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2015年3月 7日 (土)

モーツァルト、消えてほしい都市伝説

モーツァルトをめぐって、どうしても消えてほしい都市伝説が、ふたつあります。

1)○○にモーツァルトの音楽を聴かせて熟成させるとおいしくなる
2)天才モーツァルトの書いた楽譜に手直しはない。流れるように美しい。

1)「○○にモーツァルトの音楽を聴かせて熟成させるとおいしくなる」
は、ネットで「モーツァルト 日本酒」とか「モーツァルト 牛肉」とか、そんなキーワードで検索すると簡単に出てきます。個々をどうのこうの言っても仕方がないので固有名詞は上げません。どうぞ検索なさってみて下さい。否定的な意見も同様に検索に引っかかってくると思います。

で、こちらは、肯定だとか否定だとか以前に、こういう発想が出てくる背景にあるだろう「モーツァルトの音楽は心地よい」的観念が相対的なものに過ぎないことを私たちが承知しておくべきだと申し上げるだけでも、充分に都市伝説を消し去れるものと思います。
ベートーヴェンの作品がベートーヴェンの生前には前衛で聴き手の失笑・冷笑をかった話の方はよく採り上げられます。
前衛であったことにかけては、モーツァルトはベートーヴェンの偉大な先輩でした。このことはあまり承知されていません。
ほんとうはどこかでそんなことが言われているのを目にしたり耳にしたりしているはずなのですが、「モーツァルトの音楽は心地よい」との先入観にはばまれてスルーしているだけなのではないかと思います。
煩雑な伝記を読むまでもなく、中公新書から訳書のでたロビンズ・ランドン『モーツァルト 音楽における天才の役割』(石井宏訳 原著1991年 モーツァルト没後200年)に次の記述があります。
「(略)さらには、モーツァルトの音楽がウィーンの人たちには難しくなり過ぎたということもあるであろう。多くの人が”不協和音“という四重奏曲K465は聴き辛い作品であると思っていた。(中略)典型的な逸話として伝えられているのは、これが裕福なボヘミアの貴族のグラサルコヴィッツ公の家で演奏された時のことで、第一楽章が終わると、公は怒って楽譜を破いてしまったということである。この話は事実ではないとしても、当時の空気を良く伝えている。」(p.160 モーツァルトのウィーンにおける凋落)
モーツァルトの成熟期の音楽が同時代人に「難しい」と受け止められていた、とは、同書に限らず、まっとうな伝記ならば必ず言及されている事実です。そんな音楽が今の私たちにとって聴きやすかったり心地よかったりするのだとしたら、聴き慣れたせいだ、あるいはほかにもっと難しいものも増えた、ということしかなく、かつ、人間が聴き慣れたからと言って他の生き物にとってまで聴き慣れうるものかどうか保証は全くない。したがって「モーツァルトを聴かせればおいしくなる」伝説は、人間の思い込みを日本酒や肉牛に押し付けているに過ぎない。
まあ、人間の考える「価値」だなんて、何をとっても、こんないい加減さから生み出されるものがほとんどなのかも知れません。

2)では、モーツァルト生誕250年の年に、某有名オーケストラに属する某奏者さんがモーツァルト自筆譜のファクシミリを何点もかついでテレビにゲスト出演なさった際、レギュラーメンバーから
「モーツァルトの書いた楽譜は手直しがなくてきれいなんですってね」
と質問されて
「はい、そうです」
とお答えになったのを見て、あいた口が塞がらなくなったのでした。
いったいどうしてあんなことを言ったのですか、と、不躾承知でメールしましたら、お返事はきちんと下さいまして、テレビの要請に応えざるを得なかったから仕方なく、とのことでした。
お返事頂けたことは望外の喜びでしたが、胸には納得のいかないものが残り続けました。
あとで何度も考えましたが、良心を持った音楽家なら、テレビ番組の要請がどんなであろうと、ご自分がしっかり分かっていらしたはずの「事実ではないこと」をきちんと否定して、それで番組が成り立つようにと努力すべきだったのではないか、と思えてなりません。
音楽家さんが「そうです」と言えば嘘でも平気でまかり通る悲しい別事例を、その後もいくつか見ました。
クラシック業界にとって、こういうのは非常な汚点ではないでしょうか? これでは他の人に「クラシックも好きになってちょうだい!」とはとても言えないことになり、一愛好家としてたいへん残念だ、とずっと思っております。

自筆譜ファクシミリをいくつもお持ちのかたなら、モーツァルトの自筆譜にはたくさんの訂正があることを絶対にご存知のはずです。ご存じないのならファクシミリをちらっとも開いてご覧になったことがなく、ただプライドを飾るためだけにそれを持っている、恥ずかしい精神の人だと言わざるを得ません。

たくさん、というほどではありませんが、私は貧しいながらもモーツァルト大好きであるために、初期の弦楽四重奏曲、2つのピアノ協奏曲、『ドン・ジョヴァンニ』のダイジェスト、『魔笛』全曲、ハフナー交響曲にジュピター交響曲くらいの自筆譜ファクシミリは手元にあります。これらのどれを見ても、モーツァルトが考え直して抹消をしたり、音符に訂正をほどこしていたり、をまったく行なっていない楽譜はありません。
ハフナー交響曲やジュピター交響曲については例を以前ブログに掲載したことがあります。
ここでは『戴冠式』協奏曲と呼ばれているK.537の自筆譜ファクシミリにある例を少しお目にかけます。同時に、モーツァルトの手書きは決して美しくもなく、丁寧に書かれたものでもないこともはっきり分かっていただけることになるでしょう。

