« 【読書・鑑賞案内】気分だけでも華やかに?〜「序曲」と呼ばれた組曲〜レパートリーを広げるヒント(3) | トップページ | 【3月21日】水曜日のクラシック(原宿にて) »

2018年3月10日 (土)

修辞を聴く(とりとめもなく)

2月24日、大井浩明さんの今シーズンPOC(#36)が無事に完結しました。
最終回は大井さんと同世代の作曲家さんたちの特集で、ほとんどのかたもご臨席で、楽しい、良い会でした。

Poc2017 POCのことが最近何も言えていなかったので、ちょっとだけでも駄弁を弄したい、と思っていましたが、ずいぶん間が空いてしまいました。

いつも言うのですが、私は大井浩明さんという音楽家との出会いがなければ、たぶん一生、人が前衛音楽と呼んでいるものを耳にすることはなかったでしょう。そしてまた、そうした音楽に携わる人、そういう音楽を良くお分かりの人たちとお会いすることも、皆様にお教えを受けることもなかったでしょう。

しかも、ですよ。

なんべん聴きにいっても、私には前衛音楽というものは分かりません。

でも、たとえば古典だってバロックだって中世の音楽だって、「分かるの?」と聴かれたら、私は結局、分かっているわけではない。ただ聞き慣れているというに過ぎないのです。調べれば少しは分かるか、と思って、楽譜をひっくりかえしたり(五線譜の、そんなに複雑じゃないものが、辛うじて読める程度ですが)、本を読んだり、御託を並べたりしていますけど、どこまでいっても、「面白い」という感覚以上のところには届いた気がしない。

前衛ものも、聴かせて頂き始めて、一生懸命ものを読んだりしてみました。すると「数学がどうの」なんてものもある。そういうのは、音を聴いても私には理屈と比べることが出来ないので、ああ、やっぱり分からない、と言うしかない。もう、まわりの人たちのお話にも、全然ついていけません。

それでも、面白いものは面白いのです。

なんだか分かんねぇけど面白ぇや、というだけが、毎年・・・ベートーヴェンのソナタのチクルスなんかが中心でPOCではない年もありましたけれど・・・通い詰めた理由でしたし、動機でした。

岡田暁生さんが最近『クラシック音楽とは何か』というエッセイ集みたいな本を出され、読みました。
岡田さんはリヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」を論じたものを拝読して以来尊敬する音楽学者さんですが、こと西洋音楽史に関しては「ストラヴィンスキーでおしまい」と断言なさっている気がして、それがちょっと気に入りませんでした。
そうではない、岡田さんが終わったとおっしゃっているのは「ロマン派まで連綿と続いて来た『クラシック音楽』」なのだ、ということが、今回はよく分かって、他もすべて、世代の近い者には「そのとおりだ」と頷けることばかりで、この本、ちょっと嬉しく読んだのでした。
前衛音楽と言うと、「分かる奴だけ分がればいい」みたいなものだ、と断言するかたが多い中、岡田さんの表現は(同工異曲ではあるものの)きちんと具体的です。長いですけど引きます。

「『音楽は自己表現だ』という理念のもと、ロマン派の十九世紀は百花繚乱の個性を誇った時代であった。こうした『独創性』の追求がエスカレートしすぎた結果が、いわゆる現代音楽だと言えなくもないのである。多くの二〇世紀の前衛作曲家たちを特徴づけているのは、いわば他の誰かと似ていることに対する過剰な恐怖である。そして『誰にも似ていないこと』の探求が、ひとりよがりと紙一重のところにあることは、言うまでもあるまい。/現代音楽のもう一つの特徴は、大衆音楽に対する強い敵意であろう。(中略)たとえ一般聴衆の無理解にさらされようとも、【ヨーロッパのクラシック音楽がもともと教会や貴族〜ブルジョアの娯楽であったという】こうした伝統的なクラシック音楽のエリート性になおこだわり続けようとする、それが現代音楽である。現代音楽にエリート的な高踏主義とアングラ性が同居しているのは、このあたりに起因しているものと思われる。」(『クラシック音楽とは何か』p.38-39)

岡田さんがこの文章の中で「現代音楽」と呼んでいるのは、「前衛音楽」のことです。
大なり小なり、私自身や、私と同世代より上の一般聴衆(作曲や演奏の専門家でない人)の前衛音楽理解は、ほぼ岡田さんの捉え方通りだと思います。
ですから、それに対して、いや違う、みたいな話はしませんし、私に出来るものでもありません。

・・・と言いつつ、「いやそこはもう少し」の無駄口をたたくことが今回の趣旨です。

前衛音楽ってこんな感じよね、と言われながら、言われることを重々承知しながら、それでも前衛と呼ばれるような音楽を産み出し続けている人たちが、決して少ないとは言えない数で居続ける。

面白いことではないでしょうか?

そのかたたちの狙いがなんなのか、これまた、正直に打ち明ければ、私に分かるとはちっとも言えない。プログラムには皆さん一生懸命面白く「こうですよ」と敵意なしに(!)説明して下さっているから、それをガイドに聴くのです。(できればもうちょっと簡単に分かるようだとウレシイですけど、ツウなお客さんには嬉しくないんだろうな。)

まあともあれ、そうすると・・・
分かんねぇけど、響いてくるんですよ。
綺麗な音、汚い音、やかましい音、なだらかな音。百花繚乱です。

いいんでないかい?

