート奏者になる。  p.192
 *私注:フルート奏者の方がお気を悪くなさいませんように!
     古代人の言ったことですし、フルートと言われているものも
     たぶん現代的なフルートではありません。


※ シュメルがシュメールと長音になっていることが多いのは、「第二次世界大戦中に(中略)天皇のことを『すめらみこと』というが、それは『シュメルのみこと』であるといった俗説が横行した。そこで、中原与茂九郎先生(京都大学名誉教授)が混同されないように音引きを入れて、『シュメール』と表記された」からだそうです。(小林登志子『シュメル 人類最古の文明』はじめに・・・中公新書1818)

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2013年9月16日 (月)

鷗外の「オルフェウス」(4)〜未定訳稿はウィーン版短縮版だと思います

(1)(2)(3)(4)


花房に黙って顔を見られて、佐藤は機嫌を伺うように、小声で云った。
「なんでございましょう」
「腫瘍は腫瘍だが、生理的腫瘍だ」
「生理的腫瘍」
と、無意味に繰り返して、佐藤は呆れたような顔をしている。
花房は聴診器を佐藤の手に渡した。
「ちょっと聴いて見給え。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致している母体の心音よりは度数が早いからね」
佐藤は黙って聴診してしまって、忸怩たるものがあった。

(森鴎外『カズイスチカ』)


鴎外の訳した歌劇「オルフェウス」(グルック)は、最初の訳は鴎外が留学中に見た際入手したリブレットに依ったのでしたが、それは鴎外に翻訳を依頼した国民歌劇会の手持ちの楽譜の詞とは合いませんでした。
グルックの「オルフェウス(オルフェオとエウリディーチェ)」には「ウィーン版」と「パリ版」が存在します。「パリ版」は「ウィーン版」よりも楽曲が増えています。
国民歌劇会が保有していた楽譜は、(2)で究明した通り、原則として「パリ版」に依っていたのでした。当時誰もそんなことは知らなかったのでした。
鴎外は後日楽譜を取り寄せて楽譜にあうよう翻訳をやり直ました。

それでは、鴎外が未定訳稿と称した最初の訳は、まったく楽譜に合わせようのない「歌えない」翻訳だったのでしょうか?

鴎外は楽器の演奏等はしていなかったとはいえ、楽譜のリズムをある程度理解出来た、と推測出来る点を、(3)で確認しました。
また同時に、国民歌劇会の要請にかなうように翻訳し直した「オルフエウス」第二訳稿(「沙羅の木」収録 *8)を手掛けるにあたって、鴎外は
大体に於いて原詞の一つづりを一音に
したのでしたが、この方法を最初にとりくんだ未定訳稿でも採用した、と鴎外は明言していることを見ておきました。こちらに取り組む際は楽譜を参照しなかった・・・出来なかったか、する必要を(協議はしたはずだと考えていますけれども)視野に置かなかった・・・のでした。(*8 346~347頁)結果的にそのことが楽譜と未定訳稿の不一致を生んだのでした。

すると、若い日の鴎外が観劇し買い帰って大事にしていた「オルフエウス」の観賞用台本、「ライプツィヒリブレット」を基にした未定訳稿は
現に協会で用ゐてゐる楽譜に合はない」(*8 346頁)
のではあっても、歌うのに適しない訳であったとは考えられません。

最初の訳である未定訳稿と決定稿である第二稿の冒頭部分を試しに比較すると(数字はシラブル数)、このような具合です。

【未定訳稿】
この暗き森に         8
汝が影今猶          8
墓の邊にあらば、       8
夫の聲を聴け、        8
泣き暮らす夫の。       8

【第二稿】
 この小暗き森に       9
 エウリヂケ、汝が影     9
 墓の邊にゐば        7
 聞けこの歎を。       8
 涙を、涙を見よ。流す涙を。 17(10+7)
 棄てられし夫の泣くを。   11(6+7)
 哀と見よ。         6
 傷ましと見よ。       7
 亡き汝帰り来。       9
 いたつきに悩めり。     9
 来よや。          3
 来て救えかし。       7

ここから、
・未定訳稿のシラブル数が整っていて、第二訳稿と同じように「歌える」ものになっていること
・しかしながら未定訳稿の方が第二稿よりずっと短いこと
が分かります。

以上により、未定訳稿は何らかの省略を施した短縮版だったのではないか、と考えられることになります。
さてそれは「ウィーン版」によるものだったのか、「パリ版」だったのか、はたまた両者を取り混ぜたものだったのか、あるいはまた後年ベルリオーズが編んだ版を採用したのであったか。

このあたり、鴎外訳版楽譜を校訂なさった瀧井敬子さんの論文では究明されていません。瀧井さんの使命は鴎外訳によって上演されるはずだった楽譜を再現することで、そちらのテキストは第二訳稿ですから、範疇の外であり、当然のことです。

