心と生活

2010年7月 8日 (木)

音の主観

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック〜終了
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会〜終了
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。



oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。6月29日に掲載しましたが、バナーに大井さんのブログ記事をリンクしてあります。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

今日は掲げませんが、舞楽の素晴らしい演奏の録音をご紹介頂いて拝聴し、あまりに感激しましたので、思いだしたように久しぶりに雅楽の入門書を手に取りました。

笹本武志『はじめての雅楽』(東京堂出版、2003)

何も知らなかった私のようなものには、類書に比べたいへんすぐれた本で、以後もこれ以上のものは出ていないと思います。「越天楽」と「五常楽急」と「陪臚」の唱歌(しょうが)の譜が載っていて、説明が加えてあります。・・・譜とは呼んでいるけれど(雅楽をやる人は楽譜とまで仰っているし、ヨーロッパの古いネウマを読める人には楽譜の範疇に含めることに躊躇はないのでしょうが、それらは意味合いが違う前提が明確にあるからであって)、現代人が理解している<楽譜>ではありません(このことは、だいぶ以前の本ですが、増本喜久子『雅楽』以上に洋楽世界の人間にも理解させてくれる書物はこれまた見当たりません・・・同氏の『雅楽入門』よりもこちらが良いです)。入門書に載った「譜」には、いちおう、拍と音程が分かるように添え書きしてあるし、大まかにでよいならそれである程度分からなくはないのですが、正確にどう言うリズムで・音程で、とかいうのは口伝の唱歌で学ばなければ覚えられないでしょう。まあ、私はまだそれもちゃんと読めるほどではないから、どうしようもないのですけれど。

雅楽はこの唱歌(しょうが)というのを歌ってみる方法をとりますが、同じ「越天楽」でも横笛(おうてき)と篳篥と笙で唱歌はそれぞれに違っているし、歌ったそのままをそれぞれの楽器で吹くのではありません(篳篥だけが唱歌に近い歌を演奏するので、横笛は笛の唱歌の他に篳篥の唱歌も覚えなければならないそうで・・・専門家さんはちゃんとご存知かも知れないけど、私には本に書いてあるのを真に受けて「そうなのか」と思うしかありません)。
笹本著では楽器ごとの唱歌を丁寧な五線譜に書き直してくれているのだけれど、これが「越天楽」の演奏の中で実際に響く「越天楽」とは別物なんだよな、ということは、この本を最初に読んだときも思いましたし、今回も同じ感触を持ちました。ご著者も
「これが絶対的なものであることは」
ない、と強調していらっしゃいます。

雅楽はそれでも、太鼓を「時を刻む」象徴としているから、拍は分かりやすいほうかも知れません。

以前、「津軽山歌」に感動して民謡集の五線譜を見て愕然としたことがあって、五線譜に書かれたものには、実際に耳にした「津軽山歌」の影もかたちも感じられなかったのでした。
で、自分なりに採譜し直したら、リズムが規則的に刻まれていないで伸び縮みするので、それを<時間どおり>に五線譜に落とそうとすること自体が間違いなのだ、ということを知らされたのです。
緩急を考慮すると、この民謡は五拍子に単純化してしまうのが最もきれいにいきます。
(ただし1つの小節の中で、洋楽の1拍に当たるものはある拍はやや長く伸び、あるものは短くなりするし、これは歌詞その他の要因とも密接な関係にあると思われます。)
・・・この採譜は、とても悔しいことながら、家内の葬儀のばたばたのときに無くなってしまいました。いずれやり直さなければなりません。

・・・そんな次第で、いま、
「邦楽の五線譜化は本当に出来るのか?」
と、あらためて首を傾げており、であるが故に、ちと胸が痛い思いをしております。

「音を聴く主観、演奏する主観」というへんてこりんなキャッチフレーズが、このほかにもたとえばショパン関係の調べものをしていると、沸々と湧いてくるのです。このことはまたリストがらみでも綴りますけれど、ひとつだけ言えば、ショパンの最初の練習曲(この呼び方にも少しだけ抵抗がありますがリストの「練習曲」が果たして「練習曲」か、というほどまでには疑ってはいません)の第1曲、ショパン弾きとして名を馳せたコルトーが注釈を加えた楽譜【コルトー版】では「筋トレ」チックな予備練習を勧めていますし(別に筋トレだと捉えないでもいいのですが、コルトー自身が「これで指が強くなる」的発言を添えています・・・特別にコルトーの名前は出てきませんが、この風潮については岡田暁生『ピアニストになりたい』を参照なさると良いでしょう)、私のようなもんがつっかえつっかえでも1頁だけのろのろ弾く分には非常にラクをさせてくれる良い予備練習でもあります。が、「筋トレ」をショパンが望んでいたかとなると、ショパン自身の言葉を記憶している弟子の言葉では、むしろ逆なのです。

「このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、私も先刻承知しています。でもショパンの場合には、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすればよかったのです。」
シュトライヒャー(1816-1895)
・・・『弟子から見たショパン』所収(エーゲルディンゲル、訳書音楽之友社 2005)

さてさて、はたと迷ってしまいます。

・・・音楽を巡って「客観的な」記述は、さて、どの程度成り立ち得るのでしょう?
・・・そんなものが、どの程度存在するのでしょう?

こうしたことを考えた後にシューマンの評論(これは訳者が嫌いですが英書もドイツ語原書も発見出来ずにいます)を読むと、またまたがっかりしてしまいます。

「音楽の発展の速いことは、実際ほかの芸術の比ではなく」云々

・・・ヘーゲル的な進歩史観だ。

当時は仕方なかったのでしょうか?
同時代のショパンの手紙がシューマンに比べてすっと客観的なのを読んだ後では、こんな言い草は冗談じゃあないと思うのです。
(ただし、「筋トレで指を壊した」伝説を持つシューマンが、ピアノ演奏に関しては逆に筋トレ否定的な発言をしている点は読み落とされがちで、これは気をつけておくべきです。)

エジプトの音楽を例にすれば、いま「伝統音楽」として国の支援を受けているものの音程感は西洋音楽のそれになってしまっていて、一生懸命なエジプトの方には大変失礼なのですが(お許し下さい)曲調も節回しがアラビックなだけ・道具を民族音楽にしているだけで、こんなのはちっとも伝統音楽ではないと思えて仕方がないのです。むしろコプト教会の荒々しい聖歌のほうが古態を保っているのです。

・・・このこともふくめて、私は、さて、何をどう考えて行ったらいいのか?

