« 2017年10月 | トップページ | 2018年2月 »

2018年1月

2018年1月27日 (土)

【読書・鑑賞案内】デュファイ ミサ “Se la face ay pale (私の顔が蒼いのは)”

バロックの宗教曲のCDは、聴いてみてもらえましたか?

その最古のものより150年くらい古い、はるかにはっきり「線の積み重ね」になっている、ルネサンス期のミサ曲を、今日は耳にしてもらおうと思います。

Cdimage ルネサンス、という言葉は、気をつけて使われ、読まれるべきものかも知れません。
「暗黒の中世」のあとに訪れた「人間復興」の時代だ、という以前の読みかたは誤りである、と、近年はずいぶん明らかにされていますし、そもそもルネサンスという時代区分はなくてもいいものだ、と見なされるようにもなっています。
それでも、前に紹介した金澤正剛『中世音楽の精神史』を読んだ後だったら、西欧音楽においては、「古代」に対する「中世」、「中世」に対する、しかし近世近代のようなものに先立つ、何らかの目安としての「ルネサンス」と呼んでも良い画期があることを認めてもよい気になるでしょう(*1)。

14〜15世紀になると、西欧は庶民の音楽までを書きとめられる記譜技術を獲得しましたし、そのことで、名前の残る音楽家が、教会の枠を超えて、人々に歌を提供するようにもなったのでした。
ギョーム・デュファイ(c.1400-1474)は、そんな音楽の傾向の集大成を体現したとして名高い人です。

ご紹介する『ミサ曲「私の顔が蒼いのは」』は、集大成具合がはっきり分かる、面白い作品です。

4声で歌われるもので、現代風に直された楽譜は、ソプラノ、アルト(テノール1)、テノール(2)、バリトンと記されています。オリジナルもそうなのかどうかは、残念ながら浅学な私には分かりません。

まずは、17世紀からの、バロックと括られる音楽たちに比べて、線の音楽としての特徴がしっかり出ているところに耳を傾けてもらいたいのですが、その前に楽譜を見てみましょう。

全体の楽譜はネットにあります。
http://hz.imslp.info/files/imglnks/usimg/0/01/IMSLP273024-PMLP259472-IMSLP134922-WIMA.796a-06-01.pdf

小さくてすみませんが、この中から「キリエ」の楽譜を載せます。

Kyriedufay_3  

この楽譜の、テノール(上から3番目)のメロディを、次の楽譜と比べてみて下さい。

Selaface

「キリエ」のほうで2倍に引き延ばされているのに気付けば、同じメロディであることが分かります。

このメロディ、ミサ曲の作者デュファイが、以前作ったシャンソンなのです。
このシャンソンの最初の歌詞が「私の顔が蒼いのは Se la face ay pale 」で、このメロディが「キリエ」だけでなく、ミサ曲のすべての章のテノールで使われているために、このミサ曲もまた ”Se la face ay pale” の名で呼ばれています。
聖なる音楽を形作るのに、大切な素材として、世俗的なシャンソンのメロディを使っているわけです。

なぜ、こんな作り方をしたのでしょうね?

・・・まあ、難しいことは、ぜひ後日、説明してある文章をネットや図書館で探して、調べてみて下さい。調べることを楽しめるかどうか、が、このあたりの音楽を好きになれるかどうかの分かれ道かも知れませんが・・・私はまだあんまり調べてません!

さて、まずは、シャンソンそのものもYouTubeに上がっていますので、お聴き下さい。

このシャンソンの、ソプラノの方ではなく、テノールの方が、先に上げた楽譜です。


この、テノールのメロディが、ミサ曲の各章に現われます。
どう現われるようにするのか、デュファイが指示を書いています。それをCDの解説から抜き出します。(*2)

「(歌い方について原譜に記された指示句Canonは)キリエ、サンクトゥス、アニュス・デイでは<テノールは2倍に拡大せよ Tenor crescit in duplo >、グロリアとクレドでは<テノールは3回歌え、1回目はどの音符も3倍に拡大せよ、2回目は2倍に、3回目はそのままで歌え。 Tenor ter dicitur. Primo quaelibet figura crescit in triplo, secundo in duplo, tertio utjacet.>となっている。」
(アルファベットで記した方の言語は、ラテン語ですね。)
先の「キリエ」は、デュファイのこの指示により、テノールは元のシャンソンの2倍に引き延ばされているわけです。それが、こう聞こえる。(楽譜を順次表示するものを埋め込んでおきます。)

その他の章も、どうぞ楽譜を見て、実際に聴いて、確かめて下さいね。

ルネサンス期の音楽作品には、こうした算術的な工夫が数多く見られます。そしてそれは、大抵の場合、聴いただけでは分かりません。
むしろ、歌うことに参加した人たちの方が、「お、ここにシャンソンの節が使われてる!」とハッキリ分かって、嬉しかったり面白かったりしたものと思います。

理詰めで作って聴き手を悩ませることが、ではなく、歌うことに参加する人の歓びや愉しみに、デュファイやその前後の音楽家の、ほんとうのねらいがあったのではないかなあ、と、私には感じられてなりません。

実際には、「私の顔が蒼いのは」のメロディが現われない部分もありますし、現われるところは上のシャンソンの方の楽譜に振られたA,B,Cからどれかが使われているのですが、いまは「シャンソンの節が使われている」ことを知ってもらえればいいので、これ以上詳しくは述べません(楽譜を読み取れば分かるでしょうし、CD等に解説もあります)。

