« 【読書・鑑賞案内】ヴィヴァルディ『四季』雑談続き/バートン編『バロック音楽』 | トップページ | 【読書・鑑賞案内】なぜ演奏会をやるの?:『メディチ家の祝祭』&『オーケストラは未来を作る』 »

2018年2月12日 (月)

【読書・鑑賞案内】音楽とは何か〜本:上尾信也(あがりおしんや)『音楽のヨーロッパ史』

連休にかこつけて、来週にしようと思っていた記事をアップしちゃいます。


最近の一連の記事は、ご一緒した文教大室内楽のみなさんに「演奏している曲の背景理解、今後の選曲のヒントになれば」と思って始めたのでした。
なかなか、その主旨に沿った方向に行きません。

文教室内楽さんの演奏はバロックが主でしたが、クラシックに括られている音楽って、実は、たくさんのジャンルがひしめき合っているんですよね。いまのジャンルと比べて言えば、映画音楽(オペラ・劇音楽)・ダンス音楽(舞曲類)・ジャズ(室内楽)・演歌(古典歌曲)・フォーク(民俗歌曲)、などなど・・・言われてみれば「なるほど」でしょう? バロック音楽は特にそれを身近に豊かに味わえる宝庫です。

こういう言いかたは初めてしましたけれど、こうしたことを感じとって、誇りも持って、のちのち外の人へも自分たちを楽しく宣伝もらうのに、土台になればと、まずは音楽の背景にある歴史や特徴を知ってもらうように考えてきました。

いままで、分かりやすい本〜ちょっと難しい本〜CD・演奏の紹介(バロック合唱曲のオムニバス〜ルネサンスからデュファイ〜バロックから『四季』)と進んでましたが、それでほぼ上に考えた流れに沿って来たかな、これで次から選曲のヒントへ、と流れ込めばいいかな、とも思っていました。

でも、そのまえに、やっぱり
「音楽って何? 演奏会はなぜやるの?」
みたいな問いに答えられる用意は、どうしても必要なんじゃないか、という気持ちから、離れることが出来ません。これらは音楽なさるときに、いちばん最初に考えるべきことではないか、とも、常日頃感じています。
なので、汗顔の至りですけれど、それらについて、駄弁をあと2回上積みします。


先に申し上げておくと、本だの録音録画だのは、ご自分の心をいちばん捉えた、どれか一つを、まず徹底して見たり聴いたりすればいいのです。あくまで、そこへ行くための「おせっかい」として綴って来ています。ですから、どれもこれも、とは決して思わないで下さいね。


今回は、またひとつ本をご紹介することから始めて、後半に、そもそも「音楽とは何か」を人間は古代どう考えたか、2つの本からの引用でご覧頂きます。

Ongakunoeuropianhistory 西欧のことに限っても、
「音楽が人間にどう受け止められて来たか」
の全体像を教えてくれる本って、実は日本語で読めるものは皆無と言ってもいいんです(外国語のがどうかは知りませんが)。わりと守備範囲の広そうなものでも、音楽の話だと音楽の垣根の内側にとどまっていて「だからなんなの」と言われたらおしまい、な面もあります。
そんな状況の中で、次の本だけは例外でした。

上尾信也『音楽のヨーロッパ史』(講談社現代新書1499)
(これ、Amazonで1円から買えるんですね!
 https://www.amazon.co.jp/dp/4061494996
 いま絶版なのでしょうか? だとしたら残念です。
 http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061494992

もし関心があったら、これを図書館から借りるのでも古本で手に入れるのでもいい、読んでみてもらえたら嬉しいです。
普通の音楽史の本とは趣きが違いますから、ちょっと読みにくいかも知れません。
でも、上尾さんが本書のプロローグでお述べになっている言葉は、本書を貫く上尾さんの強いメッセージになっていて、「音楽が人間にどう享受されて来たか」ということだけにとどまらず、そもそも「音楽とは人間にとって何なのか」を考えるとき、たいへんな魅力を持っています。