そこで、野次馬根性で、上の疑問を解くべく、第二訳稿と未定訳稿の日本語テキストを比較し、可能な限り検証してみました。
ただし、未定訳稿はライプツィヒリブレットのドイツ語1行に当てる訳を忠実に1行に当てています。対する第二訳稿では鴎外は
「韻語としての句に拘泥せずに、縦に続けて書き流す」(*8 347頁)
方法に依っているため、そのままでは句の比較が出来ません。
そこは作業をしながら私が判断して、第二訳稿を「句」に仕立て直しました。ただし、完全を期したものではなく、句の分け目の判別が難しい箇所については目安程度としました。未定訳稿のどこからどこまでが第二訳稿の各ナンバー(曲)と対応するかを見定めるには、目安で充分であるとの考えによりました。
また、ドイツ語同士の対比も検討しましたが、未定訳稿のもととなったライプツィヒリブレットのドイツ語は亀の子文字であり、それを判読しても単語がおそらく古いものであるため手元の小さな辞書では正しく確認し切れず、そこは素人の悲しさ、断念をしました。鴎外がドイツ語原文にほぼ忠実なシラブル数で翻訳を心がけているため(これは両稿共にそうなっていることを確認しました)、今の目的には訳文の日本語で事足りるものとしました。

対比の内容は添付の表の通りです。

Ohgai-OrfeoTxt.pdf

左右の色がほぼ対応するようにし、対応するナンバーについてシラブル数も比べられるよう合計をとってみました(括弧でくくった数字)。

結果、次のようなことが判明しました。
未定訳稿の詞は、ほぼすべて第二訳稿に該当ナンバーを見出すことが出来る。
 未定訳稿で第二訳稿と対応がないのは14番中の4行、33番中の4行、
 44番中の12行である。
 (具体的な箇所は添付表参照)
未定訳稿では第二訳稿に比べ大幅にナンバーが省略されている。
 2〜8番、17番、32番、50番
 なお、器楽部分は未定訳稿には演奏するかしないかの記載がありません。
 言葉がないため記載の対象にはならなかったからです。
 したがって、器楽部分でどれが演奏されどれが演奏されなかったかは分かりません。
未定訳稿からは演奏にあたって曲に短縮されたものがあったことが窺われる。
 明確にそうだと見なせるのは1番、21番、45番(合唱部)
未定訳稿では実演上繰り返される言葉は反復を省略してあることが窺われる。
 9番、11番、13番、15番、20番器楽終了後の前半(19番の反復)、34番
・具体的に計量し直していないが、レチタティーヴォも短縮傾向にある。
 ただし33番と44番は例外であり、未定訳稿の方が長い。

表を見て頂ければ分かります通り、対応するナンバーではシラブル数もほぼ同じになっています。これを細かに見て行けばもっとたくさんのことが言えるのかもしれませんが、それには原詞の対比や楽譜に乗せての検討が必要になってくるでしょう。とてもそこまでは出来る境遇でもありませんので、作業を割愛しました。
なお、全体の詞句の数だけで見るなら、未定訳稿は第二訳稿の4分の3になっていますが、省略された反復があることを加味すると、ライプツィヒリブレットは二割程度の短縮が施されて上演された台本だったと見なせるのかもしれません。

さて、ここまでで、未定訳稿による上演は曲の省略が加えられた短縮版だったと判明はしますが、それが「パリ版」の短縮だったのか「ウィーン版」の短縮だったのか、あるいは独自の版として構成されたものだったのか、の問題が残ります。
おおよそのナンバーが第二訳稿の依るところであった「パリ版」と合致するのですから、「パリ版」の短縮だと考えたいところですが、それは、レチタティーヴォの一部のうち、未定訳稿のみに見出せる14番中の4行、33番中の4行、44番中の12行によって保留されます。
14番と33番で未定訳稿にのみ超過して存在する行は、「ウィーン版」によるのか別の何かによるのかははっきり分かりませんでした。これは原詞を楽譜に当てはめて検討すべきものでしょう。
44番の12行は、これは明確に「ウィーン版」によることが確認で来ました。
また、未定訳稿に見出せない17番、32番のアリア、50番の三重唱はウィーン版にも存在しないナンバーです。
このことから、詞の対比作業を終えた直後は、未定訳稿は単純に「ウィーン版」を基にした短縮版ではないかと単純に考えました。

ところが、未定訳稿に欠落している41番の二重唱は、「ウィーン版」にも「パリ版」にも存在するものです。より決定的には、未定訳稿には13番のアモールのアリアが含まれています。これは「ウィーン版」にはなく、「パリ版」のほうにしかないナンバーです。

(2)で行なった楽譜の対比結果に戻りますと、「ウィーン版」と「パリ版」で異なるものと分かっていたレチタティーヴォは、2番・12番・14番・33番・36番・40番・44番でした。
これらを厳密に調べなければ最終的には断言してはならないことですが、未定訳稿では省略されている2番を除いて他を長短だけで確認すると、
12番〜「ウィーン版」の方が短い:未定訳稿の方が短い
14番〜「ウィーン版」は「パリ版」の2倍の小節数:未定訳稿の方が若干長い
33番〜「ウィーン版」の方が長い:未定訳稿のほうが若干長い
40番〜「ウィーン版」の方が若干短い:未定訳稿の方が若干短い
44番〜いうまでもなく未定訳稿は「ウィーン版」によっている
と、類似の傾向が見られます。
一方で、「ウィーン版」にはなく「パリ版」のみにある歌唱ナンバーで未定訳稿に現れるものは、13番のアリアの他には確認が出来ません。

以上のことから、さらにレチタティーヴォの詳細な検討を必要とするものの、未定訳稿のオリジナルであるライプツィヒリブレットは、「ウィーン版」を基にした短縮版であり、アモールのために「パリ版」からアリアを1曲補ったものだった、と見てほぼ間違いないものと、今のところ考えております。