ミサ曲の各章のことばについては、皆川達夫『バロック音楽』にも載っていたかと思います(この前記事を書いた後、貸し出してしまったので、いま確かめられません)。できればそれを参照してみて下さいね。ミサ曲を聴き比べるのは、言葉が共通で使われているために比べやすい、という大きなメリットがあります。

元のシャンソン、デュファイ以外の人たちがそれをアレンジしたもの(オルガン2曲、管楽アンサンブル1曲)と併せてミサ全曲を聴けるのが、次のCDです。このミサ曲のCDはいろいろ出ているのですが、これをいちばんにお勧めします。

デイヴィッド・マンロウ指揮 ロンドン古楽コンソート
1973年3月録音
ERATO WARNER CLASSICS WPCS-16258

https://www.amazon.co.jp/dp/B01LBJYZ3G/
http://tower.jp/item/4347222/
(どちらのリンクでも、各章の最初の部分を試聴できます。)

マンロウは若くして不幸な死をとげ、非常に惜しまれた天才でした。西欧の古い音楽に興味を持ち始めたとき、いまでも真っ先に聴かれるべき録音をいくつも残してくれています。

・・・次回は、できれば、ここ半世紀くらいの、とくにバロック音楽の演奏スタイルの変化について味わってみてもらえればと思っています。

*1:澤井繁男『ルネサンス再入門 複数形の文化』のご一読をお勧めします。
*2:文中で勧めるマンロウの演奏ではなく、テルツ少年合唱団による1964年の録音のLP/CDについた解説(今谷和徳)に記されています(CDはdeutsche harmonia mundi BVCD38007)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月20日 (土)

【読書・鑑賞案内】「ルネサンス宗教曲集」ウェストミンスター大聖堂聖歌隊

Miserere_2 さて、中世〜バロックの音楽作品から、いくつかご紹介して行きたいと思います。

皆川さんの『バロック音楽』には、それまでの音楽が、18世紀以降の和声主体の音楽とは違って、旋律(というより線)主体であったことを示す模式図がありました(p.58をもう一度めくって下さいね)。

ほんとうにそうなのか、耳で確かめるには、中世〜バロック期の作品をまとめて聴けると効率がいいんじゃないかな、と思いました。
が、世の中に出回っている「バロック音楽名曲集」の類いだと、みんなに知られ過ぎている曲ばかりが多くて、初めてではない人には刺激が少ないんですよね。
じゃあ、ちょっとは刺激になるものを、と探すと、どうしても個別の作者や楽派や、狭い時期のものばかりになってしまいます。

どうしようかな、と悩んでいたら、これを見つけました。

『アレグリ:ミゼレーレ/ルネサンス宗教曲集』
(ウェストミンスター大聖堂聖歌隊 DECCA PROC-1352  1,200円+消費税)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00RWA9BQU/
http://tower.jp/item/3326225/

価格も安く、収録曲の作曲者が幅広い。作曲者と曲名(日本語訳、CD通り)を列挙しますと、

パレストリーナ     (1525頃〜1594)
   「神に歓喜せよ」・「罪を犯す我」・「汝はペテロなり」
ヴィクトリア      (1548〜1611)
   「十字架につけられ」
ジョヴァンニ・ガブリエリ(1557〜1612)
   「シオンよ、賛えよ」
モンテヴェルディ    (1567〜1643)
   「おんみを崇めん、キリストよ」・「主に向かいて新しき歌を歌え」
アレグリ        (1582〜1652)
   「ミゼレーレ(我を憐れみたまえ)」
カヴァッリ       (1602〜1676)
   「サルヴェ・レジーナ」・・・なんでこれだけ日本語訳じゃないんだ?(笑)
    対訳では「ようこそ女王」となっています。
    ごきげんよう聖母マリア様、というニュアンスです。
ロッティ        (1667〜1740)
   「神に歓呼せよ」

タイトルには「ルネサンス」とあるのですけれど、実はルネサンス末期からバロックほぼ全時期の、イタリアの重要作曲家(ヴィクトリアはスペインですけれど)を網羅しています。
(ルネサンスとされる時期の作品は次回ご紹介します。)

宗教曲を聴く便利さは、言葉と音楽の関係に耳を傾けたいとき、ラテン語を知ってさえいれば済むところにあります。・・・でもラテン語って難しい!
このCDなら、日本での発行なので、歌詞対訳がついています。
まずは、ラテン語の雰囲気だけでも味わって下さればよいです。・・・これ、たとえばフランス語のバロックのシャンソンとかだと、ずいぶん雰囲気が違うのです。

でも、まずは、収録された曲の作られた、ほぼ200年の幅の中で、音楽がどう変わって行ったか・・・カトリックの式典用のものに限られてはいますが・・・、耳ではっきり確かめ、新鮮に感じてもらえれば、嬉しいです。

すべて、イタリアバロックの重要作曲家ですが・・・
二人だけはこの機会にぜひ名前を覚えて下さい。
パレストリーナと、モンテヴェルディです。

ルネッサンス最末期とされるパレストリーナですが、初めて聴くと、音楽の線がとてもすっきりしていて、言葉がわかりやすく聞こえるのに驚きます。でも、「和声の音楽」ではないところが、パレストリーナの名匠たるゆえんです。