「音や音楽は人心を掌握する極めて優れた手段である。そしてそのことを歴史は記している。戦争と平和、いずれの時代にあっても、音や音楽は時代を映す鏡であり、時代を動かす杓杖であったのではなかろうか。」(p.7末尾)

この問い(問いとして読むならば)への実証的な回答は、本書の内容を読むことで得られます。

いちおう、目次の大見出し、中身の(私なりの)要約を載せておきます。

Ⅰ 古代の支配する音(古代人の祭祀・戦争での音楽の役割)
Ⅱ 天使の奏楽(中世キリスト教への古代音楽の流入)
Ⅲ 凱旋と祝祭(十字軍以降の戦争を通じての音楽の浸透と規模拡大)
Ⅳ 音の宗教改革(宗教改革期の時代趨勢による民衆への道徳的音楽の浸透)
Ⅴ 戦争と音楽(帝国のお飾りとしての音楽の劇場化)
Ⅵ 国歌と国歌(帝政の衰退による劇場的音楽の担い手の市民国家化)

ここ3回ほど、デュファイとヴィヴァルディの、それぞれの作品の特質の違いを見て、少なくともルネサンス期の音楽は内輪向けっぽくて、バロック期の音楽は劇場向けっぽい、という違いが明らかになったのでした。
それぞれの音楽が生まれた時代を、上尾さんの本に照らし合わせて見てみると、この違いは、世の中の違いをしっかり反映していることがわかります。すなわち、デュファイは上尾さん『音楽のヨーロッパ史』の「Ⅲ 凱旋と祝祭」、ヴィヴァルディは同じく「Ⅴ 戦争と音楽」で描かれた時代の中を生きていたわけです。そしてまさに、その時代の要請する音楽を、それぞれの音楽家は作っていたのです。


時代と追いかけっこをして音楽が産み出され続け、歌われ、奏でられ続けるのは、いったいどうしてなんでしょう。考えたことはありますか?

皆川達夫さんもご著書『バロック音楽』の最初に「音楽とは何か」を書きかけていらしたのですけれど、これは音楽を好きになってしまった人にとって、そうではない人から「なんなのよ」と訊かれても、案外答えようのない、困った問いではなかろうかと思います。

少しは自分なりに答えを用意しておいてもらうために、そもそも古代の人は音楽を何だと思っていたか、について紹介します。

神話や伝説や歴史記録を拾って、楽器はどうだったのか、楽譜のようなものはあったのか、どんな場所で、どんな人たちが歌い奏でたのか、などと探る手もあります。でも、まとめるのは自分の主観頼りになってしまうので、あんまりいい方法とは言えません。(このブログの別の記事で素人なりに数回試みていますし、続きをやるかも知れませんが、今は振り返りません。)

そこで、代表選手に登場してもらいます。
東からは、中国の司馬遷(の影武者)さん。
西からは、プラトン(プラトーン)さん。
この二人は、音楽とは何か、に対する、東西の違いを際立たせる、それぞれにはっきりした言葉を残しています。

ちょっと煩わしいかも知れませんが、お目通し下さい。


まず、東の、司馬遷さん『史記』。
この中に「楽書」というのがあるのはご存知ですか? 題のとおり、音楽とは何かを滔々と記した巻です。ただし、司馬遷のオリジナルは無くなってしまったそうで、いま読めるのは『礼記(らいき)』とか『韓非子 十過篇』とかいう書物を材料に、影武者さん(私の勝手な呼び方)が補ったものなのだそうです。そのへんの詳しいことは知りませんし、立ち入りません。ともあれこの「楽書」が、幸いにしていま、現代日本語訳で読めます(ちくま学芸文庫『史記 2 書・表』小竹文夫/小竹武夫訳 1995年第1刷 以下はこの訳書からの抜書き)。
司馬遷の影武者さんは、こんなことを言っています(行分けや記号付けは、私がしました)。