ちょっと苦悶しております。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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2010年6月16日 (水)

ウィーン便り

ウィーン在住のすてきな若手ヴァイオリニストさんの日記から。
いいお話でしたので、ご本人のご了解を得て転載させて頂きます。
段落を若干改編しております。



先週の土曜日に カリン&ドリスのチクルス(連続演奏会)に また コッティングブルンにいってきた。
気温は 35度ぐらいで しかもものすごい湿気で黙っていても汗がでてくる。
ホールはエアコンなんてないし、蒸し風呂のようだったので、窓が開いている。

楽屋とステージの湿度も違うため、カリンでも調弦が大変そうで
う~わぁ~う~わぁ~・・・まるで私みたい・・・

弾き始まったら ものすごい雨音と風の音、湿気がばんばんホールへ入ってくる。
いつも 涼しい顔して弾くカリンの顔が真っ赤で汗だく。。
あんなCの姿みたのは初めて。
慌てて係の人が窓を閉めて 楽器も少し落ち着く。
しかし、あの暑さのなか カリンもドリスも見事な演奏、さすが!

演奏が終わって 楽屋に挨拶にいったら いつものごとく 打ち上げに一緒にいこう~と誘われたけど 前回もウィーンに帰ったのが真夜中だったので ちょっと疲れ気味だったので 今回は列車で帰ることにした。

カリンが
「チェリストのK教授も同じ列車だから 一緒に帰りなさい」
と。

ドリスの
「え~っ!なんで~? いこうよ~」
というのを振り切って  駅へむかって ホームでうろうろしていたら、下のほうから

「お~い! そこのお二人さぁ~ん! そっちの方向は旅行するには景色はいいが お家には帰れないよ~ こっち!こっち!」

とそのチェロの教授の声。

その教授はもう大学は退官されたが、ウィーンでは有名な名誉教授で、 夏のCの講習会のときに 同じくコースされてて 何度かお顔は拝見したことはあったがお話したことはへ初めて。
列車は鈍行列車なので1時間 いろんなお話をした。

カリンとドリスの話にもなって

「今日も素晴らしい演奏だったね~。あんな状況の中で あれだけ弾けるなんて凄いね~。あの二人は 音楽的才能があって、テクニックもあって凄いよね。でもね、もっと凄いのは、人間性なんだよ、 人間が素晴らしい!! 人間性が音楽にでるんだよ。 音楽家って ちょっと弾けるとなにか勘違いして 威張りくさってる人が多いからね。妻もし、子育てもし、自分の本番もちゃんとこなす。そうそうできることじゃないよ。 我々演奏家は 練習して当たり前。どんなに寒くて手がかじかんでも、今日のように暑くて汗で指が滑っても弾かなきゃならん・・大変ことだよね・・・」

など いろんなお話をしてくださった。とっても素敵なジョーク混じりで・・。

「カリンの先生は立派な教授で、私は自分が大学の先生になっても、彼からいっぱい学んだよ。。」

とおっしゃったのも印象的だった。

カリンの先生が生きてらしたら たぶん同じくらいのお歳だと思うけど、なんという謙虚さ。 自己顕示欲のかけらもない。おっしゃる一言一言がすーっと入ってくる。

「僕はね~歌が大好きでね、歌ってるんだよ。若い時に歌習い始めたら、年取ったら声でなくなるからやめなくちゃいけないでしょ? でもね、70歳過ぎて習い始めると90歳まで歌えるよ、あはは」
とか・・

・・・・・そして
「君の演奏が聴いてみたくなった。コンサートないの?」
「は、はい・・10月の終わりに・・」
「何日?住所教えるから 案内状送ってね、聴きにいくよ」
「は、はい・・」
「それで曲目は?」
「ベートーヴェンのソナタ「春」とストラビンスキーのイタリアスゥイートとシュトラウスのソナタです。」
「ぷはぁー!! 凄いプログラムだねー!」
「は、はぁぁ。。」(身の程知らずかっ )

・・・ここでは書ききれないくらい いろんなお話をしていただいた。

一駅先に降りられるときに
「じゃあ~ 忘れずに案内状送ってよ。今日 僕と一緒で退屈しなかったことを望むけどね・・」
「もちろん 今日はとても楽しかったです! お知り合いになれて光栄です!」
「あ、そーだ、 僕の90歳の誕生日パーティに招待するよ!」
「はい!喜んで~!! ありがとうございます!」
「まだ8年間あるけどねっ じゃあ また会おうね~」

これも ウィーンのエレガンスか。。
薄っぺらなプラスティックでなく、本物べっ甲の深い色を見た気がする。



アマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会は6月19日(土)浅草公会堂にて。モーツァルト:「魔笛」序曲、ブラームス:交響曲痔3番、サン=サーンス:「アルジェリア組曲」です。

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック〜終了
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会〜終了
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。

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2009年12月12日 (土)

浅草に行って来ました・・・不思議空間

こっちに綴りました。

http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-3d3c.html

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2009年8月20日 (木)

会津無謀旅

大井浩明さん、BSに登場です!下記リンクをクリック、是非お見逃し無く。
8月5日(BS hi)終了・9月15日(BS2)
大井さんのブログでの情報はこちら。http://ooipiano.exblog.jp/11605999/
・・・「フォルテピアノ」について貴重な知見の得られる番組となることでしょう!!!



吉田美里さんリサイタル・・・キャンセル待ちですよー。

音楽の話題ではありませんで。私的な旅行の日記からです。

【初日】

最低金額の切符をポケットに、最初の電車に乗る。乗り継ぎ予定の電車は本当に来るのか? たどり着けても無事精算できるのか? 路線図に行き先が載ってないから分からない。

これは杞憂で、無事に乗り継ぎ電車は来たが、思いのほか乗客が多い。金がかからないから学生と老夫婦の旅行客が利用するようだ。最初の停車駅で、運良く、ゆったり席を確保。
息子はさっきまで少し緊張していたが、ようやくくつろいできた。行き先の説明をしても興味なし。持参のビートたけしの雑誌や猫の本を眺めては、逆に僕に解説してくる。
ときどき通り過ぎる川の水がきれいで、よい。

景色に林が増えたら、息子は外に目を向け出した。杉が整然と並んでいるのは、実は人の手が入っているんだ、と話した。林業と木工のまちである。この先は数少なかった家族旅行で二度訪ねた温泉街だが、息子は覚えてない、と言う。二歳と三歳の頃だったはず。

12:20会津の入り口へ。電車は2両になり、人もガラガラになった。代わりに、でっかいハエが乗り込んでくる。

13:03無事、会津田島で乗り換え。前の電車で運賃を精算したが、息子が切符をなくしていたので、参った。
ここまで、けど、予想したより随分楽だった。新幹線から乗り換えより、いい選択肢だったかもしれない。