パレストリーナに関係しては、次のような伝説があります(史実ではありません)。
強硬な聖職者たちから、複雑なポリフォニー音楽はたいへん分かりにくい、それでは意味がないから、今後一切教会から追放すべきだ、聖歌はひとつのメロディーだけでシンプルに歌われるべきだ、との意見が出されました。音楽好きの枢機卿たちはこの意見に困ってしまって、パレストリーナに「なんとかならないか」と頼み込みました。パレストリーナは粉骨砕身、ひとつのミサ曲を作り上げ、提出しました。その演奏を聴いた強硬派は、ポリフォニーであっても分かりやすく、しかも深い信仰心を呼び起こす、立派な作品が出来るものなのだ、と、以後は納得したそうな。

収録作品のうちの、「汝はペテロなり」は、次のリンクでYouTubeで聞くことが出来ます(演奏者は違います)ので、興味があったらクリックしてみて下さい。聴くときに、最初の方で、Tu es Petrus(トゥ エス ペトルス)という言葉がどれだけはっきり聞こえるかに、ぜひ耳を傾けて頂ければと思います。
tu=You
es=are
だと思って下されば、意味も分かりますよね。

https://youtu.be/H69CQqh6d5A

モンテヴェルディはバロックの最初の花を咲かせた人と言っても良いと思います。オペラに名作を残しただけあって(「オルフェオ」・「ウリッセの帰還」・「ポッペーアの戴冠」)、本CDに収められた掌編も、たいへんにドラマチックです。
モンテヴェルディは可能ならまた別にとりあげてご紹介したいと思っています。

今回はこれ以上細かいことは言いませんので、まず触れてみて下さったら嬉しいです。

収録されている中で、いちばん有名なのは、アレグリの「ミゼレーレ」です。
なぜ有名なのかと言いますと、まず、この曲はヴァチカンの門外不出の秘曲だったことによります。そして、この秘曲を、1770年にローマを訪れた14歳のモーツァルトが、一度聴いただけで完全に楽譜に書き取ってしまった、と騒がれた事件があったためです。実際に聴いてもらえればわかるとおり、この作品、一度聴いて暗記するなんて、私たちにはおよそ不可能なものです! いや、イタリアに行ったモーツァルトが指導を乞うたマルティーニ師から、あらかじめ密かに教わったんだ、とかいう話もどこかにあった気がしますが、どうだったのでしょうね。

次回、ルネサンスの作品をひとつ使って、線の音楽の面白さを、少しだけ具体的に見て頂ければと思っております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月15日 (月)

(ルーナ・キアーラ オペラ公演)プッチーニ三部作

Trittico_2 昨日(2018年1月14日)、誘われて、日暮里サニーホールへプッチーニ三部作の公演を観劇に伺いました。

喜劇の『ジャンニ・スキッキ』以外は、プッチーニならではの、どろどろの悲劇で、プッチーニ苦手な私は
「席についたらずっと目をつぶってるぞ」
と心に決めていたのでしたが・・・
ホールに入って、まあそうだろうとは予想していたものの、シンプルな舞台装置に思いがけず惹かれました。
上手に縄一本の洗濯干し場、下手に背もたれのないベンチ、そして手前にささやかな花壇がしつらえてあって、奥は三段ばかりの簡素なひな壇・・・客席が暗転してからは、このシンプルな装置で、あのどろどろ劇がどう演じられるのか、夢中で見ることになりました。
最初はこの装置で『外套』。
次に物干し場が消え、中央に十字架が浮き上がり、花が増えて『修道女アンジェリカ』。
最後が手前にベッド(ご存知の死体が横たわる)、奥中央に祭壇で『ジャンニ・スキッキ』。
最初の二つは、お芝居としてはインパクトが全般に薄かったけれど、装置が活きる良い演出でした。『ジャンニ・スキッキ』ご出演のかたたちが、演技はいちばんこなれていて、プッチーニ唯一のドタバタ喜劇を見事に演じていらっしゃいました。

主役級をなさった方々は専門家さんでしたが、ご出演の皆さんのプロフィールを見て驚いたのは、この公演をまとめた古河範子さん(『外套』と『アンジェリカ』でプリマドンナもなさいました)が立ち上げた団体「ルーナ・キアーラ」や、指揮をなさった澤木和彦さんのもとで、おそらくはプライヴェートに声楽を勉強なさっている、これまたおそらくは非専門の人たちが出演者の半分弱を占めていらして、しかも皆さんたいへん堂々とした歌いぶりだったことです。

出演者が40+2(指揮者とピアノのかた)名、それにスタッフさん(10人前後?)での運営なのでしょうね。おそらくは限られた予算のなかで、皆さんで力を合わせて作り上げた舞台、500名程度収容のホールを8割は埋めた集客は見事でしたが、1日きりの公演なのがもったいないなあ、仕方ないことなのかなあ、と思いながら時を過ごすこととなりました。

