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2015年3月22日 (日)

ショスタコーヴィチによるオネゲル「典礼風」編曲の印象、他

---2台ピアノ版【3月13日 浦壁さん大井さん】オネゲル『典礼風』・メシアン『アーメンの幻影』を拝聴して---

3月13日、浦壁信二さんと大井浩明さんによる2台ピアノ版のオネゲル「交響曲第3番<典礼風>」と、同じく2台ピアノによる作品であるメシアン「アーメンの幻影」を拝聴してまいりました。毎度の言わずもがなの印象を綴りたく思っていたのですが、まとまった時間がなくのびのびになっていました。(んでもってまだひとつそういうのがあるんだから、喋りなオッサンやなわし、と自分に呆れております。)

あたくしなんぞ、たかだかアマチュアオーケストラの一団員でありますが、ピアノが1台や2台で交響曲を色彩豊かに演奏出来てしまうことに、常々うらやましさを感じております。

オネゲルはフランスの音楽史上稀に見るシンフォニストであるにもかかわらず、作品がどちらかというと玄人向けである・・・楽想がシンプルではない・・・せいか、わたしたちにとってなじみ深いとはいいにくいかも知れません。いや、通のかたはよくご存知なのでしょうが(「典礼風」は日本でも割とよく演奏されているようです)、私の関心の外の存在でした。
オネゲルの交響曲第3番「典礼風」がショスタコーヴィチによって2台ピアノ版に編曲されていて、それが先日ショスタコーヴィチの交響曲第4番の二台ピアノ編曲版を日本初演したこのお二人によって演奏される、というチャンスがなければ、私はオネゲル作品は「パシフィック231」以外には聞いたことがないままに人生を終わっていても何の悔いも無かったでしょう(「火刑台のジャンヌダルク」は映画版を見ているうちに眠りこけてしまったのでした)。
そんなですから、もうぶっつけ状態で拝聴した『典礼風』2台ピアノ版でしたが、これはちょっと無視したらいかん、とオネゲルの印象を新たにしました。
響きがショスタコーヴィチ的であることには心底驚きました(と言うとオネゲルさんには申し訳ないかも知れません)。
マーラーの影響は頻繁に取りざたされるショスタコーヴィチですが、むしろこの『典礼風』のほうに、当時のショスタコーヴィチの色彩感へと引き継がれたものが豊富にあるのではないか、と感じました。
それで後日、本来のオーケストラ版の録音を探して聴いてみたのでしたが、ショスタコーヴィチとの類縁関係は2台ピアノ版の方がくっきりしていたことを改めて強く思わされました。ショスタコーヴィチが編曲したのですから当然、と言えば当然なのかも知れませんが、それでも確実に、ショスタコーヴィチはオネゲルから頂戴すべき音感覚はそっくり頂戴した、と言えるのではないかと思います。
オーケストレーション面では類似点が少ないので、オーケストラ版を聴いただけではピンと来ないのですが、焼夷弾が飛び交うような第1楽章(怒りの日)、廃墟の中の透明な合唱のような第2楽章(深き淵より)、罪人が足を引きずるような主部から短い救済のストーリーを描いてみせる第3楽章(我らに平和を)という骨組みは、まさにショスタコーヴィチの第6番以降第14番当たりまでの手法と直結するものがあります。とくに第3楽章最後の締めくくり部などはショスタコーヴィチの第8番を彷彿とさせるものがあります。ピアノ版であるが故にそれを感じられたことが今回の一つの成果でした。ちなみにオネゲルの『典礼風』初演は1946年(出版年は私には分かりませんでした)、ショスタコーヴィチが編曲したのは1947年頃。ショスタコーヴィチは第6番から第9番までは作曲済みですから、構成の類似は明確な相互影響によるものではなくて同時代性の観点から測られなければならないのであって、専門家のご研究が待たれるところです。

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メシアン『アーメンの幻影 Visions de l’Amen』は1943年の作品。7楽章からなっています。
1.創造のアーメン
2.星たちと輪のある惑星のアーメン(「輪のある」って、土星の占星術的イメージかな?)
3.イエスの苦しみのアーメン
4.願望のアーメン
5.天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン
6.審判のアーメン
7.成就のアーメン
が、おおもとは次の4つから発想されたもようです。
Ⅰ.アーメン、そのようにあれ! 創造主の行動
Ⅱ.アーメン、私は従い、受け入れます、主のなすであろうことを
Ⅲ.アーメン、主が主を私に授け、私をあなたに捧げさせるであろうことへの希求と待望
Ⅳ.アーメン、すべてはいつも決められてあり、天国で尽されるのだといくことに向けて
ですので、おおむねⅠ[1〜2]、Ⅱ[3〜4]、Ⅲ[5〜6]、Ⅳ[7]といった構成となるのでしょうか。こうやって帰結させてみると古典的な4楽章形式の変形に見えますけれど、音響の内容も『鳥のカタログ』あたりからの印象に比べると、かなり、と言って良いほど古典的でした(メシアンの転機は1949年頃でしたっけ?)。
第5楽章なんぞはタイトルのとおりにメシアン得意の鳥の鳴き声が登場しますが、古典の抽象の域を出ない語法で書かれています。
カトリックなのでしょうけれど、ちらと「土星の占星術的イメージかな?」などと差し挟んでみたくなりましたとおり、キリスト教の、中世以来のヨーロッパでの多色刷り伝統がうまく結晶されて、面白いと表現してしまうのに語弊があるのでしたら、興味深い「戦時作品」(1943年作)となっています。第1曲からして、巡礼的な楽想に光を象徴したかのような楽想が交錯するところが舞台的効果となっています。その交錯は・・・と、このあたりをうまく言えないのがいつももどかしいのですが・・・実際に演奏される場所にいて、音の反射を全身で受け止められる位置にいないと、私たち聴き手にどんなトランスをもたらすかが絶対に感得出来ません。第2曲の占星術っぽさあたりは、あとで既存の録音で聞き直すと、こんなに平板だったかな、と思ってしまいます。じゃあ3D音響で再生すればいいじゃないか、ということになるのですが、その場に人が大勢いるかいないか、演奏者が眼前にいるか、もしくは緞帳や暗闇に隠されているか、そういう体感がないと、あ、皮膚に触った、との感じさえ持てないところが、奇妙ですけれど確かにある。
この作品、探してみたら子供たちによる演奏の映像なんかもアップされていて、上手なのですけれど、拝見拝聴して、どうも違和感しか残りません。
浦壁さん大井さんの「(いっぽうは生真面目そうでいっぽうはうさんくさそうな!)祭司を眼前にして初めて得られたのだろうメシアンの一連の『アーメン』の儀式性を強く再認識させられた演奏でした。

なんだか気に入ってしまっておしゃべりし過ぎました。

アンコールはオネゲル『パシフィック231』のトイピアノ用編曲と、ブーレーズ『構造第1巻』第1曲。どうもこれらのアンコールを演奏したいが故のメインプログラム決定ではなかったのかな・・・と、疑惑でちょっと笑ってしまったりして、面白い会でした。

このお二人の組み合わせでは、5月22日に公園通りクラシックス(渋谷駅南口近く西武百貨店の向こう、神南一丁目交差点の坂を上った途中の東京山手教会地下1階)でマーラー『復活』の2台ピアノ版が演奏されます。これもどんな編曲なのか興味津々です。
http://ooipiano.exblog.jp/23608678/

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