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2015年2月11日 (水)

【素人鑑賞】「安宅」と「勧進帳」〜(1)

先日、山中迓晶先生の「能の学校」(6回予定)に入学させていただきまして、見る目を楽しく育てるための第一歩として、なんと能面をつけさせて頂けて、その晩は興奮がさめず眠れなかったりしたのでした。もう、子供がはしゃぐのといっしょです。

授業を受ける前に入門書を2冊手に取ったのでしたが、これがまた、たいへんにいい本でした。

ひとつは山崎有一郎・葛西聖司『能・狂言 なんでも質問箱』(檜書店 2003年)で、こんなに親切で楽しい本があったんだ、と、これまで知らなかったのがもったいなかったことに思われました。横浜能楽堂で実際にお客さんを前にした対談をまとめたものだからなのですね。

もうひとつは観世銕之丞(八世、1931〜2000)『ようこそ能の世界へ 観世銕之亟能がたり』(暮しの手帖社 2008年 第三刷)でした。
Youkosonou 「よく、能はどうみるのですか、ときかれるのですが、私はいつも、はじめはふつうのお芝居のようにみて、そして楽しんでくださいと申し上げるのです。」
と始まり、すぐあとに
「たとえば、シンフォニーなんか聴きにいったときでも、ベートーベン、ベートーベンと思いながら一時間聴いている人は、まず、ないのではないですか。コントラバスの音なんか感じたり、また自分の日常のことなど思ったりしながらいい時間をすごす、能もそれとおなじことだと私は思うのです。」
と続くことに励まされ、途中
「生命力が宇宙的スケールまで広がったからこそ、人間関係の葛藤、こまやかな情、内面の痛みのような人間ドラマが、本当に表現できるようになるのです。その段階を踏まず、生命力の発露みたいなものもなくて、いきなり情緒的にメソメソした芝居をしたって、細った演技になってしまうんですよ。」(p.179)
にドキッとさせられたりしながら、夢中で読み進めたのでした。大変素晴らしい本でした。

まあ読んだだけで何も理解出来てはいない気がします。でも、読むことが面白く充実していたことだけでもおおきな意味がありました。

中に「能と歌舞伎」という一章があって、銕之亟さんが市川団十郎さんと能『安宅』・歌舞伎『勧進帳』の演じ比べをなさったお話が出てきます。それで、能と歌舞伎の違いをこんなふうに説明なさっているのでした。
(能は)面をかけない能役者が弁慶を演る。安宅の関を越えるために富樫と丁々発止とわたりあい、何も書いていない巻物を勧進帳と偽って読み、山伏を制止し、主人である義経を打ち、弁慶がその場を逃れるためにすることを見ていたら、表情を変えない役者の素顔がだんだん弁慶に見えてくる。表情先にありき、じゃないんです。表情は後からくるんです。
 そういう点からいうと、歌舞伎は、舞台に出てきたときには、すでに装束も化粧した顔も弁慶そのものになっているんです。そして顔の表情いっぱいに、すごんだり、笑ったり泣いたりするし、大きく見得をきったりして、動作も派手ですね。そして最後は豪快な飛六方で花道に入る。能にくらべて表現の仕方は派手だし、面白くなりすぎているという点でも、能とはかなり違うんですね。

残念ながら私は能『安宅』も歌舞伎『勧進帳』も、どちらも実際の舞台で見たことがありません。
ただ幸いにして、まずどちらも映像がDVDで商品化されています。さらにテキストを書籍で読むことが出来ます。
そうか、それじゃあひとつ、銕之亟さんの仰るところをせめて映像とテキストを通じてもう少しよく感じてみたいものだ、と思ったのでした。

『安宅』は栗谷菊生さん(2006年逝去)が弁慶をなさっているDVDが出ていました。
『勧進帳』は手持ちに市川団十郎さんのもの(パリ公演のときの者もあります)と七世松本幸四郎のものがあります(他に今の幸四郎さんの映像も出ているのですが未見です)。
団十郎さんの方の映像を、『安宅』と見比べました。