オペラは外国語で上演されるハンデもあり、いわゆる定小屋もなく、上演意欲があっても、この2つが主な理由で、継続上演は難しいものなのかも知れません。
伴奏もピアノ1台。今回の上演でのピアノはたいへんにダイナミックで技術も素晴らしかったのですけれど、せめてこれに弦楽五重奏くらいが加わったら、それだけで彩りが増すだろうになあ、とも思いました。ただしプッチーニの三部作は元のオーケストレーションが基本の二管編成にトロンボーンはバスまで含め4本、5種類の打楽器にハープ他5種の特殊楽器。これをピアノと弦楽五重奏にアレンジするのは至難の業です。

ひとつには、大編成ではない、たとえば『アルルの女』が舞台で演じられたときのビゼーがとった編成くらい(*)が、オーケストラとはいわないまでも、バンドで入るようだったら、音響面での舞台装置が出来るようにも思うのです。ますはそういう小編成で済む作品が、近代以降のものにはない。せめて歌舞伎のような題材でないとお客の関心も引きにくいでしょうから、これがまずネックかな。

そしてもうひとつには言葉。聴くときに耳を惹き付けて離さない響きを、となると、やはり翻訳ではダメだと思うのです。ベアトリ姐ちゃん(*)では続かない。

なにか、オペラも連続興行としてやれる背景作りというものを、作曲家さんでも舞台屋さん(変な言いかた!)でも、やってみられるくらいの面白い人が出て来ないかしら。。。

・・・と、拝聴しつつ頭を駆け巡った夢想はひたすら脱線方向に走ったのでした。

そうだ、私は後ろの方の席にいたのでしたが、右前方に映写されていた字幕が、殆ど読み取れませんでした。4行ずつにまとめられていて、ああ、とても気を使って作り上げたのだなあ、と思いはしたのでしたが、2行くらいの大きな字にして下さったら嬉しかったかも知れません。でも制作のお手間とコストがかなり大きくなるかもなあ。

なんかなんか、いろいろいろいろ胸が膨らんでしまったので、駄弁が長くなりました。

各作品で心に残った歌手の皆さん。
『外套』〜ミケーレをなさったイタリア人のカリオラ・グイードさんは、イタリア人ってやっぱりイタリアンよね、を存分に味合わせてくれました。親方を歌った横山広泰さん、最後は凄みが利いていました。
『修道女アンジェリカ』〜公爵夫人をなさった高橋未来子(みきこ)さん、立ち居振る舞いも歌も堂々となさっていて、あとでロビーで「あの人ホントは若いのよ」「えぇ? そうなの?」と喋り合ってるおばちゃんたちがいたのが愉快でした。
『ジャンニ・スキッキ』は、まずシモーネの藤原啓さんが「老人になった(水戸黄門の家来の)格さん」みたいで好きでした(どういう喩え?)。女性陣も素晴らしかったですが、ツィータをなさった米谷朋子さんの活動的な歌と動きがとりわけ印象深く思いました。
ジャンニ・スキッキをなさった別府真也さんの貫禄が圧倒的でした。
どういうかたなんだろう、と、帰宅してから思わず調べてしまいました。
こちらでページを作られていました。

https://beppushinya.jimdo.com/

ご活躍が楽しみなかたのおひとりになりました。

私が印象に残ったかたは他にも何人もいらっしゃるのですが、ますます駄弁が尽きなくなりますので、これくらいにします。

ご出演・一緒に舞台を作られた皆様が、これからますます豊かな活動を繰り広げて下さることを祈念しております。

*ドーデの戯曲『アルルの女』の舞台音楽でビゼーのとった編成は、フルート1、オーボエ1、クラリネット1、サキソフォーン1、ファゴット1、ホルン1、トランペット1、トロンボーン1、ティンパニ、打楽器持ち替え、弦五部にハープ。最小人数で16人だから・・・ちょっと人数が多いかなあ。

*ベアトリ姐ちゃん関連
https://youtu.be/jJwc2pWOn9w (日本語)
https://youtu.be/uIcpDyqPQgQ  (ドイツ語)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月13日 (土)

【読書・鑑賞案内】金澤正剛『中世音楽の精神史』

さて、この前言ったような共通常識喪失も、決して悪いことではなくて、以前はどちらかというと「権威に右習え」だった近代日本人にとっては、「ものを自分なりに見る」必要に誰もが迫られる絶好の機縁が訪れた、と捉えることも出来るのです。
その機縁を活かすことが、しかし私たちにとっては、なかなか困難です。
また歴史の本を引き合いにすると、網羅的な通史に前ほどお目にかからなくなり、細かく分れた主題や話題を掘り下げたものが増え、主題がどんな空間・時間のひろがりのなかに位置するのか、を見極めにくくなりました。
そうした中、著作物は、掘り下げることと、その外にあるひろがりを読者に予兆することとの狭間で、格闘を繰り広げながら書かれることになります。

そのあたりを念頭に置きながら、引き続き、中世ヨーロッパ音楽にまで視野を広げたいときのお薦め本をご紹介します。

Kanazawa 金澤正剛(まさかた)さんの『中世音楽の精神史----グレゴリオ聖歌からルネサンス音楽へ』(河出文庫 1,100円+消費税、はじめ講談社選書メチエで1998年刊)は、こんな格闘の、とても良心的な成果です。ちなみに金澤さんは皆川さんに次ぐヨーロッパ古楽史の泰斗、1934年のお生まれとのことですから、御年84歳。皆川さんと並んで元気でご活躍なのが幸いです。

https://www.amazon.co.jp/dp/4309413528/

金澤さんの『中世音楽の精神史』は掘り下げが深くなっていて、先に採り上げた皆川達夫さん『バロック音楽』に比べると読むのが難しい本です。皆川さんによる『中世・ルネサンスの音楽』が平明なので、そちらに目を通してから金澤さんのご本を手にとるのが良いかも知れません。まず皆川さんのご本を紹介してもいいのですが、前回紹介した『バロック音楽』が面白ければ自ずと手を伸ばすことになるでしょうから、あえて触れません。