「およそ音楽がおこるのは、人の心から生まれるのである。
人心が動くのは、外界の物が動かすので、物に感じて人心が動き、それが音声にあらわれるのである
音声はたがいに応じ合って変化を生じ、変化して方(文章 
あや、いわゆるsentencesではなくて、飾りや模様のことをいう)をなす。これを音というのであって、音をならべてこれを歌とし、干・戚・羽・旄(漢字読めなくていいですよ! どれも舞うときに手にするもの・・・したがって「舞」の意味)に合わせる。これを楽というのである。
楽は音によって生ずるもので、その本(もと)は人の心が物に感ずるのにある。
したがって
・哀しく心に感ずれば、その音ははやくてあとが消え、
・楽しく心に感ずれば、その音はゆったりとゆるやかに、
・喜ばしく心に感ずれば、その音はあがって外に散じ、
・怒って心に感ずれば、その音はあらくてはげしく、
・うやうやしく心に感ずれば、その音はまっすぐでただしく、
・愛らしく心に感ずれば、その音はやわらかでやさしい。
この六つは人の性(さが)ではなく、心が物に感じて動いたのである。」
(p.27)

とても自然な内容だと思います。いかがでしょうか。
「楽書」では、この前後にいろんな尾ひれがついて、音楽は特にまつりごとの善し悪しにも大きな影響を及ぼす、と綿綿語り続けられます。それがまとまっているところを引きましょう。注として加えられている部分は省きます。

「楽は心の動きであり、声は楽のかたちであり、調子は声の飾りである。君子はその本(心)を動かし、そのかたちを楽しんでその飾りを治めるのである。」(p.41)

いい君主(文中では君子)が、いい音楽プレイヤーだ、と言っているわけです。「いい君主であるためにはいい音楽が奏でられないといけない」説です。古代の音楽観は為政論との結びつきが強いのです(あとに見るプラトンさんも似ています)。

どんな楽器、どんな音程が、どんな効果を持つのか、についても、様々語られています。でも意外に漠然としていて、深く突っ込んでいません。
いかなる場合に音楽は弊害となるか、どうしたらそうならないか、にも触れています。司馬遷(の影武者)さんのお考えの究極は、これでしょうか。

「楽(がく)は楽(らく)である。それゆえ、これを貪ろうとするのは、人情のかならずしも免れぬところである。楽しめばかならず声音に出、動作にあらわれるのが常で、声音・動作は心術の変化の果てである。ゆえに人は楽しまないではおれず、楽しめば外にあらわさないではおれぬのである。あらわれて道によらなければ、乱れないわけにはいかず、先王はその乱れるのを避けるため、雅頌の楽をつくって人を導き、その辞句を論じてやまないようにし、その音調の曲折・緩急を、人の善心を感動させ放恣の心や邪悪の気が近づけないようにしたのである。」(p.43)

司馬遷(の影武者)さんに言わせれば、音楽が産み出され続けるのは人々の心を安定させるためであって、もともと音楽とは人々の心の正直な発露であり、正直さが激しすぎるときには逆に、それを抑えて穏やかにする、心への働きかけの力も持ったものなのだ(古代の理屈で言えば、上に立つ者の徳の発露だから)、とでもなるのでしょう。


では、西のプラトンさん。
『国家』第3巻で、音楽について、ソクラテスさんに少しだけ、でも詳しく議論させています(岩波文庫の『国家』上巻が引用元です。藤沢令夫訳)。叙事詩の作り・演じられかたの延長であるため、言葉や文芸と切り離されずに話されています。

「・・・歌というものは三つの要素、すなわち言葉(歌詞)と、調べ(音階)と、リズム(拍子と韻律)とから、成り立っている・・・そして調べとリズムは、言葉に従わなければならない。」(398D p.232)

「すぐれた語り方と、すぐれた調べと、様子の優美さ(気品)と、すぐれたリズムとは、人の良さに伴うものだ」(400E p.239)

