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2015年4月 1日 (水)

【嬉しい発売!】linea-respiro 田中吉史(現代日本の作曲家)

待ちに待った田中吉史さんの作品集がCDで出ました。

http://www.fontec.co.jp/blog/2015/02/new2015325-linea-respiro.html
http://www.amazon.co.jp/dp/B00T6LIBG4

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FOCD2578 定価¥2,427+税

初めて田中さんの作品に出会ったのは、他の現代作品に出会わせてもらったのと同じく、大井浩明さんのPortlaits of Composers 2010〜2011年のシリーズの最終回で、でした。そのとき演奏されたひとつに『松平頼暁のための傘』というのがあって、これは作曲家の松平頼暁さんと西村朗さんがラジオ番組で対談した、その対談をすっかり器楽に置き換えたものでした。
お聴きになっていた松平さんが
「わしはこんなしゃべりかたはせん!」
と怒ったとか怒らなかったとか、いやそんな根も葉もないことを書いたら怒られるかもしれないけれどこんなマイナーブログだからええやん、とか、もろもろあったりなかったりするのですが、とにかくこれが妙に面白かったのでした。

で、今回新しく出たCDを聴いてみましたら、もう2006〜2008年に、インタヴューの中のルチアーノ・ベリオやブルーノ・マデルナの喋りまくりが器楽音に置き換えられていたのでした。(『ヴィオラとピアノの通訳によるL.Bへのインタヴュー』・『ブルーノのアウラ、あるいはチューバとピアノの通訳によるインタヴュー』)
面白いことに、楽器で奏でられると、元が喋くりだったなんて思えないほどこれらのインタヴューが「音楽」に聞こえるのです。
ベリオの方はヴィオラとピアノで、声が低かったらしいマデルナの方はチューバとピアノで書かれていて、とくにマデルナは「快活で人懐っこい話しぶりだが、不器用な英語で、また病気のせいか(略)時折声がかすれたり、息が乱れたりしていて、どこかぎこちない」話し方の特徴が、高音域のチューバの艶っぽくかすれた色合いにぴったりしていて、そのことにちょっとビックリしてしまったのでした。

そもそも音楽とは何で規定されるのでしょうか?

『二面の二十絃箏のためのつむぎ歌』(2005)の解説で、田中さんは
「いわゆる西洋音楽の延長上にある多くの音楽では、演奏家は音楽そのものの中には存在しない等間隔の拍なり拍子を想定して、それにあわせて音楽を作っていく。(・・・略・・・)『つむぎ歌』では、それとはかなり違った音楽を作ることを試みた」
と述べ、この曲では二人の演奏家がお互いの出す音のタイミングにお互い注意を払い続けなければ演奏出来ない仕掛けを施した、と明かしています。
そもそも今の作曲家さんには「等間隔の拍」を消し去る意図をお持ちの方は少なくないはずなのですが、それをどこに昇華させるか、を明確にお考えの方がどれだけいらっしゃるかまでは、門外漢の私には分かりません。少なくともこれだけ明確に意図して作品をお書きになっている例を聴いたことがありません。
また、お互いを聴きあうアンサンブルにしても、拍や拍子というものは通常、合わせやすくするために必須の道具です。
最初に田中さんの作品を拝聴したとき、どこか邦楽的だな、と感じたのでしたが、それはこの「等間隔の拍」を否定したところからだったのかも知れません。日本の「音楽」は雅楽の舞楽などの例外はあるものの基本的に日本語と付かず離れずの関係にあり、したがって見かけ上「等間隔の拍」的ではありません。
しかしながら、では実際の邦楽はどうなのかを考えますと、日本語のシラブルの性質に由来するのでしょうが、雅楽の歌い物は等拍すなわち等間隔の拍ですし、平曲(平家琵琶)もまた、そうでないような見かけが散在するにもかかわらず、等拍です。能の謡のみ、不等拍があります。ただし私たちのように嗜んでいないものが体得するのはかなり難しくはありますけれど、構造的にはたとえば前半の等拍を後半は半分に詰める等々(違うやり方もあるのでしょうね)という方法ですから、体得者が経験的に合わせる上で予想されない類いの困難はありません。
・・・なお、「拍子不合」であってもそれは拍子上の話であって、音と音の間は等拍が原則・・・むしろ「拍子不合」という考え方を明記することによって、能は「拍子」を日本の歌唱の世界に再生させたのだとみてよいでしょう。今は深入りしません。
これらのことと対照すると、『二面の二十絃箏のための・・・』は邦楽器の作品ではありますが、拍をもっと根源的に否定しているのですから、伝統邦楽の延長線上にあるものでは決してないことが分かります。
これは、さきのインタヴュー2作で、既定的な拍にハマらない音の流れを素材にしたのと同平面の発想に由来することを意味するのでしょう。
そもそも洋の東西を問わず、等拍的な歌唱が音楽とそうでないものを区分して来たのではないかな、と、ここでふと感じるのですけれど、音と音の間が等間隔であっても、それがワルツやマーチのような拍子を構成したのはヨーロッパ世界でも(世俗的な舞曲を除くと)バロック以後(16世紀)のことです。田中さんの方法は洋楽としてもそれ以前に立ち返っていて、しかも等拍を崩すというところで、もしかしたらさらにもっと人間の根源世界の近くまで戻って行っている。だから田中さんの方法は<ルネサンス再び!>・・・過去の史上のルネサンスと同じではないからこそ、畳語になってしまうのですが、私たちに問い直される<再生>であるととらえて良いのではないかしら。

いっそ、<ルネサンス>を、物ごとの根っこに立ち戻って素直に見直そうとする営みだ、と普通名詞化できるのであれば、田中さんの創作姿勢は、この普通名詞的な<ルネサンス>と言ってもいいのではないかな、と思うのです。
その裏付けとしてあげたいのが、タイトルともなった1997年作の「17人の奏者のためのlinea-respiro」で、イタリア語部分は「線-呼吸」の意味です。ここに聴き取れる、古典美とはまったく異なる、最初の印象が奇異であるかもしれない、でも数度聴くうちに呼吸の糸のミクロを高倍率の眼で見ていると錯覚させられてくるような、自らは光を持たず外光に反映しているような色彩感は、聴く自分もこのイメージと一緒に根源に還ってみたくなる不思議な衝動を起こさせてくれる気がするのです。

と、なんだかやたらとしちめんどくなってしまったのを、いま深く反省しております。

後日、もそっと素直に、それぞれの作品の面白さが喋れたらいいなあと思っております。

取り急ぎ、興奮状態の感想ですみません。

ひとつだけことわらせて頂くなら・・・ヴァイオリンの奏法としては(ピアノの内部奏法同様)ちょっと許しがたいと思われそうなものを用いている作品が1曲あります。古典的ヴァイオリンがお好きな方はそれだけご了承下さい。
私はといえば・・・どっかの子供のを取り上げてやるのはやぶさかじゃないけれど、自分のヴァイオリンではやりたくないなぁ(笑)。

収録作品:
・アルト・サクソフォンとピアノのためのAttributes II (1995〜6)
・17 人の奏者のためのlinea-respiro (1997)
・6人の奏者のためのΦ (1998〜9)
・ヴィオラ、ピアノとテープのためのLessico famigliare (2000)
・二面の二十絃箏のためのつむぎ歌 (2002)
・ヴァイオリン・ソロのためのbogenspiel I (2003)
・ヴィオラとピアノの通訳によるL.B.へのインタビュー (2006)
・ブルーノのアウラ、あるいはチューバとピアノの通訳によるインタビュー (2008)

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