金澤さん『中世音楽の精神史』は、難しさを乗り越えて読むなら、たいへん面白い読み物です。

目次を見てみましょう。

プロローグ
第1章 中世の音楽教育
第2章 ボエティウスの音楽論と中世知識人たち
第3章 オルガヌムの歴史
第4章 ノートルダム楽派のポリフォニー
第5章 アルス・アンティカの歴史的位置
第6章 アルス・ノヴァとトレチェント
エピローグ

見ただけで、馴染みの薄い用語の連続ですね。
例によって、その意味などは、やはり中身をご覧になって感得してもらえたら嬉しいです。
まずは、内容の難しさを理解しようとして頓挫するより、分からないままの斜め読みをお勧めします。

以下、ページ番号は河出文庫版のものです。

本当は、第4章に登場するノートルダム楽派の音楽を耳にしたうえだと面白さが増すのですが、本書を読んだ後で、いつか聴いてみて下さっても良いでしょう。
この楽派の音楽を(いまの作曲という考え方とは違うのですが)作り上げたレオニヌスやペロティヌスが、さすがに顔や性格までとはいかないけれど、どんな社会的役割を果たして生きていた人だったか、を活き活きと推測しているあたり、まずは音楽史の範疇を超えて楽しめます。

音楽そのものの関心からは、適切な分量の譜例で、現代譜のガイドによって、中世の音符たちそのものの読みかたを知り得ることが、素人の私たちにとって非常に大きい意義をもっているものと感じます。

また、第2章で、中世の大切な音楽観であるムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)、ムジカ・フマーナ(人間の音楽)、ムジカ・インストゥルメンターリス(器具の音楽)について、中世最大の音楽理論家ボエティウスおよびランベルドゥスの述べているところそのもので説明を記してある(p.57-58、p.81-85)のも有り難いことです。ボエティウスはムジカ・ムンダーナとムジカ・フマーナについては実はほとんど何も述べていないに等しい、との事実には、卒倒しました。
いずれにせよ、中世の音楽観は、
「『ムジカ』に関して重要なことは、根本的に数の関係上に成り立った『調和』であるということに尽きる。そのような『調和』が存在するならば、それが未だ鳴り響く状態ではなくとも、すでしそれは『ムジカ』なのである。」(p.84)
との文に明解に要約されているとおりかと思います。

これについては、古代ローマの思想家で、ルネサンス期の文学者たちに大きな影響を与えることになったキケロ(キケロー)が、著作中の人物に仮託して語ったことばが思い起こされます。長くなりますが、翻訳を引用します。
「【天から聞こえる甘美な音は、恒星の貼り付いた天球や惑星たちの軌道の】互いに不同の、しかし一定の比率で規則的に分けられた間隔によって区切られ、いくつもの環自体の衝撃と運動によって作られる音だ。それは高い音と低い音をほどよく混ぜ合わせて、一様にさまざまな和音を作り出している。(中略)学者はこれを弦や歌曲において描写することにより、この【天国、天界なる】場所へ彼らの帰還の道を開いた(中略)が、人間の耳はこの音によって満たされて、聞くことが出来なくなった。」(『スキーピオーの夢』18〜19、キケロー選集8 p.166の岡道男訳を、山下太郎『ラテン語を読む(キケロー『スキーピオーの夢』)』を参照しつつ補正した。【】は文意の補足。)
古代ローマからつながってくる中世の音楽観では、音の高さと天体が対応関係にあると考えられていた、その理由が、はっきり窺われます。

なお、本書を読むにあたって、古代ギリシャ音楽理論と中世ヨーロッパ音楽理論との歴史的関係をつかむためには、知っておいてもよい背景がいくつかあります。補足として記しておきます。このまま読んでも訳が分からないかも知れません。本文を読んで「おやっ?」と思ったら、思い返してみて下さい。

【アリストテレス思想があとから導入されたわけ】
第5章まで読み進みますと、p.185に「アリストテレス思想の導入」の小見出しが出て来て、ビックリするかも知れません。
ヨーロッパの音楽は、古代ギリシャから中世フランス(アヴィニヨン教皇庁時代)まで、必ずしも一直線につながって来たものではありません。ギリシャの音楽理論は古代ローマ世界を経由して中世西欧に入ったものです。
以下、極めて大雑把に言えば、古代ローマに受け入れられていたギリシャ哲学はプラトンの系譜を継ぐもの、また地域に根付いていたピュタゴラス派の影響の色濃いもので、これが音楽理論の背景となりました。
先述のキケロの書簡などを通じてみれば分かりますが、古代ローマ時代のギリシャ世界は、南方はローマへとつながっていました。このギリシャ南方世界で繰り広げられていた哲学が、プラトン系のものでした。
北方はそれに敵対する内陸東部との繋がりが濃く、アリストテレス系の哲学はそちらに進路を求めたのでしょう、ローマには入らず、アラブ世界で大事にされたのでした。アリストテレス哲学は、そんな事情から、西欧へは逆輸入されることになったのです。

