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2017年9月25日 (月)

意味とは何か〜2台ピアノ邦人作品公開録音を聴きながら

「意味とは何か」なる問いかけが、何の意味もなさそうだ、ということは、読んで受けて頂く印象のとおりでしょう。いま別段、こんな問いを哲学的にしようと言う考えでもありません。過日、ピティナ・ピアノ曲事典のための公開録音を拝聴しながら、もくもくと胸に涌き上がって来たのが、この問いだった、というだけです。

ピティナさんが精力的に築いている「ピアノ曲事典」は驚嘆すべき事業ですが、そのライブラリに2台ピアノ邦人作品が加えられることになり、9月20日に浦壁信二さん・大井浩明さんを奏者に迎えての公開録音がなされました。

ピアノのピの字も分からない私が、ご縁でこうした会を傍聴したこと自体、縁の不思議さです。私の生きている日本の同時代作品に接することが出来るようになったことそのものが、もともと、今回の奏者の一方でいらっしゃる大井さんに出会えた不思議なご縁でからでした。そんな話はもういくらでもしたので、いいでしょう。

浦壁さんと大井さんのデュオでは、これまで主に渋谷の公園通りクラシックスで、20世紀に至るまでのロマン派の交響曲・大規模管弦楽曲の編曲を中心とした作品群が2台ピアノではいっそうディテイルの面白さを浮き出させることを強烈に印象づけられてきました。その重要な編曲者でいらっしゃる米沢典剛さんの手になるストラヴィンスキー『婚礼』(米沢さんの手になるものはどれも、なのですが、これもまた驚嘆すべき編曲です)を冒頭に置いて始まった公開録音でしたが、2曲目以降はピティナさんの用意なさったとおりの「現代日本人2台ピアノ傑作選」でした。米沢編曲を含む、演奏された9作品のリストは、末尾に掲げます。

1968年生まれでベルリン在住の西風満紀子さんの新作を2・4・9曲目にプロムナード代わりにちりばめながら演奏された一柳慧・西村朗・篠原眞・湯浅譲二・南聡作品は、構成感も色彩感もそれぞれに異なる、主張の強いものばかりでした。3曲目の一柳作品、休憩前の5曲目の西村作品は、それぞれの作曲家さんのお若い頃のものでしたが、一柳作品はゆらゆら、西村作品はがんがん、の、いまそれぞれの作曲家さんに僕ら素人が抱くイメージを、万年素人の私には再認識させてくれる面白さがありました。感想としては、玄人さんが抱くようなものは、とても持てませんので、これくらいに申し上げておきます。そういう点では、前半はイージーリスニング系にまとまっていて(作曲家さんに失礼でないことを願っております、充分に尊敬していますので)、演奏会としてもいい構成だったかと感じました。
目を剥かされたのは、後半の3作品でした。
真ん中に置かれた湯浅作品は、大井さんの内部奏法の妙技を久しぶりに目の当たりにさせてもらえたこともありましたが、浦壁さんという絶妙の耳の持ち主がペアでいらしたことで、他の楽器では絶対に得られない響きの強烈さが、いっそうくっきりしたかと思います。
そして、篠原さん、南さんの、おのおの長大な作品が、「意味とは何だろう」の問いを私に浮ばせた最たる存在でした。
玄人さんなら、これまた「滔々とした流れが強烈な隔絶を迎えまた更に豆腐の角に頭をぶつけるさまの何とも例え様のない沈着と混乱と静粛」とか、素晴らしいことをいくらでも仰れるのでしょうが、私はただ、これら2作がまったく違う個性でありながら
「古典ばかり聞いている耳には馴染まない流れが、しかし古典を彷彿とさせる枠の中で、しかも古典の形式に縛られているのではなく、作者自らの、なにか定まった発想の中で、しっかりと律されて聞こえてくる」
不思議さを覚えることしか出来なかった、と打ち明ける以外に術がありません。
篠原さんの作品は、独奏ピアノ作品を初めて拝聴したときにも感じたのでしたが、一つ一つを丁寧に積み重ね、それで連綿と絶えない(「急」に対して「緩」を挟むのでも、見せかけがどのようであっても、断絶がない)トータルなフォームを形作られる面白さがあります。したがって、聴くときには「要素」にいかに耳を傾けられるか、こちらも試される思いがします。この件に関しては、私の耳は失格です。ただ総体として、レンガの上を滑らかに美しく外装した印象を受けます。
南作品は、素人でもそうなんだとはっきり分かる2部構成で、前半の饒舌と後半の発作的鎮座の対立には、ぼんやりしていても感づけるものです。こういう明快さは、やっぱり南さんがいろんな作品でいつも体現なさっていることのように思います。ただ、この2部構成がまた、ちっとも古典的ではない。前半に対して「おお、こうなのか」ではなく「なぜこうなの?」という後半が置かれているせいなのでしょうか。