八世銕之亟さんのご説明は、まったくその通りでした。

『能・狂言 なんでも質問箱』の最初のほうの対談で、山崎さんが
「〈安宅〉で武蔵坊弁慶が出ると、芝居だったら弁慶らしい顔作りをするかもしれないけれども、能の場合は直面(ひためん)を付けている。つまりあなたがやれば、葛西(対談の相手の葛西アナウンサー)の顔じゃなくて、弁慶の顔にならなきゃいけないわけだ。それが能の直面なんだね。」
と仰っています。こういうのを読んでしまってから見ると意識過剰になって良くないのかも知れません。
それでもたしかにこんな具合でした。『安宅』の栗谷さんは顔に化粧もしていないし、表情が(微妙に動くのですが)ほとんど変わりませんが、終始緊張感にあふれていて、ニセ勧進帳を読み上げる場面も、山伏の面々を押さえる場面も、弁慶の貫禄をしっかり感じさせてくれるのです。
いっぽう歌舞伎の方は、装束も顔も声も、弁慶のみならずみな作り物です。ただし作り物だということが粗末なのでは決してなくて、ああ、作られている、と思って眺めながらぐいぐい引き込まれる凄みが、やはりあると思いました。

歌舞伎は基本的に音楽が場面場面の情緒を作ってくれています。面白いことに、それがセリフのイントネーションを役者さんの自由にすることを許してくれるのです。ちなみに歌舞伎は「歌」という字を含んでいるけれど、役者さんが歌うのはたいへん稀なんですよね。

能の方は私たち素人からみるとセリフにあたるものがほとんど全部「謡い」になっていますので、セリフまわしに自由はなさそうにみえます。そのぶん「謡い」にすべてがこもるのかなあ、と思いながら見、聴きました。『安宅』はほとんどが力感に満ちた場面展開なので、「謡い」も強い声で太い線を描きます。その中で弁慶が関所を通る方便とはいえ義経を杖で打ったことを後で悔やむ場面になると、「謡い」が柔らかく旋律的になるのです。このとき、弁慶を演っている栗本さんの表情はその前後とまるで変わりません。それでいて、謡い方が変わることで情緒の変化がびんびんと伝わってくるのだから、これは面白いなあ、なのでした。
面白い、と言えば、弁慶が読み上げている勧進帳の巻物はもしかしたら偽物ではないか、と、関守の富樫が覗き込もうとする場面は歌舞伎にも能にもあるのでしたが、ここで弁慶が見破られまいと巻物を隠すところが歌舞伎と能とで違います。歌舞伎の方は、気づいた弁慶が富樫に対して大げさに見得をきるのですが、能の方だと巻物の裏を富樫の方に向けるだけ、富樫もそこで弁慶から視線をそらすだけ、と、淡々としたものなのでした。
起伏が頻繁すぎるほどには演出されていないために、能『安宅』のほうには最初から最後まで張りつめたものを感じて目が離せませんでした。かたや歌舞伎は途中でお弁当を食べるのを許してくれそうです。そういう違いなのかなあ。どうなのでしょう。

と、おおざっぱな感想を記してみたのですけれど、歌舞伎と能が感じさせるムードの違いは、まずはテキスト(脚本)の構成によっても生まれてくるのではないだろうか、とも思ったのでした。
歌舞伎『勧進帳』のテキストは能『安宅』にずいぶんおんぶしているのですが、組み替えや付け足しがいっぱいなされています。その細かいところに立ち入って野次馬したいのですけれど、いちばん大きな差は、後段で酒を振る舞いに来た富樫一行に対する弁慶の精神的な態度です。
歌舞伎の方は囃子方の歌に「ああ、悟られぬこそ浮世なれ」と暗に富樫たちが自分たちを偽山伏だと気づいていないことを示させて(ここは最後の場面と首尾一貫しないので演出で富樫は本当は気づいていたとか弁慶はちゃんと警戒していたとかカヴァーされているものの、それにしたって弁慶が富樫の家来から鷹揚に酒を振る舞われるのです)、もう富樫一行に心を開いてしまっているのですが、能の方は「げにげにこれも心得たり 人の情けの盃に 浮けて心を取らんとや」と警戒の緊張を決して緩めず、他の者へも油断するなと呼びかけるのです。『安宅』はこのあたり能の演じられ方にぴったり合うようにうまく考えられているんじゃないかと思っています。

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