【アリストテレス思想の導入による音楽観の変化とは】
ところで、アリストテレス思想の導入で音楽観がどう変わったか、は、本書ではよく分かりません。私には本書の記述からの推測しか出来ないのですが、おそらくその最大のものは、量の明確化指向ではなかったかと思います。
「軽いものは重いものよりゆっくり落ちる」としていたアリストテレスに対し、ガリレオ・ガリレイが「重いものも軽いものも落下速度は同じ」を証明して悪口をいったとかで、こんにちアリストテレスの旗色は一般的にたいへん悪いままなのですが、彼の思想は師匠のプラトンの「頭の中で考える」を重視する傾向に対し、実際の観察を通じた合理性で一線を画した(これまた大雑把過ぎる言いかたなのはお許し下さい)のでした。中世音楽がルネサンスに移行する直前に「音楽教育の熱心な地域においては、理論よりも実践を重要と考える音楽家たちを生み出す基礎が固められつつあった」(p.278)ことも、アリストテレス思想導入の反映だったかも知れません。なによりも、アルス・ノヴァ(フランス)とトレチェント(イタリア)の違い(第6章)、すなわち、アルス・ノヴァでは音の長さに対する考え方が厳密で複雑になった・・・長い音を短く分けるとき、三つに分けるのか(完全分割)二つに分けるのか(不完全分割)、と発想されたもので、後代には不完全分割の方が生き残って「二分音符」だの「四分音符」だのと言われるに至ったのです・・・のに対し、アリストテレスなんか気にしなかっただろうイタリア側のトレチェントでは「長いと短いがあればいい、あとは好きに飾るのさ」式だった、この差に音楽観の新旧を読み取れるのではないかと思います。間違っている可能性が高いので、お気づきのときはどうぞご指摘・ご教示下さい。

【ピュタゴラスが協和音の発見者だとされていることについて】
実は、ほぼ間違いなくピュタゴラスその人の思想だ、と思われる古代の記述の中には、本書第2章(p.60以下参照)で述べられているような、ピュタゴラスが協和音を発見したという話は、私が家捜しした限りではまったく見当たりません。ピュタゴラスが発見した、とされる背景には、おそらく確かにそれがピュタゴラス派の伝承があったのだろう、とは思います。しかし確証がありません。
古代ローマに流入したプラトン派の哲学は、地域的にピュタゴラス派と密接な関係がありました。そしてそのピュタゴラス派は、「オルフェウス教」と密接な繋がりをもっていました(白水社から出ている文庫クセジュの中に『オルフェウス教』という本もありますから、興味があったら読んでみて下さい)。オルフェウスは、言うまでもなくギリシャ神話最高の音楽家です。たぶんそのあたりが起源ではなかろうかと思っています。

内容がだいぶ面倒くさくなったので、次回はCDで実際の音楽作品を鑑賞するご案内を致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 6日 (土)

【読書・鑑賞案内】皆川達夫『バロック音楽』

Minagawabaroque私が子供だった昭和40年代(西暦の1965〜1975年くらい)あたりから、日本史や世界史を何巻にもわたって網羅する本が、たくさん出版されました。太平洋戦争・第二次世界大戦の敗北を経て、旧来の価値観を捨てることを余儀なくされることと引き換えに、それまで神代に始まるとされていた日本史観から人々が解放されたこと、その後も近隣の国々で変わらず続いていた戦争状態がだんだんと収束に向かい、先に戦争状態から逃れていた日本人が少しは外国を冷静に見る目が育ち始めたこと、などが、その背景にはあったのかも知れません。

同時に、いろいろな分野について、1冊の文庫や新書で、易しくも網羅的に解説した入門書が、新しい常識を引っさげて、いろいろ登場しました。哲学の概説書も含め、経済学や心理学関係、盛んに言われ出した情報処理に関するもの(パソコンがありませんでしたから、紙のカードを活用しなさい、というものでした)が多かったかと思いますが、『象形文字入門』(エジプトのヒエログリフの由来や読みかたを広く浅く紹介したもの)だの『楔形文字入門』だの(こちらは単独言語の文字ではないために読みかたの入門とまではいきませんでした)もありましたし、ギリシア悲劇の慷概を紹介したものや、ダンテの『神曲』、ボッカチォの『デカメロン』に平易な散文訳を施したものなど、歴史・文学方面でも手軽で面白いものが結構ありました。

そうした著作物の刺激もあったのかなかったのか、その後は専門性の高い内容のものが次第に増え、ついに素人が深いところへ立ち入れる入口を提供してくれるまでになってきました。
そうなると、こんどは、以前のような、網羅的な「常識」を手軽に教えてくれる本は、新刊では、あまり見かけなくなりました。入門書段階で深いところにまで触れるのがあたりまえになった結果、誰もに共通する、網羅的な「常識」なるものが、幻になってしまったかのようです。