昼飯は一時間おあずけ。

2時半前に若松着。
そば屋に入るも、頼んだメニューがことごとく品切れという、とんでもないスタート。3時にホテルチェックイン。

3時半に、市内周回バスの「ハイカラさん」に乗って、野口英世が手の治療を受けたあたりや、蔵がよく残っている旧市街を周回、お城に向かう。
城跡は息子がいたく気に入り、写真を撮りまくっていた。中の売店でむずむずしているから、どうしたんだ、ときいたら、木刀が欲しいんだと言う。今晩父ちゃんを袋叩きにするつもりらしい。・・・が、人のいないところでだけ使うこと、使い方はいずれ剣道達人のM先生に教えてもらうことを条件に購入を許す。
東山温泉、飯盛山をバスの中から眺めつつ、宿に戻った。一休みしてから晩飯に出かける。

ホテルの中の中華屋さんのドリンクサービス券をもらったので、夕食はその店で。・・・これがなんと、安くてうまかった。昼飯の仇を討った。

温泉宿ではないので、快適な風呂は諦めていたら、近くの健康ランドの無料券ももらったので、つい長風呂して、屋外で体冷ましに寝そべって、息子と二人、星を眺めながら、息子の小さい頃の思い出話をしたり、僕の思い出を聞いてもらったりした。
宿題を持って来させているんだが、今夜は免除。明日も免除しちゃうかも知れない。
東北の街の夜は早じまいなので、そのあとコンビニに行くときには、人がほとんどいなかった。
猫が一匹、道を横切った。今日初めて見た猫だった。息子が抜き足差し足で近づいて、さっそくてなづけていた。・・・参った。



【2日目】

10:20若松発の磐越西線で猪苗代駅まで。そこから一時間に一本の路線バスに乗り込んだ。・・・暑い。空は晴れているが、景色はもやがかかっている。

11時ちょうどに猪苗代湖畔の長浜に着き、20分発の遊覧船に乗り込む。35分間の運行で、大人一人、千円。景色がけむっていなければ最高だったんだが、好天なだけ、良し。
デッキに出て遊覧。沖に出るほど水が青くなる。
「水のホントの色って、なにいろなのかな」
と、息子。

船を降りて、猫の額ほどの砂浜を歩く。靴が砂色に染まった。

桟橋から戻って10分ほど丘の方へ登ると、旧高松宮別邸の天鏡閣。カカアは確か来たことがあって、「いいとこだよ」と言っていたので、見学。ココの屋外でカレー(ケレー、と呼んでいる)を食べる。
仕入れ屋さんのオジサンがきて、25日が県民の日なるものらしく、あわただしく打ち合わせをしていたので、
「お疲れ様ですね」
と声をかけたらニコニコしていた。

バス停に行ったらタイミングが良く、野口記念館まで行く。野口英世の生家は、いま見ると僕の育った家より大きいのが分かって、少しガッカリした。ここで、実家と義父母宛てに土産物を買って発送した。

路線バスで猪苗代の駅まで戻ったが、まだ3時で明るい。もったいないのだが、裏磐梯方面へのバスは本数が少ない。タクシーの運転手さんにきいたら、五色沼の入口まで6000円くらいで行けるという。思い切って行くことにした。
遊歩道があるし、山道ではないので、軽装で歩ける。入口の毘沙門沼の方がやや険しいので、こっちをスタート地点にしたのは正解だった。到着地点に檜原湖がひろがって見えるので、オトク感も高かった。
いかんせん、出口にたどり着いてぼんやり一息いれていたら、五時でみんな店じまい。しかたないから、五時半まで、帰りの路線バスを、ぼんやりしたまま待った。

若松に戻ってからは、今日もドリンクサービス券を貰って、昨日と同じ中華屋さんで晩飯。ちょっと贅沢してフカヒレスープまで頼んだが、それでもファミレスより安くて美味い。こういう店が近所にできないかなぁ。
風呂無料券もゲット。またゆったり入ろう。
キャンペーン期間だったのかな? ラッキーだな。

・・・で、二時間の長風呂。今晩の話題は、
「星って、(肉眼で)どれくらい見えるのかな?」
「全部で六千くらいだけど、街が明るくなっちゃったから、二、三百かなぁ」
なんてことだった。
午後から曇って来ていたが、風呂に行ってる間に晴れてきて、星が見えるには見えたけれど、駅前だけに強い灯りがあって、三百なんてとてもとても。十がいいとこ。



【3日目】

8時になったら、蝉と選挙カーがうるさい。
荷物をまとめなければならないから、そろそろ息子を起こして朝飯にいかなければならない。
テレビで青森ねぶた放映の宣伝をしている。もう、じかに見ることはないんだろうな、と思う。

朝飯後の片付けは案外スムーズに済んで、タクシーに乗り込み、飯盛山に向かう。片道千円。
石段が二百段ある。
「大変だから荷物あずかってあげるよー」
と、左右の売店のオバチャンたちが、商売ッ気もなく声をかけてくれる。ここには上りのエスカレーターがあるので、僕はそれを使うつもりだったし、
「大丈夫ですー」
とニコニコ応えて・・・ふと気が付いたら、息子は木刀を小脇に抱えて、どんどん石段を登って行く。慌てて追いかけたら、上に着いたときには、僕は情けなくも息絶え絶えだった。

白虎隊自刃の地で、
「お城が見えないねー」
と探している母子連れがいたので、目印を教えてやったら
「あったー!」
と喜んでくれた。
隊士のお墓に線香を手向け、少し下って、さざえ堂というのの中に入る。のぼるとまた自然に下に降りて来ている、という建物だが、初めて入って造りが分かった。狭くて急勾配なので、下りは息子はコケそうで怯えていた。
麓に戻ってタクシー乗り場にいったが、車両がいない。脇のお店に頼んだら、これまた、買い物もしないのに、お店のお姉さんがタクシーを呼んでくれた。来た運転手さんがまた丁寧な人で、息子は
「ウチの方とはずいぶん違って、いいねぇ」
などと偉そうにのたもうていた。

適当な駅弁がなく、ドムドムハンバーガーを買いこんで、11:17発の会津鉄道「会津田島行き」に乗り込む。

田島での乗り継ぎは、行きと違って慌ただしかった。飲み物を買っている間に、列車の出発合図のベルが鳴って、焦ってしまった。
帰路、鬼怒川温泉まで、息子は景色を何度も撮影している。負けじと僕も撮ってみたが、なかなかうまくいかない。家族で泊まった宿を撮ったところで、僕はリタイア。あと二時間寝られるからなあ。
それでも、息子が容赦なく話しかけてきたりするから・・・休まるかなぁ、と思っているうちに
眠ってしまって、なんだか体のあちこちが痛くなって目が覚めたら、もう首都圏に入っていた。
「やっぱり、景色がつまんないねー」
と、息子。


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2009年8月16日 (日)

「芸人」から(永 六輔)

大井浩明さん、BSに登場です!下記リンクをクリック、是非お見逃し無く。
8月5日(BS hi)終了・9月15日(BS2)
大井さんのブログでの情報はこちら。http://ooipiano.exblog.jp/11605999/
・・・「フォルテピアノ」について貴重な知見の得られる番組となることでしょう!!!



