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2015年7月17日 (金)

ベルワルドのこと(1・・・のつもり)

私たちの楽隊では、冬の演奏会でベルワルドの交響曲「風変わりな(サンギュリエール)」(第3番)をやることになりました。

で、Gさんの
「ベルワルドのこと、当然書いて下さるんですよね・・・」
と、真綿で首を絞めるようなごお言葉が。(>_<)

少ないのですが手元に資料がなくはないので、伝記的なことを少しだけ綴りますね。


Franz Berwald(1796〜1868)(*1)は、フランス・ベールヴァルドと仮名表記するのが原語に近いようです。スウェーデン語は分かりませんが、そのアルファベットでは、zはセータと濁らないで読みます(*2)。Franzという名前も、彼がドイツ家系だったことにある程度の意味があって、ドイツ人的に「フランツ」と読んでもいいような気もしますが、これは無学者の勝手な推測です。
そうしたことはともかく、以降、慣用に合わせて「ベルワルド」と呼びます。
肖像写真はWikipediaから拝借しました。

Franzberwaldphoto 生まれた年はシューベルトの前年、72歳で亡くなった同じ年にロッシーニが、翌年にベルリオーズ死去していることから察せられるとおり、作風は「ロマン派」まっただ中の特徴を色濃く持っているかと思いますが、少しだけ聴いたことのあるその作品については、また今度。

F.ベルワルドは、大変面白い生き方をした人だったようです。
面白い生き方、とは傍観者の言で、本人にしてみれば大変な生涯だったのではあります。起伏があったからこそ、でも野次馬の私たちには面白いんですよね。

確認出来る先祖ヨハン・ダニエル・ベルワルト(1691年没)はバイエルン州ノイマルクトの楽師だったそうで、ヨハン・ダニエルの孫ヨハン・フリートリヒ・ベルワルトは4度の結婚で25人の子どもを設けたフルーティストでした。その子どもたちのなかの一人、クリスチャン・フリートリヒ・ゲオルク・ベルワルト(1740〜1825)が、フランス・ベルワルドの父です。クリスチャンの兄はヴァイオリニスト、弟はヴァイオリニスト兼ファゴット奏者でしたが、クリスチャン自身もベルリンでベンダの同窓で勉強した後ストックホルムに移ってスウェーデンの宮廷オーケストラに所属(1773〜1806在籍)したヴァイオリニストでした(*3)。

フランス・ベルワルドは父に手ほどきを受けて16歳からスウェーデン王立歌劇場のヴァイオリン及びヴィオラ奏者を1828年まで勤めました。その間、弟クリスチャン・アウグストと共にフィンランドやロシアへソリストとして演奏旅行に出かけ、自作の交響曲(大半が逸失の由)やヴァイオリン協奏曲(嬰ハ短調 作品2、現在も演奏される)により、作曲家として幾ばくかの評判を得たと思われます。
以降、父祖の地ドイツで活動したいとの夢醒めやらず、奨学金の獲得に数度挑戦しますが失敗。1829年にやっと資金援助を受けるめどが立ってベルリンに渡ります。
大望を抱いて出向いたベルリンでは、しかし音楽家としてはぱっとしませんでした。このとき彼がどこでどうやって音楽を勉強したのか、いまだにはっきり分からないくらい、ぱっとしなかったのでした。

そらならば、と考えたのかどうかは分かりませんけれど、向学心の強い人だったのでしょう、彼は医学に目を転じ、1835年にベルリンで病院を開業するまでになって、発明した独自の整形医療器具(Wikipediaの記載によると、この器具は・・・どんな器具だか分かりませんけれど・・・ベルワルドの発明後100年間使われたそうです!)でそこそこ大きな成功を収めたのだそうです。・・・お医者になったんですね! そしてこの病院に勤めたマティルデ・シェーラーを見初め、結婚します。