作業を通じて感じたことを少しだけ付け加えます。

瀧井論文では「(第一稿では合わないことを)本居たちが即座に判断が出来たのも納得がいく」(*2 頁番号37)と述べていらっしゃることに違和感がある旨、(3)で愚痴ったのでした。
実際に作業をしてみて、これは「違う」ということだけは即座に判断出来たかも知れないものの、どう違うのか、の究明がおそらくなされなかった、という前提での「納得」であるならば納得だと感じています。
納得がいかないのは、未定訳稿とされた鴎外の最初の訳が自分たちの楽譜と具体的にどう違うのかの究明は多分なされなかっただろう点、注文主の国民歌劇会はなぜそれをしなかったのか、という点です。そのへん、瀧井論文の口調は国民歌劇会の味方をしているのが、私には少々面白くありません(瀧井先生ゴメンナサイ)。

ただ、まず第一に、添付したような表を作れるのは今のように便利な手段・・・パソコン、表計算ソフト・・・があるからこそです。
第二に、いまは鴎外が訳した二種類の日本語訳が手に入ります。彼らがやらなければならなかったのは、楽譜上のドイツ語の詞(テキストだけ抜き出したものはなかったのではないでしょうか?)と鴎外先生の訳した日本語の対比であり、対比をやり遂げるにはそれなりのドイツ語理解力が必要とされたはずです。
第三に、今回このように探ってみると、そもそもおおもとの詞の構成が、鴎外の用いたライプツィヒリブレットでは曲の省略あり・反復の省略あり、そもそも多分版が違っていて対応しないテキストまである、というていたらくなのですから、上演や稽古のスケジュールが差し迫っている人たちにはワケが分からず混乱の元でしかなかっただろう、と、そこには同情を禁じ得ません。
運命の偶然から鴎外が二種類の翻訳をすることになったオペラ「オルフエウス」は、洋楽導入を本格的になしとげたかった明治・大正日本人の、悲しくてやがて面白き、ひとつの貴重な失敗遺産だったのでしょう。

訳は、個人的には未定訳稿の方が歌にふさわしい美しさを保っている気がして、こちらでの復活演奏もされたら面白いのにな、なんて妄想してみたりしています。
・・・さすがにそりゃ大変だわ。(><)


*2:瀧井論文PDF http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008058625

*8:『鷗外全集』第十九巻 岩波書店 昭和48年 

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2013年8月31日 (土)

鷗外の「オルフェウス」(3)

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「F君の言う所は頗る尋常に異なるものであった。(中略)早くからドイツ語を専修しようと思い立って、東京へ出た。所々の学校に籍を置き、種々の教師に贄を執って見たが、今の立場から言えば、どの学校も、どの教師も、自分に満足を与えることが出来ない。ドイツ人にも汎く交際を求めて見たが、丁度日本人に日本の国語を系統的に知った人が少いと同じ事で、ドイツ人もドイツ語に精通してはいない。それから日本人の書いたドイツ文や、日本人のドイツ語から訳した国文を渉猟して見たが、どれもどれも誤謬だらけである。」(森鷗外『二人の友』)


本居長世が主催しようとした国民歌劇会から森鴎外が依頼を受けて最初に訳した『オルフエウス』は、
「出来上がつて協会に送つたところが、現に協会で用ゐてゐる楽譜に合はないさうであつた。」(*8 346頁)
のでした。
楽譜に合わない、とは、どういうことだったのでしょう?

楽譜に合わない、ということに即して考えられるのはふたつでしょう。
・訳詞のリズムが合わない
・テキストそのものが異なっている
そのいずれかであるか、または双方である。

また、いったいどうしてそんなふうになってしまったのか、にも想像されることがあります。
・鷗外には歌のリズムに即した訳を行なうセンスがなかった
・いや、テキストそのものが異なっているのだとしたら、楽譜の詞のつくりが、そもそも鷗外が翻訳に使った手持ちのリブレット(鷗外が留学時代の鑑賞時に買い帰った台本記載の小冊子、以下「ライプツィヒリブレット」)と違うシロモノだった
これもまた、いずれかであるか、または双方である。

まあ前回末尾でテキストの問題の方らしいと見ておいたのですが、念のため、最初の翻訳が鷗外の能力のせいで楽譜に合致しない・歌えないリズムになっていた可能性があるのかどうか・・・まずは訳した時期の鷗外のリズム感覚を見ておきましょう。

「鷗外は・・・楽器を習うということは全くしていない。彼自身、楽譜を見て歌うということはできなかった」(*2 頁番号41)のだけれど「鷗外には幼いときから漢詩文や和歌で培った豊富な語彙と言葉に対する鋭いリズム感があった。翻訳家としても熟練していた」(*1 149頁)と、「鷗外版」復元に最大の功のあった瀧井敬子さんは仰っています。それを信用するなら、最初の訳にしても、鷗外が歌えないリズムで翻訳してしまったなどということはなさそうです。