「そういうことがあるからこそ、音楽・文芸による教育は、決定的に重要なのではないか。なぜならば、リズムと調べというものは、何にもまして魂の内奥へと深くしみこんで行き、何にもまして力づよく魂をつかむものなのであって、人が正しく育てられる場合には、気品ある優美さをもたらしてその人を気品ある人間に形づくり、そうでない場合には反対の人間にするのだから。
そしてまた、そこでしかるべき正しい教育を与えられた者は、欠陥のあるもの、美しく作られていないものや自然において美しく生じていないものを最も鋭敏に感知して、かくてそれを正当に嫌悪しつつ、美しいものをこそ誉め讃え、それを歓びそれを魂の中へ迎え入れながら、それら美しいものから糧を得て育くまれ、みずから美しくすぐれた人となるだろうし、他方、醜いものは正当にこれを非難し、憎むだろうから」
(401D-E p.242)

言っていることは『史記』楽書と似て見えますが、音楽は心から出るものだ、との発想は、プラトンさんにはありません。引用しなかった部分に、実に細かい、旋法やリズム(詩の韻)の区分が入り込んでいて、しかもそうした旋法やリズムは、人の心がどうであるかとはまったく別に、いわば先験的に存在しているものだと見なされているかのようです(まさにイデア論ですね)。
プラトンさんにとって、音楽は人の心から出るものではなく、人以前に存在する、あるもの、なのであって、それが(自然の一員である)人にとって規範的だったり非道だったりするので、結果的に人の心にも(だから、プラトンさんはそうは思っていないのですが、アニミズムに戻っている現代の価値観からすると、人でないものの心にも・・・モノにも心があるのだとすれば!)強く働きかかる、と見ているのです。(モーツァルトを聴かせたお酒は美味くなる、みたいに!)
別の箇所で
「音階の調和をかたちづくる高音・低音・中音の三つの音」(第4巻17、443D p.367-8)
という言いかたをしていることにも気をつけておかなければなりません。

東西の違い、なんとなく分かってもらえましたか?


さて、あなたにとって音楽は、心から生まれ出て来たものだったでしょうか。それとも、天から舞い降りて来て心をとらえたものだったでしょうか。
日本民族は『古今和歌集』仮名序の「ひとのこころをたねとして」のほうかな。
いずれにせよ、聴覚は触覚に近いだけに、直接に人の感性を動かすのが音楽だ、ということは出来るのかな、と、私は思います。
それが人の内から出るとなると、内蔵感覚的ですね。外からならば理念的です。日本の能なんかは、謡も舞も内蔵感覚的ですね。
で、日本の中世の世阿弥さんの言葉なんかも紹介したいのですけれど、主旨からズレるので、当面、東洋の方には以後触れません。

ただ、「音楽って何?」について、いいだしっぺの古代人たちの東西での着眼点の違いが、その後のそれぞれのエリアの音楽の展開の道筋、とくに大通りを、(太い交流が生まれるまでのあいだ)別々に方向づけた点は、意識しておいてもいいかな、と思います。
とりあえず、西洋は理念的、というところは、これからまたいろいろ見て行くときには鍵になるかもしれません。そういう話も先にはするかしれませんし、しないかもしれません(笑)。

またまた、だいぶ長くなりました。
今回は音がなくてすみません。

この次は、非力ながら、「なぜ演奏会をやるの?」を考えたいと思います。
(まだ考え中です。)

|

« 【読書・鑑賞案内】ヴィヴァルディ『四季』雑談続き/バートン編『バロック音楽』 | トップページ | 【読書・鑑賞案内】なぜ演奏会をやるの?:『メディチ家の祝祭』&『オーケストラは未来を作る』 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 【読書・鑑賞案内】音楽とは何か〜本:上尾信也(あがりおしんや)『音楽のヨーロッパ史』:

« 【読書・鑑賞案内】ヴィヴァルディ『四季』雑談続き/バートン編『バロック音楽』 | トップページ | 【読書・鑑賞案内】なぜ演奏会をやるの?:『メディチ家の祝祭』&『オーケストラは未来を作る』 »