今では『デカメロン』は全文訳が河出文庫になっており、『神曲』はやはり河出文庫に新しい訳がある上に、講談社学術文庫でさらなる新訳が進んでいて、概説書ではなく原作そのものの訳文で触れるのが普通になりました。関連図版を豊富に差し挟むなど、面白く読めるようにはしてあるのですが・・・河出文庫の『神曲』ならウィリアム・ブレイクの版画が盛りだくさんです、ブレイクをご存知ですか?・・・、その分、しかし、敷居も高くなりました。

こんな環境下、網羅的な入門書を見つけようと実際に手にとると、最近出されたものにも面白いものはありますけれど、私の主観で「これならいいかな」と感じさせてもらえるのは、主に昭和40年代に出ていたものの復刊です。例えば、先ほど上げた『象形文字入門』・『楔形文字入門』共に、子供の頃の私の好奇心を駆り立ててくれた良い本でしたが、現在は講談社学術文庫で復刊されています。最初の代表的な多数巻編成だった中央公論社『日本の歴史』は、最近になってもまだ、中央公論新社により文庫本のかたちで何度も復刊されていて、現在ではその内容がもはや決して最新の成果でも歴史観でもなくなっているにも関わらず、いまなお歴史好きなかたたちの心を掴んで離しません。述べるところが本当にまだ有効かどうか、は一旦措くと、これらの本からは、昭和期後半の「共通常識」が、強い芳香を放って読者に迫ってくるのです。

無駄な前置きが長くなってしまいましたが、やっと本題に入ります。
(ホントは、こんな前置きなどしないで、まずは気軽に読んでみて、と言うつもりだったのですが・・・学生さんなら、まあ、考えつつ手にとって下さるほうが先々いいんじゃないかな。)

初回としてご紹介する、皆川達夫『バロック音楽』もまた、講談社現代新書で1972年(昭和47年)に出版されたものでした。私は、出たての頃に新書で読みました。今読めるのは、2006年、講談社学術文庫で復刊されたものです(1,150円+消費税)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4061597523/

この『バロック音楽』という本の性質を捉えていただく上で、ここまでおしゃべりしたような時代背景も知っていて下さるといいかな、と思っています。皆川さん(ご長寿で現在なご活躍中です)による本書の網羅性には、やはり、書かれたその時期が強く反映されていますし、再び復刊して読まれる意義は、共通常識が失われた今、なる時代を抜きにして考えるわけにはいかない、と、私は思います。

とはいえ、以下の紹介を綴るにあたって、それを念頭に置いて下さるか、下さらないか、は、お委せします。他の本も手にとってみて下さることを通じて、上のような私の捉え方が正しいか間違っているかまでを、いつか厳しく判定して頂けたら、とても幸せですけれど、まずは、この本の特徴である、易しい網羅性に、是非触れて下さい。

前置きで頭がこんがらがっているなら、いったん忘れて下さいね。

ポイントは、この本から、いちおう誰の胸にも響く「共通常識」が、強い魅力で迫ってくる、ということです。ですので、日本人として、初めて広く「バロック音楽」を理解したいとき、この本がもっとも手軽な、あとあと重宝する知識を与えてくれるだろう、と思います。

本書の構成は次の通りです。

・著者が考える「音楽とは何か」
・ヨーロッパ音楽史概観とバロック音楽の特徴略説
・バロック期の楽器と代表ジャンル(宗教音楽・オペラ)の概説
・イタリア、フランス、イギリス、スペイン、ドイツのバロック音楽紹介
・バッハとヘンデルの紹介と次代への影響概説
・バロック音楽と日本人
・バロック音楽史小辞典
・バロック音楽史年表

各国のバロック音楽の紹介(5〜9章)は、室内楽で多様な作品に触れて来た人には特に、その作品、作曲者の位置づけを、はっきりさせてくれるでしょう。それだけでも大きな意味があります。巻末の小辞典は、小辞典と言うには、かなり小規模ですが、年表と並んで、いつも備忘で目を通す上で、たいへん適切な資料です。

紹介の章や小辞典、年表を通じ、おそらく新鮮な気持ちで目を開かれることになるだろう各々の音楽の位置づけは、前に戻ってヨーロッパ音楽史の概観(1・2)、当時の楽器や主要ジャンルの紹介(3・4)を確認しなおすことで、読む人の心の中で、奥行を増すことでしょう。
それらについて、細かいこと、詳しい内容は、読めば分かることですから、あえて拾い出して述べることはしません。是非、実際に読み通して下さい。

冒頭章の「音楽とは何か」は、必ずしも掘り下げられた記述になっていません。人が「音楽とは何か」をどう考えて来たか、は、追々、別にご紹介します。ここでは皆川さんが「ベートーヴェンだけが音楽じゃない」とお述べになった背景に、本書出版当時は、クラシックと言えばベートーヴェン(1970年が生誕200年だった影響もあったかと感じます)あるいはモーツァルトばかりが聴かれていた日本の事情が影を落としている、とだけ言っておきます。

バロック音楽の特徴を述べている2章のなかで、講談社学術文庫版では55〜58ページに載せてある、小さな楽譜の例、模式図、は、今後いろいろな読書や鑑賞を進める上で、とりあえずいつも念頭に置くようにすると良いと思います。特に58ページ上部に描かれた模式図は、古典派(19世紀)以降に主流を占めるようになった、和声主体の音楽と、それ以前の、旋律主体の音楽と、お互いの違いを、くっきり理解させてくれる道標になります。・・・また混乱させてしまいますが、実はバロック音楽と括られる音楽作品は、それより前の作品に比べて、既に和声の音楽の特徴を色濃く持つようになっているのです。でも、そのことはまず、バロック音楽(17〜18世紀)と古典派以降の音楽の差が、少し体にしみついた後で理解すればよいことです。