全集第十九巻(*8)に収録されている鷗外の訳詩をざっと眺めると、リズムについて面白いことに気づきます。
とくにまず「於母影」(*8 1〜68頁 明治22【1889】年)ではおもにヨーロッパの詩を
・意〜原作の意義(=ことばの意味)による
・句〜原作の意義及び字句(=語彙そのもの?)による
・韻〜原作の意義及び韻法(=韻の踏みかた)にようる
・調〜原作の意義・字句・及び平仄(=イントネーション)韻法による
という4種類の方法で訳する試みをしています。
イントネーションもリズムも一致させる「調」の方法に依った訳は2つありますが(レーナウ「月光」、バイロン「曼弗列度(マンフレッド)」)、2つとも漢詩として訳しています。最初の2行に元の詩も長短の記号を付して併記されているのも愉快ですが、なにより仮名になっていないところに鷗外の悩みが出ているようで興味を引かれます。他は平家物語かららしい「鬼界島」ほか二つが漢詩になっていますけれど、こちらは「意」の方法のようです。これら以外はみんな七五調なり七七調といった日本的韻文になっています。このころの鷗外はまだ二十代後半です。

他の詩作も含めほとんどがずっと、七五調などの日本の伝統的韻文なのですが、早い例では明治22年の「野ばら」が伝統を破っています(*8 459頁および643頁)。これはもともと、シューベルトやウェルナーの歌曲にもなっているゲーテの有名な詩を訳したもので、ひとり さける のばらという具合に3音×3×4の連が三つあります。

とくに訳詩には五七調などの伝統的なものではない、なにか違ったリズムを用いるべきなのではないか、との考えを、彼は早くから持っていたのではないかな、と感じます。それが漢詩としての訳、333というリズムでの訳という変則を生み出したのかも知れません。

でいながら、破調はなかなかあわられません。レーナウの詩を訳したらしい初出の分からない「三騎」が興味深く(「うた日記」 *8 269頁)、八六のリズムの繰り返しになっています。年代が分からないのが惜しい気がします。

訳詩ではありませんが、「うた日記」の中で年代の分かるものとしては「けし、人糞」(明治38【1905】年、鷗外43歳)が四五/四七/四七とやや破調になりますが、まだ五七調が少し変化しただけのような感触です。この年前後に仮名書きでも破調がいけると確信を持ち始めたのでしょうか、前明治37年の「夢か現」はもっと自由で、九/七/六/六/十/十一/十一・・・という具合です。けれどとにかく、そういう伝統を脱したリズムのものはそんなに多くはありません。

これが、「オルフエウス」第二稿をも収録した『沙羅の木』になると、訳詩も創作詩も俄然リスムが自由に、あるいはリズムから自由になります。大正四年に刊行されたこの集の中に収められている明治期の詩はまだ七五調等の伝統的韻文の範疇ですが、大正三年作のものになると、リズムだけでなく内容も自由度が高まり、後年の西脇順三郎につながるのではないか(私的感情的目線ですが)と思われるようなものが目立ちます。たとえば訳詩の例で(もとの詩はどんなものなのでしょう?)、語彙はまだ硬いかもしれませんが、こんな具合。

  是をストラアルズンドの処女二十有七人の墓となす。
  皆某の翻訳に由りて、此詩人の近業を読み、
  感じ易き青春の心、
  一人の能く抑制するなく、
  或は自ら縊れ、或は水に投ぜるなり。
  別に一人ありて詩人に奔れり、其長椅子の上に。

  (「以碑銘代跋」 『沙羅の木』所収 *8 384頁)

・・・ずいぶん脱線してしまったのでこれ以上例を引くことはしませんが、「オルフエウス」訳を持ちかけられた時期の鷗外は、詩のリズムについての自由な発想に完全に覚醒していて、もはや外国語詩を漢詩で訳さずとも済むようになっていたはずです。
すなわち、大正二年に翻訳を依頼された、「オルフエウス」という歌われる詞に、鷗外はどう取り組むことにしたのか。
訳詩のリズムの変遷からして、この時期はもう、日本的韻文のリズムにとらわれることはなかったと断定して良いでしょう。

ところで、「楽譜を見て歌うということが」全く出来ないのでしたら、その後楽譜に合わせた第二稿の翻訳を手掛け得なかったのではないか、との素朴な疑問があります。少なくともどんなリズムで書いてあるのかを楽譜から理解出来なければ、楽譜に合う翻訳をしなおすなど不可能なのではないでしょうか? そのあたり、瀧井論文ではちょっと分かりにくいので、若干の追跡をしてみます。

確認すると、最初の訳が合わないと言われて、鷗外自身が楽譜を取り寄せ、楽譜を見て
「なる程、彼と此とは広略頗る趣を異にしてゐて、合う筈がない。」(*8 346頁)
ということを認識しています。
彼は楽譜が読めたのか読めなかったのか。
鷗外自身が
「私は謡つて見ることが出来ぬ」
と、この発言のあとのほうで言明しているのですけれど、それは楽譜を全く理解出来なかったということにはならないでしょう。

少なくとも音符ひとつが1シラブルに対応するらしい、くらいの最低限の推測をする理解力はあったのではないかと思われます。それは鷗外の同じ発言の中から伺うことが出来ます。

「私は第一稿でも第二稿でも、大体に於いて原詞の一つづりを一音にした。唯破格は所謂間投詞を以て起る詞で、唯一つの原音が『あな』とか『あはれ』とか云ふ数音になつてゐる位のものである。私の翻訳はいつも伸びると云つて冷かされる。(中略)併しこん度は伸びもせねば縮みもしない。」(*8 346〜347頁)

これは瀧井論文がリズムの読み取りに際し拠り所としている発言ではないかと思っているのですが(*2 頁番号37〜42、本論文のクライマックスだと感じております)、彼が明らかに音符とシラブルの対応関係を認識していたことを示す発言です。