吉田美里さんリサイタル・・・キャンセル待ちですよー。

41mc28ka9cl_sl500_aa240_350記事目、という、個人的にキリのいいところに来まして・・・明日から数日綴りませんので、前からちょっと好きなこの本から、幾つか抜き出しておいてみます。

もう12年前の本なのですが。(岩波新書 赤 528 1997年)


第3章までが語録なのですが、永氏自身の言葉ではなくて、永氏が無名の芸人さんから強い印象を受けて書きとめていたもののようです。

「芸とは恥をかくことです」

「昔の芸人は芸の上手下手で人気をわけました。/近ごろの芸人は運が良いか悪いかです」

「客が時のたつのを忘れる。それが、客に勝った時だ」

「芸人でよかった。/だって、こんなに悲しくても、/笑っていなきゃいけないんですもの」

「客がよくなきゃ芸人は育ちません。/芸人が育つような客は少なくなりました」

「俳優とかアーティストとか言ったってね、/早い話が日雇いの芸人です」

「教えることは教わること。/そやけどなァ・・・・・/そない言うたら、月謝いただけまへんで」

「一流のギャラがとれるようになったら、/ギャラのない仕事もしなさい。/中途半端なギャラの仕事はしちゃいけません」

「スポーツ選手がよくカメラに向かって<応援してください>っていうでしょう。/あァいうのは、芸人仲間だったら、/<甘ったれるな>でおしまいですね」

「身体をきたえるということは/身体をこわしているということなんです」


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2009年5月27日 (水)

「チャリティ」とは何か・・・アマチュア演奏考としての

ケルンで活躍中の蓮見岳人・阿部千春デュオリサイタル(リュート&バロックヴァイオリン)、是非お出掛け下さい。
静岡(7月22日)・東京公演会場(7月23日)が決まりましたので、追記しました。
その他、最新情報は追加でお知らせします。


8月に私も参加させて頂く「チャリティコンサート」がありますので、あまり僭越は申し上げられないのですが、「演奏することとコストの関係」を考えるには最良の素材ですので、簡単に見て行きたいと思います。

まず、「チャリティ」とは、そもそも何でしょうか?
手近な国語辞典でことたれり、とします。すると、その意味は「慈善。慈善事業」とあります。
さらに「慈善」の意味を手近な漢和辞典で引きますと、「情け深いこと、いつくしみ、不幸な人たちを助けること」とあります。

では、その行ない手は、そのような心をもって「チャリティ」を行ないうるのでしょうか?

音楽家の伝記のなかで「チャリティコンサート(慈善演奏会)」についての記述をよく目にするのは、ヘンデルやベートーヴェンです。

ヘンデルの場合を見ておきましょう。
年表上に登場するものを拾っていくと、
・1741(56歳):12月10日、ダブリンのラウンド教会で
・1742(57歳):2月8日、4月5日
・1749(64歳):5月27日、捨子養育院にて(花火の音楽、機会オラトリオ他)
・1750(65歳):5月1日、同所にて(メサイア)
というところです。

1741年は、彼のオペラ興業がだいぶ傾いた頃で、前半は困窮のうちにありましたが、この年の11月に、<メサイア>と<サムソン>の二大オラトリオを引っさげてダブリンに赴き、その初演を翌年はじめに行なうべく、用意周到に探りを入れていた時期です。・・・彼の経済状態を考えると、「慈善演奏会」なるものを行なうには無理があるように見えるのですが、12月23日から翌年の2月10日までの予約演奏会シーズンを持っており、それを成功させて満を持して<メサイア>上演にこぎ着ける、という腹案があったためのイメージアップ戦略ではあったのでしょう。
翌1742年の2月8日、4月5日というタイミングも絶妙です。2月10日で終わる最初の予約演奏会シーズンの時期を押さえ、4月12日に(やはり慈善目的と称して)メサイア初演を行なう、という広告を出した後、初演1週間前、という日をも押さえていることには、ダブリンの地でいいイメージを得、風評で他の地にまで彼の「良い人格」が伝わり、安定した収入を得ることに繋げていく、という、中期的な家政目標が彼の内側にあったことが、如実に窺われます。

1749年になった頃には、以前のオペラ作曲家としてではなく、「オラトリオ」作曲家として道義的な面からの評価が既に固まっていました。さらに、4月27日には<(王宮の)花火の音楽>が演奏され、式典そのものの失敗にも関わらず、彼の名声はイギリス王国を代表する高みに登っていたことは周知の事実です。ですので、この年の慈善演奏会以降は、やっと安定的な経済基盤を持った上で、捨子養育院への後援を行なったと言えます。

ヘンデルの、このパターンに着目しておきましょう。

最初は、経済的困窮のなかで、あえて「良いイメージのために」出資することにより、安定した活動を続けるための収入の道を見出そうとする戦略として「チャリティ」を行なったのです。
次のパターンでやっと確立される、真の意味での「チャリティ」は、最初のこの宣伝的チャリティの成功無しにはなしえなかった、ということは明白です。

ベートーヴェンの方は、慈善演奏会への参加は、「戦争交響曲」などのヒットで彼が潤っている時期になされており、詳細は把握していませんが、とにかくヘンデルのような戦略的なものはなく、豊かな時期に行なったものです。いずれにせよ、「慈善演奏会」を行なえるだけの経済的ゆとりがあるときに初めて行なっている点は、承知をしておかなければなりません。



ひるがえって、私たちが「チャリティ」を行なう際に、無条件に「慈善」を行なえるのか、ということについて考えてみなければなりません。

余剰財産を持っていない限りは、「慈善」などということが、そもそもあり得ません。
したがって、余剰財産を生み出す「事業」としての慈善を検討することが最重要事となります。

そのためにはヘンデルの例でいくらか「戦略」が分かっても、その経済的負担の構成が分からない以上は確実なことは言えないのですが、「慈善事業」をなし得る利益を確保するだけの「コスト回収」は最低限視野に入れているはずでして、ここが本来もっと明らかにされるべき、かつは、私たちが念頭に置くべきことがらです。