結びの「バロック音楽と日本人」章は、カラオケの普及でオンチを自称する日本人が減り、これもやや事情が変わったかと感じます。
ただし、
「いや、わたしはオンチで、音楽はサッパリ……」
と答えていた人たちが、
「いや、カラオケなら歌えるけど、難しい音楽はイヤで……」
のように答えかたを変えただけで、皆川さんのおっしゃる
「いつまでも観念が先行してしまって、音楽を心でとらえ、音楽を音楽として享受するにいたっていない」
事情は、まだまだ同じままであるように思います。
この結びの章では、最後に、皆川さんが取り組んで来られた16世紀末以降の日本のキリシタン音楽・江戸期の洋楽の研究の中から、『サカラメンタ提要』、江戸期に長崎出島のオランダ商館で行なわれていた奏楽、の手短かな紹介がされています。こちらについては、詳しい紹介の書籍が別にあります(『洋楽渡来考』、CDとDVDも付いています)ので、興味が湧いたら覗いてみて下さい。

本書でバロック音楽の大枠を知ったら、同じ皆川さんの『中世・ルネサンスの音楽』で、もっと前の音楽にまで視野を広げるのも、とても良いでしょうね。やはり小辞典と年表が巻末にあります。

https://www.amazon.co.jp/dp/4062919370/

大枠を知り、概観を得る、なることよりも、もう少し突っ込んだ姿勢で中世ヨーロッパ音楽に触れられる本があるので、次回はそちらをご紹介するつもりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 4日 (木)

【読書・鑑賞案内】入口として

年末に文教大学室内合奏団の皆様とご一緒させて頂き、新鮮で楽しい思いをさせて頂きました。
この団体は、日本で最も早い時期にヴィオラ・ダ・ガンバ演奏に取り組まれ、武蔵野音楽大学の楽器博物館に深く関わっていらした菊地俊一先生の一貫したご指導のもと、バロック以前の音楽から近年の合奏教育用の弦楽アンサンブル曲を豊富に採り上げ続けています。
もともと教員をめざす学生さんたちによって創設された経緯もあるのでしょうか、学生になって初めてヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ・コントラバスに接したかたも多く、皆さんどんな気持ちや考え方で合奏に加わっているのか、私には理解してあげられたことが少ないかもしれません。しかしながら先日は、採り上げているプログラムは決して「初心者向け」ではない、という点は、学生さんによく分かって頂き、かつ、誇りにしてもらえればいいなあ、と、強く感じながら共演していました。

学生オーケストラも、その延長としてのアマチュアオーケストラも激増している昨今、19世紀から20世紀中葉にかけての管弦楽作品は難度の高いものまでがアマチュアに演奏されるようになった一方で、バロック以前、ハイドンやモーツァルト以前の音楽は「古楽」として隔てられ、アマチュアの(そして大手プロの)演奏の俎上に乗ることが無くなり、私が十代二十代の頃とはまた別の偏りを示していて、つまらなくなったなあ、と感じることも増えました。
本当は、たとえばストラヴィンスキーの中期後期に興味を持つのであっても、バロック以前の音楽を知っているのと知らないのとでは面白さに雲泥の差があるのですけれど、かなり音楽好きの人でも、そういう興味の広げかたはあまりなさっているようには見えません。

・・・知っている、ということは教養・知識で隅々まで分かっている、ということではなくて、「ああ、そういえば、こんなふうだよね」で充分なのです。けれども、洋楽邦楽を問わず、「掘り下げなければ分かったことにならない」・「知ることとは神聖なことだ」のような意識が、指導なさるかたにも指導される側にも、いまだに根強くあるように感じます。

いま、直接には、ご一緒した文教大学室内合奏団のかたがたの顔を思い浮かべながら綴り始めているのですけれど、上のようなことから、できれば学生さんでも手にとりやすい文庫本を中心とした、音楽史的な読み物や、そこから興味を引かれるであろう作品の録音を、私の視野の狭さからくる限界はありますが、ちょっとずつ紹介したいと考えています。

文教大学室内合奏団が年末に採り上げたジャンルをおおまかに区分すると、
・ルネサンス期(合唱曲?を弦楽合奏で)
・バロック
・近代の教育用弦楽合奏曲
といったところで、古典派期がなかったかたちになります。
最後のものはとくに私は何も知らないので、片手落ちにはなりますが、まずは2番めの「バロック」から、最初の1冊をご紹介するつもりです。

「○○期」という時代区分には時系列を不必要に分断するとの議論も、音楽史に限らず盛んになっています。断層のない理解をすることが、音楽を愛する上では不可欠だと考えている昨今なのですが、それでも過去の書籍が時代区分を採用しているのも分かりやすさの上で大切でもありますので、とにかく出版されているままにご紹介してまいります。
なあんだ、そんな本、とっくに読んだわ、ということも少なくないかと思いますが、「オッサンはこう読んだ」と参考にして頂き、ご自分なりの読みをしていただければと願っております。

では、次回から。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2017年10月 | トップページ | 2018年2月 »