自立から死に至るまでのウィーン時代のモーツァルトにとって、自作ピアノ協奏曲をひっさげて演奏会を開くことは大事な収入源で、自分の演奏のための総譜は「書きかけの断片をためておき、必要が生じたときに、それに手を加えて素早く仕上げる」(西川尚生『モーツァルト』p.241 音楽之友社 2005年)方法で書いたことが明らかになっています。K.537の自筆譜もモーツァルトのそんな作曲方法がはっきり読み取れるものになっていると思います。そして、「素早く」が決して滑らかにではなく、格闘するような「素早く」だったのではないかと見られる箇所が、ふんだんにあります。
いまはパブリックドメインでも見られるようになっています。
http://imslp.org/wiki/Piano_Concerto_No.26_in_D_major,_K.537_(Mozart,_Wolfgang_Amadeus)
冊子もDoverの廉価なモノクロ版ですので入手も容易です(購入した2006年6月には2200円ほどでした)。廉価版であるにもかかわらず、アラン・タイソンによるつっこんだ解説があります。専門的なことはそんな解説をお読み頂ければいいだろうと思います。

モーツァルトは、最初はオーケストラとピアノ独奏のおもなアイディアだけ書いておいたのでしょう。モノクロでもインクの濃淡でそれがはっきりわかります。第1楽章の4葉目裏では、最初にあらかじめ書いておいたのはヴァイオリン、ヴィオラの一部(上から2〜4段目、これはこの画像からだけだと濃淡が分かりにくいところがあります)と低音部の一部(下から2段目、2〜3小節目、5小節目)、ピアノ独奏部(下から4~3段目)です。トランペット(最上段)とティンパニ(最下段)は、左端の連桁があとで上下に広げられたのが見て取れますので、他の管楽器と同時に後から付け加えられたのだと判明します。

P8

6葉目裏から7葉目表にかけては独奏部が抹消されて、あいた上の段を使って書き換えがほどこされています。7葉目表にいたっては1小節をまるまる抹消しています。この抹消された小節には独奏部以外まったく何も書かれていませんので、オーケストラ部が後で書き加えられたことの裏付けがとれます

P13

9葉目裏から10葉目表では、あとで書き換えられた方のピアノ独奏部が抹消されています。後日の加筆や書き換えでもモーツァルトは単純にではなくアイディアに悩みながら作業を進めていた、ということになるのでしょう(ガラケー写真でスミマセン)。

P1819

19葉目裏から20葉目表にかけては、こんどはオーケストラの書き込みまで(後日)されていながら、大きく抹消されています。20葉目裏はまた普通に書きこまれていて、これはモーツァルトが最初のアイディアを書き留めた時でも全部を一気に書いたのではない可能性を示唆しています。使用されている用紙の解析によると、第1楽章の16葉目までと第2楽章の6葉目までが同じ時期製造の五線紙を使っていて、第1楽章の17葉目から20葉目は別の時期製造のもの、以降さらに21〜24葉目と25〜最終までとが異なる時期の用紙なのだそうです。(第3楽章についての用紙の解析はDover版の解説表には載っていません。)

P3839

第2楽章は総譜で修正だとはっきりわかるのは5葉目(モーツァルトはこの作品では楽章ごとにあらたにページ番号を1から書き始めている)の1カ所にしかありませんが、これはモーツァルトが「頭の中で完成している」音を一気に書けば済んだ、ということを意味しません。第2楽章については主題がスケッチされていたことが分かっていて、そのスケッチはなんと日本の前田育徳会財団の保有に帰しているというオチまでついて、Dover版ファクシミリに写真も掲載されています。

P65

第2楽章で面白いのは、独奏部の左手が全く書かれていないことです。緩徐楽章なので、演奏会には即興で間に合ったのでしょう。そしてまた、書かずに演奏会に臨んだということは、協奏曲の仕上げを極力急がなければならない状況下で、モーツァルトは即興で済む部分は省き、他はバタバタと作業した、みたいな様子を推測させてくれます。
ドタバタ状況下だった第3楽章(Finale)の書きぶりが、それでもモーツァルトの天才にいちばんふさわしいと言えます。
筆跡は前の2つの楽章に比べてずいぶん荒っぽく、オーケストラ部の省略表記も多く(9葉目裏、18葉目表裏に走り書きのイタリア語で「最初の時と同じに」と書いているほか、3葉目の木管、7葉目の第2ヴァイオリン【(第1ヴァイオリンの)オクターヴ下、の指示】、最終21葉目表のトランペット(第3楽章では10葉目以降で下から4段目になっています)などへの記入省略が見られ、省力化の意図を伺うことが出来ます。その一方で、最終的に一気に書かれたと見えるしめくくりの18葉目裏のおしまい2小節以降、第21葉目までは、独奏部とオーケストラがほぼ同時進行(オーケストラの、とくに管楽器には後からの記入もあるかと思われますが)で書かれていたと見えるにもかかわらず、音符そのものの訂正はまったく見られません。これをずいぶん急いで書いたのであろうことが、インクや線の烈しい乱れからよく察せられますので、訂正のないことはやはり驚嘆に値すると思います。

P104

第3楽章の例から、モーツァルトの天才は間違いないものだと認めることが出来るのですけれど、それは
・神業のような美しい筆跡から判明するものではないこと
・先行楽章から読み取れる通り、日々の生活の糧を得るどん欲さから生まれて来た工夫(あらかじめアイディアを準備しておく・省略で済むところは省略する)、いよいよ出番となるときの懸命な見直し努力(第1楽章の書き直しの例)のように人間的な営みの積み重ねに裏打ちされていること

なのだと、モーツァルトを素材に何かを語りたい芸術家さんには、あらためてしっかり認識しておいていただきたい、と、ひたすら願う今日この頃です。

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