鷗外が楽譜を見てリズムの判断をすることが出来た傍証は、同じ瀧井論文にも載っている横浜市歌の作詞事情(明治42年に鷗外が作詞した。*2 方法については頁番号39も参照)にあるかと思います。

「東京音楽学校から横浜開港五十年の唱歌を作つてくれと托されたから、其方で譜を新しく先へ拵えて貰つて其れへ嵌めて歌を作つて見たいと云つた処、南能衞教師の手に依つて譜が出来上がつたから来て貰ひたいと云ふ案内があつたので、早速同校へ出張して譜を見、曲を聞くと、七五、七三、八七、七七、七七、七七、七五、七三、八七、七七と云ふので、七七が多く、七三、八七などと云ふ変つた調子もあつた。」(*8 482頁)

つまるところ、横浜市歌のときには、言葉をつける前に音符を歌うか演奏するかを聴いてリズムを把握したのでしょうが、録音がない時代のことです、超人的な聴覚的記憶力があったのでなければ、聴かせてもらって把握したリズムはあとで楽譜に書かれた音符を見て思い出すことが鷗外には出来たはずだと捉えるのが素直であるように思います。

このように、訳業にあたる鷗外は、前提として、詩・詞に対しそれまでの日本の伝統にとらわれないリズム意識を持っていたし、そのリズムを歌われるべき音符に言葉を合わせることが出来る人物だった、と言って間違いがないでしょう。センスがなかったとの仮想は成立しません。
そこで、最初仮定したうちの「訳詩のリズムが合わない」状態で第一稿が出来上がっていたとは考えにくいことになります。

すると、問題はテキスト側にあったのではないか、と、絞られて行くことになります。
そもそも、鷗外が訳にとりかかる際に、依頼者が鷗外手持ちの「ライプツィヒリブレット」を使うので良いと判断した(判断したとの明言はどこにもありませんが、結果として鷗外は楽譜を見ず「ライプツィヒリブレット」だけで作業を始めたのですから、依頼者の判断と了解が前提となっていたことは否めないでしょう)のが不可解です。

全体としてその論ずる所を非常に素晴らしいと思う気持ちはずっと変わらないものの、瀧井論文「(第一稿では合わないことを)本居たちが即座に判断が出来たのも納得がいく(*2 頁番号37)には私は少々納得がいきません。即座に納得ができたのなら何故、本居(長世)たち相談者が鷗外の所に「合わない」と言いに行くまで1ヶ月もの時間が空いてしまったのか、首を傾げざるを得ないからです。即座に判断出来たのであるなら、その裏付けとなる記述(本居でも誰でもいいのでドイツ語をそのように読み取れる人物が国民歌劇会にいたのか、等)に巡り会いたいところです。かつ、それほどにドイツ語を解し得る人がいたなら、当初からでもそのあとでも、少なくとも鷗外とその人物が密接に連繋しながら作業をし、実のある成果をあげ、実演にもこぎ着けていたのではないか、と感じます。

・・・と、ちょっと鷗外への思い入れが出てきて感情も入り始めてしまっているようなので、「オルフエウス」のテキストそのものの問題についてはまたあらためます。


*1:「森鷗外訳オペラ『オルフェウス』グルック作曲」 解説・校訂 瀧井敬子 紀伊國屋書店 2004年

*2:瀧井論文PDF http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008058625

*8:『鷗外全集』第十九巻 岩波書店 昭和48年

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2013年8月24日 (土)

鷗外の「オルフェウス」(2)

(1)(2)(3)(4)


「凡そ学問の道は、六経を治め聖人の道を身に行ふを主とする事は勿論なり。扨其六経を読み明めむとするには必ず其一言一句をも審に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字の音義を詳にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、先づ善本を多く求めて、異同を比讐し、謬誤を校正し、其字句を定めて後に、小学に熟練して、義理始て明了なることを得。」(森鷗外『渋江抽斎』その五十六)


鷗外がそのテキストを訳した「オルフエウス」について、演奏に用いられるはずだった楽譜は「ペータース版 54a 9902」というものだ、と、瀧井敬子氏が突き止めています。この楽譜は瀧井さんの校訂により、1866年にこの楽譜を校訂したというアルフレート・デルフェルという人(この人の詳しい経歴等は残念ながら私には分かりません)の序文をつけたままの良心的なかたちで出版されています(1866年時点ではライプツィヒのハインツェ書店から出版され、ペータース社へはその後版権が委譲された由)。

ところで先日『鷗外の「オルフェウス」(1)』の中で、この楽譜は作曲者グルックのどの時点の意思を反映したものなのかが分からないので疑問を持っている旨を申し上げたのでした。別に鷗外が訳したテキスト面への関心もありますが、楽譜への疑問の方が解消しやすいので、まずはこちらにとりかかってみます。
・・・念のため付け足しますが、「鷗外訳版」楽譜そのものの価値にはこの件はなんの本質的影響もあることではなく、復元なさった瀧井さんへの敬意は最大限に払われるべきであって、この記事の内容は敬意を損なうことをまったく意図しておりません。ただ鷗外が翻訳にとりかかった対象楽譜がどのくらい錯綜した事情のもとに、あるいは錯綜していない事情のもとに成立しているものなのか、を知りたい一心で調べてみるのです。