が、いや、オレはやっぱり音楽だ、と、せっかくうまくいった病院も6年後には売り払ってしまいました。
今度はウィーンに渡り、ここで『ノルウェーの山々の思い出』という交響詩的作品でやっと作曲家として好評を得ます。
余勢をかってオペラ『エストレラ・デ・ソリア』の創作に励み、第1交響曲(セリューズ)も完成して、交響曲を引っさげて翌年ストックホルムに帰りましたが、生前実現した唯一の交響曲披露となった第1交響曲の初演(指揮はいとこのヨハン・フレドリック・ベルワルド)は、演奏したオーケストラの練習不足でさんざんな結果に終わりました。当時スウェーデンには常設オーケストラは王立オペラ座付きのものたったひとつで、臨時編成も含め、彼の要求する技量に及ぶ管弦楽団はひとつも存在しなかったので、こんなことになってしまった、と言われています(*4)。

音楽はそれであきらめたわけではなく、1842年のこの失敗後も、演奏されるあてもない第3、第4交響曲を作曲し続け、1846年からはパリ、ウィーン、ザルツブルクと渡り歩き、1847年には推挙されてザルツブルク・モーツァルテウムの名誉会員となりました。

これで故郷も自分を音楽家としてきちんと評価してくれるだろう、と思ったのか、1849年再びストックホルムに帰って、しかるべき地位を得るべく応募をしたのでしたが、みんな落とされてしまったのでした。詳しい伝記は手元にないのではっきり分かりませんが、社会問題に対する積極的な論客でもあった彼は、スウェーデン楽壇とそりが合わず、対立してしまったようです。
保守的なスウェーデン楽壇に飽き飽きし、ベルワルドは1850年には友人の申し出でスウェーデン北部のSandöというところのガラス工場の経営者に転じ、さらに木材加工へと事業を広げます。実業家としての手腕も確かだったのでしょう、若い時の病院同様に、彼はこららの事業でも成功し、ストックホルムで自分の時間を費やすことも出来るようになり、こつこつと作曲を続けたのでした。

彼が故国で認められたのはやっと1862年、66歳のときで、オペラ『エストレラ・デ・ソリア』が王立歌劇場で初演され大好評を博してからで、その4年後ようやく音楽上の業績での褒章を受け、それまで彼を拒否していたストックホルムの音楽院もようやく1867年に彼を作曲家教授に任じましたが、翌68年4月、彼は肺炎で死去してしまいました。(*5)

ベルワルドは病院経営にもガラスや材木の工場経営にも実力を発揮したのでしたが、地道に作曲を続けて生涯を送ったあたり、精神の根底にはいつも音楽があった人なのだなあ、と、しみじみ感じさせられます。

駄文ご容赦下さいまし。


*1)団のかたには前にお知らせしましたが、ネットには熱心なかたが「ベルワルド研究会」というサイトをお作りになっていて、良い年譜があります。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7792/berwald-table.html
別のページに第3交響曲フィナーレの簡単な和声分析も載せていらっしゃいます。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7792/berwald-topic1.html
こちらを参考になさって下さいね。

*2)スウェーデン語の独習サイトがありました。
http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flc/swe/lands/01.html
Berwaldは後ろにrがくるeが長母音で、aには強勢がなく短母音として読み、語末のdは濁るのと濁らないのの中間のようです。

*3)NAXOS盤「Berwald Symphonies : No.3 “Symfonie singuliere”・No.4 in E Flat Major・Piano Concerto in D Major」解説リーフレットから。

*4)大束省三『北欧音楽入門』p.82 音楽之友社 2000年 他

*5)上記資料以外は、基本的に、戸羽晟『歌の国スウェーデン』新評論 2008年

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コメント

わー!ありがとうございます。復刊する「TMFだより」でベルワルド特集をしようと思ってるので、よろしくお願いします!!!

投稿: ゴマキ | 2015年7月17日 (金) 08時12分

わ~! (;o;)

投稿: ken | 2015年7月17日 (金) 11時30分

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