しかるに、往々にして、理想にだけ燃えてしまうと、「慈善」の企画者は、企画段階で、「コストとは何か」の項目に見落としを起こし易くなります。
何を見落とすか?・・・「人件費」です。
「事業」のための資本を用意する時に、ホール代、宣伝費あたりまではコストとして把握をするようですが、協力者にアマチュアを仰ぐ場合には、アマチュアは「無報酬で良い」と思いがちであり・・・もちろん、無報酬で良いからアマチュアだ、と言ってしまえばそれまでなのですが・・・、そのメンバーに負荷がかかるコスト(交通費、練習時間のために犠牲となる、いわば営業保障的なもの)をも報酬と一緒くたにしてみてしまいがちです。

「有志」を募るのだ、集まるのはその結果、自らの経済的犠牲を厭わない人なのだ、ということであれば結構なのですが、ヘンデルがなぜ困窮のなかで「慈善演奏会」をなし得たか、を少し深く突っ込みますと、恐らくは借財のなかから、出演してくれるメンバーに対する報酬の支払いまでを履行したがゆえに、「契約としての協力」が成立していたはずなのです。

日本のアマチュアの体質なのでしょうか、集まれば誰でも「有志」という発想が抜けない「チャリティ」企画が多い気がしますし、そのことにはむしろ危惧の念さえ覚えます。「奉仕」に対して「報酬」を、という契約の概念が、他国ほどには明確ではなかったにせよ、日本にも戦国時代以前には明確に存在していたことを、私たちは完全に忘れています。

あるいは、一般のかたからの資金的支援に対しても、あたかも「公的援助を受けている」ように、あるいは寄付を受けたように捉えがちであり・・・だったらこの寄付だけで「慈善」をまかなえばいいのでして、それに演奏などという「事業」を加える意味は全くないのです。「事業」であるからには、資金援助も本来は「借財」と考えなければならないはずです。

「チャリティ」を主催する際には、それをわざわざ事業にする必要があるのか、というところから慎重に考えなければなりません。
熟考の上、やはり演奏という「事業」にするのだったら、「チャリティコンサート」は、それを行なって得る収益で「援助金」という借財への返済をも果たし、報酬以外の「人件費」をも回収し、その上澄みをもってはじめて「慈善」にあてることが大前提です。

そのような、健全な「チャリティコンサート」が行なわれることを切に望みますし、私の参加するコンサートも、今さらではありますが、出来るだけそれに近いものになってくれるように、神様にお祈りしています。

・・・協力者に自腹を切らせることは「チャリティ」にはならない、ということは、私たちは肝に銘じるべきでしょう。
そのような安易な「慈善」を喜ぶような人がいるなどとは、私には想像もできないのです。
人間というのは、持っていなければ持っていないなりの意地というものがあるはずであり、それを無視するのは「慈善」どころか「余計なお世話」でしかありませんから。

ですから、本来ならば、神仏にも及ばない私たち人間が「慈善」だなんて思い上がりを起こすよりは、演奏行為を継続し得る「コスト回収」を真剣に見つめて企画することの方がまず基本ですし、私自身はそういう企画の方により大きな魅力を感じます。そのなかで自分自身が利益を上げ得なくてもいいのです。
「質のいい音楽」で「真っ当な利益」を、まず「得るべき人が得る」・・・それが成立して初めて、私たちはようやく、ちょっとだけ、「慈善」のまねごとが出来る、というわけです。

これは、伝統芸能の現在や、過去どのようにして生き伸びて来たかをよくよく知れば了解できることではないかと思っております。

今日は、「チャリティ」を素材に、アマチュアにとっての演奏とは本来なんなのか、を中心に検討しました。
この延長線上に、では音楽で生活を立てるとは何か、という、さらなる難題が控えているのですが、そこまではわざわざ言い及ぶ必要もないでしょう。


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2009年5月14日 (木)

「お囃子」HPご紹介

手短ですが、再開設されたばかりの「お囃子」ホームページをご紹介致します!


「祭囃子が聞こえるⅡ」

http://2nd.geocities.jp/waseda_fuekichi7/

東京都新宿区指定無形文化財である「戸塚囃子」を紹介したものです。

制作者の吉田さんは、このお囃子の指導的立場にいらっしゃる方です。
「戸塚囃子」も、海外から招待を受けるなど、広く真価を認められたすばらしいものです。

このページでは、絵手紙の達人でもいらっしゃる吉田さんの作品の数々もご覧になれます。

ぜひ、お目通し下さい!

Sisimai_4_thumb

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2009年5月13日 (水)

言い換えられない「自分」

ふと思い出したことをベースにした雑談です。
・・・いろいろと資料を当たり終えていないので「場当たり」でもあるにはあるのですが。
・・・話は、なるべく手短に済ませるために、少々抽象的になります。


いまも市井に埋もれていて、死後も自分の子、せいぜい孫までにしか記憶されない私達・・・もとい、私・・・のような小さな存在にも、「個」は備わっています。
ですが、その「個」のありかたは、場所と時代によって大きく異なっていましたし、今も異なっているのだろうと思います。

日本のことしか感じられず、また、それが正確かどうかの保証もありませんが、私の知る限りでは、現在のように人の頭数だけ「個」が認められるようになったのは、この国では第二次世界大戦の敗戦後でした。それまでは、親子を中心にして親族・姻族が寄り添って「家」なるものをかたちづくり、「家」を単位として「生業(なりわい)」が営まれていました。私の「家」も例外ではなく、「漆職人の家」でした。母の思い出の中には、戦争前の「家」が漆器を塗る「工房」であったころのイメージが鮮明に残っています。祖父と父親の他に、父親の兄弟(や、ある別の「家」なら姉妹の婿)を含め、昼中、黙々と、白地の器に漆を塗り続ける。話さないのは、塗ったものに埃をつけてしまったら、それでそのものは売り物にならなくなるからです。
男達が仕事をしている間、漆の仕事に携わらない女性陣は竈に火をくべて炊事や風呂焚きをし、あるいは水を汲み、洗い物をしたりしていました。食事を運ぶときだけ、仕事場へ入ることを許されました。
子供はすぐに立ち騒ぐので、仕事場には絶対に出入り禁止でした。
母の記憶には現実に見たとおりに残っているこれらのイメージは、もはや私には想像でしか脳裡に描くことが出来ません。

昭和の前半までは、役所や企業への勤め人というのは、農家や職人のこうした風景の合間に未だ希少に存在するエリートでした。こういう人たちが、日本における「個」の先駆者だったのでしょう。

資本力のない「家」は、戦災で焼かれなかった地域を除きすぐに崩壊しました(私の「家」などもそんなひとつです)し、まだ無事だった資産家も、それ以後アメリカ占領下の様々な法改正の元で財貨をなし崩し的に剥ぎ取られました。それが原資となって現代日本が成立し、「個」を享受する人口は鼠算式に増えました。
このことの善悪は、利益を得た側・損をした側で見方が異なるでしょうし、それを云々するつもりはありません。私自身、第二次世界大戦での日本の敗北ということが無かったら、音楽をはじめ「自分」が愉しみとしているいろいろな事柄に浮気をすることを許されない生活を送って老年を迎える運命に支配されていたことでしょうから。

では、こうして獲得したはずの、私達の頭数分だけの「個」の意義を、私達はどれだけ大切にしているでしょうか?