瀧井さんのご説明では、鷗外が訳したペータース版の楽譜(以下「鷗外訳版」)は「エクトル・ベルリオーズの版を基にしている」(*1 150頁)とされています。しかし、前回は触れませんでしたが、楽譜に付せられたデルフェルの序文にはそのようには述べられていません。デルフェルの記述は次のようなものです。

「このピアノスコア(ヴォーカル・スコア)は、C.F.ペータース社から出版されているオーケストラ・スコアに基づいて作られている。そのオーケストラ・スコアでは、イタリア版スコアとフランス語版スコアがいわばひとつに融合されている。つまり、オルフェオの声部にイタリア語の本質がそのまま残されているし、フランス語であとから追加された曲も取り込まれているし、すべての改訂箇所には批判的な検討が慎重になされている。」(*1 3頁)

とくに最後の一文からすると、この楽譜独自の校訂がなされている可能性が否めません。

なおまた、この楽譜にお寄せになった文の方ではなく、瀧井さんの意義深い論文『森鷗外訳「オルフエウス」をめぐる一考察』(*2)の中では、瀧井さんは

ペータース版:1859年パリのテアトル・リリックからの委嘱で編曲に当たったエクトル・ベルリオーズのヴァージョンを基にしている。(中略)楽曲構成は、全面的にパリ版による。」(*2 頁番号35)

と仰っています。

さてしかし、実は耳で聴く限りはベルリオーズ版とパリ版とは異なる箇所が少ないわけではなく、僭越汗顔の至りながら、瀧井さんの記述には混乱があるのではないか、との疑いを抱いておりました。
いかんせん楽譜が手元に無くこの点を確かめることが出来ずにいましたが、その後「鷗外訳版」以外に3種類の楽譜を付き合わせて見ることができました。


本題に入る前に、グルックという作曲家がオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」に取り組んだ過程、19世紀に入って、「幻想交響曲」で有名なベルリオーズがそれを再構成した事情を簡単にご紹介しておくのがよろしいかと思います。各楽譜の解説を元にして述べます。参照した楽譜の出版情報は本記事末尾に記載しました。

【ウィーン版】
グルックはまずカルツァビージという人のイタリア語台本に作曲をしました。これは1762年にウィーンで上演され、大成功を収めています。この上演に沿った楽譜は「ウィーン版」と呼ばれています。主役オルフェオはカストラート歌手(男声のアルトでした)が歌っています。

【パリ版】
その後グルックはマリー・アントワネットの肝いりで「オーリードのイフィジェニー(アウリスのイフィゲニア)」というオペラでパリに進出します。このとき、続く新作が間に合わず、「オルフェオとエウリディーチェ」をフランス語に置き換えて上演することにしました。1774年のこの上演に当たっては、台本の言語だけが改変されたのではありませんでした。フランスの趣味でカストラートが好まれなかったため、オルフェオはテノール歌手が歌うように直されたのでした。言語と主役の声域の変更に伴い、とくにレチタティーヴォ(セリフを歌う箇所)はほぼ全面的に書き改められました。また、フランスの趣味に従いバレエ音楽も豊富に追加されたりしました。こちらも大ヒットして、シーズンの終わりまでに47回再演されました。こちらに沿った楽譜は「パリ版」と呼ばれます。

【ベルリオーズ版】
19世紀に入り、1859年に、ベルリオーズが若いサン=サーンスなどに手伝わせながら時の趣味に合わせて編曲し直したものが「ベルリオーズ版」です。これは「パリ版」をベースにしながらもオルフェオの歌い手を(19世紀流の認識で)グルックの当初の意図に戻すべくアルト歌手(ただし女声)にしました。このとき、オルフェオの歌う部分を中心に、「ウィーン版」と「パリ版」に共通にある楽曲はオルフェオの歌う音の高さを「ウィーン版」の調に合わせたのでした。用いる言語はフランス語でしたので、レチタティーヴォは「パリ版」に基づき(「鷗外訳版」No.16にあたるものだけが例外です)、歌う高さは前後のアリアや合唱曲に揃えたもののようです。なお、この版ではタイトルが「オルフェー」と短縮されています。

オペラはたいてい、上演されるつど、上演の都合で楽譜が入れ換えられます。そのため錯綜したヴァージョンがあると捉えられることが多いようです。けれども実際にはオリジナルではない楽曲を用いない限り版の差は実演の都合上省略される楽曲の差に過ぎないのが本当のところではないかと思います。

グルックの「オルフェオとエウリディーチェ」に関しては、したがって、版を検討するときにはこのうち「ウィーン版」と「パリ版」のいずれかに沿っていると見ることを基本に据えて間違いなかろうと思います。グルックのオリジナルはあくまでも「ウィーン版」と「パリ版」であって、楽曲の構成はこの2つのうちいずれか、またはどちらもからの折衷で行なうしか無いからであり、ベルリオーズ版もその例外ではないからです。この2つが、いわば「オリジナルヴァージョン」です。

そうは言っても、問題の鷗外訳版「オルフエウス」は「ベルリオーズ版を基にしている」との説があるのですから、ベルリオーズ版も対照の材料としなければなりません。先述の通り、「ベルリオーズ版」ではオペラのタイトルが初めて「オルフェー」と短縮されていて、これだけを見るなら、鷗外訳版は瀧井さんの仰る通り「ベルリオーズ版」を基にしたかのように思えます。

さて、どうでしょう?