篠原作も南作も、ふだんカラオケに馴染む歌謡耳の僕らに親しいドレミのメロディやクッキリしたリフレインは一切ありません。
歌謡耳には、いわゆる古典(西欧クラシックに限らず、謡曲や雅楽などでも視野に置いて)ですらも、メロディやリフレインを楽しむ余地はないものですが、とくに今回の篠原さん、南さんの作品には、表面上、古典の持つシンプルな音階組織やリフレインはほとんど痕跡をとどめていません。その点、古典なら馴染める古典耳には、理解の余地がありません。
この、歌謡耳にも古典耳にも認識しがたい、最小限でも音律・反復の2要素を果てしなくボカしつつ編み出されるような音響が作り出されるようになったことを、「音楽は終わった」と表現する人の絶えないことが、創作者と聴き手の断絶を生んでいる事態は、いつ解消されるのだろうか、と、これまで常々思っていました。
いやーその発想もちょっと違うのかな、と、今回拝聴しながら、思えて来たのでした。
なんとか聴きおおせようと一生懸命耳を傾けているうち、結局は爆睡してしまった、ようなことになってしまっても、少なくとも今回並べられた作品の内容が既存の枠でないことはハッキリ認識できます。
だからといって、そこに、歌謡耳、古典耳がそれぞれの耳に認めて来た何らかの音楽の意味が、まったく断絶して存在しないわけではないのです。
南さんの形式感は最も容易にそれを思い知らせてくれます。人間の営みの中には日常的に二部構成があって、それは夜と昼・くつろぎと緊張・私生活と仕事、のように、なにかにつけて分たれている。それらそれぞれが別に南作品の二部構成と直接つながっているわけでも何でもありませんが、南作品の上に(南さん自身はこの作品に石井真木さんの思い出を重ねているのでしたが)日常の二部構成を重ね合わせる卑近な聴き方だって充分許容してくれる。
篠原作品の連綿はまた、そうは言いながら、命の続く限り何もかもごっちゃごちゃに繋がった時間の中で「あれはこうだったかそうではなかったか」と血迷い続ける自我に耳を委ねさせてくれる自由を、もしかしたら定型をはっきり聴かせる類いの音楽よりずっと豊かに持ち合わせていたりする。

してみると、こうした作品を通じて、私たちはいかに、普段から自分の中に「断絶した意味の破片」を追い求めつつ、破片の姿にだけとらわれながら、今はそうでなくてもいい瞬間を、意味の杭でせき止めようと試みているものか、と、もう絶望的に思い知るしかないのです。

作品そのものがどうだった、ということより、今回こんなことを重たく胸に抱えながら、私は帰路についたのでした。

綴る前は、もう少し人生論的な展開で喋ることになるかな、と思っていたのでしたが、人生論なるおちゃらけは、また別途とします。違うことも考え合わせなければなりませんから。

ともあれ、メロディやリフレインではないものを創作家が専ら追求するようになって、享受者はしかしまだそちらに踏み込む嗜好がない。意味の変貌を求めてはいない。世の趨勢を見るにつけ、もしかしたら、このあたりがせいぜい人間の限界なのかな、という絶望と、それでもそれを飛び越えようとする思いが誰かには湧き続けるのだなあ、という希望とが、ないまぜになる時間を、私は過ごさせてもらえたのだ、と、いまつくづくと反芻しています。

作品のことには触れませんでしたが、西風さんが自作解説に書かれたお言葉を借りれば、「聴衆が受け身的に音を待つのではなく、立ち上がる音と共に歩むように聴く、そのような聴き方」が促され得る何かが確立したとき、また違った地平が新たに立ち上がってくることもあるのでしょう。人間とは意味を追い求め、意味に縛られる生きもののようですが、意味とは何か、は所詮、言葉での思考に縛られ続けている。立ち上がってくる新地平は、果してまた意味付けを僕らに強いるのか、意味とは何かなどと感じも考えも思いつきもさせずに済む、ただ真っ平らな線や面のみを示してくれるものなのか。そこでは、絶望だの希望だのと感じる余地など何もなくても、「それでいいのだ」とバカボンのパパの如く立ちはだかってガハハと笑っていればいいものなのか。・・・そうであったら面白いなあ、とはまた、夢のような願望に過ぎないのではありますけれど。

9月20日 ピティナ公開録音プログラム
1. ストラヴィンスキー『婚礼』(米沢典剛編曲)
2. 西風満紀子『melodia-piano Ⅰ』
3. 一柳慧『二つの存在』
4. 西風満紀子『melodia-piano Ⅱ』
5. 西村朗『波うつ鏡』
(休憩)
6. 篠原眞『アンデュレーションB 「波状」』
7. 湯浅譲二『2台のピアノのためのプロジェクション』
8. 南聡『異議申し立て-反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井真木の思い出に Op.57』
アンコールは武満作品でした。

ちゃんとした、まともなことは、詳しくは大井さんのブログで。
http://ooipiano.exblog.jp/27397266/

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