「個」と「自分」を括弧で括ったことには、私としてはそういう問いかけの思いを込めたつもりでおります。

敗戦前に「個」を持っていた人たちは、「自分」をも僅かばかりは持っていた人たちだったのではなかったのかな、というのは、たとえば三島由紀夫の「春の雪」(これしかまともに読んでいないのでお恥ずかしいのですが)に描かれた大人達の姿から想像させられることです。では、そうした「個」の所有者達が「自分」を間違いなく確保していたのか、となると、意識の隅には常に「お上」があり、「奉公」という意識があって、必ずしも「自分」意識を強くは持っていなかったように見えます。

焼け野原の後から雨後の筍のようにたくさん生え育ってきた「個」には、すべてが焼けたはずのこの土地の上で、やはり、まだまだ念頭にはそれぞれの「お上」があって(それは大臣だったり自治体の長だったり企業の・・・雇われではない・・・社長だったり、と様々なのでしょうが)、「個」は「自分」であるよりは「奉公」する存在のままであり、この意味では、数は増えたといえ、浅く遡っても近世以降ずっと保たれていた「御恩と奉公」の関係から「主従」ともになんの変化もしていない、と言って支障が無いように感じられます。「お上」の方はここまで特に考慮してきませんでしたので「主従」ともに、というのは少々突飛に見えるところはご容赦願います。あらためて言うなら、こちらもきちんとたどっていけば、「お上=主」の方にも、「自分」というのは存在していない。「奉公」を受ける立場から、どのように「御恩」を与えるか、ということを、こちらも常に念頭に置かなければならないからです。

「自分」を確立することが「善」だ、という価値観を是とするならば、この状態は「善」なるものではありません。
そのためかどうか、しばしば、「自分」を確立しているように「見せかける」手段として、自称するか世間がそう呼んでくれるかして、他の有名な「自分を確立した存在」の名前を借りるケースを見受けます。
日本のクラシック界であれば
「日本のノリントン」
というのが、最近目にした、ひとつの例です。

これ、そう名乗らなければ、あるいは周りがそう呼んで差し上げなければ、そのかたの「自分」が成り立たない、というのだったら、<おかわいそう>ではないか、というのが、率直な思いです。
このケースで言えば、このかたは「ノリントン」がプラスイメージで捉えられる場合にのみ世間から「プラスイメージ」を獲得でき、もし「ノリントン」がマイナスイメージしか持たないのであれば、ご当人の中にいくらプラス評価を受けるにふさわしいなにものかがあったとしても、「ノリントン」のマイナスイメージと連動してマイナス評価しか受けられず、本来いかに潜在的な「自分」を持つ可能性を秘めていても、「ノリントン」が忘れ去られてしまえば、やはりそれに連動して忘れ去られてしまうのです。その上、「日本」と冠していますから、「ノリントン」自身がまた人々に想い出されるときになっても、こちらの方は忘れられたままになることでしょう。
最も不名誉なことがあるとすれば、それはこのかたが「ノリントン」の名前を借りながら
「なあんだ、ノリントンに比べたら研究もきちんと出来ていないではないか!」
と決め付けられ、蔑まれることがある場合で、これは折角にご自身なりの研究をなさって、それなりの努力を払っても、下手に著名人の名前を借りてしまったことによって、ご自身の成し遂げた成果が<分相応>に評価されなくなる悲喜劇が起きてしまうことです。・・・現実問題として、このかたはノリントンとは直接間接の接点は持ったことがないとお見受けしております(そうではないのでしたら失礼いたしました)。もし直接でも間接でもきちんとノリントン氏ご本人の薫陶をお受けになったのでしたら、わざわざその名前を自分に冠することは、むしろ「恥」となさるでしょう。

いや、現在の状況をも、もしご自身を大切になさりたいのでしたら、いかに赤面モノであるかをご自覚いただけたほうがお幸せかと存じます。
(かつて山田一雄氏は「日本のカラヤン」と周りから称されましたが、ご本人は知って知らん顔をなさっているだけでした。実際、彼の指揮はカラヤンとは似ても似つかないものでしたから、そんな呼称でご自身を売り込むなんてアホ臭いと思っていらしたのでしょう。君子とすべきです。)

別に、こうしたことはほんらい個別にあげつらうべきことではなく、一般的に見られる事象です。
しかも、日本において目立つので日本の例を上げましたけれど、案外、日本固有だとは言い難い面もあり・・・じつは、その一例を思い出したことがこの文を綴ってみる気を起こさせたのですが・・・、本当はもっと敷衍されるべき根本的な課題が孕まれているのではないかとも思います。

さて、どうでしょう、少なくとも、他者である「自分を確立した存在」の名を借りたところで、借りた人自身の「自分」は確立されるのでしょうか?

答えは、上例から分かるとおり、
「否」
です。

では、そこでまた無理をしてでも、名を借りることを捨てて「自分」を打ち出すことが、「善」なのでしょうか?

現代日本において、なお「個」=「自分」という等式が成り立っていない状況のもと、ある面では「新文化」の担い手を自負する人が「自分」を確立することを急務とすべきなのか、保持している伝統精神を重視して「没・自分」でいるべきなのか・・・こんな断片的な文ではまだ入り口にしか触れられない、それでいて私達をこれから引き継いでいく新鮮な精神たちのためには、よくよく検討をしておくべき大事なポイントとなる事柄なのではないか、と思います。
本当に考えるべき未来とは、独断的に決めつけ発言されるものであってはならず、以上についてまずひとりひとりの<おのれ>がよくよく熟考し、「どうなのだろうか?」と静かに問いかけ合わなければならないことなのではないでしょうか?
何通りも考ええるはずの「未来」について、独善的な見解を誇らしく著書になさり、おそらくはちゃんとお答えいただけるだろうとの期待からちょっとばかり疑問を提示すれば、それにたいしてお答えを頂けるのではなく、媚を売ってこられる、などというていたらくでは、当初は好意的にとらえた読者でも
「なんだ、この著者は所詮権威主義者だ!」
と、飽き飽き、うんざりしてしまいます。そういうことなさるようなかたは世の中にはいらっしゃらないであろうと信じたいなあ、と存じます。