対照してみて一致点が最も多いものが、鷗外訳版楽譜の基になったと見なせるはずです。また、一致点が分散する場合には、鷗外訳版楽譜は独自ヴァージョンだということになります。

対照の結果は、表の通りです。

Gluck-Orfeo.pdf

(色づけは対照を行なう上で任意に付けたものですので一貫性に欠ける点はお許し下さい。)
・グレーは「鷗外訳版」では拡張されたと見なされるため元々存在する余地がなかった楽曲
・ピンクとオレンジ色は、楽譜を観察した際に、楽譜を形成する過程でその版では意図的に欠落させたり差し替えられたり拡張されたとの感触を得た楽曲
・黄色は相互の版で同じ楽曲でありながら小異のあるもの
・薄緑と水色はその版の主役の声質により調に変更が加えられたものを主とし、若干の異同があるものの目印等
という具合です。

これにより、
「鷗外訳版=ペータース版」の基となったのは「パリ版」である(*3)
と結論を下すことが出来ます。
よりきちんと言うなら、

鷗外が詞を訳したペータース版の楽譜の楽曲構成は「パリ版」をベースにしている。ただし主役オルフェウスをテノールではなくアルトにしたために、オルフェウスの歌う部分の音の高さ(調)は「ベルリオーズ版」により補正したものと推測される。

ということになろうかと思います。

根拠としては、次のようなことがあげられます。

・まず、「鷗外訳版」の楽曲(1〜53までナンバーが振られている)がすべて現れる「オリジナルヴァージョン」は「パリ版」のみです。(*4)

・また、「鷗外訳版」は「ベルリオーズ版」には含まれないバレエ音楽を主にフィナーレ部分に収録している等、「ベルリオーズ版」とは明らかな差があります。(*5)
また、オリジナルヴァージョンが3幕構成であるところ、「ベルリオーズ版」は4幕構成をとっていますが、「鷗外訳版」は3幕構成となっています。(*6)

・「鷗外訳版」と「パリ版」の大きな相違は、唯一、第3幕フィナーレ(「鷗外訳版」No.45以下)のみです。「パリ版」でフィナーレの最初にある三重唱(「鷗外訳版」No.50相当)が、「鷗外訳版」では続くバレエ音楽のほぼ真中に移動させられています。ただし、曲の規模と調性は双方の版で一致しています。(*7)

以上のことから、まず、「鷗外訳版」の楽曲は「パリ版」を基にしたと断言出来ると思います。

これを「ベルリオーズ版」により補正した、と考えられる根拠は、次の通りです。

・「鷗外訳版」はオルフェウスを女声アルトが歌う条件で編成されている。いっぽう楽曲のベースとした「パリ版」では、オルフェウス役はテノールになっているので、そのまま引き写してはアルト歌手が歌えない。

・しかるに女声アルトがオルフェオを歌う前提で編まれた楽譜が「ベルリオーズ版」として存在している。「ベルリオーズ版」は「パリ版」を芯としている上に、オルフェオに割り振られている曲は双方の版で同じ規模となっている。

・そこでおそらく、「鷗外訳版」の校訂にあたっては、オルフェオに割り当てられた曲の調(音の高さ)は「ベルリオーズ版」と一致させた。現に、対照すると、オルフェオの歌の調性は双方の版で一致している。

・「鷗外訳版」No.16に相当するレチタティーヴォについては、実際に楽譜を見ると、「パリ版」のものはアルト用に移調することがむずかしい。「鷗外訳版」は「ベルリオーズ版」が差し替えている「ウィーン版」に基づくレチタティーヴォをNo.16に援用している(*7参照 ただし音価はウィーン版を再参照したものと推測される)。

以上、「鷗外訳版」はその構成楽曲が「パリ版に準拠しベルリオーズ版による補正がなされた」楽譜であると言って差し支えないものと考えます。

すなわち、瀧井さんが「ベルリオーズのヴァージョンを基にしている。(中略)楽曲構成は、全面的にパリ版による。」と述べていらしたところの本意がこの結果にそぐうのであれば、瀧井さんのお調べになったことを追認した結果になるわけです。ただ、あくまで本来の基本は「パリ版を基に楽曲を編成し、ベルリオーズ版は楽曲を補正するため参照された」ものなのではないのかなぁ、と私は思っております。「ベルリオーズ版」を基にした、が先では順番がちょっと違うのではないかなぁ、という感触です。


「オルフエウス」の翻訳を依頼された鷗外は、初め、自分が留学中に観劇したライプツィヒで購入したリブレットを翻訳したのでしたが、依頼した音楽家側がそれでもいいと了承した理由が判然としません。これについては、以上のように楽譜を観察すると2点ほど推測されます。

ひとつめは、「オルフエウス」というオペラに少なくともオリジナルの段階で「ウィーン版」・「パリ版」なる異本が存在することを依頼主が認識していた可能性が低いことです。依頼主である国民歌劇会は、以前このオペラが東京音楽学校で上演された(1903【明治36】年)ときに用いたペータース版を用いることに何の疑問も挿んだ形跡がないようです。このペータース版にはドイツ語の序文があるのですけれど、序文だけでも参照していれば「ウィーン版」(序文中では「イタリア語版スコア italieschen Partitur」)と「パリ版」(同じく「フランス語版スコア französische Partitur 」)の二種類があること、そしてこのペータース版はそれを折衷したものかも知れないこと(前述)に感付いたのかもしれませんが、鷗外翻訳の経緯を記述したものには版の相違が検討された気配が微塵も感じられません。