美術や音楽がフォーマルではなくなった背景には、ほんとうは伝統の修辞(修辞学にまとめられたもの)が、長い歴史の中では想像もしえなかった社会の流動化で、もう役目を果たせなくなったという側面があります。「独創性」の追求というものの裏を返したら、そうでしょう?
「誰にも似ていないこと」
が、ほんとうの狙いか、というと、それはちょっと違う気がするのです。

修辞学については、ロラン・バルトという人が、伝統を彼の小著で結晶させているのを、迂闊な私は最近知ったのですが(『旧修辞学』)、これはまた修辞学の「死」を巡ってのメモ集だ、という点を見落としてはならない、と心底思いました。
小難しいのですが大事だと感じるので、最後の部分を引きます。(修辞学は本来は古代ローマの法廷弁論のために整理されたことに始まる、そしてそれはまた中世〜近代には、文学に限らず、音楽を学ぶ場合も、同時に学ばれた、的な理解をしておく必要があって、それ抜きではロラン・バルトの次の言葉はピンと来にくいようではありますが、端折ります。)

「金銭の、所有権の、階級間の露骨な争いが、国家の法律によって、引き受けられ、抑制され、飼い馴らされ、維持されたところに、制度が偽装された言葉を規則化し、能記のあらゆる援用を法典化したところに、われわれの文学は生まれたのである。だからこそ、『修辞学』を、もっぱら、ただ単に歴史的な対象の地位におとしめること、テクストの、エクリチュールの名の下に、言語活動の新しい実践を要求すること、そして、革命的な科学から絶対に離れないことが、唯一の、かつ一貫した作業となるのである。」(バルト、沢崎浩平訳 p.158)

前衛音楽もバルトのこの発想と同じ延長のもとにあると考えるならば・・・このあたりが岡田さんの言う「高踏的」でも「アングラ」でもあるのでしょう・・・、私たちは、前衛、と言い古されている、もしかしたらしかしそこから抜け出そうとしている、新しい響きの中に、新しい「修辞」を聴き取っていくべきなのではないか、と、私はどうも、そのように思っているらしい。
「こうも言えるんじゃないの?」
「伝達がすべてではないかもね」
「いや、そうではなくて、伝達の裏にあるものを引きはがして見えてくるものがあるじゃない」
「ああ、なるほど」
みたいな、それとはまた違うみたいな、体系づけることで私たちが目をつぶり耳を塞いで来たこと、それをたくさん明らかにしてみること、みたいな・・・人はほんとうは混乱の中の生きものであること、そうした私たちの「素(す)」を、思いがけず知らされる驚き。

再体系化してはいないがゆえの面白さ。

それらが「高踏的」ではなく「アングラ」・・・ではあるかもしれない?な展開で繰り広げられていることに、分かろうとか分からないとかではなく、鳴っている・鳴っていない、音の連なり、言葉と似て非なるなにものかに、少し身構えずに耳を傾けることは、案外楽しいことなのではないでしょうか。

こんな素人耳で、いま作られている、ちょっと一般受けしなさそうなものたちのなかに、それに傾けられる耳たちの中に、ああ、もうちょっと多くの素人仲間がいてくれたらなあ、と。

私はいま願っています。

・・・もう、歌の文句みたいだわ。んでもって、わけわかんないや(笑)

POC 2018年2月24日のプログラム

●原田敬子(1968- ):《NACH BACH》(2004、全24曲・通奏初演)
●山口恭子(1969- ):《zwölf》(2001、日本初演)
●望月京(1969-):《メビウス・リング》(2003)
●田村文生(1968- ):《きんこんかん》(2011、委嘱作・東京初演)
●山路敦司(1968- ):《通俗歌曲と舞曲 第一集》(2011、委嘱作・東京初演) ●木下正道(1969- ):《「すべて」の執拗さのなかで、ついに再び「無」になること II 》(2011)
●西風満紀子(1968- ):《wander-piano II (harmony go!) 》(2015、日本初演) 
●夏田昌和(1968- ):《ガムラフォニー II》(2009)、《センターポジション》(2018、委嘱新作初演)
●伊藤謙一郎(1968- ):《アエストゥス》(2018、委嘱新作初演
https://ooipiano.exblog.jp/29087727/

大井さん次回は
【特別公演】 フェルドマン全ピアノ曲総攬・完結編

2018年4月15日(日)午後2時半開演(午後2時開場) 全自由席3000円 
えびらホール (品川区/東急旗の台駅より徒歩6分)
[要・事前予約] feldman2018☆yahoo.co.jp
【演奏曲目】
●モートン・フェルドマン(1926-1987):《三和音の記憶(トライアディック・メモリーズ)》(1981) 約80分
●上野耕路(1960- ):《Volga Nights(たらこたらこたらこパラフレーズ)》(2018、委嘱新作・世界初演) 約10分
●モートン・フェルドマン:《バニタ・マーカスのために》(1985) 約70分
https://ooipiano.exblog.jp/29351349/

|

« 【読書・鑑賞案内】気分だけでも華やかに?〜「序曲」と呼ばれた組曲〜レパートリーを広げるヒント(3) | トップページ | 【3月21日】水曜日のクラシック(原宿にて) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 修辞を聴く(とりとめもなく):

« 【読書・鑑賞案内】気分だけでも華やかに?〜「序曲」と呼ばれた組曲〜レパートリーを広げるヒント(3) | トップページ | 【3月21日】水曜日のクラシック(原宿にて) »