脱線してすみませんでしたが、以上を考えるにあたって、人生の先輩方の示唆的な言葉はいくつもありますが、さしあたってはドナルド・キーン博士の「能・文楽・歌舞伎」(講談社学術文庫1485 2001)の次の文は顧みるに値する重要性を持っているでしょう。

「なによりも能楽師は自分の性格のいかなる面をも役柄に投影させぬよう戒め、さらには上演ごとに表現の差異が生じないように心掛けるのである。」(32頁)

「(小西甚一博士訳の世阿弥の言葉の引用から)『いったい、最近あたらしく作られた幾番かの能も、古い能をもとにして、それを新しい曲に改作したものである。(中略)・・・・・・これはそれぞれの時代の好みに応じて、いくらか詞章をかえ、曲に新味を加えなどして、いつの時にでも咲くような花をうまく咲かせる種を工夫したものである。今後も、やはり、時世に応じて、その好みに合うようにすべきものである。』」(58頁)


そう、こんな文を綴りたくなったのは、アリアーガの名前が急に浮かんだからでした。
19歳で早世したこのスペイン人の天才は、出身地とその才能のゆえに
「スペインのモーツァルト」
と呼ばれ、まさにそれゆえに、せっかくの個性的な初々しい調べが、かえって私達の耳から遠ざかっている、まことに惜しい存在なのです。

彼の弦楽四重奏曲の自筆譜をリンク先でご覧になりながら、少しお考えいただければ幸いに存じます。

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2009年5月 6日 (水)

音楽も絵画も超えられない精神・・・Faust(手塚治虫展を見て)

Tedukaten東京・両国駅前の江戸東京博物館にて、今、手塚治虫展が開かれています(2009年6月21日まで)。
この希有な「漫画家」の全貌を網羅していて、おすすめの展示会ですが、昨5月6日は黒山の人だかりでした。

音楽関連での手塚さんについてかんたんに述べますと、まず、「リボンの騎士」は宝塚で育った彼ならでは、の、宝塚歌劇経験が無かったら、決して生まれなかった作品でしょう。残念ながら未完に終わった「ルードヴィヒ・B」は、ベートーヴェンの生涯を取扱うはずの作品でした(年譜によれば、亡くなる前年に、手塚さんはベートーヴェンの生家を見学しています)。名作「火の鳥」は、ストラヴィンスキーのバレエ音楽に刺激を受けつつ書き続けられた、しかしながら結果的にストラヴィンスキーの音楽を超えた深い内容を持つ壮大な物語展開となって行った、文字通り手塚さんの魂を削り続けたものでした・・・これも未完ではありますが、「意図的な」未完だったことは、かなり長い期間にわたって多くの分量が書き上げられていることからも分かります。・・・ただ、「火の鳥」に関しては、劇として上演されたり映画にもなったり、オペラにも仕立てられたりしています。

「もう<漫画は軽い>とは言わせない」という気概は、トキワ荘出の漫画家たちすべてに言える精神の姿勢だったと思いますが、中でも手塚さんの作品ほど多岐にわたるものを残した方はいらっしゃらず、こればかりは今後も手塚さんを超える存在が現れるまでには相当の時間を有するものと思われます。

Tezukapiano「ピアノを弾く女性」の、ちょっと手塚さんのものとは判別しにくい絵(テレビの『悟空の大冒険』【1967】では滑稽な脇役キャラにはこの画法がよく用いられていましたけれど)は、1962(昭和37年)のアニメーション『ある街角の物語』用のキャラクター設定画で、このアニメの一部は今回の展示会で上映されています。音楽の平和が、戯画化されたヒトラーの無限量の似姿に蹂躙されて行くという部分でした。のちの『アドルフに告ぐ』に繋がるなにものかを持ったものだったのでしょう。いずれ全編を見て見たいな、と思います。

手塚さんの未完作で、私にとって最も惜しまれるのは「ネオ・ファウスト」でした。
これは、完成したら、ゲーテの原作を別の手法で、全く新鮮に、ゲーテ以上に「現実に即したものとして」私たちの前に呈示してくれるもの、と期待をしていたからです。
ですが、享年60歳、胃癌に冒された手塚さんは、
「頼むから仕事をさせてくれ」
を最後の言葉に、ファウストよりも「現実の生を直視したままの場所から」魂を清らかな世界に運ばれて行ってしまいました。

「ファウスト」は、大作にも関わらず、同時代人を超えて享受されてきている希有な文学作品ですけれど、多くの作曲家たちもまた、ゲーテの書き表し得たものを自分たちもなんとか、音という手段で描けるのではないか、と企み続ける野心を刺激された作品でもありました。

有名な例では、ベルリオーズ「ファウストの劫罰」、グノーの歌劇「ファウスト」(この歌劇中のバレエ音楽は一昔前は日本のアマチュアオーケストラにも頻繁に採り上げられていましたが、最近の人は旋律表現がヘタになって来たうえに大作主義に走り過ぎている気がしますし、そうしたことの影響からグノー作品が耳にできるチャンスが減ったことは大変遺憾に思います)、リストの「ファウスト交響曲」があります。ベートーヴェンにとっても「ファウスト」は非常に魅力的だったらしく、「ファウスト」に関連する音楽を創りたいとの構想があったことが分かっていますけれど、とうとう作ることができませんでした。

リヒャルト・ヴァーグナーは、一連の楽劇を創作するようになる以前に、「ファウスト」序曲、という単独作品を作っています。これはお聴き頂いておきましょうか。


Alexander Rahbari "Wagner Overtures" NAXOS

ファウストそのものの楽劇化はしませんでしたが、ヴァーグナーの一連の楽劇は、「ファウスト」の精神を彼なりに敷衍しようとの試みだったのではないか、という気がしてなりません。

それでも、何度読んでも、ゲーテ自身が描いた終結部そのものをも、あるいはその質の高い模造品でさえも、ゲーテの頭の中、思いの深さを完全に知ることができない限りは、やはり作り得ないのかも知れない。

手塚さんがもう少しいのちを持つ事を許されていたなら、もしかしたら、私たちにはゲーテの体感を知り得る二度目のチャンスを得ることができていたのかも知れない。

ですが・・・そういうことを知り得る人、というのは、
「いや、あんまり沢山の人間に知らせちゃいけないんだよ」
と、神様がさっさとつれて行ってしまうのかもしれません。

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2009年4月 9日 (木)

学習? 勉強? 自主的な楽しみ?

齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。



大井浩明さんの新譜「フーガの技法」(クラヴィコードによる演奏)が出ました。必聴かつリーフレット必読です!