ふたつめは、ペータース版が元々ライプツィヒで発行された楽譜であること、ドイツ語歌詞があたりまえに付されていることから、鷗外がライプツィヒで買って来たリブレットの台本と無条件に同じであると発想された可能性もあるのではないかということ。ただし最初ライプツィヒで発行されたというのは序文には現れない情報です。

「鷗外先生、私らの楽譜、ドイツ語の歌詞がついてるんで、ドイツ語から翻訳して頂けます?」
「どこで印刷されたん?」
「あー、もともとはライプツィヒみたいです」
「ほう。知っとると思うけんど、あたしゃ若い時分にライプツィヒにいたんでね。んでさ、うふふ、ライプツィヒで台本買って帰ってきたのよ」
「あれまあ、ばっちりではございませんか!」
「ばっちりばっちり」
なんて、軽い調子で双方合意しちゃったんでしょうかしら・・・ (>_<)

結局「鷗外訳版」となったペータース版は当初鷗外が訳したライプツィヒのリブレットと大きな差があり、鷗外は大変苦労することになったのでした。


*1:「森鷗外訳オペラ『オルフェウス』グルック作曲」 解説・校訂 瀧井敬子 紀伊國屋書店 2004年

*2:瀧井論文PDF http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008058625

*3:ヴォーカルスコアでの対比ですので、オーケストレーションは「パリ版」に沿っているかどうかは判明していません。オーケストレーションについては、録音等で確認する限り、もしカサローヴァ主演DVDの「ベルリオーズ版」演奏がスコア通りであるならば、「鷗外訳版」は「ベルリオーズ版」と異なっているようです。たとえば第1幕の最初のオルフェオのアリアでは「鷗外訳版」ではコルアングレが用いられていますが、「ベルリオーズ版」では用いられていません。

*4:バレエ音楽である器楽曲8曲(「鷗外訳版」No.6・28・30・31・47・48・49・52)アリア等3曲(「鷗外訳版」No.13・32・50【三重唱】。なお、No.45のに相当するものは「鷗外訳版」は独唱と合唱ですが「ウィーン版」は器楽のみです。またはこの箇所は「鷗外訳版」No.51と対応すると捉えた方が正しいかもしれません。)、レチタティーヴォ2箇所(「鷗外訳版」第1幕第3場相当及び第3幕第2場第3場転換部)が「ウィーン版」では欠落しています。

*5:「鷗外訳版」No.7・9・11は同じメロディで同じ規模のアリアが3回歌われるものですが(「ウィーン版」も同じ)、「ベルリオーズ版」では2回のみです。「ベルリオーズ版」では「パリ版」にあったフィナーレのバレエ曲等(「鷗外訳版」No.45以下)はすべてカットされていますが、「鷗外訳版」はNo.45は「パリ版」より縮小して、46~53はまったく同じ規模と調性で収録しています。なお、「ベルリオーズ版」のフィナーレは「パリ版」の楽曲をすべてカットした後グルックの最終作「エコーとナルシス」の合唱曲に差し替えたものである旨、ベーレンライター社発行の「ベルリオーズ版」楽譜の序文に説明されています。

*6:楽曲ひとつひとつにNo.を振っているのは「鷗外訳版」のみなのでNo.はまったく参考になりません。各場面の認識の仕方は「鷗外訳版」は1ヶ所を除いて「パリ版」と一致しています。たとえば「鷗外訳版」の第1幕第2場は「パリ版」の第1幕第2場と同じであり、第2幕第3場なども同様です。1ヶ所の例外は「鷗外訳版」第2幕第4場としている箇所には「パリ版」では場面の転換を想定していないというところで、このあと「鷗外訳版」が第2幕第5場としているところが「パリ版」では第2幕第4場となっています。

*7:大きな差は本当はもうひとつあり、「鷗外訳版」No.16のレチタティーヴォは「パリ版」によらず「ベルリオーズ版」からとられています。この差し替えは瀧井さんは「ウィーン版から」と記述なさっています(*2 頁番号36)が、対応する「ウィーン版」のレチタチーヴォは3小節短いものです。「ベルリオーズ版」のものは規模が完全に一致します。言葉がフランス語であるため音価の調整がなされていますが、旋律線を比較すると「鷗外訳版」No.16と「ベルリオーズ版」の対応レチタティーヴォは同一であることが分かります。
楽曲の小さな差は「鷗外訳版」No.14・18・20・27・45の小節数の違いとして現れています。これはつづく曲の調性などの兼ね合いで「パリ版」では「ウィーン版」より1小節程度短縮したものが中心で、「鷗外訳版」No.27は「ベルリオーズ版」にある器楽の後奏を省いており、No.45は対応する「パリ版」フィナーレ冒頭曲より24小節ほど短縮しています。このことと、No.50相当の三重唱移動については、校訂上の意図は推しはかりかねます。

なお、各ヴァージョンのヴォーカルスコアはベーレンラーター社から出版されていて、私はそれらを参照しました。
・Winer Fassung von 1762 Klavierauszug Bärenreiter on-demand BA 2294a (2008)
・Gluck Orphée et Euridice Version/Fassung Paris 1774  Bärenreiter BA 2280-90(1967-2013)
・Berlioz "Orphée" Arrangement de Chr.W.Gluck "Orphée et Euricdice" Bärenreiter BA 5462a(2011)

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