昨日から今日にかけて貴重なご教示があり、多分、私は勘違いしたままでそれを受け止めているのですが、であってもなお、それが自分にとってあまりに新鮮でしたので、その反省を踏まえて綴ります。文からの印象とは裏腹かも知れませんが。

私は、「芸術」という言葉が嫌いです。
何故なら、この言葉に対する現代の私たちの気どった感覚は、私たちの誰もが、
「無自覚な魔法使い」
であることを忘れさせるからです。
ということは、もっと正確に言えば、現代の日本語としての「芸術」という言葉が、嫌いです。

「術」という字は、訓読みでは「すべ」と読みますね。すぐ手にとれる簡単な辞典では、単純に、これを「手段・方法」という漢語に置き換えているだけでして、さらにわざわざ、「古い言い方」だ、と付け加えてさえいます。
なぜ、やまとことばの「てはず、てだて・・・」などなどでは、いけないのでしょう?
「て(手)」というものに対する、私たちの感性が鈍ってしまったことを、この辞典の表現は、はからずもあらわにしているのではないでしょうか? いや、体全体に対する素直な目線を喪失していることまでをも、知らしめているのではないでしょうか?

剣術、柔術、馬術・・・スポーツ系なら、それぞれ単純に「剣のさばき方、体のさばき方、馬のあやつり方」という具合に受け止めて何の不自然も感じません。そこに、剣を持つ手、強いられることから解き放たれる体、その体全体を使って他の生き物と触れ合う雰囲気が、自ずと備わっているから、なのかもしれません。

技術、は、それ以外の、個別に名付け得ないものまでをも含めた、人間の「意地」までをも含んだニュアンスがあり、そこまでは、まだ好もしいと思います。

芸術、というのは、いつごろから使われたのでしょう、これらの「術」よりはずっと新語なのではないでしょうか? そこまで究明するてだてがありませんから、推測にとどまりますが。
これも本来、素直に捉えるならば、「芸」の「すべ」というだけであって、スポーツ系の「術」からの類推でいけば、「芸をどのようになしとげるか」ということに過ぎないのに、「芸術」という言葉のいやらしさは、しばしばこの言葉にこだわることが、「素晴らしい絵を描けない」、「名文をものしえない」、「美しい音楽が奏でられない」言い訳になったり、もっといやらしいのは、自分がこの言葉を大書した旗の元に成している、あるいは享受していることがらを、「それ以外にはない!」と絶対視し、「それ以外」を排除し差別する恰好の「逃げ口上」になったりするところにあります。
しかも、日本人は、特に好んで、この言葉を外来、とくに西洋の文化に対して使います。こんな立派な翻訳語があるからには、それが「理解できない」のはおかしなことだ、と、・・・これが私には奇妙に思えてならないのですが・・・優越感を持つ人も劣等感を持つ人も、まったく同じに、このように考える。

「芸術」が西洋文化の訳語として使われているのでしたら、原語は英語なら"Art"、ドイツ語なら"Kunst"であって、実は美術だとか音楽に特定された語彙ではありませんよね。ですから、どこかに、それらを受容したときの日本人のやや卑屈な精神が、「芸術」という言い方にはそのまま宿ってしまったような気がしてならないのです。

以上は極論ですし、抽象的でもありますが、このことにこれ以上、余分なあれこれを付け加えて述べるのはやめましょう。

今日の標題は、ここまで述べて来たことと関係ない、とお感じになるかもしれません。
・・・いえ、大いに関係があるのです、と、申し上げておきましょう。

今回、私の所属するアマチュアオーケストラでは「運命の力」序曲をやります。・・・ね?
では、「運命の力」とは、なんでしょう?
少なくとも、これに音楽を付けた人の「作品」として、どういうものでしょう?

早ければ明日、遅くても近日中に、その輪郭程度は、こちらに掲載してお知らせしますが、身内の中の何人のかたが興味を持って下さるか、私の情報がどの程度正確にできるか、などということは考えません。

あるいは、ネットをお使いなら、他のサイトでお調べになることはすぐにでも可能です。
ヴォーカルスコアなら、昨日ご紹介したサイトで全曲分無償で入手できます。

さて、まず、最低レベルのところで、三つのスタンスがあると思うのです。
「やるから知っておこうか」
「やるからには知らなければならない」
「やるから楽しみだな。知りたい、知りたい」

それが、標題の、三つの言葉の違いではないかと思います。

で、その一つ上位は、どういう言葉になるのかは、私には分かりませんでした。
スタンスで言えば、
「じゃあ、知ってどうするの?」
というところでしょうか。

どうします?

「体」・・・演奏に携わるからには、アマチュアといえども、自分に可能な限りの「手」の感覚、さらには腕や背中や腹回り!、そして何よりも重心の感覚、「てはず」としての知識・・・各々、そのもののレベルは「音譜が読めない」であろうが、「ピアノが片手でたどたどしくしか弾けない」であろうが、「アマチュアオーケストラの団員としてならある程度までは、でも独奏なんてとてもとても!」であろうが、いいのです。
自分の「手」が、どれだけの魔法を使えるのかを、ことを音楽に限っても、私たちはあまりにも知らなすぎる、というのが、最近とても強く反省させられ、かつ、世の中のさまざまなことどもを眺めるにつけ、嘆かわしく感じられることです。

大したこともできない私が述べるにはあまりにも僭越なのですが、誰でも、知らず知らずに魔法の力を発揮している。その恩恵が、人間文化たかだか1万年(発生した年代からみても百分の一に過ぎず、世代にしたらたった333世代程度)累積しただけで、かつ、そこへ私たち自身もちょっとずつ参与しつつ、こんにちの便利な生活があります。ほんの200年前の人たちから見たって、現代社会は、「ハリー・ポッター」の世界どころではないほどに不思議かも知れない。
その不思議さに不感症でいることが、自然ですか?

読めなくて構いません。
バッハの「オルガン小曲集」というもののなかからの1曲の自筆譜コピーを掲載しておきます。
この楽譜だって、べつに自筆譜の写しだから有り難いわけでもなんでもありません。
ただ、およそ三百年前に、ヨハン・セバスティアン・バッハという人は、これを書きながら、多分、自分の手の中にささやかな光が生まれるのを感じたことでしょう。
いま、これを眺める私たちが、確かに体の中から手を通じて出で来るものとしてバッハという人の感じた光のほとばしりを、少なくとも「絵」としてでいい、画像(紙面)から自覚し得るかどうか、それだけを、自分自身にも、読んで下さったかたにも「問い」として投げかけて、この趣旨不明な記事を終えることと致します。

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家内の死後、廉価でしたので、自分の心の支えに、お守りに、と、座右におくために買い求めたもののなかの1頁です。


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